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天正 2(1574)年 1月 1月 1日 織田信長、美濃国岐阜城に於いて京都周辺の面々(「他国衆」)の「出仕」を受けて各自に3献ずつ下賜。「他国衆」退出後 「御馬廻」のみで朝倉義景(「朝倉左京大夫義景」)・浅井久政(「浅井下野」)・浅井長政(「浅井備前」)の首級「薄濃」 を酒肴に祝勝会を行う。〔『信長公記』巻七〕 1月 1日 筒井順慶(「筒井順慶」)、大和国春日大社に社参す。筒井順慶は成身院に宿泊し、明日の卯初刻に美濃国岐阜へ下向する 予定という。〔『多聞院日記』二〕 1月 3日 覚恕(天台座主)、没(異説1592年)。〔『日本史人物生没年表』〕 1月 5日 中坊飛騨守(松永久秀被官)、明日に美濃国岐阜へ下向するため多聞院英俊を訪問。〔『多聞院日記』二〕 1月 6日 織田信長、山城国本圀寺へ贈られてきた杉原紙10帖と「板札」を謝す。〔『本圀寺年譜』八〕 1月 6日 織田信長、尾張国の岩室小十蔵へ知行を安堵す。〔『美作古簡集』〕 1月 9日 大和国興福寺、松永久秀(「多聞山」)より「供目代」への使者を受ける。多聞院英俊はこれを「沈思々々」と評す。 〔『多聞院日記』二〕 1月11日 多聞院英俊、大和国多聞山城の「ルス番替」のため明智光秀(「明智」)が派遣されることを知る。〔『多聞院日記』二〕 1月12日 織田信長(「信長」)、陶工の加藤景茂(「加藤市左衛門尉」)へ「瀬戸焼物釜」(竃)は「先規」の如く加藤景茂が 尾張国瀬戸でだけ使用することを許可し、他所の陶器の竃は一切許可しないことを通達。〔「加藤彦四郎氏所蔵文書」〕 1月15日 筒井順慶(「筒順」)、美濃国岐阜より大和国へ帰還。〔『多聞院日記』二〕 1月16日 織田信長(「信長」)、越前国の千福式部大輔へ越前国府中近辺に於いて一揆を誘発しようとした「村主」を子息の 千福又三郎が捕縛したことを賞す。〔「宇塚文書」、「千福文書」〕 1月16日 多聞院英俊、筒井順慶(「筒順」)が昨日美濃国岐阜より大和国へ帰還したことを知る。〔『多聞院日記』二〕 1月17日 織田信長、明智光秀へ子息十二郎を筒井順慶の養嗣子として、娘2人を細川忠興と織田信澄にそれぞれ嫁がせることを約束 させる。 1月17日 多聞院英俊、中坊飛騨守(松永久秀被官)が昨日美濃国岐阜より大和国へ帰還したことを知る。〔『多聞院日記』二〕 1月18日 上杉謙信、上野国西部に出撃。 1月19日 多聞院英俊、「西ハシノヰン」に於ける信読に参加。結願の時分に「東大寺八幡ノ下シハ」が焼亡、これと同時に観禅院の 「ハヤカネ」を織田軍(「ヲワリ衆」)が突いたことを知り、「大凶事也」と評す。〔『多聞院日記』二〕 1月 中旬 前波長俊(「前波」)、越前国「国乱」により自害。〔『多聞院日記』二〕 1月19日 越前国に於いて一揆が蜂起。富田長繁(越前国府中城将)、「越前の大国守護代」前波長俊(「前波播磨」)を殺害。 〔『信長公記』巻七〕 1月19日 織田信長、前波長俊(越前国守護代)殺害の報に接し、羽柴秀吉(「羽柴筑前守」)・武藤舜秀(「武藤宗右衛門」)・ 丹羽長秀(「丹羽五郎左衛門」)・不破光治(「不破河内守」)・不破彦三郎・丸毛兵庫頭・丸毛三郎兵衛・若州衆を越前国 一揆鎮圧のために越前国敦賀へ出陣させる。〔『信長公記』巻七〕 1月25日 羽柴秀吉(「羽柴藤吉郎秀吉」)、越前国西福寺・櫛川へ羽柴秀吉制札については織田信長「御朱印」の旨に任せ遵守する旨 を通達。〔「西福寺文書」〕 1月26日 木下祐久、越前国西福寺へ羽柴秀吉制札を調えた旨を通知し、「御礼物」持参の際に制札を引き渡すこと、向後の御用は取次 ぐ旨を通達。〔「西福寺文書」〕 1月27日 武田勝頼(「武田四郎勝頼」)、美濃国岩村へ侵攻。その後、美濃国明智城を攻撃。〔『信長公記』巻七〕 1月27日 多聞院英俊、明智光秀(「明智」)へ礼問使として川西佐馬を派遣。〔『多聞院日記』二〕 1月27日 中坊飛騨守(松永久秀被官)、夕夜入に多聞院英俊を訪問。〔『多聞院日記』二〕 1月28日 多聞院英俊、中坊飛騨守(松永久秀被官)へ朝飯招待のため川西佐馬を派遣。〔『多聞院日記』二〕 1月28日 多聞院英俊、去24日か25日に越前国で前波長俊(「前波一類」)が「国乱」により自害したことを知る。 〔『多聞院日記』二〕 1月 晦日 織田信長(「信長」)、某へ小姓両人が不届きを働いたため今後の懲戒のために「成敗」することを命令したところ、特に 努力し「生害」させた心遣いを賞して長井隼人分の知行のうち3万疋の年貢のある知行を宛行う。 〔「塚本文書」二、「桑原文書」〕 1月 日 織田信長(「信長」)、以前焼き払った京都上京中へ復興建築が開始されたため織田軍の寄宿を禁止し、市中再興を努める旨 を通達。〔「京都上京文書」〕 1月 日 織田信長(「信長」)、越前国の橘屋三郎五郎へ全3ヶ条の「条々」を下す。〔「橘文書」〕 1月 日 織田信長(「信長」)、大和国法隆寺へ全3ヶ条の「掟」を下す。〔「法隆寺文書」五〕 2月 2月 1日 織田信長(「信長」)、美濃国吉村名字中・木村十兵衛・田中真吉・西松忠兵衛へ高木貞久(「高木彦左衛門尉」)に美濃国 今尾城を守備させるので協力を命令。〔「高木文書」一〕 2月 1日 織田信長、武田勝頼が攻囲している美濃国明智城へ尾張衆・美濃衆から編制された援軍を派遣。〔『信長公記』巻七〕 2月 4日 織田信長(「信長」)、佐久間信盛(「佐久間右衛門尉」)へ武田勝頼が美濃国明智城を攻撃したのに対して「十六かしら」 を随行させ出撃を命令。〔「荻野由之氏旧蔵文書」〕 2月 4日 佐久間信盛(「佐久間右衛門尉」)、美濃国明智城救援のために出陣。〔「荻野由之氏旧蔵文書」〕 2月 5日 織田信長(「信長」)・織田信忠、美濃国明智城救援のために出陣し美濃国御嵩に布陣。〔『信長公記』巻七〕 2月 5日 織田信長・織田信忠、美濃国神箆に布陣。〔『信長公記』巻七〕 2月 5日 武田勝頼、美濃国明智城内の「いゝばさま右衛門」を内応させて攻略する。〔『信長公記』巻七〕 2月 6日 織田信長・織田信忠、美濃国明智城救援のために山中を行軍。〔『信長公記』巻七〕 2月 8日 結城秀康、誕生(異説4月8日)。〔『日本史人物生没年表』〕 2月11日 十市遠長(「十常」)、大和国九条城を攻撃。〔『多聞院日記』二〕 2月12日 多聞院英俊、十市遠長(「十常」)が昨夜に大和国九条城を攻撃し「一城悉打果」し30人計を殺害したことを知る。 〔『多聞院日記』二〕 2月13日 織田信長(「信長」)、小早川隆景(「小早川左衛門佐」)へ「因州之儀」について毛利氏が鳥取(「鳥執」)をはじめと して国人らを掌握し「赦免平均」したことはもっともであり、以前要請された「但州出勢之事」は油断無く、機会をみて連絡 する旨を通知。〔「小早川家文書」一〕 2月18日 多聞院英俊、去年7月頃の織田軍(「信長人数」)の到来で大和国奈良中が喧騒に包まれた時に「立願三ヶ条」を立てたが、 この日にそれを開始。〔『多聞院日記』二〕 2月20日 多聞院英俊、この頃に三条西実枝(「三条西殿」)をはじめとした「其外公家衆」が大和国へ下向し、多聞山城に於いて 「古今談義」が行われたことを知る。〔『多聞院日記』二〕 2月21日 多聞院英俊、筒井順慶(「筒井順慶」)が美濃国岐阜へ下向したことを知る。〔『多聞院日記』二〕 2月23日 一色藤長・細川藤孝、大友義鎮(「左衛門督入道」)へ「豊芸和融」は「先御代」(足利義輝)以来の命令事項であり、 「公儀於御馳走者都鄙静謐之基併可為御大忠」の旨の足利義昭御内書の添状を送る。詳細は久我宗入が通達する旨を通知。 〔『古文書類纂』「伯爵立花寛治所蔵文書」〕 2月23日 十市遠長(「十常」)、内膳城を攻略し、城将の藤田左近以下7人の首を討ち取る。〔『多聞院日記』二〕 2月24日 織田信長(「信長」)・織田信忠、美濃国岐阜城へ帰城。〔『信長公記』巻七〕 2月29日 筒井順慶(「筒井順慶」)、夕刻に美濃国岐阜より大和国へ帰還。〔『多聞院日記』二〕 3月 3月 1日 多聞院英俊、昨夕に筒井順慶(「筒井順慶」)が美濃国岐阜より大和国へ帰還したことを知る。〔『多聞院日記』二〕 3月 2日 織田信長(「信長」)、毛利輝元(「毛利右馬頭」)・小早川隆景(「小早川左衛門佐」)へ聖護院道澄(「聖門」)が長期 にわたり毛利領国に「在国」しているが、聖護院道澄の下国に際して織田信長書状(「愚札」)を送付したことがあることに 触れ、毛利元就(「元就」)以来の織田信長に対する毛利氏の入魂および詳細なる音信を喜ぶ。また聖護院道澄の「御上国」の 際には織田信長(「信長」)が馳走を承ることを通知。〔「毛利家文書」@‐332、「小早川家文書」二〕 3月 2日 織田信長(「信長」)、小早川隆景(「小早川左衛門佐」)へ聖護院道澄の毛利領国「御在国」について「万端懇慮」を加え ている旨の報告を受けて織田信長(「信長」)は大いに喜んでいる旨を通知し、更なる聖護院道澄への馳走を依頼す。 〔「小早川家文書」一〕 3月 5日 織田信長(「信長」)、佐久間信栄(「佐久間甚九郎」)へ近江国甲賀郡の地侍が降伏出頭して来たという報告を受けて、 その恭順を承認し、六角義賢・六角義治父子の籠もる石部城に対して付城を構築して攻撃を継続するよう命令。 〔「山中文書」七〕 3月 5日 武田信虎、信濃国で没。〔『日本史人物生没年表』〕 3月 7日 村井貞勝、山城国山科郷大宅の沢野井左馬介に先例により夫役を免除。 3月 8日 柴田勝家、夕刻に京都宇治に到着。〔『多聞院日記』二〕 3月 8日 十市遠長(「十常」)、興福寺妙徳院へ入る。 多聞院英俊、十市遠長へ1荷・両種を持参し進上。また明日に柴田勝家(「柴田」)が大和国多聞山城の番替として着任する ので迎えの使者を各自が派遣したことを知る。〔『多聞院日記』二〕 3月 8日 筒井順慶(「筒井順慶」)・高田某・岡某・箸尾為綱ら大和国人衆が悉く上洛す。〔『多聞院日記』二〕 3月 9日 大和国興福寺、多聞山城番の柴田勝家を迎えるために夜中のうちに使者を派遣。柴田勝家は昨夕京都宇治まで到来していたと いう。〔『多聞院日記』二〕 3月 9日 柴田勝家(「柴田」)、夕刻に大和国多聞山城番替として着任。「多人数」を率いて来たので、少々軍勢が興福寺に陣取る。 多聞院英俊はこれを「咲止々々」と評す。〔『多聞院日記』二〕 3月 9日 大和国に於いて「春日祭」が行われる。 近年は「勅使」の下向は無かったが、三条西実枝(「三条西トノ」)が下向し去3月1日より「参籠」していた。 特に「マヲノス」の件は本来三条西実枝(「西殿」)の知行であったところを「春日祭勅使」「入目」として寄進したという。 但し近年は筒井順慶被官(「筒井内衆」)が「無沙汰」をしているため、多聞院英俊は「流ルヽ魚也」と喩える。 〔『多聞院日記』二〕 3月10日 柴田勝家(「柴田」)、大和国興福寺(「寺門」)へ使者を派遣し「ナラ中ノ成敗」を厳重に通達。〔『多聞院日記』二〕 3月12日 織田信長(「信長」)、上洛す。〔『信長公記』巻七〕 3月12日 大和国奈良に於いて日中空中に「頸一ツ」が出現し消失。〔『多聞院日記』二〕 この頃 織田信長(「信長」)、2・3日ほど近江国佐和山城に逗留。〔『信長公記』巻七〕 3月13日 筒井順慶(「筒井順慶」)、織田信長(「信長」)を迎えるためにこの朝に上洛。〔『多聞院日記』二〕 3月13日 多聞院英俊、昨夜に箸尾為綱・高田某・岡某ら大和国人衆「一類」が悉く帰還させられたことを知る。大和国人衆が「人質」 提出を「難渋」したためという。〔『多聞院日記』二〕 3月13日 多聞院英俊、織田信長(「信長」)が来15日に「在京」するというので筒井順慶(「筒井順慶」)らが迎えのために上京 したことを知る。〔『多聞院日記』二〕 3月13日 十市遠長(「十常」)、柴田勝家(「柴田」)を「フロへ入」ために準備をしているというので、多聞院英俊が食籠を送付 した。〔『多聞院日記』二〕 3月13日 六角義賢・六角義治父子、近江国石部城を脱出。 3月14日 柴田勝家(「柴田」)、大和国内の寺社へ「ナラ中成敗制札」を下す。 多聞院英俊、この制札は「一段厳重之趣」であるが「始末此通ナラハ安堵」するとし、「札ノ筆者」へ代価として1貫200文 を支払うのは「定リ」であるので銀子で送付する。〔『多聞院日記』二〕 3月16日 織田信長、近江国永原に宿泊。〔『信長公記』巻七〕 3月17日 織田信長、近江国支那より坂本へ「渡海」す。〔『信長公記』巻七〕 3月17日 織田信長、上洛して相国寺に初めて寄宿する。また大和国東大寺所蔵の「蘭奢待」を所望する旨を正親町天皇(「内裏」)へ 奏聞する。〔『信長公記』巻七〕 3月17日 柴田勝家(「柴田」)、織田信長(「信長」)の上洛に際し十市遠長(「十常」)を同行して上洛。〔『多聞院日記』二〕 3月17日 柴田勝家(「柴田」)、「揚本」へ「両使」を派遣。〔『多聞院日記』二〕 3月17日 多聞院英俊、織田信長(「信長」)上洛により十市遠長(「十常」)を同行して上洛する柴田勝家(「柴田」)へ杉原紙 1束を送付。〔『多聞院日記』二〕 3月18日 織田信長(「平信長」、弾正忠)、正四位下に昇進。〔『公卿補任』〕 3月18日 多聞院英俊、宝蔵院との雑談で「昔関東ヨリ将軍へ馬三ツ進上」された話を聞く。〔『多聞院日記』二〕 3月18日 多聞院英俊、香観房との雑談で「馬鹿」の故事を聞く。これは「太平記」に収録された話であった。〔『多聞院日記』二〕 3月20日 足利義昭、武田勝頼・上杉謙信・北条氏政に和睦させ、徳川家康と本願寺顕如に帰洛の準備を尽力させる。 3月21日 筒井順慶(「筒順慶」)、京都より大和国へ下向。〔『多聞院日記』二〕 3月21日 塙直政(「塙九郎左衛門」)、大和国多聞山城(「此城」)に在番す。〔『多聞院日記』二〕 3月23日 筒井順慶の妻と母・向井・井戸が「人質」として上京させられる。〔『多聞院日記』二〕 3月25日 多聞院英俊、明後日に織田信長(「信長」)が大和国奈良へ下向するという報に接す。〔『多聞院日記』二〕 3月26日 「御勅使」の日野輝資・飛鳥井雅教、正親町天皇「勅定」として「御院宣」を奉じて大和国東大寺に派遣される。 〔『信長公記』巻七〕 3月26日 「大乗院新御所」、京都宇治まで織田信長(「信長」)を出迎える。〔『多聞院日記』二〕 3月27日 大和国衆も悉く織田信長(「信長」)を出迎えに京都へ上る。〔『多聞院日記』二〕 3月27日 織田信長を出迎えるために大和国神人は100人、地下衆は1町より10人ずつ肩衣・袴の装束で木津まで出向く。 〔『多聞院日記』二〕 3月27日 織田信長(「信長」)、大和国奈良多聞山城に到着。 「御奉行」は塙直政(「塙九郎左衛門」)・菅屋長頼(「菅屋九右衛門」)・佐久間信盛(「佐久間右衛門」)・ 柴田勝家(「柴田修理」)・丹羽長秀(「丹羽五郎左衛門」)・蜂屋頼隆(「蜂屋兵庫頭」)・荒木村重(「荒木摂津守」)・ 武井夕庵(「夕庵」)・松井友閑(「友閑」)、「重御奉行」は津田坊であった。〔『信長公記』巻七〕 3月27日 織田信長(「信長」)、軍勢3000余を率い大和国多聞山城へ到着、奈良中僧坊以下へは陣取りを厳重に禁止した。 〔『多聞院日記』二〕 3月27日 筒井順慶(「筒井」)、大和国多聞山城に於いて織田信長に夕飯を振る舞う。〔『多聞院日記』二〕 3月27日 興福寺妙徳院・五大院・福園院、大和国多聞山城に出仕した柴田勝家(「柴田」)・十市遠長(「十常」)へ夕飯を持参。 〔『多聞院日記』二〕 3月28日 織田信長(「信長」)、大和国東大寺に於いて「闌奢待」(蘭奢待)を5片切り取り、「三庫」(東大寺正倉院)へ返還。 それ以外は切り取らなかった。「勅使」3名が再度「勅符」を付けた。蘭奢待は全長5尺、直径1尺ほどの香木であった。 正倉院からは蘭奢待と同様に「紅沈」も取り出されたが、これは切り取りの「先規」が無いとのいうことでそのまま返還。 〔『多聞院日記』二〕 3月28日 辰刻に大和国東大寺正倉院が開かれる。 蘭奢待(「彼名香」)の入った6尺の長持は大和国多聞山城に運ばれ、「御成の間舞台」にて織田信長が一見した。 そして「本法に任せて」1寸8分を切り取り、「御馬廻」衆へ「末代の物語に拝見仕るべき」旨を通達。〔『信長公記』巻七〕 3月29日 大和国興福寺、十市内衆に少々夕飯を出す。〔『多聞院日記』二〕 3月 日 織田信忠(「信忠」)、美濃国立政寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「立政寺文書」‐121〕 3月 日 織田信忠(「信忠」)、津田愛増へ祖父の津田玄蕃允「跡職」・知行方・被官・家来等を以前の如く給与する。 また近江国虎御前山に於いて津田甚三郎を勘当した際に減少した知行については、織田信長「朱印」を以て他人に知行させた分 以外を糺明の上で給与することを通達。〔「尊経閣文庫文書」〕 4月 4月 1日 織田信長(「信長」)、この朝早々に大和国奈良を出立。〔『多聞院日記』二〕 4月 1日 十市遠長(「十常」)、この暁に「南」(大坂方面)へ下向。〔『多聞院日記』二〕 4月 2日 本願寺顕如、挙兵す。 4月 3日 織田信長、本願寺顕如(「大坂」)が「御敵の色を立申」したため即時軍勢を派遣し、苅田および放火を実行させる。 〔『信長公記』巻七〕 4月 3日 織田信長(「信長」)、筒井順慶(「筒井房」)へ石山本願寺の「大坂惣張行之造意」に対して織田軍は近辺に放火すること を通達し、来たる4月12日に総攻撃を仕掛けるので筒井順慶は4月11日に大坂表に出陣して石山本願寺攻撃に参加すること を命令。詳細は蜂屋頼隆(「蜂屋兵庫助」)・塙直政(「塙九郎左衛門尉」)に伝達させる。〔「古文書纂」二十九〕 4月 4日 筒井順慶(「順慶」)、妻と母の見舞のため上京す。〔『多聞院日記』二〕 4月 9日 織田信長(「信長」)、山城国の松尾左衛門佐・松尾社務東相房へ南方出陣に際しての巻数・果物を贈られたことを謝す。 〔「東文書」三〕 4月11日 筒井順慶軍(「筒井衆」)、河内国へ出陣。織田信長(「信長」)の命令により「一揆対治」(石山本願寺攻略)のための 出陣であった。筒井順慶は自軍を率いて下向したという。〔『多聞院日記』二〕 4月11日 多聞院英俊、去3月12日に日中空中で「頸一ツ」が出現し消失したという風聞に接す。〔『多聞院日記』二〕 4月12日 多聞院英俊、織田軍先発隊(「信長先之衆」)が河内国へ出撃し放火したことを知る。〔『多聞院日記』二〕 4月12日 多聞院英俊、大和国十市郷「エツヽミ」に城が築造されたことを知る。〔『多聞院日記』二〕 4月13日 織田信長、近江国石部城に六角義賢・六角義治を攻囲、陥落させる。 六角義賢(「佐々木承禎」)は雨夜に紛れて近江国石部城を脱出。 織田信長、近江国石部城には佐久間信盛(「佐久間右衛門」)を配置する。〔『信長公記』巻七〕 4月13日 多聞院英俊、河内国へ出陣した軍勢は「野陣」していることを知る。〔『多聞院日記』二〕 4月14日 足利義昭、島津義久へ織田信長と不和になり紀伊国に滞在している旨を通知。 「諸口調略」に関して江月斎を派遣し指令を下す。 詳細は一色藤長・真木島昭光に伝達させる。〔「旧記雑録後編」@‐738〕 4月14日 足利義昭、喜入季久へ織田信長と不和になり紀伊国に滞在している旨を通知。 「諸口調略」に関して江月斎を派遣し指令を下す。 詳細は一色藤長・真木島昭光に伝達させる。〔「旧記雑録後編」@‐740〕 4月14日 一色藤長・真木島昭光、喜入季久へ足利義昭と織田信長の不和を報ず。 足利義昭の紀伊国への避難、東国勢が東美濃口へ乱入、大坂高屋四国衆が味方になっていることを通知。 詳細は江月斎に伝達させる。〔「旧記雑録後編」@‐741〕 4月14日 一色藤長、伊集院忠棟・平田昌宗へ足利義昭と織田信長の不和を報ず。 足利義昭の紀伊国への避難、東国勢が東美濃口へ乱入、大坂高屋四国衆が味方になっていることを通知。 詳細は江月斎に伝達させる。〔「旧記雑録後編」@‐739〕 4月14日 一色藤長、喜入季久へ去年足利義昭が紀伊国に避難し現在は上山城表に在陣、無音のため定歳阿・道正を派遣し、 更に詳細は江月斎に伝達させる。〔「旧記雑録後編」@‐742〕 4月14日 柳生宗厳(「柳生但馬」)父子、筒井順慶と敵対していた十市遠長(「十常」)と入魂にする。〔『多聞院日記』二〕 4月20日 織田信長(「信長」)、京都紫野大徳寺へ大坂方面出陣に際し銀子10両を贈られたことを謝し、上洛した時に詳細を連絡 する旨を通知。〔「大徳寺文書」三〕 4月21日 大和国奈良に於いて夜に「地震」発生。〔『多聞院日記』二〕 4月24日 大和国奈良に於いて「雷鳴」、雨は降らず。〔『多聞院日記』二〕 4月25日 織田信長(「信長」)、島田秀満(「島田但馬」)・山岡景佐(「山岡対馬」)へ大和国東大寺八幡宮の社人・大仏殿寺人の 件は「先規」に任せて諸役以下を免除する旨を命令。〔「薬師院文書」〕 4月25日 多聞院英俊、大和国「カツ山ノ城」が陥落したことを知る。「賄」によって落城したという。〔『多聞院日記』二〕 5月 5月 4日 相良長毎、肥後国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕 5月 5日 「賀茂祭」の「競馬御神事」が「天下御祈祷」のために挙行された。 織田信長(「信長」)は幸いにも在洛中であったので「度々かち合戦にめさせられ候蘆毛の御馬」をはじめ駿馬を出して 「何れも勝」った。〔『信長公記』巻七〕 5月12日 小笠原長忠(遠江国高天神城将)、武田勝頼に包囲される。 5月15日 筒井順慶(「筒井順慶」)、上洛す。〔『多聞院日記』二〕 5月15日 多聞院英俊、織田信長(「信長」)が「東乱」(大和国東部?)を理由に大和国へ下向したための普請延引を知る。 〔『多聞院日記』二〕 5月16日 織田信長(「信長」)、この日の「四之時分」に大和国へ下国。鷹広栖に於いて子を産むところを見物するためという。 〔『多聞院日記』二〕 5月17日 羽柴秀吉(「秀吉」)、河内国の遊佐盛(「遊佐勘解由左衛門」)へ保田知宗(「安田佐介」:紀伊国在田郡八幡山城主)に 人質提出を督促する旨を命令。〔『寸金雑録』一〕 5月19日 真田幸隆、没。〔『日本史人物生没年表』〕 5月28日 織田信長(「信長」)、美濃国岐阜城に下向。〔『信長公記』巻七〕 6月 6月 1日 里見義堯、没。〔『日本史人物生没年表』〕 6月 5日 織田信長(「信長」)、尾張国の佐治左馬允へ「遠州在陣衆」の兵粮米の件で「商買之八木船」にて搬送するので商人共へ 順路等の連絡を命令。〔『反町十郎氏寄贈武家文書展覧会解題目録』〕 6月 5日 多聞院英俊、この頃に大和国法隆寺に於いて「学衆」と「堂方」との間に喧嘩が発生し「堂方衆」4・5人が殺害された こと、筒井順慶被官(「筒井被官」)が事情聴取したことを知る。多聞院英俊は近年法隆寺が修学を怠っていることと「魔障」 が原因であると評す。〔『多聞院日記』二〕 6月 5日 武田勝頼(「武田四郎勝頼」)、遠江国高天神城を攻囲。〔『信長公記』巻七〕 6月 9日 織田信長(「信長」)、美濃国の根尾右京亮・根尾市助・根尾五郎兵衛へ高天神城救援のための「遠州出馬」に際し、 「越州一揆」が蜂起すると判断したので防御を堅固にすべきことを命令。〔「高尾宗豊氏文書」〕 6月14日 織田信長(「信長公」)・織田信忠、遠江国高天神城救援のために美濃国岐阜城を出陣。〔『信長公記』巻七〕 6月17日 織田信長、三河国吉田城に着陣。〔『信長公記』巻七〕 6月17日 武田勝頼、遠江国高天神城を陥落させる。織田・徳川氏の来援が遅れたため小笠原長忠(遠江国高天神城将)は降伏。 6月17日 織田信長、三河国岡崎に到着。 6月19日 織田信長(「信長公」)・織田信忠、三河国今切を渡る前に小笠原与八郎の「逆心」により遠江国高天神城が陥落した旨を 知り、三河国吉田城へ引き返す。〔『信長公記』巻七〕 6月21日 織田信長(「信長」)・織田信忠、美濃国岐阜城に帰城。〔『信長公記』巻七〕 6月29日 織田信長、上杉謙信へ全7ヶ条の「覚」を発す。 その内容は山崎専柳斎(上杉使者)と対面したこと、織田信長が信濃国・甲斐国へ出陣しないのは油断からではなく、五畿内・ 江北・越前国方面での戦闘に集中していたためであること、この春に武田勝頼(「武田四郎」)が美濃国・信濃国境目に出撃 したが、その次第は以前に通知した通りであり、上杉謙信の「関東御動之儀」は旧冬12月28日の書状を受けたが適切な時期 の出陣であったので武田勝頼(「四郎」)は「失手」ったこと、上杉側に織田信長と上杉謙信の「御間」を妨害する者が存在 するという疑念があるようだが断じて無く、たとえそのような者が存在しても織田信長(「信長」)は許容しないこと、 上杉謙信からの来秋の信濃国・甲斐国方面への出撃要請を承諾したこと、九月上旬頃の出陣を予定しているが、詳細な日限は 協議の上で決定すること、武田勝頼(「四郎」)は若輩ではあるが「信玄掟」を遵守しており表裏もあるので油断は出来ない こと、織田信長が上杉謙信からの五畿内表に執心せず信濃国・甲斐国方面に尽力するという要請は承諾したこと、大坂表の件は 畿内の軍勢に委任し、「東国」への軍事行動は近江国・尾張国・美濃国・三河国・遠江国の軍勢で出撃するので「上方之行」と 「東国」の件は「懸組」ではないこと、詳細は山崎専柳斎が伝達することを通知。〔「上杉文書」七〕 7月 7月 1日 武井夕庵(「尓云」)、長景連(「長与一」)へ「御書」頂戴及び上杉謙信「御使」として山崎専柳斎が到来したことに ついて織田信長(「信長」)は満足していること、この春の上杉謙信「関東御進発」の折りの活躍に触れ、上杉謙信から要請 された織田信長にこの秋の「信州表可被及御行」きの件は好機であること、「第一御入魂」は下々までも大慶であること、詳細 は山崎専柳斎が伝達する旨を通知。〔「色部文書」、「宇津江文書」〕 7月 2日 筒井順慶、大和国興福寺大乗院「新御所」へ誓紙提出を要請。〔『多聞院日記』二〕 7月 3日 大和国興福寺大乗院「新御所」、筒井順慶(「筒」)へ誓紙を下す。〔『多聞院日記』二〕 7月 4日 多聞院英俊、中坊飛騨守(松永久秀被官)へ瓜50個を贈る。〔『多聞院日記』二〕 7月 9日 筒井順慶(「筒井順慶」)、大和国興福寺大乗院「両御所」を礼問す。多聞院英俊、筒井順慶(「順」)へ50疋を贈る。 〔『多聞院日記』二〕 7月13日 織田信長(「信長」)・織田信忠、伊勢国河内長島一揆を鎮圧するために出陣。伊勢国津島に布陣。〔『信長公記』巻七〕 7月15日 九鬼嘉隆(「九鬼右馬允」)・滝川一益(「滝川左近」)・伊藤三丞・水野直盛(「水野監物」)・島田秀満(「島田所助」) 林秀貞(「林佐渡守」)・北畠信雄(「国司お茶筅公」:織田信雄)ら、伊勢国河内長島一揆鎮圧のため水軍を率いて参陣。 〔『信長公記』巻七〕 7月18日 多聞院英俊、近日中に超昇寺などが中心となり「ナラ中一キ」(一揆)発生の「口遊」を知る。 また箸尾為綱(「ハシヲ」)が筒井順慶に離反し「ヌカ田」へ軍勢を進めたことを知る。〔『多聞院日記』二〕 7月19日 大和国興福寺(「寺門」)、塙直政(「塙九郎左衛門」)へ木津の坊領注文を提出するために「御書」を三学院へ送付。 〔『多聞院日記』二〕 7月20日 織田信長(「信長」)、高田専修寺・朝倉景健(「朝倉孫三郎」)・堀江景忠(「堀江中務丞」)・大井四郎・細呂木某・ 嶋田某・実乗坊・了実坊へ「越州出馬之刻」における忠節を賞し、知行は望みの通りに宛行う旨を通達。〔「法雲寺文書」〕 7月20日 織田信長(「信長」)、越前国高田専修寺へ「鼓之革大小若松」2懸を贈られたことを謝す。〔「法雲寺文書」〕 7月20日 羽柴秀吉(「羽柴藤吉郎秀吉」)、越前国敦賀より高田専修寺・朝倉景健(「朝倉孫三郎」)・堀江景忠(「堀江中務丞」) 大井四郎・細呂木某・嶋田某・実乗坊・了実坊へ越前国への「信長出馬之刻」の際の忠節に対し織田信長「直札」を以て望み 通りの知行宛行が通達されたので菅屋長頼(「菅屋玖右衛門尉」)と相談の上で実行する旨を通達。〔「法雲寺文書」〕 7月20日 荒木村重(「アラキ信濃」)の軍勢、摂津国中島に於いて過半が討死す。〔『多聞院日記』二〕 7月20日 荒木村重・高山友祥、石山本願寺の出城である摂津国中島城を攻撃し一向一揆を撃破。 7月22日 筒井順慶(「筒井」)、十市遠長(「十市」)と「入魂誓紙」を交換し同盟を締結。〔『多聞院日記』二〕 7月23日 織田信長(「信長」)、荒木村重(「荒木信濃守」)へ去7月20日に石山本願寺出城の摂津国中島城を攻略した「武勇」を 賞し、荒木側(「味方」)の損害は「古今有習」であるので「不苦」ということ、織田信長が在陣している伊勢国長島方面の 戦況は塙直政(「九郎左衛門尉」)より通知した通りで、現在は長島一向一揆の包囲網を縮小しているので「落居」は間も無い こと、鎮圧後は上洛して面談することを希望する旨を通知。〔「徳富猪一郎氏所蔵文書」〕 7月23日 織田信長(「信長」)、河尻秀隆(「河尻与兵衛尉」)へ伊勢国長島一向一揆は種々の「懇望」を申し入れてきたが、 織田信長は「根切」る決意であり「其咎」は免じない方針であることを通達し、河尻秀隆が出陣している大坂方面の件は心配で あるので油断無く守備することを命令。〔『玉証鑑』三、『旧記集』中〕 7月24日 織田信長(「信長」)、筒井順慶(「筒井順慶」)へ伊勢国長島一向一揆包囲網を縮小、間も無く鎮圧する予定であること、 近日中に上洛して大和国方面の状況について面談することを通知。詳細は塙直政(「九郎左衛門尉」)に伝達させる。 〔京都大学国史研究室所蔵「古文書集」三〕 7月24日 多聞院英俊、去20日に摂津国中島で荒木村重(「アラキ信濃」)の軍勢の過半が討死したことを知る。 〔『多聞院日記』二〕 7月24日 多聞院英俊、筒井順慶(「筒井」)が十市遠長(「十市」)と「入魂誓紙」を交換したことを知る。〔『多聞院日記』二〕 7月28日 織田信長(「信長」)、近江国多賀神社不動院へ伊勢国陣中に於いて「牛王」・「札」・「守」・「巻数」を頂戴したことを 謝し、戦況は織田信長に有利に展開しているので心配は無用であること、また対面希望の旨を通知。〔「多賀神社文書」二〕 7月28日 上杉謙信、加賀国に侵攻。 7月29日 織田信長(「信長」)、明智光秀(「明智」)へ「南方」の戦況報告は詳細で眼前で見る心地がすること、先度の 荒木村重(「荒木」)が戦果を挙げて以後目覚ましい功績が無いとはいうが、明智光秀(「其方」)陣所は鳥羽近辺に設営し、 油断無く守備しているとの報告を入手していること、敵勢が不意に淀川を渡河した際には応戦すること、反逆した伊丹親興の 伊丹城は兵粮が欠乏すれば「落居」は必然であること、石山本願寺との連絡があるので即時攻略は成し得ないであろうこと、 攻撃を受けたならば援軍派遣を計画していること、伊丹城は後巻きにするべきか否かは明智光秀の判断に任せること、織田信長 が在陣している伊勢国方面の戦況は篠橋・大鳥居を包囲し、これらに兵粮が皆無であることは確実で数日のうちに「落居」する であろうこと、この2拠点に「一揆之中にても随分之者共」が籠城しており、ここを陥落させれば伊勢国長島一向一揆を攻略 したも同前であること、長島も無礼な「雑人原」が逃げ込んで正常な状態ではないことは想像以上で、早くも城内に於いては 男女の餓死者がことに多いという情報を入手したこと、以上のような戦況であるので近日戦闘を終結させて帰陣し、上洛する 予定であることを通知。〔「細川家文書」二〕 7月 晦日 細川藤孝(「長岡兵部大輔」)、織田側の河内国若江城などに攻撃を仕掛けてきた遊佐信教・三好康長らを撃退。 〔「細川家文書」二〕 7月 晦日 筒井順慶(「筒井」)、大和国春日大社に社参。〔『多聞院日記』二〕 8月 8月 1日 多聞院英俊、「木津」某へ樽を贈ろうとしたところ多聞山城「番」への途上で遭遇し、直に多聞山城に持参。 〔『多聞院日記』二〕 8月 2日 織田軍、この夜に夜陰と風雨に紛れて伊勢国大鳥居城を脱出しようとした一揆勢1000人ばかりを殺害。 〔『信長公記』巻七〕 8月 3日 織田信長、伊勢国長島一揆の拠点大鳥居を攻略。 8月 3日 織田信長(「信長」)、細川藤孝(「長岡兵部大輔」)へ去7月晦日に河内国若江城など織田側の拠点に 「敵」(遊佐信教・三好康長ら)が攻撃を仕掛けた時に撃退したという報告を受けたこと、織田信長が在陣している伊勢国方面 の戦況について「端之一揆」が籠城する拠点を攻略し、敗走する一揆勢を「追討」ちして多数を討ち取り、長島城1ヶ所に追い 詰めたので、近日中に「落居」させる見通しであること、その際に織田信澄(「津田」)の件で「粗々承」けたことについては 上洛してから相談することを通知。詳細は塙直政(「塙」)に伝達させる。〔「細川家文書」二〕 8月 5日 織田信長(「信長」)、細川藤孝(「長岡兵部大輔」)へ「南方之一揆」との戦況について「大坂を根切之覚悟」で臨むべき こと、詳細は明智光秀(「明智」)と相談するべきこと、尾張国・伊勢国中の一揆は捜索の上で悉く「楯切」りにしたこと、 伊勢国長島城に一揆勢が「北入」ったので織田信長は「取巻詰寄」せており、城内に兵粮は欠乏しているので「落居」は間近い こと、長島城陥落後は直ちに上洛し石山本願寺との戦線を「平均」する予定であることを通知。 詳細は塙直政(「九郎左衛門尉」)に伝達させる。〔「細川家文書」二〕 8月 7日 織田信長(「信長」)、河尻秀隆(「河尻与兵衛尉」)へ伊勢国長島方面の戦況「河うち敵城共落居」の様子を伝達。 その内容とは「男女悉撫切」にし「身をねけて死候者」も数多く、本拠の願証寺陥落の間近いこと、願証寺から「色々わひ」を 申し入れてきたが取り合わず「根切」とする方針であることを通達。また河尻秀隆が付城番手を油断無く行っていることを 賞し、伊勢国長島方面を鎮定してから摂津国方面の河尻秀隆陣所を視察する予定であること、上杉謙信が越後国より武田勝頼 分国の信濃国へ「出張」することは無いという見通し、陸奥国より「鷹共」が献上されたので一覧するために8月5日に美濃国 岐阜城へ帰還したこと、翌8月8日に長島陣所へ帰陣するが布陣の堅固な様子を通達。〔「富田仙助氏所蔵文書」一〕 8月 7日 武井夕庵(「夕庵尓云」)、山城国安楽寿院年行事へ織田軍の陣取り免除を通達。〔「安楽寿院文書」〕 8月 9日 織田信長(「信長」)、伊勢国長島陣所へ音信・贈物を送付してきた本郷信富(「本郷治部少輔」)へ長島方面の鎮定後に 上洛することを通知し、本郷信富の「涯分守護」を命令。〔「本郷文書」七〕 8月12日 織田信長、伊勢国「しのはせ籠城の者」の助命し長島に入城させる。〔『信長公記』巻七〕 8月13日 織田信長(「信長」)、近江国福正寺に道場境内四壁の件は「先判之例」に任せて地子銭・諸役等を免許する。 詳細は羽柴秀吉(「木下」?)・明智光秀(「明智」)に伝達させる。〔「福正寺文書」〕 8月17日 織田信長、伊勢国長島に出陣す。 8月17日 織田信長(「信長」)、細川藤孝(「長岡兵部大輔」)より受けた「敵」である一向一揆・三好氏らの摂津国進撃報告に対し て些細な事であっても各自相談の上で「手当」するべきこと、進撃報告が事実であれば期日以前でも出陣すべきであること、 織田信長の在陣している伊勢国長島方面の戦況については、篠橋砦を「落居」させて以来いよいよ追い込んで、「長島構」は 「江河一重之為体」となり、手を換え品を換えて「侘言」を申し入れてくるが「火急ニ可相果」き事なので承引はしないこと、 本願寺顕如(「大坂坊主」)は伊勢国長島一向一揆との関係を「迷惑」しているということを通知し、この状況であれば各個 撃破の「調略」は可能であるので、摂津国方面の作戦も明智光秀(「明智」)と相談して油断無く遂行することを命令。 また近日の上洛予定に触れ、摂津国・河内国方面は「均平」に属するであろうことを通達。〔「細川家文書」二〕 8月 吉日 羽柴秀吉(「藤吉郎秀吉」)、近江国国友村の藤二郎へ国友村内に100石を扶助するので「鉄炮」生産の件は従来の如き旨 を通達。〔「国友共有文書」〕 9月 9月 2日 織田信長(「信長」)、伊達輝宗(「伊達次郎」)へ贈られた鷹を自愛していることに触れ、5種の贈物を呈し交誼を願う。 〔「伊達家文書」一〕 9月11日 織田信長(「信長」)、直江景綱(「直江大和守」)・河田長親(「河田豊前守」)へ上杉謙信(「謙信」)に対する年頭の 礼のため佐々長穐(「佐々権左衛門尉」)を派遣した旨を通知。〔「上杉家文書」一〕 9月11日 羽柴秀吉(「羽柴藤吉郎秀吉」)、近江国竹生島宝厳寺衆中へ近江国浅井郡早崎郷のうち300石を寄進。 〔「竹生島文書」二〕 9月16日 武藤舜秀(もと越前国敦賀城主)・不破光治(「不破河内守」)、越前国西福寺へ寄進。〔「西福寺文書」〕 9月17日 佐久間信盛・明智光秀・細川藤孝ら、河内国へ進撃し飯盛城下に於いて三好軍・一向一揆を撃破。〔「細川家文書」二〕 9月19日 佐久間信盛・明智光秀・細川藤孝ら、河内国萱振砦を攻略す。 9月22日 織田信長(「信長」)、細川藤孝(「長岡兵部大輔」)へ去9月17日に河内国飯盛城下に於いて「一揆」らを撃破して 「首注文」を送付してきたことについて織田信長は「近比心地能」き状態であり、また伊勢国長島城も間も無く「打果」し直ち に上洛する予定であることを通知。〔「細川家文書」二〕 9月23日 織田信長、伊勢国長島城より一揆勢を退城させる。 9月24日 織田信長(「信長」)、細川藤孝(「長岡兵部大輔」)へ河内国萱振砦を攻略して「首注文」を送付してきたこと、および その戦功を賞す。〔「細川家文書」二〕 9月29日 織田信長、伊勢国長島一揆の「御侘言」を許容して一旦長島城退去させたところ、船にて包囲し「鉄炮を揃へうたせ」て、 「際限なく川へ切りすて」る。一揆勢中の腕利き者たち7・800人ばかりが「抜刀」で織田軍を襲撃。損害が甚大であった。 〔『信長公記』巻七〕 9月29日 織田信長、伊勢国長島の中江城・屋長島城に籠もる一揆勢2万ばかりを「焼ころし」を断行。〔『信長公記』巻七〕 9月29日 織田信長、美濃国岐阜城へ凱旋。〔『信長公記』巻七〕 9月 頃 羽柴秀吉、この頃より「筑前守」の受領名を称す。 10月 10月 1日 織田信長(「信長」)、伊勢大神宮御師の上部大夫へ輩下の高向源二郎・高向二頭大夫の両人が尾張国中の「旦那契約」を したことを承認。〔『伊勢古文書集』一下〕 10月22日 織田信長(「信長」)、山城国宝鏡寺へ寺領の丹波国八田庄の所々散在分および三宅河原尻村の件は以前より「守護使」の 不入地であるから、山林・竹木・人夫等に非分を申し懸ける者がいれば「曲事」であり、宝鏡寺寺領中に居住する者で「権威」 を以て「本所」(宝鏡寺)に背く者があれば「成敗」する旨を通達。〔「宝鏡寺文書」〕 10月22日 織田信長(「信長」)、山城国の宝鏡寺雑掌へ寺領の山城国平川郷大窪村の件は「先規」のごとく「守護使」不入地である から、山林・竹木・人夫等に非分を申し懸ける者がいれば「曲事」であり、宝鏡寺寺領中に居住する者で「権威」を以て 「本所」(宝鏡寺)に背く者があれば「成敗」する旨を通達。〔「宝鏡寺文書」〕 10月24日 多聞院英俊(?)、京都より織田信長(「信長」)へ越前国の河口荘・坪江荘の件で「一書」および「巻数」を準備し、 翌日に清書す。〔『多聞院日記』二〕 10月29日 羽柴秀吉(「藤吉郎秀吉」)、近江国国友村の藤二郎へ国友村河原「代官職」を申し付ける旨を通達。〔「国友共有文書」〕 11月 11月 7日 柴田勝家(「柴田修理亮勝家」)、山城国山科七郷名主・百姓中へ山科七郷は往古より「御大裏様」の「御役人」として様々 な雑公事・陣詰夫役などは一切賦課されないことになっていたことを織田信長(「信長」)が聞き入れられたが柴田勝家は病気 により「両人」(金森長近・飯尾尚清)を以て従来の如く負担を免除するという織田信長の命令を通達。〔「沢野井文書」〕 11月 7日 飯尾尚清(「飯尾隠岐守」)・金森長近(「金森五郎八」)、山城国山科七郷へ往古より「御大裏様」の「御家人」であり 「長日御番」を遂行するので雑公事・陣詰夫役は一切賦課されないことになっていたことを織田信長(「殿様」)が聞き入れて 従来の如く負担を「御免許」したことを通達し、「御大裏様御番」に油断をしないよう命令す。〔「沢野井文書」〕 11月10日 織田信長(「信長」)、大和国法隆寺へ「西東諸式」が混合している現状を指摘し、「各別」とする旨を命令。 また「東之寺領」は散在しているが、これを安堵すること、「西寺」が「段銭」以下を「恣令取沙汰」ていることを厳禁する こと、違反する者に対しては「成敗」を加えることを通達。〔「法隆寺文書」五〕 11月11日 織田信長(「信長」)、細川藤孝(「長岡兵部大輔」)へ上洛にあたる音信および小袖一重の送付を謝す。 〔「長府毛利家文書」一〕 11月11日 織田信長(「信長」)、山城国賀茂の瑞川軒へ先年(元亀元年10月)「徳政棄破」の旨の織田信長「朱印」を2度にわたり 発給したのもかかわらず、現在まで「難渋」しているので、「永地」・「借物」は証文に任せて催促・収納することを命令。 〔「五島美術館所蔵文書」〕 11月13日 織田信長、上洛して、大和国方面と伊丹親興の反乱平定にあたる。 11月13日 織田軍(「信長人数」)、大和国岡の周辺へ進撃し放火す。〔『多聞院日記』二〕 11月13日 羽柴秀吉(「藤吉」)、夕刻に大和国奈良へ到来。〔『多聞院日記』二〕 11月14日 多聞院英俊、「新賀」某(大和国人)が十市遠長(「十常」)へ帰参したことを知る。〔『多聞院日記』二〕 11月14日 多聞院英俊、「森屋」某(大和国人)が筒井順慶(「筒井」)・十市遠長(「十常」)と「入魂」(同盟締結)したことを 知る。〔『多聞院日記』二〕 11月15日 多聞院英俊、羽柴秀吉(「藤吉」)が1昨日夕刻に大和国奈良へ到来、特に何も無かったことを知る。〔『多聞院日記』二〕 11月15日 荒木村重ら、織田信長に反乱した伊丹親興を攻撃。伊丹城は陥落し伊丹親興は没す。 11月16日 織田軍(「信長衆」)、大和国奈良より退却。〔『多聞院日記』二〕 11月18日 十市遠長(「十常」)、明日上洛するというので俄かに興福寺妙徳院へ入る。〔『多聞院日記』二〕 11月21日 江月宗玩(津田宗及子)、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕 11月22日 羽柴秀吉(「羽柴藤吉郎秀吉」)、河内国金剛寺上綱御坊へ「先規」からの諸役免除の由を了承し、不届きがあった場合は 織田信長の「御諚」により成敗を加えることを通達。〔「金剛寺文書」‐309〕 11月22日 塙直政(「塙九郎左衛門尉」)、河内国金剛寺三綱御坊へ「先規」からの諸役免除について織田信長「御朱印」で安堵された 旨を通達。もし不届きが発生した場合は織田信長「御諚」を得て譴責することを通知。〔「金剛寺文書」‐310〕 11月23日 柴田勝定(「柴田次左衛門尉」)、硯屋与三左衛門入道へ河内国「天野寺」(金剛寺)より在陣中の柴田勝家(「修理亮」) のもとへ酒樽1荷を贈られたことを謝す。〔「金剛寺文書」‐311〕 11月23日 開発秀吉(「開発彦三郎秀吉」)、硯屋与三左衛門入道へ河内国「天野寺」(金剛寺)より佐久間信盛のもとへ酒樽を贈られ たことを謝す。〔「金剛寺文書」‐312〕 11月23日 十市遠長(「十常」)、夕刻に京都より大和国へ帰還。〔『多聞院日記』二〕 11月24日 多聞院英俊、十市遠長(「十常」)が昨夕に京都より大和国へ帰還しこの朝早々に「南」(大坂方面)へ出撃したことを 知る。〔『多聞院日記』二〕 11月24日 十市遠長(「十常」)、この朝早々に「南」(大坂方面)へ出撃。〔『多聞院日記』二〕 11月25日 織田信長(「信長」)、帰国す(美濃国岐阜?)。〔『多聞院日記』二〕 11月26日 多聞院英俊、織田信長(「信長」)が昨日帰国(美濃国岐阜か?)したことを知る。〔『多聞院日記』二〕 11月 日 織田信長(「信長」)、山城国の金戒光明寺へ全3ヶ条の「定」を下す。 閏11月 閏11月14日 筒井順慶(「筒井」)、大和国奈良へ到来。〔『多聞院日記』二〕 閏11月15日 多聞院英俊、筒井順慶(「筒井」)が昨夕より大和国奈良へ滞在していることを知る。〔『多聞院日記』二〕 閏11月16日 岡村甚介、大和国興福寺へ「高札」の件を通達。〔『多聞院日記』二〕 閏11月18日 筒井順慶(「筒順」)、大和国興福寺成身院に於いて学侶衆へ通達を行う。〔『多聞院日記』二〕 閏11月19日 多聞院英俊、明日興福寺成身院が筒井順慶(「順慶」)へ言上をすることを知る。〔『多聞院日記』二〕 閏11月20日 興福寺成身院、筒井順慶(「順慶」)へ言上す。〔『多聞院日記』二〕 閏11月20日 三河国明眼寺可心、使僧を大和国興福寺へ派遣。書状・薬などを送付してきた。また「承久ノ物語ノ本」(承久記)の借用の 依頼を受けたので「宗二」へ諮問したところ写本を製し貸すようにしてはどうかと意見され、本を借用したがそれは「明徳記」 であった。「宗二」は「承久ノ記」と思い違ったのであった。〔『多聞院日記』二〕 閏11月21日 多聞院英俊、「宗二」より「承久兵乱ノ様」の記録を受け取る。〔『多聞院日記』二〕 閏11月23日 織田信長(「信長」)、尾張国の篠岡八右衛門尉・坂井利貞(「坂井文助」)・河野藤三・山口太郎兵衛へ尾張国中の道路は 年間に3度修築すること、橋は「先規」の通りに架設した現地に修繕すること、「水道」(農業用水路)の維持も関係村落に 厳命することを通達。〔「酒井文書」〕 閏11月28日 多聞院英俊、夢で「天皇ノ御宸筆」(天皇名は忘れる)の墨絵を見る。〔『多聞院日記』二〕 12月 12月 1日 多聞院英俊、筒井順慶(「筒井順慶」)を礼問す。〔『多聞院日記』二〕 12月 2日 多聞院英俊、大和国興福寺蓮成院の「茶湯」に参席。〔『多聞院日記』二〕 12月 9日 織田信長(「信長」)、高木貞久(「高木彦左衛門」)へ織田信長の鷹狩に際して「鉄炮」使用を停止するが、織田信長は その周辺に行かないでの美濃国中分の諸鳥は冬・春の鷹野の間に撃っても追立てて織田信長の鷹狩りに諸鳥が行くよう命令。 〔「高木文書」‐3〕 12月 9日 織田信長(「信長」)、美濃国の不破大炊助・田中真吉へ「鉄炮停止」について美濃国には諸鳥が少なく、その周辺の知行人 に対して「鉄炮」を放ち諸鳥を追い立てることを命令。〔「池田文書」二〕 12月 9日 織田信長(「信長」)、美濃国の神野源六郎・伊藤七郎左衛門・吉村安実(「吉村又吉郎」)へ「鷹野鉄炮」について使用 停止を命令し、美濃国周辺には諸鳥が少なく、冬・春の「鷹野」の間に美濃国中に諸鳥を撃って追い立てることを命令。 〔「吉村文書」一〕 12月 9日 織田信長(「信長」)、太田左馬助へ「鷹野鉄炮」について使用を停止し、織田信長は美濃国周辺に出向かないので美濃国中 分の諸鳥は冬・春の「鷹野」の間に諸鳥を撃って追い立てることを命令。〔「東京国立博物館所蔵文書」三〕 12月15日 織田信長(「信長」)、紀伊国高野山金剛峰寺衆徒・在陣衆中へ在洛の音信として銀子10枚が贈呈されたことを謝す。 また大和国宇智郡の「敵陣」に対して織田軍「陣取」の馳走を賞し、三好康長の河内国高屋城は来春早々に攻略する見通しで あるので油断しないことが大事であることを通知。詳細は柴田勝家(「柴田修理亮」)に伝達させる。 〔「高野山文書」続宝簡集三十七〕 12月21日 村井貞勝(「村井貞勝」)・明智光秀(「明智光秀」)、山城国賀茂神社へ境内・六郷・散在分の知行を織田信長「御朱印」 により安堵する旨を通達。〔「賀茂別雷神社文書」三〕 12月22日 羽柴秀吉、女房こほに対し長浜町への年貢・諸役免除の件で懇情を了承し、羽柴秀吉の意思を伝達するよう指示する。 〔「川路文書」〕 12月24日 松永久秀(「松永久秀」)、「落髪」して「道意」と号す。〔『多聞院日記』二〕 12月27日 十市遠長(「十常」)、美濃国岐阜より帰還。〔『多聞院日記』二〕