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永禄12(1569)年 1月 1月 4日 三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)、京中へ侵入し「以外騒動」となる。〔『言継卿記』四〕 1月 5日 三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)、足利義昭の宿所である本圀寺を攻撃。 足利義昭(「武家」)足軽衆20余人が討死、三好三人衆の軍勢では死人・負傷者が多数であった。〔『言継卿記』四〕 1月 5日 多聞院英俊、去年12月28日に和泉国家原城に於いて松永久秀(「松永」)側の池田丹後守が三好三人衆により攻撃され 敗北を喫した旨を知る。〔『多聞院日記』二〕 1月 6日 山科言継、内侍所簀子に於いて遠見し、南方の所々に火の手が上がるのを確認。風聞では三好三人衆は撃退されたという。 内侍所に於いて山科言継・四辻公遠・白川雅朝・橘以継ら一盞・双六をする。〔『言継卿記』四〕 1月 6日 三好長逸(「三好日向」)、七条に布陣。 これに対し西側から池田勝正・伊丹衆が、北側から幕府「奉公衆」が、南側から三好義継(「三好左京大夫」)が攻撃を加え、 三好三人衆は敗軍、多数の戦死者を出す。〔『言継卿記』四〕 1月 6日 三好三人衆、酉刻に京都六条の足利義昭(「上意」)宿所を襲撃するも散々に敗退す。〔『多聞院日記』二〕 1月 6日 多聞院英俊、三好三人衆が6千の軍勢を率いて上京し一両日以前に浄福寺・東寺周辺に布陣した旨を知る。 〔『多聞院日記』二〕 1月 6日 京都桂川に於いて池田勝正軍(「池田衆」)が三好三人衆軍に敗北したところに三好義継(「左京大夫」)が到来し、 三好三人衆軍を撃破。〔『多聞院日記』二〕 1月 7日 山科言継、昨日の戦死者は桂川から東寺の西辺で1000余人であったこと、岩成友通が北野社松梅院に逃れ入り攻撃され 落行したことを知る。 また三好義継(「三好左京大夫」)の討死の風聞、久我晴通(「久我入道愚庵」)・細川藤孝(「細川兵部大輔」)・ 池田勝正(「池田筑後守」)の身上は不明であり、三好長逸(「三好日向入道」)以下は八幡へ退却したことを知る。 〔『言継卿記』四〕 1月 7日 多聞院英俊、岩成友通(「石成」)は戦死、三好政康(「釣閑」)・三好康長(「咲岩」)は行方知れずとの風聞に接す。 〔『多聞院日記』二〕 1月 9日 山科言継、耆波宮内大輔の訪問を受け、三好義継(「三好左京大夫」)・細川藤孝(「細川兵部大輔」)・ 池田勝正(「池田筑後守」)らは去夜に「西岡勝隆寺之城」(勝龍寺城)へ帰還した由を知る。〔『言継卿記』四〕 1月10日 織田信長(「織田弾正忠」)、松永久秀(「松永弾正少弼」)を同行し美濃国より上洛。〔『言継卿記』四〕 1月10日 松永久秀(「松少」)、織田信長(「信長」)を同行し在京。〔『多聞院日記』二〕 1月10日 丹羽長秀(「丹羽五郎左衛門尉」)、京都八条遍照心院へ先度の「信長寄宿免除之朱印」に別儀無き旨を通達。 〔「大通寺文書」二〕 1月10日 多聞院英俊、「十兵」(十市兵部少輔か)がこの正月より名乗りを「遠勝」から「遠成」と替えた旨を日記に記載す。 〔『多聞院日記』二〕 1月11日 多聞院英俊、松永久秀(「松少」)が昨夕に織田信長(「信長」)を同行し在京した由を知る。〔『多聞院日記』二〕 1月12日 山科言継、織田信長(「織田」)上洛に際し尾張国・美濃国・伊勢国・近江国・若狭国・丹波国・摂津国・河内国・山城国・ 大和国・和泉国の軍勢が悉く上洛し総数は8万人計であるという風聞に接す。〔『言継卿記』四〕 1月14日 織田信長(「弾正忠」)、全9ヶ条の「殿中御掟」を発す。 〔「仁和寺文書」九、「毛利家文書」C‐1566、「蜷川家文書」B‐816〕 1月16日 織田信長(「弾正忠」)、全7ヶ条の殿中御掟「追加」を発す。〔「仁和寺文書」九〕 1月18日 織田信長(「織田弾正忠」)、明日予定されている「三毬打」の準備を見物し朝廷へ警固役を申し出る。〔『言継卿記』四〕 1月19日 朝廷、声聞師の松拍子にて左義長を実施。〔『言継卿記』〕 1月19日 織田信長(「織田」)、日の出以後に警固衆500人計を率いて禁裏へ出仕。それ以外の軍勢は門外を警固させる。 後に織田信長(「織田」)を小御所庭に於いて酒肴を下すことになったが、既に織田信長は到来しているにもかかわらず銚子が 遅れたので退出してしまう。〔『言継卿記』四〕 1月19日 織田信長、近江国堅田を保護する全5ヶ条の「定」を下す。〔「堅田村旧郷士共有文書」〕 1月19日 大津長治(「大津伝十郎長治」)、山城国南禅寺領名主・百姓中へ南禅寺塔頭竜華院領の件で一卜軒が「俗体」でありながら 院領所有権に関し争うので織田信長(「信長」)は「御使者」を以て2度も出頭を命令したが、出頭しなければ足利義昭 「御下知」を「掠」めることは「曲事歴然」であるので、年貢・地子銭は「如先々」く竜華院へ納付することを通達。 〔「鹿王院文書」九〕 1月21日 織田信長、足利義昭「御下知」に任せて烏丸光康へ摂津国上牧の知行を安堵す。〔「烏丸家文書」〕 1月23日 山科言継、長橋局へ祗候し阿茶局を見舞う。 また山科言継、「亜相」(大納言)を「微望」していたが、これが内々に「勅許」される。〔『言継卿記』四〕 1月23日 織田信長、美濃国岐阜より足利義昭へ意見状を提出。〔「徳富猪一郎氏所蔵文書」〕 1月24日 山科言継、甘露寺経元へ「亜相」所望の小折紙を調え披露する由を通知。〔『言継卿記』四〕 1月24日 中御門宣教・相国寺雲松軒春湖、山科言継を訪問し談合。甘露寺経元も来訪。 山科言継、「亜相」昇進の件を披露して「勅許」を得た由を来客に通知。〔『言継卿記』四〕 1月24日 山科言継、朝山日乗より近日中に大和国から上洛する由を通知される。〔『言継卿記』四〕 1月24日 飛鳥井雅敦、柴田勝家(「柴田修理亮」)・蜂屋頼隆(「蜂屋兵庫助」)・森可成(「森三左衛門尉」)・ 坂井政尚(「坂井右近尉」)へ飛鳥井雅敦「拙者寺」である摂津国本興寺に織田軍が在陣しないよう織田信長(「信長」)への 上申を依頼。〔「本興寺文書」〕 1月25日 山科言継、長橋局(薄好子)・誠仁親王(「親王御方」)・大典侍殿(万里小路賢房女)・万里小路惟房へ祗候し 「昇進勅許」の礼を述べる。〔『言継卿記』四〕 1月26日 織田信長(「信長」)、真如堂蓮光院へ「真如堂当屋敷」にはもとのように将軍「御殿」を建立するため、その替地として 一条西の四丁町を寄進するからゥ伽藍を再興するよう命令。 堂領諸所の散在は「任御代々御判之旨」(足利将軍家代々の御下知状の通り)せて安堵すること、西岡知徳庵・道場分は新たな 寄附分でありこれを寺納すること、非分課役・寄宿は「停止」することを通達。〔「真正極楽寺文書」〕 1月27日 山科言継、勘解由小路室町真如堂の「光源院御古城」(足利義輝旧邸)再興の普請を始めた織田信長(「織田弾正忠信長」) へ立ち寄り礼を申し、暫く雑談す。〔『言継卿記』四〕 1月27日 山科言継、この年初めて足利義昭(「武家」)へ出仕。〔『言継卿記』四〕 1月 毛利元就、足利義昭へ周防国徳地村を「料所」として献上する旨を申し出る。 2月 2月 2日 織田信長、勘解由小路室町真如堂に元の如く「武家御城」を近日中に普請を実施するという。尾張国・美濃国・伊勢国・ 近江国・伊賀国・若狭国・山城国・丹波国・摂津国・河内国・大和国・和泉国・播磨国より人夫が石を運び召集され、この日 より「石蔵積」(石垣普請)が開始される。〔『言継卿記』四〕 2月 6日 山科言継・山科言経、禁裏より召集を受けて参内。公家衆、未下刻に参集。 織田信長(「織田弾正忠」)より鮒が進上され各自に鮒汁が振る舞われるという。近日日々織田信長より美物が進上され 「奇特之至」であると思う。〔『言継卿記』四〕 2月 7日 山科言継、午時に「武家御城」の普請場に織田信長(「織田弾正忠」)を見舞う。西方の「石蔵」(石垣)は大方完成した。 聖護院道澄・三好義継(「三好左京大夫」)が見舞に来訪。聖護院道澄・徳大寺公維以下方々よりたくさんの贈物が届けられ 山科言継は驚く。〔『言継卿記』四〕 2月 8日 足利義昭、上杉輝虎(「上杉弾正少弼」)へ三好三人衆の本圀寺襲撃を織田信長(「織田弾正忠」)が撃破したことに触れ、 それ以来現在に至るまで「在洛」していることを通知。また武田信玄との「和与」を命令し「天下静謐」の馳走は 織田信長(「信長」)と談合すべきことを通達。詳細は知光院頼慶に伝達させる。〔「上杉家文書」一〕 2月 9日 「武家御城」の石垣南岸が崩壊し人夫7、8人が死亡。普請には日々数千人が携わっている。〔『言継卿記』四〕 2月10日 織田信長(「信長」)、直江景綱(「直江大和守」)へ上杉輝虎・武田信玄の和睦(「越甲御間和与之儀」)に関する 足利義昭「御内書」が発給されたので、この旨を承知し足利義昭(「公儀」)のために「御馳走」することが肝要であり、特別 に奔走することは織田信長(「信長」)にとっても快然であることを通知。〔「上杉家文書」一〕 2月13日 足利義昭(「武家」)、本国寺より織田信長が進めている旧幕府御殿跡地への「城」築造を見物。〔『言継卿記』四〕 2月13日 多聞院英俊、田村荘が筒井順慶(「筒井」)より「裏成」を申し付けられ、それに古市某が同心したため荘民が逃散した旨を 知る。〔『多聞院日記』二〕 2月14日 山科言継、「武家御城」の普請場に織田信長(「織田弾正忠信長」)を見舞う。 竹内三位入道・朝山日乗・三好義継(「三好左京大夫」)・正親町実彦・飛鳥井雅敦らが見舞に来訪。 「石蔵」(石垣)は4面が組まれ、南面は半分過ぎが出来上がった。山科言継、織田信長へ茶子を進上し午時過まで種々雑談、 織田信長は「機嫌」であった。〔『言継卿記』四〕 2月14日 山科言継、本国寺の足利義昭(「武家」)へ祗候。足利義昭(「武家」)は咳気のため対面は無かった。〔『言継卿記』四〕 2月15日 山科言継、中山孝親(「中山前亜相」)へ「公卿補任」第1冊から第5冊まで貸す。〔『言継卿記』四〕 2月15日 足利義昭、将軍家「御祈願所」摂津国忍頂寺へ足利将軍家「代々判形」に任せ寺領以下に「守護不入」を安堵す。 詳細は細川藤孝(「細川兵部大輔」)・中沢元綱(「中沢下野守」)に伝達させる。〔「寿泉院文書」〕 2月15日 中沢元綱(「中沢下野守」)・細川藤孝(「細川兵部大輔」)、将軍家「御祈願所」の摂津国忍頂寺へ将軍家「御代々御判」 に任せ寺領以下への「守護不入」を安堵する足利義昭「御内書」が下されたことを通達。〔「寿泉院文書」〕 2月16日 織田信長、将軍家「御祈願所」である摂津国忍頂寺へ足利義昭「御内書」・「御下知」に任せ「如先規」く寺領への 「守護不入」を安堵。〔「寿泉院文書」〕 2月18日 山科言継、長橋局(薄好子)へ祗候したところ八幡善法寺が車寄に於いて礼を申す。その際、官女が奏者として 正親町天皇(「上」)へ太刀などを進上。〔『言継卿記』四〕 2月18日 竹内秀勝(「竹下」)、帰城(大和国多聞山城か)す。〔『多聞院日記』二〕 2月19日 山科言継、「御城」普請場の織田信長(「織田弾正忠」)を見舞う。西南の「石蔵」(石垣)が大概出来ていた。 烏丸光康・烏丸光宣親子、曲直瀬道三・里村紹巴ら以下見舞客は数多であった。〔『言継卿記』四〕 2月20日 山科言継、足利義昭への祗候前に「御城」へ立ち寄り織田信長(「織田弾正忠」)に挨拶す。〔『言継卿記』四〕 2月20日 山科言継、六条本国寺の足利義昭(「武家」)を訪問。足利義昭は鷹野へ御成であった。〔『言継卿記』四〕 2月23日 山科言継、「織田弾正忠普請之処」を見舞うが「御大工総官」の件に関して織田信長の「機嫌悪」であったので対面できず。 〔『言継卿記』四〕 2月24日 山科言継、「織田弾正忠普請之処」を見舞う。山科言継、「不弁」のため26日の足利義昭参内に参上できない由は先日 報じたので、「用意之物」1000疋を贈る。〔『言継卿記』四〕 2月24日 山科言継、大館伊予守の使者より明後日の参内時には「衣文」で参上するよう通達される。〔『言継卿記』四〕 2月26日 山科言継、本国寺の足利義昭(「武家」)を訪問する前に織田信長(「織田弾正忠」)へ立ち寄り挨拶す。次いで足利義昭の 殿中へ祗候、参内の装束への着替えを手伝う。〔『言継卿記』四〕 2月26日 足利義昭(「武家」)、禁裏へ参内。〔『言継卿記』四〕 2月26日 山科言継、禁裏退出後に再度足利義昭(「武家」)を訪問。〔『言継卿記』四〕 2月26日 佐久間信盛(佐久間右衛門尉信盛)、柳生宗厳(「柳生新左衛門尉」)へ「御味方」(織田側)と松永久秀(「多門山」)と 連絡を取っていることを賞し、織田信長(「信長」)よりの謝意を通知。また去年以来の結城忠正(「結山」)との談合につい ては決して油断していない旨を通知。〔「柳生文書」〕 2月27日 山科言継、葉室頼房・橘以継を同行し織田信長(「織田弾正忠」)を訪問。普請場を暫く見物。〔『言継卿記』四〕 2月28日 山科言継、葉室頼房を同行し「普請」場の「磊」を見物。〔『言継卿記』四〕 2月28日 織田信長(「織田弾正忠」)、禁裏へ米100俵を献上。〔『言継卿記』四〕 2月28日 織田信長、撰銭令を発し、条目を追加。〔「京都上京文書」〕 2月29日 山科言継、葉室頼房を同行し織田信長(「織弾」)へ祗候、普請を見物。葉室頼房は在所(山城国葛野郡葉室)へ帰宅。 〔『言継卿記』四〕 2月29日 織田信定(「織田彦七」)、京都八条遍照心院知事へ織田信長(「信長」)より発せられた庭石持ち出し「停止」を通達。 〔「大通寺文書」二〕 2月 日 織田信長(「信長」)、山城国慈照院へ相国寺内塔頭慈照院境内の宜竹軒領の地子銭・年貢米を安堵す。〔「慈照院文書」〕 3月 3月 1日 山科言継、東坊城盛長を同行し織田信長(「織田」)を月朔礼のため訪問。〔『言継卿記』四〕 3月 1日 山科言継、本国寺の足利義昭(「武家」)を訪問。 祗候した公家衆は山科言継・飛鳥井雅敦・日野輝資・東坊城盛長・三条公仲らであった。〔『言継卿記』四〕 3月 1日 織田信長(「弾正忠」)、摂津国四天王寺へ撰銭に関する全7ヶ条の「定精選条々」を下す。〔「四天王寺文書」六〕 3月 2日 織田信長(「織田弾正忠信長」)、「上辺」(禁裏か)の次に尋ね事があるというので山科言継を訪問。 山科言継、門外にて織田信長と面会するも「され事」であった。〔『言継卿記』四〕 3月 2日 山科言継、午時に織田信長(「織弾」)を音信の礼のため訪問、暫く普請場を見物す。〔『言継卿記』四〕 3月 2日 禁裏、織田信長(「織田弾正忠」)へ万里小路惟房・広橋兼勝を勅使(「御使」)として派遣され、「副将軍」推任が通達 される。織田信長、この推任に返答せず。〔『言継卿記』四〕 3月 2日 和田惟政(「和田伊賀守」)・「進斎忠正」・竹内秀勝(「竹内下総守」:松永久秀家臣)・柴田勝家(「柴田修理亮」)・ 蜂屋頼隆(「蜂屋兵庫助」)・野間長前(「野間左橘兵衛尉」)・森可成(「森三左衛門尉」)・坂井政尚(「坂井右近尉」) ・佐久間信盛(「佐久間右衛門尉」)、摂津国多田院へ「御用脚」(矢銭賦課のことか)を免除。〔「多田院文書」六〕 3月 3日 山科言継・四条隆昌・橘以継、織田信長(「織田弾正忠」)より横領された公家中知行分の返還の件で旧冬に各自「手日記」 を調えるよう通達があったが、万里小路惟房を通じて明院良政(「明印」)に34人分を渡したところ未届というので、この日 再び知行分に関する報告状を調え、高屋右京進へ渡す。〔『言継卿記』四〕 3月 3日 織田信長(「織弾」)、細川藤賢(「細川右馬頭」)邸の庭より3、4000人の人夫で「藤戸石」を笛鼓にあわせて 勘解由小路室町まで運搬。日暮れまでには堀之内へは入れられず。 山科言継、この「藤戸石」見物に赴き驚嘆す。〔『言継卿記』四〕 3月 3日 丹羽長秀(「丹羽五郎左衛門尉長秀」)、山城国誓願寺泰翁上人へ誓願寺宛の「朱印」を織田信長(「信長」)に「申聞」せ て発給すること、また織田信長への「御執次」を受ける旨も通知。〔「誓願寺文書」二〕 3月 4日 細川藤賢邸より運搬された石(「藤戸石」)、御城堀之内へ搬入される。〔『言継卿記』四〕 3月 5日 山科言継、来訪した誓願寺玄易より織田信長(「織田」)が寺の件で「朱判之折紙」を発給した由を知らされる。 〔『言継卿記』四〕 3月 5日 織田信長(「信長」)、京都本能寺へ「屏風」の献上を謝す。詳細は「黄門」に通達させる。〔「本能寺文書」二〕 3月 5日 毛利輝元(「輝元」)、大和国東大寺目代へ周防国佐波郡「国衙」土居8町の件で弘治4年3月15日付の 毛利隆元(「隆元」)の「証判」の通り「進止」すること、また「段銭」および「諸夫役」も免除し、「先例」に任せて執務 すべきことを通知。〔「東大寺文書」〕 3月 6日 山科言継、未刻に餅150個・台物として好物の両種と干物魚・「錫」(酒)を携え織田信長(「織田弾正忠」)を訪問。 飛鳥井雅教(「飛鳥黄門」)・細川藤孝(「細川兵部大輔」)らと閑談し黄昏に及び帰宅。〔『言継卿記』四〕 3月 7日 山科言継、勧修寺晴右・甘露寺経元と共に織田信長(「織田弾正」)を訪問。11ヶ国から集められた人夫により御城の内側 の「磊」(石垣)がこの日悉く完成したというので暫く見物し驚嘆す。また、織田信長(「織田」)が美濃国下国の話をした ので公家衆は秋頃までは在京するよう慰留する。山科言継、細川藤賢(「細川右馬頭」)に自邸まで送ってもらう。 〔『言継卿記』四〕 3月 8日 今出川晴季・万里小路惟房・山科言継・広橋兼勝、和田惟政(「和田伊賀守」)へ去年の諸口諸役の件で「信長朱印」が調進 された際に足利義昭(「武家」)の「御下知」も同様に下されたがその内容通り知行押領分が返還されていないため返還督促を 通達。〔『言継卿記』四〕 3月 9日 山科言継、勧修寺晴右・葉室頼房・倉部某・五辻為仲・中山親綱と共に織田信長(「織田信長」)を訪問。 五辻為仲・中山親綱は織田信長(「織田信長」)へ初めて対面。暫く普請を見物す。〔『言継卿記』四〕 3月10日 山科言継、「大納言」勅許があり、勅により「正二位位記」を返上す。〔『言継卿記』四〕 3月10日 織田信長、御城の南門に櫓を建てる。〔『言継卿記』四〕 3月11日 山科言継、未刻に織田信長(「織田」)を訪問し普請を暫く見物。この日は寒風であったため織田信長(「織弾」)は外へ 出ず、三好義継(「三好左京大夫」)が「石引」をしていた。山科言継・日野輝資、織田信長(「織弾」)を見舞い、晩食を 相伴す。〔『言継卿記』四〕 3月12日 陽春院(近衛尚通女:足利義輝・義昭母)、足利義昭(「武家」)の装束を禁中清涼殿へ預け置くよう申請し了承される。 〔『言継卿記』四〕 3月12日 多聞院英俊、播磨国浦上より足利義昭(「当将軍」)への「祝言」があったことを知る。〔『多聞院日記』二〕 3月12日 「寺門」(大和国興福寺門跡)より織田信長(「信長殿」)へ音信・酒樽を進上す。〔『多聞院日記』二〕 3月13日 長講堂に於いて「後白河院御忌月」が行われる。〔『言継卿記』四〕 3月14日 山科言継、持明院基孝・倉部某・橘以継を同行し織田信長(「織田弾正忠」)を訪問し普請を見物す。〔『言継卿記』四〕 3月15日 奥州津軽「南部弥左衛門」(南部季賢カ)、山科言継を訪問し揖保庄代官を所望。近日摂津国へ入国する軍勢に編入されて いるという。〔『言継卿記』四〕 3月16日 南部但馬守、山科言継を訪問し知行分の件で馳走を依頼。山科言継、織田信長の奏者へ引き合わせる由を通知。 〔『言継卿記』四〕 3月16日 山科言継、織田信長(「織田霜台」)を訪問し普請を見物。〔『言継卿記』四〕 3月16日 織田信長(「織田」)、この朝に禁裏へ串柿2盆・台物を献上。〔『言継卿記』四〕 3月16日 織田信長(「弾正忠」)、上京へ「銭定」など全7ヶ条の「精撰追加条々」を下す。 〔「京都上京文書」一・「石清水文書」一〕 3月17日 三千院應胤法親王(「梨門」)、山科言継を同行し織田信長(「織田」)へ渡御。〔『言継卿記』四〕 3月18日 織田信長(「織田」)、禁裏へ鮒を献上。〔『言継卿記』四〕 3月18日 木下秀吉、小早川隆景へ毛利元就から信長への使者派遣につき取次ぐ旨を通知。〔「小早川家文書」〕 3月21日 坂井利貞(「坂井文介」:尾州衆)、山科言継に「鯨」荒巻を贈る。〔『言継卿記』四〕 3月21日 山科言継、中山孝親・白川雅朝を同行し織田信長(「織田弾正忠」)を訪問。御城普請を見物。〔『言継卿記』四〕 3月21日 大和国興福寺、竹内秀勝(「竹下」)へ音信を遣わす。〔『多聞院日記』二〕 3月21日 多聞院英俊、1月初頭に和泉国の「ノトカミ」という人物が松永久秀(「松少」)への「曲事」が理由で身柄を拘束されて いたが、この日に京都に於いて「自腹切」った旨を知る。〔『多聞院日記』二〕 3月21日 小笠原秀政、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕 3月23日 山科言継、早旦に誓願寺誓忍へ書状等を送付。 誓願寺長老へ扇子3本、松平親乗(「松平和泉守」)へ扇子2本、鳥居忠吉(「鳥井伊賀入道」)へ扇子2本の贈与を託す。 扇子は何れも三千院應胤法親王筆の和歌入りであった。〔『言継卿記』四〕 3月23日 島田秀満(「島田孫右衛門尉秀順」)、丹波国船井郡11村(北野社領)へ足利義昭「御下知」・織田信長(「信長」)の 「朱印」で「如先々」く命令したので早々に年貢・諸公事物などは北野社松梅院雑掌に厳重に渡すよう通達。 〔「北野神社文書」五〕 3月23日 京都の織田信長(「織田弾正忠」)、大和国奈良の方々へ「銭定ノ制札」を下す。〔『多聞院日記』二〕 3月24日 多聞院英俊、前日に京都の織田信長(「織田弾正忠」)より大和国奈良の方々へ「銭定ノ制札」が下された旨を知る。 〔『多聞院日記』二〕 3月24日 大和国興福寺、竹内秀勝(「竹下」)より返事を受ける。〔『多聞院日記』二〕 3月25日 「禁裏御料所」の率分9人分について、旧冬の織田信長(「織田弾正忠」)朱印状に加え、足利義昭(「武家」)の 「御下知」が出されたが、木下秀吉(「木下藤吉郎」)が「逐上」し、山科言継らが和田惟政(「和田伊賀守」)へ旧冬の裁許 実行を申し入れたところ別儀は無しというのでこの日今出川晴季・万里小路惟房・広橋兼勝を同行し各々に礼問、再度織田信長 の「朱判」を下されるよう依頼。〔『言継卿記』四〕 3月25日 山科言継・今出川晴季・万里小路輔房・広橋兼勝、普請場に於いて織田信長(「織田」)に見参。〔『言継卿記』四〕 3月26日 山科言継、和田惟政(「和田伊賀守」)へ酒樽を贈る。〔『言継卿記』四〕 3月27日 山科言継・飛鳥井雅教、禁裏より「御使」(勅使)として本国寺の足利義昭(「武家」)を訪問。〔『言継卿記』四〕 3月27日 宝鏡寺殿新御所、この夜に織田信長(「信長」)の媒酌により三好義継(「三好左京大夫」)へ「嫁娵」という。 〔『言継卿記』四〕 3月28日 山科言継、織田信長(「織田弾正忠」)を訪問し御城普請を見物。 烏丸光康・烏丸光宣・三好義継(「三好左京大夫」)・松永久秀(「松永山城守」)らが見舞に来訪。〔『言継卿記』四〕 3月29日 山科言継、禁裏へ「公卿補任」後醍醐院上の部を持参。〔『言継卿記』四〕 3月 日 織田信長(「信長」)、山城国誓願寺泰翁長老へ「参銭」等を安堵。また「如近年可為一職」を安堵。〔「誓願寺文書」二〕 4月 4月 2日 山科言継、織田信長(「織田弾正忠」)を訪問するも留守であったので御城「普請」を見物し帰宅。「磊」3重と南巽の 「だしの磊」が完成し、東の「だし」が普請中であった。この敷地は近衛家のものであったが悉く足利義昭奉公衆の屋敷地と なった。〔『言継卿記』四〕 4月 2日 木下秀吉(「木下藤吉郎」)、織田信長の使者として岡殿(覚音女王:大慈光院宮)へ参上、山科言継も祗候。 丹波国佐伯南北庄の件で、「御代官」は細川藤賢(「細川右馬頭」)であったが内藤五郎がその地を渡さないというので 内藤五郎に木下秀吉(「木下」)が添えられ「御代官」職について協議が行われ、佐伯南北両庄より80石進納することを定む。 山科言継、「御浦山敷」く感ず。木下秀吉(「藤吉郎」)、岡殿(覚音女王)に謁見し酒を賜わる。〔『言継卿記』四〕 4月 3日 「禁裏御大工総官」宗久、山科言継を訪問。足利義昭(「武家」)奉書では「右衛門」定宗に「総官職」を任命したので、 正親町天皇(「禁裏」)の命令により山科言継を勅使(「御使」)として織田信長(「織田」)へ取り成しを依頼。 〔『言継卿記』四〕 4月 3日 山科言継、長橋局(薄好子)へ祗候し織田信長(「織田」)へ禁裏御大工「総官」の件で通達を受ける。その後、山科言継は 織田信長を訪問し正親町天皇からの女房奉書を届けるが、織田信長は最近足利義昭(「武家」)と「申結子細有之」といい、 また足利義昭の意志(「武命」)は堅固であるので「大工風情」の件であるから強硬に異を唱えるのは如何なものかと申し入れ を拒絶する。山科言継、織田信長の返答を長橋局(薄好子)へ上奏、万里小路惟房へ内々にこの件を報告。〔『言継卿記』四〕 4月 3日 松永久秀(「松少」)、この日京都より大和国多聞山城へ帰還。〔『多聞院日記』二〕 4月 4日 山科言継、朝廷から足利義昭(「武家」)へ先日通達した「合子之公事代官職」について飛鳥井雅教(「飛鳥黄門」)と共に 勅使(「御使」)として派遣命令を受ける。山科言継・飛鳥井雅教、正親町天皇「女房奉書」を預かり足利義昭を訪問。 足利義昭、朝廷から先日通達された件の返事を奉行を以て奏上し糺明を申請。奉行との連絡について問答があった。 〔『言継卿記』四〕 4月 4日 多聞院英俊、松永久秀(「松少」)が昨日京都より大和国多聞山城へ帰還した旨を知る。〔『多聞院日記』二〕 4月 5日 織田信長(「信長」)、山城国八瀬童子の「ゥ商売」について「綸旨」及び将軍家「御代々御下知」に任せて安堵す。 また八瀬童子の居住地八瀬の山林・竹木伐採や「郷質」・「所質」を「押執」ることを「停止」す。 〔「八瀬童子会文書」‐84〕 4月 6日 山科言継、万里小路輔房・広橋兼勝を同行し「率分」の件で「折紙」を所望するため織田信長(「織田弾正忠」)を訪問。 織田信長は屋敷内に居たが出てこなかったので暫く普請を見物、一旦退散する。 申刻に山科言継・万里小路輔房・広橋兼勝は再度織田信長を訪問し対面。しかし取り立てて変わったこともなく帰宅する。 〔『言継卿記』四〕 4月 7日 山科言継・万里小路輔房・広橋兼勝、早旦に織田信長を訪問。蹴鞠が行われており、白地を着用した織田信長と対面。 織田信長より「前之筋目」(率分についての折紙の所望?)は和田惟政(「和田伊賀守」)より通知するとの返答を受ける。 山科言継ら、和田惟政の旅宿である妙蓮寺を訪問し、先ず「公方御下知」を下されるよう依頼して帰宅。〔『言継卿記』四〕 4月 7日 山科言継・万里小路輔房、諏訪信濃守を訪問し足利義昭「御下知」の件を談合。〔『言継卿記』四〕 4月 7日 足利義昭、上杉輝虎(「上杉弾正少弼」)へ「甲越無事」の件について去々月に派遣した使僧の知光院頼慶が帰洛しないため 上杉輝虎の返答を督促。再度の使者派遣と軽率な出陣を誡める。詳細は織田信長(「信長」)に伝達させる。 〔「上杉家文書」・「別本歴代古案」五〕 4月 7日 織田信長(「信長」)、直江景綱(「直江大和守」)へ去々月に上杉輝虎・武田信玄の和睦に関する足利義昭「御内書」が 下されたが、使者の帰洛が無いため再度足利義昭「御内書」が送付されたので、この旨に応ずるよう促す。 〔「上杉家文書」一・「上杉古文書」十六・「別本歴代古案」五〕 4月 7日 織田信長(「信長」)、紀伊国金剛峯寺へ三好三人衆(「御敵」)に一味し、度々の軍事行動及び要害構築したこと、大和国 宇智郡に於ける不法行為などを「言語道断」と譴責し、恭順の意を示さなければ直ちに「御成敗」の対象となる旨を通達。 〔「高野山恵光院文書」〕 4月 7日 織田信長(「信長」)、本郷信富(「本郷治部少輔」)へ武田義統(「武田大膳大夫」:足利義昭の妹婿)の「折紙」に任せ 若狭国本郷の年貢以下を集積し名家本郷家の維持を安堵す。〔「若狭本郷文書」四〕 4月 7日 金山信貞(「金山駿河守」:三好義継家臣)、紀伊国金剛峯寺へ高野山僧兵が三好三人衆(「御敵」)に「一味」し大和国 宇智郡に2城を構築、この不法行為は足利義昭「上聞」に達しており、織田信長(「信長」)の「直書」で通達したように2城 が「退散」しなければ金剛峯寺の敵対軍事行動是認は歴然であり、この上は衆僧を捕縛し金剛峯寺への軍事行動に及ぶので、 後悔しないように衆議することが肝要であることを通達。〔「高野山恵光院文書」〕 4月 7日 紀伊国守護代の遊佐盛(「遊佐勘解由左衛門尉」)・三宅智宣(「三宅志摩守」)・遊佐高清(「遊佐越中守」)、紀伊国 金剛峯寺へ僧兵衆が三好三人衆(「御敵」)に「一味」し大和国宇智郡における「押妨」は足利義昭「上聞」に達したこと、 織田信長(「信長」)の「直札」で通達した通り宇智郡2城の「退散」が実現しなければ「満山許容」(金剛峯寺の是認)は 歴然であるため僧兵衆を捕縛し寺領収公に及ぶこと、これらの件を「悪党」らに異見し後悔の無いように「相理可申」き旨を 通達。〔「高野山恵光院文書」〕 4月 7日 多聞院英俊、大和国多聞山城へ松永久秀(「松城」)を礼問。〔『多聞院日記』二〕 4月 8日 山科言継、万里小路輔房を同行し足利義昭(「武家」)を訪問。「率分」の件の「女房奉書」を提示し足利義昭「御下知」を 所望したところ、この件は織田信長(「織田」)が停廃したので先ず織田信長(「織田」)へその次第を通知し、その後に 足利義昭「御下知」を調えるとの返事であった。次いで「改元」の件での交渉あり。〔『言継卿記』四〕 4月 8日 山科言継、長橋局(薄好子)へ祗候し「改元」の件を内々に申し入れる。〔『言継卿記』四〕 4月 8日 松永久秀・松永久通(「松永父子」)、「南」(摂津国方面)へ出陣。 三好義継(「三好左京大夫」)・畠山高政(「畠山殿」:河内国守護)が摂津国・河内国・和泉国の軍勢を率いて出陣。 〔『多聞院日記』二〕 4月10日 織田信長(「信長」)、山城国北野社松梅院へ社領丹波国船井郡の「地頭職」11ヶ村を将軍家「御代々之御判」・足利義昭 「御下知」に任せて安堵す。〔『北野天満宮史料』古文書〕 4月10日 飯尾貞遙(「貞遙」)・諏訪俊郷(「俊郷」)、上山城賀茂荘へ社領を安堵し、毎年400石の「運上」と「軍役」100人 宛を徴集する旨を通達。〔「賀茂郷文書」・「沢房吉氏所蔵文書」〕 4月13日 山科言継、織田信長(「織田弾正忠」)を訪問。 烏丸光康(「烏丸一品」)・烏丸光宣・万里小路惟房・万里小路輔房・山科言継ら公家衆が各自「訴訟」のために訪問した。 織田信長は公家領については準備が調っておらず、さらに蹴鞠にて「足損」といって面会しなかった。〔『言継卿記』四〕 4月13日 山科言継、織田信長(「織田」)を訪問した時に暑さ故、野村又介宿所で袷を脱ぐ。〔『言継卿記』四〕 4月13日 織田信長(「織田弾正忠」)、この晩に妙覚寺へ移徙す。足利義昭(「武家」)は明日新築の幕府御所へ移徙の予定という。 〔『言継卿記』四〕 4月13日 織田信長(「信長」)、山城国西岡の灰方公文へ広橋国子(曇華院殿:聖秀女王の母)が徴集している西岡灰方からの 「夫銭」は月毎に納入するはずであるが理由を付けて「難渋」していることは「曲事」であるとし、「如前々」く進納するよう 命令。〔「曇華院文書」〕 4月13日 多聞院英俊、早旦に松永久秀の片岡の陣を見舞う。〔『多聞院日記』二〕 4月14日 足利義昭(「武家」)、巳刻に勘解由小路室町の幕府御所へ移徙す。〔『言継卿記』四〕 4月14日 織田信長(「信長」)、花山院家輔(「花山院殿」)へ京都一条の道場屋敷半分の南方と門・藪を「花山院殿御分」として 安堵す。〔「梅戸在治氏所蔵文書」・「古文書纂」二十九〕 4月14日 明智光秀(「明智十兵衛尉」)・木下秀吉(「木下藤吉郎」)、山城国賀茂荘中へ「落来」(隠蔽していた)田畠について 足利義昭「御下知」に任せ「賀茂売買之舛」により毎年400石の「運上」と「軍役」として100人宛の「陣詰」命令が 出されたことを通達。〔「賀茂郷文書」・「沢房吉氏所蔵文書」〕 4月15日 烏丸光康・烏丸光宣・万里小路惟房・山科言継ら、妙覚寺の織田信長(「織田弾正忠」)を訪問。 妙覚寺には若狭国・丹波国・摂津国衆が数多出入しており「公事」は取り乱れていた。公家衆は暫く仏殿で待機していたが、 使者の通達によれば烏丸の摂津国知行分の件、万里小路惟房・山科言継の「率分」の件、「禁裏御料所」の件は大概手続きが 調ったとのことであった。〔『言継卿記』四〕 4月15日 山科言継、足利義昭(「武家」)へ祗候し移徙を祝す。申次は細川藤孝(「細川兵部大輔」)であった。 足利義昭(実際は大蔵卿局)、飯川肥後守を以て「改元」の件を「如何様にも」この月中に行うよう内々に上奏するよう要請。 〔『言継卿記』四〕 4月15日 織田信長(「信長」)、摂津国西宮西蓮寺「住持職」を本寺の証文の通り眼阿弥陀仏に安堵する。〔「西蓮寺文書」〕 4月15日 京都の織田信長(「信長」)、摂津国入江城と山城国普賢寺谷城を攻略。〔『多聞院日記』二〕 4月15日 多聞院英俊、再度松永久秀の布陣している片岡城を見舞う。〔『多聞院日記』二〕 4月16日 山科言継、早旦に長橋局(薄好子)へ祗候し「改元」の件を申し入れたところ、当月は「無餘日」というので実現し難いと いう由を内々に伝達(足利義昭へ?)するようにとの指示を受ける。 次いで山科言継、万里小路惟房を訪問し「改元」の件を申し入れると長橋局(薄好子)と同意見であった。〔『言継卿記』四〕 4月16日 一条内基(「一条殿」)、山科言継へ使者を派遣し織田信長(「織田」)に鶉を贈り「地子」の件での要望の「御書」調進を 依頼。〔『言継卿記』四〕 4月16日 山科言継、冷泉俊右(「下冷泉羽林俊右朝臣」)が上洛したというのでこれを迎え暫く雑談。「日乗」に逢いたいとの要望を 受ける。〔『言継卿記』四〕 4月16日 烏丸邸に滞在していた朝山日乗は「禁裏御修理」の件で番匠共を召集し1万貫計の費用にて悉く修理を完了したという。 山科言継・冷泉俊右、烏丸邸に朝山日乗を訪問し、公家衆の知行分について注進し、織田信長(「織田」)へ取り成しを依頼。 山科言継、冷泉俊右を朝山日乗と引き合わせ、更に山科言継・四条隆昌・橘以継らの知行分について「申含」す。 〔『言継卿記』四〕 4月16日 明智光秀(「明智十兵衛尉光秀」)・中川重政(「中川八郎右衛門重政」)・丹羽長秀(「丹羽五郎左衛門尉長秀」)・ 木下秀吉(「木下藤吉郎秀吉」)、立入宗継(「立入左京亮」)へ宇津頼重(「宇津右近大夫」)が「禁裏御料所」を「押領」 した件について織田信長(「信長」)の糺明により宇津頼重へ違乱停止命令が出され織田信長(「信長」)の「朱印」を以て 山国荘「両御代官」(庭田重保・高倉永家)へ上奏したこと、従来の通り朝廷の「御直務」とするため年貢納入を確保すること を通達。〔「立入宗継文書」(山国庄直務)‐2〕 4月16日 多聞院英俊、松永久秀在陣中の片岡城より大和国興福寺多聞院へ帰還。〔『多聞院日記』二〕 4月16日 多聞院英俊、京都の織田信長(「信長」)が去4月15日に摂津国入江城と山城国普賢寺谷城を攻略した旨を知る。 〔『多聞院日記』二〕 4月18日 山科言継、長橋局(薄好子)より「先度御器之公事」についての返事及び飛鳥井雅教を同行し足利義昭(「武家」)へ祗候 するようにとの指示を受ける。飛鳥井雅教は織田信長(「信長」)を訪問し、その後直接足利義昭(「武家」)へ祗候するので 待っているようにとの連絡があった。山科言継、朝食後に足利義昭(「武家」)へ祗候し飯川肥後守へ「改元」は当月中は 不可能であり「吉月」の7月に必ず実行するようにする由を通達し、高辻長雅の身上について申し含めた。 また山科言継は大蔵卿局を訪問し「改元」について内々に通達。また山科言継、奉公衆の細川藤賢(「細川右馬頭」)ら数多と 面会し暫く雑談したが、飛鳥井雅教は来訪しなかったので先に幕府御所を退出、その後直接長橋局(薄好子)へ祗候し状況を 報告。〔『言継卿記』四〕 4月18日 山科言継、高辻長雅を訪問し「改元」は7月に延引した由を報告。〔『言継卿記』四〕 4月18日 明智光秀(「明智十兵衛尉光秀」)・中川重政(「中川八郎右衛門重政」)・木下秀吉(「木下藤吉郎秀吉」)・ 丹羽長秀(「丹羽五郎左衛門尉長秀」)、丹波国の宇津頼重(「宇津右近大夫」)へ「禁裏御料所」山国荘については「先規」 の如く「禁中」の命令を受け織田信長(「信長」)が「朱印」を以て「違乱」を禁止する旨を通達。 〔「立入宗継文書」(山国庄直務)‐2・「古簡雑纂」六〕 4月19日 織田信長(「信長」)、烏丸光康(「烏丸殿」)へ足利義昭が烏丸光康の「忠儀」に対して摂津国の「当知行分」及び上牧内 に於いては「近年御不知行分」などを改めて進呈する「御下知」を受けて「如前々」く「不入之地」として安堵す。 〔「烏丸家文書」〕 4月19日 織田信長(「信長」)、山城国大原野神社へ足利義昭「御下知」に任せ社領を安堵す。〔「大原野神社文書」〕 4月20日 山科言継、午時に飛鳥井雅教の来訪を受け共に足利義昭(「武家」)へ祗候。「御器之公事御返事如何之由」を直接申し入れ ようと奉行衆へ取り次ぎを依頼したが、直接伝達できないということであった。〔『言継卿記』四〕 4月20日 山科言継、織田信長(「織田弾正忠」)が明日下向するというので暇乞に出向こうとしたが「以外風雨により中止。 〔『言継卿記』四〕」 4月20日 足利義昭、上杉輝虎(「上杉弾正少弼」)へ「越甲間儀」について度々和睦を督促しているが、交渉の促進を意図して使者 瑞林寺を派遣したこと、是非とも和睦締結に応じること、軽率な軍事行動を誡めることを通達。詳細は織田信長(「信長」)に 伝達させる。〔「上杉家文書」一・「別本歴代古案」五〕 4月20日 織田信長(「信長」)、曇華院殿(聖秀女王)へ山城国大住荘(曇華院領)内で森林某知行分の3分の1は「当知行」である が、「去年錯乱」(足利義昭・織田信長上洛戦)以来年貢を上納しない旨は許し難く、今後は「御直務」として「一円」を申し 付け、同様に「御代官」南大隅(曇華院被官人)の知行分の「跡職」も安堵する。〔「曇華院文書」〕 4月20日 織田信長(「信長」)、伊丹親興(「伊丹兵庫助」)へ摂津国潮江荘の「散在」及び摂津国難波村の件は「曇華院殿御領」で 伊丹親興が「代官」であるが、去年分の年貢未進については不届きであるため特別に奔走し進納することを督促。 〔「曇華院文書」〕 4月20日 織田信長(「信長」)、京都大徳寺塔頭大慈院へ清光院私領・代官敷地・買得田畠地子銭を将軍家「御代々御下知」に任せ 「当知行」として安堵。〔「大慈院文書」〕 4月20日 織田信長(「信長」)、京都妙顕寺へ足利義昭「御内書」・「御下知」に任せ寄宿免除を安堵。〔「妙顕寺文書」一〕 4月20日 多聞院英俊、京都の織田信長(「信長」)が翌21日に美濃国岐阜へ帰還する予定を知る。〔『多聞院日記』二〕 4月21日 山科言継、早旦に織田信長(「織田弾正忠」)を訪問するが、春日室町に於いて行き会い暇乞を述べたところ、織田信長は 足利義昭(「武家」)へ祗候するというので同行。足利義昭、織田信長・山科言継と対面し、織田信長へ贈物・種々の申し置き をし、各自が落涙した。足利義昭は門外まで見送り、「東之磊」上より織田信長が粟田口に入るまで「遠見」した。 〔『言継卿記』四〕 4月21日 山科言継、足利義昭(「武家」)へ「改元」は7月に延期されたこと、そして足利義昭の「昇進」について談ず。 〔『言継卿記』四〕 4月21日 正覚院弥阿弥、「信長殿朱印」を持参した「上使」が到来したので異儀無く承知して堤新丞(花山院家御内)に引き渡して 今後の「違乱」無き旨を誓約す。〔「梅戸在治氏所蔵文書」・「古文書纂」二十九〕 4月21日 織田信長(「信長」)、京都東寺へ将軍家「御代々御判」・「御下知」により「当知行」を安堵す。 〔「東寺百合文書」リ之部百〕 4月24日 多聞院英俊、幼称の「天子」の姫を盗む夢を見る。〔『多聞院日記』二〕 4月25日 佐久間信盛(「佐久間右衛門尉」)、摂津国西宮眼阿弥陀仏へ西蓮寺「住持職」を本寺の証文に任せ、織田信長(「信長」) 「御朱印」を以て安堵する旨を通達。〔「西蓮寺文書」〕 4月25日 「十」(十市か)の件で松永久秀在陣中の万歳陣より竹内秀勝(「竹下」)が大和国興福寺に到来。〔『多聞院日記』二〕 4月26日 山科言継、飯尾右馬助より使者を受け足利義昭より「合子之公事御返事」があるというので明日「殿中」(幕府御所)へ参上 するよう指示を通知される。〔『言継卿記』四〕 4月26日 「十市」、早旦に大和国十市城へ帰城。〔『多聞院日記』二〕 4月27日 山科言継、足利義昭(「武家」)へ祗候。〔『言継卿記』四〕 4月29日 山科言継、飛鳥井雅教の使者より足利義昭(「武家」)への参上すべき旨の連絡を受け、即時足利義昭(「武家」)へ祗候。 飯尾右馬助より「合子之公事之御返事」を申し渡される。〔『言継卿記』四〕 4月 足利義昭、本願寺顕如へ幕府御料所である越中国太田保に関する命令を下す。 4月 日 織田信長(「信長」)、山城国清和院へ院領の山城国西岡富坂・敷地・末寺については「御代々」の「綸旨」・「御下知」に より安堵す。〔「清和院文書」坤〕 4月 日 織田信長(「信長」)、猪飼野佐渡守・猪飼野孫右衛門尉へ近江国滋賀郡山中からの「木場役」を従前の如く「取沙汰」する 旨を命令。〔「高須文書」〕 4月 毛利元就、足利義昭へ石見国大森銀山の半分を付加。 5月 5月 1日 山科言継、東坊城盛長を同行し足利義昭(「武家」)へ出仕。 足利義昭、山科言継・万里小路輔房・烏丸光宣・東坊城盛長らと対面。〔『言継卿記』四〕 5月 4日 足利義昭(「武家」)、「万松院殿」(足利義晴)忌月により相国寺へ御成。〔『言継卿記』四〕 5月 5日 足利義昭(「武家」)、賀茂競馬へ御成。〔『言継卿記』四〕 5月 5日 山科言継、午時に足利義昭(「武家」)を訪問するも留守であった。〔『言継卿記』四〕 5月 8日 大和国布施に於いて合戦があり、松原衆が多数戦死した。〔『多聞院日記』二〕 5月10日 松永久秀・松永久通(「松少父子」)、大和国貝吹城へ攻撃す。〔『多聞院日記』二〕 5月10日 多聞院英俊、大和国貝吹城に於ける戦闘の状況を知る。柳本某(24才)の戦死、織田左近の名代であった織田「ウタノ助」 の戦死などであったという。〔『多聞院日記』二〕 5月11日 山科言継、木村越前守・岡本越後入道の訪問を受けて「率分」に関する処置を知らされる。〔『言継卿記』四〕 5月13日 竹内秀勝(「竹下」)、大和国興福寺へ「鈴」(酒)・蕗・餅を送付。〔『多聞院日記』二〕 5月15日 吉田兼右(「吉田右兵衛督」)、山科言継を訪問し暫く談合す。〔『言継卿記』四〕 5月17日 木下秀吉(「木下藤吉郎秀吉」)、山城国広隆寺へ飯尾貞遙(「飯尾右馬助」:幕府奉行人)に「信長朱印」を発給した こと、寺領については去年の信長「朱印」に相違無いことを通達。〔「広隆寺文書」坤〕 5月19日 足利義昭(「武家」)、「光源院殿」(足利義輝)忌月により相国寺へ乗馬にて御成。 山科言継、足利義昭行列を自邸門前通過時に見物。〔『言継卿記』四〕 5月20日 龍天院覚弁より紀右兵衛が山科言継のもとへ派遣され、禁裏より足利義昭(「武家」)へ赦免馳走を依願。 山科言継、万里小路惟房へ依頼するよう返答したところ対面してもらえなかったという。〔『言継卿記』四〕 5月20日 山科言継、万里小路惟房を訪問し禁裏より足利義昭へ龍天院覚弁赦免依願の件を申し含め了承を得る。〔『言継卿記』四〕 5月21日 山科言継、万里小路惟房を訪問し昨晩の事情を談合。 「先皇」(後奈良天皇)13回忌のため「内々勅定」により赦免の由が通達されたからとのことであった。〔『言継卿記』四〕 5月21日 山科言継、足利義昭(「武家」)を訪問し勅定による龍天院覚弁赦免の由を通知。〔『言継卿記』四〕 5月23日 山科言継、足利義昭(「武家」)を訪問するが狩猟のため外出中であった。〔『言継卿記』四〕 5月23日 多聞院英俊、井戸某(大和国人)の陣所を見舞い、松永久秀(「松少」)へ20疋進上す。〔『多聞院日記』二〕 5月24日 山科言継、「中御門」を同行し法園寺を訪問。瓦製作場を見物し、朝山日乗に対面。〔『言継卿記』四〕 5月25日 山科言継、足利義昭(「武家」)を訪問し大蔵卿局へ龍天院覚弁赦免の件を催促するもその件の談合はされていないとの返答 であった。〔『言継卿記』四〕 5月25日 山科言継、禁中の檜皮葺作事を見物し朝山日乗と対面。〔『言継卿記』四〕 5月27日 山科言継、長橋局(薄好子)へ祗候。そこに檜皮葺作事中の朝山日乗が呼ばれ冷麺を振る舞われる。〔『言継卿記』四〕 5月28日 山科言継、足利義昭(「武家」)を訪問し大蔵卿局へ龍天院覚弁赦免の件を催促。 山科言継、細川藤賢・一色藤長・織田信広(「織田三郎五郎」)・祐阿らと酒宴す。〔『言継卿記』四〕 閏5月 閏5月 2日 飛鳥井雅敦邸に於いて和歌会が催される。 参席者は柳原資定・山科言継・飛鳥井雅教・庭田重保・山科言継(「倉部」)・飛鳥井雅敦・中院通勝・金山坊・金林坊・ 里村紹巴・里村昌叱・里村心前らであった。里村紹巴が頭役、読師は山科言継、講師は里村昌叱、発声は飛鳥井雅敦であった。 〔『言継卿記』四〕 閏5月 2日 多聞院英俊、暁に堀池某が「裏帰」り筒井順慶(「順慶」)が「生害」に追い込まれた夢を見る。〔『多聞院日記』二〕 閏5月 2日 多聞院英俊、この10日ばかりの間に大和国超昇寺城が「破」れた旨を知る。〔『多聞院日記』二〕 閏5月 3日 山科言継、足利義昭(「武家」)を訪問、南櫓にて対面し四方を廻覧。 次いで大蔵卿局を訪問し龍天院覚弁赦免の件を催促するも重罪のため赦免は難しいとの返答であった。〔『言継卿記』四〕 閏5月 3日 龍天院覚弁、未刻に殺害される(足利義昭の命令で幕府衆による成敗か)。〔『言継卿記』四〕 閏5月 4日 山科言継、大蔵卿局からの使者である中尾修理進より足利義昭(「大樹」)が用事があるとの通知を受ける。 「杏梨煮」を所望というので送付。足利義昭は寶鏡寺へ御成という。〔『言継卿記』四〕 閏5月 5日 山科言継、竹内長治の旅宿に招請され、晩頭に白粥を振る舞われる。山科言継・朝山日乗・長国寺らが招かれた。 〔『言継卿記』四〕 閏5月 6日 佐久間信盛(佐右信盛)、一色藤長(「一式少」)・曽我助乗(「曽兵」)へ播磨国からの注進について足利義昭「被仰下」 れた旨を直ちに織田信長(「信長」)へ報告し摂津国・丹波国の軍勢出動を協議するが、再度の注進を待ち待機(「遠慮」) していること、再度足利義昭の命令があれば織田信長(「信長」)は上洛するということ、三淵藤英(「三和」)・ 歳阿弥(「才阿」)・観世国広(「観与左」)からの通達は織田信長へ上申しており、織田側としては油断無き旨を足利義昭へ 「御取成」すよう依頼。〔東京大学文学部所蔵「雑文書」・「古簡雑纂」十一・十二〕 閏5月 6日 井戸某(大和国人)、寄衆の松永軍を夜襲し松永久秀(「松少」)軍は少々の損害を被る。〔『多聞院日記』二〕 閏5月 7日 多聞院英俊、井戸某(大和国人)が寄衆の松永軍を夜襲し松永久秀(「松少」)軍は少々の損害を被った旨を知る。 〔『多聞院日記』二〕 閏5月10日 山科言継、禁中檜皮師を見舞、朝山日乗と参会。そして長橋局(薄好子)・内侍所・台所を廻る。 次いで山科言継、万里小路惟房を訪問し暫く雑談。足利義昭(「武家」)の「大納言」昇進が来月であるということが内々に 談じられた。〔『言継卿記』四〕 閏5月11日 山科言継、竹内殿(曼殊院覚恕)を訪問。次いで烏丸光康を訪問し暫く雑談す。次いで朝山日乗に芝で築地を作事させている 五辻為仲を訪問。山科言継・勧修寺晴右・五辻為仲・五辻元仲ら芝に於いて酒宴す。 次いで山科言継、甘露寺経元を訪問し「改元」の件などを談合。〔『言継卿記』四〕 閏5月12日 山科言継、長橋局(薄好子)へ祗候するも所労というので、また阿茶々(勧修寺晴子)も脈診す。〔『言継卿記』四〕 閏5月12日 山科言継、禁裏南庭の作事を見物。朝山日乗の作事が完成していた。〔『言継卿記』四〕 閏5月14日 多聞院英俊、淡路表に於いて「喧嘩」があり三好政勝(「為三」)・「矢野ノハウキ」以下が死亡し三好三人衆が「果」てた という風聞に接す。〔『多聞院日記』二〕 閏5月15日 山科言継、禁中に於いて作事中の檜皮師・朝山日乗を見舞う。〔『言継卿記』四〕 閏5月15日 山科言継、足利義昭(「武家」)へ祗候するも就寝であった。 次いで大蔵卿局を訪問し足利義昭の来月「昇進」及び「改元」について談じ、「公卿之裾表袴」等を新調するよう助言。 〔『言継卿記』四〕 閏5月16日 山科言継、早旦に長橋局(薄好子)へ祗候、山城国葛野郡葉室へ出掛けるが晩景には帰る旨を奏上。 次いで山科言継、内侍所・木屋を廻り木屋に朝山日乗が居るというので訪問し晩に再度訪問する由を通知。〔『言継卿記』四〕 閏5月16日 山科言継、葉室頼房を訪問。「禁中御修理」のための木材・人夫徴発の話を知り、帰京。〔『言継卿記』四〕 閏5月16日 山科言継、朝山日乗を訪問し禁中修理役について談ず。〔『言継卿記』四〕 閏5月17日 山科言継、葉室頼房へ使者を派遣し朝山日乗が18日・19日に人夫50人ずつ提出することに同心した由を通知。 〔『言継卿記』四〕 閏5月18日 葉室頼房、出京す。橘以継、松木29本・人夫を伴い禁中の朝山日乗の配下に渡す。〔『言継卿記』四〕 閏5月18日 朝山日乗、美濃国岐阜へ向かいこの日は近江国坂本まで下向。〔『言継卿記』四〕 閏5月20日 山科言継、足利義昭(「武家」)の「足軽」山口甚介が明後日美濃国へ下向するというので、「竹門」(曼殊院覚恕)筆の 和歌入扇を20本を織田信長へ進上することを依頼。〔『言継卿記』四〕 閏5月20日 上杉輝虎(「輝虎」)、林次郎左衛門尉(林秀貞一族か)へ足利義昭(「上意」)の上洛に際して使僧を派遣したこと、また 織田信長(「信長」)へも申し届けたこと、織田信長への「取成」を依頼し「兄鷹」1連の贈呈を通知。〔「宮文書」〕 閏5月21日 山科言継、「竹門」(曼殊院覚恕)を訪問し和歌入の扇が10本計出来上がっているのを確認。〔『言継卿記』四〕 閏5月21日 山科言継、足利義昭(「武家」)を訪問。南櫓にて納涼し雑談す。〔『言継卿記』四〕 閏5月21日 山科言継、「尾州之御作事奉行」島田秀満(「島田弥右衛門尉」)と対面。〔『言継卿記』四〕 閏5月21日 山科言継、禁中木屋の朝山惣左衛門(朝山日乗弟)と談合。〔『言継卿記』四〕 閏5月22日 山科言継、「竹門」(曼殊院覚恕)を訪問。和歌入扇20本を受け取り沢路長俊(山階家雑掌)へ持参す。 (織田信長への進上を依頼するため)〔『言継卿記』四〕 閏5月23日 山科言継、万里小路惟房を訪問し新大典侍殿(万里小路房子)へ祗候。足利義昭昇進の際の裾表袴について尋ねたところ、 先度は御牧摂津守へは申し渡していないので飯川肥後守へ通達するよう指示を受ける。〔『言継卿記』四〕 閏5月23日 山科言継、徳大寺公維を訪問し中原康雄・本妙房・安威備後守(細川藤賢被官)らと酒宴す。〔『言継卿記』四〕 閏5月23日 織田信長(「信長」)、京都東寺へ足利義昭「御下知」により「当知行」を安堵。〔「東寺文書」御宸翰千字文〕 閏5月23日 和田惟政(「惟政」)、長江盛景(「長江殿」)へ今度の「逆徒」を「御退治」し京都情勢は足利義昭「本意」に属したので 「諸国御殿料」についての足利義昭「御内書」が「御使」晴助の派遣によって通達されるので馳走を依頼。 また足利義昭が「一廉之御馬」を所望している旨を通達。〔「葛西文書」〕 閏5月24日 山科言継、足利義昭(「武家」)へ祗候。飯川肥後守へ足利義昭昇進時の裾表袴について問い合わせたところ、御牧摂津守が 担当であるとの返答により御牧摂津守へ問い合わせると足利義昭上意は得ているとのことであった。 山科言継、御牧摂津守へ「公家装束」を調えていないので指示を下すのは「先例」無きことであること、現在の公家は困窮して いるから調達は難儀であることなどを説くが、御牧摂津守はその件に於いては「不及是非」という返答であった。 〔『言継卿記』四〕 閏5月24日 山科言継、万里小路惟房へ久我通興(「久我右大将」)の「勅免」については「如何様にも可申沙汰之由了」という旨を直接 申し渡すようにということを伝達。暫く雑談す。〔『言継卿記』四〕 閏5月25日 木下秀吉(「木下藤吉郎秀吉」)、京都東寺へ寺領・「散在」については「信長手印」により年貢・諸公事が安堵された旨を 通達。〔「東寺文書」御宸翰千字文天至住止〕 閏5月25日 木下秀吉(「木下藤吉郎秀吉」)、京都東寺へ寺領・境内は将軍家「御代々御下知」により「当知行」とすることが 「信長朱印」によって安堵されたので「如先々」く「寺法」に任せる旨を通達。〔「東寺文書」五常〕 閏5月28日 山科言継、禁裏に於いて楊弓が催されるというので午時の参内。 申刻計に朝山宗左衛門(朝山日乗弟)より招請を受け勧修寺晴右・勧修寺晴豊らと酒宴す。〔『言継卿記』四〕 6月 6月 1日 東坊城盛長・三条公仲、山科言継を訪問し3名にて足利義昭(「武家」)へ祗候。 中院通勝(「中院少将通勝」)が初めて足利義昭に謁した。 祗候した公家衆は烏丸光康・山科言継・飛鳥井雅教・万里小路輔房・飛鳥井雅敦・広橋兼勝・東坊城盛長・三条公仲・高倉永孝 らであった。次いで山科言継、大蔵卿局を訪問。〔『言継卿記』四〕 6月 2日 山科言継、禁中木屋の朝山宗左衛門(朝山日乗弟)より招待を受ける。 播磨国英賀より上洛した洞雲(朝山日乗・朝山宗左衛門兄弟伯父)と初対面。〔『言継卿記』四〕 6月 2日 日野輝資、美濃国岐阜より上洛し「可然仕合」であったという。〔『言継卿記』四〕 6月 2日 織田信長(「信長」)、今枝六蔵へ宮田新丞知行分の尾張国日置郷内及び墨俣の「出作」分の合計40貫文を扶助。 〔「土佐国蠧簡集残編」四〕 6月 3日 山科言継、朝山宗左衛門へ使者を派遣し朝山日乗が美濃国岐阜より近江国北郡に滞在しており、一両日中に上洛するであろう ことを通知。〔『言継卿記』四〕 6月 3日 多聞院英俊、暁に大和国は「一円」に松永久秀(「松」)の「無事」に属し「裏成」通りの反銭を徴収、来る18日・19日 に糺明する夢を見る。〔『多聞院日記』二〕 6月 4日 東坊城盛長、筆1対を持参し山科言継を訪問。足利義昭(「武家」)昇進の「陣儀」について太刀・沓の借用を依頼し了承を 受ける。また足利義昭の「位記」・「官位次第」などについて談合。〔『言継卿記』四〕 6月 4日 山科言継、太秦真珠院へ朝山日乗が一両日中に上洛する旨を書面にて通達。「松尾三位」にも同様に通知。 〔『言継卿記』四〕 6月 6日 天龍寺蔵拙庵総首座、山科言継を訪問し朝山日乗が上洛したら「公事辺之儀」について取り成しを依頼。 山科言継、朝山日乗が上洛したら案内すると返答。〔『言継卿記』四〕 6月 7日 織田信長(「信長」)、稲葉貞通(「稲葉彦六」)へ「領知方目録」を与える。〔「豊後臼杵稲葉文書」一〕 6月 7日 織田信長(「信長」)、稲葉貞通(「稲葉彦六」)へ美濃国河西所々における春秋の段銭・夫銭は稲葉一鉄(「其方」)・ 氏家直元(「氏家」)・安藤守就(「伊賀」)の美濃三人衆に3分の1ずつ当分に宛行い上納を義務付けることを「去々年」 (永禄10年)に指示したが、近年は上納しないので譴責し、「其筋目」に任せた所務遂行を命令。 〔「豊後臼杵稲葉文書」一〕 6月 8日 山科言継、禁裏より召され早旦に長橋局(薄好子)へ祗候。 中山孝親・山科言継・勧修寺晴右・甘露寺経元らが祗候した公家衆であった。 来たる9月の「先皇」(後奈良天皇)の13回忌法事の執行について協議があった。〔『言継卿記』四〕 6月 8日 山科言継、飛鳥井雅敦亭に於ける月次和歌会に参席後、再度長橋局(薄好子)へ祗候。 後奈良天皇法事について費用を「三川」(徳川家康)へ献上を督促するかという由を内々に申し入れる。〔『言継卿記』四〕 6月 8日 山科言継、禁中木屋へ赴き朝山宗左衛門(朝山日乗弟)・洞雲・慶雲・狩野甚三郎らと暫く雑談す。〔『言継卿記』四〕 6月 8日 飯川信堅(「信堅」:幕府申次)、淀過書廻船中へ「公儀御用」で今井宗久(「今井入道宗久」)が度々上洛しているが、 その件で織田信長(「信長」)より船渡以下の「馳走」を命令が下されたので油断無き旨を通達。〔「今井宗久書札留」〕 6月 9日 山科言継、長橋局(薄好子)へ祗候。 山科言継、洞雲(朝山日乗伯父)らが小御所御庭の見物を所望したので案内する。〔『言継卿記』四〕 6月 9日 山科言継、無沙汰していた足利義昭(「武家」)・大蔵卿局へ祗候するもともに病臥にて面会は無し。〔『言継卿記』四〕 6月 9日 朝山日乗、未刻に上洛。〔『言継卿記』四〕 6月 9日 山科言継、戌刻に朝山日乗を訪問し仁王経100部の件、天龍寺蔵拙庵総首座より依頼された公事の件、葉室頼房らより依頼 された人夫について談合。〔『言継卿記』四〕 6月10日 山科言継、長橋局(薄好子)へ祗候し、今日太秦会へ参席する由を告げる。 その後、木屋へ赴き日乗上人へ仁王経の件で談合す。〔『言継卿記』四〕 6月10日 山科言継、「仁和寺殿」(守理法親王)へ赴き、来たる24日からの「百座仁王経」の件で日乗上人との談義した旨を通知。 〔『言継卿記』四〕 6月11日 山科言継、太秦真珠院を同行し禁中木屋へ赴き朝山日乗と対面。〔『言継卿記』四〕 6月11日 「聖護院新門主」(尊澄法親王)、禁中木屋の朝山日乗へ渡御。〔『言継卿記』四〕 6月11日 細川藤孝、喜入季久へ小笠原家所持の鞍1口に伊勢貞知折紙を添えて進献する旨を通知。詳細は宗固に伝達させる。 〔「旧記雑録後編」@‐514〕 6月11日 細川藤孝、喜入季久へ足利義昭「御内書」が発給された旨を通知。〔「旧記雑録後編」@‐515〕 6月12日 「禁裏御大工総官」宗久、山科言継を訪問。 朝廷より定宗(「右衛門」:足利義昭推薦)の「違乱」を足利義昭(「武家」)配下の一色昭秀(「一色駿河守」)への通達 命令を伝達。山科言継、一色昭秀(「一色駿河守」)が美濃国下向中であるので龍雲院へその旨を申し置く。 〔『言継卿記』四〕 6月12日 山科言継、禁中木屋の朝山日乗を訪問し「竹内殿」(曼殊院覚恕)の室町小島の公事の件を談合。〔『言継卿記』四〕 6月13日 山科言継、早旦に朝山日乗を訪問し室町小島の公事の件の返答を受け、竹内殿(曼殊院覚恕)使者へ申し含める。 〔『言継卿記』四〕 6月15日 万里小路輔房(「万里小路黄門」)、この夜禁裏へ「奏慶」す。 万里小路惟房・山科言継・万里小路輔房・持明院基孝・甘露寺経元・勧修寺晴豊・橘以継らが相伴す。 その後、山科言継は禁中を見物し内侍所辺の庭上で持明院基孝・橘以継・内侍所衆・朝山日乗らで酒宴す。〔『言継卿記』四〕 6月16日 山科言継、朝山日乗へ赴き仁王経の件を談合。〔『言継卿記』四〕 6月18日 山科言継、早旦に太秦より帰宅。次いで朝山日乗を訪問し談合。 そこに日吉社社家の行丸が到来、「禁裏御奉加綸旨」などを申請し社頭修理の件を上申。 山科言継、この旨を朝山日乗へ伝え、長橋局(薄好子)へ申し入れるよう依頼。〔『言継卿記』四〕 6月19日 山科言継、朝山日乗を訪問。〔『言継卿記』四〕 6月19日 山科言継、足利義昭(「武家」)へ祗候し「評定」すること移刻であった。その後大蔵卿局を訪問するも「午臥」であった。 〔『言継卿記』四〕 6月20日 山科言継、朝山日乗を訪問し東寺路次について質疑したところ、度々申し遣わしているのだが「明智」(明智光秀)より返事 が無いとのことであった。次いで山科言継、内侍所へ祗候。持明院基孝・四辻公遠が来訪し、明後日の「小除目」・「小叙位」 の執筆を稽古。山科言継が扶助す。〔『言継卿記』四〕 6月20日 山科言継、朝山日乗より借用米1俵を報恩寺に於いて受け取る。〔『言継卿記』四〕 6月20日 「御大工総官」宗久、明後日の陣儀のための仮陣座造営を命令される。〔『言継卿記』四〕 6月21日 山科言継、朝山日乗を訪問し昨日の借用米1俵の礼と小島の件の詫び言を告げ、雑談数刻に及ぶ。〔『言継卿記』四〕 6月21日 東坊城盛長、山科言継を訪問し明日の「陣儀」のための衣文借用を依頼。〔『言継卿記』四〕 6月21日 山科言継、明日の拝賀のために四辻公遠へ「夏袍」を、橘以継へ「雑色狩衣」を貸す。〔『言継卿記』四〕 6月22日 朝廷に於いて戌刻より「陣儀」が開始される。〔『言継卿記』四〕 6月22日 四辻公遠、「宰相中将」を拝賀す。〔『言継卿記』四〕 6月22日 「禁中」に於いて足利義昭(「室町殿」)の「大納言」昇進、「従三位」叙位の陣儀、「小除目」・「小叙位」が行われる。 〔『言継卿記』四〕 6月22日 この夜、外記・内記らが悉く足利義昭(「武家」)へ祗候し「宣旨」を持参。〔『言継卿記』四〕 6月22日 足利義昭(征夷大将軍)、権大納言・従三位に叙せられる。〔『公卿補任』〕 6月22日 朝山日乗、橘以継宿所の新造柱立を行う。〔『言継卿記』四〕 6月23日 山科言継、禁中木屋の朝山日乗を訪問し暫く雑談す。〔『言継卿記』四〕 6月23日 多聞院英俊、近日に「江州北方」に於いて「裏帰」があり物騒である風聞に接す(江州一揆の件)。〔『多聞院日記』二〕 6月24日 山科言継、「亜相」に昇進した足利義昭(「武家」)へ祗候し祝意を述べる。〔『言継卿記』四〕 6月24日 山科言継、禁中木屋の日乗上人を訪問。〔『言継卿記』四〕 6月25日 朝廷「御三間」に於いて北野社御法楽の「公宴」が催される。 正親町天皇・誠仁親王(但し出座は無し)・曼殊院宮・四辻季遠・万里小路惟房・山科言継・三条西公国・甘露寺経元・ 勧修寺晴豊・山科言経・橘以継らが歌を詠んだ。次いで「小御所御室」にて万里小路惟房・山科言継・朝山日乗らが冷麺にて 酒宴す。暮れに退出。〔『言継卿記』四〕 6月25日 山科言継、織田信長(「織田弾正忠」)へ禁裏「御大工総官職」の件で「女房奉書」が発給されたことを通達。 「代々証文」に任せ「憲法」に仰せ付けられたこと、「右衛門尉」定宗の美濃国岐阜下向に際し重ねての通達を説明。 〔『言継卿記』四〕 6月26日 正親町天皇、禁裏「そうくわんしき」の件で足利義昭(「ふけ」)が定宗(「ゑもん」)に「御下知」を発したことについて 織田信長(「のふなか」)に足利義昭へ「いけん」するよう命令。〔『言継卿記』四〕 6月26日 三条西実枝、甲斐国より上洛。 山科言継、出迎えし吉田北追分にて参会。北白川まで勧修寺晴右・甘露寺経元・庭田重保・正親町季秀・五辻為仲・中院通勝・ 白川雅朝らが出迎えたという。〔『言継卿記』四〕 6月26日 山科言継、禁裏「御大工総官職」の件の「女房奉書」を受ける。万里小路惟房より「種々雖故障申堅仰」の由を通達され、 織田信長への添状を調える。この夜に女房奉書が美濃国岐阜の織田信長へ下されるという。 「右衛門」定宗は5、6日前に美濃国岐阜へ下向したという。〔『言継卿記』四〕 6月26日 朝山日乗、申刻に美濃国岐阜へ足利義昭使者(「武家御使」)として下向。〔『言継卿記』四〕 6月29日 「明智市尉」、山科言継を訪問し愛洲薬1包を貰う。〔『言継卿記』四〕 6月29日 足利義昭昇進(「室町殿御昇進」)により「ゥ家総参賀」という。 葉室頼房、出仕す。18名の公家衆が参賀したという。申次は飛鳥井雅敦、伝奏は万里小路惟房であった。〔『言継卿記』四〕 6月29日 冷泉俊右、播磨国より上洛。〔『言継卿記』四〕 7月 7月 1日 山科言継、足利義昭(「武家」)へ祗候。公家祗候者は山科言継のみであった。〔『言継卿記』四〕 7月 3日 正親町天皇、山科言継へ後奈良天皇13回忌を前に徳川家康より献金があったため、これを賞す「女房奉書」を調える。 〔『言継卿記』四〕 7月 6日 山科言継、「在国」に就き足利義昭(「武家」)を訪問し暇乞をする。〔『言継卿記』四〕 7月 6日 朝山日乗、辰刻に美濃国岐阜より上洛。 山科言継、木屋の朝山日乗を訪問。織田信長(「織田弾正忠信長」)より伊勢国に於いて1000石の知行、馬鞍・轡・天目・ 刀・脇指を賜ったという。〔『言継卿記』四〕 7月 6日 山科言継、「竹門」(曼殊院覚恕)の使者「越後」の来訪を受け、朝山日乗へ室町小島の公事の件の仲介を依頼される。 〔『言継卿記』四〕 7月 6日 山科言継、朝山日乗より晩餐に招待される。〔『言継卿記』四〕 7月 6日 山科言継、長橋局(薄好子)へ祗候し「女房奉書」を受ける。 その内容は9月5日の「せんくわうの御十三年(後奈良天皇13回忌)」の費用を徳川家康(「とく川」)が献上するという ので、これを賞すものであった〔『言継卿記』四〕 7月 7日 山科言継、朝山日乗を訪問。〔『言継卿記』四〕 7月 7日 山科言継、「女房奉書」を携えた「御使」(勅使)を同行し朝山日乗を訪問。〔『言継卿記』四〕 7月 7日 山科言継、長橋局(薄好子)へ祗候し「東国」(徳川家康)への段子1段を預かる。〔『言継卿記』四〕 7月 7日 山科言継、徳大寺公維より細川藤賢(「細川右馬頭」)への言伝・書状を依頼される。〔『言継卿記』四〕 7月 8日 山科言継、朝山日乗より武井夕庵宛の折紙を預かる。〔『言継卿記』四〕 7月 8日 山科言継、午時に東国(三河国)へ向けて京都を発す。近江国坂本で晩食をとり、乗船す。〔『言継卿記』四〕 7月 8日 毛利良勝(「毛利新介」)・毛利長良(「毛利清十郎」)・武井夕庵(「夕庵尓云」)、山城国太秦広隆寺へ寺領・買得分・ 桂宮院の件は足利義昭「御下知」に任せ、「信長朱印」を去年(永禄11年)発給し安堵したが再度織田信長(「信長」) 「御朱印」を送付するので寺領安堵に相違無い旨を通達。〔「広隆寺文書」坤〕 7月 9日 山科言継、巳刻に近江国北郡朝妻へ到着。昼食を取り馬3匹を得、山科言継は乗馬す。戌刻に美濃国垂井へ到着。 〔『言継卿記』四〕 7月10日 織田信長(「信長」)、山城国賀茂荘中へ足利義昭「御下知」に任せ「如前々」く安堵す。 〔「賀茂郷文書」・「沢房吉氏所蔵文書」〕 7月10日 飯尾盛就(「前加賀守盛就」)・松田秀雄(「散位」)、立入宗継(「立入左京進」)へ「禁裏御倉職」就任の上は「先例」 に任せて「居住」・「地子銭」・「諸公事」などを免除することを通達。〔「立入宗継文書」‐8〕 7月10日 山科言継、美濃国垂井を出発し、巳下刻に美濃国岐阜の大脇伝内(「鹽屋傳内」)宿所へ到着。 山科言継、供の山科家雑掌の沢路長俊を武井夕庵(「武井肥後入道夕庵」)へ派遣するも岐阜城へ登城中というので朝山日乗 より預かった折紙を送付。〔『言継卿記』四〕 7月10日 山科言継、「明智市尉」と行き合い山科言継(「倉部」)への書状・言伝を預かる。〔『言継卿記』四〕 7月11日 山科言継、武井夕庵へ使者を派遣するも、去夜の夜半に岐阜城より下山するのは「労煩」というので織田信長(「信長」)を 待って下山し、その由を通達するとの返事であった。〔『言継卿記』四〕 7月11日 山科言継、一条内基(「一条殿」)家中堀川近江守の来訪を受け、一条内基の去月27日美濃国岐阜下向を通知される。 〔『言継卿記』四〕 7月11日 山科言継、朝食以後に丸毛光兼(「丸藻」)邸に滞在中の一条内基を訪問。勧修寺門跡(聖信法親王)も同道していた。 〔『言継卿記』四〕 7月11日 武井夕庵、黄昏に及び織田信長よりの使者(「弾正忠使」)として一条内基宿所(丸毛光兼邸)に到来。 武井夕庵、山科言継へ極暑の時分の下向を慰労。また三河国(「三川」)への下向は「自分用」か「御使」かという織田信長の 問いを通知。そして山上の岐阜城までは山科言継の「老足」では難儀であろうから、明日麓の施設に於いて面会するという 織田信長の意思を通達。 山科言継、武井夕庵へ三河国下向は「御使」である由を返答。〔『言継卿記』四〕 7月12日 山科言継、午時に武井夕庵使者より織田信長の「下山」にあたり麓にて待機し路次に於いて見参するとの通達を受け、準備を して出向くが、織田信長が遅れるというので帰宅しようとしたところ、再度使者より武井夕庵邸にて待機するよう指示され、 武井夕庵に同行して「麓之屋敷」へ赴き、織田信長(「弾正忠」)と対面、贈物を進上す。 織田信長、山科言継へ下向の理由を問い「仰天」す。また山科言継へ徳川家康は駿河国境に逗留しているため、「別之用無之」 ならば下向することは無用であるとし、織田信長(「信長」)が飛脚を以て伝達するので美濃国岐阜へ逗留するように指示す。 〔『言継卿記』四〕 7月12日 山科言継、旅宿へ帰宅後に武井夕庵へ扇3本・樽代20疋、木下秀吉(「木下藤吉」)へ扇3本を贈る。〔『言継卿記』四〕 7月12日 山科言継、一条内基(「一条殿」)へ祗候し「御公事」の件を織田信長(「信長」)へ依願するというので談合す。 〔『言継卿記』四〕 7月12日 織田信広(「織田三郎五郎」)、一条内基(「一条殿」)へ祗候。〔『言継卿記』四〕 7月12日 山科言継、一条内基(「一条殿」)「御公事」の件で「堅書状」を調えて朝山日乗・明智光秀(「明智十兵衛」)へ依頼する も、やがて上洛するとの返答であった。〔『言継卿記』四〕 7月12日 坂井利貞(「坂井文介」)、山科言継の留守中に旅宿を訪問。〔『言継卿記』四〕 7月13日 山科言継、もと幕府「奉公衆」であった石谷兵部少輔が牢人し美濃国内で山科言継旅宿の近所に居住しているという風聞に 接し訪問。門前に於いて雑談す。〔『言継卿記』四〕 7月13日 山科言継、小笠原又六が下向し山科言継旅宿の4里北に滞在していることを知り訪問。〔『言継卿記』四〕 7月13日 杉原与七郎(「牢人之奉公衆」)、巳刻に山科言継旅宿の近所に於いて自刃。織田信長の命令であるという。 〔『言継卿記』四〕 7月13日 山科言継、島田秀満・坂井利貞・飯田某・塙直政へ供の山科家雑掌の沢路長俊を派遣し扇を贈る。〔『言継卿記』四〕 7月13日 山科言継、旅宿を大脇伝内(「織田馬廻」)邸より風呂屋余語孫左衛門邸へ移す。〔『言継卿記』四〕 7月14日 山科言継、島田秀満より晩食に招待され、後奈良天皇宸筆(「先皇勅筆」)1幅を贈る。〔『言継卿記』四〕 7月15日 山科言継、美濃国岐阜の「燈炉」は評判であったが人混みが激しかったので見物をせず。〔『言継卿記』四〕 7月15日 山科言継、織田信広(「織田三郎五郎」)・飯尾尚清(「飯尾毛介」)・菅屋長頼(「菅屋長」)・大津伝十郎らを礼問し 扇子3本ずつ進上するも皆外出中であった。 次いで一条内基(「一条殿」)へ祗候し酒を賜わる。一条内基は明日上洛というので書状など山科言継留守への言伝を依頼。 〔『言継卿記』四〕 7月15日 織田信長家中の坂井利貞(「坂井文介」)・豊島十郎ら、山科言継を訪問し暫く雑談す。〔『言継卿記』四〕 7月15日 山科言継、明日山科家雑掌の沢路長俊を三河国誓願寺へ派遣するために書状などを調える。〔『言継卿記』四〕 7月15日 山科言継、島田秀満へ昨日の礼のため山科家雑掌の沢路長俊を派遣。山科家雑掌の沢路長俊は島田秀満の朝食に相伴す。 〔『言継卿記』四〕 7月15日 山科言継、旅宿向かいの徳若(織田信長小者頭)へ扇子2本を進上するも外出中であった。〔『言継卿記』四〕 7月16日 山科言継、供の山科家雑掌の沢路長俊を三河国誓願寺へ派遣。 徳川家康・松平親乗(「松平和泉守」)・鳥居忠吉(「鳥居伊賀入道」)らへ禁裏・長橋局(薄好子)・山科言継からの贈物を 送付。〔『言継卿記』四〕 7月16日 奉公衆の石谷兵部少輔、山科言経を訪問し談合。〔『言継卿記』四〕 7月16日 織田信広(「織田三郎五郎」)、山科言継へ昨日の御礼の使を派遣。〔『言継卿記』四〕 7月16日 竹内秀勝(「竹下」)、高畠城に於いて「不例」というので一両日中は養生する。〔『多聞院日記』二〕 7月18日 坂井利貞子息、山科言継を訪問し錫1対・鯛2匹を進上。〔『言継卿記』四〕 7月19日 武井夕庵、山科言継旅宿を訪問し暫く談合。〔『言継卿記』四〕 7月19日 坂井利貞(「坂井文介」)・野々村又右衛門・山口太郎兵衛ら「信長馬廻」が山科言継旅宿を訪問し暫く談合。 〔『言継卿記』四〕 7月19日 山科言継、暮れに及び武井夕庵へ使者として五十河原を派遣。 「山之城」(岐阜城)の一覧を所望する内容を通知、明日申し上げるようにとの返答であった。〔『言継卿記』四〕 7月19日 山科言継のもとに三河国の徳川家康へ派遣した飛脚が到来し、「仕合可然」という返事であった。 山科言継、武井夕庵・「佐々一兵衛」らへ明日三河国からの使僧が来訪する由を書状にて通知。〔『言継卿記』四〕 7月20日 山科言継、武井夕庵へ昨夕の礼として五十河を派遣。〔『言継卿記』四〕 7月20日 織田信長(「信長」)、美濃国の中井忠蔵へ50貫文の知行を宛行う。〔「中村林一氏所蔵文書」乾〕 7月21日 大館治部少輔、山科言継を訪問。杉原上総介(杉原与七郎:牢人した奉公衆)生害は祝着であったこと、足利義昭の「御使」 として織田信長(「信長」)へ「長光」の腰物が下賜されたことを通知。 山科言継、大館治部少輔が明日上洛するというので京都へ書状言伝を依頼する。〔『言継卿記』四〕 7月21日 山科言継、飯田某へ知行分替地の件で「手日記」を送付。山科言継、武井夕庵と談合し両人が馳走する由を通達。 山科言継は内々に武井夕庵と談合していた。〔『言継卿記』四〕 7月22日 山科言継、坂井利貞(「坂井文介」)へ鮎5匹を贈る。〔『言継卿記』四〕 7月22日 坂井利貞(「坂井文介」)、山科言継を訪問し談合。〔『言継卿記』四〕 7月22日 山科言継、武井夕庵を訪問し「条々談合」を依頼す。また桂蓮院殿筆跡の「龍」大文字1幅を贈る。〔『言継卿記』四〕 7月22日 今井宗久(「和泉堺之薬屋之宗久」)、山科言継の岐阜旅宿を訪問し宿泊。〔『言継卿記』四〕 7月22日 松永久秀(「久秀」)、山中小夫へ軍勢を派遣。〔『多聞院日記』二〕 7月23日 今井宗久、岐阜に於いて宿替す。〔『言継卿記』四〕 7月23日 坂井利貞(「坂井文介」)、山科言継を訪問し暫く談合。山科言継、茶を勧める。〔『言継卿記』四〕 7月23日 松永久秀(「久秀」)、軍勢を派遣した山中小夫の城を奪取。その後、深川へ軍勢を派遣。〔『多聞院日記』二〕 7月24日 坂井利貞(「坂井文介」)、山科言継を訪問し談合。茶器・小食籠・手米1包を持参。〔『言継卿記』四〕 7月24日 多聞院英俊、松永久秀(「久秀」)が山中小夫の城を奪取し、その後に深川へ軍勢を派遣した旨を知る。 〔『多聞院日記』二〕 7月24日 山科家雑掌の沢路長俊、三河国より帰還。誓願寺よりは明後日返答が到来するという。〔『言継卿記』四〕 7月25日 誓願寺使者の慶源、三河国より山科言継の岐阜旅宿へ到来。山科言継、誓願寺の慶源に山科家雑掌の沢路長俊を添え三河国へ 下向させる。〔『言継卿記』四〕 7月26日 坂井利貞(「坂井文介」)・野々村又右衛門ら、山科言継の岐阜旅宿を訪問し談合。 山科言継、坂井隼人(坂井利貞子息)へ扇子を贈る。〔『言継卿記』四〕 7月27日 山科言継、織田信長(「信長」)が斎藤義龍(「一色義龍」)後家所持の壺を所望していたが紛失してしまい、更なる探査に 及べば斎藤義龍後家は自害するといい、斎藤義龍後家が自害するならば織田信長本妻及びその一類は悉く自殺するというので 事態は収拾したことを知る。〔『言継卿記』四〕 7月28日 織田信長(「信長」)、滝川一益(「滝左」)へ伊賀国の仁木長政(「仁木」)に関する「内存」を了承し、仁木長政が忠節 に励めば特別に疎略にしない旨を通達、更に状況報告を命令。〔「新津秀三郎氏所蔵文書」〕 7月28日 坂井利貞(「坂井文介」)、山科言継の岐阜旅宿を訪問し談合。〔『言継卿記』四〕 7月28日 三河国からの飛脚、山科言継の岐阜旅宿に慶源尋ねて到来。酒を飲ませて返した。〔『言継卿記』四〕 7月28日 山科言継、晩頭に武井夕庵を訪問するが留守であった。〔『言継卿記』四〕 7月29日 山科言継、早旦に武井夕庵を訪問し談合。〔『言継卿記』四〕 7月29日 山科言継、五十河二郎三郎を三河国岡崎へ派遣し、山科家雑掌の沢路長俊へ伝言させる。〔『言継卿記』四〕 7月 一乗院尊政(近衛前久子息)、「一乗院殿」となる。〔『二条宴乗日記』〕 8月 8月 1日 山科言継、早旦に織田信長(「弾正忠」)へ祗候。門前に於いて面会。 織田信長は「しうとめ」を訪問するというのでその門前まで同行し、岐阜城(「山上城」)の見物を所望したところ、晩頭なら ばよいとの返答であった。〔『言継卿記』四〕 8月 1日 山科家雑掌の沢路長俊、山科言継へ三河国より戻り次第参上する由を通知。〔『言継卿記』四〕 8月 1日 山科言継、未刻に岐阜城(「山城」)へ向かう。坂井利貞(「坂井文介」)小者の案内により坂七曲を越える。 今井宗久(「堺宗久」)以下堺衆が4人、その他は江西・武井夕庵・松井友閑・島田秀満・金餘・地下人宗二郎らが到来。 先ず「微音」音曲と囃子が奏でられ、次いで晩食があり、織田信長(「信長」)が自ら陪膳した。次いで「上之権現」などの 城中の方々を見物し、暮れに及び下山し各自帰宅した。山科言継、岐阜城の景観を「言語不可説」と評す。〔『言継卿記』四〕 8月 2日 坂井利貞(「坂井文介」)、早旦に山科言継の岐阜旅宿を訪問し談合。〔『言継卿記』四〕 8月 2日 「以外大風」により山科言継の岐阜旅宿の屋根が大破。そのため山科言継は西隣の余語与五郎子息の家の2階を旅宿とする。 〔『言継卿記』四〕 8月 2日 山科言継、武井夕庵へ昨日の礼状を送付。その中に1首を添える。〔『言継卿記』四〕 8月 3日 余語与五郎(山科言継の旅宿提供者)、屋根の葺き替えを行う。〔『言継卿記』四〕 8月 3日 山科言継、武井夕庵より昨日の返状及び贈答品を受ける。武井夕庵書状には返歌が添えてあった。〔『言継卿記』四〕 8月 4日 武井夕庵、山科言継の岐阜旅宿を訪問し暫く談合。 武井夕庵、山科言継へ織田信長が小栗大六(徳川家の織田信長への奏者)に「禁裏」への進物、山科言継への「路物」以下の件 を命令した由を通知。〔『言継卿記』四〕 8月 4日 尾張国誓願寺長老、織田信長を礼問す。〔『言継卿記』四〕 8月 5日 山科言継が派遣した五十河二郎三郎が三河国より山科言継の岐阜旅宿へ帰還。山科家雑掌の沢路長俊よりの言伝があった。 〔『言継卿記』四〕 8月 6日 山科言継、早旦に武井夕庵を訪問。 山科言継、武井夕庵へ徳川家康(「徳川」)から献上される「代萬疋」を三河国岡崎にて受け取りたい意思を告げたところ、 武井夕庵が織田信長(「信長」)へ上申しその返事を通達するとの返答であった。〔『言継卿記』四〕 8月 7日 山科言継、武井夕庵へ使者の山本彦二郎を派遣し、先日の織田信長からの返事通達を催促するも返事が無いというので、 再度使者を派遣。〔『言継卿記』四〕 8月 7日 山科言継、長橋局(薄好子)より派遣された「使」高屋重弘(「高屋右京進重弘」)の到来を受ける。 飛鳥井雅教(「飛鳥黄門」)が武井夕庵へ書状及び「女房奉書」を送付。その内容は「信長馳走御祝着」というものであった。 また山科言継へは後奈良天皇13回忌まで余裕が無いので早々に費用を調達して上洛するようにとの命令があった。 〔『言継卿記』四〕 8月 8日 山科言継、武井夕庵を訪問し前日届いた「女房奉書」・飛鳥井雅教書状等を渡し、織田信長(「信長」)への披露を依頼。 次いで山科言継、武井夕庵へ一昨日に尋ねた三河国岡崎下向の件を催促。〔『言継卿記』四〕 8月 8日 山科言継使者の山本彦二郎、尾張国犬山に到着という。〔『言継卿記』四〕 8月 8日 丹羽長秀(「丹羽五郎左衛門尉」)、池田勝正(「池筑」)へ今井宗久知行の和泉国堺5ヶ荘代官職とその内の天王寺善珠庵 の収得権の押領停止を通達。〔「今井宗久書札留」〕 8月 9日 山科言継、武井夕庵へ宛てて度々三河国岡崎下向の件の返事を催促するも「一途無之」であった。〔『言継卿記』四〕 8月 9日 山科言継、武井夕庵の訪問を受け、山科言継の三河国岡崎下向の件の返事をもらう。佐々一兵衛の書状にて済ませるという ことであった。〔『言継卿記』四〕 8月10日 山科言継、早旦に武井夕庵を訪問。 佐々一兵衛の使者が三河国岡崎へ派遣されることになったので山科言継の供の1名を添えるようにとの指示があり、山科言継は 五十河二郎三郎を派遣する。〔『言継卿記』四〕 8月10日 坂井利貞(「坂井文介」)、山科言継の岐阜旅宿を訪問。坂井利貞は昨夕尾張国より帰還したという。 両者の雑談は数刻に及び、山科言継は坂井利貞へ愛洲薬1包を贈る。また坂井隼人(坂井利貞子息)には人参丁香散を贈った。 〔『言継卿記』四〕 8月10日 難波新四郎(勧修寺門跡:聖信法親王の「御使」)、山科言継の岐阜旅宿を訪問し、勧修寺門跡(聖信法親王)へ参上する よう通達。山科言継、即刻勧修寺門跡(聖信法親王)を訪問したところ、織田信長妹の乳人が酒肴を持参したというので晩食を 相伴す。山科言継、黄昏に及び旅宿へ帰る。〔『言継卿記』四〕 8月10日 烏丸光康・烏丸光宣父子、美濃国岐阜へ下向し山科言継の岐阜旅宿より西方へ半町計りの所に宿泊。 山科言継、烏丸父子を訪問。〔『言継卿記』四〕 8月11日 山科言継、高屋重弘(「高屋右京進」:長橋局(薄好子)使者)に事情を申し含め先に上京させる。 長橋局(薄好子)・南向へ文及び言伝を送付させる。〔『言継卿記』四〕 8月11日 山科言継、武井夕庵から書状を受ける。佐々一兵衛・小栗大六(徳川家の織田信長への奏者)からの書状も披見。 その内容は三河国に於いて50貫を受け取ることはうまくいかず、京都に於いて200貫文を献上するとのことであった。 〔『言継卿記』四〕 8月11日 山科言継、烏丸光康・烏丸光宣父子が美濃国岐阜中見物に同行。 岐阜中を大方見物後、烏丸光康・烏丸光宣は山科言継の岐阜旅宿を訪問し暫く雑談す。〔『言継卿記』四〕 8月11日 山科家雑掌の沢路長俊、三河国の誓願寺長老よりの書状を携え山科言継の岐阜旅宿へ帰還。 その内容は「禁」(禁裏)へ300疋、長橋局(薄好子)へ100疋、山科言継へ100疋を献上、更に「がんぴ」2帖を送付 するというものであった。 また水野信元(「水野下野守」)よりの返状には「禁」(禁裏)へ2000疋を献上、山科言継へ太刀1腰と「太布」10端を 進上するというものであった。〔『言継卿記』四〕 8月11日 坂井利貞(「坂井文介」)、山科言継の岐阜旅宿を訪問し談合。〔『言継卿記』四〕 8月11日 上野中務大輔(「上野中務」)、足利義昭(「公方」)より派遣され大和国春日神社へ「代参」す。〔『多聞院日記』二〕 8月12日 山科言継、勧修寺門跡(聖信法親王)を訪問し暫く雑談す。〔『言継卿記』四〕 8月12日 山科言継、烏丸光康・烏丸光宣の岐阜旅宿を訪問。〔『言継卿記』四〕 8月12日 山科言継、鳴海助右衛門(「鳴海」:織田信長直臣)を礼問するも織田信長(「信」)へ祗候し留守であった。 〔『言継卿記』四〕 8月12日 山科言継、丹羽長秀(「丹波五郎左衛門」)を礼問するも眼病というので面会できず。〔『言継卿記』四〕 8月12日 山科言継、林秀貞(「林佐渡守」)を礼問するも奏者は居なかった。〔『言継卿記』四〕 8月12日 山科言継、武井夕庵へ度々山科家雑掌の沢路長俊を派遣するも留守であったという。〔『言継卿記』四〕 8月12日 今井宗久、塩座衆中・塩魚座・淀塩座中へ十河存保(「十河殿」)知行分の座役徴収権を織田信長(「信長」)より安堵 された旨を通達。〔「今井宗久書札留」〕 8月13日 山科言継、武井夕庵へ山科家雑掌の沢路長俊を派遣。武井夕庵より2万疋「切封」を丹羽長秀(「丹波五郎左衛門」)に申し 付けたので丹羽長秀方より渡されることになっているという通知があった。 武井夕庵、山科言継に丹羽長秀へ山科言継がやがて暇乞のため訪問するという由を通達したこと通知。〔『言継卿記』四〕 8月13日 山科言継、烏丸光康・烏丸光宣の岐阜旅宿を訪問。次いで勧修寺門跡(聖信法親王)へ祗候。是心寺殿が渡御し暫く雑談す。 山科言継、この雑談にて武井夕庵が織田信長の折紙を調えていないことを知る。〔『言継卿記』四〕 8月13日 山科言継、織田信長(「信長」)へ暇乞の訪問を意図するも、織田信長は下山せずというので暇乞は適わなかった。 〔『言継卿記』四〕 8月13日 山科言継、武井夕庵から丹羽長秀(「丹波五郎左衛門」)書状を届けられる。 その内容は、大文字屋に於いて2万疋を受け取るとうにとのことであった。〔『言継卿記』四〕 8月13日 五十河二郎三郎(山科言継使者)、三河国より山科言継の岐阜旅宿に帰還。五十河二郎三郎は石川数正(「石川伯耆守」) より永楽銭50貫の進上を受けた。 山科言継、即時武井夕庵へこの由を通知するが、武井夕庵は岐阜城に登城中であったという。 山科言継、佐々一兵衛へ同様の通知を行う。〔『言継卿記』四〕 8月13日 山科言継、烏丸光康・烏丸光宣を訪問し、次いで近所の法華寺を見物。その後、山科言継の岐阜旅宿に到来。 金仙坊(妙顕寺)・飛鳥井雅教・愛宕の長床坊らが山科言継の岐阜旅宿を訪問し、暫く雑談す。亥刻に各自帰る。 〔『言継卿記』四〕 8月13日 武井夕庵、亥刻に山科言継の岐阜旅宿を訪問。 山科言継、武井夕庵へ三河国より50貫が献上された由を通知したところ、武井夕庵は「可然」として丹羽長秀(「丹五左」) の2万疋渡状へ明朝に返還するようにという指示を与え、150貫文を織田側で準備するという由を通知。〔『言継卿記』四〕 8月13日 立花宗茂、誕生(異説1567・1568年)。〔『日本史人物生没年表』〕 8月14日 山科言継、山科家雑掌の沢路長俊を武井夕庵に派遣し丹羽長秀(「丹五左」)書状(2万疋渡状)を返還。 〔『言継卿記』四〕 8月14日 烏丸光康・烏丸光宣、山科言継の岐阜旅宿を訪問し談合。〔『言継卿記』四〕 8月14日 山科言継、未下刻に武井夕庵から織田信長(「信長」)へ早々に暇乞をするようにとの指示を受けて岐阜城に向かう。 〔『言継卿記』四〕 8月14日 烏丸光康・烏丸光宣・飛鳥井雅教ら、山科言継の岐阜旅宿を訪問。各自山科言継に同行し岐阜城へ赴く。〔『言継卿記』四〕 8月15日 織田信長(「信長」)、烏丸光康(「烏丸殿」)へ足利義昭「御下知」に任せ摂津国上牧のうち寺庵・被官人跡職を安堵する 織田信長「朱印」を進上するので入江某の押領分及び重層的に所有権が入り組んでいる部分を排除することを通達したこと、 摂津国下牧・太田の件は「当知行」として「直務」するよう通達。〔「烏丸家文書」〕 8月15日 「十」(十市某か)、足利義昭(「公方」)の「御報」の質を西殿へ通達し代米11石を調え上納す。〔『多聞院日記』二〕 8月 中旬 山科言継、美濃国岐阜より上洛。〔『言継卿記』四:この時期は欠文〕 8月17日 今井宗久、三淵藤英(「三淵大和守」)へ十河存保(「十河殿」)知行分であった塩合物の過料銭は去年(永禄十一年)以来 足利義昭(「公方様」)・織田信長室(「信長御台」)の「御料所」となり今井宗久が代官に任命されたが、使者を以て上申 したが「京都之儀」は未定というので「遠慮」し、「岐阜」に於いて織田信長(「信長」)へ上申したところ代官就任及び職責 遂行についての指示が下され、その件を再度足利義昭(「御公方様」)へ上申したところ去年(永禄11年)の「筋目」を収納 すべき旨を通達されたことなどを通知。〔「今井宗久書札留」〕 8月18日 佐久間信盛、和泉国堺北庄惣郷中へ地頭が「詰夫」・「諸役」などを「難渋」したため織田信長(「信長」)の譴責があり、 速やかに対処すべきことを命令。〔「今井宗久書札留」〕 8月20日 織田信長(「信長」)、8万余騎の軍勢を率いて伊勢国へ侵攻。〔『多聞院日記』二〕 8月20日 松永久秀(「松城州」)、布施衆を攻撃す。〔『多聞院日記』二〕 8月20日 松永久秀(「松城」)、「八条」の去年「納分」中の6斗ずつ収納す。〔『多聞院日記』二〕 8月24日 松田秀雄(「散位」)・松田頼隆(「豊前守」)、久我家雑掌へ久我家領山城国築山用水の「井料」についての永禄元年の 上久世郷との「約諾」の「一筆」を下郷が破った件で、一色昭秀(「一色駿河守」)へ「彼一筆」を提出し調査をしたところ 「用水相論」であった場合は、足利義昭「上裁」を経て先の決定するところになったが、水路に妨害をなすなど不当な行為が あれば言上すべきことなどを通達。〔「武家文書」A‐30〕 8月28日 多聞院英俊、竹内秀勝(「竹下」)を見舞い15疋を進上。〔『多聞院日記』二〕 8月26日 木下秀吉、北畠氏(伊勢国司)の阿坂城を攻略。 8月 日 織田信長(「弾正忠」)、伊勢国宇治朝熊三村へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「勢陽五鈴遺響」三十八度会郡十四〕 9月 9月 1日 山科言継、足利義昭(「武家」)へ祗候。祗候した公家衆は山科言継・三条公仲・高倉永孝らであった。 次いで山科言継は「一臺」、「御さごの局」へ祗候。〔『言継卿記』四〕 9月 4日 松永久秀、井戸表へ帰陣。〔『多聞院日記』二〕 9月 6日 松永久通(「松永右衛門佐」)・竹内秀勝(「竹下」)、伊勢国へ陣中見舞いする予定であったが、織田軍の損害は多く、 甲賀衆・伊賀惣国一揆と江州一揆が連動しているというので来9月10日に延期す。〔『多聞院日記』二〕 9月 7日 松永久秀(「久秀」)、広橋兼勝(「広橋殿」)より大和国興福寺修南院の奉行である賢識・豊前が以前より負債が多く 「曲事」ということで大和国多聞山城に監禁す。〔『多聞院日記』二〕 9月 7日 多聞院英俊、8月20日に織田信長(「信長」)の伊勢国侵攻を知る。〔『多聞院日記』二〕 9月 9日 多聞院英俊、「南」の陣より「兵出発」(三好三人衆の軍勢か)の情報に接す。〔『多聞院日記』二〕 9月10日 多聞院英俊、竹内秀勝(「竹下」)より「南」の陣への下向を依頼される。〔『多聞院日記』二〕 9月11日 多聞院英俊、再度竹内秀勝より摂津国への下向を依頼され、早々に下向。〔『多聞院日記』二〕 9月12日 多聞院英俊、摂津国より大和国奈良へ戻ろうとしたところ松永久秀(「久秀」)からの十市兵部少輔(「十兵」)を見舞った ことが「曲事」であるとした一札に接す。〔『多聞院日記』二〕 9月13日 多聞院英俊、大和国奈良へ到着し松永久秀から派遣された今井甚三郎の迎えを受け、直ちに松永久秀(「城州」)のもとを 弁解のため訪問。〔『多聞院日記』二〕 9月16日 今井宗久、河内国牧郷名主・百姓中へ野尻備後守が度々の催促にもかかわらず「借銭」を「難渋」しているため 織田信長(「信長」)に訴訟したところ、野尻備後守の知行を「押置」きすることになり、「上使衆」として 坂井政尚(「坂井右近尉」)・木下秀吉(「木下藤吉郎」)の折紙で通達することを通知。〔「今井宗久書札留」〕 9月28日 多聞院英俊、竹内秀勝(「竹下」)の指示で井戸表を訪問。松永久秀(「松城」)へ陣中見舞いす。〔『多聞院日記』二〕 9月29日 多聞院英俊、竹内秀勝(「竹下」)の指示により摂津国へ下向。〔『多聞院日記』二〕 10月 10月 3日 伊勢北畠城(「勢州国司ノ城」)、陥落す。〔『多聞院日記』二〕 10月 4日 多聞院英俊、竹内秀勝(「竹下」)を見舞う。〔『多聞院日記』二〕 10月 5日 多聞院英俊、竹内秀勝(「竹下」)からの返状を受け、去3日の伊勢北畠城攻略の旨を知る。〔『多聞院日記』二〕 10月 9日 木下秀吉、細川藤孝・明院良政と連署で阿弥陀寺に寄宿免除。 10月11日 織田信長、足利義昭に対する伊勢平定報告のために上洛。 10月11日 織田信長(「信長」)、軍勢3万騎を率い出京す。〔『多聞院日記』二〕 10月12日 織田信長(「信長」)、上洛す。〔『多聞院日記』二〕 10月14日 松永久通(「松右」)・竹内秀勝(「竹下」)、上洛す。〔『多聞院日記』二〕 10月15日 織田信長、足利義昭の命令により伊勢因幡入道(伊勢貞知)の領地である丹波国桐野河内村半分・保津保半分・保津保毘沙門 村集慶分半分・水尾村半分、摂津国溝杭村地頭名半分を安堵。〔「伊勢文書」〕 10月16日 織田信長(「信長」)、足利義昭(「上意」)と「セリアヰ」美濃国岐阜に下国す。〔『多聞院日記』二〕 10月17日 中村良政(「中村隼人佑」:村井貞勝家臣)、山城国富坂荘名主・百姓中へ織田信長朱印状及び村井貞勝添状により清和院領 として安堵された旨を通達。〔「清和院文書」坤〕 10月19日 多聞院英俊、織田信長(「信長」)は10月12日に上洛したが、10月16日に足利義昭(「上意」)との「セリアヰ」が 原因で美濃国岐阜へ下向した旨を知る。〔『多聞院日記』二〕 10月20日 飛鳥井雅庸、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕 10月20日 大内輝弘、没。〔『日本史人物生没年表』〕 10月25日 多聞院英俊、竹内秀勝(「竹内」)に見参す。〔『多聞院日記』二〕 10月29日 「多聞山」(松永久秀)より大和国法蓮郷へ市を立てるよう命令が下される。〔『多聞院日記』二〕 11月 11月 1日 山科言継、東坊城盛長を同行し足利義昭(「武家」)へ参賀す。 山科言継、先ず「一臺」・「御さこ」・「小少将殿」へ祗候。大蔵卿局へ祗候したところ、美濃国岐阜へ下向というので留守で あった。次いで足利義昭へ祗候。祗候した公家衆は山科言継・飛鳥井雅教・飛鳥井雅敦・烏丸光宣・日野輝資・東坊城盛長・ 三条公仲・高倉永孝らであった。〔『言継卿記』四〕 11月 1日 山科言継、東坊城盛長・三条公仲を同行し禁中の作事を見舞う。〔『言継卿記』四〕 11月 4日 多聞院英俊、近日中に「多聞山」(松永久秀)より大和国北里へ市を立てるよう命令が下される旨を知る。 〔『多聞院日記』二〕 11月 5日 正親町天皇、山科言継へ上搆芫ヌ領の丹波国新屋庄回復を織田信長(「のふなか」)へ通達するよう「女房奉書」を遣わす。 〔『言継卿記』四〕 11月 5日 正親町天皇、山科言継へ後奈良天皇13回忌の「御法事」にあたり水野信元(「水のゝ下つけのかみ」)が2000疋を進上 したことを賞す「女房奉書」を下す。〔『言継卿記』四〕 11月 5日 正親町天皇、山科言継へ三河国誓願寺の「たいおう上人」が300疋進上したことを賞す「女房奉書」を下す。 〔『言継卿記』四〕 11月 5日 正親町天皇、山科言継へ9月に挙行される後奈良天皇13回忌の「御ほう事」にあたり徳川家康(「とく川さ京の大夫」)が 2万疋を進上したので「御せんはうこう」(御懺法講)が滞り無く挙行されたことを賞す「女房奉書」を下す。 また織田信長(「のふなか」)へも献金の旨を申し渡すよう指示し、(織田信長か?)「とんす」を送付したことを徳川家康 (「いゑやす」)に伝達するよう指示。〔『言継卿記』四〕 11月 5日 正親町天皇、山科言継へ三河国誓願寺「たいおう上人」が100疋を献じたことを賞す「女房奉書」を下す。〔『言継卿記』四〕 11月 5日 多聞院英俊、竹内秀勝(「竹下」)を見舞う。〔『多聞院日記』二〕 11月 6日 織田信長(「信長」)、津田一安(「掃部助」)へ3510石の領中方目録を下す。〔「土佐国蠧簡集残編」四〕 11月 6日 多聞院英俊、井戸への替米の件で竹内秀勝(「竹下」)へ書状を遣わす。〔『多聞院日記』二〕 11月 7日 正親町天皇、誓願寺蓮翁上人へ「香衣」勅許の「綸旨」を下す。奏者は中御門宣教(「権左少弁宣教」)であった。 〔『言継卿記』四〕 11月 7日 誓願寺玄易、山科言継を訪問し三河国大林寺蓮翁の「香衣」の件の取り成しを依願。〔『言継卿記』四〕 11月 7日 山科言継、長橋局(薄好子)へ祗候し三河国の大林寺蓮翁の「香衣」の件を奏聞、即時「勅許」が下された。 山科言継、香衣勅許の由を山科家雑掌の沢路長俊を通じて誓願寺玄易へ伝達させる。〔『言継卿記』四〕 11月 7日 山科言継、長橋局(薄好子)より4通の「女房奉書」を預かる。〔『言継卿記』四〕 11月 7日 足利義昭(「武家」)、鷹狩す。〔『言継卿記』四〕 11月 7日 山科言継、足利義昭(「武家」)へ暇乞に祗候するも、鷹狩より還御したばかりで「御労煩」というので対面は無かった。 次いで山科言継、「一臺」へ暇乞す。ついで昨日美濃国岐阜より上洛した大蔵卿局を訪問し、「様体」を聞く。〔『言継卿記』四〕 11月 7日 横川某(朝山日乗被官)・高屋重弘(「高屋右京進」)、山科言継を訪問し、明日朝山日乗に同行するよう通達。 〔『言継卿記』四〕 11月 8日 山科言継、長橋局(薄好子)へ参上し暇乞す。次いで誠仁親王(「親王御方」)へも暇乞す。 誠仁親王、山科言継を「見参」す。〔『言継卿記』四〕 11月 8日 山科言継、美濃国岐阜へ向けて京都を発足。この夜は近江国坂本の宿泊。〔『言継卿記』四〕 11月 9日 山科言継、辰初刻に乗船し近江国北浜に到着。次いで乗馬し島口郷迄4里進む。申下刻に貞五郎の宿に逗留。 〔『言継卿記』四〕 11月10日 山科言継、早旦に宿を出発。戌刻に堤孫七郎の宿へ到着。〔『言継卿記』四〕 11月11日 山科言継、申初刻に美濃国垂井の木村宿所へ到着。〔『言継卿記』四〕 11月11日 丹羽長秀(「丹羽五郎左衛門尉」)、池田勝正(「池田筑後守」)へ今井宗久知行の和泉国堺5庄及び天王寺善珠庵の収得権 を横領していることについて織田信長(「信長」)からの譴責があったことを通達。〔「今井宗久書札留」〕 11月11日 竹内秀勝(「竹下」)、「今井ツルヤ」にて大和国興福寺へ替米を下す。〔『多聞院日記』二〕 11月12日 山科言継、寅刻に出立し美濃国岐阜の風呂屋余語宿所に到着。〔『言継卿記』四〕 11月12日 山科言継、武井夕庵へ山科家雑掌の沢路長俊を派遣。「奏者」のことは「斟酌」するということであった。これは織田信長が 京都の件については関与しないということが理由であった(「信長京之 存間敷之由有之」)。 山科言継、次いで山科家雑掌の沢路長俊を朝山日乗・坂井利貞(「坂井文介」)派遣。 坂井利貞(「坂井文介」)は所労という。〔『言継卿記』四〕 11月12日 山科言継、朝山日乗の岐阜宿(丹羽長秀邸)を訪問し門前に於いて談合。三条西公国と申し合わせ同行することとする。 次いで山科言継、鳴海助右衛門(「鳴海:織田信長直臣」)を訪問。〔『言継卿記』四〕 11月12日 山科言継、光雲より一盞振る舞われる。しかし美濃国内に悪銭が横行しているので「商売留」となり酒は無かった。 〔『言継卿記』四〕 11月12日 山科言継、稲葉一鉄(「因幡伊予守」)邸に寄宿している三条西公国を訪問し織田信長(「信長」)へ対面する件を談合。 〔『言継卿記』四〕 11月12日 坂井隼人、坂井利貞が所労というので代理として山科言継を訪問。〔『言継卿記』四〕 11月12日 坂井利貞(「坂井文介」)、入夜に山科言継を訪問し病状を説明。〔『言継卿記』四〕 11月12日 竹内秀勝(「竹下」)、大和国興福寺塔頭の多聞院英俊を訪問。「南」の陣より帰還した旨を告げる。〔『多聞院日記』二〕 11月13日 山科言継、坂井利貞(「坂井文介」)へ山科家雑掌の沢路長俊を派遣し宿の件を談合。次いで島田秀満(「島田但馬守」)へ 贈物をするが「他行沈酔」であったという。次いで織田信長の小者である徳若へも贈物をする。〔『言継卿記』四〕 11月13日 山科言継、織田信長(「弾正忠」)への「奏者」がいないため、織田信長が鷹狩の帰路、門前に於いて待機し「存分少々」を 奏上。戌刻に織田信長は山科言継へ松井友閑(「友閑入道」)を「使」として派遣し「勅使歟又自分之儀歟」を問わせる。 山科言継、この問いかけに「自分之訴訟」と返答。〔『言継卿記』四〕 11月13日 山科言継、織田信長(「弾正忠」)と対面した際に大津伝十郎へ贈物を渡す。〔『言継卿記』四〕 11月14日 山科言継、早旦に朝山日乗が松井友閑(「友閑」)を同行し近所まで到来するというので出向くが、出会えず旅宿へ戻る。 〔『言継卿記』四〕 11月14日 山科言継、三条西公国を訪問し暫く雑談す。〔『言継卿記』四〕 11月14日 板井好斎・武井夕庵、黄昏に及び織田信長(「織田弾正忠」)よりの「両使」として山科言継に2000疋を贈る。 その際に織田信長からの言伝「只今者京面之儀萬事不存之間春過上洛之刻知行分可申付之」、「先其刻迄可堪忍」を伝達。 三条西公国へは3000疋の「合力」があったという。山科言継、三条西公国を同行し門前まで出向き礼を述べようとしたが 三条西公国からは返事が無かった。〔『言継卿記』四〕 11月14日 山科言継、夜半に岐阜旅宿へ帰宅し、先ず板井好斎(「好斎」)を礼問し20疋を進上。〔『言継卿記』四〕 11月14日 山科言継、松井友閑(「友閑」)を礼問し樽代20疋を進上。〔『言継卿記』四〕 11月14日 山科言継、坂井利貞(「坂井文介」)を訪問し「種々懇之故」に樽代20疋を進上。〔『言継卿記』四〕 11月15日 織田信長(「信長」)、伊勢貞倍(「伊勢因幡入道」:幕府政所執事)へ領知方目録を足利義昭「御下知」に任せて安堵す。 〔「伊勢文書」三〕 11月15日 織田信長(「信長」)、伊勢国の弘泉坊真円へ常智院良慶が紛失した金子の件で覚弘院・弘泉坊真円間の訴訟を裁決し、出頭 命令に従わなかった覚弘院を敗訴とし、その院領を弘泉坊真円に給与することを通達。〔「賜蘆文庫文書」一〕 11月16日 多聞院英俊、井戸表の竹内秀勝(「竹下」)陣所を訪問。〔『多聞院日記』二〕 11月19日 木下秀吉(「木下藤吉郎秀吉」)、当地名主百姓中へ妙心寺内無明院領横路分の件で年貢・ゥ成物の早々納所を命令、難渋の 場合は譴責使を派遣する旨を通達。〔「退蔵院文書」〕 11月21日 織田信長(「弾正忠信長」)、上杉輝虎(「上杉弾正少弼」)へ「弟鷹」2連の贈呈を謝す。〔「伊佐早文書」一〕 11月21日 多聞院英俊、竹内秀勝(「竹下」)が井戸陣所より到来するという通知を受けて出迎えるが、卯刻に大雪となり竹内秀勝が 「南」の陣へ下ったというので「新織」を同行し入夜に帰坊す。〔『多聞院日記』二〕 11月23日 「高田殿」、「十市」(十市兵部少輔か)の件で竹内秀勝(「竹下」)に「入魂」として上る。〔『多聞院日記』二〕 11月23日 竹内秀勝(「竹下」)、初めて大和国興福寺多聞院へ来臨す。〔『多聞院日記』二〕 11月26日 多聞院英俊、竹内秀勝(「竹下」)と対談す。〔『多聞院日記』二〕 11月27日 松永久秀、大和国法隆寺へ織田信長(「信長」)への供出する要脚の件で和泉国堺へ八木進上の路次に関する書状を送る。 詳細は寶光院に伝達させる。〔「法隆寺文書」〕 11月27日 越智民部、大和国春日大社へ社参す。〔『多聞院日記』二〕 11月28日 多聞院英俊、「新織」の来訪を受ける。「南」の陣の件は来る10日と「内々」に通知されたが相違があり、来る20日に 渡すように竹内秀勝(「竹下」)・「南」の陣へも通達す。〔『多聞院日記』二〕 11月29日 「宗三郎」が大和国興福寺へ来訪し、竹内秀勝(「竹下」)の「誓紙」の原本(「筆元」)を披見す。〔『多聞院日記』二〕 11月30日 「新織」、「南」の陣へ下向。〔『多聞院日記』二〕 11月 日 織田信長(「信長」)、大沢橘大夫へ「禁裏様御修理」に際し「御問之船・車」(問丸船・車)の件で奔走しているから 「徳政」が公布されても足利義昭「御下知」に任せ全てを安堵する旨を通達。〔「仏光寺文書」〕 11月 木下秀吉、阿弥陀寺に対し所領・代官職に関する調停及び違乱禁止を命令。 12月 12月 9日 筒井衆・興福寺衆ら500計の軍勢、大和国十市城へ入る。〔『多聞院日記』二〕 12月17日 伊藤実元(「伊藤右近丞」)・伊藤実重(「伊藤豊右衛門尉」)・落合長貞(「落合平兵衛丞」)、山城国阿弥陀寺生誉清玉 へ「寄進領」の件は足利義昭「御下知」に任せ織田信長(「信長」)が安堵する旨を通達。〔「阿弥陀寺文書」〕 12月17日 多聞院英俊、「ヲク歯」が抜けた夢を見る。この夢の判断は多聞院英俊にとって「先例不吉」であるという。 〔『多聞院日記』二〕 12月18日 丹羽長秀(「丹羽五郎左衛門尉」)・中川重政(「中川八郎右衛門尉」)、近江国河守・林村名主・百姓中へ永禄12年分の 「物成」3分の1を支給を通達。〔「橋本左右神社文書」〕 12月25日 多聞院英俊、大和国井戸表在陣中の松永久秀(「松城」)へ歳暮を贈る。〔『多聞院日記』二〕 12月27日 今井宗久、山城国西九条名主・百姓中へ「先方」(敵方)の十河民部大夫「当知行分」の西九条縄内で新たに織田信長 「御料所」となった分の年貢・地子銭・諸物成以下は足利義昭「御下知」・織田信長「御朱印」により今井宗久が代官する旨を 通達。〔「今井宗久書札留」〕 12月28日 大和国興福寺、松永久秀(「松城」)より通達を受ける。〔『多聞院日記』二〕 12月 日 織田信長(「信長」)、山城国相国寺宜竹軒へ京都六角高倉四町町の地子銭は将軍家「御代々御下知」に任せて安堵された にもかかわらず、今中某の取分という理由で安宅信康が「違乱」したことは言語道断であり、今後は許容しないこと、 「如先々」く寺納貫徹を命令。〔「慈照院文書」〕 この年 阿部正次、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕 以心崇伝、山城国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕 木下長嘯子、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕 中川秀政、誕生(異説1568年)。〔『日本史人物生没年表』〕 羽柴秀勝(木下秀吉甥)、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕 村山等安、安芸国に誕生(異説1562年頃)。〔『日本史人物生没年表』〕