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        【 天下統一期年譜 1597年 】


慶長2(1597)年

 1月
  1月 1日 羽柴秀吉、伏見城より大坂城に移る。〔「義演准后日記」〕
  1月 2日 羽柴秀吉、大坂城から伏見城の羽柴秀頼へ新春祝儀の謝礼を述べ、小出秀政を派遣し雁を贈答。〔「保阪文書」〕
  1月11日 前田利家(「豊臣利家」)、権大納言・従三位に昇進。〔『公卿補任』〕
  1月13日 鍋島勝茂、竹島に着陣。〔「鍋島家文書」‐110〕
  1月16日 前田利家(「豊臣利家」)、権大納言を辞退。〔『公卿補任』〕
  1月17日 古溪宗陳(臨済僧)、没。〔『日本史人物生没年表』〕
  1月23日 羽柴秀吉、前田玄以・石田三成・増田長盛を奉行に任命、京都屋敷敷地内の町家への立ち退きを命令。〔「言経卿記」〕
  1月29日 前田玄以(「徳善院」)・増田長盛(「増田右衛門尉」)・長束正家(「長束大蔵」)、「今井兵部」へ摂津国関郡の
       「御蔵米御算用状」を発す。〔「称念寺文書」〕

 2月
  2月 2日 羽柴秀吉、秋田実季(「秋田藤太郎」)へ「伏見御作事為御用被仰出秋田山ニて杉板割符之事」を下す。
       出羽国諸将に杉板を若狭国敦賀の大谷吉継(「大谷刑部少輔」)のもとへ油断無く送ることを命令。〔「秋田家文書」〕
  2月12日 大谷吉継(「刑部」)、越前国敦賀郡の鍛冶屋刀禰へ地子本銭790貫文を永代免許。〔「刀根市左衛門文書」〕
  2月17日 帥法印歎仲(「帥法歎仲」)、河内国観心寺へ「誕生」の「御祈念一儀」を依頼。〔「観心寺文書」‐642〕
  2月20日 羽柴秀吉、諸大名の出陣・部署を定める。
  2月21日 羽柴秀吉、朝鮮国出征諸将の陣立書(総勢14万1500人)を発す。釜山浦・壱岐・対馬・肥前国名護屋の4ヶ所に継船を配置し、
       毎日先手からの注進を報告するよう命令する。
       〔「毛利家文書」B‐932、「島津家文書」@‐403、「毛利高棟文書」‐2、「大阪城天守閣所蔵木下家文書」‐10〕
  2月21日 羽柴秀吉、鍋島直茂・鍋島勝茂へ朝鮮出征軍の編成を通知。
       太田一吉・毛利重政・竹中重利・垣見一直・毛利高政・早川長政・熊谷直盛を先手衆の目付として戦況の報告を義務付ける。
       船手入り用時は藤堂高虎・加藤嘉明・脇坂安治に届け出て四国衆・菅達長・諸手の警固船と共に行動すべきことなど軍規を定め、
       この「御法度」の違反者は目付7人の報告通りに例え誰でも処罰することを通達。〔「鍋島家文書」‐109〕
  2月21日 羽柴秀吉、毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ全21ヶ条の朝鮮出征軍編成「条々」を通知。
       太田一吉(「太田小源五」)・毛利重政(「毛利豊後守」)・竹中重利(「竹中源介」)・垣見一直(「垣見和泉守」)・
       毛利高政(「毛利民部大輔」)・早川長政(「早川主馬首」)・熊谷直盛(「熊谷内蔵丞」)を先手衆の「御目付」として戦況
       の報告を義務付ける。
       船手入り用時は藤堂高虎・加藤嘉明・脇坂安治に届け出て四国衆・菅達長・諸手の警固船と共に行動すべきことなど軍規を定め、
       この「御法度」の違反者は目付7人の報告通りに例え誰でも処罰することを通達。〔「毛利家文書」B‐931〕
  2月21日 羽柴秀吉、島津義弘へ朝鮮出征軍の編成を通知。
       太田一吉・毛利重政・竹中重利・垣見一直・毛利高政・早川長政・熊谷直盛を先手衆の目付として戦況の報告を義務付ける。
       船手入り用時は藤堂高虎・加藤嘉明・脇坂安治に届け出て四国衆・菅達長・諸手の警固船と共に行動すべきことなど軍規を定め、
       この「御法度」の違反者は目付7人の報告通りに例え誰でも処罰することを通達。〔「島津家文書」@‐402〕
  2月21日 羽柴秀吉、毛利高政へ朝鮮出征軍の編成を通知。
       太田一吉・毛利重政・竹中重利・垣見一直・毛利高政・早川長政・熊谷直盛を先手衆の目付として戦況の報告を義務付ける。
       船手入り用時は藤堂高虎・加藤嘉明・脇坂安治に届け出て四国衆・菅達長・諸手の警固船と共に行動すべきことなど軍規を定め、
       この「御法度」の違反者は目付7人の報告通りに例え誰でも処罰することを通達。〔「毛利高棟文書」‐2〕
  2月21日 羽柴秀吉、小早川秀秋へ朝鮮出征軍の編成を通知。
       太田一吉・毛利重政・竹中重利・垣見一直・毛利高政・早川長政・熊谷直盛を先手衆の目付として戦況の報告を義務付ける。
       船手入り用時は藤堂高虎・加藤嘉明・脇坂安治に届け出て四国衆・菅達長・諸手の警固船と共に行動すべきことなど軍規を定め、
       この「御法度」の違反者は目付7人の報告通りに例え誰でも処罰することを通達。〔「大阪城天守閣所蔵木下家文書」‐9〕
  2月22日 羽柴秀吉、鍋島勝茂へ戦地からの献上品を謝し、普請・在番を激励。詳細は増田長盛に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐110〕
  2月22日 石田三成、島津忠恒へ5月中旬〜6月上旬に高麗への軍勢派遣、島津忠恒に「御小姓衆」のみを引き連れての帰朝命令を通達。
       直接上洛したら「上辺御用」の取次は調えること、「御国御支配」の指示通達後に羽柴秀吉へ「御礼」無しで「御目見得」し、軍勢
       発動以前に京都より下国し国元の御用を終了させ、軍勢発動時には国元より出陣すべきを通達。但し先に国元へ帰朝したならば
       上洛して、軍勢発動時に京都から渡海すべきを命令。また島津義弘着陣を確認してから島津忠恒は帰朝すべきことも指示。
       〔「島津家文書」A‐1064〕
  2月25日 帥法印歎仲(「帥法歎仲」)、河内国観心寺へ「不動之千座」執行を依頼。〔「観心寺文書」‐634〕
  2月29日 大谷吉継(「刑部」)、越前国三ヶ市町越後屋の川舟兵太郎へ全2ヶ条の「令免除候条」を下す。〔「奥富市右衛門文書」〕
  2月29日 三位融盛(大谷吉継家臣)、「高□様」(京極高次カ)へ越前国敦賀郡越後屋兵太郎一家への諸公事・諸役の免許について
       「内々御意被成候つる御算用」の件を通知。〔「奥富市右衛門文書」〕

 3月
  3月 3日 土岐定政、没。〔『日本史人物生没年表』〕
  3月 6日 石川光吉、美濃国関梅龍寺へ山林・屋敷を先規の如く寄進する旨を通知。〔「梅龍寺文書」‐4〕
  3月 6日 三位融盛(大谷吉継家臣)、越前国敦賀郡米屋中へ2月29日に大谷吉継より越後屋兵太郎に下された諸役・諸公事免許状の
       内容を適用する旨を通達。〔「奥富市右衛門文書」〕
  3月 7日 前田玄以・宮部継潤・石田三成・増田長盛・長束正家、松下之綱へ全7ヶ条の「御掟」を発令。
       〔「摂津吉田亀之助所蔵文書」〕
  3月 7日 前田玄以(「徳善院」)・宮部継潤(「宮部法印」)・石田三成(「石田治部少輔」)・増田長盛(「増田右衛門尉」)・
       長束正家(「長束大蔵大輔」)、「五人組」・「十人組」組織に関する全7ヶ条の「御掟」(京都御法度)を京都市中へ下す。
       〔「毛利家文書」B‐1115〕
  3月 8日 羽柴秀吉、徳川家康以下の諸大名を従え伏見城を発し醍醐寺三宝院へ観桜に赴く。〔「義演准后日記」〕
  3月 9日 羽柴秀吉、大坂城に下向。
  3月10日 毛利輝元(「大江輝元」)、権大納言・従三位に昇進。〔『公卿補任』〕
  3月18日 羽柴秀吉、宇喜多秀家・毛利輝元・長宗我部元親・蜂須賀家政・藤堂高虎・池田秀雄・加藤嘉明・来島通総・生駒一正・
       安国寺恵瓊・脇坂安治・菅達長へ城普請に関する談合の上で「割符」を発し城番を堅固にすべきこと、兵粮・鉄砲・玉薬などの
       軍需物資の管理について指示。詳細は前田玄以・長束正家に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐77〕
  3月18日 羽柴秀吉、島津義弘へ「八木」2000石を筑前国博多において山中長俊・石川光元より請け取り蔵を造作すること、加子の
       「飯米」として100石につき4石を割り当てること、釜山浦に保管している兵粮についても、「割符」によって寺沢広高より
       請け取り蔵を造作すること、「石火矢」・「薬」・「玉」を送付したことを通知。
       「先年」(「島津家文書」A‐811は「先手」)送付した「大筒」を寺沢広高から請け取り城々に配置すべきを命令。
       詳細は増田長盛・前田玄以・長束正家に伝達させる。〔「島津家文書」@‐392、「島津家文書」A‐811〕
  3月18日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ「八木」5000石を筑前国博多において山中長俊・石川光元より請け取り蔵を造作すること、加子の
       「飯米」として100石につき4石を割り当てること、釜山浦に保管している兵粮についても、「割符」によって寺沢広高より
       請け取り蔵を造作すること、「石火矢」・「薬」・「玉」を送付したことを通知。先年送付した「大筒」を寺沢広高から
       請け取り城々に配置すべきを命令。詳細は増田長盛・前田玄以・長束正家に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐78〕
  3月21日 羽柴秀吉、伏見に戻る。

 4月
  4月 9日 前田玄以(「徳善院玄以」)、三上三大夫へ去年羽柴秀頼(「秀頼様」)の「御参内」の砌に九条増孝(「随心院殿」)に
       対し預けられた銀子は九条家(「其御所」)にあるはずであり、「地震」にて損壊した「随心院御寺」の修理申請に対し、以前
       預けた銀子は前田玄以配下の「兵部」卿定快と「本間」帯刀兼祐へ確実に渡すべきこと、「わろくつかひ候ハぬやう」に
       前田玄以からも通達したことを九条兼孝へ言上するよう指示。〔「九条家文書」E‐2000〕
  4月10日 前田玄以部下の「東寺上」総某・「本間帯刀兼」祐・「兵部卿定快」、九条家雑掌の赤津彦右衛門・三上三大夫へ去年
       羽柴秀頼(「御拾様」)より九条増孝(「随門さま」)へ「御拝領」の銀子10枚を九条家(「其御所様」)が預かったことに
       付き、今度「御殿之御用」として収公する旨を通達。〔「九条家文書」E‐2001〕
  4月13日 羽柴秀吉、南の御方(羽柴秀吉養女、宇喜多秀家夫人)が狐の祟りによって病気になったというので、稲荷大明神へ日本中の狐を
       退治(狐狩)することを申告。〔「前橋旧蔵聞書」〕
  4月20日 「蜂屋右京進」・「高橋二郎兵衛」、秋田実季(「秋田藤太郎」)へ「御橋板」受取状を発す。〔「秋田家文書」〕
  4月24日 羽柴秀吉、上京。
  4月26日 羽柴秀吉、「ワカゼカ池」に新しい京都屋敷の縄張りを行う。
  4月27日 羽柴秀吉、参内。
  4月28日 羽柴秀吉、伏見に帰還。〔「義演准后日記」〕

 5月
  5月 3日 羽柴秀吉、伏見城から大坂城の羽柴秀頼へ端午節句祝儀を謝し、節句日には大坂城へ赴き面会するよう約束。
       〔「蜂須賀侯爵家文書」〕
  5月 4日 羽柴秀吉、天守閣が竣工した新伏見城へ正式に移徙。
  5月14日 羽柴秀頼、新伏見城に移徙。
  5月17日 羽柴秀吉、伏見城において勅使・公家衆・諸大名の祝賀を受ける。
  5月20日 羽柴秀吉、普請を休止し能楽を興行、工事に従事する者にも見物を許可。〔「義演准后日記」〕
  5月22日 羽柴秀吉、入京して京都屋敷の普請を視察。
  5月22日 羽柴秀吉、寺沢広高へ全7ヶ条の条書を下す。
       加徳城を破却し黒田長政を西生浦城へ移動し在番に当たること。
       毛利吉成は釜山浦へ移動し本城を受け取り在番に当たること。
       丸山城には寺沢広高が在番に当たること。
       生駒一正は以上の入替期間中、9月まで一番を担当し、その後帰朝すべきこと。さらに四国衆の番替はしないこと。
       中国衆の加勢1500人・小早川秀秋の500人は早々に帰朝すべきこと。
       釜山浦に保管してある小早川秀秋の兵粮5000石は寺沢広高が受け取り、山口正弘に受取状を提出すべきこと。
       明年の大規模な軍勢派遣予定を通知し、在番厳重たるべきを諸将に通達するよう命令。
       詳細は前田玄以・増田長盛・石田三成・長束正家に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐96〕

 6月
  6月 8日 「くろた」(大坂西の御所詰:豊臣氏女官)、前田玄以・石田三成・増田長盛・長束正家へ羽柴秀吉からの摂津国有馬地獄谷開削
       事業の停止命令を通知。〔「奥之坊文書」〕
  6月 8日 「くろた」(大坂西の御所詰:豊臣氏女官)、山崎家盛(摂津国有馬郡三田城主)へ羽柴秀吉からの湯山地獄谷の開削事業の停止
       命令を通達。〔「奥之坊文書」〕
  6月12日 小早川隆景、没。〔『日本史人物生没年表』〕
  6月16日 毛利秀元(「宰相秀元」)、堅田元慶(「堅田兵部少輔」)宛で今度の「朝鮮渡海」は「遙々之事」であるので
       毛利輝元(「殿様」)に誓書を提出。〔「毛利家文書」@‐357〕
  6月23日 戸田忠次、没。〔『日本史人物生没年表』〕

 7月
  7月 1日 羽柴秀吉、小早川秀秋へ出征諸将と相談し越権行為が無いように注意を払いながら「軍方」の学習を命令。次回出征諸将から
       小早川秀秋が「おとなしき」旨の報告があった場合は強制帰国させることを通達。〔「足守木下家文書」‐35〕
  7月 9日 前田利家(「加賀大納言利家」)、本願寺顕如(「本願寺殿」)へ「不参」している本願寺末寺の処置を「御改使」の
       下間頼賑(「下間少弐法橋」)に委ねること、それでも違背する者があった場合はその成敗を引き受けることを通達。
       〔「本願寺文書」〕
  7月 9日 大谷吉継、高麗加徳島在陣中の島津義弘からの来簡に答え、赤国(全羅道)における作戦につき石田三成の渡海は無いが
       戦功は存じている旨を通知。石田三成より指図が伝達されるのでその遵守を促す。また「伏見・京都御普請」に様子をも通知。
       〔「島津家文書」A‐962〕
  7月 9日 毛利元清、没。〔『日本史人物生没年表』〕
  7月10日 羽柴秀吉、炎天下において渡海する島津義弘へ「赤国(全羅道)」攻略の指示を伝達。
       詳細は松井藤介・竹中重定に伝達させる。〔「島津家文書」@‐399〕
  7月10日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ長期在番を慰労し、「赤国(全羅道)」攻略の指示を伝達。詳細は松井藤介・竹中重定に伝達させる。
       〔「鍋島家文書」‐111〕
  7月10日 羽柴秀吉、鍋島勝茂へ長期在番を慰労し、「赤国(全羅道)」攻略の指示を伝達。詳細は松井藤介・竹中重定に伝達させる。
       〔「鍋島家文書」‐112〕
    この頃 羽柴秀吉、東寺へ信濃国善光寺如来の御影向について7月18日に大津で出迎えるよう命令。〔「安楽寿院文書」〕
  7月13日 東寺雑掌浄甫、竹田御役者中へ信濃国善光寺如来の御影向にあたり羽柴秀吉(「太閤様」)より出迎え命令が発せられた旨、その
       遵守を通達。〔「安楽寿院文書」〕
  7月15日 朝鮮出征軍の先鋒、朝鮮国唐島の番船が釜山海で朝鮮出征軍の補給路を脅かしたために壊滅させる。
       〔「毛利家文書」B‐911〕
  7月15日 島津義弘・島津家久、唐島の「番船」が出没し日本軍の通路を妨害したので、この夜に「番船」160余艘を捕獲。
       「唐人」(海賊)を数千人を殺害、その他大勢を海へ追い落とし、津々浦々15〜16里にわたって海賊船を悉く焼却。
       〔「島津家文書」@‐436・437、「島津家文書」A‐967〕
  7月16日 羽柴秀吉、備後国三原にて病没した小早川隆景(「隆景」)の「跡職」を上申してきた毛利輝元(「羽柴安芸中納言」)に
       「此方より只今不及被仰出」る旨を通達し、毛利輝元・小早川秀秋(「筑前中納言」)の間の問題は安国寺恵瓊(「安国寺」)
       の帰朝後協議するように指示を与え、毛利輝元の病気を慰労。
       詳細は増田長盛(「増田右衛門尉」)・石田三成(「石田治部少輔」)に伝達させる。〔「毛利家文書」B‐946〕
  7月16日 島津義弘・島津忠恒・加藤嘉明・脇坂安治・藤堂高虎・小西行長、前田玄以・増田長盛・石田三成・長束正家へ、
       唐島(巨済島)の番船を襲撃し沿海の敵船に放火したことを報告。〔「島津家文書」A‐967〕
  7月18日 羽柴秀吉、倒壊した方広寺大仏殿の替わりとして信濃国善光寺の阿弥陀如来を運ばせ安置。
  7月27日 羽柴秀吉、毛利輝元(「羽柴安芸中納言」)へ朝鮮出征全軍の渡海命令と大明人来襲の際は羽柴秀吉自身の渡海を通知。
       また毛利輝元分領中の五ヶ所(鞆・蒲刈・大畠・天神国府・下関)に「早船」・早馬を整備することを命令。
       詳細は増田長盛(「増田右衛門尉」)・長束正家(「長束大蔵大輔」)に伝達させる。〔「毛利家文書」B‐908〕
  7月27日 羽柴秀吉、石川光元へ朝鮮出征軍先発隊の渡海につき、大坂に早船10艘、明石に早船1艘を常駐させることを命令。
       詳細は増田長盛・長束正家に伝達させる。〔「早大豊太閤文書」‐913〕
  7月29日 羽柴秀吉、方広寺大仏殿に赴いた後に参内しルソン国から贈られた黒象を後陽成天皇に謁見。

 8月
  8月 4日 羽柴秀吉、毛利輝元(「安芸中納言」)へ肥前国名護屋か筑前国博多に在陣すべきを命令し、「大明者共」の襲来があれば
       羽柴秀吉自身が渡海する旨を通知。
       詳細は増田長盛(「増田右衛門尉」)・石田三成(「石田治部少輔」)に伝達させる。〔「毛利家文書」B‐909〕
  8月 8日 北条氏邦、加賀国で没。〔『日本史人物生没年表』〕
  8月 9日 羽柴秀吉、先月の「番船根切」を報告してきた島津義弘の戦功を賞し、帰朝の際に褒美を下す旨を通知する。
       詳細は前田玄以・増田長盛・石田三成・長束正家に伝達させる。〔「島津家文書」@‐436〕
  8月 9日 羽柴秀吉、先月の「番船根切」を報告してきた島津家久の戦功を賞し、帰朝の際に褒美を下す旨を通知。
       詳細は前田玄以・増田長盛・石田三成・長束正家に伝達させる。〔「島津家文書」@‐437〕
  8月 9日 増田長盛・長束正家、島津忠恒へ伏見で唐島(巨済島)における戦功を羽柴秀吉に披露して「御朱印」発給を通知。
       「番船根切」、すなわち朝鮮水軍掃討を賞し、陸路進撃を遂行すべきを伝達。〔「島津家文書」A‐1065〕
  8月10日 羽柴秀吉、毛利輝元(「安芸中納言」)へ朝鮮国出征軍の補給路を脅かした朝鮮国唐島の「番船」壊滅を通知。
       大明国来襲に際しては羽柴秀頼(「秀頼」)に徳川家康(「江戸内府」)・前田利家(「加賀大納言」)・
       上杉景勝(「越後中納言」)を付随させて羽柴秀吉自身は渡海を予定していることを通知。
       更に摂津国大坂より肥前国名護屋間の諸泊には「早船」・早馬を整備することを命令。
       詳細は増田長盛(「増田右衛門尉」)・石田三成(「石田治部少輔」)に伝達させる〔「毛利家文書」B‐911〕
  8月10日 羽柴秀吉、鍋島直茂・鍋島勝茂へ大明軍勢の進出状況によって豊臣秀頼に徳川家康・前田利家・上杉景勝を付随させ留守を託し、
       羽柴秀吉自身は渡海を予定していることを通知。更に大坂〜肥前国名護屋間の諸泊には「早船」・「次船」・「次馬」を整備する
       ことを命令。〔「鍋島家文書」‐113〕
  8月10日 羽柴秀吉、島津義弘・島津家久へ大明軍勢の進出状況によって豊臣秀頼に徳川家康・前田利家・上杉景勝を付随させ留守を託し、
       羽柴秀吉自身は渡海を予定していることを通知。更に大坂〜肥前国名護屋間の諸泊には「早船」・「次船」・「次馬」を整備する
       ことを命令。〔「島津家文書」@‐431〕
  8月10日 浅野長政・滝川雄利・増田長盛・長束正家、島津義弘・島津家久へ羽柴秀吉が大明軍の進出状況により渡海を予定している旨を通知。
       肥前国名護屋までの浦々泊々に「早船」・「次馬」などを備えるよう命令。御朱印の内容については「日本神」・「富士」・
       「白山」・「愛宕」へ照覧し少しも偽りがない旨を通知。〔「島津家文書」A‐981〕
  8月13日 朝鮮出征軍、「赤国(全羅道)」の南原城を攻囲。〔「毛利高棟文書」‐5〕
  8月13日 島津義弘・島津家久、「大明人」が籠城する南原城を攻囲。〔「島津家文書」@‐438〕
  8月14日 羽柴秀吉、鍋島直茂・鍋島勝茂へ大明軍勢の進出状況によって豊臣秀頼に徳川家康・前田利家・上杉景勝を付随させ留守を託し、
       羽柴秀吉自身は渡海を予定していることを通知。更に大坂〜肥前国名護屋間の諸泊には「早船」・「次船」・「次馬」を整備する
       ことを命令。詳細は大島光政・友松盛保に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐114〕
  8月15日 朝鮮出征軍、「赤国(全羅道)」の南原城を攻略。〔「毛利高棟文書」‐5〕
  8月15日 島津義弘・島津家久、夜に南原城を攻略し敵軍首421を討ち取り、日本へ鼻を送付。〔「島津家文書」@‐438〕
  8月15日 毛利高政、南原城において討ち取った首40(1人は生捕)の首注文冊子を作成。〔「毛利高棟文書」‐4〕
  8月15日 毛利高政、南原城において討ち取った首40の鼻を日本へ送付。〔「毛利高棟文書」‐5〕
  8月16日 毛利輝元・長宗我部元親・侍従某(毛利秀元)・吉川広家・安国寺恵瓊・鍋島直茂・鍋島勝茂・池田秀雄・中川秀成・
       黒田長政・加藤清正・早川長政・垣見一直・熊谷直盛ら、赤国(全羅道)・白国(慶尚道)境界安陰郡黄石山城を攻略。
       黄石山城主の金海上官を討ち取る。〔「鍋島家文書」‐119〕
  8月17日 羽柴秀吉、秋田実季へ「伏見御作事」のための「板入用」および「板引綱入用」の件で命令を下す。〔「秋田家文書」〕
  8月20日 浅利頼平家臣の赤石左近・松尾七蔵、秋田実季家臣の山内右衛門に対して浅利頼平は片桐且元(「片桐市正様」)の召喚にて
       急遽の上洛しており「留守中」であることを理由に返報および対処が不可能であるためすみやかに帰還するよう要請。
       〔「秋田家文書」〕
  8月21日 早川長政・垣見一直・熊谷直盛、鍋島勝茂から敵軍の鼻90を受け取る。〔「鍋島家文書」‐115〕
  8月21日 浅利頼平家臣の浅利勘兵衛・赤石左近・松尾七蔵、秋田実季家臣の堤五右衛門・山内右衛門へ浅利頼平上洛中の留守につき、
       対応は不可能であるので速やかなる期間を要請。〔「秋田家文書」〕
  8月23日 足利義昭、大坂において没。〔『日本史人物生没年表』〕
  8月25日 早川長政・垣見一直・熊谷直盛、鍋島勝茂から敵軍の鼻264を受け取る。〔「鍋島家文書」‐116〕
  8月26日 津軽信建、秋田実季へ浅利頼平(「浅利殿」)に対する後援には無関係であることを通知。〔「秋田家文書」〕
  8月27日 早川長政・熊谷直盛・垣見一直、鍋島勝茂から敵軍の鼻170を受け取る。〔「鍋島家文書」‐117〕

 9月
  9月 1日 早川長政、吉川広家より480の鼻を受け取る。〔「吉川家文書」@‐716〕
  9月 3日 浅利頼平(「浅利民部大輔」)、長束正家(「長束大蔵大輔」)へ秋田実季(「秋田」)との紛争による出羽国比内領内での
       文禄3年以来の被害状況を報告。〔「秋田家文書」〕
  9月 3日 浅利頼平(「浅利」)、長束正家(「長束大蔵大輔」)へ天正18年以来の秋田実季(「秋田」)への軍役・物成等を報告。
       〔「秋田家文書」〕
  9月 4日 早川長政、吉川広家より792の鼻を受け取る。〔「吉川家文書」@‐717〕
  9月 7日 早川長政、吉川広家より358の鼻を受け取る。〔「吉川家文書」@‐718〕
  9月 8日 羽柴秀吉、島津義久(龍伯)へ重陽祝儀を謝し、詳細は石田三成に伝達させる。〔「島津家文書」A‐774〕
  9月 9日 早川長政、吉川広家より641の鼻を受け取る。〔「吉川家文書」@‐719〕
  9月 9日 結城晴朝、白川某へ養子の結城秀康(家康二男)の孝行を述べ、去年の羽柴秀吉へ謁見した際の様子を通知する。
       徳川家康が大納言に昇進し、更に去年は羽柴秀吉参内に際して内大臣に昇進したことに触れて嘲笑する。
       〔「結城白川文書」‐886〕
  9月10日 藤堂高虎・脇坂安治・菅達長・藤堂宮内少輔・菅三郎兵衛尉・菅右衛門八・加藤嘉明、「小関船」にて「赤国(全羅道)」の
       浦々島々過半に出撃する。〔「毛利高棟文書」‐6〕
  9月10日 石川光吉、美濃国春近村の井上与三へ小物成請取手形を下す。〔「安藤鉦司氏所蔵文書」‐31〕
  9月10日 「蜂屋右京進」・「高橋二郎兵衛」、秋田実季(「秋田藤太郎」)へ「公儀」御板受取状を発す。〔「秋田家文書」〕
  9月11日 早川長政、吉川広家より437の鼻を受け取る。〔「吉川家文書」@‐720〕
  9月13日 羽柴秀吉、南原城を攻略した島津義弘・島津家久の戦功を賞する。
       詳細は増田長盛・長束正家・石田三成・前田玄以に伝達させる。〔「島津家文書」@‐438〕
  9月13日 羽柴秀吉、南原城を攻略した毛利高政の戦功を賞する。
       詳細は増田長盛・長束正家・石田三成・前田玄以に伝達させる。〔「毛利高棟文書」‐5〕
  9月13日 増田長盛・長束正家、島津義弘・島津忠恒へ南原城攻略の際の鼻目録到来を謝し、羽柴秀吉御朱印を発給した旨を通知。
       更に島津義弘等に全州表への進撃命令を通達。〔「島津家文書」A‐987〕
  9月13日 近衛前久(龍山)、朝鮮在陣中の島津家久へ朝鮮における戦功を賞する。〔「島津家文書」@‐296〕
  9月13日 早川長政、鍋島勝茂から敵軍の鼻1551を受け取る。〔「鍋島家文書」‐118〕
  9月16日 藤堂高虎・脇坂安治・菅達長・藤堂宮内少輔・菅三郎兵衛尉・菅右衛門八・加藤嘉明、「番船」・「大船」14艘、「小船」
       数百艘が駐屯している水営城を襲撃する。毛利高政・藤堂高虎は「番船」に切り込み、毛利高政は2ヶ所手負をうけ海に落下。
       「大風」が吹いて番船は逃げ去り、暮れに及び番船小船数艘を焼き割る。〔「毛利高棟文書」‐6〕
  9月16日 来島通総、水営城での戦闘で戦死。〔『日本史人物生没年表』〕
  9月16日 宇喜多秀家・蜂須賀家政・小西行長・島津義弘・長宗我部元親・吉川広家・生駒一正・鍋島直茂・島津忠恒・長宗我部盛親・
       池田秀雄・中川秀成・熊谷直盛・早川長政・垣見一直、前田玄以・増田長盛・石田三成・長束正家へ全5ヶ条の言上書を送付。
       青国(忠清道)および赤国(全羅道)の経略し損じた諸郡への出兵、赤国(全羅道)・青国(忠清道)の絵図を提出すること、
       小西行長の守城は白国(慶尚道)内であったが赤国(全羅道)順天郡内に変更、釜山海は立花宗茂(「羽柴左近」)在城予定で
       あったが毛利吉成に変更になったこと、島津義弘・鍋島直茂守備の城の間に立花宗茂(「羽柴左近」)の在城すべき城の構築
       許可を言上する。〔「島津家文書」A‐988〕
  9月17日 早川長政、吉川広家より1245の鼻を受け取る。〔「吉川家文書」@‐721〕
  9月17日 藤堂高虎・脇坂安治ら、前日の戦場を見廻り、敵船の皆無を確認する。〔「毛利高棟文書」‐6〕
  9月18日 藤堂高虎・脇坂安治・菅達長・藤堂宮内少輔・菅三郎兵衛尉・菅右衛門八・加藤嘉明、増田長盛・石田三成・長束正家・
       前田玄以へ全羅道川口における戦況を報告する。〔「毛利高棟文書」‐6〕
  9月21日 早川長政・垣見一直・熊谷直盛、吉川広家より珍原郡において870の鼻を受け取る。〔「吉川家文書」@‐138〕
  9月22日 羽柴秀吉、毛利輝元・長宗我部元親・侍従某(毛利秀元?)・安国寺恵瓊・鍋島直茂・鍋島勝茂・池田秀雄・中川秀成・黒田長政・
       加藤清正・早川長政・垣見一直・熊谷直盛へ安陰郡黄石山城攻略および城主金海上官を討ち取った戦功を賞す。
       詳細は前田玄以・増田長盛・石田三成・長束正家に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐119〕
  9月22日 増田長盛・長束正家、黄石山城を攻略し城主金海上官を討ち取った毛利輝元・長宗我部元親・侍従某(毛利秀元?)・
       安国寺恵瓊・鍋島直茂・鍋島勝茂・池田秀雄・中川秀成・黒田長政・加藤清正・早川長政・垣見一直・熊谷直盛の戦功を羽柴秀吉に
       取り次いだ旨を通知。〔「鍋島家文書」‐120〕
  9月23日 片桐且元(「片市正直盛」)、佐々行政(「佐淡路様」)へ浅利頼平(「浅利」)の上洛の件に触れ、秋田・浅利紛争に
       前田利家(「大納言様」)・浅野長政(「浅弾殿」)が周旋(「御肝煎」)するので「其筋目」については前田利家・浅野長政
       の「御意」を得ることが適切であること、片桐且元らからは書状等を送付しないことを通知し、「最前之条数筋目」があれば
       浅野長政(「浅弾殿」)へ上申するべきであり、片桐且元等への報告は無用であることを通知。〔「秋田家文書」〕
  9月26日 羽柴秀吉・豊臣秀頼、京都の新邸へ正式に移徙し諸大名が供奉する。
  9月26日 早川長政・熊谷直盛・垣見一直、吉川広家より朝鮮の珍原郡・霊光郡において討ち取った、10040の鼻を受け取る。
       〔「吉川家文書」@‐722〕
  9月27日 毛利高政、森織部(毛利高政家臣)へ、高麗南原城攻略の際の「一番のり」・「一番くび」を賞して、200石を与える。
       〔「毛利高棟文書」‐10〕
  9月28日 羽柴秀吉・羽柴秀頼、新邸より禁裏に参内。羽柴秀頼は元服し従四位下・左近衛権少将に叙任される。〔「義演准后日記」〕
  9月28日 前田利勝(「豊臣利勝」)、参議・従四位下に昇進。〔『公卿補任』〕
  9月28日 結城秀康(「源秀康」)、参議・従四位下に昇進。〔『公卿補任』〕
  9月30日 羽柴秀吉、伏見城に帰城するが豊臣秀頼は在京したらしい。
  9月    宇喜多秀家、「全羅道海南定榜文」全5ヶ条を掲示。
       土民・百姓を還住させること、「上官」の殺害および上官妻子・従類の誅戮、家宅へ放火すべきこと、官人潜伏の密告奨励、
       還住せぬ者の居宅を放火すべきこと、この「榜文」に違反し「倭卒」を殺害した者については書状をもって報告すべきことを命令。
       〔「島津家文書」A‐970〕
  9月    宇喜多秀家(「豊臣秀家」の印)、「全羅道康津県定榜文」全5ヶ条を掲示。土民・百姓を還住させること、「上官」の殺害
       および上官妻子・従類の誅戮、家宅へ放火すべきこと、官人潜伏の密告奨励、還住せぬ者の居宅を放火すべきこと、
       この「榜文」に違反し「倭卒」を殺害した者については書状をもって報告すべきことを命令。〔「鍋島家文書」‐122〕
  9月    島津義弘・蜂須賀家政・生駒一正・小西行長・毛利吉成・鍋島直茂・池田秀雄・中川秀成・熊谷直盛・垣見一直・早川長政・
       吉川広家・長宗我部盛親、「全羅道海南定榜文」全5ヶ条を掲示。
       土民・百姓を還住させること、「上官」の殺害および上官妻子・従類の誅戮、家宅へ放火すべきこと、官人潜伏の密告奨励、
       還住せぬ者の居宅を放火すべきこと、この「榜文」に違反し「倭卒」を殺害した者については書状を以て報告すべきを命令。
       〔「島津家文書」A‐971〕
  9月    島津義弘・蜂須賀家政・生駒一正・小西行長・毛利吉成・鍋島直茂・池田秀雄・中川秀成・熊谷直盛・垣見一直・早川長政・
       吉川広家・長宗我部盛親、「慶尚道昆陽定榜文」全5ヶ条を掲示。
       土民・百姓を還住させること、「上官」の殺害および上官妻子・従類の誅戮、家宅へ放火すべきこと、官人潜伏の密告奨励、
       還住せぬ者の居宅を放火すべきこと、この「榜文」に違反し「倭卒」を殺害した者については書状を以て報告すべきを命令。
       〔「島津家文書」A‐972〕
  9月    島津義弘・蜂須賀家政・生駒一正・小西行長・毛利吉成・鍋島直茂・池田秀雄・中川秀成・熊谷直盛・垣見一直・早川長政・
       吉川広家・長宗我部盛親、「慶尚道丹城定榜文」全5ヶ条を掲示。
       土民・百姓を還住させること、「上官」の殺害および上官妻子・従類の誅戮、家宅へ放火すべきこと、官人潜伏の密告奨励、
       還住せぬ者の居宅を放火すべきこと、この「榜文」に違反し「倭卒」を殺害した者については書状を以て報告すべき悉を命令。
       〔「島津家文書」A‐973〕

10月
 10月 1日 垣見一直、金溝郡・金堤郡で討ち取った敵軍の鼻3369を受け取る。〔「鍋島家文書」‐121〕
 10月 5日 羽柴秀吉、毛利輝元(「安芸中納言」)へ朝鮮国渡海は無用であり、例え釜山浦に到着しても海路の平穏な時に帰朝すべきを
       命令する。
       詳細は柳沢元政(「柳沢監物」)に伝達させる。〔「毛利家文書」B‐912〕
 10月 5日 羽柴秀吉、畳・樽酒を贈ってきた毛利輝元(「羽柴安芸中納言」)へ別紙で通知した様に渡海無用を再度通知し早々に帰朝
       すべきを命令。
       詳細は増田長盛(「増田右衛門尉」)・石田三成(「石田治部少輔」)に伝達させる。〔「毛利家文書」B‐913〕
 10月 5日 増田長盛(「増右長盛」)、羽柴秀吉に毛利輝元(「安芸中納言」)からの畳・樽酒を披露。また、帰朝命令の「御朱印」を
       調えたので参着次第に帰朝すべきを通達。〔「毛利家文書」B‐934〕
 10月 9日 熊谷直盛、吉川広家より3487の鼻を受け取る。〔「吉川家文書」@‐139〕
 10月10日 藤堂高虎、毛利高政へ宇喜多秀家・小西行長・福原長堯・熊谷直盛に対して戦功を上申したことを報告。
       〔「毛利高棟文書」‐7〕
 10月11日 片桐且元(「片市正直盛」)、佐々行政(「佐淡路様」)へ近江国志賀郡に於ける「御検地」命令を受けて出向、直接に
       近江国石山へ立ち寄り、夕方に佐々行政と対面しようと考えていたが、佐々行政は早々に摂津国大坂城作事のために出発して
       しまったことに触れる。
       また、浅利頼平(「浅利」)の件については片桐且元等は「ひいき仕非申」ずという状態で、前田利家(「大納言様」)・
       浅野長政(「弾正殿」)の「御肝煎之筋目」に相違があれば「沙汰之外」であり佐々行政のもとで訊問すべきこと、
       浅利頼平が片桐且元らのもとへ「細々何かと理之子細」を報告したとしても参会も指図もしないので、秋田実季(「秋田殿」)
       へは「御存分」のごとくいかようにでも命令通達をすべきことを通知。〔「秋田家文書」〕
 10月15日 徳川家康、摂津国有馬阿弥陀堂からの柿1篭を謝し、詳細は阿部正勝に伝達させる。〔『竹橋余筆』〕
 10月15日 阿部正勝、徳川家康へ柿1篭を贈与した摂津国有馬阿弥陀堂に有馬則頼から詳細が通達される旨を通知。
       〔「奥之坊文書」〕
 10月15日 秋田実季(「秋田藤太郎」)、慶長2年分伏見作事用「秋田御材木入用之帳」を若狭国敦賀の大谷吉継(「大谷刑部少輔」)
       へ送付。〔「秋田家文書」〕
 10月18日 山内広道(「広道」)、佐藤肥後守へ「全羅道」に於いて「唐人」1500余りを討ち取ったが「手之者共一人も無異儀」で
       あったこと、去12日に固城に到達したこと、年内帰朝命令が「御上使衆」より通達されたこと、これらの件を「奉行共」所に
       報告するので見物に来るよう促す。また朝鮮半島に於ける新たな「土居番」役を申し付けられたことを報告。
       〔「山内首藤家文書」‐420〕
 10月27日 羽柴秀吉、京極高次邸を訪問するが発病し伏見城に帰城する。

11月
 11月 1日 立花宗茂、毛利高政へ南原城攻略の感状祝言に対する返書に答えて、更に「鉄炮」について申し送る。
       〔「毛利高棟文書」‐8〕
 11月17日 大谷吉継(「刑部少輔」)、越前国永建寺へ全3ヶ条の「禁制条々」を下す。〔「永建寺文書」〕
 11月27日 秋田実季(「秋田藤太郎」)、前田玄以(「徳善院」)・石田三成(「石田治部少輔」)・増田長盛(「増田右衛門尉」)・
       長束正家(「長束大蔵大輔」)へ文禄3年・4年、慶長元年までの秋田領「御蔵米御算用状」を提出。〔「秋田家文書」〕
 11月27日 前田玄以(「徳善院」)・石田三成(「石田治部少輔」)・増田長盛(「増田右衛門尉」)・長束正家(「長束大蔵大輔」)、
       秋田実季(「秋田藤太郎」)へ「秋田内御蔵米御算用状」を下す。〔「秋田家文書」〕

12月
 12月 2日 羽柴秀吉、伏見城から羽柴秀頼へ近日中に面会を欲する旨を通知する。〔「安田文書」〕
 12月 8日 羽柴秀吉、淀殿へ近日中に面会を欲する旨を通知する。〔「原文書」〕
 12月13日 前田玄以・石田三成・増田長盛・長束正家、木下肥後守へ連署状を認める。〔「足守木下家文書」‐42〕
 12月13日 秋田実季(「秋田藤太郎」)、豊臣政権へ慶長2年分の秋田領「免目録御蔵入御物成納口之帳」を提出。〔「秋田家文書」〕
 12月18日 石田三成・増田長盛、毛利高政へ水営城での番船撃破の手柄を披露した旨を報告、大島光政・友松盛保が帰還したが各注進の
       披露は無く、各諸将が帰朝してから言上する旨を通知。また過去の件は「不入御セんさく」とし、帰朝を待ち望むことを通知。
       〔「毛利高棟文書」‐9〕


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