All contents copyright (C)1999-2014 Household Industries / allrights reserved


フロントページに戻る
目次に戻る
項目別文献・論文一覧へ

        【 天下統一期年譜 1582年 】

天正10(1582)年

 1月
  1月 1日 禁裏に於いて「四はうはい」が執り行われる。
       奉行・御剣は中山慶親(「中山のりちか」)・中山親綱。御簾は万里小路充房。御草鞋は中御門宣光。御装束は高倉永相。
       「御まへ」は高倉永孝。脂燭は高倉永孝・五辻元仲・富小路秀直であった。
       その後の「御うけとり」は大典侍殿(万里小路賢房女)・長橋局(量子:高倉永家女)で2献が振る舞われた。
       朝餉は上搆芫ヌ(花山院家輔女)・長橋局(量子:高倉永家女)・伊与殿(舟橋教重女)。
       誠仁親王(「みやの御かた」)・和仁親王(「わかみやの御かた」)が出席、やがて九文字が出された。御扇も出された。
       「御こきいた」も誠仁親王・和仁親王・邦慶親王の分が出された。上搆芫ヌ(花山院家輔女)はこの日より「さしあい」で
       あった。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月 1日 禁裏「東庭」に於いて「四方拝」が執り行われる。「奉行職」は中山慶親が担当。
       天明に及び正親町天皇の出御があり、御簾・御裾は万里小路充房が、御剣は中山慶親が、御草鞋は中御門宣光が、脂燭上人は
       高倉永孝・五辻元仲・富小路秀直が担当した。「御後」に公家衆は祗候、次いで「男末」に於いて盃酌があった。
       出席者は甘露寺経元・高倉永相・山科言経・庭田重通・中山親綱・烏丸光宣・日野輝資・広橋兼勝・五辻為仲・白川雅朝・
       高倉永孝・中山慶親・万里小路充房・中御門宣光・日野資勝・五辻元仲・富小路秀直であった。〔『言経卿記』一〕
  1月 1日 近衛前久(「近衛殿」)、京都吉田神社へ参詣し即時還御す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月 1日 山科言経、正親町天皇(「禁中」)へ1荷両種を献上。〔『言経卿記』一〕
  1月 1日 冷泉為満・四条隆昌、山科言経を訪問し談合す。〔『言経卿記』一〕
  1月 1日 山科言経、冷泉為満・四条隆昌を同行し村井貞勝(「村井春長軒」)に年頭の礼問をし対面、50疋を進上。
       村井光清(「村井将監」)・村井吉忠(「村井又兵衛尉」)・住田清右衛門尉ら村井家中衆へ20疋ずつ進上。
       また、村井吉忠(「又兵」)の部下である飯尾久介と住田清右衛門尉(「清右」)の部下である喜七らへ扇子を1本ずつ進上。
       〔『言経卿記』一〕
  1月 1日 山科言経、九条兼孝(「九条殿」)へ年頭の礼問をする。
       次いで日野輝資・竹内長治・六条有親・中御門宣光・大和宗恕・遣迎院を礼問す。〔『言経卿記』一〕
  1月 1日 山科言経、自邸に於いて唐橋在通・伊勢三郎・朽木藤綱(「朽木刑部少輔」)・広橋兼勝家中の速水越中守の礼問を受ける。
       〔『言経卿記』一〕
  1月 1日 勧修寺晴豊、二条御所へ参内。「禁裏」より下された御樽・対物で酒宴が行われる。〔『晴豊記』〕
  1月 1日 勧修寺晴豊、村井貞勝(「村井」)のもとへ100疋を持参す。
       甘露寺経元・高倉永相・高倉永孝・中山孝親・中山親綱・万里小路充房・白川雅朝・富小路秀直が同行した。〔『晴豊記』〕
  1月 1日 誠仁親王(「親王御方」)、和仁王(「若宮様」)へ「成御」す。〔『晴豊記』〕
  1月 1日 織田信長、近江国安土城において諸大名の年始祝賀を受ける。〔「信長公記」〕
  1月 1日 近江国安土城に於ける年頭参賀の際の祝儀は織田信長(「上様」)が「直ニ被仰出」れた「御諚」を遵守して大名・小名同様
       に10疋宛を献上することになった。年頭参賀には織田信忠(「城介殿」)・北畠信雄(「勢州御茶箋様」:織田信雄)・
       神戸信孝(「三七郎殿」:織田信孝)・織田信澄(「七兵衛殿」)・織田信包(「上野殿」)・明智光秀(「惟任日向守」)・
       筒井順慶(「順慶」)・大和国衆・河内国衆・和泉国衆・摂津国衆、その他諸国衆へ同時に「御礼」が行われた。
       〔『蓮成院記録』三〕
  1月 1日 織田信長、近江国安土城に於いて諸国大名・小名より年頭参賀をうける。この春に出陣を控えているために無用の出費を
       避けるために献上物は10疋ずつとし、参賀者はすべて「布衣」を着用した。〔『多聞院日記』三〕
  1月 1日 織田信長、年頭参賀の際に筒井順慶(「順慶」)へ「御詞ヲ被懸」た。〔『蓮成院記録』三〕
  1月 1日 松平家忠、遠江国牧野原城で越年す。〔『家忠日記』〕
  1月 2日 山科言経、冷泉為満より例年の如く「餅鏡」と「錫」を受ける。〔『言経卿記』一〕
  1月 2日 山科言経、吉田兼見(「吉田預」)より例年の如く「神供」を受ける。〔『言経卿記』一〕
  1月 2日 冷泉為満、山科言経を礼問し「錫両種」を送る。〔『言経卿記』一〕
  1月 2日 山科言経、自邸に於いて上田春教、医者の曲直瀬正紹(「玄朔」)、竹田伊与守、「城殿入道」、久河説会・久河与七郎、
       長谷川次郎三郎の礼問を受ける。〔『言経卿記』一〕
  1月 2日 勧修寺晴豊、「甘露寺父子」より「柳一荷」2色を贈呈される。〔『晴豊記』〕
  1月 2日 勧修寺晴豊、二条御所へ参内。〔『晴豊記』〕
  1月 2日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)・「大御乳人」・柳原淳光・山科言経への神供を使者を以て送付。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月 2日 村井貞勝(「むら井」)、禁裏へ美濃紙2帖を献上す。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月 3日 山科言経、村井貞勝(「春長軒」)より年頭祝儀の使者を受ける。〔『言経卿記』一〕
  1月 3日 山科言経、自邸に於いて飛鳥井雅教・四辻公遠・持明院基孝・中山親綱・中山慶親・烏丸光宣・竹内長治・西洞院時慶・
       六条有親・「一安」・速水安芸守・立入隆佐・信濃兵部丞・「勢多判官」・多久宗・多忠頼・真継兵庫助・真継源大夫・
       川端道喜・中井宗茂・「狩野入道」・「辻子又佐」の礼問を受ける。〔『言経卿記』一〕
  1月 3日 勧修寺晴豊、二条御所へ参内。二条昭実(「二条殿」)が勧修寺光豊を同行し二条御所へ参内。
       この夜に「禁裏」に於いて酒宴あり。〔『晴豊記』〕
  1月 3日 この夜、禁裏に今出川晴季・西洞院時慶が参内し、正親町天皇が対面した。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月 3日 吉田兼治、「指貫」の件で山科言経へ相談す。「仕立」について同心を得たので絹1端を持参したが、不足であった。
       〔『兼見卿記』二(別本)〕
  1月 3日 吉田兼治、「指貫」の件で山科言経へ「絹」等を携えて訪問。〔『兼見卿記』二〕
  1月 4日 山科言経、自邸に於いて「関東衆」宗英蔵主と「御大工」半左衛門尉の礼問を受ける。〔『言経卿記』一〕
  1月 4日 中御門宣光、「方違」のために山科言経邸を訪問。〔『言経卿記』一〕
  1月 4日 山科言経、「方違」のために「上掾v家(花山院家輔女)の上田春教を訪問、「鶏鳴」の真似をする。〔『言経卿記』一〕
  1月 4日 山科言経、禁裏「当番」を高倉永相へ「相伝」す。〔『言経卿記』一〕
  1月 4日 勧修寺晴豊、二条御所の「御阿茶々」(勧修寺晴子)の御産所へ祗候。〔『晴豊記』〕
  1月 4日 勧修寺晴豊、「節分方違」のために明智光秀(「あけち」)配下の井上某を訪問。〔『晴豊記』〕
  1月 4日 勧修寺晴豊、備前国の宇喜多氏より銀10枚の「路銭」運上を受ける。〔『晴豊記』〕
  1月 4日 吉田兼見、大和国唐院亀松より例年の祈念を依頼される。唐院亀松は去年元服し「兵大夫」という「官途」を名乗ったことを
       知る。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月 4日 高倉永相・高倉永孝、夕方に禁裏へ参内。正親町天皇は禁裏御三間に於いて対面す。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月 4日 飛鳥井雅教・飛鳥井雅継、夜に禁裏へ参内し正親町天皇と対面す。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月 4日 織田信長、紀伊国の生地太郎左衛門・贄川治部丞(「熱川治部丞」)へ「高野面調略」にあたり松山新介の派遣を通達し出陣
       を命令。〔『紀伊続風土記』九〕
  1月 5日 万里小路充房、従四位上昇進の勅許を得る。甘露寺経元の執奏であった。
       但しこの日は「御とく日」であったため1月6日付での勅許となった。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月 5日 長橋局(量子:高倉永家女)・伊与殿(舟橋教重女)、万里小路充房の昇進にあたり二条御所へ祗候。
       〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月 5日 山科言経、自邸に於いて正親町季秀・丹波頼景(「丹咲軒」)・進藤長治(「進藤筑後守」)・半井瑞策(「通仙軒」)・
       半井瑞桂(「驢庵」)・竹田定加(「竹田法印」)・生島越中・「出納両人」・中原康雄・「内竪」・安倍盛厚・安倍盛勝・
       「御大工総官」中西入道の礼問を受ける。〔『言経卿記』一〕
  1月 5日 勧修寺晴豊、二条御所「加番」のために参内。〔『晴豊記』〕
  1月 5日 吉田兼見、この日に細川藤孝(「長岡兵部大輔」)が上洛し里村紹巴(「紹巴」)の連歌興行に参席したことを知る。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月 5日 吉田兼見、山城国愛宕郡高野の佐竹定実へ神供を送付。〔『兼見卿記』二〕
  1月 5日 吉田兼見、大和国唐院亀松の使者へ御祓・五明2本・書状を預け返す。〔『兼見卿記』二〕
  1月 5日 細川藤孝(「長岡兵部大輔」)、上洛す。里村紹巴(「紹巴」)の連歌興行に赴く。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月 6日 山科言経、塩冶実秀(「塩冶新左衛門尉」)へ「サケ緒」1筋を遣わす。〔『言経卿記』一〕
  1月 6日 五条為名、「為良」と改名す。〔『言経卿記』一〕
  1月 6日 織田信長(「のふなか」)、禁裏へ初鯨を献上。この献上された鯨肉は摂家・清華家の各家に分配された。
       〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月 6日 織田信長(「前右府」)、「ハツ鯨」を正親町天皇へ献上。
       村井貞勝(「春長軒」)が立入隆佐(「立入」)を介して山科言経に初鯨を届ける。
       後刻に村井貞勝(「春長軒」)、正親町天皇(「禁中」)・誠仁親王(「御方御所様」)・「摂家」・「堂上中」へも初鯨を
       届けるようにとの「目六」を山科言経に調えさせる。〔『言経卿記』一〕
  1月 6日 四条隆昌、山科言経を訪問し談合。〔『言経卿記』一〕
  1月 6日 山科言経、高倉永孝の所望により「補歴」を貸したところ、後刻に返還された。〔『言経卿記』一〕
  1月 6日 山科言経、自邸に於いて庭田重通・勧修寺晴豊・万里小路充房・白川雅朝・松波左衛門大夫・津田正繁の礼問を受ける。
       〔『言経卿記』一〕
  1月 6日 勧修寺晴豊、二条御所へ参内。中山親綱・白川雅朝・万里小路充房が同行した。〔『晴豊記』〕
  1月 6日 中山慶親(「中山頭中将」)、正五位下の勅許を得る。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月 6日 広橋総光(「ひろはし子」)、正五位下の勅許を得る。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月 6日 薄諸光(「すゝき」)、正五位下の勅許を得る。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月 6日 烏丸光宣、禁裏へ参内し正親町天皇と対面す。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月 6日 誠仁親王・和仁親王、この夜に禁裏へ御成。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月 6日 誠仁親王(「親王御方」)、禁裏(「上」)へ御成。勧修寺晴豊、随行す。〔『晴豊記』〕
  1月 6日 大和国興福寺別会五師釈迦院寛尊、近江国安土城に於ける年頭参賀の際の祝儀は織田信長(「上様」)が「直ニ被仰出」れた
       「御諚」を遵守して大名・小名同様に10疋宛を献上することになったこと、年頭参賀には織田信忠(「城介殿」)・
       北畠信雄(「勢州御茶箋様」:織田信雄)・神戸信孝(「三七郎殿」:織田信孝)・織田信澄(「七兵衛殿」)・
       織田信包(「上野殿」)・明智光秀(「惟任日向守」)・筒井順慶(「順慶」)・大和国衆・河内国衆・和泉国衆・摂津国衆、
       その他諸国衆へ同時に「御礼」が行われたこと、織田信長が年頭参賀の際に筒井順慶(「順慶」)へ「御詞ヲ被懸」たことを
       知る。〔『蓮成院記録』三〕
  1月 6日 大和国興福寺別会五師釈迦院寛尊、「或人物語」により旧冬(天正9年冬)に織田信澄(「小田七兵衛殿」)が大和国拝領を
       直訴したところ、織田信長(「上様」)より「大和ハ神国ニテ往代ヨリ在子細」というので「無用之訴訟旨御気色」であった
       ため重ねての懇願を止めたことを知る。〔『蓮成院記録』三〕
  1月 7日 誠仁親王・和仁親王、禁裏へ参内。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月 7日 山科言経、自邸に於いて壬生朝芳(「官務」)・渡辺又七の礼問を受ける。〔『言経卿記』一〕
  1月 7日 山科言経、冷泉為満を同行し村井貞勝(「春長軒」)を訪問。
       織田信長(「前右府」)より贈られた「ハツ鯨」の礼の為の訪問であった。〔『言経卿記』一〕
  1月 7日 勧修寺晴豊、「行幸之用意」として「馬くら」を拵え、正親町天皇(「禁裏」)へ献上。〔『晴豊記』〕
  1月 7日 勧修寺晴豊、誠仁親王(「御方御所」)より「御はんせん」の命を受け「御はん」を拝領す。〔『晴豊記』〕
  1月 7日 水無瀬親具、禁裏へ参内し酒を献上。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月 7日 吉田兼見、大炊御門経頼より酒肴を、吉田兼治は「鯨波」2斤を賜わる。この鯨肉は織田信長(「信長」)より「公家衆」へ
       遣わされたもので、村井貞勝(「村井」)が公家衆に配ったものであった。吉田兼見は使者と対面し、吉田神社へはこの鯨肉は
       配られず、大炊御門経頼に与えられたものを分与されたものだという旨を聞く。吉田兼見は使者へ盃を与えて返した。
      〔『兼見卿記』二(別本)〕
  1月 7日 吉田兼見、吉田兼治へ「鯨波」が配られなかったのは「遠路之間」という理由であったことを日記に書き添える。
       〔『兼見卿記』二〕
  1月 7日 吉田兼見、後刻に大炊御門経頼へ返礼の使者を派遣。また勧修寺晴豊・吉田牧庵へ神供を送る。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月 7日 誠仁親王・和仁親王、この夜再び禁裏に参内す。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月 7日 二条昭実、この夜に禁裏へ参内し禁裏御三間に於いて正親町天皇と対面す。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月 7日 九条兼孝・鷹司信房、この夜に禁裏へ参内し禁裏几帳所に於いて正親町天皇と対面す。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月 7日 多聞院英俊、近江国安土城に於いて諸大名・小名が10疋ずつ献上し年頭礼参が行われたこと、また参席者はこの春に出陣
       するというので「布衣」を着用した礼参であったことを知る。〔『多聞院日記』三〕
  1月 7日 多聞院英俊、昨日1月6日の大和国郡山に於ける年頭祝儀も全て「布衣」着用であったことを知る。〔『多聞院日記』三〕
  1月 7日 明智光秀、近江国坂本城に於いて茶会を開催。山上宗二と津田宗及を招待す。〔『宗及他会記』〕
  1月 7日 松平家忠、遠江国牧野原城の定番を戸田氏と交替す。〔『家忠日記』〕
  1月 8日 聖護院道澄、禁裏へ祗候し正親町天皇と対面す。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月 8日 五辻元仲、去天正9年12月13日に「勅きよ」を得ていた従五位上への昇進が「勅許」される。
       〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月 8日 理性院(「りしやうゐん」)、禁裏「小御所」に祗候。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月 8日 山科言経、持明院基孝より依頼され子息(持明院基久)の「名字」選考を行う。〔『言経卿記』一〕
  1月 8日 山科言経、庭田重保・勧修寺晴豊・中山親綱・五辻為仲・飛鳥井雅継へ年頭の礼問を行う。〔『言経卿記』一〕
  1月 8日 山科言経、自邸に於いて毘沙門堂公厳・四辻季満・大和宗恕・速水左衛門大夫・安楽光院の礼問を受ける。
       〔『言経卿記』一〕
  1月 8日 勧修寺晴豊、「しやうこうゐん殿」への「内参」命令を伝達。〔『晴豊記』〕
  1月 8日 勧修寺晴豊、「妙法院殿」(常胤法親王)の参内を申次ぐ。〔『晴豊記』〕
  1月 8日 細川藤孝(「長岡兵部大輔」)・細川忠興(「与一郎」)、近江国坂本城へ急行する途中に吉田兼見を礼問し対面す。
       〔『兼見卿記』二(別本)〕
  1月 8日 細川藤孝(「長岡兵部大輔」)・細川忠興(「与一郎」)、早々に吉田兼見を訪問。
       細川藤孝(「長兵」)父子はこの後直接近江国坂本城に下向。
       吉田兼見と細川藤孝は「上洛之砌可来之由」を「約諾」す。〔『兼見卿記』二〕
  1月 9日 曇華院殿(聖秀女王:正親町天皇妹)、禁裏へ祗候。禁裏「つねの御所」にて酒席が催された。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月 9日 柳原淳光・日野輝資、禁裏に祗候し正親町天皇と対面す。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月 9日 山科言経、徳大寺公維・四辻公遠・正親町季秀・高倉範国・甘露寺経元・烏丸光宣・広橋兼勝・毘沙門堂公厳・万里小路充房
       白川雅朝・富小路秀直・伊勢貞興(「伊勢守」)・半井驢庵・「一安」・里村紹巴・里村昌叱へ年頭の礼問を行う。
       〔『言経卿記』一〕
  1月 9日 山科言経、自邸に於いて高倉永相・高倉永孝・東坊城盛長・五条為良の礼問を受ける。〔『言経卿記』一〕
  1月 9日 山科言経、禁裏「当番」に祗候。「相番」は白川雅朝・高倉範国、「外様衆」は庭田重通・東坊城盛長であった。
       〔『言経卿記』一〕
  1月 9日 勧修寺晴豊、巳刻より二条御所へ参内。〔『晴豊記』〕
  1月 9日 大和国興福寺の寛舜、大和国興福寺大乗院門跡が近江国安土城へ出仕する用意として上京し、資金を調達。
       〔『多聞院日記』三〕
  1月10日 正親町天皇、誠仁親王(「宮の御かた」)へ来1月14日の御会始用の硯・文題を贈る。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月10日 禁裏に於いて上搆芫ヌ(花山院家輔女)を介して大和国興福寺大乗院尋円(「大せうゐんとの」)より献上された「かちん」
       が披露される。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月10日 近衛前久(「こんゑとの」)、禁裏へ酒肴を献上。禁裏「御みま」にて正親町天皇と対面し、酒席が催された。
       正親町天皇の「御はいせん」として三条西公国、「御てなか」として中山親綱、近衛前久(「こんゑとの」)の「御はいせん」
       は白川雅朝であった。参席者は高倉永孝・「やふ大納言」・烏丸光宣・五辻為仲・白川雅朝・中山親綱・久我季通・西園寺実益
       竹田定珪・六条有親であった。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月10日 「りしやうゐんとの」、禁裏へ贈物を献上。禁裏「つねの御所」に於いて「おやこ御さか月一こん」があった。
       〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月10日 禁裏へ「御むろ」(任助法親王)より「文」が届けられる。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月10日 山科言経、上京の「風呂」へ入浴。その後、大宮町を徘徊す。〔『言経卿記』一〕
  1月10日 山科言経、葉室頼宣の礼問を受け、酒を振る舞う。〔『言経卿記』一〕
  1月10日 勧修寺晴豊、明日の一条内基(「関白時一条殿」)への「内参」命令を伝達。
       二条御所に於いては勧修寺晴豊が申次ぎ、「禁裏」に於いては烏丸光宣が申次ぐことになった。〔『晴豊記』〕
  1月10日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)と大炊御門経頼へ酒肴を送付。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月10日 多聞院英俊、大和国興福寺大乗院門跡へ祗候。まもなく大和国郡山城へ教浄が派遣された。〔『多聞院日記』三〕
  1月10日 四条隆昌、入夜に山科言経を訪問し談合す。〔『言経卿記』一〕
  1月10日 織田信長、大島光義(「大島新八郎」)へ近江国南郡小野500石を扶助。〔『記録御用所本古文書』二〕
  1月10日 細川藤孝(「長岡兵部大輔」)、近江国坂本城より上洛する途上で吉田兼見を訪問。夕食を共にし、そのまま宿泊す。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月11日 大典侍殿(万里小路賢房女)・「こんすけとの」・伊与殿(舟橋教重女)、禁裏「ないし所」に祗候。
       〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月11日 上搆芫ヌ(花山院家輔女)、「きおんまいり」を行い、それから二条御所(「二条の御所」)へ祗候。
       その後、九条兼孝(「九条との」)を訪問し禁裏へ戻る。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月11日 長橋局(量子:高倉永家女)、禁裏へ「御こわ」供御を献上。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月11日 「ひめみやの御かた」の「御いみあけ」により、禁裏へ鳥子紙1折・「御ひら」・御樽2荷が献上された。
       〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月11日 「ひめ宮」の「御いミあけ」となる。内々衆10人計が二条御所へ召集、勧修寺晴豊家中は皆参内した。
       「禁裏」へ御樽・鳥子紙25枚を献上。〔『晴豊記』〕
  1月11日 一条内基(「一条の関白」)、禁裏へ祗候。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月11日 禁裏へ吉田兼見・醍醐寺三宝院義演・三千院宮最胤法親王が酒肴を献上。
       「みなみな御るす」であったので正親町天皇は「あすのよし」を通達した。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月11日 大典侍殿(万里小路賢房女)・伊与殿(舟橋教重女)、禁裏へ「御りやうまいり」御土産の「御くま」などを献上。
       〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月11日 高倉永相、禁裏へ「しゆく一ふた」を献上。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月11日 飛鳥井雅継(「ちやちや丸」)、禁裏へ「あめ」を献上。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月11日 山科言経、吉田兼見・吉田兼治の礼問を受ける。〔『言経卿記』一〕
  1月11日 山科言経、冷泉為満を礼問す。〔『言経卿記』一〕
  1月11日 勧修寺晴豊、「なかハし殿御局」へ祗候。
       勧修寺晴豊(「晴豊」)に対し紀伊国雑賀の本願寺顕如(「本くわん寺」)の使者で近江国安土に派遣された
       下間仲之(「下間少進」)より通知が届く。〔『晴豊記』〕
  1月11日 吉田兼見、細川藤孝(「長兵」)を同行し万里小路充房邸で衣冠を着し「禁裏」へ参内し正親町天皇と対面、御礼を上奏す。
       申次は万里小路充房であった。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月11日 吉田兼見、誠仁親王(「御方御所」)の二条御所(「下御所」)に直垂を着して参内し対面の後に盃を賜わる。
       万里小路充房が「申次」であった(「上之御所」と同前であった)。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  1月11日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を礼問し進物を献ず。近衛前久との対面の後に盃を賜わる。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月11日 吉田兼見、村井貞勝(「春長軒」)を礼問し進物を献ず。「奏者」は村井清三(「清三」)であった。
       村井貞勝(「春長軒」)と対面した後に少しばかり酒を賜わった。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月11日 吉田兼見、村井貞成(「村井作右衛門尉」)を礼問、進物を献じ対面す。「奏者」は磯辺遁斎(「遁斎」)であった。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月11日 吉田兼見、曇華院殿(聖秀女王:正親町天皇妹)を礼問し、その後に帰宅す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月11日 吉田兼見、吉田牧庵からの書状を受ける。その内容は明朝に細川藤孝(「長兵」)を「茶湯」に招請するので、同行の上での
       到来を依頼するものであった。吉田兼見は了承した旨の返事を送る。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月11日 筒井順慶(「順慶」)、例年はこの日に大和国春日大社に年頭社参していたが、この年は病気により年頭社参を延引する。
       〔『多聞院日記』三〕
  1月12日 正親町天皇、「やふ少将」の「中将中納言」昇進を勅許す。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月12日 勧修寺晴豊、長橋局(量子:高倉永家女)を介して久我季通の「大納言」昇進の件を申請、正親町天皇より「御心えのよし」
       を得る。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月12日 邦房親王(「伏見殿」)、禁裏へ祗候し酒肴を献上。禁裏「つねの御所」にて酒席が催される。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月12日 「岡殿」(大慈光院:覚音女王)、禁裏へ祗候し酒肴を献上。禁裏「つねの御所」にて酒席が催される。
       〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月12日 「入江との」、禁裏へ酒肴を献上。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月12日 曇華院殿(聖秀女王:正親町天皇妹)、禁裏へ「とちのかちんなかき一」を献上。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月12日 「三ゐとの」、禁裏へ「あめ」・「せんへい」を献上。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月12日 山科言経、渡辺又七より「平家物語」巻二を借用する。〔『言経卿記』一〕
  1月12日 持明院基孝、山科言経を訪問し「夫木」和歌集1巻・2巻を借用す。〔『言経卿記』一〕
  1月12日 「北向」(山科言経室)・山科言緒(「阿茶丸」)、村井貞勝(「春長軒」)へ年頭の礼問のために赴く。
       〔『言経卿記』一〕
  1月12日 勧修寺晴豊、夕方に忌み明けした二条御所を見舞う。〔『晴豊記』〕
  1月12日 近衛信尹(「近衛殿御方」)、大和国奈良(「南都」)へ下向する。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月12日 吉田兼見、細川藤孝(「長兵」)・細川忠興(「与一郎」)・横浜良慶(「一庵」)を同行し吉田牧庵の茶席に参席。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月12日 吉田兼見は細川藤孝(「長兵」)・吉田牧庵へ近衛信尹(「近衛殿御方」)を礼問する旨を告げ茶会後に近衛前久を礼問する
       も近衛信尹は大和国奈良(「南都」)へ下向していた。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  1月12日 吉田兼見、吉田牧庵邸に於ける茶席後に細川藤孝へ昨日の挨拶回りで近衛前久(「殿下」)をはじめ礼問できなかった所々を
       廻る旨を告げて席を立った。〔『兼見卿記』二〕
  1月12日 吉田兼見、近衛前久(「殿下」)を礼問するも、近衛信尹(「御方御所」)は大和国奈良(「南都」)へ下向していた。
       〔『兼見卿記』二〕
  1月12日 吉田兼見、一条内基(「一条殿」)を礼問す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月12日 吉田兼見、二条昭実(「二条殿」)を礼問す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月12日 吉田兼見、大炊御門経頼を礼問し、門外に於いて対面。この後に自邸に帰す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月12日 吉田兼見、誠仁親王(「親王御方」)の「御使」として来訪した万里小路充房より、来1月14日の「御歌之御会初」に祗候
       するようにとのことであったが、来1月15日に吉田神社の社役があるため前日の1月14日より参勤する旨を申し入れた。
       万里小路充房は再度吉田邸に到来し誠仁親王からの「兼和次第」という返答を伝達。吉田兼見は「忝之由」を申し入れた。
       〔『兼見卿記』二(別本)〕
  1月12日 吉田兼見、誠仁親王(「親王御方」)の使者として到来した万里小路充房より来1月14日に二条御所の「御歌之御会」に
       祗候すべき旨を通達される。
       これに対して吉田兼見、万里小路充房へ来1月14日・15日は吉田神社の神事により「此儀不成私」という行事なのでどうで
       あろうかという旨を上奏してもらう。
       万里小路充房は誠仁親王へこの旨を上奏し、再度吉田兼見のもとに到来し「不苦之由」と「可然様任置」という誠仁親王の回答
       を伝達。〔『兼見卿記』二〕
  1月13日 長橋局(量子:高倉永家女)、この日より「御さしあい」であった。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月13日 山科言経、早朝に上御霊社に参詣す。〔『言経卿記』一〕
  1月13日 山科言経、富小路秀直の訪問を受けて来たる1月18日の「三毬打」の通達について談合す。〔『言経卿記』一〕
  1月13日 古市宗超、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  1月13日 山科言経、入夜に冷泉為満を訪問。〔『言経卿記』一〕
  1月13日 勧修寺晴豊、この晩の中山邸での晩食相伴を伝達するために夕方勧修寺尹豊(「入道殿」)を訪問。
       白川雅朝・五辻為仲・五辻元仲・庭田重通・大炊御門経頼へも参席を通達した。〔『晴豊記』〕
  1月13日 勧修寺晴豊、夕方に「禁裏当番」のために参内。
       勧修寺晴豊、正親町天皇より「大たか」を二条御所へ送るよう命令を受ける。〔『晴豊記』〕
  1月13日 細川藤孝(「長兵」)・細川忠興(「与一郎」)・松井康之(「松井新介」)、山崎へ下向す。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月13日 細川藤孝(「長兵」)、京都山崎へ下向しそのまま丹波国へ帰国する。〔『兼見卿記』二〕
  1月13日 吉田兼見、細川藤孝(「長兵」)が京都山崎へ下向し、そのまま丹波国へ帰国する旨を知る。〔『兼見卿記』二〕
  1月13日 吉田兼見、先に細川忠興(「与一郎」)の礼問を受けて、未だ在京しているというので京都宿所を訪問するも、この時既に
       細川藤孝(「長兵」)と細川忠興は既に山崎へ下向してしまっていた。そこで松井康之(「松井」)は未だ在京しているという
       ことを知ったので訪問したところ、細川藤孝(「長兵」)・細川忠興(「与一郎」)に供奉し山崎へ下向したことを知る。
       そこで吉田兼見は松井康之母に贈物を預ける。〔『兼見卿記』二〕
  1月13日 吉田兼見、出京し細川藤孝(「長兵」)の旅宿を訪問するも細川藤孝・細川忠興(「与一郎」)・松井康之(「松井新介」)
       は京都山崎へ下向したというので細川忠興母に進物を献ず。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月13日 吉田兼見、万里小路充房を訪問。四辻季満・白川雅朝が到来しており暫く談合した。晩に及び帰宅す。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月13日 大和国興福寺大乗院門跡、日中に近江国安土城へ出仕するために大和国奈良を発す。〔『多聞院日記』三〕
  1月14日 誠仁親王(「宮の御かた」)の二条御所に於いて「御くわいはしめ」が行われる。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月14日 二条御所に於いて「御会始」が行われる。〔『晴豊記』〕
  1月14日 山科言経、京都山科大宅郷より例年の如く「三毬打」用の竹280本を調達。〔『言経卿記』一〕
  1月14日 「七宮御方」(誠仁親王第七皇子)、山科言経邸に渡御す。〔『言経卿記』一〕
  1月14日 山科言経、正親町天皇(「禁中」)へ「三毬打」用の竹10本を献上。
       長橋局(「勾当内侍とのゝ御局へ」:高倉永家女)へ披露を依頼。〔『言経卿記』一〕
  1月14日 山科言経、禁裏「当番」に祗候。「相番」は白川雅朝、「外様」は四条隆昌であった。〔『言経卿記』一〕
  1月14日 勧修寺晴豊、早天に乗馬し二条御所へ参内。昼の「御会はしめ」には誠仁親王(「親王御所」)・「若宮様」・「聖護院殿」
       飛鳥井雅教・飛鳥井雅敦・「四辻父子」・大炊御門経頼・「久我大納言」・高倉永相・「水無瀬父子」・「持明院」・庭田重通
       勧修寺晴豊・広橋兼勝・「坊城」「五辻父子」・竹内某・富小路秀直(「極掾v)・「中山父子」・橘以継らであった。
       〔『晴豊記』〕
  1月14日 吉田兼見、「若御局」(誠仁親王妃:勧修寺晴子)へ「貝アフヒ」30個を献上す。〔『兼見卿記』二〕
  1月15日 誠仁親王(「宮の御かた」)・和仁親王(「わかみやの御かた」)、この夜に禁裏へ祗候。酒席が催され、その後に恒例の
       「御さきつちやう」が行われた。勧修寺晴豊より竹3本が献上された。「御きつしよ」は「きよく郎」が取り次いだ。
       誠仁親王(「宮の御かた」)・和仁親王(「わかみやの御かた」)もこの年は「御きつしよ」を出した。
       〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月15日 山科言経、自邸に於いて例年の如く「三毬打」を執り行う。〔『言経卿記』一〕
  1月15日 山科言経、四条隆昌の所望により「大学」を貸す。〔『言経卿記』一〕
  1月15日 山科言経、冷泉為満を訪問。〔『言経卿記』一〕
  1月15日 勧修寺晴豊、二条御所へ戻り「御番」の任務に就く。ここで「さきちやう」の進上を受けて、誠仁親王に披露す。
       また勧修寺晴豊、長橋局(「なかハし殿御局」)へ祗候す。〔『晴豊記』〕
  1月15日 吉田兼見、近衛信尹母へ神供を送付。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月15日 吉田兼見、飛鳥井雅敦へ神供を送付。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月15日 吉田兼見、舟橋枝賢(「清三位」)へ神供を送付。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月15日 暮れに十五日御祝の参内あり。
       「天酌ニ被参輩」は四辻公遠・甘露寺経元・水無瀬兼成・持明院基孝・山科言経・庭田重通・勧修寺晴豊・中山親綱・広橋兼勝
       五辻為仲・「鶴寿丸」・万里小路充房・白川雅朝・中山慶親・小倉季藤・薄諸光・水無瀬氏成・五辻元仲であった。
       次いで禁裏「東庭」に於いて例年の如く「三毬打」が催された。
       山科言経は竹10本、勧修寺晴豊は竹3本を進上、富小路秀直が直に参勤した。〔『言経卿記』一〕
  1月15日 勧修寺晴豊、二条御所「加番」のため昼に参内。
       誠仁親王(「親王御方」)は禁裏(「上」)へ御成。勧修寺晴豊、随行す。〔『晴豊記』〕
  1月15日 近江国安土に於いて「竹爆」・「御馬汰」が行われる。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  1月16日 正親町天皇、禁裏「小御所」にて円福寺長老・聖信法親王(「くはんしゆ寺の宮」)・淨花院松林院宗順・「ろさん寺」長老
       二尊院西堂・若王子・本圀寺上人を謁見す。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月16日 曲直瀬道三(「たうさん」)、禁裏へ祗候し杉原紙10帖・「ゑんれいたん」2貝を献上。中山親綱が申し次いだ。
       禁裏「御かくもん所」にて正親町天皇と対面す。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月16日 この夜、禁裏に於いて「御いわゐ」の酒席が催された。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月16日 北野「しんまんゐん」、禁裏へ「としとしの御くわんしゆ」・「くもしのおけ」を献上。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月16日 長橋局(量子:高倉永家女)、禁裏へ「あめ」1包を献上。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月16日 誠仁親王(「宮の御かた」)の「御ちの人」、禁裏へ串柿2串を献上。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月16日 大典侍殿(万里小路賢房女)、禁裏へ「おこし」・「まめあめ」を献上。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月16日 水無瀬兼成・水無瀬氏成父子、山科言経を礼問す。〔『言経卿記』一〕
  1月16日 村井吉忠(「村井又兵衛尉」)・住田清右衛門尉、山科言経を年頭祝儀として20疋を携え礼問す。〔『言経卿記』一〕
  1月16日 京都誓願寺長老、正親町天皇(「禁中」)へ年頭祝儀の礼問を行う。禁裏「儀定所」に於いて正親町天皇と対面した。
       申次は山科言経が担当した。次いで長橋局(量子:高倉永家女)へ祗候。〔『言経卿記』一〕
  1月16日 山科言経、山科言緒(「阿茶丸」)を同行し二条御所(「下御所」)を見物。二条御所「外様番所」にて飛鳥井雅教の振舞を
       受ける。〔『言経卿記』一〕
  1月16日 勧修寺晴豊、中山邸を「とき」(伽)のために訪問。〔『晴豊記』〕
  1月16日 吉田兼見、近衛信尹(「近衛殿御方」)へ御祓を送付。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月16日 吉田兼見、二条昭実(「二条殿」)へ御祓を送付。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月16日 吉田兼見、細川昭元(「細川右京兆」「細川右京亮」)へ御祓を送付。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月16日 大和国興福寺大乗院門跡、仁王経による御修法祈祷を行うため近江国安土城へ出仕す。〔『多聞院日記』三〕
  1月16日 松平家忠の長男(後の松平忠利)、誕生す。〔『家忠日記』〕
  1月17日 「むらさきのこくし」、禁裏「たうちう」にて御礼を上奏。勧修寺晴豊の申次により祗候し、正親町天皇と対面す。
       〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月17日 青蓮院尊朝法親王、来1月19日の「御くわいはしめ」の歌を誠仁親王(「宮の御かた」)、次いで禁裏の叡覧に謁す。
       〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月17日 禁裏「みなみ」庭に於いて明日の「さきつちやう」の準備が行われる。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月17日 誠仁親王(「宮の御かた」)の「御ちの人」、禁裏へ「うすまん一ふた」を献上。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月17日 正親町天皇、来1月19日の「御くわいはしめ」の「御くわいし」を準備する。〔『お湯殿の上の日記』七〕
  1月17日 山科言経、「下御所当番」に祗候。
       「相番」は四辻季満、「加番」は持明院基孝、「外様」は日野輝資・西洞院時慶・五辻元仲であった。「聯句」および「和漢」
       連句が詠まれた。〔『言経卿記』一〕
  1月17日 山科言経、水無瀬兼成を礼問す。〔『言経卿記』一〕
  1月17日 京都紫野大徳寺「ちやうろう当しゆ」より「禅師号」の執奏があり、村井新右衛門「ちそう」で禅師号下賜が調えられる。
       〔『晴豊記』〕
  1月17日 京都紫野大徳寺「ちやうろう当しゆ」への「禅師号」下賜について、「書出」であった中山親綱(「頭中将」「中山」)が
       この夜中に「はんたい」の意見を上奏するため祗候。〔『晴豊記』〕
  1月17日 吉田兼見、佐竹出雲守の来訪を受ける。〔『兼見卿記』二〕
  1月17日 吉田兼見、飛鳥井雅教より贈物を携えた使者の来訪を受ける。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月17日 吉田兼見、佐竹定実(「明智出羽守」)・佐竹左近允(佐竹定実舎弟)の来訪を受ける。暮れに帰宅した。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月18日 吉田兼見、この朝に禁裏へ「竹爆」を献上す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月18日 山科言経、山科言緒(「阿茶丸」)を同行し「禁中三毬打」を見物に参内す。
       「被参之衆」は甘露寺経元・持明院基孝・山科言経・庭田重通・勧修寺晴豊・中山親綱・日野輝資・広橋兼勝・五辻為仲・
       勧修寺光豊・庭田重定・山科言緒・高倉永相息・万里小路充房・白川雅朝・中山慶親・高倉永孝・四辻季満・日野資勝・
       富小路秀直であった。〔『言経卿記』一〕
  1月18日 勧修寺晴豊、「さきちやう」のために参内す。〔『晴豊記』〕
  1月18日 山科言経、富小路秀直を同行し冷泉為満を訪問。富小路秀直とは「三毬打」の散状について談合し、山科言経は意見を申し
       聞かせた。〔『言経卿記』一〕
  1月18日 山科言経、四条隆昌より「大学」を返還される。〔『言経卿記』一〕
  1月18日 鞍馬寺戒光坊、山科言経の留守中に山科邸を訪れ「牛玉札」・巻数・山椒の皮・炭などを進上。〔『言経卿記』一〕
  1月18日 山科言経、住田清右衛門尉の家中である喜七と小者の沢路福千世に20疋ずつ遣わす。去年の梅津の未進催促の旨を含めた。
       〔『言経卿記』一〕
  1月18日 吉田兼見、勧修寺晴豊からの使者の来訪を受ける。
       その趣旨は高倉永孝(「藤右衛門佐」)が吉田兼見「当官」の右衛門「督」を望んでいるので「辞退」を所望しているとのこと
       であった。吉田兼見はこれを「予存分如何、中々迷惑也」としながらも談合に応じる旨を返答す。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  1月18日 吉田兼見、勧修寺晴豊からの使者の来訪を受ける。
       その趣旨は高倉永孝(「藤右衛門佐」)が吉田兼見「当官」の「右衛門督」を所望しているので、勧修寺晴豊「存分」により
       吉田兼見を「左兵衛督」とするとのことであった。吉田兼見、勧修寺晴豊からの使者へ「自当官下官也、迷惑之由」を伝えた
       ところ、使者は「最之由令承伏」て帰った。〔『兼見卿記』二〕
  1月18日 大和国興福寺大乗院門跡、近江国安土城より大和国奈良へ帰還す。織田信長は「一段御機嫌」であったという。
       〔『多聞院日記』三〕
  1月19日 「禁裏」に於いて「御会始」が行われる。勧修寺晴豊、禁裏へ祗候す。〔『晴豊記』〕
  1月19日 勧修寺晴豊、明日に紀伊国「雑賀」(本願寺顕如が滞在)より使者が到来することを知る。〔『晴豊記』〕
  1月19日 四条隆昌、暮れに山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  1月20日 山科言経、庭田重通の所望により指貫を貸す。〔『言経卿記』一〕
  1月20日 山科言経、冷泉為満より冷泉家の20日祝言に招待される。〔『言経卿記』一〕
  1月20日 紀伊国雑賀に滞在する本願寺顕如からの使者である八木駿河守が朝廷を年頭礼問す。
       しかし、正親町天皇の見参は長橋局の「ふあんない」により無かったので、下御所へ参上す。〔『晴豊記』〕
  1月20日 吉田兼見、明智光秀(「惟任日向守」)を近江国坂本城に礼問す。
       明智光秀には「小天主」に於いて対面し、「茶湯」や夕食で振る舞われた。「種々雑談」し、明智光秀は「機嫌」であった。
       「奏者」は佐竹定実(「出羽守」)の弟の佐竹弥吉(「出羽守弟弥吉」)であった。吉田兼見、晩に及び上洛す。
       〔『兼見卿記』二(別本)〕
  1月20日 吉田兼見、明智光秀(「日向守」)を近江国坂本城に礼問す。
       吉田兼見は明智光秀と対面、近江国坂本城「小天主」に於いて「茶湯」・夕食が催され、そして種々の雑談をした。
       明智光秀は「一段機嫌也」という状態であった。「奏者」は佐竹弥吉(「弥吉」)であった。吉田兼見、晩に及び上洛した。
       〔『兼見卿記』二〕
  1月21日 庭田重通、山科言経へ指貫を返還す。〔『言経卿記』一〕
  1月21日 山科言経、山科言緒(「阿茶丸」)を同行し、昨夜の「霊夢」により愛染明王の革堂へ参詣。〔『言経卿記』一〕
  1月21日 山科言経、入夜に冷泉為満を訪問。〔『言経卿記』一〕
  1月21日 勧修寺晴豊、本願寺顕如からの使者「雑賀衆」を「茶ノ易」に誘うが、「名所見物」をするというので実現せず。
       〔『晴豊記』〕
  1月21日 「大津衆」、「公事論」の件で山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  1月21日 吉田兼見、近江国安土より帰還した鈴鹿久左衛門尉より去1月15日に安土に於いて行われた「竹爆」・「御馬汰」を見物
       した様子を聞く。馬数は200頭ばかり、「竹爆」は15本、「金之扇」は20から30本ほど、「紅帯一幡」を10あるいは
       20筋を懸けていたという。「焼亡」の時に「御馬ヲ左右へ乗懸」け、あるいは「懸足已下乗之」となり、その様子は
       「見事さ無比類義」であったという。近衛前久(「近衛殿」)も「御馬汰之御人数」として近江国安土に下向したという。
       吉田兼見はこれを「希有之儀」と評す。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  1月21日 吉田兼見、近江国安土より帰還した鈴鹿久左衛門より去1月15日に安土に於いて「御馬汰」・「竹爆」を見物した様子を
       聞く。馬数は200騎ばかり、「竹爆」は15本、「金之扇」10から20本、「紅帯一幡」は10あるいは20筋を懸けて
       いたという。また近衛前久(「近衛殿」)の下向も知る。〔『兼見卿記』二〕
  1月22日 「大津衆」粟津屋、「公事論」の件で山科言経を訪問し談合す。
       山科言経、後刻に「公事論」の件で村井吉忠(「村井又兵衛」)・村井光清(「村井将監」)へ使者を派遣した。
       〔『言経卿記』一〕
  1月22日 山科言経、吉田兼見の来訪を受けて「官位」の件を談合す。また所望により「書札礼節」を貸す。〔『言経卿記』一〕
  1月22日 下間仲之(「下間少進」)からの使者、勧修寺晴豊を訪問す。
       この時、織田信長(「安土前右府」)が「事外気色能」くて上洛す。
       織田信長・勧修寺晴豊の間で下間仲之(法橋)を「法印」に執奏することが談議され、勧修寺晴豊が二条御所、ついで「禁裏」
       へとこの旨を上奏した。〔『晴豊記』〕
  1月22日 吉田兼見、相国寺南豊軒周超を礼問し対面す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月22日 吉田兼見、吉田浄勝(「盛方院」)を礼問し対面す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月22日 吉田兼見、近衛邸を礼問し近衛信尹(「近衛殿御方」)と対面、暫く雑談す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月22日 吉田兼見、吉田牧庵を訪問す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月22日 松平家忠の長男(後の松平忠利)、竹谷清善より「お猿」と名付けられる。〔『家忠日記』〕
  1月23日 山科言経、北野社へ参詣。〔『言経卿記』一〕
  1月23日 紀伊国「雑賀物共」(本願寺顕如からの使者)、京都より下向す。〔『晴豊記』〕
  1月23日 紀伊国雑賀にて織田信長(「信長」)の援助を受けた鈴木重秀(「孫一」)が「土橋」某を討つ。〔『晴豊記』〕
  1月23日 「禁裏」より二条御所へ「つる」2羽が下賜される。〔『晴豊記』〕
  1月23日 大和国興福寺「寺門」、織田信長(「上様」)へ年頭礼状・大油煙100挺・巻数1合を送付。
       また矢部家定(「矢善」)・森成利(「森御乱」)・堀秀政(「堀久」)・長谷川秀一(「長竹」)へは200疋宛、
       楠長諳(「式部卿法印」)・一雲斎針阿弥(「針阿ミ」)に100疋宛、明智光秀(「惟日」)へ500疋、藤田伝五へ
       100疋が送られた。〔『蓮成院記録』三〕
  1月23日 勧修寺晴豊、この夜に二条御所の「御うたい」に参席す。〔『晴豊記』〕
  1月23日 吉田兼見、家族と共に山城国愛宕郡高野の佐竹定実(「羽州」)を訪問。「夕食丁寧」という振舞を受け「終日相談」し、
       暮れに及び帰宅す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月24日 山科言経、冷泉為満邸の饗応に赴く。〔『言経卿記』一〕
  1月24日 山科言経、禁裏「当番」に祗候。「相番」は甘露寺経元・白川雅朝、「外様」は四条隆昌であった。〔『言経卿記』一〕
  1月24日 勧修寺晴豊、四辻公遠・甘露寺経元・白川雅朝・富小路秀直と夜中まで酒宴、各自「沈酔」する。〔『晴豊記』〕
  1月24日 二条御所より村井貞勝(「村井」)へ「つる」1羽が下賜される。〔『晴豊記』〕
  1月24日 吉田兼見、二条御所(「二条御所」)の「御番」に祗候す。「和漢御会」が催されて、丑刻に終了した。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月25日 織田信長、伊勢国大宮司の河辺常長らへ伊勢大神宮造営の執行の件で御師の上部貞永(「上部大夫」)に平井久右衛門尉を
       添えて派遣することを通達。〔「松木文書」一〕
  1月25日 吉田兼見、早旦に二条御所を退出す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月25日 山科言経、白川雅朝女中へ「平家」物語2巻の「カナ書」にしたものを送付。
       織田信長(「前右府」)の妾である「御ナヘ」(小倉氏)からの要求によるものであった。〔『言経卿記』一〕
  1月25日 勧修寺晴豊、「梅津ほうせいたうちやうろう」からの献上物を「禁裏申次」として披露す。〔『晴豊記』〕
  1月25日 勧修寺晴豊、二条御所「加番」として祗候。村井貞勝(「村井」)より「つる」下賜の返礼が届けられる〔『晴豊記』〕
  1月25日 吉田兼見、舟橋枝賢(「清三位」「清三品」)の来訪を受けて「終日相談」す。舟橋枝賢はその後に帰京した。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月26日 堀秀政(「堀久太郎秀政」)、伊勢大神宮大宮司の河辺常長らへ「御遷宮」執行の件で織田信長「御朱印」が発給され、
       「御使」として平井久右衛門尉が派遣されるので入念に相談し、適宜適切に奔走することを通達。
       また伊勢大神宮御師の上部貞永(「上部殿」)へもこの旨を通達する。〔『外宮天正遷宮記』〕
  1月26日 吉田兼見、村井貞勝(「春長軒」)を訪問し、来1月28日に織田信長(「信長」)が上洛する予定であることを知る。
       この時に村井貞勝(「春長」)は「取紛」であったので、吉田兼見は間もなく帰宅す。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  1月26日 吉田兼見、村井貞勝(「春長軒」)を訪問。村井貞勝は来1月28日に織田信長(「前右府」)が上洛するというので
       「以外取乱」していた。〔『兼見卿記』二〕
  1月26日 勧修寺晴豊、村井貞勝(「村井」)より高倉永相(「藤中納言」)を同行しての来訪を要請されるが、乗馬した勧修寺晴豊
       1人が村井貞勝を訪問。用件は「新すけ殿」の件を正親町天皇(「禁裏」)へ「御参」がかなうよう計らう談合であった。
       この要望に対して勧修寺晴豊は「中々成間敷」とその場で返答す。〔『晴豊記』〕
  1月26日 山科言経、越前国の姉(松尾兵部少輔の妻)へ頂妙寺の前「山伏」を介して音信を発する。〔『言経卿記』一〕
  1月27日 山科言経、「下御所当番」に祗候。
       「相番」は水無瀬親具、「加番」は持明院基孝、「外様」は高倉永相・日野輝資・西洞院時慶であった。
       入夜に水無瀬親具の旅宿へ持明院基孝・山科言経・日野輝資が赴いた。「漢和連句」8句が詠まれた。〔『言経卿記』一〕
  1月27日 二条御所に於いて「長恨歌」の講釈が行われる。講師は水無瀬重通(「水無瀬中納言」)であった。〔『晴豊記』〕
  1月28日 「関白」であった一条内基(「一条殿」)が「大酔」す。〔『晴豊記』〕
  1月28日 「北向」(山科言経室)・山科言緒(「阿茶丸」)、村井貞勝(「春長軒」)を訪問し「赤貝」10個を進上した。
       〔『言経卿記』一〕
  1月28日 吉田兼見、織田信長(「信長」)が上洛を延引したことを知る。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月28日 多聞院英俊、この日織田信長(「信長」)が在京するという「内々沙汰」を聞いていたが延引したことを知る。
       〔『多聞院日記』三〕
  1月29日 吉田兼見、山科言経へ「書札礼節」を返還。〔『言経卿記』一〕
  1月29日 山科言経、「大津公事篇」について村井吉忠(「村井又兵衛」)へ問い合わせたところ、大略は落着したというので
       下粟津屋与三左衛門尉と「大津衆」2人が礼のために山科邸を到来した。〔『言経卿記』一〕
  1月29日 山科言経、禁裏「当番」に祗候。「相番」は甘露寺経元・白川雅朝、「外様」は東坊城盛長であった。
       先ず禁裏「台所」に於いて甘露寺経元が持参した「錫」で酒席が催された。〔『言経卿記』一〕
  1月29日 勧修寺晴豊、二条御所「当番」であった。またこの日、「こゆミ」の件で織田信長(「安土」)より「種々」があり、
       この年の12月に「主」(閏月)を入れることを要請してきた。勧修寺晴豊はこれを「せんさく」であると評す。
       〔『晴豊記』〕
  1月29日 吉田兼見、「下御所御番」に祗候。「御番之すき」に近衛邸を訪問し近衛信尹(「近衛殿御方」)と数刻雑談、夕食を相伴。
       〔『兼見卿記』二(別本)〕
  1月29日 吉田兼見、二条御所「当番」に祗候。〔『兼見卿記』二〕
  1月29日 吉田兼見、近衛邸を訪問し、近衛信尹(「御方御所」)と数刻雑談す。〔『兼見卿記』二〕
  1月29日 「七宮御方」(誠仁親王第七皇子)・「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、入夜に山科言経邸に渡御す。〔『言経卿記』一〕
  1月30日 吉田兼見、早々に二条御所を退出す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月30日 山科言経、春日社御師中務少輔時家の来訪を受け、「官位」の件で談合す。〔『言経卿記』一〕
  1月30日 勧修寺晴豊、二条御所「加番」として参内。〔『晴豊記』〕
  1月30日 吉田兼見、吉田牧庵より子息の稙蔵主の病気平癒祈念の依頼を受ける。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  1月  日 織田信孝、美濃国曽我屋の長願寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「超宗寺文書」‐1〕

 2月
  2月 1日 山科言経、遣迎院の所望により「暦数」を貸す。〔『言経卿記』一〕
  2月 1日 山科言経、正親町天皇(「禁中」)へ1荷両種を献上。〔『言経卿記』一〕
  2月 1日 勧修寺晴豊、「心相煩」のため外出せず。但し「禁裏」の「御盃」には参席す。〔『晴豊記』〕
  2月 2日 織田信長、朝廷へ「つる」を5羽献上す。〔『晴豊記』〕
  2月 2日 柳原淳光、数度にわたり山科言経を招喚す。〔『言経卿記』一〕
  2月 2日 山科言経、所労のために渋っていたが数度の招喚により柳原淳光を訪問。「春日祭上卿」の件での談合であった。
       〔『言経卿記』一〕
  2月 2日 山科言経、柳原淳光邸からの帰途、冷泉為満を訪問。〔『言経卿記』一〕
  2月 2日 「七宮御方」(誠仁親王第七皇子)・「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、これまで山科言経邸に逗留していたが、この入夜
       に冷泉為満邸へ戻る。〔『言経卿記』一〕
  2月 2日 山科言経、中山親綱からの触状により「下御所内々番闕改」の旨を知る。〔『言経卿記』一〕
  2月 2日 山科言経、この入夜に冷泉為満より送られた錫1樽を受ける。〔『言経卿記』一〕
  2月 2日 武田勝頼、織田信長に内応した木曽義昌を討伐するため信濃国諏訪上原まで出陣。
  2月 3日 織田信長、美濃国岐阜城の織田信忠(「城介殿」)へ以前指示した費用(「要脚」)3000貫を伊勢大神宮御師の
       上部貞永(「上部大夫」)と平井久右衛門尉へ送付することを通達。〔『外宮天正遷宮記』〕
  2月 3日 織田信長、甲斐国討伐の進路を決定。
  2月 3日 土御門久脩(「土御門治部大夫」)、近江国安土より上洛、織田信長より「こゆミ」の件でこの年に閏12月を入れるか
       どうかとの意見が出されたことを上申す。〔『晴豊記』〕
  2月 3日 近衛前久(「近衛殿」)、この夜に近江国安土より上洛す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  2月 3日 近衛前久(「近衛殿」)、高倉永相(「藤中納言」)・勧修寺晴豊・中山親綱・広橋兼勝を召集す。
       「こゆミ」の件が近江国安土に於いて「種々」取り沙汰され、織田信長より「一書」にて朝廷へ「申入」れられたことを談合。
       〔『晴豊記』〕
  2月 3日 誠仁親王(「御方御所」)、村井貞勝(「村井」)へ「匂ひかい」10個を下賜。勧修寺晴豊は「御使」として「菓子もち」
       を進上した。〔『晴豊記』〕
  2月 3日 山科言経、山科言緒(「阿茶丸」)を同行し「東柳馬場」を見物す。〔『言経卿記』一〕
  2月 3日 山科言経、冷泉為満を訪問。茶席が設けられた。〔『言経卿記』一〕
  2月 3日 「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、薄暮に山科言経邸へ渡御す。〔『言経卿記』一〕
  2月 3日 山科言経、「七宮御方」(誠仁親王第七皇子)へ保童円200粒を進上す。〔『言経卿記』一〕
  2月 3日 松平家忠、酒井忠次より近日中に遠江国・駿河国国境の城普請の命令を受ける。〔『家忠日記』〕
  2月 4日 吉田兼見、「下御所御番」は「早々之請取」というので祗候。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  2月 4日 吉田兼見、二条御所「当番請取」のため、朝に薄諸光へ斎後に出仕する旨を通知。〔『兼見卿記』二〕
  2月 4日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問し「御雑談」す。
       この内容は「当年閏月」の件で、「濃尾之暦者」である「唱門師」賀茂在政と京都より下向した土御門久脩が近江国安土に
       於いて「糺決」をおこなったが「双方不治定」という結果であった。この結果により近衛前久(「近衛殿」)が京都の
       「暦仕者」を招集し糾明するようにということが織田信長(「信長」)より通達された。その糾明は来2月7日に実施される
       ということであった。近衛信尹(「近衛殿御方」)と聖護院道澄(「聖護院殿」)がこの談合に加わった。
       〔『兼見卿記』二(別本)〕
  2月 4日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問、対面し「御雑談」す。
       この内容は美濃国の「当年之暦」では「十二月閏月」であるが、土御門久脩は「無閏月」というので、近江国安土に於いて
       「糺決」があったが「未究之間」であったので、近衛前久は織田信長(「右府信長」)より京都に於いて再度「糺勘」すること
       を命じられ、「勘暦者」7名を招集するという。近衛信尹(「御方御所」)と聖護院道澄(「聖護院殿」)が談合に加わった。
       〔『兼見卿記』二〕
  2月 4日 吉田兼見、近衛邸を退出す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  2月 4日 吉田兼見、村井貞勝(「春長軒」)を礼問、即時対面す。小将碁を行った。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  2月 4日 吉田兼見、村井貞勝(「春長軒」)を礼問、即時面会す。「有暦之沙汰」と将碁があり、暫く談合した。〔『兼見卿記』二〕
  2月 4日 吉田兼見、「御使」の招喚を受けて再度近衛前久(「近衛殿」)を訪問。
       近衛邸には高倉永相・中山親綱・勧修寺晴豊・広橋兼勝が到来し、この度織田信長(「信長」)より贈られた馬を見物。
       織田信長は近衛信尹(「近衛殿御方」)へも馬を贈っていた。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  2月 4日 吉田兼見、再度近衛前久(「近衛殿」)を訪問。
       近衛邸「御馬場」に於いて近衛前久が調馬(「被責御馬」)し、高倉永相・中山親綱・勧修寺晴豊・広橋兼勝・
       聖護院道澄(「聖門」)・近衛信尹(「御方御所」)が見物した。近衛前久が調馬した馬はこの度織田信長(「右府信長」)
       より贈呈されたものであり、近衛信尹(「御方御所」)へも同様に馬が贈呈されたという。〔『兼見卿記』二〕
  2月 4日 誠仁親王(「親王御方」)、禁裏(「上御所」)へ御成す。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  2月 4日 吉田兼見、「御番」であったので二条御所へ祗候。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  2月 4日 吉田兼見、二条御所「殿中」に祗候。誠仁親王「御留守之御所」であった。吉田兼見、二条御所「相番」衆と談合した。
       〔『兼見卿記』二〕
  2月 4日 この入夜吉田兼見、二条御所「内々之御番衆」であった五辻為仲・水無瀬兼成が相談。「音曲」4・5番を張行された。
       また談合は深更にまで及んだ。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  2月 4日 この入夜、二条御所に於いて「音曲」5番が張行され、水無瀬兼成・五辻為仲と二条御所「当番衆」が深更に及ぶまで談合。
       〔『兼見卿記』二〕
  2月 4日 近衛前久(「近衛殿」)と「こゆミ」の件の「御使」として高倉永相(「藤中」)・中山親綱・広橋・勧修寺晴豊が
       村井貞勝(「村井」)を訪問。村井貞勝(「村井」)邸に於いて曲直瀬玄朔(「道三けんさく」)が「さんたん」するが、
       どうしても「主」(閏月)が無いという結果であったので近江国安土へ下向させたところ、夜中に帰ってきた。〔『晴豊記』〕
  2月 4日 紀伊国高野山金剛峰寺惣分沙汰所の一摶V、大和国千手院西山坊・二見密蔵院へ織田信長(「信長様」)の「御意」として
       松山新介(「松新」)が大和国伊都郡に到来し、多和城を構築して九度山方面に毎日毎夜攻撃を仕掛けてくることに対し、軍勢
       を向けて全滅させることで衆議一決したので両人を「先手之大将」として奮戦することを指示。〔「二見文書」〕
  2月 4日 四条隆昌、この朝に山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  2月 4日 山科言経、入夜に冷泉為満を訪問。〔『言経卿記』一〕
  2月 5日 吉田兼見、早々に二条御所を退出す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  2月 5日 勧修寺晴豊は「こゆミのさんたん」について奔走し、賀茂家・土御門家共に「主」(閏月)は無いという返答を得る。
       勧修寺晴豊、近衛前久(「近衛殿」)を訪問し、その後に村井貞勝(「村井」)邸を訪問。曲直瀬玄朔(「道三けんさく」)も
       賀茂在政(「在政」)・土御門久脩(「久脩」)の天正十年の十二月には「閏」月が無いという意見であった。これが「御使」
       として高倉永相(「藤中」)・中山親綱(「中山」)・広橋兼勝(「広橋」)・勧修寺晴豊(「余」)が得た結果であった。
       〔『晴豊記』〕
  2月 5日 「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、朝食に山科言経・山科言緒(「阿茶丸」)・冷泉為満・四条隆昌らを招待す。
       〔『言経卿記』一〕
  2月 5日 山科言経、「初午」により稲荷社へ参詣。〔『言経卿記』一〕
  2月 5日 山科言経、「七宮御方」(誠仁親王第七皇子)へ「ツホ」・「土器」を贈呈。〔『言経卿記』一〕
  2月 5日 山科言経、遣迎院より「暦数」を返還される。〔『言経卿記』一〕
  2月 5日 日野輝資、暮れに山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  2月 5日 山科言経、暮れに再び「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)邸を訪問す。〔『言経卿記』一〕
  2月 5日 「松権」(筒井順慶被官)、暮れに及び大和国興福寺へ到来。大和国興福寺一乗院「慈恩会」の件で「摩尼」と談合した。
       〔『多聞院日記』三〕
  2月 5日 松平家忠、酒井忠次より木曽義昌の寝返りにより近日中に織田信長の出陣があるので、出陣準備を命令される。
       〔『家忠日記』〕
  2月 6日 織田信忠の先鋒軍、甲斐国武田氏への攻撃を開始。
  2月 6日 勧修寺晴豊、去る1月23日に紀伊国雑賀に於いて鈴木重秀(「孫一」)が織田信長(「信長」)の後援を受けて「土橋」某
       を打倒したこと、本願寺顕如(「門跡」)の警固として野々村正成(「野々村三十郎」)が派遣されたことを知る。
       また談合により、庭田重保(「庭田」)が見舞として袖岡長住(「袖岡」)を派遣することを上奏し、
       「両御所」(正親町天皇と誠仁親王)から「女房文」が発給された。〔『晴豊記』〕
  2月 6日 古市宗超、山科言経を訪問し談合す。〔『言経卿記』一〕
  2月 6日 山科言経、白川雅朝・冷泉為満を訪問す。〔『言経卿記』一〕
  2月 6日 四条隆昌、入夜に山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  2月 6日 吉田兼見、「兼約」により佐竹定実(「佐竹羽州」)の「茶湯」に赴く。「丁寧之興行」であった。吉田兼見は晩に帰宅す。
       〔『兼見卿記』二(別本)〕
  2月 6日 吉田兼見、「招請」により佐竹定実(「佐羽州」)の「茶湯」に赴く。「丁寧之馳走」であった。吉田兼見は晩に帰宅す。
       〔『兼見卿記』二〕
  2月 6日 「松権」(筒井順慶被官)、筒井順慶(「順慶」)の使者としてこの晩に大和国興福寺大乗院門跡を訪問。
       談合により大和国興福寺一乗院「慈恩会」を来月執行することが決定した。〔『多聞院日記』三〕
  2月 6日 大和国興福寺、大和国郡山城普請の見舞を送付。〔『蓮成院記録』三〕
  2月 7日 高倉永相(「藤中」)、「御使」として村井貞勝(「村井」)を訪問。村井貞勝(「村井」)より織田信長(「信長」)が
       「しなの国を半分」制圧したことを知らされ、高倉永相は「珍重候」と祝意を述べた。〔『晴豊記』〕
  2月 7日 山科言経、「下御所当番」に祗候。「相番」は白川雅朝であったが「被籠」(物忌?)れているというので祗候せず。
       「加番」は高倉永孝、「外様衆」は高倉永相・日野輝資・西洞院時慶・五辻元仲であった。〔『言経卿記』一〕
  2月 7日 曲直瀬道三(「道三」)、誠仁親王(「親王御方」)へ「古今」を申し入れ、御礼として花瓶2つを進上。〔『晴豊記』〕
  2月 8日 柳原淳光、山科言経を招喚す。〔『言経卿記』一〕
  2月 8日 山科言経、柳原淳光の招喚により訪問。富小路秀直との談合についての相談であった。〔『言経卿記』一〕
  2月 8日 山科言経、木屋薬師堂へ参詣。〔『言経卿記』一〕
  2月 8日 紀伊国雑賀へ袖岡長住(「袖岡」)が「見まい」として下向。〔『晴豊記』〕
  2月 8日 勧修寺晴豊、女房衆と共に「竹内殿」(曼殊院覚恕)を訪問す。〔『晴豊記』〕
  2月 9日 織田信長、武田勝頼討伐のために全11ヶ条の「条々」を発す。〔池田家文庫本『信長記』〕
  2月 9日 羽柴秀吉(「秀吉」)、太田資正(「太田美濃入道」)へ織田信長(「信長」)への内応希望を諒承し、「五畿内」の件は
       言うに及ばず「中国」方面および「四国」方面までも制圧したので、「上辺」に於ける「御用」を取り次ぐ旨を通達。
       詳細は宝林坊に伝達させる。〔「太田文書」〕
  2月 9日 山科言経、「大津衆」の来訪を受けて談合す。〔『言経卿記』一〕
  2月 9日 山科言経、持明院基孝より「夫木」和歌集1・2巻と「楽譜」を返還される。
       また盤渉調小楽10ばかりの書写を所望され料紙を送付。〔『言経卿記』一〕
  2月 9日 山科言経、冷泉為満の所望により「辰砂」を貸す。〔『言経卿記』一〕
  2月 9日 山科言経、「下御所番衆所」を訪問し吉田兼見と相談す。「中臣祓最要」と「中臣祓」を伝授される。〔『言経卿記』一〕
  2月 9日 山科言経、徳大寺公維を訪問するも留守であった。〔『言経卿記』一〕
  2月 9日 山科言経、禁裏「当番」に祗候。「相番」は甘露寺経元・白川雅朝、「外様」は東坊城盛長(「式部大輔」)であった。
       〔『言経卿記』一〕
  2月 9日 吉田兼見、「二条御所御番」に祗候。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  2月 9日 吉田兼見、二条御所「御番」に祗候。〔『兼見卿記』二〕
  2月10日 「七宮御方」(誠仁親王第七皇子)・「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、この早朝に冷泉家へ帰宅。〔『言経卿記』一〕
  2月10日 白川雅朝、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  2月10日 勧修寺晴豊、村井貞勝(「村井」)の意を受けた立入隆佐(「立佐」)より「辻ノおほい」を出すよう指示を受ける。
       〔『晴豊記』〕
  2月11日 山科言経、四辻季満が所労というので見舞のため訪問。「大験」であったので対面した。〔『言経卿記』一〕
  2月11日 山科言経、頤正軒増春を同行し高倉永孝を訪問。「聯句」が詠まれた。〔『言経卿記』一〕
  2月11日 勧修寺晴豊、中山親綱の代理として「二条之御番」のために祗候。〔『晴豊記』〕
  2月11日 庭田重保邸に盗人が入る。村井貞勝(「村井」)配下の「はんとり六兵衛」の手の者であった。〔『晴豊記』〕
  2月11日 筒井順慶(「順慶」)、大和国春日大社に社参す。社頭に於いて「宝生」の代理者による能が興行された。
       〔『多聞院日記』三〕
  2月12日 織田信忠・滝川一益、美濃国岐阜城を出陣。
  2月12日 山科言経、秋田久大夫(葉室頼宣の侍)の到来を受け、所望により愛洲薬を送る。〔『言経卿記』一〕
  2月12日 「北向」(山科言経室)・山科言緒(「阿茶丸」)、入夜に冷泉為満を訪問。〔『言経卿記』一〕
  2月12日 庭田邸への「ぬす人」の「せんさく」が行われる。〔『晴豊記』〕
  2月12日 松平家忠、酒井忠次より近日中に駿河国に出陣するよう命令を受ける。〔『家忠日記』〕
  2月12日 松平家忠、石川数正より来2月16日に遠江国浜松城に出陣するよう命令される。〔『家忠日記』〕
  2月13日 山科言経、柳原淳光を訪問。その後に冷泉為満を訪問。〔『言経卿記』一〕
  2月13日 山科言経、柳原淳光より所望された「春日祭次第」を貸す。また柳原淳光所有本を借用し、後刻に返還した。
       〔『言経卿記』一〕
  2月13日 勧修寺晴豊、「安楽光院しゆんせう」より来たる2月14日に来訪の連絡を受ける。勧修寺尹豊(「入道殿」)・庭田重保・
       白川雅朝への伝達も依頼された。勧修寺晴豊、広橋兼勝の代理として「二条宿番」に祗候。〔『晴豊記』〕
  2月14日 織田信忠・滝川一益、木曽峠を越えて信濃国伊那郡岩村に侵入。
  2月14日 小笠原信嶺(信濃国松尾城主)、織田信長への恭順を申し入れる。〔『信長公記』〕
  2月14日 大和国千手院西山坊・二見密蔵院、辰刻に織田軍の大和国伊都郡多和城山手へ総攻撃を仕掛け、三好新丞らを討ち取る。
       〔「二見文書」〕
  2月14日 大和国千手院西山坊・二見密蔵院、午刻に織田軍の「東之城」に総攻撃を仕掛けて損害を与える。〔「二見文書」〕
  2月14日 山科言経、柳原淳光の招喚を受けて訪問。「渡辺党系図」の件での質疑であった。山科言経、帰宅し渡辺党系図を書き送る。
       〔『言経卿記』一〕
  2月14日 吉田兼見、二条御所「御番」に祗候。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  2月14日 この夜、「若宮さま」の「御煩」あり。暁に「若宮様」の「御煩下参」った。この夜は「天あかく」、「雪ことことしき」
       状態であった。〔『晴豊記』〕
  2月14日 和仁親王(「若宮御方」)、この夜に俄かに「御不例」となる。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  2月14日 薄諸光、丑刻に和仁親王(「若宮御方」)の「御不例」により二条御所「御殿」の「清祓」を行う。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  2月14日 吉田兼見、和仁親王(「若宮御方」)の病気平癒のための「御加持」を行う。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  2月14日 竹田定加(「竹田」)、和仁親王(「若宮御方」)の病気平癒にあたり二条御所へ招喚される。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  2月15日 織田信長(「信長」)、織田信忠に従って東国へ出陣し国境の難所を突破した滝川一益(「滝川左近」)からの注進に応え、
       織田信長側は出陣に備えているので時期を見計い発足日限を上申する旨、また若い織田信忠(「城介」)を制御する旨を指示。
       もし失敗したならば織田信長の面前への参上は許可しない旨を通達。〔「建勲神社文書」〕
  2月15日 吉田兼見、早々に二条御所へ祗候し和仁親王(「若宮御方」)の病気平癒「御加持」を行う。
       また定輔親王(「二宮」)も「御不例」というので同様に「加持」を行った。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  2月15日 曲直瀬正紹(「道三子玄朔」)、二条御所へ祗候し和仁親王・定輔親王へ「御薬」を進上す。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  2月15日 吉田兼見、「御加持」を終了し二条御所を退出す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  2月15日 吉田兼見、晩に吉田兼治を二条御所に祗候させ和仁親王(「若宮御方」)を見舞わせる。対面があり、明日にまた参内して
       「御加持」することを命令された。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  2月15日 「若宮様」の病状が回復。〔『晴豊記』〕
  2月15日 山科言経、入夜に冷泉為満を訪問。〔『言経卿記』一〕
  2月15日 勧修寺晴豊、「若宮様」を見舞い「二条御番」を申し出る。〔『晴豊記』〕
  2月15日 吉田兼見、晩に及び吉田兼治を二条御所への見舞に祗候させる。吉田兼治は和仁親王(「若宮」)と対面して帰宅す。
       〔『兼見卿記』二(別本)〕
  2月16日 織田信忠・滝川一益、信濃国鳥居峠へ進軍。
  2月16日 松平家忠、「かち衆」・「夫丸」を先発させる。〔『家忠日記』〕
  2月16日 紀伊国高野山金剛峰寺沙汰所の一摶V、対織田軍の先手大将として奮戦した大和国二見密蔵院へその戦功を賞し、褒美として
       「珠鑓」を遣わす。〔「二見文書」〕
  2月16日 吉田兼見、暮れに及び二条御所へ祗候し和仁親王の病気平癒「御加持」を行う。和仁親王の病状は快復した。
       〔『兼見卿記』二(別本)〕
  2月16日 吉田兼見、暮れに及び二条御所へ祗候し和仁親王の病気平癒「御加持」を行った。〔『兼見卿記』二〕
  2月16日 「五の宮」・「ひめ宮」、「若宮様」病気により勧修寺晴豊邸へ「御なり」する。この夜に「方違」が行われた。
       〔『晴豊記』〕
  2月17日 織田信忠、信濃国飯島に在陣。
  2月17日 松平家忠、遠江国浜松城に到着、武田側が遠江国小山今城を放棄した旨を知る。〔『家忠日記』〕
  2月17日 山科言経、「下御所当番」に祗候。「相番」は白川雅朝、「加番」は勧修寺晴豊、「外様」は高倉永相であった。
       〔『言経卿記』一〕
  2月17日 勧修寺晴豊、高倉永孝(「藤右衛門督」)の代理として二条御所「御番」に祗候。〔『晴豊記』〕
  2月17日 吉田兼見、和仁親王の病気平癒「御加持」のため二条御所へ祗候。和仁親王は「弥御本服」となり、吉田兼見は安堵した。
       〔『兼見卿記』二(別本)〕
  2月17日 吉田兼見、和仁親王の病気平癒「御加持」のために二条御所へ祗候。
       和仁親王は「御煩疱瘡御験気」となり、吉田兼見は入夜に帰宅。〔『兼見卿記』二〕
  2月17日 多聞院英俊、去2月14日に京都三十三間堂が焼亡したという風聞に接する。実際にはこの雑説は「ウソ」であった。
       〔『多聞院日記』三〕
  2月18日 勧修寺晴豊、二条御所より禁裏へ祗候。紀伊国雑賀より使者が到来し、八木駿河守と「寺内たくミ」より100疋、「北方」
       より綿3把などを預かる。返礼が即時発せられた。〔『晴豊記』〕
  2月18日 織田信長(「信長」)、紀伊国雑賀へ「朱印」を発す。〔『晴豊記』〕
  2月18日 山科言経、冷泉為満を同行し京都清水寺へ参詣。「清水茶屋」と「祇園茶屋」にて冷泉為満より振る舞われ、山科言経は
       「沈酔」す。〔『言経卿記』一〕
  2月18日 山科言経、毘沙門堂公厳の所望により「拾芥抄」上巻を貸す。〔『言経卿記』一〕
  2月18日 吉田兼治、和仁親王の見舞のために二条御所へ祗候。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  2月18日 古市宗超、入夜に山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  2月18日 勧修寺晴豊、この朝「五ツの時分」に「ちしんゆる」ということを二条御所で知る。〔『晴豊記』〕
  2月18日 徳川家康、遠江国掛川城に着陣。
  2月18日 松平家忠、遠江国浜松城を出陣。〔『家忠日記』〕
  2月19日 「春日祭」が行われる。
       烏丸光康が「上卿」であったが、病気のため柳原資定に変更となるも吉田兼見が言うには「当月さんしよ」という理由で辞退。
       烏丸光康の要望で正親町実彦が「上卿」となった。〔『晴豊記』〕
  2月19日 吉田兼見、二条御所「御番」に祗候。和仁親王(「若宮御方」)・定輔親王(「二宮御方」)の病状も「御本服」となった事
       を知る。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  2月19日 「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、暮れに山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  2月19日 この入夜、誠仁親王は二条御所「内々」へ大炊御門経頼・六条有親・富小路秀直・吉田兼見を召し、
       「御局」・「御あちやちやの御局」(誠仁親王妃:勧修寺晴子)を介して酒を下す。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  2月19日 誠仁親王、吉田兼見へ近衛前久(「近衛殿」)への「御使」を命じられる。この度の和仁親王(「若宮御方」)の病気に
       対する度々の見舞使者派遣を謝すものであった。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  2月19日 吉田兼見、近衛信尹(「近衛殿御方」)へ「天度御祓」を進上す。「春日祭」の看経のための所望であった。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  2月19日 古市宗超、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  2月19日 山科言経、「春日祭」の上卿を正親町季秀が担当したことを知る。〔『言経卿記』一〕
  2月20日 吉田兼見、二条御所を早々に退出。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  2月20日 勧修寺晴豊、「二条之御番」に祗候。〔『晴豊記』〕
  2月20日 勧修寺晴豊、村井貞勝(「村井」)邸へ「わたほうし」3つを持参。村井貞勝は明日近江国安土城へ下向することを知る。
       〔『晴豊記』〕
  2月20日 筒井順慶(「順慶」)、上洛するにあたり大和国興福寺職中へ全5ヶ条の談合内容を指示する。〔『蓮成院記録』三〕
  2月20日 松平家忠、駿河国田中城を攻撃。〔『家忠日記』〕
  2月21日 山科言経、山科言緒(「阿茶丸」)を同行し上御霊社・下御霊社へ参詣。〔『言経卿記』一〕
  2月21日 中御門宣光、入夜に「方違」のため山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  2月21日 山科言経、入夜に冷泉為満を訪問。〔『言経卿記』一〕
  2月21日 徳川家康、駿河国駿府城を占領。
  2月21日 松平家忠、遠江国持船城を包囲。〔『家忠日記』〕
  2月22日 土御門久脩(「陰陽頭久脩」)、織田信長(「前右府」)の執奏により「堂上」に加えられる。即時正親町天皇「勅許」が
       得られた。〔『言経卿記』一〕
  2月23日 織田信長(「信長」)、河尻秀隆(「河尻与兵衛」)へ武田勝頼討伐にあたり全7ヶ条の指示を下す。
       〔「徳川黎明会文書」〕
  2月23日 松平家忠、遠江国持船城の堀際に竹束を寄せて攻撃準備を行う。〔『家忠日記』〕
  2月23日 山科言経、「時正」により花開院・誓願寺・真如堂・阿弥陀寺へ参詣。〔『言経卿記』一〕
  2月23日 山科言経、暮れに「北向」(山科言経室)・山科言緒(「阿茶丸」)を同行し冷泉為満を訪問。明日に冷泉為満と四条隆昌が
       河内国へ下向するというので「暇乞」をした。〔『言経卿記』一〕
  2月23日 勧修寺晴豊、病気となり自邸で静養。また、来たる2月25日に「禁裏」の「御当座」がある連絡を受ける。〔『晴豊記』〕
  2月24日 山科言経、「仁和寺殿」(任助法親王)をこの年最初の訪問をする。〔『言経卿記』一〕
  2月24日 古市宗超、暮れに山科言経を訪問。「和漢」8句を詠んだ。〔『言経卿記』一〕
  2月24日 山科言経、禁裏「当番」に祗候。「相番」は白川雅朝であった。〔『言経卿記』一〕
  2月24日 勧修寺晴豊、勧修寺光豊を同伴し二条御所へ祗候す。〔『晴豊記』〕
  2月24日 吉田兼見、二条御所「御番」に祗候す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  2月24日 吉田兼見、村井貞勝(「春長軒」)を訪問し小将碁を行う。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  2月25日 山科言経、早朝に北野社へ参詣。〔『言経卿記』一〕
  2月25日 「竹内殿」(曼殊院覚恕)の「天神かう」に勧修寺晴豊は勧修寺尹豊(「前内府」)・勧修寺光豊と共に赴く。
       〔『晴豊記』〕
  2月25日 「禁裏」に於いて「御当座」の歌会が催され、勧修寺晴豊は出席す。
       勧修寺晴豊、歌会終了後に誠仁親王の二条御所「御くわんきよ」に同行し、そのまま二条御所「加番」にあたる。
       〔『晴豊記』〕
  2月25日 筒井順慶(「筒井」)より「松権」(筒井順慶被官)を以て大和国興福寺一乗院「慈恩会」の件で来月必ず執行する様にとの
       趣旨の「順慶折紙」が多聞院英俊と「摩尼」に宛てて到来、同心の返答をした。〔『多聞院日記』三〕
  2月26日 二条御所に於いて「和かん」歌会が催される。〔『晴豊記』〕
  2月26日 山科言経、「時正」により「仏閣共」へ参詣。十念寺で「法談」を聴聞し、次いで誓願寺などへ参詣す。〔『言経卿記』一〕
  2月26日 山科言経、暮れに冷泉為満を訪問。〔『言経卿記』一〕
  2月26日 大和国興福寺大乗院門跡、この朝に近江国安土城へ向けて大和国奈良を発す。織田信長が来月早々に信濃国へ「御出馬」する
       ことへの見舞のための出仕であった。〔『多聞院日記』三〕
  2月27日 織田信忠、信濃国鳥居峠から信濃国飯田に進軍し大島城を攻略。織田信忠は大島城を河尻秀隆・毛利良勝に守備させる。
  2月27日 遠江国持船城との和議が締結される。〔『家忠日記』〕
  2月27日 山科言経、「所労気」のために二条御所(「下御所」)の「当番」に祗候せず。〔『言経卿記』一〕
  2月27日 山科言経、庭田重通へ碁盤を返還。〔『言経卿記』一〕
  2月27日 「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、暮れに山科言経邸へ渡御す。〔『言経卿記』一〕
  2月27日 勧修寺晴豊、二条御所へ祗候。
       伊勢国より「禁裏」(正親町天皇)へ「くじら桶」2つ、誠仁親王(「親王御方」)へ「くしらの桶」1つ、勧修寺晴豊へ
       「鯨桶」1つなどが献上された。〔『晴豊記』〕
  2月27日 吉田兼見、招請を受けて佐竹定実(「佐竹出羽守」)の「茶湯座敷会」に参席す。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  2月27日 吉田兼見、招請を受けて佐竹定実(「佐竹羽州」)の「小座敷興」(茶湯)に参席す。〔『兼見卿記』二〕
  2月28日 織田信長(「信長」)、山城国妙心寺開山慧玄(「開山国師」)へ「妙心寺法度」について、長老衆が連署で制定した条数を
       承認し、もし違反者が発生した場合には「衆評」のように妙心寺「寺法」にしたがって処断すべきことを通達。
       〔「妙心寺文書」七〕
  2月28日 織田信長、河尻秀隆(「川尻肥前守」)へ信濃国高遠城攻略のために「繋之城」を構築するよう命令。
       〔『武徳編年集成』二十〕
  2月28日 織田信長、再度注進してきた河尻秀隆(「河尻与兵へ」)へ「道筋跡」及び繋ぎの城を普請して織田信長「出馬」以前には
       竣工すべきこと、「大百性以下」は「草のなひき時分」を見計らうものであるので役に立つものであること、
       武田勝頼(「四郎」)の近所には織田信長(「信長」)が大軍を以て「御出張」するのでそれ以前は越度無き様にすべきことを
       命令。またこの旨を織田信忠(「城之助」)・滝川一益(「滝川」)へも通達したので油断無く「つなぎの城」の構築に努力
       し、時期が来れば織田信長が信濃国へ着陣することを通達。
       〔『古今消息集』一、『武家事紀』二十九、『武徳編年集成』二十〕
  2月28日 山科言経、中御門宣光の所望により「大学」を貸す。〔『言経卿記』一〕
  2月28日 持明院基孝、山科言経を訪問し「不闕常用方」を返還す。〔『言経卿記』一〕
  2月28日 山科言経、暮れに京都誓願寺へ参詣。次いで冷泉為満を訪問。〔『言経卿記』一〕
  2月28日 勧修寺晴豊、村井貞勝(「村井」)邸へ「御使」として赴き織田信長(「信長」)の「陣立」について信濃国への陣中見舞の
       「勅使」を派遣するべきかどうかを談議する。村井貞勝、勧修寺晴豊へ「時分はから」って勅使派遣を上奏すると返答する。
       〔『晴豊記』〕
  2月28日 武田勝頼、信濃国諏訪上原の陣所を焼き捨て、甲斐国新府へ撤退。
  2月28日 大和国興福寺大乗院門跡、近江国安土城に於いて仁王経御修法による祈祷を行う。〔『多聞院日記』三〕
  2月28日 吉田兼見、万里小路充房を訪問するも「他行」であった(別本『兼見卿記』には無い記事)。〔『兼見卿記』二〕
  2月28日 吉田兼見、出京し柳原淳光を訪問、対面す。富小路秀直らと談合す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  2月28日 大和国興福寺、「大御所」が昨日中風を再発したので近江国安土城に出仕している大和国興福寺大乗院門跡へ飛脚を発す。
       〔『多聞院日記』三〕
  2月28日 寛舜、京都に於いて織田信長(「上様」)への進物小袖の調達に遅延したので、これを近江国安土城へ持参す。
       〔『多聞院日記』三〕
  2月28日 大和国興福寺別会五師釈迦院寛尊、早朝より大和国郡山城へ礼参し筒井順慶(「順慶」)及び筒井家中に贈物を贈呈す。
       〔『蓮成院記録』三〕
  2月29日 織田信忠、近江国安土城の織田信長へ武田勝頼の撤退を報告する注進状を発す。〔「関戸守彦氏所蔵文書」〕
  2月29日 朝比奈駿河守(遠江国持船城主)、松平家忠の付き添いにより遠江国久野城に退却す。〔『家忠日記』〕
  2月29日 古市宗超、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  2月29日 勧修寺晴豊、「二条之御当番」として祗候。〔『晴豊記』〕
  2月29日 吉田兼見、二条御所「当番」であったが、明日は吉田神社の神事があるのでその旨を申し入れ祗候せず。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  2月29日 吉田兼見、狩野宗玖を召し寄せて「茶湯座敷」の張付に彩色させる。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  2月29日 吉田兼見、中村入道宗玖を召し寄せて「小座敷」の張付に彩色させる。〔『兼見卿記』二〕
  2月29日 多聞院英俊、寛舜が京都より大和国奈良に下ったこと、織田信長(「上様」)への進物である小袖の調達が遅延したので、
       昨日2月28日に近江国安土城へ届けたことを知る。〔『多聞院日記』三〕
  2月29日 多聞院英俊、「栂尾開帳」をめぐる争論について村井貞勝(「村井長門入道」)へ訴訟することについての情報に接す。
       〔『多聞院日記』三〕
  2月29日 大和国興福寺より発せられた飛脚が八時分に近江国安土城に出仕している大和国興福寺大乗院門跡のもとに到着。
       〔『多聞院日記』三〕
  2月29日 大和国興福寺大乗院門跡、大和国奈良に向けて近江国安土城を発す。〔『多聞院日記』三〕
  2月29日 稲葉一鉄、神前の花盛で和歌を作る。〔「稲葉文書」‐56〕

 3月
  3月 1日 織田信長(「信長」)、河尻秀隆(「河尻与兵衛」)へ武田勝頼討伐のための織田信長出陣前に全5ヶ条の指示を下す。
       〔「徳川黎明会文書」〕
  3月 1日 織田信忠、武田勝頼(「武田四郎」)・仁科盛信(「仁科五郎」)が籠もる信濃国高遠城への攻撃を開始する。
       〔『立入左京亮入道隆佐記』〕
  3月 1日 徳川家康、穴山信君(駿河国江尻城主)を勧降させる。
  3月 1日 松平家忠、穴山信君(駿河国江尻城主)が徳川家康に寝返ったことを知る。〔『家忠日記』〕
  3月 1日 「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)が官女を、「北向」(山科言経室)が官女「小少将」を近江国安土城の織田信長へ
       「当年音信」を送る。〔『言経卿記』一〕
  3月 1日 山科言経、新在家の江村専斎(「江村甚太郎」)・古市宗超の来訪を受けて読書指南をする。「論語」を読んだ。
       〔『言経卿記』一〕
  3月 1日 山科言経、正親町天皇へ1荷両種を献上。〔『言経卿記』一〕
  3月 1日 山科言経、富小路秀直より明後日の「鶏合之廻文」のために「殿上人次第」を問われ、書き遣わす。〔『言経卿記』一〕
  3月 1日 吉田兼見、恒例の吉田神社の神事を行う。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月 1日 大和国興福寺大乗院門跡、近江国安土城から休み無く急行、この朝五時分に大和国奈良に帰座。〔『多聞院日記』三〕
  3月 2日 織田信長(「信長」)、村井貞勝(「春長軒」)へ「伊勢正遷宮」執沙汰について藤波慶忠(「祭主」)が早急に「山口祭」
       を行い、造作を簡素化するよう指示。〔「下郷共済会氏所蔵文書」〕
  3月 2日 織田信忠(「中将殿」)、信濃国高遠城を攻略し武田信豊(「典厩」)・仁科盛信(「武田四郎舎弟」)以下を「打果」す。
       〔『兼見卿記』二〕
  3月 2日 織田信忠、信濃国高遠城を攻略して甲斐国へ進軍す。〔『立入左京亮入道隆佐記』〕
  3月 2日 織田軍、「甲州之衆」と一戦に及び100余を討ち取る。〔『多聞院日記』三〕
  3月 2日 仁科盛信(「仁科」)、信濃国高遠城に於いて戦死。〔『立入左京亮入道隆佐記』〕
  3月 2日 徳川家康、穴山信君(「穴山殿」)へ甲斐国「乱入」にあたり甲斐国を進呈する約束について、「所務」(年貢収入)が無く
       とも2年・3年は織田信長(「安土」)より扶持が加えられるように取り成すこと、もし首尾通りにならなければ徳川家康が
       「合力」することを通達。〔『記録御用所本古文書』一〕
  3月 2日 山科言経、江村専斎(「江村甚太郎」)の来訪を受けて読書する。〔『言経卿記』一〕
  3月 2日 「若宮さま」の「御湯かけ」があり、勧修寺晴豊は参上する。
       紀伊国雑賀の「北ノ方」より「文」・「はまあふり」が送付されて来た。〔『晴豊記』〕
  3月 2日 吉田兼見、明日は「節句」のため村井貞勝(「春長軒」)を礼問、対面して少将碁を行う。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  3月 2日 吉田兼見、村井貞勝を訪問し、将碁を行う。〔『兼見卿記』二〕
  3月 2日 吉田兼見、二条御所(「下御所」)に祗候。この度の和仁親王(「若宮御方」)の病気平癒「御加持」の功績を賞せられ酒盃
       を賜わる。二条御所「女房館」に於いて薄諸光が罷り出て酒盃を下した。御酌は大御乳人であった。吉田兼見は礼を上奏して
       二条御所を退出す。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  3月 2日 吉田兼見、二条御所(「下御所」)へ祗候。和仁親王(「若宮御方」)が「御本服」しこの日に行水したというので祝儀の
       酒宴が催される。薄諸光・吉田兼見に女中が御酌した。〔『兼見卿記』二〕
  3月 2日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問、対面し雑談す。織田信長(「信長」)が来3月5日に「東国甲州」への出陣する
       ことが決定したこと、近衛前久(「御家門」)も来3月5日より甲斐国へ出陣するとのことであった。
       吉田兼見は近衛前久より「軍陣祓」・軍陣「祭文」を贈呈す。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  3月 2日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問。
       吉田兼見は来3月5日に織田信長(「先右府信長」)の「御進発」が決定したこと、また来5日の早天に近衛前久も「御出陣」
        ということを知る。「軍陣御祓」・軍陣「要文」を贈呈す。〔『兼見卿記』二〕
  3月 2日 この夜は「かう神」であった。〔『晴豊記』〕
  3月 2日 大和国南衆、信濃国への出征のために先ず山城国まで出陣す。多聞院英俊はこの出征を「上下ノ迷惑無限事」と評す。
       〔『多聞院日記』三〕
  3月 3日 織田信長(「信長」)、織田信忠(「城介殿」)へ駿河国の穴山信君(「穴山」)が「謀反」して武田勝頼(「四郎」)が
       甲斐国へ撤退したこと、穴山信君(「穴山」)が徳川家康に内通したこと、信濃国大島から飯島への陣替を諒承したこと、
       織田信忠のこれ以上前方への進軍は「一切無用」であること、織田信長自身は近々「出馬」するので武田軍を容易く撃破する
       予定であることを通達。また先頃に河尻秀隆(「河尻与兵衛」)へもこの旨を通達したことを通知。
       〔「関戸守彦氏所蔵文書」〕
  3月 3日 徳川家康、甲斐国南松院へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「南松院文書」〕
  3月 3日 武藤康秀(「助一得」)、越前国三ヶ市町の越後屋へ諸役末代免除を安堵。〔「奥富市右衛門文書」〕
  3月 3日 山科言経、冷泉為満より節供祝儀を受ける。〔『言経卿記』一〕
  3月 3日 山科言経、村井貞勝(「春長軒」)へ節供のための礼問をする。〔『言経卿記』一〕
  3月 3日 山科言経、暮れに冷泉為満を礼問す。〔『言経卿記』一〕
  3月 3日 吉田兼見、この晩に吉田兼治を同行し二条御所(「下御所」)へ祗候。薄諸光を介して参上を申し入れ、誠仁親王と対面す。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月 3日 誠仁親王、禁裏(「上御所」)に御成す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月 3日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問。近衛前久は明後日に出陣というので近江国安土へ下向するとのことであった。
       〔『兼見卿記』二(別本)〕
  3月 3日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問し、明後日3月5日に近衛前久「御出陣」が決定したことを知る。
       〔『兼見卿記』二〕
  3月 3日 多聞院英俊、この朝早旦より筒井順慶(「筒井順慶」)とその与力の大和国衆が悉く出陣したこと、織田信長(「信長」)は
       来3月9日に信濃国へ向けて「出馬」することになっているので、明智光秀(「惟任」)が先発として来3月5日に出陣する
       こと、そのために明智光秀「一手ノ衆」がこの日に出陣したことを知る。〔『多聞院日記』三〕
  3月 4日 「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)の派遣した官女と山科言経が派遣した官女(小少将)が近江国安土城より上洛。
       山科言経、官女より織田信長との交渉は「仕合吉」であったとの報告を受ける。〔『言経卿記』一〕
  3月 4日 山科言経、高倉永孝の所望により愛洲薬1包を送る。〔『言経卿記』一〕
  3月 4日 吉田兼見、二条御所「当番」に祗候。誠仁親王は昨日「上御所」に御成したまま、未だ還御していなかった。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月 4日 吉田兼見、近衛前久(「御家門」)を訪問。近衛前久は明日の出陣準備をしていた。吉田兼見、近衛前久より馬を預かる。
       〔『兼見卿記』二(別本)〕
  3月 4日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問したが、明日の出陣準備のため「以外取乱」れており、馬を預かった。
       〔『兼見卿記』二〕
  3月 4日 吉田兼見、明智光秀(「惟任日向守」)へ使者を派遣し出陣見舞の「軍陣祓」(正本では「軍陣之祓」)・弓懸を送付。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月 4日 吉田兼見、明智光秀(正本では「惟任日向守」)より出陣見舞の返事を受ける。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月 4日 徳川家康、穴山信君と対面。
  3月 4日 明智勢が「大事ノ陣」というので信濃国へ向けて「ちりちり」と出発。兵卒はまさに「しほしほ」とした様相であった。
       〔『晴豊記』〕
  3月 4日 大和国衆、東国陣に向けて上洛。〔『蓮成院記録』三〕
  3月 5日 織田信長(「信長」)、暁に陣立す。〔『晴豊記』〕
  3月 5日 織田信長(「右府」)、未明に「御出馬」す。近江国佐和山城に滞陣。〔『兼見卿記』二〕
  3月 5日 「信長きたう」である「八わたの御ほうらく」が行われる。〔『晴豊記』〕
  3月 5日 山科言経、江村専斎(「江村甚太郎」)の来訪を受けて読書す。〔『言経卿記』一〕
  3月 5日 山科言経、古市宗超の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕
  3月 5日 吉田兼見、吉田兼治を同行し近衛前久(「御家門」)の出陣を粟田口周辺で見送る。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月 5日 吉田浄勝(「盛方院浄勝」)、近江国安土より帰還し、その途上に吉田兼見を訪問す。
       吉田兼見、吉田浄勝よりこの朝に織田信長(「信長」)は近江国佐和山城を出陣したこと、出陣する軍勢は近江国安土に至る
       まで続くほど多いこと、特に明智光秀(「日向守」)の軍勢は多く「奇麗」であったことを知らされる。
       吉田浄勝はその後に帰京す。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  3月 5日 吉田浄勝(「盛方院」)、近江国安土より上洛の途上で吉田兼見を訪問。
       吉田兼見、吉田浄勝より織田信長がこの朝に「御出馬治定」のこと、出陣路次中には数千騎が配備され、その中には「帯武具」
       びた明智光秀(「惟任向州」)の軍勢が多かった旨を知る。(*明智光秀を称揚する表現を削除している)〔『兼見卿記』二〕
  3月 5日 山科言経、暮れに冷泉為満を訪問す。〔『言経卿記』一〕
  3月 5日 誠仁親王(「親王御方」)、この晩に二条御所(「二条」)へ還御。〔『晴豊記』〕
  3月 5日 勧修寺晴豊、禁裏より二条御所への誠仁親王の還御に随行しそのまま二条御所「御番」に祗候す。〔『晴豊記』〕
  3月 5日 大和国興福寺別会五師釈迦院寛尊、今度の織田信長(「上様」)の「東国御出馬」について大和国衆が昨日より上洛したこと
       南方衆は山城国まで先勢として着陣したこと、大和国衆の「大将衆」は奈良に滞在し、筒井順慶(「順慶」)は明日未明に出陣
       することを知る。「ゥ力衆」と「少分限之衆」にとっては他国への軍事行動、特に「遠国迷惑」であり、更に甲斐国・越後国衆
       は「弓矢天下一之軍士」という風聞が浸透しているので東国陣は「一大事之陣立」であった。〔『蓮成院記録』三〕
  3月 6日 織田信長(「信長」)、この暁に「陣立」す。〔『晴豊記』〕
  3月 6日 山科言経、所労により外出せず。〔『言経卿記』一〕
  3月 6日 勧修寺晴豊、明け方に二条御所より退出し、「通仙」(半井瑞策)より夕方の「茶湯」に招待される。〔『晴豊記』〕
  3月 7日 山科言経、江村専斎(「江村甚太郎」)の来訪を受けて読書を指南。「法花経学匠」の沢路練意が読書聴聞を所望し到来す。
       〔『言経卿記』一〕
  3月 7日 山科言経、「下御所番」に祗候すべきであったが所労のために白川雅朝へ「故障」の旨を伝達する。〔『言経卿記』一〕
  3月 7日 山科言経、冷泉為満が所労というので見舞のために訪問す。「咳気」であったが「大験」した。夕食を相伴す。
       〔『言経卿記』一〕
  3月 7日 山科言経、「七宮御方」(誠仁親王第七皇子)へ保童円を進上。〔『言経卿記』一〕
  3月 7日 勧修寺晴豊、中山親綱・勧修寺尹豊(「入道殿」)・古市宗超(「古市入道宗顕」)・高橋若狭らの来訪を受ける。
       〔『晴豊記』〕
  3月 7日 中山親綱・吉田牧庵、二条御所へ祗候す。〔『晴豊記』〕
  3月 8日 織田信長、尾張国犬山に着陣す。〔『古今消息集』一、『古証文』五〕
  3月 8日 織田信長、柴田勝家(「柴田修理亮」)へ越中国方面に「一揆」が発生したが柴田勝家等が「成敗」したことを諒承し、
       越中国松倉城への軍事行動は油断無く執り行うこと、神保長住(「神保」)より上杉景勝与党(「越後之族」)が増援軍として
       向かっているという報告が入ってきたことに触れ、上杉軍を引き留めて殲滅することを命令。
       また織田信長自身は3月5日に近江国安土城を出陣し、この日に尾張国犬山城へ到着したことに触れ、武田勝頼(「四郎」)は
       去る2月28日に信濃国諏訪上原の陣所を撤退、居城をも焼き捨て山奥へも逃げ失せてしまったので織田軍「先手之者共」を
       早急に甲斐国へ侵入させ、織田信忠も同様に進軍したことを通知し、織田信長は「出馬」しなくても今まで「関東見物」を望ん
       でいたので良い機会であるから関東へ足を運ぶことにすることを通達。
       さらに武田勝頼(「四郎」)の件は「彼等代々の名をくたし」て早々に「属平均」すことを通知。
       〔『古今消息集』一、『古証文』五〕
  3月 8日 正親町天皇(「禁裏」)、近衛信尹(「近衛殿内府」)の明日の「御法楽之御うた」を叡覧す。〔『晴豊記』〕
  3月 8日 山科言経、山科言緒(「阿茶丸」)を同行し因幡堂薬師へ参詣す。〔『言経卿記』一〕
  3月 8日 山科言経、沢路練意へ「論語」の講習を開始する。また1巻・2巻の借用を所望され貸す。〔『言経卿記』一〕
  3月 8日 山科言経、日野輝資より「公卿補任」15冊・公卿補任「目六」・「分韻」などを返還される。
       日野輝資の「出陣」によるものであった。〔『言経卿記』一〕
  3月 8日 吉田兼見、中御門宣光の「口宣」で正親町天皇からの織田信長(「信長」)の「御出陣御祈」命令を受ける。
       「請文」には及ばずということであった。吉田兼見、この日より「修行」を行う。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  3月 8日 吉田兼見、中御門宣光の御触にて正親町天皇からの織田信長(「右府信長」)の「出陣御祈」命令の「口宣案」を受ける。
       「請文」には及ばずということであった。この日より「修行」を行う。〔『兼見卿記』二〕
  3月 8日 山科言経、暮れに大和宗恕の来訪を受けて移刻雑談す。〔『言経卿記』一〕
  3月 8日 水無瀬兼成(「水無瀬殿」)、大和国興福寺「大御所」の診療のために大和国奈良へ下向。〔『多聞院日記』三〕
  3月 9日 「八幡御法楽うた」が催され、「信長陣立御きたう」100首が進上された。〔『晴豊記』〕
  3月 9日 山科言経、大和宗恕より「八卦占」1巻を借用す。〔『言経卿記』一〕
  3月 9日 山科言経、沢路練意の来訪を受けて「論語為政」第二の読書指南をする。〔『言経卿記』一〕
  3月 9日 山科言経、古市宗超を召喚し「鼻血」を出した「北向」(山科言経室)の脈診をさせる。〔『言経卿記』一〕
  3月 9日 山科言経、「大津塩」(大津座塩公事)の件で村井吉忠(「村井又兵衛」)・村井光清(「将監」)へ訴訟に及ぶ。
       山科言経はここ数日毎日村井光清(「将監」)へ訴訟をしていたが反応はなかった。〔『言経卿記』一〕
  3月 9日 山科言経、日野輝資より「法花経一部」8巻を返還される。〔『言経卿記』一〕
  3月 9日 山科言経、禁裏「当番」に祗候。「相番」は甘露寺経元・白川雅朝、「外様」は東坊城盛長(「式部大輔」)であった。
       〔『言経卿記』一〕
  3月 9日 勧修寺晴豊、「下御所御番」に祗候。〔『晴豊記』〕
  3月 9日 吉田兼見、二条御所「当番」に祗候。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月 9日 村井貞勝(「村井」)、二条御所に祗候した勧修寺晴豊へ織田信長陣所への「御音信之物」について談合する旨を要請。
       〔『晴豊記』〕
  3月 9日 多聞院英俊、大和国春日山に「光物」が飛び去ったことを知り「心細」く思う。〔『多聞院日記』三〕
  3月10日 山科言経、四条隆昌の訪問を受ける。〔『言経卿記』一〕
  3月10日 山科言経、沢路練意・江村専斎(「江村甚太郎」)の来訪を受けて読書指南を行う。〔『言経卿記』一〕
  3月10日 山科言経、古市宗超の訪問を受けて談合す。〔『言経卿記』一〕
  3月10日 勧修寺晴豊、二条御所(「下」)の「御番」に祗候。〔『晴豊記』〕
  3月10日 水無瀬兼成(「水無瀬殿」)、大和国興福寺「大御所」の病状が快復したのでこの朝に上洛す。〔『多聞院日記』三〕
  3月10日 徳川家康、甲斐国市川に布陣。
  3月11日 正親町天皇(「京都」)、大和国興福寺へ織田信長(「前右府」)の東国出陣にあたり17日間の「祈祷」を行う旨の
       「倫旨」を下す。〔『多聞院日記』三〕
  3月11日 正親町天皇(「叡慮」)、大和国興福寺へ大乗院殿南院泰縁寺主を「御使」として織田信長(「前右府」)の東国出陣に際し
       17日間の祈祷をする旨の薄墨「綸旨」を下す。また巻数は東国の織田信長陣所へ大和国興福寺より直接送付することを命令。
       (*『蓮成院記録』三に収録された綸旨の日付は奉者の中御門宣光が認めた日付である)〔『蓮成院記録』三〕
  3月11日 一条内基(「関白殿」)、大和国春日大社へ織田信長の東国出陣にあたり17日間の「祈祷」を行う旨を通達す。
       〔『蓮成院記録』三〕
  3月11日 徳川家康・穴山信君、甲斐国甲府の織田信忠を訪問。
  3月11日 柴田勝家・前田利家、越中国魚津城・越中国松倉城を攻囲。
  3月11日 武田勝頼・武田信勝、天目山の戦で織田軍に敗北。田野に於いて一族・郎党と共に自刃。長坂光堅らも殉ず。
  3月11日 武田勝頼ら、甲斐国「天目谷一揆」に討たれる。(*別本『兼見卿記』には無い記事)〔『兼見卿記』二〕
  3月11日 武田勝頼一党、全滅す。〔『立入左京亮入道隆佐記』〕
  3月11日 「武田一党」、悉く討死する。〔『言経卿記』一〕
  3月11日 武田勝頼、甲斐国天目山にて敗北・自刃。〔『理慶尼記』〕
  3月11日 二条御所(「下御所」)に於いて「信長陣御きたう」の「千返御楽」が催される。〔『晴豊記』〕
  3月11日 勧修寺晴豊、村井貞勝(「村井」)より出陣中の織田信長(「信長」)が甲斐国まで進軍し「東国相見」ると言って来た旨を
       知らされる。また武田勝頼(「武田四郎」)が300計りの兵卒を率いて上野国へ撤退したこと、「首ちうもん」が到着した
       ことも知らされる。〔『晴豊記』〕
  3月11日 山科言経、長橋局(量子:高倉永家女)を介して正親町天皇(「禁中」)へ恩借の書物54冊を返還す。〔『言経卿記』一〕
  3月11日 山科言経、沢路練意の来訪を受けて読書指南を行う。〔『言経卿記』一〕
  3月11日 山科言経、「大津者」より鮒5匹を進上される。〔『言経卿記』一〕
  3月11日 山科言経、「大津者」が村井吉忠(「村井又兵衛」)へ鮒20匹、村井吉忠家中の冬木軒へ鮒5匹を進上するというので
       山科家よりの使者2名を同行させる。〔『言経卿記』一〕
  3月11日 山科言経、冷泉為満を訪問し四条隆昌と冷泉為満が「咳気」であることを知る。〔『言経卿記』一〕
  3月11日 吉田兼見、村井貞勝(「春長軒」)を見舞のために訪問し対面す。
       村井貞勝(「春長」)、吉田兼見へ注進状を見せながら信濃国は悉く織田「御理運ニ被仰付」れて「相果」てたこと、
       信濃国高遠城以下を織田信忠(「中将殿」)自身が攻略したこと、仁科盛信(「武田四郎舎弟」)・武田信豊(「典厩」)が
       討死にしたことを知らせる。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  3月11日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し面会、信濃国は「悉以相済」んで織田信長(「右府」)の「御理運之旨」に属した
       注進状を披見する。注進状によれば織田信忠(「中将殿」)自身が去3月2日に信濃国高遠城を攻略し武田信豊(「典厩」)・
       仁科盛信(「武田四郎舎弟」)以下を「被打果」れたことを知る。〔『兼見卿記』二〕
  3月11日 吉田兼見、二条御所(「下御所」)に祗候。
       二条御所に於いて織田信長(「信長」)のための「御祈祷」である「千返之御楽」が行われ公家衆が祗候した。
       吉田兼見、村井貞勝(「春長」)へ二条御所に於いて織田信長の祈祷を行っている旨を注進す。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  3月11日 吉田兼見、二条御所(「下御所」)に祗候。
       二条御所に於いて織田信長(「右府」)のための「御祈祷」である「千変之御楽」が行われ公家衆が祗候した。
       (*村井貞勝へ二条御所での祈祷実施通知が削除されている)〔『兼見卿記』二〕
  3月11日 吉田兼見、近衛邸へ近衛前久(「近衛殿」)の留守見舞をする。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月11日 大和国興福寺へ正親町天皇(「京都」)より「倫旨」が到達。
       その内容は織田信長(「前右府」)の出陣にあたり17日間の「祈祷」を行うようにとの命令であった。
       〔『多聞院日記』三〕
  3月12日 山科言経、古市宗超の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕
  3月12日 勧修寺晴豊、柳原資定と共に禁裏へ祗候、酒宴が催された。
       近衛信尹(「近衛殿御方御所」)も参席しており、近衛信尹(「内府」)はことのほか「大酔」してしまった。〔『晴豊記』〕
  3月12日 多聞院英俊、天候不良と先頃の「光物」のために「心細」き思いを募らせる。〔『多聞院日記』三〕
  3月12日 多聞院英俊、去3月2日に織田軍が「甲州之衆」と一戦に及び100余を討ち取ったこと、また織田信忠(「城介殿」)が
       織田信長(「信長」)へその戦果の「注進状之写」を送付したことを知る。〔『多聞院日記』三〕
  3月12日 多聞院英俊、誠仁親王(「親王様」)が織田信長(「前右府」)の「出陣祈祷」のために来3月15日に石清水八幡宮へ
       「御行幸」する予定であることを知る。〔『多聞院日記』三〕
  3月13日 織田信長、「飛脚」を以て戦況を尋ねてきた北陸方面駐軍の柴田勝家(「柴田修理亮」)・佐々成政(「佐々内蔵介」)・
       前田利家(「前田又左衛門」)・不破直光(「不破彦三」)へ武田勝頼(「武田四郎勝頼」)・武田信勝(「武田太郎信勝」)
       と長坂光堅(「長坂釣閑」)・武田信豊(「典厩」)・小山田信茂(「小山田」)を始めとする甲斐武田家「家老者」を悉く
       討ち果たし、駿河国・甲斐国・信濃国は滞り無く「一篇被申付」れたので心配は無用であることを通達。
       〔池田家文庫本『信長記』、『松雲公採集遺編類纂』〕
  3月13日 松平家忠、穴山信君へ人馬を返還。〔『家忠日記』〕
  3月13日 誠仁親王(「親王御方」)、「上之御所」に御成しそのまま滞在。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月13日 山科言経、持明院基孝の来訪を受けて装束借用を承諾す。〔『言経卿記』一〕
  3月13日 山科言経、沢路練意の来訪を受けて「侖吾郷党篇」の読書指南を行う。〔『言経卿記』一〕
  3月13日 山科言経、江村専斎(「江村甚太郎」)の来訪を受けて読書指南を行う。〔『言経卿記』一〕
  3月13日 勧修寺晴豊、明後日3月15日の「内侍所御楽」の連絡を伝達。〔『晴豊記』〕
  3月13日 勧修寺晴豊、夕方に二条御所(「下御所」)へ祗候。〔『晴豊記』〕
  3月14日 織田信長、信濃国伊那郡波合に着陣。
  3月14日 松平家忠、甲斐国甲府善光寺を見物。〔『家忠日記』〕
  3月14日 誠仁親王(「親王御方」)、昨日より「上之御所」に御成しており、この日も二条御所へ還御せず。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月14日 勧修寺晴豊、「御使」として村井貞勝(「村井」)邸に赴き明日の「御かくら」警固命令を伝達。高倉永相(「藤中納言」)
       を織田信長(「信長」)陣所へ「御使」として下向させるのは3月18日か19日頃で適切かを談合する。
       勧修寺晴豊は村井貞勝(「村井」)より神楽「御けいこ」を厳重にするようにとの返答を得る。
       また陣中への勅使派遣は早急にすべきであるが、高倉永相(「藤中納言」)などは「年より」であるので「わかきしゆ」を下向
       させるべきであるとの意見であった。〔『晴豊記』〕
  3月14日 山科言経、沢路練意の来訪を受けて読書指南を行う。〔『言経卿記』一〕
  3月14日 吉田兼見、万里小路充房から派遣された使者の来訪を受ける。明日3月15日の禁裏「御神楽」が行われるので吉田兼見に
       「御脂燭之役」を担当する旨の通達であった。吉田兼見、使者へ万里小路充房を訪問して談合する旨を返答す。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月14日 吉田兼見、万里小路充房を訪問し対面。明日の御神楽の用意が不備であること、御脂燭役は初めてであること、それでも参勤
       することが必要であるのかを問う。万里小路充房、吉田兼見へ装束は借用すべきであることを通達。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月14日 吉田兼見、万里小路充房邸より直に山科言経を訪問し、明日御神楽装束について相談す。
       山科言経、吉田兼見へ舟橋国賢が所持している旨を通知。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月14日 山科言経、吉田兼見の到来を受けて「束帯具」の件を談合。〔『言経卿記』一、『兼見卿記』二〕
  3月14日 吉田兼見、山科言経邸より直に舟橋国賢を訪問。明日の御神楽装束の借用を依頼し同心を得る。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月14日 吉田兼見、舟橋国賢より明日の御神楽装束を借用し、再度万里小路充房を訪問。明日の御神楽に祗候する旨を上申す。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月14日 吉田兼見、後刻に再度山科言経を来訪。〔『言経卿記』一〕
  3月14日 山科言経、暮れに冷泉為満を訪問。〔『言経卿記』一〕
  3月14日 吉田兼見、二条御所「当番」に祗候。
       薄諸光より「五位之袍」は舟橋国賢が所持しているので借用の仲介を依頼され、舟橋国賢に借用を申し入れ同心を得、薄諸光に
       借用した袍を渡す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月14日 吉田兼見、和仁親王(「若宮御方」)の御乳人が「重服」ということを知り、明日の神事に参席するために許可を得て
       二条御所を退出す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月14日 富小路秀直、二条御所に於いて和仁親王御乳人の「重服」を知り、明日の神事参席のために許可を得て二条御所を退出す。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月15日 羽柴秀吉、備中国攻略のために播磨国姫路城より出陣。
  3月15日 山科言経、「大津者」が村井光清(「村井将監」)へ鮒15匹を、村井光清家中の「キ衛門尉」へ鮒2匹を進上し「公事篇」
       の件を訴えたことを知る。〔『言経卿記』一〕
  3月15日 葉室頼宣、裾を甘露寺経元に貸しているというので山科言経より借用する。〔『言経卿記』一〕
  3月15日 山科言経、白川雅朝より「七味円方」を借用す。〔『言経卿記』一〕
  3月15日 山科言経、沢路練意の来訪を受けて読書指南を行う。また「蒙求疏本」借用の所望を受けて貸す。〔『言経卿記』一〕
  3月15日 吉田兼見、雨天のために万里小路充房へ使者を派遣しこの夜の御神楽は行われるのかを問う。雨天であっても御神楽は
       行われるとの返答であった。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月15日 「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、暮れに山科言経邸へ渡御す。〔『言経卿記』一〕
  3月15日 吉田兼見、暮れに万里小路充房邸を訪問したところ、早々に準備して禁裏に参内すべき旨を通達され、高倉永孝に衣紋借用の
       使者を派遣。高倉永孝は即時衣紋を持参した。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月15日 万里小路充房、衣冠を着して禁裏に参内す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月15日 高倉永孝、万里小路充房邸に滞在する吉田兼見に衣紋を貸して帰宅す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月15日 吉田兼見、万里小路充房より使者を受けて禁裏に参内。吉田兼見は禁裏「清涼殿」の東縁辺に於いて万里小路充房と合流、
       禁裏「内侍所」に随行す。役者が遅参したので数刻待機した。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月15日 禁裏内侍所に於いて「御かくら」が催される。〔『晴豊記』〕
  3月15日 正親町天皇、子刻に禁裏御神楽祈祷に出御す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月15日 「禁中内侍所」に於いて臨時の「御神楽」が催され、正親町天皇が出御した。〔『言経卿記』一〕
  3月15日 禁裏「内侍所」に於ける御神楽に衣冠を着した公家衆が参席。「内々之衆」の多分が参席した。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月15日 雨天であったが、禁裏内侍所に於いて正親町天皇が「庭上之作法」を執行した際に雨が止んだので、参席した公家衆は
       「天道之感応奇特」と話し合った。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  3月15日 雨天の中、禁裏内侍所「内陣」に於いて正親町天皇(「主上」)が「御鈴」を引いた。
       その後に「庭上之儀式」が行われたが、この際には「雨晴」た。〔『兼見卿記』二〕
  3月15日 正親町天皇、丑下刻に禁裏「内侍所」から還御す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月15日 吉田兼見、「庭上之儀未相果」であったが禁裏を退出、万里小路充房邸に於いて着替えて帰宅した。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月15日 多聞院英俊、「栂尾御宿坊」をめぐる争論が「京都開闔」村井貞勝(「村井長門入道」)により裁定がなされたことを知る。
       〔『多聞院日記』三〕
  3月16日 織田信長、信濃国飯田に於いて武田信豊(「典厩」)の首実検を行う。
  3月16日 織田信長(「前右府」)陣所(信濃国飯田カ)に武田勝頼(「四郎殿」)・武田信勝(「太郎殿」)・武田信豊(「典厩」)
       の首級が届けられる。〔『多聞院日記』三〕
  3月16日 織田信長陣所へは万里小路充房(「万里」)が勅使として派遣されることになった。〔『晴豊記』〕
  3月16日 山科言経、持明院基孝より装束を返還される。〔『言経卿記』一〕
  3月16日 山科言経、沢路練意の来訪を受けて読書指南を行う。「侖吾」の講読は終了した。〔『言経卿記』一〕
  3月16日 山科言経、毘沙門堂公厳を訪問。般若「心経」1巻・「医書」切紙2枚を持参した。また「拾芥抄」上巻を返還される。
       〔『言経卿記』一〕
  3月16日 吉田兼見、使者を派遣して高倉永孝へ昨日の神楽用装束借用の礼を伝える。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  3月16日 吉田兼見、高倉永孝へ礼の使者を派遣する。〔『兼見卿記』二〕
  3月17日 織田信長、松井友閑(「宮内卿法印」)へ甲斐武田氏討伐完遂の状況に触れ、北条氏政(「相州氏政」)が駿河国まで出陣し
       「一廉馳走」をしたこと、「東八箇国」は平定されたとの見通し、甲斐国・信濃国に織田信忠(「城介」)を残留させて
       織田信長(「信長」)自身は近日に近江国安土城へ帰還するので見舞は無用であること、路次が険しいので下向する必要は無い
       こと、この様子は未だ近江国安土城へも連絡していないが、「京都」・「五畿内」・羽柴秀吉(「羽柴藤吉郎」)の在陣して
       いる中国方面まで残さず「相触」れるために詳細を「染筆」したことを通達。
       〔『武家事紀』二十九、『古文書録』乾、「笠置文書」〕
  3月17日 徳川家康、信濃国諏訪に織田信長を訪問し対面。
  3月17日 山科言経、渡辺又七へ「平家」物語を返還す。〔『言経卿記』一〕
  3月17日 山科言経、柳原淳光より「春日祭次第」と「譲位次第」を返還される。〔『言経卿記』一〕
  3月17日 山科言経、「下御所当番」に祗候。「相番」は白川雅朝、「加番」は高倉永孝、「外様」は柳原淳光・西洞院時慶・五辻元仲
       であった。〔『言経卿記』一〕
  3月17日 山科言経、白川雅朝へ「七味円方」を返還す。また「源氏論義」借用を所望され貸す。〔『言経卿記』一〕
  3月17日 吉田兼見、「内々可来」という「約諾」をしていたので柳原淳光・万里小路充房に使者を派遣したところ、柳原淳光・
       万里小路充房両人共に「所用」というので「不可来」という返事を受けた。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  3月17日 吉田兼見、明日来訪の「兼約」を結んでいた柳原淳光と万里小路充房へ使者を派遣し、明日必ずの来訪を乞う。
       柳原淳光は「神宮伝奏」であるので神宮遷宮のため「隙入之由」という返答であり、万里小路充房は「東国御陣」への「御使」
       として下向するので「取乱」れているという返答であった。〔『兼見卿記』二〕
  3月17日 「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、暮れに山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  3月17日 山科言経、古市宗超の訪問を受ける。〔『言経卿記』一〕
  3月18日 「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)・万里小路充房(「万里」)、この年初めて禁裏へ参内する。〔『晴豊記』〕
  3月18日 勧修寺晴豊、織田軍の「陣之様体」についての様々な風聞に接す。〔『晴豊記』〕
  3月18日 吉田兼見、「東国御陣」の織田信長(「信長」)のもとに出発する「御使」万里小路充房を訪問する。
       吉田兼見、信濃国は「悉信長存分ニ被申付」という趣旨の「注進之条書」を披見す。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  3月18日 吉田兼見、万里小路充房を訪問。東国御陣「下向」の用意をしていた。そこで「救庵」(阿野実時)のもとへ向かい面会、
       信濃国は「弥相済」という「条書」を披見した。〔『兼見卿記』二〕
  3月18日 山科言経、毘沙門堂公厳の所望により般若「心経」を貸す。〔『言経卿記』一〕
  3月18日 山科言経、沢路練意の来訪を受けて「侖吾」2冊を返還される。また所望により「侖吾」3・4・5・6巻を貸す。
       〔『言経卿記』一〕
  3月18日 柳原淳光、山科言経を招喚す。〔『言経卿記』一〕
  3月18日 山科言経、柳原淳光の招喚により訪問。訪問は「内々契約」であった。「神宮之事目六」について談合した。次いで
       「一社奉幣」と「山口祭」の次第を借用する。その後、山科言経は冷泉為満を訪問。〔『言経卿記』一〕
  3月18日 山科言経、水無瀬兼成の宿所を訪問するも留守であった。そこで「下御所外様番衆所」にて待っていたが会えず。
       その間に西園寺実益と雑談した。〔『言経卿記』一〕
  3月18日 吉田兼見、舟橋国賢(「清少納言」)を訪問。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月18日 吉田兼見、吉田牧庵を訪問。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月18日 吉田兼見、近衛信尹(「近衛殿御方御所」)を訪問し対面す。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  3月18日 吉田兼見、吉田浄勝(「盛方院」)の留守を見舞う。その後吉田兼見は帰宅す。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月19日 織田信長、信濃国上諏訪に滞陣。
  3月19日 穴山信君、信濃国上諏訪に於いて織田信長に謁す。
  3月19日 松平家忠、織田信長が三河国を通過し帰陣する予定であるので、遠江国での御茶屋建設をすることを知る。〔『家忠日記』〕
  3月19日 「若宮御方」の病気(「出物」)により勧修寺晴豊邸に御成していた「五の宮」・「ひめ宮」がこの日に二条御所へ戻る。
       〔『晴豊記』〕
  3月19日 山科言経、柳原淳光へ「一社奉幣日時定次第」と「山口祭日時定次第」を返還す。〔『言経卿記』一〕
  3月19日 吉田兼見、「東国御陣」へ使者として鈴鹿喜介を派遣することを決定。(*別本『兼見卿記』では削除されている)
       〔『兼見卿記』二(別本)〕
  3月19日 吉田兼見、二条御所「当番」であったが西洞院時慶に「相伝」し、祗候せず。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月20日 織田信長、信濃国上諏訪に於いて木曽義昌・穴山信君・小笠原信嶺らを謁す。
  3月20日 山科言経、江村専斎(「江村甚太郎」)の来訪を受けて読書指南を行う。〔『言経卿記』一〕
  3月20日 「御室」(任助法親王)、山科言経を訪問し「易産御符」と山科言緒(「阿茶丸」)への護符を下す。〔『言経卿記』一〕
  3月20日 山科言経、「筑後入道」の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕
  3月20日 山科言経、去3月11日に甲斐国に於いて「戦」があった旨を知る。
       織田信忠(「三位中将殿」)が出陣して「武田一党」を悉く討ち果たしたこと、織田信長(「前右府」)は信濃国に在陣して
       いることを知る。〔『言経卿記』一〕
  3月20日 山科言経、近江国粟津座人の壺商買について一条内基(「一条」)が「関白領」という理由により留めたことについて訴えを
       受ける。〔『言経卿記』一〕
  3月20日 吉田兼見、明日の二条御所(「下御所」)に於ける「清祓」の準備を勧修寺晴豊に通知。勧修寺晴豊より美濃紙10帖・
       麻布3段を受けた。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月20日 勧修寺晴豊、吉田兼見(「吉田」)より明日に二条御所(「下御所」)に於いて「清祓」が行われる旨の通知を受ける。
       〔『晴豊記』〕
  3月20日 吉田兼見、万里小路充房より来3月22日に東国御陣へ下向する旨の通知を受ける。(*別本には無い記事)
       〔『兼見卿記』二〕
  3月20日 多聞院英俊、織田信長(「前右府」)の甲斐国への「出馬」にあたり、去3月17日に大和国興福寺にて「一味同心之祈祷」
       を行う旨の去3月4日付「倫旨」が大和国興福寺別当のもとに到来したこと、「栂尾」開帳の件が取り乱れていることを知る。
       〔『多聞院日記』三〕
  3月20日 大和国興福寺に於いて、この日より来3月26日までの17日間の祈祷が始まる。これは今度の織田信長(「信長殿」)の
       「東国出陣」にあたり正親町天皇(「叡慮」)より「満寺一味一同」の祈祷を行う旨の「宣旨」が下されたので行われた祈祷で
       ある。〔『蓮成院記録』三〕
  3月21日 二条御所に於ける「清祓」、雨天により延引す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月21日 吉田兼見、勧修寺晴豊に使者を派遣し二条御所「清祓」延引の旨を通知。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月21日 山科言経、冷泉為満の所望により「詠歌一体」・「未来記」・「雨中吟」を貸す。〔『言経卿記』一〕
  3月21日 山科言経、一条内基が「関白領」という理由で近江国粟津座人の壺商買停止している旨の訴訟を受けたので、
       一条内基(「一条殿」)へその旨の交渉を申し入れるが来客というので実現せず。
       この日山科言経は一条内基へ再び使者を派遣す。また近江国粟津座人の来訪を受けて談合す。〔『言経卿記』一〕
  3月21日 山科言経、山科言緒(「阿茶丸」)を同行し冷泉為満を訪問するも留守であった。〔『言経卿記』一〕
  3月21日 多聞院英俊、織田信長のための「祈祷」に参席。〔『多聞院日記』三〕
  3月22日 万里小路充房(「万里小路頭弁」)、織田信長(「信長」)が出陣している甲斐国陣所へ「御使」として派遣される。
       この時、万里小路充房は勧修寺晴豊より馬を借用す。〔『晴豊記』〕
  3月22日 吉田兼見、西洞院時慶より二条御所「御番」を相伝され祗候す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月22日 吉田兼見、二条御所に於いて甲斐武田氏に関する情報に接す。
       その内容は、甲斐武田氏(「甲州」)は「敗軍」し、武田勝頼(「武田四郎」)・武田信勝・武田信豊(「典厩」)の3人は
       甲斐国の「天目谷一揆」に討ち取られたこと、その首級は織田信長(「信長」)の陣所に届けられ、この日に京都に届けられた
       こと、その首級は「獄門」に梟され諸人が見物したこと、捕虜も数人晒されていたというものであった。
       〔『兼見卿記』二(別本)〕
  3月22日 吉田兼見、二条御所に於いて甲斐武田氏に関する情報に接す。
       その内容は、武田勝頼(「武田四郎」)・武田信勝・武田信豊(「典厩」)の首級が甲斐国より京都に到着し「獄門」に梟され
       洛中洛外が騒動になったこと、去3月11日に甲斐国「天目谷一揆」が討ち取ったこと、織田信長(「右府」)のもとへ一旦
       届けられたこと、首級以外に捕虜の「美濃」・「犬山」・「佐々木四郎舎弟小原」も京都に連行された。
       (*別本『兼見卿記』には無い記事)〔『兼見卿記』二〕
  3月22日 この夕方に京都に武田勝頼・武田信勝・武田信豊の3首級が届く。
       京都に3日間梟首された後に播磨国へ送付されることになっていた。〔『多聞院日記』三〕
  3月22日 甲斐国より武田勝頼(「武田左京大夫」)・武田信勝(「太郎」)・武田信豊(「右馬頭」:左馬助の誤記)の首級が上洛。
       京都に於いて3つの首級が「獄門」に架けられた。〔『言経卿記』一〕
  3月22日 山科言経、武田勝頼・武田信勝・武田信豊の首級が近日中に播磨国へ送付され梟首されることを知る。〔『言経卿記』一〕
  3月22日 勧修寺晴豊、この日の「八時」に去る3月11日に討ち取られた武田勝頼(「武田四郎」)・武田信勝(「太郎」)・
       武田信豊(「典厩馬頭」)の3首を見物す。
       この3首は「下五りやう」に於いて獄門に架けられたが、武田信豊(「典厩」)の首は落ちてしまった。〔『晴豊記』〕
  3月23日 山科言経、日野輝資へ「冬袍」を潤色し遣わす。〔『言経卿記』一〕
  3月23日 山科言経、冷泉為満・古市宗超の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕
  3月23日 山科言経、入夜に冷泉為満を訪問す。〔『言経卿記』一〕
  3月23日 勧修寺晴豊、明日に紀伊国雑賀へ庭田重保(「庭田」)の使者が下向するというので書状を委託する。〔『晴豊記』〕
  3月23日 勧修寺晴豊、「とうけんゐん殿」の二条御所(「下御所」)御成の連絡を受けるが、「相煩」い祗候せず。〔『晴豊記』〕
  3月23日 勧修寺晴豊、「舞人さぬき」より馬借用を依頼されるも、昨日万里小路充房へ貸してしまったので、壬生朝芳(「官務」)
       より借用して貸す。〔『晴豊記』〕
  3月23日 吉田兼見、明日「甲州御陣」に見舞の使者として鈴鹿喜介を派遣するために準備を行う。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月23日 吉田兼見、翌日付で森成利(「森乱」)へ正親町天皇(「禁裏」)より出陣「祈祷」を命じられ17日間の「修行」をして
       おり、「勝軍治要之御祓」を進献することに触れ、森成利には道服などを贈呈するので織田信長への披露を依頼する旨の披露状
       を認める。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月23日 吉田兼見、森成利(「森御乱」)へ手綱・腹帯・書状を準備し鈴鹿喜介に渡す。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月23日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)へ書状・手綱・腹帯を準備し鈴鹿喜介へ渡す。〔『兼見卿記』二〕
  3月23日 吉田兼見、明智光秀(「惟日」)へ手綱・腹帯・書状を準備し鈴鹿喜介に渡す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月23日 吉田兼見、村井貞成(「村井作右衛門」)へ手綱・腹帯・書状を準備し鈴鹿喜介に渡す。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月23日 吉田兼見、佐竹定実(「佐竹出羽守」)へ書状・手綱・腹帯を準備し鈴鹿喜介に渡す。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月23日 多聞院英俊、織田軍が甲斐国を「悉落居」させたことを知る。
       去3月16日に織田信長(「前右府」)のもとへ武田勝頼(「四郎殿」)・武田信勝(「太郎殿」)・武田信豊(「典厩」)の
       首級が到来したこと、「駿河ノ代官」であった穴山信君(「穴山」)が「金子二千枚ノ礼ニテ帰忠」したこと、この戦闘で
       六角義定(「佐々木四郎弟次郎殿」)と武田五郎(「若狭ノ武田ノ五郎殿」)が生虜となり殺害されたこと、東は信濃国碓氷峠
       まで、北は越後国までの範囲で「信長ノ敵ハ一人モ無之」という状況になったことを知る。〔『多聞院日記』三〕
  3月23日 多聞院英俊、この頃の天候不順(「大風霰飛火逆雨」)は正親町天皇(「内裏」)の祈祷により「信長ノ敵国ノ神達」を悉く
       流したことを意味しており、事態が「信長本意」に収拾されればその流された神々を「勧請」するという「神力・人力不及事」
       であることを知る。〔『多聞院日記』三〕
  3月23日 多聞院英俊、去3月22日夕方に武田勝頼・武田信勝・武田信豊の3首級が京都に到着し、3日間梟首された後に播磨国へ
       送付されることを知る。〔『多聞院日記』三〕
  3月23日 松平家忠、遠江国本栖に出向く。〔『家忠日記』〕
  3月23日 穴山信君、甲斐国市川へ帰還。
  3月24日 この未明、鈴鹿喜介が甲斐国の織田信長陣所へ向けて京都を発す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月24日 山科言経、古市宗超の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕
  3月24日 吉田兼見、吉田兼治を同行し二条御所「当番」に祗候。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月24日 吉田兼見との「相番」は六条有親・富小路秀直であった。夕食は薄諸光も同前であった。
       (*別本『兼見卿記』には無い記事)〔『兼見卿記』二〕
  3月24日 吉田兼治、暮れに帰宅。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月24日 吉田兼見、晩に村井貞勝(「春長軒」)を訪問し将碁をする。また暫く談合す。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月24日 多聞院英俊、東国陣「祈祷」に参席。甲斐国「落居」の報はますます確実なものであるということを知る。
       〔『多聞院日記』三〕
  3月24日 大和国興福寺別会五師釈迦院寛尊、この日に武田勝頼・武田信勝父子の首級が京着したことを知る。〔『蓮成院記録』三〕
  3月24日 山科言経、禁裏「当番」に祗候。「相番」は白川雅朝、「外様」は西園寺実益・四条隆昌であった。〔『言経卿記』一〕
  3月25日 織田信長(「信長」)、久我季通(「久我大納言」)へ甲斐国在陣見舞を謝し、近日の帰陣予定を通達。
       詳細は信濃兵部丞に伝達させる。〔「大阪城天守閣所蔵文書」六〕
  3月25日 吉田兼見、早々に二条御所を退出。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月25日 山科言経、甘露寺経元の所望により「サヤマキ」(鞘巻)を貸す。〔『言経卿記』一〕
  3月25日 山科言経、秋田久大夫(葉室頼宣侍)よりこの夜に甘露寺経元が「亜相奏慶」を受けることを知る。明日の山口祭の上卿を
       担当するための昇進であった。〔『言経卿記』一〕
  3月25日 山科言経、入夜に冷泉為満を訪問するも留守であった。〔『言経卿記』一〕
  3月25日 甘露寺経元、「大納言ノ拝加」を受ける。〔『晴豊記』〕
  3月25日 この日、大徳寺和尚の「内参」あり。〔『晴豊記』〕
  3月25日 多聞院英俊、東国陣「祈祷」に参席。〔『多聞院日記』三〕
  3月25日 大和国興福寺別会五師釈迦院寛尊、この日の未刻に大和国興福寺に到来した京都からの飛脚が携えた注進状により、「東国」
       甲斐国の武田勝頼・武田信勝父子の首級が去2月24日に京都に到着したこと、甲斐国は「一円落居」したことを知る。
       またこの日、大和国興福寺別会五師釈迦院寛尊は松井友閑(「宮内卿法印」)へ長文の書状を発した。〔『蓮成院記録』三〕
  3月25日 松平家忠、遠江国本栖で御茶屋の造作普請を開始。〔『家忠日記』〕
  3月25日 蜂須賀正勝、備中国吉備津神社へ調えた斎村政広(「赤松弥三郎殿」)の制札を立てる旨を指示。
       詳細は斎村政広(「弥三郎殿」)より伝達させる。〔「吉備津神社文書」‐154〕
  3月26日 「冷泉中殿」(冷泉為益室)、山科言経へ近江国安土城の楠正辰(「楠甚四郎」)の妻(冷泉為満妹)に音信を送るため、
       小者弥二郎の借用を依頼。〔『言経卿記』一〕
  3月26日 山科言経、村井吉忠(「村井又兵衛」)へ「大津」座人公事の件を諒承したことに対する「礼銭」について「大津衆」に
       「引付」けた。村井光清(「将監」)へも「申事」があったので同様に通知した。〔『言経卿記』一〕
  3月26日 山科言経、暮れに冷泉為満・古市宗超の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕
  3月26日 勧修寺晴豊、半井瑞策(「通仙」「ロアン」)より夕食に招待される。庭田重保・東坊城盛長・白川雅朝・「芸済」が同席。
       〔『晴豊記』〕
  3月26日 大和国春日大社・興福寺に於ける東国陣「祈祷」が完遂す。〔『多聞院日記』三〕
  3月27日 織田信長、恭順した木曽義昌(「木曽伊予守」)に信濃国筑摩郡・安曇郡を「一色」(一職)に宛行う。また木曽口も安堵。
       〔『古今消息集』五〕
  3月27日 山科言経、「下御所当番」を水無瀬兼成に「相伝」す。〔『言経卿記』一〕
  3月27日 山科言経、二条昭実(「二条殿」)より「蒔絵細太刀」を借用す。〔『言経卿記』一〕
  3月27日 山科言経、冷泉為満より「春日祭上卿次第記」を借用。〔『言経卿記』一〕
  3月27日 山科言経、庭田重保の所望により「蒔絵細太刀」を貸す。〔『言経卿記』一〕
  3月27日 山科言経、「北向」(山科言経室)の出産のために北野社へ参詣。「卅三灯」立願の7日参を行う。〔『言経卿記』一〕
  3月27日 山科言経、甘露寺経元より「サヤマキ」(鞘巻)を返還される。〔『言経卿記』一〕
  3月27日 山科言経、古市宗超の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕
  3月27日 山科言経、冷泉為満主催の京都東山に於ける花見を楽しむ。〔『言経卿記』一〕
  3月27日 伊勢神宮「山口祭」の日時および役目担当が決定する。
       勧修寺晴豊、柳原資定・広橋兼勝・高倉永相と共に見物す。〔『晴豊記』〕
  3月27日 吉田兼見、千秋月斎・相国寺南豊軒周超・智福院と「茶湯」を催す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月28日 織田信長(「信長」)、京都等持院へ在陣見舞を謝し、近日の帰陣予定を通達。〔「妙智院文書」乾〕
  3月28日 周玄、町野新五郎(蒲生氏郷重臣)へ今度の武田勝頼の「御退治」にあたり織田信長(「上様」)の「御動座」に従軍した
       ことは「御大儀之至」であることを推察し、織田信長「御朱印」が成田氏長(「成田下総守」:武蔵国忍城主)へ発給された
       ことなどを通知。〔「来田文書」一〕
  3月28日 山科言経、庭田重保より「蒔絵細太刀」を返還される。〔『言経卿記』一〕
  3月28日 勧修寺晴豊、庭田重保の代わりに二条御所(「下御所」)の「御番」に祗候。〔『晴豊記』〕
  3月28日 吉田兼見、「兼約」により佐竹左近允を訪問。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  3月28日 吉田兼見、佐竹左近允の招請を受けて「茶湯」に赴く。〔『兼見卿記』二〕
  3月29日 織田信長、甲斐武田氏討伐が完遂し「知行割」の「覚」を発す。
       河尻秀隆(「河尻」)、穴山信君(「穴山」)の本知を除外した甲斐国および信濃国諏訪を拝領す。
       徳川家康(「家康卿」)、駿河国を拝領す。
       滝川一益(「滝川左近」)、上野国および信濃国小県郡・佐久郡を拝領す。
       森長可(「森勝蔵」)、信濃国高井郡・水内郡・更科郡・埴科郡を拝領す。
       木曽義昌(「木曽」)、信濃国木曽谷および安曇郡・筑摩郡を拝領す。
       毛利秀頼(「毛利河内」)、信濃国伊那郡を拝領す。
       〔池田家文庫本『信長記』〕
  3月29日 「北向」(山科言経室)、卯刻に女子を出産するもやがて卒す。
       冷泉為満・四条隆昌・「中殿」(冷泉為益室)・「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)らが見舞に来訪した。〔『言経卿記』一〕
  3月29日 山科言経、古市宗超の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕
  3月29日 勧修寺晴豊、二条御所(「下御所」)より退出。勧修寺晴豊、紀伊国雑賀より「興正寺」が秘密裏に上洛しており、今日下向
       する旨を知る。〔『晴豊記』〕
  3月29日 吉田兼見、二条御所「当番」に祗候。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月30日 吉田兼見、早々に二条御所を退出。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  3月30日 山科言経、「御室御所」(任助法親王)へ「北向」(山科言経室)の安産祈念の礼を書面にて送付。〔『言経卿記』一〕
  3月30日 山科言経、古市宗超を召喚し「北向」(山科言経室)の腹痛を診療させる。〔『言経卿記』一〕
  3月30日 勧修寺晴豊、昨夜に「方違」を失念したので、この夜に「方違」を実行。〔『晴豊記』〕
  3月30日 勧修寺晴豊、誠仁親王より二条御所(「下御所」)の当番について村井貞勝(「村井」)に「御使」として赴くよう命令を
       受けるが出向かず。〔『晴豊記』〕
  3月  日 織田信長、某へ信濃国「金鑿」への還住命令を徹底させる。〔「渡辺与録氏所蔵文書」〕
  3月  日 織田信長、甲斐国・信濃国へ全11ヶ条の「国掟」を下す。〔池田家文庫本『信長記』〕
  3月  日 織田信長、信濃国諏訪明神社家へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「守矢文書」二〕
  3月  日 織田信長、信濃国諏訪社神宮寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「宮坂家古文書写」〕
  3月  日 織田信長、信濃国上坊へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「如法院文書」〕
  3月  日 織田信長、信濃国上坊院へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「宮坂家古文書写」〕
  3月  日 織田信長、信濃国満願寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「満願寺文書」〕
  3月  日 織田信長、信濃国慈雲寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「矢島文書」〕
  3月  日 織田信長、信濃国乾福寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔『御判物古書写』〕
  3月  日 織田信長、信濃国安曇郡吉野郷へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「丸山亀之助氏所蔵文書」〕
  3月  日 織田信長、信濃国小県郡南方村へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「滝沢文書」〕
  3月  日 織田信長、信濃国武井荘田辺郷へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「武居文書」〕
  3月  日 織田信長、信濃国小林村へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「諏訪文書」〕
  3月  日 織田信長、信濃国大野郷へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「横沢文書」〕
  3月  日 織田信長、信濃国比地郷へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「池上文書」〕
  3月  日 織田信長、信濃国大島町へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「宮下文書」〕
  3月  日 織田信長、甲斐国伝嗣院へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「伝嗣院文書」〕
  3月  日 織田信長、甲斐国保□郷へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「延命寺文書」〕
  3月  日 織田信長、甲斐国奈良原へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔『諸国古文書抄』四〕
  3月  日 織田信長、甲斐国川口郷へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「本庄文書」〕
  3月  日 織田信忠、甲斐国奈良原へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「広済寺文書」〕
  3月  日 羽柴秀吉(「筑前守」)、備前国平瀬郷金山寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「金山寺文書」‐60〕
  3月  日 羽柴秀吉(「筑前守」)、備中国吉備津神社へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「吉備津神社文書」‐149〕

 4月
  4月 1日 山科言経、古市宗超の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕
  4月 1日 「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、早朝に山科言経邸より「里」(冷泉家)へ帰宅す。〔『言経卿記』一〕
  4月 1日 山科言経、正親町天皇(「禁中」)へ毎月恒例の1荷両種の献上を行う。〔『言経卿記』一〕
  4月 1日 この日より二条御所(「下御所」)の「外様御番」が「六三」となり、勧修寺晴豊は「御番きつくなる」と歎く。
       「加番」も「三」となった。
       誠仁親王(「下御所」)、禁裏(「上」)へ御成す。〔『日々記』〕
  4月 1日 吉田兼見、勧修寺晴豊から派遣された使者より明後日の4月3日に二条御所(「下御所」)の「清祓」が行われることを通達
       され、存知の旨を返答す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  4月 2日 「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、暮れに山科言経邸に到来す。〔『言経卿記』一〕
  4月 2日 勧修寺晴豊、吉田牧庵・「大藤」と朝食す。〔『日々記』〕
  4月 2日 勧修寺晴豊、夕方に蜻庵・芸済を同行し庭田重保邸で夕食す。〔『日々記』〕
  4月 2日 誠仁親王(「御方御所」)、禁裏より二条御所(「下」)へ還御す。〔『日々記』〕
  4月 2日 吉田兼見、佐竹定実(「羽州」)が東国御陣に「出陣」したので留守を見舞う。(*別本『兼見卿記』には無い記事)
       〔『兼見卿記』二〕
  4月 3日 織田信長、甲斐国甲府の武田館趾に布陣。
  4月 3日 織田信忠(「信忠」)、万里小路充房(「万里小路殿」)へ「東国」制圧の発動について正親町天皇が「御感」なされ
       「勅筆」を染められた旨を再三に頂戴したことは有難く存じていること、元来甲斐武田氏が「天下」に対して「悪逆造意」を
       為すことはその罪許し難いので「退治」するためこの春信濃国に向けて出陣したこと、甲斐武田氏の属城を幾つか攻略したが
       武田勝頼(「武田四郎」)・仁科盛信(「仁科五郎」)が籠城する信濃国高遠城は強固な要塞であり、去る3月1日に攻撃を
       開始し、翌3月2日に攻略、仁科盛信(「仁科」)らを殲滅して甲斐国へ侵攻したこと、この戦況により武田勝頼(「四郎」)
       は甲斐国新府城を放棄し山奥の要害へ逃げ込んだが即時追撃し、3月11日に武田勝頼一党を全滅させたこと、これにより
       信濃国・甲斐国・駿河国・上野国を「平均」したこと、北条氏政(「北条」)を初めとした「関東諸侍」が残らず「出頭」して
       きたこと、「東国」の件は島々に至るまで織田信忠「下知」に属したので、諸国に問題が発生しないように「置目」などを通達
       していること、任務完了次第に帰陣・上洛してこれまでの正親町天皇(「叡慮」)へ御礼を申し上げたく存じている旨を取り
       次いで奏達することを依頼。〔『立入左京亮入道隆佐記』〕
  4月 3日 快川紹喜(臨済僧)、織田軍に攻囲され恵林寺にて焼死。〔『日本史人物生没年表』〕
  4月 3日 山科言経、「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)より出産の「一表」(一俵カ)を賜わる。〔『言経卿記』一〕
  4月 3日 山科言経、冷泉為満を訪問。〔『言経卿記』一〕
  4月 3日 山科言経、冷泉為満・山科言緒(「阿茶丸」)・富小路秀直・古市宗超・島田与介を同行し「時衆ノ形」をして千本引接寺の
       念仏および花見に赴く。次いで船岡山に登る。〔『言経卿記』一〕
  4月 3日 山科言経、古市宗超を招喚し「北向」(山科言経室)の薬について談合す。〔『言経卿記』一〕
  4月 3日 吉田兼見、二条御所(「下御所」)へ祗候し「清祓」を行う。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  4月 3日 二条御所(「下御所」)に於いて「清祓」が行われる。〔『日々記』〕
  4月 3日誠仁親王、二条御所「清祓」の結願後に吉田兼見と対面し馬・太刀を下賜す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  4月 4日 織田信長、京都上京へ陣中見舞として「革袖物」10着の贈呈を謝し、「東国之為体」は上洛した際に申し聞かせることを
       通達。〔「岩佐伍一郎氏所蔵文書」、「京都上京文書」一、『古文書』、「上京ゥ文書」〕
  4月 4日 織田信長(「信長」)、山城国醍醐寺理性院へ陣中見舞として巻数・「ゆかけ」の贈呈を謝し、近々「開陣」の予定に触れ、
       織田信長自身が上洛した際に詳細を申し入れる旨を通達。〔「理性院文書」坤〕
  4月 4日 羽柴秀吉、備前国岡山へ着陣。
  4月 4日 滝川一益、三国一大五郎へ甲斐武田氏討伐後の恩賞として「小なすひ」を要望する覚悟であったが、利根川端に配備されて
       数寄の社交界より隔離された愁いの旨を通知。〔「畑柳平所蔵文書」〕
  4月 4日 「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、この朝に山科言経邸より冷泉家へ戻ったが、暮れに再度山科邸を来訪する。
       〔『言経卿記』一〕
  4月 4日 山科言経、古市宗超の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕
  4月 4日 山科言経、四条隆昌より「北向」(山科言経室)への「干鮭」1匹を受ける。〔『言経卿記』一〕
  4月 4日 勧修寺晴豊、食事を持参した中山親綱の来訪を受ける。〔『日々記』〕
  4月 4日 勧修寺晴豊、紀伊国雑賀へ「弥二郎」を下向させる。松井友閑(「宮内法印」)の「かわしの物」を受け取るための下向で
       あった。〔『日々記』〕
  4月 4日 この日に二条御所の「御番結改」があり、吉田兼見は東坊城盛長と「相番」す。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  4月 4日 二条御所に於いて「御番成」があり10番組に編制される。吉田兼見は「八番」組で東坊城盛長と「相番」であった。
       〔『兼見卿記』二〕
  4月 5日 山科言経、沢路練意の来訪を受けて「大学」の読書指南を行う。序章より5章までを講習した。〔『言経卿記』一〕
  4月 5日 山科言経、「大津者」(近江国大津座人)の来訪を受けて、村井吉忠(「村井又兵衛」)・村井光清(「将監」)へ使者を
       派遣した。〔『言経卿記』一〕
  4月 5日 山科言経、江村専斎(「江村甚太郎」)の来訪を受けて「侖吾憲問」第14章を講読した。〔『言経卿記』一〕
  4月 5日 山科言経、古市宗超の到来を受けて北向(山科言経室)の治療のための薬について談合する。〔『言経卿記』一〕
  4月 5日 中山親綱(「頭中将」)、「神宮奉行」に任務を終える。〔『日々記』〕
  4月 5日 吉田兼見、甲斐国在陣中の佐竹定実(「佐竹羽州」)の留守宅を見舞に訪問。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二(別本)〕
  4月 5日 松平家忠、女坂に茶屋造作普請を開始。〔『家忠日記』〕
  4月 6日 「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、昼に山科邸より冷泉家へ帰宅。〔『言経卿記』一〕
  4月 6日 山科言経、「七宮御方」(誠仁親王第七皇子)へ保童円200粒を献上。〔『言経卿記』一〕
  4月 6日 山科言経、山科言緒(「阿茶丸」)を同行し京都阿弥陀寺へ「立行念仏者」の見物に赴く。〔『言経卿記』一〕
  4月 6日 山科言経、正親町季秀の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕
  4月 6日 山科言経、住田清右衛門尉(村井貞勝家中)へ「大津公事篇」の件で鯛2匹を送る。〔『言経卿記』一〕
  4月 6日 山科言経、古市宗超の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕
  4月 6日 山科言経、冷泉為満の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕
  4月 6日 山科言経、中御門宣光の来訪を受ける。「方違」のための到来であった。〔『言経卿記』一〕
  4月 6日 勧修寺晴豊、壬生朝芳(「官務」)から「蕨」3把を贈られる。〔『日々記』〕
  4月 6日 勧修寺晴豊、三河国林泉寺へ正親町天皇「勅」によりこの日信濃兵部丞が派遣されたことを知る。〔『日々記』〕
  4月 7日 蜂須賀正勝、備中国吉備津神社近辺へ陣取るが境内は除外する旨、黒田孝高(「小寺官兵衛」)と相談し案内人供出を命令。
       〔「吉備津神社文書」‐155〕
  4月 7日 小早川隆景、能島村上氏・来島村上氏が断交するにあたり、羽柴秀吉の懐柔を拒絶した村上吉允(因島)を賞す。
       〔「村上文書」一〕
  4月 7日 山科言経、冷泉為満より「蘇木」を所望され遣わす。〔『言経卿記』一〕
  4月 7日 山科言経、江村専斎(「江村甚太郎」)の来訪を受けて読書を指南。「侖吾」15・16巻の講読を行った。
       〔『言経卿記』一〕
  4月 7日 山科言経、冷泉為満より「古今集」序を借用す。〔『言経卿記』一〕
  4月 7日 「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、山科言経邸を訪問。〔『言経卿記』一〕
  4月 7日 山科言経、古市宗超の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕
  4月 7日 山科言経、村井光清(「村井将監」)より使者を受ける。去々年以来東坊城盛長が大津座人の塩籠を抑制しており、山科言経
       よりこのところの数度にわたり村井光清(「将監」)へ交渉したので、来たる4月10日に塩籠したものを返却するようにする
       との通知であった。後刻、山科言経は村井光清(「将監」)へ使者を派遣し、礼を通知したが留守であった。
       〔『言経卿記』一〕
  4月 7日 勧修寺晴豊、二条御所(「下御所」)の「御番」に祗候。五辻元仲(「左馬頭」)の代理に土御門久脩が祗候していた。
       〔『日々記』〕
  4月 7日 多聞院英俊、「東国出陣衆」が大和国に帰国したことを知る。
       また筒井順慶(「順慶」)は織田信長(「上様」)の「御伴」をするため大和国への帰還は遅延するということを知る。
       〔『多聞院日記』三〕
  4月 8日 織田信長、常陸国の太田資正(「三楽斎」)・梶原政景(「梶原源太」)へ今後は「直参」することを賞し、「目付」として
       滝川一益(「滝川左近」)を「在国」させるので、相談し奔走することを督促。また「天下」に対して忠節をつくすべきことを
       命令。万が一に違反者が発生した場合は即時「朝敵」とみなすことを通達。詳細は天徳寺大円坊に伝達させる。
       〔「太田文書」、「養竹院文書」〕
  4月 8日 織田信長、真田昌幸(「佐那田弾正」:信濃国上田城主)へ「黒葦毛」馬の贈呈を謝し、信濃国上田方面での奔走を諒承す。
       詳細は滝川一益(「滝川」)に伝達させる。〔『長国寺殿御事蹟稿』〕
  4月 8日 「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、この朝に山科言経邸より冷泉家へ帰宅。暮れに再び来訪す。〔『言経卿記』一〕
  4月 8日 勧修寺晴豊、早天に二条御所(「下」)を退出。甘露寺経元邸での食事に招待される。〔『日々記』〕
  4月 8日 吉田兼見、早々に二条御所「当番」に祗候。東坊城盛長がこの朝の「請取番」であった。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二(別本)〕
  4月 8日 土御門久脩(「陰陽頭久脩」)、織田信長(「前右府」)の執奏により「加堂上」わった。昇進は先月であったが、即時
       「勅許」が得られたという。この日、土御門久脩はゥ家を礼問した。〔『言経卿記』一〕
  4月 8日 土御門久脩、「公家成」の礼を行う。正親町天皇(「禁裏」)へは「小鷹巻物」1巻、誠仁親王(「御方御所」)へ「引合」
       巻物1巻、「若宮様」へ杉原扇、「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)へは3種2荷を以て御礼す。〔『日々記』〕
  4月 8日 山科言経、土御門久脩の礼問を受ける。〔『言経卿記』一〕
  4月 8日 勧修寺晴豊、近衛信尹(「近衛殿内府」)からの「御使」中山親綱・広橋兼勝の来訪を受ける。〔『日々記』〕
  4月 9日 松平家忠、女坂普請を行う。〔『家忠日記』〕
  4月 9日 吉田兼見、早々に二条御所を退出。その後に相国寺南豊軒周超を訪問。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二(別本)〕
  4月 9日 「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、早朝に山科言経邸より冷泉家へ帰宅。暮れに再び来訪す。〔『言経卿記』一〕
  4月 9日 山科言経、四条隆昌の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕
  4月 9日 勧修寺晴豊、二条御所(「下御所」)の「当番」のため祗候。〔『日々記』〕
  4月 9日 多聞院英俊、去4月8日に九条兼孝(「九条殿」)に男子が誕生したことを知る。
       これに先だって多聞院英俊は夢によりこの事を予感していたので「正夢」となった。〔『多聞院日記』三〕
  4月10日 織田信長、甲斐国甲府を出発し甲斐国右左口峠に「御成」す。
       (*『家忠日記』では、この日以降織田信長の行動は全て「御成」と表記)〔『家忠日記』〕
  4月10日 織田信長(「信長」)、恭順した甲斐国の穴山信君(「穴山陸奥入道」)へ甲斐国「本地」を安堵し、甲斐国を宛行った
       河尻秀隆(「河尻与兵衛」)への知行分と「入組」地の件は河尻秀隆・穴山信君双方の「年寄」が合議の上で交換し、境界を
       設定して領知とすべきことを通達。〔「吉多助五郎氏所蔵文書」〕
  4月10日 織田信長(「信長」)、三千院宮最胤法親王(「梶井殿」)へ「東国」在陣に対する陣中見舞を謝し、「帰国」の途中にある
       ことを通知。〔「三千院文書」四〕
  4月10日 織田信長、青蓮院尊朝法親王(「青蓮院殿」)へ「東夷追伐」陣への芳問を謝し、早々の「帰国」予定と上洛した際に詳細を
       通知する旨を通達。〔「水口文書」〕
  4月10日 「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、早朝に山科言経邸より冷泉家へ帰宅。〔『言経卿記』一〕
  4月10日 山科言経、毘沙門堂公厳の所望により「謡之本」6番を貸す。〔『言経卿記』一〕
  4月10日 勧修寺晴豊、「大炊御門」より招請を受け訪問。勧修寺尹豊(「入道殿」)・中山親綱が二条御所(「下」)より到来。
       〔『日々記』〕
  4月10日 勧修寺晴豊、二条御所の「加番」のために再び祗候。
       紀伊国雑賀より使者が到来し、去々年(天正8年)に松井友閑(「友感」)より通達を受けた「代物」と雑賀からの50貫を
       庭田重保と勧修寺晴豊へ届けた。〔『日々記』〕
  4月10日 小早川隆景、村上武吉(能島)へ毛利氏に対する同心を謝す。〔「村上文書」一〕
  4月11日 松平家忠ら三河衆、甲斐国右左口峠にて織田信長の行列を警固す。〔『家忠日記』〕
  4月11日 山科言経、毘沙門堂公厳より「謡之本」6番を返還される。〔『言経卿記』一〕
  4月11日 この日、「北向」(山科言経室)の産褥27夜の祝儀が行われる。
       「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)・「中殿」(冷泉為益室)・「北向」(山科言経室)・山科言緒(「阿茶丸」)・山科言経
       が朝食を相伴す。「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)は冷泉家へ帰宅。〔『言経卿記』一〕
  4月11日 山科言経、「大津衆」(近江国大津座人)の来訪を受ける。去4月8日に京都宇治路に於いて東坊城盛長の侍と紛争したと
       いう報告を受けて、即時村井光清(「村井将監」)と村井吉忠(「又兵衛」)へその旨を申し入れたところ「無別儀」とのこと
       であった。〔『言経卿記』一〕
  4月11日 勧修寺晴豊、明け方に二条御所(「下御所」)より退出。〔『日々記』〕
  4月11日 吉田兼見、村井貞勝(「春長軒」)を訪問し将碁を行い、暫く談合す。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  4月11日 吉田兼見、村井貞勝(「春長軒」)を訪問し将碁を行う(正本『兼見卿記』では村井貞勝との談合が削除されている)。
       〔『兼見卿記』二〕
  4月11日 吉田兼見、吉田牧庵を訪問(正本『兼見卿記』のみの記載)。〔『兼見卿記』二〕
  4月11日 勧修寺晴豊、夕方に「長岡権佐」が帰陣したというので「御茶」に招待す。柳原資定も招待した。〔『日々記』〕
  4月12日 織田信長(「上様」)、甲斐国「大ミや」まで「御成」す。〔『家忠日記』〕
  4月12日 織田信長(「信長」)、「甲州在陣」に対する見舞を送付してきた九条兼孝(「九条殿」)へ謝意を表し、早々に「陣明」と
       「帰国」し、詳細は「上洛」した際に告げることを通知。〔「九条家文書」F‐2088〕
  4月12日 山科言経、冷泉為満へ「古今集」序を返還。また「香合」の借用を求められ貸す。〔『言経卿記』一〕
  4月12日 山科言経、大炊御門経頼・冷泉為満・山科言緒(「阿茶丸」)と共に安楽光院小路の「塩風呂」に浴す。〔『言経卿記』一〕
  4月13日 織田信長、駿河国江尻まで「御成」す。〔『家忠日記』〕
  4月13日 山科言経、古市宗超の所望により「枳穀」・「桔梗」を少しずつ遣わす。〔『言経卿記』一〕
  4月13日 勧修寺晴豊、二条御所(「下御所」)へ祗候。
       村井貞勝(「村井」)より高倉永相・中山親綱・勧修寺晴豊へ「下ノ御番をきて」の厳守を伝達するよう依頼がなされた。
       勧修寺晴豊ら、「禁裏」へ「村井茶ツホ」を持参する。去年(天正9年)に進上を依頼されていたが、「あしく御座候」という
       ことでそのままであった。この日に箱より出してみたところ「事外見事」であった。〔『日々記』〕
    この頃 今度の織田信長(「上様」)の「東国へ御出馬」に際し「寺門」より賢良が見舞の使者に決定され、正親町天皇(「叡慮」)
       の命により御祈祷の巻数および陣中見舞品を携えて大和国興福寺学侶より派遣された。織田信忠(「城介殿」)・
       北畠信雄(「御茶セン様」:織田信雄)・明智光秀(「惟日」)・滝川三郎左衛門・藤田伝五・筒井順慶(「順慶」)・
       長谷川秀一(「長谷川於竹」)・堀秀政(「堀久太郎」)・毛利良勝(「毛利新介」)・森猪介・「中伊」へも贈物が
       送られた。〔『蓮成院記録』三〕
  4月14日 山科言経、山科言緒(「阿茶丸」)を同行し冷泉為満を訪問。そのまま冷泉為満も同行し京都阿弥陀寺の「立行」念仏者の
       見物に赴く。次いで冷泉為満邸にて「冷麺」を振る舞われる。〔『言経卿記』一〕
  4月14日 山科言経、冷泉為満より「詠歌大概」を借用し、講読を受ける。〔『言経卿記』一〕
  4月14日 この昼、紀伊国雑賀使者の滞在している「上らく寺」で酒宴が催され、「中将」・「竹村」・庭田重保・庭田重通が訪問して
       「大酔」する。〔『日々記』〕
  4月14日 大和国興福寺大乗院門跡、京都より織田信長(「上様」)の見舞のために三河国へ下向す。〔『多聞院日記』三〕
  4月14日 羽柴秀吉、宇喜多氏と共に備中国へ進軍。
  4月15日 織田信長、伊勢外宮神主へ先ず「山口祭」の執行を諒承し祭礼次第は「先例」を遵守すべきこと、「作事」については簡素化
       することを命令。詳細は平井弓右衛門尉より伝達させる。〔『外宮天正遷宮次第』〕
  4月15日 織田信長(「信長」)、伊勢国慶光院へ「東国在陣」のために「祈祷之祓太麻」と「熨斗鮑」3折の贈呈を謝す。
       また「山口祭」の執行を諒承し、「作事」についての詳細は平井弓右衛門尉より伝達することを通達。〔「慶光院文書」一〕
  4月15日 織田信長(「信長」)、遠江国掛川より丹後国宮津城の細川藤孝(「長岡兵部大輔」)へ「東夷追伐」は早々に落着したこと
       は「乍我驚入計」であったことに触れ、「東国」は残す所無く制圧したこと、近々近江国安土城へ帰還したら詳細を伝達する
       ことを通達。〔「細川家文書」二〕
  4月15日 山科言経、古市宗超の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕
  4月15日 山科言経、暮れに冷泉為満を同行し京都誓願寺へ参詣。その後、山科言経は冷泉為満邸に立ち寄る。〔『言経卿記』一〕
  4月15日 「七宮」(誠仁親王第七皇子)・「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、入夜に山科言経邸に来訪す。〔『言経卿記』一〕
  4月15日 山科言経、冷泉為満の来訪を受け「詠歌大概」の講義を受ける。〔『言経卿記』一〕
  4月15日 勧修寺晴豊、「村井はりま」の来訪を受ける。「大さけ」であった。〔『日々記』〕
  4月15日 吉田兼見、東国「御陣」へ派遣した鈴鹿喜介の帰還により「信長御書墨印」を得た。鈴鹿喜介の報告により織田信長からの
       「各返事仕合能」かったこと、「勅使」として万里小路充房が東国に下向したことを知る。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  4月15日 吉田兼見、東国「御陣」へ派遣した鈴鹿喜介の帰還により織田信長(「信長」)からの返事を得た。
       織田信長「折紙黒印」には、織田信長は甲斐国に「御在陣」していると記されており、また明智光秀(「惟日」)からの返状・
       森成利(「森乱」)からの返状・村井貞成(「村井作右衛門」)からの返状も「各仕合可然之由」を伝達したものであった。
       〔『兼見卿記』二〕
  4月15日 吉田兼見、近衛前久(「大御所」)からの返状により万里小路充房が「勅使」として下向したこと、万里小路充房の「仕合」
       についての通知を受け、使者を以て勧修寺晴豊に報告す。(*正本『兼見卿記』のみの記事)〔『兼見卿記』二〕
  4月15日 吉田兼見、近衛前久(「大御所」)より依頼された言伝を近衛信尹(「近衛殿御方御所」)へ伝達。
       近衛家から織田信長への音信が遅延しているので早々に送付するべき旨であった。(*正本『兼見卿記』のみの記事)
       〔『兼見卿記』二〕
  4月15日 多聞院英俊、昨日4月14日の日中に大和国興福寺大乗院門跡が京都を出発し、織田信長(「上様」)の見舞のために三河国
       へ下向したことを「御書」により知る。〔『多聞院日記』三〕
  4月16日 織田信長、遠江国浜松に宿泊。
  4月16日 万里小路充房(勅使)、織田信長への陣中見舞いより帰還。
       織田信長(「信長」)より銀5枚を、織田信忠(「城介殿」)より馬を贈られた。〔『日々記』〕
  4月16日 万里小路充房、東国「御陣」より帰洛す。織田信長より銀子5枚を、織田信忠(「中将殿」)より馬1頭を贈呈された。
       〔『兼見卿記』二(別本)〕
  4月16日 山科言経、冷泉為満・山科言緒(「阿茶丸」)を同行し下京や西三条野を「徘徊」す。〔『言経卿記』一〕
  4月16日 山科言経、冷泉為満より「詠歌大概」の講義を受ける。〔『言経卿記』一〕
  4月16日 吉田兼見、勧修寺晴豊を訪問するも「他行」であった。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  4月16日 吉田兼見、阿野実時(「休庵」)を訪問。万里小路充房の上洛を知る。(*正本『兼見卿記』のみの記事)
       〔『兼見卿記』二〕
  4月16日 吉田兼見、東国「御陣」より帰洛した万里小路充房を訪問。織田信長より銀子5枚を、織田信忠(「中将殿」)より馬1頭を
       賜わったことなどの雑談があった。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  4月16日 吉田兼見、東国御陣より上洛した勅使の万里小路充房を訪問。
       「今度仕合」を雑談し、織田信長(「信長」)より銀子5枚を、織田信忠(「中将殿」)より糟毛馬1頭を賜わったこと、
       織田信長・織田信忠は「一段機嫌」であったことを知る。(*正本『兼見卿記』のみの記事)〔『兼見卿記』二〕
  4月16日 吉田兼見、中御門宣光へ使者を派遣し東国「御陣」祈祷の御祓の件を通知。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  4月16日 吉田兼見、柳原淳光を訪問し面会。(*正本『兼見卿記』のみの記事)〔『兼見卿記』二〕
  4月16日 吉田兼見、富小路秀直が在京していることを知り訪問し面会。(*正本『兼見卿記』のみの記事)〔『兼見卿記』二〕
  4月16日 吉田兼見、正親町季秀と対談す。暫く談合した。(*正本『兼見卿記』のみの記事)〔『兼見卿記』二〕
  4月16日 吉田兼見、近衛信尹(「近衛殿御方御所」)を訪問するも来客中というので帰宅す。(*正本『兼見卿記』のみの記載)
       〔『兼見卿記』二〕
  4月16日 「七宮」(誠仁親王第七皇子)・「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、入夜に山科言経邸に来訪す。〔『言経卿記』一〕
  4月17日 織田信長、この払暁に遠江国浜松を出立。
  4月17日 織田信長(「信長」)、前田利家(「前田又右衛門尉」)へ陣中見舞としての帷子送付を謝す。〔『松雲公採集遺編類纂』〕
  4月17日 女房衆「あこ」が「前右府御かた」へ祗候。〔『日々記』〕
  4月17日 山科言経、冷泉為満を訪問し「サウメン」を振舞われる。暮れに冷泉為満は山科言経邸に来訪し「詠歌大概」の講義を行う。
       〔『言経卿記』一〕
  4月18日 山科言経、花開院・誓願寺・真如堂へ参詣す。〔『言経卿記』一〕
  4月18日 山科言経、冷泉為満を訪問し「詠歌大概」の講義を受ける。〔『言経卿記』一〕
  4月18日 勧修寺晴豊、「禁裏」の「御使」として村井貞勝(「村井」)へ「懸香」30を携え赴く。
       勧修寺晴豊は万里小路充房と昼食を共にする。〔『日々記』〕
  4月18日 吉田兼見、二条御所「当番」に祗候。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  4月19日 羽柴秀吉、村上武吉(能島)へ村上通昌(来島通康)との私怨を棄てて織田信長へ加担するよう勧誘。
       〔『萩藩閥閲録』二十二‐二〕
  4月19日 羽柴秀吉、織田信長に臣従する内証を得た村上元吉(能島)へ備中国河屋城・備中国巣蜘蛛城を攻囲、間もなく陥落する予定
       を通知。〔『萩藩閥閲録』二十二‐二〕
  4月19日 穂田元清、村上武吉(能島)・村上元吉(能島)へ羽柴秀吉が備中国宮路山・冠山を攻撃したが毛利方はこれを撃退した旨を
       通知。詳細は小早川隆景より通達されることを通知。〔「村上文書」二〕
  4月19日 吉田兼見、早々に二条御所を退出。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  4月19日 山科言経、暮れに古市宗超の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕
  4月19日 山科言経、冷泉為満の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕
  4月19日 勧修寺晴豊、中山親綱を訪問し食事を共にす。夕方には「竹門」(曼殊院覚恕)が到来した。勧修寺晴豊は晩に帰宅。
       〔『日々記』〕
  4月20日 山科言経、天王寺伶人の園広遠・東儀兼行の来訪を受ける。
       彼等との雑談で、先日同じく天王寺伶人の岡公久が誠仁親王(「下御所」)の裏通りに小家を下賜されたことを知る。
       園広遠・東儀兼行、誠仁親王からの小家下賜を望む。〔『言経卿記』一〕
  4月20日 山科言経、冷泉為満・山科言緒(「阿茶丸」)を同行し建仁寺真性院の藤を見物、次いで京都清水寺に参詣す。
       〔『言経卿記』一〕
  4月20日 勧修寺晴豊、二日酔い。〔『日々記』〕
  4月20日 多聞院英俊、東国陣より近江国安土城へ帰還せず、三河国に於いて能を見物したことを知る。〔『多聞院日記』三〕
  4月21日 織田信長、近江国安土城に凱旋。
  4月21日 筒井順慶(「順慶」)、「東陣」より大和国郡山城へ帰還。〔『多聞院日記』三〕
  4月21日 勧修寺晴豊、明日近江国安土城への下向準備命令を受ける。「私」的な下向かと尋ねたところ「勅使」としての下向である
       との返答であった。〔『日々記』〕
  4月21日 山科言経、江村専斎(「江村甚太郎」)の来訪を受けて「侖吾」9巻の講読を行う。〔『言経卿記』一〕
  4月21日 山科言経、古市宗超の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕
  4月21日 多聞院英俊、筒井順慶(「順慶」)が「東陣」より帰還したことを知る。〔『多聞院日記』三〕
  4月22日 「勅使」勧修寺晴豊、昼に京都を出立し近江国安土城へ向かう。庭田重保・甘露寺経元・藤波慶忠(「祭主」)が同行した。
       この日一行は近江国「もり山」に宿泊す。〔『日々記』〕
  4月22日 山科言経、四条隆昌の招待を受けて巳下刻に訪問す。
       大炊御門経頼・山科言経・冷泉為満・四条隆昌・四条隆昌の妻・古市宗超・川端与二郎が「冷ムキ」を食す。
       次いで九条兼孝(「九条殿」)・二条昭実(「二条殿」)・鷹司信房(「鷹司殿」)が参席し「乱酒」に及んだ。
       「諷」や「小鼓」があったが、山科言経は「沈酔」した。〔『言経卿記』一〕
  4月22日 山科言経、古市宗超の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕
  4月22日 山科言経、「大津塩」の件で村井光清(「村井将監」)へ使者を派遣す。〔『言経卿記』一〕
  4月22日 東坊城盛長、山科言経へ大津座坐人の塩籠を村井光清(「村井将監」)に返還。〔『言経卿記』一〕
  4月23日 勧修寺晴豊(勅使)とその一行、明け方に近江国安土城へ到着。
       勧修寺晴豊(勅使)、松井友閑(「友感」)邸へ立ち寄り進物を贈る。正親町天皇(「禁裏」)から織田信長(「信長」)へ
       「かけ香」30、誠仁親王(「親王御方」)からは「たき物」10、勧修寺晴豊からは「おミなめしのすゝしおひ」1筋が
       贈られた。松井友閑(「ゆうかん」)へは100疋、「おく」へは「たひ」、織田信長(「のふなか」)に仕えている
       「うちのわか上ろう」へは「こあふき」3本、村井専次(「せんしむらい子」)へ「かけ袋」10が贈られた。
       織田信長(「信長」)に対し庭田重保は「鷹ゆかけ」2具を、甘露寺経元は「白とうすん」1巻を、藤波慶忠(「祭主」)は
       「しはらいしゝら」1端を贈った。
       松井友閑(「ゆうかん」)に対し庭田重保は「ゆかけ」25具を、藤波慶忠(「祭主」)は5具を贈った。
       松井友閑邸に於いて酒宴(「大さけ」)が催され、勧修寺晴豊はその場で誠仁親王(「親王御方」)への返状を受ける。
       勧修寺晴豊らが宿所へ戻ると「おく」より酒樽が届けられた。「わか上ろう」が到来し、酒宴(「大さけ」)が催された。
       その後に京都へ向かい近江国「もり山」まで戻り、明け方に出発する用意をした。〔『日々記』〕
  4月23日 蜂須賀正勝、備中国吉備津神社へ近日中「納馬」の旨を通知。〔「吉備津神社文書」‐156〕
  4月23日 山科言経、江村専斎(「江村甚太郎」)の来訪を受けて「論語」10巻を講読、1部が終了した。〔『言経卿記』一〕
  4月23日 山科言経、冷泉為満の来訪を受ける。「詠歌大概」の講義を受ける。〔『言経卿記』一〕
  4月23日 山科言経、古市宗超の来訪を受ける。「中臣祓聞書」を借用する。〔『言経卿記』一〕
  4月23日 山科言経、村井光清(「村井将監」)より東坊城盛長が大津坐人へ塩籠を返還した旨の通知を受ける。
       山科言経、近江国大津座人へこの旨を通知。〔『言経卿記』一〕
  4月23日 山科言経、山科言緒(「阿茶丸」)を同行し「東柳馬場」へ「徘徊」す。〔『言経卿記』一〕
  4月23日 「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、暮れに山科言経邸を訪問。〔『言経卿記』一〕
  4月23日 大和国興福寺賢良、東国への陣中見舞より大和国興福寺に帰還。織田信長(「上様」)の返事は「一段仕合涯分珍重々々」と
       いうものであった。〔『蓮成院記録』三〕
  4月23日 多聞院英俊、この頃に出現した「彗星」を見る。「近年のなかき光」であり、「物恠々々」と恐怖の念を記す。
       (*この条には「信長生害ノ先瑞也」との追記がある)〔『多聞院日記』三〕
  4月24日 織田信長(「信長」)、一色満信(「一色五郎」)・細川藤孝(「長岡兵部大輔」)へ「中国進発」はこの秋に予定していた
       が、今度備前国児島に於いて敗北させた小早川隆景(「小早川」)が備中国高山城に籠城したので羽柴秀吉(「羽柴藤吉郎」)
       が攻囲しているとの注進があったこと、重ねて一報が入り次第織田信長は「出勢」するので準備に油断しないことを通達。
       詳細は明智光秀(「惟任日向守」)より伝達させる。〔「細川家文書」二〕
  4月24日 勧修寺晴豊(勅使)とその一行、近江国瀬田に於いて甘露寺経元が酒宴を開いた。
       その後、勧修寺晴豊は直接二条御所(「下御所」)へ祗候。〔『日々記』〕
  4月24日 「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、山科言経邸に渡御す。〔『言経卿記』一〕
  4月24日 山科言経、「仁和寺殿」(任助法親王)への書状を小川善大夫に持たせ派遣。
       山科言経は明日近江国安土城に下向するので「御祈念」を依頼し、護符を賜わる。〔『言経卿記』一〕
  4月24日 山科言経、四条隆昌の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕
  4月24日 大和国興福寺大乗院門跡、大和国奈良に帰還。〔『多聞院日記』三〕
  4月24日 多聞院英俊、帰還した大和国興福寺大乗院門跡より三河国に於いて織田信長(「信長」)に対面、尾張国清洲城まで同行し
       進物を献上したところ、織田信長は「一段ノ御時宜」と言われたことを知る。〔『多聞院日記』三〕
  4月25日 織田信長(「信長」)、本願寺顕如(「本願寺」)へ「東国属平均」して近江国安土城への凱旋に際し、祝儀として太刀1腰
       銀子300両と端午祝儀の帷子5枚と肩衣袴の贈呈を謝す。詳細は松井友閑(「宮内卿法印」)に伝達させる。
       〔「本願寺文書」九〕
  4月25日 山科言経、冷泉為満を同行し早朝に織田信長(「前右府」)の近江国安土城へ向けて京都を発す。
       四条隆昌・山科言緒(「阿茶丸」)が3町計り見送った。〔『言経卿記』一〕
  4月25日 山科言経・冷泉為満、近江国大津浦より乗船、近江国堅田で休憩す。戌下刻に近江国安土に到着した。〔『言経卿記』一〕
  4月25日 勧修寺晴豊、村井貞勝(「村井」)邸へ赴く。この時、勧修寺晴豊は勅使として近江国安土へ下向した際に得た織田信長返書
       を受けた誠仁親王からの「安土へ女はうしゆ御くたし候て、太政大臣か関白か将軍か、御すいにん候て可然よし」という意向を
       村井貞勝に伝達した。〔『日々記』〕
  4月25日 羽柴秀吉、備中国巣蜘塚城を攻略。〔「亀井文書」〕
  4月25日 羽柴秀吉、備中国冠山城の城主林三郎左衛門・松田孫次郎および三百人を討ち果たし、大将両名の首を近江国安土城へ進上。
       〔「溝江文書」〕
  4月26日 山科言経、近江国安土城へ「御礼」のために登城。先ず楠長諳(「楠長安」)に問い合わせ、次いで冷泉為満を同行し
       安土城「御門」まで赴き楠長諳(「長安」)に合流すると、楠長諳より織田信長は「只今御昼寝」であるので進物ばかりを
       受け取るというので山科言経は帯5筋を、冷泉為満は「ゆかけ」2具を進献。先ずは楠長諳(「長安」)宿所に於いて待機する
       ようにとの指示があったので周辺を見物後に楠長諳宿所に赴く。山科言経・冷泉為満、楠長諳宿所にて女房衆より「茶子」・
       「ムキ」・「吸物」を振る舞われた。この時、楠長諳(「長安」)は織田信長「御前」に出頭していた。
       冷泉為満は楠長諳(「長安」)へ樽代を、楠長諳女房衆には「白粉」を、山科言経は1荷両種などを進上した。そうしていると
       楠長諳(「長安」)からの書状が到来し、山科言経・冷泉為満から預かった進物を織田信長へ披露したところ喜んでいたとの
       ことであった。その後、山科言経・冷泉為満は楠正辰(「楠甚四郎」:楠長諳子息)を訪問し、冷泉為満は樽代を、山科言経は
       1荷両種を、楠正辰女房衆で「北向」(山科言経室)の妹へは盃2つを進上。次いで山科言経らは楠長諳の宿所へ戻り、楠長諳
       より「蛤」などを振る舞われた。次いで山科言経・冷泉為満、安土町中を見物し、町屋にて「ムキ」を食す。
       その後、高野山本願光政上人を訪問し、冷泉為満は樽代を、山科言経は扇子3本を進上して楠長諳宿所に戻る。
       入夜に山科言経・冷泉為満は「クワイライ」(傀儡)を見物す。
       また山科言経は安土城(「御城」)の様子を「見事言語道断、前代未聞結構々々、不及筆舌」と評価する。〔『言経卿記』一〕
  4月26日 誠仁親王(「下の御所」)、晩に正親町天皇(「上」)へ「被成」れ、近江国安土城への「人くたし」について談合す。
       近江国安土城に下向する女房は「大御ちの人」に決定した。〔『日々記』〕
  4月27日 山科言経・冷泉為満、楠正辰(「楠甚四郎」)の宿所へ朝食に赴く。次いで楠長諳宿所に戻ったところ酒席が催された。
       山科言経・冷泉為満の両名で10疋を進上。また山科言経ら、楠正辰(「甚四郎」)より乗馬用の馬2頭を借用を提供される。
       山科言経、近江国草津まで乗馬し、そこから近江国安土へ戻す。山科言経・冷泉為満、は帰路にて茶を飲み、近江国勢田橋を
       見物、「言語道断」と評す。山科言経、戌下刻に帰宅す。〔『言経卿記』一〕
  4月27日 山科言経、「大津衆」(大津座人)の来訪を受ける。村井光清(「村井将監」)への礼問が済んだという旨の報告であった。
       〔『言経卿記』一〕
  4月27日 この夕方、村井貞勝(「村井」)邸宅に庭田重保・甘露寺経元・中山親綱・勧修寺晴豊・吉田牧庵が集まり「談合」が
       行われる。この「談合」で近江国安土城へ派遣される女房は「上揩フおつほね」(花山院家輔女)と「大御ちの人」の2名に
       勧修寺晴豊が随行することが適切であるという結論に達した。〔『日々記』〕
  4月28日 山科言経、冷泉為満へ「道具」・「衣裳」等を送る。〔『言経卿記』一〕
  4月28日 山科言経、冷泉為満の所望により愛洲薬を遣わす。
       また「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)の官女「小侍従」の所望により愛洲薬を遣わす。〔『言経卿記』一〕
  4月28日 山科言経、日野輝資が「所労」というので見舞う。〔『言経卿記』一〕
  4月28日 貴船神社(「木舟」)へ「あこ女ほうしゆ」と勧修寺尹豊(「入道殿」)が参詣する。〔『日々記』〕
  4月28日 二条御所(「下御所」)に於いて「和漢」歌会が開催される。〔『日々記』〕
  4月28日 吉田兼見、吉田兼治を二条御所に代参させ、吉田兼見自身は暮れ及び二条御所に祗候。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  4月29日 吉田兼見、二条御所を早々に退出。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  4月29日 勧修寺晴豊、二条御所(「下御所」)の「当番」請取に祗候し、水無瀬重通(「水無瀬中納言」)と交代。〔『日々記』〕
  4月29日 近江国安土城へ派遣される「上ろう」と「大御ちの人」と勧修寺晴豊、下向のための費用等を準備。〔『日々記』〕
  4月29日 山科言経、暮れに古市宗超の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕
    この頃 誠仁親王、織田信長(「前右府」)へ「いか様の官にも任せられ」との消息を認める。〔「畠山記念館所蔵文書」〕
  4月  日 織田信長、甲斐国諏訪社へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「諏訪明神社文書」〕
  4月  日 織田信長、甲斐国島上条八幡宮へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔『社記』巻之十〕
  4月  日 織田信長、甲斐国御獄社へ全3ヶ条の「禁制」を下す。
       〔『諸州古文書』四上、『諸国古文書抄』九、『甲州古文書』四ノ上〕
  4月  日 織田信長、甲斐国美和社へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「美和神社文書」、「坂名井文書」、『諸州古文書』四下〕
  4月  日 織田信長、甲斐国慈照寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「慈照寺文書」〕
  4月  日 織田信長、甲斐国法善寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「法善寺文書」〕
  4月  日 織田信長、甲斐国千塚郷穀蔵寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「内藤盈徳氏所蔵文書」〕
  4月  日 織田信長、甲斐国中郡仁勝寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「仁勝寺文書」〕
  4月  日 織田信長、甲斐国恵雲寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「恵雲寺文書」〕
  4月  日 織田信長、甲斐国府中長慶寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「長禅寺文書」〕
  4月  日 織田信長、甲斐国実相院へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「大蔵経寺文書」、『諸州古文書』四下、『諸国古文書抄』〕
  4月  日 織田信長、甲斐国岩崎山少林寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔『寺記』巻四十〕
  4月  日 織田信長、甲斐国楢原郷光西寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「広済寺文書」、『諸国古文書抄』〕
  4月  日 織田信長、甲斐国岩手村信盛院へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔『寺記』巻三十八〕
  4月  日 織田信長、甲斐国法正寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔『寺記』巻六十八〕
  4月  日 織田信長、甲斐国塩山向岳寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「向岳寺文書」坤〕
  4月  日 織田信長、甲斐国雲峯寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔『寺記』巻三十〕
  4月  日 織田信長、甲斐国東林院へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔『寺記』巻三十八〕
  4月  日 織田信長、甲斐国柏尾山大善寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「大善寺文書」、『諸州古文書』六〕
  4月  日 織田信長、甲斐国須沢郷へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「名取文書」〕
  4月  日 織田信長、甲斐国巨摩中郡山上郷へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「三井文書」、『諸州古文書』四下、『諸国古文書抄』〕
  4月  日 織田信長、甲斐国山梨郡神戸郷へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「感状写」〕
  4月  日 織田信長、甲斐国小室郷へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「妙法寺文書」〕
  4月  日 織田信長、甲斐国下宮地郷へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「今沢文書」〕
  4月  日 織田信長、甲斐国上条へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「窪田文書」、『社記』巻九〕
  4月  日 織田信長、甲斐国下井尻郷へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「井尻文書」〕
  4月  日 織田信長、甲斐国山梨郡岩下郷へ全3ヶ条の「禁制」を下す。
       〔『諸州古文書』三上、『甲州古文書』三ノ上、『諸国古文書抄』四〕
  4月  日 織田信長、甲斐国西保郷へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔『甲斐史料集成稿』〕
  4月  日 織田信長、甲斐国仏師原郷へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「網野文書」、『諸州古文書』九〕
  4月  日 織田信長、甲斐国於曽郷へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔『諸州古文書』五、『甲州古文書』五、「橋爪元太郎家文書」〕
  4月  日 織田信長、甲斐国八代郡西海郷へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「西湖村共有文書」〕
  4月  日 織田信長、甲斐国某所宛へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「桜林保格家文書」〕
  4月  日 織田信長、甲斐国某所宛へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「巨摩郡古文書」〕

 5月
  5月 1日 山科言経、楠長諳(「楠長安」)へ先日の礼状を発す。〔『言経卿記』一〕
  5月 1日 山科言経、冷泉為満へ書状を発す。〔『言経卿記』一〕
  5月 1日 山科言経、正親町天皇へ1荷両種を献上す。〔『言経卿記』一〕
  5月 1日 山科言経、「仁和寺殿」(任助法親王)へ安産祈祷の礼物を送り、任助法親王より返礼として「荒神供御米」を下賜される。
       〔『言経卿記』一〕
  5月 1日 山科言経、「下御所当番」に祗候した冷泉為満へ錫・強飯などを持参す。〔『言経卿記』一〕
  5月 1日 「北向」(山科言経室)、産後初めて冷泉家を訪問。「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)・山科言緒(「阿茶丸」)が同行。
       山科言経も冷泉家を訪問す。〔『言経卿記』一〕
  5月 1日 勧修寺晴豊、二条御所(「下御所」)へ祗候し「御盃」を拝領。〔『日々記』〕
  5月 1日 誠仁親王(「親王御方」)、明日近江国安土城へ下向する「上ろう」・「大御ちの人」を連れて「禁裏」へ「リンキヨ」し、
       「御盃」を拝領す。女房衆2名は「勅作」の貝5個を「拝領」し、明日近江国安土城へ下向することを確認。〔『日々記』〕
  5月 1日 吉田兼見、水無瀬親具を同行し「賀茂競馬」を見物。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  5月 1日 吉田兼見、水無瀬親具を同行し「足汰」(賀茂競馬)を見物。〔『兼見卿記』二〕
  5月 1日 筒井順慶(「順慶」)、大和国春日大社に社参す。〔『多聞院日記』三〕
  5月 2日 山科言経、江村専斎(「江村甚太郎」)の来訪を受けて「中庸」の講読を行う。〔『言経卿記』一〕
  5月 2日 「北向」(山科言経室)・山科言緒(「阿茶丸」)、暮れに冷泉家より帰宅。〔『言経卿記』一〕
  5月 2日 山科言経、島田与介(冷泉侍)の来訪を受け「庭訓往来」の意味不明な部分の解説を行う。〔『言経卿記』一〕
  5月 2日 山科言経、冷泉為満を訪問した後に京都誓願寺へ参詣。〔『言経卿記』一〕
  5月 2日 村井貞勝(「村井」)によるこの日の「安土くたり」のための人足調達が不調で、勅使下向は延期。明日の明け方に出立する
       予定となる。〔『日々記』〕
  5月 2日 羽柴秀吉、備中国河屋城・備中国加茂城・備中国亀石城を攻略。〔「亀井文書」「村上文書」二〕
  5月 3日 「上揩フ局」・「大御ちの人」・勧修寺晴豊、明け方に近江国安土城へ向けて京都を出立。
       「勅使」は勧修寺晴豊で「上らう」はその介添えとして、また「大御ちの人」は誠仁親王(「御方の御所」)の意を受けての
       下向であった。「両御所」(正親町天皇と誠仁親王)からの「御書」と、正親町天皇(「禁裏」)からの「御ふく」1重と
       誠仁親王(「御方の御所」)からの「かけ香」20袋を携えての下向であった。近江国草津に於いて昼の休憩をとった。
       〔『日々記』〕
  5月 3日 山科言経、毘沙門堂公厳の所望により「クコノ枝」を送る。〔『言経卿記』一〕
  5月 3日 山科言経、大沢明栖の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕
  5月 3日 吉田兼見、「勅許」により「上階」す(従三位)。
       この吉田兼見の昇進は「若御局」(誠仁親王妃:勧修寺晴子)・万里小路充房の「内々馳走」による誠仁親王(「親王御方」)
       の「御執奏」で実現したものであった。「口宣」は万里小路充房の書出によるものであった。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  5月 3日 吉田兼見、「勅許」により「上階」す(従三位)。
       この吉田兼見の昇進は「若御局」(誠仁親王妃:勧修寺晴子)・万里小路充房の「別而馳走」による誠仁親王(「親王御方」)
       の「御執奏」で実現したものであった。吉田兼見は「最満足」した。「口宣」は万里小路充房の書出であった。
       〔『兼見卿記』二〕
  5月 3日 羽柴秀吉、備中国河屋城を陥落。〔「溝江文書」〕
  5月 3日 小早川隆景、村上元吉(能島)へ昨日羽柴秀吉自身が備中国加茂城(「鴨城」)を攻撃した旨を通知。
       更に警固については乃美宗勝より重ねて通達させることを通知。〔「村上文書」二〕
  5月 4日 山科言経、楠正辰(「楠甚四郎」)へ書状を発す。〔『言経卿記』一〕
  5月 4日 女房衆、近江国安土城へ登城し正親町天皇(「禁裏」)・誠仁親王(「御方御所」)より下賜された贈物を渡す。
       勅使の勧修寺晴豊は松井友閑(「友感」)邸を訪問し、「勅作五貝もつく」1桶を贈る。織田信長「こしやう衆」6・7人へは
       扇子を2本ずつ贈る。
       勧修寺晴豊、織田信長(「のふなか」)の遣わした小姓の森成利(「御らん」)より「いかやうの御使のよし」を問われる。
       これに対し勧修寺晴豊が「関東打はたされ珍重候間、将軍ニなさるへきよし」と返答したところ、再度森成利(「御らん」)を
       介して織田信長「御書」が発給された。織田信長「御使」の楠長諳(「長庵」)が「上らう御局へ御目かかり可申ふんなから、
       御返事申入候ハて御目かかり申候儀、いかゝ」と問いかけて勧修寺晴豊の「心え可申」と言ったので、勧修寺晴豊は
       「いかやうにも、御けさんあるへく候」と返答した。すると再び「御両御所」(正親町天皇・誠仁親王)へ織田側の「御返事」
       が出された。楠長諳(「長庵」)は勧修寺晴豊へ5疋を、「おく」に3疋を、「若上ろうおく物」へ2疋を贈呈。
       〔『日々記』〕
  5月 4日 吉田兼見、明日の節供のために村井貞勝(「春長軒」)を礼問、将碁をして暫く談合す。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  5月 4日 吉田兼見、二条御所(「下御所」)へ祗候し明日の節供のために御礼を申し入れる。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  5月 4日 吉田兼見、二条御所(「下御所」)へ祗候し、明日は終日吉田神社の神事があるのでこの日に祗候した旨を上奏す。
       〔『兼見卿記』二〕
  5月 4日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問し対面。吉田兼見の「上階」の件を申し入れた。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  5月 4日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問し対面。吉田兼見の「上階勅許」の件を報告した。〔『兼見卿記』二〕
  5月 5日 勧修寺晴豊、近江国安土に於いて織田信長への「御けさん」を待つ。
       「なひき」(内記?)からは織田信長への「御けさん」があるので待機するよう指示を受けたのでそのまま待機。
        勧修寺晴豊は「はうはう」より織田信長の「御きけんよく」という情報に接す。明日には織田信長への「御けさん」の予定を
       受ける。〔『日々記』〕
  5月 5日 冷泉為満、山科言経へ錫両種を、山科言緒(「阿茶丸」)へ「シヤウフ刀」を送る。〔『言経卿記』一〕
  5月 5日 山科言経、冷泉為満を同行し村井貞勝(「村井春長軒」)を礼問するも留守であったので村井吉忠(「村井又兵衛」)へ言伝
       した。〔『言経卿記』一〕
  5月 5日 山科言経、山科言緒(「阿茶丸」)を同行し冷泉為満を礼問す。〔『言経卿記』一〕
  5月 5日 山科言経、「所労」であった日野輝資を訪問し見舞う。〔『言経卿記』一〕
  5月 5日 山科言経、島田与介(冷泉家侍)の来訪を受け読書指南を行う。〔『言経卿記』一〕
  5月 5日 山科言経、暮れに冷泉為満を訪問。「菊屋」某も到来し「小諷」が催された。〔『言経卿記』一〕
  5月 5日 蜂須賀正勝、備中国吉備津神社へ「惣社制札」の発給要請了承を通知。〔「吉備津神社文書」‐157〕
  5月 6日 近江国安土で待機中の「上ろう」(上搆芫ヌ:花山院家輔女)、織田信長に対し「せひとも御けさんあるへきよし」の「文」
       を発す。〔『日々記』〕
  5月 6日 織田信長、勧修寺晴豊(勅使)と上搆芫ヌ(花山院家輔女)に対面。〔『日々記』〕
  5月 6日 勧修寺晴豊(勅使)と女房衆、織田信長が調達した船3艘に乗船し帰洛の途につく。女房衆は贈物を受けた。〔『日々記』〕
  5月 6日 吉田兼見、近衛邸(「陽明」)に近衛信尹(「御方御所」)を訪問し対面す。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  5月 6日 吉田兼見、禁裏へ「上階御礼」のために祗候。御礼進物を献上し、万里小路充房が披露した。
       (*別本『兼見卿記』では5月7日の記事)〔『兼見卿記』二〕
  5月 6日 吉田兼見、近衛邸を訪問し、近衛信尹(「近衛殿御方御所」)に対面す。暫く「祗候」した。〔『兼見卿記』二〕
  5月 6日 山科言経、暮れに山科言緒(「阿茶丸」)を同行し冷泉為満を訪問。〔『言経卿記』一〕
  5月 6日 多聞院英俊、筒井順慶(「順慶」)が大和国郡山の「松権」の宿所へ「申入」したことを知る。〔『多聞院日記』三〕
  5月 6日 羽柴秀吉、亀井茲矩へ備中国巣蜘塚城・備中国河屋城・備中国加茂城・備中国亀石城の攻略を通知し備中国平定を予告。
       〔「亀井文書」〕
  5月 7日 織田信長、尾張国の土肥助次郎へ春日勝蔵の散在地・買得分85貫文余を扶持するので、糺明次第に「知行」とすべきことを
       通達。〔「土肥文書」〕
  5月 7日 織田信長、神戸信孝(「三七郎殿」:織田信孝)へ全3ヶ条の「就今度至四国差下条々」を下す。
       その内容は、讃岐国一円を神戸信孝(織田信孝)へ宛行うこと、阿波国一円を三好康長(「三好山城守」)に宛行うこと、残り
       の伊予国・土佐国は織田信長(「信長」)が淡路国へ「出馬」してから処分を決定することであった。また「国人」について
       存続・追放の適正な処置と「政道」を厳命。さらに万事は三好康長(「山城守」)に対して「君臣・父母之思」を以て「馳走」
       し忠節をなすことを指示。〔「寺尾菊子氏所蔵文書」〕
  5月 7日 山科言経、朝食後に「下御所当番」に祗候。「相番」は白川雅朝、「加番」は五辻元仲、「外様」は広橋兼勝・富小路秀直で
       あった。二条御所「木屋」に於いて広橋兼勝が酒席を設けた。次いで二条御所「番所」に於いて広橋兼勝と山科言経が「連句」
       を詠む。次いで山科言経、「宿」番を四辻季満に「相伝」し二条御所を退出。〔『言経卿記』一〕
  5月 7日 吉田兼見、この朝に妙心院文慶より招待を受ける。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  5月 7日 山科言経、冷泉為満・山科言緒(「阿茶丸」)を同行し「今宮祭」を見物。〔『言経卿記』一〕
  5月 7日 勧修寺晴豊(勅使)と女房衆、近江国大津に到着。近江国坂本の町並みを見物、近江国大津で「ひるのやすミ」をとり上洛。
       勧修寺晴豊、禁裏へ参内し「上ろう局」(花山院家輔女)より織田信長から贈られた「ゑちこつゝき」の「御すそわけ」を
       賜わる。
       またこの後に勧修寺晴豊、村井貞勝(「村井」)へ織田信長(「安土」)からの「返事」と正親町天皇(「禁裏」)から下賜
       された鮭5匹を渡す。〔『日々記』〕
  5月 7日 吉田兼見、「禁裏」へ祗候し「上階」の礼として酒肴・饅頭50個・鯉5匹を献上。万里小路充房が披露した。
       (*正本『兼見卿記』では5月6日の記事)〔『兼見卿記』二(別本)〕
  5月 7日 吉田兼見、妙心院文慶を訪問す。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  5月 7日 山科言経、暮れに四条隆昌の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕
  5月 7日 羽柴秀吉、清水宗治を備中国高松城に包囲し水攻めを開始。〔「信長公記」〕
  5月 8日 山科言経、江村専斎(「江村甚太郎」)の来訪を受けて「中庸」の講読を行う。〔『言経卿記』一〕
  5月 8日 山科言経、「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)の所望により「猪牙」を貸す。〔『言経卿記』一〕
  5月 8日 山科言経、持明院基孝の来訪を受けて冷「ムキ」を振る舞う。そして酒席の後に数刻雑談す。また持明院基孝の所望により
       「当帰」1両を贈呈す。〔『言経卿記』一〕
  5月 8日 山科言経、木屋薬師堂へ参詣し、次いで冷泉為満邸を訪問す。〔『言経卿記』一〕
  5月 8日 勧修寺晴豊、「大御ちの人」より織田信長から贈られた絹1疋の「すそわけ」を受ける。〔『日々記』〕
  5月 8日 吉田兼見、二条御所「当番」に祗候。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  5月 8日 羽柴秀吉、備中国高松城を包囲し川を切って水攻めにする。〔「溝江文書」〕
  5月 9日 吉田兼見、早々に二条御所を退出す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  5月 9日 山科言経、「下御所番所」に所用があり参内す。〔『言経卿記』一〕
  5月 9日 山科言経、山科言緒(「阿茶丸」)を同行し「今宮祭礼」を見物す。次いで冷泉為満邸に立ち寄る。〔『言経卿記』一〕
  5月 9日 山科言経、禁裏「当番」に祗候。「相番」は庭田重通・白川雅朝、「外様」は東坊城盛長であった。〔『言経卿記』一〕
  5月 9日 勧修寺晴豊、二条御所(「下御所」)の「当番」として祗候。〔『日々記』〕
  5月 9日 下冷泉為親(「下冷泉」)、8歳にて「首服」す。〔『言経卿記』一〕
  5月 9日 毛利輝元、村上武吉・村上元吉(能島)へ羽柴秀吉が備中国境へ布陣している旨を通達。〔「村上文書」二〕
  5月10日 山科言経、江村専斎(「江村甚太郎」)の来訪を受け「中庸」の講読を終了す。〔『言経卿記』一〕
  5月10日 勧修寺晴豊、早天に二条御所(「下」)を退出。〔『日々記』〕
  5月10日 吉田兼見、二条御所(「下御所」)へ参内し上階御礼の酒肴を献上、誠仁親王の対面を受ける。万里小路充房が披露した。
       暫し酒宴が催され、吉田兼見は「若御局」(勧修寺晴子)へ「スヽシ」1端を進上した。吉田兼見、入夜に二条御所を退出、
       「仕合能」という状態であった。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  5月10日 吉田兼見、二条御所(「下御所」)へ参内し上階御礼の酒肴を献上、誠仁親王の対面を受けた。
       正親町季秀・中山親綱・庭田重通・万里小路充房・薄諸光。五辻元仲・吉田兼見で酒宴に参席した。
       また吉田兼見、「若御局」(誠仁親王妃:勧修寺晴子)へ「白生」1端を献上。
       入夜になって吉田兼見は二条御所を退出、「仕合満足」であった。〔『兼見卿記』二〕
  5月10日 勧修寺晴豊、吉田兼見(「吉田三位」)より二条御所(「下御所」)に於いて酒宴開催の連絡を受けるも参席せず。
       〔『日々記』〕
  5月10日 「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、暮れに山科言経邸に渡御す。〔『言経卿記』一〕
  5月10日 吉田兼見、二条御所退出後に「所労」の日野輝資を見舞う。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  5月11日 勧修寺晴豊、二条御所(「下御所」)へ祗候。〔『日々記』〕
  5月11日 神戸信孝(織田信孝)、織田信澄・丹羽長秀らを従えて摂津国住吉に集結。
  5月11日 松平家忠、三河国岡崎城に到来した徳川家康を出迎える。〔『家忠日記』〕
  5月12日 松平家忠、三河国小坂まで徳川家康を見送る。〔『家忠日記』〕
  5月12日 吉田兼見、早々に細川藤孝(「長岡兵部大輔」)来訪を受ける。また後刻に細川忠興(「長岡与一郎」)が到来した。
       「蹴鞠興行」が催された。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  5月12日 吉田兼見、早旦に細川藤孝(「長岡兵部大輔」)の来訪を受け、晩に細川忠興(「与一郎」)が来訪し「鞠張行」があった。
       同行者は水無瀬親具・小笠原貞慶(「小笠原民部」)・「安東」某であった。「鞠」興行の後に夕食となったが、
       小笠原貞慶(「小笠原」)は「重服」であったので神龍院に於いて夕食があった。〔『兼見卿記』二〕
  5月12日 山科言経、白川雅朝妻より「平家」物語9巻の書写を依頼される。
       先日1冊書写した織田信長(「前右府」)妾「御ナヘ」(小倉氏:信長側室なべ)のためだという。〔『言経卿記』一〕
  5月12日 勧修寺晴豊、吉田牧庵(「牧庵」)より「鈴」・「ゥ白」を贈呈される。〔『日々記』〕
  5月12日 水無瀬親具、吉田兼見を訪問し夕食を共にす。暮れに帰京した。(*別本『兼見卿記』のみの記事)
       〔『兼見卿記』二(別本)〕
  5月12日 吉田浄勝(「盛方院」)、吉田兼見を訪問し、暮れに帰京した。(*正本『兼見卿記』のみの記事)〔『兼見卿記』二〕
  5月12日 大和国興福寺に於いて徳川家康(「参河屋形家康」)が近江国安土城へ礼参するというので贈物が調達され、この日に送付
       された。また堀秀政(「堀久」)・矢部家定(「矢善」)・一雲斎針阿弥(「針阿弥」)らへも贈物が送付された。
       〔『蓮成院記録』三〕
  5月12日 多聞院英俊、来5月15日に近江国安土城に於いて徳川家康(「家康」)を招いて「翫能」以下が催される予定であることを
       知る。大和国奈良中へもその準備調達命令が通達された。〔『多聞院日記』三〕
  5月13日 山科言経、「所労」の日野輝資を見舞う。〔『言経卿記』一〕
  5月13日 「せいほうゐん」(吉田盛方院浄勝カ)、「当年之御礼」として禁裏へ祗候。「ふさ」(総国?)から信濃国へ下向した御礼
       は上申せず。
       勧修寺晴豊、「見きよしよ」1束を持参。禁裏内侍所に於いて酒席が催され、持明院基孝・四辻公遠・四辻季満・中山親綱・
       万里小路充房・白川雅朝・勧修寺晴豊は「大酒」であった。〔『日々記』〕
  5月13日 細川藤孝(「長兵」)、吉田兼見邸に「滞留」す。明日近江国安土城に出仕するという。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  5月13日 大和国興福寺より大和国畑庄について「方々違乱無糺」しという状態であったので織田信長(「安土」)へ「訴訟」するため
       に、この朝出立す。〔『多聞院日記』三〕
  5月13日 原田直次、備中国吉備津神社に羽柴秀長(「小一様」)への取り成しは雨天故に延期していること、蜂須賀正勝も来客のため
       返答が滞っていること、昨日羽柴秀吉(「秀吉様」)が吉備津神社に社参したこと、天気回復を待って羽柴秀長(「小一様」)
       への取り成しを実行し直接吉備津神社へ通達する旨を通知。〔「吉備津神社文書」‐158〕
  5月14日 織田信長、木曽義昌(「木曽伊予守」)へ信濃国木曽方面の「仕置」を油断無く行っていることを諒承。
       詳細は菅屋長頼(「菅屋九右衛門」)に伝達させる。〔『亀山氏由緒関係書類』〕
  5月14日 細川藤孝(「長兵」)、早天に近江国安土城へ向けて吉田兼見邸を出発。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  5月14日 吉田兼見、この度徳川家康(「徳川」)が近江国安土城の織田信長(「信長」)に礼参するために登城すること、また
       明智光秀(「惟任日向守」)が「在庄」を命じられたことを知る。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  5月14日 吉田兼見、明日5月15日に徳川家康(「徳川」)が近江国安土城に登城するために織田家臣団は安土城へ祗候すること、
       徳川家康(「徳川」)が安土に逗留している間、明智光秀(「惟日」)が「在庄」することを織田信長(「信長」)より命令
       されたこと、その間の「用意馳走以外」であったことを知る。〔『兼見卿記』二〕
  5月14日 山科言経、「所労」の日野輝資を見舞うため塩冶実秀(「塩冶新左衛門尉」)を派遣。この日に「験気」になったという。
       〔『言経卿記』一〕
  5月14日 山科言経、冷泉為満の所望により「皮籠カタヒラ」を貸す。冷泉為満は明日近江国安土城へ下向するという旨を知る。
       〔『言経卿記』一〕
  5月14日 山科言経、暮れに冷泉為満を訪問し「暇乞」す。〔『言経卿記』一〕
  5月14日 勧修寺晴豊、芸済へ鈴2色を送付。〔『日々記』〕
  5月14日 土御門久脩(「土御門治部」)、この夜に上洛。〔『日々記』〕
  5月15日 織田信長、近江国安土城・ハ見寺に於いて徳川家康・穴山信君らを謁見す。〔『多聞院日記』三〕
  5月15日 徳川家康(「松平家康」)、近江国安土城に来臨す。〔『多聞院日記』三〕
  5月15日 穴山信君(「スルカノ穴山入道」)、徳川家康(「家康」)と共に近江国安土城を礼問。〔『多聞院日記』三〕
  5月15日 山科言経、「聖天」に参詣した後に冷泉為満を訪問。〔『言経卿記』一〕
  5月15日 冷泉為満、早朝に近江国安土城へ向けて発す。その途中、山科言経に「暇乞」す。〔『言経卿記』一〕
  5月15日 勧修寺晴豊、昨夜に上洛した土御門久脩(「土御門治部」)より土産の魚の贈呈を受ける。
       土御門久脩は明日「木舟」(貴船神社)へ参詣するというので食籠を準備する。〔『日々記』〕
  5月15日 山科言経、京都祇園社へ毎年恒例の看経を行う。「天下泰平」と家中息災などを祈念す。〔『言経卿記』一〕
  5月15日 山科言経、京都祇園社へ参詣。〔『言経卿記』一〕
  5月15日 山科言経、「聖天」へ参詣した後に冷泉家へ立ち寄る。〔『言経卿記』一〕
  5月15日 多聞院英俊、この日に徳川家康(「松平家康」)が近江国安土城に来臨したことを知る。〔『多聞院日記』三〕
  5月16日 上搆芫ヌ(花山院家輔女)・女房衆ら、「木舟」(貴船神社)へ参詣す。〔『日々記』〕
  5月16日 吉田兼見、二条御所の和仁親王(「若宮御方」)へ「御祓」を進上。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二(別本)〕
  5月16日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)・近衛信尹(「御方」)へ「御祓」を進上。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  5月16日 吉田兼見、二条昭実(「二条殿」)へ「御祓」を進上。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  5月17日 織田信長、明智光秀へ羽柴秀吉赴援の先鋒を命令。
  5月17日 山科言経、「下御所当番」に祗候。「相番」は白川雅朝、「加番」は五辻元仲、「外様衆」は烏丸光宣・富小路秀直。
       山科言経、「宿」番を四辻季満に「相伝」し二条御所を退出。その後、水無瀬兼成の旅宿を訪問す。〔『言経卿記』一〕
  5月17日 山科言経、「所労」の日野輝資を見舞うため塩冶実秀(「塩冶新左衛門尉」)を派遣す。〔『言経卿記』一〕
  5月17日 大和国木津に於いて「松村」父子と女房共が細川藤孝(「細川殿」)の奉行によって「生涯」させられる。
       〔『多聞院日記』三〕
  5月17日 多聞院英俊、この日大和国木津に於いて「松村」父子と女房共が細川藤孝(「細川殿」)の奉行によって「生涯」させられた
       ことを知る。〔『多聞院日記』三〕
  5月17日 筒井順慶(「筒井順慶」)、大和国郡山城に帰還。〔『多聞院日記』三〕
  5月18日 織田信長、自ら徳川家康の膳を据え、徳川家康家臣にも自ら「ふりもミこかし」を引き帷子を与えた。
  5月18日 松平家忠、近江国安土城へ出仕した徳川家康のもとへ飛脚を発す。〔『家忠日記』〕
  5月18日 山科言経、水無瀬兼成の来訪を受けて水無瀬兼成室(「北向」)の病を脈診し薬3包を与える。〔『言経卿記』一〕
  5月18日 山科言経、高倉永孝の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕
  5月18日 山科言経、暮れに京都誓願寺を参詣す。〔『言経卿記』一〕
  5月18日 勧修寺尹豊(「入道殿」)・土御門久脩(「土御門治部大夫」)・勧修寺晴豊、中山親綱邸の朝食に招待される。
       〔『日々記』〕
  5月18日 この昼、二条御所(「下御所」)に於いて南禅寺長老が「心経」の講釈を行う。勧修寺晴豊、この講釈に参席。
       半井瑞策(「通仙」)の邸で「汁ふるまい」があり、庭田重保・五辻為仲・半井瑞策(「通仙」)父子・「緒庵」・白川雅朝・
       勧修寺晴豊が「大酒」する。〔『日々記』〕
  5月18日 多聞院英俊、織田信長(「安土」)へ大和国畑庄についての上奏すべき事があったので「注進使」として書状を発すことに
       なった。〔『多聞院日記』三〕
  5月18日 大和国興福寺に近江国安土城より「御書」が届けられた。
       その内容は去5月15日に織田信長へ大和国奈良中より調達した盃台・樽3荷・小折2合・畑茶10斤が献上されたところ、
       「台」は比類無き物として称賛され、「寺門ノ名誉御門跡ノ御高名」と好評であった。多聞院英俊、贅を尽くした金銀・唐物を
       進上したとしてもこのように織田信長が「御悦喜御満足」することは無く、だからこそ「一段々々ノ御仕合」と評価されたこと
       を知る。〔『多聞院日記』三〕
  5月18日 多聞院英俊、大和国興福寺「寺門」が献上した装飾付「盃台」は織田信長「御意」には叶わなかったことを知る。
       また上演された能は「張良」は祝言であったが、「クラマ天狗」では「ヲコレル平家ヲ西海ニ追下ト云事」が盛り込まれており
       多聞院英俊は織田信長が気に入らなかったのは「信長ハ平家ノ故御気ニ障ル歟」と推量する。〔『多聞院日記』三〕
  5月18日 多聞院英俊、昨夕に筒井順慶(「筒井順慶」)が大和国郡山城に帰還したこと、来5月20日に「西国へ出陣」の準備をする
       ことを知る。〔『多聞院日記』三〕
  5月18日 多聞院英俊、去5月15日に徳川家康(「家康」)と穴山信君(「スルカノ穴山入道」)が近江国安土城に礼参したこと、
       両者を接待する用意が調っており、「惣見寺」にて「唐和ノ財」で装飾された座敷が設けられたことを知る。
       〔『多聞院日記』三〕
  5月19日 山科言経、暮れに冷泉家を訪問。〔『言経卿記』一〕
  5月19日 勧修寺晴豊、この夕方に土御門久脩(「土御門」)邸の食事に招待される。〔『日々記』〕
  5月19日 勧修寺尹豊(「入道殿」)・勧修寺晴豊、東坊城盛長(「坊城」)邸にて「大酒」。高倉永相(「藤中」)は「沈酔」。
       〔『日々記』〕
  5月19日 多聞院英俊、織田信長(「安土」)へ大和国畑庄の「違乱注進状」を認めて発す。〔『多聞院日記』三〕
  5月19日 多聞院英俊、春清の到来を受けて今度の近江国安土城に於ける「仕合」について談義したが「御書」にあることと同じ内容で
       あった。〔『多聞院日記』三〕
  5月19日 羽柴秀吉、溝江大炊允(柴田勝家与力)へ陣中見舞いを謝し、西国の戦況を報告。〔「溝江文書」〕
  5月19日 長景連(上杉景勝家臣)、越中国住人の太田小尉・河島与一右衛門・小林平次衛門へ「天下一統之御代」に於いて上杉側の
       戦況が芳しくないことに触れ、「上方之儀は不実」であることについては多くの証拠があることなどを通知。〔『北徴遺文』〕
  5月20日 織田信長(「信長」)、能登国の長連竜(「長九郎左衛門尉」)へ「東国属存分帰陣」への祝儀として「白布」2端を謝す。
       詳細は菅屋長頼(「菅屋九右衛門尉」)に伝達させる。〔「長家文書」、『長家文献集』、『加能越古文叢』三十八〕
  5月20日 勧修寺晴豊、早天に禁裏より二条御所(「下御所」)の「御番」に祗候。〔『日々記』〕
  5月20日 山科言経、朝食に「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)・「中殿」(冷泉為益室)を招待す。〔『言経卿記』一〕
  5月20日 山科言経、橋本孫介の来訪を受け、この日に村井吉忠(「村井又兵衛尉」)・住田清右衛門尉らにより京都梅津社の火焼神事
       について「裁許」があった事を知る。〔『言経卿記』一〕
  5月20日 山科言経、日野輝資より使者を受け、「所労」は大概快復したというので見舞に赴く。〔『言経卿記』一〕
  5月20日 山科言経、近江国大津座人の来訪を受け伏見塩座人の塩奪取されたことを「奉行」(村井貞勝家中)への訴訟を依頼される。
       〔『言経卿記』一〕
  5月20日 山科言経、水無瀬兼成の来訪を受けて水無瀬兼成室(「北向」)を脈診す。〔『言経卿記』一〕
  5月20日 山科言経、暮れに冷泉家を訪問。〔『言経卿記』一〕
  5月20日 徳川家康、長谷川秀一の案内により京都から摂津国大坂へ移る。
  5月21日 山科言経、早朝に伏見塩座による大津座人塩掠奪の件で村井貞勝家中の村井吉忠(「村井又兵衛」)・村井光清(「将監」)
       住田清右衛門尉らへ使者を派遣。〔『言経卿記』一〕
  5月21日 山科言経、山科言緒(「阿茶丸」)を同行し上御霊社に参詣す。〔『言経卿記』一〕
  5月21日 冷泉為満、近江国安土城より上洛し直接山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  5月21日 山科言経、「七宮御方」(誠仁親王第七皇子)へ保童円を進上。〔『言経卿記』一〕
  5月21日 広橋兼勝・勧修寺晴豊、「勅使」として村井貞勝(「村井」)邸へ派遣される。〔『日々記』〕
  5月21日 織田信忠(「三位中将殿」)・徳川家康(「参川徳川」)、上洛す。〔『言経卿記』一〕
  5月21日 織田信忠(「城介」)・徳川家康(「徳河」)・穴山信君(「あな山」)、上洛す。見物人が群集す。〔『日々記』〕
  5月22日 織田信忠(「城介」)、正親町天皇(「禁裏」)へ「さらし」35反・「ひたぬの」15反・「きぬしけなし」30反を
       献上。誠仁親王(「御方の御所」)にも同物を献上。〔『日々記』〕
  5月21日 松平家忠、鵜殿善六より近江国安土城での様子を報じた書状を受ける。〔『家忠日記』〕
  5月22日 正親町天皇(「禁裏」)、勧修寺晴豊へ「さらし」1反を下賜する。〔『日々記』〕
  5月22日 山科言経、暮れに「北向」(山科言経室)・山科言緒(「阿茶丸」)を同行し冷泉為満を訪問。〔『言経卿記』一〕
  5月22日 長連竜、卯刻に能登国棚木城を攻略し長景連(「長与一」:上杉景勝家臣)を討ち取る。
       〔「長家文書」、『長家文献集』、『加能越古文叢』三十八〕
  5月23日 勧修寺晴豊、早天に二条御所(「下」)より退出。〔『日々記』〕
  5月23日 正親町天皇(「禁裏」)、村井貞勝(「村井」)へ「ぬき」1引・「さらし」1反・「越後つつき」を下賜する。
       〔『日々記』〕
  5月23日 正親町天皇(「禁裏」)、織田信忠(「城介殿」)へ「小鷹ニからにしき」と「勅作」10具を下賜。
       勧修寺晴豊が「御使」(勅使)であった。〔『日々記』〕
  5月23日 誠仁親王(「下御所」)、村井貞勝へ贈物を下賜する。〔『日々記』〕
  5月23日 誠仁親王(「下御所」)、織田信忠へ甘露寺経元「御書」を介して贈物を下賜する。
       甘露寺経元より「大々」2筋、勧修寺晴豊からも同様大々2筋が織田信忠へ贈呈された。〔『日々記』〕
  5月23日 山科言経、冷泉為満の招待を受けて訪問す。〔『言経卿記』一〕
  5月23日 山科言経、近江国大津座人の来訪を受けて「塩公事」の訴訟をうける。〔『言経卿記』一〕
  5月23日 勧修寺晴豊、誠仁親王(「御方御所」)より「きぬ」1引を拝領す。〔『日々記』〕
  5月23日 山科言経、入夜に「北向」(山科言経室)・山科言緒(「阿茶丸」)を同行し冷泉為満を訪問。〔『言経卿記』一〕
  5月23日 山科言経、「方違」のための中御門宣光の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕
  5月23日 吉田兼見、中村与三郎(近江国蒲生郡日野の住人)に男子が誕生したというので、以前北条氏政(「相模」)より贈呈された
       太刀を贈った。〔『兼見卿記』二〕
  5月23日 大和国興福寺大乗院門跡、近江国安土城より大和国奈良に帰還す。〔『多聞院日記』三〕
  5月23日 前田利家(「前又左利家」)、能登国七尾城より早飛脚を発してきた能登国の長連竜(「長九郎左衛門尉」)へ去る
       5月22日に長景連を討ち取ったことを賞し、長景連(「与一」:上杉景勝家臣)の首を近江国安土城へ送付することと残敵
       掃討を指示する。〔「長家文書」、『長家文献集』〕
  5月24日 山科言経、宗英蔵主の来訪を受けて「八卦」を習う。〔『言経卿記』一〕
  5月24日 勧修寺晴豊、二条御所(「下御所」)へ祗候。
       この日、「東のつい」の修理が行われた。「つめ衆」へは誠仁親王(「下御所」)より「きぬ」が下された。〔『日々記』〕
  5月24日 多聞院英俊、神戸信孝(「三七殿」:織田信孝)に四国が与えられることになったことを知る。また来5月28日に神戸信孝
       「入部陣立」が実行されるので、大和国木津へ人夫調達が通達されたが、大和国興福寺は「用捨」されたことを知る。
       〔『多聞院日記』三〕
  5月24日 滝川一益(「一益」)、梶原政景(「梶原殿」)へ織田信長「御朱印」発給要請に対して諒承の意を通達。〔「太田文書」〕
  5月24日 前田利家(「前又左利家」)、能登国の長連竜(「長九郎左衛門尉」)へ長景連(「与一」)の首が近江国安土城へ到着した
       こと、織田信長(「上様」)へこの戦功を注進することを通達。〔「長家文書」。『長家文献集』〕
  5月25日 山科言経、冷泉為満の招待を受けて朝食を相伴す。〔『言経卿記』一〕
  5月25日 山科言経、北野社(「聖苗」)へ参詣す。〔『言経卿記』一〕
  5月25日 山科言経、宗英蔵主の来訪を受け「八卦注」・八卦「絵図」を借用す。〔『言経卿記』一〕
  5月25日 勧修寺晴豊、「竹門」(曼殊院覚恕)の「天神講」に参席。
       この日、勧修寺尹豊(「入道殿」)・甘露寺経元・持明院基孝・南禅寺上乗院道順が二条御所(「下御所」)へ祗候した。
       〔『日々記』〕
  5月25日 誠仁親王(「親王御方」)、勧修寺晴豊へ参内命令を下す。
       勧修寺晴豊、二条御所(「下御所」)へ祗候。談合が行われ、織田信忠(「城介殿」)へ「つのたる」10荷の下賜が決定。
       〔『日々記』〕
  5月25日 吉田兼見、北野社(「聖苗」)へ代官を派遣し代参す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  5月25日 滝川一益(「一益」)、遠藤基信(「遠藤山城守」:伊達輝宗家臣)へ「東国」警固のために上野国厩橋に在城している旨を
       報じ、近日中の対談を要望。〔「建勲神社文書」〕
  5月26日 松平家忠、近江国安土滞在の徳川家康より自筆書状を受ける。〔『家忠日記』〕
  5月26日 山科言経、「大津者」(近江国大津座人)の来訪を受けて村井吉忠(「村井又兵衛」)へ使者を派遣す。村井吉忠の所労は
       快復したということであった。〔『言経卿記』一〕
  5月26日 山科言経、水無瀬兼成へ小者弥二郎を派遣し水無瀬兼成室(「北向」)の病状を問う。大方快復したというが薬を所望された
       ので7包を送る。また水無瀬兼成の所望により「庭訓往来」・「明衡往来」を貸す。山科言経、水無瀬兼成より公卿「補任」の
       後柏原院上下巻を返還される。〔『言経卿記』一〕
  5月26日 山科言経、山科言緒(「阿茶丸」)を同行し「所労」の冷泉為満を見舞う。〔『言経卿記』一〕
  5月26日 勧修寺晴豊、この日に織田信忠へ誠仁親王から下賜された酒樽を届ける予定であったが、京都「清水」に於いて「能」興行が
       あったので明日に延期する。〔『日々記』〕
  5月26日 織田信忠(「城介」)・徳川家康(「徳河」)・穴山信君(「あな山」)、京都「清水」に於ける「能」興行を見物、暮れに
       宿所へ帰る。〔『日々記』〕
  5月26日 勧修寺晴豊、二条御所(「下」)の「御番」に祗候。〔『日々記』〕
  5月26日 多聞院英俊、木津甚五郎の来訪を受け、神戸信孝(「三七殿」:織田信孝)が近日四国に陣立するにあたり、木津甚五郎も
       同行することを知る。〔『多聞院日記』三〕
  5月27日 勧修寺晴豊、朝食後に「御使」として織田信忠(「城介」)へ誠仁親王より下賜された10合10荷を届ける。
       勧修寺晴豊、下賜された酒樽を村井貞勝(「村井」)に渡したが、織田信忠との対面は無かった。〔『日々記』〕
  5月27日 織田信長(「信長」)、長連竜(「長九郎左衛門尉」)の注進状に応え能登国奧郡まで長景連(「長与一」:上杉景勝家臣)
       が侵攻し能登国「太那木城」(棚木城)に籠城したところ、去る5月22日に攻略し長景連(「与一」)を始め「一人も不漏」
       に討ち取ったことを賞す(現存最後の織田信長発給文書)。
       〔「長家文書」、『長家文献集』、『加能越古文叢』三十八〕
  5月27日 織田信忠(「信忠」)、京都より森成利(「森乱」)へ織田信長が中国方面へ近々「出御馬」されるというので予定していた
       和泉国堺の見物を遠慮すること、織田信長が一両日中に上洛するというので待ち受けることに対する織田信長「御諚」を早々に
       得て通達することを要請。詳細を申し含めた使者を派遣するので、その口上によることを通達。〔「小畠文書」〕
  5月27日 多聞院英俊、神戸信孝(「三七郎殿」:織田信孝)の「四国出陣」について庄村久三が木津甚五郎と同行するというので贈物
       を送付。〔『多聞院日記』三〕
  5月27日 今度の筒井順慶(「順慶」)の「東国」出陣にあたり大和国奈良中に賦課された人夫役500石が悉く返還される。
       多聞院英俊はこれを「無比類事」と評し、大和国奈良の衆庶は筒井順慶へ礼参した。〔『多聞院日記』三〕
  5月27日 筒井順慶(「順慶」)、「東国陣ノ時立願」で大和国興福寺藤屋に2夜3日間「参籠」する。
       多聞院英俊はこの行為を筒井順興・筒井順昭・筒井順政3代の間では無かったので「珍重々々」と評す。〔『多聞院日記』三〕
  5月27日 菅屋長頼(「長頼」)、能登国の長連竜(「長九郎左衛門尉」)へ送付された注進状の披露を報告し、能登国奧郡に於いて
       長景連(「長与一」:上杉景勝家臣)を討ち取ったことで織田信長「御感」が得られ、その戦功を賞す織田信長「御内書」が
       発給されたことを通達。〔「長家文書」、『長家文献集』、『加能越古文叢』三十八〕
  5月28日 織田信長(「信長公」)、上洛(実際の上洛は翌日)。〔『多聞院日記』三〕
  5月28日 松平家忠、近江国安土の徳川家康へ飛脚を発す。〔『家忠日記』〕
  5月28日 勧修寺晴豊、四辻公遠と共に二条御所(「下御所」)の「御陽弓」に参席。〔『日々記』〕
  5月29日 勧修寺晴豊ら、京都郊外の粟田口まで出迎えに赴くが、織田信長(「信長」)側より「むかい之衆」は「無用」であるとの
       通達により、各自は帰宅す。〔『日々記』〕
  5月29日 吉田兼見、吉田兼治を同行し上洛する織田信長(「信長」)を出迎えるために京都郊外の山科へ出向く。
       雨天になったが、織田信長(「信長」)は未刻に入洛した。「御迎衆」に対しては織田信長入洛に先立って「可罷帰之由」の
       案内が通達されたので吉田兼見らは即時帰宅した。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  5月29日 吉田兼見、吉田兼治を同行し上洛する織田信長(「信長」)を出迎えるために京都郊外の山科へ出向く。
       数刻待機していたが、午刻より雨天となった。〔『兼見卿記』二〕
  5月29日 森成利(「御乱」)、織田信長の上洛に先立って出迎えの者たちに「御迎各無用」の旨を通達。〔『兼見卿記』二〕
  5月29日 吉田兼見、森成利(「御乱」)より「御迎各無用」の旨を通達され、急ぎ山科より帰宅す。〔『兼見卿記』二〕
  5月29日 織田信長、上洛す。〔『言経卿記』一、『日々記』〕
  5月29日 織田信長(「信長」)、雨天の中未刻に入洛す。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  5月29日 織田信長(「信長」)、申刻に上洛す。〔『兼見卿記』二〕
  5月29日 山科言経、織田信長(「前右府」)の上洛を知る。〔『言経卿記』一〕
  5月29日 勧修寺晴豊、二条御所(「下御所」)の「御番」に祗候。〔『日々記』〕
  5月29日 「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、山科言経を訪問し、間もなく冷泉家へ帰宅す。〔『言経卿記』一〕
  5月29日 山科言経、毘沙門堂公厳の所望により入夜に愛洲薬を送る。〔『言経卿記』一〕
  5月    近衛前久、太政大臣を辞職。〔『公卿補任』五十〕

 6月
  6月 1日 勧修寺晴豊・甘露寺経元、「両御所」(正親町天皇・誠仁親王)の命令により京都本能寺の織田信長(「信長」)のもとへ
       「御使」(勅使)として派遣される。〔『日々記』〕
  6月 1日 山科言経、京都本能寺に織田信長(「前右府」)を訪問し対面、進物は受け取らないと返された。
       「参会衆」は近衛前久・近衛信尹・九条兼孝・一条内基・二条昭実・聖護院道澄・鷹司信房・今出川晴季・徳大寺公維・
       飛鳥井雅教・庭田重保・四辻公遠・甘露寺経元・西園寺実益・三条西公国・久我季通・高倉永相・水無瀬兼成・持明院基孝・
       山科言経・庭田重通・勧修寺晴豊・正親町季秀・中山親綱・烏丸光宣・広橋兼勝・東坊城盛長・五辻為仲・竹内長治・
       花山院家雅・万里小路充房・中山慶親・冷泉為満・西洞院時慶・四条隆昌・土御門久脩・六条有親・飛鳥井雅継・中御門宣光・
       唐橋在通、その外に僧侶や地下が少々であった。数刻雑談し、茶席が催された。〔『言経卿記』一〕
  6月 1日 勅使の勧修寺晴豊・甘露寺経元および「其外公家衆」、京都本能寺へ出仕し、村井貞勝(「村井」)より通達されたとおりに
       織田信長(「信長」)が引見した。「音信共」は受けないとのことであったため各公家衆は音信等を出さなかった。
       織田信長は各公家衆と「物語共」、「今度関東打はたし候物語共」をする。さらに織田信長は勧修寺晴豊らへ「西国手つかい」
       は来たる6月4日に出陣であることなどを伝える。
       また織田信長は公家衆に対し「十二月閏」の件で天正10年に「閏」月を入れるべき旨を話すが、勧修寺晴豊はこれを
       「いわれさる事也」「これ信長むりなる事」と評し、外の公家衆も同様の旨を織田信長へ伝えた。〔『日々記』〕
  6月 1日 勧修寺晴豊、二条昭実・一条内基・九条兼孝と共に織田信忠(「城介殿」)を訪問するも「見参」は無かった。
       〔『日々記』〕
  6月 1日 勧修寺晴豊、二条御所へ祗候。〔『日々記』〕
  6月 1日 山科言経、「御腹中気」というので「七宮御方」(誠仁親王第七皇子)へ薬を進上。〔『言経卿記』一〕
  6月 1日 山科言経、冷泉為満邸に立ち寄る。〔『言経卿記』一〕
  6月 1日 山科言経、正親町天皇(「禁中」)へ毎月恒例の酒肴を献上。〔『言経卿記』一〕
  6月 1日 吉田兼見、織田信長(「信長」)へ「ゥ家」が礼参したことを知る。
       吉田兼見はこの日神事のために織田信長へ礼参しなかったので、明日に礼参する所存であった。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  6月 1日 筒井順慶(「順慶」)、この朝に参籠が「結願」したので大和国興福寺藤屋を退出す。〔『多聞院日記』三〕
  6月 1日 多聞院英俊、去5月28日に織田信長(「信長公」)が上洛したことを知る(実際の上洛は5月29日)。
       〔『多聞院日記』三〕
  6月 2日 明智光秀、京都本能寺に於いて織田信長を襲撃。〔『日々記』、「信長公記」〕
  6月 2日 明智光秀(「明智日向守」)、卯刻に京都本能寺の織田信長(「前右府」)を「謀叛」により襲撃。
       織田信長(「前右府」)は即時に「打死」す。〔『言経卿記』一〕
  6月 2日 明智光秀(「惟任」)、この暁4時過に京都本能寺を襲撃。〔『多聞院日記』三〕
  6月 2日 明智光秀(「惟任日向守」)、早天に京都本能寺(「信長之御屋敷本応寺」)を襲撃。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  6月 2日 この早天に京都本能寺(「信長之屋敷本応寺」)が「放火」された。〔『兼見卿記』二〕
  6月 2日 明智光秀(「惟任日向守」)、この未明に「謀反」を為して京都本能寺の四方を取り囲み攻撃する。
       明智光秀は「今度西国立御暇乞申と云テ人数ヲ可懸御目由謀略ヲ企」み、「俄ニ人数ヲ召集メ可罷立結構」を実行したのであり
       織田信長は「御運尽ル故」か「日比ノ御用心モ此時節御油断」し「御近衆ノ者十四五人ハカリ」であり「無左右御腹被召」れ、
       本能寺「御殿へ火ヲカケ即時ニ打果」ててしまった。〔『蓮成院記録』三〕
  6月 2日 織田信長(「信長」)、明智光秀の襲撃により京都本能寺に於いて即時「生害」す。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  6月 2日 織田信長(「信長」)、この早々に京都本能寺に於いて「御生害」す。〔『蓮成院記録』三〕
  6月 2日 織田信長(「信長」)、京都に於いて「生害」す。〔『多聞院日記』三〕
  6月 2日 京都本能寺(「本応寺」)、炎上す。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  6月 2日 明智軍、京都妙顕寺(「三位中将陣所妙見寺」)を襲撃。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  6月 2日 明智軍、織田信忠(「御嫡男城介殿」)の滞在する京都妙覚寺へ殺到。〔『蓮成院記録』三〕
  6月 2日 織田信忠(「城介殿」)、事変の急報に接し直ちに「ワツカニ無人にて」本能寺に向けて出発したが既に「本能寺ハヤ落居」
       という注進を受けて誠仁親王(「今上皇帝」)の御座所である二条御所(「二条殿」)に移る。〔『蓮成院記録』三〕
  6月 2日 織田信忠(「三位中将」)、誠仁親王の「二条之屋敷」へ入る。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  6月 2日 明智軍(「諸勢」)、二条御所を襲撃。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  6月 2日 全明智軍(「惟日惣人数」)、二条御所(「二条殿」)を包囲。〔『蓮成院記録』三〕
  6月 2日 織田信忠、籠もった二条御所内より御所外の明智光秀に対して誠仁親王(「主上様」)の御所外への脱出と誠仁親王を
       「相構て致防禦」して送り出すことを通達。〔『蓮成院記録』三〕
  6月 2日 誠仁親王(「主上」)、供奉衆と共に漸く二条御所を脱出。〔『蓮成院記録』三〕
       〔『日々記』〕
  6月 2日 誠仁親王(「親王御方」)・「宮」・「館女中」、二条御所(「御殿」)を脱出し禁裏(「上ノ御所」)へ御成す。
       里村紹巴(「紹巴」)が新在家辺で「荷輿」を調達し、誠仁親王が「乗輿」した。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  6月 2日 誠仁親王(「下御所」)、辰刻に禁裏(「上御所」)へ渡御す。〔『言経卿記』一〕
  6月 2日 勧修寺晴豊、自邸に於いて就寝中に袖岡越中の来訪を受け、明智光秀(「明智」)が織田信長(「信長」)の宿泊している
       「本のう寺」へ取り懸かり「やき打」したことを知らされる。〔『日々記』〕
  6月 2日 勧修寺晴豊、自邸を発し誠仁親王の「二条之御所」へ向かったところ明智の軍勢が包囲しており、御所へ入ることを要請する
       も聞き入れられなかった。各公家衆は到来しなかった。〔『日々記』〕
  6月 2日 勧修寺晴豊、明智軍「よせ衆」の井上某へ二条御所へ参内したい意向を伝えるも聞き入れられず、暫し呆然と立ち尽くして
       いたが、御所内への立ち入りが許されて誠仁親王へ二条御所外の状況を説明する。
       ここで勧修寺晴豊が知り得たことは、織田信忠(「城介」)が誠仁親王の居た「二条之御所」へ参内しそのまま御所へ籠ること
       になり、村井貞勝(「村井」)が誠仁親王を御所より避難させるように進言し「当番之衆」が随行、誠仁親王は和仁王・
       空性法親王・興意法親王・姫宮・御阿茶局(勧修寺晴子)と女房衆、そして6月2日の御番請取のためこの朝二条御所へ参内
       していた「公家」飛鳥井雅教・飛鳥井雅継・庭田重保・高倉永相・中山慶親・四辻季満・薄諸光・五辻元仲・中御門宣光・
       柳原淳光を率いて二条御所を退出したことであった。
       正親町季秀が参内、誠仁親王へは随行せず二条御所に残留し、避難の際に2ヶ所負傷して脱出。
       勧修寺晴豊は顔見知りの河勝左近の随行にて御所より避難、この避難を「ひるいもなき事也」「誠のかれ候事あるましき事也」
       と評し、各公家衆とともに誠仁親王へ「天道にて御座候由」と御所脱出を喜ぶ。
       庭田重保・「河端」某がこの朝に誠仁親王へ祗候し随行する旨を上申、誠仁親王は両者を「これきとく」として褒美を下す。
       また勧修寺晴豊は、織田信忠(「城介」)が二条御所に参内したことを禁裏(「上」)の各公家衆は知らなかったことを知る。
       〔『日々記』〕
  6月 2日 織田信忠(「三位中将」)、京都妙覚寺を出て二条御所(「下御所」)に籠もったところ、同じく明智光秀が襲撃し後刻
       「打死」す。村井貞勝(「村井春長軒」)以下も「悉打死」した。〔『言経卿記』一〕
  6月 2日 織田信忠(「三位中将」)、二条御所に於いて「生害」す。村井貞勝(「村井」)親子3名、織田信長「ゥ馬廻」ら討死す。
       〔『兼見卿記』二(別本)〕
  6月 2日 織田信忠軍、誠仁親王を二条御所より脱出させた後に御所の門を開放し御所内より「切テ出」て、「御門前ニテ半死半生戦」
       をし3度も寄手の明智軍を「退散」させる。しかし「多勢ニ無勢」であったために織田信忠らは討死す。
       これにより「洛中洛外以外騒動」となる。〔『蓮成院記録』三〕
  6月 2日 織田信忠(「城介殿」)、京都に於いて「生害」す。〔『多聞院日記』三〕
  6月 2日 京都二条御所(「二条御殿」)、炎上す。「洛中洛外驚騒」した。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  6月 2日 明智光秀、在京の織田軍を「悉打果」し、未刻に近江国大津通を下向。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  6月 2日 この日中程に大和国奈良へ事変の報が到達。〔『蓮成院記録』三〕
  6月 2日 大和国興福寺別会五師釈迦院寛尊、事変の報を確認するために飛脚を派遣するも京都宇治より先へは「通路不叶」という状態
       であったので、飛脚らは皆引き返してきた。大和国興福寺別会五師釈迦院寛尊、この事変を「天下静謐之刻不慮儀出来」たので
       「世上物騒」となり織田「御分国之機遣騒動以外」であると認識。また「東国・西国ハ定而機遣」は停止してしまうであろう
       から「指当リ当国之儀機遣無是非」くなり、これは「偏ニ可仰神慮外無他」であるとの見通しを記載す。〔『蓮成院記録』三〕
  6月 2日 勧修寺晴豊、この日の夕方に「屋敷共」を見物。「くひ・しにんかすかきりなし」という状態であった。〔『日々記』〕
  6月 2日 穴山信君、山城国で一揆に殺害される(異説6月4日)。〔『日本史人物生没年表』〕
  6月 2日 近衛前久、落飾し「龍山」と号す。〔『公卿補任』五十〕
  6月 2日 山科言経、古市宗超の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕
  6月 2日 吉田兼見、明智光秀の近江国大津への下向を知り、未刻過ぎに京都粟田口に乗馬にて出向き、明智光秀(「惟日」)と対面。
       吉田兼見、明智光秀へ「在所之儀万端」を依頼する。
       (*正本『兼見卿記』では事変当日に明智光秀と対面したことを削除している)〔『兼見卿記』二(別本)〕
  6月 2日 吉田兼見、この早天に京都本能寺(「信長之屋敷本応寺」)が「放火」されたという報告を受け、吉田邸門外に出て見た
       ところ「治定」しており、即刻情報収集すると明智光秀(「惟任日向守」)の「謀叛」であり、丹波国より軍勢を動員して
       本能寺を襲撃し、織田信長(「信長」)は「生害」したことを知る。
       また織田信忠(「三位中将」)は京都妙覚寺を「陣所」としたが、本能寺落居により二条御所(「二条之御殿」)に入った
       ところ、即時明智軍(「諸勢」)が攻囲し、数刻に及び攻防戦が展開され、織田信忠(「三位中将」)が「生害」したこと、
       この際に二条御所(「御殿」)は「悉放火」したこと、織田信長(「信長」)父子・馬廻衆・村井貞勝(「村井」)父子3名が
       討死し、その他の戦死者は数知れず、明智光秀(「惟日」)は軍事行動を終了させて近江国大津通を下向したことを知る。
       さらに「山岡館」が「放火」されたこと、二条御所(「二条御殿」)に於いて「双方乱入之最中」に誠仁親王(「親王御方」)
       和仁親王(「若宮御方」)らが徒歩にて二条御所(「御殿」)を脱出し「上之御所」へ御成したことを知る。
       〔『兼見卿記』二〕
  6月 2日 大和国興福寺大乗院門跡、筒井順慶(「順慶」)に峯寺の件で御礼米30石を「うつほや」へ送付することを多聞院英俊に
       指示する。〔『多聞院日記』三〕
  6月 2日 筒井順慶(「順慶」)、この朝に上洛する予定であったが、間もなく大和国奈良に戻る。〔『多聞院日記』三〕
  6月 2日 多聞院英俊、筒井順慶(「順慶」)がこの朝に上洛する予定であったが、織田信長(「上様」)は「急度西国へ御出馬」と
       いうので既に近江国安土城へ戻ったのであろうか、それにより筒井順慶が間もなく大和国奈良に戻って来たことを知る。
       〔『多聞院日記』三〕
  6月 2日 多聞院英俊、織田信長(「信長」)と織田信忠(「城介殿」)が京都に於いて「生害」したこと、明智光秀(「惟任」)と
       織田信澄(「七兵衛」)が織田信長父子を生害させたこと(但し織田信澄の関与は「コレハウソ」)、これはこの暁の4時過の
       ことであったことを知る。〔『多聞院日記』三〕
  6月 2日 徳川家康主従、和泉国堺に於いて茶屋清延より織田信長・織田信忠生害の報を受ける。
    この頃 明智光秀、上杉景勝に使者を派遣。〔『歴代古案』六〕
  6月 3日 明智光秀(「日向守」)、近江国に進軍す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  6月 3日 「洛中騒動不斜」という状況であった。〔『言経卿記』一〕
  6月 3日 勧修寺晴豊、この事変発生の際の混乱の状況の中で「物のけ種々さうせつ共」を「日記書つき隙」が無いため、後日まとめる
       ことにする。〔『日々記』〕
  6月 3日 山科言経、水無瀬兼成の来訪を受けて水無瀬兼成室(「北向」)のための薬7包を調合す。〔『言経卿記』一〕
  6月 3日 山科言経、古市宗超の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕
  6月 3日 山科言経、「禁中」へ「徘徊」す。また小者弥二郎を禁裏「夜番」として派遣す。〔『言経卿記』一〕
  6月 3日 吉田兼見、明智光秀(「日向守」)が近江国に進軍したという情報に接す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  6月 3日 多聞院英俊、事変(「京都ノ儀」)に関する未確認情報を記録す。
       その内容は、二条御所(「二条殿」)に織田信忠(「城介」)が「逃入」り、「当今」(誠仁親王?)を「人質」に取って、
       即時誠仁親王(「王」)と共に生害したこと、「新ヰン」(禁裏:正親町天皇?)にも放火したというものであった。
       〔『多聞院日記』三〕
  6月 3日 多聞院英俊、京都からの注進により事変の状況を知る。
       その内容は、織田信長(「信長」)は京都本能寺にて、織田信忠(「城介」)は二条御所(「二条殿」)にて「生害」したこと
       菅屋長頼(「菅屋九衛門」)・村井貞勝(「村井」)を始めとする村井一族3名・福富秀勝(「福富平衛門」)とこの外の
       小姓衆5、600名が「生害」したことを知る。
       また明智光秀(「日向守」)は襲撃後に近江国坂本城へ入城して大津・松本・瀬田に陣取ったこと、細川藤孝(「細川殿」)が
       「生害」したという風聞に接す。〔『多聞院日記』三〕
  6月 3日 多聞院英俊、この日に大和国衆は悉く大安寺・辰市・東九条・法花寺周辺に陣取ったことを知る。〔『多聞院日記』三〕
  6月 3日 羽柴秀吉、明智光秀が毛利氏に送った密使を捕獲し本能寺の変報を知る。〔「浅野家文書」〕
  6月 3日 清水宗治、蜂須賀正勝・杉原家次へ備中国高松城兵の助命を条件に切腹を申し出る。〔『太閤記』三〕
  6月 3日 蜂須賀正勝・杉原家次、清水宗治の要請に応え、羽柴秀吉が備中国高松城兵の助命を容認し小船1艘に酒肴10荷・上林極上3袋
       を進上する旨、明日検使が派遣されることを通知。また清水宗治兄弟・難波伝兵衛尉・末近左衛門尉の4名の切腹により、
       清水宗治長男・連枝の切腹はさせない旨を保証。〔『太閤記』三〕
  6月 3日 織田軍、紀伊国高野山の攻囲を解く。
  6月 4日 明智光秀(「日向守」)、近江国を制圧す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  6月 4日 山科言経、「禁中徘徊」す。〔『言経卿記』一〕
  6月 4日 「洛中騒動不斜」という状況であった。〔『言経卿記』一〕
  6月 4日 勧修寺晴豊、「者共のけ」のために「禁中」に「小屋懸」がされている旨を見て「弥々無正体」と評す。
       〔『日々記』〕
  6月 4日 吉田兼見、明智光秀(「日向守」)が近江国を悉く制圧したことを知る。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  6月 4日 羽柴秀吉、本能寺の変報に接する。〔「金井文書」〕
  6月 4日 羽柴秀吉、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景へ宛てて血判起請文を提出し毛利氏と和睦締結。〔『江系図』三〕
  6月 4日 清水宗治、備中国高松城において自刃。〔『日本史人物生没年表』〕
  6月 4日 徳川家康主従、三河国岡崎城に帰還。
  6月 4日 織田信孝、安井定次へ織田信長に対する忠節の御朱印の通りに国中諸役を免除。〔「安井文書」乾〕
  6月 4日 斎藤利尭(織田信孝家臣)、美濃国崇福寺へ全5ヶ条の禁制を下す。〔「崇福寺文書」〕
  6月 4日 斎藤利尭(織田信孝家臣)、美濃国瑞龍寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「瑞龍寺文書」‐3〕
  6月 4日 斎藤利尭(織田信孝家臣)、美濃国善福寺千手堂へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「善福寺文書」‐2〕
  6月 4日 斎藤利尭(織田信孝家臣)、美濃国崇福寺へ全5ヶ条の禁制を下す。〔「崇福寺文書」‐6〕
  6月 4日 多聞院英俊、筒井順慶(「筒井」)のもとへ南方衆と井戸一手衆が終結し、この日明智光秀(「惟任」)のもとへ出陣すると
       いう風聞を知る。〔『多聞院日記』三〕
  6月 5日 明智光秀(「日向守」)、蒲生賢秀(「日野蒲生」)より近江国安土城を明け渡され入城す。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  6月 5日 明智光秀、近江国安土城をはじめとする近江国諸城を悉く掌握。〔『蓮成院記録』三〕
  6月 5日 勧修寺晴豊、明智光秀(「明智」)が近江国安土城へ出向き在城する旨の通知を受ける。〔『日々記』〕
  6月 5日 吉田兼見、明智光秀(「日向守」)が蒲生賢秀(「日野蒲生」)より近江国安土城を明け渡され入城したことを知る。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  6月 5日 大和国興福寺大乗院尋憲、明智光秀(「惟任日向守」)へ巻数・500疋を、明智光秀家中の藤田伝五(「伝五」)・
       松田太郎左衛門の2名へも贈物と音信を送付する。〔『蓮成院記録』三〕
  6月 5日 多聞院英俊、昨日6月4日に山城国へ出陣した軍勢が早々と大和国に戻って来たことを知る。
       多聞院英俊は、これを神戸信孝(「三七殿」:織田信孝)との申し合わせによるものかと判断す。〔『多聞院日記』三〕
  6月 5日 多聞院英俊、摂津国大坂に於いて織田信澄(「七兵衛」)が「生害」したことを知る。
       自殺した織田信澄は明智光秀(「向州」)の聟で「一段逸物」であったが、神戸信孝(「三七殿」:織田信孝)・
       丹羽長秀(「丹羽ノ五郎左衛門」)・蜂屋頼隆(「鉢屋」)らの「沙汰」により自害したという。〔『多聞院日記』三〕
  6月 5日 多聞院英俊、伊賀国は北畠信雄(「御本所」:織田信雄)の被官衆が開城したので「国ハアキタル」という状況となり、
       「各牢人衆」が入城したという風聞に接す。〔『多聞院日記』三〕
  6月 5日 多聞院英俊、この初夜の時分に木津甚五郎(「木津」)も筒井順慶(「筒順」)と申し合わせて在所に戻ったことを知る。
       〔『多聞院日記』三〕
  6月 5日 多聞院英俊、去6月4日に明智光秀(「向州」)が近江国安土城に入城したこと、近江国佐和山城(「棹山」)には
       山崎片家(「山崎源太左衛門」)が、近江国長浜城へは斎藤利三(「斎藤蔵助」)が入城したこと、筒井順慶(「筒井」)が
       この日に先日山城国へ出陣した軍勢を率いて近江国に移動し明智光秀(「向州」)と「手ヲ合」わせ、筒井順慶(「順慶」)は
       明智光秀(「惟任」)の「一味」となった風聞に接す。〔『多聞院日記』三〕
  6月 5日 羽柴秀吉、備中国高松城陥落後に「誓紙」を認め「人質」を提出し「和睦」を調える。〔「秋田家文書」〕
  6月 5日 羽柴秀吉、中川清秀へ福富秀勝の奮戦により織田信長・織田信忠は近江国膳ヶ崎まで無事に難を逃れたことを報告。
       〔「摂津梅林寺文書」〕
    この頃 蒲生氏郷、本願寺顕如へ明智光秀近江国下向を通知し、一向宗徒の協力を得て明智光秀に抗する意思を告ぐ。更にまもなく
       各方面へ出張していた織田信雄・織田信孝・徳川家康ら「歴々」も集結する予定を通知。〔「興敬寺文書」〕
    この頃 織田信雄、近江国常善寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「常善寺文書」〕
    この頃 織田信雄、美濃国不破郡南宮神社へ全5ヶ条の禁制を下す。〔「南宮神社文書」‐1〕
  6月 6日 勧修寺晴豊、吉田兼見へ招喚の書状を発す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  6月 6日 吉田兼見、勧修寺晴豊より召喚状を受けて、勧修寺晴豊を訪問。即時勧修寺晴豊に随行し禁裏の誠仁親王(「親王御方」)へ
       祗候し対面す。
       誠仁親王、直に吉田兼見へ明智光秀(「日向守」)への「御使」として下向し「京都之義無別義」の厳命を通達する旨を命令。
       吉田兼見、誠仁親王の命を受けて明日早速発足することになり、緞子1巻を預かり禁裏を退出す。
       (*明智光秀への命令の内容は別本のみに記載されている)〔『兼見卿記』二(別本)〕
  6月 6日 吉田兼見、勧修寺晴豊より召喚状を受けて、「御用之間早々可祗候」というので、禁裏へ即刻祗候す。
       誠仁親王(「親王御方」)、吉田兼見と対面し吉田兼見に対して直接明智光秀(「日向守」)への「御使」として下向すること
       を命令。吉田兼見はこの誠仁親王の命令を承諾し、明日出発する旨を上奏、段子巻を預かり禁裏を退出した。
       (*別本の明智光秀に対する「京都之義無別義之様堅可申付之旨」が削除されている)〔『兼見卿記』二〕
  6月 6日 誠仁親王、禁裏へ吉田兼見(「吉田」)を召喚し近江国安土城に在城する明智光秀(「明智」)への「勅使」として明日下向
       する旨を命令。
       吉田兼見には「巻物」が下され、公家衆との談合がもたれた。〔『日々記』〕
  6月 6日 吉田兼見へ近衛信尹(「御方御所」)よりの音信は無かった。(*別本『兼見卿記』には無い記事)〔『兼見卿記』二〕
  6月 6日 明智光秀、近江国多賀神社へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「多賀神社文書」二〕
  6月 6日 羽柴秀吉、備中国高松を発し備前国沼城に入城。
  6月 6日 羽柴秀吉、播磨国姫路城へ入城。〔『松井家譜』一〕
  6月 6日 なへ(織田信長側室小倉氏)、美濃国崇福寺を織田信長・織田信忠父子の位牌所とする。〔「崇福寺文書」‐11〕
  6月 6日 毛利輝元、満願寺へ織田信長親子3名が戦死した件は織田信澄に明智光秀・柴田勝家が共謀して起こした事件であることを
       通知。羽柴秀吉とは和談を締結した旨を通達。〔「毛利氏四代実録考証論断」二十二〕
  6月 6日 小早川隆景、桂左太・岡宗左(毛利氏家臣)へ織田信長父子が6月1日に戦死、6月2日に大坂で織田信孝が自殺したと
       いう情報を通知。織田信澄・明智光秀・柴田勝家が織田信孝を自殺に追い込んだ風聞があった。〔『萩藩閥閲録』八十〕
  6月 6日 斎藤利尭(織田信孝家臣)、美濃国西入寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「岐阜県続古文書類纂」四、「西入坊文書」‐2〕
  6月 7日 吉田兼見、「御使」として早々に近江国安土へ向けて京都を出発。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  6月 7日 勧修寺晴豊、事変に関する種々の雑説に接す。〔『日々記』〕
  6月 7日 近衛信尹(「近衛殿内府」)、誠仁親王(「御方御所」)へ「いたい」(出居)にて祗候、酒樽を進上す。〔『日々記』〕
  6月 7日 勧修寺晴豊、臨時の宿直(「加番」)のため禁裏へ祗候。〔『日々記』〕
  6月 7日 吉田兼見、勅使として明智光秀の滞在する近江国安土城を訪問。〔『日々記』〕
  6月 7日 吉田兼見、申下刻に近江国安土に到着。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  6月 7日 吉田兼見、佐竹定実(「佐竹出羽守」)の小姓新八の案内により近江国安土城に赴く。まず佐竹定実小姓の新八が安土城へ
       登城、吉田兼見は後ほどに登城し、門外に於いて待機。吉田兼見は鈴鹿喜介を以て明智光秀(「日向守」)に下向した趣旨を
       伝達す。次いで吉田兼見は安土城に入城し明智光秀(「向州」)と対面、「御使」の趣旨を伝達し、朝廷より預かった巻物等を
       渡す。明智光秀はこれらを「忝之旨請取之」、また吉田兼見からの贈物である大房の鞦を受け取った。
       そこで明智光秀は吉田兼見へ「今度謀叛之存分雑談」をし、蒲生賢秀(「蒲生」)が未だ出頭していない事を伝える。
       (*吉田兼見が使者を介して安土城来訪趣旨を明智光秀に通知したこと、明智光秀が朝廷の命令を拝受したこと、
       「今度謀叛之存分雑談」を削除している)〔『兼見卿記』二(別本)〕
  6月 7日 吉田兼見、佐竹定実(「佐竹羽州」)の小姓新八の案内により近江国安土城に赴く。まず佐竹定実小姓の新八が安土城へ
       登城、吉田兼見は後ほどに登城し、門外に於いて待機。次いで吉田兼見は安土城に入城し明智光秀(「日向守」)と対面、
       「御使」の趣旨を伝達し、朝廷より預かった巻物等と吉田兼見からの私的な贈物である大房の鞦を渡し安土城を退城した。
       〔『兼見卿記』二〕
  6月 7日 吉田兼見、近江国安土城を出て城下の町屋に宿泊す。「錯乱之間不弁之為体」であった。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  6月 7日 吉田兼見、城下の町屋に宿泊したが「不弁之体迷惑」であった。ここで「当国悉帰附」したが、蒲生賢秀(「蒲生」)のみが
       未だ明智光秀に出頭していないことを知った。〔『兼見卿記』二〕
  6月 7日 吉田兼見、この日より「藤本私宅」に居住す。〔『兼見卿記』二〕
  6月 7日 明智光秀、山城国上賀茂神社・貴布禰神社へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「賀茂別雷神社文書」四〕
  6月 7日?織田信孝、山城国大山崎離宮八幡宮へ全5ヶ条の禁制を下す。〔「離宮八幡宮文書」四〕
    この頃 織田信孝、山城国東寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「東寺文書」数四之九〕
    この頃 織田信孝、山城国東福寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「東福寺文書」四〕
    この頃 織田信孝、大和国法隆寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「法隆寺文書」六〕
  6月 7日 丹羽長秀、山城国大山崎離宮八幡宮へ下された禁制の遵守を命令。〔「離宮八幡宮文書」四〕
  6月 7日 斎藤利尭(織田信孝家臣)、美濃国六条村河野善超寺の西光坊へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「諸国高札」三〕
    この頃 斎藤利尭(織田信孝家臣)、美濃国厚見郡本庄村千手堂善福寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「諸国高札」三〕
  6月 7日 羽柴秀吉、中国陣を撤退し播磨国姫路城へ入城。〔「秋田家文書」〕
  6月 8日 吉田兼見、上洛するため早天に近江国安土を発足す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  6月 8日 明智光秀(「日向守」)の上洛のため、明日の摂津国への軍事行動のために明智軍(「諸勢」)は近江国安土城を出動。
       明智軍先勢は京都山科・近江国大津に布陣していた。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  6月 8日 吉田兼見、午下刻に吉田郷に帰宅、休息を取る。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  6月 8日 吉田兼見、禁裏へ祗候し「委細」(明智光秀との談合内容)を上奏。誠仁親王(「御方御所様」)と対面し、直接上奏す。
       (*吉田兼見が直接誠仁親王へ明智光秀との談合内容を上奏したことは別本『兼見卿記』のみの記事)
       〔『兼見卿記』二(別本)〕
  6月 8日 吉田兼見、「禁中」へ参内し、明智光秀「御返事」を申し入れた。
       (*正本『兼見卿記』では、吉田兼見が直接誠仁親王へ明智光秀との談合内容を上奏したことが削除されている)
       〔『兼見卿記』二〕
  6月 8日 勅使の吉田兼見(「吉田右衛門督」)、近江国安土城より上洛し明智光秀(「明智」)より勅使派遣「かたしけなく存候由」
       の御礼、誠仁親王(「親王様」)の二条御所脱出は祝着であったこと、明日の上洛及び朝廷への「御礼申入」の意向を上奏。
       〔『日々記』〕
  6月 8日 羽柴秀吉、大坂の織田信孝が明智光秀に包囲されて危機に瀕しているという「風便」に接す。〔「金井文書」〕
  6月 8日 杉若無心(「藤七」)、松井康之へ羽柴秀吉の播磨国姫路入城、丹羽長秀との協力の意思、明日の羽柴秀吉配下は全軍出陣
       する旨を通達。また杉若無心自身は、羽柴秀吉より先に播磨国姫路城へ帰還していた旨を通知。〔『松井家譜』一〕
  6月 8日 斎藤利尭(織田信孝家臣)、曽我屋名主・百姓中へ禁制を下す。〔「超宗寺文書」‐2〕
  6月 8日 毛利輝元、村上元吉(能島)へ戦功を賞し贈物をする。
       また羽柴秀吉との和平締結について、そして京都における織田信長父子の生害の風聞を通知。〔「村上文書」二〕
  6月 8日 上杉景勝、色部長実(上杉家臣)へ本能寺の変(「上辺凶事」)により柴田勝家退陣に乗じ越中国出馬を予告。
       〔『別本歴代古案』十三〕
    この頃 稲葉一鉄・稲葉貞通、美濃国大龍寺(瑞龍寺?)へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「大龍寺文書」(「瑞龍寺文書」‐4)〕
  6月 9日 吉田兼見、早々に明智光秀(「日向守」)からの返事には及ばないという「自筆」の到来予告状を受ける。
       吉田兼見は飛脚を出京させた。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  6月 9日 吉田兼見、明智光秀を迎える為に京都白川まで出向き、数刻待機した。〔『兼見卿記』二〕
  6月 9日 明智光秀、近江国安土城より上洛す。〔『日々記』〕
  6月 9日 明智光秀、未刻に上洛す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  6月 9日 吉田兼見、明智光秀を迎える為に京都白川まで出向く。
       「公家衆」・「摂家」・「清花」が悉く迎え出ており、吉田兼見はこの旨を明智光秀(「向州」)に通知したところ、
       明智光秀は「此砌太無用」であり「早々先へ罷出可返申」というので、吉田兼見は直ちに引き返して出迎衆にこの旨を通知す。
       〔『兼見卿記』二(別本)〕
  6月 9日 吉田兼見、未刻に上洛した明智光秀に同行した。
       「公家衆」・「摂家」・「清華」・上下京の地下人らが京都白川から神楽岡周辺まで出迎えに到来していた。
       明智光秀、出迎衆へ「今度上洛、ゥ家・地下人礼之義堅停止之由被申、於路次対面勿論、於此方無対面之義也」と通達した。
       〔『兼見卿記』二〕
  6月 9日 明智光秀、京都吉田郷に於いて「公家衆」の到来を受ける。(*別本『兼見卿記』のみの記事)〔『兼見卿記』二(別本)〕
  6月 9日 吉田兼見、明智光秀(「向州」)より「両御所」(正親町天皇・誠仁親王)へ献上する銀子500枚を受け取り、折紙の
       受取状を認める。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  6月 9日 明智光秀(「向州」)、吉田兼見邸に入り「先度禁裏御使早々忝存」じている事を謝し「重而可致祗候」きこと、
       銀子500枚を「両御所」(正親町天皇・誠仁親王)へ献上することを依頼す。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  6月 9日 明智光秀(「向州」)、吉田兼見邸に入り「一昨日自禁裏御使忝」く存じているので「為御礼上洛」したことを告げる。
       また禁裏へ銀子500枚を献上する旨の折紙を吉田兼見に渡して「即可持参候由」を依頼する。〔『兼見卿記』二〕
  6月 9日 明智光秀、京都「五山」と京都大徳寺へ銀子100枚ずつを進上。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  6月 9日 明智光秀、京都「五山之寺」と京都大徳寺へ銀子100枚ずつ進上する。〔『兼見卿記』二〕
  6月 9日 明智光秀、吉田兼見へ銀子50枚を進上。但し50枚の内20枚は後日渡すこととする。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  6月 9日 明智光秀、吉田兼見へ吉田「社之修理」という名目で銀子50枚を与える。但し京都「五山」分が不足したため吉田兼見に
       与えた銀子50枚のうち20枚を借用する。〔『兼見卿記』二〕
  6月 9日 明智光秀、吉田兼見邸「小座敷」に暫く逗留し「方々注進」を受け、「手遣之事」を発令する。
       (*別本『兼見卿記』のみの記事)〔『兼見卿記』二(別本)〕
  6月 9日 吉田兼見、明智光秀へ夕食を進上。里村紹巴(「紹巴」)・里村昌叱(「昌叱」)・里村心前(「心前」)が相伴した。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  6月 9日 明智光秀、夕食後に京都下鳥羽に出陣。吉田兼見らは路次まで見送る。(*見送ったことは別本『兼見卿記』のみの記事)
       〔『兼見卿記』二(別本)〕
  6月 9日 吉田兼見、晩に明智光秀「進上之銀子」500枚を携えて勧修寺晴豊を訪問。
       勧修寺晴豊・吉田兼見、共に禁裏へ祗候し、「長橋御局」(量子:高倉永家女)を以て披露した。
       吉田兼見は誠仁親王(「御方御所」)と対面し、「委細申入」れた。明智光秀への「奉書」が認められたので、吉田兼見はその
       奉書を携えて即時下鳥羽の明智光秀陣所へ下向、「銀子之御礼」と「奉書」を明智光秀(「向州」)へ示した。
       明智光秀は吉田兼見へ「忝之旨相心得」たことを上奏するよう依頼。
       (*女房奉書が発給された事実は別本『兼見卿記』のみの記事)〔『兼見卿記』二(別本)〕
  6月 9日 吉田兼見、明智光秀からの「進上之銀子」500枚を携えて吉田邸を出発。
       勧修寺晴豊を介して禁裏へ来訪を申し入れたところ、誠仁親王(「親王御方」)と対面が実現し、明智光秀からの「委細申入」
       れた。長橋局(量子:高倉永家女)が披露した。〔『兼見卿記』二〕
  6月 9日 勧修寺晴豊、明智光秀(「明智」)が吉田兼見(「吉田」)に来訪し「禁裏銀子」500枚を「両御所」へ進上するという
       ので、披露係の長橋局と共に銀子進上を披露する。
       朝廷は明智光秀へ「京頭之儀」(京都の治安維持カ)を「かたく申付」け、「文」にて明智光秀の銀子進上を賞す。
       また朝廷は吉田兼見(「吉田」)を下鳥羽「なんてん寺」(南殿寺?)の明智光秀本陣へ派遣する。〔『日々記』〕
  6月 9日 勧修寺晴豊、明智光秀が河内国へ軍勢を派遣したことを知る。〔『日々記』〕
  6月 9日 勧修寺晴豊、正親町天皇(「禁裏」)より銀子1枚を拝領す。〔『日々記』〕
  6月 9日 河端某、二条御所へ早々に参内したため30目の他、特別に銀子1枚を拝領す。〔『日々記』〕
  6月 9日 吉田兼見、下鳥羽の明智光秀陣所より入夜に帰宅す。(*別本『兼見卿記』のみの記事)〔『兼見卿記』二(別本)〕
  6月 9日 多聞院英俊、この日河内国へ筒井順慶軍(「筒衆」)が出撃する予定であったが俄かに延引したことを知る。
       また大和国郡山城に兵粮が搬入されたことを知る。〔『多聞院日記』三〕
  6月 9日 羽柴秀吉、播磨国姫路城を発し「京都へ切上」る。〔「秋田家文書」〕
  6月 9日 羽柴秀吉、播磨国明石を出発。〔「萩野文書」〕
  6月 9日 蒲生氏郷、近江国常願寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「近江蒲生郡中野村大字常願寺共有文書」〕
  6月 9日 上杉景勝、蓼沼藤七郎(上杉家臣)へ本能寺の変(「上方之様体」)は事実である旨を通知。〔「蓼沼文書」〕
  6月 9日 明智光秀(「日向守」)、京都紫野大徳寺及び門前町に全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「大徳寺文書」@‐93〕
  6月 9日 明智光秀、細川藤孝・細川忠興父子へ誘降の書を送付。〔「細川文書」〕
  6月 9日 明智光秀、大徳寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「大徳寺文書」二〕
  6月 9日 この夜、十市新二郎(「十新」)に念願の男子が誕生する。〔『多聞院日記』三〕
    この頃 明智光秀、京都上下の地子銭を免除。〔『京都町家旧事記』〕
    この頃 明智光秀(「日向守」)、京都大徳寺へ銀100枚を寄進す。〔「大徳寺文書」@‐312〕
    この頃 大和国興福寺別会五師釈迦院寛尊、羽柴秀吉(「羽芝筑前守」)が安芸毛利氏(「西国」)と「和睦」して近日上洛すると
       いうことが「頻ニ風聞」されていることを知る。また摂津国大坂(「小坂」)に於いては織田信澄(「七兵衛殿」)と和泉国
       から到来した神戸信孝(「三七殿」:織田信孝)が談合したが「御人数一向無人」であること、河内国若江城に滞在する
       「歴々諸侍」より筒井順慶(「当国」)へ使者を以て切々と「申合度之由」が到来したこと、筒井順慶(「当国」)はこの時点
       で軍勢を動かしていないので「見合」しているのかという「不審由口遊」があり、明智光秀(「惟日」)よりの合力要請の使者
       が切々と到来し、去6月5日より藤田伝五(「伝五」)が大和国奈良に逗留していること、筒井順慶(「順慶」)より
       羽柴秀吉(「羽筑」)へ使者が派遣され「入魂」となったという風聞に接す。〔『蓮成院記録』三〕
  6月10日 勧修寺晴豊、この日の夜中に誠仁親王(「親王御方」)より銀子2枚を拝領す。〔『日々記』〕
  6月10日 誠仁親王(「親王御方」)、この日の夜中に勧修寺尹豊(「入道殿」)へ銀子1枚を下賜す。〔『日々記』〕
  6月10日 明智光秀(「向州」)、筒井順慶(「順慶」)へ合力要請の使者として藤田伝五を派遣す。〔『多聞院日記』三〕
  6月10日 明智光秀(「惟日」)、京都山崎八幡の「ホラカ峠」に着陣。〔『蓮成院記録』三〕
  6月10日 藤田伝五(「藤田伝五」)、明智光秀(「向州」)の命を受けて筒井順慶(「順慶」)を訪問し合力の説得をするも同心を
       得られず、大和国木津まで引き返したが、筒井順慶より呼び戻されて再度合力を要請す。〔『多聞院日記』三〕
  6月10日 吉田兼見、明智光秀(「日向守」)が摂津国へ向けて軍事行動を起こしたという情報に接す。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  6月10日 吉田兼見、明智光秀(「日向守」)が河内国へ向けて軍事行動を起こしたという情報に接す。〔『兼見卿記』二〕
  6月10日 この日「西天王祭礼」が行われたが、「乱中」であるので「神幸」は無く、「神輿」を飾り「神供」を備えるのみであった。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  6月10日 多聞院英俊、先日山城国へ出撃した筒井順慶(「筒」)軍団が今日この頃に大和国へ帰還したことを知る。
       その理由とは羽柴秀吉(「藤吉」)が近日中に「上」ることが決定したので、筒井順慶はこれにより「覚悟替」したというもの
       であった。〔『多聞院日記』三〕
  6月10日 多聞院英俊、昨夜に十市新二郎(「十新」)に念願の男子が誕生したことを知る。〔『多聞院日記』三〕
  6月10日 毛利輝元、福井十郎兵衛尉へ羽柴秀吉からの懇望によって和議締結が為されたこと、織田信長父子3名が明智光秀によって
       殺害された旨を通知。〔『萩藩閥閲録』百十九〕
  6月10日 湯原国信(上杉家臣)、富山から出撃してきた佐々成政を撃退。佐々成政一族3名および兵数百余を討ち取る。
       〔「伊佐早文書」一〕
  6月10日 真田昌幸、信濃国宝蔵院へ白山造営のため四阿山守役と天箱之屋敷壱間を寄附。〔「山家神社文書」〕
  6月11日 朝廷に於いて「坊城」(東坊城盛長:菅氏長者)へ「ふるまい」があり、勧修寺尹豊(「入道殿」)・
       典薬頭半井瑞策(「通仙」)・烏丸光宣が「大さけ」であった。〔『日々記』〕
  6月11日 明智光秀(「日向守」)、摂津国より下鳥羽の本陣に戻り「淀之城」普請に着手す。〔『兼見卿記』二(別本)〕
  6月11日 明智光秀(「向州」)、摂津国より下鳥羽の本陣に戻り「淀之城」普請に着手す。〔『兼見卿記』二〕
  6月11日 吉田兼見、明智光秀(「日向守」)が摂津国より下鳥羽の本陣に戻り、「淀之城」普請を始めた事を知る。
       〔『兼見卿記』二(別本)〕
  6月11日 吉田兼見、明智光秀(「向州」)が摂津国より下鳥羽の本陣に戻り、「淀之城」普請を始めた事を知る。〔『兼見卿記』二〕
  6月11日 多聞院英俊、去6月10日に明智光秀(「向州」)の命令で藤田伝五が筒井順慶(「順慶」)に合力要請するも同心を得られ
       ずに大和国木津まで引き返したが、筒井順慶が呼び戻して再度合力要請をしたことを知る。〔『多聞院日記』三〕
  6月11日 多聞院英俊、筒井順慶(「順慶」)は既に羽柴秀吉(「藤吉」)へ村田某・今中某を使者として派遣し、合力の「誓紙」を
       提出したことを知る。〔『多聞院日記』三〕
  6月11日 多聞院英俊、去6月9日に井戸良弘(「井戸若狭守」)が死亡し、この事は「深隠蜜」とされたことを知るが、これは流言
       であった。〔『多聞院日記』三〕
  6月11日 多聞院英俊、この4時分過に大和国郡山城に於いて筒井順慶(「順慶」)が「腹切」ったこと、ところがこれは誤報で
       明智光秀からの使者藤田伝五が「腹切」させられたことを知る。しかしこれも流言であったことを知る。
       大和国奈良中は混乱の最中で、「天魔ノ所為」の様な状態であった。〔『多聞院日記』三〕
  6月11日 筒井順慶、大和国郡山城に於いて大和国中の与力を集結させて「血判起請」を提出させる。〔『多聞院日記』三〕
  6月11日 多聞院英俊、明智光秀(「向州」)の内衆で「カクシ物」を取った者が殺害されたことを知る。〔『多聞院日記』三〕
  6月11日 大和国奈良ではこの入夜まで「物隠」で混乱していた。〔『多聞院日記』三〕
  6月11日 羽柴秀吉、尼ヶ崎に着陣。〔「萩野由之氏所蔵文書」〕
  6月11日 羽柴秀吉、松井友閑(「宮法」)へ摂津国尼ヶ崎に進軍した旨を報告。〔「萩野由之氏所蔵文書」〕
  6月11日 北条氏政、滝川一益へ相模国小田原に達している本能寺の変の実否について問う。もし事実であっても北条氏政には疑心を
       懐かぬよう通知。〔「高橋一雄氏所蔵文書」〕
  6月12日 依然として事変後の「世上さうせつ」が飛び交う状況であった。〔『日々記』〕
  6月12日 羽柴秀吉軍先鋒隊、京都山崎に於いて明智軍と交戦。〔「秋田家文書」〕
  6月12日 羽柴秀吉、池田恒興を同行して今後の行動について中川清秀・高山重友と談合。中川清秀と高山重友が先陣を争う。
       〔「金井文書」〕
  6月12日 羽柴秀吉、摂津国富田に着陣。〔「金井文書」〕
  6月12日 羽柴秀吉(「羽筑」)、摂津国(「津国表」)まで到着する。〔『蓮成院記録』三〕
  6月12日 吉田兼見、吉田郷「構」普請を行う。白川・浄土寺・聖護院の人足の合力によって行った。
       〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕
  6月12日 吉田兼見、「日向守敵」が京都山崎より出勢し、丹波国勝龍寺城の西辺りに於いて「足軽」部隊が遭遇し「鉄放軍」があった
       こと、丹波国勝龍寺城周辺は放火されたことを知る。(*別本『兼見卿記』の最後の記事)〔『兼見卿記』二(別本)〕
  6月12日 吉田兼見、播磨国からの軍勢から京都山崎表へ「足軽」部隊が進撃し、丹波国勝龍寺城の西辺が「放火」されたことを知る。
       この戦闘により近所の人夫等は驚いて普請作業を止め在所へ帰宅した。〔『兼見卿記』二〕
  6月12日 多聞院英俊、羽柴秀吉(「葉柴藤吉」)が既に摂津国まで「猛勢」にて移動していること、また徳川家康(「家康」)が既に
       近江国安土城に着陣したという風聞に接す。〔『多聞院日記』三〕
  6月12日 多聞院英俊、明智光秀(「惟日」)軍が石清水八幡宮・山崎周辺に布陣していたが、淀周辺まで撤退したことを知る。
       〔『多聞院日記』三〕
  6月12日 多聞院英俊、昨日6月11日に筒井順慶が大和国郡山城に於いて大和国中の与力を集結させて「血判起請」を提出させたこと
       を知る。〔『多聞院日記』三〕
  6月12日 大和国興福寺別会五師釈迦院寛尊、摂津国大坂(「小坂」)にて織田信澄(「七兵衛殿」)が「御生害」したことを知る。
       その理由は「惟任御縁辺在之故」か「謀反御存知」かというものであった。〔『蓮成院記録』三〕
  6月12日 滝川一益、富岡六郎四郎へ「京都之儀」は別儀無しと通知。〔「富岡家文書」〕
  6月12日 小早川隆景、清水行宗へ備中国高松城における父清水月清の忠節に感状を下す。〔『萩藩閥閲録』二十五〕
  6月12日 上杉景勝、本間対馬守・本間但馬守・本間信濃守・本間弥太郎・本間下総守・本間帰本斎・本間山城守へ本能寺の変を通達。
       〔「本間文書」〕
  6月13日 織田信孝(「織田三七殿」)・羽柴秀吉(「羽柴筑前守」)ら、「南方」より進軍し明智光秀軍と「合戦」す。
       〔『言経卿記』一〕
  6月13日 勧修寺晴豊、早天に明智光秀の陣所が「はいくん」した旨を知る。京中は錯乱状態となり、勧修寺晴豊は「禁中」へ祗候。
       〔『日々記』〕
  6月13日 明智光秀、丹波国勝龍寺城を出撃し山崎へ進軍。〔「高木文書」〕
  6月13日 織田信孝、筒井順慶へこの日先発隊が京都山崎の勝龍寺から明智軍へ攻撃を仕掛けた旨、明日は西岡へ進撃する予定を通知。
       さらに筒井順慶へは上山城国口から明智軍に攻撃を仕掛けるよう命令。
       詳細は羽柴秀吉・丹羽長秀へ伝達させる。〔「古文書雑纂」二〕
  6月13日 羽柴秀吉、山崎に陣取り高山重友・中川清秀・堀秀政は街道筋から明智軍に攻撃を開始。〔「金井文書」〕
  6月13日 池田恒興、南側から明智軍に攻撃を開始。〔「金井文書」〕
  6月13日 羽柴秀吉、加藤光泰・木村宗重・中村一氏を率い明智軍に攻撃を開始。〔「金井文書」〕
  6月13日 羽柴秀長、黒田孝高・神子田正治・前野長康・木下勘解由らを率いて山の手から明智軍に攻撃を開始。〔「金井文書」〕
  6月13日 羽柴秀吉、丹波国勝龍寺城を包囲。〔「金井文書」〕
  6月13日 羽柴秀吉(「筑州」)、丹波国勝龍寺城を「落居」させる。〔『多聞院日記』三〕
  6月13日 明智光秀(「惟任日向守」)、京都山崎の合戦にて敗北。〔『言経卿記』一〕
  6月13日 明智光秀、山崎での合戦において織田信孝(「織田侍従信孝」)・羽柴秀勝(織田「次」、織田信長4男)・羽柴秀吉等と
       交戦、敗北。〔『公卿補任』五十〕
  6月13日 伊勢貞興(「伊勢守」)をはじめとする明智軍の主将格30余人が山崎の合戦に於いて「打死」す。〔『言経卿記』一〕
  6月13日 明智軍(「日向守」)、二条御所(「二条屋敷」)に放火す。〔『言経卿記』一〕
  6月13日 織田信孝・羽柴秀吉ら、明智軍の首級を京都本能寺に梟首す。〔『言経卿記』一〕
  6月13日  明智光秀、逃走中に京都郊外小栗栖村の土民に殺害される。〔「兼見卿記」、「金井文書」〕
  6月13日 この申刻より京都山崎に於いて「鉄放」の音が数刻にわたり止まなかった。〔『兼見卿記』二〕
  6月13日 吉田兼見、京都五条口より「落武者」たちが愛宕郡白川一乗寺周辺へ逃走する様、逃走の途中にて「一揆」に遭遇した模様で
       「或者討捕、或者剥取」という状態であったことを目の当たりにする。〔『兼見卿記』二〕
  6月13日 吉田兼見、京都からの通知により山崎表に於いて合戦があり明智光秀(「日向守」)が「敗軍」したこと、明智軍は
       丹波国勝龍寺城に入ったこと、明智軍の戦死者は数知れず、「天罰眼前之由」が流布したことを知る。〔『兼見卿記』二〕
  6月13日 吉田兼見、堅く自宅の門を閉ざし門内に於いて用心していたが、吉田郷へは「落人」が1人も到来しなかった。
       〔『兼見卿記』二〕
  6月13日 吉田兼見、山崎合戦での「南方之諸勢」とは神戸信孝(「織田三七郎」:織田信孝)・羽柴秀吉(「羽柴筑前守」)・
       池田恒興(「池田紀伊守」)・丹羽長秀(「丹羽五郎左衛門」)・蜂屋頼隆(「蜂屋」)・堀秀政(「堀久太郎」)・
       矢部家定(「矢部善七」)・中川清秀(「瀬兵衛尉」)・多羅尾光俊(「多羅尾」)らで、2万余の軍勢で丹波国勝龍寺城を
       包囲したことを知る。〔『兼見卿記』二〕
  6月13日 「南方衆」、京都吉田郷へは1人も到来せず。〔『兼見卿記』二〕
  6月13日 明智光秀(「向州」)、この夜に丹波国勝龍寺城を「退散」す。〔『兼見卿記』二〕
  6月13日 山城国の「ヰヽ岡」某・「草内」某、宇治田原より山口へ出撃し放火す。〔『多聞院日記』三〕
  6月13日 多聞院英俊、山城国の「ヰヽ岡」某・「草内」某が宇治田原より山口へ出撃し放火したことを知る。〔『多聞院日記』三〕
  6月13日 多聞院英俊、丹波国勝龍寺城を「落居」させた羽柴秀吉(「筑州」)がそのまま在京したこと、明智光秀(「惟日」)が
       近江国坂本まで撤退したことを知る。〔『多聞院日記』三〕
  6月13日 小早川隆景、清水次郎四郎(清水宗治妾腹)へ備中国高松城での清水宗治の忠節に対し感状を下す。
       詳細は井上春忠に伝達させる。〔「吉川家中并寺社文書」三〕
  6月13日 小早川隆景、清水伝右衛門尉へ備中国高松城における父清水伝兵衛尉の忠節に感状を下す。
       詳細は井上春忠に伝達させる。〔『黄薇古簡集』六〕
  6月14日 織田信孝(「三七郎」)・羽柴秀吉(「藤吉郎」)、「せうれん寺」(青龍寺)表で明智軍を「打はたし」上洛。
       〔『日々記』〕
  6月14日 勧修寺晴豊、正親町天皇「勅使」として京都郊外塔の森に於いて「両人」(織田信孝・羽柴秀吉)へ「御太刀拝領」を行う。
       〔『日々記』〕
  6月14日 広橋兼勝、誠仁親王(「親王御方」)の「御使」として京都郊外塔森に於いて織田信孝・羽柴秀吉へ「御太刀」拝領を行う。
       〔『日々記』〕
  6月14日 織田信孝・羽柴秀吉、勧修寺晴豊(正親町天皇勅使)・広橋兼勝(誠仁親王御使)へ「一段はやはやとかたしけなき由」を
       告げ、勧修寺晴豊・広橋兼勝より太刀を受け取る。〔『日々記』〕
  6月14日 明智秀満、近江国坂本城において自刃(異説6月15日)。〔『日本史人物生没年表』〕
  6月14日 羽柴秀吉、近江国において明智残党の掃討作戦を実行。
  6月14日 津田越前入道、吉田兼見を訪問。
       この度明智光秀(「日向守」)が吉田兼見邸に到来し、「禁裏」と京都「五山」へ「銀子配分」した件が織田側で執沙汰され
       「曲事」とされているので「織田三七郎御使」として糺明のために到来したという。
       吉田兼見、津田越前入道と対面し事情を説明するも「不承伏気色」であったが、津田越前入道は帰京した。〔『兼見卿記』二〕
  6月14日 吉田兼見、「禁裏」へ参内し津田越前入道より明智光秀からの銀子配分について糺明があった旨を申し入れたところ、
       誠仁親王(「親王御方」)との対面が実現した。そこで吉田兼見は誠仁親王へ詳細を上奏した。
       誠仁親王、吉田兼見から神戸信孝(「三七郎」:織田信孝)に対して早々に「御使」を派遣する旨の上奏を諒承す。
       〔『兼見卿記』二〕
  6月14日 誠仁親王、柳原淳光を神戸信孝(織田信孝)陣所への「御使」として派遣す。〔『兼見卿記』二〕
  6月14日 吉田兼見、禁裏を退出し施薬院全宗(「徳雲軒」)を訪問。
       津田越前入道の糺明について相談すると、「不苦儀」ということであった。施薬院全宗によれば羽柴秀吉(「羽柴筑前守」)は
       「聊不可有存分」であるので早速事情を申し入れること、この日は三井寺を陣所としており、明日は早天に近江国への軍事行動
       に移るので、先ず桑原貞也(「鍬原」)へ申し入れるべきであるとのことであった。〔『兼見卿記』二〕
  6月14日 津田越前入道、この朝より行方不明となる。〔『兼見卿記』二〕
  6月14日 施薬院全宗使者・吉田兼見使者、桑原貞也(「鍬原」)のもとへ派遣。
       吉田兼見、使者より桑原貞也(「鍬原」)の返事を受けた。その内容とは、津田越前入道の件は「更不苦義」であり、「御使」
       津田越前入道は神戸信孝(「三七殿」:織田信孝)が派遣したのではなく「私之存分」であったこと、この「不届仕合」は
       この頃「京中度々」の事で、「鍬原存分」により神戸信孝(「武衛」:織田信孝)へ問い合わせたところ、
       神戸信孝(「武衛」:織田信孝)からの返答では津田越前入道の件は「無御存知」きことで、津田越前入道に問責の使者を派遣
       したところ、この朝より外出し行方不明となっていたということであり、桑原貞也(「鍬原」)の推量の如く「越前私之義」で
       あったことが判明したというものであった。もし再度津田越前入道が到来した場合には留めて織田側に注進すべきという
       「鍬原存分」を受けて吉田兼見は「安堵」した。〔『兼見卿記』二〕
  6月14日 「禁裏之御使」柳原淳光、神戸信孝(織田信孝)陣所より帰還し、神戸信孝(織田信孝)の「御返事」を上奏す。
       その内容とは津田越前入道の件は神戸信孝(「三七郎」:織田信孝)が指示したものではなく「曲事」であるので、捕獲次第
       注進するというものであった。
       吉田兼見は禁裏に於いてこの通知の内容を知り、「忝之旨」を申し入れて禁裏を退出す。〔『兼見卿記』二〕
  6月14日 吉田兼見、禁裏より帰宅し「在所」へ津田越前入道の件を通達する。〔『兼見卿記』二〕
  6月14日 神戸信孝(「三七信」:織田信孝)、吉田兼見へ津田越前入道が「難題申懸」けた事は神戸信孝(織田信孝)の指示による
       ものではないこと、津田越前入道を捕獲し次第に報告する旨を通知。〔『兼見卿記』二〕
  6月14日 井戸良弘(「井若」)、「裏帰」って山城国槙島城を筒井順慶(「順慶」)に渡すため早旦に井戸重郎と一手衆を出陣さす。
       これに呼応し越智某・楢原某らも挙兵。〔『多聞院日記』三〕
  6月14日 大和国興福寺、神戸信孝(「織田三七殿」:織田信孝)へ巻数・500疋を、「取継」の矢部家定(「矢部善七殿」)へ
       200疋を、羽柴秀吉(「羽柴筑前守」)へ巻数・500疋を、蜂須賀正勝(「蜂彦」)へ100疋を送る。
       〔『蓮成院記録』三〕
  6月14日 多聞院英俊、井戸良弘(「井若」)が「裏帰」って山城国槙島城を筒井順慶(「順慶」)に渡すため早旦に井戸重郎と一手衆
       を出陣させたこと、またこれに呼応し越智某・楢原某らも挙兵したこと、明日筒井順慶(「順慶」)が出京することが決定した
       ことを知る。〔『多聞院日記』三〕
  6月14日 大和国興福寺別会五師釈迦院寛尊、摂津国衆・池田恒興(「池田」)・羽柴秀吉(「羽筑」)からなる3部隊が上洛したこと
       京都山崎に於いて合戦があったこと、明智軍(「惟日人数」)が敗軍し「其日即時落居」したこと、丹波国勝龍寺城も陥落した
       こと、羽柴秀吉(「羽筑」)の軍勢が京着したことを知る。〔『蓮成院記録』三〕
  6月14日 大和国興福寺別会五師釈迦院寛尊、明智光秀(「惟任日向守」)が「上ノ醍醐」で「生害」したこと、藤田伝五(「伝五」)
       が「腹切」したことを知る。数万人が戦死し、京都山崎から醍醐周辺までは「アナタコナタ」に屍が散乱しており数は不明で
       あることを知る。〔『蓮成院記録』三〕
  6月14日 大和国興福寺別会五師釈迦院寛尊、「諸勢」が近江国坂本城へ向って出撃したこと、神戸信孝(「織田三七殿」:織田信孝)
       北畠信雄(「御茶箋様」:織田信雄)をはじめ織田「御一門之衆」は美濃国・尾張国へ軍勢を発したこと、この混乱の中で
       「美濃三人衆」は「無別儀」ということを知る。〔『蓮成院記録』三〕
  6月14日 大和国興福寺別会五師釈迦院寛尊、神戸信孝(「三七殿」:織田信孝)は美濃国を、北畠信雄(「御茶箋様」:織田信雄)は
       尾張国を「知行」するという風聞に接す。〔『蓮成院記録』三〕
  6月14日 大和国興福寺別会五師釈迦院寛尊、羽柴秀吉(「羽筑」)は先ず近江国長浜城に「帰陣」したことを知る。
       〔『蓮成院記録』三〕
  6月14日 大和国興福寺別会五師釈迦院寛尊、筒井順慶(「順慶」)の一連の「仕合も最初ハ以外機遣」であったのかと思ったが
       「一段仕合無比類」であり大和国郡山城に帰陣したことを喜ぶ。また「当国儀モ弥無別儀」きことを喜び、「神慮偏奉崇」した
       ので「奇特ニ即時ニ令静謐」めたと評す。〔『蓮成院記録』三〕
  6月14日 徳川家康、本多忠勝・石川数正らを率いて尾張国鳴海に着陣。〔「肥前吉村文書」〕
  6月14日 徳川家康、吉村氏吉へ織田信長(「上様」)弔いのため出陣する意思を表明。詳細は水野藤助に伝達させる。
       〔「肥前吉村文書」〕
  6月14日 徳川家康、佐藤六左衛門尉へ日根野弘就・金森長近と共に徳川家康の上洛に協力すべきを命令。〔『譜牒余録』〕
  6月14日 本多忠勝・石川数正、吉村氏吉へ徳川家康に対する「御質物」、すなわち人質の提出を要求。〔「肥前吉村文書」〕
  6月14日 本多忠勝、高木貞利へ徳川家康が京都へ攻め上る意思がある旨を通知。〔「高木文書」‐6〕
  6月14日 近衛前久、「武命」に違えたため出奔。〔『公卿補任』五十〕
  6月15日 近江国安土城、焼失す。安土山下からの「類火」によるという。〔『兼見卿記』二〕
  6月15日 吉田兼見、神戸信孝(「三七郎殿」:織田信孝)へ御礼の為に吉田兼治を派遣。
       「別而三七郎殿御入魂」であった水無瀬親具が同行した。
       吉田兼治、神戸信孝(「三七郎殿」:織田信孝)へ帷子を持参、ここで確実な情報に接す。
       その内容は、明智光秀(「向州」)が京都醍醐周辺にて「一揆」に討ち取られたこと、明智光秀の首級は村井清三が
       神戸信孝(「三七郎殿」:織田信孝)のもとへ持参したということであった。〔『兼見卿記』二〕
  6月15日 吉田兼治、近江国草津に於いて神戸信孝(織田信孝)に御礼を申したところ「仕合能」ということであった。
       これも水無瀬親具の「馳走」によるものであった。〔『兼見卿記』二〕
  6月15日 吉田兼治、申下刻に帰宅し吉田兼見へ「向州事秘定」を通知す。〔『兼見卿記』二〕
  6月15日 高山次右衛門、近江国坂本城「天主」に放火して切腹す。〔『兼見卿記』二〕
  6月15日 筒井順慶(「順慶」)、この朝に自身が1000余の軍勢を率いて出陣。〔『多聞院日記』三〕
  6月15日 山科言経、明智光秀(「惟任日向守」)が京都醍醐周辺に「牢籠」していたが「郷人一揆」により殺害され、明智光秀首級が
       京都本能寺へ届けられたことを知る。〔『言経卿記』一〕
  6月15日 勧修寺晴豊、勧修寺家領某所の百姓が明智光秀の首級(「明智くひ」)を織田信孝・羽柴秀吉のもとへ届け出たことを知る。
       〔『日々記』〕
  6月15日 勧修寺晴豊、本能寺に明智光秀「むくろ」と「首」が晒され見物衆にあふれていた状況、3000程の明智与党の首が
       織田信長(「信長」)の自刃した跡地に並べられた状況を目の当たりにする。〔『日々記』〕
  6月15日 大和国興福寺大乗院門跡、上洛す。〔『多聞院日記』三〕
  6月15日 多聞院英俊、去6月12日(13日の誤り)に明智軍が1000余人損傷したこと、明智光秀(「向州」)は30余名を
       率いて近江国坂本へ逃走したこと、去6月14日に羽柴秀吉(「筑前」)が近江国大津まで進撃し坂本城を攻撃していることを
       知る。〔『多聞院日記』三〕
  6月15日 多聞院英俊、この朝に筒井順慶(「順慶」)自身が1000余の軍勢を率いて出陣したこと、この夕方に京都郊外の醍醐に
       布陣したこと、羽柴秀吉(「筑州」)は筒井順慶の行動を「曲事」としたことを知る。
       また事変後のことは「惣テ天下ハ信長如御朱印毎事可在之」ということを知る。〔『多聞院日記』三〕
  6月15日 多聞院英俊、先日の合戦にて明智光秀(「惟任」)の討死は確実であろうという風聞に接し、その合戦は即時決着が着いた
       ことを知る。〔『多聞院日記』三〕
  6月15日 井戸良弘(「井若」)、山城国槙島城を脱出。〔『多聞院日記』三〕
  6月15日 荒木清兵衛、山城国槙島城に入城。〔『多聞院日記』三〕
  6月16日 松井友閑(「宮内法印」「友盛」)、早天に上洛す。〔『日々記』〕
  6月16日 勧修寺晴豊、松井友閑(「宮内卿法印」「友盛」)へ「まき」30把を、庭田重保には「ゆかけ」を贈る。〔『日々記』〕
  6月16日 勧修寺晴豊、上洛し庭田重保を同行した松井友閑(「宮内卿法印」「友盛」)の来訪を受け、近衛前久(「近衛殿」)に
       関する事情聴取がなされた。
       また勧修寺晴豊、「かちやう」(官掌:弁官下官)より誠仁親王(「御方御所」)からの「内々衆」招集命令を受ける。
       〔『日々記』〕
  6月16日 多聞院英俊、井戸良弘(「井若」)が山城国槙島城を脱出し荒木清兵衛が入城したことを知る。これは筒井順慶(「順慶」)
       の意図したことではないという「口遊」であり、これが事実であれば大変な事態であるとの認識を記す。〔『多聞院日記』三〕
  6月16日 多聞院英俊、筒井順慶により木津甚五郎が在所に追い返されたという風聞に接す。〔『多聞院日記』三〕
  6月16日 大和国奈良では筒井順慶(「順慶」)の「仕合曲事ト沙汰」というので騒動になった。〔『多聞院日記』三〕
  6月16日 羽柴秀吉、近江国安土ついで近江国長浜城に入城し家族と対面。
  6月16日 神戸信孝(「三七郎殿」:織田信孝)・「其外諸勢」、近江国安土城に下向す。〔『兼見卿記』二〕
  6月16日 吉田兼見、京都本能寺(「本応寺」)に於いて明智光秀(「向州」)の首級・胴体が曝されたことを知る。
       〔『兼見卿記』二〕
  6月16日 織田信孝、周彭蔵主へ山城国伏見庄の柏岫周悦跡職を菊齢周彭の知行とする旨を承認。〔『武家手鑑』‐下13〕
  6月16日 真田昌幸、鎌原宮内少輔へ領知給与を約し合力を促す。〔「中村不能斎採集文書」九〕
  6月17日 山科言経、「今度謀叛随一」の斎藤利三(「斎藤蔵助」)が近江国堅田に「牢籠」しているところを捕獲され、京都洛中を
       「車」にて引き回され六条河原に於いて「誅」されたことを知る。〔『言経卿記』一〕
  6月17日 この早天に明智与党で「信長打談合衆」の斎藤利三(「済藤蔵助」)が捕獲され「車」上にて京都町中を引き回される。
       勧修寺晴豊は斎藤利三を見物するが、見物人は予想以上に多く、「京都わらへ」は様々な噂をたてており、あきれて取るに
       足らない内容であった。
       近衛前久(「近衛殿」)・勧修寺尹豊(「入道殿」)が京都郊外の嵯峨に遁世しているということで、織田信孝らが両名を
       討ち取るために軍勢を派遣したが脱出に成功、誠仁親王(「御方御所」)は近衛前久と勧修寺尹豊(「入道殿」)の身上を
       案じ、勧修寺晴豊が見舞に向かう。
       近衛前久(「近衛殿」)に向けられたこの嫌疑は「ひきよ」(非拠)であった。〔『日々記』〕
  6月17日 「禁中」の避難地下人用「小屋」が解体され、地下人らは帰宅した。〔『兼見卿記』二〕
  6月17日 「政道一段厳」となり「洛中洛外安堵」となった。〔『兼見卿記』二〕
  6月17日 多聞院英俊、明智光秀(「惟任日向守」)が去6月12日に丹波国勝龍寺城を脱出した後に逃走中の京都山階に於いて
       「一揆ニタヽキ殺レ」て、「首モムクロ」も京都へ運ばれたことを知る。また多聞院英俊が知っていたのは明智光秀が
       「細川ノ兵部大夫カ中間」であったところ抜擢されて、今度は織田信長(「信長」)の厚恩により「中国ノ名誉」を為すために
       派遣されたのであったが、「忘大恩致曲事」したということで殺害されたのであり、これも「天命」であったということで
       あった。〔『多聞院日記』三〕
  6月17日 多聞院英俊、斎藤利三(「斎藤蔵助」)が生虜にされて近江国安土に送還されたことを知る。〔『多聞院日記』三〕
  6月17日 前田利家、山崎での明智光秀討死を通知してきた柴田勝家の上洛を賞す。
       さらに能登国での一揆が不穏なため、軍勢を率いて面会することができない旨を通知。〔「中村不能斎採集文書」三〕
  6月17日 斎藤利三、京都六条河原において斬首。〔『言経卿記』一、『日々記』、〕
  6月17日 斎藤利三(「斎藤蔵助」)、京都引き回しの上斬首される。〔『多聞院日記』三〕
  6月17日 近衛前久、島津義久へ近衛前久自身は本能寺の変後に蟄居している旨を報告。「若鷹」はそのため無用であること、
       更に島津義久からの「沈香」100両の贈答を謝す。〔「島津家文書」A‐668、「旧記雑録後編」@‐1278〕
  6月17日 遠藤秀繕、美濃国安養寺へ本能寺の変後の織田家中の情勢を通知。〔「安養寺文書」‐16〕
  6月17日 真田昌幸(「昌幸」)、秩父豊後守へ「奉公」を諒承し、身上を疎略にしない旨を通達。〔「小菅系図」〕
  6月18日 山科言経、古市宗超の来訪を受けて夕食を相伴す。〔『言経卿記』一〕
  6月18日 山科言経、「貴布祢社」(貴船神社)に毎日「最要中臣祓」を書写したものを奉納し祈念す。〔『言経卿記』一〕
  6月18日 勧修寺晴豊、「世上種々さうせつ」に接す。〔『日々記』〕
  6月18日 吉田兼見、斎藤利三(「斎藤内蔵助」)が捕獲されて上洛し洛中を車に乗せられて引き回され六条河原にて刎首されたこと、
       明智光秀(「日向守」)と同様に京都本能寺に曝されたことを知る。〔『兼見卿記』二〕
  6月18日 吉田兼見、近江国堅田に於いて明智光秀与党の猪飼半左衛門(「伊加半左衛門」)が捕獲されたことを知る。
       〔『兼見卿記』二〕
  6月18日 大和国興福寺「寺門」に派遣された源舜、近江国にて神戸信孝(「三長殿」:織田信孝)・羽柴秀吉(「筑州」)と対面。
       〔『多聞院日記』三〕
  6月18日 多聞院英俊、京都本能寺に明智光秀(「日向」)を始めとする首級3000程が供えられたことを知る。
       また去6月17日に斎藤利三(「斎藤蔵助」)は京都に連行され斬首されたことを知る。〔『多聞院日記』三〕
  6月18日 織田信孝・羽柴秀吉、水無瀬家の所領をめぐって水無瀬兼成(権中納言)の使者を安土に派遣させたところ、
       水無瀬親具(左近衛中将)に使者を殺害される。〔「水無瀬宮文書」四〕
  6月18日 下間頼廉、蒲生賢秀・蒲生氏郷へ本能寺の変(「京都不慮」)にあたり本願寺側としては蒲生氏郷の入魂の意向に満足
       している旨を通知。さらに織田信孝は本願寺へ松井友閑と丹羽長秀を「御使」として派遣してきたことも通知。
       〔「興敬寺文書」〕
  6月18日 柴田勝家、近江国加田庄に禁制を掲げる。〔「小川武右衛門氏所蔵文書」〕
  6月18日 川尻秀隆、武田遺臣に殺害される。〔『日本史人物生没年表』〕
  6月19日 「村井内衆」、京都遣迎院になだれ込み「人質」を取る。その人質は京都下京の米屋宗綢の下女であった。村井貞勝家中の
       「トン斎」らが追跡する。〔『言経卿記』一〕
  6月19日 京都遣迎院、村井貞勝家中へ「人質」を提出。〔『言経卿記』一〕
  6月19日 山科言経、村井貞勝家中「トン斎」らが遣迎院になだれ込み人質を取ったことを知る。近所での出来事であったため物騒で
       あり、冷泉為満・四条隆昌が見舞に到来した。〔『言経卿記』一〕
  6月19日 山科言経、古市宗超の来訪を受け香需散を送る。〔『言経卿記』一〕
  6月19日 勧修寺晴豊、自邸に於いて万里小路充房・中山慶親と雑談す。〔『日々記』〕
  6月19日 勧修寺晴豊、京都遣迎院に於いて襲撃事件があったことを知る。〔『言経卿記』一〕
  6月19日 山科言経、禁裏「当番」に祗候。「相番」は甘露寺経元・白川雅朝、「加番」は四辻公遠・勧修寺晴豊・中山慶親・
       高倉範国・五辻元仲であった。「外様」は東坊城盛長、外様「加番」は藤原秀直であった。〔『言経卿記』一〕
  6月19日 勧修寺晴豊、禁裏「番」に祗候。〔『日々記』〕
  6月19日 羽柴秀吉、高木貞久(美濃国今尾城主)へ山崎戦後に美濃国への進行を通知。〔「美濃高木文書」、「東高木文書」‐6〕
  6月19日 織田信孝(「三七郎信孝」)、大徳寺へ明智光秀(「明智」)寄進の銀子を「我々上洛之刻」にあたり処分する旨を通達。
       〔「大徳寺文書」@‐313〕
  6月19日 前田利家、柴田勝家・佐久間盛政へ本能寺の変に乗じて温井備前守・三宅備後守(畠山遺臣)らが上杉景勝の後援により
       能登国に侵入したために援軍を要請。〔『前田家年譜』〕
  6月19日 本多重次(徳川家臣)、駿河国草薙宮に禁制を掲げる。〔『駿河志料』〕
  6月19日 湯原国信(上杉家臣)、直江与六へ「信長滅亡」は本望であること、上杉景勝が出撃すれば越中国は上杉領となるべきこと、
       佐々成政軍を撃退したことの披露を依頼。〔「伊佐早文書」一〕
  6月20日 山科言経、京都遣迎院が村井貞勝家中へ「人質」を提出したことを知る。また後刻に遣迎院より門外にて礼問を受ける。
       〔『言経卿記』一〕
  6月20日 山科言経、毘沙門堂公厳を訪問。〔『言経卿記』一〕
  6月20日 平井主水、紀伊国雑賀より上洛、「御見舞」として本願寺顕如(「門跡」)より1500疋を誠仁親王へ献上。「こうもん」
       が誠仁親王(「御方御所」)へ披露した。また本願寺顕如(「門主」)より庭田重保・勧修寺晴豊両人へ200疋ずつが贈与。
       〔『日々記』〕
  6月20日 松井友閑(「友閑 宮内法印」)、勧修寺晴豊(「勧修様」)へ「小河」の地子の件と嵯峨の件について、いずれも昨夕通達
       した通り勧修寺晴豊の存分に沿った決定がなされ、この日に早速伝達する。〔『日々記』〕
  6月20日 羽柴秀吉、美濃国に入る。その後(日時不明)、尾張国清洲城に入城。
       〔『別冊歴史読本6 豊臣秀吉天下統一への道』(1989年刊)所収の略年表によるが、その根拠となった史料は不明〕
  6月20日 神戸信孝(「三七郎殿」:織田信孝)、近衛前久(「近衛相国」)を「御成敗」する旨を洛中に通達す。〔『兼見卿記』二〕
  6月20日 吉田兼見、出京した際に神戸信孝(「三七郎殿」:織田信孝)が近衛前久(「近衛相国」)を「御成敗」する旨を洛中に通達
       したこと、その通達により近衛信尹(「御方御所」)の身の上は「御迷惑」を蒙っているとの「流布」に接し、近衛邸を訪問。
       近衛信尹(「内府」)の「御身上聊無別義之由」を桑原貞也(「鍬原」)・長谷川宗仁に確認した。〔『兼見卿記』二〕
  6月20日 一柳直末、美濃国崇福寺へ従来のままを羽柴秀吉(「筑前守」)から安堵された旨を通達。〔「崇福寺文書」‐17〕
  6月20日 天徳寺宝衍、佐竹義重へ佐野宗綱が滝川一益に従って和田へ出陣したこと、
       佐野宗綱らが武蔵国鉢形の北条氏邦を撃破した旨を通知。〔「佐竹文書」一坤〕
  6月20日 水無瀬親具、養父の水無瀬兼成(権中納言)を八幡の旅宿において襲撃、旅宿・土蔵を封ず。〔「水無瀬宮文書」四〕
  6月21日 勧修寺晴豊、この早天に松井友閑(「友盛」)へ「御使」として正親町天皇(「禁裏」)「勅作」10貝を携え派遣される。
       勧修寺晴豊に同行したのは「せいあん」・庭田重保・中山慶親・立入隆佐(「立佐」)であった。
       勧修寺晴豊が松井友閑へ伝達したことは本願寺顕如・本願寺教如父子の「中なをり」の件を調えたことで、紀伊国雑賀より
       平井主水が上洛して「北方」からの預かった「むしろつゝミ」1つを松井友閑に渡した。勧修寺晴豊は松井友閑へ紀伊国雑賀
       から誠仁親王(「二条之御所」)・御阿茶々局(勧修寺晴子)に献上された「北方」の贈物は焼失してしまったことを伝達。
       勧修寺晴豊は紀伊国雑賀より送付されたものが焼失したとは知らなかった。平井主水へは帯5筋を遣わされた。〔『日々記』〕
  6月21日 「りよ和寺のけんかう」、誠仁親王(「御方御所」)へ酒樽を進上、禁裏「小御所」に於いて「大酒」が催され、勧修寺晴豊
       は「大さけのミ」をした。〔『日々記』〕
  6月21日 山科言経、「所労」のため「平臥」す。〔『言経卿記』一〕
  6月21日 吉田兼見、近衛信尹(「内府」)からの預物を全て返還す。〔『兼見卿記』二〕
  6月21日 多聞院英俊、大和国興福寺一乗院尊政(「一乗院」:近衛前久息)が近衛前久(「近衛殿」)の「御生害」という報に接し
       「以外取乱」したこと、ところがこれはまったくの誤報であることを知る。〔『多聞院日記』三〕
  6月21日 徳川家康、小池筑前守へ忠節を促し恩賞地を下すことを約す。詳細は山本成氏に伝達させる。〔「徳川尾張侯爵所蔵文書」〕
  6月21日 真田昌幸、湯本三左衛門尉へ上野国我妻城の守備を命令。〔「播磨熊谷文書」〕
  6月22日 勧修寺晴豊、「妙香圓」を「あか水」で服用。〔『日々記』〕
  6月22日 勧修寺晴豊、「せい法印」より「加例」を受ける。〔『日々記』〕
  6月22日 勧修寺晴豊、吉田牧庵(「吉田」)の来訪を受け「ほしい」(干飯)を振る舞う。〔『日々記』〕
  6月22日 松井友閑(「宮内卿法印」)、上洛す。〔『兼見卿記』二〕
  6月22日 吉田兼見、上洛した松井友閑(「宮内卿法印」)を訪問し面会。松井友閑は「連々信長へ奏者」であったが、今度は
       「当方馳走」となったという。「仕合祝着」であり、吉田兼見は松井友閑へ明智光秀(「日向守」)が吉田邸を来訪して
       「銀子配分」を行った旨を詳細に説明した。〔『兼見卿記』二〕
  6月22日 神戸信孝(「三七郎殿」:織田信孝)・「諸勢」、美濃国へ向かう。〔『兼見卿記』二〕
  6月22日 吉田兼見、神戸信孝(「三七郎殿」:織田信孝)・「諸勢」が美濃国へ向かったというので「本陣」へ鈴鹿定継を派遣し
       織田信長「御朱印之次目」を神戸信孝(「三七郎殿」:織田信孝)に申し入れさせた。
       また先頃の明智光秀「銀子配分」の様子を「条書」形式にして奥に「誓言」を以て呈出す。
       さらに水無瀬親具と相談すべき旨を申し含めて羽柴秀吉(「羽柴筑前守」)に書状音信・贈物を贈呈す。〔『兼見卿記』二〕
  6月22日 桑原貞也(「鍬原」)・村井清三、京都粟田口に明智光秀(「日向守」)・斎藤利三(「斎藤内蔵助」)の首塚築造の
       「奉行」として作事を開始する。〔『兼見卿記』二〕
  6月22日 吉田牧庵と勧修寺晴豊、誠仁親王(「御方御所」)が曲直瀬玄朔(「道三」)より借りた銀子5枚を返弁する書状を受ける。
       〔『日々記』〕
  6月22日 「法印」、正親町天皇(「禁裏」)へ「さたううり」を献上す。〔『日々記』〕
  6月22日 徳川家康、有泉大学助(穴山信君部将)へ甲斐国一揆討伐の戦功を賞して書を遣わす。〔「伊藤本文書」一〕
  6月23日 正親町天皇、本願寺教如(「本願寺新門跡」)と本願寺顕如の「中なをり」にあたり「うはうの文」(女房奉書?)を下す。
       〔『日々記』〕
  6月23日 庭田重保、勧修寺晴豊より袖岡越中を、「法印」より「梅かへ局」・「玄入道」を派遣するよう通達す。〔『日々記』〕
  6月23日 勧修寺晴豊、水無瀬兼成(「水無瀬中納言」)と「侍従」(水無瀬氏成カ)の両人が嗣子の水無瀬親具(「兵へのかミ」)の
       もとに赴いたが、水無瀬親具は八幡に於いて神戸信孝(「三七殿」)の軍勢に襲撃されるも難を逃れたことを知る。
       〔『日々記』〕
  6月23日 正親町天皇(「禁裏」)は柳原淳光・白川雅朝(「伯」)を召喚、勧修寺晴豊は代理人として人見丹後守を派遣。
       〔『日々記』〕
  6月23日 松井友閑(「友盛」)、朝廷へ「けいこ」(警護の軍勢)を派遣。〔『日々記』〕
  6月23日 松井友閑(「友盛」)、夕方に上洛す。〔『日々記』〕
  6月23日 誠仁親王(「親王御所」)、近衛信基(「近衛殿御かた御所」)へ銀子3枚を下す。〔『日々記』〕
  6月23日 吉田兼見、去6月22日より桑原貞也(「鍬原」)・村井清三が「奉行」となって京都粟田口に明智光秀(「日向守」)・
       斎藤利三(「斎藤内蔵助」)の首塚を築造していることを知る。〔『兼見卿記』二〕
  6月23日 村井清三、雑色を以て「向州預物」と「近衛殿御物」の糺明・提出命令を通達す。〔『兼見卿記』二〕
  6月23日 吉田兼見、施薬院全宗(「徳雲軒」)を礼問し羽柴秀吉(「羽筑」)への「取合憑入之由」を相談す。施薬院全宗は特別に
       懇意であった。〔『兼見卿記』二〕
  6月23日 吉田兼見、桑原貞也(「鍬原」)へ見舞の使者として鈴鹿右正を派遣し饅頭50個を贈る。
       桑原貞也は「祝着之由殊更令入魂」という様子であった。〔『兼見卿記』二〕
  6月23日 織田信孝、美濃国立政寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「立政寺文書」〕
  6月23日 織田信孝、美濃国大宝寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「岐阜県続古文書類纂」四〕
  6月23日 織田信孝、美濃国常在寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「岐阜県続古文書類纂」四〕
  6月23日 織田信孝、千手堂へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「諸国高札」三〕
  6月23日 織田信孝、美濃国常在寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「常在寺文書」‐4〕
  6月23日 羽柴秀吉、美濃国立政寺へ禁制を下す。〔「立政寺文書」‐123〕
  6月23日 堀秀政・丹羽長秀・羽柴秀吉、美濃国善行寺へ禁制を下す。〔「岐阜県続古文書類纂」四〕
    この頃?なへ(織田信長側室小倉氏)、丹羽長秀へ織田信長・織田信忠父子の冥福を薦める。〔「崇福寺文書」‐12〕
  6月23日 本願寺顕如、義絶状態にあった本願寺教如と和解する旨を庭田重保・勧修寺晴豊に通知。〔「本願寺文書」三〕
  6月23日 本願寺顕如、庭田重保・勧修寺晴豊へ綿30把を献上。〔「本願寺文書」三〕
  6月23日 温井備前守・三宅備後守(畠山遺臣)、上杉方の遊佐軍の援助により能登国石動山へ進軍。荒山に要害を構築。
       〔『前田家年譜』〕
  6月24日 勧修寺晴豊、「あつさ」のためにこの日は外出せず。〔『日々記』〕
  6月24日 吉田兼見、「在所」構の堀普請を行う。また吉田兼見自身が上洛する際の音信用の帷子を調達す。諸方への音信と接待で費用
       が嵩む状態であった。〔『兼見卿記』二〕
  6月24日 丹羽長秀・羽柴秀吉、美濃国関惣中へ禁制を下す。〔「梅龍寺文書」‐1〕
  6月24日 前田利家、柴田勝家・佐久間盛政へ去23日に越後勢が能登国石動山へ進軍し荒山に要害を構築した旨を通知。早急たる
       援軍派遣を要請。〔『前田家年譜』〕
  6月25日 勧修寺晴豊、早天に行水す。次いで「天神」を拝む。〔『日々記』〕
  6月25日 勧修寺晴豊、来客と一日中雑談す。また泉涌寺より鈴僧両人が到来し、来客と共に酒宴が催された。〔『日々記』〕
  6月25日 吉田兼見、吉田浄勝(「盛方院」)の来訪を受ける。〔『兼見卿記』二〕
  6月25日 吉田兼見、黒谷上人の来訪を受ける。〔『兼見卿記』二〕
  6月25日 羽柴秀吉、高田長左衛門へ尾張・美濃両国における明智残党掃討戦の状況を報ず。
       また近日中に上洛し織田信長の葬儀(「上様御仏事」)の執行予定を通達。〔「古今消息集」六〕
  6月25日 佐々成政、越中国蓮華寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「蓮華寺文書」〕
  6月26日 誠仁親王(「親王御方」)、村井貞勝の孫へ音信・「すゝし」2反を贈る。
       勧修寺晴豊は誠仁親王の「御使」として村井孫(「こほ」)を訪問す。〔『日々記』〕
  6月26日 勧修寺晴豊、夕方に庭田重保を訪問し、中山慶親・白川雅朝・万里小路充房・五辻元仲らと晩餐を食す。〔『日々記』〕
  6月26日 吉田兼見、この申刻に美濃国へ派遣した鈴鹿定継の復命を受ける。水無瀬親具の「馳走」により「三七郎殿免除之状」を獲得
       できたという。「信長御朱印」の如く安堵したものであった。〔『兼見卿記』二〕
  6月26日 毛利輝元、清水源三郎(清水宗治息子)へ備中国高松城での忠節に対する感状を下す。
       詳細は小早川隆景に伝達させる。〔『萩藩閥閲録』二十五〕
  6月27日 山科言経、古市宗超の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕
  6月27日 山科言経、立入隆佐・川端道喜・江村専斎らに香需散を送る。〔『言経卿記』一〕
  6月27日 勧修寺晴豊、曇華院殿(「とんけい殿」:聖秀女王、正親町天皇妹)より酒樽を賜わる。〔『日々記』〕
  6月27日 勧修寺晴豊、松井友閑(「友盛」)へ酒樽を送付。勧修寺晴豊は松井友閑へ「小河地子之事」と「千若かまい」の分について
       要望を伝達したところ、松井友閑より承諾の返答があり別儀無しということであった。
       勧修寺晴豊は以前に発給された松井友閑(「友閑宮内法印」)の折紙を受ける。また松井友閑(「友盛」)より砂糖瓜1篭と
       鱧100本が届けられた。勧修寺晴豊は正親町天皇(「禁裏」)へ瓜を献上する。〔『日々記』〕
  6月27日 山科言経、楠長諳(「楠長安」)と共に暮れに冷泉為満を訪問。移刻雑談す。〔『言経卿記』一〕
  6月27日 山科言経、四条隆昌の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕
  6月27日 清洲会議、開催。
  6月27日 池田恒興・羽柴秀吉・丹羽長秀・柴田勝家、堀秀政へ従来通り坂田郡台所入25000石(織田三法師丸蔵入)運上を命令。
       〔『堀家文書并系図』〕
  6月27日 柴田勝家・池田恒興・羽柴秀吉・丹羽長秀、高山重友へ播磨国能勢郡内に3000石、近江国佐久間盛政領内に1000石を
       知行として安堵。〔「塚本文書」二〕
  6月27日 本願寺教如、下間頼廉へ本願寺顕如の意に違反しない旨を誓う。〔「本願寺文書」一〕
  6月28日 正親町天皇(「禁裏」)、小西河端者の知行の件で女房奉書を下す。〔『日々記』〕
  6月28日 山科言経、葉室頼宣の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕
  6月28日 山科言経、古市宗超の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕
  6月28日 山科言経、「立ウリ魚屋」より「今度一乱」(本能寺の変)により山科言経邸内「後苑」に木屋を懸けたことに対する礼を
       受ける。〔『言経卿記』一〕
  6月28日 勧修寺晴豊、京都泉涌寺より織田信長(「信長」)・織田信忠(「三位中将」)の官位記録を所望され、織田信長・織田信忠
       の官位を記載し送付。院号は未だ定まっていなかった。〔『日々記』〕
  6月28日 勧修寺晴豊、明智秀満(「明智内弥平二」)の親が生け捕りにされたことを知る。〔『日々記』〕
  6月28日 吉田兼見、「禁裏」に参内し、勧修寺晴豊を介して神戸信孝(「織田三七郎」:織田信孝)からの吉田郷「免除之状」を
       誠仁親王(「親王御方」)に提示す。〔『兼見卿記』二〕
  6月28日 吉田兼見、近衛邸に祗候し近衛信尹(「内府」)と対面。〔『兼見卿記』二〕
  6月28日 吉田兼見、吉田浄勝(「盛法」)を訪問。〔『兼見卿記』二〕
  6月28日 吉田兼見、吉田牧庵を訪問。〔『兼見卿記』二〕
  6月28日 吉田兼見、徳大寺公維を訪問。〔『兼見卿記』二〕
  6月28日 吉田兼見、柳原淳光を訪問。〔『兼見卿記』二〕
  6月28日 吉田兼見、晩に及び帰宅。〔『兼見卿記』二〕
  6月28日 山科言経、暮れに「七宮御方」(誠仁親王第七皇子)・「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)を冷泉家に送る。
       〔『言経卿記』一〕
  6月28日 羽柴秀吉、尾張国清洲を発して近江国長浜へ帰城するにあたり、高木貞利(美濃国今尾城主息)へ船の用意を命令。
       〔「高木文書」‐7〕
  6月29日 山科言経、長橋局(量子:高倉永家女)の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕
  6月29日 山科言経、下粟津屋聟の到来を受け、安芸国慈仙寺空寿より「香衣」勅許を申請され、中御門宣光を介して奏請す。
       〔『言経卿記』一〕
  6月29日 山科言経、禁裏「当番」に祗候。「相番」は白川雅朝、「加番」は五辻為仲・高倉範国であった。誠仁親王(「宮御所」)へ
       は中山慶親・四辻季満が、「外様衆」は東坊城盛長が祗候した。〔『言経卿記』一〕
  6月29日 山科言経、白川雅朝・高倉範国へ香需散1包を送る。〔『言経卿記』一〕
  6月29日 勧修寺晴豊、明智秀満(「明智弥平二」)の女房衆が生け捕りにされたことを知る。〔『日々記』〕
  6月29日 吉田兼見、丹波国福知山城に在城していた明智光秀(「向州」)家中衆の明智秀満(「弥平次」)の親が捕獲され上洛した
       ことを知る。〔『兼見卿記』二〕
  6月29日 大和国興福寺大乗院門跡、近江国安土より大和国奈良へ帰還。神戸信孝(「三七殿」:織田信孝)の「御入魂御礼」を得たと
       いう。〔『多聞院日記』三〕
  6月29日 多聞院英俊、北畠信雄(「伊勢ノ御本所」:織田信雄)と神戸信孝(「三七殿」:織田信孝)の「存分不究」であるために
       ゥ軍勢は未だに「不散」であることを知る。〔『多聞院日記』三〕
  6月30日 山科言経、中御門宣光を介して慈仙寺空寿の香衣勅許の「綸旨」を受ける。〔『言経卿記』一〕
  6月30日 勧修寺晴豊、外出はせず、来客と雑談す。〔『日々記』〕
  6月30日 吉田兼見、「禁裏」へ御祓・太麻を調進す。〔『兼見卿記』二〕
  6月30日 吉田兼見、施薬院全宗(「徳雲軒」)へ使者を派遣、明日羽柴秀吉(「羽柴筑州」)へ音信を送付するので羽柴秀吉「奏者」
       への書状について相談し取り成しを依頼する。〔『兼見卿記』二〕
  6月30日 吉田兼見、「今度錯乱」(本能寺の変)にあたり「当所諸事仕合能」かったのは「偏神慮」によるものであったと考える。
       〔『兼見卿記』二〕
  6月 晦日 織田信孝、美濃国西之郷の宝林坊へ禁制を下す。〔「敬念寺文書」‐2〕
  6月  日 織田信孝、美濃国大寶寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「大寶寺文書」‐1〕
  6月  日 織田信孝、美濃国立政寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「立政寺文書」‐122〕
  6月  日?堀秀政・丹羽長秀・羽柴秀吉、美濃国善行寺へ禁制を下す。〔「善行寺文書」‐1〕
  6月  日 稲葉一鉄・稲葉重通、美濃国大龍寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「大龍寺文書」‐2〕
  6月  日 羽柴秀長(「羽柴小一郎長秀」)、丹波国佐治市場へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「丹波小島文書」〕
  6月  日 桑山重晴(「重勝」)、丹波国氷上郡佐治庄・小倉町へ全3ヶ条の禁制を下す。〔『諸家文書纂』十四〕
  6月  日 杉若無心・桑山重晴(「重勝」)、丹波国妙法寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「妙法寺文書」〕
  6月 吉日 賀陽家職(備中国吉備津神社神職)、羽柴秀吉(「羽柴筑前守」)へこの度の御陣における勝利を祝し神前御祈祷巻数を送り
       羽柴秀吉の「弥御武運長久天下安全」を祈念する旨を通知。〔「吉備津神社文書」‐150〕

 7月
  7月 1日 織田信孝、美濃国美江寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「美江寺文書」‐5〕
  7月 1日 羽柴於次秀勝・羽柴秀吉、近江国称名寺へ新地を加え、還住を命令。〔「称名寺文書」〕
  7月 3日 織田信孝、山城国本能寺へ織田信長の本能寺屋敷を御墓所とし、本能寺僧の還住を命令。〔「本能寺文書」二〕
  7月 3日 織田信孝、褶3端を献上した本能寺僧に応え還住命令の書状を遣わす。〔「本能寺文書」二〕
  7月 3日 織田信孝、美濃国武儀八幡神社へ寺社領・門前への諸役を従来の如く安堵。〔「八幡神社文書」‐8〕
  7月 3日 徳川家康、三河国岡崎を出陣。
  7月 3日 上杉景勝、岩井信能へ佐々成政が上杉景勝留守中を狙って襲撃する風聞を通達。
       越後国春日山へ増援部隊の派遣を命令。〔『歴代古案』七〕
  7月 6日 増田長盛、旧地に還住するよう羽柴秀吉へ訴訟した山城国本能寺へ書を遣わし、鳥目100疋を披露し羽柴秀吉の了解を得た
       こと、羽柴秀吉は近日中に上洛予定があることを通知。また増田長盛への鳥目30疋を謝す。〔「本能寺文書」二〕
  7月 6日 武田氏遺臣、下条頼安(徳川家康臣)へ徳川家康に対する忠誠を誓約した起請文を提出。〔『浜松御在城記』〕
  7月 8日 羽柴秀吉、山城国本能寺へ寄宿免許を下す。〔「本能寺文書」二〕
  7月 9日 羽柴秀吉、上洛。〔「鍋島家文書」‐2〕
  7月 9日 徳川家康、小池筑前守へ朱印状を送付し、忠信を促す。詳細は山本成氏に伝達させる。〔「徳川尾張侯爵所蔵文書」〕
  7月 9日 徳川家康、甲斐国甲府へ着陣。〔「知久文書」〕
  7月10日 徳川家康、知久頼氏へ諏訪表への出陣を命令。〔「知久文書」〕
  7月11日 羽柴秀吉、織田三法師丸を伴って入京し本圀寺において多くの公家衆の訪問を受ける。
       羽柴秀吉は本圀寺広間に於いて邦房親王からの御使・吉田兼見と対面。〔『兼見卿記』〕
  7月11日 羽柴秀吉、細川藤孝・細川忠興の本能寺の変(「信長御不慮」)に際する態度を賞し全3ヶ条にわたる待遇を保証する旨の
       起請文を送付。〔「永青文庫所蔵文書」〕
  7月11日 羽柴秀吉、去年より誼を通じていた鍋島直茂へ本能寺の変(「京都不慮」)により毛利氏と和睦締結したこと、明智与党全滅
       磔刑に処したこと、「御国々」へ従来の如く「静謐」を申し付けて9日に上洛したことを通知。更に近日中の姫路帰城と報告、
       「南蛮帽子」の贈答を謝す。〔「鍋島家文書」‐2〕
  7月12日 朝廷、羽柴秀吉へ水無瀬家所領相論の件で起請に違背した水無瀬親具(左近衛中将)を成敗するよう勅命を下す。
       〔「水無瀬宮文書」四〕
  7月12日 増田長盛、羽柴秀吉の意を受け鍋島直茂へ書を遣わし、一柳某が口上によって詳細を伝達する旨を通知。
       〔「鍋島家文書」‐3〕
  7月12日 水無瀬親具(左近衛中将)、浅野長政を頼り在所へ入部、〔「水無瀬宮文書」四〕
  7月12日 武田氏遺臣、下条頼安(徳川家康臣)へ徳川家康に対する忠誠を誓約した起請文を提出。〔『浜松御在城記』〕
  7月13日 羽柴秀吉、播磨国姫路城へ帰還。
  7月13日 増田長盛、山城国本能寺へ羽柴秀吉からの還住命令を伝達。〔「本能寺文書」二〕
  7月17日 羽柴秀吉(「羽柴筑前守秀吉」)、織田信長(「大相国」)への弔意を表した毛利輝元(「毛利右馬頭」)へ謝意を表し、
       畿内は要地なので山城国「山崎」城普請の着工と織田信長葬儀の延引を通知。〔「毛利家文書」@‐347〕
  7月18日 羽柴秀吉、吉川元春から天下静謐の祝詞として太刀・刀(信国)の贈呈を謝す。
       また、羽柴秀吉と毛利氏間は安国寺恵瓊が斡旋する旨を通知。〔「吉川家文書」@‐564〕
  7月19日 羽柴秀吉、上京。
  7月19日 武田元明、本能寺の変に加担したため自害。〔『日本史人物生没年表』〕
  7月21日 羽柴秀吉、山城国大山崎へ全5ヶ条の「条々」を下す。〔「離宮八幡宮文書」〕
  7月24日 羽柴秀吉、丹波国亀山に下向。〔「兼見卿記」〕
  7月25日 織田信孝、高木貞久へ天正9年時に織田信忠が安堵した新知を改めて安堵。〔「東高木文書」‐7〕
  7月26日 徳川家康、知久頼氏の本領を安堵。〔「知久文書」〕
  7月28日 羽柴秀吉、山城国東福寺へ預物の提出を命令。桑原貞也・毛利重政を派遣し預物を収公させる。〔「東福寺文書」四〕
  7月29日 織田信孝、美濃国法華寺へ安養院家屋敷など寺領を宛行う。〔「法華寺文書」‐3〕
  7月  日 織田信孝、美濃国阿願寺へ寺領を安堵。〔「阿願寺文書」‐10〕
  7月  日 織田信孝、美濃国瑞龍寺へ全5ヶ条の禁制を下す。〔「瑞龍寺文書」‐5〕
  7月  日 織田信孝、美濃国本巣郡へ渡船に関する全3ヶ条の掟書を下す。〔「馬淵文書」‐2〕

 8月
  8月 1日 織田信孝、美濃国吉田寺(新長谷寺)へ諸事を安堵。〔「新長谷寺文書」‐5〕
  8月 1日 小野寺輝道(「遠江守輝道」)、越前国の千福遠江守へ織田信長(「上様」)が武田領国の甲斐国・信濃国・駿河国を
       「取」り、「関東八州」も悉く織田信長「御掌握」に属したこと、さらには西国・中国地方も織田信長「御本意」となり
       毛利輝元(「森」)の安芸国も間も無く制圧される予定であることに触れ、織田信長(「上様」)への「御礼」の使者を早速
       派遣するべきであるが出羽国内での「乱劇」により遅延していることなどを通知。また「京都之御様体」を様々知りたい旨を
       通知。〔「千福文書」〕
  8月 3日 織田信孝、美濃国美江寺へ月成夫銭30貫文を従来の如く安堵。〔「美江寺文書」‐6〕
  8月 4日 丹羽長秀、吉川元春へ羽柴秀吉・毛利氏間の和親について、羽柴秀吉「内々同意」を伝達。〔「吉川家文書」@‐634〕
  8月 7日 羽柴秀吉(「筑前守秀吉」)、京都「目付」の桑原貞也(「桑原次右衛門」)を罷免。〔「立入宗継文書」‐20〕
  8月 8日 北条氏直、信濃国諏訪に駐屯していた酒井忠次らを駆逐し信濃国若神子に布陣。
  8月 9日 織田信雄、伏屋市兵衛尉へ先判(織田信忠宛行状)に任せ96貫文余の知行を宛行う。〔「伏屋文書」‐2〕
  8月10日 徳川家康、甲斐国新府に入る。
  8月12日 徳川軍の鳥居元忠・水野勝成、信濃国黒駒に於いて北条氏忠の率いる8000余の軍勢を撃退。
  8月13日 浅野長政・杉原家次、羽柴秀吉の命令により「京都奉行」に着任。〔『兼見卿記』〕
  8月16日 佐久間盛政、某へ能登国荒山に籠もる温井備前守・三宅備後守(畠山遺臣)らを攻略。〔『温故足徴』〕
  8月21日 武田親類衆・武田信玄近習衆・武田信玄直参衆ら、徳川家康へ忠誠を誓約する起請文を提出。〔『浜松御在城記』〕
  8月29日 前田利家、長連龍へ温井備前守・三宅備後守(畠山遺臣)らと合力した能登国石動山天平寺の寺領を全て没収し、新知として
       長連龍へ安堵。〔『長家記』〕

 9月
  9月13日 羽柴秀吉、大徳寺へ織田信長(「総見院殿」)葬礼にあたり、銭10000貫文、葬礼用に不動国行の太刀、葦毛の馬、
       梨地金覆輪で桐鳳凰入の鞍、梨地で桐鳳凰入の鎧を準備する。〔「大徳寺文書」@‐94〕
  9月14日?稲葉一鉄、加納悦右衛門へ芝原夜討での戦功を賞す。〔『美濃明細記』六〕
  9月17日 羽柴秀吉、杉原家次へ米100石を中村一氏に渡すよう命令。〔「足守木下家文書」‐38〕
  9月20日 羽柴秀吉(「秀吉」)、秋田愛季(「愛季公」)へ今度の「信長御不慮」の件とその前後の情勢を通知。
       羽柴秀吉は備中国高松城攻囲中に去6月2日の京都に於ける「信長御不慮之仕合」の注進を得たこと、6月5日に備中国高松城
       を攻略し毛利領国の備中国・備後国・美作国・伯耆国・出雲国を受け取り「誓紙」と「人質」提出の上で「和睦」したこと、
       6月7日に播磨国姫路城へ入城し、6月9日に「京都へ切上」り、6月12日に羽柴秀吉軍先鋒隊が山城国山崎にて明智軍と
       交戦、その後明智光秀(「明智日向守」)らを討ち取り「京都」に梟首したこと、また織田信忠(「城介殿」)の「御若子」を
       取り立てて織田「御分国中」は従来の通りに統治されることになったこと、尾張国には織田信雄(「三介殿」)が、美濃国には
       織田信孝(「三七殿」)が配置され、羽柴秀吉は山城国山崎で「居城」普請し「畿内静謐」とすることに触れ安心するよう通知。
       来年は「東国」へ進出する予定であることを通知。〔「秋田家文書」〕

10月
 10月 3日 羽柴秀吉(「平秀吉」)、従五位下に叙される。〔『公卿補任』、「足守木下家文書」‐1〕
 10月 3日 羽柴秀吉(「平秀吉」)、左近衛権少将に任じられる。〔『公卿補任』「足守木下家文書」‐2〕
 10月 6日 柴田勝家、堀秀政へ羽柴秀吉の専横を戒めるよう全5ヶ条の覚書を遣わす。〔「南行雑録」一〕
 10月 9日 正親町天皇、織田信長(「故右大臣正二位平朝臣信長」)へ太政大臣従一位を追贈。
       〔『古文書類纂』大徳寺ハ見院所蔵文書〕
 10月11日 大徳寺において故織田信長の追善供養始まる。〔『言経卿記』〕
 10月14日 廷臣等、大徳寺に故織田信長追善の写経を送付。〔『言経卿記』〕
 10月15日 羽柴秀吉、大徳寺において故織田信長の葬儀を執行。〔『兼見卿記』『言経卿記』『多聞院日記』〕
 10月15日 織田信孝、美濃国茜部神社へ社領を宛行う。〔「茜部神社文書」‐1〕
 10月17日 羽柴秀吉、大徳寺總見院へ故織田信長(「總見院殿贈大相国一品泰厳居士」)の位牌所建立のための寄進物を渡す。
       〔「總見院文書」〕
 10月18日 羽柴秀吉、織田信孝の家老である斎藤玄蕃允・岡本太郎左衛門へ信長葬儀執行後に織田信孝の書状に答え羽柴秀吉自身の立場
       を説明。〔「金井文書」〕
 10月20日 堀秀政(「羽柴久太郎」)、近江国神照寺へ寺領を安堵。〔「神照寺文書」〕
 10月23日 羽柴秀吉(「羽柴筑前守秀吉」)、京都紫野大徳寺へ「ハ見院殿御朱印」に任せて「如先々」く寺領・門前町を安堵す。
       〔「大徳寺文書」@‐96〕
 10月27日 一色昭秀、喜入季久へ播磨国上月城が落去し尼子勝久一類が切腹したことを通知。
       また肥州表へ島津義久が出馬し成果を上げたことを賞す。さらに足利義昭(「公儀」)への馳走を買って出る。
       〔「旧記雑録後編」@‐1298〕
 10月28日 井伊直政・木俣守勝、徳川・北条氏の講和交渉にあたる。
 10月29日 徳川・北条氏の講和が成立。

11月
 11月 2日 足利義昭、島津義久へ織田信長は「天命」によって「自滅」したことを通知し、これを契機に帰洛を意図して援助を促す。
       詳細は真木島昭光・一色昭秀に伝達させる。〔「島津家文書」@‐90、「旧記雑録後編」@‐1295〕
 11月 7日 近衛前久、三河国満性寺へ「偏執之者共」の「悪様ニ申成」により「牢籠」の身になっていること、織田信孝は入魂にして
       くれるとのことを通知。さらに三河国における宿舎の提供を要請。〔「参州岡崎領古文書」上〕
 11月12日 近衛前久、榊原康政へ「不慮之虚名共」により不遇な状態にある旨、「京都之体」は正体無く「内輪之申事共」であり、
       頼るべき者の分別が不可能であることを通知し、徳川家康への取り成しを依頼。詳細は倉玉主水佑に伝達させる。
       〔「龍禅寺文書」〕
 11月13日 近衛前久、三河国満性寺へ借宿の馳走を謝し、遠江国西来院に宿している旨を通知。〔「参州岡崎領古文書」上〕
 11月20日 上杉景勝、信濃国飯綱神社の千日次郎大夫へ宛てて社領を寄進。〔「信濃国飯綱神社文書」‐236〕
 11月22日 本願寺教如、北御方(本願寺如春:顕如室)へ本願寺顕如との和解に偽りの無い旨を誓う。〔「本願寺文書」一〕
 11月26日 近衛信輔、島津以久へ京都で発生した不慮の錯乱を通知。〔「旧記雑録後編」@‐712〕
 11月26日 近衛信輔、肝付兼盛(島津家臣)へ京都で発生した不慮の錯乱を通知。〔「旧記雑録後編」@‐713〕
 11月26日 近衛信輔、樺山善久へ京都で発生した不慮の錯乱を通知。〔「旧記雑録後編」@‐1245〕
 11月26日 近衛信輔、喜入季久へ京都で発生した不慮の錯乱を通知。〔「旧記雑録後編」@‐1246〕
 11月26日 近衛信輔、喜入久道へ京都で発生した不慮の錯乱を通知。〔「旧記雑録後編」@‐1247〕
 11月26日 近衛信輔、島津家久へ京都で発生した不慮の錯乱を通知。〔「旧記雑録後編」@‐1302〕
 11月26日 近衛信輔、新納忠元へ京都で発生した不慮の錯乱を通知。〔「旧記雑録後編」@‐1305〕
 11月27日 近衛前久、某(徳川家臣?)へ甲斐国新府へ出陣中の徳川家康帰陣の際には内々に懇意の旨を伝え、徳川家康と見参
       できるよう取り成しを依頼。〔「参州岡崎領古文書」上〕
 11月 晦日 足利義昭、島津氏へ「殿」文字赦免を行い、詳細を真木島昭光・一色昭秀に伝達させる。〔「島津家文書」A‐641〕
 11月 晦日 足利義昭、島津義久へ日向巣の大鷹献上を謝、返礼として鐙を送付。
       詳細は布施治部少輔・真木島昭光・一色昭秀に伝達させる。〔「旧記雑録後編」@‐1309〕
 11月  日 織田信雄、美濃国願生坊へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「願生坊文書」‐1〕
 11月  日 織田信孝、美濃国下河手福蔵坊へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「福蔵坊文書」‐1〕
 11月  日 織田信孝、伏屋市兵衛尉へ228貫文を宛行う。〔「伏屋文書」‐3〕

12月
 12月 3日 本願寺顕如、美濃国6ヶ所の坊主衆・門徒中へ法義・当流(本願寺)の掟の遵守を通達。〔「覺成寺文書」‐2〕
 12月 4日 土岐頼芸(美濃国守護)、没。〔『日本史人物生没年表』〕
 12月 9日 羽柴秀吉、柴田勝豊を近江国長浜城に攻撃し降伏させる。
 12月10日 小早川隆景、村上武吉(能島)へ宇和郡「御警固之儀」について指示を依頼。
       また羽柴秀吉と柴田勝家の和睦締結を通知。〔「村上文書」三〕
 12月12日 稲葉貞通、那波直治へ野田半介跡の「たいちん」を糾明し、年貢・米銭・小物成以下は従来と変わらぬ旨を通達。
       〔「大石氏蒐集文書」‐5〕
 12月12日 堀秀政、谷屋宗左衛門尉から美濃国西圓寺への高札要請を受け羽柴秀吉・丹羽長秀へ取り次ぎ、高札を調えた旨を通知。
       〔「西圓寺文書」‐7〕
 12月13日 大久保忠員、没。〔『日本史人物生没年表』〕
 12月20日 羽柴秀吉、織田信孝を美濃国岐阜城に攻撃し降伏させる。
 12月20日 羽柴秀長(「羽柴小一郎長秀」)、東寺へ「濃州一国平均」および「三介様」(織田信雄)と同心し「岐阜御一城」を収めた
       旨を報告。詳細は藤堂高虎に伝達させる。〔『古文書類纂』「教王護国寺文書」〕
 12月21日 織田信孝、美濃国崇福寺へ禁制判物を下す。〔「崇福寺文書」‐5〕
 12月22日 西野正次・各務元晴、美濃国武芸八幡神社へ寺および門前は従来の如くとする旨は森長可からの通達どおりであることを通知。
       〔「八幡神社文書」‐9〕
  12月28日 池田元助(伊丹城主)、摂津国有馬湯山薬師堂へ賽銭唐櫃を寄進。〔「余田文書」〕
 12月29日 羽柴秀吉、山城国山崎城に凱旋。
 12月  日 織田信雄、美濃国立政寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「立政寺文書」‐125〕
 12月  日 羽柴秀吉、美濃国善福寺千手堂へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「善福寺文書」‐3〕
 12月  日 羽柴秀吉・丹羽長秀、美濃国河手寺内へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「福蔵坊文書」‐2〕
 12月  日 丹羽長秀・羽柴秀吉、美濃国某村へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「山田文書」‐1〕
 12月  日 羽柴秀吉・丹羽長秀、美濃国江口寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「養教寺文書」‐2〕
 12月  日 丹羽長秀・羽柴秀吉、美濃国性顕寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「性顕寺文書」‐4〕
 12月  日 丹羽長秀・羽柴秀吉、美濃国神戸村へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「高橋宗太郎氏所蔵文書」‐2〕
 12月  日 羽柴秀勝(於次、織田信長4男)、美濃国立政寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「立政寺文書」‐124〕


    この年 石川忠総、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
        来島長親、伊予国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
        小早川秀秋、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
        水野忠清、三河国に誕生(異説1581年)。〔『日本史人物生没年表』〕


フロントページに戻る
目次に戻る
項目別文献・論文一覧へ