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天正12(1584)年 1月 1月11日 安国寺恵瓊(「安国寺恵瓊」)、国元の児玉元良(「児三右」)・「兒市」・井上春忠(「井又右」)らへ羽柴秀吉と 毛利氏間の境界について、羽柴秀吉(「筑州」)の下向予定と蜂須賀正勝(「蜂彦」)・黒田孝高(「黒官」)が諸城・人質を 受け取ること、羽柴秀吉の人物について「近年信長之下ニても羽柴羽柴と申」すほど重用された事例をを通知し、境界解決方法 を説く。また羽柴秀吉(「秀吉」)の雑賀征伐陣触が発せられたことを通知し善処を促す。〔「毛利家文書」B‐863〕 2月 2月 1日 羽柴秀吉、入京。 2月 4日 羽柴秀吉、丹波国へ下向。 2月 6日 羽柴秀吉、入京。 2月 8日 羽柴秀吉、近江国坂本に下向。 2月19日 羽柴秀吉、入京ついで大坂に帰還。 2月17日 徳川家康(「源家康」)、従四位下に昇進。〔『公卿補任』〕 3月 3月 4日 脇坂安元、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕 3月 6日 織田信雄、羽柴秀吉に通じた嫌疑で三家老を殺害。〔「土佐国古文叢」‐1283〕 3月 6日 津川玄蕃助・浅井新八・岡田長門守、長島城天守において羽柴秀吉へ内通した嫌疑で織田信雄より生害の命令を受ける。 〔「土佐国古文叢」‐1285〕 3月 7日 織田信雄、香宗我部親泰へ羽柴秀吉が「天下之儀」を恣意に任せていることを述べ、羽柴秀吉に意を通じた織田信雄家老三名を成敗 したことを通知、香宗我部親泰へ上洛要請の覚悟をするよう告知。詳細は織田信純に伝達させる。 〔「土佐国古文叢」‐1283〕 3月 7日 織田信純、香宗我部親泰へ織田信雄が家老の津川玄蕃助・浅井新八・岡田長門守3名を自害させたこと、織田信雄が徳川家康 と同盟した旨を長宗我部元親に取り次ぐよう依頼。〔「土佐国古文叢」‐1285〕 3月 8日 羽柴秀吉、織田信雄・徳川家康の挙兵を知る。 3月10日 羽柴秀吉、数万の軍勢を率いて入京。 3月11日 羽柴秀吉、坂本へ下向。 3月13日 徳川家康、清洲城において織田信雄と会見し羽柴秀吉迎撃態勢を整える。 3月18日 羽柴秀吉、毛利広盛へ毛利秀頼と相談して人質を提出した忠節を賞し、一両日中に面謁する意志を伝達。〔「毛利文書」‐19〕 3月21日 羽柴秀吉、美濃国に進軍。 3月22日 羽柴秀吉、藤井勝助へ一揆鎮圧を命令。〔「近藤文書」‐3〕 3月22日 羽柴秀吉、美濃国河渡・呂久・尻毛・木田各所へ川渡及び兵粮米の搬出に関する指示を下す。 詳細は佐藤主計・春日小左衛門尉に伝達させる。〔「馬淵文書」‐3〕 3月23日 羽柴秀吉、小牧の戦の当初に養徳院(信長乳母、池田恒興母)へ池田恒興・池田元助・池田長吉の戦功を賞し、領地を与えること を通知。〔「原文書」〕 3月24日 龍造寺隆信、戦死。〔『日本史人物生没年表』〕 3月27日 羽柴秀吉、木曽川を渡河して尾張国に進軍。 3月28日 羽柴秀吉、小牧山の北東にある楽田に移陣。 3月28日 徳川家康、小牧山に布陣。 3月29日 織田信雄、小牧山に移陣。 3月 日 羽柴秀吉、美濃国崇福寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「崇福寺文書」‐18〕 3月 日 池田恒興、美濃国西圓寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「圓徳寺文書」‐5〕 3月 ? 宮本武蔵、美作国か播磨国で誕生(異説1585年)。〔『日本史人物生没年表』〕 4月 4月 1日 羽柴秀吉、小牧の陣所を撤退。〔「土佐国古文叢」‐1286〕 4月 1日 羽柴秀吉、「御預殿(?)」へ 「松九次」を派遣し小牧山の戦況を報告。〔「大石氏蒐集文書」‐1〕 4月 3日 羽柴秀吉、尾張国から西方へ出馬し美濃国加賀野井城・奥城・竹鼻城を包囲。〔「諸将感状下知状并諸士状写」〕 4月 8日 羽柴秀吉(「秀吉」)、下間頼廉(「下間刑部卿法眼」)へ今度の柴田勝家(「柴田」)の江北方面進出に際し、加賀国に 於いて「一揆」蜂起を発動し羽柴秀吉に味方する旨を申し入れてきたことを賞す。また、本願寺が忠節を尽くした場合は加賀国 を織田信長「御朱印」に任せて安堵することを約束す。〔「本願寺文書」〕 4月 9日 羽柴秀次・池田恒興・森長可ら、徳川家康本国の三河侵入を図るが途中の長久手において徳川家康の奇襲により惨敗する。 これにより、池田恒興父子、森長可が戦死。〔「家忠日記」〕 4月 9日 徳川家康、岩崎口において池田恒興・池田元助・森長可を討ち取る。〔「土佐国古文叢」‐1286〕 4月 9日 池田恒興、長久手の戦で戦死。〔『日本史人物生没年表』〕 4月 9日 森長可、長久手の戦で戦死(異説4月8日)。〔『日本史人物生没年表』〕 4月10日 徳川家康、本願寺へ今度織田信雄(「信雄様」)も上洛は本意であること、上坂する事に関しては本願寺を先規の如く安堵し てもらうためであり、また加賀国は「信長如御判形」の如く安堵する旨を使者を通じて通達。〔「大谷派本願寺文書」〕 4月11日 羽柴秀吉、養徳院(信長乳母)へ池田恒興・池田元助戦死の愁歎を慰労。〔「池田文書」〕 4月13日 羽柴秀吉、木曽川を越えて出陣し犬山城を攻略。〔「諸将感状下知状并諸士状写」〕 4月13日 羽柴秀吉軍、尾張国に於いて敗戦。小早川秀包(「元総」)、羽柴秀吉(「羽筑」)と共に退却。〔「山内首藤家文書」‐295〕 4月17日 蒲生賢秀、没。〔『日本史人物生没年表』〕 4月23日 熊谷信直(「伊豆守信直」)、山内隆通(「隆通」)へ毛利輝元(「郡山」)から吉川元春(「元春」)への書状の本書は 熊谷信直が所持していること、出雲国富田の状況、備中国猿懸城普請のこと、播磨国三木滞在中の穂田元清からの去13日の 尾張国に於ける羽柴秀吉(「羽筑方衆」・「羽柴方之宗徒之衆」)の敗戦の様子、小早川秀包(「元総」)は羽柴秀吉(「羽筑」)と共 に退却したという風聞を通知。〔「山内首藤家文書」‐295〕 4月25日 土方雄久(「雄良」)、高木貞利へ今尾を本知とする織田信雄御判形を下す旨を通知。〔「高木文書」‐10〕 4月30日 本多正信、徳川家康と長宗我部元親の交渉の仲立ちをしていた香宗我部親泰へ好を通ず。〔「土佐国古文叢」‐1276〕 5月 5月 3日 織田信雄、香宗我部親泰へ羽柴秀吉と尾張国犬山において対陣し、美濃国においては、 池田恒興父子・森長一らを討ち取った旨を通知。〔「土佐国古文叢」‐1262〕 5月 7日 織田信純、香宗我部親泰へ長宗我部元親「誓詞」を小牧在陣の織田信雄・徳川家康へ進上したこと、 4月9日に羽柴秀吉軍の池田恒興・池田元助父子・森長可ら「随一之者共」を討ち捕らえたことを通知。 速やかに摂州・播州を制圧することを依頼。〔「土佐国古文叢」‐1286〕 5月11日 小堀三右衛門尉、播磨国清水寺へ懸茶について羽柴秀吉から指示無しの状態にあったのを、 それについて羽柴長秀(秀長)が上申したので安心するよう通知。〔「清水寺文書」九〕 5月14日 吉川元春(「駿河守元春」)、山内隆通(「隆通」)へ尾張国に於ける戦況を通知。羽柴秀吉(「羽筑」)は犬山へ「退陣」した 旨などが報じられた。〔「山内首藤家文書」‐299〕 5月19日 羽柴秀吉、鹽田長左衛門尉へ小牧・長久手の戦況を通知。〔「鹿野文書」‐1〕 5月21日 織田信雄、高木貞利・高木貞俊・高木貞秀・高木貞友へ本知分および駒野手寄引合として 10000貫文を宛行い軍忠を促す。〔「東高木文書」‐8〕 5月24日 土方雄久、高木貞利・高木貞俊・高木貞秀・高木貞友へ御扶持方御夫の配分を通知。玉薬の進上を命ず。〔「高木文書」‐11〕 5月28日 大友義統、龍造寺隆信を肥前国高来・島原で撃破した島津義久へ「定家卿真筆」の新勅撰集(『新古今和歌集』か?)1冊を贈答。 詳細は称名寺其阿に伝達させる。〔「島津家文書」A‐1115〕 6月 6月 4日 羽柴秀吉、佐竹義宣へ長久手戦における自軍の絶対的優勢を宣伝報告。〔「諸将感状下知状并諸士状写」〕 6月 7日 羽柴秀吉、前田利家へ美濃国竹鼻城の水攻めの状況を報告。〔「加能越古文叢」〕 6月12日 羽柴秀吉、伏屋市兵衛尉へ命令していた伏屋城留守居の任務を賞し、池田輝政を経て120貫を宛行う。〔「伏屋文書」‐4〕 6月13日 羽柴秀吉、軍勢を尾張国に留め大垣城に退く。 6月21日 羽柴秀吉、近江国佐和山に到着。 6月21日 羽柴秀吉、毛利広盛へ忠節により新知及び本知都合2660貫文を宛行う。〔「毛利文書」‐17〕 6月21日 羽柴秀吉、毛利広盛へ知行方目録を下す。〔「毛利文書」‐18〕 6月22日 徳川家康、高木貞利へ羽柴秀吉軍の動向注進を賞し、間もなく蟹江城が陥落する旨を通知。〔「高木文書」‐12〕 6月27日 羽柴秀吉、近江国坂本に到着。 6月28日 羽柴秀吉、大坂城に帰還。〔「兼見卿記」〕 6月 日 羽柴秀吉、尾張国竹鼻惣町中へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「圓覚寺文書」‐5〕 6月 日 羽柴秀吉、美濃国伏屋郷へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「伏屋文書」‐5〕 7月 7月 8日 筒井順慶、病状が思わしくなく在京して治療にあたる。〔『多聞院日記』〕 7月 9日 羽柴秀吉、大坂を発す。 7月 9日 興福寺、筒井順慶の病平癒祈祷を興行。〔『多聞院日記』〕 7月17日 細川信良、香宗我部親泰へ内々の使者を長宗我部元親に派遣するので取り成しを依頼。〔『香宗我部家証文』四〕 7月18日 羽柴秀吉、美濃国岐阜城に入城。 7月18日 羽柴秀吉(「羽柴筑前守秀吉」)、京都大徳寺へ犯過人が「遁世」と号して大徳寺に押し入ることを禁ず。 〔「大徳寺文書」@‐97〕 7月19日 織田信純、香宗我部親泰へ長宗我部元親からの使者の報告を受け、近日羽柴秀吉が美濃国へ出陣してきたので、 織田・徳川連合軍の内情に関する情報は省略する旨を内々に通知。〔「土佐国古文叢」‐1287〕 7月19日 興福寺、筒井順慶の病平癒祈祷を興行。蓮成院でも祈祷が行われる。〔『多聞院日記』〕 7月29日 羽柴秀吉、大坂に帰還。 7月 晦日 織田信雄、高木貞利・高木貞秀・高木貞俊・高木貞友へ要求された制札を遣わし、 さらに敵方(羽柴秀吉軍)の様子を報告するよう指示を下す。〔「東高木文書」‐9〕 7月 晦日 羽柴秀吉(筑前守秀吉)、河内国金剛寺へ音信の「樽子」1荷を謝し、詳細は中江右近兵衛(「中江左近兵衛」:誤りか)に伝達 させる。〔「金剛寺文書」‐339〕 7月 日 羽柴秀吉(「筑前守」)、京都三十三間堂へ全5ヶ条の「条々」を下す。〔「蓮華王院文書」‐8〕 7月 日 池田輝政、美濃国加納へ全3ヶ条の掟(楽市楽座令)を下す。〔「圓徳寺文書」‐10〕 8月 8月 2日 羽柴秀吉、摂津国有馬に湯治。〔『顕如上人貝塚御座所日記』〕 8月 2日 羽柴秀吉、碓井久次へ天野樽1荷の献上を謝す。〔「近江南部文書」二〕 8月 2日 上杉景勝、信濃国へ出馬。〔『上杉家記』二十九〕 8月 3日 前田玄以、南禅寺へ門前境内人足諸役の免除と従来通りに寺領安堵を下す。〔「南禅寺文書」〕 8月 3日 本願寺顕如、羽柴秀吉の摂津国有馬での湯治に対し河野越中を派遣。 音信および千疋を湯治見舞いとして贈る。〔『顕如上人貝塚御座所日記』〕 8月 4日 羽柴秀吉、池田輝政へ美濃国武儀郡関の地の給付を約す。〔「備前池田文書」二〕 8月 4日 筒井順慶、京都より大和国へ下向。〔『多聞院日記』〕 8月 5日 丹羽長秀、溝口秀勝へ4万4千石の領知を宛行う。〔「溝口文書」〕 8月 5日 徳川家康、信濃松本の小笠原貞慶が木曽谷に侵攻したことを受け、保科正直へ菅沼定利と相談し木曽義昌への攻撃を命令。 〔「保科家文書」〕 8月 6日 前田玄以(「民部卿法印玄以」)、禁裏「六町中」へ諸公事の免除を下す。〔「川端道喜文書」‐5〕 8月 6日 丹羽長秀、越前国坪江郷二面村を知行せしむ。〔『武家手鑑』‐下24〕 8月 7日 本願寺顕如、羽柴秀吉の大坂移徙に対して太刀1腰。馬代3千疋を贈答。本願寺教如は羽柴秀吉へ太刀1腰・馬代1疋を贈答。 使者は川那部豊前が派遣される。〔『顕如上人貝塚御座所日記』〕 この頃 羽柴秀吉、虫気が治癒する。〔『武家手鑑』‐下14〕 8月 8日 羽柴秀吉、大坂城(「大坂新造」)へ正式に移徙。〔『顕如上人貝塚御座所日記』〕 8月 8日 徳川家康、讃岐国を攻略した香宗我部親泰へ淡路国への進出を奨励し、秋には徳川軍も(京都を目指して)出動する予定を 通知し、詳細は本多正信に伝達させる。〔「土佐国古文叢」‐1272〕 8月 9日 本多正信、阿波国十河城を攻略し淡路国へ進出を目論む香宗我部親泰へ美濃国へ進出してきた羽柴秀吉軍を打ち破り、秋には京都 を目指して進軍する予定を通達。〔「土佐国古文叢」‐1277、『香宗我部家証文』五〕 8月11日 羽柴秀吉、一柳直末へ山城国内蔵入地代官の内訳報告を命令。〔「伊予小松一柳文書」〕 8月11日 羽柴秀吉、大坂から入京。 8月11日 筒井順慶、神経性胃疾で没。〔『日本史人物生没年表』「大和平端村順慶祠堂内五輪塔」「筒井順慶位牌」〕 8月12日 羽柴秀吉、長浜町人中へ鋤・鍬を尾張国犬山へ運送することを命令。「奉行」として石田正澄を派遣。 〔「下郷伝平氏所蔵文書」〕 8月13日 羽柴秀吉、近江国坂本に下向。 8月14日 織田信雄、美濃国脇田の吉村氏吉へ羽柴秀吉出陣の報を伝達し、守備を厳重にするよう命令。〔「肥前吉村文書」〕 8月15日 羽柴秀吉、美濃国大垣城に入城。〔「中村不能斎採集文書」九、『上杉家記』二十九〕 8月15日 羽柴秀吉、古田重勝・安田主計へ自身の美濃国大垣入城を報じ、18日には羽柴秀長を派遣する旨、船橋には山崎片家・池田秀雄 多賀秀種を派遣すること、来18日には古田重勝・安田主計と合流する予定を通知。〔「中村不能斎採集文書」九〕 8月17日 羽柴秀吉、前田玄以を通じ京中寺社へ指出の徴集を命令。〔『兼見卿記』〕 8月17日 羽柴秀吉、養徳院(信長乳母、池田恒興母)へ美濃国深瀬・高富に計800貫文を御「堪忍分」として給付。〔「池田家文書」〕 8月17日 羽柴秀吉、養徳院(信長乳母、池田恒興母)へ知行を下すことを通知。〔『池田家履歴略記』二〕 8月17日 羽柴秀吉、一柳直末へ美濃国木田渡の守備を命令。〔「伊予小松一柳文書」〕 8月17日 徳川家康、羽柴秀吉出陣に際し吉村氏吉へ美濃国脇田の守備厳重を激励。〔「肥前吉村文書」〕 8月18日 羽柴秀吉、須田満親(上杉家臣)へ答書として美濃国大垣城着陣を報告、徳川家康の三河国襲撃予告を通知。 〔『上杉家記』二十九〕 8月18日 羽柴秀吉、近江国長浜惣中へ「新銭」鋳造を禁止。〔「近江南部文書」六〕 8月18日 石田正澄・豊田定長、近江国長浜惣中へ「新銭」鋳造禁止の羽柴秀吉「御朱印」の旨を、羽柴秀吉「御諚」により通達。 〔「近江下村文書」〕 8月18日 徳川家康、香宗我部親泰へ羽柴秀吉と美濃国で対峙している旨を報告。近日中に羽柴秀吉軍を討ち果たす意向であることを通達する。 〔「土佐国古文叢」‐1273、『香宗我部家証文』五〕 8月18日 井伊直政、香宗我部親泰へ羽柴秀吉と美濃国で対峙している旨を報告し、秋には徳川軍が入洛する予定であること、 また織田信雄「御判」と徳川家康の「一行」を以て三ヶ国(淡路国・摂津国・播磨国か?)を進上し、長宗我部元親の身上を 安堵する意向であることを通知。〔「土佐国古文叢」‐1275、『香宗我部家証文』五〕 8月18日 織田信雄、吉村氏吉へ羽柴秀吉の美濃国大垣着陣を報じ、羽柴秀吉の移動次第状況報告を上申するよう命令。〔「肥前吉村文書」〕 8月18日 長宗我部元親、金子元宅へ讃岐国出陣を止め、毛利輝元の伊予国出兵に備えさせる。〔「土佐金子文書」〕 8月19日 施薬院全宗(「徳雲軒」)、片岡左衛門尉へ山城国狭山郷について羽柴秀吉上洛後に浅野長政を通じ指示を下す旨を通達。 〔「山城田中文書」〕 8月19日 前田玄以、山城国上醍醐寺へ柴木盗人を寺法に基づき処分したこと、そして柴木売買を許可。〔「報恩寺文書」〕 8月19日 杉原家次、中村五左衛門尉へ丹波国天田郡の地を給付。〔「摂津天城文書」〕 8月19日 織田信雄、阿波国十川城を攻略した香宗我部親泰へ淡路国侵攻を勧める。さらに羽柴秀吉と美濃国での対戦状況を報告。 〔「土佐国古文叢」‐1263、『香宗我部家証文』四〕 8月19日 織田信雄、高木貞利・高木貞友へ一向宗徒の法泉寺空明・太田金七郎を派遣し後援させる旨を通知。〔「法泉寺文書」〕 8月19日 徳川家康、香宗我部親泰へ美濃国の羽柴秀吉軍を退治する予定を通知。油断無く四国制圧を推進すべきを奨励。 〔「土佐国古文叢」‐1274、『香宗我部家証文』五〕 8月19日 本多正信、「誓詞」を送付してきた香宗我部親泰へ、徳川軍は伊勢国へ進軍する予定であったが、羽柴秀吉軍の美濃国進出に よって延引せざるを得ず、長宗我部軍の淡路国・摂津国・播磨国の制圧を激励。 〔「土佐国古文叢」‐1278、『香宗我部家証文』五〕 8月20日 織田信純、香宗我部親泰へ阿波国十川城攻略を賞す。さらに美濃国における羽柴秀吉との対峙状況、北陸情勢などを報告。 〔「土佐国古文叢」‐1264、『香宗我部家証文』四〕 8月20日 佐々成政、石塚資久へ全160俵の知行方目録を下す。〔「社家石塚文書」〕 この頃 羽柴秀吉、陣立を発表。〔「秋田文書」三〕 8月21日 羽柴秀吉、蛛庵不迅の下着を報じてきた石川小七郎へ厳重なる守備を命令。〔「駿河望月文書」〕 8月21日 細川藤孝(「幽斎」)、里村昌叱・津田宗及らと丹後国田辺で連歌会を催す。〔『細川家記』六〕 8月21日 小早川隆景、杉原就良へ伊予国新居郡御代島の構を陥落させた戦功を賞す。また「大筒」の配備はそのままとすべきことを 命令。〔『萩藩閥閲録』六十八〕 8月21日 前田菊姫(前田利家娘、羽柴秀吉養女)、没す。〔近江国西教寺所蔵「前田菊姫画像」〕 8月25日 羽柴秀吉、長浜鍛冶中へ山田又右衛門尉・加藤小介より鉄10駄を受け取り9月10日までに鍬を製作するよう命令。 〔「川路孝吉氏所蔵文書」〕 8月25日 毛利輝元、龍造寺政家へ足利義昭上京に関する御内書が発せられ、上使として柳沢元政が伝達することを通知。 〔「龍造寺家文書」‐123〕 8月26日 加藤小介、長浜鍛冶中へ早急なる鍬製作という羽柴秀吉命令を伝達。〔「川路孝吉氏所蔵文書」〕 8月26日 徳川家康、織田長益・滝川雄利・中川祐忠・土方雄良・飯田半兵衛尉へ尾張国での戦況を問う。〔『譜牒余録』〕 8月28日 蛛庵不迅・石川小七郎ら、尾張国奈良・赤見など数ヶ所を放火。〔「山田覚氏所蔵文書」〕 8月28日 前田利家、青木善七郎(能登国石動山守将)へ兵粮所として能登国多根村などを宛行う。〔『加能越古文叢』〕 8月 羽柴秀吉、比叡山へ全3ヶ条の「定」を下す。〔「叡山文庫所蔵制札」〕 8月 稲葉一鉄・稲葉貞通、某寺(常在寺カ)へ今後とも織田信長(「上様」)・織田信忠(「城介様」)以来と同様に別儀無き旨 を通知。〔「常在寺文書」‐14〕 8月 吉日 浅野長政(「長吉」)、日吉社へ社領比叡辻分を安堵。〔『桂林集』坤〕 9月 9月 1日 羽柴秀吉、蛛庵不迅・石川小七郎へ尾張国奈良・赤見など数ヶ所への放火を賞し、徳川家康の軍勢が一宮を出陣した報を通知。 〔「山田覚氏所蔵文書」〕 9月 1日 前田玄以、妙法院へ東山鹿谷の諸役人足を安堵。〔「妙法院文書」〕 9月 1日 前田玄以、妙法院へ門前菅屋の諸役人足を安堵。〔「妙法院文書」〕 9月 1日 徳川家康、尾張国黒田の沢井雄重へ羽柴秀吉軍との交戦を賞す。〔『譜牒余録』〕 9月 2日 伊藤秀盛、近江国蒲生郡今堀村より指出を徴す。〔「日吉神社文書」七〕 9月 3日 羽柴秀吉(「秀吉」)、大和国長谷寺へ観音堂造営作料を「禁裏様御修理御作料」と同前に遣わす旨を通達。 〔「長谷寺文書」〕 9月 3日 前田玄以、羽柴秀吉の命令を受け、京都二条妙顕寺へ替地を与えて地子・諸役を免除。〔「妙顕寺文書」二〕 9月 3日 前田玄以、北野松梅院へ北野社境内の夫役を免除。〔「北野神社古文書」〕 9月 3日 佐々成政、越中国刀利の小野宗右衛門へ300俵の地を給付。〔『温故足徴』抜粋〕 9月 3日 長宗我部元親、伊予国金子の金子元宅が交替の人質(「証人」)を提出してきたのに答え、 さらに毛利輝元の伊予国出兵状況を報告することを謝す。〔「土佐金子文書」〕 9月 4日 足利義昭、島津義久へ帰洛援助を促すため「康次」の太刀と鞍を贈る。詳細は真木島昭光・一色昭秀に伝達させる。 〔「島津家文書」@‐101、「旧記雑録後編」@‐1439〕 9月 4日 足利義昭、島津義弘へ帰洛援助を促すため島津義久と相談すべきを依頼して肩衣袴を贈る。 詳細は真木島昭光・一色昭秀に伝達させる。〔「島津家文書」@‐102、「旧記雑録後編」@‐1440〕 9月 4日 足利義昭、柳沢元政を派遣して帰洛援助を促した龍造寺政家へ馳走を謝す。詳細は真木島昭光・一色昭秀に伝達させる。 〔「龍造寺家文書」‐122〕 9月 4日 一色昭秀・真木島昭光、足利義昭入洛に関する御内書が発給を受け柳沢元政派遣の際の龍造寺政家による馳走を謝す。 〔「龍造寺家文書」‐124〕 9月 4日 一色昭秀・真木島昭光、足利義昭入洛に関する御内書が発給を受け柳沢元政派遣の際の宗像氏貞による馳走を謝す。 〔「宗像神社文書」四〕 9月 5日 小野木重次(山城国淀守将)、山城国勝持寺の竹木花枝を折り取ることを禁ず。〔「勝持寺文書」一〕 9月 5日 前田利家、羽柴秀吉の意を受け越中国の瑞泉寺顕秀へ帰国を促す。〔「瑞泉寺文書」〕 9月 5日 前田利家、能登国奧郡の百姓へ「奧郡奉行」とした原田又右衛門尉らの麾下に属し、佐々成政水軍に備えることを命令。 〔「前田家所蔵文書」〕 9月 6日 羽柴秀吉、摂津国久宝寺の安井定次へ柘榴・鉄炮薬の献上を謝す。〔「賜蘆文庫文書」三〕 9月 6日 羽柴秀吉、伊勢国山田倉方へ在陣見舞いの白鳥などを謝す。〔「可睡斎文書」一〕 9月 6日 羽柴秀吉、女房いわ(北政所侍女)へ、小牧戦において織田信雄・徳川家康に人質を提出させ講和が成立するので、やがて凱旋 する予定であると通知する。〔「東大史料編纂所所蔵文書」〕 9月 6日 矢野定満、羽柴長秀(秀長)の意を受け播磨国清水寺へ開墾地の指出提出命令を伝達。〔「清水寺文書」八〕 9月 7日 北条氏直、太田越前守へ羽柴秀吉の尾張国出馬を通知。さらに徳川家康への加勢準備を命令。〔「新家勝雄氏所蔵文書」〕 9月 8日 羽柴秀吉、某へ戦場における全3ヶ条の「法度」を発す。 違反者は「八幡大菩薩・秀吉中をたが」うことになると表記。〔「富田仙助氏所蔵文書」〕 9月 8日 矢野定満、播磨国清水寺へ羽柴長秀(秀長)・羽柴秀吉の御前で指出の披露が済んだことを通知。 さらに13日に御陣へ同道すべきことを通達し、必ず丹波国亀山へ立ち寄ることを命令。〔「清水寺文書」九〕 9月11日 羽柴秀吉、播磨国清水寺へ敷地内の竹10分の1の伐採のため金森彦兵衛尉・出月又介を派遣した旨を通達。 〔「清水寺文書」八〕 9月11日 足利義昭、既に幕府復興と偽り北九州出兵に際し島津義久へ大友氏の背後を衝くことを要請。 詳細は毛利輝元・小早川隆景・吉川元春に伝達させる。〔「島津家文書」歴代亀鑑〕 9月11日 一色昭秀・真木島昭光、伊集院忠棟・喜入季久へ足利義昭帰洛に際し毛利輝元が援助していること、 足利義昭は再度島津義久に対し援助要請の「御内書」を発した旨を通達。 詳細は毛利輝元・小早川隆景・吉川元春より伝達させる。〔「旧記雑録後編」@‐1447〕 9月11日 真木島昭光、伊集院忠棟へ島津義久に対する「馬介」1懸の進献披露を依頼。 返礼としての太刀1腰の贈答を謝す。〔「旧記雑録後編」@‐1448〕 9月12日 羽柴秀吉(「筑前守秀吉」)、河内国天野惣中(金剛寺)へ「調略」(調伏のことか)が調えば去年収公した寺領300石を 「寄進」することを通達。〔「金剛寺文書」‐340〕 9月12日 羽柴秀長、美濃国北方西順寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「西順寺文書」‐2〕 9月12日 千利休(「抛筌斎宗易」)、福寿院へ羽柴秀吉から6日に「東国和平」、すなわち織田信雄・徳川家康との和議に及んだ旨を 通知。〔「近江西教寺文書」〕 9月12日 吉川元春・小早川隆景、伊集院忠棟・喜入季久へ足利義昭の帰洛後援情況を報告。 島津氏が足利義昭帰京を妨げる大友氏を撃破するよう出陣することは、足利義昭への帰洛供奉と同等の忠儀であると説く。 〔「旧記雑録後編」@‐1449〕 9月16日 羽柴秀吉(「筑前守秀吉」)、前田利家(「前田又左衛門尉」)へ溝口秀勝(「溝口金右衛門尉」)・村上次郎右衛門尉から 届けられた丹羽長秀(「惟越」)への注進状をこの日酉刻に披見し、末森に於ける合戦で野々村主水らを撃破した手柄を知った こと、羽柴秀吉自身は尾張国へ出陣したことを通知。また丹羽長秀(「越前守」)は来9月20日頃には帰陣する予定であることを 通知。〔「前田育徳会所蔵文書」〕 9月21日 稲葉一鉄、稲葉貞通・某土佐守・稲葉重通・那波和泉守・古江左兵衛尉へこの日の相談の内容について整理し通知。 〔「稲葉文書」‐85〕 9月21日 筒井定次家臣の八条宗祐(「宗祐」)・松田盛勝(「盛勝」)、大和国興福寺供目代へ筒井順昭・筒井順政・ 筒井順慶(「順慶法印」)3代の「御追善」に付き春日大社西屋へ料所の寄進を通達。〔「春日神社文書」‐30〕 9月23日 羽柴秀吉、羽柴秀次へ小牧戦における敗戦を叱責し、詳細を宮部継潤・蜂須賀正勝に通達させる。〔「河井氏聞書」〕 9月28日 近衛信輔、島津義久へ肥後国攻略を祝し、蔭凉軒主である清叔寿泉を下国することを決定。 詳細を紹蔵主に伝達させる。〔「島津家文書」@‐293、「旧記雑録後編」@‐1454〕 9月 前田玄以、京都二条妙顕寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「妙顕寺文書」六〕 9月 日 森忠政、美濃国愚溪寺へ全7ヶ条の禁制を下す。〔「愚溪寺文書」‐2〕 10月 10月 2日 稲葉一鉄、那波直治へ去年の判形によって支配した知行の検地について指示を下す。〔「名和文書」‐1〕 10月 4日 羽柴秀吉、古溪宗陳宛で天正寺敷地境内ならびに船岡山を寄進。〔「大徳寺文書」L‐3243、「真珠庵文書」@‐45」〕 10月 6日 羽柴秀吉、大坂城に帰還。 10月 6日 蘆名盛隆、没。〔『日本史人物生没年表』〕 10月12日 大久保忠隣(「大久保新十郎」)・本多正純(「本多弥八郎」)、波木井四郎左衛門へ甲斐国下条分10貫文・渋沢内1間と 諸役免許を「新給」として領掌する旨を通達。〔「斎藤文書」〕 10月20日 羽柴秀吉、大坂城を発し近江国坂本に到着。 10月23日 織田信雄、法泉寺空明・高木貞利・高木貞秀・高木貞俊・高木貞友へ羽柴秀吉の北伊勢出陣に際して防御を命令。 〔「高木貞一氏文書」、「東高木文書」‐10〕 10月24日 羽柴秀吉、近江国土山に到着。 10月24日 田中吉政、丹波国天寧寺へ往古の旨の通りに諸式免許を安堵。〔「天寧寺文書」‐18〕 10月25日 羽柴秀吉、伊勢国神戸城に進撃。 10月25日 下間頼廉(「刑部卿法眼頼廉」)、能登国鳳至郡の坊主衆中・惣門徒中へ今度の佐々成政(「越中」)蜂起による能登国駐在 の前田利家との「鉾楯」について、前田利家(「前田殿」)が本願寺顕如(「御門跡様」)に各別入魂に接しているので疎略に 思わず「相応之儀」を馳走することが重要であること、「一揆」についてはどんな理由があったとしても「兼而如被仰出候」く 「惣別弓箭之儀堅御停止之事」とされているのであるから、一切同心してはならないことを確認。〔「本誓寺文書」〕 10月28日 羽柴秀吉、丹羽長秀(「惟住越前守」)へ滝川雄利の伊勢国浜田城を攻囲、付城攻略次第に大坂へ帰城予定を通知。 また丹羽長秀が能登国の前田利家に援兵を派遣したことを賞し、この書状を前田利家にも届けるよう指示。〔「溝江文書」〕 10月28日 羽柴秀吉、脇坂安治へ伊賀衆からの人質提出を受け、桑名まで進撃・攻略したことを通知。 さらに伊賀国内の諸「城破却」を命令。「城破却」の遅引は成敗の対象とすべきを通達。〔「脇坂文書」〕 10月 吉日 氏家元政、河内国高瀬へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「金剛寺文書」‐341〕 11月 11月 1日 浅野長政、施薬院全宗(「徳雲軒」)へ山城国狭山郷八幡分は相違無く申し渡したが、田中秀清(石清水八幡宮社家)からは 指出が提出されなかったことを上申。帰陣後に面会を希望。〔「前田家所蔵文書」古蹟文徴十一〕 11月 3日 羽柴秀吉、脇坂安治へ伊賀衆からの人質受理は済んだが「城破却」が不徹底である旨を通知。 羽柴秀吉は近日中に伊賀国へ巡察する予定であるから、それまでに諸城破却の貫徹を促す。〔「脇坂文書」〕 11月10日 前田玄以、山城国大山崎油座へ先規の如く「秀吉被仰付被成御判形」たので洛中洛外商売は従前と相違なき旨を安堵。 〔「離宮八幡宮文書」〕 11月13日 浅野長吉、片岡左衛門尉へ田中秀清(石清水八幡宮社家)の社領山城国狭山郷は稲葉重執に遣わす外に定米160石運上する こと、在所の一円所務・人夫全てを仰せ付けることを通知し、八幡宮領であるから違乱無きよう注意を伝達。 〔「前田家所蔵文書」古蹟文徴十一〕 11月15日 羽柴秀吉、織田信雄と伊勢国桑名の南にある矢田川原において会見し和睦を締結。〔「宗国史」〕 11月17日 羽柴秀吉、伊勢国より近江国坂本に到着。 11月21日 羽柴秀吉、入京。 11月21日 羽柴秀吉(「平秀吉」)、従三位に叙される。〔「足守木下家文書」‐5〕 11月21日 羽柴秀吉(「平秀吉」)、権大納言に就任。〔「足守木下家文書」‐6〕 11月22日 羽柴秀吉、朝廷より従三位・権大納言に叙任される。〔『公卿補任』「兼見卿記」〕 11月27日 羽柴秀吉、大坂城に帰還。 12月 12月 1日 正親町天皇、大徳寺へ「天正寺」勅額を贈る。〔「大徳寺文書」@‐7〕 12月 2日 蜂屋頼隆(「出羽頼隆」)、山内半左衛門へ四良丸之内で100石を知行として扶助。〔「山内長右衛門文書」〕 12月12日 堀秀政、湯治(摂津国有馬か?)から帰宅。〔「多賀文書」一〕 12月17日 羽柴秀吉、入京。 12月18日 羽柴秀吉、大坂に下向。 12月19日 堀秀政、多賀秀種からの湯治(摂津国有馬か?)見舞いに応え、諸将が大坂での元日参賀のために召集を受けている旨などを 通知。詳細は三上小五郎(堀秀政家臣)に伝達させる。〔「多賀文書」一〕 12月24日 堀秀政、前日大坂において多賀秀種・堀三郎左衛門尉の書状を披見し、堀金左衛門・種田助丞の縁辺に関する調儀を指示。 〔「多賀文書」一〕 12月26日 羽柴秀勝(「御次」)と毛利輝元の娘が大坂城内で婚礼の儀を行い、羽柴・毛利両氏の同盟関係が成立。 12月26日 前田玄以(「玄以」)、川端道喜(「道喜」)へ先年の「禁裏様」御築地の「御作事奉行為忠恩」して親子酒役・諸公事役 などの「免許」に相違の無い旨を安堵。〔「川端道喜文書」‐6〕 12月27日 羽柴秀吉、この日を大坂城において元日参賀のため諸将に対し召集予定日とする(〜28日)。〔「多賀文書」一〕 12月28日 一柳直末、片岡左衛門尉へ八幡田中門跡(田中秀清)の山城国狭山郷から浅野長政折紙の通り160石を運上するよう指示。 〔「前田家所蔵文書」古蹟文徴十一〕 12月29日 孝蔵主(羽柴秀吉女官)、蔵入地である摂津国有馬湯山からの地子銀36枚の請取状を発給。〔「浅野文書」〕