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        【 天下統一期年譜 1588年 】

天正16(1588)年

 1月
   春    稲葉一鉄、羽柴秀吉より聚楽第行幸に際して上洛するよう命令を受ける。〔「稲葉文書」‐93〕
  1月 6日 羽柴秀吉、入京。
  1月12日 羽柴秀吉、大友義統へ肥州一揆の蜂起に際し小西行長を派遣したこと、毛利輝元も出陣し小早川隆景・黒田孝高・毛利吉成が
       肥州表に在陣していること、羽柴秀長・羽柴秀次・宇喜多秀家・四国衆の出陣予定を通知。「九州之儀者五畿内同前」と認識
       している旨を通達。〔「大友家文書録」B‐2150〕
  1月13日 足利義昭(征夷大将軍)、大坂で落飾し昌山道久と号す。〔『公卿補任』〕
  1月13日 足利義昭(昌山道久)、准三宮消息宣下を受ける。〔『公卿補任』〕
  1月13日 羽柴秀吉、准三后の足利義昭(「昌山道久」)と共に参内。
  1月13日 島津義久、新納忠元へ旧冬の伊集院忠棟下向以来、羽柴秀吉(「関白様」)の機嫌が良く、島津氏家臣(「諸歴々」)を褒されて
       面目を保てたことを通知。〔「旧記雑録後編」A‐416〕
  1月14日 前田玄以、等持院へ先年通達した大仏殿廻の松苗供出を督促。〔「等持院文書」〕
  1月19日 羽柴秀吉、吉川広家へ豊前国賀来・福嶋における戦功を賞す。〔「吉川家文書」@‐112〕
  1月19日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ去12月9日付の書状を京都において披見し和仁親実・辺春親行誅罸を賞す。更に「上使」として四国衆・
       浅野長政・加藤清正・小西行長を派遣する旨を通達。〔「鍋島家文書」‐16〕
  1月21日 島津義久、山田越前守へ下向の際の扶助を命令。〔「旧記雑録後編」A‐417〕

 2月
  2月 2日 近衛前久、某(島津義久?)へ自身の人的交流の無き旨に触れ、昇殿の件に関する問い合わせは直に今出川(今出川晴季?)
       へするよう通知。〔「旧記雑録後編」A‐418〕
  2月 2日 前田玄以(「民部卿法印玄以」)、山城国八瀬庄の境界を設定し、入山し柴木伐採する者があれば「郷中」にて確保し、
       早急に報告を命令。「成敗」することを明示。〔「八瀬童子会文書」‐86〕
  2月 3日 島津義弘、北郷忠虎・北郷時久へ疎略にしない旨の全五ヶ条にわたる起請文を提出。〔「旧記雑録後編」A‐419〕
  2月 5日 新納忠元、細川藤孝・石田三成へ島津義弘の帰城を通知。〔「旧記雑録後編」A‐560〕
  2月11日 羽柴秀吉、島津義弘へ肥後国境目からの帰陣を命令。また日州知行分の出入について指示を下す。
       詳細は石田三成に伝達させる。〔「島津家文書」A‐952・「旧記雑録後編」A‐422〕
  2月11日 羽柴秀吉、北郷時久・北郷忠虎へ肥後国境目からの帰陣を命令。詳細は石田三成に伝達させる。〔「旧記雑録後編」A‐420〕
  2月11日 島津義久、北郷時久へ自身上洛中の北郷三久兄弟の忠勤ぶりを賞し、羽柴秀吉からの島津義弘・伊集院忠棟に対する上国命令
       (「以御朱印」)を通知し留守中の島津領国、特に日州口に配置されている北郷氏の警備を万端にする旨を依頼。
       〔「旧記雑録後編」A‐424〕
  2月15日 島津義弘、土持弾正忠へ疎略にしない旨全3ヶ条にわたる起請文を提出。〔「旧記雑録後編」A‐429〕
  2月16日 島津義弘、頴娃袈裟寿へ疎意無き旨の起請文を提出。〔「旧記雑録後編」A‐430〕
  2月18日 大友義統、和泉国堺津に到着し今井宗薫邸を訪問。晩に及び妙国寺に入る。〔「大友家文書録」B‐2152〕
  2月19日 島津義弘、石田三成・細川藤孝へ肥後国一揆制圧後の相良方面の状況を報告し、京都(羽柴秀吉)に対する取り成しを依頼。
       〔「旧記雑録後編」A‐431〕
  2月19日 今井宗薫、大友義統を虚堂墨跡・武野紹鴎茶碗で饗応。〔「大友家文書録」B‐2152〕
  2月19日 今井宗薫、道叱の座敷で津田宗及・了雲・宗凡・宗云・九和らが参会する茶会に大友義統を迎える。
       〔「大友家文書録」B‐2152〕
  2月20日 今井与太郎(今井宗薫子)、大友義統を茶会に迎える。〔「大友家文書録」B‐2152〕
  2月21日 小西立佐、大友義統を茶会に迎えるが参加せず。〔「大友家文書録」B‐2152〕
  2月22日 藪内宗巴、大友義統を茶会に迎える。〔「大友家文書録」B‐2152〕
  2月22日 大友義統、大坂に到着し羽柴秀長に謁見。〔「大友家文書録」B‐2152〕
  2月24日 大友義統、出京。〔「大友家文書録」B‐2152〕
  2月27日 羽柴秀吉、聚楽第で大友義統を謁見。〔「大友家文書録」B‐2152〕
  2月28日 小早川隆景、新納忠元へ年頭祝儀を謝す。〔「旧記雑録後編」A‐434・560〕
  2月29日 羽柴秀吉、鍋島直茂を派遣してきた龍造寺政家へ贈物を謝し、肥後表の状況報告を指示。
       詳細は鍋島直茂を経由して伝達させる。〔「龍造寺家文書」‐184〕
  2月29日 大友義統、東福寺・三十三間堂・清水寺・祇園社・知恩院等を見物。〔「大友家文書録」B‐2152〕

 3月
  3月 1日 大友義統、上洛に際し豊後国関宮神主へ無事祈願を送付。〔「速吸社文書」‐8〕
  3月 2日 津田宗及、大友義統を茶会に迎える。〔「大友家文書録」B‐2152〕
  3月 5日 羽柴秀吉、大友義統を「天下一の井戸茶碗」を以て茶会で迎える。〔「大友家文書録」B‐2152〕
  3月 6日 福智長通、上井覚兼へ日向国「御蔵入為御代官」の件、上井覚兼所領の件について、伊集院忠棟と相談して疎意無き旨を通知。
       「上辺」(羽柴秀吉)よりの命令及び島津義久・島津義弘の意志の遵守を指示。〔「旧記雑録後編」A‐435〕
  3月 6日 千利休、大友義統を茶会に迎える。〔「大友家文書録」B‐2152〕
  3月 7日 大友義統、参内。久我敦通・菊亭晴季・勧修寺晴豊・中山親綱らが伝奏として侍従に任ぜられる。
       〔「大友家文書録」B‐2152〕
  3月 7日 大友義統(「源義統」)、「従四位下」に昇進(文書中には「従五位下」とあるが誤記か)。
       〔「柳河大友家文書」第1巻‐13〕
  3月 7日 大友義統(「従五位下源義統」)、「侍従」に任ぜられる。〔「大友家文書録」B‐2151〕
  3月20日 浦上道冊、若林道閑へ大友義統の上洛・任侍従、羽柴秀吉への謁見の様子を報告。〔「大友家文書録」B‐2152〕
  3月26日 中御門宣泰(「右中弁」)、後陽成天皇が大和国多武峯衆徒中へ来る4月3日の大和国郡山への「大織冠遷宮」を聞き知り、
       「宝祚長久国家安全」を懇祈する「天気」を通達。〔「談山神社文書」〕
  3月27日 羽柴秀吉、聖護院道澄からの草紙・香具など贈物を感謝し謝礼として沈香10斤を与える。〔「原文書」〕

 4月
  4月 2日 羽柴秀吉、肥後国より帰陣した島津義弘へ日向国巣鷹の進納を督促。
       〔「島津家文書」@‐380・「旧記雑録後編」A‐437〕
  4月 6日 羽柴秀吉、近年長崎周辺が「伴天連」知行化している事態を重視し鍋島直茂を長崎「御代官」に任命。〔「鍋島家文書」‐17〕
  4月 6日 富田知信、初めて音信を通ず白川義親(「白川殿」)へ去年羽柴秀吉が島津義久(「九州島津」)を「御追罰」のために
       「御動座」し、「御陣中」へ島津義久が「走入奉懇望」したので助命および「御赦免」したことに触れ、羽柴秀吉は
       「誠唐国迄も平均眼前」の状態であること、この上で「関東・奥両国惣無事」を発したので「関・奥諸大名」で羽柴秀吉へ
       「被成言上」る場合は富田知信をはじめとする「我等」が「御取次」して馳走する旨を通達。〔「遠藤白川文書」〕
  4月 9日 毛利高政、大友義統と面会できなかった旨に触れ、今後心を置かず外出することを控えるよう助言。
       〔「大友家文書録」B‐2153〕
  4月10日 上杉景勝(「藤原景勝」)、参議・従四位下に昇進。〔『公卿補任』〕
  4月10日 毛利輝元(「大江輝元」)、参議・従四位下に昇進。〔『公卿補任』〕
  4月13日 今出川晴季、大友義統(「大友侍従」)へ今度の「御昇殿」および「天盃御頂戴」は比類無き栄誉であり、「行幸供奉」し
       「天酌并御衣御拝領」することにつき「弥任天運次第」せて「御昇進」されることを願い、「相応之儀」には疎意の無いことを
       通知。〔「大友家文書録」B‐2156〕
  4月14日 後陽成天皇、聚楽第に行幸(〜18日)。
  4月14日 木食応其、上井覚兼へ「大師行状記」1箱10巻を受け取った旨、長期在洛中の島津義久は「此辺時宜」であるので安心すべ
       き旨、島津義弘の近日中の上洛で上井覚兼が随行してくる際には対面を期待する旨を通知。〔「旧記雑録後編」A‐442〕
  4月15日 羽柴秀吉、天皇に京都地子銀5530両余を、正親町上皇・六宮智仁親王に地子米800石を献上。また諸門跡および公家衆には
       近江国高島郡8000石を配分して授与。
  4月15日 羽柴秀吉、天皇の伝統的権威を借用し織田信包・羽柴秀勝・結城秀康・里見義康・長谷川秀一・堀秀政・蒲生氏郷・細川忠興・
       織田秀信・毛利秀頼・蜂屋頼隆・前田利長・丹羽長重・織田長益・池田輝政・稲葉貞通・大友義統・筒井定次・森忠政・
       井伊直政・京極高次・木下勝俊・長宗我部元親に小早川秀秋(「金吾」)宛で聚楽第行幸に際し皇室領への無道に対する処罰、
       羽柴秀吉に対する忠誠を誓約した起請文を提出させる。〔「大友家文書録」B‐2154〕
  4月15日 羽柴秀吉、聚楽第行幸に際し大覚寺門跡へ近江国高島郡海津西庄蛭口村内に200石を宛行い、「其家之道」を以て奉公すべき旨
       を督促。〔「大覚寺文書」〕
  4月15日 羽柴秀吉、九条兼孝(「九条殿」)へ今度の「聚楽行幸」に際し近江国高島郡海津西庄浜分内に202石を宛行い、
       「御奉公」および「其家道」に邁進することを通達。〔「九条家文書」D‐1514(2)〕
  4月18日 後陽成天皇、聚楽第より還御。
  4月18日 羽柴秀次、吉川広家へ肥州平定を祝し検地の実行に指示を与える。〔「吉川家文書」@‐710〕
  4月19日 羽柴秀吉、肥後国の糺明について肥後国南関に在陣する吉川広家へ大谷吉継より命令を伝達させる旨を通知。
       〔「吉川家文書」@‐717〕
  4月19日 羽柴秀次、越階で従二位に昇進。〔『公卿補任』〕
  4月21日 島津義弘、在京中の比志島国貞・本田因幡守へ近日中に自身が上洛することに触れ、「御家景反銭屋別等」について指示を下
       したが返答の無いことを咎め、自身の上洛の件に関して、息子の島津久保・島津家久兄弟及び在京衆の費用で底をついたため
       「無用意」で上洛すればかえって「公儀」は不審に解するであろうし、上洛を中止もしくは遅参したなら「御家之為ニ罷成間敷」
       き事態になるので、今月26日に出立すべき旨を老中衆へ通達したが反銭徴収がままならず、「京都之借銀」を頼りに上洛する
       べきか、在京中の島津家中を頼りにすべきかという予想以上に苦しい状況であり、島津義久の薩摩国下向にあたり比志島国貞・
       本田因幡守が一両月在京する間に熟談し、島津義久下向の便宜を図るよう指示を通達。〔「旧記雑録後編」A‐443〕
  4月21日 新納忠元、長期在洛中の島津義久へ機嫌伺いの使僧を派遣。〔「旧記雑録後編」A‐560〕
  4月21日 新納忠元、細川藤孝へ島津義久および息子の新納忠増への御暇取り成しを依頼。〔「旧記雑録後編」A‐560〕
  4月23日 菊亭晴季、大友義統の昇殿・天盃頂戴を賞し、昇進に際して相応の儀を手伝う旨を通知。〔「大友家文書録」B‐2156〕
  4月23日 細川藤孝・石田三成、新納忠元へ肥後国一揆の際の島津義弘(「武庫」)の戦功を賞し、相良氏の逆心に触れ島津義弘上洛の
       障害になる旨を上聞に達すべきこと、八代・芦北の状況を了承したこと、子息の新納左京亮(新納忠尭?)の件に関しては羽柴秀吉
       に折を見て上申する旨を通知。〔「旧記雑録後編」A‐444・560〕
  4月24日 島津義弘、白鳥六所権現へ「神慮」による島津家安泰を祈念した全5ヶ条の願書を納める。〔「旧記雑録後編」A‐445〕
  4月25日 伊東祐兵、島津義弘が飫肥郡返還を延引しているため「京都之御公役一円難成」き旨を早急に羽柴秀吉(「京都」)へ上申するこ
       とを警告。〔「旧記雑録後編」A‐446〕
  4月26日 島津義弘、上洛するため飯野を出発。〔「旧記雑録後編」A‐471・560〕
  4月26日 新納忠元、島津義弘の出陣に三ノ山まで随行。〔「旧記雑録後編」A‐560〕
  4月28日 河原定勝(「河原長右衛門尉定勝」)・山口正弘(「山口玄蕃頭宗永」)、京都八瀬郷惣中に対し入山については
       「前々如古来」く申し付けることに変わり無く、前田玄以(「民部卿法印」)の「紙面」にもその旨が記載されていることを
        通達。〔 「八瀬童子会文書」‐87

 5月
  5月 3日 羽柴秀吉、島津義弘からの端午祝儀を謝し、詳細は石田三成に伝達させる。〔「旧記雑録後編」A‐447〕
  5月 3日 羽柴秀吉、島津豊久へ鉄炮で捕らえた鴨43羽の献上を謝し、詳細は山中長俊に伝達させる。〔「旧記雑録後編」A‐449〕
  5月 4日 羽柴秀吉、島津豊久からの端午祝儀を謝し、詳細は長束正家に伝達させる。〔「旧記雑録後編」A‐450〕
  5月 4日 大和国郡山の「惣町」、町役を提出す。〔「春岳院文書」〕
  5月 5日 羽柴秀吉、島津義久からの端午祝儀を謝し、特に「走馬鈴」を気に入った旨を通知。詳細は石田三成に伝達させる。
       〔「旧記雑録後編」A‐451〕
  5月 6日 島津義弘、住吉崎一ノ宮へ自身の上洛にあたり島津家存続・守護を祈念した全5ヶ条の願書を納める。
       〔「旧記雑録後編」A‐453〕
  5月 6日 島津義弘、川田義朗へ息子島津家久をはじめとする島津家内の安泰を祈念し、また島津義弘上洛に際し島津家存続を祈念した
       全5ヶ条の条書の旨の祈願を命令。〔「旧記雑録後編」A‐452〕
  5月 7日 島津義弘、光明院へ自身の上洛にあたり島津家存続を祈念した全5ヶ条の願書を納める。
       〔「旧記雑録後編」A‐456・457〕
  5月10日 島津義久、新納忠元へ在京中の状況を報じ、近日中に島津義弘が上洛するにあたり、留守中の島津領国は「老敷者共」が談合
       を以て堅固に維持するよう命令。〔「旧記雑録後編」A‐459・560〕
  5月10日 島津義久、新納忠元へ自身の帰国の近い旨を通知。〔「旧記雑録後編」A‐560〕
  5月11日 細川藤孝、新納忠元へ島津義久長期在洛は「御窮屈」であるが「国家御為」と数度にわたり諭していること、島津義弘の上洛
       に際しては石田三成を訪問・相談すべきことを通達。また新納忠元息子(新納左京亮:新納忠尭?)の在京も「国主御為」であ
       るから暇乞に関しては石田三成に相談し羽柴秀吉への取り成しを疎かにせぬよう指示を下す。さらに去年筑後国において細川忠興と
       の交流を謝す。〔「旧記雑録後編」A‐460・560〕
  5月15日 羽柴秀吉、方広寺大仏殿造営に再着手し居礎の儀を執行。
  5月15日 生駒親正・蜂須賀家政・戸田勝隆・毛利吉成・黒田孝高・小西行長・福島正則・加藤清正・浅野長政、新納忠元へ肥後国一揆
       制圧に際し新納忠元も鎮圧戦で活躍した旨を羽柴秀吉(「天下」)へ注進したことを賞す。〔「旧記雑録後編」A‐461〕
  5月15日 「肥後表上使衆」である浅野長政・加藤清正・福島正則・小西行長・黒田孝高・毛利吉成・戸田勝隆・蜂須賀家政・生駒親正、
       肥後国一揆残党の掃討を新納忠元に通達。〔「旧記雑録後編」A‐560〕
  5月15日 島津義弘、狗留孫三所権現へ神舞のための大幣12本を奉納。〔「旧記雑録後編」A‐462〕
  5月17日 島津義弘(「島津兵庫頭藤原朝臣義弘」)、光明院へ島津家守護を祈念した全3ヶ条の起請文を提出。
       〔「旧記雑録後編」A‐458〕
  5月19日 羽柴秀吉、吉川広家から黒田孝高・毛利吉成宛の書状を披見、九州在陣を慰労する。
       詳細は黒田孝高・毛利吉成両人より通達させる。〔「吉川家文書」@‐787〕
  5月25日 羽柴秀吉、寺沢広政へ京都東山大仏殿建立用の材木船賃は百石船海上10里間は米6斗とする旨を通達。
       〔「大友家文書録」B‐2178〕
  5月26日 島津義弘、鎌田政近へ自身の上洛にあたり熟談の上で諸事を進めることを命令。〔「旧記雑録後編」A‐463〕

  5月 晦日 島津義弘、佐土原に到着。〔「旧記雑録後編」A‐471〕

閏5月
 閏5月 1日 島津義久、旅宿において里村紹巴・里村昌叱・玄仍の誘いで連歌興行に参加。〔「旧記雑録後編」A‐464〕
 閏5月 3日 島津義弘、徳之口を出船し細島に到着。〔「旧記雑録後編」A‐471〕
 閏5月 4日 一柳直末、美濃国上真桑の北之坊・平三郎へ入会地の野原について事情徴収のため召喚を促す。翌日に一柳直末は上洛。
       〔「守屋文書」‐13〕
 閏5月 5日 島津義弘、細島を出船し豊後国佐伯に到着。〔「旧記雑録後編」A‐471〕
 閏5月 6日 加藤清正、北里三河入道・北里左馬へ一揆鎮圧に関する全7ヶ条の「定」を下す。
       〔『古文書類纂』「北里亥久太郎所蔵文書」〕
 閏5月 8日 島津義弘、豊後国佐伯を出船し細櫛を経由、竹浦に宿泊。〔「旧記雑録後編」A‐471〕
 閏5月10日 島津義弘、御手洗玄蕃在所を出立するも嵐により戻る。〔「旧記雑録後編」A‐471〕
 閏5月11日 中山光直(「中山播磨守光直」:最上義光家臣)、出羽国由利の潟保治部大輔へ羽柴秀吉(「関白様」)より「上使」として
       金山宗洗斎(「宗洗公」)が到来したことを通知。この「御使節」の意趣は「天下一統ニ御安全ニ可仕執成」というものであり
       出羽国へは越後国より「弓矢ヲ被取結」という予定であること、最上義光(「義光」)は「出羽之探題職」として出羽国中の
       諸士を「山形之下知」で従えている状況を調査するための下向というので、「山形之威機」を金山宗洗斎(「宗洗公」)へ説明
       したことに触れ、「仙北干戈」を終結する旨を小野寺義道(「横手」)へ「御内意」として取り成すことを依頼する。
       〔「奥羽文書纂」〕
 閏5月12日 大友義統、一万田八郎へ一万田鎮述の跡目相続を安堵。〔「一万田文書」‐2〕
 閏5月13日 島津義弘、御手洗玄蕃在所を再度出立。細島で別行動の供衆が追い付く。〔「旧記雑録後編」A‐471〕
 閏5月14日 佐々成政、羽柴秀吉の命令で自刃。
       〔「小早川家文書」、「島津家文書」@‐381、「龍造寺家文書」‐201、「旧記雑録後編」A‐560〕
 閏5月14日 羽柴秀吉、島津義弘へ佐々成政の処罰理由全6ヶ条の「悪逆条々」を公表。
       〔「小早川家文書」・「島津家文書」@‐381・「旧記雑録後編」A‐467〕
 閏5月14日 羽柴秀吉、大友義統へ佐々成政の処罰理由全6ヶ条の「悪逆条々」を公表。
       〔「大友記録」‐27、「大友家文書録」B‐2157〕
 閏5月14日 羽柴秀吉、龍造寺政家へ佐々成政の処罰理由全6ヶ条の「悪逆」事を公表。〔「龍造寺家文書」‐201〕
 閏5月14日 島津義弘、豊後渡を渡り伊予国双海を経て長門国屋代島に到着。〔「旧記雑録後編」A‐471〕
 閏5月15日 島津義弘、長門国屋代島を出船し由利島・二神島・津和地島・蒲刈島を経て船上で宿泊。〔「旧記雑録後編」A‐471〕
 閏5月16日 島津義弘、安芸国高崎・田島に到着。〔「旧記雑録後編」A‐471〕
 閏5月17日 島津義弘、備後国鞆津を経由。〔「旧記雑録後編」A‐471〕
 閏5月18日 島津義弘、讃岐国塩飽島に到着、船頭助次郎の宿に宿泊。〔「旧記雑録後編」A‐471〕
 閏5月19日 島津義弘、讃岐国塩飽島を出立、備中国牛窓を経由し家島に到着。〔「旧記雑録後編」A‐471〕
 閏5月21日 島津義弘、播磨国兵庫に到着。〔「旧記雑録後編」A‐471〕
 閏5月21日 町田久信・本田親貞、執印河内守へ島津義弘上洛に際する祈願のために下された馬を納めるので吉日である22日・23日に
       祈願を実施するよう命令。〔「旧記雑録後編」A‐468〕
 閏5月22日 島津義弘、和泉国堺津から出迎えに来た伊勢貞真と熟談。〔「旧記雑録後編」A‐471〕
 閏5月23日 島津義弘、和泉国堺浜浦に到着。神明町経王寺に寄宿。〔「旧記雑録後編」A‐469〕
 閏5月23日 島津義弘、和泉国堺津へ着船、北の神明町経王寺に寄宿。島津義弘、島津久保を訪問。〔「旧記雑録後編」A‐471〕
 閏5月24日 足利義昭、毛利輝元(「毛利右馬頭」)へ在国中の種々の馳走を謝す。〔「毛利家文書」@‐352〕
 閏5月24日 島津義弘、島津義久の御使である伊地知重春より島津義久書状・島津義久夫人御文・黒田孝高書状を受け取る。
       〔「旧記雑録後編」A‐471〕
 閏5月25日 島津義久、島津義弘の旅宿を訪問。〔「旧記雑録後編」A‐469・471〕
 閏5月25日 近衛信尹(「信輔」)、和泉国堺津へ到着した島津義弘へ見舞として進藤長治を派遣。帷子を贈答する旨を通知。
       〔「島津家文書」A‐699〕
 閏5月26日 島津義弘、石田正継より島津義久同前の待遇を受ける。〔「旧記雑録後編」A‐471〕
 閏5月27日 島津義弘、石田三成・大谷吉継・木食応其を訪問し馳走に預かる。〔「旧記雑録後編」A‐471〕
 閏5月28日 島津義弘、石田三成の助言により大坂の島津義久仮屋敷を忍んで訪問し大谷吉継へ一礼を遂げる。
       石田三成は早急の羽柴秀吉謁見を受けるよう取り成すことを主張していたが、細川藤孝が丹後国に下国しているためその上洛を待つ
       ようにとの指示を下す。〔「旧記雑録後編」A‐471〕
 閏5月 晦日 福智長通、島津義弘へ未出仕の理由を問い御用の件は如何なる内容でも承る旨を通知。去年来の「日向御知行方」については
       高橋元種・秋月種実・島津豊久の間で違乱があり、高橋元種が羽柴秀吉上意を受け在坂している。これは羽柴秀吉上意を受け羽柴秀長
       「御判」で命令したことであり、旅の仕合は大変腹立っている。それに飫肥郡において「御朱印之御上使」が殺害されたことが、
       羽柴秀吉御前で問題視されてきていること、代々日向国中「目明」である綾新右衛門尉の目録を羽柴秀長は疎略にしないであろうこ
       と、もし不審な点があれば綾新右衛門尉の目録を羽柴秀吉へ届け出ることを通達。さらに羽柴秀長は島津氏を疎略に扱わない意向で
       あることを、日向国の件については綾新右衛門尉に先規の状態を報告し、大友義統・島津家久・伊東祐兵の指出を徴集して調査
       すること、福智長通も島津氏を疎略に感じてはいないことに触れ、分別を以て対処することが肝要であることを通達。
       〔「旧記雑録後編」A‐470〕

 6月
  6月 2日 島津義弘、大坂に到着。〔「旧記雑録後編」A‐471〕
  6月 4日 島津義弘、大坂城に登城。〔「旧記雑録後編」A‐474・560〕
  6月 6日 羽柴秀吉、大坂城山里三畳敷茶室において茶会を催す。茶室では羽柴秀吉(「関様」)・島津義弘・伊集院忠棟という席次であった。
       〔「旧記雑録後編」A‐471〕
  6月 6日 島津義弘、島津家久へ上洛途上および在京の様子を報告。〔「旧記雑録後編」A‐471〕
  6月14日 北郷忠虎、都城を出立。〔「旧記雑録後編」A‐472〕
  6月15日 島津義弘(「藤原義弘」)、「従五位下」に叙される。
       〔「島津家文書」A‐642・「旧記雑録後編」A‐474・491・560〕
  6月15日 島津義弘(「従五位下豊臣義弘」)、「侍従」に任じられる。〔「島津家文書」A‐643・「旧記雑録後編」A‐490〕
  6月16日 羽柴秀吉、島津義久へ島津領国内における唐人・日本人の漆喰塗り職人の徴発を命令。〔「島津家文書」A‐789〕
  6月20日 島津義弘、羽柴秀吉の面謁を受け、羽柴秀吉直談により「公家」成の指示を下される。この席では湯漬けを振る舞われ、席次は上座に
       島津義弘ら、次いで細川藤孝・筑紫広門・北郷忠虎・深水宗方・田浦某であった。〔「旧記雑録後編」A‐471〕
  6月20日 上井秀秋、伊勢貞真へ日向国「図田帳」に関する情報を通知。諸縣郡の件で島津豊久の為に羽柴秀長配下の藤堂高虎より命令
       書が下されているので、島津義弘上洛に際して古図田帳・古日記などを携帯すべき旨を通知。
       また以前の伊勢貞真書状には羽柴秀長「御書」および藤堂高虎「之状」を石田三成に提示したなら心配は要らないとあったが、
       良識房成軒が上洛した際に諸縣郡の件に関しては異議無き旨を通達されたが、実際にはそれが履行されていない旨をあげて非難
       する。また「眼気」故に「判形」を入れない旨を謝す。〔「旧記雑録後編」A‐475〕
  6月24日 島津義弘、川田義朗へ上洛以後の状況を報告し、上洛前に依頼した「祈念之御札」が到来したことを謝す。
       〔「旧記雑録後編」A‐476〕

 7月
  7月 5日 羽柴秀吉、島津義久へ「在京賄料」として摂津国・播磨国内に1万石を宛行う。
       〔「島津家文書」@‐442・443、「旧記雑録後編」A‐479・482〕
  7月 5日 島津義弘、山田理安へ留守中の措置を指示。また山田理安への上洛命令を島津義弘が抑えていることに触れ、詳細を島津義久
       に伝達する旨を通知。さらに高城衆の「堪忍」を賞す。〔「旧記雑録後編」A‐477〕
  7月 5日 島津義弘、島津豊久へ「御前帳」の使者が上着した旨を報じ、また諸縣郡の件についての尽力を賞す。
       〔「旧記雑録後編」A‐478〕
  7月 6日 龍造寺政家(「豊臣政家」)、「従五位下」に叙される。〔「龍造寺家文書」‐252〕
  7月 6日 龍造寺政家(従五位下豊臣政家)、「侍従」に任じられる。〔「龍造寺家文書」‐253〕
  7月 8日 羽柴秀吉、「条々(刀狩令)」を発布。〔「小早川家文書」、「大友家文書録」B‐2176〕
  7月 8日 羽柴秀吉、「定(海賊禁止令)」を発布。
       〔「諸家単一文書」‐1086、「島津家文書」@‐352・「旧記雑録後編」A‐484、「大友家文書録」B‐2175〕
  7月14日 戸田勝隆、深堀純賢へ「御身上之儀」については「我等種々才覚仕」る旨を通知。〔「深堀家文書」‐383〕
  7月18日 羽柴秀吉、島津氏に対し京都から祁答院の曲事について切腹を命令。〔「大友家文書録」B‐3234〕
  7月25日 毛利輝元(「従四位下豊臣輝元朝臣」)、「侍従」に任じられる。〔「毛利家文書」@‐353〕
  7月25日 毛利輝元(「従四位下豊臣輝元」)、「参議」に任じられる。〔「毛利家文書」@‐354〕
  7月25日 吉川広家(「従五位下豊臣広家」)、「従四位下」に叙される。〔「吉川家文書」@‐105〕
  7月25日 小早川隆景(「豊臣隆景」)、「従五位下」に叙される。〔「毛利家文書」B‐986〕
  7月25日 小早川隆景(「従五位下豊臣隆景」)、「侍従」に任じられる。〔「毛利家文書」B‐987〕
  7月25日 飛鳥井雅春(「雅春」)、門弟の小早川隆景(「小早川侍従」)へ「紫組冠懸」を免許。〔「毛利家文書」B‐988〕
  7月26日 細川藤孝(「幽斎玄旨」)、袈裟菊(島津歳久室)へ今回の島津歳久成敗について羽柴秀吉御朱印が発せらた旨、成敗後の
       島津歳久遺族・遺臣の安全を保証。〔「大友家文書録」B‐3234〕
  7月26日 島津義弘(「従五位下豊臣義弘」)、「従四位下」に叙される。
       〔「島津家文書」A‐644・「旧記雑録後編」A‐488〕
  7月26日 島津義弘、「羽柴称号」を拝領。〔「旧記雑録後編」A‐560〕
  7月27日 吉川広家(「豊臣広家」)、「従五位下」に叙される。〔「吉川家文書」@‐106〕
  7月27日 吉川広家(「従五位下豊臣広家」)、「侍従」に任じられる。〔「吉川家文書」@‐107〕
  7月28日 羽柴秀吉、参内して天盃を賜わる。
  7月28日 龍造寺政家(「従五位下豊臣政家」)、「従四位下」に叙される。〔「龍造寺家文書」‐254〕
  7月    羽柴秀吉、「条々(刀狩令)」を発布。
       〔「島津家文書」@‐353・「旧記雑録後編」A‐485、「島津家文書」A‐773〕

 8月
  8月 1日 羽柴秀吉、聚楽第において諸大名・公家衆から八朔の祝賀を受ける。
  8月 2日 小早川隆景(「従五位下豊臣隆景」)、「従四位下」に叙される。〔「毛利家文書」B‐989〕
  8月 3日 島津義弘、島津久保へ下された諸縣郡拝領の羽柴秀吉朱印状を受け取る。〔「旧記雑録後編」A‐560〕
  8月 4日 羽柴秀吉、島津豊久へ日向国内979町を知行方目録を下す。〔旧記雑録後編A‐498〕
  8月 5日 羽柴秀吉、島津義弘へ日向国諸県郡1404町を知行として宛行う。
       〔「島津家文書」@‐382・383・「旧記雑録後編」A‐495・497〕
  8月 5日 羽柴秀吉、島津豊久へ日向国内979町を宛行う。〔「旧記雑録後編」A‐499〕
  8月 7日 島津義弘、新納忠元へ大口城(島津義弘居城)普請の件を老中へ詳細に伝達し菱刈院・太良院へ通達させるよう命令。
       また近々島津義久の帰国予定に触れ、島津久保の下向は未定であるが折を見て上申することを報ず。
       さらに島津義弘自身の「公家成」によって「羽柴薩摩侍従」と呼称されること、新納忠増は質人としてではなく暫く在京奉公を
       させる意向であることを通達。詳細は本田親商に伝達させる。〔「旧記雑録後編」A‐500・560〕
  8月10日 羽柴秀吉、近江国大津に下向(〜19日)。
  8月10日 羽柴秀吉、龍造寺政家へ肥後国諸城の番手の任務遂行に関し所務などが終了する10月まで継続し造作にあたるべきを命令。
       〔「龍造寺家文書」‐195〕
  8月10日 石田三成、島津義久へ安宅秀安から知行方の件の通達されたかを問い、播磨国内分は能勢郡も宛行われる旨を通知。
       能勢郡の所務に関しては奉行派遣が遅延しても問題の無い旨などを通達。〔「旧記雑録後編」A‐501〕
  8月12日 近江国西庄西浜の孫十郎・藤二郎・彦一郎・孫四郎、今度羽柴秀吉(「関白様」)より「御公家様」11名へ与えられた
       「御知行」の件で連署起請文を提出。〔「九条家文書」D‐1426〕
  8月12日 島津義久・島津義弘(「羽侍従」)、細川藤孝・石田三成へ日向国南郷郡は累年にわたり伊集院忠棟の領有であったのに、
       先頃伊東祐兵へ宛行われるとのことを伊集院忠棟より報告を受け、島津氏領国を他家の者へ宛行われるのは迷惑である旨の不満
       を上申。また国役および「節々京都為御馳走」を「内訴無別儀」きよう依頼。〔「旧記雑録後編」A‐502〕
  8月12日 島津義久、琉球中山王尚寧へ書を遣わす。詳細は大慈寺和尚に伝達させる〔「旧記雑録後編」A‐504〕
  8月15日 羽柴秀吉、聚楽第において公家衆・諸大名・連歌師らと観月和歌会を開催。〔「吉川家文書」@‐817〕
  8月17日 石田正澄、島津義弘(「羽兵庫」)へ無沙汰を詫び、上洛時の面拝を望む。〔「旧記雑録後編」A‐505〕
  8月19日 島津義弘、伊集院久治へ島津義久下向の近い旨を報じ、国元において尽力している伊集院久治の進退は我々(島津義弘?)に
       任せるよう伝達。〔「旧記雑録後編」A‐506〕
  8月23日 島津義久、木下道正宗固へ在京中の入魂を謝し、摂津国・播磨国内に知行を拝領したので毎年40石を進上する旨を通知。
       〔「旧記雑録後編」A‐507〕
  8月27日 羽柴秀吉、草野中務少輔の旧領を「御蔵入」に設定し、鍋島直茂をその「代官」に任命する。詳細は浅野長政に伝達させる。
       〔「鍋島家文書」‐18〕
  8月27日 宇喜多秀家、備前国ゥ山寺中へ寺領安堵と「国家安全之祈念」の励行を命ず。〔「金山寺文書」‐62〕
  8月28日 本願寺顕如、本願寺准如を同伴し摂津国有馬湯山へ湯治する。〔『言経卿記』〕
  8月29日 羽柴秀吉、寺沢広高へ薩摩国出水および肥後国水俣における人身売買を「御法度」の旨を遵守し取り締まるよう命令。
       〔「旧記雑録後編」A‐508〕
  8月29日 北御方(本願寺如春:顕如室)・興門御姫(興正寺佐超室)・興正寺昭玄ら、摂津国有馬湯山へ湯治する。〔『言経卿記』〕

 9月
  9月 1日 尊朝法親王、八木嘉竺へ島津義久(「龍伯」)所望の書物を染筆し、来冬には完成する予定である旨を島津義弘(「侍従」)
       へ通達するよう依頼。〔「島津家文書」A‐673、「旧記雑録後編」@‐814〕
  9月 1日 尊朝法親王(「青蓮院殿」)、島津義弘へ書状を携帯させた使者を派遣。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月 1日 島津義弘・島津久保ら、島津義久へ出仕。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月 1日 里村紹巴、島津義弘へ新酒・柿を贈与。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月 2日 島津義弘、帰国する島津義久を暇乞のため訪問。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月 2日 尊朝法親王、この夜に島津義久宿所を訪問。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月 2日 里村紹巴、島津義久へ菓子を進上。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月 2日 里村昌叱、島津義久へ塩引を進上。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月 3日 島津義久、京都を出立、鳥羽を経由して夜半に大坂へ到着。〔「旧記雑録後編」A‐510・512・560〕
  9月 4日 島津義弘、この夜大和国より島津屋敷へ帰宅。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月 4日 毛利輝元・小早川隆景・吉川広家、大和国郡山城へ訪問。〔『多聞院日記』〕
  9月 5日 島津義弘、島津義久へ「御指出」に関して雑談。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月 7日 羽柴秀吉、淀を経由し大坂城に帰城。
  9月 7日 羽柴秀長、毛利輝元・吉川広家・小早川隆景を同伴し奈良の興福寺門跡多聞院を訪問。〔『多聞院日記』〕
  9月 7日 木下道正宗固夫婦、京都より島津屋敷を訪問。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月 7日 安宅秀安、島津屋敷に縮羅5端を贈与。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月 7日 島津義久、大坂滞在に際し八幡山泉坊に祈祷を依頼。〔「旧記雑録後編」A‐512〕
  9月 7日 大坂八幡山泉坊宥純、島津氏奉行所へ船中の祈祷として17日間「不動護摩」修行をする旨を報告。
      〔「旧記雑録後編」A‐511〕
  9月 8日 大坂島津屋敷茶室において「御茶湯」興行。島津義弘の手前で、細川藤孝・石田三成が参席。
       〔「旧記雑録後編」A‐510・515〕
  9月 8日 島津義久、大坂城の羽柴秀吉へ出頭。〔「旧記雑録後編」A‐510・515〕
  9月 8日 島津義久、北政所より衣服2領、息女にも衣服を賜わる。〔「旧記雑録後編」A‐515〕
  9月 8日 島津義久、新納忠元へ国元の置目の遵守、特に真幸郡境目には厳重に通達するよう命令。「連々法度之儀」については緩やか
       に通達していたが、大口城衆には現在まで狼藉を重ねているので遵守を徹底させるよう命令。油断して慮外の事態が発生した場
       合は新納忠元の越度であることを確認し、後の証拠として書状を認めた旨を通知。〔「旧記雑録後編」A‐516・560〕
  9月 8日 増田長盛、島津屋敷へ縮羅10端を贈与。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月 8日 羽柴秀吉、島津義弘へ重陽祝儀を謝し、詳細は石田三成に伝達させる。〔「旧記雑録後編」A‐514〕
  9月 9日 島津義弘、島津久保を同行し大坂城へ登城、羽柴秀吉に面謁。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月10日 羽柴秀吉、島津以久へ大隅国清水の領知を安堵。〔「旧記雑録後編」A‐518〕
  9月10日 羽柴秀長、摂津国有馬湯山へ湯治する。〔『多聞院日記』〕
  9月10日 島津義久室、和泉国堺へ出向く。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月10日 島津義久、石田三成・細川藤孝を訪問。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月10日 島津義久、この夜足利義昭(「公方様」)を訪問。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月11日 羽柴秀吉、早朝に茶会を開催。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月11日 羽柴秀吉、島津義久へ九州分領中の諸鳥献上を命令。詳細は山中長俊に伝達させる。〔「旧記雑録後編」A‐520〕
  9月11日 島津義久、和泉国堺へ出向き島津義久室と面会。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月11日 大谷吉継、島津義久を和泉国堺にて訪問。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月12日 島津義弘、大坂を出発。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月13日 島津義久、石田三成より金屏風2枚・鎧を贈与される。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月13日 島津義弘、伏見より新納忠元へ島津義久下向を報告。また「天下御掟」による諸所公役などを油断無く勤めることを命令。
       〔「旧記雑録後編」A‐522〕
  9月13日 島津義弘、新納忠元へ伊勢定昌(新納忠元外孫)を派遣し「天下之御法」を油断無く勤める旨を通達させる。
       〔「旧記雑録後編」A‐560〕
  9月14日 細川藤孝、この朝に島津義久の宿所を訪問、酉刻に兵庫沖に到着。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月14日 山中長俊、島津義久へ羽柴秀吉からの鉄炮を用いて九州分領中における諸鳥献上命令を通達。〔「旧記雑録後編」A‐523〕
  9月14日 島津義久、息女を同行し和泉国堺を出船。〔「旧記雑録後編」A‐525〕
  9月14日 島津義久、薩摩国へ帰国するため出船。島津義弘・島津久保・木下道正宗固らが見送る。また島津義久はこの晩船中において
       木下道正宗固への書状を認める。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月14日 島津義久、石田三成・細川藤孝へ大隅国肝付郡を受け取った旨、去年分の所務については当年中に皆済する予定を通知。
       〔「旧記雑録後編」A‐524〕
  9月15日 島津義久、順風が無いため島堂などを見物。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月16日 羽柴秀吉、島津義久へ大隅国・薩摩国両国中の諸鳥献上を命令。詳細は山中長俊に伝達させる。〔「旧記雑録後編」A‐526〕
  9月17日 南部信直、新田「杢」へ「津軽之者」の反乱に際し、陸奥国五戸の町に到来した者は追い返すこと、また津軽「衆」を
       「ころし候事ハ無用」であることを通達。〔「木村文書」〕
  9月17日 島津義久、蓑島に到着、夜半に室津に着船。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月18日 羽柴秀吉、河内国道明寺に放鷹。
    9月18日 羽柴秀吉、龍造寺政家へ刀狩令の徹底を命令。更に来春の龍造寺政家上洛を待ち望む。
       詳細は増田長盛に伝達させる。〔「龍造寺家文書」‐189〕
  9月18日 羽柴秀吉、寺沢広政へ大仏殿建立の用に立つ材木を送付するよう命令。
       詳細は増田長盛に伝達させる。〔「大友家文書録」B‐2179〕
  9月18日 小早川隆景、島津義弘へ小早川隆景自身は羽柴秀長(「中納言殿」)に同行して湯治している旨を報告。また何に関しての
       相談も石田三成の内証によれば羽柴秀吉御意を得られるであろうことを通知。来月中旬には羽柴秀長も山口正弘を随行し上洛するで
       あろう予定を告げる。〔「旧記雑録後編」A‐528〕
  9月18日 島津義久、羽柴秀吉の意を受けた小西立佐の使者より見舞を受ける。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
    この頃 羽柴秀吉、自身の9月21日上洛と羽柴秀長のみを大坂城留守居とすることを決定。〔「小西文書」〕
  9月19日 木下吉隆、大坂城より千利休の大坂屋敷へゥを遣わし、羽柴秀吉より先の上洛を促す。〔「小西文書」〕
  9月19日 千利休、有馬則頼・織田長益(「有楽」)・古田重然(「古織」)・金森長近・富田知信・芝山源内・蜂須賀正勝・舟越景直
       へ大坂城の木下吉隆書状を書写し送付。〔「小西文書」〕
  9月19日 島津義久、室津を出船し昨年上洛途上に寄宿した牛窓(牛間渡)の堀九郎左衛門尉宿所へ宿泊。
       〔「旧記雑録後編」A‐510〕
    この頃 千利休、上洛。〔「小西文書」〕
  9月20日 島津義久、辰刻に比毘を出立、申刻に伴へ到着。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
    この頃 深堀純賢(龍造寺氏被官)、浅野長政・戸田勝隆へ子息の件では「御故実」を以て、さらに去年羽柴秀吉「御朱印」で下された
       知行分も従来の如く安堵された旨は「偏御取合故」の結果であることを感謝する。〔「深堀家文書」‐385〕
  9月20日 深堀純賢(龍造寺氏被官)、戸田勝隆へ去年の羽柴秀吉「御朱印」発給の際の奔走に対する謝意通知は肥後国一揆のため延引して
       しまった旨を説明し、少も緩疎に扱っているのではない旨の披露を依頼。〔「深堀家文書」‐384〕
  9月21日 島津義久、辰刻に伴を出立するが悪天候により引き返す。午刻に再び出船し、夜子刻に日向泊という島に到着。
       〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月22日 南部信直、津軽為信の反乱に際し「新田杢」へ陸奥国津軽より引き揚げてきた者のために陸奥国五戸の町並整備を命令。
       〔「木村文書」〕
  9月22日 島津義久、寅刻に日向泊を出立、戌刻に安芸国上関に到着。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月23日 島津義久、悪天候により安芸国上関に逗留、阿弥陀寺に寄宿。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月24日 島津義久、安芸国上関の役人である村上刑部少輔へ巻物を与える。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月25日 島津義久、村上刑部少輔(上関役人)より礼物を受ける。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月25日 島津義久、国元から派遣された比志島国貞・税所篤和の出迎えを受ける。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月25日 毛利輝元、多賀彦三郎へ「国家一大事」である方広寺大仏殿建立用の材木供出を督促。〔「多賀文書」‐793〕
  9月26日 島津義久、安芸国上関に逗留。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月27日 島津義久、この日も安芸国上関に逗留。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月28日 島津義久、比志島国貞・税所篤和に「京都へ御用之儀」などを申し含め出立させる。島津義久自身は酉刻に島戸丸まで出船。
       〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月29日 島津義久、悪天候により安芸国上関に戻る。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月29日 島津義久、小西立佐使者より贈与を受け、返礼を遣わす。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月 晦日 羽柴秀長、摂津国有馬湯山より大和国郡山城へ帰還。〔『多聞院日記』〕
  9月 晦日 島津義久、村上刑部少輔(上関役人)の饗応を受ける。またこの日、島津義久は祈念のために「長歌」を八幡大菩薩へ奉納。
       〔「旧記雑録後編」A‐510〕
  9月 晦日 島津義久、村上刑部少輔・村上源三郎父子へ下国中の馳走を謝す。〔「旧記雑録後編」A‐530〕

10月
 10月    羽柴秀吉、摂津国で放鷹。
 10月 吉日 安宅秀安・麻植長通(共に石田三成家臣)、松本武辰(島津氏家臣)の播磨国知行当納分目録に「免相」を承認。
       〔「島津家文書」A‐1096〕
 10月 1日 島津義久、安芸国上関に逗留。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
 10月 2日 島津義久、安芸国上関の対面にある室津村に渡る。
       また生捕にされた飫肥罪人に遭遇し、伊集院忠棟らの書状を石田三成に送付しこの罪人の進退免許を嘆願。
       〔「旧記雑録後編」A‐510〕
 10月 3日 島津義久、安芸国上関に逗留。〔「旧記雑録後編」A‐510・533〕
 10月 4日 島津義久、早朝に安芸国上関を出船し、未刻に坂関に着船。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
 10月 5日 羽柴秀吉、領国へ下着した吉川広家に今回の上洛を慰労、詳細を黒田孝高に伝達させる。〔「吉川家文書」@‐810〕
 10月 5日 羽柴秀吉、女房いわ(北政所侍女)へ摂津国茨木での放鷹の状況と数日間の逗留予定を報告。
       家具などを取り揃え孝蔵主か「ちゃあ(淀殿)」に届けさせるよう命令。〔「鵜飼文書」〕
 10月 5日 島津義久、日向国細島に着船、逗留。〔「旧記雑録後編」A‐510・533〕
 10月 6日 島津義久、日向国細島を出立。〔「旧記雑録後編」A‐533〕
 10月 6日 島津義久、午刻に日向国細島を出船、島津義久室の船に秋月家中の狼藉があったため、捕縛した狼藉者共を秋月氏へ引き渡す。
       また飫肥罪人が生害した旨を知る。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
 10月 7日 島津義久、悪天候のため逗留。また秋月種実使者の訪問を受ける。〔「旧記雑録後編」A‐510〕
 10月14日 島津義久、薩摩国鹿児島へ帰還。〔「旧記雑録後編」A‐533・534〕
 10月14日 島津義久、亀寿(息女)を同行して薩摩国鹿児島へ帰還。〔「旧記雑録後編」A‐560〕
 10月17日 新納忠元(「拙斎」)、土持綱家へ島津義久帰還を報告。〔「旧記雑録後編」A‐538〕
 10月26日 寺沢広政、鳥羽の彦左衛門・高畠新蔵へ大友義統御用船として2艘を大坂まで申し付ける。
       〔「大友家文書録」B‐2180〕
 10月26日 寺沢広政、大坂の四方四郎左衛門・松本小左衛門へ大友義統御用船として2艘を淀〜鳥羽間まで申し付ける。
       〔「大友家文書録」B‐2181〕
 10月26日 寺沢広政、尼崎の辻甚左衛門へ大友義統御用船として2艘を淀〜鳥羽間まで申し付ける。〔「大友家文書録」B‐2181〕
 10月26日 寺沢広政、尼崎の島田与右衛門・高畠右衛門作へ豊後国から材木が到着したならば粮米を算用して計り渡すべきことを命令。
      上関〜尼崎までは100里で「彼奉行衆墨付」次第に算用すべきこと、100石につき10里は6斗宛とする旨を通達。
       〔「大友家文書録」B‐2183〕

11月
 11月 3日 施薬院全宗、深堀純賢(龍造寺氏被官)へ遠境からの書状を謝し、「京都相応之御用」の取り次ぐ旨を通達。
       〔「深堀家文書」‐387〕
 11月 5日 桑山重晴、島津義弘(「義珎」)へ音信不通を謝し伊集院忠棟の本国下向を報じ、桑山重晴宿所に伊集院忠棟留守居役が常駐
       している旨に触れ、御用のある場合は上申するよう指示。さらに島津久保へも別紙を以て通達する旨を連絡。
       〔「旧記雑録後編」A‐542〕
 11月10日 島津義弘、新納忠元へ長期留守間の勤番を慰労、諸縣郡は羽柴秀吉の意志(「上儀」)により島津久保が安堵を承認された旨など
       を通達。〔「旧記雑録後編」A‐400・543・560〕
 11月11日 羽柴秀吉、見舞いとして鍋島平五郎を派遣してきた龍造寺政家に応え諸事入念に申し付けることを通知。
       詳細は増田長盛に伝達させる。〔「龍造寺家文書」‐202〕
 11月11日 島津義弘、伊地知重秀へ島津義久下国以後の京都における無事を報じ、島津義久下着の連絡を受けた旨を通知。
       〔「旧記雑録後編」A‐544〕
 11月12日 島津義弘、新納忠元へ島津義久下国を祝し、諸縣郡移衆の配当は飯野において実施するように指示。
       島津義弘が滞在する「けふ篇」(京辺)の状況を踏まえて命令を実行するよう念を押す。
       〔「旧記雑録後編」A‐545・560〕
 11月12日 島津義弘、山田理安へ島津義久下国を祝し、諸縣郡移衆の配当は飯野において実施するように指示。
       島津義弘が滞在する「けふ篇」(京辺)の状況を踏まえて命令を実行するよう念を押す。〔「旧記雑録後編」A‐546〕
 11月15日 豊田定長、深堀純賢(龍造寺氏被官)へ御礼の使札および献上品を羽柴秀吉に披露し深堀純賢身上を羽柴秀吉「上聞」に達したところ
       羽柴秀吉「御朱印」が下され、両人(浅野長政・戸田勝隆)が伝達命令を受けた旨を通知。〔「深堀家文書」‐386〕
 11月19日 稲葉一鉄、没。〔『日本史人物生没年表』〕
 11月20日 桑山重晴、島津義弘(「羽柴兵庫頭」)の仕合を羽柴秀長(「大納言殿」)が満足していた旨を報じ、伊集院忠棟の下国を賞
       す。また「爰許御用之儀」がある場合は取り次ぐ旨を通知。詳細は阿弥陀寺に伝達させる。〔「旧記雑録後編」A‐547〕
 11月22日 島津義弘、伊地知重秀へ琉球王国への使者派遣について石田三成からの指示が下されたこと、その石田三成の指示を遵守しな
       ければ島津氏にとって悪しき事態を招くので油断無く実行することを命令。
       また石田三成からの命令書が送付されており、白浜次郎左衛門尉および石田三成が「御直談」して下さるとのことを披露するよ
       う命令。〔「旧記雑録後編」A‐548〕
 11月25日 島津義久、松浦隆信へ自身の下着を報じ、京都において「巣鷹御用」が話題に上がったが日向国巣鷹は近年不調であり、
       「高麗巣若鷹」を所持したいので調達を命令。また祝儀として太刀・馬を下し、詳細は年寄衆より伝達させる。
       〔「旧記雑録後編」A‐550〕
 11月28日 羽柴秀吉、上京。

12月
 12月 8日 毛利輝元、二宮就辰へ備中紙屋揚井平左衛門尉を「家人」に取り立てる旨を通達。〔「柳井家文書」‐1〕
 12月12日 島津義久、北郷忠虎へ島津氏への忠勤や日向国をめぐり秋月氏・高橋氏・伊東氏と入魂にしない旨を確認する旨の全3ヶ条の
       起請文を提出。〔「旧記雑録後編」A‐549〕
 12月12日 島津義久、北郷時久へ度々の返翰は無益である旨を通達。〔「旧記雑録後編」A‐553〕
 12月12日 宗義調(対馬国守護)、没。〔『日本史人物生没年表』〕
 12月18日 羽柴秀吉、鹿児島へ到着した島津義久からの段子20巻と醒々皮簑を謝す。詳細は石田三成に伝達させる。
       〔「島津家文書」@‐377、「旧記雑録後編」A‐556〕
 12月18日 前田玄以、伏見稲荷社へ先年通達した大仏殿廻への松苗供出を督促。〔「羽倉文書」〕
 12月19日 羽柴秀吉、島津豊久の歳暮祝儀を謝し、詳細は長束正家に伝達させる。〔「旧記雑録後編」A‐558〕
 12月20日 石田正継、河内国大阿弥陀経寺へ温泉に関する全5ヶ条の「定」を下す。また小西隆佐は西国下向のため相談できないが去夏
       既に退転しているので懈怠すればこのように失墜する旨を強調。〔「大阿弥陀経寺文書」〕
 12月25日 羽柴秀吉、島津義弘(「羽柴薩摩侍従」)の歳暮祝儀を謝し、詳細はいつなりに伝達させる。〔「旧記雑録後編」A‐559〕
      冬 羽柴秀吉、大友義統へ豊後国中の「しつくいぬり」職人は唐人・日本人問わず早々に上京させるよう命令。詳細は今井宗久・
       増田長盛に伝達させる。〔「大友家文書録」B‐2184〕
   年  末 羽柴秀吉、大坂城に戻り越年。〔「言経卿記」〕
    この冬 島津義久、石田三成へ「大仏柱」および自身の薩摩国下着、島津領国の疲弊ぶりを通知。
       また羽柴秀吉へ直接奉公している島津忠長へ国役の沙汰無き旨の通達も依頼。〔「旧記雑録後編」A‐535〕


    この年 浅野長重、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
        板倉重昌、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕


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