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        【 天下統一期年譜 1590年 】

天正18(1590)年

 1月
  1月 1日 羽柴秀吉、参内ついで院御所において新年を祝賀す。
  1月 5日 羽柴秀吉、摂津国大坂城に帰城。
  1月 9日 羽柴秀吉、入京。
  1月16日 羽柴秀吉、大浦為信(「津軽左京亮」)へ弟鷹2居の献上を賞し、大浦為信の領国境界堅守を通達。
       詳細は増田長盛(「増田右衛門尉」)・木村吉清(「木村弥一右衛門尉」)に伝達させる。〔「津軽家文書」〕
  1月21日 前田利家(「豊臣利家」)、従四位下(正四位下カ)に昇進。〔『公卿補任』〕
  1月27日 毛利輝元、多賀彦三郎へ2月10日予定の船揃のために2月8日に上洛すべきを命令。〔「多賀文書」‐764〕
  1月28日 織田信雄(「信雄」)、治部卿法印・沢井修理允・森勘解由へ尾張・三河国中の全船召集を命令。
       〔「尾州関係並雑文書」‐507〕
  1月28日 織田信雄(「信雄」)、大浦為信(「南部右京亮」)へ去年の「黄鷹」2居献上を謝し、当年も「鷹取」の派遣を行うため
       その馳走を依頼する。〔「津軽家文書」〕

 2月
  2月 1日 遠征軍の先鋒、後北条氏征伐のため相模国小田原に向け出陣。
  2月 3日 羽柴秀吉、摂津国大坂城に帰城。
  2月 8日 羽柴秀吉・鶴松丸、入京。
  2月10日 毛利輝元、安芸国厳島で船揃を行う。〔「多賀文書」‐783〕
  2月11日 井伊直孝、誕生(異説9月9日)。〔『日本史人物生没年表』〕
  2月13日 羽柴秀次、大友義統の献上してきた「石火矢」を謝す。
       詳細は黒田孝高方より通達させる。〔「大友家文書録」B‐2197〕
  2月14日 森忠政(「忠政」)、可児弥吉へ戸狩に60石を宛行う。〔「武家文書」A‐20〕
  2月20日 毛利輝元、播磨国兵庫で船揃を行う。〔「多賀文書」‐783〕
  2月24日 羽柴秀吉、尾張国星崎城の留守居中へ吉川広家の在番を通知。〔「吉川家文書」@‐115〕
  2月26日 羽柴秀吉、河内国金剛寺三綱へ「関東御進発」の祝儀として酒1荷の献上を謝す。
       詳細は増田長盛(「増田右衛門尉」)に伝達させる。〔「金剛寺文書」‐351〕
  2月29日 羽柴秀吉、龍造寺政家へ肥前国佐賀郡内に軍役免除の隠居分として5224石を与える。〔「龍造寺家文書」‐203〕
  2月    堀秀政、堀太郎左衛門尉へ軍役として騎馬5騎・鉄砲10挺・長柄10本の供出を命令。〔「中津堀文書」‐5〕
  2月 吉日 徳川家康、奥平九八郎へ全15ヶ条の「軍法」条書を下す。〔「中津奥平昌信文書」‐1〕

 3月
  3月 1日 羽柴秀吉、後北条氏征伐のため京都を発す。〔「兼見卿記」〕
  3月 1日 木村吉清(「清久」)、美濃国不破郡榎戸村へ還住を条件に役儀免除を通達。〔「若山光弘氏所蔵文書」‐1〕
  3月 3日 羽柴秀吉、近江八幡に到着。
  3月 4日 羽柴秀吉、柏原に到着。
  3月 5日 羽柴秀吉、美濃国大垣城に到着。
  3月 6日 羽柴秀吉、尾張国清洲城に到着。
  3月 8日 羽柴秀吉、八幡山留守居中へ「御用被仰遣飛脚」や京都・大坂より言上の件があり次第に飛脚で報告するよう命令。
       飛脚は毎日用意させ、近江国大津から佐和山までは時刻を移さず確実に届けるよう命令。詳細は山中長俊に伝達させる。
       〔「田中栞文書」〕
  3月10日 羽柴秀吉、三河国吉田城に到着。
  3月10日 戸沢盛安、この夜に駿河国島田陣所に到着し羽柴秀吉(「秀吉公」)と対面し「大閤兼光」を賜わる。〔『戸沢家譜』〕
  3月13日 伊達政宗(「政宗」)、遠藤出羽守(「遠出」)へ最上義光(「最上」)と上杉景勝(「景勝」)の関係および
       羽柴秀吉(「関白」)が後北条氏(「小田原」)との「御弓無事成就」すること、佐竹義重(「佐竹」「義重」)が「江戸殿」
       と交戦中であることなどについて通知。〔「遠藤文書」〕
  3月19日 羽柴秀吉、駿河国駿府城(家康居城)に到着。
  3月20日  羽柴秀吉、先陣より帰還した家康の饗応を受ける。
  3月27日 羽柴秀吉、沼津に到着し三枚橋城を本営とする。
       〔「鍋島家文書」‐19、『古文書類纂』「教王護国寺文書」、「本願寺文書」〕
  3月28日 羽柴秀吉、山中城および韮山城の地形を巡察。〔「本願寺文書」〕
  3月28日 羽柴秀吉、山中城(後北条支城)の地形を巡視し、羽柴秀次へ山中城攻略を命令。〔「鍋島家文書」‐19〕
  3月28日 前田利家(「利家卿」)、武蔵国八王子城への攻撃を開始。〔『奥南旧指録』〕
  3月28日 浅野長政(「弾正少弼長吉」)、京都の東寺惣中からの陣中見舞を木下吉隆が披露して羽柴秀吉「御朱印」で命令が出された
       こと、浅野長政等への贈物に対しての謝意、相模国小田原方面の戦況について3月27日に羽柴秀吉が三枚橋へ本陣を移した
       こと、相模国小田原城が間もなく落城する予定であるため近日中帰陣して詳細を通達する旨を通知。〔「教王護国寺文書」〕
  3月28日 葛西晴信(「晴信」)、三田刑部少輔へ今度の羽柴秀吉(「秀吉公」)の北条氏直(「北条氏直」)に対する「征討」のため
       に相模国へ発向し、「諸国之大将」が日々相模国小田原城へ集結しているというので葛西晴信自身も近日赴く覚悟ではある
       けれども、先年の「浜田逆意」の際の謀反人が富沢直綱(「富沢日向守」)と「内通」しているために留守中の対処を指示。
       〔「三田文書」〕
  3月29日 羽柴秀次、午刻に山中城攻撃を開始、松田康長ら2000余を討つ。〔「本願寺文書」〕
  3月29日 羽柴秀次、山中城を攻略。
       〔「吉川家文書」@‐116、「島津家文書」@‐354・355、「諸家単一文書」‐1089、「鍋島家文書」‐19〕
  3月29日 羽柴秀吉、鷹巣・足柄・禰不川諸城を退散させる。〔「鍋島家文書」‐19〕
  3月29日 羽柴秀吉、吉川広家へ羽柴秀次の山中城攻略、明日の箱根山峠への移陣の旨を告知。
       近日中に小田原城は落城する予測を伝える。〔「吉川家文書」@‐116〕
  3月29日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ羽柴秀次の山中城攻略、明日の箱根山峠への移陣の旨を告知。
       近日中に小田原城は落城する予測を通知。〔「諸家単一文書」‐1089〕
  3月29日 羽柴秀吉、島津義弘・島津義久へ羽柴秀次の山中城攻略、明日の箱根山峠への移陣の旨を告知。
       近日中に小田原城は落城する予測を通知。〔「島津家文書」@‐354〕
  3月29日 一柳直末、没。〔『日本史人物生没年表』〕

 4月
  4月 1日 羽柴秀吉、箱根山へ移陣。途上にて足柄城・鷹巣城・久野祢砦・深川砦を攻略。〔「本願寺文書」〕
  4月 1日 徳川家康・羽柴秀次・「大柿少将」・宇喜多秀家、箱根口より小田原へ侵入。〔「本願寺文書」〕
  4月 1日 堀秀政・長谷川秀一・池田輝政・丹羽長重・木村重茲らが熱海口より小田原へ侵入。〔「本願寺文書」〕
  4月 2日 羽柴秀吉、吉川広家へ伊豆国平定を告知。
       尾張国星崎城在番を小早川隆景に任せ、吉川広家は三河国岡崎城の在番に移るよう命令。〔「吉川家文書」@‐117〕
  4月 2日 稲葉貞通、美濃国白山長瀧寺中坊へ白山末社神白鳥の建立について勧進を行う。〔「寶幢坊文書」‐19〕
  4月 4日 羽柴秀吉、伊豆国箱根より本願寺顕如へ陣中見舞いを謝し、相模国小田原城攻略の経過を通知。
       来たる8日に織田信雄(「尾州内府」)・「津中将」・蒲生氏郷が熱海口から相模国小田原へ侵入する予定を通知。
       詳細は浅野長政に伝達させる。〔「本願寺文書」〕
  4月 6日 羽柴秀吉、湯本早雲寺に本陣を構え相模国小田原城を包囲、兵糧攻めを開始。
  4月 7日 羽柴秀吉、陣中見舞いを贈ってきた島津義久へ3月29日に羽柴秀次が山中城を攻略したこと、羽柴秀吉軍が相模国小田原城
       に迫っていることを通知。詳細は石田三成に伝達させる。〔「島津家文書」@‐355〕
  4月 7日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ相模国小田原城攻囲の状況を通知。
       更に上野国は真田昌幸・上杉景勝・前田利家が松井城を攻囲しており、間もなく相模国小田原城攻撃に参加する予定を通知。
       詳細は増田長盛に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐19〕
  4月11日 羽柴秀次(「秀次」)、大浦為信(「南部右京亮」)へ「角鷹」1居の献上を謝す。
       詳細は徳永寿昌(「徳永石見守」)に伝達させる。〔「津軽家文書」〕
  4月11日 山上宗二、羽柴秀吉の勘気を蒙り耳・鼻を削がれ殺害される。〔『日本史人物生没年表』〕
  4月13日 羽柴秀吉、女房五さ(北政所侍女)へ小田原北条氏を完全包囲した状況を説明、北政所に淀殿の相模国小田原召喚を報告
       させる。〔「高台寺文書」〕
  4月17日 毛利輝元、多賀彦三郎へ伊豆国下田城警固が毛利氏担当となったので万全を期すよう命令。
       詳細を安国寺恵瓊・杉村に伝達させる。〔「多賀文書」‐780〕
  4月21日 羽柴秀吉、京都紫野大徳寺へ朱印状を以て在陣見舞を謝す。
       また小田原攻囲の状況は大徳寺使僧を以て連絡するが、近日中には「平均」たるべき旨を通知。
       詳細は浅野長政(「浅野弾正少弼」)に伝達させる。〔「大徳寺文書」@‐103〕
  4月21日 伊達政宗(「政宗」)、遠藤出羽守へ「京都」より相模国「小田原」城へ軍勢が出撃しており、伊達政宗もこれに応ずること
       近日「上洛」し万事調儀して下向する予定などを通知。〔「遠藤文書」〕
  4月23日 羽柴秀吉、「関東御動座」にあたり見舞として鉄炮薬100斤を贈ってきた島津氏へ小田原城攻囲の厳重な状況、「八州之物主」
       が悉く籠城しているというので「干殺」にする予定であること、来たる5月1日には鎌倉見物をする予定であること、
       北条氏勝(「北条左衛門大夫」:相模国玉縄城主)が降伏してきたので身柄を徳川家康(「家康」)に預け相模国玉縄城へ移る
       旨を通知。
       詳細は増田長盛に伝達させる。〔「島津家文書」@‐356〕

 5月
  5月 1日 羽柴秀吉(「てんか」)、大政所(「大まんところ殿さま」)へ小田原北条氏の事は「くわんとうひのもとまてのおきめ」に
       違反したので「ほしころし」に処する決心を報告。〔「妙法院文書」〕
  5月 5日 近衛前久(「龍山」)、上洛した島津義久(「龍伯」)を招待する旨を通知。〔「島津家文書」A‐674〕
  5月 6日 中臣則興(鹿島神宮大宮司)、羽柴秀吉陣所の石田三成「取続」により巻数を奉納を受ける。この際に羽柴秀吉「御朱印」を
       受ける。〔「鹿島神宮文書」‐9〕
  5月 7日 羽柴秀吉、吉川広家(三河国岡崎城在番)へ淀殿の東国下向のため伝馬・宿所の用意を命令。〔「吉川家文書」@‐118〕
  5月14日 羽柴秀吉、とても懇意な手紙をよこした北政所へ小田原北条氏に対する攻撃状況を報告、家中一同の息災を案ず。
       〔「小山文書」〕
  5月16日 石田三成、岩城常隆からの書状を相模国小田原早雲寺に於いて披見。〔「岩城文書」〕
  5月18日 石田三成(「石田治部少輔三成」)、書状を送付してきた岩城常隆(「岩城左京大夫」)へその内容を得心したこと、
       相模国小田原「御仕置」は急速に進行しているので「早々御出仕之外有間敷」き旨に触れ油断無く「参陣」するよう指示。
       また佐竹義宣(「佐竹」)の近日「出仕」予定などを通知。〔「岩城文書」〕
  5月20日 羽柴秀吉、武蔵国方面に転戦している浅野長政・木村重茲へ小田原城攻囲の状況と関東経略予定を通知。〔「浅野家文書」〕
  5月21日 近衛前久(「龍山」)、島津義久(「龍伯」)へ急便を以て招待する旨を通知。〔「島津家文書」A‐675〕
  5月22日 木村出羽守、中臣則興(鹿島神宮大宮司)へ徳川家康(「家康大納言」)が「二位」を上申した旨を報告し、
       「御腹立候ましく候」と添える。〔「鹿島神宮文書」‐275〕
  5月22日 徳川家康、中臣則興(鹿島神宮大宮司)へ陣中見舞いを謝し、詳細は榊原康政に伝達させる。〔「鹿島則幸文書」‐7〕
  5月22日 榊原康政(「榊原式部大輔」)、中臣則興(鹿島神宮大宮司)へ徳川家康への陣中見舞いを謝す。〔「鹿島則幸文書」‐8〕
  5月23日 佐竹義宣、佐竹義重と共に相模国小田原へ参陣。〔「鹿島神宮文書」‐44〕
  5月24日 羽柴秀吉、小早川隆景(尾張国清洲・星崎城在番)・吉川広家(三河国岡崎城在番)へ羽柴秀吉朱印状を聚楽第に次飛脚を
       以て伝送するよう命令。〔「吉川家文書」@‐731〕
  5月27日 堀秀政、相模国小田原陣中において病没。〔『日本史人物生没年表』〕
  5月27日 有餘斎一乗(佐竹義宣家臣)、中臣則興(鹿島神宮大宮司)へ羽柴秀吉(「関白様」)の相模国小田原征伐に際して佐竹氏も
       参陣した旨を通知。〔「鹿島神宮文書」‐44〕
  5月  日 羽柴秀吉、常陸国鹿島神宮へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「鹿島神宮文書」‐203〕
  5月  日 木村重茲(「木村常陸介」)・浅野長政(「浅野弾正少弼」)、下総国北相馬庄内徳怡山の長龍寺へ全3ヶ条の「禁制」を
       下す。〔「長龍寺文書」‐1〕

 6月
  6月 1日 大友義統、小田原鎮郷へ小田原参陣の御供として日限相違なく準備を命令。〔「大友家文書録」B‐2201〕
  6月 2日 羽柴秀吉、吉川広家(三河国岡崎城在番)・小早川隆景(尾張国清洲・星崎城在番)へ羽柴秀吉朱印状を町送するよう指示。
       詳細は山中長俊に伝達させる。〔「吉川家文書」@‐733〕
  6月 3日 羽柴秀吉、美濃国吉田寺(新長谷寺)へ陣中見舞いを謝す。詳細は片桐且元に伝達させる。〔「新長谷寺文書」‐9〕
  6月 5日 羽柴秀吉、小早川隆景(尾張国清洲・星崎城在番)・吉川広家(三河国岡崎城在番)へ羽柴秀吉朱印状を聚楽第に次飛脚を
       以て、早々に伝送するよう命令。〔「吉川家文書」@‐734〕
  6月 5日 羽柴秀吉、小早川隆景(尾張国清洲・星崎城在番)・吉川広家(三河国岡崎城在番)へ馬24匹の運送を命令。
       詳細は木下吉隆に伝達させる。〔「吉川家文書」@‐735〕
  6月 5日 羽柴秀吉、小早川隆景(尾張国清洲・星崎城在番)・吉川広家(三河国岡崎城在番)へ囚人2名を町送にて京都に送付し、
       前田玄以方まで送り届けるよう命令。詳細は福原長堯に伝達させる。〔「吉川家文書」@‐736〕
  6月14日 蒲生氏郷(「羽柴忠三」)、陸奥国二本松へ到着。〔「遠野南部家文書」〕
  6月14日 伊達政宗(「政宗」)、出羽国長井郡まで出向き葛西・大崎方面へ出勢。〔「遠野南部家文書」〕
  6月15日 浅野長政(「浅弾少長吉」)、八戸政栄(「八戸殿」)へ徳川家康(「家康」)・羽柴秀次(「中納言様」)の7月上旬出馬
       予定、蒲生氏郷(「羽柴忠三」)は去6月14日に陸奥国二本松へ到着したこと、伊達政宗(「政宗」)は昨日6月14日に
       出羽国長井郡まで出向き葛西・大崎方面に出勢したこと、また九戸政実(「九戸」)は早急に「成敗」されることに触れ、
       これらの事を南部信直(「南部殿」)へも通達することを通知。〔「遠野南部家文書」〕
  6月20日 羽柴秀吉、「奥州奧郡為仕置被指遣御人衆道行次第」を発す。〔「鹿島神宮文書」‐278〕
  6月25日 南義種、中臣則興(鹿島神宮大宮司)へこの度の羽柴秀吉の小田原征伐(「殿下様御動座」)に参陣した旨を報告。
       〔「鹿島神宮文書」‐20〕
  6月28日 佐竹義宣、中臣則興(鹿島神宮大宮司)へ羽柴秀吉(「関白様」)の小田原包囲にあたり自身も在陣している旨を通知。
       〔「鹿島神宮文書」‐37〕

 7月
  7月 4日 相模国小田原城、落城。〔「鹿島神宮文書」‐9〕
  7月 5日 北条氏直、籠城兵助命を条件に開城し羽柴秀吉の軍門に降る。〔「家忠日記」〕
  7月 5日 松田憲秀、羽柴秀吉の命令で自害。〔『日本史人物生没年表』〕
  7月 6日 羽柴秀吉、南部信直(「南部殿」)を謁見す。〔「浅野家文書」〕
  7月 7日 伊達政宗(「政宗」)、富沢直綱(「富沢日向守」)へ伊達政宗自身が相模国「小田原」方面に下向すること、
       陸奥国会津は羽柴秀吉(「関白」)の「御蔵所」に設定されること、近日中に羽柴秀吉(「関白」)が陸奥国会津へ「御下向」
       し「奥州出羽仕置」について伊達政宗(「政宗」)に意見を求めるとの「御内意」があったことなどを通知。
       またこれらの内容は用心が必要なものなので伊達政宗「自筆」としたが、即時「火中」に処することを通達。〔「大浪文書」〕
  7月 7日 秋田通季(「湊九郎通季」)、浅野長政へ昨7月6日に南部信直(「南部殿」)が御礼を申し上げ羽柴秀吉は「一段御仕合」
       であり秋田通季等までも「本望」であること、秋田通季も同行したが増田長盛(「増田右衛門尉殿」)の指示により御礼を申し
       上げなかったこと、「某」の身上の件を依頼したところ「可然様任置」ことになったことを通知。〔「浅野家文書」〕
  7月 8日 羽柴秀吉、吉川広家からの見舞いを謝し、小田原落居について通知。
       詳細は黒田孝高に伝達させる。〔「吉川家文書」@‐737〕
  7月10日 羽柴秀吉、小早川隆景(尾張国清洲城在番)・吉川広家(三河国岡崎城在番)へ相模国小田原落城について淀殿の帰洛道中の
       用意を命令。
       詳細を山中長俊より伝達させる。〔「吉川家文書」@‐119〕
  7月10日 羽柴秀吉、小早川隆景・吉川広家へ人足380人を以て羽柴秀吉帰陣の道具を町送にて届けるように命令。
       〔「吉川家文書」@‐738〕
  7月11日 紀伊国高野山の遍照光院良尊(「遍照光院良尊」「遍照光院大学頭良尊」)、八戸政栄(「八戸殿」)へ相模国小田原城攻撃
       に際して羽柴秀吉(「関白様」)の「御尊意」に南部信直(「屋形様」)が「同心」して「出仕」したことを伝達。
       〔「遠野南部家文書」〕
  7月11日 北条氏政、羽柴秀吉に屈し自刃。〔『日本史人物生没年表』〕
  7月11日 北条氏照、羽柴秀吉に屈し自刃。〔『日本史人物生没年表』〕
  7月12日 羽柴秀吉、相模国小田原落城直後に京都の北政所へ鶴松丸の盂蘭盆会の生御魂を送ってきたのを喜び、小田原平定と会津征伐
       終了後の帰京予定を報告。〔「箱根神社文書」〕
  7月13日 羽柴秀吉、検分のため相模国小田原城に入城し、家康に後北条旧領への移封を命令。
  7月15日 羽柴秀吉、小早川隆景・吉川広家へ人足100人を以て金子3,000枚と羽柴秀吉御物を聚楽第に送付することを命令。
       詳細を一柳越後守・新庄直頼に伝達させる。〔「吉川家文書」@‐739〕
  7月16日 羽柴秀吉、吉川広家からの相模国小田原落居の祝儀を謝し、詳細を黒田孝高に伝達させる。〔「吉川家文書」@‐740〕
  7月17日 羽柴秀吉、相模国小田原を発し奥州に向かう。
  7月18日 中臣則興(鹿島神宮大宮司)、羽柴秀吉より鹿島神宮宝蔵神物の見物を要請を受けて出発。〔「鹿島神宮文書」‐9〕
  7月19日 大道寺政繁、羽柴秀吉の命令で自刃。〔『日本史人物生没年表』〕
  7月20日 羽柴秀吉、武蔵国江戸に到着。
  7月20日 中臣則興(鹿島神宮大宮司)、宇都宮田気に到着。〔「鹿島神宮文書」‐9〕
  7月22日 寺西正勝(「寺西筑後守正勝」)、浅野長政へ出羽国下向命令を受けたので兵糧借用を依頼する。〔「浅野家文書」〕
  7月24日 前田玄以、紫竹・大門・上野・雲林院百姓中へ大徳寺の「高麗人」滞留に際し用次第で人足供出を命令。〔「大徳寺文書」〕
  7月24日 葛西晴信(「晴信」)、下着した某(宛名欠)へ羽柴秀吉(「関白様」)が陸奥国会津へ下向するというのは「必定」である
       のか、また「京都御入馬」であるのかを問い合わせる。〔『楓軒文書纂』〕
  7月24日 相馬義胤(「義胤」)、留守景宗(「高森殿」)へ「関八州之御令」は残す所ところ無く「御成就」し、羽柴秀吉が
       「奥両国為御仕置」すため陸奥国会津へ移動すること、先勢として羽柴秀吉「御直札」を携えた石田三成(「石田殿」)が到来
       し「内意」を受けるということなどを通知。〔「留守文書」〕
  7月25日 石田三成、鹿島神宮へ領内治安維持を保障。
       支障を為す者は石田三成に注進し、石田三成が糺明を遂げてから羽柴秀吉へ報告(「達上聞」)し処罰する旨を通達。
       〔「鹿島神宮文書」‐31〕
  7月26日 羽柴秀吉、下野国宇都宮に到着。〔「鹿島神宮文書」‐9、「伊達家文書」、『武徳編年集成』巻三十八〕
  7月26日 羽柴秀吉、岩槻を経由して下野国宇都宮に到着。
  7月26日 木下吉隆(「木下半介吉隆」)、伊達政宗(「伊達左京大夫」)へ出羽国・陸奥国・その他への「御置目」が通達されること
       を知らせ、伊達政宗も少数の供衆を随行し早々に下野国宇都宮に参上すべきという羽柴秀吉「御朱印」が発給されたので
       「いかにもてかたく、片時も御急」いで参上することを督促。また最上義光(「出羽守」)も召喚されたされたことに触れ、
       陸奥国へは伊達政宗の「御差図」を参考にするとのこと、不届きな輩のもとへは「上使」が派遣されること、「以外之御急」の
       事態であるので夜中であっても参上すべきこと、更に伊達「御足弱衆」の上洛も命令されたので「御急専一」であること、
       詳細は木村吉清(「木村弥一右衛門尉」)へ申し入れるべきこと、「早々参候へ」という羽柴秀吉「御朱印」であるので緊急に
       参上すべきことを通知。〔「伊達家文書」〕
  7月27日 羽柴秀吉、南部信直(「南部大膳大夫」)へ全5条の「定」を下し陸奥国南部7郡を安堵す。〔「盛岡南部家文書」〕
  7月28日 羽柴秀吉、戸沢光盛(「戸沢九郎」)へ出羽国仙北の「当知行」を相違無く安堵し、妻子を早々に「在京」させること、
       「分領」中の城を「悉令破却」しめ居城1城のみとすること、「知行方令検地」しめ「台所入」を確保し「在京賄」とすること
       を通達。
       詳細は金森長近(「金森兵部卿法印」)に伝達させる。〔「戸沢文書」〕
  7月28日 簡治部助、浅野正勝(「浅野六右衛門尉」)へ書上を呈す。〔「司東氏採集文書」〕
  7月 晦日 羽柴秀吉、長宗我部元親(「羽柴土佐侍従」)・蜂須賀家政(「蜂須賀阿波守」)・生駒親正(「生駒雅楽頭」)・
       戸田勝隆(「戸田民部少輔」)・福島正則(「福島左衛門大夫」)・脇坂安治(「脇坂中務少輔」)へ「富士根」にて材木調達
       および道普請に着手していることについての早急な報告を了承し、「大仏材木」は年内に調達すべきことを確認。
       また去7月26日に下野国宇都宮に到着しそのまま逗留していることに触れ、常陸佐竹氏・下野宇都宮氏およびその他の
       「諸侍」へ「足弱共」の上洛を命じたこと、「不入之処ハ破却」を命令したこと、陸奥国会津へは羽柴秀次(「近江中納言」)
       を派遣したこと、1昨日に伊達政宗(「伊達左京大夫」)が到来することになっているので羽柴秀吉自身が陸奥国会津へ移る
       予定であること、出羽国・陸奥国へは3手にて軍勢を進め「御置目」を通達する予定であること、更に津軽・「宇曽利」・外浜
       からまでも悉く「足弱共」を在洛させること、「蝦夷島」へ羽柴秀吉「御朱印」を下し「出仕」しなければ軍勢を派遣し
       「悉刎首」する予定であることを通達。詳細は木下吉隆(「木下」)に伝達させる。〔『武徳編年集成』巻三十八〕
  7月  日 羽柴秀吉、陸奥国某所へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「盛岡南部家文書」〕

 8月
  8月 1日 羽柴秀吉、上杉景勝(「羽柴越後宰相」)へ出羽国大宝寺氏分の庄内3郡について指示を下し、上杉景勝が「糺明」し
       大谷吉継(「大谷刑部少輔」)と「相談」すること、「上方」の如く「可然様」に命令を通達するよう指示。〔「上杉文書」〕
  8月 3日 伊達政宗(「政宗」)、和賀・稗貫へ「今度之御仕合」(領主権没収)にあたり心中を察し「天下之御事」であるので是非も
       無いが、両家に対し伊達政宗は疎意にしないこと、浅野長政(「浅弾」)方へも精一杯働きかけるべきであることを通知。
       また「進退御苦労」で通達も無い状態であるが、羽柴秀吉「上意次第」であるので心得が大事であることを助言する。
       〔『和賀稗貫両家記録』〕
  8月 4日 羽柴秀吉、堀尾吉晴(「堀尾茂助」)へ反乱を起こした陸奥国の九戸政実(「九戸」)の掃討戦に於いて敵首数750を送付
       したことにつき、「今度陣中第一之手柄、寔に可為日本無双之剛之者」であったので感状を下す。〔『祐清私記』〕
  8月 5日 稲葉方通、美濃国細目村大仙寺へ寺領として45石を寄進。〔「大仙寺文書」‐46〕
  8月 6日 羽柴秀吉、陸奥国白河に到着。
  8月 9日 羽柴秀吉、陸奥国会津に移る。〔「浅野家文書」◎〕
  8月 9日 羽柴秀吉、武蔵国会津黒川城に到着。
  8月10日 羽柴秀吉、石田三成(「石田治部少輔」)へ「御検地」後の処置、「盗人」成敗、「人を売買」を停止すること、刀狩に
       ついてなど全7ヶ条の「定」を下す。〔「大阪市立博物館所蔵文書」〕
  8月10日 羽柴秀吉、浅野長政へ羽柴秀吉「御朱印」を遵守した陸奥国に於ける「検地」を命令。〔「浅野家文書」◎〕
  8月11日 羽柴秀吉、島津義久へ北条氏「誅戮」祝儀を謝し、陸奥・出羽両国まで平定して「御置目」を残らず仰せ付け、
       伊達政宗・南部信直・最上義光が妻子を人質として在洛させる旨を通知。また明日12日には帰洛の途につく旨を通知。
       詳細は石田正澄に伝達させる。〔「島津家文書」@‐357〕
  8月12日 羽柴秀吉、浅野長政(「浅野弾正少弼」)へ去8月9日に羽柴秀吉自身が陸奥国会津に到着し「御置目」を通達した上で
       「御検地」の件は羽柴秀次(「中納言」)に会津を、宇喜多秀家(「備前宰相」)に白川周辺を担当させることを命令した
       こと、去8月10日に浅野長政へも羽柴秀吉「御朱印」を遵守した「検地」を命令したが「そさう」が発生した場合は処罰す
       べきこと、最上義光(「山形出羽守」)と伊達政宗(「伊達」)が早急に妻子を人質として京都へ提出したことにつき、
       奥羽「国人」で妻子を京都へ進上する者は容認し、「無左もの」は会津への出頭命令を通達すること、奥羽「国人」および
       百姓共へ「合点行候様」に命令を申し聞かせ、「不相届」の場合は1郷であっても2郷であっても「悉なてきり」に処すこと、
       これは「六十余州堅被仰付」れた命令であるので「出羽奥州迄そさうニハさせ」ない方針であり「たとへ亡所ニ成」っても
       かまわないので「山のおく、海ハろかいのつゝき候迄」検地を遂行すること、「退屈」の場合は羽柴秀吉(「関白殿御自身」)
       が出向いて遂行の徹底を図ることを通達。〔「浅野家文書」◎〕
  8月12日 羽柴秀吉、黒川城を発し帰京の途につく。
  8月17日 前田利家(「羽柴筑前守利家」)・大谷吉継(「大谷刑部少輔吉継」)・木村重茲(「木村常陸介」)、出羽国の
       戸沢光盛(「戸沢九郎」)へ「羽州表為御仕置」のために下向していること、近日中の着陣予定を通達。〔「湊文書」〕
  8月17日 浅野長政(「浅野弾正」)、陸奥国平泉中尊寺門前へ百姓の還住を命令。〔「奥州平泉文書」‐111(「中尊寺文書」)〕
  8月18日 羽柴秀吉、駿河国内にて吉川広家へ奥羽平定と奥羽における百姓等の刀・武具狩り、検地の実行を通知。
       また吉川経忠を迎えに派遣したことを謝し、詳細は黒田孝高に伝達させる。〔「吉川家文書」@‐741〕
  8月18日 浅野長政(「浅野弾正長吉」)、陸奥国平泉「幾をん」に対し「我等之名をかり」た狼藉者が出現していることについて、
       「我等之判形」が無い場合は一切承引しないように命令。〔「奥州平泉文書」‐112(「毛越寺文書」)〕
  8月18日 浅野長政(「浅野弾正長吉」)、陸奥国平泉の毛越寺に対し「我等之名をかり」た狼藉者が出現していることについて、
       「我等之判形」が無い場合は一切承引しないように命令。〔「奥州平泉文書」‐113(「毛越寺文書」)〕
  8月20日 羽柴秀吉、駿河国清見寺に到着。
  8月20日 浅野長政(「浅野弾正」)、陸奥国「ゆくち村」百姓中へ「還住」を命令。〔「喜伊文書」〕
  8月22日 羽柴秀吉、駿河国駿府城に到着。
  8月23日 羽柴秀吉、遠江国掛川城に到着。
  8月27日 羽柴秀吉、尾張国清洲城に到着。
  8月30日 神斎介、「浅野久三郎」へ陸奥国平泉の中尊寺・毛越寺「御神宝」を浅野長政(「弾正様」)に一覧する「御取次」を依頼。
       また寺領の件の「可然様ニ御指南」を依頼する。〔「奥州平泉文書」‐114(「毛越寺文書」)〕
  8月  日 羽柴秀吉、木村一(「木村常陸介」)・大谷吉継(「大谷刑部少輔」)へ出羽国検地についての条々を下す。
       〔「色部文書」〕
  8月  日 羽柴秀吉、出羽国仙北郡の戸沢光盛(「戸沢九郎」)知行分へ全3ヶ条の「制禁」を下す。〔『新庄古老覚書』〕
  8月    織田信雄、出家して常真と号す。〔『公卿補任』〕
  8月 吉日 青木一矩、奥州岩瀬郡・安積郡・石川郡にて検地を実施。〔「足守木下家文書」‐40〕

 9月
  9月 1日 羽柴秀吉、京都に凱旋。〔「お湯殿の上の日記」〕
  9月 3日 浅野宗勝(「浅野伝右衛門尉宗勝」)、陸奥国光林寺へ上方主力軍の帰洛後に発生した「一揆」に対する処置などを下す。
       〔『文書集』〕
  9月 4日 羽柴秀吉、河内国金剛寺三綱へ「御開陣」の祝儀として樽2荷の献上を謝す。〔「金剛寺文書」‐352〕
  9月 6日 大友義統、小田原統直へ下野国宇都宮参陣を通知し銀子送付を謝す。詳細は田原親家に伝達させる。
       〔「大友家文書録」B‐2203〕
  9月 7日 伊藤秀盛・竹中隆重、棚橋九兵衛へ上加納百姓の曲事を取り締まるよう命令。〔「棚橋文書」‐4〕
  9月12日 羽柴秀吉、上杉景勝(「羽柴越後宰相中将」)へ「葛西」柏山に於いて「普請」命令遂行での長期在陣を慰労し、終了したら
       徳川家康(「家康」)・羽柴秀次(「中納言」)の指図次第に早々帰陣する旨の羽柴秀吉「御朱印」を発給することを通達。
       詳細は大谷吉継(「大谷刑部少輔」)に伝達させる。〔「上杉家文書」〕
  9月13日 浅野長政、陸奥国平泉高館に到着。〔「大阪城天守閣所蔵文書」〕
  9月14日 佐竹義重、上洛。〔「奈良文書」〕
  9月14日 佐竹義重、「内々」の出仕の報告をするも、取り次ぎ担当の増田長盛・石田三成は不在であったため、石田正澄へ出仕を
       報告する。〔「奈良文書」〕
  9月15日 前田玄以・施薬院全宗、「御使」として佐竹義重の内々出仕報告を取り次ぐ。〔「奈良文書」〕
  9月18日 羽柴秀吉(「殿下様」)、聚楽第内の毛利邸へ御成。〔「毛利家文書」B‐865〕
  9月18日 羽柴秀吉、上杉景勝(「羽柴越後宰相中将」)へ出羽国仙北および秋田方面での検地の件で処置を入念に遂行してから上洛
       することを指示し、長期在陣を慰労しつつも検地完遂を命令。詳細は木下吉隆(「木下半介」)に伝達させる。
       〔「上杉古文書」〕
  9月19日 羽柴秀吉、能九番を観賞。〔「毛利家文書」B‐865〕
  9月20日 浅野長政(「浅野弾正少弼長吉」)、八戸政栄(「八戸殿」)へ八戸家中の「たなぶのやすミ」が所持している栗毛の名馬を
       所望する旨を通達。〔「遠野南部家文書」〕
  9月21日 建部賢文、没。〔『日本史人物生没年表』〕
  9月23日 羽柴秀吉、聚楽第において千利休点前による茶会を開催。
  9月25日 羽柴秀吉、淀を経由して摂津国有馬へ湯治に赴く。〔『兼見卿記』「奈良文書」〕
  9月25日 吉田兼見、前田玄以邸を訪問。次いで稲葉重通邸を訪問。〔『兼見卿記』〕
  9月28日 浅野長政(「浅野弾正長吉」)、陸奥国浄玄寺へ田地1段・居屋敷を寄進する。〔「光徳寺文書」〕
  9月28日 浅野長政(「浅野弾正少弼長吉」)、陸奥国光林寺へ田地1町・畠1町・居屋敷を寄進する。〔「光林寺文書」〕
  9月28日 佐竹義重、一族の小瀬義久へ自身の上洛及び石田正澄・前田玄以・施薬院全宗らの取次状況を報告。〔「奈良文書」〕
  9月29日 山科言経、大村由己(梅庵)へ「暦数」を返却する。〔『言経卿記』〕
  9月29日 大村由己(梅庵)、早朝に羽柴秀吉に随行するため摂津国有馬へ湯治に赴く。〔『言経卿記』〕
  9月29日 浅野長政(「弾正少弼長吉」)、「三ヶ尻加賀」へ「事跡公事」を「免許」する。〔「三ヶ尻文書」〕

10月
 10月 3日 羽柴秀吉、本願寺顕如に摂津国有馬への湯治見舞い(小袖3)を謝す。〔「本願寺文書」三〕
 10月 3日 羽柴秀吉、本願寺教如に摂津国有馬への湯治見舞い(蒲団)を謝す。詳細は木下吉隆に伝達させる。〔「光明寺文書」〕
 10月 3日 羽柴秀吉、興正寺佐超に摂津国有馬への湯治見舞い(道服)を謝す。詳細は木下吉隆に伝達させる。〔「興正寺文書」〕
 10月 4日 羽柴秀吉、摂津国有馬湯山において茶会を催す。
       この茶会には千利休・小早川隆景・有馬則頼・善福寺・阿弥陀堂・池坊・山崎片家・津田宗及・掃部が参加。
       〔「善福寺所蔵文書」、「余田文書」〕
 10月 4日 羽柴秀吉、多賀秀種に摂津国有馬への湯治見舞い(裏付草履3足)を謝す。
       詳細は木下吉隆に伝達させる。〔「多賀文書」一〕
 10月 4日 浅野長政(「浅野弾正少弼長吉」)、陸奥国平泉圓隆寺(毛越寺末寺)へ木村吉清(「木村伊勢守」)を介して寺領100石
       を安堵するので「寺納」するよう通達。〔「奥州平泉文書」‐115(「毛越寺文書」)〕
 10月 4日 浅野長政(「浅野弾正□□長吉」)、中里配志和社の「山まつり」・「田畠禰宜はいふん地面」の「訴訟」については
       木村吉清(「木村伊勢守」)の指示を遵守すること、妨害する者があれば言上することを通達。〔「梅森文書」〕
 10月 4日 木村吉清(「木村伊勢守吉」)、陸奥国平泉圓隆寺(毛越寺末寺)へ寺領100石を安堵す。
       〔「奥州平泉文書」‐116(「毛越寺文書」)〕
 10月 5日 羽柴秀吉、沢源六に摂津国有馬への湯治見舞い(芳野紙30束)を謝す。詳細は木下吉隆に伝達させる。
       〔「沢氏古文書」七〕
 10月 6日 羽柴秀吉、播磨国有馬湯山にて浅野長政からの書状を披見す。〔「大阪城天守閣所蔵文書」〕
 10月 7日 羽柴秀吉、播磨国有馬湯山より浅野長政(「浅野弾正少弼」)へ「南部境目」および「和賀」・「稗貫」に命令を通達し
       去9月13日に陸奥国平泉高館にまで進軍したことを諒承、南部信直(「南部かた」)へは羽柴秀吉「御朱印」を発給する
       ので、南部信直に対して和賀・稗貫等が「愚意」を発しないように処置すること、任務遂行の後には「余之衆」を京都へ送還し
       浅野長政へは逗留命令を下すこと、木村吉清(「木村伊勢守」)に「仕置」等を厳重に通達させてから上洛すべきことを通達。
       詳細は木下吉隆(「木下半介」)に伝達させる。更に「百姓刀狩」などを厳重に通達するよう命令。
       〔「大阪城天守閣所蔵文書」〕
 10月 8日 羽柴秀吉、多賀秀種に摂津国有馬への湯治見舞い(手行灯2)を謝す。詳細は木下吉隆に伝達させる。〔「多賀文書」一〕
 10月 8日 羽柴秀吉、建部高光・長束直吉・田那部与左衛門入道に摂津国有馬への湯治見舞い(松茸200本)を謝す。
       詳細は中江直澄・木下吉隆に伝達させる。〔「田辺文書」〕
 10月11日 山科言経、北御方(本願寺如春:顕如室)を訪問。
       来14日に羽柴秀吉が摂津国有馬からの帰途に本願寺へ立ち寄る通知を受け、西御方(興正寺佐超室)・下間仲康(下間少進法印)ら
       と羽柴秀吉への進物用意に関して談合する。〔『言経卿記』〕
 10月12日 大村由己(梅庵)、摂津国有馬湯山より帰京。〔『言経卿記』〕
 10月13日 山科言経、大村由己(梅庵)が帰京した報に接し、大村由己(梅庵)を訪問する。〔『言経卿記』〕
 10月13日 前田利長(「孫四利長」)、不破直光(「不破彦三」)へ前田利家(「利家」)が明日出羽国由利郡仁賀保に陣替するので
       長連竜(「長九」)と前田先手勢が相談し三島山(「見崎山」)までの防御線を堅固にするよう指示。出羽国庄内の件はたとえ
       「野陣」なっても軍勢を集結させ布陣すること、明日に対面して伝達することを通知。〔『寸錦雑編』〕
 10月14日 羽柴秀吉、摂津国有馬より摂津国大坂城に帰城。〔『言経卿記』〕
 10月16日 羽柴秀吉、本願寺を訪問。〔『言経卿記』〕
 10月17日 大友義統、一万田八郎へ小田原参陣の際の銀子送付を謝し、詳細を田原親家に伝達させる。〔「一万田文書」‐4〕
 10月17日 大友義統、小佐井右馬助へ小田原参陣の際の銀子送付を謝し、詳細を田原親家に伝達させる。
       〔「大友家文書録」B‐2205〕
 10月18日 前田利家、在京の木村作右衛門尉・村井吉忠(「村井又兵衛」)へ羽柴秀吉(「上様」)に出羽国仙北・庄内・由利に於いて
       「一揆」が発生した旨を報告することを依頼。〔『温故足徴』〕
 10月19日 大谷吉継(「大谷刑部少輔」)、小野寺義道(「小野寺遠江守」)・大森五郎へ出羽国仙北上浦郡790貫410文の
       「指出目録」を下す。〔「小野寺文書」〕
 10月19日 大谷吉継(「大谷刑部少輔」)、小野寺義道(「小野寺遠江守」)・大森五郎へ出羽国仙北上浦郡2675貫873文の
       「御蔵納帳」を下す。〔「小野寺文書」〕
 10月19日 小野寺義道重臣4名、大谷吉継(「大谷刑部少輔」)へ出羽国仙北上浦郡横手の「かけ米未進」分を大森在番の
       色部長実(「色部殿」)へ進納することを約す。〔「色部文書」〕
 10月20日 大谷吉継(「大刑少吉継」)、色部長実(「色部次郎兵衛尉」)へ出羽国仙北郡の「御蔵納」および「御年貢収納」等を後事
       を託す。〔「色部文書」〕
 10月20日 大谷吉継(「大谷刑部少輔」)、色部長実(「色部次郎兵衛尉」)へ出羽国上浦郡年貢等の件で全5ヶ条の「覚」を下す。
       また色部長実は出羽国仙北上浦・北浦両郡「奉行」として残留させるので、色部長実へ「逆意」を抱く者は「公儀への慮外」で
       あるので後日「成敗」を加えることを指示。〔「色部文書」〕
 10月20日 藤野吉久(「藤野角左衛門吉久」:大谷吉継家臣)、色部長実(「色部修理大夫」)へ出羽国仙北大森郷の年貢算用を行う。
       〔「色部文書」〕
 10月20日 直江兼続(「直江兼続」)、色部長実(「色部」)へ出羽国仙北郡内の「土貢」についての「覚」を下す。〔「色部文書」〕
 10月20日 色部長実(「色部修理大夫長実」)、出羽国仙北大森郷の「御年具銭」を収納す。〔「色部文書」〕
 10月20日 色部長実(「色部」)、出羽国仙北郡に於いて「諸道具覚」(武具類)を受け取る。〔「色部文書」〕
 10月22日 佐貫秀綱(「佐貫中務少輔秀綱」)、出羽国仙北郡大森に「御在番」として駐留中の色部長実(「色部殿」)へ「御奉公」を
       誓う「起請文」を提出。〔「色部文書」〕
 10月22日 出羽国仙北郡横手城宿老衆、小野寺康道(「康道様」:城主小野寺義道弟)へ以前より出羽国仙北郡湯沢に在陣中の
       鮭延愛綱(「鮭延殿」:最上義光家臣)に対して湯沢「地下之者共」が動揺していることにつき、色部長実(「色部殿」)より
       音信を以ての帰陣督促の取り成しを依頼する。〔「色部文書」〕
 10月22日 出羽国仙北郡横手城宿老衆、大森五郎(「五郎殿」)へ最上義光(「最上出羽守」)が出羽国仙北郡大森方面に在陣している
       ことにつき、仙北郡「上下」は動揺しているという報告を受けており、最上義光(「彼御方」)の「御計策」については兼ねて
       より存じているし、以前よりそのような行動をしていたので、出羽国仙北郡に於いて「一き」を煽動する可能性が高く、
       この旨を駐留中の色部長実(「色部殿」)へ報告すると共に、大森五郎へも武略を以て備えること、「越国衆」の助勢を依頼
       することを通知。
       また重ねて最上義光(「義光」)の進出につき色部長実(「色部殿」)の「御前」へ詳細に報告し処置してもらうことを通知。
       〔「色部文書」〕
 10月23日 鮭延愛綱(「鮭延愛綱」:最上義光家臣)、色部長実(「色部殿」:上杉景勝家臣)へ最上軍の出羽国大森口での残留は
       大谷吉継(「大刑少」)の「御指図」を受けてのことであり、鮭延愛綱自身の在陣は「私」の行動ではなく、「御代官衆」が
       出羽国庄内境目の山麓を越えて到来するという情報により大森城「破却」を実行した後に帰陣することは「上使」より通達
       されての在陣であること、色部長実よりの「御書面」の通り「泰平之御置目」が下されたのであるから出羽国「国中往来自在」
       となる様に努力する意思を報ず。〔「色部文書」〕
 10月24日 成合邦景(「成合平左衛門邦景」:木村吉清家臣)、大崎・葛西一揆の「大野宮内」へ包囲解除の代償として人質解放と
       羽柴秀吉(「殿下」)へ訴状を捧げ、かつて大崎・葛西両家が所持していた領知を「宛行半分」を約する旨を通達。
       〔『奥羽永慶軍記』〕
 10月25日 鮭延愛綱(「鮭延愛綱」:最上義光家臣)、色部長実(「色部殿」:上杉景勝家臣)へ重ねての注進を謝し、出羽国大森口
       での「明陣」となり一両日中に帰陣する旨を報告。〔「色部文書」〕
 10月25日 青川道房(「青川兵庫頭」)・戸沢道茂(「戸沢信濃守」)、出羽国仙北郡に「御城番」として駐留中の色部長実へ
       「御奉公」を誓う「起請文」を提出。〔「色部文書」〕
 10月26日 最上義光家臣の寒河江光俊(「寒河江外記助光俊」)・鮭延愛綱(「鮭延愛綱」)、色部長実(「色部殿」:上杉景勝家臣)
       へ重ねての注進を謝し、出羽国への長期在番を慰労。また明日未明に最上軍は帰陣する旨を報告。〔「色部文書」〕
 10月28日 細川幽斎、山科言経を訪問し夕食を共にする。入夜に帰京。〔『言経卿記』〕
 10月 吉日 羽柴秀次(「秀次」)、大和国多武峯惣山中へ羽柴秀長(「大和大納言秀長卿」)の病気本復を祈願するために「大職冠」を
       大和国郡山から大和国多武峯へ「帰山」することを許可す。〔「談山神社文書」〕
 10月  日 古田重然、美濃国不破郡榎戸村へ役儀免除を条件に還住命令を下す。〔「若山光弘氏所蔵文書」‐2〕

11月
 11月 3日 羽柴秀吉、参内して関東・奥羽平定を復命。
 11月 8日 蒲生氏郷(「羽柴忠三郎氏郷」)、「武藤長門守」・駒井重勝(「駒井八右衛門尉」)・「寿千寺」へ陸奥国苅田郡駐屯の
       宮部肥前守に城普請を命令した旨の披露を依頼。
       また伊達政宗(「政宗」)から「御請持」の進上を受けたのでこの披露も依頼。〔『武家手鑑』‐下30〕
 11月 8日 南部信直(「南部大膳大夫信直」)、陸奥国平泉圓隆寺(毛越寺末寺)へ2度の注進を受けて寺領は浅野長政(「弾正殿」)
       の「御意」により安堵されたものであるので別条は無いので心配は無用であること、また南部信直「相応之儀」は責任を持って
       取り計らう旨を通達。〔「奥州平泉文書」‐117(「毛越寺文書」)〕
 11月11日 伊達政宗(「政宗」)、中目弥五郎へ今度の忠節を賞し「望之儀」を伊達政宗(「政宗」)が諒承したこと、「京都之儀」は
       相違無く報告することを通達。〔「宮城県立図書館所蔵文書」〕
 11月15日 蒲生氏郷(「羽柴忠三郎氏郷」)、伊達政宗(「伊達左京大夫」)へ全5ヶ条の「覚」を下す。
       また羽柴秀吉(「上」)へも伊達政宗「心中」の弁明を助言することを通達。〔「伊達家文書」〕
 11月21日 宮部継潤(「中務卿法印継潤」)、宮部長熙(「宮部兵部少輔」)へ羽柴秀吉(「相国様」)の「御諚」により全3ヶ条の
       「条々」として家督譲渡を与える。〔「陸中宮部文書」‐921、「宮部文書」〕
 11月25日 前田玄以(「民部卿法印玄以」)、京都大徳寺へ去年実施された「御検地」の結果、寺領大宮郷の「出米」の残分58石3斗
       は大徳寺領目録の北山の分とする旨を通達。〔「大徳寺文書」@‐109〕
 11月26日 羽柴秀長、河内国天野山金剛寺三綱へ所労見舞の「札守」を謝す。詳細は疋田就長(「疋田右近」)に伝達させる。
       〔「金剛寺文書」‐355〕
 11月29日 浅野長政(「浅野弾正小弼長吉」)、南部信直(「南部大膳大夫」)へ「葛西大崎一揆蜂起」に対し早速陸奥国和賀周辺まで
       出撃したことを賞し、「悪党」等の「御成敗」を督促。また浅野長政自身も駿河国府中より引き返したことに触れ、陸奥国南部
       方面に駐留させている浅野家中の安全を依頼し、浅野長政もやがて「葛西大崎」方面へ出撃する予定を通達。
       〔「盛岡南部家文書」〕
 11月    前田利家(「筑」)、陸奥国津軽より国元へ任務終了のため怪人することを通知。〔『寸錦雑編』〕

12月
 12月 5日 前田利家、上洛す。〔「伊達家文書」◎〕
 12月 7日 羽柴秀吉(「秀吉」)、大崎義隆(「大崎左衛門佐」)へ陸奥国内本知分で「検地」を実施し、3分の1を宛行う旨を通達。
       〔「楢山文書」〕
 12月18日 大谷吉継(「大谷刑部少輔吉継」)、出羽国在番中の色部長実(「色部修理」)を慰労し、小野寺義道(「小野寺孫十郎」)
       父子の身上が安泰となり羽柴秀吉より出羽国仙北領が「御知行」が下されること、来春に小野寺義道(「孫十郎殿」)が下国
       した際に城砦の悉くを渡すべきことを内報。また小野寺義道舎弟の小野寺康道(「孫五郎殿」)の件も小野寺義道(「孫十」)
       の下国まで馳走を依頼する。〔「色部文書」〕
 12月18日 古田重然、美濃国妙應寺へ寺領指出について指示を下す。〔「妙應寺文書」‐11〕
 12月19日 羽柴秀吉、小野寺義道(「小野寺孫十郎」)へ出羽国仙北上浦郡44350石4斗4升9合を安堵す。〔「小野寺文書」〕
 12月19日 羽柴秀吉、小野寺義道(「小野寺孫十郎」)へ出羽国仙北上浦郡「御検地目録長」1巻の内31600石9斗6升を安堵す。
       〔「小野寺文書」〕
 12月19日 羽柴秀吉、小野寺義道(「小野寺孫十郎」)へ出羽国仙北上浦郡「御指出目録」1冊の内31600石9斗6升を安堵す。
       〔「小野寺文書」〕
 12月19日 羽柴秀吉、「本堂伊勢守」へ出羽国本堂領を安堵す。〔『本堂家系譜』〕
 12月21日 羽柴秀次(「秀次」)、「角鷹」1居を献上してきた小野寺義道(「小野寺孫十郎」)へ鷹を格別に「自愛」している旨の
       詳細を大谷吉継(「大谷刑部少輔」)を介して伝達する。〔「小野寺文書」〕
 12月24日 羽柴秀吉、出羽国由利郡の「岩屋能登守」へ891石1斗8升を「扶助」するので「領知」とすべき事を通達。
       〔「岩屋文書」〕
 12月24日 羽柴秀吉、出羽国由利郡の「下村彦次郎」へ175石を「扶助」するので「領知」とすべき事を通達。〔「下村文書」〕
 12月24日 羽柴秀吉、出羽国由利郡の「石沢二郎」へ398石を「扶助」するので「領地」とすべき事を通達。〔『出羽国新風土記』〕
 12月24日 浅野長政(「長吉」)、伊達政宗(「伊達左京大夫」)へ蒲生氏郷(「羽忠」)が「人質相違」を理由に陣払をしないのは
       伊達政宗の仕合、すなわち「葛西・大崎」に対する「一途御究」の返事を諒承し浅野長政は上洛することにしていたこと、
       先の「直談」の通り「葛西・大崎一揆之者共」を助命しつつも各城を収公するのは伊達政宗にとって良きことであり、
       木村吉清(「伊勢守」)も「主」(葛西・大崎氏)に気遣い取り立てているにもかかわらず、伊達政宗は手立を「御勝手に成」
       していることに触れ、「何と成共貴所御為可然様にと存」じているので片倉景綱(「小十郎」)へも詳細を伝達すること、
       伊達政宗も具合が良くなり次第待機することを指示し、先日は「御内衆」が伊達政宗に対し「気遣の様」を見せている様なので
       急ぎ国元へ帰還することが肝要であること、「具談合」はしないので再度伊達政宗の意見を承りたい意向を伝達。
       〔『南部根元記』〕
 12月24日 大谷吉継、石川貞清へ美濃国加々島梅寺の検地帳に押した印判と同様の印判を署名の下に押した書状を遣わす。
       また大谷吉継が石川貞清に先年申し付けた美濃国加々島梅寺の検地について失念していた旨を詫び、大仏寺屋敷の件については
       増田長盛に指示が下されているので、そちらと相談するよう通達。〔「乙津寺文書」‐6〕
 12月27日 羽柴秀吉、「黄鷹」を献上してきた小野寺義道(「小野寺孫十郎」)へ謝意を表し、詳細を大谷吉継(「大谷刑部少輔」)に
       伝達させる。〔「小野寺文書」〕
 12月29日 河島重続(「河島市佑重続」:前田利家家臣)、片倉景綱(「片倉小十郎」)に前田利家(「筑前守」)への音信を謝し、
       陸奥国津軽方面に「仕置」が通達されて津軽為信(「南部右京亮」)と南部「足弱衆」が上洛すること、
       出羽国仙北・由利・庄内一揆を鎮定したこと、前田利家は去11月に加賀国へ帰陣し去12月5日に上洛したこと、
       羽柴秀吉(「上様」)の御前で津軽為信らが厚遇されたことを通知。また「葛西大崎一揆蜂起」を鎮圧するための
       伊達政宗「出馬」を慰労し早速の「退治」を賞するも、未だ鎮圧していないとの注進のために油断しないよう申し送る。
       〔「伊達家文書」◎〕
 12月29日 葛西晴信(「晴信」)、某(宛名欠)へ羽柴秀吉(「関白秀吉公」)が小田原北条氏父子を「御誅罰」した際に不参を理由に
       「領地」を召し上げられたことについて、浅野長政(「浅野長政(ママ)」)より本領回復の「内意」を受けたことを通知。
       〔「伊東文書」〕
 12月 吉日 伊藤秀盛、美濃国石通白杉本坊へ豊臣一門の武運長久・家門安全・息災延命などの祈祷を行う。〔「櫻井文書」‐27〕


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