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        【 天下統一期年譜 1591年 】

天正19(1591)年

 1月
  1月 3日 羽柴秀吉、聚楽第において諸大名の参賀を受ける。
  1月12日 羽柴秀吉、禁裏に参内し歳首を賀す。
  1月15日 羽柴秀吉、毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ中国地方より方広寺「大仏殿材木」1322本を徴発し尼崎に回送すべきを命令。
       〔「毛利家文書」B‐936〕
  1月17日 羽柴秀吉、戸沢光盛(「戸沢九郎」)へ出羽国仙北内の北浦郡44350石を宛行う。〔「戸沢文書」〕
  1月17日 羽柴秀吉、「六郷弾正」へ出羽国仙北中郡4518石を「宛行」うので「領知」とすべき事を通達。〔「高橋文書」〕
  1月17日 羽柴秀吉、小野寺義道(「小野寺孫十郎」)へ出羽国仙北上浦郡31600石を「宛行」い「領知」とすべきことを通達。
       〔「小野寺文書」〕
  1月17日 羽柴秀吉、秋田実季(「湊安藤太郎」)へ出羽国檜山郡・秋田郡52440石を「宛行」うので「領知」とすべき事を通達。
       〔「秋田家文書」〕
  1月17日 羽柴秀吉、秋田実季(「湊安藤太郎」)へ出羽国秋田郡内26245石の蔵入「御代官」任命を通達。〔「秋田家文書」〕
  1月18日 羽柴秀吉、「黄鷹」を献上した小野寺義道(「小野寺孫十郎」)へ大谷吉継(「大谷刑部少輔」)を介して謝意を伝達。
       〔「小野寺文書」〕
  1月19日 羽柴秀吉、大友義統(「羽柴豊後侍従」)へ豊後国内より方広寺「大仏殿材木」を6本尼崎まで回送すべきを命令。
       〔「大友記録」‐25〕
  1月22日 羽柴秀長、大和国郡山城において死去。〔「多聞院日記」〕
  1月30日 葛西晴信(「晴信」)、「石川丹州」へ羽柴秀吉(「関白秀吉公」)が相模国小田原城の「北条父子」を「御誅罰」した際に
       遅参したため「領知」を召し上げられたが、浅野長政(「浅野弾正」)からの連絡によれば「小田原在陣」時に延引していたが
       間もなく小西行長(「小西摂津守」)を介して問い合わせたところ本領回復の「内意」を得られたということを通知。
       〔「加瀬谷文書」〕

閏1月
 閏1月 1日 伊達政宗(「政宗」)、羽柴秀吉「御朱印」によりこの日陸奥国下関へ到着。〔『伊達治家記録』〕
 閏1月 1日 伊達政宗(「政宗」)、葛西晴信(「葛西殿」)へ去1月19日に羽柴秀吉(「上様」)から羽柴秀吉「御朱印」が発給され
       陸奥国奧郡の「一揆者共」の「討果」を停止し上洛するようにとの命令であったため、この日下関まで到着したことを通知。
       また羽柴秀吉「御朱印」は「種々御懇之御文言」であったので安心すること、あとは「京都」より音信を発することを通知。
       〔『伊達治家記録』〕
 閏1月 4日 羽柴秀次、大友義統へ奥州出馬に際しての見舞いを謝す。〔「大友家文書録」B‐2209〕
 閏1月 9日 大友義統、城後三河守へ不日出陣について油断無く軍備を調えることは「国家」のためであると説く。〔「田北憲明文書」‐19〕
 閏1月11日 羽柴秀吉、京都を発ち尾張国清洲に下向し放鷹。
 閏1月16日 羽柴秀吉、徳永寿昌へ美濃国不破郡内荒尾村815石5斗を無役として加増扶助。〔「田中與一氏所蔵文書」‐1〕
 閏1月17日 羽柴秀吉、津田小掃部へ美濃国内に領知を扶助。〔「土佐国蠧簡集竹頭」‐84〕
 閏1月27日 古田重勝、大澤与右衛門尉へ紙の進上について指示を下す。〔「大澤文書」‐1〕

 2月
  2月 2日 羽柴秀吉、阿子田家久へ美濃国池田郡黒坪村342石6斗4升、堀村165石5斗8升を宛行う。〔「阿子田文書」‐6〕
  2月  3日 羽柴秀吉、帰京。
  2月 8日 鮭延愛綱(「鮭延典膳愛綱」:最上義光家臣)、出羽国在番中の色部長実(「色部殿」:上杉景勝家臣)へ「京都」に滞在
       する最上義光(「山形出羽守」)より出羽国仙北3郡のうち上浦郡を拝領する羽柴秀吉「御朱印」を下された旨の通知を受けた
       ことを知らせ、この旨を早々に仙北上浦郡の諸士へ伝達することを依頼する。また最上義光(「義光」)は近々下向する予定を
       告げ、最上義光の出羽国仙北上浦郡拝領は「公儀」の決定であることを強調す。〔「色部文書」〕
  2月11日 羽柴秀次、権大納言・正二位に昇進。〔『公卿補任』〕
  2月13日 色部長実(「色部長実」:上杉景勝家臣)、鮭延愛綱(「鮭延殿」:最上義光家臣)へ旧冬以来の在番慰労を謝し、「京都」
       に滞在する最上義光(「義光」)より鮭延愛綱のもとへ出羽国仙北上浦郡を下賜する羽柴秀吉「御朱印」を拝領したとのこと、
       当地に於ける鮭延愛綱「御仕置」を一旦は了承する。
       しかし「京都」の「御奉行衆」からは出羽国仙北上浦郡を最上義光(「山形」)へ下すといった連絡が無いこと、
       更に上杉景勝(「景勝」)からもその旨の連絡を受けていないこと、先日の大谷吉継(「大谷殿」)からの「御書状」には
       出羽国仙北上浦郡は小野寺義道(「小野寺殿」)へ下されることになったとの連絡を受けていることなどを挙げ、これらは
       「天下之御事」であるので違儀があってはならないことで、さしあたり最上側からの申し入れを了承できない旨を通知。
       〔「色部文書」〕
  2月17日 直江兼続(「直江兼続」)、出羽国に於いて長期在番中の色部長実(「色部修理大夫」)を慰労し、大谷吉継(「大谷殿」)
       へその旨につき一札を送付すること、小野寺義道(「小野寺方」)や小野寺康道(「五郎」)へ早々に帰陣すること、
       詳細は大谷吉継(「大谷殿」)の指示に応じて「御仕置」すべきことを通達。〔「色部文書」〕
  2月26日 京都において聚楽第および羽柴秀吉(「木の下のさる関白」)とその政策を批判する落書10首がなされる。
       長谷川忠実(「長谷河忠実」)、これを書き取る。〔「特殊文書」‐20(5)〕
  2月26日 氏家守棟(「氏家尾張守守棟」:最上義光家臣)、初めて音信を通ずる色部長実(「色部殿」:上杉景勝家臣)へ旧冬以来の
       出羽国仙北郡内に於ける「御仕置」を慰労し、羽柴秀吉(「殿下様」)より出羽国仙北上浦郡を拝領する羽柴秀吉「正印」が
       下されたことに触れ、この旨は鮭延愛綱(「鮭典」)より「内意」として伝達され、そのため出羽国仙北上浦郡の地下百姓共は
       出羽国横手へ移動したことの既存を問う。また以前より還住を通達しているが、この旨は小野寺氏「横手留守居之者」達へも
       通達すべきであること、詳細は鮭延愛綱(「鮭典」)より伝達することを通知。〔「色部文書」〕
  2月28日 羽柴秀吉、千利休に自害を命令。〔「晴豊記」〕
  2月28日 浅野長政の重臣である後藤吉宗(「後藤小平次吉宗」)・福井忠重(「福井勘大夫」)・伴資綱(「伴喜左衛門尉」)・
       浅野忠政(「浅野勝左衛門尉」)、初めて音信を通ず色部長実(「色辺殿」)へ浅野長政(「浅野弾正」)の「代官」として
       去年の稗貫方面に残留したところ、「一揆」蜂起が発生し南部信直(「南部殿」)の出馬により一揆が撃退されたこと、
       そのまま陸奥国三戸まで同行したところ、陸奥国三戸郡の「侍衆」に「逆意」があり糠部地方が「錯乱」状態となったこと、
       南部信直(「南部殿」)が羽柴秀吉(「天下」)へ「御奉公」していることと「当地之衆」が「京儀」を毛嫌いしていることが
       原因であること、浅野長政(「弾正」)は陸奥国安達郡二本松にて越年しており当春にも音信してくるであろうこと、
       これにより「上衆」が派遣され「御仕置」が実行されること、「上」より加勢が無ければ南部信直(「南部殿」)の「御身上」
       は「御難儀姿」となるので「内々」にその分別を諒承しておくことを通達。〔「色部文書」〕
  2月28日 南部信直(「南部大膳大夫信直」)、初めて音信を通ずる色部長実(「色部次郎兵衛」:上杉景勝家臣)へ旧冬以来の在陣を
       慰労し、南部領内で「郡中一揆」が蜂起したため音信が延引したことを謝す。
       またこの春にも「同心共」2・3名の「逆意」が発生し、奔走してはいるものの「京都之御人数」が派遣されることは必定で
       あるという見通しなどを通知。〔「上杉家文書」〕
  2月28日 鮭延愛綱(「延鮭愛綱」:最上義光家臣)、色部長実(「色部殿」:上杉景勝家臣)へ最上義光(「義光」)の下向は未に
       実現していないが、最上義光への出羽国仙北上浦郡拝領の件は「ェ公儀自在相似」であるので何度も通達していること、
       出羽国仙北「上浦之面々」が全て出羽国横手領分へ移動してしまったことは聊かも承知できないこと、これらの件で
       「山形留守居」の氏家守棟(「氏家尾張守」)より飛脚が到来したので鮭延愛綱「一書」を添えて出羽国仙北口の「御仕置」を
       通知すること、詳細は氏家守棟(「氏尾」)からの「書札」にあることを通知。〔「色部文書」〕
  2月 晦日 色部長実(「色部」:上杉景勝家臣)、鮭延愛綱(「鮭延殿」:最上義光家臣)へ「脚力」の到来および鮭延愛綱「御札」を
       披見したことに触れ、以前に出羽国仙北上浦郡を最上義光(「義光」)が拝領することになったという件について、未にその
       「伝説」が無いこと、その上出羽国仙北上浦郡「地下百姓等」が出羽国横手領へ「引退」してしまったことに触れ、以前の如く
       還住命令(「居住」)を下すこと、色部長実が「当座在番之体」であるので出羽国「横手留守居之面々衆」へ確実にその旨を
       通達するので安心すること、詳細は山形留守居の氏家守棟(「氏尾」)へも伝達することを通知。〔「色部文書」〕
  2月 晦日 色部長実(上杉景勝家臣)、氏家守棟(「氏家殿」:最上義光家臣)へ早速の「脚力」到来を謝し、氏家守棟からの
       「御紙面」の内容が上杉側へ通達されていないことは「心痛之至」であること、最上側より「内々」の伝達が旧冬より
       出羽国仙北上浦郡の「仕置」として在番している色部長実のもとへ届けられているが、その様な件は「万端無案内」であること
       羽柴秀吉(「天下様」)より最上側へ出羽国仙北上浦郡を下賜する旨の羽柴秀吉「御正印」を拝領したということであるが、
       かねてより鮭延愛綱(「鮭典」)からも通知を受けているけれども、色部長実の元にその様な情報が入ってこないので了承し
       難い旨を通知。
       また出羽国仙北上浦郡「地下百姓」たちが出羽国横手「私領中」へ「引退」した事は「不審」であるが、この日に最上側が既に
       従前の如く「居住」すべきことを通達したことを了承し、色部長実は「当座在番」であるので出羽国「横手留守居之面々」へも
       堅実な指示を下すこと、詳細は鮭延愛綱(「鮭典」)より伝達されることを通知。〔「色部文書」〕

 3月
  3月 5日 南部信直(「大膳大夫信直」)、織笠左京助へ九戸政実(「九戸修理助」)の「心替」および「籠城」について、
       羽柴秀吉(「関白秀吉公」)に言上したところ「御征罰」として蒲生氏郷(「蒲生飛騨守」)・浅野長政(「浅野弾正少弼」)
       が派遣され、陸奥国九戸城に来襲することになったことを通達。〔『伝疑小録』〕
  3月 8日 伊達政宗(「政宗」)、伊達実元(「五郎殿」)へ全4ヶ条の指示を下す。
       その内容は、伊達政宗の下向は今月中になるか不定であり、徳川家康(「家康」)も近日下向することになっているが、
       徳川家康「知行分」の件で「御暇」が遅延していること、「葛西・大崎仕置」命令を受けて登米名生の「番」を義務付けられ
       「窮屈」であること、詳細は留守政景(「雪斎」)が下向するので相談し、伊達政宗下向以前に調えておくこと、
       「作毛」については浅野長政(「浅弾」)に相談すること、年来入魂の富沢直綱(「富沢日向守」)の帰城が決定したが、
       葛西・大崎「仕置」は羽柴秀吉(「殿下」)より伊達政宗(「政宗」)に命令が下されたことを伝達するよう命令。
       〔『伊達治家記録』〕
  3月 8日 伊達政宗(「政宗」)、伊達実元(「五郎殿」)へ富沢直綱(「富沢日向守」)の帰城決定のこと、葛西・大崎「仕置」に
       ついて羽柴秀吉(「殿下」)から伊達政宗(「政宗」)が命令を受けたことを年来入魂の富沢直綱(「富沢」)へ伝達するよう
       指示。〔「葛西文書」〕
  3月11日 大谷吉継(「吉継」)、出羽国仙北表に長期在番中の色部長実(「色部修理大夫」:上杉景勝家臣)を慰労し、最上領国への
       帰国を満足していること、上杉景勝(「景勝」)の「御前」に出仕すべきことおよび在番中に変事の無かったことを祝し、
       いずれ対面して談合をすることを通知。〔「色部文書」〕
  3月13日 羽柴秀吉、毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ120万石を宛行う。〔「毛利家文書」B‐956〕
  3月13日 羽柴秀吉、毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ毛利氏知行高目録を送付。〔「毛利家文書」B‐957〕
  3月13日 羽柴秀吉、毛利輝元へ毛利氏知行高目録を送付。〔「吉川家文書」@‐120〕
  3月14日 黒田孝高、吉川広家の知行について斡旋し、富田城に居する許可を伝達。〔「吉川家文書」@‐121〕
  3月14日 黒田孝高、香川春継へ吉川広家が富田城を居城とすることについて羽柴秀吉へ取成したことを通知。
       吉川氏の経済策についても指南。〔「吉川家文書」@‐695〕
  3月17日 浅野長政重臣の浅野忠政(「浅野勝左衛門尉忠政」)・後藤吉宗(「後藤小平次吉宗」)・伴資綱(「伴喜左衛門尉資綱」)、
       色部長実(「色部殿」)へ南部信直(「南部殿」)の「御家来」中の九戸政実(「九戸」)・櫛引らが「逆心」し油断ならない
       状態であること、陸奥国三戸郡の諸侍・下々の者共は「京儀をきらい」という状況であるので「上勢」派遣延引に於いては
       「一揆悉蜂起」してしまうと判断し早急に「御人数」派遣を要請しているので上方「御人数」が到着次第に色部長実も早々に
       「御馳走」するよう要請。また陸奥国三戸郡の「諸侍中一揆」は「京勢」が下向するという風聞により活動を見合わせている
       ことなども通知。〔「色部文書」〕
  3月17日 南部信直(「南部大膳大夫信直」)、色部長実(「色部殿」)へ陸奥国三戸郡の侍・百姓共が「京儀」を嫌っておるので
       早々に「上之御人数」が派遣されることなどを通知。〔「色部文書」〕

 4月
  4月14日 浅野長政(「浅野弾正少弼長吉」)、「東殿」へ「九戸・櫛引逆心」ひいては「奥州一篇」への対処を示し、さらに
       南部信直(「南部大膳大夫殿」)に対しての「馳走」を賞す。また蒲生氏郷(「羽柴忠三郎殿」)が伊達政宗(「政宗」)の
       上洛を促し「仕合能」き状態にして近々下国することになったこと、その際の軍勢下向が決定し、津軽口および仙北口へ
       「北国御人数」が出撃し、葛西・大崎方面へは徳川家康(「家康」)・羽柴秀次(「中納言殿」)が出撃することになったこと
       を通知。
       そして南部信直(「南部殿」)への「御馳走」を督促し、忠節の場合は南部信直(「南部殿」)へ断ってから扶持を加える
       ようにすること(被官化)を通達。〔「東野文書」〕
  4月20日 津田宗及、没。〔『日本史人物生没年表』〕
  4月  日 羽柴秀勝(小吉:秀吉甥)、美濃国本巣郡某町へ渡船を立ち置く際には先判に任せ諸役免除を安堵。〔「馬淵文書」‐4〕

 5月
  5月 4日 羽柴秀吉、津田小掃部へ伊勢国内に領知の加増・扶助を行う。〔「土佐国蠧簡集竹頭」‐85〕
  5月14日 毛利輝元、吉川広家へ太閤検地後の広家知行は8万石であることを通知。
       また、在所付については小早川隆景と相談するよう指示。〔「吉川家文書」@‐696〕
  5月18日 南部信直(「信直」)、家臣の「野田」某へ羽柴秀吉(「ハしハ」)より音信が到来し浅野長政(「弾正殿」)の「御先手」
       として伊達政宗(「伊達殿」)が陸奥国大崎へ下向すること、「南口さハき以之外」という状態であることに触れ、後日確実な
       情報を伝達する旨を通知。〔「川嶋文書」〕
  5月24日 前田利家、越前国敦賀の高島屋伝右衛門へ能登国・加賀国・越中国より越前国敦賀へ回送される米船は高島屋へ米を届け、
       その上で裁許を受けるべき旨を通達。〔「小宮山伝右衛門文書」〕
  5月28日 南部信直、上洛す。〔「川嶋文書」〕

 6月
  6月 1日 羽柴秀吉、肥前国長崎津へ全3ヶ条の「定」を下す。
       日本人同士の喧嘩・刃傷沙汰と異国人との争論発生に際は日本人を処罰すること、売買物の取引に関する規定を決定。
       〔「鍋島家文書」‐20〕
  6月 6日 小野寺茂道(「西馬音内茂道」:出羽国雄勝郡西馬音内城主)、直江兼続(「直江殿」:上杉景勝家臣)へ出羽国庄内での
       「藤島」一揆を「御静謐」し「諸口之仕置」を実行していることを祝す。また「京都」での種々の懇切および下向時の人馬調達
       の労、そして上杉「御分国」の通過についての芳恩と出羽国横手の小野寺氏への懇意を謝す。〔「秋田藩家蔵文書」三二〕
  6月 9日 南部信直、羽柴秀吉「御前」へ召し出され鷹13居・馬2頭・太刀を進上。〔「川嶋文書」〕
  6月14日 伊達政宗、「在所」を出撃し陸奥国「大崎洞」へ着陣。〔『伊達治家記録』〕
  6月19日 伊達政宗、陸奥国大崎宮崎城の攻撃を開始。〔『伊達治家記録』〕
  6月20日 羽柴秀吉、津軽為信(「南部右京亮」)に対して陸奥国奧郡「御仕置」を実行するために徳川家康(「江戸大納言」)・
       羽柴秀次(「尾張中納言」)・上杉景勝(「越後宰相」)等の軍勢を派遣し南部家中「逆意族」の「成敗」させることにした
       ので大谷吉継(「大谷刑部少輔」)の「申次第」に軍事行動に従事することを命令。
       〔「国立国文学研究資料館史料館津軽家文書」〕
  6月20日 羽柴秀吉、伊達政宗(「羽柴伊達侍従」)へ陸奥国奧郡「御仕置」を実行するために徳川家康(「江戸大納言」)・
       羽柴秀次(「尾張中納言」)・上杉景勝(「越後宰相中将」)等の軍勢を派遣するにあたり、「御置目」の通り何れの城へも
       「留守居」として軍勢を配備すること、伊達政宗「分領中」の二本松筋より羽柴秀次(「中納言」)が、最上筋より
       大谷吉継(「大谷刑部少輔」)が、相馬筋より石田三成(「石田治部少輔」)を進軍させるので、これらの筋沿いの城を
       明け渡し「上方人数」を入れるよう命令。また伊達政宗の件は「一書」に従って任務遂行するよう指示を下す。
       〔「伊達家文書」〕
  6月20日 羽柴秀吉、上杉景勝軍へ全5ヶ条の「定」を下す。〔「上杉家文書」〕
  6月20日 羽柴秀吉、「奥州奧郡為御仕置被差遣御人数道行之次第」を発す。〔「上杉家文書」〕
  6月20日 羽柴秀吉、小野寺義道(「小野寺孫十郎」)へ陸奥国奧郡の「御仕置」として羽柴秀次(「尾張中納言」)・
       徳川家康(「江戸大納言」)・上杉景勝(「越前宰相」)らが軍勢を率いて派遣されるので、大谷吉継(「大谷刑部少輔」)の
       指示に従って馳走することを命令。〔「山内文書」〕
  6月20日 羽柴秀吉、秋田実季(「秋田安藤太郎」)へ陸奥国奧郡の「御仕置」として羽柴秀次(「尾張中納言」)・
       徳川家康(「江戸大納言」)・上杉景勝(「越前宰相」)らが軍勢を率いて派遣されるので、大谷吉継(「大谷刑部少輔」)の
       指示に従って馳走することを命令。〔「秋田家文書」〕
  6月20日 羽柴秀次(「秀次」)、津軽為信(「右京亮」)へ陸奥国「南部為仕置」して徳川家康(「江戸中納言」)・
       羽柴秀次(「尾張中納言」)・上杉景勝(「越前宰相」)ら「御人数」が派遣されることになったこと、「南部家中企逆意族」
       に「成敗」を加えることについては大谷吉継(「大谷刑部少輔」)の指示に従って軍事行動を起こすことを通達。
       〔『津軽史』〕
  6月24日 伊達政宗、陸奥国大崎宮崎城を攻囲。〔『伊達治家記録』〕
  6月25日 伊達政宗、陸奥国大崎宮崎城を攻略し数百人を討ち取る。〔『伊達治家記録』〕
  6月26日 徳川家康(「家康」)、南部信直(「南部大膳大夫」)へ去年の音信と進上された「大鷹」3居の自愛の様に触れ、詳細を
       阿部正勝(「阿部伊与守」)に伝達させる。〔『南部故実』〕
  6月27日 南部信直(「信直」)、家臣の「野田」某へ南部信直が上洛し羽柴秀吉に謁見した時の様子、羽柴秀次(「中納言様」)の
       下向および早々に伊達政宗(「伊達」)が陸奥国大崎を攻撃したこと、陸奥国佐沼城が攻撃中であること、さらには
       羽柴秀吉(「上様」)が「御機嫌之体」であることなどを通知。〔「川嶋文書」〕
  6月28日 伊達政宗、陸奥国大崎宮崎城で掃討作戦を完了。〔『伊達治家記録』〕

 7月
  7月 1日 伊達政宗、陸奥国大崎佐沼城を攻囲。〔『伊達治家記録』〕
  7月 1日 伊達政宗、「遠佐」へ最上義光(「最上」)・伊達の「無事」は羽柴秀吉(「うへさま」)の「御意」にて実現したもので
       あることなどを通知。〔「遠藤文書」〕、
  7月 3日 伊達政宗、この寅刻に陸奥国大崎佐沼城を攻略し、城主兄弟をはじめ「究意之者共」500名を討ち捕らえ、2000余人を
       「刎首」、女子供まで「撫切」に処す。〔『伊達治家記録』〕
  7月 5日 羽柴秀吉、「土民・百姓」に対する「年具」について、全3ヶ条の「札」を下す。〔『文書集』〕
  7月 5日 羽柴秀次、陸奥国平泉中尊寺へ大崎・葛西・和賀・稗貫一揆鎮圧に際し全3ヶ条の「札」を下す。
       〔「中尊寺文書」〕
  7月 7日 羽柴秀次(「秀次」)、奥州一揆鎮圧に際して全5ヶ条の「定」を下す。〔「中尊寺文書」、『平泉雑記』〕
  7月12日 蒲生氏郷、「稗貫殿」へ「身上」についての奔走を約す。〔『和稗記録』〕
  7月12日 南部信直(「信直」)、陸奥国三戸より「野田殿」へ伊達政宗(「伊達殿」)が大崎佐沼城を攻略し一揆5・6千人を切り、
       これ以前に大崎宮崎城は陥落させていて、両城に於いて1万人ばかりを「なて切」にしたこと、伊達軍にも千人ばかり戦死者が
       出たこと、伊達政宗(「政宗」)は葛西登米に在陣しており、平泉へは1日で、早々に胆沢方面へ進軍するとのこと、
       浅野長政(「弾正殿」)・蒲生氏郷(「飛騨守」)は去7月10日に出撃したとのこと、「北国」衆は全軍進撃していること
       などを通知。〔「川嶋文書」〕
  7月13日 蒲生氏郷(「氏郷」)、鳥居四郎左衛門・上坂源之丞へ全14ヶ条の「条々」を下す。〔『南部根元記』〕
  7月17日 浅野長政(「浅野弾正長吉」)、「東殿」へその方面については南部信直(「南部大膳殿」)の「御勝手」という命令が
       出ていること、浅野長政自身は来7月25日まで陸奥国二本松に滞在し、近日中に出羽国方面に下着する予定であること、
       「九戸・櫛引」一揆「成敗」の緊急命令が出され「上より之御人数」が葛西・大崎・和賀・稗貫へ進軍することに触れ、
       「大軍入乱」であるので兵粮調達を指示。
       また「九戸・櫛引」については上方軍到着以前に「御成敗」するよう南部信直(「南部殿」)へ通達してあること、
       鎮圧されても浅野長政は5千〜3千の軍勢を引きいて陸奥国三戸まで進軍する予定であること、万事は南部信直(「大膳殿」)
       の良き様に通達するので安心するべきことを通知。詳細は浅野忠政(「浅野勝左衛門」)に伝達させる。
       〔「東野文書」、『奥南旧指録』:「東彦左衛門」宛〕
  7月20日 伊達政宗、九戸政実へ南部信直(「南部殿」)と調停を仲介する旨を申し入れる。〔「伊達家文書」〕
  7月21日 浅野長政(「浅野弾正長吉」)、「江刺四郎」へ江刺重俊(「兵庫助」)が葛西一揆に於いて討死したことを悼み、
       跡職については相違無き様にと南部信直(「南部殿」)へ書状を送付したことを通知。〔「江刺文書」〕
  7月22日 前田利家(「羽賀宰相利家」)、南部信直(「南部大膳大夫」)へ上方軍(「御人数」)が派遣されたので早速「属御本意」
       すであろうこと、南部信直の「御分領」についての要望があれば承るので内堀四郎兵衛を下向させること、そのために是非とも
       今度の「逆心之者共」を残らず掃討することを指示。〔「盛岡南部家文書」〕
  7月22日 南部信直(「信直」)、家臣の野田某へ「上衆」が陸奥国平泉に到着したこと、津軽為信(「津軽京兆」)が参陣して
       「御先手」として用意を調えていること、近日中に京都(「上」)へ「北兵衛」を上洛させることなどを通知。
       また近々に浅野長政(「弾正殿」)が到来する予定であることを告げる。〔「川嶋文書」〕
  7月28日 伊達政宗、施薬院祐慶(「遊慶」)へ陸奥国大崎宮崎城および佐沼城を攻略したこと、「葛西之残党」も追い散らし
       「平均ニ申付」けたこと、羽柴秀次(「中納言様」)が近日下向することなどを報告。〔『伊達治家記録』〕

 8月
  8月 3日 伊達政宗、「和稗殿」へ「今度之御仕合御覚悟之外、御一代之御迷惑」な心中を察し「天下之御事」であるから是非も無い
       こと、伊達政宗らは疎意に思っていないこと、また浅野長政(「浅弾」)方へも力の及ぶ限り働きかけをする意向であることを
       通知。さらに「進退御苦労」ではあるが羽柴秀吉「上意次第」であることを心得ることを通知。〔『和稗記録』〕
  8月 5日 鶴松丸(「若公」)、3歳で病没。〔『兼見卿記』『多聞院日記』〕
  8月 5日 鶴松丸の死骸、東福寺へ移される。〔『多聞院日記』〕
  8月 5日 羽柴秀吉、鶴松丸没をうけ東福寺において本結を切ったという。〔『兼見卿記』〕
  8月 5日 前田玄以、東福寺へ祗候。〔『兼見卿記』〕
  8月 5日 諸大夫ら、本結を切る。〔『兼見卿記』『多聞院日記』〕
  この頃   羽柴秀吉が「天下」を羽柴秀次に譲るという風聞有り。〔『多聞院日記』〕
  8月 6日 羽柴秀吉、朝鮮出兵準備命令を発布。
  8月 7日 羽柴秀吉、清水寺を訪問し宿泊。〔『時慶卿記』『兼見卿記』〕
  8月 8日 羽柴秀吉、知恩院を訪問後、清水寺へ戻り宿泊する。〔『兼見卿記』〕
  8月 9日 羽柴秀吉、清水寺から直接摂津国有馬湯山へ湯治に赴く。〔『時慶卿記』『兼見卿記』『多聞院日記』〕
  8月 9日 羽柴秀次(「秀次」)、津軽為信(「南部右京亮」)に対して陸奥国津軽方面の「仕置」遂行命令を受けた
       蒲生氏郷(「羽柴会津少将」)・浅野長政(「浅野弾正少弼」)・堀尾吉晴(「堀尾帯刀」)が軍事行動を起こすので油断無く
       馳走するよう指示を下す。〔「国立国文学研究資料館史料館津軽家文書」〕
  8月 9日 羽柴秀次(「秀次」)、津軽為信(「津軽右京」)へ陸奥国津軽方面の「仕置」遂行命令を受けた
       蒲生氏郷(「羽柴会津少将」)・浅野長政(「浅野弾正少弼」)・堀尾吉晴(「堀尾帯刀」)が軍事行動を起こすので油断無く
       馳走するよう指示を下す。〔『津軽史』〕
  8月11日 伊達政宗(「政宗」)、「沼田殿」へ「其方武略ニ而佐竹陳家悉敗軍」を賞す。〔「菊池文書」〕
  8月11日 最上義光、羽柴秀次・徳川家康を出迎えるために参上していた伊達口より国元へ「帰宅」す。〔「秋田家文書」〕
  8月12日 前田玄以、摂津国有馬湯山より上洛。〔『兼見卿記』〕
  8月12日 最上義光(「義光」)、出羽国由利郡の小助川治部少輔・仁賀保兵庫頭・滝沢又五郎・岩屋能登守・内越宮内少輔へ「陣触」
       が通達され各自が「陣参之用意」をしていることは大儀であること、また伊達口へ羽柴秀次(「中納言様」)・
       徳川家康(「家康」)が下向したので最上義光は「御迎」に参上し昨日帰宅したこと、また大谷吉継(「大谷殿」)が大崎口へ
       「御出張」するので最上義光も同行する予定であることを通知。
       詳細は氏家守棟(「氏家尾張守」)より伝達させる。〔「秋田家文書」〕
  8月18日 羽柴秀吉、摂津国有馬湯山から大坂城へ帰城。〔『時慶卿記』〕
  8月21日 羽柴秀吉、「定」(「人掃令」)を発布。〔「毛利家文書」B‐935〕
  8月25日 羽柴秀吉、上洛する。〔『兼見卿記』〕
  8月 吉日 大友義統、増田長盛へ「豊後国御検地目録」を提出。〔「大友家文書録」B‐2226〕

 9月
  9月 3日 浅野長政(「浅野弾正」)、陸奥国広隆寺へ滞在中の小者「菊助」・「九助」を上洛させるよう命令。〔「広隆寺文書」〕
  9月 3日 浅野康長(「浅野平衛門康長」)、陸奥国広隆寺へ浅野長政(「弾正」)からの指令通り「小者」2名を駐留させること、
       銀子10枚1色を浅野長政(「弾正」)へ進上すること、「方丈領」は後日指示が下されることを通達。〔「広隆寺文書」〕
  9月 6日 上方混成軍の蒲生氏郷(「羽柴忠三郎」)・井伊直政(「井伊兵部少輔」)・堀尾吉晴(「堀尾帯刀亮」)・
       浅野長政(「浅野弾正少弼」)、連名にて陸奥国某所へ百姓・地下人の「還住」命令を下す。〔「東野文書」〕
  9月 7日 羽柴秀吉、上杉景勝(「羽柴越後宰相中将」)へ重陽祝儀として羽柴秀吉・「若君」への小袖・初鮭の献上を謝すと共に
       出羽国での長期在陣を慰労す。また諸将各自と相談し諸事について指示を下すことを命令。
       詳細は長束正家(「長束大蔵大輔」)に伝達させる。〔「上杉家文書」〕
  9月 8日 太田資正、没。〔『日本史人物生没年表』〕
  9月13日 羽柴秀吉、大徳寺へ寺領目録を下す。〔「真珠庵文書」@‐44」〕
  9月13日 羽柴秀吉、泉涌寺悲田院へ山城国西院内9石6升を境内地子替として下す。〔「泉涌寺文書」〕
  9月14日 井伊直政(「井伊兵部少輔直正」)・蒲生氏郷(「蒲生飛騨守氏郷」)、徳川家康(「大納言家康公」)・
       上杉景勝(「越後守宰相影光公」)へ九戸政実(「九戸左近将監正実」)を撃破したことを報告。〔『九戸軍談記』:偽文書〕
  9月15日 蒲生氏郷(「羽柴忠三郎氏郷」)、南部信直(「南部大膳大夫」)へ全3ヶ条の「起請文」を提出。〔「盛岡南部家文書」〕
  9月16日 羽柴秀吉、諸大名に対し正式な朝鮮出兵準備命令を発布。
  9月16日 羽柴秀吉、秋田実季(「秋田藤太郎」)へ出羽国中の諸鳥狩猟を停止させ、「御鷹場」に諸鳥を集めるよう命令。
       詳細は山中長俊(「山中山城守」)に伝達させる。〔「秋田家文書」〕
  9月16日 羽柴秀吉、高橋元種(「高橋九郎」)へ日向国中の諸鳥狩猟を停止させ、「御鷹場」に諸鳥を集めるよう命令。
       詳細は山中長俊(「山中山城守」)に伝達させる。〔「大東急記念文庫所蔵文書」〕
  9月18日 石田三成(「石田治部少輔」)、陸奥国永徳寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「永徳寺文書」〕
  9月20日 羽柴秀次(「秀次」)、蒲生氏郷(「蒲生飛騨守」)へ去年よりの2度にわたる「勲功」を羽柴秀吉(「関白殿」)は諒承、
       陸奥国田村・塩松・伊達・信夫・刈田と出羽国長井郡を「加増」して永代「安堵」することを通達。〔『南部根元記』〕
  9月22日 羽柴秀吉、「京中地子」を「御免許」する。〔「川端道喜文書」‐8〕
  9月23日 羽柴秀吉、毛利吉成・黒田長政・加藤清正・鍋島直茂へ「諸外国廻船」の「日域」における着岸商売自由を承認。
       また薩摩国で「南蛮黒船」が「商売之唐船」に違乱を働いた事件を通知し、前年長崎において同様の事件が発生した際には
       「礼銀」や「船道具」を没収した先例を挙げ、今回は「異仁」であるから成敗を「御免」したことを通達。
       〔「鍋島家文書」‐21〕
  9月27日 井伊直政(「井伊兵部少輔直正」)・蒲生氏郷(「蒲生飛騨守氏郷」)、九戸政実(「佐近将監」)へ投降を進める。
       〔『九戸軍談記』:偽文書〕
  9月  日 大谷吉継(「大谷刑部少輔」)、陸奥国永徳寺へ全6ヶ条の「禁制」を下す。〔「永徳寺文書」〕

10月
 10月 4日 羽柴秀次、陸奥国平泉中尊寺へ「平泉可為公領」ということで還住を命令。
       〔「奥州平泉文書」‐120(「中尊寺文書」)〕
 10月10日 羽柴秀吉、加藤清正を奉行として肥前国名護屋城の普請を開始。
 10月10日 羽柴秀吉、朝鮮出兵用の軍船建造のため方広寺大仏殿の工事を中止。
 10月11日 森忠政、美濃国巨溪永保寺へ茶園畑27石6斗を寺領として宛行う。〔「永保寺文書」‐29〕
 10月16日 増田長盛、吉川広家へ羽柴秀吉からの伯耆国御前帳の提出命令を伝達。〔「吉川家文書」@‐813〕
 10月20日 宇喜多秀家(「豊臣秀家」)、参議・左中将を辞退。〔『公卿補任』〕
 10月20日 前田利家(「豊臣利家」)、参議を辞退。〔『公卿補任』〕
 10月23日 小鴨元清、吉川広家へ増田長盛からの連絡を通知、伯耆国御前帳の提出を促す。〔「吉川家文書」@‐814〕
 10月24日 南部信直(「南部信直」)、「江刺」某へ伊達政宗(「伊達」)の「天下へ逆心被申」などを通知。
       〔『宝翰類聚』乾、「江刺文書」〕

11月
 11月 3日 羽柴秀吉、京都を発ち美濃国・尾張国へ放鷹のため下向。
 11月 4日 北条氏直、没。〔『日本史人物生没年表』〕
 11月 4日 太田一吉、美濃国梅龍寺の道智上人へ寺領安堵を通知。〔「梅龍寺文書」‐3〕
 11月 8日 徳川秀忠(「源秀忠」)、左中将・従四位下に昇進。〔『公卿補任』〕
 11月 8日 羽柴秀保(「豊臣秀保」)、従四位下に昇進。〔『公卿補任』〕
 11月 8日 羽柴秀俊(「豊臣秀俊」、小早川秀秋)、従四位下に昇進。〔『公卿補任』〕
 11月12日 加藤光泰、美濃国の高木党へ領知目録を下す。〔「東高木文書」‐12、13〕
 11月28日 羽柴秀次(「権中納言豊臣朝臣」)、「権大納言」に昇進。〔「足守木下家文書」‐15〕

12月
 12月 4日 羽柴秀次(「従二位豊臣秀次」)、「正二位」に昇進。〔「足守木下家文書」‐16〕
 12月 4日 羽柴秀次(「権大納言豊臣朝臣秀次」)、「内大臣」に昇進。〔『公卿補任』、「足守木下家文書」‐17〕
 12月 8日 羽柴秀吉、鷹野の音物を贈ってきた毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ「大明御動座」につき毛利輝元分国中の路次通および
       諸泊の普請を命令。
       詳細は黒田孝高(「黒田勘解由」)・木下吉隆(「木下半介」)に伝達させる。〔「毛利家文書」B‐866〕
 12月10日 羽柴秀吉、津軽為信(「南部右京亮」)へ陸奥国津軽領内の「巣鷹商売」の厳禁と鷹の保護を命令。
       詳細は蒲生氏郷(「羽柴会津少将」)に伝達させる。〔「国立国文学研究資料館史料館津軽家文書」〕
 12月14日 羽柴秀吉、島津義久へ来春の高麗への渡海およびその軍需物資整備と人数改の後に留守居衆に報告すべきを命令。
       また島津義弘・島津久保他留守居の者共の妻子を早急に大坂へ提出するよう命令。
       さらに「御扶持方」を下すため大坂到着次第に帥法印・松浦重政両人に届け出、この両人の「墨付」を以て羽柴秀吉へ上申するべき
       を命令。帰国期間は短期間なので留意すべきを通知。詳細は浅野長政・石田正澄・木下吉隆に伝達させる。
       〔「島津家文書」@‐358〕
 12月16日 羽柴秀吉、帰京。
 12月18日 羽柴秀吉、関白を辞任。〔『公卿補任』〕
 12月28日 後陽成天皇、羽柴秀次(「内大臣豊臣朝臣」)を「関白」に補任。〔『公卿補任』、「足守木下家文書」‐18〕
 12月28日 後陽成天皇、羽柴秀次(「内大臣豊臣朝臣」)へ「兵杖」を与える。〔「足守木下家文書」‐19、20〕
 12月28日 羽柴秀次(「正二位豊臣朝臣」)、「内覧」に就任。〔「足守木下家文書」‐21〕
 12月28日 羽柴秀次(「内大臣豊臣朝臣秀次」)、「関白」に就任。〔「足守木下家文書」‐22〕
 12月28日 羽柴秀次(「内大臣正二位豊臣朝臣」)、「乗牛車出入宮中」を勅許される。〔「足守木下家文書」‐23〕
 12月28日 羽柴秀次(「関白」)、「関白宜乗牛車兵杖出入宮中」を勅許される。〔「足守木下家文書」‐24〕
 12月28日 羽柴秀次(「関白内大臣」)、「氏長者」となる。〔「足守木下家文書」‐25〕
 12月28日 羽柴秀次(「関白内大臣」)、「豊氏長者」となる。〔「足守木下家文書」‐26〕
 12月28日 羽柴秀吉、島津義久・細川幽斎へ来年3月に自身の渡海予定を通知。
       島津義久は浅野長政と共に渡海すべきこと、新納忠元は妻子を上京させて島津義久に同伴すべきこと、大隅国・薩摩国・日向国
       留守居衆の妻子も上京すべきこと、朝鮮在陣衆および島津留守居衆の内訳を報告すべきこと、高麗から帰還した船は早急に
       肥前国名護屋へ回送させ特に「御奉行」を派遣した旨を通達。〔「島津家文書」@‐359〕
 12月28日 羽柴秀次、関白に補任される。〔「公卿補任」〕
 12月28日 増田長盛・長束正家、御蔵入地である摂津国有馬湯山へ算用状を下す。〔「浅野文書」〕

    この年 相馬義胤(「義胤」)、某(宛名欠)へ「奥中為御仕置」して「京勢」が発向したこと、大谷吉継(「大刑少」)の出撃、
       石田三成(「石治少」)の陸奥国岩城到着、羽柴秀次(「中納言殿」)の陸奥国二本松着陣、徳川家康(「家康」)の陸奥国
       田村着陣、また石田三成(「治少」)の相馬口到来などを通知。〔「松野文書」〕


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