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天正17(1589)年 1月 1月 1日 羽柴秀吉、未明より足利義昭(「昌山道久」)・織田信雄・織田秀信・羽柴秀長・宇喜多秀家ら諸大名および公家衆が大坂城に 出仕させ、全員より新年祝賀の太刀進上を受ける。〔「後編旧記雑録」〕 1月10日 羽柴秀吉、入京。 1月13日 羽柴秀吉、参内して歳首を賀す。 2月 2月25日 何者かによって聚楽第南門に羽柴秀吉を中傷する落書きがなされる。 2月29日 羽柴秀吉、大坂城に帰城。 3月 3月13日 羽柴秀吉、茨木・淀を経由して入京。 3月14日 羽柴秀吉、小西隆佐(「小西和泉入道」)へ「琉球国」からの使者来航にあたり銀子100枚を石田三成に渡すべき旨を命令。 〔「道川三郎左衛門文書」〕 3月27日 大友義統、怒留湯長門守へ塩法印(大友義乗)上洛の上で羽柴秀吉と対面する予定を通知。〔「大友家文書録」B‐2188〕 3月28日 金森可重、美濃国吉城郡あきない町へ全3ヶ条の定を下す。〔「熊崎喜右衛門氏所蔵文書」‐1〕 5月 5月 4日 羽柴秀吉、大坂城に帰城。 5月17日 羽柴秀吉、入京し聚楽第に入る。 5月19日 大友義述(「豊臣義述」)、「従五位下」に昇進。〔「柳河大友家文書」第1巻‐14〕 5月19日 大友義述(「従五位下豊臣義述」)、「侍従」に任官。〔「柳河大友家文書」第1巻‐15〕 5月20日 羽柴秀吉、公家衆・諸大名に金銀を分与。〔「お湯殿の上の日記」〕 5月27日 羽柴秀吉側室の茶々(淀殿、浅井氏)、淀城において男子を出産し「棄(鶴松丸)」と名付る。 5月 晦日 毛利輝元、多賀彦三郎へ羽柴秀吉「取次衆」の内意により方広寺大仏用の材木供出が延期になった旨が通達されたことを報ず。 〔「多賀文書」‐788〕 6月 6月 6日 金森長近、美濃国保井戸の小右衛門尉へ年貢諸役を免除。〔「高山郷土館所蔵文書」‐4〕 6月12日 上井覚兼、没。〔『日本史人物生没年表』〕 6月18日 羽柴秀吉、龍造寺政家へ佐敷一揆発生に際し浅野長政派遣の旨を通知、更に浅野長政への従軍を命令。 〔「龍造寺家文書」‐187〕 6月29日 宇喜多秀家(「秀家朝臣」)、備前国金山観音寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「柳井家文書」‐63〕 7月 7月10日 羽柴秀吉、島津義久(龍伯)へ方広寺大仏殿用の柱および島津分領中で刀狩した刀・脇指30000腰の進上を賞す。 詳細は石田三成に伝達させる。〔「島津家文書」A‐780〕 7月19日 浅野康長(「浅野平右衛門次吉」)、初めて音信する「和稗殿」へ「御身上之儀」を詳細な報告を受けて「稗貫殿」は江刺氏 と申し合わせて南部信直(「南部」)に「御働」くことを促し、浅野長政(「弾正」)も近日中に陸奥国稗貫方面へ「陣参」 する予定であるので浅野勝左衛門(「勝左」)と協議し稗貫殿の「御身上」に疎意無き様に取り計らうことを通知。 〔『和稗記録』〕 7月20日 下間頼廉(「刑部卿法印頼廉」)、本願寺顕如(「御門跡様」)へ音信してきた陸奥国善証寺へ去春「寺内」における 「関白様御折檻人」の糺明の際の気遣いを謝し、羽柴秀吉(「関白様」)より「御置目」が下されたことなどを通知。 〔「善証寺文書」、「光徳寺文書」〕 7月28日 大友義統、京都瑞峯院へ去春在京時の約束を遵守。 約束通り、豊後国内の興導寺・建福寺・延命寺・無量光寺・浮津寺の寺領を寄進。〔「京都瑞峯院文書」‐10〕 8月 8月 2日 羽柴秀吉、南部信直(「南部大膳大夫」)へ上洛の路次安全を上杉景勝(「越後宰相」)に通達していること通知。 詳細は前田利家(「羽柴加賀中将」)・浅野長政(「浅野弾正少弼」)に伝達させる。〔「盛岡南部家文書」〕 8月 2日 羽柴秀吉、南部信直(「南部大膳大夫」)へ上洛の路次安全を上杉景勝(「越後宰相」)に通達していること通知。 詳細は前田利家(「羽柴加賀宰相」)・浅野長政(「浅野弾正少弼」)に伝達させる。〔『祐清私記』〕 8月 2日 蜂屋頼隆、越前国の高島屋伝右衛門へ地子を免許。〔「小宮山伝右衛門文書」〕 8月 9日 羽柴秀吉、島津義久(龍伯)へ大仏油蠣造立の唐人に国役を免除すべきを命令。〔「島津家文書」A‐790〕 8月 9日 羽柴秀吉、陳元明へ大仏油蠣調製の褒美として国役免除と屋敷の扶助を許可。〔「陳文書」‐1〕 8月20日 前田利家(「羽筑利家」)、南部信直(「南部大膳大夫」)へ上洛にあたり羽柴秀吉「御朱印」が発給されたこと、 上杉景勝(「越後」)へも路次等の馳走を命令する羽柴秀吉「御朱印」が下されたことを通知。 またこの秋か来春には羽柴秀吉(「上様」)が出馬して「出羽奥州両国之御仕置」を通達するということが「御諚」となった こと、前田利家が「北国之人数悉」く率い先手として秋田表へ進撃する予定であること、秋田の件について当年は南部信直と 上杉景勝(「上杉」)へ「蔵納」とするので「奉行」を派遣することを通達。〔「盛岡南部家文書」〕 8月23日 鶴松丸・淀殿、大坂城に移り、朝廷は勅使を派遣し太刀を下賜し、多数の公家衆が大坂に下向し祝賀。〔「言経卿記」〕 8月25日 前田玄以、仁和寺殿へ「惣在庁職」安堵を伝達。〔「仁和寺文書」〕 9月 9月 1日 羽柴秀吉、一万石以上の諸大名に妻子の在京を命令。〔「蓮成院記録」〕 9月 6日 大友義統、陳元明へ大仏油蠣調製のために2度の上洛を賞し、羽柴秀吉の「御朱印」により国役免除および居屋敷扶助を実行。 〔「陳文書」‐2〕 9月15日 葛西晴信(「晴信」)、須藤伊豆守(「須藤伊豆」)へ先年渡した「太刀」を今度「京都衆」が出立するというので鍛冶職に 一見させておくよう指示する。〔「首藤文書」〕 10月 10月 5日 北御方様(本願寺如春:顕如室)・本願寺准如・西御方(興正寺佐超室)ら、摂津国有馬湯山へ湯治に赴く。 〔『言経卿記』〕 10月 7日 疋田就長・福知某(ともに羽柴秀長家臣)、大友義統へ「内々」の沙汰を通知。豊後国内での検地貫徹命令、豊後在国衆の 守備を堅固にすること、女子・小者を召し寄せることは、重ねて発せられた羽柴秀吉命令であること。毛利輝元などが「御内方」を 在京させていること、羽柴秀長でさえも「御内様」を聚楽第に滞在させている例をあげ、大友義統も家族を在京させることを 催促する。更に羽柴秀吉の大和国「御成」、四国見物の「御成」、美濃国検地のこと、北条氏政上洛予定のことを通知。 詳細は花岳斎(大友家臣)に伝達させる。〔「大友家文書録」B‐2189〕 10月17日 羽柴秀吉、諸大名・公家衆を従え奈良・郡山に下向し鷹狩りを行う。 10月20日 羽柴秀吉、大坂城に帰城。 10月20日 北御方様(本願寺如春:顕如室)・西御方(興正寺佐超室)、摂津国有馬湯山から帰寺。〔『言経卿記』〕 10月20日 帥法印歎仲、河内国金剛寺三綱へ「関白様御召之御酒」献上について、寺中にて「上之御酒」を選出、入念に封じて送付する よう指示。「新酒」であること、「上吉之御酒」は禁止されていることなどを確認。〔「金剛寺文書」‐350〕 11月 11月 4日 豊臣柴秀長、摂津国有馬湯山へ湯治に赴く。〔『多聞院日記』〕 11月14日 徳川家康、藤堂高虎へ羽柴秀吉(「上様」)が吉良において御忍の鷹狩りを実施するため15日に予定されていた上洛が延期に なったこと、羽柴秀長(「亜相」)が病気によって摂津国有馬へ湯治した様子を見舞い、更に朝日姫(羽柴秀吉異父妹)の病状 回復を報告。藤堂高虎に対して上洛後の面会を希望する。〔『高山公実録』三〕 11月16日 浅野長政・石田三成、美濃国不破郡南宮神社へ羽柴秀吉から360石の寄附があった旨を通達。〔「南宮神社文書」‐2〕 11月18日 木村常陸介(「一」)、美濃国坂本村へ検地により4石の年貢米を義務付ける。〔「横蔵寺文書」‐8〕 11月19日 増田長盛、伊藤秀盛へ毛利広盛に対して知行を渡すよう指示。〔「毛利文書」‐20〕 11月19日 伊藤秀盛、毛利広盛へ増田長盛の指示により大須・八上・八上川東・野方を渡す。 出米に関しては石田村より池田輝政へ渡すよう指示を下す。〔「毛利文書」‐21〕 11月21日 羽柴秀吉、竹中重門へ美濃国内に5000石を宛行う。〔「竹中文書」‐2〕 11月23日 羽柴秀吉、美濃国神護寺勧学院へ寺領として52石6斗を寄附。〔「神護寺文書」‐1〕 11月23日 羽柴秀吉、美濃国北方圓鏡寺へ寺領として51石2斗を寄附。〔「圓鏡寺文書」‐2〕 11月23日 羽柴秀吉、美濃国吉田寺(新長谷寺)へ寺廻りに52石を寄附。〔「新長谷寺文書」‐8〕 11月24日 羽柴秀吉、北条氏直へ宣戦布告状を発す。〔「真田文書」〕 11月24日 羽柴秀吉、この日付で小田原後北条氏に対し宣戦布告状を送付し、諸大名に対しては出陣準備を命令。〔「鹿苑日録」〕 11月26日 羽柴秀長、京都から大和国郡山城へ帰還。〔『多聞院日記』〕 12月 12月 1日 羽柴秀吉、京都大徳寺へ朱印状を以て地子以下を免除す。〔「大徳寺文書」@‐108〕 12月 3日 羽柴秀長、摂津国有馬湯山から帰京し病気を煩う。〔『多聞院日記』〕 12月 3日 興福寺門跡多聞院で、羽柴秀長病気回復の祈祷を開始。〔『多聞院日記』〕 12月 4日 羽柴秀吉、後北条氏征伐に際して吉川広家に尾張国星崎城の在番を命令。〔「吉川家文書」@‐113〕 12月 8日 羽柴秀吉、宮部継潤(「宮部中務卿法印」)へ「定軍役事」を下す。 宮部継潤(「中務卿法印」)は2000人、垣屋恒総(「垣屋隠岐守」)は400人、荒木重堅(「木下備中守」)は900人 亀井茲矩(「亀井武蔵守」)は550人、南条元続(「南条伯耆守」)は1500人を動員するという編制であった。 〔「宮部文書」〕 12月 8日 羽柴秀吉(「秀吉」)、宮部継潤(「宮部中務卿法印」)へ因幡国内4万3600石・但馬国二方郡内7370石、 合計50970石を「扶助」する。 その内、1万石は「無役」とするが、残り4万石に対しては2000人の「軍役」を課する旨を通達。〔「宮部文書」〕 12月 8日 羽柴秀吉、宮部継潤(「宮部中務卿法印」)へ因幡国・但馬国内の50971石を宛行うので「領知」とすべきことを通達。 〔「宮部文書」〕 12月13日 羽柴秀吉、摂津国大坂城に帰城。 12月18日 毛利輝元、毛利家中へ東国出陣に際しての軍船揃についての指示を下す。〔「多賀文書」‐783〕 12月20日 羽柴秀吉、入京し聚楽第で初めて越年。 この年 羽柴秀吉、大友義統へ豊後国「大鷹巣」に番を設置し適時鷹を献上すべきを命令。〔「大友家文書録」B‐2190〕 この年 羽柴秀吉、大友義統へ豊後国中知行方検地を命令し、家中指出の員数を以て支配するよう命令。 詳細は羽柴秀長に伝達させる。〔「大友家文書録」B‐2224〕 12月24日 羽柴秀吉、黄鷹1居・蒼鷹兄1居を贈ってきた大浦為信(「南部右京亮」)へ謝意を通達。 詳細は増田長盛(「増田右衛門尉」)・木村吉清(「木村弥一右衛門尉」)に伝達。〔「津軽家文書」〕 12月26日 森忠政、美濃国大寺山願興寺へ年貢18石を宥免。〔「願興寺文書」‐1〕 12月26日 森忠政、美濃国巨溪永保寺へ年貢31石余を宥免。〔「永保寺文書」‐30〕 12月 日 大谷吉継(「刑部少輔」)、越前国西福寺へ全5ヶ条の「禁制」を下す。〔「西福寺文書」〕 この年 羽柴秀吉、大友義統へ豊後国は「如五畿内辺」く検地を命令。国侍・妻子らの在府を命令。〔「大友家文書録」B‐2225〕 この年 天草種元(肥後国天草本渡城主)、没。〔『日本史人物生没年表』〕 志岐麟泉、没。〔『日本史人物生没年表』〕