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天正10(1582)年 1月 1月 1日 禁裏に於いて「四はうはい」が執り行われる。 奉行・御剣は中山慶親(「中山のりちか」)・中山親綱。御簾は万里小路充房。御草鞋は中御門宣光。御装束は高倉永相。 「御まへ」は高倉永孝。脂燭は高倉永孝・五辻元仲・富小路秀直であった。 その後の「御うけとり」は大典侍殿(万里小路賢房女)・長橋局(量子:高倉永家女)で2献が振る舞われた。 朝餉は上搆芫ヌ(花山院家輔女)・長橋局(量子:高倉永家女)・伊与殿(舟橋教重女)。 誠仁親王(「みやの御かた」)・和仁親王(「わかみやの御かた」)が出席、やがて九文字が出された。御扇も出された。 「御こきいた」も誠仁親王・和仁親王・邦慶親王の分が出された。上搆芫ヌ(花山院家輔女)はこの日より「さしあい」で あった。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月 1日 禁裏「東庭」に於いて「四方拝」が執り行われる。「奉行職」は中山慶親が担当。 天明に及び正親町天皇の出御があり、御簾・御裾は万里小路充房が、御剣は中山慶親が、御草鞋は中御門宣光が、脂燭上人は 高倉永孝・五辻元仲・富小路秀直が担当した。「御後」に公家衆は祗候、次いで「男末」に於いて盃酌があった。 出席者は甘露寺経元・高倉永相・山科言経・庭田重通・中山親綱・烏丸光宣・日野輝資・広橋兼勝・五辻為仲・白川雅朝・ 高倉永孝・中山慶親・万里小路充房・中御門宣光・日野資勝・五辻元仲・富小路秀直であった。〔『言経卿記』一〕 1月 1日 近衛前久(「近衛殿」)、京都吉田神社へ参詣し即時還御す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月 1日 山科言経、正親町天皇(「禁中」)へ1荷両種を献上。〔『言経卿記』一〕 1月 1日 冷泉為満・四条隆昌、山科言経を訪問し談合す。〔『言経卿記』一〕 1月 1日 山科言経、冷泉為満・四条隆昌を同行し村井貞勝(「村井春長軒」)に年頭の礼問をし対面、50疋を進上。 村井光清(「村井将監」)・村井吉忠(「村井又兵衛尉」)・住田清右衛門尉ら村井家中衆へ20疋ずつ進上。 また、村井吉忠(「又兵」)の部下である飯尾久介と住田清右衛門尉(「清右」)の部下である喜七らへ扇子を1本ずつ進上。 〔『言経卿記』一〕 1月 1日 山科言経、九条兼孝(「九条殿」)へ年頭の礼問をする。 次いで日野輝資・竹内長治・六条有親・中御門宣光・大和宗恕・遣迎院を礼問す。〔『言経卿記』一〕 1月 1日 山科言経、自邸に於いて唐橋在通・伊勢三郎・朽木藤綱(「朽木刑部少輔」)・広橋兼勝家中の速水越中守の礼問を受ける。 〔『言経卿記』一〕 1月 1日 勧修寺晴豊、二条御所へ参内。「禁裏」より下された御樽・対物で酒宴が行われる。〔『晴豊記』〕 1月 1日 勧修寺晴豊、村井貞勝(「村井」)のもとへ100疋を持参す。 甘露寺経元・高倉永相・高倉永孝・中山孝親・中山親綱・万里小路充房・白川雅朝・富小路秀直が同行した。〔『晴豊記』〕 1月 1日 誠仁親王(「親王御方」)、和仁王(「若宮様」)へ「成御」す。〔『晴豊記』〕 1月 1日 織田信長、近江国安土城において諸大名の年始祝賀を受ける。〔「信長公記」〕 1月 1日 近江国安土城に於ける年頭参賀の際の祝儀は織田信長(「上様」)が「直ニ被仰出」れた「御諚」を遵守して大名・小名同様 に10疋宛を献上することになった。年頭参賀には織田信忠(「城介殿」)・北畠信雄(「勢州御茶箋様」:織田信雄)・ 神戸信孝(「三七郎殿」:織田信孝)・織田信澄(「七兵衛殿」)・織田信包(「上野殿」)・明智光秀(「惟任日向守」)・ 筒井順慶(「順慶」)・大和国衆・河内国衆・和泉国衆・摂津国衆、その他諸国衆へ同時に「御礼」が行われた。 〔『蓮成院記録』三〕 1月 1日 織田信長、近江国安土城に於いて諸国大名・小名より年頭参賀をうける。この春に出陣を控えているために無用の出費を 避けるために献上物は10疋ずつとし、参賀者はすべて「布衣」を着用した。〔『多聞院日記』三〕 1月 1日 織田信長、年頭参賀の際に筒井順慶(「順慶」)へ「御詞ヲ被懸」た。〔『蓮成院記録』三〕 1月 1日 松平家忠、遠江国牧野原城で越年す。〔『家忠日記』〕 1月 2日 山科言経、冷泉為満より例年の如く「餅鏡」と「錫」を受ける。〔『言経卿記』一〕 1月 2日 山科言経、吉田兼見(「吉田預」)より例年の如く「神供」を受ける。〔『言経卿記』一〕 1月 2日 冷泉為満、山科言経を礼問し「錫両種」を送る。〔『言経卿記』一〕 1月 2日 山科言経、自邸に於いて上田春教、医者の曲直瀬正紹(「玄朔」)、竹田伊与守、「城殿入道」、久河説会・久河与七郎、 長谷川次郎三郎の礼問を受ける。〔『言経卿記』一〕 1月 2日 勧修寺晴豊、「甘露寺父子」より「柳一荷」2色を贈呈される。〔『晴豊記』〕 1月 2日 勧修寺晴豊、二条御所へ参内。〔『晴豊記』〕 1月 2日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)・「大御乳人」・柳原淳光・山科言経への神供を使者を以て送付。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月 2日 村井貞勝(「むら井」)、禁裏へ美濃紙2帖を献上す。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月 3日 山科言経、村井貞勝(「春長軒」)より年頭祝儀の使者を受ける。〔『言経卿記』一〕 1月 3日 山科言経、自邸に於いて飛鳥井雅教・四辻公遠・持明院基孝・中山親綱・中山慶親・烏丸光宣・竹内長治・西洞院時慶・ 六条有親・「一安」・速水安芸守・立入隆佐・信濃兵部丞・「勢多判官」・多久宗・多忠頼・真継兵庫助・真継源大夫・ 川端道喜・中井宗茂・「狩野入道」・「辻子又佐」の礼問を受ける。〔『言経卿記』一〕 1月 3日 勧修寺晴豊、二条御所へ参内。二条昭実(「二条殿」)が勧修寺光豊を同行し二条御所へ参内。 この夜に「禁裏」に於いて酒宴あり。〔『晴豊記』〕 1月 3日 この夜、禁裏に今出川晴季・西洞院時慶が参内し、正親町天皇が対面した。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月 3日 吉田兼治、「指貫」の件で山科言経へ相談す。「仕立」について同心を得たので絹1端を持参したが、不足であった。 〔『兼見卿記』二(別本)〕 1月 3日 吉田兼治、「指貫」の件で山科言経へ「絹」等を携えて訪問。〔『兼見卿記』二〕 1月 4日 山科言経、自邸に於いて「関東衆」宗英蔵主と「御大工」半左衛門尉の礼問を受ける。〔『言経卿記』一〕 1月 4日 中御門宣光、「方違」のために山科言経邸を訪問。〔『言経卿記』一〕 1月 4日 山科言経、「方違」のために「上掾v家(花山院家輔女)の上田春教を訪問、「鶏鳴」の真似をする。〔『言経卿記』一〕 1月 4日 山科言経、禁裏「当番」を高倉永相へ「相伝」す。〔『言経卿記』一〕 1月 4日 勧修寺晴豊、二条御所の「御阿茶々」(勧修寺晴子)の御産所へ祗候。〔『晴豊記』〕 1月 4日 勧修寺晴豊、「節分方違」のために明智光秀(「あけち」)配下の井上某を訪問。〔『晴豊記』〕 1月 4日 勧修寺晴豊、備前国の宇喜多氏より銀10枚の「路銭」運上を受ける。〔『晴豊記』〕 1月 4日 吉田兼見、大和国唐院亀松より例年の祈念を依頼される。唐院亀松は去年元服し「兵大夫」という「官途」を名乗ったことを 知る。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月 4日 高倉永相・高倉永孝、夕方に禁裏へ参内。正親町天皇は禁裏御三間に於いて対面す。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月 4日 飛鳥井雅教・飛鳥井雅継、夜に禁裏へ参内し正親町天皇と対面す。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月 4日 織田信長、紀伊国の生地太郎左衛門・贄川治部丞(「熱川治部丞」)へ「高野面調略」にあたり松山新介の派遣を通達し出陣 を命令。〔『紀伊続風土記』九〕 1月 5日 万里小路充房、従四位上昇進の勅許を得る。甘露寺経元の執奏であった。 但しこの日は「御とく日」であったため1月6日付での勅許となった。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月 5日 長橋局(量子:高倉永家女)・伊与殿(舟橋教重女)、万里小路充房の昇進にあたり二条御所へ祗候。 〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月 5日 山科言経、自邸に於いて正親町季秀・丹波頼景(「丹咲軒」)・進藤長治(「進藤筑後守」)・半井瑞策(「通仙軒」)・ 半井瑞桂(「驢庵」)・竹田定加(「竹田法印」)・生島越中・「出納両人」・中原康雄・「内竪」・安倍盛厚・安倍盛勝・ 「御大工総官」中西入道の礼問を受ける。〔『言経卿記』一〕 1月 5日 勧修寺晴豊、二条御所「加番」のために参内。〔『晴豊記』〕 1月 5日 吉田兼見、この日に細川藤孝(「長岡兵部大輔」)が上洛し里村紹巴(「紹巴」)の連歌興行に参席したことを知る。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月 5日 吉田兼見、山城国愛宕郡高野の佐竹定実へ神供を送付。〔『兼見卿記』二〕 1月 5日 吉田兼見、大和国唐院亀松の使者へ御祓・五明2本・書状を預け返す。〔『兼見卿記』二〕 1月 5日 細川藤孝(「長岡兵部大輔」)、上洛す。里村紹巴(「紹巴」)の連歌興行に赴く。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月 6日 山科言経、塩冶実秀(「塩冶新左衛門尉」)へ「サケ緒」1筋を遣わす。〔『言経卿記』一〕 1月 6日 五条為名、「為良」と改名す。〔『言経卿記』一〕 1月 6日 織田信長(「のふなか」)、禁裏へ初鯨を献上。この献上された鯨肉は摂家・清華家の各家に分配された。 〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月 6日 織田信長(「前右府」)、「ハツ鯨」を正親町天皇へ献上。 村井貞勝(「春長軒」)が立入隆佐(「立入」)を介して山科言経に初鯨を届ける。 後刻に村井貞勝(「春長軒」)、正親町天皇(「禁中」)・誠仁親王(「御方御所様」)・「摂家」・「堂上中」へも初鯨を 届けるようにとの「目六」を山科言経に調えさせる。〔『言経卿記』一〕 1月 6日 四条隆昌、山科言経を訪問し談合。〔『言経卿記』一〕 1月 6日 山科言経、高倉永孝の所望により「補歴」を貸したところ、後刻に返還された。〔『言経卿記』一〕 1月 6日 山科言経、自邸に於いて庭田重通・勧修寺晴豊・万里小路充房・白川雅朝・松波左衛門大夫・津田正繁の礼問を受ける。 〔『言経卿記』一〕 1月 6日 勧修寺晴豊、二条御所へ参内。中山親綱・白川雅朝・万里小路充房が同行した。〔『晴豊記』〕 1月 6日 中山慶親(「中山頭中将」)、正五位下の勅許を得る。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月 6日 広橋総光(「ひろはし子」)、正五位下の勅許を得る。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月 6日 薄諸光(「すゝき」)、正五位下の勅許を得る。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月 6日 烏丸光宣、禁裏へ参内し正親町天皇と対面す。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月 6日 誠仁親王・和仁親王、この夜に禁裏へ御成。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月 6日 誠仁親王(「親王御方」)、禁裏(「上」)へ御成。勧修寺晴豊、随行す。〔『晴豊記』〕 1月 6日 大和国興福寺別会五師釈迦院寛尊、近江国安土城に於ける年頭参賀の際の祝儀は織田信長(「上様」)が「直ニ被仰出」れた 「御諚」を遵守して大名・小名同様に10疋宛を献上することになったこと、年頭参賀には織田信忠(「城介殿」)・ 北畠信雄(「勢州御茶箋様」:織田信雄)・神戸信孝(「三七郎殿」:織田信孝)・織田信澄(「七兵衛殿」)・ 織田信包(「上野殿」)・明智光秀(「惟任日向守」)・筒井順慶(「順慶」)・大和国衆・河内国衆・和泉国衆・摂津国衆、 その他諸国衆へ同時に「御礼」が行われたこと、織田信長が年頭参賀の際に筒井順慶(「順慶」)へ「御詞ヲ被懸」たことを 知る。〔『蓮成院記録』三〕 1月 6日 大和国興福寺別会五師釈迦院寛尊、「或人物語」により旧冬(天正9年冬)に織田信澄(「小田七兵衛殿」)が大和国拝領を 直訴したところ、織田信長(「上様」)より「大和ハ神国ニテ往代ヨリ在子細」というので「無用之訴訟旨御気色」であった ため重ねての懇願を止めたことを知る。〔『蓮成院記録』三〕 1月 7日 誠仁親王・和仁親王、禁裏へ参内。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月 7日 山科言経、自邸に於いて壬生朝芳(「官務」)・渡辺又七の礼問を受ける。〔『言経卿記』一〕 1月 7日 山科言経、冷泉為満を同行し村井貞勝(「春長軒」)を訪問。 織田信長(「前右府」)より贈られた「ハツ鯨」の礼の為の訪問であった。〔『言経卿記』一〕 1月 7日 勧修寺晴豊、「行幸之用意」として「馬くら」を拵え、正親町天皇(「禁裏」)へ献上。〔『晴豊記』〕 1月 7日 勧修寺晴豊、誠仁親王(「御方御所」)より「御はんせん」の命を受け「御はん」を拝領す。〔『晴豊記』〕 1月 7日 水無瀬親具、禁裏へ参内し酒を献上。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月 7日 吉田兼見、大炊御門経頼より酒肴を、吉田兼治は「鯨波」2斤を賜わる。この鯨肉は織田信長(「信長」)より「公家衆」へ 遣わされたもので、村井貞勝(「村井」)が公家衆に配ったものであった。吉田兼見は使者と対面し、吉田神社へはこの鯨肉は 配られず、大炊御門経頼に与えられたものを分与されたものだという旨を聞く。吉田兼見は使者へ盃を与えて返した。 〔『兼見卿記』二(別本)〕 1月 7日 吉田兼見、吉田兼治へ「鯨波」が配られなかったのは「遠路之間」という理由であったことを日記に書き添える。 〔『兼見卿記』二〕 1月 7日 吉田兼見、後刻に大炊御門経頼へ返礼の使者を派遣。また勧修寺晴豊・吉田牧庵へ神供を送る。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月 7日 誠仁親王・和仁親王、この夜再び禁裏に参内す。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月 7日 二条昭実、この夜に禁裏へ参内し禁裏御三間に於いて正親町天皇と対面す。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月 7日 九条兼孝・鷹司信房、この夜に禁裏へ参内し禁裏几帳所に於いて正親町天皇と対面す。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月 7日 多聞院英俊、近江国安土城に於いて諸大名・小名が10疋ずつ献上し年頭礼参が行われたこと、また参席者はこの春に出陣 するというので「布衣」を着用した礼参であったことを知る。〔『多聞院日記』三〕 1月 7日 多聞院英俊、昨日1月6日の大和国郡山に於ける年頭祝儀も全て「布衣」着用であったことを知る。〔『多聞院日記』三〕 1月 7日 明智光秀、近江国坂本城に於いて茶会を開催。山上宗二と津田宗及を招待す。〔『宗及他会記』〕 1月 7日 松平家忠、遠江国牧野原城の定番を戸田氏と交替す。〔『家忠日記』〕 1月 8日 聖護院道澄、禁裏へ祗候し正親町天皇と対面す。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月 8日 五辻元仲、去天正9年12月13日に「勅きよ」を得ていた従五位上への昇進が「勅許」される。 〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月 8日 理性院(「りしやうゐん」)、禁裏「小御所」に祗候。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月 8日 山科言経、持明院基孝より依頼され子息(持明院基久)の「名字」選考を行う。〔『言経卿記』一〕 1月 8日 山科言経、庭田重保・勧修寺晴豊・中山親綱・五辻為仲・飛鳥井雅継へ年頭の礼問を行う。〔『言経卿記』一〕 1月 8日 山科言経、自邸に於いて毘沙門堂公厳・四辻季満・大和宗恕・速水左衛門大夫・安楽光院の礼問を受ける。 〔『言経卿記』一〕 1月 8日 勧修寺晴豊、「しやうこうゐん殿」への「内参」命令を伝達。〔『晴豊記』〕 1月 8日 勧修寺晴豊、「妙法院殿」(常胤法親王)の参内を申次ぐ。〔『晴豊記』〕 1月 8日 細川藤孝(「長岡兵部大輔」)・細川忠興(「与一郎」)、近江国坂本城へ急行する途中に吉田兼見を礼問し対面す。 〔『兼見卿記』二(別本)〕 1月 8日 細川藤孝(「長岡兵部大輔」)・細川忠興(「与一郎」)、早々に吉田兼見を訪問。 細川藤孝(「長兵」)父子はこの後直接近江国坂本城に下向。 吉田兼見と細川藤孝は「上洛之砌可来之由」を「約諾」す。〔『兼見卿記』二〕 1月 9日 曇華院殿(聖秀女王:正親町天皇妹)、禁裏へ祗候。禁裏「つねの御所」にて酒席が催された。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月 9日 柳原淳光・日野輝資、禁裏に祗候し正親町天皇と対面す。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月 9日 山科言経、徳大寺公維・四辻公遠・正親町季秀・高倉範国・甘露寺経元・烏丸光宣・広橋兼勝・毘沙門堂公厳・万里小路充房 白川雅朝・富小路秀直・伊勢貞興(「伊勢守」)・半井驢庵・「一安」・里村紹巴・里村昌叱へ年頭の礼問を行う。 〔『言経卿記』一〕 1月 9日 山科言経、自邸に於いて高倉永相・高倉永孝・東坊城盛長・五条為良の礼問を受ける。〔『言経卿記』一〕 1月 9日 山科言経、禁裏「当番」に祗候。「相番」は白川雅朝・高倉範国、「外様衆」は庭田重通・東坊城盛長であった。 〔『言経卿記』一〕 1月 9日 勧修寺晴豊、巳刻より二条御所へ参内。〔『晴豊記』〕 1月 9日 大和国興福寺の寛舜、大和国興福寺大乗院門跡が近江国安土城へ出仕する用意として上京し、資金を調達。 〔『多聞院日記』三〕 1月10日 正親町天皇、誠仁親王(「宮の御かた」)へ来1月14日の御会始用の硯・文題を贈る。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月10日 禁裏に於いて上搆芫ヌ(花山院家輔女)を介して大和国興福寺大乗院尋円(「大せうゐんとの」)より献上された「かちん」 が披露される。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月10日 近衛前久(「こんゑとの」)、禁裏へ酒肴を献上。禁裏「御みま」にて正親町天皇と対面し、酒席が催された。 正親町天皇の「御はいせん」として三条西公国、「御てなか」として中山親綱、近衛前久(「こんゑとの」)の「御はいせん」 は白川雅朝であった。参席者は高倉永孝・「やふ大納言」・烏丸光宣・五辻為仲・白川雅朝・中山親綱・久我季通・西園寺実益 竹田定珪・六条有親であった。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月10日 「りしやうゐんとの」、禁裏へ贈物を献上。禁裏「つねの御所」に於いて「おやこ御さか月一こん」があった。 〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月10日 禁裏へ「御むろ」(任助法親王)より「文」が届けられる。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月10日 山科言経、上京の「風呂」へ入浴。その後、大宮町を徘徊す。〔『言経卿記』一〕 1月10日 山科言経、葉室頼宣の礼問を受け、酒を振る舞う。〔『言経卿記』一〕 1月10日 勧修寺晴豊、明日の一条内基(「関白時一条殿」)への「内参」命令を伝達。 二条御所に於いては勧修寺晴豊が申次ぎ、「禁裏」に於いては烏丸光宣が申次ぐことになった。〔『晴豊記』〕 1月10日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)と大炊御門経頼へ酒肴を送付。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月10日 多聞院英俊、大和国興福寺大乗院門跡へ祗候。まもなく大和国郡山城へ教浄が派遣された。〔『多聞院日記』三〕 1月10日 四条隆昌、入夜に山科言経を訪問し談合す。〔『言経卿記』一〕 1月10日 織田信長、大島光義(「大島新八郎」)へ近江国南郡小野500石を扶助。〔『記録御用所本古文書』二〕 1月10日 細川藤孝(「長岡兵部大輔」)、近江国坂本城より上洛する途上で吉田兼見を訪問。夕食を共にし、そのまま宿泊す。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月11日 大典侍殿(万里小路賢房女)・「こんすけとの」・伊与殿(舟橋教重女)、禁裏「ないし所」に祗候。 〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月11日 上搆芫ヌ(花山院家輔女)、「きおんまいり」を行い、それから二条御所(「二条の御所」)へ祗候。 その後、九条兼孝(「九条との」)を訪問し禁裏へ戻る。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月11日 長橋局(量子:高倉永家女)、禁裏へ「御こわ」供御を献上。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月11日 「ひめみやの御かた」の「御いみあけ」により、禁裏へ鳥子紙1折・「御ひら」・御樽2荷が献上された。 〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月11日 「ひめ宮」の「御いミあけ」となる。内々衆10人計が二条御所へ召集、勧修寺晴豊家中は皆参内した。 「禁裏」へ御樽・鳥子紙25枚を献上。〔『晴豊記』〕 1月11日 一条内基(「一条の関白」)、禁裏へ祗候。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月11日 禁裏へ吉田兼見・醍醐寺三宝院義演・三千院宮最胤法親王が酒肴を献上。 「みなみな御るす」であったので正親町天皇は「あすのよし」を通達した。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月11日 大典侍殿(万里小路賢房女)・伊与殿(舟橋教重女)、禁裏へ「御りやうまいり」御土産の「御くま」などを献上。 〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月11日 高倉永相、禁裏へ「しゆく一ふた」を献上。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月11日 飛鳥井雅継(「ちやちや丸」)、禁裏へ「あめ」を献上。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月11日 山科言経、吉田兼見・吉田兼治の礼問を受ける。〔『言経卿記』一〕 1月11日 山科言経、冷泉為満を礼問す。〔『言経卿記』一〕 1月11日 勧修寺晴豊、「なかハし殿御局」へ祗候。 勧修寺晴豊(「晴豊」)に対し紀伊国雑賀の本願寺顕如(「本くわん寺」)の使者で近江国安土に派遣された 下間仲之(「下間少進」)より通知が届く。〔『晴豊記』〕 1月11日 吉田兼見、細川藤孝(「長兵」)を同行し万里小路充房邸で衣冠を着し「禁裏」へ参内し正親町天皇と対面、御礼を上奏す。 申次は万里小路充房であった。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月11日 吉田兼見、誠仁親王(「御方御所」)の二条御所(「下御所」)に直垂を着して参内し対面の後に盃を賜わる。 万里小路充房が「申次」であった(「上之御所」と同前であった)。〔『兼見卿記』二(別本)〕 1月11日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を礼問し進物を献ず。近衛前久との対面の後に盃を賜わる。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月11日 吉田兼見、村井貞勝(「春長軒」)を礼問し進物を献ず。「奏者」は村井清三(「清三」)であった。 村井貞勝(「春長軒」)と対面した後に少しばかり酒を賜わった。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月11日 吉田兼見、村井貞成(「村井作右衛門尉」)を礼問、進物を献じ対面す。「奏者」は磯辺遁斎(「遁斎」)であった。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月11日 吉田兼見、曇華院殿(聖秀女王:正親町天皇妹)を礼問し、その後に帰宅す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月11日 吉田兼見、吉田牧庵からの書状を受ける。その内容は明朝に細川藤孝(「長兵」)を「茶湯」に招請するので、同行の上での 到来を依頼するものであった。吉田兼見は了承した旨の返事を送る。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月11日 筒井順慶(「順慶」)、例年はこの日に大和国春日大社に年頭社参していたが、この年は病気により年頭社参を延引する。 〔『多聞院日記』三〕 1月12日 正親町天皇、「やふ少将」の「中将中納言」昇進を勅許す。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月12日 勧修寺晴豊、長橋局(量子:高倉永家女)を介して久我季通の「大納言」昇進の件を申請、正親町天皇より「御心えのよし」 を得る。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月12日 邦房親王(「伏見殿」)、禁裏へ祗候し酒肴を献上。禁裏「つねの御所」にて酒席が催される。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月12日 「岡殿」(大慈光院:覚音女王)、禁裏へ祗候し酒肴を献上。禁裏「つねの御所」にて酒席が催される。 〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月12日 「入江との」、禁裏へ酒肴を献上。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月12日 曇華院殿(聖秀女王:正親町天皇妹)、禁裏へ「とちのかちんなかき一」を献上。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月12日 「三ゐとの」、禁裏へ「あめ」・「せんへい」を献上。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月12日 山科言経、渡辺又七より「平家物語」巻二を借用する。〔『言経卿記』一〕 1月12日 持明院基孝、山科言経を訪問し「夫木」和歌集1巻・2巻を借用す。〔『言経卿記』一〕 1月12日 「北向」(山科言経室)・山科言緒(「阿茶丸」)、村井貞勝(「春長軒」)へ年頭の礼問のために赴く。 〔『言経卿記』一〕 1月12日 勧修寺晴豊、夕方に忌み明けした二条御所を見舞う。〔『晴豊記』〕 1月12日 近衛信尹(「近衛殿御方」)、大和国奈良(「南都」)へ下向する。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月12日 吉田兼見、細川藤孝(「長兵」)・細川忠興(「与一郎」)・横浜良慶(「一庵」)を同行し吉田牧庵の茶席に参席。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月12日 吉田兼見は細川藤孝(「長兵」)・吉田牧庵へ近衛信尹(「近衛殿御方」)を礼問する旨を告げ茶会後に近衛前久を礼問する も近衛信尹は大和国奈良(「南都」)へ下向していた。〔『兼見卿記』二(別本)〕 1月12日 吉田兼見、吉田牧庵邸に於ける茶席後に細川藤孝へ昨日の挨拶回りで近衛前久(「殿下」)をはじめ礼問できなかった所々を 廻る旨を告げて席を立った。〔『兼見卿記』二〕 1月12日 吉田兼見、近衛前久(「殿下」)を礼問するも、近衛信尹(「御方御所」)は大和国奈良(「南都」)へ下向していた。 〔『兼見卿記』二〕 1月12日 吉田兼見、一条内基(「一条殿」)を礼問す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月12日 吉田兼見、二条昭実(「二条殿」)を礼問す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月12日 吉田兼見、大炊御門経頼を礼問し、門外に於いて対面。この後に自邸に帰す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月12日 吉田兼見、誠仁親王(「親王御方」)の「御使」として来訪した万里小路充房より、来1月14日の「御歌之御会初」に祗候 するようにとのことであったが、来1月15日に吉田神社の社役があるため前日の1月14日より参勤する旨を申し入れた。 万里小路充房は再度吉田邸に到来し誠仁親王からの「兼和次第」という返答を伝達。吉田兼見は「忝之由」を申し入れた。 〔『兼見卿記』二(別本)〕 1月12日 吉田兼見、誠仁親王(「親王御方」)の使者として到来した万里小路充房より来1月14日に二条御所の「御歌之御会」に 祗候すべき旨を通達される。 これに対して吉田兼見、万里小路充房へ来1月14日・15日は吉田神社の神事により「此儀不成私」という行事なのでどうで あろうかという旨を上奏してもらう。 万里小路充房は誠仁親王へこの旨を上奏し、再度吉田兼見のもとに到来し「不苦之由」と「可然様任置」という誠仁親王の回答 を伝達。〔『兼見卿記』二〕 1月13日 長橋局(量子:高倉永家女)、この日より「御さしあい」であった。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月13日 山科言経、早朝に上御霊社に参詣す。〔『言経卿記』一〕 1月13日 山科言経、富小路秀直の訪問を受けて来たる1月18日の「三毬打」の通達について談合す。〔『言経卿記』一〕 1月13日 古市宗超、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 1月13日 山科言経、入夜に冷泉為満を訪問。〔『言経卿記』一〕 1月13日 勧修寺晴豊、この晩の中山邸での晩食相伴を伝達するために夕方勧修寺尹豊(「入道殿」)を訪問。 白川雅朝・五辻為仲・五辻元仲・庭田重通・大炊御門経頼へも参席を通達した。〔『晴豊記』〕 1月13日 勧修寺晴豊、夕方に「禁裏当番」のために参内。 勧修寺晴豊、正親町天皇より「大たか」を二条御所へ送るよう命令を受ける。〔『晴豊記』〕 1月13日 細川藤孝(「長兵」)・細川忠興(「与一郎」)・松井康之(「松井新介」)、山崎へ下向す。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月13日 細川藤孝(「長兵」)、京都山崎へ下向しそのまま丹波国へ帰国する。〔『兼見卿記』二〕 1月13日 吉田兼見、細川藤孝(「長兵」)が京都山崎へ下向し、そのまま丹波国へ帰国する旨を知る。〔『兼見卿記』二〕 1月13日 吉田兼見、先に細川忠興(「与一郎」)の礼問を受けて、未だ在京しているというので京都宿所を訪問するも、この時既に 細川藤孝(「長兵」)と細川忠興は既に山崎へ下向してしまっていた。そこで松井康之(「松井」)は未だ在京しているという ことを知ったので訪問したところ、細川藤孝(「長兵」)・細川忠興(「与一郎」)に供奉し山崎へ下向したことを知る。 そこで吉田兼見は松井康之母に贈物を預ける。〔『兼見卿記』二〕 1月13日 吉田兼見、出京し細川藤孝(「長兵」)の旅宿を訪問するも細川藤孝・細川忠興(「与一郎」)・松井康之(「松井新介」) は京都山崎へ下向したというので細川忠興母に進物を献ず。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月13日 吉田兼見、万里小路充房を訪問。四辻季満・白川雅朝が到来しており暫く談合した。晩に及び帰宅す。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月13日 大和国興福寺大乗院門跡、日中に近江国安土城へ出仕するために大和国奈良を発す。〔『多聞院日記』三〕 1月14日 誠仁親王(「宮の御かた」)の二条御所に於いて「御くわいはしめ」が行われる。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月14日 二条御所に於いて「御会始」が行われる。〔『晴豊記』〕 1月14日 山科言経、京都山科大宅郷より例年の如く「三毬打」用の竹280本を調達。〔『言経卿記』一〕 1月14日 「七宮御方」(誠仁親王第七皇子)、山科言経邸に渡御す。〔『言経卿記』一〕 1月14日 山科言経、正親町天皇(「禁中」)へ「三毬打」用の竹10本を献上。 長橋局(「勾当内侍とのゝ御局へ」:高倉永家女)へ披露を依頼。〔『言経卿記』一〕 1月14日 山科言経、禁裏「当番」に祗候。「相番」は白川雅朝、「外様」は四条隆昌であった。〔『言経卿記』一〕 1月14日 勧修寺晴豊、早天に乗馬し二条御所へ参内。昼の「御会はしめ」には誠仁親王(「親王御所」)・「若宮様」・「聖護院殿」 飛鳥井雅教・飛鳥井雅敦・「四辻父子」・大炊御門経頼・「久我大納言」・高倉永相・「水無瀬父子」・「持明院」・庭田重通 勧修寺晴豊・広橋兼勝・「坊城」「五辻父子」・竹内某・富小路秀直(「極掾v)・「中山父子」・橘以継らであった。 〔『晴豊記』〕 1月14日 吉田兼見、「若御局」(誠仁親王妃:勧修寺晴子)へ「貝アフヒ」30個を献上す。〔『兼見卿記』二〕 1月15日 誠仁親王(「宮の御かた」)・和仁親王(「わかみやの御かた」)、この夜に禁裏へ祗候。酒席が催され、その後に恒例の 「御さきつちやう」が行われた。勧修寺晴豊より竹3本が献上された。「御きつしよ」は「きよく郎」が取り次いだ。 誠仁親王(「宮の御かた」)・和仁親王(「わかみやの御かた」)もこの年は「御きつしよ」を出した。 〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月15日 山科言経、自邸に於いて例年の如く「三毬打」を執り行う。〔『言経卿記』一〕 1月15日 山科言経、四条隆昌の所望により「大学」を貸す。〔『言経卿記』一〕 1月15日 山科言経、冷泉為満を訪問。〔『言経卿記』一〕 1月15日 勧修寺晴豊、二条御所へ戻り「御番」の任務に就く。ここで「さきちやう」の進上を受けて、誠仁親王に披露す。 また勧修寺晴豊、長橋局(「なかハし殿御局」)へ祗候す。〔『晴豊記』〕 1月15日 吉田兼見、近衛信尹母へ神供を送付。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月15日 吉田兼見、飛鳥井雅敦へ神供を送付。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月15日 吉田兼見、舟橋枝賢(「清三位」)へ神供を送付。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月15日 暮れに十五日御祝の参内あり。 「天酌ニ被参輩」は四辻公遠・甘露寺経元・水無瀬兼成・持明院基孝・山科言経・庭田重通・勧修寺晴豊・中山親綱・広橋兼勝 五辻為仲・「鶴寿丸」・万里小路充房・白川雅朝・中山慶親・小倉季藤・薄諸光・水無瀬氏成・五辻元仲であった。 次いで禁裏「東庭」に於いて例年の如く「三毬打」が催された。 山科言経は竹10本、勧修寺晴豊は竹3本を進上、富小路秀直が直に参勤した。〔『言経卿記』一〕 1月15日 勧修寺晴豊、二条御所「加番」のため昼に参内。 誠仁親王(「親王御方」)は禁裏(「上」)へ御成。勧修寺晴豊、随行す。〔『晴豊記』〕 1月15日 近江国安土に於いて「竹爆」・「御馬汰」が行われる。〔『兼見卿記』二(別本)〕 1月16日 正親町天皇、禁裏「小御所」にて円福寺長老・聖信法親王(「くはんしゆ寺の宮」)・淨花院松林院宗順・「ろさん寺」長老 二尊院西堂・若王子・本圀寺上人を謁見す。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月16日 曲直瀬道三(「たうさん」)、禁裏へ祗候し杉原紙10帖・「ゑんれいたん」2貝を献上。中山親綱が申し次いだ。 禁裏「御かくもん所」にて正親町天皇と対面す。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月16日 この夜、禁裏に於いて「御いわゐ」の酒席が催された。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月16日 北野「しんまんゐん」、禁裏へ「としとしの御くわんしゆ」・「くもしのおけ」を献上。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月16日 長橋局(量子:高倉永家女)、禁裏へ「あめ」1包を献上。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月16日 誠仁親王(「宮の御かた」)の「御ちの人」、禁裏へ串柿2串を献上。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月16日 大典侍殿(万里小路賢房女)、禁裏へ「おこし」・「まめあめ」を献上。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月16日 水無瀬兼成・水無瀬氏成父子、山科言経を礼問す。〔『言経卿記』一〕 1月16日 村井吉忠(「村井又兵衛尉」)・住田清右衛門尉、山科言経を年頭祝儀として20疋を携え礼問す。〔『言経卿記』一〕 1月16日 京都誓願寺長老、正親町天皇(「禁中」)へ年頭祝儀の礼問を行う。禁裏「儀定所」に於いて正親町天皇と対面した。 申次は山科言経が担当した。次いで長橋局(量子:高倉永家女)へ祗候。〔『言経卿記』一〕 1月16日 山科言経、山科言緒(「阿茶丸」)を同行し二条御所(「下御所」)を見物。二条御所「外様番所」にて飛鳥井雅教の振舞を 受ける。〔『言経卿記』一〕 1月16日 勧修寺晴豊、中山邸を「とき」(伽)のために訪問。〔『晴豊記』〕 1月16日 吉田兼見、近衛信尹(「近衛殿御方」)へ御祓を送付。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月16日 吉田兼見、二条昭実(「二条殿」)へ御祓を送付。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月16日 吉田兼見、細川昭元(「細川右京兆」「細川右京亮」)へ御祓を送付。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月16日 大和国興福寺大乗院門跡、仁王経による御修法祈祷を行うため近江国安土城へ出仕す。〔『多聞院日記』三〕 1月16日 松平家忠の長男(後の松平忠利)、誕生す。〔『家忠日記』〕 1月17日 「むらさきのこくし」、禁裏「たうちう」にて御礼を上奏。勧修寺晴豊の申次により祗候し、正親町天皇と対面す。 〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月17日 青蓮院尊朝法親王、来1月19日の「御くわいはしめ」の歌を誠仁親王(「宮の御かた」)、次いで禁裏の叡覧に謁す。 〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月17日 禁裏「みなみ」庭に於いて明日の「さきつちやう」の準備が行われる。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月17日 誠仁親王(「宮の御かた」)の「御ちの人」、禁裏へ「うすまん一ふた」を献上。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月17日 正親町天皇、来1月19日の「御くわいはしめ」の「御くわいし」を準備する。〔『お湯殿の上の日記』七〕 1月17日 山科言経、「下御所当番」に祗候。 「相番」は四辻季満、「加番」は持明院基孝、「外様」は日野輝資・西洞院時慶・五辻元仲であった。「聯句」および「和漢」 連句が詠まれた。〔『言経卿記』一〕 1月17日 山科言経、水無瀬兼成を礼問す。〔『言経卿記』一〕 1月17日 京都紫野大徳寺「ちやうろう当しゆ」より「禅師号」の執奏があり、村井新右衛門「ちそう」で禅師号下賜が調えられる。 〔『晴豊記』〕 1月17日 京都紫野大徳寺「ちやうろう当しゆ」への「禅師号」下賜について、「書出」であった中山親綱(「頭中将」「中山」)が この夜中に「はんたい」の意見を上奏するため祗候。〔『晴豊記』〕 1月17日 吉田兼見、佐竹出雲守の来訪を受ける。〔『兼見卿記』二〕 1月17日 吉田兼見、飛鳥井雅教より贈物を携えた使者の来訪を受ける。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月17日 吉田兼見、佐竹定実(「明智出羽守」)・佐竹左近允(佐竹定実舎弟)の来訪を受ける。暮れに帰宅した。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月18日 吉田兼見、この朝に禁裏へ「竹爆」を献上す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月18日 山科言経、山科言緒(「阿茶丸」)を同行し「禁中三毬打」を見物に参内す。 「被参之衆」は甘露寺経元・持明院基孝・山科言経・庭田重通・勧修寺晴豊・中山親綱・日野輝資・広橋兼勝・五辻為仲・ 勧修寺光豊・庭田重定・山科言緒・高倉永相息・万里小路充房・白川雅朝・中山慶親・高倉永孝・四辻季満・日野資勝・ 富小路秀直であった。〔『言経卿記』一〕 1月18日 勧修寺晴豊、「さきちやう」のために参内す。〔『晴豊記』〕 1月18日 山科言経、富小路秀直を同行し冷泉為満を訪問。富小路秀直とは「三毬打」の散状について談合し、山科言経は意見を申し 聞かせた。〔『言経卿記』一〕 1月18日 山科言経、四条隆昌より「大学」を返還される。〔『言経卿記』一〕 1月18日 鞍馬寺戒光坊、山科言経の留守中に山科邸を訪れ「牛玉札」・巻数・山椒の皮・炭などを進上。〔『言経卿記』一〕 1月18日 山科言経、住田清右衛門尉の家中である喜七と小者の沢路福千世に20疋ずつ遣わす。去年の梅津の未進催促の旨を含めた。 〔『言経卿記』一〕 1月18日 吉田兼見、勧修寺晴豊からの使者の来訪を受ける。 その趣旨は高倉永孝(「藤右衛門佐」)が吉田兼見「当官」の右衛門「督」を望んでいるので「辞退」を所望しているとのこと であった。吉田兼見はこれを「予存分如何、中々迷惑也」としながらも談合に応じる旨を返答す。〔『兼見卿記』二(別本)〕 1月18日 吉田兼見、勧修寺晴豊からの使者の来訪を受ける。 その趣旨は高倉永孝(「藤右衛門佐」)が吉田兼見「当官」の「右衛門督」を所望しているので、勧修寺晴豊「存分」により 吉田兼見を「左兵衛督」とするとのことであった。吉田兼見、勧修寺晴豊からの使者へ「自当官下官也、迷惑之由」を伝えた ところ、使者は「最之由令承伏」て帰った。〔『兼見卿記』二〕 1月18日 大和国興福寺大乗院門跡、近江国安土城より大和国奈良へ帰還す。織田信長は「一段御機嫌」であったという。 〔『多聞院日記』三〕 1月19日 「禁裏」に於いて「御会始」が行われる。勧修寺晴豊、禁裏へ祗候す。〔『晴豊記』〕 1月19日 勧修寺晴豊、明日に紀伊国「雑賀」(本願寺顕如が滞在)より使者が到来することを知る。〔『晴豊記』〕 1月19日 四条隆昌、暮れに山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 1月20日 山科言経、庭田重通の所望により指貫を貸す。〔『言経卿記』一〕 1月20日 山科言経、冷泉為満より冷泉家の20日祝言に招待される。〔『言経卿記』一〕 1月20日 紀伊国雑賀に滞在する本願寺顕如からの使者である八木駿河守が朝廷を年頭礼問す。 しかし、正親町天皇の見参は長橋局の「ふあんない」により無かったので、下御所へ参上す。〔『晴豊記』〕 1月20日 吉田兼見、明智光秀(「惟任日向守」)を近江国坂本城に礼問す。 明智光秀には「小天主」に於いて対面し、「茶湯」や夕食で振る舞われた。「種々雑談」し、明智光秀は「機嫌」であった。 「奏者」は佐竹定実(「出羽守」)の弟の佐竹弥吉(「出羽守弟弥吉」)であった。吉田兼見、晩に及び上洛す。 〔『兼見卿記』二(別本)〕 1月20日 吉田兼見、明智光秀(「日向守」)を近江国坂本城に礼問す。 吉田兼見は明智光秀と対面、近江国坂本城「小天主」に於いて「茶湯」・夕食が催され、そして種々の雑談をした。 明智光秀は「一段機嫌也」という状態であった。「奏者」は佐竹弥吉(「弥吉」)であった。吉田兼見、晩に及び上洛した。 〔『兼見卿記』二〕 1月21日 庭田重通、山科言経へ指貫を返還す。〔『言経卿記』一〕 1月21日 山科言経、山科言緒(「阿茶丸」)を同行し、昨夜の「霊夢」により愛染明王の革堂へ参詣。〔『言経卿記』一〕 1月21日 山科言経、入夜に冷泉為満を訪問。〔『言経卿記』一〕 1月21日 勧修寺晴豊、本願寺顕如からの使者「雑賀衆」を「茶ノ易」に誘うが、「名所見物」をするというので実現せず。 〔『晴豊記』〕 1月21日 「大津衆」、「公事論」の件で山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 1月21日 吉田兼見、近江国安土より帰還した鈴鹿久左衛門尉より去1月15日に安土に於いて行われた「竹爆」・「御馬汰」を見物 した様子を聞く。馬数は200頭ばかり、「竹爆」は15本、「金之扇」は20から30本ほど、「紅帯一幡」を10あるいは 20筋を懸けていたという。「焼亡」の時に「御馬ヲ左右へ乗懸」け、あるいは「懸足已下乗之」となり、その様子は 「見事さ無比類義」であったという。近衛前久(「近衛殿」)も「御馬汰之御人数」として近江国安土に下向したという。 吉田兼見はこれを「希有之儀」と評す。〔『兼見卿記』二(別本)〕 1月21日 吉田兼見、近江国安土より帰還した鈴鹿久左衛門より去1月15日に安土に於いて「御馬汰」・「竹爆」を見物した様子を 聞く。馬数は200騎ばかり、「竹爆」は15本、「金之扇」10から20本、「紅帯一幡」は10あるいは20筋を懸けて いたという。また近衛前久(「近衛殿」)の下向も知る。〔『兼見卿記』二〕 1月22日 「大津衆」粟津屋、「公事論」の件で山科言経を訪問し談合す。 山科言経、後刻に「公事論」の件で村井吉忠(「村井又兵衛」)・村井光清(「村井将監」)へ使者を派遣した。 〔『言経卿記』一〕 1月22日 山科言経、吉田兼見の来訪を受けて「官位」の件を談合す。また所望により「書札礼節」を貸す。〔『言経卿記』一〕 1月22日 下間仲之(「下間少進」)からの使者、勧修寺晴豊を訪問す。 この時、織田信長(「安土前右府」)が「事外気色能」くて上洛す。 織田信長・勧修寺晴豊の間で下間仲之(法橋)を「法印」に執奏することが談議され、勧修寺晴豊が二条御所、ついで「禁裏」 へとこの旨を上奏した。〔『晴豊記』〕 1月22日 吉田兼見、相国寺南豊軒周超を礼問し対面す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月22日 吉田兼見、吉田浄勝(「盛方院」)を礼問し対面す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月22日 吉田兼見、近衛邸を礼問し近衛信尹(「近衛殿御方」)と対面、暫く雑談す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月22日 吉田兼見、吉田牧庵を訪問す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月22日 松平家忠の長男(後の松平忠利)、竹谷清善より「お猿」と名付けられる。〔『家忠日記』〕 1月23日 山科言経、北野社へ参詣。〔『言経卿記』一〕 1月23日 紀伊国「雑賀物共」(本願寺顕如からの使者)、京都より下向す。〔『晴豊記』〕 1月23日 紀伊国雑賀にて織田信長(「信長」)の援助を受けた鈴木重秀(「孫一」)が「土橋」某を討つ。〔『晴豊記』〕 1月23日 「禁裏」より二条御所へ「つる」2羽が下賜される。〔『晴豊記』〕 1月23日 大和国興福寺「寺門」、織田信長(「上様」)へ年頭礼状・大油煙100挺・巻数1合を送付。 また矢部家定(「矢善」)・森成利(「森御乱」)・堀秀政(「堀久」)・長谷川秀一(「長竹」)へは200疋宛、 楠長諳(「式部卿法印」)・一雲斎針阿弥(「針阿ミ」)に100疋宛、明智光秀(「惟日」)へ500疋、藤田伝五へ 100疋が送られた。〔『蓮成院記録』三〕 1月23日 勧修寺晴豊、この夜に二条御所の「御うたい」に参席す。〔『晴豊記』〕 1月23日 吉田兼見、家族と共に山城国愛宕郡高野の佐竹定実(「羽州」)を訪問。「夕食丁寧」という振舞を受け「終日相談」し、 暮れに及び帰宅す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月24日 山科言経、冷泉為満邸の饗応に赴く。〔『言経卿記』一〕 1月24日 山科言経、禁裏「当番」に祗候。「相番」は甘露寺経元・白川雅朝、「外様」は四条隆昌であった。〔『言経卿記』一〕 1月24日 勧修寺晴豊、四辻公遠・甘露寺経元・白川雅朝・富小路秀直と夜中まで酒宴、各自「沈酔」する。〔『晴豊記』〕 1月24日 二条御所より村井貞勝(「村井」)へ「つる」1羽が下賜される。〔『晴豊記』〕 1月24日 吉田兼見、二条御所(「二条御所」)の「御番」に祗候す。「和漢御会」が催されて、丑刻に終了した。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月25日 織田信長、伊勢国大宮司の河辺常長らへ伊勢大神宮造営の執行の件で御師の上部貞永(「上部大夫」)に平井久右衛門尉を 添えて派遣することを通達。〔「松木文書」一〕 1月25日 吉田兼見、早旦に二条御所を退出す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月25日 山科言経、白川雅朝女中へ「平家」物語2巻の「カナ書」にしたものを送付。 織田信長(「前右府」)の妾である「御ナヘ」(小倉氏)からの要求によるものであった。〔『言経卿記』一〕 1月25日 勧修寺晴豊、「梅津ほうせいたうちやうろう」からの献上物を「禁裏申次」として披露す。〔『晴豊記』〕 1月25日 勧修寺晴豊、二条御所「加番」として祗候。村井貞勝(「村井」)より「つる」下賜の返礼が届けられる〔『晴豊記』〕 1月25日 吉田兼見、舟橋枝賢(「清三位」「清三品」)の来訪を受けて「終日相談」す。舟橋枝賢はその後に帰京した。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月26日 堀秀政(「堀久太郎秀政」)、伊勢大神宮大宮司の河辺常長らへ「御遷宮」執行の件で織田信長「御朱印」が発給され、 「御使」として平井久右衛門尉が派遣されるので入念に相談し、適宜適切に奔走することを通達。 また伊勢大神宮御師の上部貞永(「上部殿」)へもこの旨を通達する。〔『外宮天正遷宮記』〕 1月26日 吉田兼見、村井貞勝(「春長軒」)を訪問し、来1月28日に織田信長(「信長」)が上洛する予定であることを知る。 この時に村井貞勝(「春長」)は「取紛」であったので、吉田兼見は間もなく帰宅す。〔『兼見卿記』二(別本)〕 1月26日 吉田兼見、村井貞勝(「春長軒」)を訪問。村井貞勝は来1月28日に織田信長(「前右府」)が上洛するというので 「以外取乱」していた。〔『兼見卿記』二〕 1月26日 勧修寺晴豊、村井貞勝(「村井」)より高倉永相(「藤中納言」)を同行しての来訪を要請されるが、乗馬した勧修寺晴豊 1人が村井貞勝を訪問。用件は「新すけ殿」の件を正親町天皇(「禁裏」)へ「御参」がかなうよう計らう談合であった。 この要望に対して勧修寺晴豊は「中々成間敷」とその場で返答す。〔『晴豊記』〕 1月26日 山科言経、越前国の姉(松尾兵部少輔の妻)へ頂妙寺の前「山伏」を介して音信を発する。〔『言経卿記』一〕 1月27日 山科言経、「下御所当番」に祗候。 「相番」は水無瀬親具、「加番」は持明院基孝、「外様」は高倉永相・日野輝資・西洞院時慶であった。 入夜に水無瀬親具の旅宿へ持明院基孝・山科言経・日野輝資が赴いた。「漢和連句」8句が詠まれた。〔『言経卿記』一〕 1月27日 二条御所に於いて「長恨歌」の講釈が行われる。講師は水無瀬重通(「水無瀬中納言」)であった。〔『晴豊記』〕 1月28日 「関白」であった一条内基(「一条殿」)が「大酔」す。〔『晴豊記』〕 1月28日 「北向」(山科言経室)・山科言緒(「阿茶丸」)、村井貞勝(「春長軒」)を訪問し「赤貝」10個を進上した。 〔『言経卿記』一〕 1月28日 吉田兼見、織田信長(「信長」)が上洛を延引したことを知る。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月28日 多聞院英俊、この日織田信長(「信長」)が在京するという「内々沙汰」を聞いていたが延引したことを知る。 〔『多聞院日記』三〕 1月29日 吉田兼見、山科言経へ「書札礼節」を返還。〔『言経卿記』一〕 1月29日 山科言経、「大津公事篇」について村井吉忠(「村井又兵衛」)へ問い合わせたところ、大略は落着したというので 下粟津屋与三左衛門尉と「大津衆」2人が礼のために山科邸を到来した。〔『言経卿記』一〕 1月29日 山科言経、禁裏「当番」に祗候。「相番」は甘露寺経元・白川雅朝、「外様」は東坊城盛長であった。 先ず禁裏「台所」に於いて甘露寺経元が持参した「錫」で酒席が催された。〔『言経卿記』一〕 1月29日 勧修寺晴豊、二条御所「当番」であった。またこの日、「こゆミ」の件で織田信長(「安土」)より「種々」があり、 この年の12月に「主」(閏月)を入れることを要請してきた。勧修寺晴豊はこれを「せんさく」であると評す。 〔『晴豊記』〕 1月29日 吉田兼見、「下御所御番」に祗候。「御番之すき」に近衛邸を訪問し近衛信尹(「近衛殿御方」)と数刻雑談、夕食を相伴。 〔『兼見卿記』二(別本)〕 1月29日 吉田兼見、二条御所「当番」に祗候。〔『兼見卿記』二〕 1月29日 吉田兼見、近衛邸を訪問し、近衛信尹(「御方御所」)と数刻雑談す。〔『兼見卿記』二〕 1月29日 「七宮御方」(誠仁親王第七皇子)・「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、入夜に山科言経邸に渡御す。〔『言経卿記』一〕 1月30日 吉田兼見、早々に二条御所を退出す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月30日 山科言経、春日社御師中務少輔時家の来訪を受け、「官位」の件で談合す。〔『言経卿記』一〕 1月30日 勧修寺晴豊、二条御所「加番」として参内。〔『晴豊記』〕 1月30日 吉田兼見、吉田牧庵より子息の稙蔵主の病気平癒祈念の依頼を受ける。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 1月 日 織田信孝、美濃国曽我屋の長願寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「超宗寺文書」‐1〕 2月 2月 1日 山科言経、遣迎院の所望により「暦数」を貸す。〔『言経卿記』一〕 2月 1日 山科言経、正親町天皇(「禁中」)へ1荷両種を献上。〔『言経卿記』一〕 2月 1日 勧修寺晴豊、「心相煩」のため外出せず。但し「禁裏」の「御盃」には参席す。〔『晴豊記』〕 2月 2日 織田信長、朝廷へ「つる」を5羽献上す。〔『晴豊記』〕 2月 2日 柳原淳光、数度にわたり山科言経を招喚す。〔『言経卿記』一〕 2月 2日 山科言経、所労のために渋っていたが数度の招喚により柳原淳光を訪問。「春日祭上卿」の件での談合であった。 〔『言経卿記』一〕 2月 2日 山科言経、柳原淳光邸からの帰途、冷泉為満を訪問。〔『言経卿記』一〕 2月 2日 「七宮御方」(誠仁親王第七皇子)・「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、これまで山科言経邸に逗留していたが、この入夜 に冷泉為満邸へ戻る。〔『言経卿記』一〕 2月 2日 山科言経、中山親綱からの触状により「下御所内々番闕改」の旨を知る。〔『言経卿記』一〕 2月 2日 山科言経、この入夜に冷泉為満より送られた錫1樽を受ける。〔『言経卿記』一〕 2月 2日 武田勝頼、織田信長に内応した木曽義昌を討伐するため信濃国諏訪上原まで出陣。 2月 3日 織田信長、美濃国岐阜城の織田信忠(「城介殿」)へ以前指示した費用(「要脚」)3000貫を伊勢大神宮御師の 上部貞永(「上部大夫」)と平井久右衛門尉へ送付することを通達。〔『外宮天正遷宮記』〕 2月 3日 織田信長、甲斐国討伐の進路を決定。 2月 3日 土御門久脩(「土御門治部大夫」)、近江国安土より上洛、織田信長より「こゆミ」の件でこの年に閏12月を入れるか どうかとの意見が出されたことを上申す。〔『晴豊記』〕 2月 3日 近衛前久(「近衛殿」)、この夜に近江国安土より上洛す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 2月 3日 近衛前久(「近衛殿」)、高倉永相(「藤中納言」)・勧修寺晴豊・中山親綱・広橋兼勝を召集す。 「こゆミ」の件が近江国安土に於いて「種々」取り沙汰され、織田信長より「一書」にて朝廷へ「申入」れられたことを談合。 〔『晴豊記』〕 2月 3日 誠仁親王(「御方御所」)、村井貞勝(「村井」)へ「匂ひかい」10個を下賜。勧修寺晴豊は「御使」として「菓子もち」 を進上した。〔『晴豊記』〕 2月 3日 山科言経、山科言緒(「阿茶丸」)を同行し「東柳馬場」を見物す。〔『言経卿記』一〕 2月 3日 山科言経、冷泉為満を訪問。茶席が設けられた。〔『言経卿記』一〕 2月 3日 「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、薄暮に山科言経邸へ渡御す。〔『言経卿記』一〕 2月 3日 山科言経、「七宮御方」(誠仁親王第七皇子)へ保童円200粒を進上す。〔『言経卿記』一〕 2月 3日 松平家忠、酒井忠次より近日中に遠江国・駿河国国境の城普請の命令を受ける。〔『家忠日記』〕 2月 4日 吉田兼見、「下御所御番」は「早々之請取」というので祗候。〔『兼見卿記』二(別本)〕 2月 4日 吉田兼見、二条御所「当番請取」のため、朝に薄諸光へ斎後に出仕する旨を通知。〔『兼見卿記』二〕 2月 4日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問し「御雑談」す。 この内容は「当年閏月」の件で、「濃尾之暦者」である「唱門師」賀茂在政と京都より下向した土御門久脩が近江国安土に 於いて「糺決」をおこなったが「双方不治定」という結果であった。この結果により近衛前久(「近衛殿」)が京都の 「暦仕者」を招集し糾明するようにということが織田信長(「信長」)より通達された。その糾明は来2月7日に実施される ということであった。近衛信尹(「近衛殿御方」)と聖護院道澄(「聖護院殿」)がこの談合に加わった。 〔『兼見卿記』二(別本)〕 2月 4日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問、対面し「御雑談」す。 この内容は美濃国の「当年之暦」では「十二月閏月」であるが、土御門久脩は「無閏月」というので、近江国安土に於いて 「糺決」があったが「未究之間」であったので、近衛前久は織田信長(「右府信長」)より京都に於いて再度「糺勘」すること を命じられ、「勘暦者」7名を招集するという。近衛信尹(「御方御所」)と聖護院道澄(「聖護院殿」)が談合に加わった。 〔『兼見卿記』二〕 2月 4日 吉田兼見、近衛邸を退出す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 2月 4日 吉田兼見、村井貞勝(「春長軒」)を礼問、即時対面す。小将碁を行った。〔『兼見卿記』二(別本)〕 2月 4日 吉田兼見、村井貞勝(「春長軒」)を礼問、即時面会す。「有暦之沙汰」と将碁があり、暫く談合した。〔『兼見卿記』二〕 2月 4日 吉田兼見、「御使」の招喚を受けて再度近衛前久(「近衛殿」)を訪問。 近衛邸には高倉永相・中山親綱・勧修寺晴豊・広橋兼勝が到来し、この度織田信長(「信長」)より贈られた馬を見物。 織田信長は近衛信尹(「近衛殿御方」)へも馬を贈っていた。〔『兼見卿記』二(別本)〕 2月 4日 吉田兼見、再度近衛前久(「近衛殿」)を訪問。 近衛邸「御馬場」に於いて近衛前久が調馬(「被責御馬」)し、高倉永相・中山親綱・勧修寺晴豊・広橋兼勝・ 聖護院道澄(「聖門」)・近衛信尹(「御方御所」)が見物した。近衛前久が調馬した馬はこの度織田信長(「右府信長」) より贈呈されたものであり、近衛信尹(「御方御所」)へも同様に馬が贈呈されたという。〔『兼見卿記』二〕 2月 4日 誠仁親王(「親王御方」)、禁裏(「上御所」)へ御成す。〔『兼見卿記』二(別本)〕 2月 4日 吉田兼見、「御番」であったので二条御所へ祗候。〔『兼見卿記』二(別本)〕 2月 4日 吉田兼見、二条御所「殿中」に祗候。誠仁親王「御留守之御所」であった。吉田兼見、二条御所「相番」衆と談合した。 〔『兼見卿記』二〕 2月 4日 この入夜吉田兼見、二条御所「内々之御番衆」であった五辻為仲・水無瀬兼成が相談。「音曲」4・5番を張行された。 また談合は深更にまで及んだ。〔『兼見卿記』二(別本)〕 2月 4日 この入夜、二条御所に於いて「音曲」5番が張行され、水無瀬兼成・五辻為仲と二条御所「当番衆」が深更に及ぶまで談合。 〔『兼見卿記』二〕 2月 4日 近衛前久(「近衛殿」)と「こゆミ」の件の「御使」として高倉永相(「藤中」)・中山親綱・広橋・勧修寺晴豊が 村井貞勝(「村井」)を訪問。村井貞勝(「村井」)邸に於いて曲直瀬玄朔(「道三けんさく」)が「さんたん」するが、 どうしても「主」(閏月)が無いという結果であったので近江国安土へ下向させたところ、夜中に帰ってきた。〔『晴豊記』〕 2月 4日 紀伊国高野山金剛峰寺惣分沙汰所の一摶V、大和国千手院西山坊・二見密蔵院へ織田信長(「信長様」)の「御意」として 松山新介(「松新」)が大和国伊都郡に到来し、多和城を構築して九度山方面に毎日毎夜攻撃を仕掛けてくることに対し、軍勢 を向けて全滅させることで衆議一決したので両人を「先手之大将」として奮戦することを指示。〔「二見文書」〕 2月 4日 四条隆昌、この朝に山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 2月 4日 山科言経、入夜に冷泉為満を訪問。〔『言経卿記』一〕 2月 5日 吉田兼見、早々に二条御所を退出す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 2月 5日 勧修寺晴豊は「こゆミのさんたん」について奔走し、賀茂家・土御門家共に「主」(閏月)は無いという返答を得る。 勧修寺晴豊、近衛前久(「近衛殿」)を訪問し、その後に村井貞勝(「村井」)邸を訪問。曲直瀬玄朔(「道三けんさく」)も 賀茂在政(「在政」)・土御門久脩(「久脩」)の天正十年の十二月には「閏」月が無いという意見であった。これが「御使」 として高倉永相(「藤中」)・中山親綱(「中山」)・広橋兼勝(「広橋」)・勧修寺晴豊(「余」)が得た結果であった。 〔『晴豊記』〕 2月 5日 「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、朝食に山科言経・山科言緒(「阿茶丸」)・冷泉為満・四条隆昌らを招待す。 〔『言経卿記』一〕 2月 5日 山科言経、「初午」により稲荷社へ参詣。〔『言経卿記』一〕 2月 5日 山科言経、「七宮御方」(誠仁親王第七皇子)へ「ツホ」・「土器」を贈呈。〔『言経卿記』一〕 2月 5日 山科言経、遣迎院より「暦数」を返還される。〔『言経卿記』一〕 2月 5日 日野輝資、暮れに山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 2月 5日 山科言経、暮れに再び「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)邸を訪問す。〔『言経卿記』一〕 2月 5日 「松権」(筒井順慶被官)、暮れに及び大和国興福寺へ到来。大和国興福寺一乗院「慈恩会」の件で「摩尼」と談合した。 〔『多聞院日記』三〕 2月 5日 松平家忠、酒井忠次より木曽義昌の寝返りにより近日中に織田信長の出陣があるので、出陣準備を命令される。 〔『家忠日記』〕 2月 6日 織田信忠の先鋒軍、甲斐国武田氏への攻撃を開始。 2月 6日 勧修寺晴豊、去る1月23日に紀伊国雑賀に於いて鈴木重秀(「孫一」)が織田信長(「信長」)の後援を受けて「土橋」某 を打倒したこと、本願寺顕如(「門跡」)の警固として野々村正成(「野々村三十郎」)が派遣されたことを知る。 また談合により、庭田重保(「庭田」)が見舞として袖岡長住(「袖岡」)を派遣することを上奏し、 「両御所」(正親町天皇と誠仁親王)から「女房文」が発給された。〔『晴豊記』〕 2月 6日 古市宗超、山科言経を訪問し談合す。〔『言経卿記』一〕 2月 6日 山科言経、白川雅朝・冷泉為満を訪問す。〔『言経卿記』一〕 2月 6日 四条隆昌、入夜に山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 2月 6日 吉田兼見、「兼約」により佐竹定実(「佐竹羽州」)の「茶湯」に赴く。「丁寧之興行」であった。吉田兼見は晩に帰宅す。 〔『兼見卿記』二(別本)〕 2月 6日 吉田兼見、「招請」により佐竹定実(「佐羽州」)の「茶湯」に赴く。「丁寧之馳走」であった。吉田兼見は晩に帰宅す。 〔『兼見卿記』二〕 2月 6日 「松権」(筒井順慶被官)、筒井順慶(「順慶」)の使者としてこの晩に大和国興福寺大乗院門跡を訪問。 談合により大和国興福寺一乗院「慈恩会」を来月執行することが決定した。〔『多聞院日記』三〕 2月 6日 大和国興福寺、大和国郡山城普請の見舞を送付。〔『蓮成院記録』三〕 2月 7日 高倉永相(「藤中」)、「御使」として村井貞勝(「村井」)を訪問。村井貞勝(「村井」)より織田信長(「信長」)が 「しなの国を半分」制圧したことを知らされ、高倉永相は「珍重候」と祝意を述べた。〔『晴豊記』〕 2月 7日 山科言経、「下御所当番」に祗候。「相番」は白川雅朝であったが「被籠」(物忌?)れているというので祗候せず。 「加番」は高倉永孝、「外様衆」は高倉永相・日野輝資・西洞院時慶・五辻元仲であった。〔『言経卿記』一〕 2月 7日 曲直瀬道三(「道三」)、誠仁親王(「親王御方」)へ「古今」を申し入れ、御礼として花瓶2つを進上。〔『晴豊記』〕 2月 8日 柳原淳光、山科言経を招喚す。〔『言経卿記』一〕 2月 8日 山科言経、柳原淳光の招喚により訪問。富小路秀直との談合についての相談であった。〔『言経卿記』一〕 2月 8日 山科言経、木屋薬師堂へ参詣。〔『言経卿記』一〕 2月 8日 紀伊国雑賀へ袖岡長住(「袖岡」)が「見まい」として下向。〔『晴豊記』〕 2月 8日 勧修寺晴豊、女房衆と共に「竹内殿」(曼殊院覚恕)を訪問す。〔『晴豊記』〕 2月 9日 織田信長、武田勝頼討伐のために全11ヶ条の「条々」を発す。〔池田家文庫本『信長記』〕 2月 9日 羽柴秀吉(「秀吉」)、太田資正(「太田美濃入道」)へ織田信長(「信長」)への内応希望を諒承し、「五畿内」の件は 言うに及ばず「中国」方面および「四国」方面までも制圧したので、「上辺」に於ける「御用」を取り次ぐ旨を通達。 詳細は宝林坊に伝達させる。〔「太田文書」〕 2月 9日 山科言経、「大津衆」の来訪を受けて談合す。〔『言経卿記』一〕 2月 9日 山科言経、持明院基孝より「夫木」和歌集1・2巻と「楽譜」を返還される。 また盤渉調小楽10ばかりの書写を所望され料紙を送付。〔『言経卿記』一〕 2月 9日 山科言経、冷泉為満の所望により「辰砂」を貸す。〔『言経卿記』一〕 2月 9日 山科言経、「下御所番衆所」を訪問し吉田兼見と相談す。「中臣祓最要」と「中臣祓」を伝授される。〔『言経卿記』一〕 2月 9日 山科言経、徳大寺公維を訪問するも留守であった。〔『言経卿記』一〕 2月 9日 山科言経、禁裏「当番」に祗候。「相番」は甘露寺経元・白川雅朝、「外様」は東坊城盛長(「式部大輔」)であった。 〔『言経卿記』一〕 2月 9日 吉田兼見、「二条御所御番」に祗候。〔『兼見卿記』二(別本)〕 2月 9日 吉田兼見、二条御所「御番」に祗候。〔『兼見卿記』二〕 2月10日 「七宮御方」(誠仁親王第七皇子)・「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、この早朝に冷泉家へ帰宅。〔『言経卿記』一〕 2月10日 白川雅朝、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 2月10日 勧修寺晴豊、村井貞勝(「村井」)の意を受けた立入隆佐(「立佐」)より「辻ノおほい」を出すよう指示を受ける。 〔『晴豊記』〕 2月11日 山科言経、四辻季満が所労というので見舞のため訪問。「大験」であったので対面した。〔『言経卿記』一〕 2月11日 山科言経、頤正軒増春を同行し高倉永孝を訪問。「聯句」が詠まれた。〔『言経卿記』一〕 2月11日 勧修寺晴豊、中山親綱の代理として「二条之御番」のために祗候。〔『晴豊記』〕 2月11日 庭田重保邸に盗人が入る。村井貞勝(「村井」)配下の「はんとり六兵衛」の手の者であった。〔『晴豊記』〕 2月11日 筒井順慶(「順慶」)、大和国春日大社に社参す。社頭に於いて「宝生」の代理者による能が興行された。 〔『多聞院日記』三〕 2月12日 織田信忠・滝川一益、美濃国岐阜城を出陣。 2月12日 山科言経、秋田久大夫(葉室頼宣の侍)の到来を受け、所望により愛洲薬を送る。〔『言経卿記』一〕 2月12日 「北向」(山科言経室)・山科言緒(「阿茶丸」)、入夜に冷泉為満を訪問。〔『言経卿記』一〕 2月12日 庭田邸への「ぬす人」の「せんさく」が行われる。〔『晴豊記』〕 2月12日 松平家忠、酒井忠次より近日中に駿河国に出陣するよう命令を受ける。〔『家忠日記』〕 2月12日 松平家忠、石川数正より来2月16日に遠江国浜松城に出陣するよう命令される。〔『家忠日記』〕 2月13日 山科言経、柳原淳光を訪問。その後に冷泉為満を訪問。〔『言経卿記』一〕 2月13日 山科言経、柳原淳光より所望された「春日祭次第」を貸す。また柳原淳光所有本を借用し、後刻に返還した。 〔『言経卿記』一〕 2月13日 勧修寺晴豊、「安楽光院しゆんせう」より来たる2月14日に来訪の連絡を受ける。勧修寺尹豊(「入道殿」)・庭田重保・ 白川雅朝への伝達も依頼された。勧修寺晴豊、広橋兼勝の代理として「二条宿番」に祗候。〔『晴豊記』〕 2月14日 織田信忠・滝川一益、木曽峠を越えて信濃国伊那郡岩村に侵入。 2月14日 小笠原信嶺(信濃国松尾城主)、織田信長への恭順を申し入れる。〔『信長公記』〕 2月14日 大和国千手院西山坊・二見密蔵院、辰刻に織田軍の大和国伊都郡多和城山手へ総攻撃を仕掛け、三好新丞らを討ち取る。 〔「二見文書」〕 2月14日 大和国千手院西山坊・二見密蔵院、午刻に織田軍の「東之城」に総攻撃を仕掛けて損害を与える。〔「二見文書」〕 2月14日 山科言経、柳原淳光の招喚を受けて訪問。「渡辺党系図」の件での質疑であった。山科言経、帰宅し渡辺党系図を書き送る。 〔『言経卿記』一〕 2月14日 吉田兼見、二条御所「御番」に祗候。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 2月14日 この夜、「若宮さま」の「御煩」あり。暁に「若宮様」の「御煩下参」った。この夜は「天あかく」、「雪ことことしき」 状態であった。〔『晴豊記』〕 2月14日 和仁親王(「若宮御方」)、この夜に俄かに「御不例」となる。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 2月14日 薄諸光、丑刻に和仁親王(「若宮御方」)の「御不例」により二条御所「御殿」の「清祓」を行う。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 2月14日 吉田兼見、和仁親王(「若宮御方」)の病気平癒のための「御加持」を行う。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 2月14日 竹田定加(「竹田」)、和仁親王(「若宮御方」)の病気平癒にあたり二条御所へ招喚される。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 2月15日 織田信長(「信長」)、織田信忠に従って東国へ出陣し国境の難所を突破した滝川一益(「滝川左近」)からの注進に応え、 織田信長側は出陣に備えているので時期を見計い発足日限を上申する旨、また若い織田信忠(「城介」)を制御する旨を指示。 もし失敗したならば織田信長の面前への参上は許可しない旨を通達。〔「建勲神社文書」〕 2月15日 吉田兼見、早々に二条御所へ祗候し和仁親王(「若宮御方」)の病気平癒「御加持」を行う。 また定輔親王(「二宮」)も「御不例」というので同様に「加持」を行った。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 2月15日 曲直瀬正紹(「道三子玄朔」)、二条御所へ祗候し和仁親王・定輔親王へ「御薬」を進上す。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 2月15日 吉田兼見、「御加持」を終了し二条御所を退出す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 2月15日 吉田兼見、晩に吉田兼治を二条御所に祗候させ和仁親王(「若宮御方」)を見舞わせる。対面があり、明日にまた参内して 「御加持」することを命令された。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 2月15日 「若宮様」の病状が回復。〔『晴豊記』〕 2月15日 山科言経、入夜に冷泉為満を訪問。〔『言経卿記』一〕 2月15日 勧修寺晴豊、「若宮様」を見舞い「二条御番」を申し出る。〔『晴豊記』〕 2月15日 吉田兼見、晩に及び吉田兼治を二条御所への見舞に祗候させる。吉田兼治は和仁親王(「若宮」)と対面して帰宅す。 〔『兼見卿記』二(別本)〕 2月16日 織田信忠・滝川一益、信濃国鳥居峠へ進軍。 2月16日 松平家忠、「かち衆」・「夫丸」を先発させる。〔『家忠日記』〕 2月16日 紀伊国高野山金剛峰寺沙汰所の一摶V、対織田軍の先手大将として奮戦した大和国二見密蔵院へその戦功を賞し、褒美として 「珠鑓」を遣わす。〔「二見文書」〕 2月16日 吉田兼見、暮れに及び二条御所へ祗候し和仁親王の病気平癒「御加持」を行う。和仁親王の病状は快復した。 〔『兼見卿記』二(別本)〕 2月16日 吉田兼見、暮れに及び二条御所へ祗候し和仁親王の病気平癒「御加持」を行った。〔『兼見卿記』二〕 2月16日 「五の宮」・「ひめ宮」、「若宮様」病気により勧修寺晴豊邸へ「御なり」する。この夜に「方違」が行われた。 〔『晴豊記』〕 2月17日 織田信忠、信濃国飯島に在陣。 2月17日 松平家忠、遠江国浜松城に到着、武田側が遠江国小山今城を放棄した旨を知る。〔『家忠日記』〕 2月17日 山科言経、「下御所当番」に祗候。「相番」は白川雅朝、「加番」は勧修寺晴豊、「外様」は高倉永相であった。 〔『言経卿記』一〕 2月17日 勧修寺晴豊、高倉永孝(「藤右衛門督」)の代理として二条御所「御番」に祗候。〔『晴豊記』〕 2月17日 吉田兼見、和仁親王の病気平癒「御加持」のため二条御所へ祗候。和仁親王は「弥御本服」となり、吉田兼見は安堵した。 〔『兼見卿記』二(別本)〕 2月17日 吉田兼見、和仁親王の病気平癒「御加持」のために二条御所へ祗候。 和仁親王は「御煩疱瘡御験気」となり、吉田兼見は入夜に帰宅。〔『兼見卿記』二〕 2月17日 多聞院英俊、去2月14日に京都三十三間堂が焼亡したという風聞に接する。実際にはこの雑説は「ウソ」であった。 〔『多聞院日記』三〕 2月18日 勧修寺晴豊、二条御所より禁裏へ祗候。紀伊国雑賀より使者が到来し、八木駿河守と「寺内たくミ」より100疋、「北方」 より綿3把などを預かる。返礼が即時発せられた。〔『晴豊記』〕 2月18日 織田信長(「信長」)、紀伊国雑賀へ「朱印」を発す。〔『晴豊記』〕 2月18日 山科言経、冷泉為満を同行し京都清水寺へ参詣。「清水茶屋」と「祇園茶屋」にて冷泉為満より振る舞われ、山科言経は 「沈酔」す。〔『言経卿記』一〕 2月18日 山科言経、毘沙門堂公厳の所望により「拾芥抄」上巻を貸す。〔『言経卿記』一〕 2月18日 吉田兼治、和仁親王の見舞のために二条御所へ祗候。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 2月18日 古市宗超、入夜に山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 2月18日 勧修寺晴豊、この朝「五ツの時分」に「ちしんゆる」ということを二条御所で知る。〔『晴豊記』〕 2月18日 徳川家康、遠江国掛川城に着陣。 2月18日 松平家忠、遠江国浜松城を出陣。〔『家忠日記』〕 2月19日 「春日祭」が行われる。 烏丸光康が「上卿」であったが、病気のため柳原資定に変更となるも吉田兼見が言うには「当月さんしよ」という理由で辞退。 烏丸光康の要望で正親町実彦が「上卿」となった。〔『晴豊記』〕 2月19日 吉田兼見、二条御所「御番」に祗候。和仁親王(「若宮御方」)・定輔親王(「二宮御方」)の病状も「御本服」となった事 を知る。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 2月19日 「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、暮れに山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 2月19日 この入夜、誠仁親王は二条御所「内々」へ大炊御門経頼・六条有親・富小路秀直・吉田兼見を召し、 「御局」・「御あちやちやの御局」(誠仁親王妃:勧修寺晴子)を介して酒を下す。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 2月19日 誠仁親王、吉田兼見へ近衛前久(「近衛殿」)への「御使」を命じられる。この度の和仁親王(「若宮御方」)の病気に 対する度々の見舞使者派遣を謝すものであった。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 2月19日 吉田兼見、近衛信尹(「近衛殿御方」)へ「天度御祓」を進上す。「春日祭」の看経のための所望であった。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 2月19日 古市宗超、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 2月19日 山科言経、「春日祭」の上卿を正親町季秀が担当したことを知る。〔『言経卿記』一〕 2月20日 吉田兼見、二条御所を早々に退出。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 2月20日 勧修寺晴豊、「二条之御番」に祗候。〔『晴豊記』〕 2月20日 勧修寺晴豊、村井貞勝(「村井」)邸へ「わたほうし」3つを持参。村井貞勝は明日近江国安土城へ下向することを知る。 〔『晴豊記』〕 2月20日 筒井順慶(「順慶」)、上洛するにあたり大和国興福寺職中へ全5ヶ条の談合内容を指示する。〔『蓮成院記録』三〕 2月20日 松平家忠、駿河国田中城を攻撃。〔『家忠日記』〕 2月21日 山科言経、山科言緒(「阿茶丸」)を同行し上御霊社・下御霊社へ参詣。〔『言経卿記』一〕 2月21日 中御門宣光、入夜に「方違」のため山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 2月21日 山科言経、入夜に冷泉為満を訪問。〔『言経卿記』一〕 2月21日 徳川家康、駿河国駿府城を占領。 2月21日 松平家忠、遠江国持船城を包囲。〔『家忠日記』〕 2月22日 土御門久脩(「陰陽頭久脩」)、織田信長(「前右府」)の執奏により「堂上」に加えられる。即時正親町天皇「勅許」が 得られた。〔『言経卿記』一〕 2月23日 織田信長(「信長」)、河尻秀隆(「河尻与兵衛」)へ武田勝頼討伐にあたり全7ヶ条の指示を下す。 〔「徳川黎明会文書」〕 2月23日 松平家忠、遠江国持船城の堀際に竹束を寄せて攻撃準備を行う。〔『家忠日記』〕 2月23日 山科言経、「時正」により花開院・誓願寺・真如堂・阿弥陀寺へ参詣。〔『言経卿記』一〕 2月23日 山科言経、暮れに「北向」(山科言経室)・山科言緒(「阿茶丸」)を同行し冷泉為満を訪問。明日に冷泉為満と四条隆昌が 河内国へ下向するというので「暇乞」をした。〔『言経卿記』一〕 2月23日 勧修寺晴豊、病気となり自邸で静養。また、来たる2月25日に「禁裏」の「御当座」がある連絡を受ける。〔『晴豊記』〕 2月24日 山科言経、「仁和寺殿」(任助法親王)をこの年最初の訪問をする。〔『言経卿記』一〕 2月24日 古市宗超、暮れに山科言経を訪問。「和漢」8句を詠んだ。〔『言経卿記』一〕 2月24日 山科言経、禁裏「当番」に祗候。「相番」は白川雅朝であった。〔『言経卿記』一〕 2月24日 勧修寺晴豊、勧修寺光豊を同伴し二条御所へ祗候す。〔『晴豊記』〕 2月24日 吉田兼見、二条御所「御番」に祗候す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 2月24日 吉田兼見、村井貞勝(「春長軒」)を訪問し小将碁を行う。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 2月25日 山科言経、早朝に北野社へ参詣。〔『言経卿記』一〕 2月25日 「竹内殿」(曼殊院覚恕)の「天神かう」に勧修寺晴豊は勧修寺尹豊(「前内府」)・勧修寺光豊と共に赴く。 〔『晴豊記』〕 2月25日 「禁裏」に於いて「御当座」の歌会が催され、勧修寺晴豊は出席す。 勧修寺晴豊、歌会終了後に誠仁親王の二条御所「御くわんきよ」に同行し、そのまま二条御所「加番」にあたる。 〔『晴豊記』〕 2月25日 筒井順慶(「筒井」)より「松権」(筒井順慶被官)を以て大和国興福寺一乗院「慈恩会」の件で来月必ず執行する様にとの 趣旨の「順慶折紙」が多聞院英俊と「摩尼」に宛てて到来、同心の返答をした。〔『多聞院日記』三〕 2月26日 二条御所に於いて「和かん」歌会が催される。〔『晴豊記』〕 2月26日 山科言経、「時正」により「仏閣共」へ参詣。十念寺で「法談」を聴聞し、次いで誓願寺などへ参詣す。〔『言経卿記』一〕 2月26日 山科言経、暮れに冷泉為満を訪問。〔『言経卿記』一〕 2月26日 大和国興福寺大乗院門跡、この朝に近江国安土城へ向けて大和国奈良を発す。織田信長が来月早々に信濃国へ「御出馬」する ことへの見舞のための出仕であった。〔『多聞院日記』三〕 2月27日 織田信忠、信濃国鳥居峠から信濃国飯田に進軍し大島城を攻略。織田信忠は大島城を河尻秀隆・毛利良勝に守備させる。 2月27日 遠江国持船城との和議が締結される。〔『家忠日記』〕 2月27日 山科言経、「所労気」のために二条御所(「下御所」)の「当番」に祗候せず。〔『言経卿記』一〕 2月27日 山科言経、庭田重通へ碁盤を返還。〔『言経卿記』一〕 2月27日 「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、暮れに山科言経邸へ渡御す。〔『言経卿記』一〕 2月27日 勧修寺晴豊、二条御所へ祗候。 伊勢国より「禁裏」(正親町天皇)へ「くじら桶」2つ、誠仁親王(「親王御方」)へ「くしらの桶」1つ、勧修寺晴豊へ 「鯨桶」1つなどが献上された。〔『晴豊記』〕 2月27日 吉田兼見、招請を受けて佐竹定実(「佐竹出羽守」)の「茶湯座敷会」に参席す。〔『兼見卿記』二(別本)〕 2月27日 吉田兼見、招請を受けて佐竹定実(「佐竹羽州」)の「小座敷興」(茶湯)に参席す。〔『兼見卿記』二〕 2月28日 織田信長(「信長」)、山城国妙心寺開山慧玄(「開山国師」)へ「妙心寺法度」について、長老衆が連署で制定した条数を 承認し、もし違反者が発生した場合には「衆評」のように妙心寺「寺法」にしたがって処断すべきことを通達。 〔「妙心寺文書」七〕 2月28日 織田信長、河尻秀隆(「川尻肥前守」)へ信濃国高遠城攻略のために「繋之城」を構築するよう命令。 〔『武徳編年集成』二十〕 2月28日 織田信長、再度注進してきた河尻秀隆(「河尻与兵へ」)へ「道筋跡」及び繋ぎの城を普請して織田信長「出馬」以前には 竣工すべきこと、「大百性以下」は「草のなひき時分」を見計らうものであるので役に立つものであること、 武田勝頼(「四郎」)の近所には織田信長(「信長」)が大軍を以て「御出張」するのでそれ以前は越度無き様にすべきことを 命令。またこの旨を織田信忠(「城之助」)・滝川一益(「滝川」)へも通達したので油断無く「つなぎの城」の構築に努力 し、時期が来れば織田信長が信濃国へ着陣することを通達。 〔『古今消息集』一、『武家事紀』二十九、『武徳編年集成』二十〕 2月28日 山科言経、中御門宣光の所望により「大学」を貸す。〔『言経卿記』一〕 2月28日 持明院基孝、山科言経を訪問し「不闕常用方」を返還す。〔『言経卿記』一〕 2月28日 山科言経、暮れに京都誓願寺へ参詣。次いで冷泉為満を訪問。〔『言経卿記』一〕 2月28日 勧修寺晴豊、村井貞勝(「村井」)邸へ「御使」として赴き織田信長(「信長」)の「陣立」について信濃国への陣中見舞の 「勅使」を派遣するべきかどうかを談議する。村井貞勝、勧修寺晴豊へ「時分はから」って勅使派遣を上奏すると返答する。 〔『晴豊記』〕 2月28日 武田勝頼、信濃国諏訪上原の陣所を焼き捨て、甲斐国新府へ撤退。 2月28日 大和国興福寺大乗院門跡、近江国安土城に於いて仁王経御修法による祈祷を行う。〔『多聞院日記』三〕 2月28日 吉田兼見、万里小路充房を訪問するも「他行」であった(別本『兼見卿記』には無い記事)。〔『兼見卿記』二〕 2月28日 吉田兼見、出京し柳原淳光を訪問、対面す。富小路秀直らと談合す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 2月28日 大和国興福寺、「大御所」が昨日中風を再発したので近江国安土城に出仕している大和国興福寺大乗院門跡へ飛脚を発す。 〔『多聞院日記』三〕 2月28日 寛舜、京都に於いて織田信長(「上様」)への進物小袖の調達に遅延したので、これを近江国安土城へ持参す。 〔『多聞院日記』三〕 2月28日 大和国興福寺別会五師釈迦院寛尊、早朝より大和国郡山城へ礼参し筒井順慶(「順慶」)及び筒井家中に贈物を贈呈す。 〔『蓮成院記録』三〕 2月29日 織田信忠、近江国安土城の織田信長へ武田勝頼の撤退を報告する注進状を発す。〔「関戸守彦氏所蔵文書」〕 2月29日 朝比奈駿河守(遠江国持船城主)、松平家忠の付き添いにより遠江国久野城に退却す。〔『家忠日記』〕 2月29日 古市宗超、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 2月29日 勧修寺晴豊、「二条之御当番」として祗候。〔『晴豊記』〕 2月29日 吉田兼見、二条御所「当番」であったが、明日は吉田神社の神事があるのでその旨を申し入れ祗候せず。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 2月29日 吉田兼見、狩野宗玖を召し寄せて「茶湯座敷」の張付に彩色させる。〔『兼見卿記』二(別本)〕 2月29日 吉田兼見、中村入道宗玖を召し寄せて「小座敷」の張付に彩色させる。〔『兼見卿記』二〕 2月29日 多聞院英俊、寛舜が京都より大和国奈良に下ったこと、織田信長(「上様」)への進物である小袖の調達が遅延したので、 昨日2月28日に近江国安土城へ届けたことを知る。〔『多聞院日記』三〕 2月29日 多聞院英俊、「栂尾開帳」をめぐる争論について村井貞勝(「村井長門入道」)へ訴訟することについての情報に接す。 〔『多聞院日記』三〕 2月29日 大和国興福寺より発せられた飛脚が八時分に近江国安土城に出仕している大和国興福寺大乗院門跡のもとに到着。 〔『多聞院日記』三〕 2月29日 大和国興福寺大乗院門跡、大和国奈良に向けて近江国安土城を発す。〔『多聞院日記』三〕 2月29日 稲葉一鉄、神前の花盛で和歌を作る。〔「稲葉文書」‐56〕 3月 3月 1日 織田信長(「信長」)、河尻秀隆(「河尻与兵衛」)へ武田勝頼討伐のための織田信長出陣前に全5ヶ条の指示を下す。 〔「徳川黎明会文書」〕 3月 1日 織田信忠、武田勝頼(「武田四郎」)・仁科盛信(「仁科五郎」)が籠もる信濃国高遠城への攻撃を開始する。 〔『立入左京亮入道隆佐記』〕 3月 1日 徳川家康、穴山信君(駿河国江尻城主)を勧降させる。 3月 1日 松平家忠、穴山信君(駿河国江尻城主)が徳川家康に寝返ったことを知る。〔『家忠日記』〕 3月 1日 「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)が官女を、「北向」(山科言経室)が官女「小少将」を近江国安土城の織田信長へ 「当年音信」を送る。〔『言経卿記』一〕 3月 1日 山科言経、新在家の江村専斎(「江村甚太郎」)・古市宗超の来訪を受けて読書指南をする。「論語」を読んだ。 〔『言経卿記』一〕 3月 1日 山科言経、正親町天皇へ1荷両種を献上。〔『言経卿記』一〕 3月 1日 山科言経、富小路秀直より明後日の「鶏合之廻文」のために「殿上人次第」を問われ、書き遣わす。〔『言経卿記』一〕 3月 1日 吉田兼見、恒例の吉田神社の神事を行う。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月 1日 大和国興福寺大乗院門跡、近江国安土城から休み無く急行、この朝五時分に大和国奈良に帰座。〔『多聞院日記』三〕 3月 2日 織田信長(「信長」)、村井貞勝(「春長軒」)へ「伊勢正遷宮」執沙汰について藤波慶忠(「祭主」)が早急に「山口祭」 を行い、造作を簡素化するよう指示。〔「下郷共済会氏所蔵文書」〕 3月 2日 織田信忠(「中将殿」)、信濃国高遠城を攻略し武田信豊(「典厩」)・仁科盛信(「武田四郎舎弟」)以下を「打果」す。 〔『兼見卿記』二〕 3月 2日 織田信忠、信濃国高遠城を攻略して甲斐国へ進軍す。〔『立入左京亮入道隆佐記』〕 3月 2日 織田軍、「甲州之衆」と一戦に及び100余を討ち取る。〔『多聞院日記』三〕 3月 2日 仁科盛信(「仁科」)、信濃国高遠城に於いて戦死。〔『立入左京亮入道隆佐記』〕 3月 2日 徳川家康、穴山信君(「穴山殿」)へ甲斐国「乱入」にあたり甲斐国を進呈する約束について、「所務」(年貢収入)が無く とも2年・3年は織田信長(「安土」)より扶持が加えられるように取り成すこと、もし首尾通りにならなければ徳川家康が 「合力」することを通達。〔『記録御用所本古文書』一〕 3月 2日 山科言経、江村専斎(「江村甚太郎」)の来訪を受けて読書する。〔『言経卿記』一〕 3月 2日 「若宮さま」の「御湯かけ」があり、勧修寺晴豊は参上する。 紀伊国雑賀の「北ノ方」より「文」・「はまあふり」が送付されて来た。〔『晴豊記』〕 3月 2日 吉田兼見、明日は「節句」のため村井貞勝(「春長軒」)を礼問、対面して少将碁を行う。〔『兼見卿記』二(別本)〕 3月 2日 吉田兼見、村井貞勝を訪問し、将碁を行う。〔『兼見卿記』二〕 3月 2日 吉田兼見、二条御所(「下御所」)に祗候。この度の和仁親王(「若宮御方」)の病気平癒「御加持」の功績を賞せられ酒盃 を賜わる。二条御所「女房館」に於いて薄諸光が罷り出て酒盃を下した。御酌は大御乳人であった。吉田兼見は礼を上奏して 二条御所を退出す。〔『兼見卿記』二(別本)〕 3月 2日 吉田兼見、二条御所(「下御所」)へ祗候。和仁親王(「若宮御方」)が「御本服」しこの日に行水したというので祝儀の 酒宴が催される。薄諸光・吉田兼見に女中が御酌した。〔『兼見卿記』二〕 3月 2日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問、対面し雑談す。織田信長(「信長」)が来3月5日に「東国甲州」への出陣する ことが決定したこと、近衛前久(「御家門」)も来3月5日より甲斐国へ出陣するとのことであった。 吉田兼見は近衛前久より「軍陣祓」・軍陣「祭文」を贈呈す。〔『兼見卿記』二(別本)〕 3月 2日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問。 吉田兼見は来3月5日に織田信長(「先右府信長」)の「御進発」が決定したこと、また来5日の早天に近衛前久も「御出陣」 ということを知る。「軍陣御祓」・軍陣「要文」を贈呈す。〔『兼見卿記』二〕 3月 2日 この夜は「かう神」であった。〔『晴豊記』〕 3月 2日 大和国南衆、信濃国への出征のために先ず山城国まで出陣す。多聞院英俊はこの出征を「上下ノ迷惑無限事」と評す。 〔『多聞院日記』三〕 3月 3日 織田信長(「信長」)、織田信忠(「城介殿」)へ駿河国の穴山信君(「穴山」)が「謀反」して武田勝頼(「四郎」)が 甲斐国へ撤退したこと、穴山信君(「穴山」)が徳川家康に内通したこと、信濃国大島から飯島への陣替を諒承したこと、 織田信忠のこれ以上前方への進軍は「一切無用」であること、織田信長自身は近々「出馬」するので武田軍を容易く撃破する 予定であることを通達。また先頃に河尻秀隆(「河尻与兵衛」)へもこの旨を通達したことを通知。 〔「関戸守彦氏所蔵文書」〕 3月 3日 徳川家康、甲斐国南松院へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「南松院文書」〕 3月 3日 武藤康秀(「助一得」)、越前国三ヶ市町の越後屋へ諸役末代免除を安堵。〔「奥富市右衛門文書」〕 3月 3日 山科言経、冷泉為満より節供祝儀を受ける。〔『言経卿記』一〕 3月 3日 山科言経、村井貞勝(「春長軒」)へ節供のための礼問をする。〔『言経卿記』一〕 3月 3日 山科言経、暮れに冷泉為満を礼問す。〔『言経卿記』一〕 3月 3日 吉田兼見、この晩に吉田兼治を同行し二条御所(「下御所」)へ祗候。薄諸光を介して参上を申し入れ、誠仁親王と対面す。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月 3日 誠仁親王、禁裏(「上御所」)に御成す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月 3日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問。近衛前久は明後日に出陣というので近江国安土へ下向するとのことであった。 〔『兼見卿記』二(別本)〕 3月 3日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問し、明後日3月5日に近衛前久「御出陣」が決定したことを知る。 〔『兼見卿記』二〕 3月 3日 多聞院英俊、この朝早旦より筒井順慶(「筒井順慶」)とその与力の大和国衆が悉く出陣したこと、織田信長(「信長」)は 来3月9日に信濃国へ向けて「出馬」することになっているので、明智光秀(「惟任」)が先発として来3月5日に出陣する こと、そのために明智光秀「一手ノ衆」がこの日に出陣したことを知る。〔『多聞院日記』三〕 3月 4日 「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)の派遣した官女と山科言経が派遣した官女(小少将)が近江国安土城より上洛。 山科言経、官女より織田信長との交渉は「仕合吉」であったとの報告を受ける。〔『言経卿記』一〕 3月 4日 山科言経、高倉永孝の所望により愛洲薬1包を送る。〔『言経卿記』一〕 3月 4日 吉田兼見、二条御所「当番」に祗候。誠仁親王は昨日「上御所」に御成したまま、未だ還御していなかった。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月 4日 吉田兼見、近衛前久(「御家門」)を訪問。近衛前久は明日の出陣準備をしていた。吉田兼見、近衛前久より馬を預かる。 〔『兼見卿記』二(別本)〕 3月 4日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問したが、明日の出陣準備のため「以外取乱」れており、馬を預かった。 〔『兼見卿記』二〕 3月 4日 吉田兼見、明智光秀(「惟任日向守」)へ使者を派遣し出陣見舞の「軍陣祓」(正本では「軍陣之祓」)・弓懸を送付。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月 4日 吉田兼見、明智光秀(正本では「惟任日向守」)より出陣見舞の返事を受ける。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月 4日 徳川家康、穴山信君と対面。 3月 4日 明智勢が「大事ノ陣」というので信濃国へ向けて「ちりちり」と出発。兵卒はまさに「しほしほ」とした様相であった。 〔『晴豊記』〕 3月 4日 大和国衆、東国陣に向けて上洛。〔『蓮成院記録』三〕 3月 5日 織田信長(「信長」)、暁に陣立す。〔『晴豊記』〕 3月 5日 織田信長(「右府」)、未明に「御出馬」す。近江国佐和山城に滞陣。〔『兼見卿記』二〕 3月 5日 「信長きたう」である「八わたの御ほうらく」が行われる。〔『晴豊記』〕 3月 5日 山科言経、江村専斎(「江村甚太郎」)の来訪を受けて読書す。〔『言経卿記』一〕 3月 5日 山科言経、古市宗超の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕 3月 5日 吉田兼見、吉田兼治を同行し近衛前久(「御家門」)の出陣を粟田口周辺で見送る。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月 5日 吉田浄勝(「盛方院浄勝」)、近江国安土より帰還し、その途上に吉田兼見を訪問す。 吉田兼見、吉田浄勝よりこの朝に織田信長(「信長」)は近江国佐和山城を出陣したこと、出陣する軍勢は近江国安土に至る まで続くほど多いこと、特に明智光秀(「日向守」)の軍勢は多く「奇麗」であったことを知らされる。 吉田浄勝はその後に帰京す。〔『兼見卿記』二(別本)〕 3月 5日 吉田浄勝(「盛方院」)、近江国安土より上洛の途上で吉田兼見を訪問。 吉田兼見、吉田浄勝より織田信長がこの朝に「御出馬治定」のこと、出陣路次中には数千騎が配備され、その中には「帯武具」 びた明智光秀(「惟任向州」)の軍勢が多かった旨を知る。(*明智光秀を称揚する表現を削除している)〔『兼見卿記』二〕 3月 5日 山科言経、暮れに冷泉為満を訪問す。〔『言経卿記』一〕 3月 5日 誠仁親王(「親王御方」)、この晩に二条御所(「二条」)へ還御。〔『晴豊記』〕 3月 5日 勧修寺晴豊、禁裏より二条御所への誠仁親王の還御に随行しそのまま二条御所「御番」に祗候す。〔『晴豊記』〕 3月 5日 大和国興福寺別会五師釈迦院寛尊、今度の織田信長(「上様」)の「東国御出馬」について大和国衆が昨日より上洛したこと 南方衆は山城国まで先勢として着陣したこと、大和国衆の「大将衆」は奈良に滞在し、筒井順慶(「順慶」)は明日未明に出陣 することを知る。「ゥ力衆」と「少分限之衆」にとっては他国への軍事行動、特に「遠国迷惑」であり、更に甲斐国・越後国衆 は「弓矢天下一之軍士」という風聞が浸透しているので東国陣は「一大事之陣立」であった。〔『蓮成院記録』三〕 3月 6日 織田信長(「信長」)、この暁に「陣立」す。〔『晴豊記』〕 3月 6日 山科言経、所労により外出せず。〔『言経卿記』一〕 3月 6日 勧修寺晴豊、明け方に二条御所より退出し、「通仙」(半井瑞策)より夕方の「茶湯」に招待される。〔『晴豊記』〕 3月 7日 山科言経、江村専斎(「江村甚太郎」)の来訪を受けて読書を指南。「法花経学匠」の沢路練意が読書聴聞を所望し到来す。 〔『言経卿記』一〕 3月 7日 山科言経、「下御所番」に祗候すべきであったが所労のために白川雅朝へ「故障」の旨を伝達する。〔『言経卿記』一〕 3月 7日 山科言経、冷泉為満が所労というので見舞のために訪問す。「咳気」であったが「大験」した。夕食を相伴す。 〔『言経卿記』一〕 3月 7日 山科言経、「七宮御方」(誠仁親王第七皇子)へ保童円を進上。〔『言経卿記』一〕 3月 7日 勧修寺晴豊、中山親綱・勧修寺尹豊(「入道殿」)・古市宗超(「古市入道宗顕」)・高橋若狭らの来訪を受ける。 〔『晴豊記』〕 3月 7日 中山親綱・吉田牧庵、二条御所へ祗候す。〔『晴豊記』〕 3月 8日 織田信長、尾張国犬山に着陣す。〔『古今消息集』一、『古証文』五〕 3月 8日 織田信長、柴田勝家(「柴田修理亮」)へ越中国方面に「一揆」が発生したが柴田勝家等が「成敗」したことを諒承し、 越中国松倉城への軍事行動は油断無く執り行うこと、神保長住(「神保」)より上杉景勝与党(「越後之族」)が増援軍として 向かっているという報告が入ってきたことに触れ、上杉軍を引き留めて殲滅することを命令。 また織田信長自身は3月5日に近江国安土城を出陣し、この日に尾張国犬山城へ到着したことに触れ、武田勝頼(「四郎」)は 去る2月28日に信濃国諏訪上原の陣所を撤退、居城をも焼き捨て山奥へも逃げ失せてしまったので織田軍「先手之者共」を 早急に甲斐国へ侵入させ、織田信忠も同様に進軍したことを通知し、織田信長は「出馬」しなくても今まで「関東見物」を望ん でいたので良い機会であるから関東へ足を運ぶことにすることを通達。 さらに武田勝頼(「四郎」)の件は「彼等代々の名をくたし」て早々に「属平均」すことを通知。 〔『古今消息集』一、『古証文』五〕 3月 8日 正親町天皇(「禁裏」)、近衛信尹(「近衛殿内府」)の明日の「御法楽之御うた」を叡覧す。〔『晴豊記』〕 3月 8日 山科言経、山科言緒(「阿茶丸」)を同行し因幡堂薬師へ参詣す。〔『言経卿記』一〕 3月 8日 山科言経、沢路練意へ「論語」の講習を開始する。また1巻・2巻の借用を所望され貸す。〔『言経卿記』一〕 3月 8日 山科言経、日野輝資より「公卿補任」15冊・公卿補任「目六」・「分韻」などを返還される。 日野輝資の「出陣」によるものであった。〔『言経卿記』一〕 3月 8日 吉田兼見、中御門宣光の「口宣」で正親町天皇からの織田信長(「信長」)の「御出陣御祈」命令を受ける。 「請文」には及ばずということであった。吉田兼見、この日より「修行」を行う。〔『兼見卿記』二(別本)〕 3月 8日 吉田兼見、中御門宣光の御触にて正親町天皇からの織田信長(「右府信長」)の「出陣御祈」命令の「口宣案」を受ける。 「請文」には及ばずということであった。この日より「修行」を行う。〔『兼見卿記』二〕 3月 8日 山科言経、暮れに大和宗恕の来訪を受けて移刻雑談す。〔『言経卿記』一〕 3月 8日 水無瀬兼成(「水無瀬殿」)、大和国興福寺「大御所」の診療のために大和国奈良へ下向。〔『多聞院日記』三〕 3月 9日 「八幡御法楽うた」が催され、「信長陣立御きたう」100首が進上された。〔『晴豊記』〕 3月 9日 山科言経、大和宗恕より「八卦占」1巻を借用す。〔『言経卿記』一〕 3月 9日 山科言経、沢路練意の来訪を受けて「論語為政」第二の読書指南をする。〔『言経卿記』一〕 3月 9日 山科言経、古市宗超を召喚し「鼻血」を出した「北向」(山科言経室)の脈診をさせる。〔『言経卿記』一〕 3月 9日 山科言経、「大津塩」(大津座塩公事)の件で村井吉忠(「村井又兵衛」)・村井光清(「将監」)へ訴訟に及ぶ。 山科言経はここ数日毎日村井光清(「将監」)へ訴訟をしていたが反応はなかった。〔『言経卿記』一〕 3月 9日 山科言経、日野輝資より「法花経一部」8巻を返還される。〔『言経卿記』一〕 3月 9日 山科言経、禁裏「当番」に祗候。「相番」は甘露寺経元・白川雅朝、「外様」は東坊城盛長(「式部大輔」)であった。 〔『言経卿記』一〕 3月 9日 勧修寺晴豊、「下御所御番」に祗候。〔『晴豊記』〕 3月 9日 吉田兼見、二条御所「当番」に祗候。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月 9日 村井貞勝(「村井」)、二条御所に祗候した勧修寺晴豊へ織田信長陣所への「御音信之物」について談合する旨を要請。 〔『晴豊記』〕 3月 9日 多聞院英俊、大和国春日山に「光物」が飛び去ったことを知り「心細」く思う。〔『多聞院日記』三〕 3月10日 山科言経、四条隆昌の訪問を受ける。〔『言経卿記』一〕 3月10日 山科言経、沢路練意・江村専斎(「江村甚太郎」)の来訪を受けて読書指南を行う。〔『言経卿記』一〕 3月10日 山科言経、古市宗超の訪問を受けて談合す。〔『言経卿記』一〕 3月10日 勧修寺晴豊、二条御所(「下」)の「御番」に祗候。〔『晴豊記』〕 3月10日 水無瀬兼成(「水無瀬殿」)、大和国興福寺「大御所」の病状が快復したのでこの朝に上洛す。〔『多聞院日記』三〕 3月10日 徳川家康、甲斐国市川に布陣。 3月11日 正親町天皇(「京都」)、大和国興福寺へ織田信長(「前右府」)の東国出陣にあたり17日間の「祈祷」を行う旨の 「倫旨」を下す。〔『多聞院日記』三〕 3月11日 正親町天皇(「叡慮」)、大和国興福寺へ大乗院殿南院泰縁寺主を「御使」として織田信長(「前右府」)の東国出陣に際し 17日間の祈祷をする旨の薄墨「綸旨」を下す。また巻数は東国の織田信長陣所へ大和国興福寺より直接送付することを命令。 (*『蓮成院記録』三に収録された綸旨の日付は奉者の中御門宣光が認めた日付である)〔『蓮成院記録』三〕 3月11日 一条内基(「関白殿」)、大和国春日大社へ織田信長の東国出陣にあたり17日間の「祈祷」を行う旨を通達す。 〔『蓮成院記録』三〕 3月11日 徳川家康・穴山信君、甲斐国甲府の織田信忠を訪問。 3月11日 柴田勝家・前田利家、越中国魚津城・越中国松倉城を攻囲。 3月11日 武田勝頼・武田信勝、天目山の戦で織田軍に敗北。田野に於いて一族・郎党と共に自刃。長坂光堅らも殉ず。 3月11日 武田勝頼ら、甲斐国「天目谷一揆」に討たれる。(*別本『兼見卿記』には無い記事)〔『兼見卿記』二〕 3月11日 武田勝頼一党、全滅す。〔『立入左京亮入道隆佐記』〕 3月11日 「武田一党」、悉く討死する。〔『言経卿記』一〕 3月11日 武田勝頼、甲斐国天目山にて敗北・自刃。〔『理慶尼記』〕 3月11日 二条御所(「下御所」)に於いて「信長陣御きたう」の「千返御楽」が催される。〔『晴豊記』〕 3月11日 勧修寺晴豊、村井貞勝(「村井」)より出陣中の織田信長(「信長」)が甲斐国まで進軍し「東国相見」ると言って来た旨を 知らされる。また武田勝頼(「武田四郎」)が300計りの兵卒を率いて上野国へ撤退したこと、「首ちうもん」が到着した ことも知らされる。〔『晴豊記』〕 3月11日 山科言経、長橋局(量子:高倉永家女)を介して正親町天皇(「禁中」)へ恩借の書物54冊を返還す。〔『言経卿記』一〕 3月11日 山科言経、沢路練意の来訪を受けて読書指南を行う。〔『言経卿記』一〕 3月11日 山科言経、「大津者」より鮒5匹を進上される。〔『言経卿記』一〕 3月11日 山科言経、「大津者」が村井吉忠(「村井又兵衛」)へ鮒20匹、村井吉忠家中の冬木軒へ鮒5匹を進上するというので 山科家よりの使者2名を同行させる。〔『言経卿記』一〕 3月11日 山科言経、冷泉為満を訪問し四条隆昌と冷泉為満が「咳気」であることを知る。〔『言経卿記』一〕 3月11日 吉田兼見、村井貞勝(「春長軒」)を見舞のために訪問し対面す。 村井貞勝(「春長」)、吉田兼見へ注進状を見せながら信濃国は悉く織田「御理運ニ被仰付」れて「相果」てたこと、 信濃国高遠城以下を織田信忠(「中将殿」)自身が攻略したこと、仁科盛信(「武田四郎舎弟」)・武田信豊(「典厩」)が 討死にしたことを知らせる。〔『兼見卿記』二(別本)〕 3月11日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し面会、信濃国は「悉以相済」んで織田信長(「右府」)の「御理運之旨」に属した 注進状を披見する。注進状によれば織田信忠(「中将殿」)自身が去3月2日に信濃国高遠城を攻略し武田信豊(「典厩」)・ 仁科盛信(「武田四郎舎弟」)以下を「被打果」れたことを知る。〔『兼見卿記』二〕 3月11日 吉田兼見、二条御所(「下御所」)に祗候。 二条御所に於いて織田信長(「信長」)のための「御祈祷」である「千返之御楽」が行われ公家衆が祗候した。 吉田兼見、村井貞勝(「春長」)へ二条御所に於いて織田信長の祈祷を行っている旨を注進す。〔『兼見卿記』二(別本)〕 3月11日 吉田兼見、二条御所(「下御所」)に祗候。 二条御所に於いて織田信長(「右府」)のための「御祈祷」である「千変之御楽」が行われ公家衆が祗候した。 (*村井貞勝へ二条御所での祈祷実施通知が削除されている)〔『兼見卿記』二〕 3月11日 吉田兼見、近衛邸へ近衛前久(「近衛殿」)の留守見舞をする。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月11日 大和国興福寺へ正親町天皇(「京都」)より「倫旨」が到達。 その内容は織田信長(「前右府」)の出陣にあたり17日間の「祈祷」を行うようにとの命令であった。 〔『多聞院日記』三〕 3月12日 山科言経、古市宗超の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕 3月12日 勧修寺晴豊、柳原資定と共に禁裏へ祗候、酒宴が催された。 近衛信尹(「近衛殿御方御所」)も参席しており、近衛信尹(「内府」)はことのほか「大酔」してしまった。〔『晴豊記』〕 3月12日 多聞院英俊、天候不良と先頃の「光物」のために「心細」き思いを募らせる。〔『多聞院日記』三〕 3月12日 多聞院英俊、去3月2日に織田軍が「甲州之衆」と一戦に及び100余を討ち取ったこと、また織田信忠(「城介殿」)が 織田信長(「信長」)へその戦果の「注進状之写」を送付したことを知る。〔『多聞院日記』三〕 3月12日 多聞院英俊、誠仁親王(「親王様」)が織田信長(「前右府」)の「出陣祈祷」のために来3月15日に石清水八幡宮へ 「御行幸」する予定であることを知る。〔『多聞院日記』三〕 3月13日 織田信長、「飛脚」を以て戦況を尋ねてきた北陸方面駐軍の柴田勝家(「柴田修理亮」)・佐々成政(「佐々内蔵介」)・ 前田利家(「前田又左衛門」)・不破直光(「不破彦三」)へ武田勝頼(「武田四郎勝頼」)・武田信勝(「武田太郎信勝」) と長坂光堅(「長坂釣閑」)・武田信豊(「典厩」)・小山田信茂(「小山田」)を始めとする甲斐武田家「家老者」を悉く 討ち果たし、駿河国・甲斐国・信濃国は滞り無く「一篇被申付」れたので心配は無用であることを通達。 〔池田家文庫本『信長記』、『松雲公採集遺編類纂』〕 3月13日 松平家忠、穴山信君へ人馬を返還。〔『家忠日記』〕 3月13日 誠仁親王(「親王御方」)、「上之御所」に御成しそのまま滞在。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月13日 山科言経、持明院基孝の来訪を受けて装束借用を承諾す。〔『言経卿記』一〕 3月13日 山科言経、沢路練意の来訪を受けて「侖吾郷党篇」の読書指南を行う。〔『言経卿記』一〕 3月13日 山科言経、江村専斎(「江村甚太郎」)の来訪を受けて読書指南を行う。〔『言経卿記』一〕 3月13日 勧修寺晴豊、明後日3月15日の「内侍所御楽」の連絡を伝達。〔『晴豊記』〕 3月13日 勧修寺晴豊、夕方に二条御所(「下御所」)へ祗候。〔『晴豊記』〕 3月14日 織田信長、信濃国伊那郡波合に着陣。 3月14日 松平家忠、甲斐国甲府善光寺を見物。〔『家忠日記』〕 3月14日 誠仁親王(「親王御方」)、昨日より「上之御所」に御成しており、この日も二条御所へ還御せず。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月14日 勧修寺晴豊、「御使」として村井貞勝(「村井」)邸に赴き明日の「御かくら」警固命令を伝達。高倉永相(「藤中納言」) を織田信長(「信長」)陣所へ「御使」として下向させるのは3月18日か19日頃で適切かを談合する。 勧修寺晴豊は村井貞勝(「村井」)より神楽「御けいこ」を厳重にするようにとの返答を得る。 また陣中への勅使派遣は早急にすべきであるが、高倉永相(「藤中納言」)などは「年より」であるので「わかきしゆ」を下向 させるべきであるとの意見であった。〔『晴豊記』〕 3月14日 山科言経、沢路練意の来訪を受けて読書指南を行う。〔『言経卿記』一〕 3月14日 吉田兼見、万里小路充房から派遣された使者の来訪を受ける。明日3月15日の禁裏「御神楽」が行われるので吉田兼見に 「御脂燭之役」を担当する旨の通達であった。吉田兼見、使者へ万里小路充房を訪問して談合する旨を返答す。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月14日 吉田兼見、万里小路充房を訪問し対面。明日の御神楽の用意が不備であること、御脂燭役は初めてであること、それでも参勤 することが必要であるのかを問う。万里小路充房、吉田兼見へ装束は借用すべきであることを通達。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月14日 吉田兼見、万里小路充房邸より直に山科言経を訪問し、明日御神楽装束について相談す。 山科言経、吉田兼見へ舟橋国賢が所持している旨を通知。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月14日 山科言経、吉田兼見の到来を受けて「束帯具」の件を談合。〔『言経卿記』一、『兼見卿記』二〕 3月14日 吉田兼見、山科言経邸より直に舟橋国賢を訪問。明日の御神楽装束の借用を依頼し同心を得る。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月14日 吉田兼見、舟橋国賢より明日の御神楽装束を借用し、再度万里小路充房を訪問。明日の御神楽に祗候する旨を上申す。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月14日 吉田兼見、後刻に再度山科言経を来訪。〔『言経卿記』一〕 3月14日 山科言経、暮れに冷泉為満を訪問。〔『言経卿記』一〕 3月14日 吉田兼見、二条御所「当番」に祗候。 薄諸光より「五位之袍」は舟橋国賢が所持しているので借用の仲介を依頼され、舟橋国賢に借用を申し入れ同心を得、薄諸光に 借用した袍を渡す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月14日 吉田兼見、和仁親王(「若宮御方」)の御乳人が「重服」ということを知り、明日の神事に参席するために許可を得て 二条御所を退出す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月14日 富小路秀直、二条御所に於いて和仁親王御乳人の「重服」を知り、明日の神事参席のために許可を得て二条御所を退出す。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月15日 羽柴秀吉、備中国攻略のために播磨国姫路城より出陣。 3月15日 山科言経、「大津者」が村井光清(「村井将監」)へ鮒15匹を、村井光清家中の「キ衛門尉」へ鮒2匹を進上し「公事篇」 の件を訴えたことを知る。〔『言経卿記』一〕 3月15日 葉室頼宣、裾を甘露寺経元に貸しているというので山科言経より借用する。〔『言経卿記』一〕 3月15日 山科言経、白川雅朝より「七味円方」を借用す。〔『言経卿記』一〕 3月15日 山科言経、沢路練意の来訪を受けて読書指南を行う。また「蒙求疏本」借用の所望を受けて貸す。〔『言経卿記』一〕 3月15日 吉田兼見、雨天のために万里小路充房へ使者を派遣しこの夜の御神楽は行われるのかを問う。雨天であっても御神楽は 行われるとの返答であった。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月15日 「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、暮れに山科言経邸へ渡御す。〔『言経卿記』一〕 3月15日 吉田兼見、暮れに万里小路充房邸を訪問したところ、早々に準備して禁裏に参内すべき旨を通達され、高倉永孝に衣紋借用の 使者を派遣。高倉永孝は即時衣紋を持参した。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月15日 万里小路充房、衣冠を着して禁裏に参内す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月15日 高倉永孝、万里小路充房邸に滞在する吉田兼見に衣紋を貸して帰宅す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月15日 吉田兼見、万里小路充房より使者を受けて禁裏に参内。吉田兼見は禁裏「清涼殿」の東縁辺に於いて万里小路充房と合流、 禁裏「内侍所」に随行す。役者が遅参したので数刻待機した。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月15日 禁裏内侍所に於いて「御かくら」が催される。〔『晴豊記』〕 3月15日 正親町天皇、子刻に禁裏御神楽祈祷に出御す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月15日 「禁中内侍所」に於いて臨時の「御神楽」が催され、正親町天皇が出御した。〔『言経卿記』一〕 3月15日 禁裏「内侍所」に於ける御神楽に衣冠を着した公家衆が参席。「内々之衆」の多分が参席した。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月15日 雨天であったが、禁裏内侍所に於いて正親町天皇が「庭上之作法」を執行した際に雨が止んだので、参席した公家衆は 「天道之感応奇特」と話し合った。〔『兼見卿記』二(別本)〕 3月15日 雨天の中、禁裏内侍所「内陣」に於いて正親町天皇(「主上」)が「御鈴」を引いた。 その後に「庭上之儀式」が行われたが、この際には「雨晴」た。〔『兼見卿記』二〕 3月15日 正親町天皇、丑下刻に禁裏「内侍所」から還御す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月15日 吉田兼見、「庭上之儀未相果」であったが禁裏を退出、万里小路充房邸に於いて着替えて帰宅した。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月15日 多聞院英俊、「栂尾御宿坊」をめぐる争論が「京都開闔」村井貞勝(「村井長門入道」)により裁定がなされたことを知る。 〔『多聞院日記』三〕 3月16日 織田信長、信濃国飯田に於いて武田信豊(「典厩」)の首実検を行う。 3月16日 織田信長(「前右府」)陣所(信濃国飯田カ)に武田勝頼(「四郎殿」)・武田信勝(「太郎殿」)・武田信豊(「典厩」) の首級が届けられる。〔『多聞院日記』三〕 3月16日 織田信長陣所へは万里小路充房(「万里」)が勅使として派遣されることになった。〔『晴豊記』〕 3月16日 山科言経、持明院基孝より装束を返還される。〔『言経卿記』一〕 3月16日 山科言経、沢路練意の来訪を受けて読書指南を行う。「侖吾」の講読は終了した。〔『言経卿記』一〕 3月16日 山科言経、毘沙門堂公厳を訪問。般若「心経」1巻・「医書」切紙2枚を持参した。また「拾芥抄」上巻を返還される。 〔『言経卿記』一〕 3月16日 吉田兼見、使者を派遣して高倉永孝へ昨日の神楽用装束借用の礼を伝える。〔『兼見卿記』二(別本)〕 3月16日 吉田兼見、高倉永孝へ礼の使者を派遣する。〔『兼見卿記』二〕 3月17日 織田信長、松井友閑(「宮内卿法印」)へ甲斐武田氏討伐完遂の状況に触れ、北条氏政(「相州氏政」)が駿河国まで出陣し 「一廉馳走」をしたこと、「東八箇国」は平定されたとの見通し、甲斐国・信濃国に織田信忠(「城介」)を残留させて 織田信長(「信長」)自身は近日に近江国安土城へ帰還するので見舞は無用であること、路次が険しいので下向する必要は無い こと、この様子は未だ近江国安土城へも連絡していないが、「京都」・「五畿内」・羽柴秀吉(「羽柴藤吉郎」)の在陣して いる中国方面まで残さず「相触」れるために詳細を「染筆」したことを通達。 〔『武家事紀』二十九、『古文書録』乾、「笠置文書」〕 3月17日 徳川家康、信濃国諏訪に織田信長を訪問し対面。 3月17日 山科言経、渡辺又七へ「平家」物語を返還す。〔『言経卿記』一〕 3月17日 山科言経、柳原淳光より「春日祭次第」と「譲位次第」を返還される。〔『言経卿記』一〕 3月17日 山科言経、「下御所当番」に祗候。「相番」は白川雅朝、「加番」は高倉永孝、「外様」は柳原淳光・西洞院時慶・五辻元仲 であった。〔『言経卿記』一〕 3月17日 山科言経、白川雅朝へ「七味円方」を返還す。また「源氏論義」借用を所望され貸す。〔『言経卿記』一〕 3月17日 吉田兼見、「内々可来」という「約諾」をしていたので柳原淳光・万里小路充房に使者を派遣したところ、柳原淳光・ 万里小路充房両人共に「所用」というので「不可来」という返事を受けた。〔『兼見卿記』二(別本)〕 3月17日 吉田兼見、明日来訪の「兼約」を結んでいた柳原淳光と万里小路充房へ使者を派遣し、明日必ずの来訪を乞う。 柳原淳光は「神宮伝奏」であるので神宮遷宮のため「隙入之由」という返答であり、万里小路充房は「東国御陣」への「御使」 として下向するので「取乱」れているという返答であった。〔『兼見卿記』二〕 3月17日 「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、暮れに山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 3月17日 山科言経、古市宗超の訪問を受ける。〔『言経卿記』一〕 3月18日 「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)・万里小路充房(「万里」)、この年初めて禁裏へ参内する。〔『晴豊記』〕 3月18日 勧修寺晴豊、織田軍の「陣之様体」についての様々な風聞に接す。〔『晴豊記』〕 3月18日 吉田兼見、「東国御陣」の織田信長(「信長」)のもとに出発する「御使」万里小路充房を訪問する。 吉田兼見、信濃国は「悉信長存分ニ被申付」という趣旨の「注進之条書」を披見す。〔『兼見卿記』二(別本)〕 3月18日 吉田兼見、万里小路充房を訪問。東国御陣「下向」の用意をしていた。そこで「救庵」(阿野実時)のもとへ向かい面会、 信濃国は「弥相済」という「条書」を披見した。〔『兼見卿記』二〕 3月18日 山科言経、毘沙門堂公厳の所望により般若「心経」を貸す。〔『言経卿記』一〕 3月18日 山科言経、沢路練意の来訪を受けて「侖吾」2冊を返還される。また所望により「侖吾」3・4・5・6巻を貸す。 〔『言経卿記』一〕 3月18日 柳原淳光、山科言経を招喚す。〔『言経卿記』一〕 3月18日 山科言経、柳原淳光の招喚により訪問。訪問は「内々契約」であった。「神宮之事目六」について談合した。次いで 「一社奉幣」と「山口祭」の次第を借用する。その後、山科言経は冷泉為満を訪問。〔『言経卿記』一〕 3月18日 山科言経、水無瀬兼成の宿所を訪問するも留守であった。そこで「下御所外様番衆所」にて待っていたが会えず。 その間に西園寺実益と雑談した。〔『言経卿記』一〕 3月18日 吉田兼見、舟橋国賢(「清少納言」)を訪問。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月18日 吉田兼見、吉田牧庵を訪問。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月18日 吉田兼見、近衛信尹(「近衛殿御方御所」)を訪問し対面す。〔『兼見卿記』二(別本)〕 3月18日 吉田兼見、吉田浄勝(「盛方院」)の留守を見舞う。その後吉田兼見は帰宅す。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月19日 織田信長、信濃国上諏訪に滞陣。 3月19日 穴山信君、信濃国上諏訪に於いて織田信長に謁す。 3月19日 松平家忠、織田信長が三河国を通過し帰陣する予定であるので、遠江国での御茶屋建設をすることを知る。〔『家忠日記』〕 3月19日 「若宮御方」の病気(「出物」)により勧修寺晴豊邸に御成していた「五の宮」・「ひめ宮」がこの日に二条御所へ戻る。 〔『晴豊記』〕 3月19日 山科言経、柳原淳光へ「一社奉幣日時定次第」と「山口祭日時定次第」を返還す。〔『言経卿記』一〕 3月19日 吉田兼見、「東国御陣」へ使者として鈴鹿喜介を派遣することを決定。(*別本『兼見卿記』では削除されている) 〔『兼見卿記』二(別本)〕 3月19日 吉田兼見、二条御所「当番」であったが西洞院時慶に「相伝」し、祗候せず。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月20日 織田信長、信濃国上諏訪に於いて木曽義昌・穴山信君・小笠原信嶺らを謁す。 3月20日 山科言経、江村専斎(「江村甚太郎」)の来訪を受けて読書指南を行う。〔『言経卿記』一〕 3月20日 「御室」(任助法親王)、山科言経を訪問し「易産御符」と山科言緒(「阿茶丸」)への護符を下す。〔『言経卿記』一〕 3月20日 山科言経、「筑後入道」の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕 3月20日 山科言経、去3月11日に甲斐国に於いて「戦」があった旨を知る。 織田信忠(「三位中将殿」)が出陣して「武田一党」を悉く討ち果たしたこと、織田信長(「前右府」)は信濃国に在陣して いることを知る。〔『言経卿記』一〕 3月20日 山科言経、近江国粟津座人の壺商買について一条内基(「一条」)が「関白領」という理由により留めたことについて訴えを 受ける。〔『言経卿記』一〕 3月20日 吉田兼見、明日の二条御所(「下御所」)に於ける「清祓」の準備を勧修寺晴豊に通知。勧修寺晴豊より美濃紙10帖・ 麻布3段を受けた。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月20日 勧修寺晴豊、吉田兼見(「吉田」)より明日に二条御所(「下御所」)に於いて「清祓」が行われる旨の通知を受ける。 〔『晴豊記』〕 3月20日 吉田兼見、万里小路充房より来3月22日に東国御陣へ下向する旨の通知を受ける。(*別本には無い記事) 〔『兼見卿記』二〕 3月20日 多聞院英俊、織田信長(「前右府」)の甲斐国への「出馬」にあたり、去3月17日に大和国興福寺にて「一味同心之祈祷」 を行う旨の去3月4日付「倫旨」が大和国興福寺別当のもとに到来したこと、「栂尾」開帳の件が取り乱れていることを知る。 〔『多聞院日記』三〕 3月20日 大和国興福寺に於いて、この日より来3月26日までの17日間の祈祷が始まる。これは今度の織田信長(「信長殿」)の 「東国出陣」にあたり正親町天皇(「叡慮」)より「満寺一味一同」の祈祷を行う旨の「宣旨」が下されたので行われた祈祷で ある。〔『蓮成院記録』三〕 3月21日 二条御所に於ける「清祓」、雨天により延引す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月21日 吉田兼見、勧修寺晴豊に使者を派遣し二条御所「清祓」延引の旨を通知。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月21日 山科言経、冷泉為満の所望により「詠歌一体」・「未来記」・「雨中吟」を貸す。〔『言経卿記』一〕 3月21日 山科言経、一条内基が「関白領」という理由で近江国粟津座人の壺商買停止している旨の訴訟を受けたので、 一条内基(「一条殿」)へその旨の交渉を申し入れるが来客というので実現せず。 この日山科言経は一条内基へ再び使者を派遣す。また近江国粟津座人の来訪を受けて談合す。〔『言経卿記』一〕 3月21日 山科言経、山科言緒(「阿茶丸」)を同行し冷泉為満を訪問するも留守であった。〔『言経卿記』一〕 3月21日 多聞院英俊、織田信長のための「祈祷」に参席。〔『多聞院日記』三〕 3月22日 万里小路充房(「万里小路頭弁」)、織田信長(「信長」)が出陣している甲斐国陣所へ「御使」として派遣される。 この時、万里小路充房は勧修寺晴豊より馬を借用す。〔『晴豊記』〕 3月22日 吉田兼見、西洞院時慶より二条御所「御番」を相伝され祗候す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月22日 吉田兼見、二条御所に於いて甲斐武田氏に関する情報に接す。 その内容は、甲斐武田氏(「甲州」)は「敗軍」し、武田勝頼(「武田四郎」)・武田信勝・武田信豊(「典厩」)の3人は 甲斐国の「天目谷一揆」に討ち取られたこと、その首級は織田信長(「信長」)の陣所に届けられ、この日に京都に届けられた こと、その首級は「獄門」に梟され諸人が見物したこと、捕虜も数人晒されていたというものであった。 〔『兼見卿記』二(別本)〕 3月22日 吉田兼見、二条御所に於いて甲斐武田氏に関する情報に接す。 その内容は、武田勝頼(「武田四郎」)・武田信勝・武田信豊(「典厩」)の首級が甲斐国より京都に到着し「獄門」に梟され 洛中洛外が騒動になったこと、去3月11日に甲斐国「天目谷一揆」が討ち取ったこと、織田信長(「右府」)のもとへ一旦 届けられたこと、首級以外に捕虜の「美濃」・「犬山」・「佐々木四郎舎弟小原」も京都に連行された。 (*別本『兼見卿記』には無い記事)〔『兼見卿記』二〕 3月22日 この夕方に京都に武田勝頼・武田信勝・武田信豊の3首級が届く。 京都に3日間梟首された後に播磨国へ送付されることになっていた。〔『多聞院日記』三〕 3月22日 甲斐国より武田勝頼(「武田左京大夫」)・武田信勝(「太郎」)・武田信豊(「右馬頭」:左馬助の誤記)の首級が上洛。 京都に於いて3つの首級が「獄門」に架けられた。〔『言経卿記』一〕 3月22日 山科言経、武田勝頼・武田信勝・武田信豊の首級が近日中に播磨国へ送付され梟首されることを知る。〔『言経卿記』一〕 3月22日 勧修寺晴豊、この日の「八時」に去る3月11日に討ち取られた武田勝頼(「武田四郎」)・武田信勝(「太郎」)・ 武田信豊(「典厩馬頭」)の3首を見物す。 この3首は「下五りやう」に於いて獄門に架けられたが、武田信豊(「典厩」)の首は落ちてしまった。〔『晴豊記』〕 3月23日 山科言経、日野輝資へ「冬袍」を潤色し遣わす。〔『言経卿記』一〕 3月23日 山科言経、冷泉為満・古市宗超の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕 3月23日 山科言経、入夜に冷泉為満を訪問す。〔『言経卿記』一〕 3月23日 勧修寺晴豊、明日に紀伊国雑賀へ庭田重保(「庭田」)の使者が下向するというので書状を委託する。〔『晴豊記』〕 3月23日 勧修寺晴豊、「とうけんゐん殿」の二条御所(「下御所」)御成の連絡を受けるが、「相煩」い祗候せず。〔『晴豊記』〕 3月23日 勧修寺晴豊、「舞人さぬき」より馬借用を依頼されるも、昨日万里小路充房へ貸してしまったので、壬生朝芳(「官務」) より借用して貸す。〔『晴豊記』〕 3月23日 吉田兼見、明日「甲州御陣」に見舞の使者として鈴鹿喜介を派遣するために準備を行う。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月23日 吉田兼見、翌日付で森成利(「森乱」)へ正親町天皇(「禁裏」)より出陣「祈祷」を命じられ17日間の「修行」をして おり、「勝軍治要之御祓」を進献することに触れ、森成利には道服などを贈呈するので織田信長への披露を依頼する旨の披露状 を認める。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月23日 吉田兼見、森成利(「森御乱」)へ手綱・腹帯・書状を準備し鈴鹿喜介に渡す。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月23日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)へ書状・手綱・腹帯を準備し鈴鹿喜介へ渡す。〔『兼見卿記』二〕 3月23日 吉田兼見、明智光秀(「惟日」)へ手綱・腹帯・書状を準備し鈴鹿喜介に渡す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月23日 吉田兼見、村井貞成(「村井作右衛門」)へ手綱・腹帯・書状を準備し鈴鹿喜介に渡す。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月23日 吉田兼見、佐竹定実(「佐竹出羽守」)へ書状・手綱・腹帯を準備し鈴鹿喜介に渡す。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月23日 多聞院英俊、織田軍が甲斐国を「悉落居」させたことを知る。 去3月16日に織田信長(「前右府」)のもとへ武田勝頼(「四郎殿」)・武田信勝(「太郎殿」)・武田信豊(「典厩」)の 首級が到来したこと、「駿河ノ代官」であった穴山信君(「穴山」)が「金子二千枚ノ礼ニテ帰忠」したこと、この戦闘で 六角義定(「佐々木四郎弟次郎殿」)と武田五郎(「若狭ノ武田ノ五郎殿」)が生虜となり殺害されたこと、東は信濃国碓氷峠 まで、北は越後国までの範囲で「信長ノ敵ハ一人モ無之」という状況になったことを知る。〔『多聞院日記』三〕 3月23日 多聞院英俊、この頃の天候不順(「大風霰飛火逆雨」)は正親町天皇(「内裏」)の祈祷により「信長ノ敵国ノ神達」を悉く 流したことを意味しており、事態が「信長本意」に収拾されればその流された神々を「勧請」するという「神力・人力不及事」 であることを知る。〔『多聞院日記』三〕 3月23日 多聞院英俊、去3月22日夕方に武田勝頼・武田信勝・武田信豊の3首級が京都に到着し、3日間梟首された後に播磨国へ 送付されることを知る。〔『多聞院日記』三〕 3月23日 松平家忠、遠江国本栖に出向く。〔『家忠日記』〕 3月23日 穴山信君、甲斐国市川へ帰還。 3月24日 この未明、鈴鹿喜介が甲斐国の織田信長陣所へ向けて京都を発す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月24日 山科言経、古市宗超の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕 3月24日 吉田兼見、吉田兼治を同行し二条御所「当番」に祗候。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月24日 吉田兼見との「相番」は六条有親・富小路秀直であった。夕食は薄諸光も同前であった。 (*別本『兼見卿記』には無い記事)〔『兼見卿記』二〕 3月24日 吉田兼治、暮れに帰宅。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月24日 吉田兼見、晩に村井貞勝(「春長軒」)を訪問し将碁をする。また暫く談合す。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月24日 多聞院英俊、東国陣「祈祷」に参席。甲斐国「落居」の報はますます確実なものであるということを知る。 〔『多聞院日記』三〕 3月24日 大和国興福寺別会五師釈迦院寛尊、この日に武田勝頼・武田信勝父子の首級が京着したことを知る。〔『蓮成院記録』三〕 3月24日 山科言経、禁裏「当番」に祗候。「相番」は白川雅朝、「外様」は西園寺実益・四条隆昌であった。〔『言経卿記』一〕 3月25日 織田信長(「信長」)、久我季通(「久我大納言」)へ甲斐国在陣見舞を謝し、近日の帰陣予定を通達。 詳細は信濃兵部丞に伝達させる。〔「大阪城天守閣所蔵文書」六〕 3月25日 吉田兼見、早々に二条御所を退出。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月25日 山科言経、甘露寺経元の所望により「サヤマキ」(鞘巻)を貸す。〔『言経卿記』一〕 3月25日 山科言経、秋田久大夫(葉室頼宣侍)よりこの夜に甘露寺経元が「亜相奏慶」を受けることを知る。明日の山口祭の上卿を 担当するための昇進であった。〔『言経卿記』一〕 3月25日 山科言経、入夜に冷泉為満を訪問するも留守であった。〔『言経卿記』一〕 3月25日 甘露寺経元、「大納言ノ拝加」を受ける。〔『晴豊記』〕 3月25日 この日、大徳寺和尚の「内参」あり。〔『晴豊記』〕 3月25日 多聞院英俊、東国陣「祈祷」に参席。〔『多聞院日記』三〕 3月25日 大和国興福寺別会五師釈迦院寛尊、この日の未刻に大和国興福寺に到来した京都からの飛脚が携えた注進状により、「東国」 甲斐国の武田勝頼・武田信勝父子の首級が去2月24日に京都に到着したこと、甲斐国は「一円落居」したことを知る。 またこの日、大和国興福寺別会五師釈迦院寛尊は松井友閑(「宮内卿法印」)へ長文の書状を発した。〔『蓮成院記録』三〕 3月25日 松平家忠、遠江国本栖で御茶屋の造作普請を開始。〔『家忠日記』〕 3月25日 蜂須賀正勝、備中国吉備津神社へ調えた斎村政広(「赤松弥三郎殿」)の制札を立てる旨を指示。 詳細は斎村政広(「弥三郎殿」)より伝達させる。〔「吉備津神社文書」‐154〕 3月26日 「冷泉中殿」(冷泉為益室)、山科言経へ近江国安土城の楠正辰(「楠甚四郎」)の妻(冷泉為満妹)に音信を送るため、 小者弥二郎の借用を依頼。〔『言経卿記』一〕 3月26日 山科言経、村井吉忠(「村井又兵衛」)へ「大津」座人公事の件を諒承したことに対する「礼銭」について「大津衆」に 「引付」けた。村井光清(「将監」)へも「申事」があったので同様に通知した。〔『言経卿記』一〕 3月26日 山科言経、暮れに冷泉為満・古市宗超の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕 3月26日 勧修寺晴豊、半井瑞策(「通仙」「ロアン」)より夕食に招待される。庭田重保・東坊城盛長・白川雅朝・「芸済」が同席。 〔『晴豊記』〕 3月26日 大和国春日大社・興福寺に於ける東国陣「祈祷」が完遂す。〔『多聞院日記』三〕 3月27日 織田信長、恭順した木曽義昌(「木曽伊予守」)に信濃国筑摩郡・安曇郡を「一色」(一職)に宛行う。また木曽口も安堵。 〔『古今消息集』五〕 3月27日 山科言経、「下御所当番」を水無瀬兼成に「相伝」す。〔『言経卿記』一〕 3月27日 山科言経、二条昭実(「二条殿」)より「蒔絵細太刀」を借用す。〔『言経卿記』一〕 3月27日 山科言経、冷泉為満より「春日祭上卿次第記」を借用。〔『言経卿記』一〕 3月27日 山科言経、庭田重保の所望により「蒔絵細太刀」を貸す。〔『言経卿記』一〕 3月27日 山科言経、「北向」(山科言経室)の出産のために北野社へ参詣。「卅三灯」立願の7日参を行う。〔『言経卿記』一〕 3月27日 山科言経、甘露寺経元より「サヤマキ」(鞘巻)を返還される。〔『言経卿記』一〕 3月27日 山科言経、古市宗超の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕 3月27日 山科言経、冷泉為満主催の京都東山に於ける花見を楽しむ。〔『言経卿記』一〕 3月27日 伊勢神宮「山口祭」の日時および役目担当が決定する。 勧修寺晴豊、柳原資定・広橋兼勝・高倉永相と共に見物す。〔『晴豊記』〕 3月27日 吉田兼見、千秋月斎・相国寺南豊軒周超・智福院と「茶湯」を催す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月28日 織田信長(「信長」)、京都等持院へ在陣見舞を謝し、近日の帰陣予定を通達。〔「妙智院文書」乾〕 3月28日 周玄、町野新五郎(蒲生氏郷重臣)へ今度の武田勝頼の「御退治」にあたり織田信長(「上様」)の「御動座」に従軍した ことは「御大儀之至」であることを推察し、織田信長「御朱印」が成田氏長(「成田下総守」:武蔵国忍城主)へ発給された ことなどを通知。〔「来田文書」一〕 3月28日 山科言経、庭田重保より「蒔絵細太刀」を返還される。〔『言経卿記』一〕 3月28日 勧修寺晴豊、庭田重保の代わりに二条御所(「下御所」)の「御番」に祗候。〔『晴豊記』〕 3月28日 吉田兼見、「兼約」により佐竹左近允を訪問。〔『兼見卿記』二(別本)〕 3月28日 吉田兼見、佐竹左近允の招請を受けて「茶湯」に赴く。〔『兼見卿記』二〕 3月29日 織田信長、甲斐武田氏討伐が完遂し「知行割」の「覚」を発す。 河尻秀隆(「河尻」)、穴山信君(「穴山」)の本知を除外した甲斐国および信濃国諏訪を拝領す。 徳川家康(「家康卿」)、駿河国を拝領す。 滝川一益(「滝川左近」)、上野国および信濃国小県郡・佐久郡を拝領す。 森長可(「森勝蔵」)、信濃国高井郡・水内郡・更科郡・埴科郡を拝領す。 木曽義昌(「木曽」)、信濃国木曽谷および安曇郡・筑摩郡を拝領す。 毛利秀頼(「毛利河内」)、信濃国伊那郡を拝領す。 〔池田家文庫本『信長記』〕 3月29日 「北向」(山科言経室)、卯刻に女子を出産するもやがて卒す。 冷泉為満・四条隆昌・「中殿」(冷泉為益室)・「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)らが見舞に来訪した。〔『言経卿記』一〕 3月29日 山科言経、古市宗超の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕 3月29日 勧修寺晴豊、二条御所(「下御所」)より退出。勧修寺晴豊、紀伊国雑賀より「興正寺」が秘密裏に上洛しており、今日下向 する旨を知る。〔『晴豊記』〕 3月29日 吉田兼見、二条御所「当番」に祗候。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月30日 吉田兼見、早々に二条御所を退出。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 3月30日 山科言経、「御室御所」(任助法親王)へ「北向」(山科言経室)の安産祈念の礼を書面にて送付。〔『言経卿記』一〕 3月30日 山科言経、古市宗超を召喚し「北向」(山科言経室)の腹痛を診療させる。〔『言経卿記』一〕 3月30日 勧修寺晴豊、昨夜に「方違」を失念したので、この夜に「方違」を実行。〔『晴豊記』〕 3月30日 勧修寺晴豊、誠仁親王より二条御所(「下御所」)の当番について村井貞勝(「村井」)に「御使」として赴くよう命令を 受けるが出向かず。〔『晴豊記』〕 3月 日 織田信長、某へ信濃国「金鑿」への還住命令を徹底させる。〔「渡辺与録氏所蔵文書」〕 3月 日 織田信長、甲斐国・信濃国へ全11ヶ条の「国掟」を下す。〔池田家文庫本『信長記』〕 3月 日 織田信長、信濃国諏訪明神社家へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「守矢文書」二〕 3月 日 織田信長、信濃国諏訪社神宮寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「宮坂家古文書写」〕 3月 日 織田信長、信濃国上坊へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「如法院文書」〕 3月 日 織田信長、信濃国上坊院へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「宮坂家古文書写」〕 3月 日 織田信長、信濃国満願寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「満願寺文書」〕 3月 日 織田信長、信濃国慈雲寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「矢島文書」〕 3月 日 織田信長、信濃国乾福寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔『御判物古書写』〕 3月 日 織田信長、信濃国安曇郡吉野郷へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「丸山亀之助氏所蔵文書」〕 3月 日 織田信長、信濃国小県郡南方村へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「滝沢文書」〕 3月 日 織田信長、信濃国武井荘田辺郷へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「武居文書」〕 3月 日 織田信長、信濃国小林村へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「諏訪文書」〕 3月 日 織田信長、信濃国大野郷へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「横沢文書」〕 3月 日 織田信長、信濃国比地郷へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「池上文書」〕 3月 日 織田信長、信濃国大島町へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「宮下文書」〕 3月 日 織田信長、甲斐国伝嗣院へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「伝嗣院文書」〕 3月 日 織田信長、甲斐国保□郷へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「延命寺文書」〕 3月 日 織田信長、甲斐国奈良原へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔『諸国古文書抄』四〕 3月 日 織田信長、甲斐国川口郷へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「本庄文書」〕 3月 日 織田信忠、甲斐国奈良原へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「広済寺文書」〕 3月 日 羽柴秀吉(「筑前守」)、備前国平瀬郷金山寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「金山寺文書」‐60〕 3月 日 羽柴秀吉(「筑前守」)、備中国吉備津神社へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「吉備津神社文書」‐149〕 4月 4月 1日 山科言経、古市宗超の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕 4月 1日 「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、早朝に山科言経邸より「里」(冷泉家)へ帰宅す。〔『言経卿記』一〕 4月 1日 山科言経、正親町天皇(「禁中」)へ毎月恒例の1荷両種の献上を行う。〔『言経卿記』一〕 4月 1日 この日より二条御所(「下御所」)の「外様御番」が「六三」となり、勧修寺晴豊は「御番きつくなる」と歎く。 「加番」も「三」となった。 誠仁親王(「下御所」)、禁裏(「上」)へ御成す。〔『日々記』〕 4月 1日 吉田兼見、勧修寺晴豊から派遣された使者より明後日の4月3日に二条御所(「下御所」)の「清祓」が行われることを通達 され、存知の旨を返答す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 4月 2日 「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、暮れに山科言経邸に到来す。〔『言経卿記』一〕 4月 2日 勧修寺晴豊、吉田牧庵・「大藤」と朝食す。〔『日々記』〕 4月 2日 勧修寺晴豊、夕方に蜻庵・芸済を同行し庭田重保邸で夕食す。〔『日々記』〕 4月 2日 誠仁親王(「御方御所」)、禁裏より二条御所(「下」)へ還御す。〔『日々記』〕 4月 2日 吉田兼見、佐竹定実(「羽州」)が東国御陣に「出陣」したので留守を見舞う。(*別本『兼見卿記』には無い記事) 〔『兼見卿記』二〕 4月 3日 織田信長、甲斐国甲府の武田館趾に布陣。 4月 3日 織田信忠(「信忠」)、万里小路充房(「万里小路殿」)へ「東国」制圧の発動について正親町天皇が「御感」なされ 「勅筆」を染められた旨を再三に頂戴したことは有難く存じていること、元来甲斐武田氏が「天下」に対して「悪逆造意」を 為すことはその罪許し難いので「退治」するためこの春信濃国に向けて出陣したこと、甲斐武田氏の属城を幾つか攻略したが 武田勝頼(「武田四郎」)・仁科盛信(「仁科五郎」)が籠城する信濃国高遠城は強固な要塞であり、去る3月1日に攻撃を 開始し、翌3月2日に攻略、仁科盛信(「仁科」)らを殲滅して甲斐国へ侵攻したこと、この戦況により武田勝頼(「四郎」) は甲斐国新府城を放棄し山奥の要害へ逃げ込んだが即時追撃し、3月11日に武田勝頼一党を全滅させたこと、これにより 信濃国・甲斐国・駿河国・上野国を「平均」したこと、北条氏政(「北条」)を初めとした「関東諸侍」が残らず「出頭」して きたこと、「東国」の件は島々に至るまで織田信忠「下知」に属したので、諸国に問題が発生しないように「置目」などを通達 していること、任務完了次第に帰陣・上洛してこれまでの正親町天皇(「叡慮」)へ御礼を申し上げたく存じている旨を取り 次いで奏達することを依頼。〔『立入左京亮入道隆佐記』〕 4月 3日 快川紹喜(臨済僧)、織田軍に攻囲され恵林寺にて焼死。〔『日本史人物生没年表』〕 4月 3日 山科言経、「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)より出産の「一表」(一俵カ)を賜わる。〔『言経卿記』一〕 4月 3日 山科言経、冷泉為満を訪問。〔『言経卿記』一〕 4月 3日 山科言経、冷泉為満・山科言緒(「阿茶丸」)・富小路秀直・古市宗超・島田与介を同行し「時衆ノ形」をして千本引接寺の 念仏および花見に赴く。次いで船岡山に登る。〔『言経卿記』一〕 4月 3日 山科言経、古市宗超を招喚し「北向」(山科言経室)の薬について談合す。〔『言経卿記』一〕 4月 3日 吉田兼見、二条御所(「下御所」)へ祗候し「清祓」を行う。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 4月 3日 二条御所(「下御所」)に於いて「清祓」が行われる。〔『日々記』〕 4月 3日誠仁親王、二条御所「清祓」の結願後に吉田兼見と対面し馬・太刀を下賜す。〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二〕 4月 4日 織田信長、京都上京へ陣中見舞として「革袖物」10着の贈呈を謝し、「東国之為体」は上洛した際に申し聞かせることを 通達。〔「岩佐伍一郎氏所蔵文書」、「京都上京文書」一、『古文書』、「上京ゥ文書」〕 4月 4日 織田信長(「信長」)、山城国醍醐寺理性院へ陣中見舞として巻数・「ゆかけ」の贈呈を謝し、近々「開陣」の予定に触れ、 織田信長自身が上洛した際に詳細を申し入れる旨を通達。〔「理性院文書」坤〕 4月 4日 羽柴秀吉、備前国岡山へ着陣。 4月 4日 滝川一益、三国一大五郎へ甲斐武田氏討伐後の恩賞として「小なすひ」を要望する覚悟であったが、利根川端に配備されて 数寄の社交界より隔離された愁いの旨を通知。〔「畑柳平所蔵文書」〕 4月 4日 「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、この朝に山科言経邸より冷泉家へ戻ったが、暮れに再度山科邸を来訪する。 〔『言経卿記』一〕 4月 4日 山科言経、古市宗超の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕 4月 4日 山科言経、四条隆昌より「北向」(山科言経室)への「干鮭」1匹を受ける。〔『言経卿記』一〕 4月 4日 勧修寺晴豊、食事を持参した中山親綱の来訪を受ける。〔『日々記』〕 4月 4日 勧修寺晴豊、紀伊国雑賀へ「弥二郎」を下向させる。松井友閑(「宮内法印」)の「かわしの物」を受け取るための下向で あった。〔『日々記』〕 4月 4日 この日に二条御所の「御番結改」があり、吉田兼見は東坊城盛長と「相番」す。〔『兼見卿記』二(別本)〕 4月 4日 二条御所に於いて「御番成」があり10番組に編制される。吉田兼見は「八番」組で東坊城盛長と「相番」であった。 〔『兼見卿記』二〕 4月 5日 山科言経、沢路練意の来訪を受けて「大学」の読書指南を行う。序章より5章までを講習した。〔『言経卿記』一〕 4月 5日 山科言経、「大津者」(近江国大津座人)の来訪を受けて、村井吉忠(「村井又兵衛」)・村井光清(「将監」)へ使者を 派遣した。〔『言経卿記』一〕 4月 5日 山科言経、江村専斎(「江村甚太郎」)の来訪を受けて「侖吾憲問」第14章を講読した。〔『言経卿記』一〕 4月 5日 山科言経、古市宗超の到来を受けて北向(山科言経室)の治療のための薬について談合する。〔『言経卿記』一〕 4月 5日 中山親綱(「頭中将」)、「神宮奉行」に任務を終える。〔『日々記』〕 4月 5日 吉田兼見、甲斐国在陣中の佐竹定実(「佐竹羽州」)の留守宅を見舞に訪問。 〔『兼見卿記』二(別本)、『兼見卿記』二(別本)〕 4月 5日 松平家忠、女坂に茶屋造作普請を開始。〔『家忠日記』〕 4月 6日 「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、昼に山科邸より冷泉家へ帰宅。〔『言経卿記』一〕 4月 6日 山科言経、「七宮御方」(誠仁親王第七皇子)へ保童円200粒を献上。〔『言経卿記』一〕 4月 6日 山科言経、山科言緒(「阿茶丸」)を同行し京都阿弥陀寺へ「立行念仏者」の見物に赴く。〔『言経卿記』一〕 4月 6日 山科言経、正親町季秀の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕 4月 6日 山科言経、住田清右衛門尉(村井貞勝家中)へ「大津公事篇」の件で鯛2匹を送る。〔『言経卿記』一〕 4月 6日 山科言経、古市宗超の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕 4月 6日 山科言経、冷泉為満の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕 4月 6日 山科言経、中御門宣光の来訪を受ける。「方違」のための到来であった。〔『言経卿記』一〕 4月 6日 勧修寺晴豊、壬生朝芳(「官務」)から「蕨」3把を贈られる。〔『日々記』〕 4月 6日 勧修寺晴豊、三河国林泉寺へ正親町天皇「勅」によりこの日信濃兵部丞が派遣されたことを知る。〔『日々記』〕 4月 7日 蜂須賀正勝、備中国吉備津神社近辺へ陣取るが境内は除外する旨、黒田孝高(「小寺官兵衛」)と相談し案内人供出を命令。 〔「吉備津神社文書」‐155〕 4月 7日 小早川隆景、能島村上氏・来島村上氏が断交するにあたり、羽柴秀吉の懐柔を拒絶した村上吉允(因島)を賞す。 〔「村上文書」一〕 4月 7日 山科言経、冷泉為満より「蘇木」を所望され遣わす。〔『言経卿記』一〕 4月 7日 山科言経、江村専斎(「江村甚太郎」)の来訪を受けて読書を指南。「侖吾」15・16巻の講読を行った。 〔『言経卿記』一〕 4月 7日 山科言経、冷泉為満より「古今集」序を借用す。〔『言経卿記』一〕 4月 7日 「御局」(典侍冷泉氏:七宮生母)、山科言経邸を訪問。〔『言経卿記』一〕 4月 7日 山科言経、古市宗超の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕 4月 7日 山科言経、村井光清(「村井将監」)より使者を受ける。去々年以来東坊城盛長が大津座人の塩籠を抑制しており、山科言経 よりこのところの数度にわたり村井光清(「将監」)へ交渉したので、来たる4月10日に塩籠したものを返却するようにする との通知であった。後刻、山科言経は村井光清(「将監」)へ使者を派遣し、礼を通知したが留守であった。 〔『言経卿記』一〕 4月 7日 勧修寺晴豊、二条御所(「下御所」)の「御番」に祗候。五辻元仲(「左馬頭」)の代理に土御門久脩が祗候していた。 〔『日々記』