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        【 天下統一期年譜 1571年 】

元亀 2(1571)年 

1月
  1月 1日 山科言継、吉田兼見(「吉田侍従」)より「春日社」の神供を例年の如く贈られ満足す。〔『言継卿記』四〕
  1月 1日 山科言継、足利義昭(「武家」)へ「参賀」すべきであったが、皆「無足」というので参賀は無かった。〔『言継卿記』四〕
  1月 2日 山科言継、この夜に正親町天皇の「黒戸」への「別殿行幸」を知る。〔『言継卿記』四〕
  1月 2日 「一之対」(「武家御所御局」:足利義昭妾)、方違(「門違」)のため神龍院梵舜へ到来。〔『兼見卿記』一〕
  1月 2日 織田信長(「信長」)、浅井・朝倉氏と石山本願寺の連携遮断のため木下秀吉(「木下藤吉郎」)に近江国姉川から朝妻に
       至る海陸交通路の閉鎖を命令し、もし不正があれば「成敗」すべきを通達。〔「東大編纂所所蔵文書」〕
  1月 2日 織田信長(「信長」)、近江浅井氏を離れた久徳左近兵衛尉へ「注文」(報告書)の送付を賞し、この春早々に高宮右京亮
       (「高宮」)を退治するので油断無く奔走することを促す。詳細は木下秀吉(「木下藤吉郎」)より伝達させる。
       〔「神田孝平氏所蔵文書」二、「集古文書」八‐十一〕
  1月 2日 織田信長(「信長」)、堀秀村(「堀次郎」)へ「注文」(報告書)の送付を賞し、この春早々に軍事行動をとる予定である
       ので油断無く奔走することを促す。詳細は木下秀吉(「木下藤吉郎」)より伝達させる。
       〔「神田孝平氏所蔵文書」二、『武家名目抄』五 文書部十四〕
  1月 4日 山科言継、竹内長治・飛鳥井雅教・飛鳥井雅敦・庭田重保・朽木兵庫助・祥寿院三位・豊原守秋・甲斐守久宗・内豎国益・
       仏師兵部・「御大工総官」・御大工総官半左衛門・「盛方院」・銕斎・速水右近・真継源五郎らの来訪を受ける。
       〔『言継卿記』四〕
  1月 4日 吉田兼見、足利義昭(「武家御所」)へ祓を進上。〔『兼見卿記』一〕
  1月 4日 松永久秀(「松城」)、大和国多聞山城(「山城」)へ帰還。〔『多聞院日記』二〕
  1月 5日 山科言経(「武衛」)、近所の「佐竹」某(佐竹定実か)の「夢想連歌」に参席。〔『言継卿記』四〕
  1月 5日 山科言継、中山孝親・中院通勝・堀川近江守・笠井源太夫・里村紹巴・里村昌叱・里村心前・加田新左衛門尉・速水彦太郎・
       立入左京進・河田左橘兵衛尉・観世三郎等の年頭挨拶を受ける。〔『言継卿記』四〕
  1月 5日 山科言継、三条西実枝を訪問し去年より「預置」いた「公卿補任」全部を返還してもらう。但し「先皇」(後奈良天皇)分の
       草本3冊及び「当御代」(正親町天皇)分の草本1冊は「残置」いた。〔『言継卿記』四〕
  1月 5日 松永久秀(「松城」)、大和国多聞山城(「山城」)に於いてこの日より大和国衆の礼を受ける。〔『多聞院日記』二〕
  1月 6日 細川藤孝・細川忠興・細川興元(「細川父子三人」)・松井康之・観世国広、吉田兼見を訪問。〔『兼見卿記』一〕
  1月 6日 吉田兼見、明智光秀(「明智十兵衛尉」)の使者である赤塚・寺内・寺本・赤塚新右衛門尉の訪問を受ける。
       〔『兼見卿記』一〕
  1月 6日 大和国興福寺「寺門衆」、松永久秀の多聞山城(「多城」)へ祗候。〔『多聞院日記』二〕
  1月 7日 竹内秀勝(「竹下」)、多聞院英俊へ20疋を持参す。〔『多聞院日記』二〕
  1月 8日 多聞院英俊、大和国多聞山城の松永久秀(「城州」)へ礼問。松永久通(「金吾」)・竹内秀勝(「竹下」)らへも贈物を
       する。〔『多聞院日記』二〕
  1月10日 多聞院英俊、「大新御所」より竹内秀勝(「竹下」)へ音信をするようにとの書簡を受ける。〔『多聞院日記』二〕
  1月11日 山科言継、足利義昭(「武家」)へ「咳嗽」のため祗候できず。〔『言継卿記』四〕
  1月14日 吉田兼見、三淵藤英(「三太」)の右筆である中原康雄・備中の訪問を受ける。〔『兼見卿記』一〕
  1月14日 多聞院英俊、忍辱山来迎院(宝来の吉岡方被官)の所領が「闕所」となったが、松永久秀(「松城」)へ出仕もしないで既に
       「逐電」してしまった。忍辱山来迎院の「預ヶ物」があるというので阿弥陀院の蔵が閉鎖され、花厳院に使者を派遣したことを
       知る。〔『多聞院日記』二〕
  1月16日 吉田兼見、幕府(「武家御所」)以下諸家へ祓を贈る。〔『兼見卿記』一〕
  1月18日 この日、「禁裏」に於いて「御三毬打」が行われることになっていたが、昨日よりの雨で明日に延引。
       また山科言経(「武衛」)、「上階」す。〔『言継卿記』四〕
  1月19日 この日の早旦、「禁裏」に於いて「御三毬打」が行われた。〔『言継卿記』四〕
  1月19日 中坊飛騨守(松永久秀被官)に男子が誕生。〔『多聞院日記』二〕
  1月20日 多聞院英俊、中坊飛騨守(松永久秀被官)に男子が誕生したというので両種・樽1荷を贈る。〔『多聞院日記』二〕
  1月21日 吉田兼右(「家君」)、明智光秀(「明智」)へ見舞いのため近江国志賀へ赴く。〔『兼見卿記』一〕
  1月23日 織田信長(「弾正忠信長」)、上杉謙信(「上杉弾正少弼」)へ陸奥国への鷹師両人を派遣するため「過書」及び道中の警固
       を依頼。〔「高橋文書」、「吉川金蔵氏所蔵文書」〕
  1月23日 里村紹巴・里村昌叱・観世元尚(「観世大夫」)、吉田兼右(「家君」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕
  1月24日 吉田兼見、浅井長政(「江州北郡」)へ例年の祓を贈る。〔『兼見卿記』一〕
  1月25日 山科言継、この年はじめて足利義昭(「武家」)へ祗候。「御新造常御所」に於いて対面があった。〔『言継卿記』四〕
  1月25日 この夜、幕府御所内(「武家御城内」)に於いて聖光坊が「女敵討」に逢い、聖光坊は死亡、犯人の「男女両人」は捕縛
       されたという。〔『言継卿記』四〕
  1月26日 山科言継、京都東山の吉田邸を訪問。吉田兼右・吉田兼見父子と対面し扇1本ずつ贈呈。頻りに留められたので供者を返し、
       宿泊。亥下刻まで吉田兼見(「侍従」)と雑談す。吉田兼右(「右兵衛督」)は「歯痛」で「平臥」していた。
       〔『言継卿記』四〕
  1月27日 山科言継、午時に吉田邸を出立、帰京。〔『言継卿記』四〕
  1月28日 この日の巳刻、聖光坊妻と「真男」(間男)両人が「河原者」の警固で一条室町から六条河原まで車にて引き回されたと
       いう。「貴賤之見物所なし」という状況であった。山科言継、この出来事を「不可説不可説」と評す。〔『言継卿記』四〕
  1月28日 山科言継、明日大覚寺尊信法親王が「御和漢」を催すため「執筆」を山科言経(「左兵衛督」)に依頼されたが「故障」申し
       たため、昨日聖護院道増法親王より4・5度の仰せがあったが、足利義昭(「武家」)へ「不参」の件を通知したため装束を
       持参し、巳刻に聖護院道増法親王を訪問。〔『言継卿記』四〕

2月
  2月 1日 山科言継、未刻に帰宅した山科言経(「武衛」)より昨日の大覚寺尊信法親王のもとで行われた「御和漢」の様子を聞く。
       参席者は大覚寺尊信法親王・「策彦」・聖護院道増法親王・里村紹巴・不断光院長老芳渓・細川藤孝(「細川兵部大輔藤孝」)
       らであったという。〔『言継卿記』四〕
  2月 2日 山科言継、「上辺」へ「当年之御礼」のため出向く。
       「三条殿」を訪問した際に「祖母」と対面し「少将」(三条公仲)の件を足利義昭(「武家」)へ取り成してくれるよう依頼
       される。〔『言継卿記』四〕
  2月 3日 三淵藤英(「三太」)、吉田兼見を訪問。〔『兼見卿記』一〕
  2月 4日 山科言継、三条西実枝が借用した「公卿補任」の「先皇」(後奈良天皇)分の3冊と「当御代」(正親町天皇)分1冊の
       計4冊を返還してもらう。〔『言継卿記』四〕
  2月 7日 吉田兼見、山科言継を訪問。〔『言継卿記』四〕
  2月 7日 吉田兼見、この年最初の出京。幕府を訪問し足利義昭(「武家御所」)に謁す。
       その後、三淵藤英(「三太」)・細川藤孝(「細兵」)・曽我助乗(「曽我」)・後藤某・沼田弥七郎・小笠原貞慶・
       舟橋国賢・川次満中・山科言継・竹内季治・中御門宣教・蓮光院を訪問して廻る。〔『兼見卿記』一〕
  2月 8日 葉室頼房、この年はじめて出京す。眼病のため遅延していた「公武為年始御礼」のためという。〔『言継卿記』四〕
  2月 8日 山科言継、葉室頼房を同行し足利義昭(「武家」)へ祗候。「御馬場」に於いて礼問。〔『言継卿記』四〕
  2月 8日 葉室頼房、入夜に「禁裏」(正親町天皇)へ祗候、対面があった。誠仁親王(「親王御方」)へも対面。〔『言継卿記』四〕
  2月 8日 山科言継、入夜に山口甚介(「武家御足軽」)の来訪を受ける。〔『言継卿記』四〕
  2月 8日 竹内秀勝(「竹下」)、夕刻に美濃国より大和国多聞山城に帰城。〔『多聞院日記』二〕
  2月 9日 葉室頼房・山科言経(「武衛」)、山口甚介(武家御足軽)のもとへ出向く。〔『言継卿記』四〕
  2月 9日 吉田兼見、細川藤孝(「細兵」)が山城国勝龍寺城へ帰城するというので途中路次にて尋ね訪問。〔『兼見卿記』一〕
  2月 9日 多聞院英俊、竹内秀勝(「竹下」)が昨夕に美濃国より大和国多聞山城に帰城したことを知る。〔『多聞院日記』二〕
  2月11日 山科言継、飯河信堅(「飯川肥後守」)よりこの日足利義昭(「武家」)が初めて「御連歌」会を催すというので参上する
       ようにとの使があったが、辞退の返答をする。〔『言継卿記』四〕
  2月16日 吉田兼右(「家君」)、里村紹巴の連歌興行(「二百韻」)に出席。〔『兼見卿記』一〕
  2月17日 吉田兼見、兼ねてからの約束により吉田兼右(「家君」)と共に里村紹巴を訪問。
       また細川藤孝(「細兵」)・三淵藤英(「三太」)の来訪を受ける。〔『兼見卿記』一〕
  2月19日 山科言継、土御門有脩(「陰陽頭有脩朝臣」)より上洛の音信を受ける。〔『言継卿記』四〕
  2月19日 山科言継、飯河信堅(「飯川肥後守」)へ大原郷「竹公事銭」の件で書状を遣わす。〔『言継卿記』四〕
  2月19日 吉田兼見、明智光秀(「明智方」)の依頼により人足25人を派遣。〔『兼見卿記』一〕
  2月20日 山科言継、土御門有脩(「刑部卿有脩朝臣」)の旅宿を訪問するも「他行」であった。〔『言継卿記』四〕
  2月21日 土御門有脩(「刑部卿」)、山科言継を訪問。山科言継、土御門有脩へ暦の不審な点60ヶ条を諮問。〔『言継卿記』四〕
  2月25日 織田信長(「信長」)、樋口直房(「樋口三郎兵衛」)・木下秀吉(「藤吉郎」)へ近江国佐和山城「おさへ」の砦を解体
       した資材を預け、近江国小谷城攻囲の砦普請の資材とすること、この旨を佐和山守将の丹羽長秀(「五郎左衛門」)に通達した
       ので樋口直房・木下秀吉が徹底した管理をするよう命令。〔「織田文書」〕
  2月25日 大和国興福寺、「柳本」某へ付城築造の用意として人夫を派遣。〔『多聞院日記』二〕
  2月25日 竹内秀勝(「竹下」)、光林院に於いて「新織」より供応を受ける。〔『多聞院日記』二〕
  2月28日 織田信長(「信長」)、小早川隆景(「小早川左衛門佐」)へ「芸豊間無事」の件は再三足利義昭「上意」の望むところで、
       久我晴通(「愚庵」)が豊後国へ下向すること、聖護院道澄(「聖新門主」)が安芸国へ下向することを通知し馳走を促す。
       〔「竹内文平氏所蔵文書」四〕
  2月28日 織田信長(「信長」)、大友義鎮(「大友左衛門督入道」)へ「豊芸間」の件は再三足利義昭「上意」の望むところで、
       久我晴通(「愚庵」)が豊後国へ下向すること、「天下之儀」の馳走を促す。〔「大友文書」六〕
  2月30日 山科言継、中御門宣教・相国寺雲松軒春湖を同行し吉田邸を訪問。吉田兼右・吉田兼見父子は細川藤孝(「細川兵部大輔」)
       へ囲碁のため出向いているというので茶を受用し帰宅。〔『言継卿記』四〕

3月
  3月 1日 この暁、大和国奈良周辺は「地震」・「大神動」にみまわれる。〔『多聞院日記』二〕
  3月 3日 山科言継、「武家御足軽衆」の山口甚介・古田左介らの来訪を受ける。〔『言継卿記』四〕
  3月 3日 多聞院英俊、松永久通(「松永金吾」)が大和国興福寺寺僧衆へ「孟子」1冊ずつ書写・献上を命令したことを知り、
       「先代未聞ノ課役」と評す。〔『多聞院日記』二〕
  3月 5日 多聞院英俊、竹内秀勝(「竹下」)が「大将」として柳本表へ再度出陣することを知る。〔『多聞院日記』二〕
  3月 7日 山科言継、勧修寺晴豊へ「付小折紙」で山科言経(「武衛」)の「八座勅許」及び山科言継の「大宰権帥」辞退の件を
       申し入れる。〔『言継卿記』四〕
  3月 7日 山科言経(「武衛」)、「参議」に昇進の勅許を受ける。〔『言継卿記』四〕
  3月 7日 山科言継、大宰「権帥」の辞退を承認される。〔『言継卿記』四〕
  3月 8日 山科言継、勧修寺晴豊を訪問。「昨日早々申沙汰」を謝す。また山科言経の「左兵衛督」は「如元之由宣案」を所望す。
       次いで三条西実枝を訪問し、山科言経(「武衛」)に「八座勅許」があった旨を通知。次いで長橋局(薄好子)へ祗候し
       「言経八座勅許」の礼を上奏。山科言経(「言経」)本人は三条西実枝邸に於ける千句興行に参席しているので改めて参上する
       旨を上申。〔『言継卿記』四〕
  3月 9日 山科言継、辰刻より淨花院の伊勢三郎宿所に於いて幕府「奉公衆」による「手猿楽」が興行されたことを知る。
       〔『言継卿記』四〕
  3月11日 松永久秀(「多聞山」)、大和国奈良中へ「花盛」ではあるが花見を厳禁する旨を通達。〔『多聞院日記』二〕
  3月15日 山科言継、細川藤孝(「細川兵部大輔」)邸に於いて幕府「奉公衆」による「手猿楽」18番が興行されたこと、
       「久我」(久我通俊か)・高倉永相・日野輝資等が見物に出たという「風聞」を知る。〔『言継卿記』四〕
  3月15日 吉田兼見、吉田兼右(「家君」)と共に細川藤孝(「細兵」)の舞曲張行に出席。十番終了後に帰宅。〔『兼見卿記』一〕
  3月16日 古市安房守(大和国人)、死去。〔『多聞院日記』二〕
  3月18日 「牢人」し山科邸の近所に借屋していた信濃国の「小笠原入道」、山科邸に来訪。
       山科言継は外出していたため、山科言経(「武衛」)ばかりが対面した。〔『言継卿記』四〕
  3月19日 松永久秀(「多聞山」)、大和国奈良中の花が「落花」したが花見および山木を折り取ることを禁止する旨を通達。
       〔『多聞院日記』二〕
  3月20日 織田信長(「信長」)、上杉謙信(「上杉弾正少弼」)へ「天下之儀」については特に変化が無いことを通知し鷹を求める。
       〔「上杉家文書」一、「上杉古文書」八〕
  3月21日 多聞院英俊、古市安房守(「古市阿房守公」)が去16日に死去したこと、この日に葬礼が行われることを知る。
       〔『多聞院日記』二〕
  3月28日 「朽木弥十郎衆」、大覚寺尊信法親王に「被仰付」れて「桂宮院」へ「打入」る。山科言継、この事件を「理不尽」と評す。
       〔『言継卿記』四〕

4月
  4月 3日 山科言継、山科言経(「武衛」)を同行し「久我入道」(久我晴通か)が豊後国下向というので「暇乞」す。
       〔『言継卿記』四〕
  4月 3日 山科言継、禁中台所に於いて勧修寺晴豊に「小折紙」を遣わし、山科言経(「武衛」)の「左衛門督」転任と左兵衛督は元の
       如くという旨を依願。〔『言継卿記』四〕
  4月 3日 山科言経、「左衛門督」に転任。但し「左兵衛督」は元の如し。〔『公卿補任』〕
  4月 6日 勧修寺晴豊、山科言継を訪問するも外出中であった。〔『言継卿記』四〕
  4月 7日 山科言継、昨晩勧修寺晴豊が来訪したことを知る。山科言経(「武衛」)の「左衛門督」転任と左兵衛督は元の如くという
       「勅許」が去3日に下されたとのことであった。〔『言継卿記』四〕
  4月10日 山科言継、「武家御足軽」鈴木某(松平親乗弟)が三河国へ下向するというので誓願寺長老及び松平親乗(「松平和泉守」)
       への贈物・書状を言伝す。〔『言継卿記』四〕
  4月10日 山科言継、勧修寺晴豊へ山科言経の「左衛門督」の「申沙汰」の件で礼問す。〔『言継卿記』四〕
  4月11日 織田信長(「信長」)、小早川隆景(「小早川左衛門佐」)へ毛利元就(「奥州」)・毛利輝元(「金吾」)からの詳細な
       報告を賞し、畿内及び織田信長「分国」の状況は近江国が「属平均」したことを通知。また丹後国・但馬国の土豪が尼子勝久に
       味方し、出雲国・伯耆国沿岸を掠奪している件で足利義昭(「上意」)の「御下知」を要請されたことに応える。
       〔「小早川家文書」一〕
  4月11日 武井夕庵(「尓云」)・木下秀吉(「木下藤吉郎」)、小早川隆景(「小早川左衛門佐」)へ毛利元就・毛利輝元
       (「御父子様」)より織田信長(「信長」)に「条々」が要請されたことを受けて返事を通知。その内容は丹波国・但馬国の
       「賊船」の件は足利義昭(「公儀」)に上申し、織田信長(「信長」)が馳走したこと、出雲国・伯耆国の件は安芸毛利氏に
       委任すること、畿内及び「信長分国」は「静謐」であることであった。〔「小早川家文書」一〕
  4月14日 山科言継、「禁裏御学問所」の「梅之枝洗」に参内。次いで内侍所を訪問すると四辻公遠が来訪、酒宴があった。そこに
       美濃国より村井貞勝(「村井民部丞」)が到来。次いで大典侍殿(万里小路賢房女)・長橋局(薄好子)・台所へ立ち寄る。
       〔『言継卿記』四〕
  4月14日 多聞院英俊、夕方に「新織」(松永久秀被官)の来訪を受ける。〔『多聞院日記』二〕
  4月15日 山科言継、三河国の誓願寺泰翁上人からの書状・贈物を携えた誓願寺玄易の来訪を受ける。〔『言継卿記』四〕
  4月15日 山科言継、誓願寺玄易を同行し長橋局(薄好子)へ祗候。大林寺雄誉上人の「香衣」の件を披露、即時「勅許」を下される。
       その後、勧修寺晴豊を訪問し「香衣之勅裁」の件を申し渡す。〔『言継卿記』四〕
  4月15日 武田軍「御先衆」、三河国足助城を攻略。〔「孕石文書」〕
  4月16日 正親町天皇、「香衣」の件で三河国大林寺雄誉上人へ「綸旨」を下す。〔『言継卿記』四〕
  4月16日 正親町天皇、「香衣」の件で三河国誓願寺末寺養国寺如翁上人へ「綸旨」を下す。〔『言継卿記』四〕
  4月16日 正親町天皇、山科言継へ三河国大林寺雄誉上人の「香衣」御礼に対し「女房奉書」を下す。〔『言継卿記』四〕
  4月16日 正親町天皇、万里小路輔房へ三河国誓願寺末寺養国寺如翁上人の「香衣」御礼に対し「女房奉書」を下す。
       〔『言継卿記』四〕
  4月16日 正親町天皇、山科言継へ三河国誓願寺泰翁上人へ上洛を促す「女房奉書」を下す。上洛しない場合は「くせ事」とする件を
       通達させる。〔『言継卿記』四〕
  4月16日 山科言継、早旦に太秦真珠院側の里村紹巴(「臨江斎紹巴」)邸に於ける「和漢会」興行に参席。
       他に細川藤孝(「細川兵部大輔」)等が参席していた。〔『言継卿記』四〕
  4月16日 山科言継、誓願寺玄易より大林寺雄誉上人への「香衣」勅許の件で礼を受ける。〔『言継卿記』四〕
  4月17日 誓願寺玄易、頓恵・長順らを同行し、山科言継を訪問。香衣「御礼共之代黄金」を渡す。〔『言継卿記』四〕
  4月18日 山科言継、松尾神社へ幕府衆の「能」を見物す。
       参席の「公家」は富小路種直、幕府「奉公衆」は細川藤孝(「細川兵部大輔」)・曽我助乗(「曽我兵庫頭」)・
       一色藤長(「一色式部少輔」)・竹内治部少輔・松井新二郎ら、以上50余人であった。〔『言継卿記』四〕
  4月18日 丹羽長重、誕生(異説1572年)。〔『日本史人物生没年表』〕
  4月19日 武田晴信、去4月15日に攻略した三河国足助城主の鈴木重直(「鱸越」)父子を助命し武田領国に送還す。
       〔「孕石文書」〕
  4月21日 山科言継、太秦真珠院より「国人」を同行し帰宅。西京の寿命院聖硯に立ち寄り休息、「茶」を振る舞われる。
       〔『言継卿記』四〕
  4月22日 「入江殿」の御葬礼のため「天下触穢」となる。〔『言継卿記』四〕
  4月23日 足利義昭(「武家」)、「禁裏」(正親町天皇)へ10荷献上す。〔『言継卿記』四〕
  4月27日 山科言継、柳原資定を訪問し明後日の太秦会のため和歌を談合し暫く雑談す。〔『言継卿記』四〕
  4月27日 久我通俊(「久我前右大将」)、「落馬」す。山科言継・山科言経(「左督」)、愛洲薬を携え見舞う。〔『言継卿記』四〕
  4月28日 山科言継、久我通俊(「久我前大将」)を見舞う。見参は無かった。〔『言継卿記』四〕
  4月28日 足利義昭(「武家」)、烏丸光康を「御成敗」す。
       幕府の一色藤長(「一色式部少輔」)・朽木弥十郎・中沢備前入道・飯尾昭連(「飯尾右馬助」)らが出動。
       烏丸光康は留守ということであったが、「閉門」に処されたという。〔『言継卿記』四〕
  4月28日 武田勝頼(「勝頼」)、越中国の杉浦紀伊守へ守備「堅固之仕置」と「対大坂忠節」を賞し、武田軍の三河国足助城攻略や
       今後の軍事作戦遂行予定などを通知。〔『武家事紀』〕
  4月 晦日 山県昌景(「山三兵昌景」)、孕石元泰(「孕主」)へ武田「御先衆」が三河国足助城を攻略したこと、武田晴信が東三河に
       進入し三河国野田砦の菅沼定盈(「菅沼新八郎」)を撃破したこと、徳川家康(「家康」)自身の出撃にもかかわらず
       武田晴信(「御屋形様」)の「御法眼」により三河国吉田城に徳川軍を追い込めたことなどを通知。〔「孕石文書」〕

5月
  5月 5日 山科言継、冷泉為房(後の冷泉為満)・三条公仲を同行し足利義昭(「武家」)へ祗候。〔『言継卿記』四〕
  5月 5日 山科言継、山城国普賢寺城へ出陣の軍勢が少々「開陣」し、敵方は悉く「降参」したことを知る。〔『言継卿記』四〕
  5月 6日 松永久通(「金吾」)・竹内秀勝(「竹下」)、大和国多聞山城より出陣す。〔『多聞院日記』二〕
  5月 9日 松永久秀(「松城」)、大和国窪城へ軍勢を派遣し攻撃を開始。〔『多聞院日記』二〕
  5月10日 山科言継、真如堂蓮光院の招請により即時訪問。来たる19日の「光源院殿」(足利義輝)7回忌の件で談合す。
       「楽」の件について四辻季遠・四辻公遠父子へ申し渡すことになったので、直接四辻邸を訪問し四辻季遠からは「領掌」を得、
       四辻公遠は「他行」であったため返答は得られず。〔『言継卿記』四〕
  5月10日 山科言継、久我通俊(「久我前右大将」)使者の来訪を受ける。負傷した足のために愛洲薬を所望というので1包を送る。
       〔『言継卿記』四〕
  5月11日 山科言継、巳刻に真如堂蓮光院を訪問。来たる19日(足利義輝7回忌)の「楽」の件で人数などを談合す。
       〔『言継卿記』四〕
  5月11日 山科言継、河内国の八隅右近が多門に於いて「生害」したことを知る。〔『言継卿記』四〕
  5月11日 松永久秀軍、大和国窪城より撤兵。〔『多聞院日記』二〕
  5月11日 木下秀吉(「木下藤吉郎秀吉」)、某・徳山右衛門尉へ去る5月6日に鎌刃表に於いて浅井七郎(「浅井」)率いる
       一向一揆軍と交戦し大勝した旨を報告。〔「丹波松下文書」〕
  5月12日 織田信長、尾張国津島へ出陣す。
  5月12日 氏家卜全、伊勢国長島一向一揆との戦闘で戦死。〔『日本史人物生没年表』〕
  5月12日 多聞院英俊、松永久秀(「久秀」)・松永久通が大和国交野城へ出陣したが安見直政(「安見右近」:畠山昭高被官)の居城
       を攻略出来なかったことを知る。〔『多聞院日記』二〕
  5月12日 小幡憲重(「信勝」)、岡国高(「岡周防守」:松永久秀家臣)へ武田晴信(「信玄」)の遠江国・三河国「出馬」を報告。
       また、武田晴信の軍事行動は「以公儀御威光」(足利義昭)を背景とした「上洛」作戦であることに触れる。
       〔「次原所蔵文書」〕
  5月13日 山科言継、長橋局(薄好子)へ祗候し「明之御暦」を台所に於いて100日分計り書写。次いで大典侍殿(万里小路賢房女)
       へ祗候。〔『言継卿記』四〕
  5月13日 山科言継、黄昏に真如堂蓮光院を訪問し、来たる19日(足利義輝7回忌)の懺法講の件を談合す。「南都之伶人」15人が
       来15日の伝経のため上洛するというので「召留」こととする。〔『言継卿記』四〕
  5月15日 山科言継、相国寺伝経は「光源院殿」(足利義輝)の「御仏事」であり、五山僧が300余人、「北京・南都之伶人」1曲が
       例の如く行われるということを知る。〔『言継卿記』四〕
  5月16日 山科言継、万里小路惟房の来訪を受ける。「公卿補任」の件を談ず。〔『言継卿記』四〕
  5月16日 山科言継、真如堂蓮光院を訪問し来19日(足利義輝7回忌)の「楽」の件で談合。豊原守秋が来訪した。
       次いで真如堂蓮光院が「法印」の件を申請したので山科言継は「小折紙」を調え、日野輝資へ取り成す旨を示し、来19日に
       「聴聞」に達すという通知をした。〔『言継卿記』四〕
  5月16日 山科言継、速水右近(日野輝資使者)の来訪を受ける。対面し真如堂蓮光院の「法印」の件の通達を受けた。
       〔『言継卿記』四〕
  5月16日 織田信長(「信長」)、大館上総介(幕府内談衆)へ「一揆原」を滅ぼすところであったが、種々の侘言を申したので赦免
       したことを通知(実際は一揆軍に追撃され損害を被ったと体裁を繕った)。〔「牧田茂兵衛氏所蔵文書」〕
  5月16日 織田軍、尾張国津島に放火して退却。
  5月17日 山科言継、日野輝資より真如堂蓮光院の法印「口宣」が到着。〔『言継卿記』四〕
  5月18日 山科言継、四辻季遠を訪問。夕方に真如堂蓮光院の「楽」に「南都之舞人」伯耆守近次などの件を談合す。
       〔『言継卿記』四〕
  5月19日 真如堂に於いて「光源院七回」(足利義輝七回忌)が行われる。山科言継、早旦に真如堂へ赴く。〔『言継卿記』四〕
  5月19日 山科言継、この日相国寺に於いて「光源院」(足利義輝)の「焼香」があったことを知る。
       山科言継、足利義昭(「大樹」)が未下刻に相国寺へ「御成」というので門前に於いて見物す。〔『言継卿記』四〕
  5月19日 中院通勝・中御門宣教・白川雅朝・五辻元仲・相国寺雲松軒春湖・木村源二郎らが足利義昭「御成見物」のため山科言継を
       訪問。〔『言継卿記』四〕
  5月20日 山科言継、誓願寺玄易の来訪を受ける。
       誓願寺泰翁上人からの書状及び長橋局・万里小路惟房・万里小路輔房・山科言経(「左衛門督」)への贈物を受け取る。
       〔『言継卿記』四〕
  5月21日 山科言継、三河国誓願寺泰翁上人への返事(誠仁親王短冊3枚)ならびに松平親乗(「松平和泉守」)への書状
       (誠仁親王短冊5枚)及び長橋局(薄好子)・万里小路惟房らの返事を送付。〔『言継卿記』四〕
  5月25日 多聞院英俊、「新織」(松永久秀被官)へ書状を送付。〔『多聞院日記』二〕
  5月27日 松永久秀・松永久通(「松永父子」)、大和国交野城(安見直政:畠山昭高被官の居城)より多聞山城に帰城。
       〔『多聞院日記』二〕
  5月27日 幕府「奉公衆」の上野中務大輔・荒川与三郎、「喧嘩」す。負傷者は7、8人が出た。〔『言継卿記』四〕
  5月28日 山科言継、長橋局(薄好子)へ祗候。この日、故薄永秀の13回忌であることを知る。〔『言継卿記』四〕
  5月28日 橘以継、この朝に山科邸へ薄永秀13回忌のために斎を送付。〔『言継卿記』四〕
  5月29日 山科言継、未初刻に「禁裏」(正親町天皇)の召喚により参内。
       山科言継、飛鳥井雅敦と共に足利義昭(「武家」)への「御使」(勅使)の命令を受ける。岡殿(大慈光院:覚音女王)・
       入江殿に「御入院」するようにという内容であった。飛鳥井雅敦は「斟酌」し退出、山科言継も同前であった。
       そのため飛鳥井雅教に勅使の命令が「被仰」られた。〔『言継卿記』四〕
  5月29日 山科言継、公家衆の「闕役所率分」の件で長橋局(薄好子)へ祗候、「女房奉書」の発給を上奏。〔『言継卿記』四〕
  5月29日 多聞院英俊、松永久秀(「松城」)らへ贈物をする。〔『多聞院日記』二〕
  5月30日 山科言継、今出川晴季・万里小路惟房より「闕役所率分」の件で足利義昭(「武家」)に対し「女房奉書」を発給するよう
       申請を受ける。
       山科言継、昨日長橋局(薄好子)へ上奏していたのでこの日祗候す。明日飛鳥井雅教を通じ申し入れるという返答であった。
       〔『言継卿記』四〕
  5月30日 松永久秀・松永久通(「松城父子」)、織田信長(「信長」)へ敵対し出陣。〔『多聞院日記』二〕
  5月30日 三好三人衆、松永久秀の織田信長に対する謀叛に呼応し畠山昭高居城の河内国高屋城を攻撃。遊佐某らが籠城。
       〔『多聞院日記』二〕

6月
  6月 1日 先ず長橋局(薄好子)へ祗候し、昨日の「ゥ役所」の件の「女房奉書」を受けて幕府「殿中」に於いて飛鳥井雅教に渡すこと
       にする。〔『言継卿記』四〕
  6月 1日 山科言継、巳刻に足利義昭(「武家」)へ参賀す。
       山科言継、幕府御所に遅参し、足利義昭との対面に間に合わず。祗候した「公家」は飛鳥井雅教・高倉永相・飛鳥井雅敦・
       三条公仲・日野輝資・広橋兼勝らであった。
       山科言継、飯河信堅(「飯川肥後守」)に依頼し幕府「常御所」に於いて対面にかなう。〔『言継卿記』四〕
  6月 2日 山科言継、山科言経(「左衛門督」)を以て長橋局(薄好子)へ「ゥ役所」の件で昨日の「御返事」を尋ねたところ、
       足利義昭(「武家」)では「無御如在」というので「岐阜」(織田信長)へ尋ねることになった。「禁裏」(正親町天皇)から
       も同様の「御返事」が下されたという。この旨を沢路長俊(山科家雑掌)を以て今出川晴季・万里小路惟房・吉田兼見らへ通達
       した。〔『言継卿記』四〕
  6月 2日 吉田兼見(「吉田侍従」)、山科言継を訪問し談合す。〔『言継卿記』四〕
  6月 4日 織田信長(「信長」)、細川藤孝(「細川兵部大輔」)へ細川藤賢(「細川右馬頭」)の身上の件で足利義昭「御内書」を
       受けて、細川藤賢は足利義昭(「公儀」)に常に疎略無く仕えたこと、織田信長(「信長」)も「等閑」に存じていないことを
       挙げて領知などを安堵するよう足利義昭(「上意」)に披露するよう依頼。〔「塚原周造氏所蔵文書」・「森文書」〕
  6月 6日 山科言継、「禁裏」(正親町天皇)の召喚により長橋局(薄好子)へ祗候。「入江殿」への「御使」(勅使)の件であった。
       〔『言継卿記』四〕
  6月 6日 山科言継、「入江殿」へ「御使」(勅使)として派遣。〔『言継卿記』四〕
  6月 6日 山科言継、吉田兼右(「吉田右兵衛督兼右卿」)より先年借用された「公事根源」を返還された。〔『言継卿記』四〕
  6月 6日 多聞院英俊、筒井順慶の「足軽衆」が少々南里に到着したことに「仰天」す。〔『多聞院日記』二〕
  6月 7日 山科言継、甘露寺経元より「諸家近来之伝」1冊を返還される。〔『言継卿記』四〕
  6月 8日 山科言継、中御門宣教を同行し吉田兼見(「吉田侍従」)を訪問。「懸之松少々洗之」があった。山科言継、吉田邸に宿泊。
       〔『言継卿記』四〕
  6月 9日 吉田邸に於ける「松洗」は終日であり、晩頭に「木共」は「洗立」終わった。
       山科言継・中御門宣教、黄昏に吉田兼右(「右兵衛督」)の隠居所を訪問し音曲・雑談などを楽しむ。
       その後、吉田兼見(「侍従」)邸に於いて就寝。〔『言継卿記』四〕
  6月 9日 多聞院英俊、畠山昭高の河内国高屋城に於いて松永久秀に呼応した三好三人衆の軍勢が攻城していることを知る。
       〔『多聞院日記』二〕
  6月10日 山科言継・中御門宣教、吉田邸より各自帰宅。〔『言継卿記』四〕
  6月10日 吉田兼右・吉田兼見、出京し、里村紹巴邸に於いて「日本紀」の講談を行う。〔『言継卿記』四〕
  6月10日 山科言継、真如堂蓮光院の来訪を受ける。山科言継、真如堂蓮光院の長橋局(薄好子)への「法印之礼」の進上に同行。
       〔『言継卿記』四〕
  6月10日 和田惟政(「和田紀伊守」:山科言継の誤記)、「敵」(松永久秀・三好義継ら)の摂津国吹田城を攻略。
       〔『言継卿記』四〕
  6月11日 足利義昭(「公方様」)、「九条殿」の息女を養子として筒井順慶(「筒井順慶」)と祝言させる(但し未確認情報)。
       〔『多聞院日記』二〕
  6月11日 山科言継、半井驢庵より使者を受ける。「懸之木洗」の依頼であった。また「鯨」肉を振舞うというので晩景に招待される。
       山科言継、朝食以後に半井驢庵邸を訪問し「松」1本を「洗」った。晩に及び中山孝親・今出川晴季・勧修寺晴豊・中山慶親・
       浄土寺殿奥坊らが晩食に相伴した。〔『言継卿記』四〕
  6月11日 山科言継、昨日に和田惟政(「和田紀伊守」:山科言継の誤記)が「敵」(松永久秀・三好義継ら)の摂津国吹田城を攻略
       した旨を知る。〔『言継卿記』四〕
  6月11日 織田信忠、美濃国崇福寺へ「信長判形」により一切の諸役を免除。〔「崇福寺文書」‐3〕
  6月11日 細川藤孝、喜入季久へ下国以降の無沙汰を詫び、京都静謐の様子を通知。さらに韻懐紙の送付を通知。
       〔「旧記雑録後編」@‐584〕
  6月11日 三好三人衆の軍勢、畠山昭高の河内国高屋城より撤兵。〔『多聞院日記』二〕
  6月11日 松永久秀軍(「松城之衆」)、河内国藤井寺に入る。〔『多聞院日記』二〕
  6月11日 中坊駿河(大和国人か)、筒井順慶(「順」)に帰参す(但し未確認情報)。〔『多聞院日記』二〕
  6月12日 山科言継、半井驢庵を訪問するも大徳寺へ脈診のため終日留守であった。半井驢庵邸の「懸之木」は大概が「洗」い終わる。
       〔『言継卿記』四〕
  6月12日 織田信長(「信長」)、細川藤孝(「細川兵部大輔」)へ幕臣間に喧嘩が発生した件で足利義昭「御内書」が発給されたが、
       その存分の通りに「御使」両人と明智光秀(「明智」)に申し渡すことを足利義昭(「上聞」)に達するよう披露を依頼。
       〔「横畠文書」〕
  6月12日 多聞院英俊、大和国の南柿森に於いて松永軍により十市某(大和国人)・箸尾為綱(「箸尾」:大和国人)の被官が自害
       および焼打を受けたことを知る。〔『多聞院日記』二〕
  6月12日 箸尾為綱(「箸尾」:大和国人)、松永久秀(「松城」)の陣所を「取ソキ」す。〔『多聞院日記』二〕
  6月13日 織田信長(「信長」)、猪子高就(「猪子兵介」)へ織田信長「上使」として尾張国下輪川付近に猛威を振るう長島一揆の
       糺明を命令。一揆ならばたとえ誰の家来であっても生害させること、高木貞久(「高木彦左衛門尉」)の家来にも一揆勢が存在
       するため厳重なる糺明の上、高木貞久(「彦左衛門尉」)に成敗させるよう命令。〔「猪子文書」〕
  6月14日 山科言継、橘以継を同行し一条内基(「一条殿」)へ祗候。「御懸之松」を少々「洗」い、次いで晩食に相伴す。
       幕府「奉公衆」が来訪し「御鞠」が行われ、山科言継は帰宅す。〔『言継卿記』四〕
  6月14日 多聞院英俊、竹内秀勝(「竹下」)が松永久秀への「裏帰」の雑説により大和国多聞山城へ人質を提出したことを知る。
       〔『多聞院日記』二〕
  6月14日 毛利元就、没。〔『日本史人物生没年表』〕
  6月18日 織田信長(「信長」)、猪子高就(「猪子兵介」)へ尾張国一揆糺明の戦果報告を賞し、織田信長自身の来6月22日の上洛
       予定を告げ、上洛に随行する前に一揆勢の掃討を厳命。〔「猪子文書」〕
  6月20日 山科言継、未下刻に半井驢庵邸を訪問し先日の残した「懸之木」を「洗」う。
       勧修寺晴右・山科言経(「左衛門督」)・五辻元仲・中山慶親らが来訪。次いで「御鞠」が行われ、中山孝親が立ち寄り見物。
       山科言継はやがて帰宅す。〔『言継卿記』四〕
  6月20日 織田信長(「信長」)、猪子高就(「猪子兵介」)へ尾張国大田に於いて一揆勢を撃破したことを賞し、更なる「悪逆之輩」
       (一揆勢)の掃討を命令。〔「猪子文書」〕
  6月20日 織田信長(「信長」)、毛利元就(「毛利陸奥守」)・毛利輝元(「毛利右衛門督」)へ去年の篠原長房(「阿州篠原」)が
       毛利「御分国」備前国児島に侵入した件で討伐下知要請を受けたことについて、織田信長は篠原長房と和睦したが、
       足利義昭(「公儀」)は赦免せず、篠原長房は阿波国へ撤退した状況を説明し、現時点では足利義昭下知は効果が無いこと、
       しかし織田信長(「信長」)は毛利氏に対して連絡を密にすること、足利義昭(「上意」)も毛利氏に対して別条の無い旨を
       通知。〔「宍戸文書」〕
  6月20日 織田信長(「信長」)、尾張国瑞泉寺へ寺再興のための材木蒐集にあたり河並の諸役を免除す。〔「瑞泉寺文書」〕
  6月22日 山科言継、大坂の大和宮内大輔入道より書状にて「日本武尊」・「大友皇子」・「七条院」の3件について諮問される。
       〔『言継卿記』四〕
  6月23日 織田信長、尾張国の鉄屋大工の水野範直(「太郎左衛門」)へ鉄屋「大工職」と家屋所有を安堵す。〔「鉄屋水野文書」〕
  6月23日 筒井順慶軍(「筒井衆」)、大和国北之庄の近辺まで襲撃するも特に情勢変化が無かったため撤退。〔『多聞院日記』二〕
  6月23日 島津貴久、没。〔『日本史人物生没年表』〕
  6月24日 山科言継、村井貞勝(「村井」)宿所を訪問するも愛宕山参詣というので留守であった。〔『言継卿記』四〕
  6月26日 山科言継、久我通俊(「久我前右大将」)を訪問し香需散1包を贈る。〔『言継卿記』四〕
  6月 吉日 織田信長(「平信長」)、越前国白山別宮へ「奉行」菅屋長頼(「菅屋九右衛門尉」)を以て鰐口を寄進。
       〔「越前大野郡石徹白村観音堂鰐口」〕
  6月  日 菅屋長頼(「菅屋九右衛門尉」)、越前国白山中居神社境内へ全5ヶ条の「禁制」を下す。〔「石徹白神社文書」〕

7月
  7月 1日 山科言継、東坊城盛長を同行し足利義昭(「武家」)へ参賀す。
       巳刻に対面があり、幕府「御供衆」の細川藤賢(「細川右馬頭」)・大館伊与守・一色晴具(「一色播磨守」)・
       上野信恵(「上野佐渡守」)・一色藤長(「一色式部少輔」)、幕府「御部屋衆」の三淵藤英(「三淵大和守」)、
       幕府「外様」の朽木兵庫助からの対面であった。この日の申次は飯河信堅(「飯川肥後守」)であった。
       参賀した「公家」は山科言継・飛鳥井雅敦・日野輝資・広橋兼勝・東坊城盛長・高倉永孝らであった。〔『言継卿記』四〕
  7月 2日 山科言継、4・5年前に「禁裏」(正親町天皇)より書写命令を受けていた「源氏」物語の「東屋」が出来たので、
       長橋局(薄好子)へ進上。正親町天皇より「御祝着之由能可申」という詞が伝達された。〔『言継卿記』四〕
  7月 3日 山科言継、昨日大和国より上洛した大胡武蔵守の来訪を受け、大和「国之儀」を通知される。〔『言継卿記』四〕
  7月 3日 松永久通(「松永金吾」)、大和国多聞山城へ帰還。〔『多聞院日記』二〕
  7月 3日 多聞院英俊、木津某(「木津殿」:大和国人)が三男を足利義昭(「上意様」)に人質として提出したことを知る。
       〔『多聞院日記』二〕
  7月 4日 山科言継、正親町天皇へ「禁裏御本」「源氏」物語が完成したことの「御祝着之由御礼」を申し入れる。〔『言継卿記』四〕
  7月 4日 多聞院英俊、昨夕に松永久通(「松永金吾」)が大和国多聞山城に帰還したこと、松永久秀(「松城」)は大和国法隆寺周辺
       に「滞在していることを知る。〔『多聞院日記』二〕
  7月 4日 松永久秀(「松城」)、箸尾為綱(大和国人)への攻撃を解き、大和国法隆寺・龍田に移陣。〔『多聞院日記』二〕
  7月 4日 「ハ山」某(大和国人)、松永久秀を「裏帰」り簀川衆20人ばかりを討ち取る。〔『多聞院日記』二〕
  7月 5日 「禁裏」(正親町天皇)、「間明御暦」の七月以下分の書写を行わせる。〔『言継卿記』四〕
  7月 5日 織田信長(「信長」)、朽木元綱(「朽木弥五郎」)へ使者を派遣し「内存」を報告してきた忠節を賞し、近江国須戸庄の
       「請米」を安堵し、新知行については磯野員昌(「磯野」)に指令した旨を通知。〔「朽木文書」「記録御用所本古文書」〕
  7月 5日 織田信長(「信長」)、上野秀政(「上野中務大輔」)・明智光秀(「明智十兵衛尉」)へ曇華院殿(正親町天皇妹)御領
       山城国大住庄の年貢等の件で、直納および境内での不法行為が無いようにとの足利義昭「御下知」が明白であるのに、住持が
       「御女儀」であるため不法行為をするのは「外聞も如何」であるから足利義昭「御耳」に入れて処置をするよう指示を下す。
       〔「曇華院文書」〕
  7月 5日 多聞院英俊、「ハ山」某(大和国人)が松永久秀を「裏帰」り簀川衆20人ばかりを討ち取ったことを知る。
       〔『多聞院日記』二〕
  7月 5日 多聞院英俊、松永久秀(「松城」)が箸尾為綱(大和国人)への攻撃を解き、大和国法隆寺・龍田に移陣したことを知る。
       〔『多聞院日記』二〕
  7月 7日 山科言継、この日多数の来訪者を受ける。伏見浦の「雑喉公事」の件で「ふりさけの事」が「内々」の話題に上がり、
       「出納」平田職定(「大蔵大輔職定」)・「御大工総官」・「舞人」讃岐守忠宗らと暫く雑談す。〔『言継卿記』四〕
  7月 9日 山科言継、「一色式部少輔古宅」(一色藤長旧宅)を「買得」したものであるという新勧修寺邸の引越を見舞う。
       山科言継・甘露寺経元・中山慶親・日野輝資・中御門宣教・橘以継らが見舞った。山科言継、晩頭に再度勧修寺邸を訪問。
       〔『言継卿記』四〕
  7月10日 筒井順慶軍(「筒井足軽衆」)4・50人、大和国興福寺を訪れ馬などを奪う。2人殺害して帰っていった。
       〔『多聞院日記』二〕
  7月11日 山科言継、飛鳥井雅敦より「をとりの歌」3色5首の作歌を依頼を受ける。来15・16日の真木島昭光「躍」興行のための
       ものという。〔『言継卿記』四〕
  7月11日 山科言継、去年以来「不和」となっていた長橋局(薄好子)と橘以継の「中分和与」を行う。〔『言継卿記』四〕
  7月11日 多聞院英俊、「牢人衆」が横田表に出撃したことを知る。〔『多聞院日記』二〕
  7月12日 山科言継、細川藤孝(「細川兵部大輔」)を訪問するが所労のため「平臥」という。〔『言継卿記』四〕
  7月12日 烏丸光康、足利義昭へ出仕(「武家之儀調出仕」)という。山科言継・高倉永相・飛鳥井雅敦・竹内治部少輔らが桜馬場に
       於いて行き合った。〔『言継卿記』四〕
  7月12日 橘以継、晩頭に「目出事」というので山科言継を訪問。〔『言継卿記』四〕
  7月14日 多聞院英俊、「新織」(松永久秀被官)から明日に松永久秀(「松城」)が三好義継(「義継」)を同行し摂津国芥川城の
       和田惟政(「和田」)を攻撃するために出陣するということ、また来たる16日には織田信長(「信長」)が「出京」すること
       を知らされる。〔『多聞院日記』二〕
  7月16日 山科言継、去14日に「伊勢禰宜」の件で「理運」の「女房奉書」が出された旨を知る。
       足利義昭(「武家」)が飯河信堅(「飯川肥後守」)を以て「禁裏御使」(勅使)飛鳥井雅敦・細川藤孝(「細川兵部大輔」)
       の派遣を要請したという。「諸侯之衆」が多数祗候、権大副康忠朝臣が種々の「虚言」・「非分」の言上を理由に足利義昭の
       「御成敗」の対象となったという。〔『言継卿記』四〕
  7月17日 山科言継、晩頭に内侍所へ祗候。次いで竹内殿(曼殊院覚恕)へ祗候。
       この夜、幕府奉公衆(「武家奉公」)真木島昭光の踊興行が行われ、山科言継は竹内殿(曼殊院覚恕)の「御門」より見物す。
       〔『言継卿記』四〕
  7月18日 山科言継、久我邸を訪問し、久我通俊(「前右大将」)と暫く雑談す。〔『言継卿記』四〕
  7月18日 山科言継、旧冬吉田兼見(「吉田侍従」)の石清水八幡宮清祓の際に壇引布で湯帷子を新調す。〔『言継卿記』四〕
  7月19日 織田信長、上野秀政(「上野中務大輔」)・三淵藤英(「三淵大和守」)へ曇華院殿(聖秀女王:正親町天皇妹)御領の
       山城国大住庄に足利義昭から給人を付けたことの実否を問いて、去年春より一色藤長(「一色式部少輔」)が違乱したという
       ので調査を以て曇華院「直務」に落着したにも関わらず、まもなくこの状況は嘆かわしく、織田信長(「信長」)が特別に調え
       たことに相違があるならば「外聞も無是非」きことであるから、足利義昭の答弁を要求する旨を通達。〔「曇華院文書」〕
  7月20日 木下秀吉(「木下藤吉郎秀吉」)・武井夕庵(「夕庵尓云」)、山城国大住庄の名主・百姓中へ織田信長(「殿様」)の指示
       により曇華院殿(聖秀女王:正親町天皇妹)「直務」に決定され、その旨の足利義昭「御下知」と織田信長「御朱印」は明白で
       あるにもかかわらず、足利義昭が「御給人」を付けたのは足利義昭(「うへ様」)が関知しないことなのかを問い、
       織田信長(「殿様」)が足利義昭(「公方様」)へ大住庄の件で確認を取ったので、別儀無き旨を通達。
       また年貢の件は曇華院以外に上納することは「二重成」となることを確認す。〔「曇華院文書」〕
  7月21日 山科言継、大胡武蔵守の関東下国に際しての暇乞を受け、誠仁親王(「親王御方」)筆短冊2枚を贈る。また大胡武蔵守の
       所望により下野国の結城氏へ書状を認める。〔『言継卿記』四〕
  7月21日 山科言継、大胡武蔵守の所望により22日付で下野結城氏へ「公方以下悉兵法軍敗」の相伝を賞し、「貴殿・拙者同流一家」
       である旨を通達。〔『言継卿記』四〕
  7月21日 和田惟政(「和田紀伊守」:山科言継の誤記)、摂津国高槻より上洛。〔『言継卿記』四〕
  7月22日 山科言継、昨宵に和田惟政(「和田紀伊守」:山科言継の誤記)が摂津国高槻より上洛、この日再度摂津国高槻へ下向した
       ことを知る。〔『言継卿記』四〕
  7月22日 多聞院英俊、三好三人衆・三好義継が摂津国へ出陣しようとしたところ準備が困難であったため撤退したことを知る。
       〔『多聞院日記』二〕
  7月23日 山科言継、三淵藤英(「三淵大和守」)の摂津国出陣を知る。〔『言継卿記』四〕
  7月23日 三淵藤英(「三淵大和守」)、摂津国へ出陣す。〔『言継卿記』四〕
  7月24日 上野信恵(「上野佐渡守」)兄弟以下の幕府「奉公衆」、山科邸門前に於いて踊る。〔『言継卿記』四〕
  7月25日 山科言継、足利義昭(「武家」)へ祗候。〔『言継卿記』四〕
  7月25日 筒井順慶(「筒井」)、白土に要害を構築。〔『多聞院日記』二〕
  7月26日 山科言継、橘以継へ要請による「源氏」物語「関屋」を書写し送付。〔『言継卿記』四〕
  7月26日 多聞院英俊、筒井順慶(「筒井」)が前日より白土に要害を構築を開始したことを知る。〔『多聞院日記』二〕
  7月28日 山科言継、長橋局(薄好子)へ祗候。徳大寺実満(「徳大寺少将実満」)の「四品」の件を催促する。去年の12月29日に
       「勅許」があったことであるという。〔『言継卿記』四〕
  7月29日 山科言継、来訪した中御門宣教に徳大寺実満(「徳大寺少将」)「四品之口宣案」及び「堂上之次第」を書写してもらう。
       〔『言継卿記』四〕
  7月29日 山科言継、巳刻に足利義昭(「武家」)へ祗候。〔『言継卿記』四〕
  7月29日 山科言継、徳大寺邸へ「口宣案」を携え訪問。〔『言継卿記』四〕
  7月30日 中山孝親、山科言継を訪問。先日の「堂上之次第」に「年齢」を付けることを依頼、山科言継は大概年齢を付けて贈呈。
       暫く雑談した。〔『言継卿記』四〕
  7月30日 久我通俊・高倉永相・飛鳥井雅敦・日野輝資・半井驢庵ら、「踊」を張行す。〔『言継卿記』四〕
  7月  日 織田信長、美濃国関兼常の助右衛門へ鍛冶職等を安堵。〔「武藤助右衛門氏所蔵文書」‐1〕

8月
  8月 1日 山科言継、三条公仲・東坊城盛長を同行し足利義昭(「武家」)へ祗候。巳刻に対面があった。
       祗候した「公家」は山科言継・高倉永相・飛鳥井雅敦・三条公仲・東坊城盛長らであった。山科言継、帰路に於いて「遅参」
       した日野輝資・広橋兼勝と行き合う。〔『言継卿記』四〕
  8月 2日 松永久秀(「多聞」)、筒井順慶の大和国辰市の要害へ軍勢を派遣。〔『多聞院日記』二〕
  8月 3日 真珠院慶典法印、出京し真木島昭光(「真木島玄蕃ヽ」)を礼問す。〔『言継卿記』四〕
  8月 4日 和泉国に於いて織田軍と松永軍が衝突。〔『言継卿記』四〕
  8月 4日 松永久秀(「久秀」)、大和国信貴山城より三好義継(「河州大夫殿」)を同行し午刻に大安寺に着陣。〔『多聞院日記』二〕
  8月 4日 松永久秀、酉上刻に筒井順慶の大和国辰市城を攻撃。筒井順慶・郡山の両方より後詰が到着し松永久秀(「城州」)は
       「敗軍」。討死衆は松永左馬進(松永久秀甥)・松永孫四郎(松永久秀甥)・松永久三郎(松永久通若衆)・河那邉伊豆守・
       渡辺兵衛尉・松岡左近・福智某・赤沢蔵介・栄林院・竹田対馬守・豊田某・山崎久助・安倍某・「クルス」某・「延泉ヽ」・
       山田某・中岡藤市兄弟・狛治部大輔・渡部采女、河内衆は多数であった。松永久秀は「やうやう」と大和国多聞山城へ撤退。
       多聞院英俊はこの松永久秀(「城州」)の敗戦を「一期ニモ無之程ノ合戦也」と評す。〔『多聞院日記』二〕
  8月 5日 山科言継、今出川晴季より使者を受ける。約束していた「双紙」が「伐閉」というので、午時に今出川邸を訪問。
       「改元之記」両冊・「源氏」物語両冊を調えた。〔『言継卿記』四〕
  8月 5日 山科言継、柳原資定より明日未刻の「茶」会への招待を受け「同心」す。〔『言継卿記』四〕
  8月 5日 多聞院英俊、竹内秀勝(「竹下」)およびその配下の負傷状況を知る。〔『多聞院日記』二〕
  8月 5日 多聞院英俊、筒井順慶の軍勢にも死傷者が出たことを知る。〔『多聞院日記』二〕
  8月 5日 多聞院英俊、「新織部」(松永久秀被官)が死去したことを知る。〔『多聞院日記』二〕
  8月 5日 多聞院英俊、十市某(大和国人)へは近日中に越智某(大和国人)が攻撃を仕掛けて新賀城を構築するということ、
       箸尾為綱(大和国人)は森屋城を攻撃することを知る。〔『多聞院日記』二〕
  8月 6日 松永久秀(「城州」)、この暁に大和国信貴山城に移った。〔『多聞院日記』二〕
  8月 6日 筒井順慶(「筒」)、討ち取った松永軍の首級を京都に送付。〔『多聞院日記』二〕
  8月 6日 筒井順慶(「筒井」)、松永軍との戦闘で勝利し筒井平城・高田城・「カヰト」城・番条城・森屋蔵堂城などを回復。
       〔『多聞院日記』二〕
  8月 7日 山科言継、去4日の和泉国に於ける合戦の状況を知る。
       松永久秀(「松永山城守」)軍の「悪」3、400が討死したという。この日240の首が足利義昭(「武家」)のもとへ届け
       られ「桜馬場」に梟首、「見物群集」であり、しかも「随分之首共」であるという。〔『言継卿記』四〕
  8月 7日 織田信長(「信長」)、尾張国の意足軒へ熱田神宮末社の高倉宮遷宮に際し「青銅」5000疋(銅銭50貫文)を寄附し、
       「往古之例」に違うとの意見は許容しないこと、ゥ末社の退転しないよう「神前之輩」や「神主」らに油断無きよう勤めるよう
       命令す。〔「今井理一氏所蔵文書」〕
  8月 7日 筒井順慶、高田出城を布施某(大和国人)より奪取。40余人を討ち取る。〔『多聞院日記』二〕
  8月 7日 多聞院英俊、新織部(松永久秀被官)の「弔」として20疋を送付。〔『多聞院日記』二〕
  8月 8日 山科言継、粟津漁民より伏見漁民が「企新儀」・「ふりさけ魚商売」の件の訴訟を受ける。
       書状を以て細川藤孝(「細川兵部大輔」)に申し入れる。〔『言継卿記』四〕
  8月 8日 山科言継、細川藤孝(「細川兵部大輔」)へ伏見漁民が「企新儀」・「ふりさけ魚物商売」の件を申しているので「停止」
       するよう依頼。〔『言継卿記』四〕
  8月 9日 山科言継、相模国早河より今川氏真(「今川治部大輔氏実」)叔母より書状を受ける。
       その内容は山科言継養母「唯心院」が去永禄12年7月18日に「遠行」した旨を知らされ、「驚入」る。〔『言継卿記』四〕
  8月 9日 山科言継、服喪のため「不可出仕」の件を長橋局へ申し入れる。〔『言継卿記』四〕
  8月10日 山科言継、「御逗子所」である嵯峨の供御人が「当御代継目之綸旨」を要請してきたので長橋局(薄好子)へ文を以て
       「内々」に申し入れ、即時「勅許」が得られたというので、勧修寺晴豊へその旨を告げる。〔『言継卿記』四〕
  8月10日 勧修寺晴豊(「左中弁」)、来8月12日付で「内蔵頭殿」へ嵯峨(「御逗子所」)の供御人に対して諸役免除の件を
       「御代々綸旨」・「武家御下知」によって安堵するという「天気」を通達。〔『言継卿記』四〕
  8月10日 多聞院英俊、超昇寺に「色立」があり、木津へ「同心」したことを知る。〔『多聞院日記』二〕
  8月13日 山科言継、松木兵庫助(柳原資定使者)の来訪を受ける。用件は「伊勢禰宜」の件で足利義昭(「武家」)が権大副康忠朝臣
       を「曲事」としている事柄について「手日記」の披見を依願され承諾。〔『言継卿記』四〕
  8月13日 武田信玄、下間頼慶へ京都から「御両使」が本願寺と織田信長の和睦を武田信玄が仲介するようにとの「御下知」が下された
       ので、詳細を龍雲軒・堀野左馬允を派遣して通達させる旨を通知。〔「本願寺文書」〕
  8月14日 竹内秀勝(「竹下」)、女房までを引き連れ河内国へ移動。〔『多聞院日記』二〕
  8月14日 多聞院英俊、大和国十市郷での混乱の状況を知る。〔『多聞院日記』二〕
  8月14日 嵯峨(「御逗子所」)の供御人、「綸旨」の御礼として山科言継を訪問。禁裏(正親町天皇)・長橋局(薄好子)・山科言継
       へ礼物を献上。〔『言継卿記』四〕
  8月16日 織田信長(「信長」)、西尾光教(「西尾小六」)へ美濃国多芸郡役を従来の如く安堵。
       〔「大野多根氏所蔵文書」、「市田靖氏所蔵文書」‐1〕
  8月17日 細川藤孝(「兵部大輔藤孝」)、「葛西三郎」へ「公方様義御字御拝領」を祝し、重ねての御礼が必要であることを通達。
       〔「浜田文書」〕
  8月18日 織田信長(「信長」)、若狭国の熊谷直之(「熊谷治部丞」)へ若狭国倉見庄の係争の件は去春に京都に於いて決定が下され
       たので、変更は無い旨を通達。〔「浜田勝次氏所蔵文書」〕
  8月18日 織田信長(「織田弾正忠」)、近江国北郡横山へ出陣。〔『言継卿記』四〕
  8月20日 大和国興福寺「大乗院大御所」、筒井順慶(「筒順」)の要請により菩薩山まで帰座する。〔『多聞院日記』二〕
  8月24日 山科言継、織田信長(「織田弾正忠」)が近江国北郡横山に布陣した旨を知る。山口甚介(幕府足軽)が明日出陣というので
       武井夕庵と「両所」へ書状・言伝を依頼する。〔『言継卿記』四〕
  8月25日 山科言継、柳原資定奏者所口へ出向き、「東大寺之奉加」について「甲州」(甲斐武田氏)へ「綸旨」を下す件を談合す。
       〔『言継卿記』四〕
  8月28日 山科言継、摂津国郡山に於ける戦闘で和田惟政(「和多紀伊守」:山科言継の誤記)の戦死を知る。幕府側(「武家辺」)が
       以ての外の騒動であるという。茨木佐渡守と兄弟(「茨木兄弟」)も戦死したという。敵方の池田知正軍(「池田衆」)にも
       多数死傷が出たという。また三淵藤英(「三淵大和守」)が夜半に某城へ入城したという。〔『言継卿記』四〕
  8月29日 山科言継、柳原資定を訪問し東大寺奉加の「綸旨」の件を談合す。〔『言継卿記』四〕
  8月29日 柳原資定、武田信玄(「武田大膳大夫入道」)宛の東大寺奉加の「綸旨之案」を認める。〔『言継卿記』四〕
  8月29日 山科言継、柳原資定より武田信玄(「武田大膳大夫入道」)宛の東大寺奉加についての「綸旨之案」を受ける。
       〔『言継卿記』四〕
  8月28日 和田惟政(「和田伊賀守」)、摂津国池田表に於ける合戦で「一類悉以打果」ちう大損害を被る。和田惟政はこの戦闘で4城
       を喪失したという。〔『多聞院日記』二〕
  8月28日 筒井順慶(「筒井大方殿」)、大和国吉野より「シウロ」へ帰還。〔『多聞院日記』二〕
  8月29日 多聞院英俊、筒井順慶(「筒井大方殿」)が大和国吉野より「シウロ」へ帰還したことを知る。〔『多聞院日記』二〕
  8月  日 織田信長、祖父江五郎右衛門尉へ去年目録を添えて宛行った知行は、特に安藤某と係争のあるというので調査を指令し、
       催促を加えて領知とすることを通達。〔『張州雑誌抄』二十七〕

9月
  9月 1日 山科言継、中御門宣教を召喚し武田信玄宛の東大寺奉加に関する「綸旨」を調え渡す。〔『言継卿記』四〕
  9月 1日 山科言継、阿弥陀寺清玉上人の来訪を受ける。〔『言継卿記』四〕
  9月 1日 多聞院英俊、去8月28日に摂津国池田表に於いて和田惟政(「和田伊賀守」)が「一類悉以打果」という大損害を被った
       こと、和田惟政はこの戦闘で4城を喪失したことを知る。〔『多聞院日記』二〕
  9月 5日 この頃、摂津国に於いて池田軍が戦闘で敗北を喫し、多数の戦死者を出す。〔『多聞院日記』二〕
  9月 7日 多聞院英俊、去5日頃に摂津国での合戦で池田軍に多数の戦死者が出たことを知る。〔『多聞院日記』二〕
  9月 7日 筒井順慶軍(「筒衆」)、大和国山田を攻撃。竹内秀勝(「竹下」)は退散したという。〔『多聞院日記』二〕
  9月11日 山科言継、近江国常楽寺に布陣していた織田信長(「織田弾正忠信長」)がこの日園城寺(「三井寺」)へ布陣したことを
       知る。〔『言継卿記』四〕
  9月12日 織田信長、比叡山延暦寺を焼討する。〔「信長公記」〕
  9月12日 山科言継、この暁より織田信長(「織田弾正忠」)が「天上坂下」(比叡山)に焼き討ちを仕掛けた旨を知り、
       「仏法破滅不可説不可説」・「王法可有如何事哉」と歎く。〔『言継卿記』四〕
  9月12日 多聞院英俊、織田信長(「信長」)が比叡山・「ワニ」・堅田・坂本を悉く放火したことを知る(但し未確認情報)。
       また織田信長(「尾張守」)は直ちに在京したことを知る。多聞院英俊は焼討を「心細者也」と評す。〔『多聞院日記』二〕
  9月12日 織田信長(「信長」)、「在京」す。〔『多聞院日記』二〕
  9月13日 織田信長(「織田弾正忠」)、「叡山」周辺の焼け残った箇所へ悉く放火す。
       織田信長(「信長」)は「小姓衆」・「馬廻」ばかりを従え上洛、足利義昭(「武家」)へ参り「小飯」をとる。
       山科言継、織田信長に対面す。〔『言継卿記』四〕
  9月13日 織田信長、妙覚寺へ宿泊。〔『言継卿記』四〕
  9月13日 山科言継、坂井利貞(「坂井文介」)の来訪を受け、「濃州」・「江州」・「山上」の件で暫く雑談す。〔『言継卿記』四〕
  9月14日 山科言継、「叡山」の焼け残った坊への放火の風聞に接す。〔『言継卿記』四〕
  9月14日 多聞院英俊、織田信長(「信長」)が去12日に「在京」したことを知る。〔『多聞院日記』二〕
  9月15日 山科言継、巳刻に織田信長(「織田霜台」)へ見舞のため祗候、見参す。〔『言継卿記』四〕
  9月15日 山科言継、葉室頼房より松茸15本を贈られる。葉室頼房より明日上洛するというので織田信長(「信長」)への祗候に同行
       するよう依頼される。〔『言継卿記』四〕
  9月15日 山科言継、比叡山(「山上残之坊」)への放火の風聞に接す。〔『言継卿記』四〕
  9月16日 山科言継、葉室頼房と共に足利義昭(「武家」)へ祗候。一昨日よりの「咳気」で対面は無かった。
       次いで織田信長(「信長」)へ祗候し見参す。〔『言継卿記』四〕
  9月16日 山科言継、晩景に竹内季治(「竹内三位入道真滴」)が佐久間信盛宿所に「召籠」られた旨を知る。「上意」によるというが
       理由は不明であると記す。〔『言継卿記』四〕
  9月17日 織田信長、烏丸光康(「烏丸殿」)へ所領摂津国上牧を再度安堵す。〔「烏丸家文書」〕
  9月17日 織田信長(「信長」)、小早川隆景(「小早川左衛門佐」)へ毛利元就(「元就」)の逝去を悼み、毛利輝元(「輝元」)へ
       弔問の使僧を派遣した旨、篠原長房を撃退したことへの祝意、「五幾内」は別条の無いことを通知。〔「小早川家文書」一〕
  9月18日 織田信長(「織田霜台」)、早旦に近江国永原へ下向。
       島田秀満(「島田但馬守」)・蜂屋頼隆(「蜂屋」)・塙直政(「伴九郎左衛門尉」)らは在京。
       蜂屋頼隆は大和国へ、島田秀満は摂津国へ出陣することになっているという。〔『言継卿記』四〕
  9月18日 織田信長(「織田」)、竹内季治(「竹内三位入道真滴」)を近江国永原に於いて「生害」させる。〔『言継卿記』四〕
  9月22日 竹内秀勝(「竹内下総守」:松永久秀被官)、河内国若江に於いて死去。〔『多聞院日記』二〕
  9月24日 明智光秀(「明智十兵衛尉」)、早旦に摂津国高槻へ1000ばかりの軍勢を率いて出陣。〔『言継卿記』四〕
  9月24日 多聞院英俊、去22日に竹内秀勝(「竹内下総守」:松永久秀被官)が河内国若江に於いて死去したことを知る。
       〔『多聞院日記』二〕
  9月24日 多聞院英俊、「タカ鳥」に於いて「一ノ尾ノ深介」の所行で越智民部少輔(大和国人)が「生害」、女房・男子・女子の悉く
       が殺害されたことを知る。越智伊与守(大和国人)と申し合わせて大木一党を掌握するための行為であるという。
       〔『多聞院日記』二〕
  9月25日 山科言継、早旦に幕府「奉公衆」一色藤長(「一色式部少輔」)・一色昭秀(「駿河守」)・上野中務大輔らが摂津国へ出陣
       した旨を知る。〔『言継卿記』四〕
  9月25日 織田信長(「信長」)、上杉謙信(「上杉弾正少弼」)へ若鷹を貰うために鷹師を派遣し、その希有である様に感激、
       「秘蔵自愛」することで謝意を表明。
       また足利義昭(「上意」)により去月中旬より上洛したことを通知(実際に8月は近江国に在陣していた)。
       〔「上杉家文書」一〕
  9月26日 山科言継、「除服宣下」の御礼として正親町天皇へ祗候。〔『言継卿記』四〕
  9月27日 山科言継、中山親綱より「除服復任之宣案」を受ける。〔『言継卿記』四〕
  9月27日 織田信長(「信長」)、山城国石清水八幡宮祠官の田中長清へ神領狭山郷を御牧摂津守(「御牧」)が違乱したことにつき、
       御牧摂津守の押領を排除する旨を指令。〔「石清水文書」三〕
  9月 晦日 松田秀雄(「松田主計大夫秀雄」)・塙直政(「塙九郎左衛門尉直政」)・島田秀満(「島田但馬守秀満」)・
       明智光秀(「明智十兵衛尉光秀」)、山城国賀茂惣中へ「公武御用途」を賦課。来たる10月15日から20日以前に京都二条
       妙顕寺へ運上すべきを命令。〔「上賀茂神社文書」‐102〕
  9月 晦日 松田秀雄(「松田主計大夫秀雄」)・塙直政(「塙九郎左衛門尉直政」)・島田秀満(「島田但馬守秀満」)・
       明智光秀(「明智十兵衛尉光秀」)、某(妙顕寺カ)へ「公武御用途」を賦課。そして来たる10月15日から20日以前に
       京都二条妙顕寺への運上命令を通達。〔「妙顕寺文書」〕
  9月 晦日 松田秀雄(「松田主計大夫秀雄」)・塙直政(「塙九郎左衛門尉直政」)・島田秀満(「島田但馬守秀満」)・
       明智光秀(「明智十兵衛尉光秀」)、山城国阿弥陀寺へ「公武御用途」を賦課。そして来たる10月15日から20日以前に
       京都二条妙顕寺への運上命令を通達。〔「阿弥陀寺文書」〕
  9月  日 織田信長、尾張国国府宮(「府中府営」)へ全3ヶ条の「定」を下す。〔「大津延一郎氏所蔵文書」〕

10月
 10月 3日 北条氏康、没(異説1570年)。〔『日本史人物生没年表』〕
 10月 8日 松田秀雄(「松田主計」)、方々への「段別之配符」状の「助筆」を通達したという。
       山科言継は25通、山科言経(「金吾」)は17通を調え送った。総数は5・600通にのぼったという。
       その内容は9月30日付の松田秀雄(「松田主計大夫秀雄」)・塙直政(「塙九郎左衛門尉直政」)・
       島田秀満(「島田但馬守秀満」)・明智光秀(「明智十兵衛尉光秀」)連署状という形をとり、「公武御用途」としての
       段別賦課の件で、田畠1段別1升宛を10月15日から20日の期間に二条妙顕寺へ運上するという命令であった。
       違反者については在所の没収ならびに身上への「御成敗」が加えられるというものであった。〔『言継卿記』四〕
 10月10日 山科言継、足利義昭(「武家」)へ「不参」のため飛鳥井雅敦へ山科言継・山科言経・葉室頼房3名分の「御厳重」の件を
       上申するよう依頼。〔『言継卿記』四〕
 10月10日 松永久秀(「松永山城守」)、山城国久世郡槙島城を攻撃。〔『言継卿記』四〕
 10月11日 山科言継、松永久秀(「松永山城守」)が普賢寺城に入城し昨日槙島城を攻撃した旨を知る。〔『言継卿記』四〕
 10月14日 織田信長、幕臣の細川藤孝(「細川兵部大輔」)へ丹波国勝龍寺城は要害であるため、桂川西岸の家屋の門毎に1人の人夫を
       3日間徴用し普請をするよう命令。〔「米田氏所蔵文書」〕
 10月14日 三好康長、この夕刻に「河内衆」30余を率いて大和国興福寺を来訪。翌日に帰還する。〔『多聞院日記』二〕
 10月14日 多聞院英俊、松永久秀(「山城」)が山城国木津城周辺を「苅田」し焼き払ったため、「当坊領」一円が無足となったことを
       知り「咲止々々」と評す。〔『多聞院日記』二〕
 10月15日 松田秀雄(「松田主計大夫」)・塙直政(「塙九郎左衛門尉」)・島田秀満(「島田但馬守」)・
       明智光秀(「明智十兵衛尉」)、洛中立売組中へ「禁裏様御賄」としての「八木」を京中へ貸し付けること、1町に5石を割り
       当てること、利率(「利平」)は3割とすることを通達。また来年正月より毎月1町より1斗2升5合充を進納すべきことなど
       を命令。〔「京都上京文書」〕
 10月15日 「弾正」、小野寺伊賀介へ「恩賞」が送付されたこと、「大崎宮内少輔」が「京都上洛」の途上で帰国したという旨が
       陸奥国二本松の畠山氏より報告されたこと、来10月19日(11月19日か)に相違無く「出仕」することは
       「京都首尾面目此上なき仕合」であることを通達。〔「白石歴文書」〕
 10月15日 三好康長(「三好咲岩」)、大和国興福寺を出立。〔『多聞院日記』二〕
 10月17日 村垣徳寶(朝山日乗家人:徳室・徳庵の記述あり)、顛倒し山科言継へ愛洲薬を所望。〔『言継卿記』四〕
 10月17日 筒井順慶(「筒井」)の軍勢、大和国「タチカラ」近辺まで出撃。〔『多聞院日記』二〕
 10月20日 村垣徳庵(朝山日乗家人:徳室・徳寶の記述あり)、快復の兆しが見えずに山科言継へ愛洲薬を所望。〔『言継卿記』四〕
 10月26日 織田軍先発隊(「信長ノ先衆」)、上洛す。〔『多聞院日記』二〕
 10月28日 多聞院英俊、去26日に織田軍先発隊(「信長ノ先衆」)が上洛したことを知る。〔『多聞院日記』二〕
 10月29日 山科言継、冷泉為房(「冷泉児」)が「為満」と改名し「侍従」昇進の件で去月26日に「勅許」が下されたことについて、
       昨日か中山親綱から「口宣案」が到来したので、これを冷泉為満へ送付。〔『言継卿記』四〕
 10月  日 織田信長、「借物」も返弁出来ず神事の勤仕も不十分になった尾張国津島牛頭天王神社の神主へ「本銭」を10年賦で返済
       する旨を命令、「銭主」がこの織田信長の決定に違背すれば成敗する旨を通達。〔『張州雑誌抄』二十七、『津嶋神社旧記』〕
 10月  日 織田信長(「信長」)、尾張国津島神社神官の真野善二郎へ「文状」(譲状)に任せて故父真野兵部の跡職を安堵す。
       〔「服部藤太郎氏所蔵文書」〕

11月
 11月 1日 山科言継、東坊城盛長を同行し足利義昭(「武家」)へ祗候。午時に対面す。〔『言継卿記』四〕
 11月 1日 織田信長(「信長」)、山城国段別に際し織田信長が足利義昭(「公儀」)に上申したとおりに奉行人を出向させた
       伊勢三郎(幕府政所執事)へ「政所役」(政所執事)を安堵。また摂津国高槻城の番手の件にも触れる。
       詳細は武井夕庵(「夕庵」)に伝達させる。〔「本法寺文書」一〕
 11月 2日 山科言継、平野社務兼興の来訪を受ける。
       平野社領は悉く足利義昭(「武家」)に押領され、佐分玄蕃助に下されたのだという。山科言継、三淵藤英(「三淵大和守」)
       へ内々に問い合わせたところ「女房奉書」が下されれば調査するとの返答であったため、「禁裏」への披露を長橋局(薄好子)
       に依頼。この日は「黒日」というので明日の披露となる。〔『言継卿記』四〕
 11月 3日 正親町天皇、山科言継へ「女房奉書」を下す。
       その内容は「平野社りやう」の件で平野兼興「くせ事」が理由で「おとされ」たというが、平野社は「たにことなる大社」で
       あり「天下のため」に返還を命令し社頭再興すべき事を足利義昭(「むろまちとの」)に伝達するようにというものであった。
       〔『言継卿記』四〕
 11月 3日 山科言継、三淵藤英(「三淵大和守」)へ「平野社領」の件で「女房奉書」が下されたため足利義昭へ披露するよう依頼。
       〔『言継卿記』四〕
 11月 3日 山科言継、巳刻に長橋局(薄好子)へ祗候。平野兼興から申請された「御文」(女房奉書)の件を申し入れ「勅許」された。
       山科言継が「案文」を調進し即時女房奉書が下された。平野兼興が来訪したので女房奉書に添状を調える。
       山科言継、吉田兼右(「吉田右兵衛督」)を同行し三淵藤英(「三淵大和守」)を訪問。〔『言継卿記』四〕
 11月 4日 佐久間信盛(「尾州之佐久間」)、松田豊前守邸を借り受ける。〔『言継卿記』四〕
 11月 8日 山科言継、黄昏に慈専(泉涌寺役者)の来訪を受ける。
       木下秀吉(「木下藤吉郎」)が泉涌寺「寺領」を横領したというので、足利義昭(「武家」)・木下秀吉(「木下」)らへ
       「女房奉書」の発給を依頼される。「伝奏」飛鳥井雅教・飛鳥井雅敦父子は「他行」というので「同心」した。
       〔『言継卿記』四〕
 11月 9日 正親町天皇、勧修寺晴右へ「せんゆ寺寺りやうにし九条」の件で木下秀吉(「きの下とうきちらう」)が「いらん」したこと
       について泉涌寺は「たにことなる御事」であるため秀吉(「とうきちらう」)へ押領禁止を足利義昭(「むろまちとの」)に
       通達するよう命令。〔『言継卿記』四〕
 11月 9日 正親町天皇、山科言継へ「せんゆ寺寺りやうにし九条」の件で木下秀吉(「きの下とうきちらう」)が「いらん」したことに
       ついて泉涌寺は「たにことなる御事」であるため木下秀吉(「とうきちらう」)へ押領禁止を足利義昭(「むろまちとの」)に
       通達するよう命令。〔『言継卿記』四〕
 11月 9日 山科言継、「女房奉書」2通を携えた慈専(泉涌寺役者)の来訪を受け、山科言継はこれを受用す。
       山科言継、木下秀吉(「木下藤吉郎」)宿所を訪問するも秀吉は足利義昭(「武家」)へ参上というので幕府御所を訪問。
       足利義昭「御前」に木下秀吉(「藤吉郎」)が祗候し、「申事条々」があったという。移刻待機し、正親町天皇(「禁裏」)
       より下達された泉涌寺領返還の件を申し入れたところ「一向不存知」といい、大和淡路守を以て「女房奉書」を披露したが
       「聊以無御如在」ということで、押領については「堅可被仰付」という足利義昭の「御返事」であった。〔『言継卿記』四〕
 11月10日 山科言継、慈専(泉涌寺役者)より昨日の女房奉書の礼問を受ける。〔『言継卿記』四〕
 11月11日 多聞院英俊、松永久秀(「城州」)へ贈物をし、松永久通(「金吾」)へは20疋を持参し見舞う。〔『多聞院日記』二〕
 11月15日 山科言継、葉室長教(「兵部権少輔従五位上」)の「口宣案」を中御門宣教へ言伝す。勧修寺晴豊の申沙汰であり、同様に
       「昇殿の件も下知された。〔『言継卿記』四〕」
 11月15日 松田秀雄(「秀矩」)・塙直政・島田秀満・明智光秀、上京立売組中へ「禁裏様為御賄」して八木の進納を割り当てる。
       〔「京都上京文書」〕
 11月17日 山科言継、吉田兼見(「吉田侍従兼和朝臣」)より大根4束(100本)を贈られる。〔『言継卿記』四〕
 11月19日 山科言継、葉室長教(「葉室権少輔」)を同行し足利義昭(「武家」)へ参上、対面す。〔『言継卿記』四〕
 11月21日 織田信長(「信長」)、京都賀茂惣中へ松永久秀の籠もる大和国多聞山城の攻撃のために近日中に上洛する予定であることを
       告げ、織田信長上洛以前に筒井順慶(「筒井」)と談合し急ぎ「付城」を構築して攻略するよう通達。
       〔「沢房吉氏所蔵文書」〕
 11月22日 山科言継、「他行」のため吉田兼右(「吉田右兵衛督兼右卿」)の来訪にもかかわらず対顔できず。晩に吉田兼右より使者が
       到来し直垂仕立を依頼する用件であった旨を通知される。〔『言継卿記』四〕
 11月23日 山科言継、中御門宣教を同行し吉田兼右(「吉田右兵衛督」)を訪問。
       山科言継、吉田邸で先日の平野兼興の件で三淵藤英(「三淵大和守」)より足利義昭(「武家」)「御返事」の伝達を受ける。
       その内容とは足利義昭から見て平野社は「聊不存第一」であり、平野社は悉く木を伐採し野原となった「不知行之在所」を
       「当知行」と号して足利義昭「御下知」に「違背」したので「濃州衆」を以て「責譴」させたところ「曲事」というので
       平野兼興は「御成敗」としたこと、社頭の件は別儀無きようにというものであった。山科言継、長橋局(薄好子)へ祗候し
       平野兼興の件についての足利義昭の返事を上奏す。〔『言継卿記』四〕
 11月23日 山科言継、竹内殿(曼殊院覚恕)の「御侍越後」の来訪を受ける。織田信長(「信長」)への「御使」の件で談合す。
       〔『言継卿記』四〕
 11月23日 吉田兼右の直垂(安芸国厳島造替・遷宮・清御祓用)が完成し山科邸に届けられた。〔『言継卿記』四〕
 11月24日 山科言継、吉田兼右(「吉田」)の来訪を受け直垂を渡す。〔『言継卿記』四〕
 11月24日 山科言継、中山親綱の来訪を受ける。冷泉為満の「加級」の件で冷泉家に於いては「年中」に「官位之事」は先例が無いと
       いうので許可されずという話であった。〔『言継卿記』四〕
 11月25日 山科言継、竹内殿(曼殊院覚恕)へ祗候し暫く雑談。「越後」(竹内殿御侍)と岐阜下向の件で談合す。〔『言継卿記』四〕
 11月25日 山科言継、長橋局(薄好子)へ祗候。冷泉為満の件(「冷泉侍従童体加級之事」)を再度申し入れる。別儀無き旨を再度
       中山親綱へ披露するということであった。〔『言継卿記』四〕
 11月25日 吉田兼右(「吉田二位」)、山科言継を訪問。明後日に安芸国厳島へ向けて発足というので暇乞の挨拶であった。
       〔『言継卿記』四〕
 11月27日 山科言継、足利義昭(「武家」)より「御使」一色民部大輔が到来し御鷹山への参上命令の通達を受け、平岡に参上す。
       〔『言継卿記』四〕
 11月28日 吉田兼右(「家君」)、毛利輝元(「森方」)からの厳島神社正遷宮のための下向依頼を受けて出立。
       細川藤孝(「細兵」)・三淵藤英(「三太」)・明智光秀(「明十」)・吉田兼見らが吉田兼右の老体を案じて諌止するも、
       吉田兼右は出立したので東寺辺りまで見送る。〔『兼見卿記』一〕
 11月29日 山科言継、晩景に「越後」(竹内殿御侍)の来訪を受け、「岐阜へ之儀」を談合す。〔『言継卿記』四〕

12月
 12月 1日 山科言継、来たる10日頃の美濃国下向のための準備をする。〔『言継卿記』四〕
 12月 2日 山科言継、「越後」(竹内殿御侍)より美濃国下向の準備費用として八木1石を受ける。〔『言継卿記』四〕
 12月 3日 山科言継、冷泉為満を同行し足利義昭(「武家」)へ祗候、対面す。〔『言継卿記』四〕
 12月 7日 山科言継、この日「祇園会」が開催されたが「上意」(足利義昭の命令)により「山王祭」・「日吉社山上」等は行われ
       なかったことを知る。〔『言継卿記』四〕
 12月 7日 佐久間信盛(「佐久間右衛門尉」)、織田信長の意を受けて山城国狭山郷の件で田中長清(石清水八幡宮祠官)との交渉を
       無視した御牧摂津守の被官である片岡俊秀(「片岡左衛門尉」)へ来春の織田信長(「信長」)上洛以前に押領地返還を指示。
       〔「前田家所蔵文書」古蹟文徴十、「石清水文書」三〕
 12月 7日 日比野長吉(「日比野藤十郎長吉」:佐久間信盛被官)、片岡俊秀(「片岡左衛門尉」:御牧摂津守被官)へ明春の
       織田信長(「信長」)在洛までに横領した狭山郷の返還督促を通達。〔「石清水文書」三〕
 12月 9日 山科言継、「越後」(竹内殿御侍)の来訪を受け、美濃国下向の件を談合す。〔『言継卿記』四〕
 12月 9日 「伏見殿」、「御懸之松軒」を「少洗」う。〔『言継卿記』四〕
 12月10日 正親町天皇、山科言継へ「女房奉書」を下す。
       その内容は、「しよもんせきりやう」を「山りやう」として明智光秀(「あけち」)が押領(「わうりやう」)した件につき、
       その由を織田信長(「のふなか」)に仰せ付け、別儀無きよう申し付けるよう足利義昭(「むろまちとの」)へ通達するよう
       命令するものであった。〔『言継卿記』四〕
 12月10日 正親町天皇、織田信長(「織田弾正忠」)へ「綸旨」を下す。
       その内容は「山門」の件で「ゥ門跡領」を明智光秀(「明智」)が「押領」したことにつき、その返還命令であった。
       〔『言継卿記』四〕
 12月10日 正親町天皇、山科言継へ「女房奉書」を下す。
       その内容は近江国「舟木の御れう所」を永田景弘(「なかたきやうふのせう」)・九里三郎左衛門(「九里はらさゑもん」)・
       丹羽長秀(「にわの五郎さゑもん」)・中川重政(「なか川八郎さゑもん」)が「のふなかしゆいん」を以て
       押領(「申かすめ」)しているが、この件は織田信長(「のふなか」)の関知しない事であろうから、
       「よくよくおほせわけられ」て「御れう所」回復を実現するように織田信長(「のふなか」)へ通達するようにとの命令で
       あった。〔『言継卿記』四〕
 12月10日 山科言継、竹内殿(曼殊院覚恕)・大典侍殿(万里小路賢房女)・長橋局(薄好子)らへ祗候。「女房奉書」が発給され
       足利義昭(「武家」)へ参上するよう命令を受けた。〔『言継卿記』四〕
 12月10日 山科言継、足利義昭(「武家」)へ祗候。申次の飯河信堅(「飯川肥後守」)を以て申し入れると、足利義昭の「御返事」は
       諸門跡領の押領について対応が遅れたのは油断の極みであり、正式に通達せずといえども内々度々申し下したが、この度
       「御内書」を以て正式に通達するというものであった。但し足利義昭より山科言継へ「御談合」があり、「勅書」発給をうけて
       から万一遅滞して「後奏」はするべきか「如何」の由を申されたので、山科言継は「尤無余儀」であるので、この由を披露する
       と返答し幕府御所を退出す。山科言継、直ちに長橋局(薄好子)へ足利義昭の返答を申し入れる。〔『言継卿記』四〕
 12月10日 山科言継、日野輝資・陽春院(近衛尚通女:足利義輝・義昭母)より使者を受ける。武井夕庵に「尊勝院」の件での言伝で
       あり、尊勝院は日野輝資の弟が入院しているので格別の馳走を依頼する内容であった。〔『言継卿記』四〕
 12月11日 山科言継、早旦に宮内卿(竹内殿御使)の来訪を受ける。「禁裏」(正親町天皇)から織田信長(「信長」)への「綸旨」を
       渡される。〔『言継卿記』四〕
 12月11日 山科言継、長橋局(薄好子)へ祗候し暇乞をする。そこで近江国「御料所」舟木庄の件で「女房奉書」が下され「能々」通達
       するよう命令を受ける。次いで御木屋の欅木を村井貞勝(「村井」)に進上す。〔『言継卿記』四〕
 12月11日 山科言継、辰下刻に美濃国下向のため出発。この日は近江国守山の御所的弥三郎邸に宿泊。〔『言継卿記』四〕
 12月12日 山科言継、近江国守山より高宮まで移動。孫太夫邸に宿泊。〔『言継卿記』四〕
 12月13日 山科言継、近江国高宮より柏原まで移動。近江国の成菩提院亮運法印を訪問し宿泊。〔『言継卿記』四〕
 12月14日 山科言継、近江国の成菩提院を出発し美濃国垂井を経由し赤坂に到着、宿泊。〔『言継卿記』四〕
 12月14日 織田信長(「霜台」)、美濃国岐阜より尾張国へ鷹狩に出発。坂井利貞(「坂井文介」)、供す。〔『言継卿記』四〕
 12月15日 「若宮御方」(和仁親王、後の後陽成天皇)、誕生。〔『言継卿記』四〕
 12月15日 山科言継、美濃国岐阜の坂井利貞(「坂井文介」)宿所に到着。坂井利貞(「坂井文介」)は織田信長の尾張国への鷹狩に
       同行のため留守であった。次いで武井夕庵(「武井入道夕庵」)を訪問するも山中に湯治のため留守であった。次いで
       鳴海助右衛門(「鳴海助左衛門」:山科言継の誤記か)を訪問し梨門(入道應胤親王)・竹門(曼殊院覚恕)の「御歌」入り
       扇子を10本贈呈す。次いで村井貞勝(「村井民部少輔」)を訪問するも先客有りということであった。次いで去々年宿所と
       した風呂屋与五を訪問。そして坂井利貞(「坂井文介」)宿所に戻る。〔『言継卿記』四〕
 12月16日 坂井利貞(「坂井文介」)、尾張国での鷹狩より美濃国岐阜の宿所へ帰宅す。〔『言継卿記』四〕
 12月16日 山科言継、伊藤神六・伊藤彦兵衛を訪問。次いで鳴海助右衛門(「鳴海助左衛門」)を訪問、明日尾張国へ出立するという
       ことであった。次いで村井貞勝(「村井」)を訪問し尾張国下向の件を談合、許可を得て馬を借用する約束をする。
       〔『言継卿記』四〕
 12月16日 山科言継、坂井利貞(「坂井文介」)と尾張国下向の件を談合したところ「無用」のとことであった。理由は「制札」が掲げ
       られ「一切公事訴訟停止」という状況であり、織田信長へは「陣」からの注進以外は上達されないことになっていること、また
       尾張国清洲までは8里あり、黄昏であるから織田信長への見参は不可能であり、明後日未明に織田信長は三河国に下向するとの
       ことなので尾張国下向は「略定」とす。山科言継、村井貞勝(「村井」)へこの旨を通達し馬の件を留めてもらう。
       〔『言継卿記』四〕
 12月16日 細川信良(「細川六郎」)、上洛。〔『兼見卿記』一〕
 12月17日 坂井利貞(「坂井文介」)、暁天に尾張国清洲へ下向。〔『言継卿記』四〕
 12月17日 織田家中の坂井隼人・山口弥七郎・林弥平次・長田表内・清水某ら、「越後」(竹内殿御侍)を歓待す。〔『言継卿記』四〕
 12月17日 細川信良(「細川六郎」)、従者700名程を従え幕府に出頭。
       足利義昭、細川信良を「右京大夫」に任じ、偏諱を与えて「秋元」と改名させる。〔『兼見卿記』一〕
 12月18日 山科言継、坂井利貞(「坂井文介」)宿所は女房衆ばかりであったので風呂屋与五を訪問。〔『言継卿記』四〕
 12月18日 吉田兼見、細川信良(「細川右京兆」:昭元)に参賀。高倉永相・日野輝資・広橋兼勝・飛鳥井雅敦も参賀。
       〔『兼見卿記』一〕
 12月19日 正親町天皇、「左中弁」を介し摂津国四天王寺領を違乱した細川輝経(「細川中務大輔」)に対してこれを制す命令を伝達
       させる。〔「四天王寺文書」〕
 12月19日 山科言継、織田家中の山口又左衛門尉・菅屋四郎右衛門(「菅谷之四郎右衛門」)を上京させ、「在庄」等の件を諸門跡へ
       通達するよう取り計らう。〔『言継卿記』四〕
 12月19日 筒井順慶(「筒井」)、大和国十市郷へ総攻撃を仕掛ける。〔『多聞院日記』二〕
 12月22日 山科言継、鎰屋・是心院殿・長松院を訪問。両所(鎰屋是心院殿・長松院)よりへの鳴海助右衛門への「公事」の件を依頼
       される。〔『言継卿記』四〕
 12月22日 木下秀吉(「木下藤吉郎秀吉」)、山城国賀茂神社役者中へ去年(元亀元年)発せられた「徳政」について、賀茂神社境内に
       足利義昭「御下知」と織田信長「朱印」により徳政免除が出されたが、未だに実行されずに難渋していることは言語道断のこと
       であり、足利義昭「御下知」・織田信長「朱印」につて違反した場合は来春(元亀3年)の春に上洛時に厳命する旨を通達。
       〔「賀茂別雷神社文書」三〕
 12月23日 山科言継、伊藤神六の来訪を受け、伊藤彦兵衛尉より薬・扇の礼として木綿2端を贈呈される。〔『言継卿記』四〕
 12月23日 木下秀吉(「木下藤吉郎秀吉」)、山城国狭山郷の名主・百姓中へ石清水八幡宮田中門跡御領の年貢・「ゥ成物」などを保管
       しておくこと、来春の織田信長上洛の際に決着を付ける旨を通達。〔「石清水文書」三〕
 12月24日 山科言継、是心院殿より書状を受け、鳴海助右衛門への公事の件を依頼される。〔『言継卿記』四〕
 12月24日 山科言継、在京中の木下秀吉(「木下藤吉郎」)が今日明日中に美濃国岐阜に下向するという風聞に接す。
       〔『言継卿記』四〕
 12月24日 村井貞勝、尾張国清洲より美濃国岐阜の宿所へ帰宅。〔『言継卿記』四〕
 12月25日 山科言継、村井貞勝(「村井民部少輔」)より使者を受ける。村井貞勝は昨晩尾張国清洲より帰宅したというので、来談する
       ようにとのことであった。即時村井貞勝宿所を訪問し雑談すること移刻、黄昏に及び旅宿へ戻る。〔『言継卿記』四〕
 12月26日 山科言継、鳴海助右衛門夫婦に公事の件を申し入れた旨を是心院殿に書状で通知。〔『言継卿記』四〕
 12月27日 細川藤孝(「細川兵部大輔」)、未刻に美濃国岐阜へ下着す。〔『言継卿記』四〕
 12月27日 山科言継、村井貞勝(「村井民部少輔」)を訪問し雑談す。〔『言継卿記』四〕
 12月27日 山科言継、京都の竹内殿(曼殊院覚恕)より使者与左衛門の到来を受ける。
       また去15日に「若宮御方」(和仁親王、後の後陽成天皇)誕生の旨を知る。〔『言継卿記』四〕
 12月28日 織田信長(「霜台」)、尾張国清洲より美濃国岐阜へ帰還。
       山科言継、午時に岐阜城門外まで出向き織田信長と対面、「御使」(勅使)の由を上申したところ、後刻案内を受けてから来訪
       するようにとの指示を受ける。〔『言継卿記』四〕
 12月28日 山科言継、鳴海助右衛門に「八木」1俵を借用す。〔『言継卿記』四〕
 12月28日 山科言継、未下刻に織田信長「使」を受け、「禁裏」(正親町天皇)からの「綸旨」・「女房奉書」・「勅作之御薫物」を
       「御杉」を以て申し渡す。武井夕庵と大方の様子を問答、明日の来訪を通達される。〔『言継卿記』四〕
 12月28日 吉田兼見、足利義昭(「武家御所」)へ歳暮の参賀をする。〔『兼見卿記』一〕
 12月29日 山科言継、早旦に鳴海助右衛門を訪問。次いで村井貞勝(「村井」)を訪問し昨日の件を談合。次いで島田秀満(「島田」)
       を訪問するも「他行」であった。次いで坂井利貞(「坂井文介」)を訪問し礼を述べる。〔『言継卿記』四〕
 12月29日 山科言継、織田信長(「霜台」)からの「使」松井友閑(「友閑」)の来訪を受ける。〔『言継卿記』四〕
 12月29日 村井貞勝(「村井民部少輔」)、織田信長(「霜台」)への参上前に山科言継旅宿に立ち寄る。細川藤孝(「細兵」)・
       明智光秀(「明智」)が呼ばれ「茶湯」が催されるということであった。〔『言継卿記』四〕
 12月29日 山科言継、黄昏に松井友閑(「友閑」)の来訪を受ける。織田信長(「霜台」)より小袖・袷・肩衣袴などを贈呈される。
       〔『言継卿記』四〕
 12月29日 山科言継、戌刻に明智光秀(「明智十兵衛尉」)が「不弁」というので200疋を送付。〔『言継卿記』四〕
 12月  日 織田信長(「信長」)、佐久間信盛(「佐久間右衛門尉」)へ所領を加増する。〔「吉田文書」四〕


    この年 高橋元種、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
        森忠政、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
        柳生宗矩、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕


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