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        【 天下統一期年譜 1596年 】


文禄5・慶長元(1596)年

 1月
  1月 1日 諸大名、元旦の出仕が行われず伏見において越年したまま。〔「義演准后日記」〕
  1月11日 楠正虎、没。〔『日本史人物生没年表』〕
  1月12日 羽柴秀吉、病気が再発。
  1月16日 羽柴秀吉、島津家久の長期在陣を慰労。詳細は毛利吉政・平野長泰に伝達させる。〔「島津家文書」@‐430〕
  1月20日 羽柴秀吉、病気が回復せず諸大名の出仕を延期。
  1月23日 長束正家・増田長盛・前田玄以・石田三成、豊臣秀頼に対し忠誠を誓う全5ヶ条の「霊社上巻起請文」を提出。
       この4名は羽柴秀吉に特別厚恩により取り立てられた者共で、諸事談合して「公儀」(豊臣氏)のために忠節を尽くすこと。
       諸傍輩・大名・小名・縁者・親類に関係なく公正に情報収集を行い異見すべきこと。
       「私之遺恨」により争論が発生しないよう注意し、羽柴秀吉「御法度」に違反する者が出たら各自「御置目をも被仰付候衆」と談合し、
       羽柴秀吉の「御諚」を得て成敗すること。この4名のうち分別を失った場合は、各自談合の上で事態を収拾すること。
       「隠密」に言上された事項には、この4名以外は事態が落着するまでは他言しないこと、を誓約する。
       〔「大阪城天守閣所蔵木下家文書」‐8〕
  1月28日 増田長盛、摂津国有馬から大和国郡山へ帰城し年頭礼を受ける。〔『多聞院日記』〕

 2月
  2月10日 羽柴秀吉、ようやく病気が回復し大坂城において諸大名の出仕を受ける。
  2月14日 羽柴秀吉、伏見城に入城。
  2月20日 勧修寺晴豊、小早川隆景(「備後中納言」)へ勧修寺晴豊自身が「昇進」御礼の披露と「口宣」2通の馳走を担当する旨を
       伝達。〔「毛利家文書」B‐993〕
  2月25日 浅野長政(「長吉」)、佐々行政(「佐々淡路守」)へ秋田実季(「秋田太郎」)と浅利頼平(「浅利民部大夫」)の
       「出入」の件で、佐々行政は「御肝煎」であるので秋田・浅利氏「互之為可然様」に奔走することについては「内々」に
       前田利家(「加中納言」)へも報告しているので「何之道」を採っても「双方能やう」に落着させることが重要であること、
       「不慮之儀」が発生したとしても「矢留」の件は厳命すべき事は秋田実季(「太郎」)からでも、佐々行政からでも折紙を
       認めて秋田実季舎弟の「留守居」へその旨を通達する様に指示を下す。〔「秋田家文書」〕
  2月28日 石川光吉、美濃国春近村の井上与三へ小物成請取手形を下す。〔「安藤鉦司氏所蔵文書」‐30〕

 3月
  3月 1日 石田三成、近江国伊香郡東柳野村へ全13ヶ条の「村掟条々」を下す。〔『古文書類纂』「近江弓削善次郎所蔵文書」〕
  3月13日 増田長盛、吉川広家へ羽柴秀吉より隠岐国の鉛山採掘を許可されたことを報告。〔「吉川家文書」@‐789〕
  3月13日 安国寺恵瓊、吉川広家へ隠岐国鉛山の開発を許可した羽柴秀吉朱印状を斡旋。〔「吉川家文書」@‐790〕
  3月23日 秋田実季(「秋藤太」)、浅野長政(「浅野弾正」)・佐々行政(「佐々淡路守」)へ全3ヶ条の答書を発す。
       抗争中の浅利頼平(「浅利民部少輔」)との件は「各御きもいり」を以ての上申は異儀無きことで、諸事については
       木村重茲(「木村常陸介」)が「肝煎」の如くとの「御意」であるので浅野長政・佐々行政・木村重茲(「三人之者共」)より
       従前の如く浅利頼平(「浅利」)へ通達を依頼することなどを上申す。〔「秋田家文書」〕

 4月
  4月 2日 前田利家(「加中納言利家」)、浅利頼平(「浅利民部少輔」)へ秋田実季(「秋田藤太」)との「出入」の件を
       木村重茲(「木村常陸介」)より報告を受けたことに触れ、浅利頼平への「隠居」を勧告する。
       また浅利頼平子息および浅利「おとなしき衆」は「在秋田」となし、「軍役」等は秋田氏と同様とすること、今度の「出入」
       以後に新築した城砦は「破却」すべきことを通達。さらに「郷替」については近日中に通達があることを予告する。
       〔「秋田家文書」〕
  4月 3日 浅野長政(「浅野弾正長吉」)、浅利頼平(「浅利民部少輔」)へ旧冬に受け取った預状と誓紙を拝見したことに触れ、
       秋田実季(「秋田藤太郎」)と浅利頼平の「出入」の件で前田利家(「筑前殿」)より秋田実季(「藤太」)へ「御異見」が
       なされたこと、浅野長政らからも「異見」したこと、木村重茲(「木村常陸」)からの決定に相違無く収拾する様に
       秋田実季(「藤太」)へ「墨付」が送付されたこと、然る上は「役」などの件は羽柴秀吉「御朱印」を遵守すべきであること、
       浅利頼平子息が「在秋田」すべきことが通達されたこと、直ちに前田利家(「筑前殿」)より折紙が送付されることを通知。
       〔「秋田家文書」〕
  4月 7日 一色藤長、没。〔『日本史人物生没年表』〕
  4月15日 近衛龍山、朝鮮より帰朝予定を通知してきた島津忠恒へ祝し、面会を望む。
       詳細は伊勢貞知(「友枕斎」)に伝達させる。〔「島津家文書」A‐713〕
  4月27日 羽柴秀吉、伏見の長宗我部元親邸を訪問。

 5月
  5月 6日 羽柴秀吉、入京。
  5月 7日 大村由己、没。〔『日本史人物生没年表』〕
  5月 9日 豊臣秀頼、伏見より上洛。
  5月11日 徳川家康(「源家康」)、内大臣・従二位に昇進。〔『公卿補任』〕
  5月13日 豊臣秀頼、初めて参内。
  5月15日 羽柴秀吉、参内して能楽を張る。
  5月17日  羽柴秀吉、参内して能楽を張った後、豊臣秀頼と共に伏見城に帰城。
  5月19日 毛利高政、森織部(毛利高政家臣)へ豊後国日田郡内に500石を扶助。〔「毛利高棟文書」‐1〕
  5月23日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ大明国・朝鮮使節の振舞を命令。〔「鍋島家文書」‐102〕
  5月24日 勧修寺晴豊・久我敦通・中山親綱、前田玄以(「徳善院」)へ小早川隆景(「隆景」)の「清花」成の披露を通知。
       〔「毛利家文書」B‐994〕
  5月25日 羽柴秀吉、伏見城において参内の答礼が行われ諸家・諸門跡・諸大名が残らず出仕。
  5月28日 羽柴秀吉、島津家久へ「大明勅使」渡海につき帰朝命令を延期することを通知。〔「島津家文書」@‐427〕
  5月28日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ「大明勅使」渡海につき帰朝命令を延期することを通知。〔「鍋島家文書」‐103〕
  5月28日 島津義久、近衛龍山へ使者を派遣。〔「島津家文書」A‐701〕
  5月28日 近衛龍山、この日伏見に滞在。〔「島津家文書」A‐701〕
  5月29日 島津義弘、近衛龍山へ下向する旨を通知。〔「島津家文書」A‐701〕
  5月29日 近衛前久(「龍山」)、船で下向した島津義弘へ馬一覧のために出京を促す。〔「島津家文書」A‐701〕

 7月
  7月26日 本多重次、没。〔『日本史人物生没年表』〕
  7月28日 羽柴秀吉、「金春大夫」へ大和国高市郡坊城村の200石を「加増」し、「本知」300石と合わせて500石を「領知」
       とすべきことを通達。〔「金春家文書」〕

閏7月
 閏7月 2日 織田秀信、美濃国法華寺へ寺屋敷等を寄進。寺中における乱妨狼藉・陣取・一切の諸役を免除。〔「法華寺文書」‐6〕
 閏7月12日 京都大地震、発生。〔『言経卿記』〕
 閏7月12日 京都大地震により本願寺本堂・興正寺御堂が転倒。〔『言経卿記』〕
 閏7月12月 京都大地震により伏見城天守閣・大名衆家が倒壊。〔『言経卿記』〕
 閏7月12日 京都大地震により徳川家康の長倉が倒壊。〔『言経卿記』〕
 閏7月12日 京都大地震で加々爪政尚(徳川家康家臣)が死亡。〔『言経卿記』〕
 閏7月12日 近江国以東は京都大地震の影響を受けず。〔『言経卿記』〕
 閏7月12日 大坂城は京都大地震の影響は受けず。〔『言経卿記』〕
 閏7月12日 摂津国有馬の羽柴秀吉御殿が倒壊。〔『有馬縁起』〕
 閏7月13日 畿内において大地震が発生、余震は数ヶ月に及ぶ。〔「義演准后日記」〕
 閏7月14日 羽柴秀吉、倒壊した伏見城に替わる城を伏見木幡山に築城するよう命令。
 閏7月19日 羽柴秀吉、以前に「白鳥」・「鷹」を献上してきた秋田実季(「秋田藤太郎」)へ謝意を告げ、合わせて「材木」調達を
       通達。〔「秋田家文書」〕
 閏7月24日 伊達政宗(「羽柴越前守」)、前田利家へ「人数揃」の日程の通知を依頼。〔『武家手鑑』‐下29〕
 閏7月27日 茶屋四郎次郎(初代)、没。〔『日本史人物生没年表』〕
 閏7月29日 増田長盛、鳥小路某へ八朔祝儀の来訪を謝す。〔『武家手鑑』‐下37〕

 8月
  8月13日 南部信直(「信直」)、陸奥国三戸城留守の某(宛名欠)へ京都大地震における様子と羽柴秀吉(「大閤」)父子の安全など
       を報告。〔「志村文書」〕
  8月20日 斎藤元忠・菊岡重正、美濃国崇福寺へ門前諸役については前田玄以(「徳善院」)の馳走により織田秀信の判形が発せられ、
       更に羽柴秀吉御朱印もあるので心安すべきを通知。〔「崇福寺文書」‐20〕

 9月
  9月 1日 羽柴秀吉、大坂城において明使との会見を行うが和平交渉は決裂、再度朝鮮出兵が発令。
  9月 7日 羽柴秀吉、吉川広家へ伯耆国日野銀山の開発につき銀子の運上を命令。〔「吉川家文書」@‐791〕
  9月 7日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ和議の際に朝鮮王子を人質にできなかったため諸城の普請番を命令。
       さらに軍勢の半分を鍋島勝茂に付属させて在番を、鍋島直茂へは帰朝を命令。帰朝しなければ曲事にすべきを通達。
       〔「鍋島家文書」‐104〕
  9月 8日 増田長盛、宗西堂(不明?)へ伯耆国銀山についての羽柴秀吉朱印状を斡旋にした旨を通達。〔「吉川家文書」@‐792〕
  9月 8日 宗西堂(不明?)、山形九左衛門尉(吉川広家臣)へ伯耆国銀山の羽柴秀吉朱印状は増田長盛が斡旋したことを報告。
       〔「吉川家文書」@‐793〕
  9月18日 前田利家、越前国の高島屋伝右衛門へ縄・炭・塩・竹・竹釘を供出するよう命令。〔「小宮山伝右衛門文書」〕
  9月21日 「蜂屋右京進」・「高橋二郎兵衛」、秋田実季(「秋田藤太郎」)へ「御橋板」受取状を発す。〔「秋田家文書」〕
  9月26日 秋月種実、没。〔『日本史人物生没年表』〕

10月
 10月28日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ鍋島勝茂と入替後に帰朝すべきを命令。〔「鍋島家文書」‐105〕
 10月28日 酒井忠次、没。〔『日本史人物生没年表』〕

11月
 11月 4日 服部正成、没。〔『日本史人物生没年表』〕
 11月 5日 宮部継潤(「継潤」)、美濃国龍徳寺へ地子5石分を安堵。〔「龍徳寺文書」‐140〕

12月
 12月 3日 秋田実季(「秋田藤太郎」)、山城国伏見城作事用の「於秋田御材木入用之帳」を発す。〔「秋田家文書」〕
 12月 6日 片桐且元(「片市正直盛」)、佐々行政(「佐淡路様」)へ秋田実季(「太郎殿」)と浅利頼平(「あさり」)の紛争の件で
       片桐且元は浅利頼平「ひいき」ではないこと、去年以来浅野長政(「弾正殿」)よりこの件の処置について通達を受けている
       こと、この紛争の処置についての経過の談合を希望する旨を通知。〔「秋田家文書」〕
 12月17日 朝廷、摂津国大坂城に移っていた豊臣秀頼の移徙祝賀のため勅使を派遣。

       公家衆・諸大名ら多数が大坂城に登城して盛大な総礼が行われる。〔「義演准后日記」〕
 12月28日 宮部継潤(「継潤」)、宮部長熙(「宮部兵部少輔」)へ因幡国及び但馬国二方郡に拝領した「知行方御朱印目録」を譲与。
       「継潤置目」に相違無く、羽柴秀吉への油断無き忠誠を確認す。〔「宮部文書」〕
 12月 晦日 非有(土佐国滝本寺住職)、長宗我部盛親の武運長久・福貴安全を祈願して、
       「牛の玉(牛王宝印か?)」を提出。〔「土佐国蠧簡集拾遺」‐234〕
    この頃 宮部長熙、宮部継潤(「継潤様」「法印様」)からの知行譲状に答え全4ヶ条の「条々」を発す。〔「宮部文書」〕



    この年 織田秀信(「平秀信」)、権中納言・従三位に昇進。〔『公卿補任』〕
        高山友照、没。〔『日本史人物生没年表』〕


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