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文禄3(1594)年 1月 1月 1日 羽柴秀吉、大坂城において諸大名の参賀を受ける。 1月 3日 羽柴秀吉、伏見城築城のため六人の普請奉行を任命、朝鮮に出動していない諸大名には築城の軍役を賦課。 1月 5日 九条稙通(関白・内大臣)、没。〔『日本史人物生没年表』〕 1月11日 羽柴秀次、鍋島直茂へ「鈍金」2巻の献上を謝す。また高麗国静謐と累年在番を慰労。 詳細は白江範秀に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐73〕 1月16日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ鶴1羽・鹿革50枚の献上を謝す。帰朝後の上洛を期待し、詳細は増田長盛に伝達させる。 〔「鍋島家文書」‐74〕 1月22日 三好吉房(「三位法印」:羽柴秀次実父)、摂津国有馬に湯治。〔『駒井日記』〕 1月25日 羽柴秀吉、島津義久へ「五百石船」5艘は青木紀伊守に、「三百石船」5艘は寺沢広高に渡すべきことを命令。 詳細は青木紀伊守・寺沢広高に伝達させる。〔「島津家文書」@‐374〕 1月29日 羽柴秀次、新年挨拶のため大坂城に登城、2月10日まで逗留。 2月 2月 8日 祖父江久助、摂津国有馬湯治中の三好吉房(「三位法印」)への見舞に派遣される。〔『駒井日記』〕 2月13日 徳川秀忠(「源秀忠」)、権中納言を辞退。〔『公卿補任』〕 2月14日 羽柴秀吉、伏見屋敷に入る。 2月17日 羽柴秀吉、近江国大津に下向。 2月19日 羽柴秀吉、伏見に帰還。 2月21日 羽柴秀吉、羽柴秀次を招待して茶会を開催した後、直ちに大坂城に帰城。〔「駒井日記」〕 2月25日 羽柴秀吉、羽柴秀次・諸大名・公家衆を従え大和国吉野山において花見を行うため大坂城を発ち当麻に到着。 2月27日 羽柴秀吉、大和国吉野山に登り豊臣秀保の建てた茶屋において花見を行い3月2日まで滞在。 2月28日 羽柴秀吉、島津義弘へ「番替」として福島正則を派遣する旨を通知、城普請を厳重にすべきことを命令。 詳細は福島正則に伝達させる。〔「島津家文書」@‐404〕 2月28日 羽柴秀吉、龍造寺政家へ「番替」として福島正則を派遣する旨を通知。城普請を厳重にすべきを命令。 詳細は福島正則に伝達させる。〔「龍造寺家文書」‐197〕 2月28日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ「番替」として福島正則を派遣する旨を通知。城普請を厳重にすべきを命令。 詳細は福島正則に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐75〕 2月 ? 長谷川秀一、没。〔『日本史人物生没年表』〕 2月 吉日 松本武辰(島津氏家臣)、播磨国の知行当納分目録を提出。〔「島津家文書」A‐1096〕 3月 3月 3日 羽柴秀吉、高野山に参詣。 3月 3日 花房正成(宇喜多秀家家臣)、美作国木山寺へ山内材木伐採を禁止し、違反者から「過銭」300文を徴収する旨を通達。 〔「木山寺文書」‐13〕 3月 4日 羽柴秀吉、剃髪寺(青厳寺、大政所菩提所)で法要を営む。 3月 6日 羽柴秀吉、大坂城に帰城。〔「駒井日記」〕 3月 6日 大谷吉継(「刑部」)、越前国敦賀郡の川舟兵衛三郎へ伝馬1疋を遣わした旨を通知。〔「道川三郎左衛門文書」〕 3月 6日 大谷吉継(「刑部」)、越前国敦賀郡の川舟兵衛太郎へ伝馬1疋を遣わした旨を通知。〔「奥富市右衛門文書」〕 3月13日 羽柴秀吉、宇喜多秀家・毛利輝元・蜂須賀家政へ出征諸将の帰朝と在番に関する指示を通達。〔「鍋島家文書」‐76〕 3月17日 羽柴秀吉、大坂より伏見に到着し伏見城普請の様子を視察。 3月18日 羽柴秀吉、伏見城から「ともじ(三条殿)」へ手紙の礼を述べて能装束の贈物を感謝。 近日中に入京して暇をとって物語りを約束。〔「前田侯爵家文書」〕 3月20日 羽柴秀吉、伏見城から「ともじ(三条殿)」へやがて都合を問い合わせて使者を派遣し伏見城へ召喚することを通知。 〔「高松文書」〕 3月25日 羽柴秀吉、近江国大津に下向。 3月27日 羽柴秀吉、伏見に戻る。 3月27日 羽柴秀吉、南部信直(「南部大膳大夫」)へ去年以来調達を命令している「板」について「勝手能所作杣取」って、 若狭国敦賀へ回送し大谷吉継(「大谷刑部少輔」)に渡すべきことを命令。 詳細は前田利家(「加賀大納言」)に伝達させる。〔「盛岡南部家文書」〕 3月28日 羽柴秀吉、宇治見物に赴く。 4月 4月 1日 羽柴秀吉、入京し京都所司代の前田玄以邸宅を訪問。 4月 1日 羽柴秀次(「秀次」)、南部信直(「南部大膳大夫」)へ去年の「大鷹」3居の献上を謝し、当年も鷹匠「田中清六」を下向 させるので路次往還の馳走を依頼。また「上辺相応之用所」は承ることを通達。〔「盛岡南部家文書」〕 4月 7日 前田利家(「豊臣利家」)、徳川秀忠替で権中納言・従三位に昇進。〔『公卿補任』〕 4月 8日 羽柴秀吉、前田利家邸宅を訪問。 4月12日 羽柴秀吉、今出川晴季・勧修寺晴豊・中山親綱へ武装の上で肥前国名護屋下向してきた近衛信尹(「信輔」)に関する全7ヶ条の 不行状を発す。羽柴秀吉は近衛信尹を「上儀をもかろしめ」「狂気人」と評す。〔『駒井日記』〕 4月12日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ「黄鈍」1巻の献上を謝す。また鍋島直茂妻子の長期在大坂を気遣うが、龍造寺高房が大坂に滞在している ので国本への帰国は見合わせることを通知。詳細は増田長盛・長束正家に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐79〕 4月15日 羽柴秀吉、小便を漏らす。 4月16日 羽柴秀吉、小西行長を通じ書簡を送付してきた島津義弘へ長陣を慰労し、「大明」の返答次第で更なる軍勢派遣予定を通知。 詳細は山中長俊に伝達させる。〔「島津家文書」@‐405〕 4月16日 羽柴秀吉、小西行長を通じ書簡を送付してきた鍋島直茂へ長陣を慰労し、「大明」の返答次第で更なる軍勢派遣予定を通知。 詳細は山中長俊に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐80〕 4月22日 羽柴秀吉、目の治療のために摂津国有馬に湯治中の西丸「五もし」(側室京極氏、松丸殿)へ療養についての指示を与え、全快の 折は羽柴秀吉自身か孝蔵主が迎えに行く予定を通知。〔「秋元子爵家文書」〕 4月22日 羽柴秀吉、徳川家康(「武蔵大納言」)からの湯治見舞いを謝し「筋痛」により湯治する旨を通知。 徳川家康からの見舞い使者である阿部正勝に詳細を伝達させる。〔「山本右馬助氏所蔵文書」〕 4月24日 羽柴秀吉、摂津国有馬湯治中の西丸「五もし」(側室京極氏、松丸殿)より返事の手紙が届いたので、早速その返事を送付。 湯の普請を中止させた旨を通知。〔「京都帝国大学所蔵文書」〕 4月24日 万代屋宗安(千利休女婿)、没。〔『日本史人物生没年表』〕 4月28日 羽柴秀次、聚楽第より大坂城に登城し、本丸において羽柴秀吉に謁見ついで羽柴秀吉と共に二之丸の豊臣秀頼と対面。羽柴秀次は 羽柴秀吉父子・北政所・淀殿にそれぞれ進物を贈呈。 この頃 羽柴秀吉、摂津国有馬湯山の御所坊・池坊・二ノ湯の3軒を新御殿とする。〔『有馬縁起』〕 4月28日 古田重勝、美濃国春近村の井上与三へ文禄2年分の御蔵米請取手形を下す。〔「安藤鉦司氏所蔵文書」‐21〕 4月29日 羽柴秀吉、摂津国有馬に湯治のため赴く。〔『家忠日記』追加・『享禄以来年代記』〕 4月29日 徳川家康、摂津国有馬湯治に赴いた羽柴秀吉への見舞いとして平岩親吉を派遣。〔『家忠日記』追加〕 4月 金森長近、足の不調を訴えた羽柴秀吉を新館から湯屋まで背負う。〔『金森長近自語録』〕 5月 5月 3日 羽柴秀吉、島津義弘へ日本に逃亡する「高麗奉行人」として派遣している者たちの取り締りを命令。 詳細は浅野長政・稲葉重通に伝達させる。〔「島津家文書」@‐406〕 5月 3日 羽柴秀吉、摂津国有馬阿弥陀堂において茶会を開催。湯山年寄衆を招待する。〔『有馬縁起』〕 5月 4日 羽柴秀吉、御殿の新築を決定。蒔田広光・有馬豊氏・山崎頼氏と某の計4名に造作を命令。〔『有馬縁起』〕 5月 4日 羽柴秀吉、摂津国有馬へ川那部越後守を見舞いの使者として派遣してきた本願寺准如からの贈物を謝す。 詳細は木下吉隆・山中長俊に伝達させる。〔「本願寺文書」〕 5月 4日 羽柴秀吉、吉川広家からの端午祝儀を謝す。詳細は木下吉隆に伝達させる。〔「吉川家文書」@‐797〕 5月 4日 羽柴秀吉、湯治見舞いを送付してきた「おとら」(側室蒲生氏)へ礼を通知。〔「里見忠三郎氏所蔵文書」〕 5月 4日 前田利家(「加賀中納言利家」)、湯治見舞いを送付してきた本願寺准如へ羽柴秀吉の湯当たりを通知。 詳細は下間頼廉に伝達させる。〔「本願寺文書」〕 5月 4日 蒲生氏郷、湯治見舞いを送付してきた本願寺准如へ羽柴秀吉の大坂帰城は10日過ぎの予定を通知。〔「本願寺文書」〕 5月12日 羽柴秀吉、摂津国有馬より大坂城に帰城。〔『家忠日記』追加・「駒井日記」・『享禄以来年代記』〕 5月20日 前田利家(「豊臣利家」)、権中納言を辞退。〔『公卿補任』〕 5月20日 宇喜多秀家(「豊臣秀家」)、前田利家替で権中納言・従三位に昇進。〔『公卿補任』〕 6月 2日 羽柴秀吉、島津義弘へ長期在陣を慰労し馬(鹿毛)1疋を贈る。 詳細は石田三成・大谷吉継・増田長盛に伝達させる。〔「島津家文書」@‐407〕 6月 6月 1日 羽柴秀吉、「今井兵部」へ摂津国関郡「御蔵入」の運上を命令。〔「称念寺文書」〕 6月 3日 羽柴秀吉、伏見城普請を視察。 6月 4日 羽柴秀吉、伏見城普請を視察。 6月 5日 羽柴秀吉、伏見家康邸での茶会に招待される。 6月18日 羽柴秀吉、大坂城に帰城。 6月19日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ「朝鮮縫官」2名の献上を謝す。また高麗の城普請の進行具合を賞す。 詳細は増田長盛に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐81〕 6月24日 羽柴秀吉、島津義弘の長期在陣を慰労。〔「島津家文書」@‐409〕 6月24日 羽柴秀次、鍋島直茂の長期在番を慰労し、帷子3を下賜。〔「鍋島家文書」‐82〕 6月28日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ干鱈200枚の献上を謝す。また大明・朝鮮からの和議申し出を容認する旨を通達。釜山海・金海・熊川 など受持ちの城の留守番を堅固にして帰朝すべきを命令。詳細は増田長盛に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐83〕 7月 7月 島津氏検地奉行、私情によって贔負をしない旨、「上方(秀吉)より被差下候御奉行衆」の不法を報告すること、島津領での 検地に関しての誓紙を提出。〔「島津家文書」A‐1097〕 7月 日向国・薩摩国・大隅国への検地衆、派遣に関する覚書を認める。〔「島津家文書」A‐1098〕 7月 島津氏検地奉行、検地に際して起請文を認める。〔「島津家文書」A‐1101〕 7月 3日 羽柴秀吉、伏見城普請を視察。 7月 4日 義演(醍醐寺三宝院門跡)、「内々」に「東寺塔供養」執行の「導師」の用意を調えた木食応其(「興山上人」)に対して 謝意をあらわす。〔「醍醐寺文書」B‐512〕 7月 4日 義演(醍醐寺三宝院門跡)、上洛した前田玄以へ「内々」に、「東寺塔供養」の「導師」と「東寺長者」について取成しを 依頼。〔「醍醐寺文書」B‐512〕 7月10日 羽柴秀吉、再度朝鮮へ渡海する吉川広家へ油断無きよう指示を与え、詳細は松井藤助・竹中重定に伝達させる。 〔「吉川家文書」@‐761〕 7月10日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ朝鮮「縫官」2名の献上を賞す。詳細は増田長盛に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐84〕 7月11日 島津氏分国(薩摩国・大隅国・日向国)で検地斗代注文が作成される。〔「島津家文書」A‐1099〕 7月12日 羽柴秀吉、大坂城に帰城。 7月13日 下河原越後守(羽柴秀吉家臣?)、美濃国神護寺勧学院へ羽柴秀吉御朱印にある寺領32石の替地について通達。 〔「神護寺文書」‐2〕 7月15日 前田玄以、「東寺塔供養導師」について「伝奏衆」に伺いを立てた木食応其(「木食上人」)へ、「叡慮」として「三宝院殿」 (醍醐寺三宝院門跡義演))に執行させる旨の申沙汰があったことを通知。〔「醍醐寺文書」B‐513〕 7月16日 羽柴秀吉、全5ヶ条の「島津分国検地御掟条々」を発する。 人返について、諸給人の知行分については検地後に宛い「検地奉行人」に対して不正行為をしてはならないこと、礼物によって 田畠畝図・斗代以下を乱す者については聞き付け次第に厳罰に処すること、「検地奉行人」に対し背く者は厳罰に処すること、 「検地之奉行」が不正行為を働いた場合は告訴すべきを規定。〔「島津家文書」@‐400〕 7月16日 羽柴秀吉、島津氏分国の検地斗代に関する朱印状を認める。〔「島津家文書」A‐1100〕 7月22日 羽柴秀吉、大政所3回忌のため東寺五重大塔を建立。 東寺長者の義演(醍醐寺三宝院門跡)が導師を勤め大塔供養を行わせる。〔「醍醐寺文書」B‐512〕 7月22日 羽柴秀吉、東寺塔供養に際し「三宝衆僧」が布施麻布100端を以て諷誦したことを賞す。〔「醍醐寺文書」B‐514〕 7月28日 五島純玄、没。〔『日本史人物生没年表』〕 7月29日 宇喜多秀家(「豊臣秀家」)、権中納言を辞退。〔『公卿補任』〕 8月 8月10日 細川藤孝(「法印玄旨」)・徳川家康(「武州大納言」)・羽柴秀保(「和州中納言」)・織田信雄(「常心」)・ 前田利家(「筑州」)・伊達政宗(「伊達越州」)ら、大和国吉野山について詠歌す。〔「特殊文書」‐20(1)〕 8月18日 上杉景勝(「藤原景勝」)、権中納言・従三位に昇進。〔『公卿補任』〕 8月23日 羽柴秀吉、大和国郡山の羽柴秀保へ多聞山にある不用の古塔を伏見城へ移築することを指図。 詳細は後見役の藤堂高虎に相談するよう命令。〔「原文書」〕 8月23日 石川五右衛門、三条河原で子と共に釜茹での刑に処される。〔『日本史人物生没年表』〕 8月27日 羽柴秀次、吉川広家へ長期在番を慰労。〔「吉川家文書」@‐825〕 8月27日 羽柴秀次、島津義弘へ長期在番を慰労。〔「島津家文書」@‐411〕 8月27日 羽柴秀次、鍋島直茂へ長期在番を慰労。〔「鍋島家文書」‐85〕 8月 吉日 秋田実季、大高四郎右衛門へ出羽国檜山相浦468石9斗2升7合のうち、156石3斗2升2合を「上様御蔵入」とし、 残る312石6斗4升4合を「知行」とすることを通達。〔「松岡文書」〕 9月 9月 9日 羽柴秀吉、伏見家康邸を訪問。 9月10日 織田秀信、美濃国崇福寺へ織田信長(「ハ見寺殿」)・織田信忠(「大雲寺殿」)・織田家先祖の位牌所であることから先規 に任せ寺中門前諸役一切の免除を安堵。〔「崇福寺文書」‐8〕 9月11日 羽柴秀吉、島津義久(「龍伯」)へ鉄炮・諸猟師を以て九州分領中の諸鳥捕獲を命令。また畿内近国の鷹場へ諸鳥集来を命令。 詳細は山中長俊に伝達させる。〔「島津家文書」A‐775〕 9月11日 羽柴秀吉、鍋島勝茂へ鉄炮・諸猟師を以て九州分領中の諸鳥捕獲を命令。また畿内近国の鷹場へ諸鳥集来を命令。 詳細は山中長俊に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐86〕 9月12日 木下吉隆、吉川広家へ羽柴秀吉らに対する重陽節句の贈物を謝し、孝蔵主の返事の伝達、長期在陣の慰労、御用を取り次ぐ旨を 伝達、伏見城普請の様子や来月中旬予定の羽柴秀吉の聚楽第御成について通知。〔「吉川家文書」@‐763〕 9月15日 大久保忠世、没。〔『日本史人物生没年表』〕 9月21日 羽柴秀吉、津田小掃部へ伊勢国内に領知を扶助。〔「土佐国蠧簡集竹頭」‐89〕 9月22日 羽柴秀吉、「伏見移徙祝儀」を献上してきた毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ謝意をあらわす。 詳細は増田長盛(「増田右衛門尉」)に伝達させる。〔「毛利家文書」B‐940〕 10月 10月 4日 近衛前久(「龍山」)、島津義久(「龍伯」)へ今出川家における連歌興行に際し、島津義久の発句を近衛前久が批評し、 これに里村紹巴が合点をした旨を報告。また禁裏不予のこと、消魂法を修めることなども通知。〔「島津家文書」A‐677〕 10月 4日 天龍寺役者、松田政行(前田玄以奉行)へ天正16年発令の松苗3万本の件で、そのうち2万本が成長したので何時でも進上 可能である旨を通知。〔「天龍寺文書」〕 10月16日 羽柴秀吉、伏見より入京。 10月17日 羽柴秀吉、島津義弘へ検地後に摂津国内豊島郡・能勢郡内に知行を宛行う。〔「島津家文書」@‐444〕 10月17日 羽柴秀吉、「今井兵部」へ摂津国関郡の「御蔵入」より運上の徴収を命令。〔「称念寺文書」〕 10月20日 羽柴秀吉、徳川家康らを引き連れ聚楽第を訪問。 10月23日 秋田実季(「実季様」)の上洛にあたり、秋田氏家臣等が5ヶ条の「起請文前之事」と3ヶ条の「起請文前書之事」を提出。 〔「秋田藩家蔵文書」三一〕 10月25日 羽柴秀吉、蒲生氏郷邸を訪問。 10月28日 羽柴秀吉、上杉景勝邸を訪問。 10月28日 羽柴秀吉、島津義弘へ兵粮米の入れ替えを命令。詳細は寺沢広高に伝達させる。〔「島津家文書」@‐413〕 10月28日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ兵粮米の入れ替えを命令。詳細は寺沢広高に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐87〕 10月30日 羽柴秀吉、佐竹義宣邸を訪問。 11月 11月 三好吉房(「三位法印常閑」)、摂津国有馬湯山の善福寺・池坊・掃部へ羽柴秀吉からの料米50石と木下吉隆折紙を照会し勘定 するよう通知。〔「浅野文書」〕 11月 2日 島津義久(「龍伯」)、「神裁」を以て忠誠心を表明した島津忠恒へ返書を認める。〔「島津家文書」A‐1140〕 11月 5日 羽柴秀吉、鍋島直茂留主居へ鍋島直茂預かりの御蔵米13902石5斗、大豆774石を平戸へ廻漕すべきを命令。 〔「鍋島家文書」‐88〕 11月 7日 浅野長政・石田三成・前田玄以、吉川広家へ全国の陰陽師を京都に結集させる羽柴秀吉命令を伝達。 〔「吉川家文書」@‐816〕 11月10日 羽柴秀吉、島津義弘の長期在陣を慰労、寒気に備えて暖をとるよう指示。 詳細は長束正家・木下吉隆に伝達させる。〔「島津家文書」@‐416〕 11月19日 増田長盛、河内国錦郡天野に於いて検地を実施。〔「金剛寺文書」‐360〕 11月20日 長谷川忠実、「軍法之歌二十首」を記す。〔「特殊文書」‐20(2)〕 11月25日 羽柴秀吉、伏見の徳川家康邸を訪問。 11月27日 羽柴秀吉、毛利輝元(「安芸宰相」)へ小早川秀秋(「中納言」)の下国・祝言を喜ぶ。 詳細は増田長盛(「増田右衛門尉」)・石田三成(「石田治部少輔」)に伝達させる。〔「毛利家文書」B‐941〕 11月30日 羽柴秀吉、徳川家康と共に入京。 12月 12月 2日 羽柴秀吉、石川長介(御馬廻)へ検地の上で河内国交野郡小代村内に200石を扶助。〔「播磨石川文書」‐917〕 12月 2日 羽柴秀吉、竹中重門へ検地の上で河内国大方郡畑村・安宿部郡内玉手村に合わせて1000石を扶助。〔「竹中文書」‐3〕 12月 2日 羽柴秀吉、河内国天野寺(金剛寺)へ河内国錦郡天野内の307石を検地の上で寺領として「寄附」することを通達。 〔「金剛寺文書」‐359〕 12月 2日 羽柴秀吉、河内国観心寺(「勧進寺」)へ河内国錦郡観心寺村(「勧進寺村」)へ25石を検地の上で寺領として「寄附」する ことを通達。〔「観心寺文書」‐638〕 12月 3日 羽柴秀吉、小早川秀秋(「中国」)の「下国」に際し種々の出迎え・馳走の様子を山口正弘(「山口玄蕃頭」)より報告を 受けて毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ謝意を表わし、また毛利輝元による熊谷元直(「熊谷豊前守」)の派遣を賞す。 詳細は増田長盛(「増田右衛門尉」)・石田三成(「石田治部少輔」)を伝達させる。〔「毛利家文書」B‐942〕 12月 3日 織田秀信、美濃国法華寺へ先規に任せ寺領物成として20石を寄進。〔「法華寺文書」‐5〕 12月 4日 羽柴秀吉、吉川広家からの高麗鷹の献上を謝し、詳細を木下吉隆に伝達させる。〔「吉川家文書」@‐764〕 12月 4日 木下吉隆、吉川広家へ羽柴秀吉への高麗鷹を賞し、小早川隆景の養子となる豊臣秀秋の下向、拾丸の伏見城移徙、来春の番替の 軍勢が派遣されるため帰朝命令を予告、御用があれば馳走する旨を通知。〔「吉川家文書」@‐765〕 12月 6日 羽柴秀吉、摂津国有馬へ湯治、〔『有馬縁起』〕 12月 8日 木下吉隆、摂津国有馬惣中へ羽柴秀吉への進物停止・自粛の旨を通達。〔「池坊旧蔵文書」〕 12月10日 羽柴秀吉、摂津国有馬湯山年寄衆へ新御殿造営のために破却された在家65軒の地子銭・年貢を免除。〔「善福寺文書」〕 12月10日 羽柴秀吉、摂津国有馬湯山への新御殿造作のために破却された在家へ合計100石の年貢米を下す。〔「余田文書」〕 12月10日 羽柴秀吉、摂津国有馬湯山への新御殿造作のため破却された在家へ合計474匁8分の地子銀子の免状を下す。〔「余田文書」〕 12月14日 前田玄以・増田長盛・長束正家・浅野長政、某へこの日付け以前の「御朱印」・「御黒印」・「小日記」は算用に無効である ことを通達。さらに「免目録」に羽柴秀吉の監査終了後に指示を下す旨を通知。〔「足守木下家文書」‐41〕 12月20日 羽柴秀吉、吉川広家からの高麗虎の献上を謝す。〔「吉川家文書」@‐132〕 12月20日 羽柴秀吉、吉川広家へ朝鮮在陣衆の入替を指示、明後年に予定されているの羽柴秀次・豊臣秀秋・宇喜多秀家の初渡海を報告。 また古米の入替を指示、来春早々の兵粮輸送を通知、詳細は浅野長政・山中長俊に伝達させる。〔「吉川家文書」@‐767〕 12月20日 羽柴秀吉、島津義弘へ朝鮮在陣衆の入替を指示、明後年に予定されているの羽柴秀次・豊臣秀秋・宇喜多秀家の初渡海を報告。 また古米の入替を指示、来春早々の兵粮輸送を通知。詳細は浅野長政・山中長俊に伝達させる。〔「島津家文書」@‐417〕 12月20日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ諸城貯蔵の古米入替を命令。また長期在番を慰労し、軍勢半分か3分の1を留め置き、交替して帰国する ことを命令。明後年には小早川秀秋・宇喜多秀家を初めて渡海させ、羽柴秀次を肥前国名護屋まで動座させる予定を通達。 来春早々に兵粮米の送付を予告。詳細は浅野長政・山中長俊に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐89〕 12月20日 木下吉隆、吉川広家献上の虎を羽柴秀吉・羽柴秀次・徳川家康・前田利家ほか御咄衆らと見物、来春予定の羽柴秀次出陣、拾丸の 伏見城移徙、兵粮輸送、豊臣秀秋が小早川隆景養子となることなどを伝達。〔「吉川家文書」@‐766〕 12月20日 古田重勝、美濃国春近村の井上与三へ御蔵米金子請取手形を下す。〔「安藤鉦司氏所蔵文書」‐22〕 12月20日 加藤貞泰(「光長」)、村山二郎兵衛へ浪人堪忍分として米200石を進上。詳細は大橋作右衛門に伝達させる。 〔「村山文書」‐14〕 12月21日 浅野長政・山中長俊、吉川広家へ来春早々の兵粮輸送船派遣を伝達、明後年の羽柴秀吉渡海予定、浅野長政・増田長盛・石田三成 が随行する旨を通知。〔「吉川家文書」@‐768〕 12月25日 浅野長政・木下吉隆、吉川広家へ羽柴秀吉養生のため虎肉を所望する旨を依頼。〔「吉川家文書」@‐769〕 この年 島津忠恒、島津義久(「龍伯」)・島津義弘に対して忠孝を誓約する全3ヶ条の起請文を提出。 〔「島津家文書」A‐1139〕 12月28日 増田長盛・長束正家、摂津国有馬湯山へ算用状を発給。〔「余田慈石氏所蔵文書」〕