All contents copyright (C)1999-2001 Household Industries / allrights reserved


フロントページに戻る
目次に戻る
項目別文献・論文一覧へ

        【 天下統一期年譜 1572年 】

元亀 3(1572)年 

1月
  1月 2日 多聞院英俊、五大院に於ける弔儀の際に松永久通(「金吾」)より竹を数多預かる夢を見る。〔『多聞院日記』二〕
  1月 5日 吉田兼見、三淵藤英(「三太」)の家臣である一色左馬助・野田甚大夫らの来訪を受ける。〔『兼見卿記』一〕
  1月 9日 今村猪介と小泉源左衛門尉(三淵藤英与力)、路次において格闘。幕府の喧嘩両成敗法により両者閉居の処分が下される。
       〔『兼見卿記』一〕
  1月13日 三淵藤英(「三太」)・飛鳥井雅敦、吉田兼見を方違で訪問。〔『兼見卿記』一〕
  1月14日 本願寺顕如、武田信玄へ織田信長の背後を脅かすよう依頼。〔「顕如上人御書札案留」〕
  1月16日 吉田兼見、足利義昭(「武家御所」)へ祓を進上。〔『兼見卿記』一〕
  1月16日 多聞院英俊、大和国多聞山城に松永久秀を見舞う。〔『多聞院日記』二〕
  1月18日 吉田兼見、足利義昭(「武家御所」)に参賀。その後禁中へ参賀。〔『兼見卿記』一〕
  1月18日 三淵藤英(「三太」)、足利義昭を私邸で饗応。〔『兼見卿記』一〕
  1月18日 細川藤孝・上野秀政、足利義昭の面前に於いて口論す。〔『細川家記』〕
  1月19日 吉田兼見、明智光秀(「明十」)からの念頭賀使を受ける。〔『兼見卿記』一〕
  1月19日 足利義昭、真木島昭光(「真木島玄蕃允」)を石清水八幡宮へ代参させる。〔『兼見卿記』一〕
  1月21日 吉田兼見、近江国坂本の明智光秀(「明十」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕
  1月21日 織田信長(「信長」)、飯川信堅(「飯河肥後守」)・曽我助乗(「曽我兵庫頭」)へ摂津国中島城・高屋城攻撃のために
       柴田勝家(「柴田修理進」)を出陣させることを通達し、この軍事行動は「天下」のためで、幕府衆も出陣するのは当然である
       こと、これらのことを足利義昭(「上聞」)に報告することを指示。〔「実相院及東寺宝菩提院文書」四〕
  1月23日 佐久間信盛(「佐久間右衛門尉」)、近江国高野荘の一向宗坊主・地侍長らへ六角義賢(「佐々木承禎」)・六角義治父子が
       一向宗徒を勧誘し近江国金森城・三宅城に於いて抗戦させていることに対し、織田信長(「信長」)からの「一味内通」を禁止
       する旨を通達し連署起請文の提出を命令。〔「福正寺文書」〕
  1月27日 吉田兼見、三淵秋豪(「三弥」)・小笠原貞慶(「小笠原」)らの訪問を受ける。〔『兼見卿記』一〕
  1月29日 吉田兼見、狩野光茂(「狩野伊豆守」)の訪問を受ける。〔『兼見卿記』一〕
  1月 晦日 織田信長(「信長」)、腫物を煩っていた松井友閑(「友閑」)のために近江国芦浦観音寺へ滞在中の耶蘇会宣教師の医師を
       招致するよう指示を下す。〔「観音寺文書」〕

閏1月
 閏1月 2日 吉田兼見、三淵藤英(「三太」)および相国寺の南豊軒周超を訪問。〔『兼見卿記』一〕
 閏1月 4日 多聞院英俊、遊佐信教(「遊佐殿」)が河内国高屋城の畠山昭高(「屋形」)を生害させようとしたが未遂に終わったことを
       知る。〔『多聞院日記』二〕
 閏1月 5日 大和国奈良に於いて亥刻過ぎに乾西の方角より「三方笠」程の「光物」が東辰巳の方角へ飛び去り、大風と霰が降った。
       〔『多聞院日記』二〕
 閏1月 6日 吉田兼見、明智光秀(「明十」)の坂本築城を見舞う。〔『兼見卿記』一〕
 閏1月 9日 多聞院英俊、去5日に大和国奈良に於いて亥刻過ぎに乾西の方角より「三方笠」程の「光物」が東辰巳の方角へ飛び去り、
       大風と霰が降ったことを知り、これを「大凶事」と評す。〔『多聞院日記』二〕
 閏1月10日 吉田兼見、細川藤孝(「細兵」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕
 閏1月13日 細川孝之(「休斎」)、屋敷の東堀普請を行う。〔『兼見卿記』一〕
 閏1月14日 細川孝之(「休斎」)、屋敷の東堀普請を継続。〔『兼見卿記』一〕
 閏1月14日 吉田兼見、上醍醐の安養坊より三淵藤英(「三和州」)への訴訟の口入を依頼される。〔『兼見卿記』一〕
 閏1月17日 吉田兼見、菅屋長頼(「菅屋御長」)を訪問。小笠原貞慶(「小笠原民部」)・海老中書・舟橋国賢が来訪。
       〔『兼見卿記』一〕
 閏1月18日 吉田兼見、足利義昭の放鷹先から直接立ち寄った三淵秋豪(「三弥」)の訪問を受ける。〔『兼見卿記』一〕
 閏1月20日 大和国奈良に於いて「大地震」が発生。「火神動」という風聞が立つ。〔『多聞院日記』二〕
 閏1月22日 多聞院英俊、この頃に大和国奈良の猿沢池に「天照太神」が移るというが、これにより池の水が赤く変化するというので
       「凶事」であるとの風聞に接す。〔『多聞院日記』二〕
 閏1月22日 夕刻、「アカリ障子」程の「光リ物」が南から北へ飛行。大和国奈良中の人々が目撃。〔『多聞院日記』二〕
 閏1月23日 多聞院英俊、前日夕刻に「アカリ障子」程の「光リ物」が南から北に飛行し、これを大和国奈良中の人々が目撃したことを
       知る。「希代ノ凶事」・「心細キ者也」と評す。
       また織田信長(「信長」)が数万の軍勢を率いて上洛することを知り、大和国まで併呑することを懸念。〔『多聞院日記』二〕
 閏1月27日 多聞院英俊、昨夜に「下摯ェ」が蜂起したが、松永久秀(「多聞山」)により既に鎮圧されたことを知る。
       〔『多聞院日記』二〕
 閏1月27日 大和国奈良の猿沢池の水の色がもとに戻る。〔『多聞院日記』二〕
 閏1月29日 吉田兼見、三淵藤英(「三太」)を訪問。細川藤孝(「細兵」)とも参会。〔『兼見卿記』一〕

2月
  2月 3日 多聞院英俊、和束の喜多新左衛門が内衆の謀叛により生害したことを知る。〔『多聞院日記』二〕
  2月 4日 吉田兼見、足利義昭麾下の武士ら(「武家諸公之衆」)と上野信恵(「上野佐渡守」)の手猿楽興行を見物。
       〔『兼見卿記』一〕
  2月 8日 武井夕庵(「夕庵爾云」)、松井友閑(「友閑」)が腫物を煩ったため近江国芦浦観音寺に滞在している耶蘇会宣教師の医師
       を早急に招致するため織田信長(「殿様」)が直接折紙を発給したが、返答も無く「くすし」も到来せず、この事態はどういう
       ことなのかを譴責す。早急なる招致のため、夫丸・馬の件は佐久間信栄(「佐甚九」)が準備すること、速やかに招致に応ずる
       ことを督促。〔「観音寺文書」〕
  2月 9日 吉田兼見、細川藤孝室(「細川兵部大輔女房衆」)の参宮に関して、26歳の者の参宮は忌むべきか否かを問われ、憚るには
       及ばない旨を返答。〔『兼見卿記』一〕
  2月10日 足利義昭(「武家御所」・「公方」)、淀に新城普請を意図し、在々所々の家並に夫役を賦課。
       吉田兼見、細川藤孝(「細兵」)・三淵藤英(「三弥」)へ相談に赴く。〔『兼見卿記』一〕
  2月15日 大和国辰市に於いて去年の戦没者慰霊の大念仏が挙行され、敵味方が参詣した。「以之外之群集」であったという。
       〔『多聞院日記』二〕
  2月25日 吉田兼見、明智光秀(「明十」)を見舞うため近江国坂本に下向。明智光秀(「明十」)より織田信長(「信長」)上洛の
       内報を得る。〔『兼見卿記』一〕

3月
  3月 2日 吉田兼見、上醍醐安養坊の愁訴に関して三淵藤英(「三太」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕
  3月 3日 織田信長、永田景弘(「永田刑部少輔」)へ来たる3月7日に江北小谷口へ軍事行動を起こすことを命令。
       〔『武家雲箋』、『武家事紀』二十九〕
  3月 3日 吉田兼見、万里小路惟房(「万里惟房」)からの書状を受けて人夫1名を雇うことを了承。その旨の書状を里村紹巴に送付。
       〔『兼見卿記』一〕
  3月 5日 織田信長(「信長公」)、江北方面に出馬し近江国赤坂に布陣。〔『信長公記』巻五〕
  3月 5日 吉田兼見、細川藤孝(「細兵」)を訪問し壇所を作る。〔『兼見卿記』一〕
  3月 6日 織田信長、近江国横山に着陣。〔『信長公記』巻五〕
  3月 7日 織田信長、近江国小谷城と山本山の間の与語・木本に放火す。〔『信長公記』巻五〕
  3月 9日 織田信長、近江国横山城に軍勢を入れる。〔『信長公記』巻五〕
  3月10日 織田信長、近江国常楽寺へ宿泊す。〔『信長公記』巻五〕
  3月11日 織田信長、近江国志賀郡へ出陣。次いで和邇に移陣し、木戸砦・田中砦を攻略し、明智光秀(「明智十兵衛」)・
       中川重政(「中川八郎右衛門」)・丹羽長秀(「丹羽五郎左衛門」)に守備させる。〔『信長公記』巻五〕
  3月11日 渡辺重(「渡辺出雲守」:松永久秀被官)、雑説により松永久通(「金吾」)からの建議を受け大和国東大寺に於いて剃髪。
       〔『多聞院日記』二〕
  3月12日 織田信長(「信長公」)、近江国より上洛。京都二条妙覚寺に寄宿す。〔『信長公記』巻五〕
  3月12日 織田信長(「信長」)、軍勢700名程を率いて上洛、妙覚寺へ寄宿。〔『兼見卿記』一〕
  3月12日 吉田兼見、妙覚寺に寄宿している織田信長を訪問。
       明智光秀(「明十」)が奏者、塙直政(「塙九郎左衛門」)より弓懸2具を遣わされる。〔『兼見卿記』一〕
  3月12日 渡辺重(「渡辺出雲守」:松永久秀被官)、松永久通(「金吾」)から受けた嫌疑を解くため剃髪し紀伊国高野山に入山
       しようとするも大和国番条城に於いて召し取られる。〔『多聞院日記』二〕
  3月 中旬 足利義昭(「公儀」)、織田信長(「信長公」)の京都「御座所」が無しというのは如何として、上京武者小路の空地の坊跡
       (徳大寺公維邸地)に屋敷を構えるように指示、足利義昭(「公儀」)の命令で「畿内の面々」による普請着手を決定。
       〔『信長公記』巻五〕
  3月14日 吉田兼見、磯野員昌(「磯野丹州」:浅井長政家臣)から書状を受ける。
       その内容は、近江国北郡八幡社が一揆によって炎上したため仮殿を造立し、本式の件は後日とするものであった。
       〔『兼見卿記』一〕
  3月14日 吉田兼見、摂津国の荒木村重(「荒木信州」)へ使者を派遣し、吉田兼右上洛の馳走を依頼。〔『兼見卿記』一〕
  3月16日 筒井順慶(「筒順」)、箸尾為綱(「箸尾」:大和国人)・「岡」(大和国人)を同行し巡回す。〔『多聞院日記』二〕
  3月17日 多聞院英俊、昨夜東金堂の周辺で女が殺害され「大ユヤノ池」に沈められたことを知る。〔『多聞院日記』二〕
  3月21日 織田信長(「信長」)、徳大寺公維(「徳大寺殿」)の屋敷を収め、居館建造を意図。
       足利義昭(「武家御所」)の命令の形で大覚寺尊信(「大覚寺殿」)・久我通堅(「久我殿」)・高倉永相(「藤宰相」)・
       北野社(「松梅院」)・吉田兼見ら諸家にも、普請夫役を賦課。〔『兼見卿記』一〕
  3月21日 織田信長、山城国狭山郷を押領した御牧摂津守へ紛れもなく石清水八幡宮領であり、田中長清(「田中門跡」:八幡宮別当)
       に重ねて織田信長「朱印」を与えたため不法停止を命令。〔「田中家文書」〕
  3月21日 筒井順慶(「筒井順慶」)、上洛す。〔『多聞院日記』二〕
  3月22日 安威藤治(「安威兵部少輔」)・三上輝房(「三上兵庫頭」)・狩野光茂(「狩野伊豆守」)ら幕府衆、吉田兼見へ
       織田信長(「信長」)による屋敷普請に際し、「御使」として簀板用に社頭の木の徴収を伝達。
       吉田兼見、神木の免除を申請するも宥免されず。〔『兼見卿記』一〕
  3月24日 足利義昭主導による織田信長の京都屋敷普請の「御鍬始」が行われる。「御普請奉行」は村井貞勝(「村井民部」)・
       島田秀満(「嶋田所助」)・「御大工棟梁」池上五郎右衛門であった。〔『信長公記』巻五〕
  3月24日 織田信長(「信長公」)、初めて細川昭元(「細川六郎」)・石成友通(「岩成主税頭」)を謁見す。〔『信長公記』巻五〕
    この頃 織田信長(「信長公」)、本願寺顕如(「大坂門跡」)より「万里江山の一軸」と「白天目」を贈呈される。
       〔『信長公記』巻五〕
  3月27日 三淵藤英(「三太」)・細川藤孝(「細兵」)、織田信長(「信長」)屋敷の築地普請を奉行する。〔『兼見卿記』一〕
  3月  日 織田信長(「弾正忠」)、摂津国尼ヶ崎長遠寺へ全7ヶ条の「建立付条々」を下す。〔「長遠寺文書」〕

4月
  4月 1日 吉田兼右、安芸国から帰洛。吉田兼見、四条口において出迎える。〔『兼見卿記』一〕
  4月 2日 吉田兼右、織田信長(「信長」)を訪問するも面会は無し。松泉院・南豊軒周超・舟橋国賢・平等坊・雄斎・寺本橘大夫らが
       来訪した。〔『兼見卿記』一〕
  4月 3日 吉田兼右、織田信長(「信長」)を訪問し面会。織田信長は機嫌良く、暫し雑談。金子1枚を賜わる。明智光秀(「明十」)
       が馳走の取り成しをしたという。〔『兼見卿記』一〕
  4月 4日 明智光秀(「明智十兵衛尉」)・滝川一益(「滝川左近」)・佐久間信盛(「佐久間右衛門尉」)・
       柴田勝家(「柴田修理亮」)、河内国住人の片岡弥太郎へ来たる4月14日の織田軍河内国出征が決定したために片岡弥太郎の
       「出勢」と「合城」を厳命を通達。〔「根岸文書」三〕
  4月 5日 織田信長(「信長」)、吉川元春(「吉川駿河守」)へ浦上宗景(「浦上遠江守」)と宇喜多直家(「宇喜多」)の「鉾楯」
       を「見除」(無視)している件について「外聞如何」とし、足利義昭の意を受けて「和与」に属すことを通達。
       詳細は柳沢元政・安国寺恵瓊・聖護院道澄に伝達させる。〔「吉川家文書」一〕
  4月 5日 織田信長(「信長」)、小早川隆景(「小早川左衛門佐」)へ若鷹献上を謝し、3月中旬より在洛している旨を通知。
       〔「小早川家文書」一〕
  4月 7日 細川藤孝、喜入季久へ池坊下向を通知。
       島津義久への取成を依頼し、島津家中あげて入魂の接待を要請。〔「旧記雑録後編」@‐619〕
  4月 8日 佐久間信盛(「右衛門信盛」)・柴田勝家(「修理亮勝家」)・丹羽長秀(「五郎左衛門長秀」)・
       木下秀吉(「藤吉郎秀吉」)、山城国伏見惣中へ来たる4月12日の織田軍出撃に際し「一艘も残置」かないように船の供出と
       4月10日から13日までの逗留を厳命。〔「三雲文書」〕
  4月 9日 吉田兼見、人足80余人を伴い織田信長屋敷の築地普請に赴く。〔『兼見卿記』一〕
  4月10日 吉田兼見、人足を伴い織田信長屋敷の築地普請現場に赴く。未刻には受け取り分の普請が完了。〔『兼見卿記』一〕
  4月10日 大和国奈良中は近日中に織田軍(「尾張衆」)が到来するとの風聞で「以之外サワキ」となる。〔『多聞院日記』二〕
  4月12日 大和国「ナラ中衆」、東大寺南大門に於いて「集会」し、今度の織田軍(「尾張衆」)が京都より下向し奈良に布陣すること
       は「無法第一之衆」のすることであるから難儀に及ぶため、各自申し合わせ織田軍に「同心」しないことが決定された。
       〔『多聞院日記』二〕
  4月13日 大和国興福寺では「加行者」の「山取」に対し、幕府・織田連合軍(「京勢以下」)が在陣すれば困難となることを通達。
       〔『多聞院日記』二〕
  4月16日 上杉謙信、北条景広へ関東及び南甲斐の情勢、「越甲一和」に関し織田信長と朝倉義景の間に武田信玄が調略しているらしい
       ことなどを通知。また北条景広より報告された「越信」の無事を受け、飛騨国・越前国・美濃国の入魂は安心すべき旨を通知。
       〔「妙満寺文書」〕
  4月16日 佐久間信盛・柴田勝家・明智光秀・細川藤孝・三淵藤英・上野秀政・池田勝正・伊丹親興・和田惟長ら2万余の軍勢、
       河州表へ出陣。松永久秀の軍勢を河内国河内郡騎西城を攻囲。〔『兼見卿記』一〕
  4月20日 伏見殿(貞敦親王)被官衆、吉田兼見に三淵藤英(「三太」)への陣役免除の口入を来謝。
       この件に関する万里小路惟房(「万亜相」)の書状が到来。〔『兼見卿記』一〕
  4月25日 織田信長(「信長」)、京都紫野大徳寺へ諸塔頭領・門前賀茂境内の安堵を下す。〔「大徳寺文書」@‐86〕
  4月28日 吉田兼見、織田信長屋敷の築地に板葺の覆いを命令される。〔『兼見卿記』一〕
  4月28日 大和国「ツタノ付城」、陥落。〔『多聞院日記』二〕
  4月28日 多聞院英俊、大和国「ツタノ付城」が陥落したことを知る(但し未確認情報)。〔『多聞院日記』二〕
  4月  日 織田信長、山城国賀茂の銭主および惣中へ去々年(元亀元年)に織田信長「朱印」を発給して賀茂神社境内を「徳政」除外地
       としたにもかかわらず、未だに「一揆」の残党が徳政適用を強要していることは許し難いことであり、「買主」の覚悟により
       「譴責使」を派遣して収納すること、詳細は木下秀吉(「木下藤吉郎」)に伝達させることを通知。
       〔「賀茂別雷神社文書」三〕
  4月  日 織田信長(「弾正忠」)、山城国梅津長福寺へ全5ヶ条の「条々」を下す。〔「長福寺文書」四〕

5月
  5月 2日 織田信長(「信長」)、小早川隆景(「小早川左衛門佐」)へ先度の若鷹献上を謝し、大友義鎮(「大友宗麟」)が
       「累年京上」を望んでいることについて織田信長と毛利氏の和親関係を考慮し、毛利氏と敵対している大友義鎮の上洛を
       「遠慮」して未だ返答していないこと、「天下之儀」は織田信長(「信長」)が「加異見刻」であり、遠国の人物が上洛する
       ことは「為京都」・「為信長」に最善の事であるので毛利氏の賛同が得られてから大友義鎮(「豊州」)の少人数の上洛を通達
       する予定を告げ、織田氏と毛利氏の関係に悪影響を及ぼさないように連絡する。
       詳細は朝山日乗(「日乗」)。武井夕庵(「夕庵」)に伝達させる。〔「小早川家文書」一〕
  5月 2日 大和国興福寺、織田信長より織田軍(「尾張衆」)が到来する旨の通達を受ける。〔『多聞院日記』二〕
  5月 2日 吉田兼見、織田信広の病状を見舞う。〔『兼見卿記』一〕
  5月 3日 大和国奈良中へ織田軍(「信長衆」)より「公事」の件で通達が下される。これに対し奈良中では「道具ヲ隠」す。
       〔『多聞院日記』二〕
  5月 4日 大和国奈良中、一両日中に織田軍(「尾張衆」)が到来するというので「以之外物騒」な状態になる。〔『多聞院日記』二〕
  5月 4日 吉田兼見、足利義昭に祓を進上。〔『兼見卿記』一〕
  5月 4日 吉田兼見、施薬院全宗と共に妙覚寺の織田信長を訪問。木下秀吉が吉田兼見持参の菓子を披露。〔「兼見卿記」一〕
  5月 5日 織田軍先発隊(「尾州先勢」)、大和国西京に着陣。また筒井順慶(「筒井」)より大和国興福寺へ種々の通達があった。
       そして多聞院英俊は多数の山木が枯れたことを「建久ノ御詫此比ニ当、一寺頓滅ノ期至歟」と歎き、「武家入国旁々心細者也」
       との心境を記す。〔『多聞院日記』二〕
  5月 7日 織田軍数万人が大和国西京表に布陣。〔『多聞院日記』二〕
  5月 8日 足利義昭、光浄院暹慶(「三井寺之光浄院」:後に還俗し山岡景友)を上山城半国守護に補任。〔『兼見卿記』一〕
  5月 8日 光浄院暹慶(山岡景友)、吉田兼見へ粗悪茶送付の者処罰する旨を通達。〔『兼見卿記』一〕
  5月 8日 吉田兼見、織田信広(「織田三郎五郎」)より明日の朝食の招待を了承した返答を受ける。〔『兼見卿記』一〕
  5月 8日 織田軍が大和国奈良へ「打入」する以前に、奈良中より銀子320枚、興福寺より銀子100枚、東大寺より銀子50枚が
       上納され、多聞院英俊は「先以安堵了」という感慨を記す。〔『多聞院日記』二〕
  5月 9日 吉田兼見、織田信広(「織田三郎五郎」)を朝食に招待。織田信広(「織田三郎五郎」)は暮れに帰京。〔『兼見卿記』一〕
  5月 9日 筒井順慶(「筒井順慶」)、東大寺南大門に布陣。〔『多聞院日記』二〕
  5月 9日 織田軍(「尾張衆」)、大和国「大黒カ尾」から多聞山城の北側まで包囲。午刻に松永久秀の多聞山城に攻撃を仕掛ける。
       〔『多聞院日記』二〕
  5月11日 吉田兼右、深草から帰宅し織田信長(「信長」)を見舞いのため訪問。河州表へ出陣していた軍勢が帰陣・上洛したという。
       〔『兼見卿記』一〕
  5月12日 足利義昭、美濃国安養寺へ見舞いを謝す。さらに上杉謙信(「輝虎」)からの注進を通知。
       詳細は細川藤孝・和田惟政に伝達させる。〔「安養寺文書」‐3〕
  5月12日 吉田兼見、細川藤孝(「細兵」)・三淵藤英(「三太」)を訪問。織田信長(「信長」)の前での談合であった。
       〔『兼見卿記』一〕
  5月14日 織田信長(「信長」)、岐阜城へ帰城。吉田兼見、織田信長を路次にて見送る。〔『兼見卿記』一〕
  5月14日 吉田兼右、岩成友通(「石成」)を饗応。
       吉田兼右のもとへ細川藤孝(「細兵」)・三淵藤英(「三太」)・三淵秋豪(「弥四郎」)が訪問。〔『兼見卿記』一〕
  5月16日 吉田兼見、足利義昭(「武家御書」)へ御祓を進上。〔『兼見卿記』一〕
  5月16日 吉田兼見、織田信長屋敷(「信長屋敷」)の作事奉行である島田秀満(「島田但馬守」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕
  5月16日 吉田兼見、岩成友通(「石成」)が賀茂社領を横領するという風聞に接す。〔『兼見卿記』一〕
  5月19日 織田信長(「信長公」)、「天下の儀」を仰せ付けて美濃国岐阜へ帰還。〔『信長公記』巻五〕
  5月19日 大和国興福寺をはじめ奈良中の寺々のいくつかが、筒井順慶(「筒井」)に金銀を上納した。〔『多聞院日記』二〕
  5月20日 武田信玄、美濃国安養寺へ美濃国辺の調略について、大坂(石山本願寺)との謀議について通知。
       詳細は土屋右衛門尉に伝達させる。〔「安養寺文書」‐4〕
  5月23日 諏訪俊郷(「左兵衛尉」)・松田頼隆(「豊前守」)、某へ織田信長(「織田弾正忠信長」)に申請した通り、慈徳寺と境内
       一円を与えるので承知するよう通達。〔「古文書纂」三十三〕
  5月23日 塙直政(「塙九郎左衛門尉」)、清水甚介へ石清水八幡宮領の山城国狭山郷は「禁裏樣」御祈祷所であり、重ねて織田信長
       「御朱印」が発給されたが、御牧摂津守(「御牧」)が押領していることは許し難いことであり、上山城の件は塙直政が
       織田信長より「糺明申付」を命令されているので速やかに対処する旨を通達。〔「田中家文書」〕
  5月24日 吉田兼見、細川藤孝(「細兵」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕
  5月28日 この日の夕方、大和国福智院の東側に於いて5人が「引刷」られ殺害された。松永軍(「多聞山衆」)であったという。
       〔『多聞院日記』二〕

6月
  6月 1日 大和国奈良に於いて巳刻終頃に「大地震」が2度あった。
       多聞院英俊はこの月に発生した「地震」により「天下人民多死、五穀不熟」したという風聞に接す。〔『多聞院日記』二〕
  6月 1日 吉田兼見、日野輝資(「日野」)・島田秀満(「島田方」)へ御祓を進上。〔『兼見卿記』一〕
  6月 2日 島田秀満(「島田但馬守秀満」)、京都妙心寺へ仏心寺と竜安寺が妙心寺を経て旧徳大寺邸の改築の「夫丸」免除を申請した
       ことについて、島田秀満と村井貞勝(「村民」)が協議して諒承したことを通達。〔「妙心寺文書」六〕
  6月 3日 吉田兼見、細川藤孝(「細兵」)・三淵藤英(「三太」)・小笠原貞慶(「小笠原」)・舟橋国賢(「清少」)・
       徳大寺公維(「徳大寺」)の訪問を受ける。〔『兼見卿記』一〕
  6月 5日 吉田兼右、近江国坂本の明智光秀を訪問。〔『兼見卿記』一〕
  6月 5日 里村紹巴(「紹巴」)、吉田兼見を訪問し油煙1挺を進上。〔『兼見卿記』一〕
  6月 5日 酒井忠世、誕生(異説1573年)。〔『日本史人物生没年表』〕
  6月 6日 小笠原貞慶(「小笠原」)の代官である水口某、在所にて稲富某により殺害される。
       また小笠原備前入道(「備前入道」)、俄かに上洛。〔『兼見卿記』一〕
  6月 8日 織田信長(「信長」)、河内国高屋城の起請文連署中へ三好義継(「義継」)・松永久秀(「久秀」)の行動は不可解で、
       織田信長「存分」は畠山昭高(「昭高」)に伝達したので再説しないこと、畠山昭高に対して疎意は無いこと、河内国高屋城を
       堅守することを命令。〔「伊予古文書」二十二〕
  6月23日 織田信長(「信長」)、京都紫野大徳寺へ賀茂境内「買得分」を安堵す。詳細は松井友閑(「友閑」)に伝達させる。
       〔「大徳寺文書」@‐87〕
  6月23日 松井友閑(「徳斎友閑」)、大徳寺領の件で織田信長が安堵の「御書」を下されたこと、また安堵の件を塙直政(「塙九」)
       と木下秀吉(「木藤」)へも松井友閑より申し渡すこと、もし違乱があった場合は再度訴訟することを通達。
       〔「大徳寺文書」@‐88〕
  6月23日 松井友閑(「徳斎友閑」)、山城国賀茂神社上使中へ大徳寺領の件で、もし破棄の織田信長「朱印」が発給されても、他の
       事例と混同しないことが織田信長より通達されたこと、しかし賀茂神社境内に於いて問題が発生したため使僧を派遣し道理を
       通達し、少も異議が無い旨の織田信長「御書」が進呈されたので、この上は各自不法行為には至らないであろうことを通知。
       また、この旨は木下秀吉(「木藤」)・塙直政(「塙九」)にも指令したので心得るよう通知。〔「真珠庵文書」二〕
  6月27日 織田信長(「信長」)、近江国沖島惣中へ織田信長の江北出撃に際し「早船」を以て敵地を放火すること、また「早船」3艘
       を調達し沖島惣中指導者自身が乗船して林与二左衛門尉と堅田衆に相談し作戦を遂行することを命令。
       詳細は中川重政(「中川八郎右衛門」)に伝達させる。〔「島村沖島共有文書」〕
  6月  日 織田信長(「信長」)、阿弥陀寺清玉へ東大寺「大仏殿再興勧進」の件で織田信長分国中へ1人に毎月1文を勧進させること
       を決定しているので、「権門勢家」「貴賤上下」を選ばず勧進することを命令。〔「東大寺文書」〕

7月
  7月 1日 織田信長(「信長」)、松永久秀(「松永弾正」)へ来たる7月7日に江北小谷城への攻撃にあたり出撃命令を下す。
       また城塞を構築するため兵卒に鋤・鍬を持参させること、織田軍が朝倉氏・浅井氏と一戦に及んだら、時節を見合わせて攻撃を
       仕掛けることを命令。〔「願泉寺文書」〕
  7月 1日 卜真斎(「卜真斎仁勇」:木下秀吉物書)、玄忠へ京都紫野大徳寺より道理を受けたことにつき、木下秀吉(「藤吉郎前」)
       に於いて少も疎意無く奔走することを上申するよう依頼。〔「真珠庵文書」二〕
  7月 3日 織田信長(「信長」)、丹波国勝龍寺城を守備する細川藤孝(「細川兵部大輔」)へ摂津国大坂石山本願寺への通行者が商人
       に偽装・往復していることにつき、注意を喚起し、不審者は捕獲するよう命令。〔「米田氏所蔵文書」〕
  7月 4日 稲葉一鉄(「稲葉伊予守一鉄」)、山城国大徳寺聚光院へ大徳寺祠堂領で賀茂神社境内に所在する分の件で、今度賀茂社領
       「勘落」にあたり、その奉行共が違乱を働いたというので大徳寺が織田信長(「信長」)に対し上申したことに対し寺領として
       年貢収納することに少しの妨げの無い旨の織田信長「朱印」が再度発給されたことを通知。〔「大徳寺文書」二〕
  7月13日 織田信長、美濃国専福寺へ「天下」に対し「造意」を企んだ石山本願寺は前代未聞であり許し難いもので、織田分国中の門下
       が大坂への出入することを停止し、専福寺には「代坊主」を設けて、末寺は7月15日迄に門徒を退散させるべきこと、違反者
       は成敗することを命令。〔「専福寺文書」‐1〕
  7月19日 織田信長(「信長公」)、嫡男の織田信忠(「奇妙公」)を同伴し美濃国岐阜城を出陣し江北表へ向かう。これは織田信忠の
       「具足初」であった。〔『信長公記』巻五〕
  7月19日 織田信長・織田信忠、近江国赤坂に着陣。〔『信長公記』巻五〕
  7月20日 織田信長・織田信忠、近江国横山城に入城。〔『信長公記』巻五〕
  7月21日 織田信長・織田信忠、近江国小谷城を攻囲。「ひばり山」・虎御前山に軍勢を上げて、佐久間信盛(「佐久間右衛門」)・
       柴田勝家(「柴田修理」)・木下秀吉(「木下藤吉郎」)・丹羽長秀(「丹羽五郎左衛門」)・蜂屋頼隆(「蜂屋兵庫頭」)に
       城下を蹂躙させる。〔『信長公記』巻五〕
  7月21日 柴田勝家(「柴田修理」)・稲葉一鉄(「稲葉伊予」)・氏家氏元(「氏家左京助」)・「伊賀伊賀守」ら、織田軍先手隊と
       して近江国小谷城下に布陣。〔『信長公記』巻五〕
  7月22日 木下秀吉(「木下藤吉郎」)、織田信長より近江国山本山城の阿閉貞征(「阿閉淡路守」)の攻撃命令を受けて山麓に放火。
       これに対し近江国山本山城より足軽100騎余が出撃、木下秀吉(「藤吉郎」)がこれを撃破し敵首50余を討ち取る。
       織田信長(「信長公」)、この戦功に対し「御褒美斜めならず」と喜ぶ〔『信長公記』巻五〕
  7月23日 織田信長、近江国・越前国境の与語・木本地蔵坊中など「堂塔伽藍名所旧跡一宇」を残らず焼き払う。〔『信長公記』巻五〕
  7月24日 木下秀吉(「木下藤吉郎」)・丹羽長秀(「丹羽五郎左衛門」)、織田信長の命令を受けて共に近江国草野谷に放火、大吉寺
       に於いて敵勢「一揆僧俗」を殲滅す。〔『信長公記』巻五〕
  7月24日 林与次左衛門・明智光秀(「明智十兵衛」)・猪飼野甚介・山岡玉林・馬場孫次郎・居初又二郎、織田信長の命令を受けて
       「囲舟」を建造し、近江国海津浦・塩津浦・与語入海・江北の敵地を焼き払い、竹生島に停泊し「火屋」(火矢)・「大筒」・
       「鉄炮」を以て一揆勢を殲滅。〔『信長公記』巻五〕
  7月26日 山内元通(「元通」)、吉川元長(「吉川少輔次郎」)へ「御兄弟御契約」の締結を謝す。〔「山内首藤家文書」‐412〕
  7月27日 織田信長、近江国虎御前山の「御取出」を「御要害」とする普請命令を下す。〔『信長公記』巻五〕
  7月27日 織田信長、朝倉義景(「朝倉左京大夫義景」)が1万5千の軍勢を率いて近江国小谷城救援のため出馬した情報に接す。
       〔『信長公記』巻五〕
  7月27日 織田信長(「信長」)、上杉謙信(「不識庵」)へ去春に出された「越甲御間和与」を斡旋する足利義昭「上意」を受け
       幕府使者が派遣されるにあたり織田側よりも2名を添えること、織田信長は上杉謙信と多年にわたり友好関係を維持しており、
       武田信玄(「信玄」)ともまた「無等閑」であることは通達した通りであり、上杉・武田両氏(「越甲共」)は
       足利義昭(「公儀」)に対して長年にわたり疎略にしていないのだから和睦に応じ「天下之儀」を馳走を希望する旨を通達。
       詳細は松井友閑(「友閑斎」)・佐々権左衛門尉に伝達させる。〔保阪潤治氏所蔵文書『筆陳』二〕
  7月28日 山内元通(「山内少輔四郎」)・山内隆通(「山内新左衛門尉」)、去7月26日の案文で決定した吉川元長・山内元通の
       兄弟契約締結の件で吉川元春(「吉川駿河守」)・吉川元長(「吉川少輔次郎」)へ「神文」を提出。
       〔「山内首藤家文書」‐412〕
  7月29日 朝倉義景(「朝倉左京大夫義景」)、浅井長政を救援するため1万5千余の軍勢を率い近江国小谷に到来、「高山」(大嶽)
       に布陣。〔『信長公記』巻五〕
  7月29日 吉田兼見、小笠原貞慶(「小笠原」)・舟橋国賢(「清少」)・狩孫二郎・吉田浄慶(「盛方院」)の訪問を受ける。
       〔『兼見卿記』一〕
  7月29日 多聞院英俊、松永久秀(「松城」)が織田信長の江北出陣の隙を窺い山城国へ出撃した風聞に接す。〔『多聞院日記』二〕

8月
  8月 3日 室町幕府奉行衆の諏訪晴長(「左衛門尉神」)・松田秀雄(「散位平朝臣」)、「佐子上搴ヌ」の被官人である
       川端道喜(「中村五郎左衛門入道道喜」)へ居屋敷・地子・諸商売・諸公事役の免除を安堵。〔「川端道喜文書」‐3〕
  8月 4日 吉田兼見、足利義昭(「武家御所」)へ御祓を進上。〔『兼見卿記』一〕
  8月 5日 多聞院英俊、故「新織部」(松永久秀被官)の一周忌を悼む。〔『多聞院日記』二〕
  8月 6日 織田信長(「信長」)、陸奥国田村蒲倉大祥院が勝仙院より塩松「先達職」を預けられたので、熊野参詣の檀那を連れて上洛
       することを許可。〔「青山文書」一〕
  8月 8日 織田信長(「信長公」)、陣中に於いて越前国の前波九郎兵衛父子を謁見し、「御祝着斜めならず」とて帷子・小袖・馬皆具
       を下賜。〔『信長公記』巻五〕
  8月 9日 織田信長、富田弥六・戸田与次・毛屋猪介らを謁見す。〔『信長公記』巻五〕
  8月 9日 多聞院英俊、斎藤龍興(「美濃ノ土岐殿」)がしばらく大和国多聞山城(「此城」)に身を寄せていたが、美濃国より
       「ゥ牢人」(旧斎藤家臣)の呼応により美濃国へ下向したという風聞に接す。〔『多聞院日記』二〕
  8月13日 武田信玄(「信玄」)、下間頼慶(「下間上野法眼」)へ足利義昭(「京都」)より石山本願寺・織田信長(「信長」)間の
       和睦斡旋命令を受けたため、先ず石山本願寺へ飛脚を以て和睦締結の旨を通知。詳細は竜雲軒・堀野左馬允に伝達させる。
       〔「本願寺文書」一〕
  8月13日 武田信玄(「信玄」)、某(石山本願寺坊官)へ足利義昭(「京都」)より「御使節」として大和淡路守・竹田梅咲軒が
       甲斐国へ派遣され、石山本願寺・織田信長(「信長」)間の「和平」を武田信玄(「信玄」)に「媒介」する命令が通達された
       こと、また足利義昭の命令に応じる(「被応将軍之命」)ように通知。〔「津金寺文書」〕
  8月14日 吉田兼見、山科言継・山科言経・冷泉為満・中御門宣教の訪問を受ける。
       夕方、福寿坊・建仁寺宗印の訪問を受け、囲碁を張行。〔『兼見卿記』一〕
  8月15日 足利義尋(「武家御所若公」:足利義昭息)、誕生。〔『兼見卿記』一〕
  8月17日 吉田兼見、村井貞勝(「村井民部少輔」)へ見舞として鯉1匹を進上。
       村井貞勝は近江国へ下向中であったため、土産を息子の「御サカ」へ預ける。〔『兼見卿記』一〕
  8月18日 吉田兼見、足利義昭(「武家御所」)から幕府普請役を賦課される。〔『兼見卿記』一〕
  8月20日 吉田兼見、三淵藤英(「三太」)の朝食に招待され、夕刻に帰宅。〔『兼見卿記』一〕
  8月20日 吉田兼見、足利義昭の御所普請に人足を引き連れ出向く。
       大覚寺尊信・久我通堅・日野輝資・飛鳥井雅敦・高倉永相・北野社も普請役を賦課されていた。〔『兼見卿記』一〕
  8月24日 吉田兼見、三淵秋豪(「三弥」)の訪問を受ける。〔『兼見卿記』一〕
  8月25日 三淵秋豪(「三弥」)、吉田兼見邸に滞留。〔『兼見卿記』一〕
  8月25日 吉田兼見、三淵秋豪(「三弥」)より23日に足利義尋(「若公」)誕生の参賀があった旨を知らされ、金覆輪を用意。
       三淵秋豪(「三弥」)を同道し足利義昭へ足利義尋誕生を参賀する。〔『兼見卿記』一〕
  8月28日 多聞院英俊、昨今松永久秀(「久秀」)が大和国木津表へ手勢を派遣し「苅田沙汰」を強行したことを知る。
       〔『多聞院日記』二〕
  8月28日 松永久秀(「久秀」)、この暁に大和国木津表より「引退」。〔『多聞院日記』二〕
  8月29日 多聞院英俊、昨暁に松永久秀(「久秀」)が大和国木津表より「引退」したことを知る。〔『多聞院日記』二〕

9月
  9月 1日 多聞院英俊、松永久秀が刈田狼藉を強行した大和国木津へ使用人を派遣し様子を調べる。〔『多聞院日記』二〕
  9月 3日 織田信長(「信長」)、革島一宣(「河島越前守」)へ足利義昭「入洛」の際に細川藤孝(「細川兵部大輔」)の「与力」
       したこともあり、今改めて「陣参」・「普請」以下の負担を至急相談することを指示。〔「革島文書」〕
  9月 4日 吉田兼見、足利義昭(「武家御所」)へ御祓を進上。〔『兼見卿記』一〕
  9月10日 吉田兼見、織田信長屋敷作事奉行である島田秀満(「島田」)と村井貞勝(「村井方」)より人足徴発の指示を受けるが免除
       される。〔『兼見卿記』一〕
  9月12日 吉田兼見、建仁寺永源庵に招かれ後醍醐「天皇御旗」と足利尊氏「将軍御旗」・足利尊氏「御鎧」を見物。
       〔『兼見卿記』一〕
  9月13日 吉田兼見、三淵秋豪(「三淵弥四郎」)と京都郊外伏見で会合の約束をするも三淵秋豪(「三弥」)の下向が無かったため、
       山城国紀伊郡深草の雄斎を訪問。〔『兼見卿記』一〕
  9月14日 細川藤孝(「細兵」)・三淵藤英(「三太」)、近江国北郡より上洛。織田信長(「信長」)は細川藤孝・三淵藤英に対して
       懇情であったという。〔『兼見卿記』一〕
  9月15日 明智光秀(「明智十兵」)、上洛。〔『兼見卿記』一〕
  9月15日 吉田兼見、施薬院全宗(「施薬院全宗」)の所に逗留している明智光秀(「明智十兵」)を見舞う。〔『兼見卿記』一〕
    この頃 織田信長、近江国虎御前山城に羽柴秀吉(「羽柴藤吉郎」)を「定番」として配備させる。〔『信長公記』巻五〕
  9月16日 織田信長(「信長公」)・織田信忠(「奇妙公」)、近江国横山城より美濃国岐阜城へ帰還す。〔『信長公記』巻五〕
  9月17日 吉田兼見、丹波国勝龍寺城の細川藤孝(「細兵」)へ書状を送付。蓮養坊の知行に関して明智光秀(「明十」)への口入を
       依頼。〔『兼見卿記』一〕
  9月18日 吉田兼見、伏見の三淵藤英(「三太」)を、次いで勝龍寺城の細川藤孝(「細兵」)を訪問。吉田兼見、勝龍寺城へ宿泊。
       〔『兼見卿記』一〕
  9月19日 大覚寺尊信、丹波国勝龍寺城の細川藤孝(「細兵」)を訪問。吉田兼見、勝龍寺城へ宿泊。〔『兼見卿記』一〕
  9月19日 織田信長(「信長」)、山城国天龍寺塔頭の妙智院へ院領の山城国西院安弘名を「直務」させる旨を命令。
       詳細は武井夕庵(「夕庵」)に伝達させる。〔「妙智院文書」乾〕
  9月20日 木下秀吉(「木下藤吉郎秀吉」)・武井夕庵(「夕庵尓云」)、山城国天龍寺の塔頭妙智院および西院百姓へ西院のうち
       妙智院策彦東堂の寺領分については織田信長(「殿様」)より「直納」が命令された旨を通達。〔「妙智院文書」乾〕
  9月20日 吉田兼見、丹波国勝龍寺城より帰宅。〔『兼見卿記』一〕
  9月22日 多聞院英俊、竹内秀勝(「竹下」:松永久秀被官)の「追善」に参席。〔『多聞院日記』二〕
  9月26日 織田信長(「信長」)、上杉謙信(「不識庵」)へ朝倉義景(「朝倉義景」)が近江国小谷城に籠城しており、種々帰国を
       計画しているが不調に終わっており、必ずや朝倉義景を討ち取る意志であること、近江国の戦況は山崎専柳斎(上杉謙信使者)
       が見聞した通りであること、小谷城攻囲の様子と織田信長(「信長」)自身は横山城に移動したこと、「東国辺」の情報収集に
       努めること、上杉謙信に越後国周辺の戦備を充分にするべきことを通知。
       〔米沢市立図書館所蔵『新集古案』、『温故足徴抜萃』〕
  9月26日 武田信玄、遠藤加賀守へ三村兵衛尉を派遣した旨を通知。〔「経聞坊文書」‐32〕
  9月27日 施薬院全宗(「徳雲軒」)、吉田兼見を訪問。吉田兼見の依頼により施薬院全宗(「徳雲軒」)、吉田兼右の脈を診察。
       〔『兼見卿記』一〕
  9月28日 織田信長(「信長」)、革島一宣(「革島越前守」)・革島秀存(「革島市介」)へ再度知行を安堵する朱印状を発給。
       詳細は滝川一益(「滝川」)に伝達させる。〔「革島文書」〕
  9月28日 滝川一益(「滝川左近一益」)、細川藤孝(「細兵様」)へ革島氏への知行安堵の措置で滝川一益が「失面目」い、再度知行
       安堵の織田信長「朱印」が発給されたことを通知。〔「革島文書」〕
  9月  日 織田信長、足利義昭へ全17ヶ条の異見「条々」を提出。〔『尋憲記』九 元亀4年2月22日条〕
  9月  日 織田信長、近江国金森へ全3ヶ条の「定条々」が下される。〔「善立寺文書」〕
  9月  日 武田信玄、遠藤加賀守へ東美濃国内に100貫の地を給与。
       詳細は三村兵衛尉に伝達させる。〔「鷲見栄造氏所蔵文書」‐2〕

10月
 10月 3日 武田信玄、甲斐国府中を出発。
 10月 4日 吉田兼見、足利義昭(「武家御所」)へ御祓を進上。〔『兼見卿記』一〕
 10月 7日 織田信長(「信長」)、山城国妙心寺へ壬生西五条の田および塔頭領を安堵。〔「妙心寺文書」六〕
 10月 7日 矢部家定(「矢部善七郎光佳」)、上野秀政(「上野中務大輔」)・島田秀満(「島田但馬守」)・
       村井貞勝(「村井民部少輔」)へ山城国妙心寺は「勅願所」であるため織田信長「御朱印」が発給されて散在している寺領が
       安堵された旨を通知。〔「妙心寺文書」六〕
 10月22日 織田信長(「信長」)、徳川家康(「三河守殿」)へ三方ヶ原決戦を前に作戦を申し含めた簗田広正(「簗田左衛門太郎」)
       を派遣した旨を通知。〔「田島文書」〕
 10月22日 吉田兼見、吉田牧庵(「牧庵」)より夕食に招待される。細川藤孝(「細兵」)・三淵藤英(「三太」)、来会す。
       〔『兼見卿記』一〕
 10月22日 吉田兼見、施薬院全宗(「徳雲軒」)を訪問し吉田兼右の薬の調合を依頼。〔『兼見卿記』一〕
 10月22日 吉田兼見、島田秀満(「島田」)の息子が病気というので見舞う。〔『兼見卿記』一〕
 10月23日 吉田兼見、島田秀満(「島」)の息子のために病気回復を祈念、祓鎮札を贈る。〔『兼見卿記』一〕
 10月23日 多聞院英俊、成身院に於いて談合、そして風呂に入る。また先に織田軍(「信長衆」)への礼物銀子合力の件で各自が落胆。
       〔『多聞院日記』二〕
 10月24日 吉田兼見、細川藤孝(「細兵」)・三淵秋豪(「三弥」)を訪問。
       細川藤孝(「細兵」)・里村紹巴(「紹巴」)が、山城国愛宕郡高野の蓮養坊の知行山門領について明智光秀(「明智」)へ
       口入することになっていたが、未だ実行していないとのことであった。〔『兼見卿記』一〕
 10月24日 島田秀満(「島田」)・村井貞勝(「村井」)、吉田郷へ藁の徴発をするも吉田兼見側の要請によりこれを免除。
       〔『兼見卿記』一〕
 10月25日 山城国愛宕郡高野の蓮養坊、出京。吉田兼見へ細川藤孝(「細兵」)・三淵秋豪(「三太」)の使者が到来。
       その使者の意を受け吉田兼見は細川藤孝・三淵秋豪を訪問。〔『兼見卿記』一〕
 10月25日 吉田兼見、村井貞勝(「村井民部少輔」)を訪問し藁徴発免除を謝す。〔『兼見卿記』一〕
 10月  日 織田信長、近江国永明寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「永明寺文書」〕

11月
 11月 2日 木下秀吉(「木下藤吉郎秀吉」)・塙直政(「塙九郎左衛門尉」)、京都紫野大徳寺へ寺領の件で「信長朱印」が2度に
       わたって発給されているので詳細は存じているであろうことを確認し、今後は秀吉・塙直政の両人に「疎意」を存じてはならぬ
       こと、賀茂社領の件は石成友通(「石主」)へ申し届けること、詳細は蜂須賀正勝(「蜂須賀」)へ通達させることを通達。
       〔「大徳寺文書」二〕
 11月 3日 羽柴秀吉(「羽柴藤吉郎」)、近江国虎御前山城に攻撃を仕掛けてきた浅井七郎を先鋒とする浅井・朝倉連合軍を撃退。
       〔『信長公記』巻五〕
 11月 3日 滝川彦右衛門(織田信長近習:勘当中)、近江国虎御前山城に居残り戦功を挙げる。〔『信長公記』巻五〕
 11月 5日 朝倉義景、遠藤加賀守へ武田信玄の遠江国出馬と遠江国・三河国の状況を山崎吉家に注進した内容を披露した旨を通知。
       〔「鷲見栄造氏所蔵文書」‐4〕
 11月 5日 朝倉義景、美濃国安養寺へ武田信玄の遠江国出馬と遠江国・三河国の状況を山崎吉家に注進した内容を披露した旨を通知。
       〔「安養寺文書」‐5〕
 11月12日 武田信玄、遠藤加賀守へ遠江国過半の平定と明春の美濃国岐阜の攻略予定を通知。〔「鷲見栄造氏所蔵文書」‐6〕
 11月13日 織田信長(「信長」)、曽我助乗(「曽我兵庫頭」)へ安宅信康(「安宅神太郎」)の件で足利義昭の説示を諒承したが、
       その雑掌の申し立ては難題であること、領知の件は安宅信康の要請を容れて良いと考えている旨を通知。
       〔「古簡雑纂」十一〕
 11月13日 織田信長(「信長」)、薬師寺弥太郎へ「一雲」と「小次郎」の借銭を無効とし、同様に「小二郎」の時に売却した田地も
       早々に取り返して領知として安堵。〔「向井英太郎氏所蔵文書」〕
 11月14日 武田信玄、岩村城を攻略。〔「鷲見栄造氏所蔵文書」‐5〕
 11月15日 織田信長(「信長」)、延友佐渡守へ美濃国岩村城が甲斐武田氏に接収されたにも関わらず忠節を尽くしたことにより美濃国
       日吉郷・釜戸本郷を給与す。〔「上原準一氏所蔵文書」〕
 11月15日 浅井長政、遠藤加賀守へ武田信玄との密約(上洛?)が締結された旨を通知。〔「鷲見栄造氏所蔵文書」‐3〕
 11月15日 磯谷久次(「磯谷新右衛門尉」)の息子、元服。
       明智光秀(「明智」)の命名で「彦四郎」と名乗り、山岡景佐(「山岡対馬守」)が烏帽子親となる。〔『兼見卿記』一〕
 11月15日 磯谷彦四郎、吉田兼見へ元服祝儀の返礼のために来訪。〔『兼見卿記』一〕
 11月16日 吉田兼見、磯谷久次(「磯谷新右衛門尉」)の祝宴に招待される。〔『兼見卿記』一〕
 11月16日 山岡景佐(「山岡対馬守」)、吉田兼右の見舞に訪れたので吉田兼見が同行。〔『兼見卿記』一〕
 11月17日 吉田兼見、磯谷久次(「磯谷方」)へ使者を派遣。〔『兼見卿記』一〕
 11月19日 武田信玄、遠藤加賀守へ進軍状況を通知。〔「鷲見栄造氏所蔵文書」‐5〕
 11月19日 松永久秀(「松城」)、大和国片岡の近辺へ出撃し放火す。〔『多聞院日記』二〕
    この頃 織田信長、武田信玄が遠江国二俣城を攻囲したことを知る。〔『信長公記』巻五〕
 11月20日 織田信長(「信長」)、上杉謙信(「不識庵」)へ全5ヶ条にわたり織田信長(「信長」)と武田信玄(「信玄」)の敵対と
       その状況を通知。〔『歴代古案』九、『古証文』五、「古今消息集」十、『武家事紀』二十九〕
 11月20日 松永久秀、大和国片岡の近辺を放火す。〔『多聞院日記』二〕
 11月22日 松永軍、大和国多聞山城より出撃し今市を放火す。筒井順慶軍(「筒井衆」)が撃退したが、少々の損害を受けた。
       〔『多聞院日記』二〕
 11月24日 織田信長、尾張国の西御堂方へ「反銭」請取状を下す。〔「氷室和子氏所蔵文書」〕
 11月25日 吉田兼見、所用のため細川藤孝(「細兵」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕
 11月26日 細川藤孝(「細兵」)、吉田兼見を訪問後、直接近江国坂本へ下向。〔『兼見卿記』一〕
 11月26日 吉田兼見、吉田兼右の堂上許可(「家君堂上之事」)を足利義昭(「武家」)へ細川藤孝(「細兵」)を介して申請。
       足利義昭、吉田兼右の堂上(「家君堂上之事」)を許容し飛鳥井雅敦(「飛鳥井黄門」)をして奏聞させる。
       〔『兼見卿記』一〕
 11月27日 吉田兼見、足利義昭(「武家御所」)を訪問し「一件」(吉田兼右の堂上許容)について申し入れる。〔『兼見卿記』一〕
 11月28日 柴田勝家(「柴田勝家」)、狛左馬進へ山城国上狛の延命寺を柴田勝家「与力」として織田信長(「殿様」)へ上申し召し
       抱えて還住させたことを通知し、ついては延命寺の知行には違乱無く、近所故の馳走を賞す。
       〔「斎藤献氏所蔵文書」、「保阪潤治氏所蔵文書」六〕
 11月28日 吉田兼見、細川藤孝(「細兵」)を訪問し「一義」(吉田兼右の堂上許容)について申し入れる。〔『兼見卿記』一〕
 11月29日 吉田兼見、細川藤孝(「細兵」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕
 11月  日 織田信長(「信長」)、山城国の狛秀綱(「狛左京亮」)へ狛郷及び家来等を安堵する。〔「丹波柏原狛忠雄氏文書」〕


12月
 12月 1日 立花直次、誕生(異説1574年)。〔『日本史人物生没年表』〕
 12月 2日 織田信長、尾張国の伊藤惣十郎を尾張・美濃両国の「唐人方」(輸入呉服)ならびに国産呉服方の商人司とし、たとえ売子で
       あっても織田信長の収取分に対して「夷子講」の裁許をさせ、他国商人も尾張・美濃国両国に於いて商売する場合は届け出る
       こととする旨を通達。〔『寛延旧家集』、「金鱗九十九之塵」巻第十八〕
 12月 3日 朝倉義景、近江国より撤退。
 12月  3日 木下秀吉、松尾神社領を安堵。〔「松尾神社文書」〕
 12月 6日 島田秀満(「島田但馬守秀満」)・丹羽長秀(「丹羽五郎左衛門長秀」)・森長可(「森勝蔵可長」)・
       塙直政(「塙九郎左衛門直政」)・金森長近(「金五郎八長近」)・「岩弥三吉勝」・木下秀吉(「木藤秀吉」)・
       成田長重(「成田杉長重」)、某へ「ゥ商人」の件で、たとえ誰の家来であっても織田信長「御朱印」の旨を通達。
       〔『寛延旧家集』、「金鱗九十九之塵」巻第十八〕
 12月 6日 織田信長(「信長」)、成田義金(「成田与左衛門尉」)へ尾張国内で津田又十郎の知行している秋定方60貫文を没収して
       宛行うことを通達。〔「阿波潮文書」〕
 12月11日 吉田兼見、明智光秀(「明智十兵衛尉」)より一族某の山王社敷地内での新城普請に際し不快に悩む旨を書面で相談され祈念
       を依頼される。
       吉田兼見、明智光秀へ鎮札・地鎮を送付する旨を返答。〔『兼見卿記』一〕
 12月12日 吉田兼見、明智光秀(「明十」)への山王社敷地の安鎮札を整える。〔『兼見卿記』一〕
 12月19日 多聞院英俊、大和国横田に於いて唯識講米夏季分6斗5升を織田軍(「信長衆」)の去夏の通達により成身院へ送付。
       ならびに当季の7斗は3石送付した内に含ませた。〔『多聞院日記』二〕
 12月22日 遠江国三方ヶ原(「身方が原」)に於いて武田信玄と織田・徳川家康連合軍が激突。〔『信長公記』巻五〕
 12月22日 長谷川橋介・佐藤藤八・山口飛騨・加藤弥三郎(織田信長小姓衆:勘当中で徳川家康庇護下にあった)、遠江国三方ヶ原合戦
       に於いて討死。〔『信長公記』巻五〕
 12月22日 吉田兼見、明智光秀(「明智」)を見舞うため近江国坂本へ下向。城中の「天主」作事を見物し驚く。〔『兼見卿記』一〕
 12月27日 多聞院英俊、松永久通(「金吾」)へ歳末礼のため大和国多聞山城へ登城し贈物を進上。〔『多聞院日記』二〕
 12月25日 三淵秋豪(「三淵弥四郎」)・小笠原貞慶(「小笠原民部」)・舟橋国賢(「清少」)、吉田兼見を訪問。
       〔『兼見卿記』一〕
 12月26日 多聞院英俊、織田軍(「信長衆」)からの通達を受けて成身院より銀子100枚を請われ、各自が合力し3石を送付したが、
       この外に唯識講1口3斗9升ほどが送付されたことを知る。〔『多聞院日記』二〕
 12月29日 多聞院英俊、松永久通(「金吾」)より「三昧田」の件で通達が来たので大和国多聞山城へ登城。夕刻に談義があった。
       〔『多聞院日記』二〕
 12月  日 三好康長(「山城入道」)、京都大山崎惣中へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「離宮八幡宮文書」〕
 12月  日 篠原自遁(「弾正入道」)・「大和守」某、京都大山崎惣中へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「離宮八幡宮文書」〕


    この年 宇喜多秀家、誕生(異説1573年)。〔『日本史人物生没年表』〕
        加賀殿(前田摩阿姫)、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
        京極高知、近江国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
        名古屋山三郎、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕


フロントページに戻る
目次に戻る
項目別文献・論文一覧へ