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天正11(1583)年 1月 1月10日 細川信良、香宗我部親泰へ改年の吉慶を謝す。〔『土佐国古文叢』二十七〕 1月17日 織田信孝、美濃国養教寺へ全3ヶ条の掟を下す。〔「養教寺文書」‐3〕 1月21日 足利義氏(第5代古河公方)、没。(異説1582年閏12月20日)〔『日本史人物生没年表』〕 1月 日 織田信孝、美濃国善行寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「善行寺文書」‐2〕 1月 山内一豊、長野助市右衛門尉へ江州伊香郡高月内を加増。〔「土佐国古文叢」‐757〕 閏1月 閏1月22日 本願寺顕如、紀伊国鷺森を出発し摂津国有馬へ向かう。〔『顕如上人雑記』〕 閏1月23日 毛利輝元、道安入道へ丹羽長秀の取り合わせを祝し、羽柴秀吉との協議について助言を依頼。〔『武家手鑑』‐下19〕 閏1月24日 本願寺顕如、摂津国有馬へ到着する。〔『顕如上人雑記』〕 閏1月28日 織田三法師丸(織田秀信)、美濃国北加納寺へ新儀諸役を免除。〔「圓徳寺文書」‐8〕 閏1月 日 織田信孝、全3ヶ条の定を下す。美濃国加納町へ諸役免許および郡質・所質の免除を通達。〔「棚橋文書」‐2〕 閏1月 日 織田信孝、美濃国西順寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「西順寺文書」‐1〕 2月 2月10日 羽柴秀吉、伊勢国へ出陣し滝川一益を長島城に攻囲して屈服させる。〔「木村文書」〕 2月10日 本願寺顕如、摂津国有馬湯山を出発。この夜に摂津国神崎から海路で八幡橋本へ到着しここから陸路をとる。 〔『顕如上人雑記』〕 2月11日 近衛前久、島津義弘へ去年6月2日の「於京都不慮之剋」に際し「侫人共」の言動で「牢籠」の立場になった旨、島津義久を 頼り薩摩国下向を意図するも遠国であるため、徳川家康(「徳川三河守」)を頼り遠江国に下向した旨、中央情勢の混沌とした 状況を通知。また近衛前久が所有していた醍醐寺領が横領されたことも触れ、詳細は安養坊・持明院に伝達させる。畿内周辺は 「弓矢之刻」であるため、このような内容の書状であることを述べる。また、自身の出家による判形改を通知。 〔「島津家文書」A‐698・「旧記雑録後編」A‐432〕 2月11日 本願寺顕如、京都に到着。18日まで在京。〔『顕如上人雑記』〕 2月14日 徳川家康(「三河守家康」)、足利義昭「珍簡」(御教書のことか)および織田信雄(「信雄」)・羽柴秀吉(「羽柴」)と 他の織田「家老之衆」の「御請之諸城」を以て毛利輝元(「毛利右馬頭」)へ足利義昭(「公方様」)の「御帰洛」斡旋を行う。 〔「毛利家文書」B‐1014〕 2月16日 羽柴秀吉、桑名城・谷山城・峯城に放火。〔「近藤文書」‐1〕 2月19日 本願寺顕如、宇治を見物した後に奈良へ到着。〔『顕如上人雑記』〕 2月20日 羽柴秀吉、峯城・亀山城・国府城を制圧。〔「近藤文書」‐1〕 2月20日 近衛前久、島津義久へ去年6月2日に織田信長没後に近衛前久自身は「理不尽之風聞」により醍醐山に退隠していたこと、 織田信孝の厚意により美濃国下向を予定するが羽柴秀吉によって京都に留まった旨を報告。 しかし「侫人共」の「讒訴」や「虚名虚説」などに堪えかね島津義久を頼ろうとするが遠国なので叶わず、遠江国の徳川家康を 頼り、徳川家康は近衛前久帰洛の斡旋に尽力してくれたことを通知。将来は島津義久を頼って下向する意向を通知。 詳細は堀池父子に伝達させる。〔「島津家文書」A‐669、「旧記雑録後編」@‐1324〕 2月20日 近衛前久(「入相」)、島津義弘へ去年6月2日の織田信長死後に近衛前久自身は「侫人共」が連々に偏執を以て悪しき様を 申し立てたので、「牢籠」の身になったこと、島津義久を頼ろうとしたが遠国のため東国五ヶ国を領有する徳川家康を頼り、 徳川家康の尽力によって帰洛を図っている旨を報告。また近衛前久が所有していた醍醐寺領が横領されたことも触れ、詳細は 安養坊・持明院に伝達させる。更に近衛前久は法体になり「判形改」をした旨を通知。〔「島津家文書」A‐698〕 2月20日 近衛前久、北郷時久へ醍醐山に隠棲していた旨を通知。更に本能寺の変の後に近衛前久自身は法体となり判形改をした旨を 通知。〔「旧記雑録後編」@‐1326〕 2月25日 本願寺顕如、紀伊国鷺森に帰寺。〔『顕如上人雑記』〕 2月25日 小笠原長時、陸奥国会津において家臣によって謀殺。〔『日本史人物生没年表』〕 2月28日 羽柴秀吉、在陣見舞を贈ってきた藤井親秀へ伊勢国平定の状況を報告。〔「近藤文書」‐1〕 2月28日 柴田勝家、羽柴秀吉に抗して柳ヶ瀬に布陣。 3月 3月12日 羽柴秀吉、近江国佐和山ついで柳ヶ瀬に進軍し柴田勝家軍と対峙。 3月13日 蜂屋頼隆、越前国三ヶ市町の越後屋へ諸役を永代「ゆるす」。〔「奥富市右衛門文書」〕 3月13日 石田三成(「石田佐吉三也」)、近江国称名寺へ柳瀬配備の者からの連絡で称名寺使者の口上内容が役に立ったことを謝し、 詳細は追々通知する旨を伝達。また羽柴秀吉(「筑州」)より御直札で通知するので石田三成等からの直札送付を通達。 〔「称名寺文書」〕 3月16日 羽柴秀吉、美濃国岐阜城において再度挙兵した織田信孝に対し大垣城に入城。 3月17日 羽柴秀吉、賤ヶ岳を確保。〔「木村文書」〕 3月17日 羽柴秀吉、須田満親へ賤ヶ岳の対陣に至る状況を報告し、上杉景勝に柴田勝家の背後を襲撃するための越中国出馬を要請。 〔「木村文書」〕 3月19日 稲葉貞通、加納悦右衛門へ後日知行を安堵する旨を下す。〔『美濃明細記』六〕 3月 ? 稲垣重綱、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕 4月 4月 8日 羽柴秀吉、下間頼廉へ柴田勝家の江北境目出陣に際し加賀国門徒一揆に背後を脅かすよう依頼し、作戦成功の場合は 羽柴秀吉「御朱印」により加賀国を安堵する旨を通知。〔「本願寺文書」〕 4月12日 羽柴秀吉、小早川隆景(「小早川左衛門佐」)へ毛利輝元(「輝元」)から要請があった柴田勝家(「柴田修理亮」)との 対陣についての状況を報告。「東者津軽合浦外浜」までも敵無しとい宣伝する。〔『萩藩閥閲録』‐「毛利伊豆家文書」〕 4月20日 佐久間盛政、賤ヶ岳の大岩山を守備する中川清秀を奇襲し戦死させる。〔『日本史人物生没年表』〕 4月20日 吉川元春(「元春」)・小早川隆景(「隆景」)・福原長尭(「福原」)、毛利氏の方針として羽柴秀吉(「羽柴」)へ 「和談」交渉の使者を派遣したところ、柴田勝家(「柴田」)が羽柴秀吉(「羽柴」)と「対陣」する事態であり、 しかも柴田勝家(「柴田」)より毛利氏が「御入洛」しての合力要請がなされたことにつき談合す。 毛利氏としては羽柴秀吉・柴田勝家の「強弱不知」という状況であったため、両方に書状を遣わしてしばしの傍観を決定。 〔「毛利家文書」@‐349〕 4月21日 羽柴秀吉、佐久間盛政を賤ヶ岳において撃破し柴田軍を追撃。 〔「毛利家文書」B‐947、「大友家文書録」B‐2044、「小早川家文書」〕 4月21日 羽柴秀吉、高木貞利へ柴田勝豊・佐久間盛政等を撃破し先鋒部隊が越前国府中まで進撃した旨、明日には羽柴秀吉自身も 越前国府中迄進撃する予定を通知。〔「高木文書」‐8〕 4月21日 羽柴秀吉、越前国府中に前田利家を降伏させる。 4月22日 羽柴秀吉、越前国府中に進軍。〔「毛利家文書」B‐947、「小早川家文書」〕 4月23日 羽柴秀吉、柴田勝家を居城である北ノ庄城に包囲。〔「大友家文書録」B‐2044〕 4月24日 柴田勝家、辰下刻に自ら北庄城に放火し自刃。 〔「毛利家文書」B‐947、「大友家文書録」B‐2044、「秀吉事記」〕 4月24日 小谷の御方(織田信長妹)、北庄城において自害。〔「大友家文書録」B‐2044、『日本史人物生没年表』〕 4月25日 羽柴秀吉、加賀国へ進入。〔「大友家文書録」B‐2044〕 4月26日 羽柴秀吉、小早川隆景へ北ノ庄城陥落と北陸の仕置終了後に上洛する旨を報告。〔「小早川家文書」〕 4月27日 羽柴秀吉(「羽柴筑前守秀吉」「秀吉」)、毛利輝元(「毛利右馬頭」)へ贈答品の礼を述べ、伊勢方面および北国方面での 戦況を見せるために毛利使者を留めていること、また羽柴秀吉自身は越中国金沢に到着し佐久間盛政(「佐久間」「玄蕃」)と 柴田勝家(「柴田」)を打倒して戦後処理を行い、5月10日頃に上洛する旨を通知。〔「毛利家文書」B‐947〕 4月27日 柴田勝家、不破光治・不破彦三郎・村山又次郎・原彦次郎へ柳瀬表への合力を謝す。〔「村山文書」‐12〕 (柴田勝家は4月24日に自刃。写しであるが、村山家で書状到着時の日付か。) 4月28日 羽柴秀吉、金沢城に入り北陸方面の仕置を定める。 4月 晦日 羽柴秀吉(「筑前守秀吉」)、河内国観心寺へ音信を謝し、北国方面での仕置終了後に間もなく「納馬」する旨を通知。 〔「観心寺文書」‐639〕 4月 氏家行継、某寺(常在寺カ)へ乱妨・狼藉があった場合は注進するよう命令。〔「常在寺文書」‐6〕 5月 5月 1日 池田元助(伊丹城主)、摂津国有馬湯山阿弥陀堂へ寺領・山林竹木を安堵。〔「善福寺文書」〕 5月 1日 伊彦守平・河原相秀(池田元助家臣)、摂津国有馬湯山薬師堂へ賽銭唐櫃の寄進を確認する。〔「余田文書」〕 5月 2日 織田信孝、自刃。〔『日本史人物生没年表』〕 5月 5日 羽柴秀吉、近江国長浜城に凱旋。〔「高木文書」‐9〕 5月 7日 羽柴秀吉、高木貞利へ北国表は平均に属した旨、一昨日近江国長浜へ凱旋した旨を通知。〔「高木文書」‐9〕 5月 7日 朝廷、勅使を長浜城に下向させ羽柴秀吉の戦勝を賀す。〔「兼見卿記」〕 5月12日 佐久間盛政、斬首。〔『日本史人物生没年表』〕 5月15日 羽柴秀吉(「筑前守」「筑前」「秀吉」)、小早川隆景(「小早川左衛門佐」)へ自身の政敵討滅・屈服の過程を説明し、 源頼朝(「頼朝」)の名をあげて天下統一の意思を表明。〔「毛利家文書」B‐980〕 5月19日 羽柴秀吉、北国平定に際し毛利輝元・吉川元春からの祝儀を謝す。〔「吉川家文書」@‐563〕 5月22日 羽柴秀吉(「平秀吉」)、参議に任ぜられる。〔「足守木下家文書」‐4〕 5月28日 三千院宮最胤親王、島津義弘へ「山門」(比叡山延暦寺)再興の勧進を促す。〔「島津家文書」A‐712〕 5月 日 蜂屋頼隆、越前国西福寺へ全5ヶ条の「禁制」を下す。〔「西福寺文書」〕 5月 日 池田恒興・日根野弘就、美濃国瑞龍寺へ濫妨・狼藉・竹木伐採の輩があった場合は速やかに注進すべきを命令。 〔「瑞龍寺文書」‐11〕 6月 6月 1日 羽柴秀吉、上洛して多数の公家衆の出迎えを受け相国寺慈照院に寄宿。〔「兼見卿記」〕 6月 2日 羽柴秀吉、大徳寺において信長の一周忌法要を執行し山崎経由で大坂に下向。 6月 4日 羽柴秀吉(「筑前守」)、山城国大山崎惣中へ全3ヶ条の「定」を下す。 織田信長「御朱印」の遵守、「洛中油座」については織田信長(「上様」)の時代に破棄されたものも「先規筋目」を遵守する ことなどを通達〔「離宮八幡宮文書」四〕 6月 5日 羽柴秀吉、加藤嘉明へ柴田合戦時における一番鑓の恩賞として三千石を宛行う。〔「加藤文書」〕 6月 6日 羽柴秀吉、大友義統へ柴田勝家・織田信孝・滝川一益らとの決戦に関して通知。大友氏とは織田信長時代の「筋目」を以て、 今後とも入魂に接する旨を通知。〔「大友家文書録」B‐2044〕 6月18日 池田元助、美濃国法華寺へ屋敷等を寄進し、乱妨狼藉・陣取・一切の諸役を免除。〔「法華寺文書」‐4〕 6月29日 堀秀政(「左衛門督」)、多賀秀種へ近江国佐和山城を油断の無いように留守することと堀家台所材木を大坂に送付すること を命令。〔「多賀文書」〕 6月 日 池田元助、美濃国加納へ全3ヶ条の掟(楽市楽座令)を下す。〔「圓徳寺文書」‐9〕 6月 日 池田元助、美濃国大寶寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「大寶寺文書」‐2〕 6月 日 池田元助、美濃国立政寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「立政寺文書」‐126〕 7月 7月 8日 正親町天皇、大徳寺総見院へ山城国賀茂郷内の水田3町9段のうち2町9反を領知として下す。〔「大徳寺文書」@‐21〕 7月 9日 佐々成政、新発田重家へ佐々成政自身が越後国春日山城攻撃の意思があることを通知。〔『武家手鑑』‐下23〕 7月10日 安国寺恵瓊、堀秀政(「羽左」)・蜂須賀正勝(「蜂小」)・黒田孝高(「黒官」)へ美作国・備中国・伯耆国をめぐる合議 で、毛利側の見解を表明。毛利氏の許容が成立し難ければ穂田元清(「穂田治部大輔」)・吉川元春の子息(「吉川子共」)を 「秀吉様御被官」として仕官する旨などを堀秀政・蜂須賀正勝・黒田孝高(「両御三人様」)の「取成」を毛利家「滅亡まて」 継続することを切に願う。〔「黒田文書」〕 7月 日 池田元助、美濃国瑞龍寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「瑞龍寺文書」‐6〕 7月 日 池田元助、美濃国正木郷へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「山田文書」‐2〕 8月 8月 1日 羽柴秀吉、萱生左大夫へ石田正澄(「石田弥三」)代官内の3000石を扶助。〔「守屋文書」‐10〕 8月 1日 羽柴秀吉、久徳左近兵衛尉へ近江国犬上郡多賀庄に3000石を安堵。〔「集古文書」十九〕 8月 5日 羽柴秀吉(「筑前守」)、近江国ゥ職人中へ全5ヶ条の職人統制の「条々」を下す。〔「河路左満太氏所蔵文書」〕 8月 7日 羽柴秀吉、本願寺顕如へ陣中見舞の道服・鉄炮・火薬を謝し、越中国での佐々成政討伐の様子を報告。〔「本願寺文書」〕 8月17日 羽柴秀吉、杉原家次へ近江国坂本城から摂津国大坂へ移動すべきを指示。女房達の摂津国有馬湯山への湯治も指示。 〔「村上大憲氏所蔵文書」〕 8月17日 細川信良、香宗我部親泰へ阿波国で羽柴秀吉に抵抗している旨を告げ、長宗我部元親への馳走を謝す。 〔『香宗我部家証文』四〕 8月19日 吉田兼見、羽柴秀吉が摂津国有馬で湯治だということで(大坂へか?)下向を見合わせ、使者として喜介を派遣する。 〔『兼見卿記』〕 8月19日 本願寺顕如、摂津国有馬湯治中の羽柴秀吉へ道服2枚・大樽5樽を、「御使」の円匠は石田三成(「左吉」)と 増田長盛(「仁右衛門」)へ綿5把を見舞いとして贈る。〔『顕如上人貝塚御座所日記』〕 8月20日 佐々成政、小池春憲へ200俵を堪忍分として扶助。〔「小池文書」‐1〕 8月20日 船越景直(「船越左衛門尉景」)、河内国天野三綱(金剛寺)へ船越景直の河内国入部にあたり居屋敷を寄進す。 〔「金剛寺文書」‐335〕 8月21日 船越景直(「船越左衛門尉景」)、河内国天野三綱(金剛寺)へ山林竹木を徴集。〔「金剛寺文書」‐336〕 8月22日 円匠(本願寺使者)、摂津国有馬を出発。〔『顕如上人貝塚御座所日記』〕 8月22日 安国寺恵瓊(「安国寺恵瓊」)、国元の井上春忠(「井又右」)へ羽柴秀吉(「羽筑」)と毛利氏の和睦締結に関する金山の 引き渡しのこと、人質の吉川広家(「経言」)・小早川秀包(「元総」)の出発のこと、羽柴秀吉(「羽筑」)への進物献上の ことについて通達。〔「毛利家文書」B‐863〕 8月26日 羽柴秀吉、賀茂社司からの湯治見舞いを謝す。詳細は岡本宮内少輔に伝達させる。〔「賀茂別雷神社文書」三〕 8月27日 羽柴秀吉、摂津国有馬での湯治を終える。〔『顕如上人貝塚御座所日記』〕 8月27日 円匠(本願寺使者)、紀伊国鷺森へ帰寺。〔『顕如上人貝塚御座所日記』〕 8月27日 池田恒興(「勝入」)、美濃国真長寺へ寺領として田7段・畠6段を寄進。〔「真長寺文書」‐27〕 8月28日 羽柴秀吉(「筑前守」)、摂津国大坂城「普請石持付而掟」全5ヶ条を発す。〔「廊坊家文書」〕 8月 ? 林羅山、山城国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕 9月 9月 1日 羽柴秀吉、河内国金剛寺へ寺領307石を安堵。〔「金剛寺文書」‐338〕 9月 1日 羽柴秀吉、大坂に新城を構築(この頃より羽柴秀吉の朱印状が初見される)。 9月 3日 細川信良、香宗我部親泰へ阿波国那賀郡今津宿に拠る旨を告げ長宗我部元親への取り成しを謝す。〔『香宗我部家証文』四〕 9月 3日 武田信吉、遠江国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕 9月 7日 毛利輝元、吉川広家(「経言」)へ羽柴秀吉との和睦成就のため人質として上洛させる旨を通知。 〔「吉川家文書」@‐704〕 9月 9日 本願寺如春(顕如室)、羽柴秀吉内儀より返礼の使者として派遣された孝蔵主と面会。〔『顕如上人貝塚御座所日記』〕 9月 9日 毛利輝元、人質として上洛した吉川広家(「経言」)を謝す。〔「吉川家文書」@‐705〕 9月16日 安国寺恵瓊(「一任恵瓊」)、佐世元嘉(「佐与三左」)へ羽柴秀吉(「羽柴」)と毛利氏の境界決定について3ヶ条の条件 を提示し開戦に至れば毛利氏不利は必定であること、小早川隆景・吉川元春の高配を促すことを通達。 〔「毛利家文書」B‐860〕 9月17日 池田元助、美濃国崇福寺へ織田信長(「右大将家」)・織田信忠の弔意として122貫文を寄進。〔「崇福寺文書」‐16〕 9月19日 羽柴秀吉、摂津国有馬湯山惣中へ本願寺顕如の湯治に馳走するよう指示する。〔「余田慈石氏所蔵文書」〕 9月20日 小堀正次(「秀言」)、播磨国清水寺へ「御木御奉行衆」の派遣につき羽柴長秀(秀長)「御墨付」を送付したが、 羽柴秀吉の「御用」であるので羽柴秀吉「御奉行」の存分次第にするべき旨を通達。〔「清水寺文書」九〕 9月25日 本願寺顕如、和泉国貝塚を出発し小浜泊に至る。〔『顕如上人貝塚御座所日記』〕 9月26日 本願寺顕如、本願寺如春(顕如室)・本願寺准如を同行させ摂津国有馬湯山に到着。 御供として下間仲之・下間頼純・下間頼芸が随行。〔『顕如上人貝塚御座所日記』〕 10月 10月 5日 羽柴秀吉、本願寺顕如からの栗2篭の贈物を謝し、摂津国有馬町中での馳走を取り計らう旨を通知。〔「本願寺文書」〕 10月 5日 近衛前久(「龍山」)、島津義久へ「醍醐衆」の薩摩国下向に際して近衛前久自身は徳川家康の斡旋により9月上旬に上洛、 羽柴秀吉より賄等を保証されたことを報告、更に島津義久に対して所領上分の進納を促す。詳細は伊勢貞知に伝達させる。 〔「島津家文書」A‐666「旧記雑録後編」@‐1360〕 10月 6日 羽柴秀吉、松下之綱(家康配下)に二千石の知行を宛行い家臣に取り立てる。〔「松下文書」〕 10月14日 本願寺顕如、摂津国有馬湯山での湯治を終了し小浜泊に至る。〔『顕如上人貝塚御座所日記』〕 10月15日 本願寺顕如、堺御坊にて一泊する。〔『顕如上人貝塚御座所日記』〕 10月16日 本願寺顕如、和泉国貝塚へ帰寺。〔『顕如上人貝塚御座所日記』〕 10月24日 本願寺顕如、羽柴秀吉へ摂津国有馬湯山の土産として錫20対・木地の食篭5個を贈る。更に浅野長政(「弥兵」)・ 石田三成(「佐吉」)へも音信と綿10把を贈る。使者には河野越中を派遣。〔『顕如上人貝塚御座所日記』〕 10月26日 羽柴秀吉、下間頼廉の書簡に応え本願寺顕如の湯治に当たり種々の懇意を謝す。〔「興正寺文書」〕 10月27日 丹羽長家、美濃国佛照寺へ寺屋敷方御引得分を免除。〔「島本順八氏所蔵文書」‐2〕 11月 11月 5日 杉原家次、中村五左衛門尉へ茶湯用の炭の調達を命令。〔「摂津天城文書」〕 11月13日 稲葉一鉄、加納悦右衛門へ安藤守就等を討ち取った戦功を賞し、大野郡内3村を安堵。〔「加納文書」‐1〕 11月22日 羽柴秀吉(「秀吉」)、立入宗継(「立入立佐」)へ近江国志賀郡山内の「買得」地6石2斗を「当知行」として安堵する。 〔「立入宗継文書」‐21〕 11月26日 蜂屋頼隆(「出羽守頼隆」)、越前国本妙寺へ諸役を免除。〔「本妙寺文書」〕 12月 12月 2日 黒田孝高、備中国吉備津神社へ神前祈念を依頼し、帰国の際には立ち寄る旨を通知。〔「吉備津神社文書」‐152〕 12月 2日 加藤清正(「加虎介清正」)、河内国天野(金剛寺)惣中へ「坪打之者共」の派遣を通達。 〔「金剛寺文書」拾遺(仁和寺所蔵)‐15〕 12月10日 稲葉一鉄、加納悦右衛門へ安藤守就等を討ち取った戦功を賞し、大野郡内3村を安堵。〔『美濃明細記』六〕 12月10日 佐々成政、小池春憲へ200俵を加増。〔「小池文書」‐2〕 12月12日 細川信良、土佐国吸江庵へ懇意を謝す。〔「吸江寺文書」〕 12月15日 安国寺恵瓊(「安国寺恵瓊」)・林就長(「林杢允就長」)、国元の佐世元嘉(「佐与三左」)・福原貞俊(「福原」)らへ 羽柴秀吉(「秀吉」)と毛利氏との交渉について、蜂須賀正勝(「蜂彦右」)・黒田孝高(「黒官」)による美作国内諸城及び 来島の接収と毛利側の撤退を要請を通知し「只今の天下を見こなし候」と世上についての意見を述べ、毛利輝元・吉川元春・ 小早川隆景らに検討するよう促す。〔「毛利家文書」B‐861〕 12月16日 稲葉一鉄、某右近へ河野兵七・不破平助・不破掃部助に対する扶持について通知。〔「稲葉文書」‐54〕 12月18日 安国寺恵瓊(「一任斎恵瓊」)・林就長(「林木工就長」)、佐世元嘉(「佐与三左」)へ羽柴秀吉(「秀吉」)と毛利氏の 境界について双方の見解に「天地相違」があること、人質として吉川広家(「経言」)・小早川秀包(「元総」)を提出すべき ことを通知。〔「毛利家文書」B‐859〕 12月22日 井上之房(黒田孝高家臣)、備中国吉備津神社へ使者派遣の際に黒田孝高他行につき謝意を通知。賽銭200疋を送り、 帰国の際には立ち寄る旨を通知。〔「吉備津神社文書」‐153〕 12月26日 孝蔵主(羽柴秀吉女官)、蔵入地である摂津国有馬湯山に地子銀18枚の請取状を発給。〔「浅野文書」〕 12月30日 徳川家康、妙西尼(石川数正母方)へ本願寺宗旨再興の旨を通知。〔「本願寺文書」〕 この年 岩城貞隆、誕生(異説1581年)。〔『日本史人物生没年表』〕 蒲生秀行、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕 松平忠明、誕生(異説1584年)。〔『日本史人物生没年表』〕