All contents copyright (C)1999-2014 Household Industries / allrights reserved


フロントページに戻る
目次に戻る
項目別文献・論文一覧へ

        【 天下統一期年譜 1593年 】


文禄2(1593)年

 1月
  1月 1日 羽柴秀吉、能役者の暮松新九郎(山城国八幡在住)が新年祝賀を述べに来たので大いに喜び、正月中は能の稽古に励む。
  1月 5日 正親町上皇、没。〔『日本史人物生没年表』〕
  1月 6日 羽柴秀吉、蝦夷地松前の「蠣崎志摩守」より毎年の「巣鷹」献上にあたり、その道中の秋田実季(「秋田安藤太郎」)・
       津軽為信(「南部右京亮」)・上杉景勝(「越後宰相中将」)・前田利家(「加賀宰相」)・堀秀治(「北庄侍従」)・
       大谷吉継(「大谷刑部少輔」)の領内および西近江に於いて支障無きよう命令を通達。〔『福山秘府』〕
  1月 6日 羽柴秀吉、鍋島直茂(「鍋島加賀守」)へ「菱喰生鳥」6・「朝鮮紙」100枚・「大明之料紙」50枚の献上を謝す。
       詳細は増田長盛に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐44〕
  1月 6日 羽柴秀次、鍋島直茂へ「黄鷹」2居の献上を謝す。
       また鍋島直茂「請取分」の所務以下を滞り無く進行させていることを賞す。更に長期在陣を慰労。
       詳細は白江範秀に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐45〕
  1月 7日 羽柴秀吉、この日付で藤堂高虎に来3月の渡海予定を通知。〔「高山公実録」〕
  1月 9日 羽柴秀吉、肥前国名護屋から尾張国犬山で療養中の三好吉房(「犬山との」)へ病状見舞と養生するよう指示。
       詳細は孝蔵主に伝達させる。〔「瑞龍寺文書」〕
  1月10日 羽柴秀吉、去年5月に肥前国名護屋に於いて逝去した戸沢光盛の「諸職」および「当知行」を戸沢政盛(「戸沢九郎」)へ
       続目の羽柴秀吉「御朱印」により安堵す。詳細は金森長近(「金森兵部卿法印」)・山中長俊(「山中橘内」)に伝達させる。
       (*『岩手県中世文書』では羽柴秀次朱印状としている)〔「戸沢文書」〕
  1月10日 羽柴秀次、戸沢政盛(「戸沢九郎」)へ父の跡職を「当知行」として宛行う。
       詳細は金森長近(「金森兵部卿法印」)・山中長俊(「山中橘内」)に伝達させる。
       (*『秋田県史』では羽柴秀吉朱印状としている)〔「戸沢文書」〕
  1月11日 中山親綱・勧修寺晴豊・今出川晴季、泉涌寺へ「院」(正親町上皇)崩御について「入棺之事」の沙汰を依頼。
       〔「泉涌寺文書」〕
  1月13日 小西行長、吉川広家の陣取りに際し黒田長政が移陣した件について未だ連絡が無いことを通知。
       〔「吉川家文書」@‐747〕
  1月26日 羽柴秀吉、宮部長熙(「宮部兵部少輔」)へ羽柴秀吉「御渡海」のための準備を全3ヶ条にして通達。〔「宮部文書」〕
  1月    羽柴秀次、越前国の木村重茲留守居中へ3月の羽柴秀吉渡海予定に際し、帰国したゥ奉公人に肥前国名護屋参集を命令。
       〔「諸家単一文書」‐1096〕
  1月    羽柴秀次、長門国滞在の毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ3月の羽柴秀吉(「太閤御方」)の「高麗御渡海」予定にあたり
       帰国したゥ奉公人に肥前国名護屋参集を命令。〔「毛利家文書」B‐1002〕
  1月    羽柴秀次、吉川広家分領内へ3月の羽柴秀吉渡海予定を告知し、帰国するゥ奉公人に肥前国名護屋参集を命令。
       〔「吉川家文書」@‐126・746〕
  1月    羽柴秀吉、肥前国へ全3ヶ条の「定」を下す。
       一宿の木賃は1人1文・馬1疋は2文とすること、糠・藁・草子は一切出さないこと、町人・百姓に非分を申し懸ける者は
       「一銭切」にすべきことを規定。〔「鍋島家文書」‐46〕

 2月
  2月 2日 丹羽五平次、吉川広家の朝鮮陣での戦功を祝す。
       また、加藤光泰からの報告を肥前国名護屋・京都にて詳細に言上することを約す。〔「吉川家文書」@‐712〕
  2月 5日 羽柴秀吉、吉川広家(「羽柴吉川侍従」)の留守居中に対し、高麗へ随行した船頭・水夫の過半数の死亡により更なる水夫
       徴発および「奉行」と共に肥前国名護屋へ結集を命令。
       詳細を浅野長政(「浅野弾正少弼」)・長束正家(「長束大蔵大輔」)・木下吉隆(「木下半介」)に伝達させる。
       〔「吉川家文書」@‐783〕
  2月 5日 羽柴秀吉、島津義久へ、高麗に同伴させた船頭・水夫の過半数が病死した状況について、在国元の水夫に「島津氏の奉行」を付け
       肥前国名護屋に結集させて渡海すべきこと、また高麗から帰還した船は早々に回送すべきを命令。
       詳細は浅野長政・長束正家・木下吉隆に伝達させる。〔「島津家文書」@‐369〕
  2月 9日 羽柴秀吉、毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ羽柴秀吉自身の渡海準備のために浅野長政(「浅野弾正少弼」)を渡海させる
       こと、諸将の奉行と「弾正奉行」(浅野長政奉行)を付けて軍船を肥前国名護屋に結集させることを通達。
       また兵粮を多く貯蓄すべきこと、兵粮及び人数調査の実施、そして軍船到着次第に渡海し「御仕置」を発することを通知。
       詳細は浅野長政(「浅野弾正少弼」)に伝達させる。〔「毛利家文書」B‐923〕
  2月 9日 羽柴秀吉、島津義弘(「羽柴薩摩侍従」)へ羽柴秀吉自身の渡海準備のために浅野長政(「浅野弾正少弼」)を渡海させる
       こと、諸将の奉行と「弾正奉行」(浅野長政奉行)を付けて軍船を肥前国名護屋に結集させることを通達。
       また兵粮を多く貯蓄すべきこと、兵粮及び人数調査の実施。そして軍船到着次第に渡海し「御仕置」を発することを通知。
       詳細は浅野長政(「浅野弾正少弼」)に伝達させる。〔「島津家文書」@‐401〕
  2月 9日 羽柴秀吉、加藤嘉明(「加藤左馬助」)へ羽柴秀吉自身の渡海準備のために浅野長政(「浅野弾正少弼」)を渡海させる
       こと、諸将の奉行と「弾正奉行」(浅野長政奉行)を付けて軍船を肥前国名護屋に結集させることを通達。
       また兵粮を多く貯蓄すべきこと、兵粮及び人数調査の実施。そして軍船到着次第に渡海し「御仕置」を発することを通知。
       詳細は浅野長政(「浅野弾正少弼」)に伝達させる。〔「磐城加藤文書」‐919〕
  2月 9日 羽柴秀吉、鍋島直茂(「鍋島加賀守」)へ羽柴秀吉自身の渡海準備のために浅野長政(「浅野弾正少弼」)を渡海させる
       こと、諸将の奉行と「弾正奉行」(浅野長政奉行)を付けて軍船を肥前国名護屋に結集させることを通達。
       また兵粮を多く貯蓄すべきこと、兵粮及び人数調査の実施。そして軍船到着次第に渡海し「御仕置」を発することを通知。
       詳細は浅野長政(「浅野弾正少弼」)に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐49〕
  2月 9日 羽柴秀吉、塩谷新五郎(船道頭)へ羽柴秀吉自身の渡海準備のために浅野長政(「浅野弾正少弼」)を渡海させる
       こと、諸将の奉行と「弾正奉行」(浅野長政奉行)を付けて軍船を肥前国名護屋に結集させることを通達。
       また兵粮を多く貯蓄すべきこと、兵粮及び人数調査の実施。そして軍船到着次第に渡海し「御仕置」を発することを通知。
       詳細は浅野長政(「浅野弾正少弼」)に伝達させる。〔「川船文書」〕
  2月14日 羽柴秀吉、島津義久(「島津修理大夫入道」)へ朝鮮在陣衆の戦線離脱を憂慮し「手判」の無い者は通用させず「誅罸」す
       べきことを命令し、この羽柴秀吉「御朱印」写を「人留番所」に高札として掲示すべきを指示。〔「島津家文書」@‐370〕
  2月16日 羽柴秀吉、毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ朝鮮出征諸将の陣所を全7ヶ条の「覚」として定める。
       加藤清正(「加藤主計頭」)・鍋島直茂(「鍋島加賀守」)の陣替にあたり、開城府在陣として加藤清正(「主計頭」)・
       小西行長(「小西摂津守」「摂津守」)・黒田長政(「甲斐守」)らを、高麗都在陣として小早川隆景(「隆景」)・
       増田長盛(「増田右衛門尉」)・浅野長政(「浅野弾正」)・黒田孝高(「黒田勘解由」)らを、
       宇喜多秀家(「備前宰相」)は遊軍の「大将」とし、兵粮米は釜山浦より受け取るべきことなどを通知。
       詳細は浅野長政(「浅野弾正少弼」)・黒田孝高(「黒田勘解由」)に伝達させる。〔「毛利家文書」B‐905〕
  2月16日 羽柴秀吉(「秀吉」)、宮部長熙(「宮部兵部少輔」)へ高麗郡より報告してきた「此吏共」に対し「具御用被仰付」れて
       から召還するので高麗都までの造作を指示したこと、「惣国御行等」を申し含めた浅野長政(「浅野弾正少弼」)・
       黒田孝高(「黒田勘解由」)を高麗都より渡海させることを通知。また軍勢・兵粮についての指示を浅野長政・黒田孝高に委任
       したこと、「急度被成御渡海平均ニ被仰付」ること、その間は越度無き様にすることを命令。
       詳細は長束正家(「長束大蔵大輔」)・山中長俊(「山中橘内」)・木下吉隆(「木下半介」)に伝達させる。
       〔「宮部文書」〕
  2月18日 羽柴秀吉、鍋島直茂(「鍋島加賀守」)へ高麗国に関しては「条々以一書」て宇喜多秀家(「備前宰相」)に伝達したので
       その遵守を通達。
       更に「赤国」(全羅道)・「白国」(慶尚道)への援軍派遣予定と兵粮を釜山浦より手繰りで給与すること、
       諸将の持船は全て肥前国名護屋へ廻漕すべきことを通達。〔「鍋島家文書」‐50〕
  2月18日 羽柴秀吉、宇喜多秀家(「羽柴備前宰相」)へ全13ヶ条の「覚」を下す。
       加藤清正(「加藤主計頭」)を開城府川端郡へ陣替すること、「唐人」が開城府を包囲した場合、宇喜多秀家(「備前宰相」)
       が「大将」となり撃退すべきこと、鍋島直茂(「鍋島加賀守」)を高麗都〜釜山浦間に陣取り浅野長政(「浅野弾正少弼」)・
       黒田孝高(「黒田勘解由」)および都に駐屯している諸将と相談し陣所を定めること、小西行長(「小西摂津守」)・
       黒田長政(「黒田甲斐守」)は開城府に在陣すべきこと、小早川隆景(「隆景」)は高麗都に駐留すべきこと、
       黒田長政(「甲斐守」)が管理している「置兵粮」を小早川隆景(「隆景」)の監察のもとで開城府へ繰り入れること、
       加藤清正(「加藤主計頭」)の陣替に際し兵粮不足の場合は兵粮を貸し渡すこと、前出のように開城府が「唐人」に包囲された
       場合に諸将は「つなぎの城」に留主居を置き、都の遊軍と協力して撃退すべきこと、小早川隆景(「隆景」)・
       増田長盛(「増田右衛門尉」)は高麗都の守備を担当、遊軍が無勢の場合は宇喜多秀家(「備前宰相」)を「大将」に
       「宿老」の前野長康(「前野但馬守」)・加藤光泰(「加藤遠江守」)、更に石田三成(「石田治部少輔」)・
       大谷吉継(「大谷刑部少輔」)を「うき勢」にして越度の無いように任務を遂行すべきこと、毛利輝元(「輝元」)の先発部隊
       は従前の如きとし、小早川隆景(「隆景」)の「分別」次第に従うべきこと、羽柴秀吉の「赤国」(全羅道)・
       「白国」(慶尚道)への出陣予定を通知し、その受け入れ態勢の準備を指示。
       兵粮は釜山浦で管理し手繰りにて配分すべきこと、開城府で管理している小早川隆景(「隆景」)兵粮は「替米」のため
       黒田長政(「甲斐守」)・小西行長(「摂津守」)が受け取り、都で「蔵米」を小早川隆景(「隆景」)に渡して再度
       諸将の持船を全て肥前国名護屋へ廻漕すべきこと、以上を諸将へ書写し伝達すべきを命令。
       詳細は浅野長政(「浅野弾正少弼」)・黒田孝高(「黒田勘解由」)に相談するよう指示。〔「鍋島家文書」‐51〕
  2月19日 小西行長(「小西摂津守殿」)、大唐軍と交戦、敗北し高麗都へ退却。〔「川船文書」〕
  2月26日 羽柴秀吉、吉川広家留守居中に船改について石川光元・佐久間甚四郎を派遣。廻船運賃は、この奉行と相談し決定すべきを命令。
       詳細は石川光元・佐久間甚四郎の両人に伝達させる。〔「吉川家文書」@‐784〕
  2月27日 宇喜多秀家・小早川隆景ら出征諸将・奉行計16名、「公儀之御為」の誓約条々を提出。〔「吉川家文書」@‐136〕
  2月 晦日 羽柴秀吉、釜山浦へ移動した毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ釜山浦には浅野長政(「浅野弾正」)を派遣したので毛利輝元
       を会寧に戻し、陣替する際には浅野長政(「浅野弾正」)・黒田孝高(「黒田勘解由」)に相談すべきを命令。
       また毛利輝元に釜山浦から都までで守備の手薄な個所に加勢するよう命令。
       詳細は黒田孝高(「黒田勘解由」)・片桐且元(「片桐市正」)に伝達させる。〔「毛利家文書」B‐924〕
  2月    鍋島直茂(「豊臣直茂」)、「討捕別将柳」の檄に応える。〔「鍋島家文書」‐48〕

 3月
  3月 5日 羽柴秀吉、北政所へ松風以下十番の能を覚えたことを報告。〔「大橋文書」〕
  3月15日 羽柴秀吉、黒田孝高・浅野長吉父子・伊達政宗を増援部隊として朝鮮に派遣。
  3月20日 宮部継潤、吉川広家へ豊臣秀勝に供奉し十四日に肥前国名護屋へ到着したことを報じ、子息の宮部長熙への懇意を謝す。
       また宮部継潤自身の渡海は羽柴秀吉の許可が得られなかったこと、要望があれば尽力する旨を通知。〔「吉川家文書」@‐713〕
  3月    加藤清正(「加藤主計頭殿」)、「おらんかい」へ逃亡した高麗王を捕獲し日本へ移送。その後高麗都へ入る。
       〔「川船文書」〕

 4月
  4月 9日 羽柴秀次、毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)の長期在陣を慰労。〔「毛利家文書」B‐1003〕
  4月10日 前田利長(「利長」)、「秋田右近」へ秋田実季(「藤太郎」)の留守中ではあるが「杉の大割板」を調達し「上方」へ廻漕
       することを命令。〔「秋田家文書」〕
  4月11日 羽柴秀吉、毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)が派遣してきた児玉元兼(「児玉三郎右衛門尉」)より釜山浦で船懸の湊口城を
       構築し囲船を造作していることの報告を受ける。
       また毛利輝元へ羽柴秀吉「御一書」と共に浅野長政(「浅野弾正」)・黒田孝高(「黒田勘解由」)を派遣することを通知し、
       毛利輝元からの「唐人武具」と銀子20枚の献上を謝す。
       詳細は長束正家(「長束大蔵大輔」)・木下吉隆(「木下半介」)に伝達させる。〔「毛利家文書」B‐891〕
  4月12日 羽柴秀吉、朝鮮出征中の宇喜多秀家(「羽柴備前宰相」)・毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)・細川忠興(「羽柴丹後少将」)
       長谷川秀一(「羽柴東郷侍従」)・小早川隆景(「羽柴小早川侍従」)・長宗我部元親(「羽柴土佐侍従」)・
       前野長康(「前野但馬守」)・加藤光泰(「加藤遠江守」)・石田三成(「石田治部少輔」)・大谷吉継(「大谷刑部少輔」)
       増田長盛(「増田右衛門尉」)・加藤清正(「加藤主計頭」)・小西行長(「小西摂津守」)・黒田長政(「黒田甲斐守」)・
       毛利吉成(「毛利壱岐守」)・蜂須賀家政(「蜂須賀阿波守」)・生駒親正(「生駒雅楽頭」)・
       福島正則(「福島左衛門大夫」)・戸田勝隆(「戸田民部少輔」)・浅野長政(「浅野弾正少弼」)・
       木村重茲(「木村常陸介」)らへ、全軍の駐屯地は諸将の意見に委ね、晋州城(牧使城)攻略に際して兵粮補給路の確保および
       落城後の処置を指示。兵粮に関しては熊谷直盛(「熊谷半次」)・垣見一直(「垣見弥五郎」)を派遣し出軍を停止して兵粮を
       送付すること、諸城には軍需物資および米1万石を貯蓄すべきことを指示。また下々の者共のため医師20人を派遣すること、
       水夫に手当を与えて帰郷させること、兵粮・兵卒輸送のために船の送還を命令。
       詳細は垣見一直(「垣見弥五郎」)に伝達させる。〔「毛利家文書」B‐928〕
  4月12日 宇喜多秀家(「宰相様」)、大明国勅使と面会。〔「深田文書」‐5〕
  4月14日 大友義統、水谷伊勢守へ長期在陣を慰労し大明国勅使が小西行長陣所を訪問することを通知。〔「深田文書」‐5〕
  4月17日 大明国勅使、日本渡海のために小西行長の陣所を訪問。〔「毛利家文書」B‐930〕
  4月18日 石田三成(「石治少三成」)・大谷吉継(「大刑少吉継」)・増田長盛(「増右長盛」)、島津義弘(「島津兵庫頭」)・
       中川秀成(「中川小兵衛」)・福島正則(「福島左衛門大夫」)・生駒親正(「生駒雅楽頭」)・
       蜂須賀家政(「蜂須賀阿波守」)・長宗我部元親(「土佐侍従」)・戸田勝隆(「戸田民部少輔」)・
       宮部長熙(「宮部兵部少輔」)・木下重堅(「木下備中守」)・南条元続(「南条左衛門尉」)・「羽柴右京亮」(稲葉貞通?)
       斎村広道(「斎村左兵衛」)・一柳直盛(「一柳右近」)・明石守延(「明石左近」)・竹中重利(「竹中源介」)・
       服部一忠(「服部采女正」)・別所豊治(「別所豊後守」)・石川貞通(「石川備後守」)・谷衛友(「谷出羽守」)・
       三輪五右衛門尉・百々三郎左衛門尉へ、李如松(「大明国総大将」)から講和交渉要請があり沈惟敬(「ゆうけき」:遊撃将軍)
       と小西行長(「小摂」)が交渉中であること、大明国勅使の様子および来日の準備を賦課することを命令。
       〔「毛利家文書」B‐930〕
  4月19日 日本軍、高麗都を「惣引」。〔「川船文書」〕
  4月20日 朝鮮在陣中の黒田孝高(「卜庵如水」)、摂津国有馬の伊勢屋市左衛門へ「公儀」の重要さを説くとともに湯山への湯治予定
       を通知。〔「奥之坊文書」〕
  4月22日 羽柴秀吉、毛利輝元が派遣してきた柳沢景祐より毛利輝元が番船抑圧のため釜山浦へ赴いたこと、完成した湊口城に小早川隆景・
       毛利元康・吉川広家らを残留させたこと、無人の伝城を守備すること、加徳島城の普請開始の報告を受け、晋州城(牧司城)の
       攻囲及び赤国・白国在陣中の諸将は相談して行動するよう命令。また毛利輝元からの段子五巻の献上を謝す。
       詳細は長束正家・木下吉隆に伝達させる。 〔「毛利家文書」B‐892〕
  4月23日 西笑承兌、肥前国名護屋津に到着。〔「等持院文書」〕
  4月25日 羽柴秀吉、肥前国名護屋津に到着。〔「等持院文書」〕
  4月28日 羽柴秀吉、釜山浦へ移動し湊口に城数ヶ所を構築した毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ医者を派遣することを通知。
       また晋州城(牧司城)攻略に吉川広家(「侍従」)を派遣すること、毛利輝元は釜山浦に在陣し前野長康(「前野但馬守」)・
       増田長盛(「増田右衛門尉」)に相談することを命令。
       さらに毛利輝元の病状が回復しなければ肥前国名護屋に帰還して養生することを勧める。
       詳細は浅野長政(「浅野弾正」)・黒田孝高(「黒田勘解由」)に伝達させる。〔「毛利家文書」B‐893〕

 5月
  5月 1日 羽柴秀吉、「見懲」のために大友義統処罰理由を公表。〔「崎山文書」〕
  5月 1日 羽柴秀吉、高麗在番衆宛へ「御一家」にまで取り立てた大友義統の「臆病」を全8ヶ条にわたり公表。
       大友義統の身柄は毛利輝元に預け、子息の大友義乗(塩法師)は加藤清正の同心とすべきを命令。〔「島津家文書」A‐954〕
  5月 1日 羽柴秀吉、「見懲」のために島津又太郎(島津義弘与力)・波多三河守(鍋島直茂与力)の処罰理由を公表。〔「崎山文書」〕
  5月 1日 羽柴秀吉、釜山浦に在陣し安国寺恵瓊(「安国寺」)らを蔚山城攻略に派遣した毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ安国寺恵瓊
       と同様に増田長盛(「増田右衛門尉」)・前野長康(「前野但馬守」)を派遣することを命令。
       また羽柴秀吉「御一書」と共に熊谷直盛(「熊谷半次」)・水野久右衛門尉を派遣したことを通知。
       さらに大友義統(「大友」)の成敗を通知して毛利輝元に大友義統(「大友」)の身柄を預けることを通知。
       詳細は熊谷直盛(「熊谷半次」)・水野久右衛門尉に伝達させる。〔「毛利家文書」B‐894〕
  5月 1日 羽柴秀吉、毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ長期在陣を慰労し御仕置の「御一書」を送付したことを通知。
       詳細は熊谷直盛(「熊谷半次」)・水野久右衛門尉に伝達させる。〔「毛利家文書」B‐895〕
  5月 1日 羽柴秀吉、島津義弘へ長期在陣を慰労し御仕置の「御一書」を送付したことを通知。詳細は熊谷直盛・水野久右衛門尉に伝達
       させる。〔「島津家文書」@‐390〕
  5月 1日 羽柴秀吉、島津義弘へ与力の島津忠辰が「虚病」と称して高麗出陣を怠ったことにより、知行没収および島津忠辰の身柄を
       小西行長に預けることを通知。詳細は熊谷直盛・水野久右衛門尉に伝達させる。〔「島津家文書」@‐391〕
  5月 1日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ与力の波多親が「虚病」と称して高麗出陣を怠ったことにより、知行没収および波多親の身柄を黒田長政に
       預けることを通知。詳細は熊谷直盛・水野久右衛門尉に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐54〕
  5月 5日 毛利輝元、吉川広家の負傷を見舞う。〔「吉川家文書」@‐714〕
  5月 5日 日本軍、釜山海より日本へ注進を発す。〔「川船文書」〕
  5月 6日 羽柴秀吉、毛利輝元(「安芸宰相」)へ「大明勅使」のための旅宿造作を命令。
       詳細は長束正家(「長束大蔵大輔」)・木下吉隆(「木下半介」)に伝達させる。〔「毛利家文書」B‐896〕
  5月20日 羽柴秀吉、晋州城(牧使城)取巻衆、釜山海在陣衆、唐島(巨済島)請取衆、加徳島赴任衆、船手衆の編成および作戦を発表。
       〔「島津家文書」A‐955〕
  5月21日 羽柴秀吉、毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ「大明勅使」の渡来に際し御仕置は「一書」に示したことを通知し、
       毛利輝元自身は釜山浦において療養することを命令。
       詳細は増田長盛(「増田右衛門尉」)・石田三成(「石田治部少輔」)・大谷吉継(「大谷刑部少輔」)に伝達させる。
       〔「毛利家文書」B‐897〕
  5月21日 羽柴秀吉、吉川広家の戦功を賞す。〔「吉川家文書」@‐127〕
  5月22日 羽柴秀吉、肥前国名護屋から北政所へ明の講和使節の来日の経緯を報告し二丸殿(淀殿)の懐妊について胎児の育成を切に祈願。
       〔「米沢文書」〕
  5月22日 羽柴秀吉、毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ「大明国勅使」の渡来にもかかわらず晋州城(牧司城)攻略の続行を命令。
       また、羽柴秀吉自身が和議条件を提示する予定を通知し、諸軍が「退屈」しているならば羽柴秀吉自身が渡海する旨を通知。
       〔「毛利家文書」B‐898〕
  5月25日 羽柴秀吉、津軽為信(「津軽右京大夫」)へ肥前国名護屋城での長期在陣を慰労。
       〔「国立国文学研究資料館史料館津軽家文書」〕
  5月26日 羽柴秀次、毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ長期在陣を慰労。〔「毛利家文書」B‐1004〕
  5月27日 羽柴秀吉、「ふく」(宇喜多秀家生母)へ明国からの講和使節の来日を報告。
       予定として和議成立後に高麗の仕置を命じて10月頃に凱旋すること、および宇喜多秀家の健在を通知。〔「葉上文書」〕
  5月27日 南部信直、八戸直栄(「八戸二郎」)・「新田殿」へ肥前国名護屋陣中に於いて津軽為信(「津かる右京」)が
       「奥村主計」(前田利家家臣)より「こめられ」て浅野長政(「弾正殿」)・前田利家(「筑前殿」)の陣屋へ伺候しなかった
       ことなどを通知。〔「遠野南部家文書」〕

 6月
  6月 1日 藤堂高虎、駒井重勝へ朝鮮での戦況を報告。〔『武家手鑑』‐下48〕
  6月 2日 羽柴秀吉、毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ馬2疋を送付し長期在陣を慰労。
       詳細は石田三成(「石田治部少輔」)・大谷吉継(「大谷刑部少輔」)・増田長盛(「増田右衛門尉」)に伝達させる。
       〔「毛利家文書」B‐907〕
  6月 2日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ長期在陣を慰労し鹿毛駮の馬1疋を下賜。詳細は石田三成・大谷吉継・増田長盛に伝達させる。
       〔「鍋島家文書」‐55〕
  6月 4日 羽柴秀吉、毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ「大安宅」船の完成を賞す。
       詳細を木下吉隆(「木下半介」)に伝達させる。〔「毛利家文書」B‐887〕
  6月11日 山口正弘(「宗永」)、豊後国大分郡戸次郷利光村の高橋左近へ百姓還住を命令。〔「大分高橋文書」‐1〕
  6月15日 増田長盛、吉川広家へ不調法を謝し広家の京城における戦功を羽柴秀吉に報告し羽柴秀吉朱印状を調えることを通知。
       〔「吉川家文書」@‐715〕
  6月18日 羽柴秀吉、毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ島津家中の出陣遅延者を調査。
       反対した梅北国兼(「梅北宮内左衛門尉」)が一揆を起こしたが鎮圧されたことを在陣中の島津義弘(「兵庫頭」)へ安心する
       よう通達させる。〔「毛利家文書」B‐915〕
  6月19日 羽柴秀吉、毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ梅北国兼(「梅北宮内左衛門」)の「一揆」の平定を通知し、
       島津義弘(「島津兵庫頭」)にも通達するよう命令。〔「毛利家文書」B‐916〕
  6月20日 羽柴秀吉、薩摩国・大隅国・日向国の島津義久留守居中へ豊後国を「御蔵入」に設定するも百姓逃散を告げ、
       島津留守居中にも百姓逃散を還住させ、違反者は処罰するよう命令。詳細は山口正弘に伝達させる。
       〔「島津家文書」@‐351〕
  6月24日 羽柴秀吉、肥前国名護屋陣中において仮装による軍労慰問を行う。〔『大和田重清日記』〕
  6月24日 羽柴秀次、吉川広家へ長期在陣を慰労。〔「吉川家文書」@‐824〕
  6月    羽柴秀吉、大明国と日本国の和平の「条々」を提出する。
       明の姫宮を日本の天皇の后とすること、勘合貿易の復旧、明・日本両国の武官による誓紙交換、朝鮮国王には四道を与え、
       朝鮮王子・大臣を人質とすべきこと、捕虜とした朝鮮2王子の返還、朝鮮国大臣の誓紙要求などを大明国勅使へ通達。
       〔「毛利家文書」B‐929〕
  6月    西笑承兌、肥前国名護屋より等持院ゥ役者中へ戦況を報告、徳川家康・前田利家や後陽成天皇(「上」)も
       羽柴秀吉の渡海を諌止した旨、高麗は「日本ノ五畿七道」のように「八道」から成っている旨を通知。〔「等持院文書」〕

 7月
  7月12日 浅野長政(「弾正」)、「熊谷豊後守」へ「奉公」・「働」を感じ入ったので、以前下された「知行」を永代安堵する。
       〔「熊谷文書」〕
  7月13日 羽柴秀吉、晋州城(牧使城)攻略の報告を受けて毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ熊谷直盛(「熊谷半二」)・
       垣見一直(「垣見弥五郎」)に最前の書付を携えて派遣、沿海諸城の普請命令を伝達させる。
       また毛利秀元(「侍従」)の渡海を命じて毛利輝元の帰朝を促し釜山浦普請を慰労。更に毛利留守居の馳走を褒賞。
       詳細は施薬院全宗(「施薬院」)・長束正家(「長束大蔵大輔」)・木下吉隆(「木下半介」)に伝達させる。
       〔「毛利家文書」B‐917〕
  7月13日 羽柴秀吉、柳沢景祐(「柳沢三左衛門尉」)を派遣してきた毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ見舞を謝す。
       詳細は施薬院全宗(「施薬院」)・木下吉隆(「木下半介」)に伝達させる。〔「毛利家文書」B‐918〕
  7月16日 西笑承兌、某へ呂宋への「御朱印」や某の要望を叶える「御朱印」を下されれば加藤清正は満足するであろうことを通知。
       〔「等持院文書」〕
  7月27日 羽柴秀吉、毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ帰朝して療養すべきことを命令。
       また釜山浦には毛利秀元(「侍従」)を、東莱城には吉川広家(「吉川侍従」)を、迫門口城に信頼のおける人物を配置すべき
       ことを命令。
       詳細は長束正家(「長束大蔵大輔」)・木下吉隆(「木下半介」)に伝達させる。〔「毛利家文書」B‐919〕
  7月27日 羽柴秀吉、唐島(巨済島)の一城に配置した島津義弘へ軍勢の武器・兵粮に関する指示を下す。
       〔「島津家文書」A‐956〕
  7月27日 羽柴秀吉、金海城に配置した鍋島直茂へ軍勢の武器・兵粮に関する指示を下す。〔「鍋島家文書」‐56〕

 8月
  8月 1日 羽柴秀吉、山中長俊(「山中橘内」)・長束正家(「長束大蔵大輔」)へ肥前国松浦郡の波多親(「波多三河守」)の知行分
       に於ける全5ヶ条の「検地条々」を下す。〔「特殊文書」‐1〕
  8月 3日 羽柴秀吉、肥前国名護屋から北政所へ朝鮮軍務の処理後、9月頃に大坂へ凱旋する予定を通知。
       更に二丸殿(淀殿)出産を喜ぶ。〔「山縣公爵家文書」〕
  8月 3日 淀殿(羽柴秀吉側室浅井氏)、大坂城二之丸において男子(拾丸)を出産。〔『日本史人物生没年表』〕
  8月 5日 今井宗久、没。〔『日本史人物生没年表』〕
  8月 6日 羽柴秀吉、島津義弘へ唐島城に送付した武具・兵粮・塩噌・雑子を増田長盛・早川長政より請け取るべきこと、
       炭は山中で焼くべきこと、「加子」(水夫)を帰国させ休養をとらせ、薪を貯えるべきことを命令。
       〔「島津家文書」@‐410〕
  8月 6日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ金海城に送付した武具・兵粮・塩噌・雑子を増田長盛・早川長政より請け取るべきこと、
       炭は山中で焼くべきこと、「加子」(水夫)を帰国させ休養をとらせ、薪を貯えるべきことを命令。
       〔「鍋島家文書」‐57〕
  8月 7日 羽柴秀吉、東莱城に駐在中の毛利秀元へ本丸には毛利家中以外の者の出入を禁止する旨を命令。
       〔「吉川家文書」@‐748〕
  8月 7日 羽柴秀吉、唐島城に駐在中の島津義弘へ本丸には島津家中以外の者の出入を禁止する旨を命令。
       〔「島津家文書」@‐393〕
  8月 7日 羽柴秀吉、金海城に駐在中の鍋島直茂へ本丸には鍋島家中以外の者の出入を禁止する旨を命令。
       〔「鍋島家文書」‐58〕
  8月 7日 羽柴秀吉、金海端城に駐在中の鍋島直茂へ本丸には鍋島家中以外の者の出入を禁止する旨を命令。
       〔「鍋島家文書」‐59〕
  8月 9日 羽柴秀吉、肥前国名護屋から北政所へ、二丸殿(淀殿)が出産した愛児を松浦重政が拾ったことにし、
       その子の名を「ひろいこ」と名付けることを命令。〔「高台寺文書」〕
  8月15日 羽柴秀吉、名護屋を発す。
  8月16日 羽柴秀吉、病中の吉川広家へ帰国命令を下す。〔「吉川家文書」@‐134〕
  8月19日 寺沢広高(「正成」)、病中の吉川広家に対し羽柴秀吉より8月16日付で養生のために帰朝命令が下されたことを伝達。
       詳細を高橋孫左衛門尉に伝達させる。〔「吉川家文書」@‐749〕
  8月23日 羽柴秀次、吉川広家へ高麗晋州城攻略を賞す。〔「吉川家文書」@‐128〕
  8月23日 石田三成、島津義弘へ島津氏の扶持方について、明船の来襲に備え小屋の建て方および船は陸地に引き上げておくこと、
       蔵の増築について、苅田・乱暴の禁止、国元から追加送付する船について、島津義弘の普請助役人数の不足を譴責する
       全6ヶ条の「覚」を提出。〔「島津家文書」A‐959〕
  8月24日 羽柴秀次、吉川広家の長期在陣を慰労。〔「吉川家文書」@‐825〕
  8月25日 羽柴秀吉、摂津国大坂城に帰城。〔「時慶卿記」〕
  8月27日 羽柴秀次、島津義弘の長期在陣を慰労。〔「島津家文書」@‐411〕
  8月29日 加藤光泰、没。〔『日本史人物生没年表』〕
  8月30日 木下吉隆、朝鮮在陣中の吉川広家へ羽柴秀吉への「菊之御嘉例」としての贈答品を披露、
       羽柴秀吉朱印状を送付する旨を通知。
       また9月10日に予定されている羽柴秀吉肥前国名護屋への下向、来春予定の高麗国割および羽柴秀吉への御用取次を通達。
       〔「吉川家文書」@‐752〕

 9月
  9月 2日 増田長盛、病中の吉川広家へ羽柴秀吉からの帰朝命令が出されたので、小早川隆景・安国寺恵瓊と諸事談合の上で帰国する
       よう告知。〔「吉川家文書」@‐751〕
  9月 4日 羽柴秀吉、伏見において羽柴秀次を引見し種々戒告を与える。〔「言経卿記」〕
  9月10日 石田三成、島津久保の死去により島津氏家臣23名(島津忠長・島津彰久・北郷三久・伊集院忠真・入来院重時・島津忠仍・
       種子島久時ら)へ猥りに帰国することを禁じ、100名のみに限定。島津久保跡に居陣する者、普請番等に関する指示、
       「御城米御番」・「跡船」に関する指示、島津義弘の許可無くしては下人たりとも1人として帰国は認めないこと、島津領国
       より医者を招聘すべきを指示、違反は後日「公儀」より曲事と処されるために条々の遵守を伝達。
       〔「島津家文書」A‐960〕
  9月13日 羽柴秀吉、知恩院へ246石7斗2升の地を知行として宛行う。〔『古文書類纂』「知恩院文書」〕
  9月23日 羽柴秀吉、吉川広家へ大明国との和議交渉について誠意が認められないので諸将に対し朝鮮在番の城は「九州同前」に堅固に
       すべきこと、未出征の東国・北国の諸将には在洛し伏見等の作事に従事させる旨、再度全羅道へ進撃して勝利を得た後に和議に
       応ずることを報じ、詳細を増田長盛・石田三成に伝達させる。更に詳細にわたる指示を申し含めた岡田善同を派遣。
       〔「吉川家文書」@‐753〕
  9月23日 羽柴秀吉、島津義弘へ大明国との和議交渉について誠意が認められないので諸将に対し朝鮮在番の城は「九州同前」に堅固に
       すべきこと、未出征の東国・北国の諸将には在洛し伏見等の作事に従事させる旨、再度全羅道へ進撃して勝利を得た後に和議に
       応ずることを報じ、詳細を増田長盛・石田三成に伝達させる。更に詳細にわたる指示を申し含めた岡田善同を派遣。
       〔「島津家文書」@‐397〕
  9月23日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ大明国との和議交渉について誠意が認められないので諸将に対し朝鮮在番の城は「九州同前」に堅固に
       すべきこと、未出征の東国・北国の諸将には在洛し伏見等の作事に従事させる旨、再度全羅道へ進撃して勝利を得た後に和議に
       応ずることを報じ、詳細を増田長盛・石田三成に伝達させる。更に詳細にわたる指示を申し含めた岡田善同を派遣。
       〔「鍋島家文書」‐60〕
  9月23日 石田三成・増田長盛、鍋島直茂へ羽柴秀吉が岡田善同を派遣したこと、大明国との和議は羽柴秀吉側より申し出たもの
       では無いので各々が守備する城を「九州同前」に堅固にすべき羽柴秀吉命令を伝達。更に羽柴秀次の朝鮮への初出陣を予告。
       〔「鍋島家文書」‐61〕
  9月24日 石田三成・増田長盛、吉川広家へ羽柴秀吉が岡田善同を派遣したこと、大明国との和議は羽柴秀吉側より申し出たもの
       では無いので各々が守備する城を「九州同前」に堅固にすべき羽柴秀吉命令を伝達。更に羽柴秀次の朝鮮への初出陣を予告。
       〔「吉川家文書」@‐754〕
  9月24日 石田三成・増田長盛、島津義弘へ羽柴秀吉が岡田善同を派遣したこと、大明国との和議は羽柴秀吉側より申し出たもの
       では無いので各々が守備する城を「九州同前」に堅固にすべき羽柴秀吉命令を伝達。更に羽柴秀次の朝鮮への初出陣を予告。
       〔「島津家文書」A‐961〕
    この頃 豊臣羽柴秀吉による暦改正の風聞あり。〔『多聞院日記』〕
  9月27日 京都方広寺大仏殿の棟上式。〔『多聞院日記』〕
  9月27日 羽柴秀吉、北政所を同伴し摂津国有馬へ湯治。〔『多聞院日記』〕

閏9月
 閏9月 7日 羽柴秀吉、大坂城に帰城。
 閏9月 9日 羽柴秀吉、湯治中の毛利輝元(「安芸宰相」)へ病気になった小早川隆景(「小早川」)と共に送付した「御朱印」が到着
       次第に帰朝すべきを命令。
       詳細は長束正家(「長束大蔵大輔」)・木下吉隆(「木下半介」)に伝達させる。〔「毛利家文書」B‐920〕
 閏9月 9日 羽柴秀吉、病気が回復し朝鮮在番中の吉川広家へ吉川広家年寄に仕置を継続させて吉川広家自身は帰朝するよう命令。
       詳細を長束正家・山中長俊・木下吉隆に伝達させる。〔「吉川家文書」@‐755〕
 閏9月 9日 長束正家・山中長俊・木下吉隆、大坂より吉川広家へ羽柴秀吉の帰朝命令、京都より吉川広家母・女房衆の領国内への帰国、
       毛利輝元の健在を報じ、大坂への御用は取次ぐ旨を通達。〔「吉川家文書」@‐756〕
 閏9月14日 豊臣羽柴秀吉、本願寺教如を「淫乱無勿体」という理由で大坂へ招喚する。〔『言経卿記』〕
    この頃 豊臣羽柴秀吉、本願寺教如を隠居させ本願寺准如(「理光院」)を本願寺家督と決定。〔『言経卿記』〕
 閏9月15日 羽柴秀次、竹中重門へ美濃国表佐から柾板50駄の供出を命令。〔「不破幹雄氏所蔵文書」‐7〕
 閏9月15日 徳芳、山口正弘へ豊後国津久見村解脱寺領の指出を提出。〔「解脱寺文書」‐2〕
 閏9月15日 徳芳、山口正弘へ豊後国海部郡津久見村朝日寺領の指出を提出。〔「解脱寺文書」‐3〕
 閏9月16日 山口正弘、陳元明へ大仏油蠣調製の賞として羽柴秀吉「御朱印」による国役・屋敷の年貢免除を通達。〔「陳文書」‐3〕
 閏9月17日 本願寺教如、施薬院全宗・長束正家・木下吉隆・山中長俊へ「本願寺留守職」について納得し、例え弟であっても本願寺准如
       のことを「先師」(本願寺顕如)の如く尊崇することを表明し、その旨の羽柴秀吉への披露を依頼。〔「本願寺文書」〕
 閏9月17日 毛利秀頼、没。〔『日本史人物生没年表』〕
 閏9月20日  羽柴秀吉、竣工した伏見屋敷へ正式に移徙。〔「時慶卿記」〕
 閏9月20日 真崎宣治、中臣則興(鹿島神宮大宮司)へ朝鮮陣より佐竹義宣(「屋形様」)帰国を報告。〔「鹿島神宮文書」‐155〕
 閏9月21日 小場義忠、中臣則興(鹿島神宮大宮司)へ朝鮮陣より佐竹義宣(「屋形様」)帰陣を報告。〔「鹿島神宮文書」‐152〕
 閏9月26日 羽柴秀吉、朝鮮在陣中に吉川広家の家来が逐電したのに際し、国許へ所用がある者には切手を発給するよう命令。
       〔「吉川家文書」@‐757〕
 閏9月26日 羽柴秀吉、朝鮮在陣中に鍋島直茂の家来が逐電したのに際し、国許へ所用がある者には切手を発給するよう命令。
       〔「鍋島家文書」‐62〕

10月
 10月 1日 羽柴秀吉、羽柴秀頼と羽柴秀次の女児を婚約させる。〔「駒井日記」〕
 10月 2日 羽柴秀次、島津義弘留守居中へ「鹿喰犬」の献上を命令。詳細は石田三成に伝達させる。〔「島津家文書」@‐412〕
 10月 3日 羽柴秀吉、諸大名を供奉させ禁裏に参内。
 10月 5日 羽柴秀吉、禁裏に参内し自ら演能。
 10月 8日 羽柴秀吉、施薬院全宗邸に赴く。
 10月11日 羽柴秀吉、吉川広家へ鮭の贈呈を謝す。また吉川広家の帰朝に際し吉川広家母を京都より帰国させた旨を報ず。
       詳細を大谷吉継・木下吉隆に伝達させる。〔「吉川家文書」@‐758〕
 10月13日 羽柴秀吉、「本願寺影堂留守職」について「叡慮」を経て本願寺光昭が継承することを承認。〔「性顕寺文書」‐5〕
 10月13日 羽柴秀次、「本願寺影堂留守職」については寺法に従い相続すべきこと、今後の勤行を促す。〔「本願寺文書」〕
 10月16日 羽柴秀吉、本願寺へ「本願寺影堂留守職」は「殿下」が仲介し「叡慮」によって3男ではあるが本願寺准如が相続する
       ことに決定した旨を通達。〔「本願寺文書」〕
 10月19日 羽柴秀吉、近江国大津へ下向。
 10月  日 織田秀信、美濃国瑞龍寺へ全3ヶ条の定を下す。〔「瑞龍寺文書」‐7〕

11月
 11月 3日 羽柴秀吉、美濃国加々島村梅寺へ検地後に田畠50石を寄附。〔「乙津寺文書」‐7〕
 11月 8日 羽柴秀吉、秋田実季(「秋田太郎」)へ前田利家(「加賀宰相」)に「大安宅」作事を命令したので秋田杉を大船1艘分調達
       することを命令。詳細は前田利家(「加賀宰相」)に伝達させる。〔「秋田家文書」〕
 11月 8日 大友義統、某蔵丞へ去年以来の高麗における長期在陣を慰労。〔「安心院文書」‐4〕
 11月 9日 古田重勝、美濃国春近村の井上与三へ小物成の受取手形を下す。〔「安藤鉦司氏所蔵文書」‐20〕
 11月10日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ長期在陣についての注意を与える。
        詳細を長束正家・木下吉隆に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐63〕
 11月10日 羽柴秀吉、東莱城在番衆に対し長期在陣についての注意を与える。
        詳細を長束正家・木下吉隆に伝達させる。〔「吉川家文書」@‐759〕
 11月10日 木下吉隆・長束正家、東莱城在番衆に対し兵粮などに用意について羽柴秀吉の命令を伝達、御用は取り次ぐ旨を通知。
       〔「吉川家文書」@‐760〕
 11月11日 羽柴秀吉、大坂城に在城。〔「鍋島家文書」‐64〕
 11月11日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ帰朝後の鍋島氏在城番に関する指示を下し、「虎頭」・「虎肉」・「虎胆」の献上を悦ぶ。
       詳細は増田長盛に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐64〕
 11月16日 稲葉貞通、美濃国長瀧寺中坊跡目の宗真へ10石を寄進。〔「長瀧寺文書」‐9〕
 11月19日 羽柴秀吉、羽柴秀次を伏見において引見、尾張国で放鷹のため下向。
 11月24日 羽柴秀吉、尾張国清洲城に到着し3日間逗留。
 11月24日 伊達政宗(「政宗」)、某へ「金子ほり之者共」の件で人数書付を浅野長政(「弾少様」)の「御代官」に渡すよう命令。
       〔「熊谷文書」〕
 11月26日 浅野長政(「弾正」)、若狭国小浜の組屋源四郎へ売却した陸奥国津軽の蔵米2400石分の代金を受領した旨を諒承。
       〔「組屋文書」〕
 11月26日 大谷吉継(「大刑少」)、越前国西福寺順蓮社へ見舞を謝し僧侶「残道」の病状報告を促す。〔「西福寺文書」〕
 11月29日 羽柴秀吉、島津義弘へ捕獲した朝鮮人中の「細工仕者」・縫官・手先の器用な女性の進上を命令。〔「島津家文書」A‐809〕
 11月29日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ捕獲した朝鮮人中の「細工仕者」・縫官・手先の器用な女性の進上を命令。〔「鍋島家文書」‐65〕
 11月    羽柴秀吉、三好吉房(「三位法印」:羽柴秀次実父)の摂津国有馬湯治に際して料米を給す。〔「浅野文書」〕

12月
 12月 6日 羽柴秀吉(「秀吉」)、宮部長熙(「宮部兵部少輔」)・荒木重堅(「木下備中守」)・南条元続(「南条伯耆守」)・
       垣屋恒総(「垣屋新五郎」)へ「無人」の状態で「待伏」に遭遇・戦死した中川秀政(「中川右衛門大夫」)の件で、舎弟
       中川秀成(「小兵衛」)に「跡目」相続を命令したこと、今後は不用心にて戦死した場合は「跡目」相続を承認しないことを
       通達。また来年3月に羽柴秀吉自身が渡海する予定であるので守備を堅固にし、軽率な行動を慎むこと、羽柴秀吉「上意」に
       背いた場合は「曲事」とすることを通達。〔「宮部文書」〕
 12月 7日 羽柴秀吉、熱田より桑名に到着。
 12月 8日 羽柴秀吉、伊勢国亀山に到着。
 12月 9日 羽柴秀吉、近江国水口に到着。
 12月10日 羽柴秀吉、近江国大津に到着。
 12月11日 羽柴秀吉、伏見に帰還。〔「駒井日記」〕
 12月11日 大谷吉継(「大刑少」)、越前国西福寺へ残道(僧侶)の病状を見舞う。〔「西福寺文書」〕
 12月11日 三浦大和守・三浦之綱・鶴田太郎右衛門・住賀伊勢守、山中長俊の羽柴秀吉への取り成しを謝し、その恩義を忘れぬこと、
       寺沢正成の懇意も謝し、明年にも参上することを通知。〔「山中橘内長俊文書」‐936〕
         【注】上記「山中橘内長俊文書」‐936の年表文言は、『早稲田大学蔵史料影印叢書 国書篇 古文書集3』の目次表記を
            そのまま参考にしています。ですが影印をみると、三浦大和守は「有浦大和守」、三浦之綱は「同伊賀守(有浦伊賀守)」、
            住賀伊勢守は「値賀伊勢守」と記述されているようです。
            この文書を利用される際には、影印の方も確認されることを、おすすめ致します。
 12月14日 羽柴秀吉、伏見より淀川を下り大坂城に帰城。
 12月24日 中川秀政、朝鮮において戦死。〔『日本史人物生没年表』〕
 12月29日 羽柴秀吉、鍋島直茂からの歳暮祝儀を謝し、長期在陣を慰労。〔「鍋島家文書」‐66〕


    この年 石川数正、没(異説1592年12月カ?)。〔『日本史人物生没年表』〕
        小西如清、没。〔『日本史人物生没年表』〕


フロントページに戻る
目次に戻る
項目別文献・論文一覧へ