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天正13(1585)年 1月 1月 2日 羽柴秀吉、賀茂別雷神社惣中へ年首の祝儀を謝す。詳細は細井方政に伝達させる。〔「賀茂別雷神社文書」三〕 1月 3日 羽柴秀吉、伊勢大神宮遷宮入目注文を徴す。詳細は慶光院周養・上部貞永に伝達させる。〔「慶光院文書」一〕 1月12日 羽柴秀吉、伊木忠次(池田輝政老臣)へ池田輝政に美濃国大垣より岐阜への移動を命令。〔「伊木文書」〕 1月15日 羽柴秀吉、河村与三郎・木村孫次郎へ織田信雄上坂にあたり御座船造船・茶湯の用意、供衆用の大船9艘の造船を命令。〔「古文書」〕 1月17日 羽柴秀吉、摂津国有馬へ湯治。〔『宗及茶湯日記』〕 1月17日 佐竹義重、徳川家康へ羽柴秀吉との和睦を祝す。〔「諸家単一文書」‐1079、「諸名将古案」〕 1月17日 東義久、大久保忠隣へ徳川家康・羽柴秀吉間の和議締結を祝す。〔「諸名将古案」〕 1月17日 口羽春良(毛利氏家臣)、羽柴秀吉に謁見。〔『萩藩閥閲録』〕 1月19日 羽柴秀吉、摂津国有馬において茶会を開く。石川数正・千利休(「宗易」)・津田宗及が参席。〔『宗及茶湯日記』〕 1月22日 羽柴秀吉、摂津国有馬で湯治。〔『顕如上人貝塚御座所日記』〕 1月22日 本願寺顕如、蜜柑2折・鳥目1000疋を贈与する。〔『顕如上人貝塚御座所日記』〕 1月22日 多賀谷重経(佐竹義重属将)、大久保忠隣へ徳川家康・羽柴秀吉間の和議締結を祝し、 羽柴秀吉関東出馬の際は従軍する意思を伝達。〔「諸名将古案」〕 1月25日 羽柴秀吉、摂津国有馬湯山へ赴く。石川数正・蜂屋頼隆らが随行。〔『宗及自会記』〕 1月25日 羽柴秀長、飯田半兵衛尉(織田信雄老臣)へ織田信雄との折衝のため自身が派遣された旨を通知。〔「渡辺文書」〕 1月25日 河野越中(本願寺使者)、本願寺顕如からの贈物を携え摂津国有馬へ向けて出発。〔『顕如上人貝塚御座所日記』〕 1月28日 羽柴秀吉、飯田半兵衛尉(織田信雄老臣)へ名代として羽柴秀長に対する馳走を謝す。 近日織田信雄上洛の際しては羽柴秀長・富田知信が詳細を伝達する旨を通知。〔「根岸文書」五〕 1月28日 荒木田守豊(伊勢内宮長官)・慶光院周養、稲葉重執・牧村政吉へ伊勢正遷宮にあたり、 金子43枚分の伊勢内宮使途注文を認める。〔「慶光院文書」四〕 1月28日 松木貴彦(伊勢外宮長官)、稲葉重執・牧村政吉へ伊勢正遷宮にあたり、 金子42枚分の伊勢外宮使途注文を認める。〔「松木文書」四〕 1月29日 多聞院英俊、羽柴秀吉が摂津国有馬湯山へ入ったことを知る。〔『多聞院日記』〕 1月 晦日 千利休(「宗易」)、摂津国有馬湯山において茶会を開催。山上宗二・津田宗及が参席。〔『宗及茶湯日記』〕 1月 吉日 荒木田守豊(伊勢内宮長官)、稲葉重執・牧村政吉へ天正10年の織田信長寄進分の 伊勢内宮使途注文を認める。〔「藤波文書」一〕 2月 2月 2日 小森政秀(生駒親正家臣)、生駒親正・織田信包・織田長益・蒲生氏郷・九鬼嘉隆の各御奉行衆へ 羽柴秀吉の肴・馬糧調達の過書を発す。〔『三国地志』九四〕 2月 3日 羽柴秀吉、大坂城に帰城。〔『顕如上人貝塚御座所日記』〕 2月 5日 「ね」(羽柴秀吉室)、阿弥陀寺へ摂津国有馬湯山薬師堂建立のため公用1500貫と地料として毎年100石を寄進する。〔「善福寺文書」〕 2月 8日 羽柴秀吉、小早川隆景へ人質として上坂していた小早川秀包の安芸国への下国を通知。〔「小早川家文書」〕 2月 8日 羽柴秀吉、安国寺恵瓊・桂広繁(毛利氏家臣)へ小早川秀包の安芸国への下国を通知。〔「小早川家文書」〕 2月10日 羽柴秀吉、石清水八幡宮惣中へ織田信雄上洛に際し路次普請を命令。〔「片岡文書」〕 2月10日 中山慶親(「左中将」)、吉川元春(「吉川駿河守」)へ泉涌寺舎利殿再興の奉加を要請。〔「吉川家文書」〕 2月10日 中山慶親(「左中将」)、山内隆通(「山内新左衛門尉」)へ泉涌寺舎利殿再興の奉加を要請。 〔「山内首藤家文書」‐301〕 2月11日 小早川隆景、村上武吉・村上元吉(能島)へ乃美宗勝・井上春忠を使者として派遣し、疎意無き旨を通知。〔「村上文書」一〕 2月11日 小早川隆景、村上武吉・村上元吉(能島)へ羽柴秀吉の意志に従い村上通昌(来島)の帰国を許可するが、 村上武吉・元吉・景親(能島)父子に疎意の無き旨の起請文を提出。〔「村上文書」一〕 2月12日 織田信雄、水野勝成へ紀伊国雑賀表への羽柴秀吉出陣予定を通知。玉薬の準備を命令。〔「水野文書」〕 2月12日 織田信雄、吉村氏吉へ紀伊国雑賀表への羽柴秀吉出陣予定を通知。玉薬の準備を命令。〔「吉村文書」一〕 2月12日 口羽春良(毛利氏家臣)、湯浅将宗へ羽柴秀勝(織田信長4男)と毛利輝元娘の祝言に伴う小早川秀包の上坂により和泉国堺で越年、 羽柴秀吉と謁見した旨を報告し、備中国松山・八橋は毛利領とすること、 備前国兒島は宇喜多領に属する裁決を下した旨を伝達。〔『萩藩閥閲録』〕 2月13日 羽柴秀吉、小早川隆景へ紀州出馬にあたり小早川隆景分国中の警固船を悉く和泉国岸和田へ終結させることを命令。〔「小早川家文書」〕 2月13日 羽柴秀吉、一柳末安へ紀州表出陣に備え大坂近辺に着陣するよう命令。〔「一柳文書」〕 2月14日 羽柴秀吉、本多重次(徳川氏家臣)へ徳川於義伊丸(徳川家康次男)に息子本多重成(「仙千代」)を同行させたことを賞す。〔「古文書」〕 2月14日 徳川家康、滝川雄利(「羽柴三郎兵衛」、織田信雄家臣)へ織田信雄の上洛について詳細の報告を依頼。〔「加藤文書」〕 2月14日 桂広繁、安芸国大願寺へ羽柴秀吉から拝領した良馬を小早川秀包より寄進する旨を通知。〔「大願寺文書」六〕 2月18日 小早川秀包、安芸国への下国に際し羽柴秀吉より河内国内に1万石を宛行われる。〔『毛利氏四代実録考証論断』二十六〕 2月21日 乃美宗勝(毛利氏家臣)、村上武吉・村上元吉(能島)へ村上通昌(来島)帰国にあたり小早川隆景は能島村上氏に対し 疎意無き旨を通知し、起請文を提出。〔「村上文書」一〕 2月23日 多聞院英俊、羽柴秀吉が摂津国有馬湯山薬師堂を建立するという情報に接す。〔『多聞院日記』〕 2月24日 前田利家、能登国所々浦々百姓中へ越中国出馬にあたり羽柴秀吉の命令で船舶に領外への出航を禁止。〔『松雲公採集遺編類纂』百四十〕 2月26日 羽柴秀吉、片桐貞隆へ山城国枇杷庄143石2斗を新地として宛行う。〔「片桐文書」一〕 2月26日 織田信雄、大坂から上洛し頂妙寺へ宿泊。〔『言経卿記』『顕如上人貝塚御座所日記』〕 2月27日 山科言経、大和宗恕を訪問。 大和宗恕が明日滝川雄利(「羽柴三郎兵衛」:織田信雄家臣)の要請で内々に同道することを知る。〔『言経卿記』〕 2月28日 羽柴秀吉、入京。 2月 日 前田利家、越中国射水郡宇波村助右衛門へ禁制を下す。〔『加能越古文叢』〕 3月 3月 1日 今出川晴季・勧修寺晴豊・久我敦通と中山慶親が口宣案を持参し、羽柴秀吉が迎え、 頂妙寺を宿所としている織田信雄を訪問し口宣案を伝達。〔「光豊公口宣案之写」〕 3月 1日 羽柴秀吉、根来・雑賀一揆征伐のために出陣。〔「佐竹文書」〕 3月 2日 織田信雄、伊勢国への帰国の途につく。〔『言経卿記』『顕如上人貝塚御座所日記』〕 3月 3日 羽柴秀吉、蒔田久勝(蔵入地代官)に雑賀松庵へ20人27日分の扶持方を計渡すよう指示。〔「浅野文書」〕 3月 3日 羽柴秀吉、蒔田久勝(蔵入地代官)に雑賀大炊助へ20人27日分の扶持方を計渡すよう指示。〔「浅野文書」〕 3月 5日 羽柴秀吉、羽柴秀勝の病気見舞のために丹波国亀山城に下向。 3月 6日 羽柴秀吉、入京。 3月 8日 羽柴秀吉、大徳寺総見院において盛大な茶会を開催し京都・堺の数寄者13人に茶を賜わる。 3月10日 羽柴秀吉(「平羽柴秀吉」)、正二位に昇進。〔『公卿補任』「足守木下家文書」‐7〕 3月10日 羽柴秀吉(「平羽柴秀吉」)、内大臣に就任。〔『公卿補任』「足守木下家文書」‐8〕 3月10日 羽柴秀吉、正二位・内大臣に昇進し初めて参内。〔「兼見卿記」〕 3月10日 羽柴秀吉(「羽柴秀吉」)、京都大徳寺の寺領を安堵。「縦雖出棄破之判形、不混自余条、永令免許」とし、また臨時の課役・徳政・ 新法も免除す。〔「大徳寺文書」@‐98〕 3月10日 前田玄以(「民部卿法印玄以」)、京都大徳寺へ寺領安堵の通達を下す。臨時の課役の件は「先規」に任せて「羽柴秀吉御判」に よって免除することを通達。〔「大徳寺文書」@‐99〕 3月12日 羽柴秀吉、近江国坂本に下向し、ついで大坂城に帰城。 3月15日 安国寺恵瓊、島津義久(「島津殿」)へ羽柴秀吉(「羽筑」)と「芸州」(毛利氏)との和睦締結を報告。 また羽柴秀吉が「公家」となった旨に触れ、京都への御用を取り次ぐ旨を通達。〔「旧記雑録後編」A‐15〕 3月21日 羽柴秀吉、紀伊国雑賀・根来一揆討伐のため大軍をひきいて大坂城を発す。 3月23日 正親町天皇、羽柴秀吉(「内府」)の根来出陣にあたり園城寺へ戦勝祈祷を命令。〔『古文書類纂』園城寺所蔵文書〕 3月23日 羽柴秀吉、紀伊国根来寺を焼き払う。 3月23日 羽柴秀長(「羽柴美濃守秀長」)、河内国天野山金剛寺へ陣中見舞いを謝す。〔「金剛寺文書」‐343〕 3月24日 羽柴秀吉、紀伊国雑賀に侵攻し一揆首領である土橋平之丞の居城を陥落。 3月 日 羽柴秀吉、禁裏「六町」へ全3ヶ条の「禁制」を下し、「従先々任免許」す旨に相違無きことを安堵。 〔「川端道喜文書」‐7〕 4月 4月16日 丹羽長秀、没。〔『日本史人物生没年表』〕 4月24日 十右衛門・三河、伊勢御遷宮の米を「玄以御判枡」にて米を払う。〔「慶光院文書」四〕 4月26日 前田利家、安宅九郎左衛門尉へ能登国・加賀国往還は自由であるが、越中国えの着岸は禁止する旨を通達。〔「尊経閣文庫所蔵文書」〕 4月26日 島津義久、真木島昭光・一色昭秀へ足利義昭御内書を頂戴した旨を通知し、足利義昭入洛の祝儀を贈与。〔「旧記雑録後編」A‐31〕 4月26日 島津義久、贈物をしてきた真木島昭光へ足利義昭の入洛を遠国ながらも後援する意志と贈物を送付。〔「旧記雑録後編」A‐32〕 4月29日 島津義久、柳沢元政を招待して饗応。〔「旧記雑録後編」A‐40〕 4月 柳沢元政、島津義久へ豊州(豊後大友氏)との対峙に触れ、「九州可為太守由」の「公方様御判」を調えることを通達。 〔「旧記雑録後編」A‐33〕 4月 島津義久、上使として下向した柳沢元政へ「公儀」推戴の意志を通知。詳細は伊集院忠棟に伝達させる。〔「旧記雑録後編」A‐34〕 5月 5月 2日 柳沢元政、帰京。〔「旧記雑録後編」A‐40〕 5月10日 羽柴秀吉、入京後に近江国坂本へ下向。 5月14日 九条家雑掌、前田玄以へ九条殿不知行分目録を差し出す。〔「九条家文書」一〕 5月25日 宇喜多秀家、美作国木山寺での材木伐採を禁ず。〔「木山寺文書」‐12〕 6月 6月 8日 羽柴秀吉、高野山の武器不携帯を誓約させ寺の置目を制定、前田玄以を通じて禁裏に奏上し、 後代のため綸旨を賜わることを要請させる(※羽柴秀吉の「刀狩」の初見)。〔「高野山文書」〕 6月11日 丹羽長重(「五郎左衛門尉長重」)、篠庵へ去年縄打した領知方として100石を宛行う。〔「酔古堂所蔵文書」〕 6月14日 羽柴秀吉、病気が回復し近江国坂本から大坂城に帰城。 6月15日 羽柴秀吉、佐竹義宣へ根来・雑賀平定及び長宗我部元親・佐々成政征伐の顛末を誇張し報告。〔「佐竹文書」〕 6月15日 羽柴秀長・羽柴秀次、四国征討のため出陣。 長宗我部元親が恭順すれば、伊予国は小早川秀包へ、阿波国は蜂須賀家政へ、讃岐国は仙石秀久へ、 土佐国は長宗我部元親に拝領するという噂あり。〔『宗及茶湯日記』〕 6月25日 正親町天皇、「御製」を詠む。〔「九条家文書」E‐1887(11)〕 7月 7月 1日 一条兼定(土佐国司、権中納言)、没(異説1573年)。〔『日本史人物生没年表』〕 7月 7日 羽柴秀吉、入京。 7月10日 羽柴秀吉、筒井定次・伊藤掃部助(羽柴秀長部将)へ阿波国一宮城攻囲に際して城攻めの要領を教授。〔「伊藤文書」〕 7月11日 羽柴秀吉(「藤原羽柴秀吉」)、従一位に昇進。〔『公卿補任』「足守木下家文書」‐9〕 7月11日 羽柴秀吉、「関白」に就任。〔「足守木下家文書」‐10、11〕 7月11日 羽柴秀吉、「内覧」に任命。〔「足守木下家文書」‐12〕 7月11日 羽柴秀吉、宮中へ牛車で乗り入れることを許可される。〔「足守木下家文書」‐13〕 7月11日 羽柴秀吉、宮中へ兵杖を携帯した随身衆を同伴し、牛車で乗り入れることを許可される。〔「足守木下家文書」‐14〕 7月12日 羽柴秀吉、長宗我部元親へ土佐一国を宛行い「名字」を寛宥、今後は無二の忠節を尽くすよう通達。〔「土佐物語」〕 7月15日 羽柴秀吉(「関白」)、「親王と准后座次」の裁決を下す。 「親王・准后相論」の件を大徳寺に於いて糺明し、制定した全3ヶ条を「後代亀鏡」とすることを決定。 〔「特殊文書」‐2、「特殊文書」‐3〕 7月18日 羽柴秀吉、近衛信尹へ二条昭実「関白職相論」にあたり羽柴秀吉自身は辞退したが正親町天皇「叡慮」に応え関白職を拝任、その代償 として丹波国・山城国・近江国内に1000石を扶助する旨を通達。〔「近衛文書」〕 7月21日 羽柴秀吉、四国平定の状況を大坂に報告してきた安国寺恵瓊へ毛利氏の戦功を褒賞し越中・関東征伐の予定を通達。〔「小早川家文書」〕 7月21日 羽柴秀吉、川船で淀を経由し大坂城に帰城。 7月25日 羽柴秀長、江村親俊・谷忠澄へ長宗我部元親に対しての土佐一国安堵を保証する旨を伝達。〔「土佐国蠧簡集」‐460〕 7月27日 羽柴秀吉、安国寺恵瓊の報告により小早川隆景・吉川元長の伊予国新広郡における戦功を賞す。〔「吉川家文書」@‐96〕 7月27日 羽柴秀吉、羽柴秀長へ全5ヶ条の「覚」を発す。 長宗我部元親の降伏に際する人質の提出は羽柴秀長の交渉に一任すること。 一宮城・脇城は厳重に包囲し、攻撃に専心すべきことを命令。詳細は毛利重政に伝達させる。〔「藤堂文書」〕 7月27日 羽柴秀吉、伊藤秀盛へ長宗我部元親より種々の懇望があった旨に接し、羽柴秀吉存分は羽柴秀長に伝達したことを通知。 詳細は毛利重政に伝達させる。〔「伊藤文書」〕 7月 日 池田輝政、美濃国立政寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「立政寺文書」‐127〕 8月 8月 1日 羽柴秀吉、大坂より太田資正(「三楽斎」)へ佐々成政征伐・関東出馬予定を報告。詳細は細井方政に伝達させる。〔「下総潮田文書」〕 8月 1日 宮部藤左衛門尉、藤堂高虎へ四国表大略平定の報に触れ、 帰陣して羽柴秀次と参会する際の失念のないように折々の「取成」を依頼。〔「宗国史」〕 8月 2日 越中征伐軍先鋒、出陣。〔『宗及茶湯日記』〕 8月 4日 羽柴秀吉、毛利重政・祖父江久助へ四国から凱旋した軍勢渡海に際し遺漏のないよう命令。〔「森文書」〕 8月 5日 織田信雄、佐々成政へ羽柴秀吉に対しての降伏勧告を送付。 織田信雄の意見で羽柴秀吉の北国出陣が延期になったので、滝川雄利・土方雄良と相談し勧告容認を促す。〔「宮田作次郎氏所蔵文書」〕 8月 5日 堀秀政、多賀秀種へ長宗我部元親が人質を提出しなければ開陣する予定であることを通知。〔「多賀文書」〕 8月 5日 前田利家、羽柴秀吉(「くわんはく様御動座」)を迎えるため領内へ魚介徴収命令を下す。 また「大のみ百姓中」へ8月12日から毎日加賀国石川郡尾山城へ届けるよう命令。〔「加能越古文叢」〕 8月 5日 伊東義祐、没(異説1584年8月5日)。〔『日本史人物生没年表』〕 8月 7日 羽柴秀吉、淀より上洛。勧修寺晴豊は病気中のため乗物で出迎える。〔『晴豊公記』〕 8月 7日 羽柴秀吉の入京を公家衆は出迎えるが、吉田兼見はいつもの如く不参加。〔『兼見卿記』〕 8月 7日 前田利家、能登国石動山守将の青木善四郎・大屋助兵衛へ羽柴秀吉軍の越前国侵攻を通知、佐々成政に対する警戒を指示。〔「加能越古文叢」〕 8月 8日 羽柴秀吉、越中国の佐々成政討伐のため近江国坂本に下向。 近衛信輔・鷹司信房が吉田辺まで見送ったので羽柴秀吉は機嫌が良かった。〔『兼見卿記』〕 8月 8日 羽柴秀吉、近江国観音寺賢珍へ仙洞御所作事の用途として京枡で八木500石を前田玄以まで計り渡すよう命令。〔「西川良三氏所蔵文書」〕 8月 8日 羽柴秀吉、観音寺賢珍へ金子請取状を下す。〔「観音寺文書」〕 8月 8日 近衛信輔・細川藤孝、羽柴秀吉に遅れて近江国坂本へ下向。〔『晴豊公記』〕 8月 9日 羽柴秀吉、近江国高島に着陣。〔『兼見卿記』〕 8月10日 仙石秀久、讃岐国松王寺へ禁制を下す。〔「金比羅宮文書」乾〕 8月12日 羽柴秀次、某へ地下人に対する非分を禁止。〔「羽柴秀次判物」〕 8月13日 細川忠興、北国出陣中に家中の軍律を制定。〔「松井文書」〕 8月14日 下間頼廉、越中国新川郡坊主門徒へ羽柴秀吉の越中国出馬に際し勝興寺佐廉が下向するので還住を命令。〔「勝興寺文書」乾〕 8月16日 羽柴秀吉、小早川秀包へ西讃岐における小早川隆景・羽柴秀長の仲介を命令。〔『萩藩閥閲録』四〕 8月17日 前田利家、佐々成政に対する総攻撃のために長連龍らへ明日加賀国津幡に来援を要請。〔「前田利家書状」〕 8月19日 羽柴秀吉、賀茂社へ陣中見舞いを謝す。詳細は片桐貞隆に伝達させる。〔「賀茂別雷神社文書」三〕 8月19日 長宗我部元親から提出された人質が大坂に到着。〔「三村文書」〕 8月21日 羽柴秀長、溝口秀勝へ長宗我部元親が土佐1国を安堵されたことにより羽柴秀長の軍勢は帰陣を開始する旨を通知。〔「溝口文書」〕 8月22日 千利休、芝山源内へ越中国先手の戦況を問う。〔「富田仙助氏所蔵文書」四〕 8月22日 小寺識隆(宗円:黒田孝高父)、卒去。〔「諸寺過去帳」、「播磨妻鹿村チクゼンサン廟内五輪塔銘」、「入道伝」、「郡文書」〕 8月23日 仙石秀久、讃岐国地蔵院へ禁制を下す。〔「地蔵院文書」〕 8月23日 多聞院英俊、四国陣が終了した情報に接す。〔『多聞院日記』〕 8月25日 羽柴秀勝、丹波国亀山城に帰陣。〔「北徴遺文」〕 8月26日 羽柴秀吉、羽柴秀長へ佐々成政が織田信雄を頼り降参・赦免したこと、富山城に上杉景勝を出仕させること、 越中国に「国之置目」を発令し帰陣すること、長宗我部元親からの人質が到着したこと、 伊予国は毛利氏へ渡すことを通達。〔「三村文書」〕 8月26日 佐々成政、越中国富山城を明け渡し織田信雄を頼って羽柴秀吉陣所に投降。〔「三村文書」〕 8月28日 羽柴秀吉、加藤嘉明へ播磨国明石郡の知行の替地として播磨国神東郡を扶助。〔「近江水口加藤子爵家文書」一〕 8月29日 吉川元長、今田経高へ長宗我部元親が阿波国・讃岐国を放棄し和平が成立したこと、 蜂須賀正勝・黒田孝高が伊予国宇摩郡に到着したことを通達。 また吉川元長自身がこの頃体調を崩した旨を通知。〔「吉川家中并寺社文書」〕 8月30日 朝廷、園城寺へ羽柴秀吉の佐々成政征伐祈祷を行わせる。〔「園城寺文書」乾〕 8月30日 京都上京衆、禁中御能の費用を献上。〔「京都上京文書」三〕 8月 羽柴秀吉、長宗我部元親へ土佐一国を安堵し以後忠勤すべきことを命令。〔「土佐国蠧簡集」‐462〕 8月 羽柴秀次、藤堂高虎へ長宗我部元親との和議が整ったため羽柴秀次自身は脇城攻撃を停止したことを通知し、 藤堂高虎の攻撃をも停止するよう指示。詳細は尾藤知宣に伝達させる。〔「藤堂文書」〕 閏8月 閏8月 1日 羽柴秀吉、芹谷野へ到着。〔「北徴遺文」〕 閏8月 1日 羽柴秀吉、検分のため越中国富山城に入城し上杉景勝の出仕に備える。 また藤懸永勝・田中小十郎・石川小七郎・高田小五郎・伊藤牛之助・谷兵助へ越中国制圧が終了に付き、 越中国中の諸城物主に対し「置目」などを下す旨を通知。さらに北国出兵には及ばない旨を通達。〔「北徴遺文」〕 閏8月 1日 稲葉一鉄、美濃国横蔵寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「横蔵寺文書」‐4〕 閏8月 1日 大友義鎮、大友義統の来翰に答え諸方の情勢を通知し戦備を調えることを命令。〔「毛利弘文書」‐2〕 閏8月 2日 佐久間正勝(不干斎自遁)、蜂須賀家政へ四国平定を祝す。〔「古文書纂」三〕 閏8月 3日 朝廷、春日大社へ羽柴秀吉の佐々成政征伐の祈祷を行わせる。〔『京都御所東山御文庫記録』〕 閏8月 4日 羽柴秀吉、高野山金剛峰寺へ越中国の佐々成政が織田信雄を頼り降参・赦免したこと、 富山城に上杉景勝を出仕させ、もし遅延したならば大坂に召し寄せる予定であること、 金剛峰寺金堂の造営を激励する旨を通達。〔「高野山文書」〕 閏8月 4日 羽柴秀吉、有馬則頼へ九州での軍労を激励。〔『筑後将士軍談』〕 閏8月 4日 千利休、松井康之に細川忠興への言伝を通知した旨、佐々成政が「墨衣」で降服した旨を通知。〔「松井文書」〕 閏8月 5日 羽柴秀吉、三千院最胤法親王(「梶井殿」)へ佐々成政が織田信雄を頼り降伏したこと、 羽柴秀吉自身が越中国富山城へ入城し諸城を物主へ配属して国の「置目」を発したこと、佐々成政妻子を大坂に護送すること、 明日羽柴秀吉は加賀国へ帰陣すること、富山城を破却することを通知。 また羽柴秀吉は眼病を患ったため「直判」ではなく「朱印」を使用した謝意を表す。〔「三千院文書」四〕 閏8月 5日 羽柴秀吉(「秀吉」)、九条兼孝(「九条殿」)へ北国陣への見舞を謝す。 この春に越中国倶利伽羅峠へ出馬し、「先勢」は越中国「立山うは堂」・「つるきの山之麓」に放火し、越中国木船・守山・ 増山以下の砦を攻略し、佐々成政(「蔵助」)が「降参」し、織田信雄(「信雄」)を頼って越中国富山城(「外山之居城」) を明け渡して「当陣取へ走入」ったので命は「赦免」したこと、越中国富山城へ入城し「諸城」へは「物主」を配備させ 「国之置目」を通達したこと、佐々成政(「蔵助」)は上坂させ、越中国富山城から「破却」を行い、明日に羽柴秀吉は加賀国 へ進撃すること、「誠太刀も刀も不入」であるので安心すべきこと、やがて上洛するので、その際に対面して詳細を伝達する ことを通知。〔「九条家文書」F‐2091〕 閏8月 5日 羽柴秀長(「美濃守秀長」)、大和国入国にあたり予め「猥之族」の追捕および入国後の「成道」以下を申し付ける旨を 通達。〔「廊坊家文書」〕 閏8月 5日 長宗我部元親、蜂須賀正勝へ自身の「進退」について羽柴秀吉(「殿下様」)の御「寛宥」と蜂須賀正勝の御「取合」を謝し 証人を提出する旨を上申。今後とも御「指南」の依頼を所望。 また御使の羽柴秀次の懇慮に感激し献上品を送付。詳細は白江範秀に伝達してもらう。〔「蜂須賀侯爵家文書」〕 閏8月 5日 北国陣へ勅使として勧修寺晴豊・中山親綱、誠仁親王の御使として阿野実時(休庵)が派遣される。〔『兼見卿記』〕 閏8月 5日 吉田兼見、羽柴秀吉への陣中見舞いとして鈴鹿定継(左馬允)を派遣。〔『兼見卿記』〕 閏8月 5日 吉田兼見、今度「諸大夫」に成る稲葉貞通へ「勝軍治要之御祓」を行っている旨を通知。〔『兼見卿記』〕 閏8月 7日 羽柴秀吉、加賀国から本願寺顕如へ佐々成政征伐の状況を報告。〔「本願寺文書」一〕 閏8月 7日 羽柴秀吉、女房こほ(北政所侍女)へ加賀国から越前国北ノ庄へ移動し置目を命令して20日頃に帰坂する予定を通知。 〔「加能越古文叢」四十一〕 閏8月 8日 吉田兼見、北国平定の報に接す。〔『兼見卿記』〕 閏8月 9日 羽柴秀吉、吉田兼見へ弓懸・川足袋の贈与を謝し、越中国は悉く一篇に申し付け、越前国北庄に帰陣した旨、 間もなく上洛するを通知。〔「吉田良正氏所蔵文書」〕 閏8月 9日 羽柴秀長、紀伊国惣百姓中へ検地実施のために小堀正次を派遣すること、置目の遵守を命令。〔「諸家単一文書」‐1083〕 閏8月 9日 朝廷、石清水八幡宮へ羽柴秀吉の佐々成政征伐の祈祷を行わせる。〔「石清水文書」六〕 閏8月 9日 勅使の勧修寺晴豊、越中国で吉田兼見使者の鈴鹿定継(左馬允)と面会。〔『兼見卿記』〕 閏8月10日 羽柴秀吉、越前国北ノ庄へ凱陣。〔「木村文書」・「今出川勇子氏所蔵文書」〕 閏8月11日 羽柴秀吉、女房いわ(北政所侍女)へ飛騨国平定のため軍勢派遣と後々まで騒動が起こらぬように置目を命令する。 また、27日か28日頃に大坂に凱旋予定を通知。〔「木村文書」・「今出川勇子氏所蔵文書」〕 閏8月12日 羽柴秀吉、京都上京中へ革衣の在陣見舞いを謝し、詳細は安威守佐に伝達させる。〔「京都上京文書」一〕 閏8月12日 吉田兼見、稲葉重通より北国仕置の様子の通知を受ける。〔『兼見卿記』〕 閏8月13日 勧修寺晴豊ら勅使、上洛。〔『兼見卿記』〕 閏8月14日 吉田兼見、勧修寺晴豊・中山親綱・阿野実時(休庵)の上洛を祝す使者を派遣。〔『兼見卿記』〕 閏8月15日 羽柴秀吉、近江国竹生島惣中へ椎・昆布の献上を謝す。詳細は石田正澄に伝達させる。〔「竹生島文書」二〕 閏8月15日 勧修寺晴豊・阿野実時、北国の情況を報告。〔『兼見卿記』〕 閏8月17日 羽柴秀吉、近江国坂本に到着。〔『兼見卿記』〕 閏8月17日 吉田兼見、前田玄以を訪問し羽柴秀吉の坂本到着を確認。〔『兼見卿記』〕 閏8月18日 羽柴秀吉、本願寺顕如へ北国征伐の陣中見舞いとして音信・豹革3枚の献上を謝す。詳細は下間頼廉に伝達させる。〔「本願寺文書」一〕 閏8月21日 蜂屋頼隆(「出羽守」)、越前国敦賀郡の舟道頭又兵衛・稲壁両名へ北国・西国への出荷物廻送に関する指示を下す。 〔「道川三郎左衛門文書」〕 閏8月23日 羽柴秀吉、京都に凱旋。 閏8月25日 北条氏照、正木時忠へ上杉景勝軍勢出兵の風聞に接し、事実調査を命令。〔「諸家単一文書」‐1076〕 閏8月27日 羽柴秀吉、大坂城に帰城。〔「宇野主水記」〕 閏8月28日 前田玄以、上賀茂社の森某へ丹州船井郡護摩の畑村内に20石を知行として宛行う。〔「上賀茂神社文書」‐105〕 閏8月29日 江村親頼、藤堂高虎へ長宗我部元親が老臣を人質に提出すること、 長宗我部元親自身が上坂すれば人質は無用であるということだが、 長宗我部元親は津野親忠を人質として提出したことを通知。〔「宗国史」〕 9月 9月 2日 羽柴秀吉、上杉景勝へ「見懲」として飛騨国の三木自綱・三木秀綱父子の誅滅・獄門懸を報告。 詳細は千坂景親・村山慶綱(上杉家臣)に伝達させる。〔『上杉家記』〕 9月 3日 羽柴秀吉、大和国郡山城の羽柴秀長に下向。 9月 3日 近衛前久、島津義弘へ島津義虎に出馬を諌止するよう依頼した旨、八代に逗留中であるが対面もせずに帰洛するのは無念で あることを通知。〔「島津家文書」@‐294〕 9月 9日 朝廷、羽柴秀吉に豊臣姓を下賜。〔「押小路文書」〕 9月11日 戸次鑑連、没。〔『日本史人物生没年表』〕 9月14日 羽柴秀吉、石田三成(「治部少輔」)・増田長盛(「仁右衛門」)・大谷吉継(「紀介」)・千利休(「抛筌斎」)・施薬院全宗・ 今井宗久・今井宗薫ら側近を随行させ摂津国有馬に湯治。 その途上羽柴秀吉は、摂津国中島において本願寺顕如を訪問。本願寺顕如へは縮羅100端、本願寺教如へは50端、佐超へは30端を、 北御方(如春:顕如室)へは料紙10棹100束を贈与。本願寺において食事をした侍は52名であった。〔『顕如上人貝塚御座所日記』〕 9月14日 羽柴秀長(「美濃守」)、大和国法隆寺へ全5ヶ条の「掟」を下す。〔「法隆寺文書」〕 9月14日 千利休(「宗易」)・富田知信(「平右衛門尉」)、本願寺顕如へ礼のため参上、本願寺顕如と対面。魚を以て酒宴。 〔『顕如上人貝塚御座所日記』〕 9月18日 羽柴秀吉、本願寺顕如へ湯治見舞いを謝し、近日中に大坂へ帰城する旨を通知。〔「本願寺文書」三〕 9月23日 本願寺顕如・本願寺如春(顕如室)・本願寺准如、摂津国有馬で湯治する。 下間頼廉が随行し、宇野主水も摂津国有馬に参上する。〔『顕如上人貝塚御座所日記』〕 9月27日 羽柴秀吉、「吉光骨啄刀」を献上してきた大友義統へ、北国鎮定および関東・北国の平定がなったので閏8月中に大坂へ凱旋した旨を報告。 詳細は松井友閑・千利休に伝達させる。〔「大友書翰」第12号‐2、「大友家文書録」B‐1928〕 9月29日 小早川隆景、湯浅将宗へ伊予国周桑郡北条城の破却を通知。〔『萩藩閥閲録』104‐2〕 10月 10月 2日 羽柴秀吉、島津義久へ勅命により関東を平定した旨を報告、「天下静謐」の勅命を奉じ九州国郡境目の紛争停止を促す。 停戦勧告を遵守しなければ「御成敗」の対象となるべきことも通達。〔「島津家文書」@‐344、「旧記雑録後編」A‐91〕 10月 6日 羽柴秀吉、入京。 10月 7日 羽柴秀吉、千利休を随行させ参内し、天皇に茶湯を献ず。 10月 7日 本願寺如春(顕如室)、興正寺佐超室が出産したという注進が入ったために摂津国有馬での湯治を終え、夜中に帰寺。 〔『顕如上人貝塚御座所日記』〕 10月 8日 羽柴秀吉、本願寺顕如へ摂津国有馬湯治での土産栗1篭を謝す。〔「本願寺文書」三〕 10月 8日 本願寺顕如、摂津国有馬での湯治を終え、帰寺。〔『顕如上人貝塚御座所日記』〕 10月 8日 伊達輝宗、伊達政宗に銃殺される。〔『日本史人物生没年表』〕 10月 8日 二本松義継、伊達政宗に銃殺される。〔『日本史人物生没年表』〕 10月20日 島津義久、羽柴秀長へ羽柴秀吉書状についての返答を細川幽斎を経由して通知する旨を取り成すよう依頼。〔「旧記雑録後編」A‐97〕 10月23日 羽柴秀吉、大坂城に帰城。 10月 中 「ね(北政所)」、本願寺の上揶カで摂津国有馬湯治での土産を謝す。〔「本願寺文書」〕 11月 11月17日 羽柴秀吉、石川数正へ岡崎出奔を喜び津田隼人佐・富田知信を出迎えに派遣。〔「稲村文書」〕 11月18日 足利義昭、島津忠平(義弘)へ「義」字を授与し忠功を促す。 詳細は毛利輝元に伝達させる。〔「島津家文書」A‐640、「旧記雑録後編」A‐104〕 11月21日 羽柴秀吉、京都泉涌寺へ朱印状にて494石を寺領として宛行う。〔『古文書類纂』「泉涌寺文書」〕 11月21日 羽柴秀吉、京都知恩院へ朱印状にて190石を寺領として宛行う。〔『古文書類纂』「知恩院文書」〕 11月21日 羽柴秀吉、京都大徳寺へ判物を以て領知を「改」めて3ヶ所計1540余石を寺領として「寄附」。もし「無沙汰」があれば 「可悔還之状」を通達。〔「大徳寺文書」@‐101〕 11月21日 羽柴秀吉(「秀吉」)、一条内基(「一条殿」)へ判物にて山城国九条内に100石を「進置」き、これを「御領知」とすること を通達。〔「一条家文書」〕 11月21日 羽柴秀吉、九条兼孝(「九条殿」)へ判物にて山城国九条内に340石を「進置」き、「御知行」とすることを通達。 〔「九条家文書」D‐1514(1)〕 11月21日 羽柴秀吉、東福寺へ1584石分の「寺領目録」を下す。〔「九条家文書」E‐1627〕 11月22日 増田長盛(「増田仁右衛門尉長盛」)、河内国金剛寺三綱へ「出来分損免」の件について大谷吉継(「大刑少」)と談義した 結果を算用すべき旨を通知。〔「金剛寺文書」‐344〕 11月22日 河村某(増田長盛家臣)、河内国金剛寺へ「惣中之儀」を「已来可然」くために大谷吉継(「大形少様」)・ 増田長盛(「仁右」)が談義し、「万端馳走」を安堵。大谷吉継(「大形」)・増田長盛(「仁右」)の「黒付」を以て命令を 通達、詳細は満善院より伝達されることを通知。〔「金剛寺文書」‐345〕 11月26日 毛利輝元、小早川隆景へ因島村上氏(村上吉充・村上亮康)の内証を了承するにあたり 聊かも忘却の無き様に気遣うことを指示。〔「村上文書」一〕 11月29日 畿内隣国の範囲で大地震が発生。羽柴秀吉、近江国に滞在している〔「宇野主水記」〕 12月 12月 吉日 羽柴秀吉・北政所、摂津国有馬湯山薬師堂および本尊を新築し、まもなく湯治に訪れる。羽柴秀吉、有馬湯山の年寄衆を面謁し 「古之系図」に関して談合す。談合の内容は、羽柴秀吉は「平家朝臣」であり、有馬湯山の年寄衆はその末流であるということを 公表させることであった。〔『有馬縁起』〕 12月 7日 羽柴秀吉、大友義統へ島津氏が織田信長の下知による豊薩和睦を破棄し大友氏領国に乱入したため四国・西国の軍勢を派遣したが 島津氏に敗北した旨、この上は大友氏・毛利氏の和睦を締結するため宮木宗賦・安国寺恵瓊を派遣したこと、 島津氏に対する停戦命令の返事によっては四国・西国の軍勢に毛利輝元・羽柴秀長を先勢として派遣し、 羽柴秀吉(「殿下」)は見物するため関戸辺りまで動座する予定、「八幡大菩薩」が大友宗麟・大友義統を見放さないことを通知。 詳細は松井友閑・千利休に伝達させる。〔「大友家文書録」B‐1944〕 12月10日 羽柴秀勝(於次、織田信長4男)、丹波国亀山城で病死。〔『日本史人物生没年表』〕 12月13日 近衛信尹(「信輔」)、北郷忠虎へ公家衆(「堂上衆」)が邸宅を禁裏近辺へ移転し繁忙のため古川宗忍を派遣した旨を報じ、 移転に際しての馳走を謝す。 詳細は進藤長治に伝達させる。〔「旧記雑録後編」A‐113〕 12月13日 近衛信尹(「信輔」)、肝付兼盛へ公家衆(「堂上衆」)が邸宅を禁裏近辺へ移転し繁忙のため古川宗忍を派遣した旨を報じ、 移転に際しての馳走を謝す。 詳細は進藤長治に伝達させる。〔「旧記雑録後編」A‐221〕 12月13日 近衛信尹(「信輔」)、新納忠元へ公家衆(「堂上衆」)が邸宅を禁裏近辺へ移転し繁忙のため古川宗忍を派遣した旨を報じ、 移転に際しての馳走を謝す。 詳細は進藤長治に伝達させる。〔「旧記雑録後編」A‐110〕 12月13日 進藤長治、新納忠元へ近衛信尹が禁裏近辺へ邸宅を移転した旨、繁忙のため古川宗忍を派遣した旨、 移転に際する馳走への謝意を通知。〔「旧記雑録後編」A‐111〕 12月13日 進藤長治、肝付兼盛へ近衛信尹が禁裏近辺へ邸宅を移転した旨、繁忙のため古川宗忍を派遣した旨、 移転に際する馳走への謝意を通知。〔「旧記雑録後編」A‐222〕 12月13日 島津義久、九州へ上陸した毛利輝元へ返書を遣わす。 去春の柳沢元政が足利義昭からの上使として薩摩国に下向したことについて真連坊頼俊を派遣すること、 詳細は真連坊頼俊より伝達することを通知。〔「旧記雑録後編」A‐112〕 12月19日 一柳直次(「一柳勘左衛門」)、京都大徳寺納所禅師へ大宮郷の一職と北山内の寺領分について羽柴秀吉「御朱印」によって規定 された「高頭」の不足分にの件で「もどり橋」の面にて15石分を渡し、羽柴秀吉「御朱印之都合無相違」ということで寺納したこ とを確認。また今後の一柳直次は微力ではあるが(「於拙者式」)「相応之御用等被仰付」たので疎略にしない旨を通知。 〔「大徳寺文書」@‐100〕 12月19日 一柳直次(「一柳勘左衛門」)、京都大徳寺納所禅師へ大宮郷の一職と北山内の寺領分について羽柴秀吉「御朱印」によって規定 された「高頭」の不足分にの件で「もとり橋」の面にて15石分を渡し、羽柴秀吉「御朱印之都合無相違」ということで寺納したこ とを確認。また今後の一柳直次は微力ではあるが(「於拙者式」)「相応之御用等被仰付」たので疎略にしない旨を通知。 〔「真珠庵文書」@‐43」〕 12月22日 一柳直次、泉涌寺へ検地後の境内今熊野一職および横大路郷を羽柴秀吉「御判」の通り渡す旨を通達。 〔『古文書類纂』「泉涌寺文書」〕 12月26日 羽柴秀吉、摂津国有馬湯山へ地子銀子の請取状を発給。〔「松下茂氏所蔵文書」〕 この年 織田信雄(「平信雄」)、正三位に昇進。〔『公卿補任』〕 戸沢政盛、出羽国に誕生(異説1586年)。〔『日本史人物生没年表』〕