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天正14(1586)年 1月 1月 2日 蜂須賀至鎮、阿波国に誕生(異説1568年)。〔『日本史人物生没年表』〕 1月 5日 羽柴秀長(「羽柴秀長」)、従三位に昇進。〔『公卿補任』〕 1月 7日 羽柴秀吉、摂津国有馬湯山へ蒲生氏郷室(「ひだ女房」)が湯治したので湯山年寄衆に料米を給す。〔「浅野文書」〕 1月 7日 「ひだ女房」(蒲生氏郷室)、摂津国有馬湯山で湯治。〔「浅野文書」〕 1月11日 島津義久、細川藤孝へ島津家は織田信長の意による「豊薩和平」を遵守しているため「改易」に処される原因は無い旨を 羽柴秀吉(「関白殿」)へ披露するよう依頼。〔「旧記雑録後編」A‐121〕 1月12日 羽柴秀吉、入京。 1月14日 羽柴秀吉、参内して新年祝賀をなす。 1月15日 羽柴秀吉、全11ヶ条の諸奉公人・侍・中間・小者・荒子、給人・百姓、年貢米、枡に関する掟書を下す。 〔「赤座文書」‐1〕 1月16日 羽柴秀吉、京都御所に大坂城の黄金茶室を運び茶会を開催し茶湯を献上。〔「お湯殿の上の日記」〕 1月19日 羽柴秀吉、諸奉公人・侍・中間・小者・荒子、在所給人・百姓を対象とした「定」を下す。〔「諸家単一文書」‐1085〕 1月26日 大友義統、上洛に際し豊後国関宮神主へ海上及び在京中の無事を祈祷させる。〔「速吸社文書」‐7〕 1月28日 浅野長晟、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕 2月 2月 8日 羽柴秀長、摂津国有馬湯山へ入る。〔『多聞院日記』〕 2月13日 本願寺顕如、摂津国有馬湯山で湯治中の羽柴秀長へ見舞いとして河野越中(本願寺御使)を派遣。 〔『顕如上人貝塚御座所日記』〕 2月13日 金蔵院・宝光院、摂津国有馬湯山で湯治中の羽柴秀長へ見舞いに向かう。〔『多聞院日記』〕 2月21日 羽柴秀吉、入京し新たな京都屋敷造営を開始。 2月23日 孝蔵主(羽柴秀吉女官)、「きよす殿さま御つほね」(織田信雄局某)の湯治に際し摂津国有馬湯山年寄衆へ料米を給す。 〔「浅野文書」〕 2月24日 横浜一庵(羽柴秀長家臣)、多聞院英俊へ羽柴秀長の20日頃大和国郡山への帰城を通知。〔『多聞院日記』〕 2月 羽柴秀吉、大友義統へ豊芸和睦に際し羽柴秀吉の仲介で毛利輝元息女を大友氏へ輿入れさせることを賀す。 詳細は宮木宗賦に伝達させる。〔「大友家文書録」B‐2088〕 2月 日 池田輝政、美濃国崇福寺へ織田信長(「右大将家」)・織田信忠の位牌所であるから祠堂については従来の如く、 また寺門前諸役を免除する旨を安堵。〔「崇福寺文書」‐7〕 3月 3月 2日 河内国金剛寺三綱、尾藤知宣(「尾藤左衛門尉」)・増田長盛(「増田右衛門尉」)へ「悪逆人」の糺明の件で寺中に 於ける「あくたう人」の類が存在した場合は金剛寺三綱(「此連判の者共」)が「御成敗」されることを約す。 〔「金剛寺文書」‐347〕 3月16日 小早川隆景(「左衛門佐」)、山内隆通(「隆通」)へ自身の伊予国「渡海」及び漆山城普請の件を通知。 「上辺之儀」も京都・大坂所々に於いて「御普請」があるのみであると洩らす。〔「山内首藤家文書」‐303〕 3月19日 孝蔵主(羽柴秀吉女官)、「けん五殿」御乳人2人の湯治に際し摂津国有馬湯山年寄衆へ料米を給す。〔「浅野文書」〕 3月23日 羽柴秀吉、京都内野に新邸(聚楽)の縄打ちを行う。〔「兼見卿記」〕 3月23日 島津義久、島津義弘へ伊集院忠棟からの注進で筑紫広門離反を報じ、 島津義弘自身が筑州へ出陣するよう指示を下す。〔「旧記雑録後編」A‐129〕 3月24日 羽柴秀吉、女房こほ(北政所侍女)へ京都から大津に移動し聚楽第の普請を命令して大坂に赴くことを通知。 〔「京都帝国大学所蔵文書」〕 3月 日 前田玄以、嵯峨清凉寺千部経中へ全3ヶ条の「禁制」を下し、「惣別御置目」ではあるが違反者は速やかに厳罰に処する旨を 通達。〔「清凉寺文書」〕 4月 4月 5日 大友宗麟、堺妙国寺を出立し上坂。その後松井友閑を訪問、尼子坊の奏者により出頭。〔「大友家文書録」B‐2091〕 4月 5日 羽柴秀吉、大友宗麟と面会し大坂城内を案内、その後茶で饗応。〔「大友家文書録」B‐2091〕 4月 5日 羽柴秀長、大友宗麟へ「内々之儀者宗易、公儀之事者宰相相存候。御為ニ悪敷事ハ不可有之候」と発言。 〔「大友家文書録」B‐2091〕 4月 5日 大友宗麟、千利休の馳走に感動し「宗易ならてハ関白様へ一言も申上人無之と見及申候」と観察。 〔「大友家文書録」B‐2091〕 4月 5日 大友宗麟、羽柴秀吉・松井友閑・宮木宗賦らより贈物を賜わる。〔「大友家文書録」B‐2091〕 4月10日 羽柴秀吉、毛利輝元(「毛利右馬頭」)へ九州征伐にあたり全14ヶ条の「覚」を通達する。 安国寺恵瓊(「安国寺」)・黒田孝高(「黒田官兵衛」)を「筑前検使」とする。〔「毛利家文書」B‐949〕 4月10日 羽柴秀吉、小早川隆景・吉川元春・元長へ大友宗麟の上洛を報じ、九州征伐の準備を命じる。 また人質については黒田孝高より通達させ、ことの詳細は安国寺恵瓊に伝達させる。〔「吉川家文書」@‐565〕 4月22日 孝蔵主(羽柴秀吉女官)、伊勢慶光院周養の湯治に際し摂津国有馬湯山年寄衆へ料米を給す。〔「浅野文書」〕 5月 5月 1日 長宗我部元親、大沢橘太夫へ徳川家康への材木引物を京着させたことを賞す。 また茶屋四郎次郎清延へもその旨を報じた事を通知。〔「仏光寺文書」〕 5月 4日 荒木村重、没。〔『日本史人物生没年表』〕 5月10日 吉田牧庵、丹後国より上洛。〔『兼見卿記』一〕 5月12日 吉田兼見、吉田牧庵を訪問。〔『兼見卿記』〕 5月14日 吉田牧庵、摂津国有馬湯山へ湯治。〔『兼見卿記』〕 5月18日 帥法印歎仲(「帥法印」)・一柳直末(「一柳市助」)、河内国観心寺へ検地免除状を下す。〔「観心寺文書」‐628〕 5月22日 蜂須賀正勝、没。〔『日本史人物生没年表』〕 5月27日 羽柴秀吉、摩阿姫(加賀殿、前田利家三女)へ京都見物に夢中になって義理一篇の文をよこしたのに対し、 別に恨みには思っていないと通知。〔「保阪文書」〕 6月 6月 1日 大友義統、田村統幸へ大友宗麟の上坂により「国分」の「御検使」派遣のため、在陣の支度を命令。 〔「大友家文書録」B‐2094〕 6月 1日 田原親家・志賀道輝・志賀道雲・戸次宗傑・朽網鑑康、緒方庄政所へ大友義鎮が上洛し羽柴秀吉に救援を要請し、 下向する際に「国分」の件で「御検使」が派遣されることとなったので一勢を差し出すよう命令。〔「加藤文書」‐6〕 6月 2日 伊集院忠棟、秋月種実へ関戸周辺の戦況報告を指示。〔「旧記雑録後編」A‐137〕 6月 9日 島津義久、進藤長治へ近衛信尹の禁裏近辺への邸宅移転を祝し、 九州での戦況に触れ詳細を宗心に伝達させる旨を通知。〔「旧記雑録後編」A‐139〕 6月10日 吉田兼見、奥平貞能(「牧庵」:徳川家康家臣)の摂津国有馬湯治の予定前に病状が悪化した報に接し南豊軒を見舞に派遣。 〔『兼見卿記』〕 7月 7月10日 羽柴秀吉、籠城中の立花宗茂へ大友宗麟に「九州国分」を申し含め下国させたことを通知。さらに立花宗茂の籠城を激励。 詳細は黒田孝高に伝達させる。〔「大友家文書録」B‐2097〕 7月12日 羽柴秀吉、大友義統へ「条目」を受けての毛利輝元との合体を賞す。 島津「成敗」のため長宗我部元親・長宗我部信親と四国勢を先手として派遣し、仙石秀久らと相談し越権行為の無いように指示 したこと、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景を中国先手とし立花宗茂・高橋鎮種の助成のため黒田孝高・宮木宗賦を派遣する こと、さらに羽柴秀長・羽柴秀次らも派遣することを通達。 詳細は増田長盛・安国寺恵瓊に伝達させる。〔「大友家文書録」B‐2098〕 7月23日 織田信雄、高木貞利へ伊勢国桑名郡内に784貫400文を宛行う。〔「高木文書」‐14・15〕 7月23日 織田信雄、高木貞友へ美濃国駒野郷・馬沢郷内に860貫文を宛行う。〔「東高木文書」‐11〕 7月24日 誠仁親王、没(異説1588年)。〔『日本史人物生没年表』〕 7月27日 高橋鎮種、没。〔『日本史人物生没年表』〕 7月 島津義久、毛利輝元へ島津義久が派遣した使者(鎌田政年)の上坂時における羽柴秀吉との対談の様子と 今後の毛利氏・島津氏の協力体制についてを報告させるため五戒房を派遣した旨を通知。〔「旧記雑録後編」A‐148〕 8月 8月 3日 羽柴秀吉、立花宗茂・高橋鎮種へ九州に関する「条目」を大友義統・毛利輝元は承諾・和合したが、 島津氏は筑紫領へ出陣したため毛利輝元・小早川隆景・吉川元春を中国先手とし黒田孝高・宮木宗賦を派遣すること、 さらに羽柴秀長・羽柴秀次らも派遣し凶徒(島津氏)を「誅伐」することを通達。 大友宗麟・大友義統に詳細を伝達したので、後に通知を受けるよう指示。 (但しこの時、羽柴秀吉は高橋紹運没の報に接していなかったらしい)〔「大友家文書録」B‐2100〕 8月 5日 羽柴秀吉(「殿下」)、安国寺恵瓊(「安国寺」)・黒田孝高(「黒田勘解由」)・宮城堅甫(「宮木右兵衛入道」)へ 九州征伐にあたって連絡網・軍事物資補給路の確保、吉川元春(「元春」)か小早川隆景(「隆景」)のどちらか一人を関戸 付近に配備すべきこと、豊後国から関戸間の連絡路は絵図を以て上申すること、忠功ある者への褒美は毛利輝元(「輝元」)・ 吉川元春(「元春」)・小早川隆景(「隆景」)の上申次第にすべきこと、筑紫に関しては毛利氏の意見を尊重すること、 「唐国」まで征伐すべきことを通達。〔「毛利家文書」B‐950〕 8月14日 羽柴秀吉、立花宗茂へ毛利輝元から黒田孝高・宮木宗賦・毛利輝元・小早川隆景・吉川元春の出陣報告到着を通知。 羽柴秀吉自身はこの日大坂へ還御したこと、島津氏が退却しなければ注進すべきこと、「八幡大菩薩」は虚言ではないこと、 四国・中国勢はやがて着陣する予定を通達。詳細は黒田孝高・宮木宗賦に伝達させる。〔「大友家文書録」B‐2101〕 8月22日 前田利家(「利家」)、初めて音信を通ず南部信直(「三戸殿」)へ去年夏に書状で上申した南部信直「御内存」を 羽柴秀吉「上聞」に達したこと、詳細は寺前縫殿助へ申し含めたこと、今後は南部信直に対し疎略に扱わない旨を通知。 〔「盛岡南部家文書」〕 8月24日 大友義統、久保治部少輔へ由布城における島津氏との戦闘の際の軍労を慰労。〔「久保文書」‐37〕 8月25日 羽柴秀吉、大友義統へ島津氏の挑発に乗らず堅固の覚悟を確認。 立花・高橋・筑紫諸氏は無勢であるため籠城の上で羽柴秀吉から派遣された援軍を待たせることを通知。 吉川元春・小早川隆景を渡海させる予定、黒田孝高・宮木宗賦は九州に着岸したが合戦はしないこと、 毛利輝元へも出陣命令を発したこと、羽柴秀長・羽柴秀次の出陣以後に羽柴秀吉(「殿下」)が出馬し逆徒刎首を通達。 島津勢は残らず討ち果たすよう黒田孝高・宮木宗賦・仙石秀久へ通知しているので相談すべきことを通達。 詳細は安国寺恵瓊に伝達させる。〔「大友家文書録」B‐2102〕 9月 9月 9日 羽柴秀吉、立花宗茂へ島津氏敗軍における敵討捕注文に披見を加えその忠節を賞す。〔「大友家文書録」B‐2103〕 9月 9日 滝川一益、没。〔『日本史人物生没年表』〕 9月10日 羽柴秀吉、立花宗茂へ味方の城塞が陥落したので毛利輝元・吉川元春・小早川隆景を派遣したところ立花城は健在であった ことは羽柴秀吉(「殿下」)への忠節が比類無きことと賞す。 去24日に島津軍を撃退、高鳥居城を攻略し城主星野鎮豊・星野民部少輔らを討ち捕らえた戦功を賞す。 以後、聊かな行動は控えさせ、毛利輝元ら中国勢の指示に従い、羽柴秀吉(「殿下」)の出馬により九州逆徒の掃討を通知。 詳細は安国寺恵瓊・黒田孝高・宮木宗賦に伝達させる。〔「大友家文書録」B‐2104〕 9月18日 仙石秀久ら、大友宗麟・大友義統らへ羽柴秀吉の命令を伝達する軍議を開く。〔「大友家文書録」B‐2105〕 9月19日 大友義統、小原新四郎へ戸次庄における島津氏との戦闘の際に祖父小原河内入道の戦死および先年の父小原弾正忠の忠義を 賞して跡目相続を安堵。〔「渡辺澄夫氏蒐集文書」‐2〕 9月20日 大友義統、仙石秀久へ九州下向と大友義統に対する「上意」通達を謝し、事態収拾のため 仙石秀久の「指南」に従う旨を上申。〔「大友家文書録」B‐2105〕 9月21日 羽柴秀吉、稲葉一鉄へ6447貫700文の美濃国西方知行方目録を下す。〔「大石氏蒐集文書」‐8〕 9月21日 羽柴秀吉、那波直治へ1981貫600文の美濃国西方知行を扶助。〔「名和文書」‐2〕 9月21日 羽柴秀吉、那波直治へ1981貫600文の美濃国西方知行目録を下す。〔「名和文書」‐3〕 9月27日 島津義久、羽柴秀吉へ去春上坂させた使者の鎌田政年が提示された「条々」については、夏以来肥筑での凶徒成敗のため 島津家での未検討であることの謝意を通知。〔「旧記雑録後編」A‐184〕 9月27日 島津義久、羽柴秀長へ去春上坂させた鎌田政年は若輩のため音信を怠っている上、 肥筑表での戦闘により羽柴秀吉の提示した条件(「関白殿御下知」)は到来していない旨を伝達。 長寿院盛淳(「大善房」)に詳細を申し含め上洛させる旨を通知。羽柴秀吉への取り成しを依頼。 〔「旧記雑録後編」A‐188〕 9月27日 島津義久、石田三成へ島津領内の悪党(筑紫広門)の成敗は正当であり、京都に対する敵対行為ではないこと、 それにもかかわらず四国衆・中国衆が島津領内へ進撃してきたという風聞に接し納得のいかない旨を通知、邪正糺明を依頼。 〔「旧記雑録後編」A‐183〕 9月27日 島津義久、施薬院全宗へ京都に対しては緩疎無き旨の取り成しを依頼。〔「旧記雑録後編」A‐185〕 9月28日 本願寺顕如・本願寺如春・本願寺准如、摂津国有馬へ湯治。〔『顕如上人貝塚御座所日記』〕 10月 10月 3日 羽柴秀吉、京都から安国寺恵瓊・黒田孝高・宮木宗賦へ毛利輝元をはじめとする中国勢の配備状況と 長宗我部元親・仙石秀久への指令伝達、仙石秀久を妙見に配備すること、 毛利輝元らが長陣越年すれば島津氏も薩摩国へは帰還しないであろうこと、小西行長に兵粮管理を委ねることを通達。 〔「大友家文書録」B‐2106〕 10月 3日 羽柴秀吉、黒田孝高・宮木宗賦・安国寺恵瓊へ立花宗茂・立花家中による立花城堅守の忠節と高鳥居城攻略、城主星野鎮豊ら を刎首した戦功は「九州之一物」であることを通達するよう命令。〔「大友家文書録」B‐2107〕 10月 3日 羽柴秀吉、立花宗茂へ仙石秀久・長宗我部元親・四国衆を豊後国沖浜に、 毛利輝元・吉川元春・小早川隆景を豊後国門司表へ渡海させた旨を通達。〔「大友家文書録」B‐2108〕 10月 4日 羽柴秀長(「豊臣秀長」)、権中納言に昇進。〔『公卿補任』〕 10月 4日 徳川家康(「源家康」)、権中納言・従三位に就任。〔『公卿補任』〕 10月 9日 田村清顕、没。〔『日本史人物生没年表』〕 10月10日 羽柴秀吉(「秀吉」)、毛利輝元(「毛利右馬頭」)の九州出馬で関戸を越すに際して毛利高政(「森勘八」)・ 毛利重政(「森兵吉」)を見舞として派遣し、戦陣における指示を与え、兵卒・兵粮の補給については毛利高政・毛利重政に 要請するよう命令。〔「毛利家文書」B‐948〕 10月11日 羽柴秀吉、吉川元長・吉川元春が関戸を越すに際して毛利高政・毛利重政を見舞として派遣し、 毛利輝元の出馬について指示を与える。〔「吉川家文書」@‐97〕 10月11日 羽柴秀吉、立花宗茂へ羽柴秀吉(「殿下」)の「御敵」となった島津氏の大軍勢を立花城に引き付けて島津軍を敗北に導き、 高鳥居城を攻略した戦功を賞す。来春の羽柴秀吉御動座予定を告げ褒美を見計らい所望あれば叶える旨を通達。 詳細は毛利高政・毛利重政に伝達させる。〔「大友家文書録」B‐2109〕 10月14日 羽柴秀吉、吉川元春・小早川隆景・吉川元長へ毛利輝元の豊前国小倉城攻略の報告を受けこれを賞し、 更に筑前国への進軍を指示。〔「吉川家文書」@‐99〕 10月14日 本願寺顕如・本願寺如春・本願寺准如、摂津国有馬での湯治を終える。〔『顕如上人貝塚御座所日記』〕 10月14日 帥法印歎仲、「大政所様御祈願所」河内国観心寺惣中へ一柳直末(「一柳市助」)の同心により寺領7郷柴山の安堵す。 〔「観心寺文書」‐632〕 10月14日 帥法印歎仲、「大政所様御祈願所」河内国観心寺へ山林竹木寄進を安堵。〔「観心寺文書」‐633〕 10月15日 吉富栄熈(「吉富甚太夫」:帥法印歎仲家臣)、「大政所様御祈願所」河内国観心寺7郷百姓中へ7郷柴山を安堵。 〔「観心寺文書」‐634〕 10月16日 羽柴秀長、大和国長谷寺へ寺領の3分の1を観音堂修造費用とすべき旨を通達。〔「長谷寺文書」〕 10月17日 羽柴秀吉、立花宗茂へ立花弾正忠の上洛と国吉の太刀の献上を賞し、 毛利輝元・小早川隆景・吉川元春・長宗我部元親・仙石秀久と共に島津氏に対する防備を激励。 〔「大友家文書録」B‐2110〕 10月18日 池田輝政、美濃国専福寺へ圓乗寺市場について非分を禁止、 市日を5日・10日・15日・20日・25日・晦日にする旨を通達。〔「専福寺文書」‐2〕 10月27日 徳川家康、大坂城において羽柴秀吉に謁見し臣従を誓う。〔「家忠日記」〕 10月29日 羽柴秀長(「秀長」)、大和国長谷寺へ観音堂修理の番匠「手間料」につき命令を下し、更に修造を督促す。 詳細は小堀正次(「小堀新介」)に伝達させる。〔「長谷寺文書」〕 11月 11月 羽柴秀吉、某へ筑後国表において大友義統・仙石秀久・長宗我部元親らが府内に侵攻したことに触れ、 毛利輝元ら中国・四国勢の派遣を通知し軽率な振舞を戒める。〔「大友家文書録」B‐2111〕 11月 5日 羽柴秀長、正三位に昇進。〔『公卿補任』〕 11月 5日 徳川家康(「源家康」)、正三位に昇進。〔『公卿補任』〕 11月 6日 大友義統、波津久右近允へ仙石秀久・長宗我部信親と相談して敵陣を切り崩す覚悟であることを賞す。 〔「波津久文書」‐27〕 11月11日 細川忠利、誕生(異説10月11日)。〔『日本史人物生没年表』〕 11月15日 吉川元春、豊前国小倉において病死。〔『日本史人物生没年表』〕 11月18日 羽柴秀吉、「弾正」(浅野長政カ)へ八木および餅米合計45石を「いちやかた」へ送付するよう命令。 〔「帆足コウ文書」‐3〕 11月18日 足利義昭、島津義弘へ豊州へ上陸した毛利氏と相談ずるには島津義久に対する異見は重要であることを通達。 詳細は真木島昭光・一色昭秀に伝達させる。〔「旧記雑録後編」A‐212〕 11月18日 足利義昭、喜入季久へ豊州へ上陸した毛利氏と相談ずるには島津義久に対する異見は重要であることを通達。 詳細は真木島昭光・一色昭秀に伝達させる。〔「旧記雑録後編」A‐213〕 11月18日 一色昭秀、喜入季久へ柳沢元政下向の際の手火矢贈与を謝す。 再度の柳沢元政下向を通知し取り成しを依頼。〔「旧記雑録後編」A‐211〕 11月18日 田原親盛、吉村但馬守の書状に答え島津軍の南郡駐屯の状況を報告。〔「吉村文書」‐16〕 11月20日 羽柴秀吉、吉川元春・吉川元長が豊前国宇留津城を攻略した報告を受け、自身の出馬延期と豊後国への軍勢派遣を告知。 〔「吉川家文書」@‐98〕 11月20日 羽柴秀吉、大友宗麟へ豊後表の大友義統より島津勢乱入の注進に接し、大友宗麟の豊後国臼杵入城を促す。 さらに豊後国内における島津氏への内通者の取締まりを命令。〔「大友家文書録」B‐2112、「大友松野文書」‐197〕 11月23日 羽柴秀吉、京都大徳寺へ朱印状を以て山城国内の1545石を寺領として「寄附」。〔「大徳寺文書」@‐102〕 11月25日 羽柴秀吉、後陽成天皇の女御として養女(近衛前久娘)を入内させる。 11月25日 羽柴秀次(「豊臣秀次」)、従四位下に昇進(右中将はもとのまま)。〔『公卿補任』〕 11月25日 宮部長熙(「豊臣長熙」)、「従五位」下となる。〔「宮部文書」〕 11月25日 宮部長熙(「豊臣長熙」:従五位下)、「兵部少輔」に叙任。〔「宮部文書」〕 11月25日 大友義統、沓掛孫太郎へ南郡における島津氏との戦闘に際し戸次統常と同心しての懇忠を賞す。〔「沓掛利三郎文書」‐1〕 12月 12月 1日 羽柴秀吉、九州征伐の出陣日を明年3月1日と発表。 12月 2日 羽柴秀吉、大友義鎮(「天徳寺右衛門入道」)へ島津勢を釘付けにするため阿波・淡路勢を派遣し、さらに備前・美作勢と 宇喜多秀家(「羽柴八郎」)・吉川元春(「吉川」)・小早川隆景(「小早川」)・黒田孝高(「黒田勘解由」)を嘉原嶽城に 移陣させる旨を通知。 また「一揆馳ニも関白出馬、島津事可刎首」するという覚悟を申し含めた毛利重政(「森兵吉」)・毛利高政(「勘八」)を 毛利輝元(「毛利」)らの陣へ派遣することを通達。〔「大友家文書録」B‐2113〕 12月 3日 羽柴秀吉、石田三成(「石田治部少輔」)へ書状を送付した多賀谷重経(「多賀谷修理進」)へ「関東・奥両国迄惣無事」の 件は徳川家康(「家康」)に「仰付」けたので異議無きようにすべきこと、違反者については「成敗」することを通達。 詳細は石田三成(「治部少輔」)に伝達させる。〔「秋田藩採集文書」、「多賀谷隆経家蔵文書」〕 12月 3日 羽柴秀吉、吉川元長(「吉川治部少輔」)・吉川広家(「吉川蔵人」)へ吉川元春(「元春」)死去を哀悼。 また在陣を慰労すると共に「対天下忠節」を確認する。〔「吉川家文書」@‐104〕 12月 3日 富田知信(「富田左近将監」)、初めて音信を通ず相馬義胤(「相馬殿」)へ「奥両国惣無事」の羽柴秀吉「御書」を送付 するので路次整備を依頼する。また「上辺御用」は相応に馳走すること、詳細は金山「宗洗」斎より伝達することを通達。 〔「相馬文書」〕 12月 3日 仙石秀久、豊後国関宮神主へ全3ヶ条の「定」(禁制)を下す。〔「速吸社文書」‐2〕 12月 4日 羽柴秀吉、小早川隆景(「小早川左衛門佐」)へ吉川元春(「吉川駿河守」)死去を哀悼し「対殿下忠節」を確認したこと、 吉川元長・吉川広家へも同様の旨を伝達したことを通知。〔「吉川家文書」@‐657〕 12月 4日 羽柴秀吉、吉川元長(「吉川治部少輔」)・吉川広家(「吉川蔵人」)へ筑前国香春岳城での戦功を賞す。 〔「吉川家文書」@‐100〕 12月 4日 足利義昭、島津義久へ一色昭秀を派遣して羽柴秀吉との和睦締結を促す。 詳細は真木島昭光に伝達させる。〔「島津家文書」@‐104、「旧記雑録後編」A‐216〕 12月 4日 足利義昭、島津義弘へ一色昭秀を派遣して羽柴秀吉との和睦締結を促す。 詳細は真木島昭光に伝達させる。〔「島津家文書」@‐105、「旧記雑録後編」A‐218〕 12月 4日 足利義昭、島津家久へ一色昭秀を派遣して羽柴秀吉との和睦締結を促す。 詳細は真木島昭光に伝達させる。〔「旧記雑録後編」A‐219〕 12月 4日 足利義昭、伊集院忠棟へ一色昭秀を派遣して羽柴秀吉との和睦締結を促す旨を島津義久に上申するよう依頼。 〔「島津家文書」@‐106、「旧記雑録後編」A‐217〕 12月12日 羽柴秀吉、吉川元長へ豊前国香春岳城の攻囲について指示を与える。〔「吉川家文書」@‐651〕 12月12日 長宗我部信親、豊後国において戦死。〔「土佐国蠧簡集」‐476〕 12月12日 長宗我部元親、豊後国において戦死した700余人の菩提を弔う。〔「土佐国蠧簡集」‐477〕 12月15日 大友義鎮(宗麟)、長宗我部元親の九州渡海を謝す。 また、豊後国における長宗我部信親の戦死の報告は未確認であることを通知。〔「土佐国蠧簡集」‐478〕 12月16日 大友義統、宇佐郡龍王岳城において防戦し、吉川元長へ援軍を要請。〔「吉川家文書」@‐101〕 12月19日 羽柴秀吉、太政大臣に就任。〔『公卿補任』〕 12月19日 羽柴秀吉、長宗我部五郎次郎へ豊後国戸次川における戦闘で長宗我部信親が戦死したことを悼み、長宗我部元親の安否も不明 であること、万一の場合は土佐国を宛行う旨を通達。詳細は藤堂高虎・増田長盛に伝達させる。 〔「土佐国蠧簡集」‐479、但し偽文書の可能性大〕 12月20日 細川藤孝(「玄旨」)、東福寺善恵軒の件で「所行」は「言語道断」であることを了承し、東福寺不二庵へ細川藤孝書状を 以て通達することを通知。〔「九条家文書」E‐1887(4)〕 12月20日 富田知信、初めて音信を通ずる本庄繁長(「下越後本庄殿」)へ羽柴秀吉(「関白殿」)より「関東并奥両国惣無事」の件が 金山宗洗斎(「宗洗」)を通じて通達されることを通知し路次「宿送」の整備を依頼する。 また今後は「上辺御用」を承る旨を通知。〔「渡辺慶一氏所蔵文書」〕 12月20日 島津義久、入田義実へ仙石秀久・長宗我部元親らの敗北および残党掃討について通達。〔「旧記雑録後編」A‐224〕 12月24日 羽柴秀吉、毛利輝元(「毛利右馬頭」)へ九州征伐に先立ち全7ヶ条の「条々」を発す。 宇喜多秀家(「羽柴八郎」)・羽柴秀長(「中納言」)らの出陣予定と秋月種実(「秋月」)・龍造寺政家(「龍造寺」)は 「殿下御下知次第」になったことと龍造寺政家(「龍造寺」)の筑後国方面に於ける戦勝に触れ羽柴秀吉(「関白殿」)の出馬 以前は軽率な動向を戒め、今度の豊後国で「若輩之奴原」が羽柴秀吉(「殿下」)の「御置目」に違反し「不届動仕越度を取」 ったので仙石秀久(「仙石権兵衛尉」)へ「跡職闕所」を命令し讃岐国の件は尾藤知宣(「尾藤左衛門尉」)を「奉行」に任命 することなどを通達。そして羽柴秀吉出馬に備える防御態勢を調えるよう命令し、島津氏との境界にある要害の守備の徹底、 島津氏に対する軽挙を戒めるなどの指令を下す。〔「毛利家文書」B‐951〕 12月25日 東福寺観智院空盛、「石井殿」へ東福寺善恵軒の件を細川藤孝(「玄旨」)父子へ連絡したところ、既に九州へ「罷下」った というので明春になるとのこと、東福寺観智院空盛が東福寺不二庵に対して書状を以て連絡すること、また東福寺善恵軒の件は 「何様致祗候、御礼等可申上之由」を披露することを通知。〔「九条家文書」E‐1889〕 12月27日 大友義統、吉川元長へ吉川元春死去を悼み、龍王岳城への援軍を謝す。〔「吉川家文書」@‐102〕 12月28日 池田輝政、美濃国茜部神社へ燈明田として田畠1町と屋敷を寄進。〔「茜部神社文書」‐2〕 この年 織田信雄(「平信雄」)、従二位に昇進。〔『公卿補任』〕 有馬直純、誕生(異説1587年)。〔『日本史人物生没年表』〕 板倉重宗、誕生(異説1587年)。〔『日本史人物生没年表』〕