All contents copyright (C)1999-2001 Household Industries / allrights reserved


フロントページに戻る
目次に戻る
項目別文献・論文一覧へ

        【 天下統一期年譜 1595年 】


文禄4(1595)年

 1月
  1月 3日 羽柴秀吉、上野草津温泉へ湯治のため御座所の建設および中山道の行程・道中警固を発令。
  1月 4日 孝蔵主(「かうさうす」)、毛利輝元(「あきのさいしやう」)に対して明日羽柴秀吉(「大かう御所さま」)が毛利輝元を
       「中納言殿」に推任する予定を通知。〔「毛利家文書」@‐358〕
  1月 4日 曲直瀬正盛(初代曲直瀬道三)、没。〔『戦国人名事典』〕
  1月 6日 毛利輝元(「参議豊臣輝元朝臣」)、「権中納言」に任ぜられる。〔「毛利家文書」@‐359〕
  1月11日 羽柴秀吉、小出秀政へ摂津国内の北政所知行方目録を下し、その運上を命令。〔「足守木下家文書」‐33〕
  1月15日 羽柴秀吉、「高麗国動御人数」帳を作成。出陣軍団・釜山海在陣軍団・船手衆・高麗城々の留守居軍団・高麗伝城在番衆・
       肥前国名護屋の羽柴秀次側近軍団の編成を定む。〔「島津家文書」A‐957〕
  1月16日 羽柴秀吉、吉川広家へ来年の羽柴秀次の名護屋への動座予定の準備、兵粮の入替、および釜山浦の兵站基地において兵粮の調達を
       行うことを命令。また羽柴秀吉は朝鮮は「九州同前」と認識しているため内輪替後に帰朝すべきこと、在城周辺の耕地開作を指示。
       詳細は寺沢広高に伝達させることとし、「御目付」として別人を派遣することを通知。〔「吉川家文書」@‐770〕
  1月16日 羽柴秀吉、島津義弘へ来年の羽柴秀次の名護屋への動座予定の準備、兵粮の入替、および釜山浦の兵站基地において兵粮の調達を
       行うことを命令。また羽柴秀吉は朝鮮は「九州同前」と認識しているので内輪替後に帰朝すべきこと、在城周辺の耕地開作を指示。
       詳細は寺沢広高に伝達させることとし、「御目付」として別人を派遣することを通知。〔「島津家文書」@‐419〕
  1月16日 羽柴秀吉、吉川広家の長期在陣を慰労、詳細は毛利吉政・平野長泰に伝達させる。〔「吉川家文書」@‐771〕
  1月16日 羽柴秀吉、島津義弘の長期在陣を慰労、詳細は毛利吉政・平野長泰に伝達させる。〔「島津家文書」@‐418〕
  1月16日 羽柴秀吉、龍造寺宛で長期在番を慰労。詳細は毛利吉政・平野長泰に伝達させる。〔「龍造寺家文書」‐183〕
  1月21日 古田重勝、片桐孫大夫へ美濃国菅生村八幡宮修理について別儀無き旨を通達。〔「八幡神社文書」‐4〕
  1月28日 羽柴秀吉、島津義弘へ美濃部四郎三郎・山城忠久を派遣し長期在番を慰労。また在陣諸将に軍勢総数および兵粮の検査を命令。
       詳細は美濃部四郎三郎・山城忠久に伝達させる。〔「島津家文書」@‐421〕
  1月28日 羽柴秀吉、龍造寺政家へ美濃部四郎三郎・山城忠久を派遣を派遣し長期在番を慰労。また在陣諸将に軍勢総数および兵粮の検査を
       命令。詳細は美濃部四郎三郎・山城忠久に伝達させる。〔「龍造寺家文書」‐193〕
  1月28日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ美濃部四郎三郎・山城忠久を派遣を派遣し長期在番を慰労。また在陣諸将に軍勢総数および兵粮の検査を
       命令。詳細は美濃部四郎三郎・山城忠久に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐93〕

 2月
  2月 1日 大坂城中より多数の金銀が盗難される事件が発生。
  2月 2日 勧修寺晴豊・久我敦通・中山親綱、前田玄以(「民部卿法印」)へ小早川隆景(「小早川宰相」)の任「中納言」の「勅許」
       を伝達。〔「毛利家文書」B‐992〕
  2月 6日 羽柴秀吉、鍋島勝茂へ鉄炮で捕獲した雉子5・雁15・鴨303・青鷺3の献上を賞す。
       忠勤の様子は留守居共へ伝達することを通知。詳細は山中長俊に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐124〕
  2月 7日 蒲生氏郷、京都において病死。〔『日本史人物生没年表』〕
  2月10日 長束正家、島津義弘へ羽柴秀吉からの「御朱印」および呉服を送付して長期在陣を慰労。寺沢広高より「赤国」(全羅道)の戦況
       報告がある旨を通知。詳細は毛利吉政・平野長泰が伝達することを通知。〔「島津家文書」A‐976〕
  2月16日 山中長俊、朝鮮在陣中の吉川広家を慰労、見舞として毛利吉政・平野長泰が派遣されることを報告。また来年の羽柴秀次の
       動座・渡海について予告。詳細については寺沢広高および毛利・平野が伝達することを通知。〔「吉川家文書」@‐772〕
  2月27日 古田重勝、美濃国春近村の井上与三へ文禄3年分の公用米金子請取手形を下す。〔「安藤鉦司氏所蔵文書」‐23〕
  2月29日 古田重勝、美濃国春近村の井上与三へ文禄3年分の公用米金子請取手形を下す。〔「安藤鉦司氏所蔵文書」‐24〕

 3月
  3月 4日 古田重勝、美濃国春近村の井上与三へ文禄3年分の蔵米金子請取手形を下す。〔「安藤鉦司氏所蔵文書」‐25〕
  3月 5日 古田重勝、美濃国春近村の井上与三へ文禄3年分の蔵米金子請取手形を下す。〔「安藤鉦司氏所蔵文書」‐26〕
  3月 7日 羽柴秀吉、伏見より入京し前田利家邸に宿泊。
  3月 8日 羽柴秀吉、聚楽第において羽柴秀次と対面。
  3月11日 小西行長、島津忠恒へ虎2頭の捕獲を謝す。〔「島津家文書」A‐1060〕
  3月12日 古田重勝、美濃国春近村の井上与三へ文禄3年分の蔵米金子請取手形を下す。〔「安藤鉦司氏所蔵文書」‐27〕
  3月17日 古田重勝、美濃国春近村の井上与三へ文禄3年分の蔵米金子請取手形を下す。〔「安藤鉦司氏所蔵文書」‐28〕
  3月17日 木曽義昌、没(異説1596年3月13日)。〔『日本史人物生没年表』〕
  3月25日 羽柴秀吉、入京。
  3月27日 羽柴秀吉、禁裏に参内し先に羽柴秀頼が叙爵した御礼などを奏上。
  3月27日 羽柴秀吉、南部信直(「南部大膳大夫」)へ去年以来命令している「板」の件で出羽国秋田・陸奥国津軽および南部信直の
       領内にて「杣」を調達し、越前国敦賀の大谷吉継(「大谷刑部少輔」)へ搬送すべきことを命令。
       詳細は前田利家(「加賀大納言」)に伝達させる。〔「盛岡南部家文書」〕
  3月28日 羽柴秀吉、徳川家康邸を訪問。

 4月
  4月 1日 山科言経、大村由己(「梅庵」)を訪問し雑談する。その後、大村由己(「梅庵」)は中島へ下向。〔『言経卿記』〕
  4月 2日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ「虎」の皮・頭・骨・肉・肝胆など目録を添えて献上してきたことを賞す。
       詳細は木下吉隆に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐90〕
  4月 8日 羽柴秀吉、豊臣秀頼の病気見舞のため伏見城に入城。
  4月 9日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ「虎之頭」の献上を賞す。詳細は山中長俊・木下吉隆に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐91〕
  4月10日 羽柴秀吉、伏見城において聚楽第より下向した羽柴秀次と対面。
  4月12日 羽柴秀吉、在陣中の島津義弘へ薩摩国「知行割」のために帰朝命令を発す。詳細は石田三成に伝達させる。
       〔「島津家文書」@‐446〕
  4月14日 石田三成、島津忠恒へ島津義久(「龍伯」)の言上により島津氏領国の「御検地」終了を通知。島津氏領国の「御仕置」は
       島津義弘を召し寄せ羽柴秀吉が伝達するので、帰朝命令の「御朱印」が発給された旨を通知。また島津義弘留守中の「御番」は堅固
       であることを賞す。更に島津義弘の上洛を待ち望む。詳細は鹿島右衛門に伝達させる。〔「島津家文書」A‐1061〕
  4月16日 羽柴秀保(大和国郡山城主)、横死する事件が発生。
  4月21日 羽柴秀吉、大坂城に帰城。
  4月22日 羽柴秀吉、吉川広家からの高麗豹の献上を謝す。〔「吉川家文書」@‐133〕
  4月22日 浅野長政・木下吉隆、吉川広家へ羽柴秀吉への高麗豹献上を賞し、御用を取り次ぐ旨を通知。〔「吉川家文書」@‐773〕
  4月28日 羽柴秀吉、「虎」の肉・骨・腸などを送付してきた島津義弘へ今後一切の狩猟は無用であることを通知。
       詳細は石田三成に伝達させる。〔「島津家文書」@‐395〕
  4月28日 羽柴秀吉、「虎」の肉・骨・腸などを送付してきた鍋島直茂へ今後一切の狩猟は無用であることを通知。
       詳細は増田長盛に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐94〕

 5月
  5月 1日 羽柴秀吉、吉川広家の長期在陣を慰労、御仕置についての御一書の送付を通知。詳細は熊谷直盛・水野久右衛門尉に伝達させる。
       〔「吉川家文書」@‐774〕
  5月 3日 徳川家康、江戸に向けて京都を出発。
  5月 3日 秋田実季(「秋田藤太郎」)、前田玄以(「民部卿法印」)・浅野長政(「浅野弾正」)・増田長盛(「増田衛門亟」)・
       長束正家(「長束大蔵」)へ秋田領国内「御蔵入御算用状」を上申す。〔「秋田家文書」〕
  5月 3日 前田玄以(「民部卿法印」)・浅野長政(「浅野弾正」)・増田長盛(「増田右衛門尉」)・長束正家(「長束大蔵」)、
       秋田実季(「秋田藤太郎」)へ秋田領国内「御蔵入御算用状」の受取状を発す。〔「秋田家文書」〕
  5月 6日 古田重勝、美濃国春近村の井上与三へ文禄3年分の美濃国春近村米について請取手形を下す。〔「安藤鉦司氏所蔵文書」‐29〕
  5月10日 小笠原貞慶、没。〔『日本史人物生没年表』〕
  5月19日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ帰朝した美濃部四郎三郎・山城忠久より在陣の様子を聞き届け、番普請および鍋島家中を番折として備える
       べきこと、兵粮が古米にならぬよう入れ替えを命令、詳細を浅野長政・山中長俊に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐95〕
  5月19日 羽柴秀吉、吉川広家へ帰朝した美濃部四郎三郎・山城忠久より在陣の様子を聞き届け、番普請および吉川家中を番折として備える
       べきこと、兵粮が古米にならぬよう入れ替えを命令、詳細を浅野長政・山中長俊に伝達させる。〔「吉川家文書」@‐777〕
  5月19日 浅野長政・山中長俊、吉川広家へ御両使(美濃部・山城)の帰朝を報告、羽柴秀吉命令の城普請および番折、御蔵米が古米に
       ならぬよう入れ替えを通達。〔「吉川家文書」@‐778〕
  5月20日 羽柴秀吉、江戸の徳川家康へ黐と蝋燭の贈物の礼を述べ、新茶の壺を贈答し口切の9月頃に茶会を開催することを申し合わせる。
       詳細は津田隼人正・富田知信に伝達させる。〔「内藤文書」〕
  5月21日 青蓮院尊朝法親王、在京中の秋田実季へ若狭国羽賀寺が「大破」しているので修理の「下知」を下す。〔「秋田家文書」〕
  5月23日 山科言経、今川氏真(「今川入道仙岩斎」)を同行して石川家成(徳川家臣)を訪問。〔『言経卿記』〕
  5月24日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ御城米の「御奉行」として福島正則・毛利高政の派遣を報告。城米の惣割符を以ての積み替えと諸城に
       おける城米の配分について命令。詳細を浅野長政・山中長俊に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐97〕
  5月24日 羽柴秀吉、吉川広家へ御城米の「御奉行」として福島正則・毛利高政の派遣を報告。城米の惣割符を以ての積み替えと諸城に
       おける城米の配分について命令。詳細を浅野長政・山中長俊に伝達させる。〔「吉川家文書」@‐779〕
  5月24日 浅野長政・山中長俊、吉川広家へ御城米の「御奉行」福島正則・毛利高政の派遣と両人に相談し、惣割符を以て御蔵米の入替
       などを通達。詳細については福島正則・毛利高政の支持を受けるよう通知。〔「吉川家文書」@‐780〕
  5月24日 浅野長政・山中長俊、島津義弘へ御城米の「御奉行」福島正則・毛利高政の派遣と両人に相談し、惣割符を以て御蔵米の入替
       などを通達。詳細については福島正則・毛利高政の支持を受けるよう通知。〔「島津家文書」A‐966〕
  5月24日 石川家成(徳川家臣)、摂津国有馬へ湯治に赴く。〔『言経卿記』〕
  5月    蒲生家重臣の町野繁仍(「町野左近助重行」)・玉井貞右(「玉井かすまのすけ」)・蒲生郷安(「蒲生左兵衛」)、
       前田玄以(「民部卿法印」)・浅野長政(「浅野弾正」)に宛て蒲生氏郷(「飛騨」)が羽柴秀吉から賜わった会津知行高と、
       文禄3年に実施された検地結果を記載した「会津知行目録」を提出。
       〔「毛利家文書」B‐965、「島津家文書」A‐958〕

 6月
  6月 2日 青蓮院尊朝法親王、在京中の秋田実季へ依頼されていた「古今集上下」と「消息詞」1冊の手本奥書に染筆したことなどを
       通知。〔「秋田家文書」〕
  6月 3日 羽柴秀吉、毛利輝元(「羽柴安芸中納言」)へ蒲生氏郷(「飛騨」)の老臣共の不正を糾弾し、「家康聟ニまてさせられ」た
       蒲生秀行(「鶴千世」)を近江国内2万石に転封することを通達。
       また諸大名の部下へもこの旨を通知し答書を上申するよう命令。〔「毛利家文書」B‐965〕
  6月 3日 羽柴秀吉、島津義弘へ蒲生氏郷老臣共の不正を糾弾し蒲生秀行を近江2万石に転封することを通達。
       また諸大名の部下へもこの旨を通知し答書を上申するよう命令。〔「島津家文書」A‐958〕
  6月 3日 前田玄以(「民部卿法印玄以」)・浅野長政(「浅野弾正少弼長吉」)・石田三成(「石田治部少輔三成」)・
       増田長盛(「増田右衛門尉長盛」)・長束正家(「長束大蔵大輔正家」)、毛利輝元(「羽柴安芸中納言」)へ
       蒲生氏郷(「羽柴会津宰相」)の「跡目」について蒲生秀行(「鶴千世」)が家督相続をしたが、家老共の不正を
       羽柴秀吉(「太閤様」)が糾弾してその旨の羽柴秀吉「御朱印」を公示し、さらに答書上申の旨を通達。
       〔「毛利家文書」B‐966〕
  6月13日 山科言経、石川家成(徳川家臣)を訪問するが留守であった。〔『言経卿記』〕
  6月29日 羽柴秀吉、島津義弘へ薩摩国・大隅国・日向国諸県郡に計55万8733石を宛行う。但しこの内1万石は「御蔵入」、
       6200石は石田三成に、3000石は細川藤孝に知行として与え、これを除外した55万9533石を扶助(目録別紙有)。
       〔「島津家文書」@‐447〕
  6月29日 羽柴秀吉、島津義弘へ検地後に57万8733石の知行宛行目録を下す。〔「島津家文書」A‐1095〕

 7月
  7月 3日 羽柴秀次、謀反の嫌疑で石田三成・増田長盛ら羽柴秀吉奉行衆より詰問を受ける。
  7月 5日 長宗我部盛親、山田庄屋の門田藤兵衛・谷甚左衛門へ7月25日までに鉄炮玉薬の納品を命令。〔「土佐国蠧簡集」‐629〕
  7月 8日 羽柴秀吉、羽柴秀次を召喚し関白・左大臣の官職を剥奪、羽柴秀次は出家し高野山へ追放される。〔『公卿補任』〕
  7月10日 羽柴秀吉、吉川広家へ羽柴秀次の高野山追放を告知。〔「吉川家文書」@‐135〕
  7月10日 羽柴秀吉、島津義弘家中へ羽柴秀次の高野山追放を告知。〔「島津家文書」@‐396〕
  7月10日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ羽柴秀次の高野山追放を告知。〔「鍋島家文書」‐98〕
  7月10日 前田玄以・石田三成・増田長盛・長束正家、吉川広家へ羽柴秀次の高野山放逐を通知、虚説の出現を否定。
       〔「吉川家文書」@‐781〕
  7月12日 徳川家康(「羽柴武蔵大納言家康」)・毛利輝元(「羽柴安芸中納言輝元」)・小早川隆景(「羽柴筑前宰相」)、
       羽柴秀頼(「御ひろい様」)への忠誠および「太閤様御法度・御置目」を遵守し「坂東法度置目公事篇順路憲法之上をもつて」
       徳川家康が(「家康」)が担当し、「坂西之儀」は毛利輝元(「輝元」)・小早川隆景(「隆景」)が支配すること、
       不断在京の上での羽柴秀頼(「御ひろい様」)への「御奉公」することおよび徳川家康(「家康」)・毛利輝元(「輝元」)が
       交替で暇乞をして下国することを「霊社上巻之起請文」を以て誓約。〔「毛利家文書」B‐958・959〕
  7月12日 石田三成・増田長盛、全5ヶ条の「霊社上巻起請文」を提出。
       豊臣秀頼への表裏別心無く、盛り立てること。
       諸事については羽柴秀吉「御法度」・「御置目」の遵守すること。
       豊臣秀頼を疎略にし、羽柴秀吉「御置目」に違反する者は、たとえ誰であっても糺明の上成敗すべきこと。
       石田三成・増田長盛が分別無き所行をした場合、「御置目」を「被仰付衆」によって異見を受けて解決すべきこと。
       羽柴秀吉の恩恵を受けた者共は子々孫々までも公儀(豊臣氏)への忠誠をつくすべきこと、を誓約。〔「大阪城天守閣所蔵木下家文書」‐2〕
  7月15日 羽柴秀次、高野山において謀反の科により自害。〔「言経卿記」〕
  7月15日 木村重茲、羽柴秀次に連座して京都山崎の大門寺で自刃。〔『日本史人物生没年表』〕
  7月15日 山岡宗無、没(異説1603年)。〔『日本史人物生没年表』〕
  7月20日 羽柴秀吉、諸大名に豊臣秀頼に対する忠誠および法度・御置目の遵守を誓わせる血判起請文を提出させる。
  7月20日 前田利家、全5ヶ条の「霊社上巻起請文」を宮部継潤・前田玄以・富田知信・長束正家・石田三成・増田長盛へ提出。
       豊臣秀頼に対する忠誠を誓うこと。
       羽柴秀吉「御法度」・「御置目」を遵守すること。
       豊臣秀頼を疎略にし、羽柴秀吉「御置目」に違反する者はたとえ誰であっても各自相談して、糺明の上で成敗すべきこと。
       前田利家等が分別を無くした場合は「御置目」を「被仰付候衆」の異見により事態を解決すること。
       常時在京して豊臣秀頼を補佐し、私用では帰国しないこと、を誓約する。〔「大阪城天守閣所蔵木下家文書」‐3〕
  7月20日 宇喜多秀家、全5ヶ条の「霊社上巻起請文」を宮部継潤・前田玄以・富田知信・長束正家・石田三成・増田長盛へ提出。
       豊臣秀頼に対する忠誠を誓うこと。
       羽柴秀吉「御法度」・「御置目」を遵守すること。
       豊臣秀頼を疎略にし、羽柴秀吉「御置目」に違反する者はたとえ誰であっても各自相談して、糺明の上で成敗すべきこと。
       前田利家等が分別を無くした場合は「御置目」をも「被仰付候衆」の異見により事態を解決すること。
       常時在京して豊臣秀頼を補佐し、私用では帰国しないこと、を誓約する。〔「大阪城天守閣所蔵木下家文書」‐4〕
  7月20日 織田信雄・織田秀雄・小早川秀秋・徳川秀忠・上杉景勝・織田秀信・毛利輝元・細川忠興・前田利長・結城秀康・佐竹義宣・
       木下勝俊・京極高知・池田輝政・丹羽長重・堀秀治・稲葉貞通・筒井定次・森忠政・立花宗茂・島津義弘・里見義康・
       長宗我部元親・最上義光・井伊直政・前田利政・京極高知・長谷川秀一、全5ヶ条の「霊社上巻起請文」を宮部継潤・
       前田玄以・富田知信・長束正家・石田三成・増田長盛へ提出。
       豊臣秀頼に対する忠誠を誓うこと。
       豊臣秀頼を疎略にし、羽柴秀吉「御置目」に違反する者はたとえ誰であっても報告すべきこと。
       諸事については羽柴秀吉「御法度」・「御置目」を遵守すべきこと。
       羽柴秀吉からの「御恩」を受けた代の者は勿論、子々孫々まで「公儀」(豊臣氏)への忠誠を誓うこと。
       「諸傍輩」(豊臣政権下の諸大名)は「私之遺恨」によって「公儀」の妨害をしないこと、不審者が発生した場合は
       相互に「批判」し合うべきこと、を誓約する。〔「大阪城天守閣所蔵木下家文書」‐5〕
  7月28日 羽柴秀吉、聚楽第の破却を命令。

 8月
  8月 2日 羽柴秀次妻妾等、京都三条河原に於いて羽柴秀次首級を前に辞世の和歌を詠む。その後、処刑される。
       〔「特殊文書」‐20(3)〕
  8月 3日 徳川家康(「家康」)・宇喜多秀家(「秀家」)・上杉景勝(「景勝」)・前田利家(「利家」)・毛利輝元(「輝元」)・
       小早川隆景(「隆景」)、全5ヶ条の「御掟」を発令。〔「子爵加藤明実所蔵文書」〕
  8月 3日 徳川家康(「家康」)・宇喜多秀家(「秀家」)・前田利家(「利家」)・毛利輝元(「輝元」)・小早川隆景(「隆景」)、
       全5ヶ条の「御掟」と全9ヶ条の「御掟追加」を発令。〔「諸家単一文書」‐1093〕
  8月 3日 前田玄以・増田長盛・長束正家、「算用」に関する全5ヶ条の「霊社上巻起請文」を提出。
       〔「大阪城天守閣所蔵木下家文書」‐6〕
  8月 3日 毛利輝元、児玉元次(「児宮」)へ昨日京都伏見城(「御城」)へ登城し「神文」を提出したこと、
       また「東ハ家康、西ハ我々へまかせ」るという羽柴秀吉の内儀を通知。〔「毛利家文書」A‐777〕
  8月 6日 小早川隆景(「正四位下豊臣隆景朝臣」)、「従三位」に叙される。〔「毛利家文書」B‐990〕
  8月 6日 小早川隆景(「参議豊臣朝臣隆景」)、「権中納言」に任じられる。〔「毛利家文書」B‐991〕
  8月 6日 山科言経、徳川秀忠を訪問し暫く雑談する。〔『言経卿記』〕
  8月15日 黒田長政、家中をして勧進させて豊前国宇佐郡高家郷善光寺の本堂を修進。〔「善光寺文書」‐3〕
  8月20日 宗義智・立花宗茂・小早川秀包・鍋島直茂・小西行長・加藤清正・寺沢広高・黒田長政・毛利吉政・島津家久・松浦鎮信・
       松浦源三郎・秋月種実・高橋元種・相良長毎・島津豊久・伊東祐兵・筑紫広門・高橋某・有馬晴信・大村喜前・五藤孫右衛門、
       前田玄以・増田長盛・長束正家・石田三成へ羽柴秀吉「不慮」の場合は各自同心して豊臣秀頼に奉公し、「私之遺恨」を持つ者が
       署名者の中にいたら羽柴秀吉「御法度」に従うべきことを誓約する。〔「大阪城天守閣所蔵木下家文書」‐7〕
  8月21日 羽柴秀吉、島津義弘へ播磨国内の領知方目録を検地をした上で宛行う。〔「島津家文書」@‐445〕
  8月26日 羽柴秀吉、石川久四郎へ伏見川端長屋用の材木を「今井兵部」に渡すことを命令。〔「称念寺文書」〕
  8月26日 羽柴秀吉、石川貞清(「石川備前守」)へ「樽木」1700丁を伏見川端の長屋用材として「今井兵部」に近江国大津に
       於いて渡すことを命令。〔「称念寺文書」〕
  8月28日 羽柴秀吉、島津忠恒へ朝鮮在番の慰労のため岡田善同を派遣したことを通知。また今回の「怱劇」(羽柴秀次処罰事件)は解決
       した旨を報告。詳細は増田長盛・石田三成・山中長俊に伝達させる。〔「島津家文書」@‐428〕
  8月28日 羽柴秀吉、龍造寺政家へ朝鮮在番の慰労のため岡田善同を派遣したことを通知。また今回の「怱劇」(羽柴秀次処罰事件)は解決
       した旨を報告。詳細は増田長盛・石田三成・山中長俊に伝達させる。〔「龍造寺家文書」‐188〕
  8月28日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ朝鮮在番の慰労のため岡田善同を派遣したことを通知。また今回の「怱劇」(羽柴秀次処罰事件)は解決
       した旨を報告。詳細は増田長盛・石田三成・山中長俊に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐99〕
  8月29日 石田三成、島津忠恒の音信に答え長期在陣を慰労。「御諚」として島津義久(「龍伯」)・島津義弘の知行支配に関する
       「置目」を定めるため下向させること、島津義弘が帰朝したら「御法度」に従って番などを厳重に申し付けること、「上辺」に
       用が有れば取り次ぐ旨を通達。また「縮」2巻を贈られたことを謝す。〔「島津家文書」A‐1062〕
    この頃 徳川秀忠、摂津国有馬での湯治を終えて上洛。〔『言経卿記』〕

 9月
  9月 2日 冷泉為満、徳川秀忠を訪問し対面する。〔『言経卿記』〕
  9月 3日 石田三成・増田長盛、島津忠恒へ「今度京都之儀」すなわち羽柴秀次事件に関して羽柴秀吉「御朱印」が発給された旨、事件は
       落着したことを通達。また朝鮮における長期在陣を慰労。詳細は岡田善同に伝達させる。〔「島津家文書」A‐1063〕
  9月 6日 長宗我部盛親、久枝下司へ漂着した南蛮船の積荷没収につき野村新兵衛を現場に急行させ、逗留期間の5日間は油断なきよう
       命令。〔「土佐国蠧簡集」‐630〕
  9月10日 羽柴秀吉、島津忠恒へ朝鮮四城の兵粮入れ替えを命令。詳細は寺沢広高に伝達させる。〔「島津家文書」@‐429〕
  9月10日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ朝鮮四城の兵粮入れ替えを命令。詳細は寺沢広高に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐100〕
  9月16日 羽柴秀吉、島津義久(「龍伯」)へ鉄炮・猟師を以て大隅国・薩摩国両国の鶴・白鳥・雁・鴨などの諸鳥進上を命令。
       詳細は山中長俊に伝達させる。〔「島津家文書」A‐776〕
  9月16日 羽柴秀吉、島津義弘へ鉄炮・猟師を以て大隅国・薩摩国両国の鶴・白鳥・雁・鴨などの諸鳥進上を命令。
       詳細は山中長俊に伝達させる。〔「島津家文書」A‐805〕
  9月21日 羽柴秀吉、「金春大夫」へ大和国添上郡中川の内に300石を扶助す。〔「金春家文書」〕
  9月21日 蒲生四郎兵衛、前田利家・山中長俊へ蒲生鶴千代(蒲生秀行)の御蔵入算用について、相違なき旨の取り成しを依頼。
       〔「山中橘内長俊文書」‐927〕
  9月27日 徳川秀忠、皆川山城守へ湯治見舞いを謝し、詳細は青山忠成に伝達させる。〔「皆川文書」〕
  9月25日 羽柴秀吉、方広寺大仏殿経堂において大政所らの法要を営む。
  9月28日 羽柴秀吉、毛利輝元(「羽柴安芸中納言」)へ小早川秀秋(「筑前中納言」)の筑前国下向に際しての懇意なる種々の馳走を
       賞す。
       詳細は山中長俊(「山中山城守」)に伝達させる。〔「毛利家文書」B‐944〕

10月
 10月 2日 羽柴秀吉、九条兼孝(「九条殿」)へ丹波国船井郡十勢村500石を「進置」き「領知」とすることを通達。
       〔「九条家文書」D‐1514(3)〕
 10月 6日 増田長盛、土佐国に漂着した南蛮船の積荷没収に際して阿波国・紀伊国・淡路国・和泉国・摂津国の諸浦中へ、船作大工・
       人足について命令。〔「土佐国蠧簡集」‐632〕
 10月18日 長宗我部元親、南蛮船積荷没収の任を終了し帰京した増田長盛へ「御前御取合」を感謝。
       また、「公儀」への取り成しを依頼。〔「土佐国蠧簡集」‐633〕

11月
 11月 4日 羽柴秀吉、参内のため伏見より入京するが病のため伏見に戻る。
 11月 5日 羽柴秀吉、秋田実季(「秋田藤太郎」)へ命令通り「橋板」を若狭国敦賀へ廻漕したことを賞す。
       また上洛の際に羽柴秀吉より通達があることに触れる。詳細は長束正家(「長束大蔵大輔」)に伝達させる。
       〔「秋田家文書」〕
 11月16日 宇喜多秀家、備前国金山遍照院へ宇喜多秀家分国中の寺僧・社僧への諸役を免許。〔「柳井家文書」‐64〕
 11月17日 朝廷、御神楽を奏して羽柴秀吉平癒を祈願。
 11月27日 朝廷、御神楽を奏して羽柴秀吉平癒を祈願。

12月
 12月 1日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ肥前国内に検地終了後5700石を宛行う。〔「鍋島家文書」‐101〕
 12月 1日 小早川秀秋(「中納言」「秀俊」:羽柴秀俊)、羽柴秀吉の承認を受けて堀田初左衛門尉へ筑前国怡土郡伊多村・長野村から
       の運上徴収を命令す。〔「保井芳太郎氏所蔵文書」〕
 12月 1日 小早川秀秋(「秀俊」)、堀田初左衛門尉へ筑前国下座郡600石および播磨国桑原庄100石を「検地」の上で扶助する
       ので「領知」とべきことを通達。〔「保井芳太郎氏所蔵文書」〕
 12月13日 羽柴秀吉、快気の御礼に禁裏へ雁を献上。
 12月13日 秋田実季(「秋田藤太郎」)、文禄4年分の秋田「御材木入用之帳」を発す。〔「秋田文書」〕
 12月18日 羽柴秀吉、伏見より大坂城に入り越年。〔「言経卿記」〕
 12月 吉日 宇喜多秀家(印文「豊臣秀家」)、金谷重兵衛へ備前国安養寺の寺領として備前国和気郡内に50石を算用を遂げて宛行う
       よう命令。〔「安養寺文書」‐49〕
 12月 吉日 宇喜多秀家(印文「豊臣秀家」)、花房正成へ備前国市倉寺の寺領について備前国和気郡日笠内に15石を宛行い、さらに
       替地として備中国西庄15石分を遣わすよう命令。〔「安養寺文書」‐50〕


フロントページに戻る
目次に戻る
項目別文献・論文一覧へ