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        【 天下統一期年譜 1587年 】

天正15(1587)年

 1月
  1月 1日 禁裏に於いて四方拝が執り行われる。
       奉行は葉室頼宣。御服は高倉永孝。「御まへしやうそく」は白川雅朝。御簾・御裾は万里小路充房。御剣は中山慶親。
       脂燭は六条有親・五辻元仲。富小路秀直・「せいくら人」・「しんくら人」であった。御草鞋は葉室頼宣。
       「御うけとり」は大典侍殿(万里小路賢房女)・長橋局(量子:高倉永家女)であり、節会が催された。
      「内弁」は近衛信尹(「近ゑ殿左大臣」)であった。〔『お湯殿の上の日記』八〕
  1月 1日 「ゐんの御所」にて酒宴が催された。〔『お湯殿の上の日記』八〕
  1月 1日 羽柴秀吉、大坂城において公家衆・諸大名の参賀を受ける。
  1月 1日 山科言経、羽柴秀次(「羽柴宰相殿」)の摂津国大坂居館に於いて越年する。〔『言経卿記』二〕
  1月 1日 山科言経、丑刻に津田宗及(「宗及」)の摂津国大坂居館を訪問。〔『言経卿記』二〕
  1月 1日 羽柴秀次(「宰相殿」)、津田宗及(「宗及」)の邸にて衣冠・衣紋を着し摂津国大坂城の羽柴秀吉(「殿下」)に祗候。
       各「堂上衆殿下衆」・「諸大夫衆」も同様に祗候した。〔『言経卿記』二〕
  1月 1日 山科言経、未下刻に摂津国御大坂より帰宅す。〔『言経卿記』二〕
  1月 1日 山科言経・冷泉為満・四条隆昌・山科言緒(「阿茶丸」)・白江寿正・白江正善、暮れに大村由己(「梅庵」)へ年頭礼問を
       行う。〔『言経卿記』二〕
  1月 2日 大友義統、吉川元長に羽柴秀吉の九州下向を報告。〔「吉川家文書」@‐103〕
  1月 3日 土御門久脩、禁裏へ「御身かため」のために参内。〔『お湯殿の上の日記』八〕
  1月 3日 冷泉為満・六条有親、禁裏へ祗候。勧修寺晴豊が申次を務めた。〔『お湯殿の上の日記』八〕
  1月 3日 山科言経・冷泉為満・四条隆昌・山科言緒(「阿茶丸」)ら、「ヲリ湯」に浴す。〔『言経卿記』二〕
  1月 3日 山科言経、早朝に大村由己(「梅庵」)を訪問し朝食を相伴す。橋本実勝も到来した。〔『言経卿記』二〕
  1月 3日 大村由己(「梅庵」)、山科言経を訪問し山科言経へは杉原紙1束、冷泉為満・四条隆昌へは音信を贈る。酒席が催された。
       〔『言経卿記』二〕
  1月 3日 山科言経・橋本実勝・大村由己(「梅庵」)、「旦新左」を訪問し夕食を相伴す。〔『言経卿記』二〕
  1月 3日 羽柴秀吉、長宗我部元親へ仙石秀久の敗北は「曲事」であるが、長宗我部信親の戦死は忠節比類無きことと賞し、
       長宗我部元親を豊後国臼杵へ入城させるように大友宗麟から言上があったこと、早春には羽柴秀吉自身の出馬を予定している
       ことを通知し、それまでは大友宗麟と協議の上、配備を厳重にすべきことを命令。詳細は羽柴秀長に伝達させる。
       〔「大友家文書録」B‐2115〕
  1月 3日 羽柴秀吉、志賀親善へ仙石秀久敗北を通知し、岡城の防備を堅固にすべきを命令。〔「大友家文書録」B‐2116〕
  1月 3日 羽柴秀吉、佐伯惟定へ仙石秀久敗北を通知し、栂牟礼城の防備を堅固にすべきを命令。〔「大友家文書録」B‐2117〕
  1月 4日 竹田定加・竹田定珪、禁裏へ祗候。申次は勧修寺晴豊で、禁裏「御かくもん所」にて後陽成天皇との対面があった。
       「千す万さい」が禁裏「きてう所の御庭」に於いて執り行われた。〔『お湯殿の上の日記』八〕
  1月 4日 飛鳥井雅教・飛鳥井雅継、夕方に禁裏へ祗候。禁裏「きてう所」に於いて後陽成天皇の対面があった。
       その後、禁裏男末にて「てんはい」が下賜された。〔『お湯殿の上の日記』八〕
  1月 4日 烏丸光宣・烏丸光広、禁裏へ祗候。禁裏「つねの御所」に於いて後陽成天皇の対面があった。〔『お湯殿の上の日記』八〕
  1月 4日 青蓮院尊朝法親王、後陽成天皇へ「文」を進上。〔『お湯殿の上の日記』八〕
  1月 4日 近衛前久(「りう山」)、後陽成天皇へ「とり」を進上。〔『お湯殿の上の日記』八〕
  1月 4日 山科言経、羽柴秀次(「羽柴宰相殿」)を訪問するも留守であった。〔『言経卿記』二〕
  1月 4日 山科言経、小寺高友(「小寺休夢斎」)を訪問し対面す。家中の養云に扇子1本を贈る。〔『言経卿記』二〕
  1月 4日 山科言経、暮れに大村由己(「梅庵」)を訪問。〔『言経卿記』二〕
  1月 5日 禁裏に於いて「てうのはしめ」が執り行われる。〔『お湯殿の上の日記』八〕
  1月 5日 曇華院殿(聖秀女王:正親町天皇妹)、後陽成天皇へ「御ふみ」を進上。後陽成天皇は「御返事」を認めた。
       〔『お湯殿の上の日記』八〕
  1月 5日 「ゐんの二位殿」、禁裏へ酒肴を献上。〔『お湯殿の上の日記』八〕
  1月 5日 三条公仲、禁裏へ祗候。〔『お湯殿の上の日記』八〕
  1月 5日 四条隆昌、禁裏へ祗候。〔『お湯殿の上の日記』八〕
  1月 5日 後陽成天皇、禁裏「きてう所」に於いて三条公仲・四条隆昌と対面。申次は四辻季満であった。〔『お湯殿の上の日記』八〕
  1月 5日 羽柴秀次(「まこ七郎さい相」)、禁裏へ「つる」1羽を献上。〔『お湯殿の上の日記』八〕
  1月 5日 山科言経、早朝に羽柴秀次(「羽柴宰相殿」)を訪問し対面。〔『言経卿記』二〕
  1月 5日 山科言経、小寺高友(「小寺休夢斎」)を訪問するも留守であった。家中の養云と談合す。〔『言経卿記』二〕
  1月 5日 山科言経、大村由己(「梅庵」)を訪問するも摂津国大坂城へ出仕しているとのことであった。〔『言経卿記』二〕
  1月 5日 大村由己(「梅庵」)、摂津国大坂城へ出頭。〔『言経卿記』二〕
  1月15日 羽柴秀吉、九州征伐の先勢として宇喜多秀家・羽柴秀長らの出陣を予定。〔「毛利家文書」B‐951〕
  1月17日 羽柴秀吉、先勢の戦況報告をしてきた蜂須賀家政・加藤嘉明へ全13ヶ条の指示を命令。〔「諸家単一文書」‐1090〕
  1月17日 羽柴秀吉、志賀親善へ岡城堅守の忠節を賞し宇喜多秀家ら先勢の派遣を通知。
       羽柴秀吉自身(「殿下」)の2月末〜3月始頃の出馬を予告、「八幡大菩薩」は偽りにあらずことを告知。
       後に恩賞を約し岡城堅守を激励し、兵粮・玉薬を送付する旨を通達。〔「大友家文書録」B‐2120〕
  1月19日 島津義久、羽柴秀長へ京都に対して緩疎無きように意を払っていたにもかかわらず、
       度々島津領国を脅かした大友義統と羽柴秀吉の命令(「関白殿雖為御下知」)で仙石秀久・長宗我部元親等が一致したために
       一戦に及び勝利したこと、この件に関する取り成しを依頼。〔「旧記雑録後編」A‐230〕
  1月19日 島津義久、石田三成へ大坂に対して緩疎無きように意を払っていたにもかかわらず、
       度々島津領国を脅かした大友義統と羽柴秀吉の命令(「関白殿雖為御下知」)で仙石秀久・長宗我部元親等が一致したために
       一戦に及び勝利したこと、この件に関する取り成しを依頼。〔「旧記雑録後編」A‐231〕
  1月25日 宇喜多秀家、島津氏征伐のため先陣として出陣。〔「旧記雑録後編」A‐239〕
  1月26日 島津義弘、野神城に入城。〔「旧記雑録後編」A‐413〕
  1月27日 蜂須賀家政、佐伯惟定へ羽柴秀吉御朱印が送付される旨を通知し、これを賀す。〔「大友家文書録」B‐2133〕
  1月28日 大友義統、一万田鎮述へ庄内における島津氏との戦闘に際の忠勤を賞す。〔「田部修氏蒐集文書」‐2〕
  1月28日 大友義統、一万田新介へ庄内における島津氏との戦闘に際の忠勤を賞す。〔「一万田文書」‐1〕
  1月28日 大友義統、財津統貞へ庄内における島津氏との戦闘に際の籠城と大友義鎮(休庵)下知による普請馳走を賞す。
       〔「石松文書」‐8〕

 2月
  2月 1日 宮部継潤・南条勘兵衛尉・亀井茲矩・荒木重堅・垣屋光成、島津氏征伐のため出陣。〔「旧記雑録後編」A‐233〕
  2月 5日 前野対馬守(前野長康?)・明石守延・赤松左兵衛尉・別所重棟・福島正則・中川秀政・高山重友・細川忠興、
       島津氏征伐のため出陣。〔「旧記雑録後編」A‐233〕
  2月 6日 長宗我部元親、佐伯惟定へ羽柴秀吉御朱印の送付を賀し、長宗我部元親の伊予国日振島からの渡海および京勢の進発火急を
       通知。〔「大友家文書録」B‐2135〕
  2月 8日 羽柴秀吉、志賀親善へ駄原畑・篠原目における忠節を賞し、羽柴秀吉(「殿下」)自身の出馬を予告、軽率な振舞を戒める。
       詳細は黒田孝高に伝達させる。〔「大友家文書録」B‐2136〕
  2月10日 羽柴秀長・筒井定次、島津氏征伐のため出陣。〔「旧記雑録後編」A‐233〕
  2月14日 大友義統、田所飛騨入道へ島津氏との戦闘の際の忠功を賞す。〔「佐田穂秀文書上ノ二」‐8〕
  2月15日 木下勝俊・生駒親正・羽柴秀勝、島津氏征伐のため出陣。〔「旧記雑録後編」A‐233〕
  2月15日?黒田孝高、森某・太田九郎・魚返伊豆入道・古後摂津守へ鉄炮の玉薬の到来を謝し、
       兵粮・玉薬送付の旨を通知。〔「大友家文書録」B‐2138〕
  2月16日 大友義統、森雅楽助へ角牟礼城における島津氏との戦闘の際の忠勤を賞す。〔「森猪松文書」‐8〕
  2月16日 大友義統、魚返民部丞へ角牟礼城における島津氏との戦闘の際の忠勤を賞す。〔「魚返文書」‐3〕
  2月16日 大友義統、古後八郎・古後勘三郎・古後刑部丞へ角牟礼城における島津氏との戦闘の際の忠勤を賞す。
       〔「古後文書」‐32・33・34〕
  2月20日 羽柴秀吉、龍造寺政家へ肥後国への兵粮米3000石の輸送に関して、毛利吉成・黒田孝高・小早川隆景が管理している千栗
       で請け取り、熊本浦まで届け浅野長政・戸田勝隆・加藤清正・生駒親正・蜂須賀家政・福島正則・小西行長へ渡すよう命令。
       〔「龍造寺家文書」‐194〕
  2月20日 前田利長・堀秀政・長谷川秀一・木村重茲・青山宗勝・村上次郎右衛門・溝口秀勝・山田喜左衛門・太田一吉、島津氏征伐の
       ため出陣。〔「旧記雑録後編」A‐233〕
  2月25日 蒲生氏郷・織田三郎・九鬼嘉隆・岡本良勝・池田輝政・森右近・稲葉貞通、島津氏征伐のため出陣。
       〔「旧記雑録後編」A‐233〕
  2月26日 足利義昭、島津義弘へ羽柴秀長の内意を通知し羽柴秀吉との和睦締結を再度促す。
       〔「島津家文書」@‐107、「旧記雑録後編」A‐〕
  2月    羽柴秀吉、大友宗麟へ敵城攻略を賞し、3月1日の羽柴秀吉出馬まで軽率を戒める。
       また「平釜」の献上を受けるも大友宗麟に返却する。〔「大友家文書録」B‐2145〕
  2月    羽柴秀長、志賀親善の忠節を賞し近日中に豊前国小倉へ着陣する旨を通知。
       詳細は大友宗麟に伝達した旨を通知。〔「大友家文書録」B‐2144〕
  2月  日 上杉景勝、越前国敦賀上岩井村へ木材伐採に関する「制札」を下す。〔「小林俊三郎文書」〕

 3月
  3月 1日 羽柴秀吉、九州征伐のため約八万の軍勢を率い大坂城を発し、勅使・公家衆・織田信雄らがこれを見送る。〔「兼見卿記」〕
  3月 1日 羽柴秀吉、馬廻衆・小姓衆・織田信雄・蜂屋頼隆・佐々成政・水野忠重・石川数正らを率いて出陣。
       〔「旧記雑録後編」A‐233〕
  3月 1日 里見義康・毛利秀頼・蜂屋謙入・市橋長勝・生駒忠清・有馬則頼・矢部家定・稲葉重通・上田左太郎・津田盛月・松下之綱・
       滝川増重・牧村利貞・瀬田掃部頭・池田久左衛門尉・古田重然・稲葉方通・松桂左京亮、島津氏征伐にあたり羽柴秀吉の前備
       として出陣。〔「旧記雑録後編」A‐233〕
  3月 1日 浅野長政・木下勝俊・山崎片家・戸田勝成・長谷川重成・戸田勝隆、島津氏征伐にあたり羽柴秀吉の脇備として出陣。
       〔「旧記雑録後編」A‐233〕
  3月 1日 留田左近将監・早川長政・津田大炊頭・寺西是成・大垣与一郎・片桐且元・加須屋真雄・池田長吉・川尻秀長・加藤清正・
       古田重勝・有島彦太郎・丸毛三郎兵衛尉・佐藤方二郎・生駒千・青木一重・奥山重定、島津氏征伐にあたり羽柴秀吉の後備
       として出陣。〔「旧記雑録後編」A‐233〕
  3月 1日 大友義鎮(宗滴)、戸次近江守(白谷湯城守将)へ志賀親善の進言に従い順路の覚悟を定めたことを賞し、
       「京都御人数」が豊前表へ着陣した旨を報じ、必ず「公儀」に対し忠功を上申することを通知。〔「久保文書」‐36〕
  3月 6日 羽柴秀吉、備前国岡山に着陣。
  3月12日 羽柴秀吉、備後国赤阪に到着し足利義昭の出迎えを受ける。
  3月14日 大友義統、狭間某へ島津義弘侵入に際しての忠節を賞す。〔「狭間文書」‐6〕
  3月15日 木食応其・一色昭秀、薩摩国府内に赴き和睦を推奨するが失敗。〔「旧記雑録後編」A‐298〕
  3月15日 新納忠元、薩摩国府内を発す。〔「旧記雑録後編」A‐413〕
  3月17日 羽柴秀吉、安芸国廿日市に到着。
  3月18日 羽柴秀吉、安芸国厳島に参詣。
  3月20日 羽柴秀吉、赤間関から豊後在陣中に敗北を喫した黒田孝高へ筑前国秋月城を包囲するよう命令。
       さらに、浅野長政・戸田勝隆が一両日中に到着する旨を通達。〔「黒田文書」〕
  3月20日 前田玄以(「民部卿法印玄以」)、京都大徳寺へ羽柴秀吉の命令で大徳寺領であった「大宮郷」内の優婆懐畠を妙蓮寺の屋敷
       とすることを通達。〔「大徳寺文書」@‐107〕
  3月20日 新納忠元、北里へ到着。〔「旧記雑録後編」A‐413〕
  3月24日 一柳直政、美濃国真桑百姓中へ早野村との草木苅り取りをめぐる争論を糺明。〔「守屋文書」‐12〕
  3月25日 羽柴秀吉、関戸へ着陣。〔「龍造寺家文書」‐185〕
  3月25日 新納忠元、北里を出撃。〔「旧記雑録後編」A‐413〕
  3月26日 羽柴秀吉、派遣した「上衆」は不案内であるため、龍造寺政家へ陣取普請などは戸田勝隆に相談して進めるよう指示。
       〔「龍造寺家文書」‐185〕
  3月26日 新納忠元ら島津勢、宮之路において羽柴秀吉軍先発隊と交戦・撃破。〔「旧記雑録後編」A‐413〕
  3月28日 羽柴秀吉、長門国赤間の関より豊前国小倉に渡海。
  3月28日 羽柴秀吉、吉川広家へ豊前国小倉に到着した旨を通知し、詳細は大谷吉継に伝達さす。〔「吉川家文書」@‐706〕
  3月28日 大谷吉継、吉川広家へ明日は豊前国馬獄に進軍し秋月城を攻囲する旨を伝達。〔「吉川家文書」@‐707〕

 4月
  4月 1日 羽柴秀吉、豊前国板原へ着陣。〔「大友家文書録」B‐2148〕
  4月 2日 帥法印歎仲、河内国小西見村の百姓中へ一柳直末(「一柳伊豆守」)の折紙により河内国観心寺衆を侮って七郷の山内に
       おける柴苅の闘争に及んだ件は「言語道断」、「当御代」は「喧嘩停止」であるにもかかわらず「御法度」に背き「曲事」に
       及んだ事は許されないことであり、これ以後は小西見(「おにしミ」)領山に立ち入ることを禁止し、万が一立ち入った場合は
       「成敗」することを通達。〔「観心寺文書」‐636〕
  4月 2日 一柳直政、美濃国真桑百姓中へ早野村のと境目相論に裁決を通達。〔「守屋文書」‐11〕
  4月 3日 羽柴秀吉、筑前国厳石城を陥落させ、ついで秋月種実を降伏さす。〔「大友家文書録」B‐2148〕
  4月 3日 羽柴秀吉、菊亭晴季・勧修寺晴豊・中山親綱へ秋月城攻略と秋月種実父子剃髪後に降伏した旨を通知、
       朝廷での披露を依頼。〔「大友家文書録」B‐2148〕
  4月 3日 島津義久、真木島昭光へ不慮の防戦(羽柴秀吉軍との交戦)について触れ、足利義昭の命令(「奉任貴命」)の遵守および
       別心無き旨の披露を依頼。〔「旧記雑録後編」A‐284〕
  4月 4日 羽柴秀吉、筑後国高良山に到着し龍造寺政家・筑紫広門を謁見・臣従さす。
  4月 5日 大谷吉継、吉川広家の日向国土持城攻略の戦功を賀して鞦を贈与す。〔「吉川家文書」@‐708〕
  4月 5日 新納忠元ら、坂中を出撃。新納忠元は熊本城、新納久暁は合子城、伊集院久治は津守城、島津以久は八代城にそれぞれ入城し
       防備を固める。〔「旧記雑録後編」A‐413〕
  4月 6日 羽柴秀長、日向国高城・財部城の間に51ヶ所の陣所を構築。〔「旧記雑録後編」A‐295・297・413〕
  4月 9日 羽柴秀吉、九州征伐の際に前備衆17名へ厳石城攻撃においての怠慢を叱責し反省を促す。〔「松下文書」〕
  4月12日 羽柴秀吉、吉川広家・丹羽長重・長谷川秀一・前野長康・木村重茲・赤松左兵衛尉・明石守延・別所重棟へ「陣取法度」の
       遵守を厳命。詳細は鍋島直茂に使者を添えて伝達させる。〔「鍋島家文書」‐4〕
  4月15日 羽柴秀吉、龍造寺政家へ龍造寺配下の者共が肥後国熊本周辺において乱妨・狼藉・喧嘩を働いている現状を指摘し、
       速やかに取り締まる旨を指示。詳細は戸田勝隆に伝達させる。〔「龍造寺家文書」‐186〕
  4月16日 羽柴秀吉、肥後国隈本に進軍。
  4月17日 島津義久・島津義弘、都於郡を発し日向国根白坂へ向かう。〔「旧記雑録後編」A‐295・413〕
  4月17日 羽柴秀長、日向国根白坂の戦で島津軍を撃破。
       羽柴秀長は木食応其・一色昭秀等を島津氏へ派遣し降伏を説かせる。〔「旧記雑録後編」A‐282・297・413〕
  4月17日 新納忠元、桂神祇(神祇忠ム)と花見を理由に八代衆より人質を取る。〔「旧記雑録後編」A‐413〕
  4月18日 新納忠元、八代を出撃し、阿世知山において八代衆の人質を解放。〔「旧記雑録後編」A‐413〕
  4月19日 羽柴秀吉軍(「京勢」)、新納忠元らの立ち去った八代へ到着。〔「旧記雑録後編」A‐413〕
  4月20日 羽柴秀吉、肥後国八代から日向国高城攻撃中の毛利輝元へ城攻めの注意を指示し肥後国諸城の攻略の状況を通知。
       〔「高木文書」〕
  4月20日 新納忠元ら、無事に球磨城へ到着。その後人吉城を調儀のため訪問。〔「旧記雑録後編」A‐413〕
  4月21日 伊集院忠棟、羽柴秀長の本営を訪問。〔「旧記雑録後編」A‐295・413〕
  4月21日 島津義久、伊集院忠棟・平野政友を人質として木食応其のもとに送る。〔「旧記雑録後編」A‐413〕
  4月21日 山田新助、高城より下城し、山田有栄・喜入久道・本田増宗・本田親孝らを人質として桑山重晴の陣所へ送る。
       〔「旧記雑録後編」A‐413〕
  4月21日 新納忠元、大口城へ帰着。〔「旧記雑録後編」A‐413〕
  4月22日 羽柴秀吉、「九州御動座」にあたり陣中見舞いを贈ってきた京都大徳寺へ朱印状を以て芳情を謝す。
       また「当面」(九州方面)の件は、悉く羽柴秀吉「御存分」に任せられたので、やがて「御帰洛」する旨を通達。
       〔「大徳寺文書」@‐104〕
  4月23日 桂神祇(神祇忠ム)、平佐城へ帰着。〔「旧記雑録後編」A‐413〕
  4月25日 羽柴秀吉軍、薩摩国川内の泰平寺を接収し、羽柴秀吉本陣を設営。〔「旧記雑録後編」A‐293・294・413〕
  4月25日 姉小路頼綱、没。〔『日本史人物生没年表』〕
  4月26日 羽柴秀吉、肥後国水俣に進軍。
  4月27日 小西行長・加藤嘉明・脇坂安治・九鬼嘉隆、薩摩国宮内(府内?)へ禁制を下す。〔「旧記雑録後編」A‐286〕
  4月28日 小西行長・脇坂安治・九鬼嘉隆等、平佐城を攻囲。〔「旧記雑録後編」A‐294・413〕
  4月29日 神祇忠ム、降伏の証の小姓の海老原市十郎・大田治部左衛門を人質として九鬼嘉隆・脇坂安治の陣所へ提出。
       〔「旧記雑録後編」A‐413〕
  4月  日 羽柴秀吉、薩摩国長島へ全3ヶ条の定を下す。〔「旧記雑録後編」A‐287〕

 5月
  5月 1日 島津義久、都於郡を退き鹿児島へ帰還。〔「旧記雑録後編」A‐295〕
  5月 2日頃島津義久、羽柴秀吉の薩摩国川内への進撃の報に初めて接し、北郷時久・喜入季久・伊集院久治・本田親貞・鎌田政近らを
       召集、羽柴秀吉軍進撃に対する軍議を開く。〔「旧記雑録後編」A‐413〕
  5月 3日 羽柴秀吉、吉川元長へ足利義昭帰洛のための上船を準備するように命令。〔「吉川家文書」@‐656〕
  5月 3日 羽柴秀吉、薩摩国川内の泰平寺に本営を移す。
  5月 6日 島津義久、「御老中」喜入季久・町田久倍・伊集院久治らを引き連れ伊集院へ到着。
       島津義久は御母堂御寺窓院にて剃髪し「龍伯」と改名。〔「旧記雑録後編」A‐413〕
  5月 6日 島津義久、剃髪して羽柴秀吉の滞在する泰平寺へ向かう。〔「旧記雑録後編」A‐293〕
  5月 7日 島津義弘(「義珎」)、本田親貞へ「誠一大事」のために羽柴秀吉(「関白様」)に対する調儀は
       福智長通か石田三成に依頼する旨を通知。〔「旧記雑録後編」A‐291〕
  5月 7日 島津義弘、飯野から本田親貞へ使者を遣わし、「御和平」の件を整えるよう通達。〔「旧記雑録後編」A‐413〕
  5月 8日 島津義久、泰平寺において羽柴秀吉に無条件降伏して臣従を誓う。指南(取次役のことか?)は佐々成政・堀左衛門佑。
       〔「旧記雑録後編」A‐293〕
  5月 8日 島津義久、羽柴秀吉の布陣する泰平寺へ参謁。佐々成政・堀秀政の取り成しにより羽柴秀吉に拝閲。
       羽柴秀吉、島津義久へ羽柴秀吉自身が帯びていた腰物大小(「備前包平・三条宗近」)・御小袖を下賜。
       〔「旧記雑録後編」A‐413〕
  5月 8日 羽柴秀吉、毛利輝元(「毛利右馬頭」)・小早川隆景(「小早川左衛門佐」)・吉川元長(「吉川治部少輔」)へ
       羽柴秀長(「中納言」)と相談して路次通に「法度」を厳守させ「九州置目」を通達すべき旨を命令。
       〔「毛利家文書」B‐952〕
  5月 8日 桑山重晴、島津氏側の某へ島津義久が羽柴秀吉に出仕したことを報じ、本来ならば鹿児島は接収されるはずであったが、
       伊集院忠棟請状により羽柴秀吉(「相国」)の機嫌が良く鹿児島接収は赦免されたことを通知。
       これはひとえに羽柴秀長(「中納言様」)の取り成しの成果によるものであり、早々に福智長通・福智式部大輔の案内で
       羽柴秀長へ面謁するよう指示を下す。〔「旧記雑録後編」A‐296〕
  5月 9日 羽柴秀吉、島津義久へ薩摩国一国に関する「御朱印」を下す。〔「旧記雑録後編」A‐413〕
  5月 9日 羽柴秀吉、島津義久へ「九州国分」の「御下知」違反のため「御誅罸」の対象となったこと、
       羽柴秀吉の薩摩国御動座にあたり一命を捨てて降伏したので「御赦免」、薩摩一国を宛行うことを通達。
       〔「島津家文書」@‐345、「旧記雑録後編」A‐306〕
  5月 9日 羽柴秀吉、喜入季久らにも御小袖を下賜。さらに羽柴秀吉は喜入季久らに「御茶」を下し、
       「汝等者此度義久於致切服者供ニ可切と為存歟。義久彼等ニ目を能可被懸、我者左様之節可切服者一人も無之」と言葉を掛けて
       喜入季久らの忠節を賞す。〔「旧記雑録後編」A‐413〕
  5月 9日 羽柴秀吉、島津氏「御老中」伊集院忠棟・平田光宗・本田親貞・島津忠長らを謁見させる旨を発す。
       また島津氏「兵道役者」野村良綱、「御陣僧」長寿院盛淳、「御右筆」八木昌信らへの謁見命令も発す。
       更に石田三成を薩摩国鹿児島に派遣し、島津「亀寿様」を人質として提出するよう催促させる。
       また、馬廻の佐々孫十郎・平塚三郎兵衛を迎えとして派遣。〔「旧記雑録後編」A‐413〕
  5月 9日 羽柴秀吉、女房こほ(北政所侍女)へ島津義久降伏の状況・薩摩国仕置・筑前国博多の復興・朝鮮への外交交渉などについて
       を通知。〔「上阪文書」〕
  5月12日 羽柴秀長、薩摩国加治木へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「旧記雑録後編」A‐311〕
  5月12日 羽柴秀長、薩摩国喜入院へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「旧記雑録後編」A‐312〕
  5月13日 羽柴秀吉、羽柴秀長へ全11ヶ条の「条々」を下す。
       大隅・日向両国の「人質」解放を命令したこと、長宗我部信親の戦死を悼み大隅国を長宗我部元親へ下す予定、島津義久降伏の
       様子、黒田孝高を添えて毛利輝元・小早川隆景・吉川元長を薩摩国に移陣させること、志賀親善の忠節に報い大友宗麟の判断で
       日向国内に城を与えること、大友義統と談議し豊後国内の不要な城の破却命令、日向国における大友宗麟の知行取分は大友宗麟
       の覚悟次第とすること、宇喜多秀家・宮部継潤・蜂須賀家政・尾藤知宣・黒田孝高に日向国・大隅国・豊後国の城普請および
       城わりを命令、豊前国の不要な城の破却と豊後・豊前国間に一城構築すべきこと、越権行為は成敗することを通達。
       〔「大友家文書録」B‐2149〕
  5月13日 福智長通、島津義弘へ羽柴秀長が島津家久を同道し鹿児島へ向かうこと、島津家久の出頭についての善悪は福智長通の判断に
       委ねられていることを通達。〔「旧記雑録後編」A‐313〕
  5月14日 羽柴秀長、病中の島津家久を同道し都於郡を発す。〔「旧記雑録後編」A‐313〕
  5月15日 島津義久、息女を羽柴秀吉の人質とすることを決定。〔「旧記雑録後編」A‐335〕
  5月15日 島津義久、本田親貞・平野丹後入道を引き連れ伊集院へ宿泊。〔「旧記雑録後編」A‐413〕
  5月16日 福智長通、桑山重晴へ明日の島津義弘参上は必ず実行させる旨を通知。
       また、島津義弘が羽柴秀吉(「殿下様」)へ謁見にあたり桑山重晴が羽柴秀吉の本陣である大平寺まで同行することは
       羽柴秀吉「御諚」である旨を通知。〔「旧記雑録後編」A‐314〕
  5月16日 島津義久、北郷時久へ大隅国は「国分」により長宗我部元親領国となる予定を通知。〔「旧記雑録後編」A‐290〕
  5月17日 羽柴秀吉、脇坂安治を船奉行として薩摩国川内を出船。〔「旧記雑録後編」A‐413〕
  5月17日 羽柴秀吉、薩摩国大口へむけて出発。〔「島津家文書」@‐350〕
  5月17日 島津義久、羽柴秀吉の陣所である泰平寺を参謁。羽柴秀吉は直に伊地知重春・原田伊予守・蓑輪丹後守・長谷場筑後守らへ
       帷子を下賜し、摂津国大坂まで随行する旨を通達。〔「旧記雑録後編」A‐413〕
  5月18日 羽柴秀吉、川内大平寺を去り平佐城へ入城。〔「旧記雑録後編」A‐317・413〕
  5月18日 稲葉一鉄、稲葉貞通へ島津氏降伏によって九州征伐が終了した旨を通知。〔「稲葉文書」‐83〕
  5月18日 真木島昭光、島津義久へ羽柴秀吉との和議締結(「御一和之儀」)を悦び一色昭秀・多羅尾某・沢孫大夫を派遣。
       〔「島津家文書」A‐1116〕
  5月18日 大村純忠、没(異説4月18日)。〔『日本史人物生没年表』〕
  5月19日 羽柴秀吉、伊集院忠棟・石田三成・木食応其へ自身の薩摩国大口表への陣替予定を告げる。
       島津歳久が祁答院城明け渡しを拒否している旨を島津義久に通達。伊集院忠棟・石田三成両人は早急に祁答院城へ赴き、
       返答次第では「成敗」すべきを命令。〔「島津家文書」@‐350、「旧記雑録後編」A‐321〕
  5月19日 木食応其、島津義久へ羽柴秀吉に対して誓詞・人質を提出し、速やかに和議を調えることを促す。
       〔「島津家文書」A‐1117、「旧記雑録後編」A‐322〕
  5月19日 島津義弘、野尻城において羽柴秀長に面謁。人質として赤塚三右衛門・佐谷田覚右衛門を桑山重晴の陣所へ提出。
       〔「旧記雑録後編」A‐413〕
  5月20日 羽柴秀吉、祁答院城に到着。〔「島津家文書」@‐350〕
  5月20日 桑山重晴、島津義弘(「義珎」)へ城(祁答院城?)は桑山重晴等が受け取った上で毛利氏番衆が配置される予定であること
       を通知。〔「旧記雑録後編」A‐324〕
  5月21日 羽柴秀吉軍、大隅国宮内を攻囲するも頑強な抵抗により津留田へ撤退。〔「旧記雑録後編」A‐327〕
  5月21日 島津義久(「龍伯」)、島津氏老中へ飫肥郡が伊東祐兵へ宛行われる件に反抗している件について細川藤孝(「幽斎」)・
       石田三成が予想外にも気分を害していることを報じ、難渋すれば「当家之為ニ成間敷」き事なので行動を差し控えるよう指示。
       〔「旧記雑録後編」A‐325〕
  5月21日 島津氏、島津久保の首を京都へ送るよう羽柴秀吉の命令を受ける。〔「旧記雑録後編」A‐323〕
  5月21日 伊集院忠棟、羽柴秀長の本営を訪問、島津氏側からの人質を提出し和睦成立。〔「旧記雑録後編」A‐293〕
  5月23日 大友義鎮(宗麟)、没(異説5月6日)。〔『日本史人物生没年表』〕
  5月24日 新納忠元、瀧聞宗清・土持綱家・二階堂阿波守へ島津義久は新納久饒の、島津義弘は伊東右衛門佐の意見により羽柴秀吉へ
       出頭したこと、島津久保らを人質として提出する命令が下されていることなどを通知。「京勢」は兵粮不足になるようだが、
       口惜しき次第ではあるが「上意背かたき故」に和睦に従うことを表明。〔「旧記雑録後編」A‐326〕
  5月24日 伊集院久信、瀧聞宗清・土持綱家・二階堂阿波守へ羽柴秀吉軍の来襲に備えることを通知。〔「旧記雑録後編」A‐327〕
  5月25日 羽柴秀吉、島津義弘へ大隅国を宛て行う。但し、大隅国肝付郡は伊集院忠棟に与えるべきことを命令。
       〔「島津家文書」@‐378、「島津家文書」A‐798、「旧記雑録後編」A‐328〕
  5月25日 羽柴秀吉、島津久保へ日向国真幸院の一郡を宛行う。
       〔「旧記雑録後編」A‐330、「島津家文書」@‐425では26日〕
  5月26日 羽柴秀吉、島津義弘へ全11ヶ条の「覚」を下す。
       島津義久・島津義弘より人質を徴し、島津義弘を日向国飯井城に配置し島津久保には真幸郡を宛行うこと、島津義弘に大隅国を
       宛行うこと、島津久保は人質としないこと、伊集院忠棟には居城に付く一郡を宛行うこと、島津豊久には人質を提出させて
       羽柴秀次の与力とするので日向国佐土原城と城付の知行を宛行うこと、島津歳久は本知を安堵すること、北郷時久には人質を
       提出させて本知を安堵すること、特に北郷時久の場合は日向国内に千町を宛行う「国切」であるから人質の他に子息1人を
       島津久保同前に奉公させるべきこと、北郷時久についてはこの2ヶ条に違反した場合は成敗すること、更に北郷時久が違反した
       場合は羽柴秀次・毛利輝元・宇喜多秀家・大友義統・小早川隆景・吉川元長・宮部継潤・蜂須賀家政・長宗我部元親・尾藤知宣・
       黒田孝高・島津義久・島津義弘が大隅・日向両国の軍勢を率い攻囲、その跡職は島津義弘に宛行うことを通知。
       詳細は安国寺恵瓊・石田三成に伝達させる。〔「島津家文書」@‐379「旧記雑録後編」A‐334〕
  5月26日 羽柴秀吉、島津義弘へ島津以久の身上は島津義久の覚悟次第、人質を同行し羽柴秀吉本陣へ赴けば本知を安堵することを通達。
       〔「旧記雑録後編」A‐332〕
  5月26日 羽柴秀吉、島津久保へ日向国真幸院一郡を宛行う。〔「島津家文書」@‐425、「旧記雑録後編」A‐330では25日〕
  5月26日 北郷時久・北郷忠虎、島津義久・島津義弘の勧降で都城・安永・末吉・財部砦を明け渡し、大隅国宮内で石田三成・
       安国寺恵瓊に謁見。〔「旧記雑録後編」A‐335〕
  5月26日 島津義久、島津家久へ上洛すべきことを通知。〔「旧記雑録後編」A‐338〕
    この頃 島津義弘、島津久保を同行し鶴田城に在陣の羽柴秀吉を訪問。〔「旧記雑録後編」A‐413〕
    この頃 羽柴秀吉、島津義弘に大隅国を安堵、そのうち大隅国肝付郡は伊集院忠棟に下賜することを通達。
       また島津久保には諸縣郡を安堵。〔「旧記雑録後編」A‐413〕
  5月27日 羽柴秀長、島津家久へ日向国佐土原城及び本知安堵を取り成した旨を通知。〔「旧記雑録後編」A‐340〕
  5月27日 北郷時久・北郷忠虎、野尻において羽柴秀長に拝謁し人質を提出。〔「旧記雑録後編」A‐336〕
  5月28日 羽柴秀吉、薩摩国から肥後国まで移動。〔「妙満寺文書」〕
  5月29日 羽柴秀吉、北政所へ島津氏の処分について報告。〔「妙満寺文書」〕
  5月    羽柴秀吉、薩摩国鹿児島をはじめ薩摩国へ禁制を下す。
       〔「島津家文書」@‐346・347・349、「島津家文書」A‐769、「旧記雑録後編」A‐309・310〕
  5月      羽柴秀吉、日向国へ禁制を下す。〔「島津家文書」@‐348、「旧記雑録後編」A‐316〕

 6月
  6月 1日 羽柴秀吉、肥後国熊本城において本願寺顕如へ5月21日に発せられた端午祝儀を謝し、島津征伐後の処置全7ヶ条を通知。
       島津義久・島津義弘の処遇、肥後国へ佐々成政(「羽柴陸奥」)を宛行うこと、筑前国・筑後国は小早川隆景へ宛行うこと、
       博多に「殿下号御座所普請」を命令したこと、壱岐国・対馬国は人質を提出し出仕したこと、高麗との通交は対馬国が担当し
       「我朝之覚候間高麗国王可参内候旨」を通達させたこと、九州への「国々置目」は「五畿内同前」たるべきことなどを通達。
       〔「本願寺文書」〕
  6月 5日 毛利輝元、吉川元長から吉川広家への家督譲与を認可、その旨を小早川隆景にも通知。
       〔「吉川家文書」@‐677・678・679〕
  6月 5日 島津家久(島津貴久4男)、没。〔『日本史人物生没年表』〕
  6月 7日 羽柴秀吉、筑前国箱崎に到着。
  6月 9日 伊集院久治、土持綱家・瀧聞宗清へ桑山重晴・福智長通から通達された書状に対する談合の内容および人質提出を問う。
       更に羽柴秀吉の上洛に際し道筋整備の命令が下された旨を通知。〔「旧記雑録後編」A‐341〕
  6月10日 羽柴秀長、島津豊久へ島津家久不慮にあたり藤堂高虎の派遣を告げ、諸事談合を指示。覚悟次第では引き立てられる可能性を
       示し、詳細は藤堂高虎に伝達させる。〔「旧記雑録後編」A‐342〕
  6月11日 島津義久、全7ヶ条の条々を発す。〔「旧記雑録後編」A‐343〕
  6月12日 羽柴秀吉、太平寺から平佐城へ本陣を移す。〔「旧記雑録後編」A‐349〕
  6月12日 島津義久、上井覚兼へ日向国内に知行を安堵。〔「旧記雑録後編」A‐344〕
  6月13日 桑山重晴、島津義弘へ北郷時久らの籠城に関して、羽柴秀吉の面前への参上は無くとも島津義弘の裁量で決着すべきである
       こと、事態収拾が図られないので諸勢(羽柴秀吉軍)は行動を制限されていることをあげ、速やかに北郷氏籠城を解決するよう
       通達。更に事の詳細は飛脚を以て上申するよう指示。あまりにも油断が過ぎると譴責。〔「旧記雑録後編」A‐346〕
  6月13日 安国寺恵瓊、上井覚兼へ日向国宮崎の安堵は過分の処置であるので福智長通へ使者を派遣し指示を仰ぐよう通達。
       〔「旧記雑録後編」A‐345〕
  6月14日 安国寺恵瓊、島津義弘(「義珎」)へ真幸院諸県郡は羽柴秀長(「中納言殿」)の存分で上申されていること、
       福智長通は日向国土持に在陣していること、羽柴秀長(「中納言殿」)は今少し日向国に在陣する旨を通知し、速やかなる使者
       の派遣および礼儀の献上を促す。〔「旧記雑録後編」A‐347〕
  6月14日 北郷時久、筑前国箱崎八幡宮において羽柴秀吉より道服を下賜される。〔「旧記雑録後編」A‐337〕
  6月15日 羽柴秀吉、浅野長政・戸田勝隆へ筑前国・筑後国・肥前国内の城砦の類の破却および海賊・盗賊の取締りを命令。
       また肥前国高来郡の深堀氏(龍造寺氏被官)は外国との貿易を妨害しているというので人質を提出させて以後無道な振舞をした
       場合は成敗するよう指示。以上の件を龍造寺政家へ詳細に伝達するよう命令。〔「深堀家文書」‐381〕
  6月15日 羽柴秀吉、対馬国宗氏に命じて朝鮮国王の来朝を促し、服従しなければ出兵することを通告。
  6月15日 羽柴秀長、北郷時久へ先日通達した「国々法度書付」を発したこと、詳細は福智長通に伝達させることを通知。
       更に福智長通と諸事相談すべきを促す。〔「旧記雑録後編」A‐351〕
  6月15日 桑山重晴・福智長通、「唐犬」を秘蔵している上井覚兼へ羽柴秀長への献上を促す。豊後国に羽柴秀長に従い在陣している
       が、間もなく帰還するため速やかに「唐犬」を献上すべき旨、「唐犬」は島津豊久まで届け羽柴秀長の豊後国内逗留中に献上
       するよう、更に「しろき唐犬」を献上することを通達。〔「旧記雑録後編」A‐356〕
  6月15日 島津義久、薩摩国鹿児島を発す。〔「旧記雑録後編」A‐349・352・410・413〕
  6月15日 島津義久、帖佐に宿泊。〔「旧記雑録後編」A‐354・410〕
  6月15日 島津義久、帖佐において伊集院忠棟の訪問を受ける。〔「旧記雑録後編」A‐410〕
  6月16日 島津義久、帖佐を発し栗野高田に到着、宿泊。〔「旧記雑録後編」A‐354・410〕
  6月16日 伊集院忠大、土持綱家・瀧聞宗清へ伊集院久治が羽柴秀長(「中納言殿」)に謁見し種々の処置を下されたこと、
       土持綱家・瀧聞宗清へ下城したとしても軍勢が差し向けられることになったことを通知。〔「旧記雑録後編」A‐353〕
  6月16日 酒井忠勝、三河国に誕生(異説6月13日)。〔『日本史人物生没年表』〕
  6月17日 浅野長政(「長吉」)・戸田勝隆、肥前国諫早番衆中へ鍋島直茂を通じて伝達させた深堀城収公の件に触れ、羽柴秀吉が安堵
       した「御朱印地」に関しては異儀の無きこと、諫早城は「龍七郎殿」(龍造寺政家?)へ明け渡して羽柴秀吉のもとへの参上を促す。
       〔「深堀家文書」‐382〕
  6月17日 島津義久、高田を発し牛屎院小川に到着、宿泊。〔「旧記雑録後編」A‐354・410・413〕
  6月18日 島津義久、久木野で連歌を詠む。〔「旧記雑録後編」A‐410〕
  6月18日 島津義久、小川を発し肥後国佐敷に到着、宿泊。〔「旧記雑録後編」A‐354〕
  6月19日 羽柴秀吉、キリシタン禁止令を発布し、宣教師は十日以内に国外退去するよう命令。
  6月19日 島津義久、佐敷を発し八代へ到着。木食応其・川瀬氏・生駒氏らの指南に任せ寺西是成が警備する入玉泉院に宿泊。
       〔「旧記雑録後編」A‐354・410〕
  6月20日 島津義久、徳渕から乗船し三角迫門を経て小社に宿泊。佐々成政へ太刀・馬を贈る。
       〔「旧記雑録後編」A‐354・410〕
  6月21日 羽柴秀吉、波多親へ「御恩地」として肥前国上松浦郡内に750町の知行を宛行う。〔「鍋島家文書」‐5〕
  6月21日 島津義久、三角から出船。嵐の中高瀬岸に着船し道場に宿泊。佐々成政へ使者・贈物を発す。
       〔「旧記雑録後編」A‐354・410〕
  6月21日 木食応其・細江某・駒井某、島津義久に同行し道場に宿泊。〔「旧記雑録後編」A‐410〕
  6月22日 水野久右衛門尉・多木藤蔵・東内蔵・水谷亀介・伏屋十内・熊谷直盛・山田久三郎・山城忠久・三上与斎・中島甚兵衛・
       山田喜四郎・長束直吉・中井平右衛門・大谷弥八郎・石川兵蔵・祖父江久内・友松甚四郎・竹中重定・森十蔵・垣見一直、
       全3ヶ条の血判起請文を提出。「諸色御法度」が発令されたので違反者は誰であっても報告すること、縁者・親類といって
       頼られても不平等なことは行わないこと、「公儀」について下々の者共が意見した場合は、その者共を報告すべきこと、
       以上の3ヶ条を誓約。〔「大阪城天守閣所蔵木下家文書」‐1〕
  6月22日 島津義久、高瀬を発し大津山に到着。常願寺に宿泊。〔「旧記雑録後編」A‐354・410〕
  6月22日 島津義久、島津義弘へ島津久保が病気によって上洛を延引した旨、「渡唐船」に対する「御朱印」の件について指示が出て
       いる旨を通知。〔「旧記雑録後編」A‐357〕
  6月23日 島津義久、細川忠興の守備する筑後国高良山城に到着。〔「旧記雑録後編」A‐354・410〕
  6月24日 島津義久、細川幽斎への御使として本田刑部少輔を筑前国博多へ派遣。〔「旧記雑録後編」A‐401〕
  6月24日 島津義久、鹿児島を訪問した木食応其より上京勧告を受けて筑前国岩屋に到着。〔「旧記雑録後編」A‐305〕
  6月24日 島津義久、細川忠興の見送りを受けて高良山城を発す。筑前国岩屋に到着した時に細川藤孝・石田三成から派遣された使者
       より速やかに博多へ参上するよう命令が伝達させる。島津義久、黄昏時に岩屋を発し明け方頃に博多へ到着。
       〔「旧記雑録後編」A‐354・410〕
  6月24日 伊集院久治、「京衆」(羽柴秀吉軍)の攻撃を受ける。〔「旧記雑録後編」A‐358〕
  6月24日 石田三成・細川藤孝の使者、筑前国岩屋に滞在の島津義久へ速やかに博多駐在の羽柴秀吉の謁見を受けるよう命令を伝達。
       〔「旧記雑録後編」A‐305〕
  6月25日 羽柴秀吉、毛利輝元(「右馬頭」)へ「九州取次」の任を仰せ付ける。〔「毛利家文書」B‐955〕
  6月25日 羽柴秀吉、小早川隆景から伊予国を収公して筑前国・筑後国・肥後国一郡を与える。〔「毛利家文書」B‐981〕
  6月25日 羽柴秀吉、小早川隆景へ筑前国の立花・宗像・秋月・原田および肥前国内の筑紫城と一郡半の統括を命令。
       〔「毛利家文書」B‐982〕
  6月25日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ「新恩地」として肥前国養父郡・有馬郡の半分ずつを宛行う。〔「鍋島家文書」‐6〕
  6月25日 石田三成・細川藤孝、筑前国博多へ到着した島津義久を迎える。〔「旧記雑録後編」A‐305・354・410〕
  6月25日 羽柴秀吉、宿所において島津義久を謁見、和議締結の宴を開催。〔「旧記雑録後編」A‐305〕
  6月25日 島津義久、羽柴秀吉に謁見し和議締結の饗応を受ける。
       退出後、細川藤孝が島津義久を宿まで見送る。〔「旧記雑録後編」A‐354・410〕
  6月25日 施薬院全宗、島津義久を訪問。〔「旧記雑録後編」A‐410〕
  6月25日 伊集院久治、土持綱家・瀧聞宗清へ島津義弘の降伏により下城の憂き目を見ずに羨み、昨日京衆に攻撃された旨を通知。
       〔「旧記雑録後編」A‐358〕
  6月26日 羽柴秀吉、島津義久のため茶会を開催。〔「旧記雑録後編」A‐305・410〕
  6月26日 島津義久、羽柴秀吉の召喚により茶会に参席。津田宗及が玄関で指南、伊集院忠棟も同席。茶会後に上洛命令を受ける。
       〔「旧記雑録後編」A‐354・410〕
  6月26日 島津義久、夜に小島に到着。〔「旧記雑録後編」A‐410〕
  6月27日 島津義久、逆風により上洛が滞る。〔「旧記雑録後編」A‐354〕
  6月28日 羽柴秀吉、小早川隆景(「小早川左衛門佐」)へ筑後国の原田弾正少弼・宗像才鶴・麻生次郎左衛門尉の3名を
       小早川隆景「与力」とする旨を通達。〔「毛利家文書」B‐983〕
  6月28日 島津義久、逆風に遮られながらも出船し京都を目指す。小島を発し、島泊に到着。昼は連歌を詠み、夜入に出船。
       〔「旧記雑録後編」A‐354〕
  6月29日 前田利家(「権少将利家」)、南部信直(「南部大膳大夫」)へ全3ヶ条の「起請文」を提出。
       その内容は、今後は格別に談合を以て相互に表裏の無い関係となること、羽柴秀吉(「関白様」)への「御取成」の件は疎略に
       せず、南部信直「御身上」については羽柴秀吉「御下知」を遵守し油断しないこと、前田利家は南部信直「御進退」を見放さ
       ないが、「対上意不儀」をなした場合はこの「誓紙可為反故」とすることを誓約。〔「盛岡南部家文書」〕
  6月29日 福智長通、島津義弘へ「御公領所」へ河上大炊助を始めとする島津家中衆の種々違乱を羽柴秀吉(「公儀」)が聞き知った
       ので、福智長通は豊後国へ移動するが島津義弘は直接筑前国博多へ祗候するよう指示。
       また野尻において羽柴秀長に色々報告したことも通知。〔「旧記雑録後編」A‐360〕
  6月29日 島津義久、長門国下関に到着。増田長盛の警護する阿弥陀寺に宿泊。石田三成が城下まで到来し指南を受けたため太刀・馬代
       を贈与。増田長盛・宮部藤右衛門尉にも太刀・馬代を贈与。帰宿後、島津氏領国内の諸将子女が人質として京都に送られるため
       島津義久宿所に到着。〔「旧記雑録後編」A‐354・410〕
  6月29日 島津義久、長門国下関において島津久保・島津彰久をはじめ、島津氏領国中の諸城守将より子女を人質として京都に提出する
       よう指示を下される。〔「旧記雑録後編」A‐305・410〕
  6月 晦日 島津義久、島津氏領国内諸将の子女を同行して出船。〔「旧記雑録後編」A‐354・410〕
  6月    羽柴秀吉、筑前国博多津へ全9ヶ条の「定」を下す。〔「毛利家文書」B‐1114〕
    この月 羽柴秀長、島津氏領国内に国々法度書を下す。〔「旧記雑録後編」A‐350〕

 7月
  7月 1日 島津義久、池上に到着。〔「旧記雑録後編」A‐354〕
  7月 1日 島津義久、池上において連歌を詠み。〔「旧記雑録後編」A‐410〕
  7月 2日 羽柴秀吉、長門国赤間の関に到着。
  7月 2日 島津義久、安芸国厳島に参詣。夜に木食応其と会食後、方浜に移動。〔「旧記雑録後編」A‐354・410〕
  7月 3日 島津義久、備後国鞆津の足利義昭(「公方義昭卿」・「公方様」)へ書簡を発す。〔「旧記雑録後編」A‐354・410〕
  7月 4日 島津義久、海潮が不順のため一旦鷺島に上陸し連歌を詠み、出船後に一島に宿す。〔「旧記雑録後編」A‐354・410〕
  7月 5日 羽柴秀長、北郷時久へ豊前国小倉城普請に関して報告。また日向国は秋月氏・高橋氏に宛行われることになった旨、国境、
       秋月・高橋両家と島津氏は入魂にすべき指示を下し、「京都御用」は取り次ぐことを通達。詳細は福智長通に伝達させる。更に
       先に通達した「法度」も油断無きよう遵守すべきこと、「御用事」は福智長通を通じて上申するよう指示。
       〔「旧記雑録後編」A‐362〕
  7月 5日 佐々成政、島津義弘へ贈物を謝し、上方への往還を慰労。また、島津家中の雑意をなす連中の糺明を促す。更に佐々成政自身
       が肥後国を宛行われたので地域の詳細については「御指南」を依頼。〔「旧記雑録後編」A‐363〕
  7月 5日 島津義久、備後国鞆津に到着。〔「旧記雑録後編」A‐354・410〕
  7月 6日 木食応其、島津義久の宿所を訪問。〔「旧記雑録後編」A‐410〕
  7月 6日 島津義久、木食応其の宿所を訪問。〔「旧記雑録後編」A‐354〕
  7月 6日 島津義久、足利義昭(「公方様」)へ派遣した使僧の本坊を迎える。〔「旧記雑録後編」A‐410〕
  7月 7日 島津義久、木食応其の来訪を受け羽柴秀吉らと共に七夕歌詠みを行う。〔「旧記雑録後編」A‐354・410〕
  7月 8日 島津義久、牛窓(牛間渡)に到着。堀九郎左衛門尉の宿所に宿泊。〔「旧記雑録後編」A‐354・410〕
  7月 9日 前田玄以、山城国梅津長福寺へ来春まで大仏殿周囲に植える松苗2万本の供出を通達。〔「長福寺文書」〕
  7月 9日 島津義久、室津を経由し蓑島に到着。〔「旧記雑録後編」A‐354・410〕
  7月 9日 伊集院忠棟、和泉国堺に到着。〔「旧記雑録後編」A‐410〕
  7月10日 羽柴秀吉、和泉国堺に到着。〔「旧記雑録後編」A‐410〕
  7月10日 島津義久、播磨国兵庫に到着。木食応其、和泉国堺へ早船を派遣。その後、島津義久は和泉国堺に到着、四条道場に宿泊。
       〔「旧記雑録後編」A‐354・410〕
  7月12日 羽柴秀吉、備前国片山から乗船し大坂に向かう。
  7月14日 羽柴秀吉、大坂城に凱旋。〔「九州御動座記」〕
  7月17日 野村重頼・野村良綱、上井覚兼へ大隅国は島津義弘へ宛行われることになった旨、末吉・財部も島津義弘の領知となること、
       その代償として北郷忠虎の弟が人質として上洛すべきことが「関白様御朱印」で通達された旨、上井村にも御公役・在京が賦課
       される可能性を指摘。〔「旧記雑録後編」A‐365〕
  7月19日 福智長通、島津義弘へ日向国「御公領分」は秋月氏・高橋氏に宛行われたこと、2・3日前に土持へ下向して羽柴秀長直札を
       通達したこと、飫肥郡志布志の大崎を始めその他の地域で抵抗する連中が存在する旨の報告を受けていることに触れ、野尻に
       おいて安国寺恵瓊が福智長通に取り成しはするが、真幸郡の宛て行いのため諸縣の件に同心しないことを確認。
       日向国・豊前国・豊後国3ヶ国「置目法度」領知方に関しては羽柴秀長(「中納言」)より通達されるので分別を過ぎぬよう
       指示。〔「旧記雑録後編」A‐366〕
  7月20日 福智長通、島津義弘へ上井覚兼・上井右馬頭が「白唐犬」・「白野牛」を所有しているというので羽柴秀長が所望している件
       について、先日桑山重晴より伊集院久治を通じて通達があった筈だが、返答がないためその状況報告を日向国佐土原まで上申
       することが肝要であること、島津豊久へも懇意に通達し、島津義弘自身が郡山まで届けることが祝着であることを指示。
       〔「旧記雑録後編」A‐367〕
  7月21日 福智長通、島津義弘へ秋月氏・高橋氏への御公領分下賜にあたり両氏との関係改善は了承したこと、下船は公儀に対する不忠
       となること、島津義弘の諸県郡拝領に関して飫肥郡志布志大崎の違乱収拾を促す。日向国・豊後国については羽柴秀長へ上申の
       上で領知方目録を下すことを通達。また案内者の綾新右衛門尉が羽柴秀長に目録を上申した件について羽柴秀吉(「上様」)へ
       進上した文書の写しを送付すること、野尻が羽柴秀長に恭順しない件は羽柴秀吉にすでに報告がなされ、安国寺恵瓊が如何なる返答
       をするか待機するよう指示。〔「旧記雑録後編」A‐368〕
  7月25日 羽柴秀吉、上洛。
  7月29日 羽柴秀吉、参内して九州平定を奏上。

 8月
  8月 3日 羽柴秀吉、河内国金剛寺三綱へ九州からの「御帰座」に際し酒2荷を贈られたことを謝す。
       詳細は木下吉隆(「木下半介」)に伝達させる。〔「金剛寺文書」‐349〕
  8月 5日 羽柴秀吉、凱旋を祝賀するため上洛した家康を近江国大津に出迎え共に入京。
  8月 8日 織田信雄(「平信雄」)、正二位に昇進。〔『公卿補任』〕
  8月 8日 羽柴秀長、権大納言・従二位に昇進。〔『公卿補任』〕
  8月 8日 徳川家康(「源家康」)、権大納言・従二位に昇進。〔『公卿補任』〕
  8月 8日 宇喜多秀家(「豊臣秀家」、従四位下)、参議・従三位に昇進。〔『公卿補任』〕
  8月27日 島津義弘、伊集院久信へ豊後国切加部・坂梨における軍労を賞し馬を与える。〔「旧記雑録後編」A‐371〕
  8月29日 羽柴秀吉、寺沢広高へ薩摩国出水および肥後国水俣の地から薩摩国・大隅国・日向国などに売買された人々の還住を命令。
       〔「島津家文書」A‐968〕

 9月
  9月 2日 島津義久、羽柴秀吉の聚楽への「御登城」に随行。〔「旧記雑録後編」A‐413〕
  9月 5日 羽柴秀長、内々に羽柴秀吉参詣という触れ込みであったが羽柴秀吉代理として高野山へ登山。〔『多聞院日記』〕
  9月 7日 高野山金堂供養が挙行される。〔『多聞院日記』〕
  9月 8日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ肥後国一揆発生に際して筑前・筑後両国の軍勢を率いた小早川秀包・龍造寺政家と相談し隈本の
       佐々成政と共に一揆勢を成敗するよう命令。鎮圧不可能な場合は黒田孝高・毛利吉成に小早川隆景軍を加え、それでも困難な
       場合は毛利輝元・小早川隆景の出陣を指示。〔「鍋島家文書」‐7〕
  9月 8日 羽柴秀吉、島津義久へ重陽祝儀を謝す。詳細は長谷川守知・細川藤孝に伝達させる。〔「旧記雑録後編」A‐373〕
  9月 9日 近衛前久(「龍山」)、島津義久へ在京中の対面を希望。〔「旧記雑録後編」A‐374〕
  9月 9日 島津義久、「菊」の題目で詠歌。
       大仏殿造立のための地固めを羽柴秀吉・諸大名と共に見物、羽柴秀吉より帷子1重を拝領される。
       〔「旧記雑録後編」A‐372〕
  9月12日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ小早川秀包・龍造寺政家と相談し肥後国一揆の鎮圧遂行すべきを命令。〔「鍋島家文書」‐8〕
  9月13日 羽柴秀吉、大坂城より聚楽第へ正式に移徙。〔『多聞院日記』〕
  9月14日 福智長通、島津義弘へ諸縣郡についての詳細は羽柴秀長(「大納言様」)に報告し安威守佐を通じ羽柴秀吉に達したこと、
       その際に上奏した内容の案文写を伊集院忠棟・伊勢貞真へ送付したが、速やかに違乱の収拾に努めるよう通達。
       また羽柴秀長は島津義弘を疎略に感じていないが、今度の遅怠に関しては以外に腹立っていることも通知。
       〔「旧記雑録後編」A‐376〕
  9月14日 島津義久・島津義弘、根占七郎へ大隅国肝付郡は羽柴秀吉御朱印により伊集院忠棟(「幸侃」)が拝領したこと、
       細川藤孝(「幽斎老」)・石田三成(「石治老」)の異見により鷹城は返付したことを通知。
       また大姶良の替地を根占七郎へ渡す旨を通達し島津義久・島津義弘への忠節を確認。〔「旧記雑録後編」A‐377〕
  9月16日 羽柴秀吉、聚楽第において多数の公家衆の祝賀を受ける。〔『兼見卿記』〕
  9月21日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ肥後国出陣を慰労。佐々成政の失政が一揆を誘発した旨を説明し、小早川秀包と安国寺恵瓊に相談し
       事態収拾を命令。〔「鍋島家文書」‐9〕
  9月21日 戸田勝隆、龍造寺政家へ5枚の折紙と6枚の金子を受け取り肥後表の雑説に関して、事態収拾後に上洛すべきことを通達。
       また大坂へ連絡しても留守にしているため馳走できない旨を通知。〔「龍造寺家文書」‐206〕
  9月21日 戸田勝隆、龍造寺政家へ生遍の報告により肥後国人一揆に対する処置について羽柴秀吉「御朱印」が発給された旨を通知。
       〔「龍造寺家文書」‐207〕
  9月24日 羽柴秀吉、京都より龍造寺政家からの書状に応え肥後表の処置は小早川隆景を派遣したので指示を遵守すべきを命令。
       〔「龍造寺家文書」‐196〕
  9月24日 羽柴秀吉、木下家定へ播磨国での知行方目録を下す。〔「足守木下家文書」‐39〕
  9月25日 羽柴秀吉、島津義弘を「日州鷹巣奉行」に任命、慥かな者を管理にあてるよう命令。詳細は石田三成に伝達させる。
       〔「島津家文書」@‐398、「旧記雑録後編」A‐379〕
  9月 晦日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ肥後国一揆鎮圧ごも油断無きよう事態収拾にあたるべきことを命令。〔「鍋島家文書」‐10〕

10月
 10月  1日 羽柴秀吉、京都北野において大茶会を開催。〔「兼見卿記」〕
 10月 9日 羽柴秀次、吉川広家が羽柴秀吉命令によって吉川家を相続したことを祝い、詳細を蜂須賀家政に伝達させる。
       〔「吉川家文書」@‐818〕
 10月13日 羽柴秀吉、龍造寺政家へ肥前国一揆発生に際し小早川隆景・黒田孝高・毛利吉政が久留米に在陣していること、
       毛利輝元の着陣を待って相談して対処するよう指示。更に羽柴秀長・羽柴秀次を派遣して「唐国」までを見通すことを示唆。
       九州は「天下坪内」という認識を表明し、陣中状況報告を要求。詳細は石田三成に伝達させる。〔「龍造寺家文書」‐190〕
 10月13日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ肥前国一揆発生に際し小早川隆景・黒田孝高・毛利吉成が久留米に在陣していること、
       毛利輝元の着陣を待って相談の上対処するよう指示。更に羽柴秀長・羽柴秀次を派遣して「唐国」までを見通すことを示唆。
       九州は「畿内同前」という認識を表明し、陣中状況報告を要求。詳細は石田三成に伝達させる。〔「鍋島家文書」‐11〕
 10月13日 羽柴秀吉、加藤清正へ島津義久に八木2000石を渡すよう命令。〔「旧記雑録後編」A‐380〕
 10月13日 羽柴秀吉、祖父江久内へ島津義久に八木1000石を渡すよう命令。〔「旧記雑録後編」A‐381〕
 10月13日 羽柴秀吉、小出秀政へ島津義久に八木1000石を渡すよう命令。〔「旧記雑録後編」A‐382〕
 10月13日 羽柴秀吉、増田長盛へ蜂須賀家政借用の米1000石を島津義久に下すよう命令。〔「旧記雑録後編」A‐383〕
 10月14日 羽柴秀吉、島津義久へ「在京堪忍分」1万石を宛行う。〔「島津家文書」@‐441、「旧記雑録後編」A‐386〕
 10月14日 羽柴秀吉、龍造寺政家へ前日に続き小西行長の派遣を通知し状況説明を要求。
       そして毛利輝元の着陣次第に羽柴秀長・羽柴秀次・宇喜多秀家・四国衆の派遣予定を通知。
       更に龍造寺政家の病状に対し養生を指示。詳細は小西行長に伝達させる。〔「龍造寺家文書」‐191〕
 10月14日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ毛利輝元着陣後に小西行長を派遣すべきを指示。
       その上で羽柴秀長・羽柴秀次・宇喜多秀家に四国衆を添えて出陣させる予定を通知。
       更に九州は「五畿内同前」という認識を表明し、詳細は小西行長に伝達させる旨を通知。〔「鍋島家文書」‐12〕
 10月15日 島津義久、在洛中に里村紹巴らの連歌会に参席。〔「旧記雑録後編」A‐388〕
 10月21日 羽柴秀吉、大友義統へ佐々成政の不届きな所行に関して全7ヶ条の条々を下す。
       佐々成政へは肥後一国を宛行ったが「検地」を強行したために百姓に対して「非分」を申し懸けたので「一揆」が発生したこと
       「唐・南蛮国」までも範疇にあるので「九州之儀」は「五畿内同前」の如くするよう毛利輝元を派遣すること、
       毛利輝元のみで鎮圧できない場合は羽柴秀長・羽柴秀次・宇喜多秀家と四国衆を派遣し伊集院忠棟と談合するべき旨、
       島津義弘は「最前之遺恨」があるとはいえ私怨を打ち捨てたので協力する旨を通達。〔「大友記録」‐28〕
 10月21日 羽柴秀吉、新納忠元へ佐々成政処分理由全7ヶ条を通達。〔「旧記雑録後編」A‐390・413〕
 10月21日 羽柴秀吉、北郷時久・北郷忠虎へ佐々成政処分理由全7ヶ条を通達。〔「旧記雑録後編」A‐390〕
 10月21日 細川藤孝・石田三成、新納忠元へ肥後表に関する羽柴秀吉御書が伊集院忠棟に下されたことを通知。
       また島津義弘(「武庫」)の下知に従い羽柴秀吉御書の内容を遵守すべき旨を通達。〔「旧記雑録後編」A‐391・413〕
 10月22日 島津義久(「龍伯」)、川上経久へ自身の上洛中に島津久保(「又一郎」)の器量が羽柴秀吉(「関白様」)に承認され家督
       許可を得た旨を喜び、早道の馬稽古は「当世はやり物」であるのが、島津家では乗馬稽古は不足しているので
       島津義弘(「武庫」)へその旨を上申するよう指示。また祝儀として轡を送付。〔「旧記雑録後編」A‐395〕
 10月25日 新発田重家、「御館の乱」で自刃。〔『日本史人物生没年表』〕
 10月26日 里見義頼、没(異説1586年)。〔『日本史人物生没年表』〕

11月
 11月 3日 小堀正次(「小堀新介正次」:羽柴秀長家臣)、大和国玉置山十津川郷へ「御検地」を羽柴秀長が「御赦免」する旨を通知。
       また小堀正次は初めての「御取次」であったので「御仕合能」くて満足していること、また「以後相応之義用所等」を承る旨を
       通知。〔「十津川郷文書」〕
 11月 3日 島津義久、喜入季久へ上洛中の様子を触れ、帰国を前に肥後国における一揆発生に際し大坂滞留を余儀なくされた旨を通知。
       肥後国へは伊集院忠棟が羽柴秀吉の「御使」として派遣された旨を通知。〔「旧記雑録後編」A‐396〕
 11月 7日 羽柴秀吉、吉川広家の豊前国厳石城攻略を賞す。〔「吉川家文書」@‐108〕
 11月 7日 新納忠元、安国寺恵瓊へ肥後国一揆の状況を書簡で問い合わせる。〔「旧記雑録後編」A‐413〕
 11月10日 羽柴秀吉、龍造寺政家へ一揆成敗のために毛利輝元の出馬を報じ、毛利輝元・小早川隆景の指示を遵守し「根もなき一揆原」
       を掃討すべきを命令。明春には羽柴秀長が10万の軍勢を率い「国々置目」の制定を予定している旨を通達。
       〔「龍造寺家文書」‐199〕
 11月11日 羽柴秀長、吉川広家の豊前国厳石城攻略を祝し、来年早々自身の九州出陣を告知。〔「吉川家文書」@‐109〕
 11月11日 羽柴秀長、毛利吉成へ吉川広家と共に豊前国厳石城攻略の戦功を賞す。
       また一揆については黒田孝高の処置が悪いので風聞が起つことを再三にわたり戒告し、来春の自身の九州出陣を通知。
       〔「吉川家文書」@‐709〕
 11月15日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ龍造寺家晴留守中に発生した西郷信尚謀叛を龍造寺が平定できなければ明春に羽柴秀吉軍が派遣される
       こと、大村・波多・草野・有馬諸氏の出動も龍造寺と同様にすべきこと、更に明春は羽柴秀長に10万の軍勢を率いさせ派遣し
       逆徒の糺明と成敗を実施し、「国々置目」を発令する予定を通達。〔「鍋島家文書」‐13〕
 11月18日 佐々成政、島津義弘へ肥後国一揆を制圧し残党の一部を赦免した旨、毛利輝元が近日中に着陣、
       先手として太田藤四郎(「筑後之守護」?)が南関に着陣し和仁城攻略後は山鹿・阿蘇を服属させる旨を通達。
       〔「旧記雑録後編」A‐401〕
 11月20日 佐々成政、石塚資久へ越前国詫間郡内に1300石を扶助する。〔「社家石塚文書」〕
 11月22日 羽柴秀次(「豊臣秀次」、参議)、権中納言・従三位に昇進。〔『公卿補任』〕
 11月23日 島津義久、高野山参詣の際に木食応其と一会を催す。〔「旧記雑録後編」A‐385〕
 11月26日 安国寺恵瓊、新納忠元へ夏の初対談の件に触れ、肥後国一揆の制圧を予告。和仁・辺春平定後は山鹿・有動城を攻略する予定
       をあげ、羽柴秀吉の意志によっては(「京都於御下知」)熊本方面への加勢命令が下される旨、また夏の愁訴の所領は石田三成
       安国寺恵瓊らが下した決定を遵守すべき旨などを通達。島津領国についての取り成しが疎略であるというのは迷惑であること、
       何事にも緩疎にとってはならぬことを察首座より通達させる旨を通知。〔「旧記雑録後編」A‐403・413〕
 11月 晦日 毛利輝元、椋木飛騨入道へ九州立花表で戦死した息子椋木神三郎の弔意を伝達。跡目に関する指示を通達。
       〔「養教寺文書」‐4〕
 11月    島津義久、近衛前久邸の和歌会に参席。〔「旧記雑録後編」A‐384〕

12月
 12月 2日 羽柴秀吉、女房ちく(北政所侍女)へ贈物の礼を述べ褒美として連歌の懐紙を遣わす。〔「河野文書」〕
 12月 5日 佐々政元、深水三河入道・蓑田信濃守へ和仁城攻略及び「撫切」の状況を報告し、両者に阿蘇口への進撃を促す。
       〔「旧記雑録後編」A‐411〕
 12月 6日 羽柴秀吉、大坂に下向して越年。
 12月10日 羽柴秀吉、吉川元長へ肥後国一揆の和仁・辺春に対し「見懲」のための掃討作戦を指示。〔「吉川家文書」@‐111〕
 12月10日 羽柴秀吉、龍造寺政家へ肥後国一揆の和仁・辺春に対し「見懲」のため掃討作戦を指示。また猥りに発令された「国々置目」の
       改定と来春軍勢を派遣し残党掃討を実施する予定を通知。〔「龍造寺家文書」‐192〕
 12月10日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ和仁親実・辺春親行の謀叛に際し「見懲」として「干殺」など1人も逃げられないような成敗を厳命。
       また猥りに発令された「国々置目」の改定と来春の掃討戦を命令し、兵粮不足の場合は上申次第配給する旨を通達。
       〔「鍋島家文書」‐14〕
 12月13日 金森長近(「素玄」)、美濃国の長屋喜兵衛へ200石余を扶助。〔「池上謙治氏所蔵文書」‐1〕
 12月20日 島津義弘、飯野より大口に出陣。〔「旧記雑録後編」A‐413〕
 12月21日 前田玄以(「玄以」)、京都「物集女」百姓中へ随心院領の納所の件で「無沙汰」が発生した場合は前田玄以(「玄以」)に
       報告すべき旨を命令。そのため「兵部卿」と「本間」某を派遣することを通達。〔「九条家文書」E‐1998〕
 12月22日 森忠政、美濃国細目村大仙寺へ寺領として八木20俵を寄進。〔「大仙寺文書」‐44〕
 12月23日 尊朝法親王、上洛した島津義久へ面会を希望。詳細は花城院に伝達させる。〔「島津家文書」A‐697〕
 12月24日 佐々成政、島津義弘へ肥後表は和仁・山鹿を制圧・赦免したこと、京都から軍勢が派遣されて仕置実施のため安国寺恵瓊・
       中国衆らが熊本へ到着する予定であるので懇談すべきことなどを報じ、詳細は安国寺恵瓊より受けるよう通達。
       〔「旧記雑録後編」A‐408〕
 12月27日 羽柴秀吉、龍造寺政家へ肥後国に派遣した鍋島直茂(龍造寺家臣)が和仁・辺春らを誅伐したことを通知。残敵掃討終了後、
       西郷信綱を誅伐・刎首すべきを命令。〔「龍造寺家文書」‐198〕
 12月27日 羽柴秀吉、鍋島直茂へ小早川隆景と相談の上で和仁親実・辺春親行を誅伐したことを賞し、残敵の糺明を命令。
       更に来年1月20日の「上使」2万余の軍勢派遣を通知し西郷信綱の誅伐を厳命。〔「鍋島家文書」‐15〕
 12月27日 羽柴秀長、吉川広家へ一揆鎮圧の戦功を祝し、来春早々の上洛を望む。〔「吉川家文書」@‐110〕
 12月28日 羽柴秀吉、島津義久へ歳暮祝儀を謝し、詳細は石田三成に伝達させる。〔「旧記雑録後編」A‐409〕


    この年 北条綱成(相模国玉縄城主)、没。〔『日本史人物生没年表』〕


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