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        【 天下統一期年譜 1570年 】

永禄13・元亀元(1570)年 

1月
  1月 1日 幕府奉公衆の畠山次郎・朽木兵庫助・竹内治部少輔、山科言継を訪問し年賀すという。〔『言継卿記』四〕
  1月 2日 山科言継、山科言継(「倉部」)・東坊城盛長・白川雅朝らを同行し足利義昭(「武家」)へ出仕。
       申次は細川藤孝(「細川兵部大輔」)であった。
       先ず「御供衆」以下が礼を述べ、次いで公家衆の山科言継・飛鳥井雅教・「内蔵頭」・飛鳥井雅敦・東坊城盛長・白川雅朝・
       高倉永孝らが祝賀を述べた。〔『言継卿記』四〕
  1月 2日 多聞院英俊、「一円宜敷」夢を見る。「寺門如前々」、「国も無殊儀」という内容であった。〔『多聞院日記』二〕
  1月 3日 朝山日乗、山科言継を訪問し年頭参賀を告げる。〔『言継卿記』四〕
  1月 3日 山科言継、禁裏より枝柿15個を拝領。尾張国の坂井政尚(「坂井右近」)より献上されたものであるという。
       〔『言継卿記』四〕
  1月 4日 山科言継、「御大工総官」伊豆守と木子源左衛門の訪問を受ける。〔『言継卿記』四〕
  1月 4日 多聞院英俊、去年のこの頃に三好三人衆が入京し、6日頃織田軍に撃退された旨を思い出し、「万事如夢」と感慨に耽る。
       〔『多聞院日記』二〕
  1月 4日 多聞院英俊、昼寝で「上ノ方」が落ちる内容の夢を見る。〔『多聞院日記』二〕
  1月 5日 山科言継、里村紹巴(「紹巴法師」)の来訪を受ける。〔『言継卿記』四〕
  1月 8日 多聞院英俊、旧冬より花山院屋敷に於ける怪奇現象(「恠異」)を知る。〔『多聞院日記』二〕
  1月10日 多聞院英俊、織田信長(「信長」)の命令で元日より伊勢国の関所が悉く撤廃されたことを知る。〔『多聞院日記』二〕
  1月10日 多聞院英俊、甲斐国武田氏の女中より大和国春日大社へ五部大乗経の書写したものと毎年1000疋を奉納すること、同様に
       京都清水寺にも寄進が行われたことを知る。〔『多聞院日記』二〕
  1月11日 五辻為仲、山科言継を訪問し明日の美濃国下向を告げる。〔『言継卿記』四〕
  1月13日 織田信長(「織田」)、禁裏へ鯨を献上。
       山科言継・倉部、禁裏より織田信長(「織田」)が献上した鯨肉を拝領。〔『言継卿記』四〕
  1月14日 山科言継、長橋局(薄好子)へ祗候し昨日分与された織田信長献上の鯨肉の礼を述べる。〔『言継卿記』四〕
  1月14日 多聞院英俊、早旦より井戸表の松永久秀(「松城」)を見舞う。〔『多聞院日記』二〕
  1月17日 山科言継、朝山日乗の家来である村垣入道より竹5本を所望され調達。〔『言継卿記』四〕
  1月20日 山科言継、禁中木屋の朝山日乗を訪問するが未だ上洛していないという。山科言継、村垣入道と雑談す。〔『言継卿記』四〕
  1月20日 山科言継、早旦に久我晴通(「久我入道愚庵」)を訪問。足利義昭(「武家」)の参内が遅れて「外聞実儀不可然」である
       こと、その調儀がなされていること、また「改元」の件はやがて足利義昭より申し入れがあることなどを談合。
       〔『言継卿記』四〕
  1月20日 多聞院英俊、「南ノ陳」で大火が起こった夢を見る。〔『多聞院日記』二〕
  1月22日 山科言継、早旦に久我晴通(「久入」)より書状を受ける。
       久我晴通(「久入」)、内々に参内し「改元」などの件を申し入れ正親町天皇の「御存分」を得、直接長橋局(薄好子)へ
       赴き談合す。山科言継、久我晴通(「久入」)を訪問し談合す。〔『言継卿記』四〕
  1月22日 山科言継、三河国商人の訪問を受ける。
       山科言継、三河国商人より旧冬12月16日付の誓願寺泰翁上人及び鳥居忠吉(「鳥居伊賀入道勝悦」)の書状を受け取り、
       両人へ返状を送付。〔『言継卿記』四〕
  1月23日 織田信長、朝山日乗・明智光秀(「明智十兵衛尉」)へ全5ヶ条の「条々」を提示、足利義昭もこれに同意す。
       〔「成簣堂文庫氏所蔵文書」〕
  1月23日 織田信長、各方面に「触状」を発す。
       その内容は「禁中御修理」・「武家御用」及び「天下弥静謐」のために織田信長が来月中旬に「参洛」するので各自上洛し
       足利義昭に「御礼」を上奏し「馳走」することが大事であり、延引することはないようにと通達。
       〔『二条宴乗日記』元亀元年二月十五日条〕
  1月24日 山科言継、長橋局(薄好子)へ祗候。次いで三条西公国(「西三条」)を訪問し暫く雑談す。足利義昭(「武家」)の参内と
       来月の「改元」の件を雑談す。〔『言継卿記』四〕
  1月24日 山科言継、久我晴通(「久我」)を訪問し足利義昭の参内及び「改元」の費用は調達したので明日早々に取り遣わす旨を通達
       される。山科言継、その内容を長橋局(薄好子)へ報告。〔『言継卿記』四〕
  1月24日 織田信長(「織田信長」)、足利義昭(「武家」)へ諸鳥150羽を進上。〔『言継卿記』四〕
  1月25日 織田信長(「織田信長」)、禁裏へ諸鳥50羽を献上。
       織田信長「御使」である細川藤孝(「細川兵部大輔」)に「伝奏」が添えられたという。〔『言継卿記』四〕
  1月25日 山科言継、長橋局(薄好子)へ祗候し、織田信長より献上された雁1羽を分与される。
       山科言継、一条内基・久我通俊(「久我入道」)の分を預かり持参す。〔『言継卿記』四〕
  1月26日 山科言継、未下刻より幕府「奉公衆」の年頭参賀を受ける。〔『言継卿記』四〕
  1月27日 多聞院英俊、松永久秀(「城州」)より長勝房の知行遠田の件で渡部采女より古米が出される旨の書状を受ける。
       〔『多聞院日記』二〕
  1月28日 山科言継、長橋局(薄好子)より招喚を受けて参内。足利義昭(「武家」)の参内および「改元」費用の件について談義が
       あった。次いで山科言継、誠仁親王(「親王御方」)へ祗候。〔『言継卿記』四〕
  1月28日 飛鳥井雅教(「飛鳥井黄門」)、公家衆各自へ来たる2日の足利義昭(「武家」)参内に際する参会の廻文を通達。
       〔『言継卿記』四〕
  1月28日 竹内秀勝(「竹下」)、多聞院英俊と龍雲院へ上洛するすることを談義す。〔『多聞院日記』二〕
  1月28日 大和国井戸城、陥落す。〔『多聞院日記』二〕
  1月29日 山科言継、柳原淳光を訪問し明日誠仁親王(「親王御方」)の「御会始和歌」について談合。
       次いで山科言継、三条西実澄(「三条亜相」)を訪問、そこに持明院基孝が来訪。暫く雑談す。
       次いで山科言継、木屋に朝山日乗を訪問。〔『言継卿記』四〕
  1月29日 多聞院英俊、前日の大和国井戸城の陥落を知る。〔『多聞院日記』二〕
  1月 晦日 多聞院英俊、赤塚備前守より松永久秀(「城州」)からの通達として渡部采女(「渡采」)が上申した長勝房を大和国興福寺
       で預かること、また長勝房を逃した場合は「曲事」とする旨の通知を受け、即時竹内秀勝(「竹下」)に問い合わせる。
       〔『多聞院日記』二〕

2月
  2月 1日 足利義昭、烏丸光康・山科言継・飛鳥井雅教・冷泉・飛鳥井雅敦・烏丸光宣・三条公仲・高倉永孝の参賀を受ける。
       〔『言継卿記』四〕
  2月 1日 多聞院英俊、竹内秀勝(「竹下」)と参会し松永久秀(「久秀」)より名字改めを通達された夢を見る。
       〔『多聞院日記』二〕
  2月 1日 大和国興福寺、松永久秀(「松城」)より織田信長(「上総」)の使者が成身院を宿所とする旨の通達を受ける。
       〔『多聞院日記』二〕
  2月 2日 この日より「禁中御作事」が始まる。〔『言継卿記』四〕
  2月 2日 足利義昭、参内する。〔『晴右公記』〕
  2月 2日 足利義昭(「武家」)、禁裏へ参内。幕府軍勢が3000計り上洛。
       伝奏は飛鳥井雅教(「飛鳥井中納言」)が勤め、足利義昭は午下刻に参内。
       「参会之衆」は「一位大納言」・四辻季遠・万里小路惟房・「四辻宰相中将」・松寿丸(滋野井実松)・甘露寺経元・
       庭田重通・勧修寺晴豊・山科言経・中山親綱・飛鳥井雅敦・竹内長治・烏丸光宣・広橋兼勝・東坊城盛長・三条公仲・高倉永孝
       らであった。
       「御供衆」は細川藤賢・細川藤孝・伊勢三郎・同朋衆春阿、「御走衆」左は飯川弥四郎・真木島孫六・安威兵部少輔、
       「御走衆」右は後藤治部少輔・沼田弥四郎・沼田弥七郎、「御直廬」は同朋衆祐阿、「奉行」は諏方信濃守・飯尾右馬助らで
       あった。〔『言継卿記』四〕
  2月 2日 山科言継、山科言経(「倉部」)・冷泉為房(後の冷泉為満)を同伴し足利義昭(「武家」)参内のため禁裏へ祗候。
       〔『言継卿記』四〕
  2月 2日 織田信長(「信長」)の「使衆」が「先陳」(井戸表陣所か)へ下向。〔『多聞院日記』二〕
  2月 3日 足利義昭、大友宗麟に太刀(恒弘)・刀(氏吉)を贈り帰陣を祝す。
       詳細は一色藤長・細川藤孝に伝達させる。〔「大友文書」八〕
  2月 3日 一色藤長・細川藤孝、大友宗麟へ足利義昭御内書に添えて帰陣祝儀を通達。〔「大友文書」七〕
  2月 5日 山科言継、早旦に足利義昭(「武家」)を訪問。「八幡御法楽連歌」会が行われた。〔『言継卿記』四〕
  2月 5日 多聞院英俊、「新織」より大和国井戸表の陣所へ来訪するよう催促を受ける。〔『多聞院日記』二〕
  2月 6日 正親町天皇、大典侍局へ方違行幸。〔『晴右公記』・『言継卿記』四〕
  2月 6日 多聞院英俊、大和国井戸表の陣所へ赴き竹内秀勝(「竹下」)と談合す。〔『多聞院日記』二〕
  2月12日 山科言継、村井貞勝(「織田弾正忠信長内御作事奉行村井民部少輔」)が禁中木屋へ祗候というので樽代20疋を携え礼問
       するも「他行」であった。次いで山科言継、朝山日乗を禁中木屋に訪問するも「他行」であった。〔『言継卿記』四〕
  2月12日 多聞院英俊、大和国田部へ下向。竹内秀勝(「竹下」)へ書立を送付。〔『多聞院日記』二〕
  2月13日 織田信長(「信長」)、小早川隆景(「小早川左衛門佐」)へ毛利元就(「元就」)からの播磨国出兵要請に応え出兵日時の
       打ち合わせ予定を通知。〔「小早川家文書」一〕
  2月13日 村井貞勝(「村井民部少輔」)、山科言継を礼問し樽代30疋を贈る。山科言継、門外に於いて村井貞勝・朝山日乗と対面。
       〔『言継卿記』四〕
  2月15日 山科言継、葉室頼房書状を受けて山城国葛野郡葉室へ再度人夫を賦課する件について村井貞勝(「村井」)へ申し入れしたき
       由を沢路長俊を以て村井貞勝(「村井」)に伝達させる。村井貞勝の返答は朝山日乗次第によるというものであったが、
       朝山日乗は留守であった。〔『言継卿記』四〕
  2月15日 本多忠次、徳川家康判形を受けて全徹和尚へ三河国東漸寺住持職を安堵。〔「東漸寺文書」〕
  2月16日 山科言継、葉室頼房の雑掌山口又左衛門に沢路長俊を同行させ村井貞勝(「村井」)・朝山日乗へ葉室頼房に賦課された人夫
       の件で申し入れをする。〔『言継卿記』四〕
  2月16日 竹内秀勝・柴田勝家・蜂屋頼隆・野間長前・森可成・坂井政尚・佐久間信盛、摂津国本興寺へ飛鳥井雅敦の申請を受けて
       織田信長より陣取免除が「御許容」された旨を通達。〔「本興寺文書」〕
  2月17日 山科言継、村井貞勝へ葉室頼房在所に賦課された人夫役の件について「延引」を所望する書状を調え送付。
       朝山日乗が「加判」した村井貞勝からの折紙には延引については「可隠密之由」とあった。〔『言継卿記』四〕
  2月17日 今井宗久、某所湊村惣中へ湊村の「吹屋」(鍛冶屋)を我孫子・五ヶ荘に召致するようにとの織田信長の指令(「上儀」)を
       通達。〔「今井宗久書札留」〕
  2月17日 多聞院英俊、松永久秀(「久秀」)の帰還を大和国田部で迎える。〔『多聞院日記』二〕
  2月18日 山科言継、足利義昭(「武家」)を訪問。〔『言継卿記』四〕
  2月18日 竹内秀勝(「秀勝」)、松永久秀(「城州」)と種々の談合す。〔『多聞院日記』二〕
  2月19日 今井宗久、某所湊村惣中へ先日の「吹屋」(鍛冶屋)召致の件で返答が無いことに関して、今井宗久自身が一両日中に
       織田信長(「信長様」)「御迎」のため上洛するにあたり再度返答を督促。〔「今井宗久書札留」〕
  2月19日 多聞院英俊、松永久秀(「城州」)を礼問す。〔『多聞院日記』二〕
  2月20日 半井某、山科言継と初対面。明日尾張国苅屋に下向するという。〔『言継卿記』四〕
  2月20日 山科言継、葉室頼房の雑掌山口又左衛門より先日の葉室在所へ賦課された人夫役の件での口利きの謝礼を受ける。
       〔『言継卿記』四〕
  2月22日 長らく牢獄に監禁されていた大和国人井戸某の娘・松蔵権介子息、「指縄」にして「シメコロシ」に処され、井戸城近辺に
       「串ニ指」される(松永久秀の命令によるものか)。〔『多聞院日記』二〕
  2月22日 竹内秀勝(「竹下」)、来る24日に織田信長(「信長」)を迎えるために近江国へ下向。〔『多聞院日記』二〕
  2月24日 松永久通(「金吾」)・竹内秀勝(「竹下」)、在京中の織田信長(「信長」)に出仕。〔『多聞院日記』二〕
  2月25日 月蝕。土御門有脩(陰陽頭)、祈攘を行う。〔『御湯殿上日記』〕
  2月26日 山科言継、「竹内殿」(曼殊院覚恕)使者より午時に朝山日乗来訪の旨を通達され、未刻に訪問。
       湯漬けを相伴したのは「竹門」(曼殊院覚恕)・山科言継・朝山日乗・村井貞勝(「村井民部少輔」)であった。各自「下戸」
       であったため形だけの酒宴であり、暫く雑談した。〔『言継卿記』四〕
  2月27日 山科言継、朝山日乗より美濃紙1束を贈られる。〔『言継卿記』四〕
  2月27日 山科言継、村井貞勝(「村井」)が来訪するというので長橋局(薄好子)へ祗候する約束に従い暮れに及び祗候、遅れたが
       問題にはならず「一盞」を賜わる。北の門前に於いて朝山日乗・村井貞勝(「村井」)らと暫く雑談す。〔『言継卿記』四〕
  2月28日 山科言継、禁中へ祗候。木屋に於いて朝山日乗を訪問し雑談す。〔『言継卿記』四〕
  2月28日 徳大寺公維、朝山日乗へ織田信長の朱印状(「織田朱印」)の発給取次を依頼。
       山科言継、徳大寺公維へ朝山日乗に依願することを助言し、無沙汰をしていた徳大寺公維は朝山日乗へ蛤・蜊を贈る。
       〔『言継卿記』四〕
  2月28日 山科言継、長橋局(薄好子)へ祗候。徳大寺公維が朝山日乗へ織田信長朱印状の取次を依頼したことを「内々披露」し、
       「御意」を得る。次いで山科言継、朝山日乗を訪問するも「他行」であった。〔『言継卿記』四〕
  2月28日 山科言継、黄昏に徳大寺公維・山科言経(「倉部」)を同行し禁中へ参内。先ず誠仁親王(「親王御方」)へ祗候すると
       「御両御所」(正親町天皇・誠仁親王)と対面した。次いで山科言継、徳大寺公維を同行し朝山日乗を訪問するも「他行」と
       いうので佳田橘右衛門に申し置きし、樽代20疋・「支証案文」6通を預ける。〔『言継卿記』四〕
  2月28日 上野豪為(足利義昭側近)、相良義陽へ7年間分の年貢として黄金70両を受け取った礼状を発給。〔「相良家文書」〕
  2月28日 多聞院英俊、竹内秀勝(「竹下」)への礼米について談合す。〔『多聞院日記』二〕
  2月30日 山科言継、禁中御作事を見舞い、朝山日乗・村井貞勝(「村井民部少輔」)と雑談。〔『言継卿記』四〕
  2月30日 織田信長、上洛。〔『御湯殿上日記』・『晴右公記』〕
  2月30日 織田信長(「信長」)、入京す。〔『多聞院日記』二〕
  2月30日 織田信長(織田弾正忠信長)、申刻に上洛。
       公家衆・奉公衆が近江国堅田・坂本・山中などへ迎えに行った。上下京の地下人は1町につき5人が京都郊外の吉田まで迎えに
       出た。山科言継、「五辻」を同行し明智光秀(「明智十兵衛尉」)の宿所に赴く。〔『言継卿記』四〕
  2月30日 山科言継、戌刻に召され禁裏に参内。織田信長(「信長」)が長橋局(薄好子)へ2荷両種を献上したという。
       〔『言継卿記』四〕
  2月30日 徳川家康、織田信長入京に随行。三好義継・和田惟政・松永久秀らも京都に集結する。〔『三好家譜』〕
  3月 1日 山科言継、三条公仲(「三条新少将」)を同行し足利義昭(「武家」)へ祗候。午時に対面あり。
       足利義昭への「被参之輩」は織田信長(「織田弾正忠信長」)・畠山昭高・畠山高政・三好義長・畠山播磨守・鷲巣某・
       大館左衛門佐・大館伊与守以下「御供衆」・「御部屋衆」・「申次」の悉くであった。
       「公家」衆で祗候したのは烏丸光康・久我晴通・山科言継・飛鳥井雅教・飛鳥井雅敦・烏丸光宣・広橋兼勝・三条公仲・
       姉小路頼綱・高倉永孝らであった。(『言継卿記』四)

3月
  3月 1日 織田信長、禁裏に祗候。〔『晴右公記』〕
  3月 1日 織田信長、誠仁親王へ馬・太刀を献上。〔『御湯殿上日記』〕
  3月 1日 織田信長(「信長」)、「禁裏」に祗候。「直に参」り、「衣冠」を着し「御作事」の様子を回覧す。
       同行した公家は三条西実澄・中山孝親・四辻季遠・万里小路惟房・三条西公国・四辻季満・甘露寺経元・勧修寺晴豊・
       山科言経・五辻為仲・中山親綱・中院通勝・「雅英」・橘以継・五辻元仲らであった。
       織田信長、正親町天皇(「上」)へ太刀1腰・馬代1000疋を、長橋局(薄好子)へ「宮笥」1000疋を、
       誠仁親王(「親王御方」)へ太刀1腰・馬代1000疋を、新大典侍殿(万里小路房子)へ折紙1000疋を献上。
       〔『言継卿記』四〕
  3月 1日 織田信長(「信長」)が半井驢庵を訪問にあたり、この日の礼を述べるため聖護院道澄・四辻季遠・山科言継・飛鳥井雅教・
       飛鳥井雅敦・日野輝資・広橋兼勝・高倉永孝らが訪問した。〔『言継卿記』四〕
  3月 1日 多聞院英俊、竹内秀勝(「竹下」)へ礼米5石を渡す。〔『多聞院日記』二〕
  3月 2日 久我通俊(「久我入道」)、山科言継へ渡御。久我通俊の「右大将」「御詫言」(辞退)の件を織田信長(「信長」)が
       「執申」(朝廷に執奏)したが、久我通俊は山科言継に長橋局(薄好子)へ「内々」の口入れを依頼。
       昨日は三条西実澄・万里小路惟房が上申したが「不許」であった。〔『言継卿記』四〕
  3月 2日 山科言継、朝山日乗からの招請により訪問。
       山科言継、長橋局(薄好子)へ祗候し久我通俊の「右大将」辞任の件を「内々」に申し入れる。〔『言継卿記』四〕
  3月 2日 山科言継、久我通俊を訪問し「大将」辞任の件で「内々」の談合す。〔『言継卿記』四〕
  3月 2日 多聞院英俊、織田信長(「信長」)が去2月30日に入京したことを知る。織田信長の大和国下向は無いという風聞に接す。
       〔『多聞院日記』二〕
  3月 2日 坂井利貞(「坂井文介」)、尾張国より上洛。〔『言継卿記』四〕
  3月 2日 竹内秀勝(「竹下」)、京都より大和国へ帰還。〔『多聞院日記』二〕
  3月 3日 山科言継、坂井利貞(「坂井文介」)が尾張国より上洛したというので大沢重延を派遣したところ、今朝坂井利貞より礼が
       到来した。〔『言継卿記』四〕
  3月 3日 山科言継、三条公仲を同行し足利義昭(「武家」)へ祗候。
       「御礼被参之輩」は公家では山科言継・飛鳥井雅教・竹内季治・飛鳥井雅敦・竹内長治・烏丸光宣・日野輝資・広橋兼勝・
       水無瀬親具・三条公仲・姉小路頼綱・高倉永孝らであった。先ず「御供衆」・「御部屋衆」・「申次」衆らで、次いで「大名」
       の畠山昭高・畠山高政・三好義長ら、次に「公家」衆であった。次「鶏合」が3番行われた。
       「御供衆」は細川藤賢・大館左衛門佐・大館伊与守・一色藤長・一色晴具・畠山播磨守・上野中務大輔・伊勢三郎・松永久通ら
       であった。〔『言継卿記』四〕
  3月 3日 「公家衆」・「奉公衆」各自、織田信長(「織田弾正忠」)へ祗候するも、織田信長は「取乱之由申」し対面は無かった。
       〔『言継卿記』四〕
  3月 3日 多聞院英俊、昨夕に竹内秀勝(「竹下」)が京都より大和国へ帰還したことを知る。〔『多聞院日記』二〕
  3月 4日 一条内基(「一条殿」)、織田信長(「信長」)へ礼のため渡御するので山科言継に同行させる。
       織田信長(「信長」)、頭痛のため「平臥」しているので、明日渡御するようにということであった。〔『言継卿記』四〕
  3月 4日 勧修寺晴右、織田信長に礼銭80疋借用を依頼。〔『晴右公記』〕
  3月 4日 姉小路頼綱、土御門有脩を同行し山科言継を訪問したという。〔『言継卿記』四〕
  3月 4日 水野信元(「水野下野守」)、山科言継を訪問。樽代30疋を持参したという。〔『言継卿記』四〕
  3月 5日 一条内基(「一条殿」)、山科言継を同行し織田信長(「織田弾正」)を訪問。〔『言継卿記』四〕
  3月 5日 山科言継、「禁中御作事」を見舞い朝山日乗の木屋を訪問。〔『言継卿記』四〕
  3月 5日 織田信長、誠仁親王へ酒・海老を献上。〔『晴右公記』〕
  3月 5日 足利義昭、織田信長・三好義継・松永久通らを随行させ放鷹する。〔『言継卿記』四〕
  3月 6日 織田信長、朝山日乗・明智光秀を派遣して公家衆知行分の注進を行わせる。〔『言継卿記』四〕
  3月 6日 誠仁親王(「親王御方」)、公家衆を召集。織田信長(「信長」)より「御樽」の進上があったため分配があった。
       〔『言継卿記』四〕
  3月 6日 中山孝親・甘露寺経元、織田信長を訪問するも不在で川尻秀隆へ礼30疋を遣わす。〔『晴右公記』〕
  3月 7日 山科言継、「禁中御作事」を見舞う。〔『言継卿記』四〕
  3月 8日 山科言継、「禁中御作事」を見舞う。この日、「紫宸殿」の北の屋上の修理が完成。〔『言継卿記』四〕
  3月 8日 京中、地震。〔『言継卿記』四〕
  3月 8日 地震。土御門有脩(陰陽頭)、祈攘を行う。〔『御湯殿上日記』〕
  3月 9日 山科言継、禁裏「御作事」を見舞い、朝山日乗の木屋に於いて山科言継・竹内長治・村井貞勝(「村井民部少輔」)らと
       雑談す。〔『言継卿記』四〕
  3月10日 山科言継、巳初刻に織田信長(「織田弾正忠」)を訪問。午時に織田信長の対面があった。
       「御室」(仁和寺殿:守理法親王)の渡御があり、祗候した者は公家衆では中山孝親・勧修寺晴右・山科言継・甘露寺経元・
       庭田重通・日野輝資・中院通勝・中原師廉、以下「僧俗貴賤」60人計りであった。贈物は「如山」で山科言継は驚く。
       〔『言継卿記』四〕
  3月10日 山科言継、織田信長宿所を退出した後に直接足利義昭(「武家」)を訪問。暫く雑談す。〔『言継卿記』四〕
  3月10日 山科言継、「禁中御作事」を見舞い、朝山日乗の木屋に於いて竹内長治・村井貞勝(「村井民部少輔」)らと暫く雑談す。
       〔『言継卿記』四〕
  3月10日 久我通俊(「久我前右大将」)、和泉国堺より上洛。
       この日の夕刻、「密々儀」を以て誠仁親王(「親王御方」)の対面があった。柳原資定・烏丸光康・三条西実澄・中山孝親・
       万里小路惟房が「調法」したという。〔『言継卿記』四〕
  3月13日 山科言継、山科言経(「倉部」)・松木宗房・白川雅朝・橘以継らを同行し織田信長(「織田弾正忠」)を訪問。
       但しこの日は「人々不合」、奏者も無かったの移刻帰宅す。〔『言継卿記』四〕
  3月14日 山科言継、「禁中御作事」を見舞う。〔『言継卿記』四〕
  3月15日 山科言継、「禁中御作事」を見舞う。「紫宸殿」屋上の瓦葺きが完成。〔『言継卿記』四〕
  3月16日 中山孝親・山科言継・葉室頼房・山科言経(「倉部」)・松木宗房・白川雅朝は各自樽代として30疋、橘以継は樽代として
       20疋を携え織田信長(「織田弾正忠」)を訪問。「都鄙貴賤」が礼問した。
       山科言継ら、先ずはじめに三好義長・松永久秀(「松永山城守」)を見舞う。織田信長へ「先礼申衆」は豊後大友氏の使僧・
       但馬国の小田垣兄弟・備前宇喜多氏・大和国衆・河内国衆らで引物馬代等は「如山」であった。
       次いで「公家衆見参」があり、栗や串柿が出され暫く雑談した。〔『言継卿記』四〕
  3月16日 山科言継、武井夕庵に兼ねての約束に従い沢路備前入道常継が作した杓1本を贈る。〔『言継卿記』四〕
  3月16日 織田信長、誠仁親王へ鱒を献上。〔『御湯殿上日記』〕
  3月16日 織田信長、皇居修理の状況を覗く。〔『御湯殿上日記』〕
  3月17日 山科言継、「禁中御作事」を見舞う。長橋局に於いて村井貞勝(「村井民部少輔」)に「麺」にて一盞を勧め、山科言継は
       加田新左衛門らと相伴。しかし村井貞勝(「村井」)は「下戸」であるため「無其興」であった。〔『言継卿記』四〕
  3月17日 葉室頼房、足利義昭(「武家」)を訪問し「当年之御礼」を述べる。〔『言継卿記』四〕
  3月17日 足利義昭(「武家」)、山科言継を同行し「桜馬場」に於いて徳川家康内衆(「三川徳川之内衆」)の乗馬を見物。
       見物の「貴賤」は2万人ばかりであった。〔『言継卿記』四〕
  3月17日 多聞院英俊、鞍馬参詣のため上京す。〔『多聞院日記』二〕
  3月18日 山科言継、「禁中御作事」を見舞う。朝山日乗の木屋に於いて一盞を振る舞われた。山科言経(「倉部」)も同行した。
       〔『言継卿記』四〕
  3月18日 山科言継、清水式部丞(武田家臣)の訪問を受ける。西岡寶菩提院の件で福地の闕所を獲得した御礼であった。
       この地は「勅願所」であったので、「禁裏」は織田信長(「織田弾正忠」)にその実行を命令する「御使」として山科言継を
       派遣することとする。〔『言継卿記』四〕
  3月18日 正親町天皇、大典侍殿(万里小路賢房女)へ「別殿行幸」を行う。〔『言継卿記』四〕
  3月18日 正親町天皇、「別殿」へ方違行幸。〔『御湯殿上日記』〕
  3月18日 織田信長(「信長」)、小早川隆景(「小早川左衛門佐」)へ毛利元就(「元就」)の要請を受け播磨国出兵日時の交渉
       (「播州出勢日限」:対尼子氏)についてのこと、備前国への軍事行動の同意、「芸豊間和平可然存之条」と足利義昭「上意」
       への「馳走」督促、大友義鎮(「豊州」)使者より聴取した情報を永興寺周端に伝達したこと、織田信長(「信長」)としては
       毛利氏に対し隔心は無いので小早川隆景(「貴殿」)より毛利元就への披露を依頼。また織田信長は暫くの間「在洛」すること
       を通知。〔「小早川家文書」一〕
  3月18日 織田信長(「信長」)、吉川元春(「吉川駿河守」)へ永興寺周端の上洛により今後の毛利側との親交を期す。
       〔「吉川家文書」二・「吉川家中并寺社文書」十〕
  3月18日 柴田勝家(「勝家」)、近江国長命寺へ寺領は柴田勝家拝領分内であること、諸役免除の安堵を通達。〔「長命寺文書」〕
  3月18日 木下秀吉(「木下藤吉郎秀吉」)、小早川隆景(「小早川左衛門佐」)へ毛利元就(「元就」)より織田信長(「信長」)の
       許に派遣された使僧(永興寺周端)が「上国」、その「申次」を自身が担当すること、織田信長(「信長」)は特別に
       「入魂被申」れているので今後益々隔心無く相談すること、「我等」(秀吉)は「若輩」ではあるが相応の件を提示すれば疎意
       無く奔走することを通知。また今後特別の懇意を依願す。詳細は如閑斎・柳沢元政(「柳沢新右衛門尉」)に伝達させる。
       〔「小早川家文書」@‐395〕
  3月18日 多聞院英俊、京都市中を見物す。幕府御所(「公方様ノ御城」)の「石蔵」を四方に重ねている様子に「肝ヲ消」す。
       また織田信長(「信長」)の沙汰による内裏修理の様子も「侍所」の檜皮葺きは完成し、以前は檜皮葺きであった
       紫宸殿(「シヽン殿」)が瓦葺きになっていたこと、「清涼殿」は檜皮葺きにすることなどを知る。〔『多聞院日記』二〕
  3月19日 山科言継、「禁中御作事」を見舞う。〔『言継卿記』四〕
  3月19日 真如堂蓮光院、山科言継を訪問。西岡寶菩提院の件を山科言継に依願。20疋と末寺15寺の「連書」を携えてきた。
       〔『言継卿記』四〕
  3月19日 多聞院英俊、鞍馬寺に参詣し宝物の「御甲」・「太刀」を拝見。薬王坂を越えて大原に到着、「良忍上人」の旧跡を見物、
       比叡山へ登山。その後、近江国坂本へ下る。〔『多聞院日記』二〕
  3月20日 正親町天皇、竹内季治(「竹内三位入道」)が上奏した大原野神社の社領の件についての「綸旨」を「勅許」す。
       〔『言継卿記』四〕
  3月20日 正親町天皇、山科言継へ勧修寺晴右・二条昭実の所領相論に関する裁許を足利義昭(「むろまちとの」)に命令する
       「女房奉書」を発給。〔『言継卿記』四〕
  3月20日 中御門宣教(「権左少弁」)、正親町天皇の意により白川雅朝(「白川侍従」)へ大原野神社の社領については
       「武家御下知」(足利義昭の下知)・「信長朱印」等に任せ安堵する由を通達。〔『言継卿記』四〕
  3月20日 山科言継、勧修寺晴右より書状を受ける。
       その内容は加賀国井家庄の勧修寺家領の件で二条晴良(「二条殿」)と「御相論」となったため、明日「女房奉書」を
       足利義昭(「武家」)へ持参し裁決を仰ぐことを依頼したものであった。〔『言継卿記』四〕
  3月20日 山科言継、「禁中御作事」を見舞し、勧修寺晴右への「女房奉書」を預かる。〔『言継卿記』四〕
  3月20日 西岡寶菩提院の役者である東蔵坊、暮れに蓮光院・清水式部丞を同行し山科言継を訪問。
       明後日山科言継が織田信長(「信長」)へ「勅使」として派遣されるため寺領「安堵」の件を依願する。〔『言継卿記』四〕
  3月20日 多聞院英俊、三井寺(園城寺)・大津・松本を見物しようとしたが、近江国「今道」・「ワラ坂」(藁坂)の2道は
       織田信長(「信長」)家臣の森可成(「森ノ三左衛門」)が坂本に新砦(「城用害」)構築の目的で閉鎖されていたため、
       新路の大なる坂を越えて山中・白川・東山を経由し入京。荒廃した真如堂や足利義政(東山殿)の旧跡を見物。更に粟田口を
       通過し清水寺へ参詣し堂舎に驚く。帰りに祇園社へ参詣して旅宿へ戻る。〔『多聞院日記』二〕
  3月21日 山科言継、足利義昭(「武家」)へ祗候し3月20日付「女房奉書」を申し渡す。摂津晴門・飯河信堅が披露した。
       足利義昭(「武家」)の返答は、足利義昭が近江国に滞在していた際に勧修寺晴右は足利義栄(「富田之武家」)のために奔走
       したので「馳走御所存之外」であり、一方の二条晴良(「二条殿」)はかつて「捨御身体」られ越前国朝倉館に下向し足利義昭
       の「元服」(加冠の際)に際して馳走したので、数度にわたる勧修寺・二条家の所領相論の決裁命令が下されても「叡慮」には
       応じられないというものであった。山科言継、この足利義昭の回答を長橋局(薄好子)へ報告。〔『言継卿記』四〕
  3月21日 山科言継、「南御所」永勝庵を訪問。
       「四条知行分」の件で足利義晴(「万松院殿」)の「御奉書」の案文を以て織田信長(「信長」)に「訴訟」することを知る。
       〔『言継卿記』四〕
  3月21日 山科言継、「禁中御作事」を見舞う。この際、山科言継は朝山日乗が織田信長(「信長」)の「勘気」を蒙った風聞に接す。
       〔『言継卿記』四〕
  3月21日 多聞院英俊、前日の疲労により東寺の御影見物を中止。〔『多聞院日記』二〕
  3月22日 山科言継、朝食の後に西岡寶菩提院の件で織田信長(「信長」)を訪問するも対面できずに帰宅。〔『言継卿記』四〕
  3月22日 山科言継、「禁中御作事」を見舞う。〔『言継卿記』四〕
  3月22日 山科言継、武井夕庵(「武井入道夕庵」)へ約束していた「一竹四穴」と「一紙」などを贈るも「他行」であった。
       〔『言継卿記』四〕
  3月22日 織田信長(「信長」)、一色藤長(「一色式部少輔」)の山城国曇華院および山城国大住庄3ヶ村における違乱行為を停止。
       森林跡と東・南跡職を「守護不入」地として曇華院に安堵。〔「曇華院文書」〕
  3月22日 明智光秀(「明智十兵衛」)・中川重政(「中川八郎右衛門」)・丹羽長秀(「丹羽五郎左衛門」)・
       木下秀吉(「木下藤吉郎」)、山城国大住庄3ヶ村の名主百姓中へ宛てられた織田信長「御朱印」を受け曇華院(「御寺様」)
       に於ける一色藤長(「一色式部少輔」)の違乱停止および森林跡・東南跡職を「守護不入」地として安堵する旨を通達。
       〔「曇華院殿古文書」〕
  3月23日 山科言継、「禁中御作事」を見舞う。「弥出来見事」であった。〔『言継卿記』四〕
  3月23日 山科言継、暮れに武井夕庵の訪問を受け、暫く雑談す。〔『言継卿記』四〕
  3月23日 織田信長(「信長」)、「官途」の件で毛利輝元(「毛利少輔太郎」)へ足利義昭「御内書」により「右衛門督」に任ぜ
       られた旨を通達。〔「毛利家文書」@‐329・「堅田文書」六〕
  3月23日 「大乗院大御所」、上洛す。〔『多聞院日記』二〕
  3月24日 山科言継、朝食の後に織田信長(「織田弾正忠」)を訪問。申次は村井貞勝(「村井民部少輔」)であった。
       織田信長への「礼者」は6・7人で武田下野守・和田紀伊入道らであった。和田紀伊入道は去年より「勘気」を蒙っていたが
       足利義昭(「武家」)の取り成しにより解けたという。
       山科言継は西岡寶菩提院の件で「禁裏御使」としての訪問であるという由を村井貞勝(「村井」)に大方通達したところ
       「案内」(先例文書)が無いので糾明するとの回答であった。〔『言継卿記』四〕
  3月24日 山科言継、禁中「御作事」を見舞う。〔『言継卿記』四〕
  3月25日 早旦に誓願寺が水野信元(「水野下野守」:尾張国苅屋城主)へ「禁裏」からの「御使」として派遣された。
       〔『言継卿記』四〕
  3月25日 山科言継、「禁中御作事」を見舞う。
       次いで中山孝親を訪問し、足利義昭(「武家」)が奈良に社参した記録があるか否かを尋ねるが無かった。
       足利義昭は来月10日に社参するという。〔『言継卿記』四〕
  3月26日 山科言継、蓮光院・清水式部丞の訪問を受け、西岡寶菩提院の件で談合す。〔『言継卿記』四〕
  3月26日 山科言継、禁裏「御作事」を見舞い、朝山日乗を訪問し「一盞」もてなされた。〔『言継卿記』四〕
  3月26日 多聞院英俊、足利義昭(「公方」)より大和国春日大社参詣の件を通達される。〔『多聞院日記』二〕
  3月27日 大和国井戸城、陥落。〔『多聞院日記』二〕
  3月28日 山科言継、「禁中御作事」を見舞う。〔『言継卿記』四〕
  3月28日 木下秀吉(「木下藤吉郎秀吉」)・武井夕庵(「夕庵尓云」)、山城国大住庄の名主・百姓・小作中へ織田信長「御朱印」に
       よる安堵がなされた後に不法を上申する地下の「交名」提出を指示。〔「曇華院文書」〕
  3月28日 多聞院英俊、先夜に大和国井戸城が陥落したことを知る。〔『多聞院日記』二〕
  3月29日 織田信長(「信長」)、早旦に「禁中御作事」を見舞い、即時退出す。
       正親町天皇へは鵠(白鳥)1羽・塩引10・杉原紙3束を、同じく誠仁親王(「御方」)へ鶴鵠2羽・鱒5匹・杉原紙3束、
       長橋局(薄好子)へ杉原紙3帖を献上した。長橋局(薄好子)所には三条西実澄以下10人計が祗候。
       朝山日乗・村井貞勝(「村井民部少輔」)らに「一盞」振る舞われた。〔『言継卿記』四〕
  3月29日 織田信長、皇居修理見舞いとして杉原紙・鵠(白鳥)・鮭を献上。〔『御湯殿上日記』〕
  3月29日 織田信長、誠仁親王へ杉原紙・鶴・白鳥・鱒を献上。〔『晴右公記』〕
  3月  日 織田信長、丹波国の赤井忠家(「蘆田五郎」)へ丹波国奥三郡の所領を足利義昭「御下知」に任せ安堵。
       〔『寛永諸家系図伝』〕

4月
  4月 1日 足利義昭(「武家」)、幕府御所に於いて「猿楽」能を挙行。幕府「御供衆」・「御走衆」らは各自烏帽子・襖・袴を着用
       したという。織田信長(「信長」)以下の「外様衆」・「公家御相伴衆」が参席したという。
       織田信長(「信長」)はこの興行に「無御相伴」であったという。〔『言継卿記』四〕
  4月 1日 松井友閑、織田信長の命により堺津の「名器」持参を公示。〔『今井宗久茶湯書抜』上〕
  4月 1日 織田信長、松井友閑邸宅において茶器を実見。
       今井宗久所持の「松島壺」と「菓子絵」を召し上げる。〔『今井宗久茶湯書抜』上〕
  4月 1日 多聞院英俊、大和国井戸城より陣払が行われたことを知る。〔『多聞院日記』二〕
  4月 2日 山科言継、「禁中御作事」を見舞う。次いで朝山日乗を訪問。〔『言継卿記』四〕
  4月 2日 織田信長、千宗易(利休)の手前で薄茶を召す。〔『今井宗久茶湯書抜』上〕
  4月 3日 山科言継、長橋局(薄好子)へ祗候し西岡寶菩提院の件で「女房奉書」発給を申請。案文を進上する。〔『言継卿記』四〕
  4月 3日 山科言継、久しぶりに足利義昭(「武家」)へ祗候。「御紛之間」対面は無かったので「奉公衆」と雑談す。
       〔『言継卿記』四〕
  4月 3日 山科言継、織田信長(「織田弾正忠」)を訪問。暫く雑談するが「有公事」の件は「不出合」であった。〔『言継卿記』四〕
  4月 3日 織田信長、禁裏へ初物の筍を献上。〔『御湯殿上日記』〕
  4月 3日 織田信長、禁裏へ八木50石を献上。〔『継芥記』・『晴右公記』〕
  4月 3日 織田信長(「弾正忠」)、禁裏へ八木50袋を献上。山科言継、禁裏より織田信長献上の八木1俵を分与される。
       〔『言継卿記』四〕
  4月 3日 「五辻」(五辻為仲か)、鳥羽知行の件についての織田信長朱印状を下される。〔『言継卿記』四〕
  4月 4日 山科言継、蓮光院・清水式部丞の訪問を受ける。山科言継、「女房奉書」の案文を受け取る。〔『言継卿記』四〕
  4月 4日 山科言継、長橋局(薄好子)へ祗候し「女房奉書」の案文を持参。明日に発給されるよう申請。〔『言継卿記』四〕
  4月 4日 西岡寶菩提院の末寺である近江国北郡柏原の成菩提院院主法印、上洛。〔『言継卿記』四〕
  4月 5日 山科言継、早旦に長橋局(薄好子)へ祗候し「奉書」を申請するが未だ調っていないとのことで禁中「御作事」を回覧。
       後刻に再度長橋局(薄好子)へ祗候し「女房奉書」を受ける。〔『言継卿記』四〕
  4月 5日 正親町天皇、山科言継へ「女房奉書」を下す。
       その内容は織田信長(「のふなか」)へ「ちよくくわん所」西岡寶菩提院の寺領回復命令を通達するものであった。
       〔『言継卿記』四〕
  4月 5日 織田信長(「信長」)、「禁中御作事」を「被見舞」という。次いで「桜馬場」に於いて乗馬を行う。
       足利義昭(「武家」)が見物。山科言継も参内し見物した。〔『言継卿記』四〕
  4月 5日 織田信長、禁中に参内し桜馬場において乗馬を見物。〔『継芥記』〕
  4月 5日 山科言継、織田信長(「信長」)を訪問。対面は無かったので申下刻に帰宅す。〔『言継卿記』四〕
  4月 5日 近江国北郡柏原の成菩提院院主法印、真如堂の招請により織田信長へ祗候。〔『言継卿記』四〕
  4月 5日 「五辻」(五辻為仲か)、鳥羽知行分に対する朱印状を発給した織田信長を礼問。〔『言継卿記』四〕
  4月 6日 山科言継、早旦に成菩提院・真如堂・蓮光院を同行し織田信長(「信長」)を訪問。対面は無かった。〔『言継卿記』四〕
  4月 6日 山科言継、成菩提院を同行し「禁中御作事」を見舞う。〔『言継卿記』四〕
  4月 6日 松永久秀、阿弥陀寺清玉上人へ東大寺大仏殿再興についての馳走を賞し、「天下無双之大伽藍」として後代までの名誉となる
       事を通知。〔「阿弥陀寺文書」〕
  4月 7日 山科言継、早旦に蓮光院からの使者を受け、織田信長(「信長」)を訪問。この日も織田信長の「出座」は無かった。
       次いで未刻に陽春院(近衛尚通女:足利義輝・義昭母)を訪問。〔『言継卿記』四〕
  4月 8日 山科言継、朝食以後に浄成・蓮光院を同行し織田信長(「信長」)を訪問。
       成菩提院、織田信長に見参し西岡寶菩提院の件の「女房奉書」を提示。山科言継へは織田信長の対面は無かった。
       〔『言継卿記』四〕
  4月 8日 山科言継、「禁中御作事」を見舞う。〔『言継卿記』四〕
  4月 9日 山科言継、晩景に「禁中御作事」を見舞う。〔『言継卿記』四〕
  4月10日 山科言継、晩頭に「禁中御作事」を見舞う。〔『言継卿記』四〕
  4月10日 山科言継、沢路長俊を成菩提院・蓮光院・武井夕庵へ派遣。〔『言継卿記』四〕
  4月10日 教王護国寺(東寺)、明智光秀の当寺八幡宮領山城国久世荘押領停止を幕府に申請。〔「東寺百合文書」ひ12‐23〕
  4月11日 山科言継、織田信長(「信長」)が「禁中可見舞之由有之」というので参内。
       織田信長(「信長」)は「被参早出」であったため、三条西実澄・万里小路惟房・山科言継・「極掾vらは「対顔」できず。
       〔『言継卿記』四〕
  4月11日 山科言継・蓮光院ら、西岡寶菩提院の件で武井夕庵宿所を訪問しようとするが姉小路頼綱(「飛騨国司」)へ出向いている
       というので帰宅。〔『言継卿記』四〕
  4月11日 織田信長(「信長」)、吉川元春(「吉川駿河守」)へ出雲国在陣を慰労す。〔「吉川家文書」一・「吉川家旧記」四〕
  4月13日 高辻長雅・五条貞長、禁裏に「改元勘文」を奏上。〔『御湯殿上日記』〕
  4月13日 山科言継、蓮光院から織田信長(「信長」)へ訪問するよう書状があり、山科言継は「西岡」寶菩提院の件で織田信長を訪問
       し、武井夕庵・「宗甫」へ懇ろに申請す。織田信長への「面へ無出座」であった。〔『言継卿記』四〕
  4月13日 多聞院英俊、筒井順慶が郷内へ出て、京都には西の国へ松永久秀(「久秀」)が荷物を隠したという夢を見る。
       〔『多聞院日記』二〕
  4月14日 山科言継、大典侍殿(万里小路賢房女)・長橋局(薄好子)・台所・内侍所へ祗候。
       「紫宸殿」より「記録所」への廊下は大概出来る。〔『言継卿記』四〕
  4月14日 正親町天皇、「改元勘文」について勅問を行う。〔『御湯殿上日記』〕
  4月14日 山科言継、蓮光院の要請により織田信長(「織田弾正忠」)を訪問するも「以外機嫌悪」というので退出。
       〔『言継卿記』四〕
  4月14日 山科言継、一条内基(「一条殿」)へ祗候し暫く雑談す。「改元之内勘文写」の件を知る。〔『言継卿記』四〕
  4月14日 山科言継、路次に於いて武井夕庵と遭遇し、禁中見物に同行す。〔『言継卿記』四〕
  4月15日 山科言経(「倉部」)、三条西実澄の奏請により「源氏」講釈のため参内す。〔『言継卿記』四〕
  4月15日 山科言継、晩景に「禁中御作事」を見舞う。廊下の上の瓦葺き及び内侍所の柱・榱・白壁が大概出来上がる。
       山科言継、「織田弾正忠奇特之沙汰」は「都鄙貴賤男女言語道断」で「不可説不可説」と評す。〔『言継卿記』四〕
  4月16日 柳原資定・中山孝親・山科言継・四辻季遠・甘露寺経元、「禁中御作事」を回覧す。朝山日乗の木屋を訪問し酒宴す。
       〔『言継卿記』四〕
  4月16日 山科言継、上京中の近江国成菩提院より使者を受け、織田信長(「織田弾正忠」)を訪問。〔『言継卿記』四〕
  4月16日 明智光秀(「明智十兵衛尉」)・中川重政(「中川八郎右衛門尉」)・丹羽長秀(「丹羽五郎左衛門尉」)・
       木下秀吉(「木下藤吉郎」)、広野孫三郎へ「卅六人之衆」(故武田義統家臣団)が武田義統へ忠節を尽くしていたならば去る
       永禄9年12月15日付の武田義統(「光録」)「御判形」に任せて所領安堵するという織田信長「朱印」を発給すること、
       益々「孫犬殿」(武田元明)への忠勤に励むことを通達。〔「豊臣秀吉等連署書状」〕
  4月18日 禁裏に於いて「改元之習礼」が行われる。〔『言継卿記』四〕
  4月18日 山科言継、「禁中御作事」を見舞う。〔『言継卿記』四〕
  4月18日 三木頼綱(飛騨国国司)、禁中へ参内し先年(永禄6年3月12日)「侍従」に任じられた礼に馬・太刀を献上。
       〔『御湯殿上日記』〕
  4月18日 三好長逸、阿弥陀寺清玉上人へ東大寺再興勧進について大伽藍を再建するため洛中洛外諸寺ゥ山より勧進する旨を促す。
       詳細は東大寺より通達させる。〔「阿弥陀寺文書」〕
  4月19日 「三条内府入道」、山科言継を訪問し明後日に甲斐国へ下向することに触れ、三条公仲(「新少将」)の件を諸事依願。
       松木宗房を同行するという。〔『言継卿記』四〕
  4月19日 山科言継、「禁中御作事」を見舞う。〔『言継卿記』四〕
  4月19日 織田信長(「織田弾正忠」)、誠仁親王(「親王御方」)へ「結花枝」を献上。明日の「出陣御暇乞」(朝倉討伐のため)の
       祗候で、山科言継は「衣冠」を着用し参内。三条西実澄・万里小路惟房・烏丸光宣・「極掾vらも同様に参内。
       正親町天皇(「禁裏」)より「薫物」10貝を賜り退出。「御使」は万里小路惟房であった。〔『言継卿記』四〕
  4月19日 織田信長、皇居修理の状況を見舞う。誠仁親王より結花枝を下賜される。〔『御湯殿上日記』〕
  4月19日 織田信長、山名祐豊(「山名入道」)へ但馬国銀山・要害・知行方について旧冬談合したにもかかわらず未だに押領している
       ことを譴責し、今井宗久・長谷川宗仁の派遣を通達。〔「今井宗久書札留」〕
  4月19日 織田信長、山名祐豊家臣の太田垣輝延(「太田垣土佐守」)・八木豊信(「八木但馬守」)・垣屋播磨守・田結庄左馬助へ
       旧冬に山名祐豊(「紹熈」)が美濃国岐阜へ到来し、家臣の動向と太田垣兄弟の進退、領知方を決定した報告を受けたが、去年
       「破口」した当知行分の納税滞納を譴責するため今井宗久・長谷川宗仁の派遣を通達。〔「今井宗久書札留」〕
  4月19日 足利義昭(「武家」)、「禁中御作事」を見舞う。「御肩衣之体」であった。
       山科言継、足利義昭の見舞は「信長被進申歟」と評す。山科言継、足利義昭と参会し供奉を申し入れる。
       足利義昭、万里小路惟房・白川雅朝・橘以継らと対面し、やがて退出した。〔『言継卿記』四〕
  4月19日 武田信玄、徳川家康へ織田信長に同心して上洛する労を慰問し洛内外の「静謐」を祝す。〔「白崎良弥氏所蔵文書」〕
  4月19日 一色藤長、丹後国より越前国へ出船。〔『武家雲箋』〕
  4月20日 山科言継、早旦に織田信長(「弾正忠信長」)の出陣を見物。3万計りの軍勢であった。織田信長は3日の間には越前国に
       侵入する予定であるという。三好義長(「三好左京大夫」)は先発し、松永久秀(「松永山城守」)はこの日出陣。
       摂津国の池田勝正(「池田筑後守」)は3000計りを率いて出陣。「公家」の飛鳥井雅敦・日野輝資らも出陣。
       「貴賤男女僧俗」が見物した。〔『言継卿記』四〕
  4月20日 織田信長、朝倉氏討伐のために出京。〔『御湯殿上日記』〕
  4月20日 織田信長(「信長」)、越前朝倉氏討伐のため近江国堅田に陣取る。近江国北方に於いて「鉾楯」(戦闘)があった。
       〔『多聞院日記』二〕
  4月20日 山科言継、晩景に「禁中御作事」を見舞う。〔『言継卿記』四〕
  4月20日 里村紹巴、中院通勝を訪問し織田信長の越前国出勢を報告。〔『継芥記』〕
  4月20日 織田信長、吉田神社へ武藤友益(若狭国国衆?)を降伏させ要害などの「破却」を命令した旨を通達。〔「毛利家文書」〕
  4月20日 丹羽長秀(「丹羽五郎左衛門尉」)、渡部太郎左衛門尉へ愛宕権現神供料所の外畑村の「下司職」の件で不法行為に及んだ
       ことで、愛宕神社尾崎坊は足利義昭「御下知」・織田信長「御朱印」で安堵されたものであるから今後「競望」すれば「曲事」
       として処罰する旨を通達。〔「愛宕山尾崎坊文書」〕
  4月21日 山科言継、「三条内府入道」の甲斐国下向を見送る。〔『言継卿記』四〕
  4月21日 山科言継、「禁中御作事」を見舞う。次いで長橋局(薄好子)へ祗候。〔『言継卿記』四〕
  4月22日 一条内基・菊亭晴季・九条兼孝、「改元」に関する勅問について奉答。〔『御湯殿上日記』〕
  4月22日 多聞院英俊、去20日に織田信長(「信長」)が越前朝倉氏討伐のため近江国へ出陣したことを知る。〔『多聞院日記』二〕
  4月23日 この日、「改元」が行われる。
       年号の候補としては東坊城盛長の挙げた「明徴」・「寛永」・「乾徳」、高辻長雅の挙げた「元亀」・「天正」・「建正」・
       「安化」・「明和」があった。〔『言継卿記』四〕
  4月23日 この日「元亀」と改元。〔『公卿補任』・『継芥記』・『言継卿記』四・『多聞院日記』二〕
  4月23日 織田信長(「信長」)、革島一宣(「革島越前守」)へ越前国諸浦兵船結集の功績により山城国西岡革島の所領を還付。
       〔「革島文書」〕
  4月24日 中院通勝、「改元」儀礼が終了(辰下刻)した後に昼寝する。〔『継芥記』〕
  4月24日 一色藤長、軍勢結集のため丹後国に到着。〔『武家雲箋』〕
  4月25日 正親町天皇、内侍所において千度祓を修し、織田信長の戦勝祈願を行う。〔『御湯殿上日記』〕
  4月25日 山科言継、「二条大納言」(「三条大納言」:三条西実澄のことか)を招請により訪問。
       内侍所に於いて織田信長の祈祷が行われるにあたり(「信長為祈祷」)明後日の「御千度人数之事」の件で申し調えるよう指示
       があった。四辻季遠・四辻公遠・勧修寺晴右・勧修寺晴豊・中山慶親・五辻元仲らにも通達し、各自が「同心」した。
       〔『言継卿記』四〕
  4月25日 越前国金ヶ崎において織田軍と朝倉軍が激突。〔『武家雲箋』〕
  4月25日 織田軍、2000余の戦死傷者を出す。〔『多聞院日記』二〕
  4月25日 木下秀吉、柴田勝家らと共に手筒山城を攻略し敵の首1370を討ち取る。〔「家忠日記増補」〕
  4月25日 一色藤長、丹後国において軍勢招集の命令を下す。〔『武家雲箋』〕
  4月25日 多聞院英俊、織田信長(「信長」)が越前国に侵入、その後若狭国に進撃した風聞に接す。〔『多聞院日記』二〕
  4月26日 正親町天皇、内侍所において千度祓を修し、織田信長の戦勝祈願を行う。〔『御湯殿上日記』〕
  4月26日 山科言継、長橋局(薄好子)へ祗候。朝山日乗・村井貞勝(「村井民部少輔」)らが呼ばれ酒宴が催される。
       〔『言継卿記』四〕
  4月26日 竹内秀勝(「竹下」)、夕刻に京都より大和国に帰還する。〔『多聞院日記』二〕
  4月27日 正親町天皇、内侍所において千度祓を修し、織田信長の戦勝祈願を行う。〔『御湯殿上日記』〕
  4月27日 山科言継、三条西実澄が昨夕より「所労」というので、「御千度」祓は延引したという情報に接す。〔『言継卿記』四〕
  4月27日 山科言継、一昨日に越前国に於いて合戦があり織田軍(「信長衆」)が1000余人が「討死」にしたという報に接す。
       山科言継は「慥無注進之間不詳」と評す。〔『言継卿記』四〕
  4月27日 多聞院英俊、昨夕に竹内秀勝(「竹下」)が京都より帰還したことを知る。〔『多聞院日記』二〕
  4月28日 正親町天皇、石清水八幡宮法楽の御楽を修して織田信長の戦勝祈願を行う。〔『御湯殿上日記』・『継芥記』〕
  4月28日 「禁裏」の「御三間」に於いて「五常楽急」100返、「八幡御法楽」が行われた。
       これを山科言継は「信長御祈祷歟」と評す。〔『言継卿記』四〕
  4月28日 「大乗院殿」が南都より上洛。御礼として二条晴良(「二条殿」)へ「堅固御忍」で参上するも「御見参」は無く、毘沙門堂
       に滞在という。山科言継、大乗院殿を訪問し暫く雑談す。〔『言継卿記』四〕
  4月28日 幕府奉行人の諏訪俊郷・松田頼隆、革島一宣(「革島越前守」)へ越前国に於ける「兵船」集結の功績を賞し、忠節を尽くせ
       ば織田信長(「信長」)が「執申」すように山城国西岡の知行分を安堵する旨を通達。〔「革島文書」〕
  4月28日 多聞院英俊、去4月23日に「元亀」と改元されたことを知る。〔『多聞院日記』二〕
  4月29日 山科言継、朝山日乗が橘以継より「非時」に招待されたというので山科言経(「倉部」)を同伴し出向く。
       〔『言継卿記』四〕
  4月29日 山科言継、禁中「御作事」を見舞う。〔『言継卿記』四〕
  4月29日 山科言継、越前国に於ける戦況を知るために織田信長(「弾正忠」)宿所を訪問。
       「留守之衆」島田秀満・「佐藤三川入道」・「猪子外記入道」らと雑談し、「福角」(福富秀勝のことか)・「森伝兵衛」・
       毛利秀頼(毛利長秀)らの「討死必定」という噂に接す。次いで山科言継、真如堂蓮光院を訪問し、再度蓮光院を同行し
       島田秀満を訪問するも島田秀満は足利義昭(「武家」)へ祗候したという。
       また「信長自筆書状」が到来し、越前国金ヶ崎城(「金之崎之城」)の「渡」の作事のために番匠・鍛冶・「をか引」ら70人
       計を下向させるようにとの命令であったという。〔『言継卿記』四〕
  4月29日 山科言継、織田軍の苦境に立たされた状況を知る。その内容とは近江国に六角義賢(承禎)・六角義治が出陣し「方々放火」
       といい、近江国北郡の浅井長政と「申合」せて織田信長(「信長」)に「別心」したという。
       これにより織田信長は越前国から美濃国への退路を断たれたが、越前国より若狭国への「西路」を「往還」すというもので
       あった。〔『言継卿記』四〕
  4月29日 一色藤長、丹波国より軍勢を出船させ丹羽長秀方へ状況報告を通達。〔『武家雲箋』〕
  4月29日 多聞院英俊、去4月25日に越前国敦賀に於ける戦闘で織田信長(「信長」)の軍勢が損害を被った旨を知る。
       〔『多聞院日記』二〕
  4月30日 山科言継、松井甚七郎(「武家奉公衆」)が越前国に於いて負傷(「蒙疵」)というので「愛洲薬」1包所望に応える。
       〔『言継卿記』四〕
  4月30日 山科言継、禁中「御作事」を見舞い、内侍所に於いて万里小路惟房・山科言継・飛鳥井雅教・白川雅朝・朝山日乗・「才」ら
       で酒宴が行われた。
       次いで村井貞勝(「村井」)へ足利義昭(「武家」)の「御使」である岩村某が派遣され、織田信長(「信長」)が丹波国下田
       まで帰陣した由を通知。〔『言継卿記』四〕
  4月30日 山科言継、織田信長(「弾正忠信長」)が亥下刻に帰京したことを知る。〔『言継卿記』四〕
  4月30日 織田信長、木下秀吉を殿軍として金ヶ崎城を守備させ、織田信長自身は近江国朽木越経由で帰京。〔「信長公記」〕
  4月30日 織田信長(「信長」)・松永久秀(「松永」)ら織田軍が悉く京都まで退却。〔『多聞院日記』二〕
  4月30日 一色藤長、坂井政尚・蜂屋頼隆へ自身が丹後国に下向し軍勢結集する状況を報告。〔『武家雲箋』〕

5月
  5月 1日 山科言継、日野輝資・武井夕庵らへ沢路長俊を派遣し「無事に帰陣珍重之由」を通知させる。〔『言継卿記』四〕
  5月 1日 山科言継、日野輝資を訪問し「対顔」、帰陣「珍重之由」を上申。
       次いで織田信長(「弾正忠」)を訪問したところ、「被参武家」というので足利義昭(「武家」)へ祗候し「御礼申」し、
       同様に織田信長(「弾正忠」)へも「礼申」す。〔『言継卿記』四〕
  5月 1日 渡辺重(「渡辺出雲守」)、大和国法隆寺年会御坊へ「禁裏御修理料米」の代物が京着していない件で朝山日乗(「日上」)
       使者が派遣され、松永久通(「久通」)の使者が案内するので「運上」すべき旨を通達。〔「法隆寺文書」〕
  5月 1日 多聞院英俊、前日に織田信長(「信長」)・松永久秀(「松永」)ら織田軍が悉く京都に退却したこと、織田軍は去25日の
       戦闘で2000余人の死傷者を出したこと、近日中に「江州牢人衆」が蜂起し浅井氏も織田軍に抗戦するということを知る。
       〔『多聞院日記』二〕
  5月 2日 武井夕庵、山科言継を訪問し談合す。〔『言継卿記』四〕
  5月 2日 山科言継、「禁中御作事」を見舞う。「四足御門」の屋上瓦葺きが大概出来上がった。
       長橋局に於いて山科言継・松木宗房・飛鳥井雅敦・朝山日乗・村井貞勝(「村井民部少輔」)ら冷麺で酒を振る舞われる。
       次いで内侍所・台所を訪問。〔『言継卿記』四〕
  5月 2日 正親町天皇、大典侍殿(万里小路賢房女)へ「別殿行幸」す。戌刻に「行幸」、音曲などがあって「還御」す。
       〔『言継卿記』四〕
  5月 3日 山科言継、松木宗房・三条公仲・白川雅朝・中原師廉らを同行し織田信長(「織田弾正忠」)を訪問。
       林秀貞(「林佐渡守」)が申次、徳川家康(「徳川左京大夫」)・畠山高政(「畠山尾張守」)・松永久秀(「松永山城守」)
       らにも面会。坂井好斎より談合の子細が説明された。次いで徳川家康以下3名に「飯」が振る舞われた。
       次いで三好義長(「三好左京大夫」)からの「音信」が届いたが披露はされず、各自「罷帰」った。〔『言継卿記』四〕
  5月 3日 山科言継、「禁中御作事」を見舞う。次いで長橋局(薄好子)へ祗候。
       山科言継、織田信長(「織田」)が福富秀勝(「福角」)を以て朝山日乗に同行させ「白瓜」9個を「御作事以下御褒美」
       として進上したことを申し渡す。〔『言継卿記』四〕
  5月 4日 山科言継、大典侍殿(万里小路賢房女)・長橋局(薄好子)へ祗候。次いで朝山日乗を訪問。
       新大典侍殿(万里小路房子)の女中「あこゝ局」所に於いて粽にて酒宴があった。〔『言継卿記』四〕
  5月 4日 一色藤長、波多野秀信へ越前国金崎における織田軍の敗退を通知。〔『武家雲箋』〕
  5月 5日 山科言継、東坊城盛長・三条公仲を同行し足利義昭(「武家」)へ祗候。
       祗候した「大名」は畠山高政・三好義長、「御供衆」15・6人、「御部屋衆」らで、申次は飯河信堅であった。
       祗候の「公家」は烏丸光康・山科言継・飛鳥井雅教・飛鳥井雅敦・富小路種直・竹内長治・日野輝資・広橋兼勝・東坊城盛長・
       三条公仲・高倉永孝らであった。次いで「一臺」・「大蔵卿局」へ祗候するが「尾州奉公衆」は少々の参席であった。同行した
       のは観世元忠(「観世入道宗節」)以下9人ほどであった。〔『言継卿記』四〕
  5月 5日 山科言継、織田信長(「織田弾正忠」)を訪問。この日は各自に「見参」は無かったので金森長近(「金森五郎八」)に申し
       置きした。〔『言継卿記』四〕
  5月 6日 山科言継、朝山日乗の木屋を訪問し暫く雑談す。〔『言継卿記』四〕
  5月 7日 山科言継、「禁中御作事」を見舞うも、昨今は雨天であるので作事は無かった。〔『言継卿記』四〕
  5月 7日 山科言継、真如堂蓮光院の所望により紀伊国粉河寺宛の書状を認める。〔『言継卿記』四〕
  5月 7日 織田信長、柴田勝家(「柴田修理亮」)・坂井政尚(「坂井右近」)へ去年(永禄十二年)足利義昭「御下知」と織田信長
       「朱印」によって安堵された愛宕権現の神供料所の外畑村を広田の渡部太郎左衛門尉が「違乱」したというので、その行為を
       中止しなければ「成敗」すべきを命令。〔「愛宕山尾崎坊文書」〕
  5月 8日 山科言継、織田信長(「織田弾正忠」)を訪問。明日に近江国出陣という。
       三好義長(「三好左京大夫」)・松永久秀(「松永山城守」)・竹内秀勝(「竹内下総守」)らも織田信長を訪問するも
       「見参」は無かった。〔『言継卿記』四〕
  5月 8日 織田信長(「信長」)、永原飛騨守へ近江国内の「五人衆」は別として家中に「別心」者が発生したが「同越一途之覚悟」の
       忠節を賞し、「五人衆」を大切にし覚悟を決めたことについて、織田信長が各自を引見し激励すべきことを通達。
       詳細は福富秀勝(「福富」)に伝達させる。〔「榊原文書」一〕
  5月 9日 山科言継、正親町天皇(「禁裏」)の招集命令により参内、織田信長(「織田弾正忠」)へ命令を通達するようにとのことで
       あった。その内容は織田信長のこの日の出陣を知り「軈属本意上洛被待思召之由」を通達することであった。
       山科言継、即時織田信長宿所を訪問し坂井好斎を通じて正親町天皇の叡慮を通達したところ、織田信長より「勅使忝者也」、
       近江国出陣にあたり例え近江国に「居住成」とも「国へ罷下」とも朝廷に対する奉公は継続することを約し、近日中に上洛する
       予定であること(「於御修理者奉行共に堅申付之間可御心安、軈罷上可申上之由」)を披露するようにとの返答があった。
       山科言継、長橋局(薄好子)へ祗候し織田信長からの返答を上奏。〔『言継卿記』四〕
  5月 9日 織田信長(「信長」)、近江国坂本まで下向。〔『多聞院日記』二〕
  5月10日 毛利輝元、柳沢元政へ自身の「官途」について足利義昭「御内書」が発給されたこと、これは織田信長(「信長」)の入魂に
       よることに感激し、その謝意を通知するよう命令。〔『長防風土記』六十七〕
  5月11日 多聞院英俊、織田信長(「信長」)が去5月9日に近江国坂本まで下向したことを知る。織田軍の「手負衆」は大和国を経由
       して伊勢国へ帰国することを知る。〔『多聞院日記』二〕
  5月12日 山科言継、「禁中御作事」を見舞う。内侍所に於いて山科言継・朝山日乗・諏方神兵衛尉らが麦飯で酒宴す。
       〔『言継卿記』四〕
  5月12日 真如堂蓮光院、山科言継を訪問。西岡寶菩提院の件で紀伊国粉河寺へ宛てた山科言継書状を所望す。明日真如堂役者の東蔵坊
       が出京するので携帯させるとのことであった。〔『言継卿記』四〕
  5月12日 里村紹巴、黄昏に及び山科言継を訪問。
       来たる5月15日に太秦真珠院に於いて連歌が興行されるので参席に同行するようにとのことであった。〔『言継卿記』四〕
  5月12日 竹内季治(「竹内三位入道」)、山科言継を訪問。
       来たる5月19日に予定されている足利義輝(「光源院殿」)の「御仏事」に17・18・19の3日間の法事の「音楽」に
       参席するようにとのことであった。〔『言継卿記』四〕
  5月12日 山科言継、この日織田信長(「信長」)が勢多山岡城に入城し、六角義賢(「六角入道紹貞」)を捕獲したとの情報に接す。
       〔『言継卿記』四〕
  5月12日 松永久秀(「松城」)・竹内秀勝(「竹下」)、大和国へ帰還。〔『多聞院日記』二〕
  5月13日 山科言継、織田信長(「信長」)が近江国永原城に移ったという情報に接す。〔『言継卿記』四〕
  5月13日 真如堂役者の東蔵坊、山科言継を訪問し真如堂蓮光院が所望した西岡寶菩提院の件についての5月7日付紀伊国粉河寺宛
       山科言継書状を受け取る。〔『言継卿記』四〕
  5月13日 多聞院英俊、松永久秀(「松城」)・竹内秀勝(「竹下」)が大和国へ帰還したことを知る。〔『多聞院日記』二〕
  5月15日 山科言継、太秦真珠院での連歌興行に参席。
       参席者は大覚寺僧正義性・山科言継・福寿院権僧正元仁・不断光院長老芳渓・真珠院慶典法印・寿命院聖硯・梅松院禅興・
       梅松院禅永・梅松院松千代・寶仙坊慶忠僧都・里村紹巴・辻玄哉・里村昌叱・宗甫・紹喜・蔵圓らであった。
       〔『言継卿記』四〕
  5月15日 織田信長、蒲生賢秀(「蒲生左兵衛大夫」)・蒲生氏郷(「忠三郎」)へ「当知行分」を安堵。
       〔『隠心帖』・『蒲生文武記』二〕
  5月15日 織田信長、蒲生賢秀(「蒲生左衛門大夫」)・蒲生氏郷(「忠三郎」)へ5510石の領知方目録を下す。〔『氏郷記』上〕
  5月16日 山科言継、「後苑之葵」が開いたので正親町天皇(「禁裏」)・誠仁親王(「親王御方」)へ献上。
       次いで朝山日乗木屋を訪問し暫く雑談す。〔『言継卿記』四〕
  5月17日 山科言継、朝山日乗へ「唐葵」1本を進上するも留守であった。次いで五辻為仲を訪問し暫く雑談す。〔『言継卿記』四〕
  5月17日 織田信長、永田景弘(「永田刑部少輔」)へ敵対し近江浅井氏・六角氏の一揆に参加した九里三郎左衛門(永田景弘舎兄)の
       没収地・与力・家来・寺庵方を宛行うこと、戦乱平定後に給与するため益々忠義を尽くすよう命令。〔『武家雲箋』〕
  5月18日 山科言継、「唐葵」1本を大典侍殿(万里小路賢房女)・内侍所へ進上。次いで長橋局(薄好子)へ立ち寄る。
       〔『言継卿記』四〕
  5月18日 朝山日乗、この朝に織田信長(「織田弾正忠」)が滞在する近江国永原城へ「見舞」のため下向。〔『言継卿記』四〕
  5月19日 山科言継、朝山日乗・村井貞勝(「村井民部少輔」)らが近江国より上洛した由を知る。
       織田軍と南近江六角氏との「和与」は不調に終わり、これによりこの日織田信長(「弾正忠」)は美濃国へ下向したという。
       〔『言継卿記』四〕
  5月22日 山科言継、「久不参」であったので足利義昭(「武家」)へ祗候。久我通俊(「久我入道」)・山科言継・飛鳥井雅教・
       竹内季治・日野輝資・光浄院・竹内秀勝らが「常御所」に於いて酒を賜った。ここに於いて摂津国・近江国からの「注進」が
       届き、六角義賢(「六角入道」)・六角義治(「同右衛門督」)らは1昨日か近江国甲賀郡石部城へ2万計りを率いて出陣、
       織田信長(「織田弾正忠」)は「こうづばた」に於いて山中より「銕放」(鉄砲)4丁に狙撃されたが「笠之柄」に当たったと
       いうことであった。その後、山科言継は一臺・大蔵卿局を訪問しそれぞれに於いて暫く雑談す。〔『言継卿記』四〕
  5月22日 山科言継、「禁中御作事」を見舞い、大典侍殿(万里小路賢房女)・長橋局(薄好子)らへ祗候。〔『言継卿記』四〕
  5月23日 甘露寺経元、「右大弁宰相」に昇進。〔『言継卿記』四〕
  5月23日 松永久秀・松永久通、5・6年ぶりに大和国春日大社へ社参す。〔『多聞院日記』二〕
  5月24日 正親町天皇、山科言継が「内々」に申請していた山科言経(「倉部」)「上階」の件に「勅許」を下す。〔『言継卿記』四〕
  5月25日 山科言経(「倉部」)、早旦に新大典侍殿(万里小路房子)より召喚され参内したところ、山科言継が「内々」に申請して
       いた「上階」の件について前日「勅許」が下されたということであった。但し正親町天皇は「内蔵頭之事如何之由」を宣った
       という。山科言経、この職は山科家が「近代連綿」しており、応永18年の足利義満(「鹿苑院殿」)の「御判」により
       「子々孫々一家可存知之由」が安堵されて以来「不渡他家之由」を上奏したという。なお、山科言継も参内しこの旨を上奏する
       ことを予定。〔『言継卿記』四〕
  5月25日 山科言継、朝食以後に大典侍殿(万里小路賢房女)へ祗候。山科言経(「倉部」)「上階」についての御礼の祗候であった。
       次いで「内蔵頭闕之事」の件を山科家5代の事例を上奏し、長橋局(薄好子)より「上階勅許之文」が下されたので即時御礼の
       ために参内し、その際に「倉部闕」の件を上奏した。中御門宣教が到来したので「内蔵頭上階之口宣案」を所望し、「上卿」
       今出川晴季(「左大将」)への下知を「指南」するよう準備を依頼。「上階」は祝着であるとのことで「一盞」が設けられた。
       〔『言継卿記』四〕
  5月25日 山科言経(「倉部」)、「衣冠」を着用し内蔵頭上階の御礼のために参内。「濃州紙」を拝領したという。
       〔『言継卿記』四〕
  5月25日 織田信長(「信長」)、遠藤胤俊(「遠藤新右衛門尉」)・遠藤慶隆(「遠藤新六郎」)へ近江国北郡への軍事行動に際し
       来る6月28日以前に美濃国岐阜まで出頭を命令。今回の軍事行動は「天下之為、信長為」に重大な作戦であるから「人数」
       (軍勢)は老若を問わず多勢を率いるべきこと、功績次第では訴訟している内容も了承する旨を通達。また人員は知行高よりも
       一層奔走すべきこと、「鉄炮」については塙直政(「塙九郎左衛門尉」)・丹羽長秀(「丹羽五郎左衛門尉」)より指示がある
       ことを通達。〔「武藤文書」〕
  5月26日 山科言継、山科言経(「倉部左兵衛督」)の件を中御門宣教へ申し入れ即時「勅許」を得たので御礼を上奏した。
       〔『言継卿記』四〕
  5月27日 山科言継、中御門宣教が来訪した際に山科言経(「左兵衛督」)の上階「口宣案」を所望し、同じ内容の「下知」を
       今出川晴季(「左大将」)へ届けさせた。〔『言継卿記』四〕

6月
  6月 1日 山科言継、巳刻に足利義昭(「武家」)へ祗候し対面する。祗候した公家は山科言継と飛鳥井雅教らばかりであった。
       烏丸光康・高倉永相・伊勢三郎らは遅参したという。
       山科言継、次いで「禁中」へ参内。内侍所・大典侍殿(万里小路賢房女)・長橋局(薄好子)・台所を廻り、その後に
       「大祥寺殿」・「入江殿」・「宝鏡寺殿」へ祗候して帰宅。〔『言継卿記』四〕
  6月 1日 四辻公遠、この日に「中納言」に昇進。〔『言継卿記』四〕
  6月 2日 山科言継、甘露寺経元へ「昇進珍重之礼」のため訪問し暫く雑談す。
       次いで四辻公遠(「四辻新黄門」)を「昇進之礼」のため訪問するも「他行」であった。その後、内侍所へ祗候したところ
       四辻公遠(「新黄門」)が到来し酒宴が催された。そこに朝山日乗も到来した。〔『言継卿記』四〕
  6月 2日 諏訪晴長(「前信濃守宿祢」)・松田秀雄(「散位平朝臣」)、「禁裏御倉」立入宗継(「立入左京進宗継」)へ当知行目録
       が下されること、「居屋敷」・「地子銭」・「諸公事」については正親町天皇「綸旨」および足利義昭「御下知」により免除
       する旨を通達。〔「立入宗継文書」‐10〕
  6月 2日 松田秀雄(「散位平朝臣」)、「禁裏御倉」立入宗継(「立入左京進宗継」)へ当知行目録を下す。
       〔「立入宗継文書」‐11〕
  6月 3日 山科言継、高辻長雅を訪問、「葵がんぴ」を贈り暫く雑談す。次いで朝山日乗を訪問し同じく「鴈鼻」を進上するも「他行」
       であった。その後、内侍所・大典侍殿(万里小路賢房女)・台所・長橋局(薄好子)を訪問。〔『言継卿記』四〕
  6月 4日 六角義賢(「承禎」)・六角義治父子、一揆を率いて近江国笠原へ出撃。
       織田軍の柴田勝家(「柴田」)・佐久間信盛(「佐久間」)と交戦す。この戦闘は織田軍の勝利となる。〔『士林証文』三〕
  6月 4日 この日の午時、近江国小浜に於いて織田軍と六角軍が衝突。
       山科言継、足利義昭(「武家」)のもとへ方々から寄せられた注進により六角軍は六角義賢(「六角左京大夫入道紹貞」)・
       六角義治(「同右衛門督義ヽ」)以上2、3千人が討死にし「敗軍」したということ、織田信長(「織田弾正忠信長」)内衆の
       佐久間信盛(「佐久間右衛門尉」)・柴田勝家(「柴田修理亮」)・「江州衆」進藤賢盛・永原重康らが「勝軍」であったこと
       を知る。山科言継は織田軍の勝利を「珍重々々」と評す。〔『言継卿記』四〕
  6月 4日 木下秀吉、和泉国堺の今井宗久に火薬・煙硝の調達を依頼。〔「岩淵文書」〕
  6月 6日 山科言継、「大祥寺殿」へ祗候。次いで勧修寺尹豊・長橋局(薄好子)・内侍所・朝山日乗らを訪問。〔『言継卿記』四〕
  6月 6日 織田信長(「信長」)、武田信方(「武田彦五郎」)へ来る6月28日の近江国北郡への軍事行動に際し足利義昭「御動座」
       があるため参陣し奔走を督促。〔「尊経閣文庫所蔵文書」編年辺之部四百八十三号〕
  6月 6日 松永久秀・松永久通、「南」へ出陣。大和国福住城を攻撃す。〔『多聞院日記』二〕
  6月 9日 山科言継、「禁裏」一臺の取り壊しを見舞う。そして朝山日乗・村井貞勝(「村井民部少輔」)らに香需散1包を贈る。
       〔『言継卿記』四〕
  6月 9日 山科言継、足利義昭(「武家」)へ祗候。足利義昭、「根来寺」使僧を「庭上」より謁す。〔『言継卿記』四〕
  6月10日 六角義賢(「承禎」)、一揆勢を率いて近江修理大夫の居城を攻撃するも「いけ取」にされる。〔『士林証文』三〕
  6月12日 織田信長、尾張国小松寺へ近江国姉川の陣中より見舞を謝す。〔「小松寺文書」〕
  6月14日 山科言継、「通玄寺殿」に於いて朝山日乗と対面。去る4日の「江州合戦」における「頸注文」を披見。300余であった。
       〔『言継卿記』四〕
  6月14日 松永久秀(「城州」)、大和国郡山衆の大部分を「生害」させ、郡山城を攻略。「主」(郡山城主か)は目を煩い、その身体
       の行く末も知らずという状態であった。〔『多聞院日記』二〕
  6月16日 山科言継、村井貞勝(「村井民部少輔」)宿所を小川与七郎の「宿地子」の件で訪問。
       次いで朝山日乗にも小川与七郎の「宿地子」の件を申し含める。〔『言継卿記』四〕
  6月16日 織田信長(「信長」)、明智光秀(「明智十兵衛」)へ降伏した三好政勝(「為三」)に本領の摂津国豊島郡榎並を給与した
       が、伊丹親興(「伊丹」)の所領が近いため、これを交換させることを諒承させることを命令。〔「福地源一郎氏所蔵文書」〕
  6月17日 朝山日乗、山科言継を訪問。山科言継、朝山日乗より伊勢三郎母が「以外霍乱」というので香需散1包を贈る。
       〔『言継卿記』四〕
  6月17日 山科言継、冷泉俊右(「下冷泉中将」)が近日中に播磨国より上洛するという知らせを受ける。
       明日御礼の「参内」をするというので「袍」借用を「内々」に約束した。〔『言継卿記』四〕
  6月17日 織田信長(「信長」)、祖父江五郎右衛門尉へ領中方目録を下す。〔「氷室和子氏所蔵文書」〕
  6月18日 正親町天皇、方違行幸す。〔『御湯殿上日記』三十七〕
  6月18日 織田信長、近江国浅井郡へ着陣。〔『士林証文』三〕
  6月18日 多聞院英俊、松永久秀(「松城」)父子の大和国郡山在陣を見舞う。〔『多聞院日記』二〕
  6月19日 山科言継、足利義昭(「武家」)が明日の近江国への出陣(「御動座」)延引したことを知る。池田勝正(摂津国池田城主)
       が一族内紛のため池田城を追放されたことが原因だという。また三好三人衆と阿波国衆・讃岐国衆が出陣(「出張」)したと
       いう注進があったことも知る。〔『言継卿記』四〕
  6月19日 織田信長、近江修理大夫へ自身の6月18日の近江国浅井郡着陣を通知し早急の浅井郡への参陣を促す。
       また6月4日に六角義賢(「承禎」)・六角義治父子が一揆を集め近江国笠原に出撃したが、柴田勝家(「柴田」)・
       佐久間信盛(「佐久間」)が撃退し敵首を美濃国岐阜に送付されたのが喜ばしいこと、6月10日に六角義賢(「承禎」)が
       近江修理大夫の居城を攻撃するも「いけ取」にしたことを織田信長は「江家の御手柄」と激賞していること、
       六角義賢(「承禎」)父子の件は「宮」(竹内殿:天台座主覚恕か)より「助命」嘆願があったが、それは近江修理大夫の
       「御心次第」であることを織田金左衛門より通達させる。〔『士林証文』三〕
  6月20日 山科言継、「禁中御作事」のため内侍所を訪問。〔『言継卿記』四〕
  6月20日 織田信長、近江国菅浦へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「菅浦文書」四〕
  6月20日 池田勝正の一族21人衆、4人衆のうちの池田豊後守・池田周防守を自刃させたという。〔『言継卿記』四〕
  6月20日 池田勝正(「総領筑後守」)、刀根山を経由して大坂へ逃亡。〔『言継卿記』四〕
  6月20日 足利義昭、池田勝正の大坂逃亡の知らせを受ける。次いで上野中務大輔・細川藤孝(「細川兵部大輔」)・一色紀伊守・
       織田信広(「織田三郎五郎」)ら2000計の軍勢を山崎周辺まで出陣さす。三好義長(「三好左京大夫」)より使者が到来し
       種々の「御談合」があった。〔『言継卿記』四〕
  6月21日 山科言継、「内侍所作事」を見舞い、次いで長橋局(薄好子)を訪問。〔『言継卿記』四〕
  6月22日 山科言継、中御門宣教を同行し吉田兼見(「侍従」)亭を訪問し碁を見物。次いで吉田兼右(「右兵衛督」)の隠居所を見物
       し「きれい驚目」す。〔『言継卿記』四〕
  6月22日 山科言継・中御門宣教、吉田兼見邸を訪問。〔『兼見卿記』一〕
  6月22日 多聞院英俊、池田勝正一族36人衆が4人衆のうち2人を自殺させ池田城を乗っ取り、三好長逸が入城したという風聞に接し
       これを偽情報であると評す。〔『多聞院日記』〕
  6月24日 池田勝正の一族等、摂津国有馬郡湯山年寄中へ好を通ず。〔「中之坊所蔵文書」〕
  6月25日 山科言継、久しぶりに足利義昭(「武家」)へ祗候するも「御午臥」というので大蔵卿局を訪問するも「他行」であった。
       明後日、足利義昭は「御動座」ということであった。〔『言継卿記』四〕
  6月25日 山科言継、村井貞勝(「村井民部少輔」)へ瓜を20個贈るも「他行」であったという。〔『言継卿記』四〕
  6月26日 山科言継、三好義長(「三好左京大夫」)が池田勝正(「池田筑後守」)を同行し上洛するということ、および摂津国池田城
       は三好長逸(「三好日向守」)・岩成友通(「石成主税頭」)らが入城することになったことを知る。〔『言継卿記』四〕
  6月26日 織田信長(「信長」)、久徳左近兵衛へ近江国多賀庄・石灰庄・敏満寺領の3ヶ所都合3000石の「支配」を安堵。
       〔「集古文書」十八〕
  6月26日 松永久秀・松永久通、大和国郡山より帰還。〔『多聞院日記』二〕
  6月27日 山科言継、足利義昭(「武家」)が出陣(「御動座」)を延引したこと、近江国北郡に於いて戦闘があったことを知る。
       〔『言継卿記』四〕
  6月27日 山科言継の近所の薬師前周辺に於いて足利義昭(「武家」)により彦部若党が自害させられる。〔『言継卿記』四〕
  6月27日 山科言継、「禁中御作事」を見舞う。〔『言継卿記』四〕
  6月28日 山科言継、「禁中御作事」を見舞う。長橋局(薄好子)の所に於いて三条西実澄・中山孝親・山科言継ら強飯にて酒宴す。
       〔『言継卿記』四〕
  6月28日 足利義昭(「武家」)、和泉国堺の岩成友通(「岩成」)より敵方の3首を受け取る。〔『言継卿記』四〕
  6月28日 織田・徳川連合軍、姉川の戦で勝利。〔「津田文書」〕
  6月28日 織田信長(「織田弾正忠信長」)、細川藤孝(「細川兵部大輔」)へこの日の近江国姉川に於ける浅井・朝倉連合軍との交戦
       で「得大利」したこと、「野も田畠も死骸計」りの様子、この戦勝は「誠為天下大慶不過之」であり、小谷城の攻略は時間の
       問題であること、浅井・朝倉領国に「以武篇」て臨むことは「物之数」に非ず、「江北」(近江浅井氏)の件は「平均」に属し
       たこと、横山城の籠城衆より「種々詫言」があるが今日明日中に「可討果覚悟」であること、佐和山城の件を処置してから直ち
       に上洛することを足利義昭へ披露するよう依頼。
       また徳川家康(「岡崎家康」)が出陣し織田信長旗下(「我等手廻之者共」)と「一番合戦之儀論」に及んだので織田信長が
       徳川家康(「家康」)に先陣を申し付けたこと、池田恒興(「池田勝三郎」)・丹羽長秀(「丹羽五郎左衛門尉」)を附属させ
       朝倉軍を撃破したこと、浅井軍には織田軍(「手廻之者共」)を当てて撃破したことを通知。〔「津田文書」〕
  6月28日 吉田兼見、織田信長(「信長」)が浅井長政・朝倉景健を撃破した旨を知る。〔『兼見卿記』一〕
  6月28日 島津義久、細川藤孝へ足利義昭の入洛を祝し太刀1腰・馬1疋・黄金100両を進上。
       喜入季久を派遣したので、その披露を依頼。〔「島津家文書」A‐1113、「旧記雑録後編」@‐561〕
  6月29日 山科言継、前日巳刻の近江国北郡における戦闘の風聞に接す。
       その内容は浅井長政が討死、7・8千人ばかりが戦死したというものであった。磯野員昌(「磯野丹波守」)戦死の風聞にも
       接した。〔『言継卿記』四〕
  6月29日 山科言継、「禁中御作事」を見舞う。その後、大典侍殿(万里小路賢房女)・台所・内侍所・大祥寺殿らを訪問。
       〔『言継卿記』四〕
  6月29日 山科言継、昨日摂津国吹田に「敵」(三好三人衆か)が進撃したことを知る。〔『言継卿記』四〕
  6月29日 山科言継、昨日近江国北郡に於ける合戦の情報に接す。
       「北郡衆」(浅井軍)・「越前」(朝倉軍)9600人が討死、4800首が挙げられたということを知る。
       また「徳川衆」・「織田衆」にも多数の戦死者がでたという。「越前衆」(朝倉軍)は5000余が戦死したという。
       「前波」以下も戦死したという。〔『言継卿記』四〕
  6月29日 幕府「奉公衆」、この日の晩に摂津国へ出陣。〔『言継卿記』四〕
  6月30日 幕府「奉公衆」、この日の朝に摂津国へ出陣。〔『言継卿記』四〕
  6月30日 山科言継、昨晩とこの日の朝に幕府「奉公衆」が摂津国に出陣したことを知る。〔『言継卿記』四〕
  6月  日 織田信長、近江国菅浦へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「菅浦文書」十〕

7月
  7月 1日 山科言継、東坊城盛長を同行し足利義昭(「武家」)へ祗候。「御供衆」以外は「御礼申仁無之」であり、「公家計」であった。
       巳刻に足利義昭と対面があった公家は山科言継・飛鳥井雅教・飛鳥井雅敦・烏丸光宣・日野輝資・広橋兼勝・東坊城盛長らで
       あった。〔『言継卿記』四〕
  7月 2日 山科言継、「禁中御作事」を見舞う。朝山日乗・村井貞勝(「村井民部少輔」)が「庭上」に於いて瓜を献上した。
       〔『言継卿記』四〕
  7月 3日 山科言継、早旦に一条内基(「一条殿」)へ参上。
       次いで真如堂蓮光院を訪問。ここで山科言継は今日明日の間に織田信長(「織田弾正忠」)が上洛するであろうことを知る。
       またこの日織田信長(「信長」)が近江国北郡の佐和山城を磯野員昌(「磯野丹波守」)より受け取ったことを知る。
       〔『言継卿記』四〕
  7月 3日 今井宗久、山名祐豊(但馬国守護)の重臣伊帙美作守・下津屋安芸守・宮下野守へ去6月28日に織田信長(「信長」)が
       一戦に及び「越前衆」(朝倉義景軍)・「浅井」(浅井長政軍)を「悉令打果」し「京都」は「御大慶幸然」であること、約束
       した「御公用吹屋銭」(生野銀山への税)を下津屋某が上納しないと今井宗久「代官」が報告してきたことは「相違」である
       ので、銀子精錬次第に「御上使」に添えて代官に渡すという「堅以御連判申合」せたものの写状を送付するので厳重に命令する
       ことを通達。最初に1000貫文を渡すこと、板井好斎(「板井好斎」)・武井夕庵(「夕庵」)の連署状で督促されたことを
       通知。〔「今井宗久書札留」〕
  7月 4日 山科言継、「禁中御作事」を見舞う。〔『言継卿記』四〕
  7月 4日 吉田兼見、足利義昭御所(「武家御所」)の祓を実施。〔『兼見卿記』一〕
  7月 4日 織田信長(「織田弾正忠信長」)、申刻に4・5騎、「上下」30人ばかりを率いて上洛。直接足利義昭(「武家」)のもと
       へ参上。山科言継も足利義昭(「武家」)のもとへ祗候。近江国北郡に於ける戦闘について雑談があった。
       山科言継、次いで明智光秀の宿所を訪問。〔『言継卿記』四〕
  7月 4日 織田信長(「信長」)、俄かに騎馬3騎で上洛。〔『兼見卿記』一〕
  7月 4日 織田信長(「信長」)、近江国北方に於ける戦闘のため「在京」(上洛)。〔『多聞院日記』二〕
  7月 4日 山科言継、正親町天皇(「禁裏」)の召喚により黄昏に参内。
       正親町天皇より織田信長(「信長」)への「属本意早速上洛珍重」という言伝を受け、織田信長のもとを訪問。
       織田信長、山科言継・上野信恵(「上野佐渡守」)・松永久秀(「松永山城守」)・朽木弥十郎・飯河信堅(「飯川肥後守」)
       ・歳阿等を一度に見参す。
       先ず山科言継が正親町天皇からの言伝を伝達し、次いで誠仁親王(「親王御方」)・大典侍殿(万里小路賢房女)・
       長橋局(薄好子)らからの「言伝」を申し渡す。山科言継ら、亥刻に織田信長宿所を退出。
       山科言継は直接参内し、正親町天皇が「御寝」であったので「内々」に申し置いて帰宅。〔『言継卿記』四〕
  7月 5日 山科言継、長橋局(薄好子)へ祗候し誠仁親王(「親王御方」)らに昨宵の織田信長の「御返事之様」を申し入れる。
       次いで内侍所を訪問し、「御作事」を見舞う。〔『言継卿記』四〕
  7月 5日 山科言継、「禁中御作事」を見舞う。次いで大典侍殿(万里小路賢房女)・台所・内侍所へ立ち寄る。
       次いで織田信長(「信長」)「被参」というので万里小路惟房・万里小路輔房・山科言継・山科言経(「武衛」)・橘以継らが
       衣冠を着す。但し「肩衣」を着用しなかったが、朝山日乗より「各無用」の由が通達され、各公家衆は織田信長への参上には
       及ばなかった。〔『言継卿記』四〕
  7月 5日 吉田兼右(「家君」)、織田信長(「信長」)へ礼参のため出京。〔『兼見卿記』一〕
  7月 5日 織田軍、摂津国吹田に於いて三好三人衆の軍勢を撃破。〔『言継卿記』四〕
  7月 6日 山科言継、朝食以後に山科言経(「武衛」)・橘以継らを同行し織田信長(「織田弾正忠」)を訪問し見参す。
       織田信長は今朝より「二条殿御弟大乗院新門主」・三条西実澄らと雑談していたという。それ以外には対面は無かったという。
       山科言継、織田軍が摂津国吹田の「敵」(三好三人衆か)が昨日敗北したことを知る。織田信長は「悉以不討」を「曲事」とし
       「以外無機嫌」であった。この日、織田軍は「改陣」という。〔『言継卿記』四〕
  7月 6日 山科言継、「禁中御作事」を見舞う。〔『言継卿記』四〕
  7月 6日 朝山日乗・村井貞勝、大和国法隆寺へ「五条升」で9石9斗を修理米として受け取った旨を通知。〔「法隆寺文書」〕
  7月 6日 多聞院英俊、織田信長(「信長」)が近江国北方に於ける戦闘のために去4日に「在京」(上洛)したことを知る。
       〔『多聞院日記』二〕
  7月 7日 織田信長(「信長」)、丑下刻に美濃国岐阜へ下向。〔『言継卿記』四〕
  7月 8日 山科言継、「禁中御作事」を見舞い、正親町天皇(「上」)・誠仁親王(「御方御所」)・大典侍殿(万里小路賢房女)らへ
       「小車花」1茎を献上した。〔『言継卿記』四〕
  7月 9日 山科言継・飛鳥井雅教、正親町天皇(「禁裏」)より勅使(「御使」)として足利義昭(「武家」)へ派遣される。
       「諸御料所不参」というので「諸事御不弁」であるから「御総用被進候者可悦思食」という内容を通達。
       足利義昭の返答は「依不事行相似疎略」であり「不依他少被仰付可被進上」するというものであった。
       次いで山科言継・飛鳥井雅教、長橋局(薄好子)へこの旨を申し入れる。
       次いで山科言継、大典侍殿(万里小路賢房女)・台所・内侍所へ立ち寄り、「御作事」を暫く見物した。〔『言継卿記』四〕
  7月 9日 山科言継、久我通俊(「久我前右大将休庵」)らと月下桜馬場に於いて納涼す。
       「竹内治部少輔」が近所であるというので瓜を持参す。〔『言継卿記』四〕
  7月10日 山科言継、足利義昭(「武家」)より「禁裏御総用」として万疋が献上されたことを知る。山科言継は100疋を拝領した。
       〔『言継卿記』四〕
  7月10日 山科言継、月下門前に於ける久我通俊父子・幕府「奉公衆」・「奉行衆」の酒宴・音曲に招待される。〔『言継卿記』四〕
  7月10日 織田信長(「信長」)、毛利元就(「毛利陸奥守」)へ「北国」情勢と浅井長政(「江州浅井」)「反覆」の状況を通知。
       また出雲国・伯耆国が毛利氏によって「平均」に属したことを祝し、備前国・播磨国への出撃については時期を見合わせ織田側
       より申し入れる旨を通知。〔「毛利家文書」〕
  7月10日 織田信長(「信長」)、小早川隆景(「小早川左衛門佐」)へ「北国」情勢を毛利元就(「元就」)へ通知したこと、
       出雲国・伯耆国への軍事行動が毛利氏にとって有利に展開していることを祝す。〔「宗像文書」〕
  7月10日 織田信長、毛利元就(「吉田」)へ「天下無異儀趣」など全9ヶ条の「覚」を通達。〔「毛利家文書」〕
  7月11日 山科言継、前日の100疋拝領の御礼として長橋局(薄好子)へ祗候。次いで禁中「御作事」を見物。〔『言継卿記』四〕
  7月12日 山科言継、「禁中御作事」を見舞う。〔『言継卿記』四〕
  7月12日 織田信長(「信長」)、畠山昭高(「左衛門督」)へ美濃国岐阜下国に際して近江国坂本までの使者派遣を賞し、
       「南方辺之儀」(石山本願寺の情勢)は変化が無かったので下国したこと、上洛の際は通知する旨を報告。
       〔「大原通敬氏所蔵文書」〕
  7月12日 多聞院英俊、竹内秀勝(「竹下」)を見舞う。〔『多聞院日記』二〕
  7月13日 山科言継、長橋局(薄好子)より村井貞勝(「村井民部少輔」)・朝山日乗に一盞が振る舞われるというので招待を受ける
       が、「他行」のため「不参」。この日は正親町天皇(「禁裏」)に「御目出度事」があったので公家「内々衆」は悉く衣冠を着
       し参内したためであった。〔『言継卿記』四〕
  7月14日 山科言継、この日の朝に長橋局(薄好子)へ祗候。
       長橋局(薄好子)が村井貞勝(「村井民部少輔」)・朝山日乗を呼び粽にて酒宴を催す。〔『言継卿記』四〕
  7月16日 佐竹義宣、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
  7月17日 山科言継、禁中へ2度参内。この日の早旦より「禁裏御懸之松」の「洗」が行われ、雑色助左衛門が「古葉」を取った。
       〔『言継卿記』四〕
  7月18日 山科言継、参内。禁中の「御懸之松木」の「洗」が行われる。その後に内侍所に於いて一盞が催された。
       また「女官梅」が明日尾張国へ下向するというので「御暇」を上奏した。〔『言継卿記』四〕
  7月18日 山科言継、明日里村紹巴邸に於いて「和漢」歌会が催されることを知る。織田家中の明院良政(「明印」)の興行かと推測。
       山科言経(「左兵衛督」)に「執筆」の用があり三条西実枝を同行して欲しいとの「内々」の要請があった。
       暮れに及び明院良政(「明印」)が山科言経(「武衛」)邸に謝礼として30疋を贈ったという。〔『言継卿記』四〕
  7月18日 「禁裏御懸之松」の「洗」が行われる。〔『言継卿記』四〕
  7月19日 里村紹巴邸に於いて明院良政(「明印良政」)興行の和漢歌会が催される。〔『言継卿記』四〕
  7月20日 山科言継、参内す。禁中の「御懸之松」の「洗」は雨のため「不及是非」ということであった。〔『言継卿記』四〕
  7月21日 山科言継、参内す。「禁裏御懸之松」2本の「洗立」があった。次いで禁中「御作事」を見物。〔『言継卿記』四〕
  7月21日 山科言継、摂津国方面に於いて「敵」(三好三人衆か)の軍勢7、8千人が出撃したという風聞に接す。このような注進が
       方々よりあったという。〔『言継卿記』四〕
  7月21日 織田信忠、林某へ姉川の戦での軍功を賞して太刀を下す。〔「林文書」‐1〕
  7月22日 山科言継、久方ぶりに足利義昭(「武家」)へ祗候。「坤角三重櫓」を見物後、足利義昭の「御成」に祗候し雑談す。
       〔『言継卿記』四〕
  7月22日 山科言継、長橋局(薄好子)の招喚により参内。「過日用」についてのことであった。次いで禁中「御作事」を見物。
       〔『言継卿記』四〕
  7月22日 多聞院英俊、筒井順慶(「順慶」)が近日中に十市城に入城する旨の風聞に接す。〔『多聞院日記』二〕
  7月23日 三条西実枝邸にて「一続興行」が催される。山科言継、明院良政(「濃州之明印」)に呼ばれ参席。未下刻に各自が集合。
       参席者は「大乗院殿」・三条西実枝・中山孝親・山科言継・飛鳥井雅教・庭田重保・四辻公遠・持明院基孝・甘露寺経元・
       山科言経・「八千丸」・五辻為仲・飛鳥井雅敦・「少将」・中院通勝・豊原守秋・明院良政(「明王院良政」)・里村紹巴・
       宗甫・紹喜らであった。〔『言継卿記』四〕
  7月24日 山科言継、「禁中御作事」を見舞う。〔『言継卿記』四〕
  7月25日 山科言継、「禁中御作事」を見舞う。「一臺」はこの3日中には出来る様子であった。
       次いで村井貞勝(「村井」)の木屋を訪問し暫く雑談す。次いで内侍所・台所等を訪問。〔『言継卿記』四〕
  7月25日 木下秀吉、竹生島宝厳寺に寺領を安堵。〔「竹生島文書」〕
  7月25日 松永久秀・松永久通、酉刻に大和国信貴山城を攻撃のため出陣。〔『多聞院日記』二〕
  7月25日 多聞院英俊、三好三人衆が河内国へ進撃した風聞に接す。〔『多聞院日記』二〕
  7月25日 松永久秀、大和国興福寺へ「新御所様」早々の下向の件を連絡。〔『多聞院日記』二〕
  7月26日 山科言継、「禁中御作事」を見舞う。次いで内侍所を訪問。次いで「衣冠」を着し「当番」す。〔『言継卿記』四〕
  7月26日 多聞院英俊、筒井順慶(「筒順」)が明日「出張」することを知る。〔『多聞院日記』二〕
  7月26日 河内国に於いて織田軍と三好三人衆が交戦。〔『多聞院日記』二〕
  7月26日 松永久秀(「松城」)父子、河内国へ8000程の軍勢を率いて出撃。〔『多聞院日記』二〕
  7月27日 正親町天皇、大典侍局方へ方違行幸。〔『御湯殿上日記』〕
  7月27日 多聞院英俊、前日に河内国に於いて織田軍と三好三人衆の軍勢が交戦したことを知る。〔『多聞院日記』二〕
  7月27日 多聞院英俊、松永久秀(「松城」)父子が河内国へ8000程の軍勢を率いて出撃したが、空しく帰還したことを知る。
       〔『多聞院日記』二〕
  7月27日 多聞院英俊、晩に及び筒井順慶(「筒順慶」)が500計の軍勢を率いて十市城に入城したことを知る。
       〔『多聞院日記』二〕
  7月  日 織田信長(「信長」)、土肥助次郎(尾張国土豪)へ美濃国西本荘50貫文を宛行う。
       〔「土肥文書」・「備藩国臣古証文」・「黄薇古簡集」〕

8月
  8月 1日 山科言継、東坊城盛長・三条公仲を同行し足利義昭(「武家」)へ祗候。「御供衆」・「御部屋衆」・「申次」以下に対面が
       あり、次いで「公家」衆の山科言継・飛鳥井雅教・飛鳥井雅敦・烏丸光宣・日野輝資・東坊城盛長・三条公仲らが対面。
       〔『言継卿記』四〕
  8月 2日 山科言継、「禁中御作事」を見舞う。〔『言継卿記』四〕
  8月 3日 山科言継、正親町天皇(「禁裏」)より召され朝食以後に参内。
       議定所に於いて誠仁親王(「親王御方」)・岡殿(大慈光院:覚音女王)・「座主宮」・各女中衆・中山孝親・万里小路惟房・
       山科言継・三条西公国・甘露寺経元・中山親綱・中院通勝・「雅英」等が「台物」にて酒宴・音曲を楽しむ。
       山科言経・五辻為仲等は柳原資定の連歌会に出席のため「不参」であったという。
       次いで誠仁親王、「御方御所」(誠仁親王御所)に於いて、「作事所」の村井貞勝(「村井」)に酒を下賜、酒宴・音曲が
       行われた。〔『言継卿記』四〕
  8月 3日 山科言継、禁中の御懸之松の手入れをしていた雑色助左衛門へこの日より暇を与える。〔『言継卿記』四〕
  8月 4日 山科言継、「禁中御作事」を見舞う。「弥出来」あがるところであった。〔『言継卿記』四〕
  8月 5日 山科言継、烏丸光宣の使者より明後日「叡山」へ「六月会」の「勅使」として参向するので同行を依頼される。
       山科言継は断るが、再度依頼の使者が到来したので今晩・明朝に返答する由を通知し烏丸光宣使者を返す。〔『言継卿記』四〕
  8月 5日 山科言継、沢路長俊を召し寄せ敷地・田畠の件を指示。更に明後日の比叡山への「登山」の供を命ず。〔『言継卿記』四〕
  8月 6日 山科言継、烏丸光宣を訪問。明日の比叡山「登山」に同行することを告げる。また烏丸光康に「見参」した。
       次いで山科言継、「禁中」へ参内し大典侍殿(万里小路賢房女)を訪問。明日「登山」の由について内々に上奏を依頼する。
       〔『言継卿記』四〕
  8月 7日 山科言継、烏丸光宣(勅使)と比叡山に「登山」す。〔『言継卿記』四〕
  8月 9日 大和国郡山に於いて「不慮ニ一戦」が発生。「サキノ宮」某・「タテリ」某・「ムキヰ」某以下が手傷を負った。
       〔『多聞院日記』二〕
  8月10日 近衛前久、島津貴久へ「不思寄」「侫人之所行」により京都を「退座」させられ「無念之至」であること、
       織田信長(「信長」)は「分別」したが足利義昭(「義昭」)の遺恨により近衛前久の帰洛は叶わない状況となってしまい、
       近衛前久は一旦「失面目」った今に至っては「江州南北」(六角義賢・浅井長政)・「越州」(朝倉義景)・
       「四国衆」(三好三人衆)を悉く「一味」とし、近衛前久自身も「出張」して「本意」を遂げる覚悟を通知。
       〔「島津家文書」A‐663〕
  8月10日 山科言継、烏丸光宣(「勅使」)と共に比叡山を「下山」す。試楽寺まで飛鳥井雅敦が馬を連れて迎えに来ていた。
       山科言継、乗馬し日没に帰宅。〔『言継卿記』四〕
  8月10日 多聞院英俊、竹内秀勝(「竹下」)が上洛するというので贈物をする。また松永久秀(「久秀」)へも「八朔礼」として
       20疋を贈る。〔『多聞院日記』二〕
  8月10日 多聞院英俊、竹内秀勝(「竹下」)から「主人ノ機ニアワントスレハ違也、機ニ不ル違様ニト思ヘハ機ニ合也ト、名仁被申」
       という話を聞く。これを多聞院英俊は「大切ノ手也」と評す。〔『多聞院日記』二〕
  8月11日 山科言継、「禁中御作事」を見舞う。次いで大典侍殿(万里小路賢房女)・長橋局(薄好子)・台所・内侍所等を訪問。
       〔『言継卿記』四〕
  8月13日 山科言継、禁中「御作事」を見舞う。〔『言継卿記』四〕
  8月14日 山科言経(「武衛」)、誠仁親王(「御方御所」)の「御番」に祗候。〔『言継卿記』四〕
  8月15日 正親町天皇、阿弥陀寺清玉上人の東大寺大仏殿再建のための諸国勧進を賞す。〔『山城名勝志』〕
  8月15日 「南淵」(「公方御足軽」「濃州衆」)、山科言継を訪問し談義す。〔『言継卿記』四〕
  8月15日 橘以継、山科言継・山科言経(「武衛」)を申刻自邸に招待する。山科言継・四辻公遠・山科言経(「武衛」)・
       持明院基孝・相国寺雲松軒春湖・朝山日乗・野間孫兵衛(村井貞勝家臣)らが招待された者たちであった。〔『言継卿記』四〕
  8月17日 織田軍(三好義長ら)、摂津国・河内国に於いて三好三人衆の軍勢と交戦。〔『言継卿記』四〕
  8月17日 河内国での戦闘で、三好義長(「三好太夫」)の軍勢300余が一所に於いて壊滅させられる。〔『多聞院日記』二〕
  8月18日 山科言継、前日17日に摂津国・河内国に於ける戦闘についての情報に接す。伊丹及び三好義長(「三好左京兆」)の軍勢に
       多数の戦死者が出た模様ということであった。〔『言継卿記』四〕
  8月19日 山科言経(「武衛」)、誠仁親王(「御方御所」)へ「御番」として祗候。〔『言継卿記』四〕
  8月19日 近衛前久、喜入季久へ上洛を待ち望む旨を通知。詳細は進藤長治に伝達させる。〔「旧記雑録後編」@‐565〕
  8月19日 進藤長治、近衛前久の意を受け、喜入季久へ上洛を待ち望む旨を通達。〔「旧記雑録後編」@‐566〕
  8月19日 木下秀吉、山城国久世荘(東寺領)名主・百姓に年貢納入を命令。〔「東寺百合文書」〕
  8月20日 織田信長(「信長」)、三好三人衆(「南方ノ敵」)を「退治」するために出京す。〔『武徳編年集成』〕
  8月20日 山科言継、烏丸光宣の招待により申刻に烏丸邸を訪問。
       「相伴」したのは烏丸光康・万里小路惟房・山科言継・万里小路輔房・正親町季秀・飛鳥井雅敦・富小路種直・烏丸光宣・
       日野輝資らであった。次いで妙覚寺蓮乗院と朝山日乗が「法文」(宗論)を行い、妙覚寺蓮乗院が「閉口」した。
       〔『言継卿記』四〕
  8月20日 筒井順慶(「筒井」)、大和国高樋山に城を築造するため古市郷に放火する。〔『多聞院日記』二〕
  8月20日 筒井順慶(「筒順」)、大和国福住城へ入城。〔『多聞院日記』二〕
  8月22日 山科言継、久方ぶりに足利義昭(「武家」)へ祗候、暫く雑談す。〔『言継卿記』四〕
  8月22日 多聞院英俊、織田信長(「信長」)がこの日京都に到着する予定を知る。〔『多聞院日記』二〕
  8月22日 多聞院英俊、三好三人衆が1万程の軍勢で河内国天王寺に布陣していること、松永久秀(「松城」)は河内国高安に布陣、
       竹内秀勝(「竹下」)は「大クホ」に布陣したことを知る。〔『多聞院日記』二〕
  8月23日 冷泉為益(「冷泉前黄門民部卿為益卿」)、この暁に54歳で「薨」ず。〔『言継卿記』四〕
  8月23日 山科言継、四辻公遠を同行し足利義昭(「武家」)を訪問するも「見参」は無かった。
       久我通俊(「久我入道」)以下が祗候した。各自、摂津国・河内国・和泉国・大和国・播磨国・山城国の「陣取」の図を
       「拝見」した。山科言継ら、三淵藤英(「三淵大和守」)・上野輝加(「上野下野守」)と「御茶飲」し雑談す。
       〔『言継卿記』四〕
  8月23日 織田信長(「織田弾正忠信長」)、三条西洞院本能寺へ着陣。〔『言継卿記』四〕
  8月23日 織田信長(「信長」)、大軍勢を率いて上洛。〔『兼見卿記』一〕
  8月23日 山科言継、長橋局(薄好子)へ祗候。勅使(「御使」)を派遣すべきかを上申。飛鳥井雅教が留守であったので山科言継が
       勅使として派遣されることになった。
       山科言継、「日入」に本能寺の織田信長を訪問し、「御使之趣」を告げ、誠仁親王(「御方御所」)及び「御局衆」の使者も
       同様に来訪の旨を告げた。
       山科言継、間も無く参内し長橋局(薄好子)及び誠仁親王(「御方御所」)以下へ織田信長の「忝之由」という返答を上奏。
       〔『言継卿記』四〕
  8月23日 幕府「奉公衆」・織田軍(「濃州衆」)の先発部隊、摂津国へ出陣。〔『言継卿記』四〕
  8月23日 織田軍の竹内秀勝(「竹内下総守」:松永久秀家臣)・「中坊」ら、大和国で蜂起した「筒井」以下「牢人衆」と「開陣」。
       〔『言継卿記』四〕
  8月23日 竹内秀勝(「竹下」)、大和国で蜂起した筒井順慶の軍勢を撃退し高樋山まで駆逐。の中坊藤松(松永久秀家臣:「中坊」)
       の軍勢に少々損害があった。〔『多聞院日記』二〕
  8月24日 山科言継、三条西実枝を訪問し雑談す。また先日返却した「順徳院」の「公卿補任」を再度借用す。〔『言継卿記』四〕
  8月24日 浅井山城守・浅井対馬守、織田信長(「信長」)へ内応し朝倉軍(「越前衆」)と対峙すという。〔『言継卿記』四〕
  8月24日 吉田兼見、磯谷久次を同行させて織田信長(「信長」)に礼参。陣所は本能寺であった。
       塙直政(「塙九郎左衛門尉」)が「奏者」の任であり、塙直政(「九郎左衛門尉」)へ20疋、菅屋長頼(「御長」)へ20疋
       を贈る。〔『兼見卿記』一〕
  8月25日 飛鳥井雅敦・烏丸光宣、早旦に摂津国へ向けて出陣。〔『言継卿記』四〕
  8月25日 高倉永相ら、辰刻に摂津国へ向けて出陣。〔『言継卿記』四〕
  8月25日 織田信長(「織田弾正忠信長」)、辰刻に摂津国へ向けて3000の軍勢を率いて出陣。〔『言継卿記』四〕
  8月25日 織田信長(「信長」)、三好長逸(「三好日向守」)・三好康長(「三好山城守」)・岩成友通(「石成」)が摂津国大坂
       福島によって勃発した反乱討伐のため出陣。足利義昭軍(「公方衆」)も出陣。〔『兼見卿記』一〕
  8月25日 織田軍の竹内秀勝(「竹内下総守」:松永久秀家臣)・「中坊」ら、大和国で蜂起した「筒井」以下「牢人衆」を鎮圧。
       〔『言継卿記』四〕
  8月25日 山科言継、「禁中」を見舞う。村井貞勝の出陣によりこの日も「御作事」は無かった(「村井陣立也」)。
       山科言継、「留守之衆」の高木広次・三井寺等覚院・野間孫兵衛らと暫く雑談す。
       次いで山科言継、長橋局(薄好子)・内侍所へ祗候。〔『言継卿記』四〕
  8月25日 山科言継、摂津国原田城が焼かれ、池田勝正(「池田」)へこの地域が与えられたことを知る。〔『言継卿記』四〕
  8月26日 織田信長(「信長公」)、摂津国天王寺に着陣。
       織田ゥ軍を神崎・上下難波・木津・今宮へ進軍させ、三好三人衆の野田城・福島城を攻撃させる。
       〔『松井家譜』、『武徳編年集成』〕
  8月26日 三好政勝(「三好越後守一任入道為三」)・香西越後守、三好三人衆に離反し織田軍へ属す。〔『武徳編年集成』〕
  8月26日 河内国中嶋に於いて織田軍と三好三人衆軍が交戦。織田軍(「信長衆」)に多数の死傷者が出た模様。〔『多聞院日記』二〕
  8月27日 烏丸光康、摂津国へ向けて5、60人を率いて出陣。正親町季秀も同行した。〔『言継卿記』四〕
  8月28日 山科言継、未刻に足利義昭(「武家」)へ祗候。大館治部少輔、摂津国より帰陣し「信長御返事」・「陣之儀」を物語った。
       織田信長(「信長」)は「天王寺」に在陣、「諸勢」は大坂の西川端に陣取っていること、三好義長・松永久秀・和田惟政等が
       河を越え、天満森に布陣したという。また「敵」(三好三人衆)は野田・福島に5、6千の軍勢で籠城しているという。
       織田信長(「信長」)、畠山高政・三好義長・松永久秀・「遊佐」・幕府「奉公衆」は2、3万の軍勢であるという。
       〔『言継卿記』四〕
  8月28日 山科言継、内侍所・大典侍殿・台所を訪問。〔『言継卿記』四〕
  8月28日 多聞院英俊、去8月26日に河内国中嶋で織田軍と三好三人衆軍が交戦したことを知る。織田軍(「信長衆」)に多数の死傷
       者が出たという風聞に接す。〔『多聞院日記』二〕
  8月29日 広橋兼勝、公家衆に「禁裏御代官」として因幡堂薬師七人詣の通達をする。
       早旦に広橋兼勝邸に招集されたのは四辻季遠・山科言継・四辻公遠・甘露寺経元・山科言経・中山慶親らであった。
       〔『言継卿記』四〕
  8月29日 山科言継、明日足利義昭(「武家」)が摂津国へ「御動座」する予定を知る。
       幕府「奉公衆」及び「公家衆」が足利義昭「御迎」の為に各自上洛し、足利義昭「御成」次第に摂津国へ出陣するということで
       あった。また軍勢300を率いていた「三好伊三」が降参した風聞に接す。〔『言継卿記』四〕
  8月29日 三淵藤英(「三太」)、未明に吉田兼見を訪問し、足利義昭(「大樹」)より明日摂津国への出陣に際し幕府留守の命令が
       発令された旨を通達。〔『兼見卿記』一〕
  8月30日 山科言継、早旦に摂津国へ2000の軍勢を率いて「御動座」する足利義昭(「武家」)へ祗候。摂津国枚方まで出陣という
       ことであった。但し織田信長(「信長」)の注進で足利義昭は摂津国一宮より「還御」、丹波国勝龍寺城(「西岡勝隆寺城」)
       に逗留するという。
       山科言継、再度足利義昭留守を見舞う。聖護院道増法親王(「聖護院殿」)・大覚寺尊信法親王(「大覚寺殿」)・
       大館伊与守・一色晴具・三淵藤英(「三淵大和守」)・二階堂中務大輔・吉田兼右(「吉田侍従」)・楢柴若狭守・矢島越中守
       ら幕府「奉行衆」10人計と「同朋衆」以下が留守居であった。「山徒衆」も5・6人居た。広橋兼勝も同前であった。
       〔『言継卿記』四〕
  8月30日 吉田兼見、幕府御所(「殿中武家御所」)へ祗候。出陣する足利義昭を見送る。〔『兼見卿記』一〕
  8月30日 足利義昭、軍勢2000を率いて摂津国に出陣。〔『兼見卿記』一〕

9月
  9月 1日 山科言継、「御見舞」の為に足利義昭(「武家」)へ祗候。
       「両門跡」(聖護院道増法親王・大覚寺尊信法親王)・山科言継・飛鳥井雅教・柳原淳光・広橋兼勝・幕府「奉公衆」・
       幕府「奉行衆」・幕府「使節」以下5・60人が居た。連一検校による「平家語」が行われた。〔『言継卿記』四〕
  9月 1日 吉田兼見、幕府御所(「武家御所」)に参番。大覚寺尊信・聖護院道増が参上。〔『兼見卿記』一〕
  9月 1日 松永久秀(「松永山城守」)、「敵方」の「三木」(別所長治か)・麦井勘衛門の攻撃を受ける。〔『言継卿記』四〕
  9月 1日 多聞院英俊、足利義昭(「将軍」)が摂津国に「御動座」すること、三好政勝(「為三」)・香西某が帰参したという風聞に
       接す。〔『多聞院日記』二〕
  9月 2日 山科言継、明日に足利義昭(「武家」)が中島右馬頭の城へ「移御座」する旨を知る。
       「敵方」の「香西」某・「三宅」らの「雑談」により各自を「生害」させたという。
      また「公方御合力」として「根来寺衆」3万人が摂津国へ出撃したという。〔『言継卿記』四〕
  9月 2日 吉田兼見、所用により清水八幡社を訪問。帰宅後、幕府御所に参番。〔『兼見卿記』一〕
  9月 2日 本願寺顕如、美濃国郡上郡惣門徒中へ去々年以来難題を持ちかけてきた織田信長が上洛するに際し、石山本願寺破却の通告を
       受けた旨を通知。〔「安養寺文書」‐2〕
  9月 3日 足利義昭(「義昭公」)、摂津国中島へ動座す。〔『松井家譜』〕
  9月 3日 山科言継、この日に丹波国勝龍寺城へ足利義昭(「武家」)を見舞う予定であったが昨日「移御座」というので丹波国下向は
       無くなった。〔『言継卿記』四〕
  9月 3日 山科言継、一昨日「敵方」の「三木」(別所長治か)・麦井勘衛門が松永久秀(「松永山城守」)を攻撃したことを知る。
       〔『言継卿記』四〕
  9月 3日 吉田兼見、丹波国美濃田保の松尾社祠官である西田又七に名字・官途を授ける。〔『兼見卿記』一〕
  9月 4日 織田軍に対し別所重棟(「別所孫右衛門重棟」)は140騎、紀伊国根来寺杉坊が50人、畠山昭高旧臣の玉木某と湯川某の
       陣代が1000人を率いて摂津国天王寺に郡参す。〔『武徳編年集成』〕
  9月 4日 足利義昭(「義昭卿」)、摂津国中島内堀の「細川典厩」の城まで動座。総勢6万余の着到であった。〔『武徳編年集成』〕
  9月 4日 山科言継、岡殿(大慈光院:覚音女王)へ双六のために祗候。次いで内侍所へ立ち寄る。
       次いで村井貞勝(「村井」)の木屋を訪問し野間孫兵衛・村垣徳室・横川又太夫らと暫く雑談す。〔『言継卿記』四〕
  9月 4日 山科言経(「武衛」)、誠仁親王(「親王御方」)「御番」のため参内。〔『言継卿記』四〕
  9月 5日 山科言継、幕府御所を見舞う。「聖護院新門主」(聖護院道増法親王)・幕府「奉公衆」・幕府「奉行衆」らと雑談す。
       次いで一臺・大蔵卿局へ祗候するも「上御霊」の「御湯立」に参詣ということであった。〔『言継卿記』四〕
  9月 7日 織田信長(「信長」)、摂津国陣中より和泉国槙尾寺衆徒へ「鉄炮筒」10挺の贈呈を謝す。〔「大宮市某氏所蔵文書」〕
  9月 7日 織田信長(「信長」)、摂津国天満森へ陣替す。織田軍先鋒隊は摂津国北海老江へ布陣。〔『松井家譜』〕
  9月 7日 織田信長(「信長」)、摂津国天満へ陣替す。織田軍先鋒隊は摂津国海老江堤の田中に布陣。〔『武徳編年集成』〕
  9月 8日 三好義長(「三好左京大夫」)・松永久秀(「松永山城守」)、摂津国海老江城を攻略。〔『言継卿記』四〕
  9月 8日 織田信長、本願寺顕如(「摂州石山之本願寺光佐」)の三好三人衆(「三好」)との「合体」に対して摂津国木津川口と籠岸
       に砦の構築を開始。〔『松井家譜』〕
  9月 8日 織田信長(「信長」)、三好三人衆(「三好」)と「合体」した石山本願寺を攻撃するために摂津国木津川口と籠岸に砦の
       構築を開始。〔『武徳編年集成』〕
  9月 8日 足利義昭(「幕府義昭卿」)、摂津国中島浦江の旧塁へ移陣。〔『武徳編年集成』〕
  9月 9日 山科言継、「南方」(摂津国)の戦況について知る。
       昨日、三好義長(「三好左京大夫」)・松永久秀(「松永山城守」)、摂津国海老江城を攻略したこと、
       「池田衆」(池田勝正軍)・「和田」が伊丹で市場に放火したこと、織田信長(「織田弾正忠」)が天満森に陣替したこと、
       また大坂周辺に「相城」を用意していることを知る。〔『言継卿記』四〕
  9月 9日 山科言継、幕府御所へ祗候。〔『言継卿記』四〕
  9月 9日 土御門有脩(「陰陽頭有脩朝臣」)、若狭国より上洛。〔『言継卿記』四〕
  9月10日 山科言継、晩頭に及び土御門有脩(「刑部卿有脩」)の旅宿である近衛信尹邸を訪問。
       土御門有脩は明日摂津国中島へ出向くというので「新暦」を半分計り調えた。大坂陣中に於いて暦作成は叶わないとして上洛
       延引にあたり正親町天皇(「禁裏」)への取り成しを山科言継に依頼、山科言継はこれを「同心」す。
       山科言継、晩食以後に帰宅。〔『言継卿記』四〕
  9月10日 下間正秀(「下間正秀」)、近江国「十ヶ寺惣衆」へ敵対している織田信長(「信長」)との対峙にあたり「越州衆」の出撃
       遅延など全4ヶ条にわたる作戦指示を下す。〔「誓願寺文書」〕
  9月11日 「禁裏」に於いて「尾州熱田宮」の「御法楽」が行われる。〔『言継卿記』四〕
  9月11日 織田軍、摂津国中島の畠中城を攻略。〔『言継卿記』四〕
  9月12日 山科言継、幕府御所へ見舞のため祗候。
       山科言継、聖護院道増法親王・大覚寺尊信法親王・飛鳥井雅教・幕府「奉公衆」・「山徒衆」・上池院らと暫く雑談す。
       山科言継、前日の摂津国中島の畠中城攻略及び烏丸光康の大坂城入城、「越州衆」(朝倉軍)上洛の雑説に接す。
       〔『言継卿記』四〕
  9月12日 「越州之軍勢」(朝倉軍)8000が近江国堅田まで進撃の「雑説」により「京中騒動」となる。〔『言継卿記』四〕
  9月12日 本願寺顕如、織田信長の攻撃を心配し挙兵。
  9月12日 石山本願寺一揆、摂津国福島の織田軍を攻撃。〔『兼見卿記』一〕
  9月12日 前田利家、他所への用を済ませ、日暮れに摂津国の戦場に到着。〔『村井重頼覚書』〕
  9月13日 山科言継、晩頭に「大坂謀叛一揆」(石山本願寺一揆)の織田軍襲撃を知る。〔『言継卿記』四〕
  9月13日 山科言継、村井貞勝(「村井」)の木屋を訪問し野間六蔵・野間孫兵衛・三井寺等覚院らに大坂での石山本願寺一揆の件を
       問い合わせる。〔『言継卿記』四〕
  9月13日 織田軍、石山本願寺一揆軍に敗軍す。前田利家・村井重頼(「村井又兵衛」)、一揆軍に立ち向かう。〔『村井重頼覚書』〕
  9月14日 山科言継、昨日の「越州衆」(朝倉軍)京中乱入は「一向之雑説」であることを確認。
       また「大坂之一揆」(石山本願寺一揆)は「治定」され、「河州之一向道場」は悉く「根来寺衆」の破却・乱妨に逢ったことを
       知る。〔『言継卿記』四〕
  9月14日 山科言経(「武衛」)、誠仁親王(「親王御方」)の「御番」に祗候。〔『言継卿記』四〕
  9月15日 山科言継、「禁裏」(正親町天皇)の召喚により長橋局へ祗候。
       摂津中島の足利義昭(「武家」)への「御使」(勅使)として飛鳥井雅教を下向させるという勅命であった。
       山科言継、聖護院道増法親王・大覚寺尊信法親王へ勅命を伝達。その後、再度幕府を訪問し三淵藤英(「三淵大和守」)へ勅命
       を伝達したところ「各奉行衆」以下が談合し「御返事」を申すということであった。その返答を受けて長橋局へ祗候しその旨を
       報告。〔『言継卿記』四〕
  9月15日 山科言経(「武衛」)、誠仁親王(「親王御方」)の「御添番」に祗候。〔『言継卿記』四〕
  9月15日 木津英(「木津春松英」:大住荘代官職)、武井夕庵(「夕庵」)へ山城国大住荘の件で今度「替地」を命令されたため
       織田信長の意向(「殿様御意」)により代官職を返上することを上申。〔「曇華院文書」〕
  9月16日 山科言継、召喚により長橋局(薄好子)へ祗候。足利義昭(「武家」)への「御使」(勅使)については飛鳥井雅教が
       「菟角」理由を付けて辞退したため柳原淳光を派遣する旨を通達される。〔『言継卿記』四〕
  9月16日 山科言継、幕府御所を訪問。聖護院道増法親王へ「勅使」の件を申し入れる。〔『言継卿記』四〕
  9月17日 烏丸光康、上洛す。〔『言継卿記』四〕
  9月17日 吉田兼見、越前朝倉氏(「越州軍勢」)入洛の風説により家財を疎開。
       また初めて北条氏康(「北条相模守」)・北条氏政(「同左京大夫」)に音信す。〔『兼見卿記』一〕
  9月17日 三淵藤英(「三淵大和守藤英」)・武井夕庵(「武井夕庵尓云」)、山城国大住庄の名主・百姓中へ「代官職」の件で
       「曇華院殿様御直納之筋目」は織田信長(「信長」)が通達し、木津方(木津英)の「放状」を織田信長(「信長」)へ進上
       すること、年貢・諸成物の進納催促を通達。〔「曇華院文書」〕
  9月17日 山科言継、三河国より上洛した松平親乗(「松平和泉守」)の来訪を受ける。〔『言継卿記』四〕
  9月19日 山科言継、「禁裏」の召喚により参内。明日石山本願寺への「勅使」として山科言継・柳原淳光を派遣する旨を通達される。
       烏丸光康も同行することになっていた。山科言継、突然のことで「迷惑」であるが拝命した。〔『言継卿記』四〕
  9月19日 正親町天皇、山科言継へ「女房奉書」を下す。
       その内容は、土御門有脩(「陰陽頭有脩朝臣」)への「ないし所御こよみ」上進命令であった。〔『言継卿記』四〕
  9月19日 山科言継、土御門有脩(「刑部卿」)へ「新暦」上進と早々に足利義昭・織田信長へ「被申御暇」て上洛するよう督促。
       〔『言継卿記』四〕
  9月20日 山科言継、柳原淳光を同行し長橋局(薄好子)へ祗候し「勅書」を拝受す。
       その内容は足利義昭(「大樹」)及び織田信長(「信長」)は「天下静謐」のための出陣であり、本願寺顕如の「敵対」は
       「不相応」であり早々に「干戈」を「相休」むよう命令するものであった。〔『言継卿記』四〕
  9月20日 山科言継、午時に摂津国へ発足しようとしたところ、近江国坂本に「越州衆」(朝倉軍)・「北郡高島衆」(浅井軍)・
       一揆勢ら3万計が出撃したという。森可成(「森三左衛門」:志賀城将)が迎撃し1000計を討ち取るも、小勢600計で
       あったため森可成(「三左衛門」)は「討死」、近江国坂本・大津等が放火されたため山科言継・烏丸光康・柳原淳光ら勅使は
       発足を延引。〔『言継卿記』四〕
  9月20日 織田信長、三好政勝(「三好一任斎」)へ摂津国豊島郡を扶助。〔「福地源一郎氏所蔵文書」〕
  9月20日 織田信長、摂津国野田城・福島城衆へ森口周辺の「苅田」を実行させる。〔『松井家譜』〕
  9月20日 織田信長(「信長」)、摂津国野田城・福島城兵に森口周辺での「苅田」を実行させる。〔『武徳編年集成』〕
  9月20日 織田軍、摂津国川口向城より出撃。
       織田信長(「信長公」)・細川藤孝(「幽斎様」)・松井康之らも出陣。〔『松井家譜』〕
  9月20日 織田軍、摂津国川口向城より出撃し石山本願寺一揆軍と交戦。
       織田信長(「信長」)も出馬するも、織田軍は敗北し野村越中守が戦死した。
       前田利家(「前田又左衛門利家」)・毛利秀頼(「毛利河内守」)・湯浅一忠(「湯浅甚介一忠」)・中野又兵衛ら力戦す。
       〔『武徳編年集成』〕
  9月20日 吉田兼見、浅井・朝倉連合軍が近江国坂本に着陣、森可成(「森三左衛門尉」)は志賀城より出撃し討死、坂本は悉く放火
       されたことを知る。〔『兼見卿記』一〕
  9月20日 織田信治(「織田九郎」)、近江国坂本合戦に於いて討死。〔「護国寺文書」〕
  9月20日 森可成(「森三左衛門尉」)、近江国坂本合戦に於いて討死。〔「護国寺文書」〕
  9月20日 森可成、近江国坂本に於いて浅井・朝倉連合軍との交戦し討死。〔『言継卿記』四〕
  9月20日 近江国志賀郡下坂本に於いて織田軍と浅井・朝倉連合軍が交戦。〔「武蔵三反崎文書」、「和田文書」〕
  9月21日 中山孝親、庭田重保に相伴し半井驢庵を訪問、酒席が催された。
       またこの日、近江国東坂本に於いて浅井軍(「北郡人数」)と織田軍の森可成(「森三左衛門」)が交戦するも、森可成が討死
       したことを知る。〔『中山家記』〕
  9月21日 山科言継、摂津国(「南方」)へ発足しようとしたところ、山科郷・伏見・鳥羽まで放火され、しかも山科言継は「故障」を
       申して「勅書」を柳原淳光へ委ねる。烏丸光康・山科言継・柳原淳光、足利義昭(「武家」)を訪問するも、「遅々曲事」で
       あると大蔵卿局が「以外無興」であった。〔『言継卿記』四〕
  9月21日 烏丸光康・柳原淳光・正親町季秀ら、石山本願寺へ下向。「路次悪」のため逗留、来たる23日に上洛する予定という。
       また山科言継、去る9月7日に「慶壽院」(本願寺顕如祖母)が80余歳で死去したことを知る。〔『言継卿記』四〕
  9月21日 吉田兼見、室らを舟橋国賢邸へ避難させる。〔『兼見卿記』一〕
  9月21日 明智光秀(「明智十兵衛」)・村井貞勝(「村井民部少輔」)・柴田勝家(「柴田修理亮」)ら、晩景に上洛。
       「御城」(幕府御所)の「御番」のためという。〔『言継卿記』四〕
  9月21日 浅井長政(「浅井備前守長政」)、藤堂九郎左衛門へ「内存」により「同心」したことを賞し「私領」安堵を通知。
       〔「養源院文書」〕
  9月21日 浅井長政、京都山科へ進軍し醍醐周辺に放火、さらに山崎周辺に火攻めを実行。〔「護国寺文書」〕
  9月22日 柴田勝家(「柴田」)、「東」の様体を見聞し(近江国の情勢か)、この朝に摂津国(「南方」)へ再度下向。
       幕府御所の「御城御留守之衆」は4、500計が配備された。〔『言継卿記』四〕
  9月22日 浅井長政(「浅井備前守長政」)、栖雲軒に対して近江国坂本合戦に於いて「越州衆」と共に織田信治(「織田九郎」)・
       森可成(「森三左衛門尉」)を始め多数の織田軍を討ち取ったこと、昨日は京都山科へ進撃し醍醐周辺に放火、山崎周辺にても
       火攻めを実行したこと、浅井長政らは近江国坂本に居陣して1両日中に京都へ入る予定であることなどを通知。
       〔「護国寺文書」〕
  9月22日 浅井長政(「長政」)、近江国「十ヶ寺」へ「内々」の沙汰を諒承し調儀及び防備促進を指示。〔「誓願寺文書」〕
  9月23日 山科言継、足利義昭(「武家」)の「御上洛」というので「御留守」の幕府御所を訪問。一臺の所で酒宴が催された。
       参席者は山科言継・飛鳥井雅教・諏方信濃守・中沢備前入道・梁田出羽守(織田信長被官)らであった。〔『言継卿記』四〕
  9月23日 山科言継、足利義昭入洛が入夜というので幕府御所を退出、その足で長橋局へ祗候しその様体を申し入れる。
       また山科言継、織田信長(「信長」)への「御使」(勅使)として派遣される命令を受ける。〔『言継卿記』四〕
  9月23日 中山孝親、禁裏「当番」に参内。〔『中山家記』〕
  9月23日 中山孝親、この晩に播磨国より足利義昭(「大樹」)が帰陣したこと、同じく織田信長(「織田弾正忠」)も陣を引いたこと
       を知る。京都は物騒になった。〔『中山家記』〕
  9月23日 足利義昭(「武家」)、亥刻に上洛。〔『言継卿記』四〕
  9月23日 織田信長(「信長」)、子刻に上洛。〔『言継卿記』四〕
  9月23日 足利義昭(「大樹」)・織田信長(「信長」)、京都に帰陣。
       吉田兼見ら幕府留守「御番之衆」、足利義昭(「武家」)に謁す。〔『兼見卿記』一〕
  9月23日 吉田兼見、入夜に織田信長(「信長」)へ祗候。織田信長(「信長」)の命令により白川口の警備を厳重にするという。
       〔『兼見卿記』一〕
  9月24日 山科言継、早旦に「禁裏御使」(勅使)として足利義昭(「武家」)へ祗候。山科言継、幕府「常御所」に於いて足利義昭に
       直接正親町天皇からの「御気をつめらるゝの処、早速之御帰陣、珍重に被思食之由」を通達。
       足利義昭の「御返事」は「上洛之御案内、今朝烏丸一品(烏丸光康)被申入了。早々御使(勅使)過分之至也。殊度々勅書忝者
       也。得其意可申入之旨也。」というものであった。〔『言継卿記』四〕
  9月24日 山科言継、織田信長(「信長」)を訪問し、直接正親町天皇からの「仰詞」を伝達。また誠仁親王(「親王御方」)・
       「御局々」らの言伝も伝達。次いで参内し、長橋局(薄好子)へ足利義昭・織田信長の「御返事」を上奏。「小御所」・
       誠仁親王(「御方御所」)へは「御乳人」を以て上奏させた。〔『言継卿記』四〕
  9月24日 織田信長(「信長」)、「敵」(浅井・朝倉連合軍)が「青山」(比叡山か)に布陣したため辰下刻に近江国坂本へ出陣。
       「堂之先」に於いて織田軍と浅井・朝倉連合軍が激突。この戦闘において「越前衆」の前波景当が戦死した。
       山科言継はこれらの「注進」を朝山日乗より通知された。〔『言継卿記』四〕
  9月24日 幕府「奉公衆」、申刻に悉く白川の一乗寺・試楽寺等へ布陣。〔『言継卿記』四〕
  9月24日 浅井・朝倉連合軍、比叡山(「青山」)に布陣。
        これに対し織田信長(「信長」)、二万余の軍勢を白川経由で志賀口・穴太口に布陣させる。〔『兼見卿記』一〕
  9月24日 この夜、近江国で「一揆発騒動」す。〔『言継卿記』四〕
  9月24日 土御門有脩(「刑部卿有脩朝臣」)、山科言継を訪問し談合。先日の「女房奉書」の礼であった。〔『言継卿記』四〕
  9月24日 山科言継、この日に「公卿補任」(順徳院)を書写し終わる。49巻の書写が完了したので「満足」す。〔『言継卿記』四〕
  9月25日 山科言継、雑談により昨日の近江国坂本に於ける合戦の様子を知る。
       織田軍が「越前衆」(朝倉軍)・「江州北郡高島衆」(浅井軍)を悉く「青山」へ追い上げ、織田信長(「信長」)は穴太・
       坂本に布陣したという。〔『言継卿記』四〕
  9月25日 葉室頼房、出京。山科言継と共に足利義昭(「武家」)へ祗候、対面す。〔『言継卿記』四〕
  9月25日 この朝、丹波国から「敵」300計の軍勢が嵯峨へ出撃したという。〔『言継卿記』四〕
  9月26日 山科言継、近江国坂本での戦況に変化の無いこと、「仰木へ被行衆」は高倉永相・一色藤長・上野中務大輔・三淵秋豪・
       明智光秀(「明智十兵衛」)・山本某ら、帰陣したことを知る。〔『言継卿記』四〕
  9月26日 山科言継、「禁中見舞」す。〔『言継卿記』四〕
  9月27日 山科言継、足利義昭(「武家」)へ見舞のため祗候。
       「従信長為使」菅屋長・猪子高就が到来した。「青山之軍勢」(浅井・朝倉氏連合軍)が「京面」へ出没する可能性があるので
       油断しないようにとのことであった。〔『言継卿記』四〕
  9月27日 山口甚介(「武家御足軽」)、子息の御礼に山科言継を訪問。〔『言継卿記』四〕
  9月28日 山科言継、橘以継を訪問。「公卿補任」を「取出」す。次いで内侍所・長橋局(薄好子)へ祗候。〔『言継卿記』四〕
  9月28日 「梶井殿北坊三位」(飯尾加賀守子息)・清水式部丞(若狭武田氏雑掌)・小者の3名が比叡山に「登山」したところ坂中に
       於いて討ち取られる。〔『言継卿記』四〕
  9月  日 織田信長(「信長」)、近江国顕証寺へ石山本願寺からの蜂起命令に応じなかった旨を賞す。〔「本願寺文書」一〕
  9月  日 織田信長、摂津国江口村船頭へ功労を賞して禁制を下す。〔『摂津名所図会』三〕
  9月  日 浅井長政(「浅井備前守」)、山城国大徳寺ならびに門前町へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「大徳寺文書」@‐84〕
  9月  日 浅井長政(「浅井長政」)、京都上京へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「京都上京文書」〕
  9月  日 浅井長政(「浅井備前守長政」)、京都妙心寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「妙心寺文書」〕
  9月  日 浅井長政(「浅井備前守長政」)、京都東山知恩院へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「知恩院文書」〕
  9月  日 浅井長政(「浅井備前守長政」)、京都清水寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「成就院文書」〕
  9月  日 浅井長政(「浅井備前守長政」)、京都離宮八幡宮へ全5ヶ条の「禁制」を下す。〔「離宮八幡宮文書」〕
  9月  日 朝倉景健(「朝倉孫三郎景健」)、京都清水寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「成就院文書」〕
  9月  日 朝倉景健(「朝倉孫三郎景健」)、京都東寺へ全5ヶ条の「禁制」を下す。〔「東寺百合文書」〕
  9月  日 朝倉景健(「朝倉孫三郎景健」)、京都東山知恩院へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「知恩院文書」〕
  9月  日 朝倉景健(「朝倉孫三郎景健」)、京都離宮八幡宮へ全5ヶ条の「禁制」を下す。〔「離宮八幡宮文書」〕
  9月  日 前波景富(「左衛門督日下部朝臣」)、京都賀茂社へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「賀茂別雷神社文書」〕
  9月  日 「丹後法印」、京都離宮八幡宮へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「離宮八幡宮文書」〕
    この月 下間頼総(「証念」)、足利義昭(「上意」)・織田信長(「信長」)へ宣戦布告す。
       その理由とは織田信長(「信長」)が石山本願寺に対して「謀叛」が「重々歴然」とし、足利義昭(「上意」)が
       織田信長(「信長」)に「御一味」して「御儀絶」したことによるものであった。〔「勧修寺文書」〕

10月
 10月 1日 山科言継、足利義昭(「武家」)へ祗候。「陣中之間」対面は無いということであったが「御新造」に参上し御礼を申した。
       烏丸光康・久我通俊・烏丸光宣・広橋兼勝らが祗候した。次いで一臺に於いて高倉永相・幕府「奉公衆」5、6人と酒宴す。
       次いで御さこの局に於いてまた幕府「奉公衆」5、6人と酒宴す。次いで大蔵卿局を訪問。近江国志賀の織田信長(「信長」)
       のもとへ赴くということであった。〔『言継卿記』四〕
 10月 1日 山科言継、三条西実枝を訪問し「公卿補任」(順徳院)を返還。次いで山科言継の書写本全49冊を披露。
       〔『言継卿記』四〕
 10月 2日 山科言継、里村紹巴(「連歌師紹巴」)へ菊1茎を贈る。「田舎衆」興行の連歌が催されていたので門外に於いて礼を申す。
       次いで土御門有脩を訪問するも「他行」であり、徳大寺公維を訪問し菊1茎を贈る。吉田兼右・中原康雄らと暫く雑談す。
       〔『言継卿記』四〕
 10月 2日 山科言継、「梶井殿北坊三位」(飯尾加賀守子息)・清水式部丞(若狭武田氏雑掌)・小者の3名が比叡山に「登山」した
       ところ坂中に於いて討ち取られたことを知る。〔『言継卿記』四〕
 10月 2日 織田信長(「信長」)、近江国陣中より河内国の遊佐信教へ徳川家康(「徳川三河守」)の着陣、丹羽長秀(「丹羽」)・
       木下秀吉(「木下」)が琵琶湖を渡り坂本に着陣したこと、徳川家康(「徳川」)に丹羽長秀・秀吉らの軍勢を加えて東福寺・
       清水寺・粟田口各所に配備する予定(但し喧伝)、淀川を「敵」(三好三人衆)が渡れば即時織田信長(「信長」)が攻撃を
       加える旨を通達。〔保阪潤治氏所蔵文書『筆陳』二〕
 10月 2日 木下秀吉ら、近江国横山より坂本へ着陣す。
 10月 3日 山科言継、朝山日乗が近江国坂本より上洛したことを知る。〔『言継卿記』四〕
 10月 3日 この日の亥刻、高野の蓮養坊と田中の渡辺某が「忍入」り山上(比叡山)西塔西谷六坊に放火。〔『言継卿記』四〕
 10月 4日 山科言継、「禁中」に近所6町の町人が「御警固小屋」を建てたので「廻覧」す。次いで内侍所へ立ち寄る。
       山科言継、足利義昭(「武家」)へ「徳政」を要求した「西岡一揆」の発生を知る。〔『言継卿記』四〕
 10月 4日 山科言経(「武衛」)、誠仁親王(「御方御所」)の「御番」に祗候。〔『言継卿記』四〕
 10月 4日 山城国西岡に於いて土一揆が蜂起する。
 10月 4日 この夜の丑刻、また山上(比叡山)で放火があった。〔『言継卿記』四〕
 10月 4日 前波景富(「前波藤右衛門尉景富」)、京都賀茂社へ山城国内の社領および境内への「制札」を調進す。
       〔「賀茂別雷神社文書」〕
 10月 5日 朝山日乗、この朝に近江国坂本へ下向。〔『言継卿記』四〕
 10月 5日 山科言継、陽春院(近衛尚通女:足利義輝・義昭母)より「禁中」の警固「小屋」について意見を受け、長橋局(薄好子)へ
       祗候。禁中御近所の6町以外は「御停止」ということであった。再三にわたり不許可の旨を通達しているがやむを得ないと
       山科言継は評す。その後、大典侍殿(万里小路賢房女)・台所を訪問し、次いで陽春院(近衛尚通女:足利義輝・義昭母)を
       訪問し禁中警固小屋について様体を報告。〔『言継卿記』四〕
 10月 5日 山科言継、足利義昭(「武家」)へ「御亥子」のため祗候。幕府「御供衆」7名、幕府「御部屋衆」6名ばかりであった。
       祗候した「公家」は山科言継・飛鳥井雅教(「伝奏」)・高倉永相・飛鳥井雅敦・烏丸光宣・日野輝資・広橋兼勝・高倉永孝ら
       8名であった。幕府「新造」に於いて御祝いが行われた。〔『言継卿記』四〕
 10月 5日 山科言経(「武衛」)、「禁裏御祝」に祗候。〔『言継卿記』四〕
 10月 5日 この夜の丑下刻、また山上(比叡山)で放火があった。〔『言継卿記』四〕
 10月 6日 織田信長(「信長」)、青地千世寿へ戦死した青地茂綱(「駿河守」)の忠節に対し領知方・与力・家来を安堵。
       〔「青地文書」〕
 10月 7日 下京の「金屋蔵」が「一揆」の襲撃を受けて多数の死傷者が出た。〔『言継卿記』四〕
 10月 8日 朝倉義景(「義景」)、三反崎八郎左衛門へ去9月20日の近江国志賀郡下坂本に於ける合戦の際の敵首級1つを討ち取った
       戦功を賞す。〔「武蔵三反崎文書」〕
 10月 9日 山科言経(「武衛」)、誠仁親王(「御方御所」)の「御番」に祗候。〔『言継卿記』四〕
 10月10日 山科言継、足利義昭(「武家」)へ祗候するも特に変わった事柄はなかった。〔『言継卿記』四〕
 10月11日 「西岡方々一揆」、2、3千人程で北白川まで進み「鯨浪」を揚げる。〔『言継卿記』四〕
 10月13日 朝山日乗、近江国志賀郡より上洛。〔『言継卿記』四〕
 10月13日 三好政勝(「任斎」「為三」:織田方)、「聞咲」へ全5ヶ条にわたり摂津国大坂方面の戦況を報告。〔「福地所蔵文書」〕
 10月14日 山科言継、大典侍殿(万里小路賢房女)・長橋局(薄好子)・内侍所へ祗候、昨夕に朝山日乗が近江国志賀より上洛したこと
       を知る。〔『言継卿記』四〕
 10月15日 織田信長(「信長」)、伊丹親興(「伊丹兵庫助」)へ「阿州之者共」(三好三人衆・篠原長房)を撃破し敵首の「京都」
       送付は「外聞実儀」然るべきことと賞す。〔「伊藤孝太郎氏所蔵文書」〕
 10月15日 田井和泉守(細川藤賢馬廻)、八瀬に於いて高野蓮養坊を捕獲する。
       摂津国福島から「青山」(比叡山)への「書状」(密書か)数十通を携帯しており、飯尾昭連(「飯尾右馬助」)が預かり
       「開闔」したという。〔『言継卿記』四〕
 10月15日 朝倉義景(「義景」)、和田源内左衛門尉へ去9月20日の近江国坂本合戦の際の戦功を賞す。〔「和田文書」〕
 10月17日 先頃戦死した森可成(「森三左衛門」)の「内者」が負傷した際の薬の礼として山科言継を訪問。「鈴」(酒)を持参。
       〔『言継卿記』四〕
 10月17日 山科言経(「武衛」)、晩頭に「禁裏御祝」のため参内。〔『言継卿記』四〕
 10月17日 山科言継、三条公仲を同行し足利義昭(「武家」)へ祗候。
       「御厳重に被参之輩公家」は山科言継・「伝奏」の飛鳥井雅教・高倉永相・飛鳥井雅敦・日野輝資・広橋兼勝・三条公仲・
       高倉永孝らであった。「御供衆」では大館左衛門佐・「申次」の大館伊与守・伊勢三郎・伊勢与十郎・武田刑部大輔、
       「御部屋衆」では朽木弥十郎・一色三郎ばかりであった。〔『言継卿記』四〕
 10月17日 武井夕庵(「夕庵尓云」)、山城国大住荘3村名主・百姓中へ大住荘の件で曇華院殿(聖秀女王:正親町天皇妹)と
       一色藤長(「一色式部少輔」)が争論した件で、織田信長(「信長」)が一色藤長(「少輔殿」)を詰問したけれども足利義昭
       「御下知」と織田信長「朱印」に違反することは無く、一色藤長(「少輔殿」)の弁解を了承し「寺納」のことを指示した
       ところ、俄かに「御下国」したため延引したこと、至急決着を付けるため、それまで大住荘の入組地と年貢を保管することを
       通達。〔「曇華院文書」〕
 10月19日 山科言継、細川藤孝(「細川兵部大輔」)の「源氏匂宮巻」の書写を終了を知る。〔『言継卿記』四〕
 10月19日 この日、京都東山周辺で「一揆」が「鯨浪」を揚げた。〔『言継卿記』四〕
 10月20日 木下秀吉(「木下藤吉郎」)、近江国顕証寺へ疎意無き旨の織田信長「朱印」を送付し、織田信長へ取り次ぐ旨を通達。
       〔「本願寺文書」一〕
 10月20日 この日の巳刻、「青山」(比叡山)より「越前・北郡等衆」(朝倉・浅井連合軍)が下山し一乗寺・試楽寺・高野・松之崎
       などに放火して廻る。幕府「奉公衆」、勝軍城を攻略。〔『言継卿記』四〕
 10月20日 浅井長政ら、修学院・一乗寺周辺に放火する。
 10月21日 和田惟政(「和伊惟政」)、「三和院」へ織田信長(「信長」)および「京都御衆」が一揆勢の籠もる御牧砦および
       摂津国中島周辺に軍事行動を起こすという作戦の内容を通知。〔『細川家記』〕
 10月21日 細川藤孝(「幽斎様」)・和田惟政(「和田伊賀守惟政」)・一色藤長(「一色式部少輔藤長」)が申し合わせ、この日の
       暮れに摂津国御牧砦に籠城している一揆勢を攻撃するため進軍する。〔『松井家譜』〕
 10月21日 細川藤孝・和田惟政・一色藤長、この夜に渡河し摂津国御牧砦周辺に布陣。〔『松井家譜』〕
 10月22日 正親町天皇(「禁裏」)、大典侍殿御局(万里小路賢房女)へ方違のため「別殿行幸」す。〔『言継卿記』四〕
 10月22日 山科言継、大胡武蔵守の来訪を受け、先日宇治まで出陣していた幕府「奉公衆」が昨日帰陣したこと、「敵」の三牧城を攻略
       したこと、この朝幕府「奉公衆」・「尾張衆」(織田軍)・木下秀吉(「木下藤吉郎」)が山城国へ出陣したことを知る。
       〔『言継卿記』四〕
 10月22日 山科言継、見舞のため足利義昭(「武家」)へ祗候し「河州説」以下を雑談。
       摂津国大坂の高屋城攻略、摂津国内郡烏帽子形城が三好三人衆(「三人衆」)の攻撃にさらされたが畠山高政(「畠山尾州」)
       が迎撃し180人ばかりを討ち取ったこと、また若狭国の武田五郎・武藤某・粟屋右京亮らが「敵」になり「がらがら城」を
       攻略したことなどを知る。〔『言継卿記』四〕
 10月22日 細川藤孝、島津義久へ喜入季久の派遣と太刀・馬・黄金の献上を賞し、足利義昭「御内書」と「則重」の太刀を拝領した旨を
       通知。〔「旧記雑録後編」@‐570〕
 10月22日 この暁天に細川軍・和田軍、摂津国御牧砦外構を突破し一揆勢と交戦状態となる。
       膠着状態となるも松井康之(「松井康之」)が一番鑓の戦功を挙げ、一揆勢を敗軍させる。〔『松井家譜』〕
 10月22日 細川藤孝(「細兵藤孝」)、「三和院」・曽我助乗(「曽兵」)へ今朝未明に渡河し、和田惟政(「和田」)と相談し
       一揆勢の御牧砦に攻撃を仕掛け、細川軍の兵卒が「一番鑓」となり敵首級3つを上げたこと、およびその取り成しを依頼。
       〔『細川家記』〕
 10月23日 木下秀吉(「木下藤吉郎」)、晩に及び浅井・朝倉連合軍と交戦。〔『言継卿記』四〕
 10月24日 山科言継、昨晩より木下秀吉(「木下藤吉郎」)が浅井・朝倉連合軍と「開陣」し敵首26を持参、下津屋・三牧以下3人を
       「降参」させたことを知る。木下秀吉は今朝近江国志賀へ出向いたという。〔『言継卿記』四〕
 10月25日 丹羽長秀(「丹羽五郎左衛門尉」)、山城国外畑村名主・百姓中へ外畑村全てを長塩某が愛宕権現尾崎坊へ寄進し、
       「公方御下知」(足利義昭の通達)に任せ「信長折紙」(織田信長の添状)の通りに年貢・諸公事物の上納を命令。
       〔「愛宕山尾崎坊文書」〕
 10月27日 山科言経(「武衛」)、禁裏「御番」に祗候。〔『言継卿記』四〕
 10月29日 山科言経(「武衛」)、誠仁親王(「御方御所」)の「御番」に祗候。〔『言継卿記』四〕
 10月29日 山科言継、飛鳥井雅敦へ山科言継・葉室頼房・山科言経(「武衛」)の3人がこの夜の足利義昭(「武家」)への祗候を
       しない旨の伝達を依頼。〔『言継卿記』四〕
 10月30日 山科言継、飛鳥井雅敦へ前日の足利義昭よりの「御厳重」取のため使者を派遣。3人分(山科言継・葉室頼房・山科言経)が
       到来した。〔『言継卿記』四〕

11月
 11月 1日 山科言継、足利義昭(「武家」)へ「参賀」す。
       参賀した「公家」は山科言継・飛鳥井雅教・高倉永相・飛鳥井雅敦・日野輝資らばかりであった。
       幕府「御供衆」・幕府「御部屋衆」が10人ばかり祗候したが「御礼不被申」というので後に「以外無興」であった。
       大館伊与守より「自来月節朔に不参之輩可有御成敗」の旨が通達される。〔『言継卿記』四〕
 11月 1日 吉田兼見、幕府御所普請の人足を提出。〔『兼見卿記』一〕
 11月 1日 織田信長(「信長」)、氏家直元(「氏家常陸介」)へ来る11月6日の織田信長の軍事行動に参加する旨を賞す。
       また近江国坂本への出陣に関しては追って指示することなど、詳細は菅屋長頼(「菅屋九右衛門尉」)より伝達させる。
       〔「池田文書」二〕
 11月 2日 朝倉義景(「義景」)、京都離宮八幡宮大山崎へ出陣に際しての贈物を謝し、「旧例」に任せて朝倉軍の境内介入を停止する
       旨を安堵。しょうさいはを鳥居兵庫助に伝達させる。〔「離宮八幡宮文書」〕
 11月 3日 山科言継、大胡武蔵守の使者より近所への「宿替」の報告を受ける。〔『言継卿記』四〕
 11月 3日 吉田兼見、近江国志賀表に在陣中の氏家直元(「氏家常陸守」)へ糠・藁を贈る。〔『兼見卿記』一〕
 11月 3日 吉田兼見、幕府御所普請(「大樹御普請」)の人足を提出。〔『兼見卿記』一〕
 11月 4日 山科言経(「武衛」)、誠仁親王(「御方御所」)の「御番」に「参」る。〔『言継卿記』四〕
 11月 4日 吉田兼見、島田秀満(「島田方」)へ縄・釘・肴を贈る。〔『兼見卿記』一〕
 11月 5日 「青山」(比叡山)より「越前衆」(浅井・朝倉連合軍)が「打落」という風聞により、稲葉一鉄(「因幡之伊予守」)・
       木下秀吉(「木下藤吉郎」)が近江国志賀より上洛。〔『言継卿記』四〕
 11月 9日 山科言継、近江国志賀城の織田信長(「織田弾正忠」)を見舞うため日の出以前に発足、山科より小関越を経由した。
       山科言継、巳下刻に近江国志賀城に到着したが、織田信長(「信長」)は勝軍城へ移動し留守であった。
       山科言継、朝山日乗・武井夕庵・松井友閑らの「小屋」(宿所)を訪問。織田信長「馬廻」の伊藤神六の「小屋」(宿所)で
       思いも寄らず酒を振る舞われた。山科言継は武井夕庵宿所で、「召具之者共」は朝山日乗宿所で晩食をとる予定とした。
       次いで武井夕庵の使者より織田信長(「霜台」)が帰城したというので山科言継、志賀城に登城。菅屋長頼(「菅屋長」)の
       応対で、最初に晩食を振る舞われた。次いで山科言継、織田信長に「見参」し「音信祝着之由」を懇ろに伝えられた。
       山科言継、月下に帰京、亥刻に帰宅。〔『言継卿記』四〕
 11月 9日 山科言経(「武衛」)、誠仁親王(「御方御所」)の「御番」に祗候。〔『言継卿記』四〕
 11月10日 山科言継、大典侍殿(万里小路賢房女)・長橋局(薄好子)・内侍所らへ祗候。
       次いで「東」(近江国)へ幕府軍(「公方之御人数」)が出撃するのを見物。「御無人」である幕府御所へ参り、暫く見物す。
       幕府軍の面々が帰還したので様体を尋ねると「無殊事」で、近江国上坂本に「野伏」の動向が見られたということであった。
       高倉永相・飛鳥井雅敦以下が祗候した。公家衆は足利義昭の「還御」を幕府御所の「御門」で出迎えて各自退出した。
       〔『言継卿記』四〕
 11月10日 山科言経(「武衛」)、「外様之番」に祗候。〔『言継卿記』四〕
 11月11日 土一揆、徳政を要求し石清水八幡宮に籠もる。土蔵方の軍勢の攻撃により、境内は流血で穢れる。
       吉田兼見は竹内長治(「竹内兵衛佐」)の内々の報告で清祓をすることを談義。〔『兼見卿記』一〕
 11月12日 山科言継、朝廷より岡殿(大慈光院・覚音女王)が参内するというので召喚を受ける。
       山科言継が参内すると織田信長(「霜台」)への「勅使」として下向するよう命令を受けるが「故障申」して拒否する。
       〔『言継卿記』四〕
 11月13日 足利義昭、三淵藤英(「三淵大和守」)へ斎場所内外両宮の修理を命令。〔『兼見卿記』一〕
 11月13日 織田信長(「信長」)、尾張国聖徳寺へ石山本願寺の一揆蜂起に応じないことを確認し、近江国に於ける戦況は近日中に勝利
       するので帰国する旨、石山本願寺「門下」の者は男女に寄らず徹底して処断すること、聖徳寺の「働」は「神妙」であったため
       存続を承認する旨を通達。〔「聖徳寺文書」〕
 11月13日 明智光秀(明智十兵衛)、吉田兼見邸を訪問し石風呂を所望。明智光秀(「明十」)は勝軍城に在城しているという。
       〔『兼見卿記』一〕
 11月14日 吉田兼見、足利義昭より石清水八幡宮の清祓を命令される。〔『兼見卿記』一〕
 11月15日 吉田兼見、足利義昭(「大樹」)の桜馬場での調馬に祗候。〔『兼見卿記』一〕
 11月16日 山科言継、冷泉児の「代替」挨拶に動向し長橋局(薄好子)・万里小路邸・足利義昭(「武家」)を訪問。
       〔『言継卿記』四〕
 11月16日 足利義昭、吉田兼見へ用途80石を以って石清水八幡宮の清祓参勤を命令。〔『兼見卿記』一〕
 11月16日 吉田兼見、平井某・三淵藤英(「三大」)を夕食に招待。〔『兼見卿記』一〕
 11月19日 山科言経(「武衛」)、誠仁親王(「親王御方」)の「御番」に祗候。〔『言継卿記』四〕
 11月20日 山科言継、竹内長治(「竹内左兵衛佐」)より書状を受ける。
       その内容は「徳政」の件で、石清水八幡宮(「八幡宮」)に「一揆」が「閉籠」したため「錆灯明」ということであった。
       この件で「燈継之記録」及び「勅使」のことで問い合わせがあったので存分に返答した。〔『言継卿記』四〕
 11月20日 勝軍城在城の津田左近允、吉田兼右(「家君御方」)と共に織田信長からの使者として吉田兼見を訪問。〔『兼見卿記』一〕
 11月21日 山科言継、この日六角義賢(「江州六角」)と織田信長(「織田弾正忠」)が和睦した旨を知る。六角被官の三雲某・三上某
       が「起請」を受け取るために近江国志賀まで出向いたという。〔『言継卿記』四〕
 11月21日 吉田兼右(「家君」)、織田信長を勝軍城に訪問。その夜は明智光秀(「明智」)陣所に宿泊。〔『兼見卿記』一〕
 11月21日 織田信長、六角義賢(承禎)・六角義治父子と和約する。
 11月22日 吉田兼見、織田信長(「信長」)が六角義賢・六角義治父子(「承禎父子」)と和睦した旨を知る。
       六角被官の三雲某・三上蔵人が織田信長(「信長」)へ「一礼申」したという。〔『兼見卿記』一〕
 11月23日 吉田兼見、明智光秀(「明智」)の所望により石風呂を焼く。〔『兼見卿記』一〕
 11月24日 山科言経(「武衛」)、誠仁親王(「親王御方」)の「御番」に祗候。〔『言継卿記』四〕
 11月24日 織田信長(「信長」)、丹波国の波多野右衛門大夫へ太刀・馬の贈物を謝す。〔「名古屋市博物館所蔵文書」〕
 11月24日 織田信長(「信長」)、若狭国の本郷信富(「本郷治部少輔」)へ若狭国守護の武田義統・武田孫犬丸父子が対立し、一族の
       武田元実・武藤友益・粟屋小次郎らが越前朝倉氏に味方して織田側を攻撃するという状況を矢部家定(「善七郎」)に報告した
       ことを賞し、本郷信富の守備する砦が堅固であることを喜び、入江・中村・粟屋小次郎らの変心が無いことについて安心した
       こと、近日中の出御馬予定を知らせ、詳細は矢部家定(「善七郎」)に伝達させる。〔「本郷文書」七〕
 11月24日 六角義賢(「六角入道承禎」)、この日近江国志賀に在陣中の織田信長(「織田」)へ「礼」を申し和睦締結が成る。
       〔『言継卿記』四〕
 11月24日 吉田兼見、幕府普請(「武家御所御普請」)に祗候。〔『兼見卿記』一〕
 11月25日 木下秀吉(「木下藤吉郎」)、山城国賀茂郷の銭主方・惣中へ徳政を無効にするという織田信長「朱印」状を通達。
       〔「賀茂別雷神社文書」三〕
 11月26日 吉田兼見、織田信長(「信長」)を陣中見舞いに赴くが、途中で陣替の報に接して引き返す。〔『兼見卿記』一〕
 11月26日 塙直政(「塙九郎左衛門尉」)の出京に際し、吉田兼見の訪問を受ける。勝軍城在城衆は山城国愛宕郡大原へ移動。
       坂井政尚(「坂井右近」)は近江国滋賀郡堅田に移動。〔『兼見卿記』一〕
 11月26日 この日、近江国堅田に於いて織田軍と朝倉軍が激突。〔『言継卿記』四〕
 11月26日 坂井政尚(「坂井右近尉」)、近江国堅田に於ける浅井・朝倉連合軍との戦闘で戦死。〔『言継卿記』四〕
 11月27日 山科言継、昨日の近江国堅田に於ける合戦の様子を知る。
       織田軍では坂井政尚(「坂井右近」)・氏家直元舎弟ら500ばかりの戦死者を出し、「越州衆」(朝倉軍)では800ばかり
       の戦死者が出たという。〔『言継卿記』四〕
 11月27日 山科言継、朝山日乗の木屋を訪問し昨日の近江国堅田の「軍」の様子を尋ねる。〔『言継卿記』四〕
 11月27日 吉田兼見、織田信長を見舞うため近江国志賀に赴く。
       途中、近江国滋賀郡堅田に移動した坂井政尚(「坂井右近」)・氏家直元舎弟・安藤守就二男らが朝倉軍の攻撃で全滅した報に
       接す。吉田兼見、下泉に到着して織田信長を見舞う。〔『兼見卿記』一〕
 11月27日 朽木元綱(「朽木弥五郎」)より吉田兼右(「家君御方」)へ在所大宮十禅師の祟りについて問い合わせの書状が到来。
       吉田兼右は留守中であり、吉田兼見が披見、吉田兼右の帰宅後に神役に無沙汰が無ければ祟りは無いということであった。
       〔『兼見卿記』一〕
 11月28日 山科言継、この日巳刻に足利義昭(「武家」)が近江国志賀へ「御成」する旨を知る。
       山科言継はこれを「和睦御調之儀」での出座と推測。〔『言継卿記』四〕
 11月28日 山科言継、伊藤彦兵衛(「信長馬廻」)より「人参」・「丁香散」を所望され送付。〔『言継卿記』四〕
 11月29日 山科言経(「武衛」)、誠仁親王(「御方御所」)の「御番」に祗候。〔『言継卿記』四〕
 11月29日 織田信長(「信長」)、馬場喜讃へ徳政を免除す。〔滋賀県順慶寺所蔵『良将筆材』〕
 11月  日 織田信長(「信長」)、京都紫野大徳寺へ「徳政」を免除す。〔「大徳寺文書」@‐85〕
 11月  日 織田信長、山城国賀茂郷銭主方・社人・惣中へ徳政を無効にする旨を通達。〔「賀茂別雷神社文書」三〕

12月
 12月 1日 山科言継、足利義昭(「武家」)へ祗候。
       「御留守」は聖護院道増法親王・大覚寺尊信法親王であった。
       その他に細川藤賢(「細川右馬頭」)・摂津晴門(「摂津守」)・木下秀吉(「木下藤吉郎」)らが祗候していた。
       施薬院全宗(「徳雲」)と木下秀吉(「藤吉郎」)が碁を打っていた。〔『言継卿記』四〕
 12月 2日 織田信長(「信長」)、永田景弘(「永田刑部少輔」)へ近江国岡山表に於ける九里氏を攻撃し敵首2を送付してきたこと、
       砦の構築などを賞す。詳細は中川重政(「八郎右衛門」)に伝達させる。〔「永田文書」〕
 12月 3日 松尾相光(松尾神社社務)、山科言継を先日の薬の礼のために来訪。次いで木下秀吉(「木下藤吉郎」)宿所に赴くという。
       〔『言継卿記』四〕
 12月 3日 吉田兼見、吉田神社斎場所両宮の屋根を蘆葺にするため近江国より職人を呼びつける。蘆については命令を受けていた
       三淵藤英(「三太」)が到来。〔『兼見卿記』一〕
 12月 4日 山科言継、先日の「一揆」4、500人程が籠もり荒廃したと思われる太秦へ見舞のために出向く。
       「一揆之儀」は菅屋長頼(「菅屋長」)・木下秀吉(「木下藤吉郎」)が「無事」に収拾したとのことであった。
       山科言継、この日太秦に宿泊。〔『言継卿記』四〕
 12月 4日 伊藤彦兵衛(織田信長馬廻)、暮れに山科言継を礼問。山科言継は「他行」により対顔できず「無念之至」と悔やむ。
       〔『言継卿記』四〕
 12月 5日 山科言継、岡殿(大慈光院・覚音女王)より召喚を受けて祗候。木下秀吉(「木下藤吉郎」)へ伝達したい旨があるというの
       だが「故障」を申して辞退した。〔『言継卿記』四〕
 12月 5日 吉田兼見、朽木元綱(「朽木」)より依頼された両社への鎮札大麻を遣わす。〔『兼見卿記』一〕
 12月 6日 正親町天皇、大典侍殿局(「大すけ」:万里小路賢房女)へ方違行幸(「へちてん」)す。〔『御湯殿上日記』〕
 12月 6日 中山孝親、正親町天皇が大典侍殿局への「行幸別殿」への祗候せず。〔『中山家記』〕
 12月 6日 山科言継、正親町天皇の大典侍殿(万里小路賢房女)への「別殿行幸」に祗候。〔『言継卿記』四〕
 12月 7日 この日、一条町周辺より出火し大火事となる。
       「禁中」小御所・台所・車寄をはじめ、勧修寺・大祥寺殿・伏見殿・三条西・四辻・万里小路・知恩院など方々所々が焼失。
       〔『言継卿記』四〕
 12月 8日 木下秀吉(「木下藤吉郎」)、山科町衆・一条町衆を召集し昨日の「火出物之事糺明」を行う。
       一条町僧善周と一条町月行事の2名が「伐首」され焼跡に3日間梟首される。〔『言継卿記』四〕
 12月 9日 正親町天皇、「山門衆徒中」(延暦寺僧兵)に対して今度の朝倉義景(「義景」)と織田信長(「信長」)との戦闘は
       「公武籌策」(朝廷・幕府の調停)に任せて「和与」に及んだことに触れ、山門領の変動の無い旨を通達。
       〔『伏見宮御記録』利七十三 所収「元亀元年山門へ綸旨并信長状」〕
 12月10日 山科言継、「志賀之儀」(織田軍と浅井・朝倉連合軍の戦闘)が「無事」に調停されたことを知る。
       「山門」(比叡山延暦寺)へ正親町天皇の「綸旨」が下されたからだという。〔『言継卿記』四〕
 12月11日 吉田兼見、蓮光院からの田地訴訟を磯谷久次へ注進。木下秀吉(「木下藤吉郎」)の使者が弁明に到来。〔『兼見卿記』一〕
 12月11日 明智光秀(「明智十兵衛尉光秀」)、京都賀茂郷へ「軍役之請状」の未提出か紛失に際し、これ以後に新たに発見されても
       それを「反古」とすることと「両人」(室町幕府奉行人か?)の携えた足利義昭「御下知之写」を送付するが「疑心」無き様に
       することを通知。〔「沢房吉氏所蔵文書」〕
 12月12日 山科言継、前日より太秦真珠院に逗留。真珠院法印は木下秀吉(「木下藤吉郎」)へ所用のため赴く。暮れに及び帰寺した。
       〔『言継卿記』四〕
 12月12日 織田信長、一色藤長(「一色式部少輔」)・曽我助乗(「曽我兵庫助」)へ比叡山延暦寺(「山門」)の件は今回不問に付す
       よう足利義昭より種々書付て仰せ出された旨を承知し、以後は足利義昭(「公儀」)に対して疎略な態度をとらないことに
       ついては織田信長(「信長」)は異論が無い旨の披露を依頼する。
       〔『伏見宮御記録』利七十三 所収「元亀元年山門へ綸旨并信長状」〕
 12月13日 朝倉義景、織田信長(「織田弾正忠」)へ全3ヶ条の「霊社起請文」を提出す。〔『尋憲記』〕
 12月13日 上杉輝虎、「謙信」となる。〔「上杉家文書」〕
 12月14日 山科言継、この朝早々に織田信長(「織田弾正忠信長」)が近江国永原城へ引き上げたことを知る。「陣払」のため小屋など
       は悉く放火されたという。〔『言継卿記』四〕
 12月14日 織田信長、美濃国岐阜へ帰還。
 12月15日 山科言継、近江国志賀表での戦闘終結についての情報に接す。
       この朝に朝倉義景(「朝倉左衛門督」)は越前国へ帰陣。朝倉義景は織田信長(「信長」)への「人替」として青木某・魚住某
       を提出。織田信長(「信長」)から朝倉義景への「人替」として氏家直元子息・柴田勝家子息が送られたという。
       〔『言継卿記』四〕
 12月15日 山科言継、この日に足利義昭(「武家」)が近江国志賀より「御上洛」したことを知る。〔『言継卿記』四〕
 12月15日 織田信長、山岡景佐(「山岡対馬守」)へ「本知」及び「新知」を扶助。〔「記録御用所本」〕
 12月15日 朝倉義景、山門三院執行代へ織田信長との「一和」について、正親町天皇「勅命」と足利義昭「上意」により比叡山延暦寺の
       件は天文16年6月の佐々木定頼の時代の寺務の如くとするように正親町天皇「綸旨」・足利義昭「御内書」が下され、
       「信長誓紙」を以て定めたように今後「山門」には疎略は無いことを通達。
       〔『伏見宮御記録』利七十三 所収「元亀元年山門へ綸旨并信長状」〕
 12月15日 朝倉義景・浅井長政、各自帰国す。
 12月16日 吉田兼見、足利義昭より石清水八幡宮清祓の命令を受ける。〔『兼見卿記』一〕
 12月17日 山科言継、吉田兼見(「吉田侍従」)の来訪を受ける。この月末に石清水八幡宮の「清御祓」に参向するということで
       あった。「束帯之具」の件で談合す。〔『言継卿記』四〕
 12月18日 山科言継、「梨門」(應胤法親王)へ祗候。暫く「叡山」以下の件を雑談す。〔『言継卿記』四〕
 12月18日 三淵藤英(「三淵大和守」)、山城国醍醐寺へ寺法として徳政は無効であることについて、「信長朱印」が進上される旨を
       通達。〔「三宝院文書」五十六〕
 12月18日 吉田兼見、禁裏より「天変御祈」を命じられる。〔『兼見卿記』一〕
 12月21日 山科言継、晩頭に大典侍殿(万里小路賢房女)へ祗候。
       「二台」の件で土御門有脩が上洛した際に諮問するようにとの命令を受けた。「来年御作事」と「金神」の関係について
       であった。〔『言継卿記』四〕
 12月23日 吉田兼見、足利義昭(「武家御所」)へ石清水八幡宮清祓当日の社頭警固を申請。〔『兼見卿記』一〕
 12月24日 山科言継、上洛した土御門有脩の旅宿を訪問。
       大典侍殿(万里小路賢房女)からの「二台御作事」及び「別殿行幸」の件を諮問。
       次いで山科言継、徳大寺公維・一条内基・日野輝資・半井驢庵らに歳末の挨拶回りをする。
       その後、大典侍殿(万里小路賢房女)へ祗候。〔『言継卿記』四〕
 12月24日 山科言継、吉田兼見に約束していた「具」を貸す。〔『言継卿記』四〕
 12月25日 山科言継、長橋局(薄好子)へ祗候。徳大寺公維家中「物川」某の「叙爵」・「受領」の披露があった。
       また山科言継へ足利義昭(「武家」)への「御使」(勅使)が申し付けられたが「故障」を申して辞退。〔『言継卿記』四〕
 12月25日 山科言継、誠仁親王(「御方御所」)へ祗候。〔『言継卿記』四〕
 12月25日 山科言継、大典侍殿(万里小路賢房女)へ祗候し「方角」等の件で土御門有脩との諮問した事項を申し入れる。
       〔『言継卿記』四〕
 12月25日 山科言継、先日「一揆」が消してしまった石清水八幡宮の「定灯」のために内侍所の「御灯之火」を分けることになったこと
       を知る。〔『言継卿記』四〕
 12月26日 山科言継、吉田兼見(「吉田侍従」)からの迎えの「荷輿」を受ける。〔『言継卿記』四〕
 12月26日 山科言継、吉田兼右(「右兵衛督」)の隠居所を訪問。〔『言継卿記』四〕
 12月27日 吉田兼見(「吉田侍従兼和朝臣」)、辰刻に吉田邸を出発。戌刻から石清水八幡宮で「浄祓」を行う。〔『言継卿記』四〕
 12月27日 吉田兼見、石清水八幡宮において清祓を挙行。〔『兼見卿記』一〕
 12月27日 山科言継、午時に帰宅の途につく。〔『言継卿記』四〕
 12月27日 木下秀吉、京都警護のため蜂須賀正勝(近江国横山城守将)へ、山門衆徒・一向一揆の乱暴によって段銭徴収などが侵害
       されぬよう適宜対策を構ずるよう命令。〔「徳川公爵家旧蔵文書」〕
 12月28日 山科言継、長橋局(薄好子)へ祗候。徳大寺公維家中の「物川」の「叙爵」・「受領」の催促を申し入れる。
       〔『言継卿記』四〕
 12月28日 山科言継、御所「御懸」へ祗候。岡殿(大慈光院・覚音女王)を以て大典侍殿(万里小路賢房女)への「別殿行幸」の件を
       尋ねる。談合が持たれ存分に申し入れた。更に土御門有脩へ諮問するよう指示が下されたが、土御門有脩は今朝早旦に「下国」
       したという。〔『言継卿記』四〕
 12月28日 吉田兼見、石清水八幡宮での清祓を終え、帰洛し足利義昭(「武家御所」)に謁す。〔『兼見卿記』一〕
 12月29日 正親町天皇、徳大寺実満(「徳大寺少将実満」)へ「四品」を「勅許」す。〔『言継卿記』四〕
 12月29日 山科言継、大典侍殿(万里小路賢房女)へ祗候。次いで長橋局(薄好子)へ祗候。土御門有脩の下国の件、「別殿行幸」の
       方角の件を申し入れる。〔『言継卿記』四〕
 12月29日 山科言継、足利義昭(「武家」)へ「御歳末」のため祗候。対面は無かった。〔『言継卿記』四〕
 12月29日 吉田兼見(「吉田侍従」)、山科言継へ借用した「具」5種を返還。また「壇引」の布1端を贈る。〔『言継卿記』四〕
 12月  日 織田信長(「弾正忠」)、山城国本能寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「本能寺文書」二〕


    この年 稲葉道通、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
        諏訪頼水、誕生(異説1571年12月23日)。〔『日本史人物生没年表』〕


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