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        【 天下統一期年譜 1592年 】


天正20・文禄元(1592)年

 1月
  1月 5日 羽柴秀吉、諸大名を肥前国名護屋城に集結させ朝鮮渡海の期日を決定する命令を下す。
  1月 5日 羽柴秀吉、朝鮮出兵に際し「掟」を発令。
       在陣地の地下人・百姓等の逃散を禁止し、押買押売および乱暴狼藉の連中は「一銭切」にすべきことを通達。また、その他の
       法度に対する違反者も厳罰に処することを、あわせて通達。〔「毛利家文書」B‐879〕
  1月 5日 羽柴秀吉、征明にあたり地下人・百姓らの安堵についての掟を発布。〔「吉川家文書」@‐122〕
  1月16日 津野親忠(長宗我部元親3男)、「唐立」に際し金銀を供出した永山平次兵衛尉に田地5段を褒美として与える。
       〔「土佐国蠧簡集」‐524〕
  1月19日 羽柴秀吉、島津義弘・島津義久へ先年の島津義久の琉球「取次」によって琉球は島津氏与力とし「唐入」に出陣さすべき旨を
       命令。
       また島津忠辰(薩摩国出水城守将)に島津義弘と共に一国諸役を勤行させることを命令。
       詳細は細川藤孝・石田三成に伝達させる。〔「島津家文書」@‐360〕
  1月21日 石田三成・細川幽斎、島津義久・島津義弘へ羽柴秀吉が薩摩国出水郡に関する御朱印が下される。
       内容は石田三成・細川幽斎が到着した際に確認すること、亀井茲矩より琉球を収公し島津氏に「琉球国」を預けることを伝達。
       また「綾舟」の来航督促を命令。そして島津義久・島津義弘に肥前国名護屋着陣を指示。〔「島津家文書」A‐1118〕
  1月22日 羽柴秀吉、毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ「御動座御用」の馬を宿送りにて筑前国小倉まで送るよう命令。
       〔「毛利家文書」B‐867〕
  1月24日 羽柴秀吉、毛利輝元(「安芸宰相」)へ「御本陣」用に瀬戸尾道間に「御朱印」継船の準備を命令。
       〔「毛利家文書」B‐878〕
  1月26日 羽柴秀吉、九鬼嘉隆の報告を受けて加藤嘉明へ囲船以外の船を早急に肥前国名護屋へ回送することを指示。
       兵粮備蓄は多量ほど手柄とし、来る3月の羽柴秀吉自身渡海予定を前にして軽率な行動を戒めることもあわせて指示。
       詳細は九鬼嘉隆に伝達させる。〔「磐城加藤文書」‐920〕
  1月26日 後陽成天皇、羽柴秀次(「後関白内大臣秀次」)の聚楽第へ行幸す。〔「特殊文書」‐4〕
  1月27日 後陽成天皇の聚楽第行幸2日目。〔「特殊文書」‐4〕
  1月28日 後陽成天皇、聚楽第行幸より内裏へ還幸す。〔「特殊文書」‐4〕
  1月29日 羽柴秀次、従二位に昇進。〔『公卿補任』〕
  1月29日 羽柴秀次(「関白内大臣」)、「左大臣」に転任。〔『公卿補任』「足守木下家文書」‐27〕
  1月 晦日 覚円法親王(「入道親王覚円」)、「後証」のために後陽成天皇の聚楽第行幸の様子を書きまとめる。〔「特殊文書」‐4〕
  1月    羽柴秀次、唐入について掟書を発布。〔「吉川家文書」@‐124〕
  1月    羽柴秀次、藤堂嘉清を「聚楽御蔵入方」近江国分の代官に任命。〔「藤堂文書」〕
  1月    羽柴秀次(「豊臣秀次」)、「唐入」にあたり全5ヶ条の「条々」を発す。〔「盛岡南部家文書」〕
  1月    羽柴秀吉、朝鮮出兵に際し「禁制」として乱暴狼藉の禁止、放火の禁止、地下人・百姓等への非分申懸を禁止。
       違反者は厳罰に処することを伝達。〔「毛利家文書」B‐880・881・882・883〕
  1月    羽柴秀吉、朝鮮出兵に際し「禁制」として乱暴狼藉の禁止、放火の禁止、地下人・百姓等への非分申懸を禁止。
       違反者は厳罰に処することを伝達。〔「鍋島家文書」‐26〕
  1月    羽柴秀吉、朝鮮出兵に際し「定」として、味方地での乱暴狼藉は「一銭切」にすべきこと。
       陣中出火の罰、薪・糠・藁・草紙は亭主にことわって取るべきことを伝達。〔「毛利家文書」B‐884〕
  1月    羽柴秀吉、全3ヶ条の「定」を下す。
       濫妨狼藉の輩は「一銭切」にすべきこと、陣所において失火が発生した者の処分、物資の調達に関する規定を定め、
       違反者は厳罰に処す旨を公表。〔「鍋島家文書」‐25〕

 2月
  2月 2日 羽柴秀吉、碇を贈ってきた毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ謝意を表し、詳細を黒田孝高(「黒田勘解由」)に伝達させる。
       〔「毛利家文書」B‐868〕
  2月 3日 大谷吉継(「刑部」)、越前国敦賀郡の川舟三郎左衛門へ全3ヶ条の「免除条数事」を下す。〔「道川三郎左衛門文書」〕
  2月11日 大友義統、大友義述へ大友家伝来の文書・重物を相続させる。〔「大友記録」‐1〕
  2月11日 大友義統、大友義述へ大友家伝来の「小笠原元宗」から伝授された弓馬之日記巻物を譲渡。〔「大友記録」‐21〕
  2月11日 大友義統、大友義述へ諸事にわたる全21ヶ条の「条々」を伝達。〔「大友記録」‐22〕
  2月17日 羽柴秀吉、毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ3月朔日の羽柴秀吉「御動座」につき、乗掛馬の準備および「此方之御奉行」へ
       の引き渡しを命令。〔「毛利家文書」B‐869〕
  2月19日 羽柴秀吉、毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ領国内の船の渡船準備および海水満干の案内者の召集を命令。
       詳細は前田玄以(「民部卿法印」)・木下吉隆(「木下半介」)に伝達させる。〔「毛利家文書」B‐870〕
  2月26日 羽柴秀次(「秀次」)、初めて音信する南部信直(「南部殿」)へ鷹匠「田中清六」を派遣したので馳走を依頼し、
       「軽儀書状之験斗」を謝しつつ「上辺相応之御用」があれば疎意にしないことを通達。〔「盛岡南部家文書」〕
  2月27日 羽柴秀吉、島津義弘へ高麗には宗義智・小西行長を、沿岸島嶼には加藤清正が、九州衆は対馬島に、
       四国衆は壱岐島に布陣することを通知。先鋒の宗義智・小西行長の報告を待つよう指示。「異国(高麗)」を侮らぬよう訓告。
       羽柴秀吉自身は3月10日頃に出陣する予定であることを通知。〔「島津家文書」@‐385〕
  2月27日 羽柴秀吉、黒田長政・毛利吉成・鍋島直茂へ高麗には宗義智・小西行長を、沿岸島嶼には加藤清正が、九州衆は対馬島に、
       四国衆は壱岐島に布陣することを通知。先鋒の宗義智・小西行長の報告を待つよう指示。「異国(高麗)」を侮らぬよう訓告。
       羽柴秀吉自身は3月10日ころに出陣する予定であることを通知。〔「鍋島家文書」‐27〕
  2月 吉日 津野親忠(長宗我部元親3男)、「唐立」に際し金を供出した明神兼丞へ給地5反15代3歩を与える。
       〔「土佐国蠧簡集」‐526〕
  2月 吉日 津野親忠(長宗我部元親3男)、「唐立」に際し料足を供出した中洞の西村与次衛門尉へ給分として2反を与える。
       〔「土佐国蠧簡集」‐527〕
  2月 吉日 津野親忠(長宗我部元親3男)、「唐立」に際し金を供出した戸田蔵介へ給地5反38代2歩を与える。
       〔「土佐国蠧簡集」‐528〕
  2月 吉日 津野親忠(長宗我部元親3男)、「唐立」に際し刀・料足を供出した西村宗介へ給分4反33代2歩を与える。
       〔「土佐国蠧簡集」‐529〕

 3月
  3月 1日 羽柴秀吉、毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ宗義智(「対馬守」)・小西行長(「小西摂津守」)の「高麗」渡海および
       加藤清正(「加藤主計頭」)の「高麗へ一里二里際之島」への布陣等の作戦を通達。
       また壱岐島に着陣し先鋒の戦況情報に接するよう待機を命令し「異国者ニ候とて物いやしミ仕」り油断しないよう注意を促す。
       〔「毛利家文書」B‐871〕
  3月 1日 羽柴秀吉、毛利吉成・黒田長政・鍋島直茂へ寺沢広高の派遣を再通知。宗義智・小西行長の高麗移陣、加藤清正の高麗手前の
       島々へ着陣を通達。
       羽柴秀吉からの指令は小西行長・加藤清正を仲介して通知することと、羽柴秀吉自身の出陣に備え油断無きよう陣取りを命令。
       〔「鍋島家文書」‐28〕
  3月 2日 古田重勝、美濃国春近村の井上与三へ天正18年分の御借米未進分について受取手形を下す。
       〔「安藤鉦司氏所蔵文書」‐19〕
  3月 4日 羽柴秀吉、安芸国広島城を発した毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ壱岐島での在陣に関する指示を与える。
       しかし、羽柴秀吉自身は眼病のために出陣を10日に延期したことを通達。〔「毛利家文書」B‐872〕
  3月 7日 近衛信尹(「信輔」)、京都伏見指月より乗船。〔『三藐院記』〕
  3月 8日 近衛信尹(「信輔」)、摂津国尼ヶ崎へ着津。〔『三藐院記』〕
  3月 9日 近衛信尹(「信輔」)、摂津国有馬へ到着し、孝蔵主折紙に従って御所坊に宿泊。〔『三藐院記』〕
  3月13日 羽柴秀吉、毛利輝元へ九番編成の出征軍の内訳を示し渡海の指示を通達。
       それ以外の大名は肥前国名護屋に在陣することを命令。船数の多きを手柄とする旨も通達。〔「毛利家文書」B‐885〕
  3月13日 羽柴秀吉、高麗渡海陣立書を発す。高麗・対馬・壱岐・肥前国名護屋のそれぞれに船奉行を配置。
       〔「毛利家文書」B‐886〕
  3月13日 羽柴秀吉、高麗渡海陣立書を発す。
       「御先衆」は九州衆・四国衆・中国衆からなり、その後に宇喜多秀家(「備前宰相」)・羽柴秀勝(「岐阜宰相」)・
       細川忠興(「丹後少将」)らが渡海すること。
       かうらい「船奉行」は早川長政(「早川主馬首」)・毛利高政(「毛利民部大輔」)・毛利重政(「毛利兵橘」)。
       つしま「船奉行」は服部一忠(「服部采女正」)・九鬼嘉隆(「九鬼大隅守」)・脇坂安治(「脇坂中務少輔」)。
       いき「船奉行」は一柳可遊(「一柳右近大夫」)・加藤嘉明(「加藤左馬助」)・藤堂高虎(「藤堂佐渡守」)。
       なこや「船奉行」は石田三成(「石田治部少輔」)・大谷吉継(「大谷刑部少輔」)・岡本重政(「岡本下野守」)・
       牧村政吉(「牧村兵部大輔」)。〔「毛利家文書」B‐886、「鍋島家文書」‐29〕
  3月14日 羽柴秀吉、島津義久へ琉球国への「御返書」を書き直すので前回下した「御朱印」の返上を命令。
       また島津義久へ琉球に派遣する使者の「粮料」として銀子100枚を下賜することを通知。詳細は石田三成に伝達させる。
       〔「島津家文書」@‐361〕
  3月19日 羽柴秀吉、安国寺恵瓊(「安国寺」)へ安芸国広島在番として渡瀬左衛門佐を派遣したことを通達。
       〔「毛利家文書」B‐873〕
  3月23日 羽柴秀吉、北政所へ摂津国内に10001石7斗の領知を宛行う。〔「足守木下家文書」‐32〕
  3月26日 羽柴秀吉、朝鮮出兵のため京都を出陣し後陽成天皇・公家衆らが歓送。
  3月26日 羽柴秀吉、摂津国茨木に到着。
  3月27日 羽柴秀吉、国兵庫に到着。
  3月28日 羽柴秀吉、播磨国姫路城に到着。
  3月29日 羽柴秀吉、飾磨の津より乗船。
  3月30日 羽柴秀吉、海路を経て備前国岡山城に到着し7日間逗留。

 4月
  4月 7日 羽柴秀吉、備中国矢懸に到着。
  4月 8日 羽柴秀吉、三原に到着。
  4月 8日 羽柴秀吉、毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ旅宿準備を謝し、饗応簡素化を命令。
       詳細を安国寺恵瓊(「安国寺」)に伝達させる。〔「毛利家文書」B‐874〕
  4月 9日 大友義統、魚返宮内少輔へ高麗国における軍労を賞す。〔「魚返文書」‐7〕
  4月11日 羽柴秀吉、安芸国広島城へ到着し城内外を巡覧。〔「毛利家文書」B‐1041〕
  4月11日 毛利秀元(「大夫殿」:輝元養子)、羽柴秀吉へ礼儀を献上。〔「毛利家文書」B‐1041〕
  4月11日 羽柴秀吉、毛利輝元(「輝元」)・小早川隆景(「隆景」)の「内々」を受けていた施薬院全宗(「薬院」)・
       安国寺恵瓊(「安国」)らの言上により毛利秀元(「右京大夫」)を毛利輝元(「輝元」)の跡継と承認する。
       〔「毛利家文書」B‐1041〕
  4月11日 羽柴秀吉(「大閤様」)、毛利輝元(「輝元」)・小早川隆景(「隆景」)両人の間柄を「日本一」と褒める。
       〔「毛利家文書」B‐1041〕
  4月11日 羽柴秀吉、毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ安芸国広島城到着を通知し毛利家の歓待を謝す。
       また詳細を林就長(「林肥前守」)に伝達させる。〔「毛利家文書」B‐875〕
  4月12日 羽柴秀吉、毛利秀元(「大夫殿」:輝元養子)を召して御腰物「光忠」・御脇指「行光」を下賜し毛利輝元(「輝元」)への
       忠孝と武辺の嗜みを促す。〔「毛利家文書」B‐1041〕
  4月12日 羽柴秀吉(「大閤様」)、安芸国霊仙寺に参詣し今後の毛利家に対する優遇の教示を与える。
       〔「毛利家文書」B‐1041〕
  4月13日 毛利秀元(「右京大夫秀元」:輝元養子)、小早川隆景(「隆景様」)・安国寺恵瓊(「安国寺」)に宛てて起請文を提出。
       また、羽柴秀吉(「大閤様」)より毛利秀元の身上について指示があり、毛利輝元に実子が誕生した場合の遵守を誓約。
       〔「毛利家文書」B‐1035〕
  4月14日 林就長(「林肥就長」)・佐世元嘉(「させ三左元嘉」)・安国寺恵瓊(「安国寺恵瓊」)、二宮就辰(「二太右」)・
       鵜飼元辰(「鵜新右」)へ羽柴秀吉(「太閤様」)の安芸国広島城滞在の様子を報告。〔「毛利家文書」B‐1041〕
  4月15日 羽柴秀吉、草津より乗船し厳島に参詣、安芸国小方に宿泊。
  4月15日 羽柴秀次、出陣中の毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ羽柴秀吉「御動座」に対する心遣いを賞し、慰問および先手の戦況報告
       の使者を派遣。〔「毛利家文書」B‐995〕
  4月19日 羽柴秀吉、島津義弘へ九州・中国・四国の軍船に渡海命令を発する。
       「紀伊国警固船」は藤堂高虎に、九鬼嘉隆・脇坂安治・加藤嘉明には「備前之警固船」の出陣を委任。
       それぞれに高麗在陣における注意事項を示す。
       この日に羽柴秀吉は、豊前国小倉に到着。〔「島津家文書」@‐368〕
  4月19日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ九州・中国・四国の軍船に渡海命令を発する。
       「紀伊国警固船」は藤堂高虎に、九鬼嘉隆・脇坂安治・加藤嘉明には「備前之警固船」の出陣を委任。
       それぞれに高麗在陣における注意事項を示す。
       この日に羽柴秀吉は、豊前国小倉に到着。〔「鍋島家文書」‐31〕
  4月20日 羽柴秀吉、筑前国宗像に到着。
  4月20日 北条氏房、肥前国唐津の陣中において病没(異説1593年)。〔『日本史人物生没年表』〕
  4月21日 羽柴秀吉、名島に着陣し2日間逗留。〔「名護屋下向記」、「鍋島家文書」‐32〕
  4月22日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ宗義智・小西行長らの高麗における戦功を通知。
       治安回復後に「法度」以下を発し、百姓等の還住を奨励すべきを命令。〔「鍋島家文書」‐32〕
  4月24日 羽柴秀吉、深江に到着。
  4月25日 羽柴秀吉、肥前国名護屋城に到着。〔「名護屋下向記」〕
  4月26日 羽柴秀吉、毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ対馬国から高麗間の輸送船90艘を毛利高政(「毛利民部」)・
       宮木豊盛(「宮木長次」)・毛利重政(「毛利兵橘」)・早川長政(「早川主馬首」)へ提出することを命令。
       肥前国名護屋から壱岐国間は「上様御手船」と諸将の手船を以て渡海することを通知。
       船頭の飯米についての指示を下し、捕獲した捕虜については各々在所に返すこと、詳細は派遣した奉行共に仰せ付けたので
       その指示に従うよう命令。〔「毛利家文書」B‐876〕
  4月26日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ対馬国〜高麗間の六端帆の図船60艘を毛利高政・宮木豊盛・毛利重政・早川長政の4名に提出
       すべきを命令。
       肥前国名護屋〜壱岐国間においては「上様御手船」と名護屋在陣之衆が渡海するための準備をすべきことを命令。
       更に船頭飯米の配給、「人取」の男女を還住させること、その他「法度」に関しては追々に「奉行共」を派遣することを通達。
       〔「鍋島家文書」‐35〕
  4月26日 羽柴秀吉、毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ全8ヶ条の「掟」を発布。
       勤行すべき「法度」の内容を派遣した「御奉行」より各々へ通達する旨を通知。〔「毛利家文書」B‐900〕
  4月26日 羽柴秀吉、小早川隆景(「羽柴小早川侍従」)へ全8ヶ条の「掟」を発布。
       勤行すべき「法度」の内容を派遣した「御奉行」より各々へ通達する旨を通知。〔「毛利家文書」B‐984〕
  4月26日 羽柴秀吉、島津義弘へ全8ヶ条の「掟」を発布。
       勤行すべき「法度」の内容を派遣した「御奉行」より各々へ通達する旨を通知。〔「島津家文書」@‐388〕
  4月26日 羽柴秀吉、大友義統へ全8ヶ条の「掟」を発布。
       勤行すべき「法度」の内容を派遣した「御奉行」より各々へ通達する旨を通知。〔「大友記録」‐26〕
  4月26日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ全8ヶ条の「掟」を発布。
       勤行すべき「法度」の内容を派遣した「御奉行」より各々へ通達する旨を通知。〔「鍋島家文書」‐34〕
  4月26日 羽柴秀吉、高麗国に対して「禁制」全3ヶ条を発布。
       〔「毛利家文書」B‐901・902、「島津家文書」@‐387、「鍋島家文書」‐33〕
  4月28日 羽柴秀吉、毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ諸将及び商人の船を肥前国名護屋に回送することを通知。
       詳細は安国寺恵瓊(「安国寺西堂」)・寺沢広高(「寺沢忠次郎」)に申し含め派遣。〔「毛利家文書」B‐877〕
  4月28日 羽柴秀吉、島津義弘へ諸将及び商人の船を肥前国名護屋に回送することを通知。
        詳細は安国寺恵瓊・寺沢広高に申し含め派遣。〔「島津家文書」@‐389〕
  4月28日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ諸将及び商人の船を肥前国名護屋に回送することを通知。
        詳細は安国寺恵瓊・寺沢広高に申し含め派遣。〔「鍋島家文書」‐36〕
  4月28日 羽柴秀吉、島津豊久・小早川隆景・松浦鎮信・有馬晴信・毛利輝元・加藤清正・長宗我部元親・福島正則・五島純玄・
       生駒親正・鍋島直茂・戸田勝隆・宇喜多秀家・毛利吉成・秋月種実・蜂須賀家政・来島通之・来島通総・黒田長政・島津義弘・
       伊東祐兵・小西行長・大村喜前・宗義智へ諸将及び商人の船を肥前国名護屋に回送することを通知。
       詳細は安国寺恵瓊・寺沢広高に申し含め派遣。〔「島津家文書」A‐953〕

 5月
  5月 2日 朝鮮出征軍、高麗の都を攻略。〔「紀州徳川家文書」、「鍋島家文書」‐37〕
  5月 3日 羽柴秀吉、小早川秀包へ出征中の奉公人が日本へ逃亡することを取り締まるよう命令。
        詳細は浅野長政・稲葉重通に伝達させる。〔「諸家単一文書」‐1091〕
  5月 6日 羽柴秀吉、肥前国名護屋より宰相(大政所侍女)へ朝鮮出兵初頭の状況を報告。〔「上野文書」〕
  5月 6日 羽柴秀吉、肥前国名護屋より北政所へ端午節句の贈物を謝し今後の抱負を述べる。
       また、大坂城中の火の用心を厳重にするよう命令。〔「徳川侯爵家文書」〕
  5月14日 大谷吉継(「刑部」)、蜂屋右京進・佐久間□左衛門・意□・宗策へ越前国敦賀津浜之町の立替について川舟兵三郎・
       川舟兵太郎・川舟次郎兵衛・3人の屋敷作事を指示。〔「道川三郎左衛門文書」〕
  5月16日 羽柴秀吉、加藤清正へ朝鮮国王に対する処遇と高麗都や地方の政治について指示。
       民衆の還住や兵粮の確保そして御座所普請などに関して命令。〔「紀州徳川家文書」〕
  5月16日 羽柴秀吉、京城(高麗都)の御座所普請を九州衆・宇喜多秀家に担当させる。
       釜山浦から京城までの城家が無い場所の諸泊普請は毛利輝元・織田秀信・蜂須賀家政・生駒親正・福島正則に担当させる。
       釜山浦から京城までの城家がある場所の諸泊普請は細川忠興・稲葉貞通・長宗我部元親・来島兄弟・戸田勝隆・中川秀政・
       因幡・伯耆・但馬衆に担当させる。〔「毛利家文書」B‐926〕
  5月16日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ高麗王都の攻略、高麗国王の追跡状況を通知。また羽柴秀吉自身の渡海に備え準備進行命令。
       都内の御座所普請命令と諸将の都外廻に野陣を張ること、「上様御馬廻」・「(上様)御番衆」は都内で町人還住を貫徹させる
       よう命令。詳細は加藤清正・小西行長に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐37〕
  5月 中旬 羽柴秀吉、朝鮮出征諸将に釜山浦から京城(高麗都)間の諸泊普請の配当を決定通知。〔「毛利家文書」B‐927〕
  5月17日 羽柴秀次(「正二位豊臣朝臣秀」)、「従一位」に昇進。〔「足守木下家文書」‐28〕
  5月18日 羽柴秀吉、聚楽第留守番の羽柴秀次(「関白殿」)へ全25ヶ条の三国処置を通達。〔「前田家文書」〕
  5月18日 羽柴秀吉、「高麗震旦御発向」にあたり音信として銀子10枚を肥前国名護屋まで贈ってきた京都大徳寺へ朱印状を以て謝意
       を表し、「高麗国王」は去5月2日に高麗「内裏」に放火して逃亡したこと、先勢を進軍させて羽柴秀吉自身の「御渡海」を
       実現し明朝四百余州」を早速「平均」させることは間近である旨を通知。詳細は稲葉重通(「稲葉兵庫頭」)に伝達させる。
       〔「大徳寺文書」@‐105〕
  5月24日 羽柴秀次、高麗釜山海へ着陣した毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ無事を喜び詳細にわたる報告を賞す。
       〔「毛利家文書」B‐997〕
  5月24日 羽柴秀次、小早川隆景(「羽柴筑前侍従」)の釜山着陣を喜び、京城(高麗都)攻略を激励。〔「毛利家文書」B‐985〕
  5月27日 羽柴秀次、「上意」による毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)の渡海を慰労し、先手の戦況報告を要求。
       〔「毛利家文書」B‐1005〕
  5月27日 羽柴秀次、吉川広家の朝鮮渡海を慰労し、早々の戦地平定を賞す。〔「吉川家文書」@‐821〕
  5月28日 羽柴秀吉、京城(高麗都)を目指して進撃中の毛利輝元(「安芸宰相」)へ羽柴秀吉「御朱印」を送付することを通知し、
       その戦功を慰労する。
       詳細は大谷吉継(「大谷刑部少輔」)・石田三成(「石田治部少輔」)に伝達させる。〔「毛利家文書」B‐906〕
  5月28日 羽柴秀吉、香宗我部親泰へ豊後国での造船につき領国内の船大工・大鋸引30丁の提出を命令。
       提出先については宮部継潤・山口正弘を指示。〔「土佐国古文叢」‐1270〕
  5月29日 羽柴秀吉、摂津国妙国寺へ高麗渡海の際の船頭に関する全3ヶ条の「条々」を下す。〔「妙国寺文書」〕

 6月
  6月 3日 羽柴秀吉、加藤清正・鍋島直茂へ「朝鮮国征伐」の激励と征明・征天竺・征南蛮計画を通達。〔「鍋島家文書」‐38〕
  6月 3日 羽柴秀吉、毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ朝鮮国出征諸将に対し部署を定めて大明国へ進撃すべきことを指示。
       羽柴秀吉自身の功徳を説いて出征諸将を励ませば、処女のごとき大明国を征伐するは容易であると鼓舞する。
       〔「毛利家文書」B‐903〕
  6月 3日 羽柴秀吉、毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ一日交代で先駆けすべき征明先手備と次備の編成内訳を通知。
       また日本国は「弓箭きびしき」国であり、大明国は「長袖国」であると表現する。
       詳細は石田三成(「石田治部少輔」)・増田長盛(「増田右衛門尉」)・大谷吉継(「大谷刑部少輔」)に伝達させる。
       〔「毛利家文書」B‐904〕
  6月 3日 羽柴秀吉、加藤清正・鍋島直茂へ「請取之代官所」が行うべき「物成」・「法度」・「扶持方」に関する処置を指示。
       さらに高麗王都〜大明国境間に「つなきの城々」の構築・在番を命令。〔「鍋島家文書」‐39〕
  6月 3日 羽柴秀吉、京城陥落の報告を受け毛利輝元へ更に明国進撃を指示。〔「毛利家文書」〕
  6月 7日 羽柴秀保(「豊臣秀保」)、権中納言・従三位に昇進。〔『公卿補任』〕
  6月 7日 羽柴秀勝(「豊臣秀勝」)、参議・従四位下に昇進。〔『公卿補任』〕
  6月 9日 聖護院道澄、生糸2斤を贈与してきた島津義久へ高麗平定を祝し、島津久保内儀の上洛を慰労。
       詳細は伊勢貞知(「友枕斎」)に伝達させる。〔「島津家文書」A‐681〕
  6月10日 小堀正次(「小堀新介」)・横浜良慶(「大蔵卿法印」)、大和国郡山へ羽柴秀長「入国」以来の「御停止」である「酒」
       および「市」に関する全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「春岳院文書」〕
  6月12日 羽柴秀吉、島津義久へ朝鮮国渡海に際し「白糸」30斤の贈答を謝す。詳細は石田正澄に伝達させる。
       〔「島津家文書」@‐362〕
  6月15日 羽柴秀吉、肥前国名護屋城に見廻祈祷を送付してきた泉涌寺へ朝鮮国が悉く平均し、明国との境界(「唐堺」)まで先勢を
       派遣した旨を通知。詳細は前田玄以から通知されている通り木下吉隆に伝達させる。〔「泉涌寺文書」〕
  6月17日 梅北国兼、戦死。〔『日本史人物生没年表』〕
  6月20日 羽柴秀吉(「大かう」)、女房「こや」(北政所侍女)へ自身の朝鮮渡海延期し肥前国名護屋城普請を命じたことを通知。
       〔「毛利家文書」B‐925〕
  6月20日 羽柴秀吉、山城国鞍馬寺へ大政所の病気本復祈願の奉加として1万石を寄進、大政所の延命を祈祷させる。
       〔「鞍馬寺文書」〕
  6月20日 羽柴秀吉、山城国清水寺へ大政所病気本復の奉加として1万石を寄進し、延命祈祷に専念させる。〔「成就院文書」〕
  6月28日 羽柴秀吉、摂津国有馬湯山の池坊へ湯治見舞いを謝し、高麗・大明国出征についての見通しを通知。〔「池坊旧蔵文書」〕
  6月28日 羽柴秀保(「豊臣秀保」)、権中納言を辞退。〔『公卿補任』〕

 7月
  7月 2日 羽柴秀吉、肥前国名護屋から加藤清正へ明国動座の準備や朝鮮占拠地経営について指示を与える。〔「紀州徳川家文書」〕
  7月 2日 西野道俊(「西野修理亮道俊」:小野寺義道家臣)、出羽国由利郡の岩屋朝盛(「岩屋能登守」)へ返書を送付し、去年の
       岩屋「孫太郎」(岩屋朝盛息子)の上洛と無事の下向、また羽柴秀吉「正印」の件は大谷吉継(「大刑少殿」)が「御文」にて
       通知してきたので参陣することになったことを通知。さらに肥前国名護屋在陣の小野寺義道(「義道」)が健在であることを
       通知。〔「岩屋文書」〕
  7月 4日 施薬院全宗、渡海中の深堀純賢(「鍋島左馬助」)へ羽柴秀吉に随行して肥前国名護屋へ下向した旨を報じ、戦功を賞す。
       また羽柴秀吉の来春渡海予定を告げ、留守居よりの献上品を謝す。〔「深堀家文書」‐390〕
  7月 7日 黒田長政(「黒田甲斐藤原朝臣長政」)、宇佐八幡宮へ高麗国出征の祈祷として太刀を奉納。〔「宇佐到津文書」‐448〕
  7月 9日 羽柴秀次、高麗京城陥落の祝儀を贈ってきた毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ長期在陣を慰労。
       〔「毛利家文書」B‐998〕
  7月10日 羽柴秀吉、島津義久へ梅北国兼一揆平定を通知。
       また島津征伐時の島津歳久の祁答院城籠城の罪を高麗出陣で赦免すること、島津義久に島津歳久家臣を誅戮すべきを命令。
       以上のことが不徹底な場合は「御検地之御奉行」は派遣しないことを通知する。事の詳細は細川藤孝方まで報告すべきを命令。
       〔「島津家文書」@‐363〕
  7月10日 羽柴秀俊(「豊臣秀俊」)、権中納言を辞退。〔『公卿補任』〕
  7月14日 羽柴秀次、清水寺・愛宕神社・鞍馬寺・八幡神社・北野神社・伊勢内宮・伊勢外宮・「たか」・春日大社・稲荷神社・
       住吉神社・祇園神社・下賀茂神社・上賀茂神社・高野山へ大政所病気本復の奉加として1000貫文を献納。
       〔『古文書類纂』「鞍馬寺文書」〕
  7月15日 羽柴秀吉、片桐貞隆へ兵粮改を宇喜多秀家に一任させるが兵粮は切手次第に配給すべきこと、先鋒部隊へは高麗都より奥への
       進撃命令を発したが今度増田長盛・石田三成・大谷吉継を始めとして指令を通達したこと、先鋒部隊16名に藤堂高虎・
       加藤嘉明・九鬼嘉隆・脇坂安治の4名を加勢させること、敵番船の成敗については羽柴秀勝(「岐阜宰相」)へ報告し
       藤堂高虎に相談することを怠らないよう命令。〔「片桐文書」〕
  7月21日 羽柴秀吉、毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ藤堂高虎(「藤堂佐渡守」)を渡海させたのでその指令の遵守および高麗国の
       所務に関する指示を与える。
       来春の羽柴秀吉「御渡海」までは諸事諸将の間で相談による裁許を行うべきことを通達。〔「毛利家文書」B‐888〕
  7月21日 施薬院全宗、深堀純賢(「鍋島左馬助」)へ羽柴秀吉の渡海が来年3月に延期された旨を通知。
       また羽柴秀吉への御樽進上を賞し、羽柴秀吉「御朱印」が発給された旨を通知。〔「深堀家文書」‐388〕
  7月22日 大政所(天瑞寺殿)、逝去。〔「毛利家文書」B‐1000〕
  7月22日 羽柴秀吉、大政所の危篤の報により名護屋より乗船し京都に向かう。
  7月26日 川端道喜(京都豪商)、没。〔『日本史人物生没年表』〕
  7月29日 羽柴秀吉、大坂城に帰城。
  7月 晦日 黒田孝高(如水)、鍋島直茂を通じ内々に高麗出陣を希望した龍造寺政家へその意趣を蜂須賀家政に伝達する旨を通知。
       〔「龍造寺家文書」‐255〕

 8月
  8月 4日 羽柴秀吉、金剛峯寺へ大政所(天瑞寺殿)追善のために剃髪寺(後の青厳寺)を建立。
       名代として聖護院道澄が高野山へ登山し、中村一氏・小出秀政に供奉させる。詳細は木食応其へ通達させる。
       〔「高野山文書」〕
  8月 6日 羽柴秀吉、羽柴秀次を名代とし大徳寺において大政所の葬儀を執行。
  8月 9日 羽柴秀吉、「加美丹黒船」へ長崎に着岸した「南蛮黒船」に対し非行を行った長崎津下代を成敗し、商売の安全を保証。
       詳細は黒田孝高・長束正家に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐24〕
  8月14日 羽柴秀吉、島津義久へ島津歳久一類成敗の首注文送付を賞し、事の次第は細川藤孝より連絡を受けるべきことを指示。
       詳細は木下吉隆・山中長俊に伝達させる。〔「島津家文書」@‐364〕
  8月14日 羽柴秀吉、島津歳久遺領を島津義久の蔵入とし、薩摩国は重ねて「御奉行」を派遣し検地を実施させることを通達。
       〔「島津家文書」@‐365〕
  8月14日 羽柴秀吉、島津義久・細川藤孝へ島津義久・島津義弘の蔵納分で近年沽却した土地を没収し御蔵入にすること、
       寺社領落の検地を実施して島津義久蔵入とすべきこと、島津家中の書代官算用を検査すべきを命令。
       〔「島津家文書」@‐366〕
  8月14日 羽柴秀吉、細川藤孝へ祁答院一類成敗の報告を賞し、梅北国兼一類残党成敗を肥前国名護屋で実行すべきを命令。
       また、薩摩国・薩摩国出水および日向国諸県郡の検地について肥前国名護屋へ戻った際に報告を受けること、
       島津義久知行沽却分を没収する羽柴秀吉「御朱印」を送付すること、島津家蔵納等の算用について、寺社領は「内検地」後に
       島津義久蔵納とすべきことを命令し、問い合わせは肥前国名護屋で受けることを通知。
       詳細は木下吉隆・山中長俊に伝達させる。〔「島津家文書」@‐367〕
  8月20日 羽柴秀吉、伏見に赴き隠居所の屋敷普請を命令。
  8月22日 羽柴秀次、吉川広家の報告に対して早速の戦勝を賞し、長期在陣を慰労。〔「吉川家文書」@‐822〕
  8月25日 羽柴秀吉、朝鮮在陣中の吉川広家へ増田長盛・石田三成・大谷吉継と藤堂高虎に詳細を含ませて派遣したので
       その言に従うよう指示。来春の渡海を予告。9月10日には大坂から肥前国名護屋に向け出発する予定を通知。
       詳細は山中長俊・木下吉隆に伝達させる。〔「吉川家文書」@‐743〕
  8月  日 羽柴秀次、美濃国赤坂岡山(安楽寺)へ京都・大坂〜肥前国名護屋までの継馬・継夫に関する掟書を下す。
       〔「安楽寺文書」‐1〕
    この頃 後陽成天皇、羽柴秀吉へ「且朝家の為め且天下のため」に渡海中止を促し勅使下向を通知。
       〔「後藤佐平所蔵文書」、『宸翰英華』図版‐261、『御在位六十年記念日本美術名宝展』図版‐85〕

 9月
  9月 2日 羽柴秀保(「豊臣秀保」)、権中納言を辞退。〔『公卿補任』〕
  9月 7日 羽柴秀吉、島津義弘へ「朝鮮王子」の身柄を確保出来なかったので、朝鮮在軍勢の半数に在番命令を発す。
       兵粮の管理についても指示を下す。〔「島津家文書」@‐424〕
  9月 8日 羽柴秀吉、楢崎元兼(「楢崎」)を弔使として派遣してきた毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ長期在陣を慰労し、近日中に
       羽柴秀吉自身の肥前国名護屋下向と来春の渡海予定を通知。
       詳細は施薬院全宗(「薬院」)・木下吉隆(「木下半介」)に伝達させる。〔「毛利家文書」B‐889〕
  9月 8日 羽柴秀次、出陣中の毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ長期にわたる朝鮮在陣を慰労。〔「毛利家文書」B‐999〕
  9月 8日 羽柴秀次、出陣中の吉川広家へ長期にわたる朝鮮在陣を慰労。〔「吉川家文書」@‐823〕
  9月 9日 後陽成天皇が今出川晴季・勧修寺晴豊・中山孝親・久我敦通の4名を派遣し羽柴秀吉の渡海を諌止しようとしたところ、
       羽柴秀吉は今出川晴季へ朝鮮渡海の決心は固い旨を通知し、後陽成天皇にもその旨を奏上するよう依頼。
       〔「足守木下家文書」‐54〕
  9月 9日 徳川秀忠(「源秀忠」)、権中納言・従三位に昇進。〔『公卿補任』〕
  9月 9日 豊臣秀勝(小吉、羽柴秀吉甥)、陣中で病没。〔『日本史人物生没年表』〕
  9月10日 羽柴秀次、「大政所」(天瑞寺殿:秀吉生母)の逝去に際し楢崎元兼(「楢崎源右衛門尉」)を弔使として派遣してきた
       毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ長期在陣を慰労。〔「毛利家文書」B‐1000〕
  9月10日 長宗我部元親、土佐国長岡郡八幡村八幡社の金灯籠を寄進。〔「土佐国蠧簡集脱漏」‐109〕
  9月18日 羽柴秀吉、禁裏に参内。
  9月22日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ「請取郡物主同一類」の捕獲を賞す。
       また、この年の「物成」半分は給与とし、残り半分は兵粮として蓄えるよう命令。
       さらに鍋島直茂の病状を見舞う。詳細は木下吉隆・山中長俊に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐40〕
  9月22日 羽柴秀吉、京都聚楽第において飯田覚兵衛・曽根平兵衛(加藤清正使者)の報告をうけ、会寧の加藤清正へ保護した
       朝鮮王子について詳細なる注意を指示、今後の予定を通知。詳細は木下吉隆・山中長俊に通達させる。〔「紀州徳川家文書」〕
  9月23日 羽柴秀吉、大坂城に帰城。
  9月24日 羽柴秀吉、安国寺恵瓊(「安国寺」)の報告をうけた小早川隆景(「隆景」)から毛利輝元が在陣中に病気になったという
       情報を知り、毛利輝元(「安芸宰相」)へ曲直瀬正紹(「道三法印」)を診療のため派遣し、帰国療養を命令。
       また10月1日に肥前国名護屋へ下向することを通知。
       詳細は木下吉隆(「木下半介」)に伝達させる。〔「毛利家文書」B‐890〕
  9月  ? 小西隆佐、京都において病没(異説1593年)。〔『日本史人物生没年表』〕

10月
 10月 1日 羽柴秀吉、肥前国名護屋城に下向するため船で大坂を出陣、兵庫に宿泊。〔「兼見卿記」〕
 10月26日 羽柴秀吉、子息の毛利秀元(「息右京大夫」)の「昇殿」を報告してきた毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ贈物を謝し、
       今度の上洛に際し往還諸泊の造作は立派であったことを通知。
       詳細は黒田孝高(「黒田勘解由」)に伝達させる。〔「毛利家文書」B‐939〕
 10月26日 羽柴秀次、有節瑞保(鹿苑院僧録)へ来月29日の摂津国有馬湯治に扈従するよう命令。〔『鹿苑日録』〕
 10月28日 羽柴秀吉、朝鮮在陣中の吉川広家からの高麗鷹を謝し長期在陣を慰労。詳細を黒田孝高に伝達させる。
       〔「吉川家文書」@‐744〕
 10月28日 羽柴秀次、摂津国有馬への湯治を公表。〔『兼見卿記』〕
 10月29日 羽柴秀次、摂津国有馬へ湯治に向かう途中で本願寺教如(「新門跡」)の茶会に参会する。
       〔『言経卿記』『鹿苑日録』〕
 10月30日 羽柴秀吉、神谷宗湛(筑前国博多の豪商)の茶会に招待される。
 10月 晦日 羽柴秀次、摂津国有馬湯山に到着。京都から湯山までの道中地を掃き白砂を敷いた旅路であった。〔『鹿苑日録』〕

11月
 11月 5日 羽柴秀吉、島津義久へ台所方が不十分であることにより大隅・薩摩両国の寺社領を没収し島津義久蔵入とすべきこと、
       細川藤孝を逗留させること、来年は「御検地」を実施すべきことを通知する。
       また大船建造用の用材を細川藤孝に相談して調達するよう命令。詳細は石田正澄・長束正家に伝達させる。
       〔「島津家文書」@‐368〕
 11月 6日 羽柴秀吉、香宗我部親泰へ大船造作用の檜材木供出および肥前国名護屋の寺沢広高に渡すよう命令。
       〔「土佐国古文叢」‐1021〕
 11月 7日 羽柴秀吉、香宗我部親泰へ「かゝす」15筋を早急に送付するよう命令。詳細は寺沢広高(「正成」)に伝達させる。
       〔「土佐国古文叢」‐1271〕
 11月 8日 足利義昭、真木島昭光に命じて摂津国有馬湯治中の羽柴秀次への慰問状を発す。〔『鹿苑日録』文禄二年紙背文書〕
 11月 9日 青蓮院尊朝法親王、摂津国有馬湯治中の羽柴秀次への慰問状を発す。〔「集古文書」〕
 11月 9日 佐野綱正(「佐野十右衛門尉」)、摂津国清澄寺へ摂津国有馬湯治中の羽柴秀次(「関白様」)から見舞い御礼の
       羽柴秀次「御朱印」が発給された旨を通知。〔「清澄寺文書」〕
 11月10日 羽柴秀吉、朝鮮在陣中の吉川広家へ兵粮に関して指示、来春3月に自身が渡海するため戦地を平定するよう命令。
       また兵粮輸送の船・船子について休養をとらせるなどことを命令。詳細を熊谷直盛・垣見一直に伝達させる。
       〔「吉川家文書」@‐745〕
 11月10日 羽柴秀吉、朝鮮在陣中の島津義弘へ兵粮に関して指示、来春3月に自身が渡海するため戦地を平定するよう命令。
       また兵粮輸送の船・船子について休養をとらせることなどを命令。詳細を熊谷直盛・垣見一直に伝達させる。
       〔「島津家文書」@‐415〕
 11月10日 羽柴秀吉、朝鮮在陣中の加藤清正へ来春3月の渡海を予定し一揆を「撫切」にすること、兵粮・加子についての指示を命令し
       来春は神に誓って必ず渡海する決意を述べる。詳細は熊谷直盛・垣見一直に伝達させる。〔「紀州徳川家文書」〕
 11月10日 羽柴秀吉、朝鮮在陣中の加藤嘉明へ来春3月の渡海を予定し一揆を「撫切」にすること、兵粮・加子・鉄炮・弾薬についての
       指示および指令伝達網の整備を命令。詳細は熊谷直盛・垣見一直に伝達させる。〔「早大豊太閤文書」‐912〕
 11月10日 羽柴秀吉、朝鮮在陣中の鍋島直茂へ来春3月の渡海を予定し一揆を「撫切」にすること、兵粮・加子・鉄炮・弾薬についての
       指示および指令伝達網の整備を命令。詳細は熊谷直盛・垣見一直に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐41〕
 11月10日 羽柴秀吉、朝鮮在陣中の片桐貞隆へ熊谷直盛・垣見一直を派遣したこと、来春3月には羽柴秀吉自身の渡海を予定している
       ので一揆原の制圧を徹底することなどの指示を通達。詳細は熊谷直盛・垣見一直に伝達させる。〔「片桐文書」〕
 11月11日 羽柴秀次、宮部継潤の湯治見舞いに応える。〔「宮部文書」坤〕
 11月14日 羽柴秀次、摂津国有馬から帰京。〔『言経卿記』〕
 11月16日 山科言経、聚楽亭の羽柴秀次を訪問し対面する。〔『言経卿記』〕
 11月21日 羽柴秀次、羽柴秀吉(「太閤御方」)の懇意により「侍従」成した毛利秀元(「息」)の祝儀を贈ってきた
       毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ謝意を表す。
       また、詳細は黒田孝高(「黒田勘解由」)に伝達させる。〔「毛利家文書」B‐1001〕
 11月24日 本願寺顕如、没。〔『日本史人物生没年表』〕
 11月29日 羽柴秀吉、毛利輝元(「安芸宰相」)へ「朝鮮人」被虜中より縫官女(「ぬいくわん手之聞候女」)の送致を命令。
       〔「毛利家文書」B‐899〕

12月
 12月 2日 羽柴秀吉、島津義久蔵入分については細川藤孝の意見を尊重すべきこと、代官は「前法度」以下、上方の如く任務遂行すべき
       こと、造船用材の件も詳細を把握している細川藤孝の指示に従うべきことを命令。詳細は長束正家・石田正澄に伝達させる。
       〔「島津家文書」@‐372〕
 12月 5日 羽柴秀吉、林就長(「林肥前守」)の報告を受け毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ曲直瀬正紹(「道三法印」)の治療に
       よって病状回復したことを喜び、来春の羽柴秀吉自身が渡海する際には毛利秀元(「安芸侍従」)を肥前国名護屋に在陣させる
       こと、安芸国広島において大船建造の事情を林就長(「林」)に説明させる。
       詳細は施薬院全宗(「施薬院」)・長束大蔵大輔(「長束大蔵大輔」)・木下吉隆(「木下半介」)に伝達させる。
       〔「毛利家文書」B‐921〕
 12月 6日 羽柴秀吉、毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ単身で「番所」見回りをしていた中川秀政(「中川右衛門大夫」)が待ち伏せに
       遭遇し戦死したことについて、弟の中川秀成(「小兵衛」)に跡目を継がせる旨を通知。
       今後は朝鮮出征諸将の軽挙を戒め、来春3月に羽柴秀吉自身が渡海する予定を通達。〔「毛利家文書」B‐922〕
 12月10日 羽柴秀吉、百々三郎左衛門尉・三輪五右衛門尉・岐阜衆・別所豊治・稲葉貞通・斎村広道・明石守延・木下重堅・南条元続・
       宮部長熙・戸田勝隆・長宗我部元親・蜂須賀家政・生駒親正・福島正則・中川秀成・宇喜多秀家・増田長盛・石田三成・
       大谷吉継へ鍋島直茂陣所まで人足50人・荷物の運送を命令。〔「鍋島家文書」‐42〕
 12月10日 長束正家、百々三郎左衛門尉・三輪五右衛門尉・岐阜衆・別所豊治・稲葉貞通・斎村広道・明石守延・木下重堅・南条元続・
       宮部長熙・戸田勝隆・長宗我部元親・蜂須賀家政・生駒親正・福島正則・中川秀成・宇喜多秀家・増田長盛・石田三成・
       大谷吉継へ羽柴秀吉が発した鍋島直茂陣所までの人足50人・荷物運送命令についての廻文を発す。〔「鍋島家文書」‐43〕
 12月11日 羽柴秀吉、肥前国名護屋から在京中の前田玄以へ来春早々伏見城普請の大工を召し連れ名護屋へ下向するよう命令。
       伏見城の趣向は千利休好みにする旨を指示。〔「保阪文書」〕
 12月11日 羽柴秀吉、上原二郎右衛門へ伏見城普請に関する指図を前田玄以へ命令したことを通知。
       来年1月15日以内に肥前国名護屋へ下向するよう命令。〔「広海文書」〕
 12月14日 羽柴秀吉、龍造寺政家へ高麗渡海命令を発す。詳細は浅野長政・石田正澄・木下吉隆に伝達させる。
       〔「龍造寺家文書」‐200〕
 12月15日 「九条家雑掌」となっていた朽木藤綱(「朽木刑部少輔」)・岡善介、信濃兵部丞へ九条兼孝(「九条殿」)への
       全1412石分の「当知行御朱印分之目録」を出し、前田玄以(「民部卿法印」)へ報告すべきことを通知。
       〔「九条家文書」D‐1516〕
 12月20日 羽柴秀吉、大坂城の北政所へ朝夕茶湯をしていることを報告。〔「石母田文書」〕
 12月26日 羽柴秀吉、肥前国名護屋から側室の加賀殿(前田摩阿姫)へ正月衣服の贈物を感謝し、来春朝鮮へ渡海する決心を報告。
       〔「前田男爵家文書」〕
 12月27日 羽柴秀吉、広家留守居中へ広家妻子および毛利輝元女房衆の在洛を命じているので、留守居衆の妻子も同様に上洛を命令。
       詳細は浅野長政・長束正家・石田正澄・寺沢広高に伝達させる。〔「吉川家文書」@‐785〕
 12月29日 浅野長政・寺沢広高・石田正澄・木下吉隆・長束正家、吉川広家留守居中へ妻子の上洛命令を通達。
       〔「吉川家文書」@‐786〕
 12月 晦日 南部信直(「信直」)、「釼帯」へ宛て津軽為信(「右京」)が肥前国名護屋城に於いて秋田氏(「檜山殿」)との和解を
       望み徳川家康(「家康」)に斡旋を依頼したこと、前田利家(「筑前殿」)と徳川家康(「家康」)が肥前国名護屋へ到来した
       際に依頼したことなどを通知。〔『宝翰類聚』坤〕


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