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        【 天下統一期年譜 1598年 】


慶長3(1598)年

 1月
  1月 8日 池田秀雄、山中長俊からの書状に応え戦地での状況を報告、孝蔵主からの消息をうけ返事をする旨の伝達を依頼。
       また山中長俊の病状本復を労い自身の病状、長宗我部元親なども同様に尽力している旨を通知。
       〔「山中橘内長俊文書」‐931〕
  1月 8日 出羽国の浅利頼平、摂津国大坂に於いて逝去す。〔「佐藤文書」〕
  1月17日 羽柴秀吉、吉川広家へ蔚山への大明軍退却につき毛利輝元・増田長盛らの出陣を中止させ、防御態勢を整備した後に各々帰朝
       すべきを命令。詳細を前田玄以・増田長盛・長束正家に伝達させる。また綾小袖・染道服を送付、詳細は寺沢広高に伝達させる。
       〔「吉川家文書」@‐782〕
  1月17日 羽柴秀吉、島津義弘へ蔚山への大明軍退却につき毛利輝元・増田長盛らの出陣を中止させ、防御態勢を整備した後に各々帰朝
       すべきを命令、詳細を増田長盛・前田玄以・長束正家に伝達させる。また綾小袖・染道服を送付、詳細は寺沢広高に伝達させる。
       〔「島津家文書」@‐420〕
  1月17日 羽柴秀吉、島津家久へ蔚山への大明軍退却につき毛利輝元・増田長盛らの出陣を中止させ、防御態勢を整備した後に各々帰朝
       すべきを命令。詳細を前田玄以・増田長盛・長束正家に伝達させる。また小袖・道服を送付、詳細は寺沢広高に伝達させる。
       〔「島津家文書」@‐421〕
  1月17日 羽柴秀吉、鍋島直茂・鍋島勝茂へ蔚山への大明軍退却につき毛利輝元・増田長盛らの出陣を中止させ、防御態勢を整備した後
       に各々帰朝すべきを命令。詳細を前田玄以・増田長盛・長束正家に伝達させる。
       また小袖・道服を送付し詳細は寺沢広高に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐125〕
  1月21日 羽柴秀吉、徳川家康へ殻蠣の贈物の礼を述べ再会を約束。詳細は滝川雄利に伝達させる。〔「森川文書」〕
  1月22日 羽柴秀吉、鍋島直茂・鍋島勝茂・黒田長政・毛利吉成・毛利吉政・伊東祐兵・秋月種実・島津豊久・高橋元種・相良長毎へ
       出征先での指示を下す。兵粮・軍勢不足の現状を指摘しながら蔚山表での勝利を賞す。
       慶州への追撃の際に鍋島直茂・黒田長政の居城が手薄になるので追撃中止したことに触れ、詳細の言上無用を通知。
       加藤清正は蔚山城、毛利吉成は西生浦城、寺沢広高は釜山浦城に在番し、毛利輝元軍の1500人と小早川秀秋軍の500人を
       加勢とすること、帰朝する者共は帰還の様子を報告するよう命令。戦地諸城の普請・軍需物資の管理、油断無き在番を命令。
       〔「鍋島家文書」‐126〕
  1月25日 羽柴秀吉、安国寺恵瓊(「安国寺」)からの報告を受けて宍戸元次(「宍戸備前守」)ほか毛利家臣27名へ蔚山城に於ける
       戦功を賞す。
       詳細は増田長盛(「増田右衛門尉」)・石田三成(「石田治部少輔」)に伝達させる。〔「毛利家文書」B‐914〕
  1月27日 羽柴秀吉、鍋島直茂・鍋島勝茂へ蔚山での戦闘を踏まえ「物見」を厳重にすべきこと、敵軍の「半弓」に備え日本軍は各自
       「半切之楯」を準備すること、諸城の普請・在番を堅固にすべきことを命令。
       詳細は前田玄以・増田長盛・長束正家に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐127〕
  1月27日 羽柴秀吉、島津義弘・島津家久へ蔚山での戦闘を踏まえ「物見」を厳重にすべきこと、敵軍の「半弓」に備え日本軍は各自
       「半切之楯」を準備すること、諸城の普請・在番を堅固にすべきことを命令。
       詳細は前田玄以・増田長盛・長束正家に伝達させる。〔「島津家文書」@‐433〕
  1月 晦日 前田玄以・増田長盛・長束正家、泗川城駐在の島津義弘・島津忠恒へ蔚山城での反省をふまえ、先手衆に「物見」を厳重に
       すべき羽柴秀吉御意を伝達。敵軍の「半弓」の用心に「半切之楯」を数多用意すべき旨を通達。〔「島津家文書」A‐975〕

 2月
  2月 9日 羽柴秀吉、花見の下見のため醍醐寺三宝院を訪問。〔「義演准后日記」〕
  2月14日 近衛前久(「龍山」)、島津義久(「龍伯」)からの連絡に接し島津忠恒の長期在陣を慰労。
       伏見滞在の島津忠恒女房衆の無事を通知し帰朝を待ち望む。ことあれば島津義久(「龍伯」)と参会する旨を通知。
       〔「島津家文書」A‐714〕
  2月18日 毛利輝元、朝鮮在陣中の吉川広家へ帰朝した宍戸元次の報告を受け、醍醐寺の花見について報告。
       吉川広家も早々に帰朝できるよう安国寺恵瓊に依頼する旨を通知。〔「吉川家文書」@‐723〕

 3月
  3月 6日 羽柴秀吉、摂津国有馬阿弥陀坊からの瓜打刀・菜刀を謝す。詳細は木下吉隆に伝達させる。〔「善福寺所蔵文書」〕
  3月 6日 羽柴秀吉、小野寺義道(「小野寺孫十郎」)へ秋田領の「杉大わり板」の調達と若狭国敦賀の大谷吉継(「大谷刑部少輔」)
       の元へ搬送することを命令。〔「小野寺文書」〕
  3月 7日 片桐且元(「且盛」)、美濃国吉田寺聖林坊へ寺中堂塔・寺家の安堵を羽柴秀吉に取り次いだ旨を通知。
       〔「新長谷寺文書」‐11〕
  3月 8日 石川光吉、美濃国春近村の井上与三へ小物成請取手形を下す。〔「安藤鉦司氏所蔵文書」‐32〕
  3月13日 羽柴秀吉、島津義弘・島津家久へ蔚山・梁山・順天からの撤退を許さず、先年の遊撃将軍(沈惟敬)との和議折衝で城塞の
       減少を命令したが今回は遼東境目まで進撃することを指示し、敵の劣勢を見計らって城塞の増築を命令。
       また兵粮・玉薬の蓄積と帰朝についての指示を与え、来年の大軍派遣予定を通知。
       更に島津義弘には加徳城の守備を、立花宗茂・小早川秀包・高橋元種・筑紫広門には固城の守備を堅固にすること、
       および両所は近隣なので談合しながら任務遂行すべきを命令。〔「島津家文書」@‐434〕
  3月14日 木食応其(「興山上人」)、醍醐寺金堂棟札の建立につき諸職人交名注文をまとめる。〔「醍醐寺文書」B‐519〕
  3月14日 六角義賢、没。〔『日本史人物生没年表』〕
  3月15日 羽柴秀吉、醍醐寺三宝院において「醍醐の花見」を行う。〔「義演准后日記」〕

 4月
  4月 2日 毛利輝元、吉川広家へ毛利秀元の注進を増田長盛が取り成して羽柴秀吉の安堵を受けたこと、朝鮮諸城の普請、
       毛利輝元の近況を報告。〔「吉川家文書」@‐724〕
  4月18日 羽柴秀吉、羽柴秀頼と共に御所に参内。羽柴秀吉は白銀・白鳥を献上し、羽柴秀頼には中納言任官の推挙があった。
       〔『御湯殿上日記』〕
  4月18日 上杉景勝(「藤原景勝」)、権中納言を辞退。〔『公卿補任』〕
  4月18日 毛利輝元(「大江輝元」)、権中納言を辞退。〔『公卿補任』〕
  4月20日 羽柴秀頼、権中納言・従二位に昇進。〔『公卿補任』〕
  4月20日 前田利勝(「豊臣利勝」)、権中納言・従三位に昇進。〔『公卿補任』〕
  4月24日 毛利秀元(「秀元」:輝元養子)、毛利輝元(「殿様」「輝元様」)へ起請文を提出して恩を謝し、羽柴秀吉(「大閤様」)
       の命令があっても毛利輝元(「殿様」)には背かず、内談のことは他言せず、毛利松寿丸(「松寿様」:毛利秀就・輝元実子)
       に忠誠を誓い、毛利輝元の口添えによって「私内儀」(羽柴秀吉養女)との婚儀を感謝す。〔「毛利家文書」B‐1036〕
  4月29日 徳川家康、細川藤孝(幽斎)へ羽柴秀吉「不例」により摂津国有馬湯治が延期になった旨を通知。〔「諸家古文書」坤〕

 5月
  5月 2日 熊谷直盛・垣見一直・福原長堯、朝鮮半島より帰朝して羽柴秀吉の謁見を受ける。〔「島津家文書」A‐978〕
  5月 3日 羽柴秀吉、鍋島直茂・鍋島勝茂へ高麗出征諸士が日本へ逃げ帰る者を発見した場合、成敗すべきことを命令。
       詳細は浅野長政・稲葉重通に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐128〕
  5月 7日 醍醐寺三宝院義演、前田玄以等への見舞いに伏見へ登城するが明日羽柴秀吉の摂津国有馬湯治であるため対面は叶わず。
       〔『義演准后日記』〕
  5月20日 羽柴秀吉、豊臣秀頼の命令に違反した侍女「きつ」・「かめ」・「やす」・「つし」の4名の処分を命令。
       〔「大阪市役所文書」〕
  5月23日 石田三成・島津義久(「龍伯」)、島津被官の本田公親・新納教久・河上忠智・河上久国へ、島津家に於ける「於上方之覚」
       「台所方入用之覚」の詳細を伝達。無沙汰をすれば知行の物成5分の1を没収すべきを通達。〔「島津家文書」A‐1103〕
  5月26日 帰朝し羽柴秀吉に朝鮮の戦況報告をした熊谷直盛・垣見一直・福原長堯、島津義弘・島津忠恒へ羽柴秀吉への戦況報告内容を
       報告。
       蔚山後巻において先手の蜂須賀家政・黒田長政が合戦をしなかった「臆病」の振舞は羽柴秀吉の「御逆鱗」に触れること、
       羽柴秀吉は先手諸城の撤退は言語道断の「曲事」であるとして蜂須賀家政・黒田長政は羽柴秀吉の不興を蒙ったこと、
       更に蜂須賀家政は領国に逼塞を命じられたこと、「御目付」の早川長政・竹中隆重・毛利高政も羽柴秀吉の不興を蒙り
       それぞれの豊後国内領所に逼塞を命じられたこと、羽柴秀吉は蜂須賀家政・黒田長政・早川長政・竹中隆重・毛利高政は
       「第一之曲者」と見なし、「奉行」3人に浅野長政を加えて譴責を意図していること、羽柴秀吉は筑後国・筑前国を石田三成に
       下賜しようとしたが、関東より罷かり上った石田三成は要地の佐和山城を守備する適任者がいないので辞退したこと、
       羽柴秀吉は石田三成を筑後国・筑前国御蔵入「御代官」として筑前国名島を下したこと、熊谷直盛・垣見一直・福原長堯は報告
       の褒美として豊後国内に新知を拝領したこと、更に来年は福島正則・石田三成・増田長盛を「大将」として「赤国」(全羅道)
       成敗を予定している旨を通知。〔「島津家文書」A‐978〕

 6月
  6月17日 羽柴秀吉、西丸「五もし」(側室京極氏、松丸殿)へ病状見舞を述べ、自身の病状の悪化を通知。
       「五もし」の全快を待って面会することを約束。〔「多田文書」〕
  6月29日 大谷吉継(「大刑少」)、越前国西福寺へ見舞を謝し今度の「御検地」にあたり寺領の件で事の詳細を通知し安堵された旨を
       賞す。〔「西福寺文書」〕

 7月
  7月15日 羽柴秀吉、諸大名に羽柴秀頼への忠誠を誓う起請文を提出させる。
  7月15日 毛利輝元(「羽柴安芸中納言輝元」)、徳川家康(「内大臣殿」)・前田利家(「大納言殿」)へ全5ヶ条の「牛王起請文」
       前書案を提出(この起請文前書案は前田利家使者へ認め、後に石田三成の加筆がなされる)。〔「毛利家文書」B‐962〕
  7月17日 羽柴秀吉、島津義弘へ筑前国博多から取り寄せた「置兵粮」の集積を命令。羽柴秀吉の病状が回復したことを通知。
       〔「島津家文書」@‐422〕
  7月17日 羽柴秀吉、鍋島直茂・鍋島勝茂へ筑前国博多から取り寄せた「置兵粮」の集積を命令。羽柴秀吉の病状が回復したことを通知。
       〔「鍋島家文書」‐129〕
  7月17日 前田玄以・浅野長政・石田三成・増田長盛、島津義弘へ羽柴秀吉の病状快癒を通知。〔「島津家文書」A‐979〕
  7月17日 前田玄以・浅野長政・石田三成・増田長盛、鍋島直茂・鍋島勝茂へ羽柴秀吉の病状快癒を通知。〔「鍋島家文書」‐130〕
  7月18日 木村由信、越前国西福寺へ自身が長束正家の指示下において寺領検地の任務に携わっており、寺領安堵が為された旨を通知。
       〔「西福寺文書」〕
  7月18日 木村由信、越前国敦賀郡原村の次郎衛門および惣百姓中へ全5ヶ条の「今度御検地衆相定条々」を下す。〔「西福寺文書」〕
  7月22日 醍醐寺で法華「御八講呪願」文が認められる。〔「醍醐寺文書」B‐517〕
  7月26日 小西行長・寺沢広高(「正成」)、島津忠恒へ羽柴秀吉「御朱印」の発給を通知。
       朝鮮在陣衆内で相談が必要なので諸将を釜山浦に緊急召集をかける。この連署状が到着次第、釜山浦に緊急集結すべきを指示。
       〔「島津家文書」A‐1066〕
  7月 吉日 長宗我部元親(「秦朝臣」)・長宗我部盛親、国沢彦右衛門・山本吉兵衛・池上平左衛門・喜左衛門を奉行として、
       長岡郡国分惣社の上棟式を執行。〔「土佐国蠧簡集」‐674〕

 8月
  8月 5日 羽柴秀吉、徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家の五人へ縁辺について談合。
       徳川家康は3年間在京し所用の場合は徳川秀忠を江戸に下すべきこと、奉行衆の前田玄以・長束正家以外の3名中1人は
       伏見城留守居を担当し徳川家康は常時伏見城留守居とすべきこと、大坂城留守居は奉行衆中の2人とすべきこと、
       羽柴秀頼を大坂城に入城させて諸大名の妻子を大坂に証人として滞在さすべきを命令。〔「諸家単一文書」‐1094〕
  8月 5日 羽柴秀吉(「秀吉」)、徳川家康(「いへやす」)・前田利家(「ちくせん」)・毛利輝元(「てるもと」)・
       上杉景勝(「かけかつ」)・宇喜多秀家(「秀いへ」)に対し自筆遺言状を与え羽柴秀頼(「秀より」)の将来を託す。
       〔「毛利家文書」B‐960〕
  8月 6日 羽柴秀吉、再び徳川家康・前田利家らを枕元に呼び、羽柴秀頼の将来および朝鮮出兵軍のことなどを託す。
  8月 6日 寶光院快真、河内国金剛寺へ今度の方広寺「大仏御供養」の「職衆」250人供出について木食応其(「上人」)より命令が
       あったことを通達。〔「金剛寺文書」‐366〕
  8月 7日 安国寺恵瓊、天瑞□尚大禅仏へ羽柴秀吉が病状を回復し徳川家康(「内府」)・前田利家(「大納言」)・毛利輝元・
       宇喜多秀家を呼び寄せて後の事を指示した旨を報告。安国寺恵瓊はこの様子を末座において見聞。〔「黄梅院文書」〕
  8月 7日 寺沢広高、島津義弘へ釜山浦より回送された羽柴秀吉の病状快癒の御朱印を送付。〔「島津家文書」A‐980〕
  8月 7日 金剛峯寺学侶衆中秀永、河内国天野(金剛寺)三綱へ来たる22日の方広寺「大仏之御供養」執行に際し真言宗500人、
       天台宗500人の「職衆」を供出すること、金剛寺からは200人が上洛すべきであることが木食応其(「木上」)より通達
       されたが、金剛寺からは250人を供出するようにとの命令があったことを通知。詳細は寶光院快真より伝達させる。
       〔「金剛寺文書」‐367〕
  8月10日 徳川家康(「家康」)・前田利家(「利家」)・宇喜多秀家(「秀家」)・毛利輝元(「輝元」)、「条々」全3ヶ条を発す。
       その内容は「上様長々御煩付而、御失念も在之様ニ」なったため「御知行方其外御仕置」などの件は先規に従うべきこと、
       この8月10日以後においては羽柴秀吉が「如何様之儀被仰出」れたといえども「御請ハ先申上」て羽柴秀吉「御本復」に
       なって「慥得御諚」が出されるようなってから遵守すること、「御知行方并御仕置」等はこの「誓紙」で決定した通りとする
       ことを公表。〔「毛利家文書」B‐961〕
  8月11日 木村由信、越前国西福寺へ今度の検地衆が敦賀郡原村の庄屋二郎右衛門に永代扶持を承認した旨を通達。
       もし問題が発生した場合はこの木村由信「書付」を京都へ提示するよう指示。〔「西福寺文書」〕
  8月15日 毛利高政、森織部(毛利高政家臣)へ前年南原城攻略の褒賞としての加増を豊後国日田郡内に200石宛行う。
       〔「毛利高棟文書」‐11〕
  8月18日 羽柴秀吉(太政大臣・従一位)、伏見城において没。〔『公卿補任』〕
  8月20日 前田玄以・浅野長政・増田長盛・長束正家、某へ慶長3年分の「免目録」に関して通知を行い報告書の提出を督促。
       また「大坂御蔵米」を金子に換えて運上すべきこと及び御蔵米に関する相談するよう通達。〔「岡部文書」‐12〕
  8月22日 宮木豊盛・徳永寿昌、全3ヶ条の「天罰霊社起請文」前書を提出。朝鮮との「御無事」(和議)交渉を加藤清正・小西行長の
       何れかに命ずるかを決定するため両人の申し分に私曲があれば言上すべきこと、抜懸に意見を提出する者を注進すべきこと、
       朝鮮在番衆に命令を正確に伝達すべきことを誓約。〔「島津家文書」A‐982〕
  8月25日 五大老・五奉行、羽柴秀吉朱印状形式をとって島津義弘に徳永寿昌・宮木豊盛を長期在陣慰労のため、派遣した旨を通知。
       〔「島津家文書」@‐423〕
  8月25日 朝鮮との和議決着までの在番に関して、釜山浦在番衆・対馬国豊崎在番衆・帰朝衆が決定される。
       〔「島津家文書」A‐983〕
  8月25日 前田玄以・浅野長政・増田長盛・石田三成・長束正家、徳永寿昌・宮木豊盛へ、朝鮮「王子」を人質に取った場合は諸城を
       引き取ること、「調物」を贈答してきた場合は「朝鮮官人」を対馬国まで渡海させた上で諸城を引き取ること、朝鮮官人が渡海
       不能な場合は釜山浦に1城を残すことを定めた朝鮮国との和議条件全3ヶ条の「内儀之覚」を提示。
       〔「島津家文書」A‐984〕
  8月25日 前田玄以・浅野長政・増田長盛・石田三成・長束正家、徳永寿昌・宮木豊盛へ朝鮮より和議の為に贈られた調物目録を提示。
       〔「島津家文書」A‐985〕
  8月25日 前田玄以・浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家、島津忠恒へ「御見廻」として徳永寿昌・宮木豊盛の派遣を通知。
       また道服・袷の拝領を謝す。長期在陣を慰労し、羽柴秀吉快気を通達。〔「島津家文書」A‐1067〕
  8月25日 前田玄以・浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家、鍋島直茂へ「御見廻」として徳永寿昌・宮木豊盛の派遣を通知。
       また道服・袷の拝領を謝す。長期在陣を慰労し、羽柴秀吉快気を通達。〔「鍋島家文書」‐131〕
  8月25日 前田玄以・浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家、鍋島直茂へ早々に釜山浦に向かい「御使」の徳永寿昌・宮木豊盛から
       詳細を聞き届け、諸将と相談すべきを通達。〔「鍋島家文書」‐132〕
  8月28日 毛利輝元(「安芸中納言」)、羽柴秀吉(「太閤様」)の「御他界以後」の羽柴秀頼(「秀頼様」)への「御奉公」について
       増田長盛(「増右」)・石田三成(「石治」)・長束正家(「長大」)・前田玄以(「徳善」)宛の「起請文前書」案を使者の
       安国寺恵瓊(「安国寺」)へ提出。〔「毛利家文書」B‐962〕

 9月
  9月 2日 蒲生郷成(「郷成」)、町野幸仍(「町左近」)・「岡半兵」へ徳川家康(「内府様」)調儀による蒲生秀行(「藤三様」)
       の処遇について詳細を通知。〔「武家文書」@‐13〕
  9月 3日 前田玄以(「徳善院」)・浅野長政(「浅野弾正少弼」)・増田長盛(「増田右衛門尉」)・石田三成(「石田治部少輔」)
       長束正家(「長束大蔵大輔」)、徳川家康(「家康」)・前田利家(「利家」)・宇喜多秀家(「秀家」)・
       上杉景勝(「景勝」)・毛利輝元(「輝元」)へ宛てて全7ヶ条の「霊社上巻起請文」を提出。〔「毛利家文書」B‐963〕
  9月 3日 前田利長・前田玄以・浅野長政・増田長盛・石田三成・長束正家、徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元へ
       宛てて、霊社上巻起請文を提出。〔「鹿島神宮文書」‐306〕
  9月 5日 徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・毛利輝元、島津義弘・島津忠恒へ日明「御無事」交渉に関して、加藤清正を担当とし交渉
       が難調である場合は代わりの者が交渉にあたること、日本の「御外聞」を考慮して「御無事」の条件に「朝鮮王子」を人質に
       とるか、「御調物」を貢納させるかを相談すべきこと、更に冬期中の処置を指示。
       「太閤様」の命令で新建造の「迎船」100艘、その他諸浦に200艘を派遣すること、徳川家康・毛利輝元・宇喜多秀家が
       筑前国博多に下向する予定であったが、毛利輝元・浅野長政・石田三成が出征諸将を出迎えることを通達。
       〔「島津家文書」A‐1088〕
  9月15日 黒田如水、前月24日に知った羽柴秀吉薨去を吉川広家に伝達。〔「吉川家文書」@‐156〕
  9月18日 前田玄以(「徳善院玄以」)、上賀茂社役者中へ毎年賦課していた境内の竹木提出を免除。〔「上賀茂神社文書」‐106〕
  9月18日 前田玄以(「徳善院玄以」)、京都大徳寺へ竹上納を免除。〔「大徳寺文書」@‐114〕
  9月18日 松田政行(「松田勝右衛門尉」)、京都大徳寺へ「徳善院折紙」を送付。〔「大徳寺文書」@‐115〕
  9月19日 島津義弘・島津家久、晋州泗川城付近に陣取る。〔「島津家文書」@‐439〕
  9月19日 大明軍、晋州に進出。〔「島津家文書」A‐990〕
  9月21日 蔚山守備の加藤清正等、7、8万の大明軍に襲撃されるが撃退。〔「島津家文書」A‐969〕
  9月27日 加藤清正、島津義弘・島津忠恒へ小西行長等守備の順天が大明軍の攻撃を受けた旨、加藤清正等の拠る蔚山も攻撃を受けたが
       撃退した旨を通知。〔「島津家文書」A‐969〕

10月
 10月 吉日 中川秀成、豊後国竹田領内の惣百姓中宛に代官の百姓雇用禁止、私的な課役の禁止、「蔵納貢物定」・「陣夫」・「京夫」に
       ともなう、「貢物津出」についての全5ヶ条の「定」を下す。〔「北村氏蒐集文書」‐1〕
 10月 1日 大明軍、泗川城を襲撃。〔「島津家文書」A‐990〕
 10月 1日 島津義弘・島津家久、晋州泗川において大明軍数万騎を撃破し、3万余を討ち捕る。〔「島津家文書」@‐297〕
 10月 1日 島津義弘・島津家久、晋州泗川城への「大鉄炮」攻撃を開始。野戦では晋州河において「江南ノ大将」9名が率いる20万騎
       の大明軍勢を追い詰めて討ち取る。また、残党は河へ追い落とす。〔「島津家文書」@‐439〕
 10月 1日 島津氏、泗川城における戦闘で大明軍を撃破。島津忠恒軍は首を10108、島津義弘軍は首を9520、島津義久軍は首を
       8383、伊集院忠真軍は首を6560、北郷三久軍は首を4146、合計38717の首を討ち取る。
       〔「島津家文書」A‐1070〕
 10月15日 加藤嘉明(「茂勝」)、大明軍の順天・蔚山両城攻撃を報じた島津忠恒の書状に答え、徳永寿昌・宮木豊盛渡海を通知し
       この両人と談合すべきを指示。島津忠恒の帰朝について触れ、泗川城守備交替については近日中に指示があることを通知。
       〔「島津家文書」A‐1068〕
 10月16日 加藤清正、島津義弘・島津忠恒・立花宗茂へ注進状に答え、「日本御年寄衆」・「御奉行衆」から蔚山撤退の指示が出ている
       こと、順天城駐在の小西行長は撤退に際し大明水軍に退路を断たれ籠城していること、加藤清正は蔚山城を明日撤退して
       島津義弘等との合流を希望。〔「島津家文書」A‐974〕

11月
 11月 2日 徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元、島津義弘・島津家久へ泗川城攻略を賞し、敵軍の退却を見計らって
       釜山浦へ退却、そして帰朝すべきを通達。〔「島津家文書」@‐439〕
 11月 2日 徳永寿昌・宮木豊盛、筑前国名島に帰着。〔「島津家文書」A‐989・991〕
 11月 2日 浅野長政・石田三成、島津義弘・島津忠恒・寺沢広高・毛利吉成へ「唐人」の諸城攻撃を撃退。
       特に島津義弘・島津忠恒父子の活躍が目覚ましかったことを徳永寿昌・宮木豊盛が向上したことを通知。
       早急に「御奉行衆」・「年寄衆」が対談の上で朝鮮駐在の「物主衆」への帰朝命令を伝達すること、大明軍の攻撃によって撤退
       し難き部隊が有れば諸軍とも翌年3月迄は在城すべきこと、撤退が延期した場合は徳永寿昌・宮木豊盛を渡海させること、
       大明国が和議に応じれば交渉解決まで講和の使者のみ釜山浦に残留すべきこと、講和の使者は和議決着まで加徳島・しゐに島に
       駐兵すべきことを通達。本来ならば「伏見御奉行衆・残年寄衆」に報告しなければならないが、伏見へは遠路ゆえ、浅野長政・
       石田三成が報告・得心することを伝達。〔「島津家文書」A‐989〕
 11月 3日 伏見の前田玄以・増田長盛・長束正家、島津義弘・島津忠恒へ泗川城における大明軍を撃破。敵勢20万騎を向こうに回して
       島津義弘・島津忠恒父子自身が8人討ち取ったことを賞す。また、蔚山表の日本軍も「大鉄炮」をもって大明軍3万を撃退した
       こと、順天城籠城の件も敵を撃退したことを通達し、注進次第で筑前国博多在陣の毛利秀元・浅野長政・石田三成・四国衆・
       豊後衆・九鬼水軍・脇坂安治・堀内氏善・「御弓鉄炮衆」を渡海させる予定を告知。先の徳永寿昌・宮木豊盛が伝達したように
       順天・蔚山の大明軍が退却したならば、出兵諸将は釜山浦に撤退し帰朝すべきことを通達。〔「島津家文書」A‐990〕
 11月 3日 宮木豊盛・徳永寿昌、島津義弘・島津忠恒へ前日筑前国名島に帰着、浅野長政・石田三成と直談して墨付を認めてもらい、
       やがて帰朝命令が出される予定を通知。詳細は「御使者」へ申し含めたので省略した旨を告知。〔「島津家文書」A‐991〕
 11月 6日 島津義久(「龍伯」)、島津義弘・島津忠恒へ泗川における戦勝を祝し、豊臣家の「御老中」と「御奉行衆」より感状が発給
       されたことを報告。また戦場に「御稲荷」(野狐が傷付き死亡)が出現したことに触れ、薩摩国鹿児島・大隅国富之隅・京都の
       「御稲荷」に御礼および祈念した旨を通知。〔「島津家文書」A‐1141〕
 11月 8日 近衛前久、島津義弘・島津家久へ大明国軍勢を泗川で撃破したことを賞し、禁裏へ奏上して「叡感」を賜わったことを報告。
       また島津義弘の戦功を「三国無双」と賞揚し、「太閤逝去」による帰朝を勧める。〔「島津家文書」@‐297〕
 11月25日 徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元、島津義弘・島津忠恒)へ大明軍出動の風聞に接し藤堂高虎の派遣、
       状況次第では九州駐留の船手衆やその他の軍勢派遣も計画している旨を通達。大明軍退散の場合は徳永寿昌・宮木豊盛から
       釜山浦撤退通知に従い帰朝すべきを命令。万端は藤堂高虎の指示に従うよう告知。〔「島津家文書」A‐1089〕
 11月25日 前田玄以・増田長盛・長束正家、島津義弘・島津忠恒へ大明軍出動の風聞に接して藤堂高虎の派遣を予定、状況次第では九州
       駐留の船手衆やその他の軍勢派遣も計画している旨を通達。大明軍が退散したならば釜山浦に撤退し帰朝命令を伝達。詳細は
       藤堂高虎に伝達させる。〔「島津家文書」A‐992〕

12月
 12月 5日 太田一吉、島津忠恒へ泗川城における大明軍撃退の手柄を賞し、島津忠恒の帰朝を祝す。佐賀関において面会を希望する旨を
       通知。〔「島津家文書」A‐1069〕
 12月26日 徳川家康(「家康」)・前田利家(「利家」)・宇喜多秀家(「秀家」)・上杉景勝(「景勝」)・毛利輝元(「輝元」)、
       三井寺の寺領宛行を行う。〔「毛利家文書」B‐1117〕
 12月26日 立入宗継(「立入隆佐」)、立入一族の立入卜斎(「卜斎」)・立入寿斎(「寿斎」)へ羽柴秀吉(「上様」)より
       「洛中屋地子買得之替」として吉祥院15石を下されることについて、「禁裏様御倉之御朱印」のうち入れ置く分を
       「惣領」立入卜斎に5石、立入寿斎に10石を「知行」とする旨を通知。〔「立入宗継文書」(先祖並古筆之書類抄)‐1〕
 12月29日 前田玄以・浅野長政・増田長盛・石田三成・長束正家、摂津国有馬湯山へ御蔵米算用状を下す。〔「一話一言」〕
 12月29日 秋田実季(「秋田藤太郎」)、「秋田之内御蔵米御算用状事」を前田玄以(「徳善院」)・浅野長政(「浅野弾正」)・
       増田長盛(「増田右衛門」)・長束正家(「長束大蔵」)へ提出。〔「秋田家文書」〕


    この年 木村吉清、没(異説1595・1596年)。〔『日本史人物生没年表』〕


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