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        【 天下統一期年譜 1573年 】

元亀 4・天正 元(1573)年 

1月
  1月 1日 村上義清、没。〔『日本史人物生没年表』〕
  1月 2日 穴山信君(「信君」)、多胡惣右衛門尉(浅井氏被官)へ武田信玄は朝倉義景(「義景」)・浅井長政(「長政」)と申し
       合わせて遠江国・三河国へ「出張」し攻略したこと、三方ヶ原に於いて徳川家康軍を撃破したこと、浅井氏被官「備前」にその
       模様を検分させたことなどを通知。〔『武家手鑑』〕
  1月 4日 柴田勝家(「柴田修理亮勝家」)、尾張国の伊藤惣十郎へ「ゥ商人司」の件の織田信長「御朱印」の遵守を指示。
       〔『寛延旧家集』、「金鱗九十九之塵」巻第十八〕
  1月 5日 吉田兼見、留庵を召し寄せ吉田兼右を診察させる。〔『兼見卿記』一〕
  1月 7日 朝倉義景、某へ遠江国・三河国における武田信玄の勝利について通知。
       詳細は山崎吉家に伝達させる。〔「小島明氏氏所蔵文書」‐2〕
  1月 8日 織田信長、美濃国岐阜城に於いて松永久秀(「松永弾正」)を謁見す。
       松永久秀はの恭順の証として「天下無双の名物」である「不動国行」の太刀を献上す。〔『信長公記』巻六〕
  1月 8日 吉田兼右、家族へ5ヶ条を遺言。〔『兼見卿記』一〕
  1月10日 吉田兼右、没。〔『兼見卿記』一〕
  1月15日 織田信長(「信長」)、山城国の狛左馬進へ「年頭之慶事」として献上された「板物」を謝し、旧冬の知行分を安堵した
       織田信長「朱印」を下したので、家来の内の4名および延命寺の件は織田信長「存分」にすべきことを命令。〔「狛文書」〕
  1月20日 織田信長(「信長」)、戸田直頼(「戸田又兵衛」:徳川家康被官)へ「浜松表不慮之為体」(三方ヶ原の敗戦)における
       奮戦を慰労し、今後の防備強化を励行す。
       詳細は毛利良勝(「毛利新介」)に伝達させる。〔『ゥ家感状録』廿六〕

2月
  2月 6日 山城国愛宕郡の山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯谷久次、明智光秀(「明智」)へ逆心。〔『兼見卿記』一〕
  2月 7日 武田信玄、三河国野田城を攻略。
  2月 9日 足利義昭、毛利輝元へ(「毛利右馬頭」)へ「官途」の件で「右馬頭」に任ずる旨を通達。
       詳細は上野信恵(「上野佐渡守」)より伝達させる。〔「毛利家文書」@‐333〕
  2月10日 佐久間信盛(「佐久間左衛門尉信盛」)、伊藤惣十郎へ尾張・美濃両国「商人司役」の件で、織田信長「朱印」を遵守し、
       たとえ誰の家来であっても税徴収を実行することを通達。〔『寛延旧家集』、「金鱗九十九之塵」巻第十八〕
  2月10日 山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯谷久次、近江国へ布陣。吉田兼見は彼らの預物を拒絶。〔『兼見卿記』一〕
  2月11日 吉田兼見、明智光秀(「明智」)へ見舞の使者を派遣。〔『兼見卿記』一〕
  2月17日 足利義昭(「武家御所」)、吉田兼見へ幕府御所の堀普請2間分を命令。〔『兼見卿記』一〕
  2月19日 吉田兼見、幕府御所の堀普請人足30人に吉田兼有を同行させる。〔『兼見卿記』一〕
  2月20日 織田信長、仲違いした足利義昭の内命により近江国今堅田城に籠城した光浄院暹慶(「光浄院」:山岡景友)・磯貝新右衛門
       渡辺党らを攻撃するために柴田勝家(「柴田修理亮」)・明智光秀(「明智十兵衛」)・丹羽長秀(「丹羽五郎左衛門」)・
       蜂屋頼隆(「蜂屋兵庫頭」)を派遣する。〔『信長公記』巻六〕
  2月22日 吉田兼見、幕府御所普請の人足40人を派遣。〔『兼見卿記』一〕
  2月22日 島田秀満(「島田」)・松井友閑(「友閑」)、織田信長(「信長」)の「使」として上洛。〔『兼見卿記』一〕
  2月22日 足利義昭(「武家御所」)、吉田兼見へ鉄炮材料として「灰木」10束の献上を命令。〔『兼見卿記』一〕
  2月23日 織田信長(「信長」)、細川藤孝(「細川兵部大輔」)の報告に応え、足利義昭(「公義」)の「御逆心」について全7ヶ条
       の条目を通達。
       塙直政(「塙」)を京都へ派遣し和睦を提示したところ、足利義昭(「上意」)より「条々」が提示されたので全て了承した
       こと、また塙直政(「塙」)は眼病を患ったために松井友閑(「友閑」)・島田秀満(「嶋田」)を上京させ「質物」(人質)
       を提出したことで「京都之雑説」は鎮静化し、足利義昭の織田信長に対する隔心は無くなるか否かを確認。
       また摂津国周辺の件では荒木村重(「荒木」)が織田信長(「信長」)に対し「無二之忠節」を励むという知らせに喜んでいる
       こと、和田惟長(「和田」)が先日織田信長のもとへ疎略無き旨を通信してきたので細川藤孝に若年の和田惟長へ意見すること
       が重要であること、伊丹親興(「伊丹」)が敵方に加担したが調略により織田側に帰属させること、石成友通(「石成」)は
       表裏無き人物であると聞いているが現在はどのような状態かを確認して能々相談すべきこと、織田信長・足利義昭間の「無事」
       が破綻したならば敵方の領中は味方になりそうな者に宛行い勧誘すべきこと、「遠三」周辺の件で武田信玄(「信玄」)は
       2月17日に野田表を撤収したこと、近江国志賀周辺にて一揆が蜂起したので蜂屋頼隆(「蜂屋」)・柴田勝家(「柴田」)・
       丹羽長秀(「丹羽」)に出陣を命令したこと、琵琶湖を渡って急行させるので鎮圧に時間は要しないであろうこと、織田信長は
       近江国佐和山に移動し近日に上洛し「畿内之事平均」に鎮める戦略は織田信長の「案中」にある旨を通達。〔「細川家文書」〕
  2月23日 吉田兼見、足利義昭へ「灰木」7束を献上。〔『兼見卿記』一〕
  2月24日 柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆、近江国勢田を渡海して足利義昭与党の籠もる近江国石山城へ攻撃を開始する。
       〔『信長公記』巻六〕
  2月24日 織田信長(「弾正忠信長」)、京都紫野大徳寺へ「青陽慶事」とし銀子10両を受けたことを謝し、近日の上洛予定を通知。
       〔「大徳寺文書」三〕
  2月26日 足利義昭、三井寺の光浄院暹慶(後に山岡景友)を挙兵させる。
  2月26日 織田信長(「信長」)、細川藤孝(「細川兵部大輔」)が京都の模様を報告してきたことに「満足」す。
       また松井友閑(「友閑」)・島田秀満(「嶋田」)を上京させて足利義昭との交渉を行わせたところ、足利義昭が提示した
       「条々」は全て承諾したこと、幕府「奉公衆」内で足利義昭の意を酌まない者を「質物」提出要求の条項があって細川藤孝の名
       も含まれていたことを留意すること、これを留意しなければ細川藤孝は足利義昭「上意」に従うべきであること、どの条項も
       背き難いので領掌したこと、これ以上のことは織田信長(「信長」)が道に背くのでしないこと、織田信長が暇を得たならば
       上洛し織田信長「存分」に処置する予定であること、細川藤孝は「無二之御覚悟」であるので織田信長は特に入魂にしている
       こと、荒木村重(「荒木」)・池田恒興(「池田」)らの織田信長「一味之衆」へ疎略の無いように才覚すべきことを通知。
       更に味方につけるための織田信長「朱印」を発給するところがあれば承ること、織田信長が内藤某方へ折紙を送付したが、
       足利義昭がこの為体・不慮の次第を聞き入れてくれれば「天下再興」は実現するのであろうかと感慨を洩らし、油断無きよう
       注意を促し、織田側に変化があれば追伸する旨を通知。〔「細川家文書」二〕
  2月26日 浅井長政、某へ足利義昭の屋敷落成、足利義昭御内書が武田信玄に下されたこと、東美濃へ武田信玄が出撃し
       加治田城・つぼ城を攻略したこと、朝倉義景も間もなく出陣する旨を通知。〔「小島明氏氏所蔵文書」‐1〕
  2月26日 柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆、足利義昭与党の籠もる近江国石山城を攻略、破却す。〔『信長公記』巻六〕
  2月29日 織田信長(「信長」)、細川藤孝(「細川兵部大輔」)が織田信長の提示した全12ヶ条の条件を全て諒承したことを喜び、
       しかれども織田信長が足利義昭(「公方様」)へ島田秀満(「嶋田」)・松井友閑(「友閑」)を派遣し和平交渉を進めている
       が、和平交渉が成功すれば幕府「奉公衆」と織田信長の人質(「質物」)の交換を実行すること、足利義昭(「公義」)と
       織田信長(「某信長」)の人質(「質物」)の件は織田信長が上洛すれば解決するので安心するべきこと、細川藤孝が織田信長
       へ京都・摂津国・河内国周辺の件を追々注進していることを謝す。〔「細川家文書」二〕
  2月29日 織田信長の命令を受けた柴田勝家(「柴田修理亮」)・明智光秀(「明智十兵衛」)・丹羽長秀(「丹羽五郎左衛門」)・
       蜂屋頼隆(「蜂屋兵庫頭」)、辰刻に近江国今堅田城への攻撃を開始。〔『信長公記』巻六〕
  2月29日 明智光秀(「明智十兵衛」)、午刻に近江国今堅田城の防衛線を突破。近江国志賀郡の過半を制圧す。〔『信長公記』巻六〕
  2月29日 明智光秀(「明智」)、近江国今堅田城を攻略。〔『兼見卿記』一〕
  2月29日 千秋輝季(「千秋刑部少輔」)、近江国今堅田城落城の際に討死。〔『兼見卿記』一〕

3月
  3月 6日 足利義昭、織田信長へ人質を返還し、戦闘のために二条城の堀を掘る。
  3月 6日 島田秀満(「島田」)、息子を伴い吉田神社に参詣。〔『兼見卿記』一〕
  3月 6日 吉田兼見、島田秀満(「島田」)より足利義昭(「大樹」)・織田信長の関係悪化の旨(「有雑説之儀」)を知らされる。
       〔『兼見卿記』一〕
  3月 7日 織田信長(「弾」「信長」)、細川藤孝(「細兵」)へ五畿内および京都の情勢報告を謝し、全17ヶ条の旨を通知。
       〔「細川家文書」二〕
  3月 8日 島田秀満(「島田」)、織田信長(「信長」)より足利義昭(「大樹」)との関係修復を命じられるが不調に終わる。
       島田秀満(「島田」)、大津に至り人足徴発を行う。〔『兼見卿記』一〕
  3月11日 吉田兼見、三淵藤英(「三淵大和守」)を伏見に訪問し吉田兼右遺物の長太刀を贈る。〔『兼見卿記』一〕
  3月11日 吉田兼見、三淵藤英より高山重友(「鷹山」)が和田惟長(「和田太郎」)に謀反して摂津国高津帰城を攻撃したこと、
       和田惟長(「和太」)は重傷を負いつつも城を脱して伏見に避難した旨を知らされる。〔『兼見卿記』一〕
  3月18日 土井利勝、三河国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
  3月25日 織田信長(「信長」)、上洛のために美濃国岐阜城を出陣。〔『信長公記』巻六〕
  3月29日 細川藤孝(「細川兵部大輔」)・荒木村重(「荒木信濃守」)、織田信長への「御身方の御忠節」として近江国逢坂に於いて
       出迎える。〔『信長公記』巻六〕
  3月29日 吉田兼見、足利義昭(「武家御所」)へ祗候。〔『兼見卿記』一〕
  3月29日 京都、織田信長(「信長」)上洛の沙汰により騒擾。〔『兼見卿記』一〕
  3月29日 織田信長軍(「信長出張先勢」)、京都粟田口へ着陣。〔『兼見卿記』一〕
  3月29日 織田信長軍、三条河原へ出撃。足利義昭(「大樹」)、幕府御所に拠る。〔『兼見卿記』一〕
  3月29日 織田信長、京都知恩院に布陣。〔『兼見卿記』一、『信長公記』巻六〕
  3月29日 織田信長、京都知恩院に於いて荒木村重(「荒木信濃」)へ「大ごうの御腰物」を、細川藤孝(「細川兵部大輔殿」)へ
       「名物の御脇指」を下賜する。〔『信長公記』巻六〕
  3月29日 吉田兼見、柴田勝家(「柴田修理進」)へ山城国吉田郷の警固を依頼。〔『兼見卿記』一〕
  3月29日 織田信長(「信長」)、山城国吉田郷へ諸勢陣取以下を禁ず。〔『兼見卿記』一〕
  3月29日 吉田兼見、京都聖護院に布陣している丹羽長秀(「丹羽五郎左衛門尉」)・蜂屋頼隆(「蜂屋」)を訪問。
       〔『兼見卿記』一〕
  3月30日 吉田兼見、山城国賀茂に布陣している明智光秀(「明智」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕
  3月  日 織田信長、山城国大山崎惣庄中へ全5ヶ条の「禁制」を下す。〔「離宮八幡宮文書」四〕

4月
  4月 1日 吉田兼見、島田秀満(「島田」)を介して知恩院の本陣に織田信忠(「信長嫡男奇妙」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕
  4月 1日 織田信長(「信長」)、吉田兼見へ吉田兼右の南都滅亡時は北嶺も滅亡し王城に災いが発生するという発言の真否を問う。
       吉田兼見、織田信長(「信長」)へ吉田兼右の発言は典拠無きものであることを答える。
       織田信長(「信長」)、吉田兼見の返答を受けてこれを「奇特」とし、洛中放火を決定。〔『兼見卿記』一〕
  4月 1日 織田信長(「信長」)、吉田兼見へ足利義昭(「大樹」)の所行に対する禁裏以下の取沙汰を、更に足利義昭の悪評や諸社
       濫觴についてを問う。〔『兼見卿記』一〕
  4月 1日 吉田兼見、織田信長(「信長」)へ諸神下界勧請の元由は斎場所であると返答。
       織田信長(「信長」)、この吉田兼見の返答を受け斎場所の修理を約束し金子1枚を与える。
       吉田兼見、織田信長の処置に感激する。〔『兼見卿記』一〕
  4月 2日 織田信長、足利義昭の挙兵に対して洛外を悉く放火。〔「京都市小石暢太郎氏所蔵文書」〕
  4月 2日 吉田兼見、禁裏より織田信長(「信長」)への使者を命じられる。
       吉田兼見、織田信長本陣を訪問。禁裏より預かった「女房御文」等は村井貞勝(「村井民部少輔」)が披露。
       〔『兼見卿記』一〕
  4月 3日 織田信長、洛外の堂塔寺庵を除外して放火する。〔『信長公記』巻六〕
  4月 3日 織田信長、山城国賀茂から嵯峨に至る在所を悉く焼き払う。〔『兼見卿記』一〕
  4月 3日 織田信長、足利義昭の挙兵に対して洛外を悉く放火。〔「京都市小石暢太郎氏所蔵文書」〕
  4月 4日 織田信長、足軽以下を派遣し洛中諸所に放火、二条より上京が焼失。類火が禁裏近辺に及ぶ。〔『兼見卿記』一〕
  4月 4日 織田信長、京都上京を放火する。〔『信長公記』巻六〕
  4月 4日 織田信長、足利義昭の挙兵に対して上京を悉く放火。〔「京都市小石暢太郎氏所蔵文書」〕
  4月 4日 足利義昭、織田信長による京都上京放火を目の当たりにし「御和談」を申し入れる。〔『信長公記』巻六〕
  4月 4日 吉田兼見、織田信長を等持寺の本陣に訪問し禁中不慮の際は吉田への臨幸を諮り同意を得る。
       織田信長(「信長」)、村井貞勝(「村井」)を禁裏警固担当を命令。〔『兼見卿記』一〕
  4月 4日 吉田兼見、禁中に参内し避難の旨を奏聞。〔『兼見卿記』一〕
  4月 4日 織田信長(「信長」)、参内し禁裏警固を検分、間もなく本陣へ帰還。〔『兼見卿記』一〕
  4月 5日 正親町天皇、織田信長(「信長」)へ二条晴良・三条西実枝・庭田重保を勅使として派遣、足利義昭との和議を講じさせる。
       〔『兼見卿記』一〕
  4月 5日 柴田勝家(「柴田修理亮勝家」)、山城国天龍寺惣寺中へ織田信長(「信長」)の厳命により焼き打ち免除を安堵。
       〔「天龍寺文書」五〕
  4月 6日 織田信長(「信長」)、上洛にあたり小栗大六(徳川被官)を派遣してきた徳川家康(「三河守殿」)へ足利義昭の挙兵
       (「今度公儀不慮」)については織田信長の身に覚えの無いことであり、「君臣御間」ということで従来の忠節が無駄としない
       ために種々の「理」を講じたが足利義昭の承諾が得られなかったため、去る4月2日・3日の両日に洛外を、4日には上京を
       悉く焼き払ったので足利義昭と講和が成立したことを通達。また徳川家康の近江国横山周辺への出陣は無用であること、遠江・
       三河国境(武田信玄の動向)の件は油断無きように備えることを通知。〔「京都市小石暢太郎氏所蔵文書」〕
  4月 6日 織田信広(「津田三郎五郎」)、「信長公御名代」として足利義昭と会見し和睦を「入眼」す。〔『信長公記』巻六〕
  4月 7日 織田信広(「織田三郎五郎」)・佐久間信盛(「佐久間右衛門尉」)・細川藤孝(「細川兵部大輔」)、和議に際し織田信長
       の名代として幕府御所を訪問し足利義昭(「武家御所」)と会見。〔『兼見卿記』一〕
  4月 7日 織田信長(「信長公」)、京都より撤収。この日は近江国守山を経由して百済寺に布陣。〔『信長公記』巻六〕
    この頃 織田信長、近江国百済寺と「一揆同意」した六角義治(「佐々木右衛門督」)の籠城する近江国鯰江城を攻撃するため
       佐久間信盛(「佐久間右衛門尉」)・蒲生賢秀(「蒲生右兵衛大輔」)・丹羽長秀(「丹羽五郎左衛門尉」)・
       柴田勝家(「柴田修理亮」)を四方に配置。〔『信長公記』巻六〕
  4月 8日 織田信長(「信長」)、美濃国岐阜城へ向けて京都を発す。〔『兼見卿記』一〕
  4月 9日 吉田兼見、足利義昭(「武家御所」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕
  4月11日 織田信長、近江国百済寺を灰燼に帰させる。〔『信長公記』巻六〕
  4月11日 織田信長、美濃国岐阜城に帰還。〔『信長公記』巻六〕
  4月12日 武田信玄、信濃国駒場に於いて病没。
  4月13日 吉田兼見、足利義昭(「大樹」)が山城国槙島城へ移るという風説に接す。〔『兼見卿記』一〕
  4月13日 美濃国の吉村源介・吉村安実(「吉村又吉郎」)、足利義昭に呼応した江南表の一揆を撃破。〔「吉村文書」一〕
  4月15日 織田信長、近江国佐和山城に到着。〔「吉村文書」一〕
  4月15日 織田信長(「信長」)、市橋長利(「市橋九郎左衛門尉」)へ「一揆」等が吉村構へ攻撃をかけたが撃退したこと、江南表の
       件は六角義治の籠もる近江国鯰江城に対する付城4ヶ所の守備を命令し、この日15日に近江国佐和山城に到着したこと、近日
       中に江北表に軍事行動を起こして美濃国へ帰国するする予定であること、油断無く調略などを以て備えること、
       吉村源介(「吉村かた」)らへも織田信長「書状」を遣わすこと、開陣の際には褒美を与えることを通達。〔「吉村文書」一〕
  4月15日 織田信長(「信長」)、吉村源介・吉村安実(「吉村又吉郎」)へ去る4月13日の夜に一揆を撃退したことを賞し、
       今後油断無く守備を固めること、開陣の際には褒美を与えることを通達。〔「吉村文書」一〕
  4月16日 山岡景隆(「山岡美作守」)、足利義昭(「武家御所」)への使として上洛の途に吉田兼見の元へ来宿。〔『兼見卿記』一〕
  4月17日 山岡景隆(「山作」)、出京。〔『兼見卿記』一〕
  4月19日 織田信長(「信長」)、柴田勝家(「柴田修理亮」)へ十河存保(「十河」)より松浦肥前守(「松肥」)を介して河内国
       若江城攻撃の後援要請を受けたことを通知、河内国若江城を即時攻略すれば十河存保に三好義継(「義継」)知行分の河内半国
       と摂津国欠郡を「契約」し、もし一度の攻撃で陥落しなくても付城を構築するなどして攻略に成功すれば河内半国を与えること
       を約束したので、至急に軍事行動を開始するよう指令する。〔「山崎文書」〕
  4月20日 小笠原貞慶(「小笠原」)・松田監物、吉田兼見へ足利義昭(「武家御所」)からの二条城普請役の賦課命令を書状で伝達。
       〔『兼見卿記』一〕
  4月21日 吉田兼見、二条城へ人足を召し連れ祗候。「天主」の壁の普請を担当。曼殊院覚恕・勧修寺晴豊・舟橋国賢も普請役を賦課
       されていたことを知る。〔『兼見卿記』一〕
  4月27日 吉田兼見、曽我助乗(「曽我兵庫頭」)より足利義昭(「大樹」)と織田信長(「信長」)両者の和議(「御和談」)締結が
       成った旨を知らされる。〔『兼見卿記』一〕
  4月27日 滝川一益(「滝川左近」)・美濃三人衆(「濃州三人衆」安藤守就・氏家卜全・稲葉一鉄)・柴田勝家(「柴田修理亮」)・
       佐久間信盛(「佐久間右衛門尉」)・林秀貞(「林佐渡守」)、足利義昭側近の一色藤長(「一色式部少輔」)・
       上野秀政(「上野中務大輔」)・一色昭秀(「一色駿河守」)・曽我助乗(「曽我兵庫頭」)・松田頼隆(「松田豊前守」)・
       飯尾貞連(「飯尾右馬助」)・池田一狐(「池田清貧斎」)へ「公儀信長御間」の「御和平」について、織田信長(「信長」)
       は足利義昭に対して一切の「表裏」をしないこと、織田信長(「信長」)「最前之条数」を堅守することを「霊社起請文」を
       以て誓約す。〔『和簡礼経』下座右抄九〕
  4月28日 吉田兼見、足利義昭(「武家御所」)より再度二条城堀普請の夫役を賦課される。〔『兼見卿記』一〕
  4月28日 一色藤長(「一色式部少輔」)・上野秀政(「上野中務大輔」)・一色昭秀(「一色駿河守」)・
       飯川信堅(「飯川肥後守」)・曽我助乗(「曽我兵庫頭」)・松田頼隆(「松田豊前守」)・飯尾貞連(「飯尾右馬助」)・
       池田一狐(「池田清貧斎」)、塙直政(「塙九郎左衛門尉」)・滝川一益(「滝川左近」)・
       佐久間信盛(「佐久間右衛門尉」)へ今度「信長御和平」が成ったことについて、足利義昭近習衆は織田信長(「信長」)に
       対して「逆心」を持たないこと、但し織田信長「最前之条数」に相違があった場合は織田側が分別ある対処をすべきことを確認
       し、「霊社起請文」を以て誓約す。〔『和簡礼経』下座右抄九〕
  4月28日 明智光秀、近江国大津舟大工三郎左衛門へ一揆蜂起の混乱にもかかわらず忠節を尽くしたので「屋地子」・「諸役」・
       「万雑公事」を免除す。〔「渡文書」〕

5月
  5月 3日 吉田兼見、真如堂某より寺領について磯谷久次(「磯谷新右衛門尉」)へ口入を依頼される。〔『兼見卿記』一〕
  5月15日 吉田兼見、万里小路惟房の使者より織田信長(「信長」)が近江国佐和山城へ登城した旨を知らされ、織田信長への勅使を
       命じられるも眼病のため拝辞する。この際、織田信長(「信長」)が近江国において「大舟」を建造した旨も知らされる。
       〔『兼見卿記』一〕
  5月21日 佐久間信盛(「佐右信盛」)、一色藤長(「一式少」)へ「天下之儀」の件で先日幕府・織田氏が相互に交換した「御誓紙」
       は「信長年寄共血判」を以て定めて間もないのにもかかわらず世上の風説も穏やかではなく、大事であるので佐久間信盛の権限
       では難儀するので、足利義昭「御内書」を発給されると有難いこと、足利義昭「上意」の内容は佐久間信盛より
       織田信長(「信長」)へ申し聞かせること、但し佐久間信盛の権限は「不肖」であるので、佐久間信盛と交渉した幕府「御使」
       の上申した内容が事実に反すと足利義昭に認識されないよう、今後は佐久間信盛を取次役にはしないで欲しいことを通知。
       また佐久間信盛自身も「随分歌道」の「達者」であることにも触れ、そのうち上洛して三条西実枝(「西殿」)の指導を受けて
       返歌する旨を通知。〔「東京国立博物館所蔵文書」〕
  5月22日 織田信長、近江国佐和山城へ移り、「大船」建造を急ぐ。〔『信長公記』巻六〕
  5月28日 佐久間信盛(「佐右信盛」)、一色藤長(「一式少」)へ「天下之模様笑止成御事」であるので織田信長が提示した
       「最前之五ヶ条」と交換された「誓印」の内容について、織田信長(「信長」)には聊かも相違は無いことを主張。
       詳細は松田頼隆(「松豊」)・信濃兵部丞(「信兵」)が足利義昭へ演説することを通知。〔「東京国立博物館所蔵文書」〕

6月
  6月 4日 柴田勝家(「勝家」)、江北の陣中より京都紫野大徳寺へ織田信長(「信長」)が近江国佐和山城に在城していること、
       これにより「京都之儀」は安全であるので安心すべきこと、柴田勝家としては大徳寺を疎略に扱わないので取次を承ることを
       通知。また暇が明けて近日中に長光寺に戻るので御用のある場合は音信するよう通知。〔「大徳寺文書」二〕
  6月 5日 織田信長(「信長」)、在城していた近江国佐和山城に贈物をしてきた京都紫野大徳寺へ謝意を表す。〔「大徳寺文書」二〕
  6月 8日 吉田兼見、足利義昭(「武家御所」)より吉田神社境内の松樹5本を徴発される。〔『兼見卿記』一〕
  6月18日 織田信長、近江国佐和山城より大御乳人池田氏(「大御ち」:織田信長の乳人、池田恒興の母)へ所領安堵の朱印状を発す。
       〔「池田家文書」〕
  6月25日 遊佐信教(畠山昭高老臣)、畠山昭高(河内国高屋城主)を弑逆。
  6月28日 吉田兼見、明智光秀(「明智十兵衛尉」)を近江国坂本に訪問。明智光秀、「天主之下立小屋敷」に於いて連歌を興行。
       吉田兼見、山岡景佐(「山岡対馬守」)館へ宿泊。〔『兼見卿記』一〕
  6月29日 吉田兼見、帰洛の帰途で三淵秋豪(「三淵弥四郎」)より渡辺宮内少輔が足利義昭(「武家御所」)へ頻りに吉田郷領有を
       懇望している旨を内々に知らされる。〔『兼見卿記』一〕

7月
  7月 1日 織田信長(「信長」)、近江国竹生島宝厳寺の年行事へ坊舎・寺領を安堵。〔「竹生島文書」二〕
  7月 2日 足利義昭(「公儀」)、京都を「御退座」。〔「本願寺文書」五〕
  7月 3日 足利義昭(「公方様」)、織田信長に対して「御敵の御色を立て」て京都二条城は「日野殿」・高倉永相(「藤宰相殿」)・
       伊勢伊勢守(「伊勢守」)・三淵藤英(「三淵大和守」)に任せ、足利義昭自身は山城国槙島城へ移る。〔『信長公記』巻六〕
  7月 3日 足利義昭(「大樹」)、京都二条城を退き山城国槙島城へ移る。〔『兼見卿記』一〕
  7月 3日 吉田兼見、織田信長(「信長」)に礼問するため近江国佐和山へ下向。〔『兼見卿記』一〕
  7月 4日 吉田兼見、織田信長(「信長」)が近江国佐和山麓の小松原で「大舟」を建造しているというので島田秀満(「島田」)の陣を訪問。
       吉田兼見、炎天下の浜において織田信長に謁見。
       吉田兼見は島田秀満(「島田」)・木下秀吉(「藤吉郎」)・滝川一益(「滝川」)・前波七郎兵衛尉へ音問す。
       〔『兼見卿記』一〕
  7月 5日 織田信長、「事も生便敷大船」を完成させる。〔『信長公記』巻六〕
  7月 5日 吉田兼見、織田信長(「信長」)が来る7日に上洛する情報に接す。〔『兼見卿記』一〕
  7月 6日 織田軍先勢(「信長先勢」)、近江国大津に着陣。〔『兼見卿記』一〕
  7月 6日 織田信長(「信長公」)、風にもかかわらず新造の「大船」に乗船し近江国坂本へ着陣。〔『信長公記』巻六〕
  7月 7日 織田信長(「信長」)、近江国近江国坂本に着陣。〔『兼見卿記』一〕
  7月 7日 織田信長、入洛して京都二条妙覚寺に布陣。二条城を攻囲する。〔『信長公記』巻六〕
  7月 8日 織田軍先勢(「先勢」)、上洛し祇園・四条道場にそれぞれ陣取る。〔『兼見卿記』一〕
  7月 9日 織田信長(「信長」)、上洛し妙覚寺を陣所とする。〔『兼見卿記』一〕
  7月10日 織田信長(「信長」)、細川藤孝(「細川兵部大輔」)へ「今度被対信長被抽忠節候」ことは「誠神妙至」であるので山城国
       西岡の地を領知として安堵す。〔「細川家文書」二〕
  7月10日 吉田兼見、妙覚寺の織田信長を訪問。細川藤孝(「細兵」)が礼物を披露。
       「京都御城之衆」の三淵藤英(「三太」)以下、柴田勝家(「柴田修理進」)の勧降に応ず。〔『兼見卿記』一〕
  7月12日 三淵藤英(「三太」)、柴田勝家(「柴修」)の勧降により京都二条城を退城し伏見城へ移る。〔『兼見卿記』一〕
  7月12日 織田信長、京都二条城を破却。〔『兼見卿記』一〕
  7月13日 織田信長(「織田弾正忠信長」)、毛利輝元(「毛利右馬頭」)へ足利義昭の山城国槙島「御逗留」は未確認情報であるので
       遠国でも「御流落」しているかもしれなく誠に嘆かわしいことであること、足利義昭が不意に京都を「御退座」したのは困難な
       事情が発生したためで、武田信玄(「甲州武田」)は病死しており、朝倉義景(「越前之朝倉」)は大した行動は出来そうに
       無いこと、三好氏以下は取るに足らず、足利義昭が自発的に「御行」(軍事行動)に及ぶ様子は無いこと、まして足利義昭が
       「天下被棄置」てしまったので織田信長(「信長」)が上洛して鎮定している状況であること、足利「将軍家」の件は
       「諸事遂議定可随其」としたので毛利輝元へ相も変わらずの入魂を希望すること、毛利氏分国中に別儀が無いことは結構である
       ことを通知。〔「太田荘之進氏所蔵文書」〕
  7月13日 京都二条城内が洛中洛外土民の荒掠にさらされるが、吉田兼見は吉田郷民がこれに加わることを禁ず。〔『兼見卿記』一〕
  7月14日 織田信長、河内国の保田知宗(「保田左助」)へ柴田勝家(「柴田かた」)への書状を披見したこと、去就に迷っていた
       畠山昭高(「肥高」:河内国高屋城主)が遊佐信教に弑逆された件は無念であること、保田知宗の身上の理は聞き届けたこと、
       遊佐信教(「遊佐」)を討ち果たすことは肝要であること、指令は柴田勝家(「柴田」)より通達することを通知。
       〔『古案』坤〕
  7月14日 柴田勝家(「柴田」)・木下秀吉(「藤吉郎」)・滝川一益(「滝川」)・丹羽長秀(「丹羽五郎左衛門尉」)・
       松井友閑(「友閑」)・前波七郎兵衛尉、吉田兼見を訪問し明智光秀(「明智」)が織田信長(「信長」)へ吉田山に吉田兼見
       が居館を構えることを進言した旨を伝達。織田信長は柴田勝家らに吉田山の検分を命令するが築城には適さないことが判明、
       吉田兼見は無事を悦ぶ。〔『兼見卿記』一〕
  7月15日 吉田兼見、岡崎郷に陣取る石原監物を訪問。〔『兼見卿記』一〕
  7月15日 吉田兼見、妙覚寺を訪問し滝川一益(「滝川」)・松井友閑(「友閑」)に昨朝の礼を告げる。〔『兼見卿記』一〕
  7月15日 吉田兼見、村井貞勝(「村井」)を見舞うため十四屋隆正邸を訪問。〔『兼見卿記』一〕
  7月16日 織田信長(「信長」)、山城国槙島城攻略のために宇治五ヶ庄の上の「やなき山」に本陣を構え、配下に対し即時宇治川の
       渡河と山城国槙島城への攻撃を命令。〔『信長公記』巻六〕
  7月16日 織田軍、山城国久世郡各所に陣取り槙島城を包囲。〔『兼見卿記』一〕
  7月16日 篠原長房、没(異説1572年5月13日)。〔『日本史人物生没年表』〕
  7月17日 織田信長(「信長」)、山城国宇治郡五ヶ庄へ出陣。〔『兼見卿記』一〕
  7月18日 織田信長、巳刻に山城国槙島城への攻撃を開始し焼き打ちする。〔『信長公記』巻六〕
  7月18日 織田信長(「信長」)、山城国槙島城を焼き打ちする。
       足利義昭(「大樹」)、足利義尋(「若公」:足利義昭嫡男)を人質として提出して山城国枇杷庄へ退く。
       足利義昭は逃亡中に一揆の略奪に遭遇。〔『兼見卿記』一〕
    この頃 織田信長、足利義昭(「公方様」)の「御命を助け流し」、行く「先々にて人の褒貶にのせ」るために
       足利義尋(「若公様」:足利義昭嫡男)を人質とし、河内国若江城までの警固役を羽柴秀吉(「羽柴筑前守秀吉」)に命ず。
       〔『信長公記』巻六〕
    この頃 足利義昭、この逃亡中に「御鎧の袖をぬら」し、人々に「貧報公方」と嘲哢され「御自滅」と申す様子は目も当てられぬほど
       であった。〔『信長公記』巻六〕
  7月20日 吉田兼見、山城国宇治郡五ヶ庄の織田信長を見舞う。吉田兼見、塙直政へ鮎1折を贈る。〔『兼見卿記』一〕
  7月20日 吉田兼見、足利義昭(「大樹」)が河内国若江城の三好義継(「三好左京大夫」)のもとに逃れた旨を知る。
       〔『兼見卿記』一〕
  7月20日 木下秀吉、山城国大山崎離宮八幡宮へ淀に入り用の縄の徴収を命令。〔「離宮八幡宮文書」四〕
  7月21日 織田信長、京都に入り「御馬を納れ」る。〔『信長公記』巻六〕
  7月21日 足利義昭、本願寺顕如の斡旋で河内国若江城(三好義継居城)に滞在する。
    この頃 織田軍、「公方様御同意」した山城国一乗寺城を攻撃する。ここには渡辺宮内少輔・磯貝新右衛門が籠城していた。
       〔『信長公記』巻六〕
  7月23日 渡辺宮内少輔、稲葉一鉄(「稲葉伊予守」)の勧降により山城国愛宕郡一乗寺城を退城。一乗寺城は破却される。
       〔『兼見卿記』一〕
  7月23日 山岡景佐(「山岡対州」)・滝川一益(「滝川左近允」)、吉田兼見を訪問し石風呂を所望。〔『兼見卿記』一〕
  7月23日 明智光秀(「明智十兵衛尉」・「明智」)、翌日の山本対馬守館攻撃のため手勢を率いて吉田神社へ寄宿。
       〔『兼見卿記』一〕
  7月24日 足利義昭、毛利輝元・小早川隆景・吉川元春へ援助を要求。
  7月24日 明智光秀(「明十」)、山本対馬守館攻撃のため出陣。〔『兼見卿記』一〕
    この頃 明智光秀(「明智十兵衛」)、織田信長の命令により山岡景佐(「山本対馬守」)の籠もる山城国静原山城を攻撃。
       〔『信長公記』巻六〕
  7月27日 織田信長(「信長公」)、京都を発し近江国高島郡へ「大船」を以て参陣。残敵の籠もる近江国木戸城・田中城を攻略。
       〔『信長公記』巻六〕
  7月28日 この日、「天正」と改元される。
    この頃 織田信長、「天下所司代」に村井貞勝(「村井長門守」)を任命す。村井貞勝は在洛して、「天下諸色」を担当するよう命令
       を受けた。〔『信長公記』巻六〕
  7月  日 織田信長(「弾正忠」)、京都上京へ全5ヶ条の「条々」を下す。〔「京都上京文書」〕
  7月  日 織田信長(「弾正忠」)、山城国梅津長福寺へ「守護使不入之地」として寺領を安堵す。〔「長福寺文書」四〕
  7月  日 織田信長、大覚寺尊信(「大覚寺御門跡」)へ寺領を安堵す。〔『諸家文書纂』十四〕
  7月  日 織田信長(「弾正忠」)、大和国西京薬師寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「薬師寺文書」〕

8月
  8月 2日 岩成友通(「岩成主税頭」)、織田信長の命を受けた細川藤孝(「永岡兵部大輔」)らとの山城国淀城攻城戦に於いて討死。
       〔『信長公記』巻六〕
  8月 4日 織田信長、美濃国岐阜城へ帰還。〔『信長公記』巻六〕
  8月 8日 織田信長(「信長」)、阿閉貞征(「阿閉淡路守」:浅井長政部将)が「御身方」として蜂起したのを受け、この夜中に江北
       方面へ出陣する。〔『信長公記』巻六〕
  8月10日 織田信長、近江国大嶽北方の山田山に布陣。〔『乃美文書正写』、『武家事紀』〕
  8月10日 織田信長、近江国大嶽北方の山田山に布陣し越前国との通路を遮断す。〔『信長公記』巻六〕
  8月10日 織田軍が近江国小谷城に攻撃を仕掛けたところ、朝倉義景(「朝倉義景」)が出撃し木本・多部山に布陣したので、小谷城と
       朝倉義景陣所を遮断する布陣を敷く。〔「本願寺文書」五〕
  8月10日 織田信長(「弾正忠」)、勢多備前守(大覚寺坊官)へ書状・贈物を謝し、江北に於ける軍事行動が一段落付き次第上洛する
       ことを大覚寺尊信へ披露するよう依頼する。〔「林文書」〕
  8月12日 織田信長、浅見対馬(浅井長政部将)の内応により「大づくの下」焼尾へ進軍。
       また、近江国虎御前山城へは織田信忠(「嫡男勘九郎殿」)を配備する。〔『信長公記』巻六〕
  8月13日 織田信長、近江国「太山大づく」(太尾山)に在陣していた朝倉軍を襲撃す。〔『信長公記』巻六〕
  8月13日 織田信長、近江国「ようの山」(丁野山)朝倉軍を襲撃す。〔『信長公記』巻六〕
  8月13日 織田信長、この夜中に朝倉義景(「朝倉左京大夫」)の陣所を攻撃。
       この際に「御先陣にさし向け候衆」であった滝川一益(「滝川」)・柴田勝家(「柴田」)・丹羽長秀(「丹羽」)・
       蜂屋頼隆(「蜂屋」)・羽柴秀吉(「羽柴」)・稲葉一鉄(「稲葉」)らが油断し、朝倉義景の退却に追撃を最初に仕掛けたの
       は織田信長であったため叱責を受ける。〔『信長公記』巻六〕
  8月13日 織田信長(「信長」)、朝倉義景追撃の戦場に於いての油断を叱責した佐久間信盛(「佐久間右衛門」)が涙を流しながら
       「さ様に仰せられ候共、我々程の内の者はもたれ間敷」と「自讃」したことに対して激昂す。
       織田信長、佐久間信盛へ「其方は男の器用を自慢にて候歟、何を以ての事、片腹痛き申様哉」と言い放ち「御機嫌悪く」なる。
       〔『信長公記』巻六〕
  8月13日 朝倉義景、夜陰に乗じ「名ある程の者共」を率いて近江国田上山を撤収、若狭国敦賀に向けて敗走す。〔『信長公記』巻六〕
  8月13日 織田信長、撤退する朝倉義景「同名親類」・「随一之者共」3000余を追撃、殺害・捕獲し越前国へ乱入。
       〔『乃美文書正写』、『武家事紀』〕
  8月13日 織田軍、「大づく」・「焼け尾」・「つきがせ」・「ようの山」・「たべ山」・朝倉義景(「義景」)の本陣田上山・引檀・
       敦賀・志津ヶ嵩を陥落させる。〔『信長公記』巻六〕
  8月14日 織田信長、越前国敦賀に逗留。〔『信長公記』巻六〕
  8月14日 兼松正吉(「金松又四郎」:織田信長部将)、中村新兵衛(朝倉義景部将)を越前国八田口刀根山に於いて討ち取る。
       〔『信長公記』巻六〕
  8月14日 斎藤龍興(「濃州龍興」)、織田軍の攻撃により越前国刀禰坂で戦死。〔『信長公記』巻六〕
  8月15日 織田信長、越前国敦賀に逗留。〔『信長公記』巻六〕
  8月16日 織田信長、越前国敦賀に逗留。〔『信長公記』巻六〕
  8月16日 織田信長、多胡宗右衛門尉(近江国土豪)へ旧領安堵ならび新知給与は磯野員昌(「磯野方」)より通達することを約し、
       さらに山々の「破城」を命令す。〔『田胡家由来書』〕
  8月16日 織田信長、越前国河野浦・今泉浦・赤はけへ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「西野文書」〕
  8月16日 木下祐久、木下秀吉(「羽柴藤吉郎」)の「取次」を以て越前国敦賀郡西福寺は安堵された旨を通達。〔「西福寺文書」〕
  8月17日 織田信長、木目峠を越えて越前国へ乱入す。〔『信長公記』巻六〕
  8月18日 織田信長、越前国府中竜門寺に布陣。〔『信長公記』巻六〕
  8月18日 朝倉義景(「朝倉左京大夫義景」)、越前国一乗谷城を退去し賢松寺へ逃亡。〔『信長公記』巻六〕
  8月20日 朝倉義景、越前国賢松寺にて自害。
  8月20日 織田信長(「信長」)、上杉謙信(「謙信」)へ全7ヶ条の「覚」を通知。その内容は7月2日に足利義昭(「公儀」)が
       京都を「御退座」し槙島城へ移動したので、織田軍は即時攻撃を仕掛けて槙島城を攻略し、足利義昭の種々「御懇望」を受けて
       足利義尋(「若君様」)を人質として請け取り、足利義昭が槙島城を退城したこと、7月10日に近江国小谷城を攻撃しようと
       したところ朝倉義景(「朝倉義景」)が出撃し木本・多部山に布陣したために小谷城と朝倉義景陣所を遮断したこと、織田軍が
       朝倉義景陣所を攻略したこと、朝倉義景は越前国一乗谷城を蜂起し大野郡へ引き籠もったので一乗谷城をはじめ越前国中を放火
       したこと、この日に朝倉義景が楯籠る賢松寺を襲撃し討ち果たしたので安心すべきこと、残敵掃討を実行していること、越中国
       に上杉軍が出撃したところ「賀州一揆」が蜂起したという風聞に接したので上杉謙信(「謙信」)自身が出撃し鎮圧すべきで
       あること、江北の戦況を早舟で知らせることを通知。〔「本願寺文書」五〕
  8月23日 織田信長(「信長」)、鷲田三郎左衛門尉へ知行を安堵す。〔「尊経閣文庫文書」〕
  8月24日 朝倉景鏡(「朝倉式部大輔」)、朝倉義景(「義景」)の首級を越前国竜門寺へ持参し、織田信長へ恭順の礼問を行う。
       〔『信長公記』巻六〕
  8月25日 織田信長(「信長」)、三田村三助へ「弐拾石」の知行を安堵す。〔「三田村文書」〕
  8月25日 織田信長(「信長」)、越前国北庄橘屋へ「軽物座」を安堵。〔「橘文書」〕
  8月26日 織田信長、近江国虎御前山へ帰陣。〔『乃美文書正写』、『武家事紀』、『信長公記』巻六〕
  8月27日 織田信長、近江国小谷城へ攻撃を開始。〔『乃美文書正写』、『武家事紀』〕
  8月27日 羽柴秀吉(「羽柴筑前守」)、近江国小谷城京極丸を攻撃し、浅井久政(「浅井下野」)・浅井長政(「同備前」)の連携を
       遮断。最初に浅井久政(「下野」)の居城を攻略。浅井福寿庵が生害した。〔『信長公記』巻六〕
  8月27日 羽柴秀吉(「羽柴筑前守」)、浅井久政(「下野」)の首級を携え虎御前山の織田信長へ届ける。〔『信長公記』巻六〕
  8月27日 坂井早治(「坂井助右衛門尉早治」)、三田村三介へ知行を安堵する織田信長「御朱印」が発給されたので早々に「朱印銭」
       を調達することを命令。〔「三田村文書」〕
  8月28日 織田信長、近江国小谷城を攻略。浅井久政・浅井長政(「浅井親子」)の「首を切」り、「洛中・洛外之者」に見物させる
       ため京都に送付。〔『乃美文書正写』、『武家事紀』〕
  8月28日 織田信長(「信長」)、近江国小谷城京極丸を攻撃し、浅井長政(「浅井備前」)・赤生美作守を生害させ、浅井久政・
       浅井長政父子の首級は獄門にかけるために京都へ送付する。〔『信長公記』巻六〕
  8月28日 羽柴秀吉、小谷城京極丸を陥落させ浅井久政は自害(異説8月27日)。
  8月  日 織田信長(「弾正忠」)、越前国井川村へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「新善光寺文書」〕
  8月  日 織田信長、越前国敦賀西福寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「西福寺文書」〕
  8月  日 織田信長、越前国別印村千福氏知行方へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「千福文書」〕
  8月  日 織田信長、赤座吉家(「赤座小法師」)へ先規の筋目の如く本知を安堵す。〔『古案』坤〕
  8月  日 織田信長、越前国惣社大明神・社家へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「越前武生町惣社大神宮文書」〕
  8月  日 織田信長、越前国御廉尾村へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「竜沢寺文書」〕
  8月  日 織田信長、越前国滝谷寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「滝谷寺文書」〕
  8月  日 織田信長、越前国称念寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「称念寺文書」〕

9月
  9月 1日 羽柴秀吉、近江国小谷城本丸を攻略し浅井長政は自害。
  9月 4日 織田信長(「信長」)、近江国佐和山城へ入り、柴田勝家(「柴田」)へ近江国鯰江城攻略を命令。〔『信長公記』巻六〕
  9月 5日 木下祐久(「木下助左衛門尉祐久」)、越前国敦賀郡西福寺へ織田信長「朱印」送付を通知。〔「西福寺文書」〕
  9月 6日 織田信長、美濃国岐阜城へ凱旋。〔『信長公記』巻六〕
  9月 6日 織田信長(「信長」)、磯野員昌(「磯野丹波守」)へ近江国竹生島宝厳寺より「名物」である「青葉之笛」に「小笛」を
       添えてきたので、以前の所有者とその人物が竹生島に寄進させた理由を調査し記録を提出するよう命令。〔「竹生島文書」二〕
  9月 6日 織田信長(「信長」)、近江国竹生島宝厳寺へ「名物」の「青葉之笛」をやがて返還する予定であるが、誰がどのような由来
       で「寄附」したのか、また添えられた「小笛」の由来も調査し記録を提出するよう命令。また静御前(「静か」)所持の雷の
       蒔絵がある小鼓の披見を要求。詳細は磯野員昌(「磯野」)に伝達させる。〔「竹生島文書」二〕
  9月 6日 織田信長(「信長」)、桑原源介へ本知「弐拾石代」として2貫文を安堵す。〔『温故足微抜粋』〕
  9月 6日 織田信重(「信重」)、延友佐渡守へ美濃国「岩村逆心之刻」に織田氏に対する忠節を賞し、織田信長「朱印」の如く美濃国
       日吉郷・釜戸本郷を安堵するを承認することを通達。〔「上原準一氏所蔵文書」〕
  9月 6日 羽柴秀吉(「羽柴藤吉郎秀吉」)・滝川一益(「滝川左近一益」)・明智光秀(「明智十兵衛尉光秀」)、安居三河守へ発給
       された本知安堵の織田信長「御朱印」の副状を発す。〔「横尾勇之助氏所蔵文書」〕
  9月 7日 織田信長(「信長」)、毛利輝元(「毛利右馬頭」)・小早川隆景(「小早川左衛門佐」)へ8月10日から28日までの
       軍事行動の詳細を通知。
       その内容は「京都之体」について足利義昭(「公儀」)が山城国槙島城へ移動したが在城は不確実であること、
       浅井長政(「江州北郡之浅井」)は近年織田信長(「信長」)に敵対し不義を構えたので即時退治し「天下之儀」は取り紛れて
       日を送ってしまったこと、朝倉義景(「越前之朝倉義景」)が浅井長政に荷担していたため何かと遅滞してしまい、このまま
       では際限が無いため去8月10日に軍事行動を開始したこと、織田信長が大嶽城を攻略すると朝倉義景(「義景」)は
       「近越境目」まで出撃してきたので8月13日夜中に攻撃を仕掛けて朝倉軍を撃破し越前国府中へ乱入したこと、一乗谷城周辺
       を悉く放火したこと、朝倉義景(「義景」)に「腹を切セ」てその首を京都へ送付したこと、残敵を掃討し越前国「一国平均」
       を実現し「郡代」前波長俊を駐在させ織田信長自身は8月26日に江北地方へ帰還したこと、8月27日夜中に近江国小谷城に
       攻撃を開始し、8月28日に小谷城を陥落させ浅井久政・浅井長政(「浅井親子」)の「首を切」り「洛中・洛外之者」に見物
       させるために京都へ送付したこと、近年の武田信玄(「甲州之武田」)・朝倉義景(「越前之朝倉」)が敵対し反織田戦線を
       形成したは足利義昭の策略(「公儀御造意」)が原因であったが悉く撃破したこと、これにより加賀国・能登国は織田信長
       「分国」としたこと、上杉謙信(「越後之上杉輝虎」)とは多年にわたり交誼を結んでおり別条は無いこと、「北国之儀」は
       織田信長「下知」により平定されていること、武田信玄(「甲州之信玄」)は病死し武田領国の後継・維持は困難であること、
       今川氏真(「駿州今川」)は武田信玄(「信玄」)により国を追われ北条氏政(「北条」)を頼り伊豆国に蟄居していたが
       北条側の都合により追放され、駿河国侵攻の兼ね合いから織田側で身柄を確保したこと、近日中に上洛し足利義昭(「南方」)
       の件を承ること、「東国」情勢の報告を通知。
       詳細は朝山日乗(「日乗」)に伝達させる。〔『乃美文書正写』、『武家事紀』〕
  9月 7日 織田信長(「信長」)、小早川隆景(「小早川左衛門佐」)へ「天下之儀」について示し承ったことを喜び、贈物を謝す。
       また近日中に上洛する予定を通知。詳細は朝山日乗(「日乗上人」)に伝達させる。〔「小早川家文書」一〕
  9月 7日 織田信長(「信長」)、池田恒興(「池田勝三郎」)へ木田小太郎「跡職」を息子の池田輝政(「古新」)に譲与することを
       安堵。〔「池田文書」二〕
  9月 7日 織田信長(「信長」)、大覚寺尊信へ巻数を謝し、伊勢国一向一揆が鎮定した後に上洛する予定であること、美濃国内の
       大覚寺領を安堵する旨を通知。〔「林文書」〕
  9月 7日 羽柴秀吉(「羽柴藤吉郎秀吉」)、毛利輝元(「毛利殿」)へ「公方様御入洛」の件について織田信長(「信長」)に対する
       「諷諫」を伝達したところ織田信長の同心を得られたこと、上野秀政(「上中」)・真木島昭光(「牧玄」)の件も異儀の無い
       こと、柳沢元政(「柳新」)を織田信長への「御使者」として派遣し調儀させること、羽柴秀吉が毛利氏「馳走」をすること、
       朝山日乗(「日上」)より通達があることを通知。〔「毛利家文書」@‐331〕
  9月 7日 羽柴秀吉(「羽柴藤吉郎秀吉」)・武井夕庵(「夕庵尓云」)、小早川隆景(「小早川殿」)へ因幡国・但馬国の状況報告を
       織田信長へ上申したこと、近日中に織田信長が上洛する予定であること、織田信長が「畿内之体」を見合わせて但馬国へ出兵
       する予定であることを通知。また「東北国并五畿内之趣」は織田信長(「信長」)より直接通知することを通達。
       詳細は朝山日乗(「日乗上人」)に伝達させる。〔「小早川家文書」一〕
  9月 8日 織田信長(「信長」)、山城国天龍寺妙智院の住持策彦周良へ朝倉義景・浅井長政(「越前・江北之国主」)を討ち果たし
       「近年之鬱憤」を晴らしたことを通知し、美濃国岐阜に届けられた沈香1包を謝す。またこの月下旬には上洛を予定している
       ので対面を希望する旨を通知。詳細は武井夕庵(「夕庵」)に伝達させる。〔「妙智院文書」乾〕
  9月10日 杉谷善住坊、磯野員昌(「磯野丹波」)に捕獲され美濃国岐阜へ連行される。〔『言経卿記』一〕
  9月11日 織田信長(「信長」)、岡周防守(松永久秀重臣)へ越前国・江北表は平定されたこと、近日中に上洛する予定であることを
       通知。〔「集古文書」九〕
  9月14日 細川藤孝(「長岡兵部大輔藤孝」)、山城国松尾社家へ織田信長(「信長」)より西岡の地を安堵されたが、それは松尾神社
       の社領であるため安堵する旨を通達。〔「東文書」〕
  9月20日 北畠具豊(「具豊」:織田信雄)、伊勢国大湊中へ「信長しゆいん」による伊勢国桑名までの就航命令実行を要求。
       〔「伊勢市大湊支所保管文書」〕
  9月20日 滝川一益(「滝川一益」)・明智光秀(「明智光秀」)、越前国北庄軽物商人中へ織田信長が橘屋三郎右衛門尉を軽物座長に
       指名したので承知すべきこと、来たる9月23日以前に橘屋へ連絡することを通達。もし連絡が延引した場合は永代軽物座に
       加入をさせない旨を通知。〔「橘文書」〕
  9月20日 塙直政(「塙九郎左衛門尉直政」)、伊勢国大湊惣中へ「敵方」の伊豆国から大船が伊勢国大湊に着岸したことについて
       津田一安(「津田掃部助」)が派遣されること、また日根野弘就(「日根野」)が「足弱」を送ってきた船の件は「曲事」で
       あるので「舟主共」を必ず「成敗」すること、これらは織田信長「御意」であるので厳守するよう通達。
       〔「伊勢市大湊支所保管文書」〕
  9月21日 羽柴秀吉(「秀吉」)、京都大徳寺へ織田信長の伊勢国(「当国」)「御出馬」にあたる陣中見舞いを謝す。
       詳細は蜂須賀正勝(「蜂須賀」)に伝達させる。〔「大徳寺文書」@‐106〕
  9月22日 織田信長、豊島源左衛門へ本知16石を安堵。〔『古案』坤、『温故足徴抜萃』〕
  9月24日 織田信長(「信長」)、北伊勢に向けて出陣。美濃国大垣城に宿泊。〔『信長公記』巻六〕
  9月25日 織田信長、美濃国大田の小稲葉山城に布陣。〔『信長公記』巻六〕
  9月26日 織田信長、伊勢国桑名方面へ軍勢を派遣。
       西別所の「一揆」勢に対して佐久間信盛(「佐久間右衛門」)・羽柴秀吉(「羽柴筑前守」)・蜂屋頼隆(「蜂屋兵庫頭」)・
       丹羽長秀(「丹羽五郎左衛門」)を以て攻撃、殲滅させる。〔『信長公記』巻六〕

10月
 10月 6日 柴田勝家(「柴田修理」)・滝川一益(「滝川左近」)、伊勢国坂井の片岡城を攻略。〔『信長公記』巻六〕
 10月 6日 柴田勝家・滝川一益、伊勢国深谷部の近藤城を攻撃し「かねほり」を以て降伏させる。〔『信長公記』巻六〕
 10月 8日 織田信長(「信長」)、伊勢国「東別所」へ布陣。伊勢国人衆、人質を進上し恭順の意を表明。〔『信長公記』巻六〕
 10月 8日 織田信長(「信長」)、越前国称名寺の佐々木蔵人へ本知7石を安堵。〔「称名寺文書」〕
 10月 8日 織田信長(「信長」)、越前国の橋本三郎左衛門尉へ本知6石を安堵。〔「橋本文書」、『温故足徴抜萃』〕
 10月 8日 足利義維、没。〔『日本史人物生没年表』〕
 10月12日 織田信長(「弾正忠信長」)、小早川隆景(「小早川左衛門佐」)へ「去合戦」において朝倉義景(「朝倉義景」)・
       浅井久政・浅井長政(「浅井父子」)を生害させた後に「勢州一揆」に「加成敗平均」したことを通知。
       また近日中に上洛する予定であることを通知。〔「小早川家文書」一〕
 10月12日 羽柴秀吉(「羽柴藤吉郎秀吉」)、小早川隆景(「小早川左衛門佐」)へ「越州平均」命令が発せられ朝倉義景(「義景」)
       浅井久政・浅井長政(「浅井父子」)を生害させ、織田信長「存分」に属した後に「勢州一揆」に「悉加成敗」えたこと、
       近日中に上洛する予定であること、羽柴秀吉(「拙子」)の江北守備・滞在中に「相応之御用」を勤めることを通知。
       〔「小早川家文書」一〕
 10月13日 鳥屋尾満栄(「鳥石満栄」)、伊勢国大湊衆へ織田信長より発せられた桑名への廻船命令に10日も遅延したことで織田信長
       が「以外御腹立」であるため、桑名陣所の津田一安(「津田掃部」)へ早急に廻船するよう命令。
       〔「伊勢市大湊支所保管文書」〕
 10月15日 織田信長、伊丹親興へ阿州軍との交戦で敵首を多数討ち取り京都へ送付した手柄を賞す。〔「伊藤文書」‐1〕
 10月21日 織田信長(「信長」)、山城国賀茂惣中へ筒井順慶(「筒井」)と相談して松永久秀の多聞山城に対抗する付城を構築し攻略
       することを命令。〔「賀茂郷文書」〕
 10月24日 織田信長(「信長」)、伊勢国大湊廻船中へ「関東」への所用のため大船1艘派遣するので早々に渡海することを命令。
       詳細は津田一安(「津田掃部」)に伝達させる。〔「伊勢市大湊支所保管文書」〕
 10月25日 織田信長(「信長」)、伊勢国北部より撤し美濃国大垣城に到着。〔『信長公記』巻六〕
 10月26日 織田信長、美濃国岐阜城に帰陣。〔『信長公記』巻六〕
 10月28日 安芸毛利氏、一色藤長へ織田信長の意向を伝達し足利義昭の同意を要請。
 10月  日 織田信長(「信長」)、越前国織田剣神社へ社領・末社領・社家領を安堵し、臨時の課役を免除。〔「剣神社文書」二〕
 10月  日 織田信長、伊勢国専修寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「専修寺文書」一〕

11月
 11月 4日 織田信長(「信長」)、上洛。二条妙覚寺を宿所とする。〔『信長公記』巻六〕
 11月 4日 木下祐久(「木下助左衛門尉」)、越前国織田剣大明神寺社中へ織田信長「御朱印」が下されたが、この旨を無視する動きが
       あったため前波長俊(「前播」)へも説示したことを通達し、織田信長「御朱印」が下された上は疎意無きことを命令。
       〔「剣神社文書」四〕
 11月 5日 足利義昭、河内国若江城より和泉国堺へ移動。
 11月 7日 織田信長(「信長」)、小早川隆景(「小早川左衛門佐」)へ「北国属平均」した祝儀として太刀・馬の贈与を謝し、上洛
       したので毎事京都より通知を発することを告げる。〔「小早川家文書」一〕
 11月 7日 羽柴秀吉(「羽柴藤吉郎秀吉」)・武井夕庵(「夕庵尓云」)、小早川隆景(「小早川左衛門佐」)へ「北国之儀」が
       織田信長「存分」に任せられたことを通知。また織田信長は在洛しているので懇意なる通信往復を希う。
       〔「小早川家文書」一〕
 11月 9日 足利義昭、紀伊国へ向かうため和泉国堺を出発。
 11月12日 織田信長(「信長」)、細川藤孝(「長岡兵部大輔」)へ淀鯉5匹の送付を謝し、「取乱之時分」(三好義継への攻撃)の
       懇意を喜ぶ。また面会を希望する旨を通知。〔「細川家文書」二〕
 11月12日 木下祐久(「木下助左衛門尉」)・三沢少兵衛尉・津田元嘉(「津田九郎次郎」)、越前国の橋本三郎左衛門尉へ織田信長
       「御朱印」が発給され本知が安堵されたことを通達。〔「橋本文書」〕
 11月13日 織田信長(「信長」)、和泉国堺津引接寺へ織田軍の「陣取」ならびに「寄宿」を免許する旨を通達。〔「正法寺文書」〕
 11月15日 武田勝頼、宮内右衛門尉へ新地給恩を施し、「同心被官」への配分を指示し「相当之軍役」を命令。
       〔「布施巻太郎所蔵文書」〕
 11月16日 織田信長(「信長」)、山城国真正極楽寺真如堂「三位公」へ永禄12年正月の織田信長「朱印」で安堵した寺領・非分課役
       および寄宿の免除を再度安堵する。〔「真正極楽寺文書」〕
    この頃 織田信長、佐久間信盛(「佐久間右衛門」)を以て「非儀を構」えた三好義継(「三好左京大夫」)を自刃させる。
       〔『信長公記』巻六〕
 11月16日 三好義継、足利義昭を匿った罪で織田信長の命令を受けた佐久間信盛等に攻撃され河内国若江城に於いて自刃。
       〔『日本史人物生没年表』〕
 11月18日 織田信長(「信長」)、石山本願寺(「本願寺」)へ「名物」茶器の「白天目」を贈られたことを謝し、疎意無き旨を通知。
       詳細は「肥前法橋」に伝達させる。〔「本願寺文書」一〕
 11月28日 織田信長(「信長」)、正実坊掟運へ知行分を安堵す。〔「建勲神社文書」〕
 11月28日 織田信長(「信長」)、味方した旧幕臣の上野豪為(「上野紀伊守」)へ知行を安堵。〔「五十川清氏所蔵文書」〕
 11月28日 織田信長(「信長」)、旧幕臣の信濃兵部丞へ知行を安堵。〔「国立国会図書館氏所蔵文書」〕

12月
 12月 1日 沢庵宗彭、但馬国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
 12月 2日 織田信長(「信長公」)、美濃国岐阜城に帰城する。〔『信長公記』巻六〕
 12月 2日 木下祐久(「木下助左衛門尉祐久」)、越前国織田庄寺庵給人中・百姓中へ織田信長が諸役免除の黒印状を下したにも
       かかわらず、課役徴収を実行しようとした者が存在したため、諸役免除をさらに確認する。〔「剣神社文書」三〕
 12月 4日 織田信長(「信長」)、在陣見舞を贈ってきた山城国慈照寺へ謝意を表す。〔「光源院文書」二〕
 12月12日 安国寺恵瓊、宇喜多直家と面談し来春の播磨国広瀬への侵攻を談ず。〔「吉川家文書」@‐610〕
 12月12日 安国寺恵瓊、国許の山県越前守・井上春忠(「井上又右衛門尉」)に対する報告で「京都之儀」及び足利義昭(「上意」)の
       帰洛に関する織田側と足利義昭側の調停の状況、中国方面の状況、織田信長(「信長」)が「明年辺者公家なとに可被成候」と
       いう見通しとその後の「高ころひにあおのけにころはれ候すると見え申候」という予言を、また羽柴秀吉(「藤吉郎」)に
       ついては「さりとてハの者にてニて候」という評価を通知。〔「吉川家文書」@‐610〕
 12月14日 織田信長(「信長」)、旧幕臣の梅松軒へ知行を安堵。〔「佐藤行信氏所蔵文書」一〕
 12月14日 織田信長(「信長」)、山城国仁和寺の御室雑掌成多喜御房へ知行を安堵。〔「仁和寺文書」五〕
 12月16日 明智光秀(「明智十兵衛尉」)・村井貞勝(「村井民部少輔」)、山城国天龍寺妙智院の策彦周良(「策彦東堂様」)へ
       今井某が何度も不法行為をしない旨の請文を提出しているので妙智院は年貢などの直納を承認し、小作権利者へその旨を命令
       するよう指示。〔「妙智院文書」乾〕
 12月16日 明智光秀(「明智光秀」)・村井貞勝(「村井貞勝」)、山城国西院内の安弘名小作中へ土地台帳の通り妙智院住持である
       策彦周良(「策彦和尚」)に年貢などを納入すること、また今井某が異議申し立てをしても土地台帳に記入されているので無視
       して上納するよう命令。〔「妙智院文書」乾〕
 12月21日 磯野員昌(「磯丹員昌」)、近江国竹生島宝厳寺の年行事へ織田信長(「殿様」)への「御礼儀之金子」の献上を謝す。
       〔「竹生島文書」二〕
 12月24日 不破光治(「不破河内守光治」)、尾張国の伊藤惣十郎へ「商人方夷講」の件で織田信長「御朱印」が下されたことを通達。
       〔『寛延旧家集』〕
 12月28日 織田信長(「信長」)、伊達輝宗(「伊達殿」)へ逸物の鷹を献上されたことを謝し、「天下之儀」は承知の通り、織田信長
       が「公儀御入洛」に供奉し京都(「城都」)に安座して数年は「静謐」であったが、武田信玄(「甲州武田」)・
       朝倉義景(「越前朝倉」)ら「諸侯之侫人」が足利義昭(「公儀」)を唆して織田信長に「逆心」を企んだので「無念不少」で
       あったが糺明のために上洛したところ、足利義昭は嫡男足利義尋(「若公」)を人質として提出し「京都有御退城」って紀伊国
       熊野へ流浪しているということ、武田信玄(「武田入道」)が病死したこと、朝倉義景(「朝倉義景」)とは去8月に越前国・
       近江国境目に於いて一戦に及び撃破して越前国へ「切入」し朝倉義景(「義景」)を「刎首」し越前「一国平均」したこと、
       その後に若狭国・能登国・加賀国・越中国は全て織田信長「分国」として織田信長「存分」に属したこと、「五畿内之儀」は
       言うに及ばず「中国」(毛利領国)に至るまで織田信長「下知」の及ぶ地域となったこと、来年は武田氏に対する軍事行動の
       予定(「甲州令発向」)、更に後北条氏(「関東之儀」)を「成敗」する予定を通知し協力を要請。〔「伊達家文書」一〕
 12月  日 織田信長(「信長」)、摂津国富田庄普門寺へ「先規」に任せて寺領を安堵し、織田軍の陣取・寄宿を免除。
       〔「竜安寺文書」一〕
 12月  日 織田信長(「信長」)、京都賀茂寺社領境内ならびに諸所散在を「当知行」として安堵す。
       〔「大徳寺文書」@‐622、「賀茂別雷神社文書」三〕


    この年 木下利房、誕生(異説1574年)。〔『日本史人物生没年表』〕
        九鬼守隆、誕生(異説1575年)。〔『日本史人物生没年表』〕
        里見義康、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
        竹中重門、誕生(異説1574年)。〔『日本史人物生没年表』〕


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