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天正 9(1581)年 1月 1月 1日 織田信長(「信長」)、能登国の温井景隆・三宅長盛へ「年甫之祝詞」として銀子10両と鰤3匹の贈呈を謝す。 詳細は菅屋長頼(「菅屋九右衛門尉」)に伝達させる。〔「酒井達郎氏所蔵文書」〕 1月 1日 岩越吉久(菅屋長頼の老臣)、温井景隆(「温備」)・三宅長盛(「三備」)へ近江国安土城への早急な「御出仕」を督促。 〔「酒井文書」〕 1月 1日 松平家忠、遠江国高天神城攻囲の陣中に於いて諸将を礼問す。〔『家忠日記』〕 1月 2日 織田信長(「信長」)、某へ「年甫之祝儀」としての太刀1腰・馬代1疋の贈呈を謝す。 〔『思文閣古書資料目録』第四十五号、『明治百年大古書展出品目録』〕 1月 2日 菅屋長頼、某へ「改年之御祝儀」として進上された銀子10枚と鰤3匹を織田信長に披露したところ、早々の祝着との旨の 織田信長「御内書」が出されたこと、同様に菅屋長頼への銀子5枚贈呈を謝す。〔「筒井文書」〕 1月 3日 多聞院英俊、筒井順慶(「筒井順慶」)・大和国衆が歳暮礼と年頭祝儀の礼参のため近江国安土城に出仕したところ、織田側 より「停止」の通達を受けて織田信長との対面は無く帰ったことを知る。近日中に織田信長が在京するので、その際に礼参を 受けるとのことであった。〔『多聞院日記』三〕 1月 5日 吉田兼見、村井吉忠(「村井又兵衛尉」)へ鎮札・御祓等を贈る。〔『兼見卿記』一〕 1月 6日 細川藤孝(「長岡兵部大輔」)、吉田兼見を訪問し近江国坂本に於いて明智光秀(「惟任向州」)が連歌を興行する由を 知らせる。細川藤孝は深厚に及び帰京。〔『兼見卿記』一〕 1月 7日 多聞院英俊、十市新二郎(「十新」)へ年頭祝儀の進物を送付。〔『多聞院日記』三〕 1月 7日 佐竹定実(「佐竹出羽守」)・佐竹左近允父子、吉田兼見を訪問。晩に及び帰宅。〔『兼見卿記』一〕 1月 8日 相国寺南豊軒周超・小笠原貞慶(「小笠原民部少輔」)、吉田兼見を訪問。〔『兼見卿記』一〕 1月 8日 吉田兼見、佐竹定実(「佐出」)・佐竹左近允父子へ神供を贈る。〔『兼見卿記』一〕 1月 9日 秦宗巴(「寿命院」)、吉田兼見を訪問。〔『兼見卿記』一〕 1月10日 吉田兼見、吉田兼治(「侍従」)を同行し村井貞勝(「春長軒」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕 1月10日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕 1月10日 吉田兼見、禁裏(「禁中」)へ参賀。〔『兼見卿記』一〕 1月10日 吉田兼見、近衛信尹(「近衛殿御方御所」)を訪問し久我季通(「久我殿」)と参会。〔『兼見卿記』一〕 1月10日 吉田兼見、宝鏡院殿・光松院殿・徳大寺公維(「徳大寺殿」)・小笠原貞慶(「小笠原民部少輔」)・ 吉田浄勝(「盛方院」)を訪問し年頭を祝賀す。〔『兼見卿記』一〕 1月10日 吉田浄勝(「盛方院」)、近江国安土へ下向。〔『兼見卿記』一〕 1月10日 多聞院英俊、十市新二郎(「新」)より年頭祝儀の謝礼を受ける。〔『多聞院日記』三〕 1月11日 筒井順慶(「筒井順慶」)、大和国春日大社に社参す。次いで大和国興福寺成身院に於いて恒例の寺中衆からの礼問を受く。 〔『多聞院日記』三〕 1月11日 多聞院英俊、筒井順慶(「筒井順慶」)への礼問に出席せず。〔『多聞院日記』三〕 1月11日 遠江国高天神城攻囲中の松平家忠陣所より失火す。〔『家忠日記』〕 1月13日 吉田兼見、近江国坂本城の明智光秀(「惟任日向守」)を礼問す。しかし細川丹波守の使者より明智光秀所労の報告を受けて 面会できず。〔『兼見卿記』一〕 1月15日 近江国安土に於いて「爆竹」(左義長)・「御馬沙汰」(馬揃)が行われる。〔『兼見卿記』一〕 1月15日 近江国安土に於いて「サキチヤウ風流」(三毬打)が執り行われる。「色々ノ出立、馬ハ惣テ金ニタム、モユル火ノリ入」と いう様子であった。〔『多聞院日記』三〕 1月15日 この夜、吉田兼見邸に於いても恒例の如く「爆竹」が行われる。〔『兼見卿記』一〕 1月15日 吉田兼見、「天下触穢」により神事に祗候せず。〔『兼見卿記』一〕 1月15日 吉田兼見、山科言経(「山科黄門」)より書状にて「服忌令」の不審な点を尋ねられる。〔『兼見卿記』一〕 1月16日 吉田兼見、二条昭実(「二条殿」)へ御祓を進上。〔『兼見卿記』一〕 1月16日 細川忠興(「長岡与一郎」)、近江国安土より上洛。〔『兼見卿記』一〕 1月16日 近衛前久(「近衛殿」)、近江国安土より帰洛の途中に吉田兼見邸へ御成。〔『兼見卿記』一〕 1月17日 近衛前久(「近衛殿」)、未明に吉田兼見邸より還御。〔『兼見卿記』一〕 1月17日 吉田兼見、佐竹定実(「佐竹出羽守」)より茶会への招請により赴く。〔『兼見卿記』一〕 1月18日 織田信長(「信長」)、近江国安土に於いて「御爆竹」を挙行。 「諸大名」を召集し、金銀で飾り立て、「天下に其聞無隠事」であった。〔『立入左京亮入道隆佐記』〕 この頃 正親町天皇、京都に於いて「御興行」を催す「叡慮」を織田側に通達。〔『立入左京亮入道隆佐記』〕 1月19日 吉田兼見、村井貞勝(「春長軒」)を訪問し将碁をする。〔『兼見卿記』一〕 1月19日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕 1月20日 多聞院英俊、去1月15日に近江国安土に於いて「サキチヤウ風流」が行われたことを知る。 また来1月25日に京都でも行われることになっており、それにつき織田信長(「信長」)が上洛するということも知る。 〔『多聞院日記』三〕 1月20日 菅屋長頼、池田元助の書状に応え池田恒興の摂津国有馬郡進行を報ず。〔「余田文書」〕 1月21日?織田信長、大友義統から献上された馬2疋を謝す。詳細は松井友閑に伝達させる。〔「大友家文書録」B‐1807〕 1月21日 織田信忠、大友義統から献上された猩々皮1枚を謝す。詳細は松井友閑に伝達させる。〔「大友家文書録」B‐1808〕 1月21日 吉田兼見、室(「青女」)・吉田兼治(「侍従」)を同行し佐竹定実(「佐竹羽州」)を訪問。暮れに及び帰宅。 〔『兼見卿記』一〕 1月21日 大和国興福寺成身院に於いて「春日講」が行われ、筒井順慶(「順慶」)が相伴す。〔『多聞院日記』三〕 1月22日 筒井順慶(「順慶」)、大和国興福寺成身院に於いて「北ワキ与力衆」に対して通達する。〔『多聞院日記』三〕 1月23日 織田信長、明智光秀(「惟任日向守」)へ先頃の近江国安土に於ける「爆竹」「ゥ道具」の製作がとても出来栄えが良く、 予想外の音信は念入りで神妙であることを賞し、それならば、今度京都に於いて念入りに「馬を乗」って「遊」ぶことにする とし、若作りや思い通りの扮装をすることは明智光秀はいうまでもなく、「幾内之直奉公之者共」や「老若」の兵卒も参加 すべきことを責任以て申し触れることを命令。また京都に於いて「陣参被仕候公家衆」や「只今信長扶持令請候公方衆」、 その他「上山城之者共」は残さず「内々」の用意をあせることは良きことであり、摂津国の高山重友(「高山」)・ 中川清秀(「瀬兵衛」)父子・池田元助(「池田」)・池田輝政へ参加を通達し、池田恒興へは摂津国伊丹城留守居を担当 させること、摂津国多田では塩川勘十郎・塩川橘大夫へ参加を通達すること、河内国の多羅尾光俊・多羅尾光太・多羅尾光雅・ 池田教正(「池田丹後守」)・野間長前(「野間左橘」)・三好康長(「三好山城守」)は阿波国へ出陣するので参加用意を 除外すること、但し参加希望者は「覚悟次第乗」るべきこと、和泉国の寺田又右衛門尉・松浦安大夫・ 沼間清成(「沼間任世」)およびその孫、その他「直参之者共」・「根来寺連判」衆・「扶持人共」は参加用意をすべきことを 通達させる。次いで「大坂」を守備している丹羽長秀(「五郎左衛門尉」)・蜂屋頼隆(「蜂屋」)へも参加用意を通達する こと、若狭国からは武田元明(「孫犬」)・内藤某・熊谷某・粟屋某・逸見某・山県下野は参加すべきこと、この件は 丹羽長秀(「五郎左衛門尉」)より通達させるよう連絡させる。「六十余州」へ知れ渡るよう「馬」数を多く用意し、 明智光秀「年寄」の後ろに参加希望者があれば参席を許可すること、細川藤孝・細川忠興・細川興元については、 細川藤孝(「兵部大輔」)が丹後国守備であるので、都合がつけば細川忠興・細川興元の兄弟と一色満信(「一色五郎」)が 参加すべきことを通達させる。〔『立入左京亮入道隆佐記』、『士林証文』三、「三宝院文書」二‐五〕 この頃 近衛前久、大友義統へ織田信長不意の芸州出陣に際し大友氏・島津氏の和睦促進を勧告。〔「大友家文書録」B‐1809〕 1月24日 吉田兼見、東陽坊長盛より茶会に招請される。〔『兼見卿記』一〕 1月24日 多聞院英俊、5・6日前に大和国一坂に於いて山城国の「クサチノ矢田」が殺害されたことを知る。 また大和国木津郷の百姓共が「チクテン」したことで「種々悪逆」という状態であることも知る。〔『多聞院日記』三〕 1月24日 遠江国高天神城攻囲中の松平家忠陣所に於いて喧嘩が発生。刃傷沙汰に及んだ佐野孫助は陣を逃亡す。〔『家忠日記』〕 1月25日 織田信長、河内国の安井定次(「安井清右衛門」)へ河内国久宝寺屋敷の「一色」安堵と諸役免除、安井主計兄弟の諸役免除 久宝寺への「禁制」を下す。〔「安井文書」乾〕 1月25日 織田信長(「信長」)、徳川家康配下の尾張国の水野忠重(「水野宗兵衛」)へ遠江国高天神城の処遇について指示を下し、 武田勝頼(「武田四郎」)程度では反撃不可能であろう見通しと徳川家康(「家康」)の辛労を犒い、一両年内に織田信長自身 が駿河国・甲斐国へ「出勢」すれば制圧できること、もし遠江国高天神城と同様に小山・滝坂を「見捨」れば駿河国内の小城も 維持できなくなるので、今後の心配事とするか、現時点で骨を折るかの判断は困難であり、この通りに徳川家康(「家康」)へ 物語り、徳川「家中之宿老共」にも聞かせて談合することを伝達するよう命令。 また、この意見は「信長思寄心底を不残申送」ったものであることを付け加える。〔「水野文書」〕 1月25日 吉田兼見、入夜に明智光秀(「惟任日向守」)より書状を受ける。書状には織田信長(「信長」)が今度京都に於いて 「馬汰」を行う由についての通達であった〔『兼見卿記』一〕 1月25日 京極高吉、没。〔『日本史人物生没年表』〕 1月26日 吉田兼見、早々に近江国坂本へ下向。細川丹波守(「細川丹州」)を以て「御馬汰」について吉田兼見は参加命令の対象と なっているか否かを問わせる。明智光秀(「向州」)からの返答は、吉田兼見へ通達したのは明智光秀の一存であったという ことであった。更に吉田兼見、馬揃への参加免除を申請し、万一の際には織田信長への取り成しを依頼する。その後、吉田兼見 は上洛、帰宅。〔『兼見卿記』一〕 1月26日 太田資正(「太田美濃入道」)、羽柴秀吉へ織田信長への内応要請の書状を発す。〔「太田文書」〕 1月27日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問。近衛前久は調馬を試みる。〔『兼見卿記』一〕 1月27日 吉田兼見、村井貞勝(「春長軒」)を訪問し将碁をしながら今度の「御馬汰」に吉田兼見は参加すべきか否かを談合。 吉田兼見、村井貞勝へ昨日明智光秀(「惟向州」)と相談した由を伝え同心を得る。〔『兼見卿記』一〕 1月27日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)の鷹野に誘われ、入夜に帰宅。〔『兼見卿記』一〕 1月28日 日野資勝(「日野黄門息」)、元服。吉田兼見、酒肴を贈るも外出中であった。〔『兼見卿記』一〕 1月28日 吉田兼見、正親町季秀(「正親町黄門」)を訪問、談合。そこへ柳原淳光が到来。〔『兼見卿記』一〕 1月28日 吉田兼見、真如堂・吉田牧庵・相国寺南豊軒周超を訪問。〔『兼見卿記』一〕 1月28日 吉田兼見、近衛信尹(「近衛殿御方御所」)を訪問。明日近衛前久(「下之大御所」)が連歌興行を行うので出座について 談合。〔『兼見卿記』一〕 2月 2月 1日 吉田兼見、京都へ出ず。川原に於いて明智光秀(「惟任日向守」)と遭遇。明智光秀(「惟日」)は近江国坂本へ下向の途上 というので、吉田兼見は白川辺まで雑談しながら見送る。〔『兼見卿記』一〕 2月 1日 吉田兼見、白川より帰り、直ちに再度京都へ出ず。先ず松井友閑(「友閑」)を訪問、面会。そして近衛前久(「近衛殿」) を訪問するが来客とのことで挨拶無しで退出。その後徳大寺公維(「徳大寺殿」)を訪問し帰宅。〔『兼見卿記』一〕 2月 2日 柳原淳光(「柳亜相」)・白川雅朝(「伯」)・万里小路充房・正親町季秀(「正親町黄門」)、吉田兼見を訪問、暮れに 及び帰京。〔『兼見卿記』一〕 2月 2日 吉田兼見、小笠原貞慶(「小笠原民部少輔」)へ書状を送付し明後日の茶湯興行へ招待。小笠原貞慶より参席の返答あり。 〔『兼見卿記』一〕 2月 4日 吉田兼見、小笠原貞慶(「小笠原民部」)・相国寺南豊軒周超を先約の通り茶会に招請。〔『兼見卿記』一〕 2月 5日 正親町天皇、織田側へ「内々」に「上搆芫ヌ」(花山院家輔女)・「御さこ」を、誠仁親王(「下之御所二条之」)は 「若御局」(勧修寺晴子)侍女の「五い」を派遣。立入隆佐(「立入隆佐入道」)が添えられて近江国安土へ下向した。 〔『立入左京亮入道隆佐記』〕 2月 5日 吉田兼見、近衛信尹(「近衛殿御方御所」)より和歌短冊1首を贈られる。〔『兼見卿記』一〕 2月 6日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問、対面。〔『兼見卿記』一〕 2月 6日 吉田兼見、村井貞勝(「春長軒」)を訪問、面会。将碁数盤の後に夕食。〔『兼見卿記』一〕 2月 6日 吉田兼見、近衛信尹(「近衛殿御方御所」)を訪問、対面。そこへ勧修寺晴豊(「勧黄門」)が祗候。〔『兼見卿記』一〕 2月 7日 細川藤孝(「長岡兵部大輔」)、早々に吉田兼見を訪問、晩に及び京都へ出ず。〔『兼見卿記』一〕 2月 7日 三条実綱(「轉法輪」)、20才の若さで逝去。〔『兼見卿記』一〕 2月 8日 織田信長、正親町天皇・誠仁親王より派遣された内々の使者と対面。 この時に織田信長(「信長」)は「御機嫌なのめならす」様子で、「内々御請」と返答する。〔『立入左京亮入道隆佐記』〕 2月 9日 近江国安土への「御使之衆」、帰洛す。〔『立入左京亮入道隆佐記』〕 2月 9日 柳原淳光(「柳亜相」)・万里小路充房、吉田兼見を訪問、暮れに及び帰京。〔『兼見卿記』一〕 2月 9日 多聞院英俊、在京中の十市新二郎(「十新」)へ贈物を送付。〔『多聞院日記』三〕 2月10日 織田信忠、伏屋市兵衛へ知行を宛行う。〔「伏屋文書」‐1〕 2月11日 近衛信尹(「近衛殿御方御所」)、吉田神社へ参詣。後に日野輝資(「日野黄門」)・西洞院時通も到来、暮れに及び還御。 〔『兼見卿記』一〕 2月11日 吉田兼見、小笠原貞慶(「小笠原民部少輔」)より書状を受ける。その内容は、織田信長(「右府信長」)が来たる15日に 入洛するにあたり、「御馬汰」の件で「シツカ烏帽子」及び「腰帯」の借用を依頼するものであった。〔『兼見卿記』一〕 2月12日 吉田兼見、近衛信尹(「近衛殿」)・日野輝資(「日野黄門」)からの使者へ進盃。〔『兼見卿記』一〕 2月12日 大和国興福寺大乗院門跡、明日の上洛の準備として費用を調達。〔『多聞院日記』三〕 2月12日 筒井順慶(「筒順」)、明日に織田信長(「信長」)が出京するというので上洛す。〔『多聞院日記』三〕 2月12日 多聞院英俊、明日に織田信長(「信長」)が出京するというのでこの日筒井順慶(「筒順」)が上洛したこと、また明日 大和国興福寺大乗院門跡が上洛するので費用調達することを知り、銀子2枚を進上。「代米」は教浄が大和国桜井にて渡すこと になったことを知る。〔『多聞院日記』三〕 2月13日 吉田兼見、万里小路充房より書状を受ける。その内容は織田信孝(「三七殿」)より雁を贈られたので振舞の席を設けると いう招待であったが、山城国愛宕郡高野蓮養坊との先約があったため辞す。〔『兼見卿記』一〕 2月13日 大和国興福寺大乗院門跡、この朝に上洛す。〔『多聞院日記』三〕 2月14日 吉田兼見、佐竹定実(「佐竹羽州」)を訪問したところ今度の「御馬汰」の用意をしていた。晩に及び帰宅。 〔『兼見卿記』一〕 2月14日 多聞院英俊、在京する大和国興福寺大乗院門跡からの「御書」により織田信長(「信長公」)は未だ上洛していないことを 知る。〔『多聞院日記』三〕 2月14日 宇喜多直家、病没。〔『日本史人物生没年表』〕 2月15日 織田信長(「右府信長」)、上洛を来2月18日に延引。〔『兼見卿記』一〕 2月15日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問、対面。〔『兼見卿記』一〕 2月15日 吉田兼見、村井貞勝(「春長軒」)を訪問し将碁をする。今度の「御馬汰」の道具を見て驚嘆。〔『兼見卿記』一〕 2月16日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕 2月16日 吉田兼見、真如堂東陽坊長盛の茶会に赴く。〔『兼見卿記』一〕 2月16日 津田重久(「津田与三郎」)、近衛前久(「近衛殿」)の所望により近江国坂本より馬を牽き寄せる。〔『兼見卿記』一〕 2月17日 近衛前久(「近衛殿」)、津田重久(「津田与三郎」)進上の馬と相性が合わず近江国坂本へ返す。〔『兼見卿記』一〕 2月19日 織田信忠(「城介殿」)、上洛す。〔『多聞院日記』三〕 2月19日 北畠信雄(「国司」:織田信雄)、上洛す。〔『多聞院日記』三〕 2月19日 神戸信孝(「三七郎殿」:織田信孝)、上洛す。〔『多聞院日記』三〕 2月20日 織田信長(「信長」)、上洛す。〔『多聞院日記』三〕 2月20日 吉田兼見、当番として二条御所に祗候。万里小路房子(誠仁親王生母)の服喪期間が明けたのでこの年最初の当番であった。 〔『兼見卿記』一〕 2月20日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問したところ織田信長(「右府信長」)上洛を告げる飛脚が近江国大津より到来した ので即時退出。吉田兼見、吉田兼治(「侍従」)を同行し山科に於いて待機。織田信長は申下刻に上洛、吉田兼見らは路次に おいて織田信長を出迎える。〔『兼見卿記』一〕 2月21日 織田信長、今度の「御馬汰」のため内裏の東方へ馬場を造作させる。南北4町、東西1町余りの馬場であった。 〔『兼見卿記』一〕 2月21日 吉田兼見、京都へ出ず。〔『兼見卿記』一〕 2月21日 多聞院英俊、在京中の大和国興福寺大乗院門跡の「御内書」により京都の情勢を知る。 その内容は、去2月19日に織田信忠(「城介殿」)・織田信雄(「国司」)・織田信孝(「三七殿」)が上洛、去2月20日 に織田信長(「信長」)が上洛したこと、「使国衆」も上洛し、京都の混雑ぶりは驚くべき様であること、「馬汰」の実行日は 定まっていないことを知る。〔『多聞院日記』三〕 2月21日 羽柴秀吉、亀井茲矩(因幡国鹿野城守将)へ但馬国一揆制圧後に出征、それ迄は城を堅守するよう指示。〔「亀井文書」〕 2月22日 内裏東方の馬場、完成。〔『兼見卿記』一〕 2月22日 吉田兼見、吉田兼治(「侍従」)・日野輝資(「日野黄門」)を同行し早々に織田信長(「右府信長」)を訪問。 暫く待機するが対面は無く、公家衆(「御見廻之衆」)は退出。吉田兼見、晩に吉田兼治(「侍従」)を同行し再び織田信長 (「信長御屋敷」)を訪問、松井友閑(「宮内卿法印」)へ狩野の扇10本を贈る。〔『兼見卿記』一〕 2月22日 大和国衆各自が上洛す。〔『多聞院日記』三〕 2月22日 多聞院英俊、在京中の大和国興福寺大乗院門跡より来2月25日に「馬汰」が決定したことを知る。〔『多聞院日記』三〕 2月23日 吉田兼見、細川藤孝(「長兵」)より書状を受ける。その内容は後刻、明智光秀(「惟任日向守」)・蜂屋頼隆・松井友閑 (「宮内卿法印」)が吉田の春日馬場に於いて騎乗する由の通知であった。吉田兼見、接待の準備をして了承の意を返答。 蜂屋頼隆は到来しなかったが、明智光秀(「惟日」)・松井友閑(「宮法」)・細川藤孝(「長兵」)が従者200人余を 率いて春日馬場に到来。乗馬終了後、各々の訪問を受け夕食を接待、その後各自帰京。〔『兼見卿記』一〕 2月23日 吉田兼見、村井貞勝(「春長軒」)より出頭命令を受け京都へ出ず。内裏東方馬場に於いて村井貞勝(「春長軒」)と面会。 新馬場普請のために禁裏巽角の小社を天満社の近所へ遷座するようにとの命令を受ける。〔『兼見卿記』一〕 2月24日 柴田勝家、入京し本能寺の織田信長を訪問、越前国・加賀国平定を報告す。 2月24日 吉田兼見、松井友閑(「宮内卿法印」)・明智光秀(「惟日」)を訪問。その後、細川藤孝(「長兵」)を訪問。 〔『兼見卿記』一〕 2月24日 吉田兼見、近衛信尹(「近衛殿御方御所」)を訪問し徳大寺公維(「徳大寺殿」)のために指貫を借用。その後、直接 徳大寺公維(「徳」)を訪問。さらに万里小路充房を訪問するが外出中であった。〔『兼見卿記』一〕 2月25日 織田信長、「御馬汰」を来たる28日に決定。〔『兼見卿記』一〕 2月25日 吉田兼見、当番として二条御所へ祗候。〔『兼見卿記』一〕 2月25日 吉田兼見、織田信澄(「七兵衛殿」)を訪問。入夜に森長定(「森御乱」)・猪子高就(「猪子兵介」)を訪問。 〔『兼見卿記』一〕 2月26日 吉田兼見、早々に二条御所を退出。〔『兼見卿記』一〕 2月27日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問。「御馬汰」が明日に決定の由を伝えると以外に「取乱」す。〔『兼見卿記』一〕 2月27日 吉田兼見、明日の馬揃は公家衆は一人残らず参席する用意をしているというので、この夜に万里小路充房邸に吉田兼治 (「侍従」)を同行し宿泊。吉田兼見室(「青女」)は知慶院に宿泊。〔『兼見卿記』一〕 2月28日 京都に於いて「御馬揃」が挙行される。〔「酒井文書」〕 2月28日 京都に於いて「御興行」が挙行される。織田信長(「信長」)は「田舎の事をこそしろしめし候へ」とて開始させた。 〔『立入左京亮入道隆佐記』〕 2月28日 「京之公家衆」で「御馬乗」をしたのは日野輝資・正親町季秀・高倉永相・高倉永孝・竹内長治の5人であった。 〔『立入左京亮入道隆佐記』〕 2月28日 吉田兼見、未明に衣冠を着し幄屋に出向く。御座は一段高く、北側には摂家・清華家・門跡・公卿・殿上人が残らず参席。 南側には女中衆が参席。辰刻より「御馬汰」が開始され、その様子を吉田兼見は「各尽結構中々難述筆短」という程華やかで、 行列の様子は「希代此事」であると評す。烏丸光宣・日野輝資・正親町季秀・高倉永孝(「藤右衛門佐」)が「乗馬之衆」で あった。未下刻には終了。〔『兼見卿記』一〕 2月28日 正親町天皇(「禁裏様」)、「御興行」を桟敷より見物し「驚御目」されて「御書」を認める。 その内容は「今度之見物、筆にも御言にもつくしかたく、唐国にもかやうの事有間敷」というものであった。 〔『立入左京亮入道隆佐記』〕 2月28日 正親町天皇(「禁裏様」)、織田信長(「信長」)に対して「御勅使」5名を派遣。 庭田重保・中山親綱・甘露寺経元・広橋兼勝・勧修寺晴豊が「忝候由御礼」を織田信長に申し上げた。 〔『立入左京亮入道隆佐記』〕 2月28日 多聞院英俊、この日京都に於いて「京都馬揃」が挙行されたことを知る。諸国より見物衆が多く、大和国奈良よりも多数の 見物者が上洛した。「見事サ先代未聞、未来不可得」という評価であった。〔『多聞院日記』三〕 2月29日 織田信長、紀伊国熊野新宮別当の堀内氏善(「堀内新次郎」)へ紀伊国牟婁郡境目の相賀を限って神領として安堵。 〔「堀内文書」〕 2月29日 吉田兼見、早々に吉田兼治(「侍従」)を同行し織田信長(「右府信長」)へ祗候。公家衆も各自祗候するが、織田信長との 対面は無く退出。〔『兼見卿記』一〕 2月29日 吉田兼見、村井貞成(「村作」)を訪問し面会。昨日の「御馬汰」について談合。〔『兼見卿記』一〕 2月29日 柴田勝家、京都より能登国の温井景隆(「温井備前守」)へ前日2月28日に「御馬揃」が挙行され、柴田勝家らも「騎馬」 したこと、この様子は温井景隆の使者が「見物」したので帰国後に「物語」るであろうこと、近年柴田勝家は織田信長に対面 していなかったので「毎日祗候」していることを通達。また織田信長より「北国表」の状況を諮問されたので「其元之始末」を 報告したことに触れ、やがて越前国に下国する予定であること、摂津国有馬に「湯治」することを通達。 詳細は山中長俊(「山中橘内」)に伝達させる。〔「酒井文書」〕 2月 晦日 吉田兼見、明日の神事のため二条御所の当番に祗候せず。〔『兼見卿記』一〕 3月 3月 1日 正親町天皇(「禁裏様」)、織田信長の「御官位を被仰出候」とて「上搆芫ヌ」(花山院家輔女)を「勅定」として 「御勅書」を携帯させ派遣。その内容は織田信長を「左府に被仰出由」であった。〔『立入左京亮入道隆佐記』〕 3月 1日 上杉景勝、越中国へ出兵。 3月 2日 近衛前久、島津義久へ織田信長が「御朱印」を以て大友義統・島津義久の和睦締結を促し、毛利輝元を討伐する意向を報告。 詳細は伊勢貞知・道叱に伝達させる。〔「島津家文書」A‐667〕 3月 2日 近衛前久、喜入季久へ去年以来の大友氏・島津氏和睦に関し織田信長が「御朱印」で通達している「筋目」容認を指示。 芸州への出馬前に勧告を容れるよう強く通達。詳細は伊勢貞知・道叱に伝達させる。〔「旧記雑録後編」@‐1192〕 3月 3日 吉田兼見、織田信長(「右府信長」)へ祗候するも対面は無かった。〔『兼見卿記』一〕 3月 3日 筒井順慶(「筒井」)、「順円」の件で「松生家」へ派遣された使者を追い返す。〔『多聞院日記』三〕 3月 4日 吉田兼見、明日に再び内裏東方の馬場に於いて「御馬汰」が行われる由を知る。〔『兼見卿記』一〕 3月 5日 織田信長(「信長」)、細川藤孝(「長岡兵部大輔」)へ丹後国「領知方」の件で国中残すところ無く糺明し、「ゥ給人」 から「指出」を提出させて知行を宛行い、余分は細川藤孝の直轄分として「軍役」以下を賦課することを命令。 〔「細川家文書」二〕 3月 5日 京都に於いて「御馬乗」が挙行される。 「はや馬共」から選抜した300余騎が「くろき赤き頭巾」と「思々出立」であった。〔『立入左京亮入道隆佐記』〕 3月 5日 京都「御馬乗」に於いて織田信長は正親町天皇(「叡慮」)より「白ふく」を拝領。 織田信長は色々な小袖を着用し、度々衣装替えを行ったが、正親町天皇より拝領した「御ふく」を「御うわき」として、 「きんらんのそはつき」・「しやうぶかわの皮袴」・「なんばんずきん」という装束であった。 織田信忠(「織田城介殿」)は「しやうしやう皮の御どうふく」・猩々皮の「ずきん」・「黒皮袴」という装束であった。 他の馬廻衆は思い思いに「馬乗」をした。参加した織田信長子息は織田信忠(「城介殿」)・織田信雄(「伊勢之御本所」)・ 織田信孝(「三七殿」)の3名であった。〔『立入左京亮入道隆佐記』〕 3月 5日 織田信長、再び「御馬汰」を行う。誠仁親王も見物。公家衆は「異体」の姿で見物。馬数は700余、先の馬揃で乗馬した 日野輝資・烏丸光宣・正親町季秀・高倉永孝及び「公方衆」は乗馬せず、織田信長(「右府」)の御馬廻衆のみで挙行された。 〔『兼見卿記』一〕 3月 5日 誠仁親王(「御方之御所」)、「御馬乗」を女房衆に「うちまきれ」て見物。〔『立入左京亮入道隆佐記』〕 3月 5日 吉田兼見、入夜当番として二条御所へ祗候。〔『兼見卿記』一〕 3月 5日 羽柴秀吉(「秀吉」)、播磨国姫路城より長谷川秀一(「長竹」)へ「御馬揃」の「夥敷」様を聞き知り、参上できなかった 「無念」を伝え、せめて参加者各自の「御仕立共」を知りたい意向を通知。また播磨国姫路城の普請終了を報告。 〔「富田仙助氏所蔵文書」二〕 3月 6日 吉田兼見、早々に二条御所を退出。〔『兼見卿記』一〕 3月 8日 吉田兼見、猪子高就(「猪子兵介」)の使者より書状を受ける。〔『兼見卿記』一〕 3月 9日 織田信長(「右府信長」)、近江国安土下向を予定するも明日に延期。〔『兼見卿記』一〕 3月 9日 吉田兼見、織田信長(「右府信長」)下向というので吉田兼治(「侍従」)を同行し粟田口まで出向くが明日に延期と知り 近衛前久(「近衛殿」)を訪問。吉田兼見、近衛前久へ吉田兼見室(「青女」)の縁女に曲事があったため放逐を申請。 〔『兼見卿記』一〕 3月 9日 吉田兼見、明日所用により二条御所当番を水無瀬親具(「水無瀬兵衛督」)へ相伝。〔『兼見卿記』一〕 3月 9日 上杉景勝、佐々成政を越中国小出城に攻撃す。 3月10日 織田信長(「右府信長」)、未明に近江国安土へ下向。〔『兼見卿記』一〕 3月10日 織田信長(「信長」)、近江国安土へ下向。〔『多聞院日記』三〕 3月10日 吉田兼見、織田信長(「右府信長」)の下向が未明であったため見送らず。〔『兼見卿記』一〕 3月10日 多聞院英俊、この日織田信長(「信長」)が近江国安土に下向したことを知る。〔『多聞院日記』三〕 3月10日 細川藤孝(「長兵」)、吉田兼見を訪問、朝食をとり午刻に京都へ出ず。〔『兼見卿記』一〕 3月11日 吉田兼見、村井貞勝(「春長軒」)を訪問、将碁をする。〔『兼見卿記』一〕 3月11日 吉田兼見、二条御所(「下御所」)へ祗候し中山親綱(「中山黄門」)・水無瀬兼成(「水無瀬黄門」)等と参会。 そこでは正親町天皇の「御譲位之事」について織田信長(「右府信長」)が申し出たという話題が中心であった。公家衆は この織田信長の申し出の件について「各内々談合」した。〔『兼見卿記』一〕 3月11日 筒井順慶(「筒順」)、大和国春日大社に社参す。 また筒井順慶(「順慶」)は大和国興福寺金勝院の所有する「真壺」を所望し見物す。〔『多聞院日記』三〕 3月11日 筒井順慶(「順慶」)、大和国興福寺金勝院の「職事」について指示を下す。〔『多聞院日記』三〕 3月12日 筒井順慶(「順慶」)、大和国興福寺金勝院へどんな礼物でも受け取らないよう指示する。〔『多聞院日記』三〕 3月15日 二条御所の「御庭」に於いて蹴鞠有り。吉田兼見、見物する。〔『兼見卿記』一〕 3月15日 吉田兼見、当番請取をし二条御所へ祗候。また二条御所池掃除の奉仕をする。〔『兼見卿記』一〕 3月15日 吉田兼見、入夜に近衛前久(「近衛殿」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕 3月15日 万里小路充房、吉田兼見へ御番所小宴を通知。〔『兼見卿記』一〕 3月16日 吉田兼見、早々に二条御所を退出。咳嗽を疾み「舜蔵主」(梵舜)に薬を依頼。〔『兼見卿記』一〕 3月17日 寺崎盛永父子、近江国佐和山城に幽閉、自殺させられる。 3月17日 吉田兼見、午刻より病状が回復。〔『兼見卿記』一〕 3月18日 吉田兼見、去年9月より「元右」に書写させていた『源氏物語』が完成したというので祝着の由を通達。〔『兼見卿記』一〕 3月18日 吉田兼見、徳大寺公維(「徳大寺殿」)を訪問し借用していた直垂を返却。〔『兼見卿記』一〕 3月18日 駿河三条季康(正親町季秀息子)、元服。徳大寺公維(「徳大寺殿」)が加冠。〔『兼見卿記』一〕 3月20日 吉田兼見、当番として二条御所へ祗候。〔『兼見卿記』一〕 3月21日 吉田兼見、早天に二条御所を退出。〔『兼見卿記』一〕 3月21日 春日祭が行われる。「勅使」として水無瀬兼成(「ミナセ」)が、扈従(「コセウ」)として持明院基孝(「慈明院殿」)が 下向した。〔『多聞院日記』三〕 3月22日 下御霊社に於いて梅若大夫の勧進能興行あり。村井貞勝(「春長軒」)、見物。〔『兼見卿記』一〕 3月22日 徳川軍、武田属城となっていた遠江国高天神城を攻略。〔『家忠日記』〕 3月24日 大和国興福寺にて「五師」について会合が開かれ、香観房・円願房のうちのどちらかで、最終的には筒井順慶(「筒」)次第 ということになった。〔『多聞院日記』三〕 3月24日 長連竜ら、越中国に侵攻してきた上杉景勝を撃破。〔「長家文書」、『長家文献集』、『加能古文書』〕 3月24日 上杉景勝、長連竜らに敗北を喫し、越中国より越後国に帰国する。〔「長家文書」、『長家文献集』、『加能古文書』〕 3月25日 松平家忠、遠江国高天神城より遠江国浜松城を経由して三河国深溝城に帰陣。〔『家忠日記』〕 3月26日 吉田兼見、早々に二条御所を退出し、下御霊社へ申楽見物に赴く。〔『兼見卿記』一〕 3月27日 織田信長(「信長」)、能登国の長連竜(「長九郎左衛門尉」)へ上杉景勝(「長尾喜平次」)が越中国へ侵攻に対し 去る3月24日に撃退した報告を諒承し、越中国方面へ菅屋長頼(「菅屋九右衛門尉」)を派遣する旨を通達。 〔「長家文書」、『長家文献集』、『加能古文書』〕 3月27日 中山慶親(「中山少将慶親」)、奏慶す。〔『兼見卿記』一〕 3月27日 吉田兼見、中山慶親(「中山少将慶親」)昇進祝義のため中山邸を訪問。 中山親綱と対面、庭田重通(「庭田黄門」)・白川雅朝(「伯」)と参会。〔『兼見卿記』一〕 3月27日 吉田兼見、近衛信尹(「御方御所」)を訪問。勧修寺晴豊(「勧修寺黄門」)が到来。〔『兼見卿記』一〕 3月29日 吉田兼見、二条御所(「下御所」)へ祗候。〔『兼見卿記』一〕 3月29日 羽柴秀吉(「羽柴筑前守」)、松井友閑(「宮内卿法印」)・村井貞勝(「春長軒」)・村井貞成(「作右衛門尉」)と共に 清水寺で酒宴を張り地下人の申楽を見物。羽柴秀吉(「羽筑」)は「乱舞之衆」へそれぞれ小袖を与える。〔『兼見卿記』一〕 3月 日 織田信長、紀伊国雑賀鷺森に滞在する本願寺顕如へ参詣門徒が不法行為をしないように通達。〔「本願寺文書」一〕 3月 日 織田信忠、s四郎右衛門(伊勢皇大神宮御師)へ全3ヶ条の「定」を下す。〔『伊勢古文書集』上〕 4月 4月 1日 吉田兼見、晩に及び松井友閑(「宮内卿法印」)を訪問。吉田神社修理の件で織田信長(「右府信長」)への取り成しを依頼 し許可を得る。〔『兼見卿記』一〕 4月 1日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕 4月 1日 吉田兼見、二条御所(「下御所」)へ祗候。烏丸光宣(「烏丸黄門」)と参会。 吉田兼見、正親町天皇「御譲位之事」の件で、この年が「金神」であるため延引するということになった由を知る。 〔『兼見卿記』一〕 4月 2日 大和国興福寺成身院、筒井順慶(「順慶」)の社参が俄かに延引、また俄かに上洛も無くなったというので「講問」を行う。 〔『多聞院日記』三〕 4月 3日 筒井順慶(「筒井」)、大和国興福寺「五師」納所について「神判」によって裁定を下すこととする。〔『多聞院日記』三〕 4月 5日 吉田兼見、当番として二条御所へ祗候。勧修寺晴豊(「勧黄門」)、夕食を興行す。〔『兼見卿記』一〕 4月 8日 織田信長(「安土」)の意によって大和国「木守」に於いて「勧進能」が興行される。〔『多聞院日記』三〕 4月 9日 誠仁親王、吉田兼治(「侍従」)・吉田兼見(「予」)へ明日二条御所(「下御所」)に於いて「御懺法講」を修さんとして 祗候を命令。吉田兼見、仏事への出座を拝辞し了承される。〔『兼見卿記』一〕 4月 9日 村井貞勝(「春長軒」)、誠仁親王へ明日の「御懺法講」は無用とて停むよう奏上。〔『兼見卿記』一〕 4月10日 村井貞勝(「春長軒貞勝」)、「禁裏供御人」である近江国粟津座中へ「御代々之綸旨」と数通の室町殿の「御下知」を有し ているので、今後は東口での「新儀之商買人」は「如先々」く停止すべきこと、違反者は「成敗」すべきことを通達。 〔京都大学国史研究室所蔵『古文書集』一〕 4月10日 吉田兼見、当番請取のため二条御所へ早参する由を中山慶親(「中山少将」)へ相談。午刻に祗候。〔『兼見卿記』一〕 4月10日 羽柴秀吉、竹生島参詣途中の織田信長を出迎える。〔「信長公記」〕 4月11日 吉田兼見、早々に二条御所を退出。相国寺南豊軒周超を訪問。〔『兼見卿記』一〕 4月12日 吉田兼見、朝に番衆を振る舞う。〔『兼見卿記』一〕 4月12日 水無瀬親具(「水無瀬兵衛督」)、吉田兼見を訪問。暮れに及び帰京。〔『兼見卿記』一〕 4月12日 この日まで大和国「木寺」に於いて織田信長(「安土」)の意を受けた筒井順慶(「筒井」)が「丹波猿楽」を太夫にして 5日間の「勧進能」を行った。〔『多聞院日記』三〕 4月13日 手仁屋定圓、村井貞勝(「春長軒」)の命令により誓願寺再興のため吉田神社社頭の松木供出を通達してくるが、吉田兼見は 神木であるという理由でこれを拒否。もしこれが織田信長(「右府信長」)の耳に入れば曲事とされるので、手仁屋定圓を以て 村井貞勝(「春長軒」)へ取り成しを依頼。〔『兼見卿記』一〕 4月13日 村井貞勝(「春長軒」)、四条橋普請に出向く。後に吉田兼見、村井貞勝(「春長軒」)と面会、将碁をし、松木供出拒否の 由を了承される。〔『兼見卿記』一〕 4月13日 多聞院英俊、織田信長(「安土」)の意を受けた筒井順慶(「筒井」)が「丹波猿楽」を太夫として昨日4月12日まで 5日間の「勧進能」を行ったことを知る。〔『多聞院日記』三〕 4月14日 吉田兼治(「侍従」)・吉田兼見室(「青女」)、伊勢国より帰洛。〔『兼見卿記』一〕 4月15日 吉田兼見、当番として二条御所へ祗候。揚弓興行有り。〔『兼見卿記』一〕 4月15日 吉田兼見、暮れに及び村井貞成(「村井作右衛門尉」)を訪問、面会。猪熊地子の件で吉田播磨守が越訴したが対決を以て 決済したことを報告。 また村井貞成(「作右」)、この夜に匂香方の件で内々に白川雅朝(「伯」)へ誠仁親王(「御方御所」)の揮毫申請を依頼、 吉田兼見が当番として殿中へ上がった際に白川雅朝(「伯」)へ問い合わせたところ、誠仁親王の承諾が得られたことを知る。 〔『兼見卿記』一〕 4月16日 織田信長、若狭国の溝口秀勝(「溝口金右衛門」)へ逸見昌経(「逸見駿河守」)の本地分を扶持するので領知とすべきこと また若狭国に於いて万が一不届者があればその「軽重」によらず織田信長に言上すべきこと、油断したならば「曲事」とする ことを通達。〔「溝口文書」〕 4月16日 吉田兼見、早々に二条御所を退出。〔『兼見卿記』一〕 4月17日 吉田兼見、丹波国桑田郡宇津からの明智光秀(「惟任日向守」)書状を受ける。その内容は丹波国宇津城の井戸を掘るために 山という名の「河原者」を派遣するよう依頼してきたものであった。吉田兼見、早速「河原者」山を派遣。〔『兼見卿記』一〕 4月18日 吉田兼見、徳大寺公維(「徳大寺殿」)より書状を以て「御譲位之記」の借用を求められ、これを承諾。〔『兼見卿記』一〕 4月19日 丹羽長秀(「五郎左衛門尉長秀」)、若狭国の溝口秀勝(「溝口金右衛門尉」)へ逸見昌経(「逸見駿河守」)の本地分を 織田信長「御朱印」に任せて知行とすべきことを通達。〔「溝口文書」〕 4月19日 吉田兼見、当番として二条御所へ祗候。〔『兼見卿記』一〕 4月20日 織田信長、森成利(「森乱法師」)へ近江国内に500石を扶持するので領知とすべきことを命令。 〔「尊経閣文庫文書」編年文書辺包〕 4月20日 吉田兼見、早々に二条御所を退出。〔『兼見卿記』一〕 4月22日 水無瀬親具(「水無瀬兵衛督」)・薄諸光(「薄権佐」)・佐竹定実(「佐竹出羽守」)、後藤彦三郎(乗馬名手)を伴い 吉田兼見を訪問、曲乗を見物。その後弓場に於いて的矢を行う。水無瀬親具・薄諸光は吉田兼見邸に宿泊。〔『兼見卿記』一〕 4月23日 吉田兼見・水無瀬親具・薄諸光、的矢を張行す。そこに柳原淳光が到来し、暮れに及び3名は帰京。〔『兼見卿記』一〕 4月24日 織田信長(「信長」)、某へ甲斐国・信濃国への出征予定を告げ、奔走を促す。〔「吉田文書」〕 4月24日 吉田兼見、村井貞勝(「春長軒」)を訪問し将碁をする。〔『兼見卿記』一〕 4月25日 吉田兼見、当番として二条御所へ祗候。内々番衆を饗す。白川雅朝(「伯」)・万里小路充房・薄諸光(「薄権佐」)が 到来。〔『兼見卿記』一〕 4月25日 唐橋在通、夕食興行を行う。大炊御門経頼・水無瀬親具(「水無瀬兵衛督」)・四辻季満(「四辻少将」)、連れ立って 九条兼孝(「九条殿」)を訪問し唐橋在通のもとへ赴く。〔『兼見卿記』一〕 4月26日 吉田兼見、早々に二条御所を退出。〔『兼見卿記』一〕 4月26日 近衛前久・近衛信尹(「近衛殿両御所」)・、大覚寺尊信(「大門」)・聖護院道澄(「聖門」)、里村紹巴の和漢連句興行 に参席。〔『兼見卿記』一〕 4月27日 多聞院英俊、九鬼嘉隆(「クキトノ」)が今度摂津国大坂表に「大船」を以て攻め寄せた時の「立願果遂」を知る。 〔『多聞院日記』三〕 5月 5月 1日 筒井順慶(「筒順慶」)、大和国春日大社に社参し、俄かに多聞院英俊を訪問す。〔『多聞院日記』三〕 5月 3日 島津義久(正五位下)、従四位下に叙される。〔「島津家文書」A‐638、「旧記雑録後編」@‐1200〕 5月 4日 大炊御門経頼の任大納言により二条御所(「下御所」)の御番結改が行われる。〔『兼見卿記』一〕 5月 4日 吉田兼見、端午節句の祝賀として村井貞勝(「春長軒」)を訪問、将碁をする。〔『兼見卿記』一〕 5月 4日 吉田兼見、二条御所(「下御所」)へ参内しこの日は神事により不参の由を奏上。その後、近衛前久を訪問し帰宅。 〔『兼見卿記』一〕 5月 5日 「福」(佐竹定実息女)、吉田兼見を訪問。〔『兼見卿記』一〕 5月 9日 誠仁親王、禁裏(「上之御所」)へ御成。〔『兼見卿記』一〕 5月 9日 吉田兼見、早参の由を唐橋在通へ通知し当番請取として二条御所(「下御所」)へ祗候。〔『兼見卿記』一〕 5月 9日 吉田兼見、村井貞勝(「春長軒」)を訪問し将碁をする。〔『兼見卿記』一〕 5月14日 吉田兼見、所用により四辻季満(「四辻少将」)と相伝し当番として二条御所へ祗候。〔『兼見卿記』一〕 5月14日 竹内長治、吉田兼見へ使者を派遣し二条御所に於いて地下囃謡興行が開催される由を通達。〔『兼見卿記』一〕 5月14日 徳川家康、松平家忠のもとへ「宇佐美」を派遣し馬鎧の品質を検査させる。 5月16日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)・細川昭元(「細川右京兆」)へ祓を贈る。〔『兼見卿記』一〕 5月17日 武田勝頼、上杉景勝へ新発田重家の件で相談す。〔「上杉古文書」、『上杉年譜』〕 5月18日 徳大寺公維(「徳大寺殿」)・相国寺南豊軒周超・小笠原貞慶(「小笠原民部」)、吉田兼見を訪問、暮れに及び帰京。 〔『兼見卿記』一〕 5月19日 午刻より大雨。洪水。〔『兼見卿記』一〕 5月19日 吉田兼見、当番として二条御所へ祗候。〔『兼見卿記』一〕 5月20日 四条橋、流失。〔『兼見卿記』一〕 5月20日 吉田兼見、早々に二条御所を退出。洪水のため吉田浄勝(「盛方院」)・白川雅朝(「伯」)・大炊御門経頼を訪問。 吉田兼見、大炊御門経頼に誘われ村井貞成(「村井作右衛門尉」)を訪問。その後、吉田兼見は村井貞勝(「春長軒」)を訪問 し将碁をする。晩に及び帰宅。〔『兼見卿記』一〕 5月22日 吉田兼見、大和国多武峯如々院へ和仁王(「若宮様」)より下賜された月毛馬を贈る。〔『兼見卿記』一〕 5月22日 吉田兼見、松井友閑(「宮内卿」)へ織田信長(「信長」)より下賜された唐物帷子を贈る。〔『兼見卿記』一〕 5月24日 誠仁親王、禁裏(「上之御所」)へ御成。地下乱舞を見物。〔『兼見卿記』一〕 5月24日 吉田兼見、当番として二条御所へ祗候。〔『兼見卿記』一〕 5月25日 吉田兼見、早々に二条御所を退出。〔『兼見卿記』一〕 6月 6月 2日 禁裏に於いて地下謡の興行あり。〔『兼見卿記』一〕 6月 2日 明智光秀、明智家中へ全16ヶ条の「軍法」を発す。〔「御霊神社文書」‐3〕 6月 2日 細川忠興(「長岡与一郎」)、丹後国に於いて病む。〔『兼見卿記』一〕 6月 2日 吉田兼見、細川氏家臣3名(一之斎・松井康之・米田)の書状で細川忠興(「長岡与一郎」)の病んでいる旨を通知される。 吉田兼見、吉田浄勝(「盛方院」)へ使者を派遣し明日丹後国下国の了承を取り、細川氏家臣へ通達。〔『兼見卿記』一〕 6月 2日 吉田兼見、近衛信尹(「近衛殿御方御所」)・吉田牧庵を訪問。〔『兼見卿記』一〕 6月 4日 誠仁親王、夕方に禁裏(「上之御所」)より還御。〔『兼見卿記』一〕 6月 4日 吉田兼見、村井貞勝(「春長軒」)を訪問し将碁をする。〔『兼見卿記』一〕 6月 4日 吉田兼見、当番として二条御所へ祗候。〔『兼見卿記』一〕 6月 5日 吉田兼見、二条御所を退出。〔『兼見卿記』一〕 6月 7日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)より駒鳥w贈られる。〔『兼見卿記』一〕 6月 8日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問し昨日の駒鳥を謝す。〔『兼見卿記』一〕 6月 9日 吉田兼見、当番として二条御所へ祗候。〔『兼見卿記』一〕 6月10日 吉田兼見、早々に二条御所を退出。〔『兼見卿記』一〕 6月11日 筒井順慶(「筒井順慶」)、大和国春日大社に社参す。〔『多聞院日記』三〕 6月11日 松平家忠、遠江国牧野原城の定番に出向く。〔『家忠日記』〕 6月12日 織田信長、香宗我部親泰(「香宗我部安芸守」)へ三好清長(「三好式部少輔」:長宗我部元親に降伏)の事については 「別心」を持っていないこと、阿波国方面の件は奔走することが大事であり、詳細を三好康長(「三好山城守」)より伝達する 旨を通達。〔『香宗我部家証文』四、『古証文』七〕 6月12日 羽柴秀吉、播磨国姫路城に津田宗及を招待して茶会を開催。〔「宗及他会記」〕 6月13日 吉田兼見、村井貞勝(「春長軒」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕 6月14日 三好康長(「三好山城守康慶」)、香宗我部親泰(「香宗我部安芸守」)へ阿波国方面の件は織田信長(「信長」)より 「朱印」が発給され、今後阿波国方面の事は香宗我部親泰が奔走してくれると快然である旨を通達。 また三好清長(「三好式部少輔」)は若輩であり、近年戦乱により無力となっているので諸事「御指南」を依頼する。 〔『古証文』七〕 6月14日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)の招喚により祇園会内祭の酒宴に祗候。 飛鳥井雅敦(「飛鳥亜相」)・西洞院時通・入江殿・惣知院殿が参席。〔『兼見卿記』一〕 6月14日 吉田兼見、当番として二条御所へ祗候。〔『兼見卿記』一〕 6月15日 吉田兼見、二条御所を退出。〔『兼見卿記』一〕 6月15日 筒井順慶(「筒井順慶」)、この日今度の「吐田」についての織田信長「御朱印」を賜わった御礼に近江国安土へ赴く。 〔『多聞院日記』三〕 6月15日 十市新二郎(「十新」)、筒井順慶(「筒井順慶」)に同行し近江国坂本まで赴く。〔『多聞院日記』三〕 6月16日 織田信長(「信長」)、某へ越後国の新発田重家(「新発田因幡守」)が織田信長へ「忠節」し、鷹・馬を進上してくるので 海上通路の安全を命令。詳細は佐々成政(「佐々内蔵助」)に伝達させる。〔「木村文書」〕 6月16日 織田信長(「信長」)、宮部継潤(「善常房」)へ因幡国方面での長期在陣を慰労す。〔「宮部文書」乾〕 6月16日 近衛信尹(「近衛殿御方御所」)、病む。〔『兼見卿記』一〕 6月16日 吉田兼見、吉田兼治(「侍従」)を同行し近衛信尹(「近衛殿御方御所」)を見舞う。大和宗恕が薬を調進。 〔『兼見卿記』一〕 6月17日 この朝、「鳴川ノ又助」の息子が「曲事」というので筒井順慶(「筒」)の討手が差し向けられた。 これに対して「鳴川ノ又助」の息子は家に籠もり人手にかかるまじとて焼身自殺した。〔『多聞院日記』三〕 6月18日 「十後」(十市遠成後室)、大和国筒井郷に帰る。〔『多聞院日記』三〕 6月19日 吉田兼見、当番として二条御所へ祗候。〔『兼見卿記』一〕 6月20日 吉田兼見、早々に二条御所へ退出。〔『兼見卿記』一〕 6月22日 午刻に吉田兼見邸の近所に於いて出火。〔『兼見卿記』一〕 6月22日 吉田兼見邸の近所が火事というので、近衛前久(「近衛殿」)が度々見舞の使を派遣、後に近衛前久が御成。 勧修寺晴豊(「勧黄門」)・万里小路充房・高倉永孝(「藤右衛門佐」)、吉田兼見を見舞う。日野輝資・中山親綱 (「中山黄門」)・庭田重保(「庭田亜相」)・徳大寺公維(「徳大寺殿」)、吉田兼見へ見舞の使者を派遣。 村井貞成(「村作」)、吉田兼見を見舞に訪問。〔『兼見卿記』一〕 6月22日 吉田兼見、火事見舞の公家衆を訪問し謝礼。その後、村井貞勝(「春長軒」)を訪問し将碁をする。〔『兼見卿記』一〕 6月24日 吉田兼見、当番として二条御所へ祗候。〔『兼見卿記』一〕 6月24日 吉田兼治(「侍従」)、山城国愛宕社へ参詣。〔『兼見卿記』一〕 6月25日 吉田兼見、早々に二条御所を退出。〔『兼見卿記』一〕 6月25日 吉田兼治(「侍従」)、山城国愛宕郡高野より帰宅。勧修寺晴子(誠仁親王妃)・薄諸光(「薄権佐」)へ土産を贈る。 〔『兼見卿記』一〕 6月25日 羽柴秀吉、因幡国攻略のため播磨国姫路城を出陣。因幡国摩尼山向城に入り本陣とす。 6月27日 長連竜、遊佐続光・遊佐四郎右衛門を捕獲し斬首す。 6月28日 「大典侍御局」(万里少路賢房女)・勧修寺晴豊(「勧黄門」)・中山親綱(「中山黄門」)、吉田兼見へ角豆を贈る。 〔『兼見卿記』一〕 6月29日 吉田兼見、当番として二条御所へ祗候。〔『兼見卿記』一〕 6月30日 吉田兼見、早々に二条御所を退出。吉田兼見、賀茂社へ名月の能見物に赴く。〔『兼見卿記』一〕 6月30日 吉田兼見、「大典侍御局」(万里少路賢房女)より瓜50個を贈られ謝礼を送付。〔『兼見卿記』一〕 6月30日 松平家忠、遠江国牧野原城の定番を交替す。〔『家忠日記』〕 7月 7月 3日 松平家忠、遠江国相良砦の堀普請を開始。〔『家忠日記』〕 7月 4日 吉田浄慶(「盛方院」)、吉田兼見を訪問。〔『兼見卿記』一〕 7月 4日 二条御所御番の件で今月・来月の番代の相談あり。高倉範国は祗候せず。〔『兼見卿記』一〕 7月 5日 吉田兼見、佐竹定実(「佐竹出羽守」)を同道し近衛前久(「近衛殿」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕 7月 5日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)より辞して直接二条御所(「下御所」)へ祗候。〔『兼見卿記』一〕 7月 5日 吉田兼見、勧修寺晴豊(「勧黄門」)を訪問するも病気のため面会無く帰宅。〔『兼見卿記』一〕 7月 7日 村井貞勝(「春長軒」)、近江国安土へ下向。〔『兼見卿記』一〕 7月 7日 葛西晴信(「晴信」)、「石川彦次郎」へ今度の胆沢郡江刺・和賀地方に於ける柏山明国・柏山明宗兄弟の争乱を鎮定した ことに対し「恩賞」として下葉場村2000苅・下河原村3000苅を宛行うことを安堵。 〔「奥州平泉文書」‐109(「中尊寺文書」)〕 7月 9日 吉田兼見、村井貞勝(「春長軒」)を訪問。 そこで庭田重保(「庭田亜相」)・勧修寺晴豊(「勧黄門」)・中山親綱(「中山黄門」)・正親町季秀(「正親町黄門」)と 参会。その後吉田兼見は、二条御所(「下御所」)へ祗候。〔『兼見卿記』一〕 7月11日 松平家忠、遠江国相良砦の堀普請を完成させ、三河国深溝城へ帰還。〔『家忠日記』〕 7月11日 饅頭屋宗二(「マンチウヤ宗二」)、霍乱のために死去す。〔『多聞院日記』三〕 7月12日 吉田牧庵・相国寺南豊軒周超・舟橋国賢(「清少納言」)、吉田兼見を訪問。〔『兼見卿記』一〕 7月12日 細川藤孝(「長岡兵部大輔」)、近江国安土より上洛し吉田兼見を訪問。細川藤孝(「長兵」)、去年吉田兼治(「侍従」) の昇殿勅許援助要請の際に合力出来なかったので吉田兼見へ金子1枚を贈る。暮れに及び京都へ出ず。〔『兼見卿記』一〕 7月12日 羽柴秀吉、吉川経家が守備する鳥取城を包囲し兵糧攻めを開始。〔「信長公記」〕 7月13日 吉田兼見、晩に及び細川藤孝(「長兵」)へ見舞のため京都に出ず。細川藤孝は沼田勘解由左衛門尉の宿所に逗留というので 訪問。〔『兼見卿記』一〕 7月16日 吉田兼見、大和国山辺郡内山から到来した吉田牧庵より出京を請われ晩に及び二条御所(「下御所」)に於いて面談。 その内容は夜前に禁中に於いて万里小路充房の従者が日野輝資(「日野黄門」)下男を打擲した件であった。 吉田兼見、日野輝資(「日野黄門」)が村井貞勝(「春長軒」)へ訴えたことを知り、無事に落着させるよう村井貞勝 (「春長軒」)へ通達、万里小路充房からも村井貞勝へ申告させることを談義。勧修寺晴豊(「勧黄門」)・吉田牧庵も同心。 吉田兼見、談合の結論が出ないまま帰宅。〔『兼見卿記』一〕 7月17日 吉田兼見、万里小路充房を訪問。 正親町天皇、村井貞勝(「春長軒」)へ勅使(「御使」)として庭田重保(「庭田亜相」)・中山親綱(「中山黄門」)・ 高倉永相(「藤黄門」)・甘露寺経元・五辻元仲・白川雅朝(「伯」)・吉田兼見を派遣。 村井貞勝(「春長軒」)、万里小路充房・日野輝資間の事件に関して禁中の近所の道木所へ到来し各勅使へ面会。 村井貞勝(「春長軒」)、万里小路充房の不届きにより地続孫次郎を閉門、万里小路充房は既に面目を失っており、更に 正親町天皇(「禁裏」)より万里小路充房譴責を宥免するよう通達されているのでこのような裁決としたことを各自に通知。 〔『兼見卿記』一〕 7月18日 織田信長(「信長」)、長連竜(「長九郎左衛門尉」)へ音信として肩衣の房と鯖鮨300の贈呈を謝す。 また「悪逆」(逐電)した遊佐続光(「遊佐」)を捕獲したことを賞し、近江国安土城へ参上の際に詳細を告げる旨を通達。 〔「長家文書」、『長家文献集』、『加能越古文叢』三十七〕 7月18日 織田信長(「信長」)、菅屋長頼(「菅屋九右衛門尉」)へ長連竜(「長九郎左衛門尉」)の報告に返信したことを通知。 詳細は帰国後に申し聞くよう命令す。〔「長家文書」、『長家文献集』〕 7月18日 吉田兼見、早々に京都へ出、万里小路充房を訪問。〔『兼見卿記』一〕 7月18日 正親町天皇(「禁裏」)、再度村井貞勝(「春長軒」)へ勅使(「御使」)として庭田重保・五辻元仲・吉田兼見を派遣。 「一義」、すなわち万里小路充房・日野輝資間の事件について通達があった。庭田重保・五辻元仲は帰り、吉田兼見は居残り 村井貞勝と将碁をする。その後、吉田兼見は禁裏へ参内。〔『兼見卿記』一〕 7月19日 吉田兼見、早々に京都へ出、村井貞勝(「春長軒」)を訪問。両者は「一義」、すなわち万里小路充房・日野輝資間の事件に ついて雑談。〔『兼見卿記』一〕 7月20日 吉田兼見、京都へ出ず。〔『兼見卿記』一〕 7月21日 吉田兼見、京都へ出ず。〔『兼見卿記』一〕 7月22日 地続孫次郎(万里小路充房従者)、閉門を命じられ村井貞勝(「春長軒」)の使者1名が立ち合う。〔『兼見卿記』一〕 7月22日 佐久間信盛、没(異説7月24日)。〔『日本史人物生没年表』〕 7月23日 菅屋長頼(「菅屋九右衛門尉長頼」)、能登国の長連竜(「長九郎左衛門尉」)へ先年上杉謙信(「謙信」)が能登国へ 「乱入」した際に石動山へ寄進した神領を織田信長「御朱印」を以て扶持する旨を通達。 また上杉謙信が寄進した能登国鹿島郡内の神領は織田信長(「上様」)の関知するところでは無いので、織田信長「御朱印」に 任せて知行とすべきことを通達。〔「長家文書」、『長家文献集』〕 7月24日 村井貞勝(「春長軒」)、日野輝資(「日野黄門」)下男の追放(「逐電」)を命令・実行し、禁裏へ日野輝資下男処分を 奏聞。吉田兼見はこれを最善の成敗とは雲泥の差があると評す。〔『兼見卿記』一〕 7月24日 佐久間信盛、大和国十津川で没す。 7月25日 この夜、山城国愛宕郡岩倉の風流が高野へ到来。吉田兼見、佐竹定実(「佐出」)の招請により見物に赴く。 〔『兼見卿記』一〕 7月26日 大和国興福寺一乗院「慈恩会」にあたり、筒井順慶(「筒井」)より「森猪介」が使者として到来した。 〔『多聞院日記』三〕 7月26日 佐竹定実(「佐竹出羽守」)、早々に吉田兼見を訪問。〔『兼見卿記』一〕 7月27日 菅屋長頼(「長頼」)、能登国一宮気多神社惣中に対して去年近江国安土城に於いて決定された通りに社務「分目」や所々の 「免田」などを安堵し、社殿修理・建立を命令す。〔『松雲公採集遺編類纂』古文書部十、「気多神社古文書等写」〕 7月27日 山城国愛宕郡高野より岩倉の風流返があり、吉田兼治(「侍従」)が出向く。〔『兼見卿記』一〕 7月28日 織田信長(「信長」)、丹波国宮津城より状況報告を送ってきた細川藤孝(「長岡兵部大輔」)へ「八朔祝儀」を謝し、 丹波国より松井康之(「松井」)に「賊船」を指揮させて派遣することを諒承、実施を命令。 詳細は見参した際に伝達する旨を通達。〔「細川家文書」二〕 7月29日 吉田兼見、八朔祝義のため村井貞勝(「春長軒」)を訪問、将碁をする。村井貞勝は「別而機嫌」であった。 〔『兼見卿記』一〕 7月29日 村井貞成(「作右衛門尉」)、近江国安土へ下向。〔『兼見卿記』一〕 7月29日 吉田兼見、明日神事のため二条御所(「下御所」)へ八朔祝義のため祗候。〔『兼見卿記』一〕 7月29日 多聞院英俊、饅頭屋宗二(「宗二」)の葬儀に出席す。〔『多聞院日記』三〕 8月 8月 1日 織田信長、近江国安土に於いて「御馬汰」を開催。〔『兼見卿記』一〕 8月 1日 多聞院英俊、この日近江国安土に於いて「馬汰」があったこと、大和国衆(「和州衆」)には「無越度沙汰」であったことを 知る。〔『多聞院日記』三〕 8月 2日 島津義久、大友義統へ豊薩和睦の祝詞を謝し、報礼として太刀・馬を贈答。〔「大友家文書録」B‐1818〕 8月 3日 木食応其(「応其」)、紀伊国高野山に入っていた畠山権守へ先年の織田信長(「信長」)の軍事行動の際に高野山が忠節を 尽くし、紀伊国有田郡より兵粮米を運送した手柄を賞す。またこの時より諸公事を免許することを通達。〔「畠山家文書」〕 8月 5日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問。今度の安土「御馬汰」の見事なる由を雑談。〔『兼見卿記』一〕 8月 5日 吉田兼見、村井貞成(「村作右衛門尉」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕 8月 5日 吉田兼見、村井貞勝(「春長軒」)を訪問し将碁をする。〔『兼見卿記』一〕 8月 5日 近衛前久(「御家門」)、吉田兼見へ馬数疋が斃死したため厩の鎮札を所望。〔『兼見卿記』一〕 8月 5日 高倉永相(「藤黄門」)、粟津供御人公事役の件で近衛前久(「御家門」)へ愁訴。〔『兼見卿記』一〕 8月 7日 大和国奈良中、近日中に明智光秀(「惟任」)が到来するということで「さわき」になった。〔『多聞院日記』三〕 この頃 明智光秀(「惟任」)の妹「御ツマキ」が死去。 織田信長(「信長」)が「一段ノキヨシ」であり、明智光秀(「向州」)はとても落胆した。〔『多聞院日記』三〕 8月 7日 筒井順慶(「順慶」)、大和国興福寺へ去年10月28日に大和国衆の南方衆戒重・大仏供・吉備某・高田某・岡某らを成敗 した後の「跡領中分」について去年の「差出」と相違が無い様に提出するよう指示を下す。〔『蓮成院記録』三〕 8月 8日 この早旦に「森猪助」が筒井順慶(「順慶」)の使者として大和国興福寺一乗院「慈恩会」の件で大和国興福寺を到来す。 〔『多聞院日記』三〕 8月10日 吉田兼見、佐竹定実(「佐出」)より「金神之札」を所望され許容。佐竹左近允(佐竹定実息)・狩野橘右衛門尉が到来。 〔『兼見卿記』一〕 8月10日 松平家忠、遠江国浜松城の徳川家康のもとへ馬鎧を持参す。〔『家忠日記』〕 8月11日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)へ使者を派遣し明日鎮札・御祓の進上を通知。厩舎清掃を奨励。〔『兼見卿記』一〕 8月11日 東福寺光璞(住持)・東堂竜喜・東堂善樟・東堂令見・東堂恵級・西堂永幸・西堂恵綉・西堂令憩、唐橋在通(「唐橋殿」) へ東福寺伽藍諸堂が近年「大破」してしまったが、今は「天下太平之時節」であり、織田信長(「上様」)の「御分国中」へ 織田信長「御朱印」を以て「勧進」を行うことが望みであり、この旨を堀秀政(「堀久」)に取り成しすることを依頼する。 〔「九条家文書」E‐1624〕 8月13日 織田信長(「信長」)、長連竜(「長九郎左衛門尉」)へ能登国の「謀叛之輩」(遊佐続光ら)を「成敗」したことを賞し、 長連竜としては「鬱憤」を散じたであろうこと、「罷退候族」(温井景隆・三宅長盛ら)が何処に潜伏しても捜索して「刎首」 すべきは勿論であることを通達。また「糟毛」馬の贈呈を謝す。詳細は菅屋長頼(「菅屋」)に伝達させる。 〔「長家文書」、『長家文献集』、『加能越古文叢』三十七〕 8月13日 織田信長、因幡国出陣を決意し、細川藤孝(長岡藤孝)らへ準備を命令。 8月13日 吉田兼見、佐竹定実(「佐出」)へ安田右宗(「安田右近允」)を派遣し「金神之札」を送付。〔『兼見卿記』一〕 8月17日 正親町天皇、青蓮院尊朝法親王へ宇治平等院領家を石清水八幡宮新善法寺氏が競望したことへの改替命令の綸旨を下す。 〔『華頂要略』十三〕 8月17日 織田信長、足利将軍家の畳指の子孫であった畳指新四郎を「石見」と改名させ、「天下一」であるので織田家の大工とする こと、今後は諸公事以下を「如先々」く「免許」することを通達。〔「伊阿弥家文書」〕 8月17日 岩越吉久(「岩越小兵衛吉久」:菅屋長頼被官)、能登国一宮気多神社に対し「一宮」となったのは「無隠大社」であるから なのに、織田信長(「上様」)への御礼出仕が無いのは「言語道断」であること、明日には気多神社へ赴くのでこの旨に同心 するよう通達。〔『松雲公採集遺編類纂』古文書部十、「気多神社古文書等写」〕 8月17日 吉田兼見、村井貞勝(「春長軒」)を訪問、面会。〔『兼見卿記』一〕 8月17日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕 8月17日 吉田兼見、鳥居小路大蔵卿某を訪問し宇治平等院住持職の件を相談。〔『兼見卿記』一〕 8月17日 吉田兼見、再び近衛前久(「御家門」)を宇治平等院住持職の件で訪問。〔『兼見卿記』一〕 8月19日 近衛前久(「近衛殿」)、宇治平等院住持職の件で北小路俊孝(「北小路刑部少輔」)を「御使」として吉田兼見へ派遣。 吉田兼見、鳥居小路大蔵卿某へ赴き面談。その後、吉田兼見は再度近衛前久(「御家門」)を訪問し報告。〔『兼見卿記』一〕 8月19日 多聞院英俊、佐久間信盛(「佐久間」)が大和国十津川の「湯ニテ死」亡したので、紀伊国高野山の倉に保管されていた 佐久間信盛所有物を織田信長(「信長」)が収公することになり「上使」が派遣されたが、悉く殺害されてしまったので、報復 措置として諸国の「高野聖」が捕らえられ、近日中に紀伊国高野山に軍事行動が実行されることになったこと、来8月23日に 「陣フレ」が発せられることを知る。多聞院英俊は「高野滅亡時刻到来」との感慨を記す。〔『多聞院日記』三〕 8月19日 明智光秀(「惟任日向守」)、この朝早々に大和国興福寺成身院に到来す。大和国郡山城普請の見舞であった。100名 ばかりを随行させた一団であった。十市新二郎(「十新」)も大和国郡山城へ同行した。〔『多聞院日記』三〕 8月20日 織田信長(「信長」)、羽柴秀吉(「羽柴藤吉郎」)の注進状に応え、全3ヶ条の指示を下す。 因幡国鳥取城の攻城戦に、より一層の覚悟で臨むことを命令し、城中では日々に「餓死」者が出ているのは「表裏仕候族」に対 する「天罸」であるので「打果」すべきこと、毛利氏に対する「目付」の宇喜多直家(「宇喜多」)からの注進により鳥取城 陥落は必然で後援部隊派遣が幸いというので、先書で通達した様に明智光秀(「惟任」)・細川藤孝(「長岡」)以下、摂州衆 も準備させているので、羽柴秀吉からの要請が有り次第に「出張」させること、その上で軍勢は必要なだけ要請し、さらに 織田信長(「信長」)自身も「出馬」するので油断無く「調儀」を行うことを命令。 また南条元続(「南条」)が鹿野と伯耆国の間の敵城を攻略したことを通達。〔「沢田義厚氏所蔵文書」〕 8月20日 この払暁に大和国興福寺より大和国郡山城に滞在する明智光秀(「惟任」)へ御礼として「摩尼」が贈られる。 〔『多聞院日記』三〕 8月21日 明智光秀(「惟任」)、この暁に大和国郡山城より帰還する。〔『多聞院日記』三〕 8月21日 多聞院英俊、去る8月7日か去8月8日の頃に明智光秀(「惟任」)の妹「御ツマキ」が死去したこと、この明智光秀妹は 織田信長(「信長」)の「一段ノキヨシ」であり、明智光秀(「向州」)はとても落胆していることを知る。 〔『多聞院日記』三〕 8月22日 織田信長、近江国多賀大社不動院へ「旦那廻」を「最前」の織田信長「朱印」に任せて安堵。今度の「高野聖」の「成敗」 とは別件であるので近年の如く往来を許可する。〔「多賀神社文書」二〕 8月23日 織田信長(「信長」)、細川藤孝(「長岡兵部大輔」)へ丹波国方面に敵が侵攻してきたならば出陣すべき旨を命令した ところ油断無く用意したことを諒承し、明智光秀(「惟日」)へも詳細を指示したので準備に邁進するよう命令。また丹波国 より「賊船」を因幡国方面の「身方」諸城へ兵粮を搬入させ、敵船を撃退させることも重要であり、松井康之(「松井」)の 折紙を披見することを通達。さらに「南方」への軍事行動の件も通達。〔「細川家文書」二〕 8月23日 吉田兼見、村井貞勝(「春長軒」)を訪問するも外出中であった。〔『兼見卿記』一〕 8月23日 吉田兼見、二条御所(「下之御所」)へ祗候。〔『兼見卿記』一〕 8月23日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕 8月26日 吉田兼見、村井貞勝(「春長軒」)を訪問するも外出中であったので、勧修寺晴豊(「勧黄門」)・万里小路充房を訪問。 〔『兼見卿記』一〕 8月27日 十市新二郎(「十新」)、具足の「負帳代」1石として取り扱う。〔『多聞院日記』三〕 8月27日 箸尾為綱(「箸尾」)へ布施某より女子が嫁いで「祝言」が行われる。 岡弥二郎が旧冬に生害した時、筒井順慶(「筒順」)が「取子」して明智光秀(「惟任」)の仲介によって成立した婚儀で あった。〔『多聞院日記』三〕 8月28日 吉田兼見、村井貞勝(「春長軒」)を訪問するが能見物に出向いていた。〔『兼見卿記』一〕 8月28日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕 8月29日 吉田兼見、四辻公遠(「四辻亜相」)より書状で「侍従夏之袍・同指貫」の借用を求められるが、未だ所持せずと返答す。 〔『兼見卿記』一〕 8月 晦日 吉田兼見、村井貞勝(「春長軒」)を訪問し将碁をする。〔『兼見卿記』一〕 8月 晦日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕 9月 9月 1日 筒井順慶(「順慶」)の大和国春日大社への社参は無かった。〔『多聞院日記』三〕 9月 1日 筒井順慶(「筒井」)より大和国興福寺一乗院「慈恩会」の件で通達をする。〔『多聞院日記』三〕 9月 2日 織田信長、伊勢国出勢を実行。東より織田信雄(「伊勢国司」)を、北より織田信澄(「七兵衛尉」)・滝川一益・ 丹羽長秀(「惟住五郎左衛門尉」)を、南より筒井順慶を進撃させる。〔『兼見卿記』一〕 9月 2日 細川藤孝(「長岡兵部大輔」)、上洛。〔『兼見卿記』一〕 9月 2日 吉田兼見、上洛した細川藤孝(「長岡兵部大輔」)を訪問。細川藤孝は明日近江国安土へ下向する予定という。 〔『兼見卿記』一〕 9月 3日 多聞院英俊、織田信長(「信長」)の命令による伊賀国出勢について知る。 甲賀口より堀秀政(「ホリ久太郎殿」)が「大将」として小姓衆・近江衆を率い、勢州口より北畠信雄(「本所」:織田信雄) と滝川一益(「タキ川」)が、南伊賀よりは大和国宇多郡衆が、西よりは大和国衆が、筒井順慶(「筒順」)自身は畑口より 福富秀勝(「福住」)を「大将」とした南方衆と共に攻撃、「黒田タヲケ」が名張より攻め入った。後夜より出陣した軍勢は 総勢1万余人にのぼったという。「心替衆」が織田軍を引き入れたため攻略は間も無いことであるとの見通しであった。 多聞院英俊は「破滅之段、時刻到来」との感慨を記す。〔『多聞院日記』三〕 9月 4日 織田信長(「信長」)、細川藤孝(「長岡兵部大輔」)へ丹後国の一色義有の「知行出来分」を明智光秀(「惟任日向守」) に預けることとしたので、相談すべきことを命令。〔「細川家文書」二〕 9月 4日 織田信長(「信長」)、細川藤孝(「長岡兵部大輔」)へ丹後国の矢野藤一(一色義有家老)へ以前の報告通り知行分 4500石を渡し、残りは悉く細川藤孝「進止」として戦功を督促す。〔「細川家文書」二〕 9月 4日 多聞院英俊、織田軍の伊賀国出勢について「裏返衆」は少なかったこと、過半は攻略したが箸尾衆が少々損失を出したこと、 伊勢国中は「大焼ケフリ見」という状況であったことを知る。〔『多聞院日記』三〕 9月 5日 細川藤孝(「藤孝」)、近江国安土より上洛し吉田兼見を訪問。丹波国検地の件を雑談。細川藤孝は「殊更機嫌」であった。 〔『兼見卿記』一〕 9月 6日 織田信長、伊賀国境界に放火。吉田兼見、織田軍の伊賀攻めの戦況を知る。〔『兼見卿記』一〕 9月 6日 明日9月7日に大和国興福寺大乗院門跡より教浄が筒井順慶(「筒井」)の陣所へ見舞のために派遣されることになる。 〔『多聞院日記』三〕 9月 7日 織田信長(「信長」)、明智光秀(「惟任日向守」)へ丹後国の一色義有知行の「出来分」前後合わせて2万石を今度の 「検地」による員数で引き渡すことを命令。残りの分は細川藤孝(「長岡兵部大輔」)に渡すべきことを通達。 〔「細川家文書」二〕 9月 7日 織田信長、亀井茲矩(「亀井新十郎」)へ因幡国方面に於いて忠節を尽くしていることは神妙であり、今後の戦功によっては 出雲国を宛行うことを通達。〔「亀井文書」乾〕 9月 7日 織田信長(「信長」)、細川藤孝(「長岡兵部大輔」)・明智光秀(「惟任日向守」)へ丹後国の矢野藤一知行の「出来分」 を細川藤孝(「長岡」)に遣わしたが、当の矢野藤一(一色義有家老)は因幡国方面に在陣しており帰陣はしないので、強制的 に「上使」を派遣するようなことはどうかと思うので、まず善処して帰国の際に通達することが相応しいこと、 矢野藤一(一色義有家老)の「本地」は員数通りに相違無く「郷切」にして申し分のないよう処置することを命令。 〔「細川家文書」二〕 9月 7日 吉田兼見、「左文字脇指」を入手。〔『兼見卿記』一〕 9月 8日 吉田兼見、重陽節句祝儀のため村井貞勝(「春長軒」)を訪問、将碁をする。〔『兼見卿記』一〕 9月 8日 吉田兼見、在京中の細川藤孝(「長兵」)を訪問するも外出中であった。〔『兼見卿記』一〕 9月 8日 吉田兼見、咳嗽を病む。〔『兼見卿記』一〕 9月 8日 多聞院英俊、談合により一昨日9月6日に伊賀国に於いて合戦があり筒井順慶家臣の島衆に少々損失があったこと、 十市遠長(「十常」)は「見事沙汰」であったことを知る。〔『多聞院日記』三〕 9月 9日 吉田兼見、所労平癒。〔『兼見卿記』一〕 9月 9日 村井貞勝(「春長軒」)の姪、吉田兼見を訪問。〔『兼見卿記』一〕 9月 9日 三九郎(織田信長御弓衆)・真野某、吉田兼見を訪問し中間又一女の件で談合。詳細は明日通達することを通知。 〔『兼見卿記』一〕 9月 9日 神龍院梵舜、丹波国へ下向。〔『兼見卿記』一〕 9月10日 猪子高就(「猪子兵介高就」)・矢部家定(「矢部善七郎家定」)、「勅願所」山城国金蔵寺惣中へ「当知行」を安堵し、 「如先々」く臨時の課役を免除。〔「金蔵寺文書」〕 9月10日 吉田兼見、「三九郎」(織田信長御弓衆)へ鈴鹿定継・鈴鹿修理進を派遣し中間又一女へゥ道具を返還するよう命令。 後刻に中間又一が逐電したとの報があり、ゥ道具を糾明後に聖護院より使者へ引き渡すよう命令。〔『兼見卿記』一〕 9月11日 織田信長(「信長」)、紀伊国根来寺の弥勒院・池上坊・岩室坊・愛染院へ高野山への軍事行動での働きを「感情不斜」で あると賞し、今後の奔走を促す。詳細は織田信張(「左兵衛佐」)に伝達させる。〔「八代文書」〕 9月12日 吉田兼見、腫物を煩った佐竹定実(「佐竹羽州」)を見舞う。三入斎(医師)が診療。吉田兼見、暮れに及び帰宅。 〔『兼見卿記』一〕 9月13日 九条兼孝(「兼孝」)、堀秀政(「堀久太郎」)へ東福寺「大破」について東福寺側からの連署状の要請と、東福寺は九条家 「先祖建立」の「由緒」があるため「再興之儀」を許可するよう取り成しを依頼。〔「九条家文書」E‐1625〕 9月15日 多聞院英俊、教浄が伊賀国の筒井順慶陣所へ見舞に下向するというので「松権」と「森猪」への書状を託す。 〔『多聞院日記』三〕 9月15日 多聞院英俊、去9月13日・14日に伊賀国で筒井順慶(「順慶」)が担当している方面の敵城20余を納めたことを知る。 〔『多聞院日記』三〕 9月16日 織田信長(「信長」)、細川忠興(「長岡与一郎」)へ丹後国の船手衆の伯耆国方面へ出動を諒承し、細川藤孝(「藤孝」) へ詳細を通達したことを通知。また家臣中で「能々粉骨之族」を識別することが重要であることを通達。〔「細川家文書」二〕 9月16日 織田信長(「信長」)、細川藤孝(「長岡兵部大輔」)へ折紙と松井康之(「松井」)からの注進状を披見したこと、伯耆国 方面への軍事行動で伯耆国泊城へ進撃・放火、更に敵船(毛利水軍)65艘を切り捨てた戦功と因幡国大崎城を攻略したことを 賞し、今後の作戦遂行を命令。〔「細川家文書」二〕 9月16日 羽柴秀吉(「羽筑秀吉」)、書状を送付してきた亀井茲矩(「亀新十」)に応えて敵状報告を諒承、因幡国鳥取城の「一着」 は近いので因幡国鹿野城の守備を厳重にし持ちこたえるよう指示。また「玉薬」の送付を告げ、追々軍需物資の送付を通達。 〔「亀井文書」乾〕 9月17日 多聞院英俊、伊賀国陣中見舞より帰還した教浄より伊賀国の状況を知る。 合戦も無く「伊賀一円落居」となり、調略により「破城」が実行され南部に2・3城が残るのみとなったことを知る。 多聞院英俊は伊賀国を「五百年モ乱不行国」であるとの認識を示し「悉破滅時刻到来」との感慨を記す。〔『多聞院日記』三〕 9月18日 堀秀政(「堀久太郎秀政」)、唐橋在通(「唐橋殿」)へ東福寺諸堂「大破」にあたり織田「御分国中」における「勧進」の 件は織田信長「御上洛」の時に指示が下されることを通達。〔「九条家文書」E‐1626〕 9月18日 大和国興福寺別会五師釈迦院寛尊、今度の伊賀国への織田信長「御手遣」は東より伊勢衆が、北からは滝川一益(「滝川」) 丹羽長秀(「刄場五郎左衛門」)が、西からは筒井順慶(「順慶」)らが攻撃を仕掛け、「惣国一時ニ亡所ニ成」る様子で あったこと、また筒井順慶(「順慶」)は伊勢国牢人衆の探索を厳重に実行し老若男女・僧俗問わず刎首したことを知る。 〔『蓮成院記録』三〕 9月23日 織田信長、京都北野神社松梅院へ602石の知行方目録を下す。〔「北野神社古文書」〕 9月24日 織田信長、細川藤孝(「長岡兵部大輔」)へ松井康之(「松井胃介」)・加悦勘十郎が重ねて出雲国・伯耆国の境界で 軍事行動に及び、敵船(毛利水軍)を撃破して敵勢25人を討ち取った「虜等之注文」と羽柴秀吉(「羽柴藤吉郎」)からの 折紙を披見し、その戦功を賞す。また松井康之・加悦勘十郎の忠節を賞賛すべきことを通達。 〔『細川家記』藤孝三、『寛永ゥ家系図伝』十二、『古文書集』七ノ九、『士林証文』三〕 9月27日 織田信長、庄市助(備中国豪族)へ羽柴秀吉(「羽柴筑前守」)を派遣したので、羽柴秀吉(「羽柴」)の「申次第」に忠節 に励むことを指示。〔「備中荘家文書」‐3〕 9月28日 羽柴秀吉(「筑前守秀吉」)、畳指「石見」宗珍へ「畳指為天下一」として織田信長(「上様」)より織田家「御大工」を 仰せ付けられ、諸公事以下を「御免許」することは織田信長「御朱印」の旨に任せることを通達。〔「伊阿弥家文書」〕 9月30日 松平家忠、遠江国浜松城普請に着手。〔『家忠日記』〕 10月 10月 2日 織田信長(「信長」)、前田利家(「前田又左衛門」)へ能登国の国並の知行を与えること、越前国での知行分を 菅屋長頼(「菅屋九右衛門尉」)に宛行うことを通達。また天正9年分の「所務」は前田利家が収納し、来年より菅屋長頼の 収納とすべきこと、前田利家の妻子は能登国へ引っ越さなければならないこと、引き継ぎのために菅屋長頼(「九右衛門」)が 近日に越前国へ派遣することを通達。さらに越前国府中の前田利家が守備する要害と部下の私宅まで菅屋長頼へ引き渡すことを 厳命。〔尊経閣文庫所蔵『古案』乾、『加能越古文叢』三十七〕 10月 3日 大和国興福寺大乗院門跡、織田信長(「信長」)への見舞として上洛。〔『多聞院日記』三〕 10月 3日 大和国興福寺、伊賀衆牢人の「ハラヰ」のために「仙千代」の母を般若寺へ派遣する。〔『多聞院日記』三〕 10月 3日 村井貞勝(「春長軒」)、京都鴨社祝造営奉行中へ全4ヶ条の鴨社法式「定」を下す。〔「鴨脚光敷文書」〕 10月 5日 大和国興福寺大乗院門跡、近江国安土城に出仕する。〔『多聞院日記』三〕 10月 6日 明智秀満(「明智弥平次」)、丹波国天寧寺へ「光秀判形」による免許状を下す。〔「天寧寺文書」‐17〕 10月 6日 徳川家康、遠江国浜松城に於いて家臣全員を振舞う。〔『家忠日記』〕 10月 8日 大和国興福寺大乗院門跡、近江国安土城からの帰途で京都醍醐に宿泊。〔『多聞院日記』三〕 10月 8日 多聞院英俊、去10月5日に大和国興福寺大乗院門跡が近江国安土城に出仕したことを「御書」により知る。 〔『多聞院日記』三〕 10月 9日 大和国興福寺大乗院門跡、近江国安土城より大和国奈良へ帰座。 多聞院英俊、明日に織田信長(「信長」)が伊賀国へ「御出馬」することを知る。〔『多聞院日記』三〕 10月 9日 前田利家、能登国正院百姓中へ織田信長より能登国「一職」を拝領したので近江国安土城に礼問したことに触れ、「代官」 その他誰でも非分を申し懸けた場合は百姓は出頭し「訴訟」すべきことを命令。〔「能登国古文書」〕 10月10日 織田信長(「信長」)、伊勢国へ出陣し「アラキノ宮」に逗留。「誰ニモ不見参」であった。〔『多聞院日記』三〕 10月10日 大和国興福寺大乗院門跡、織田信長(「信長」)の伊賀国出馬にあたり「動座ノ馬」1頭を贈る。〔『多聞院日記』三〕 10月12日 織田信長(「信長」)、この暁に伊勢国より近江国安土城へ帰還す。〔『多聞院日記』三〕 10月12日 織田信長(「信長」)、丹羽長秀(「惟住五郎左衛門」)・蜂屋頼隆(「蜂屋兵庫」)へ土肥親真(「土肥但馬守」)が 能登国より近江国安土城へ礼問してきたことに触れ、「上辺見物」をさせることにしたので丹羽長秀の近江国佐和山城に宿泊・ 接待することを命令。「八木」を支給するので、そのために織田信長が「染筆」したことを告げる。 〔「東美太郎氏所蔵文書」〕 10月13日 多聞院英俊、去10月10日に織田信長(「信長」)が伊勢国へ進軍し「アラキノ宮」に逗留し「誰ニモ不見参」であった こと、去10月12日暁に近江国安土城へ帰還したことを知る。また井戸良弘(「井戸若州」)の大和国帰還も知る。 〔『多聞院日記』三〕 10月13日 滝川一益、奥平喜八郎(「奥喜」)へ織田信長より信濃国境目に「御取出」の構築命令を受けたことに触れ、その詳細を伝達 するので近江国安土城まで出頭することを通達。これについては牧野成長(「牧伝」)より伝達させる。 〔『武家事紀』三十五続集古案〕 10月13日 井戸良弘(「井戸若州」)、伊勢国より大和国へ帰還す。〔『多聞院日記』三〕 10月14日 遠江国浜松城普請、一旦終了す。〔『家忠日記』〕 10月15日 織田信長(「信長」)、富田知信(「富田左近将監」)へ「北国向」の件は軍勢を派遣して越中国・能登国の平定が完了した ので越後国に「乱入」することを念頭に置き本庄繁長(「本庄」)・高梨氏らを勧誘することが重要であることを通達。 詳細は小笠原貞慶(「貞慶」)より伝達させる。〔『越佐史料』六 所収文書〕 10月15日 松平家忠、三河国深溝城に帰還。〔『家忠日記』〕 10月16日 大和国興福寺大乗院門跡、「今度畑儀」(畑庄の件)について織田信長への礼物を調達し上洛す。〔『多聞院日記』三〕 10月17日 多聞院英俊、「伊賀ノ陣」が終結したことを知る。〔『多聞院日記』三〕 10月20日 羽柴秀吉(「羽筑秀吉」)、亀井茲矩(「亀新十」:因幡国鹿野城守将)へ吉川元春(「吉川」)の動向を通知し、なお一層 に城の守備を堅固にするよう命令。〔「亀井文書」〕 10月21日 筒井順慶(「順慶」)、大和国春日大社へ社参す。〔『多聞院日記』三〕 10月23日 羽柴秀吉(「筑前守秀吉」)、与一左衛門へ淡路国岩屋の船57艘が羽柴秀吉「分国中」を廻漕することを許可す。 詳細は浅野長政(「浅野弥兵衛」)に伝達させる。〔「佐伯文書」〕 10月24日 大和国興福寺に近江国安土からの大和国興福寺大乗院門跡「御書」が到来す。〔『多聞院日記』三〕 10月24日 松平家忠、東条松平甚太郎家忠(松平家忠妹婿)の病気を見舞う。〔『家忠日記』〕 10月25日 多聞院英俊、近江国安土からの大和国興福寺大乗院門跡「御書」により大供が来10月27日に執行することを知る。 〔『多聞院日記』三〕 10月25日 羽柴秀吉、因幡国鳥取城を攻略し吉川経家を自刃させる。宮部継潤に鳥取城を守備させる。 10月25日 吉川経家、自刃。〔『日本史人物生没年表』〕 10月25日 多聞院英俊、十市新二郎(「十新」)からの今度の「陣始」の礼に対し酒肴を送る。〔『多聞院日記』三〕 10月27日 大和国興福寺大乗院門跡、近江国安土より帰還す。〔『多聞院日記』三〕 10月28日 羽柴秀吉、伯耆国高山へ進軍。 10月29日 織田信長(「信長」)、下野国の皆川広照(「長沼山城守」)へ「葦毛」馬1匹(実際は3頭)の贈呈を謝し、返礼祝儀 として褶100端・虎革5枚・紅緒50結を贈与。〔「皆川文書」二〕 10月29日 織田信長(「信長」)、滝川一益(「滝川左近」)へ使者を常陸国(実際は下野国)の皆川広照(「蜷川」)に派遣したこと に触れ、さらにその使者を相模国に送る様に馳走を命令。詳細は西尾光教(「西尾」)より伝達させる。〔「皆川文書」二〕 10月29日 堀秀政(「堀久太郎秀政」)、皆川広照(「皆川山城守」)へ織田信長(「上様」)への馬3頭の贈呈を謝し、織田信長は 特別に「葦毛」を自愛しており、返答の織田信長「御書」が発給されたことを通知。また堀秀政への「栗毛」馬1頭の贈呈を 謝し、今後の取次役を承る旨を通達。詳細は智積院前坊より伝達させる。〔「皆川文書」二〕 10月 吉日 浅野長政(「浅野弥兵衛尉長吉」)、某(与一左衛門)へ淡路国岩屋の傅ね7艘が羽柴秀吉(「筑前守殿」)「御分国中」を 廻漕することを許可する羽柴秀吉「御判」が発給されたことを通達。 また与一左衛門の船は諸公事を免許する旨を通達。〔「佐伯文書」〕 11月 11月 1日 東条松平甚太郎家忠(松平家忠妹婿)、病没。〔『家忠日記』〕 11月 4日 大和国興福寺、先日の筒井順慶(「筒井」)から大和国興福寺一乗院「慈恩会」について派遣された使者の「森猪介」へ御礼 として金1枚を送る。〔『多聞院日記』三〕 11月 4日 松平家忠、東条松平甚太郎家忠の「訪」をする。〔『家忠日記』〕 11月 8日 羽柴秀吉、播磨国姫路城に凱旋し直ちに淡路島へ上陸。 11月 8日 徳川家康、関口石見守(「相州御使者」:皆川広照使者)へ三河国・遠江国宿中で有効な「伝馬」7頭の手形を発行す。 〔「皆川文書」二〕 11月10日 織田信忠、高木貞久へ新知97貫文余を扶助。〔「東高木文書」‐5〕 11月11日 多聞院英俊、大和国興福寺大乗院門跡へ綿15把を上納。織田信長(「安土」)への「御用」のためであった。 〔『多聞院日記』三〕 11月12日 徳川家康(「家康」)、皆川広照(「蜷川山城守」)へ今度の近江国安土城に音信として馬進上を賞す。 また、織田信長(「信長」)はその進上された馬を自愛しており、織田信長より皆川広照の使者である関口石見守の「馳走」 を担当する命令を受けたこと、「東海道」は織田信長(「公儀」)の勢力下であるので異儀無く帰路についたこと、この様に 使者を入念に歓待したのは徳川家康にとって初めてのことであり、近江国安土城での織田信長機嫌の様子(「上方之御仕合」) は使者がよく存じており、徳川家康も大慶に存じていること、徳川家康は幸いにも近江国安土城(「上辺」)への路次中である ので要望があれば承ること、僅かながら「無上」(宇治銘茶)3斤を進上することを通知。詳細は関口石見守より伝達させる。 〔「皆川文書」二〕 11月12日 徳川家康、関口石見守(皆川広照使者)へ「伝馬」6頭の手形を発す。〔「皆川文書」二〕 11月14日 大和国興福寺大乗院門跡、先日近江国安土礼参の際の「御借用金子」3枚7両を返済するために調達。〔『多聞院日記』三〕 11月14日 松平家忠、西尾義次が三河国吉良へ向かう途中の宇谷に於いて「酒むかい」をする。〔『家忠日記』〕 11月14日 東条松平甚太郎家忠に嫁いだ松平家忠妹が東条より三河国深溝城に戻る。〔『家忠日記』〕 11月15日 近江国安土城へ勅使と青蓮院尊朝法親王の坊官が下向する。 11月15日 筒井順慶(「大法師」)、「権律師」へ昇進。〔『筒井補系』〕 11月16日 羽柴秀吉、生駒親正(「正成」)へ明日淡路国出陣のため陣取の用意を命令。 更に岩屋城攻略について指示を下す。〔「吉武文書」‐1〕 11月17日 羽柴秀吉、淡路国岩屋城・由良城を攻略し淡路島を平定。 11月17日 本願寺顕如、美濃国渥美郡門徒へ大坂退出の状況を通知。詳細は下間頼廉に伝達させる。〔「圓徳寺文書」‐5〕 11月17日 下間頼廉(石山本願寺坊官)、美濃国渥美郡門徒へ本願寺顕如の大坂退出についての状況を通知。〔「圓徳寺文書」‐6〕 11月19日 大和国興福寺大乗院門跡、先日の近江国安土礼参の際の「借金」の返済を終了す。〔『多聞院日記』三〕 11月20日 羽柴秀吉、播磨国姫路城に凱旋。 11月24日 青蓮院尊朝法親王、再度近江国安土城へ坊官を派遣す。 11月この頃 織田信長(「信長」)、尊朝法親王(「青蓮院殿」)へ京都宇治平等院「住持」の件を諒承し、新善法寺(「新善寺」)は 不肖であるので平等院住持を更迭して適切な人物を選考することも諒承したが、近衛前久(「近衛殿」)との「相論」は どうして発生したのか疑問を提示。また平等院領は京都宇治内であり(織田信長直轄地であるので)「代官」に措置を命令した ことを通達し、宇治平等院「住持」について織田信長(「信長」)は「無案内」であるが、現状を隠匿すべきではなく、適切な 人物を迎えるべきことを通達。その上で平等院領を考慮し処置すること、村井貞勝(「春長軒」)からの使者が詳細を伝達する ことを通達。〔「五島美術館所蔵文書」〕 11月27日 青蓮院尊朝法親王が近江国安土城へ派遣した坊官、織田信長よりの返書を携え帰京。 11月28日 多聞院英俊、十市新二郎(「十新」)と竹内秀勝(「竹下」)の子息を夕食に招待す。〔『多聞院日記』三〕 12月 12月 3日 大和国興福寺大乗院門跡、金子3枚を携え近江国安土へ向けて大和国奈良を出発。〔『多聞院日記』三〕 12月 3日 羽柴秀吉(「羽藤秀吉」)、中川清秀(「中川瀬兵衛尉」)へ西国の2ヶ国を宛行うとの織田信長「御朱印」が発給され、 福富秀勝(「福平左」)・下石頼重(「下彦右」)・野々村正成(「野三十」)がその旨を伝達することを通達。 また宇喜多直家(「宇喜泉」)が織田信長(「上様」)へ上申して中川清秀への宛行いが実行されなかったならば、羽柴秀吉は 織田信長「御朱印」に任せ「馳走」すること、宇喜多直家(「宇喜泉」)が織田信長への忠節を尽すことで織田信長「御朱印」 により備中国を宛行われることになれば、宇喜多直家に宛行われている「備後之次国」を替わりに宛行われるように「馳走」 すること、中川秀成(「石千世殿」)の件を織田信長へ「御取次」することは「御契約心得」に存じていることに少も相違は 無いことを通達。〔『昭和十年三月旧大名並某家蔵品入札目録』、『武家雲箋』〕 12月 4日 喜多院空慶(菊亭晴季息:11才)、大和国興福寺に於いて得度す。〔『多聞院日記』三〕 12月 4日 村井貞勝、松井友閑を訪問して宇治平等院領家の件を談議し、青蓮院の勝訴について確認す。 12月 5日 宇治七人衆、宇治平等院より退散。 12月 7日 織田信長(「信長」)、大和国興福寺大乗院門跡へ大和国畑庄を「守護不入之地」として安堵する朱印状を下す。 〔『多聞院日記』三〕 12月10日 大和国興福寺大乗院門跡、近江国安土より大和国奈良へ帰還。畑庄についての織田信長「御朱印」を獲得してきた。 〔『多聞院日記』三〕 12月15日 松井友閑、織田信長の命令を受けて京都宇治へ下向し、宇治七人衆を処断す。 12月18日 織田信長(「信長」)、大和国興福寺大乗院門跡へ炭10荷の返礼の「御墨印」状を発す。〔『多聞院日記』三〕 12月18日 織田信長、一雲斎針阿弥を紀伊国高野山に派遣す。 12月18日 松平家忠、遠江国牧野原城に於いて西尾義次の来訪を受け、兵粮搬入を受け取る。〔『家忠日記』〕 12月20日 多聞院英俊、大和国興福寺大乗院門跡が安堵された大和国畑庄に於いて焼いた炭10荷を織田信長(「信長」)へ、 一雲斎針阿弥(「針阿」)と楠長諳(「長諳」)へ1荷ずつ送ったところ、織田信長(「信長」)より丁寧な返礼の 「折紙」(「御墨印」)が到来したことを知り驚く。〔『多聞院日記』三〕 12月20日 羽柴秀吉、近江国安土城において織田信長に因幡国・淡路島平定を復命し感状および茶湯道具12種を授与される。 12月20日 中島元行(備中国高松城将)、毛利輝元へ織田信長の西国出陣の風聞を報告。 12月21日 多聞院英俊、大和国興福寺舜長房が関与した先頃の罪科について矢部家定(「矢部善七郎」)が「鯰江」を使者として 筒井順慶(「筒順」)に調査を指示し、この日に「使衆」が大和国興福寺仏地院へ到来したことを知る。〔『多聞院日記』三〕 12月22日 羽柴秀吉、播磨国姫路城に帰還。 12月23日 羽柴秀吉、今井宗久・今井宗薫へこの日近江国安土城において織田信長より8種の名物の茶道具を拝領したことを報告。 〔「小林文書」〕 12月24日 武田勝頼、甲斐国韮崎に新築した新府城に移る。 12月27日 羽柴秀吉、摂津国茨木城において茶会を開催し播磨国姫路城に帰還。 この年 梅津政景、下野国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕 相馬利胤、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕 堀利重、美濃国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕 牧野忠成、三河国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕 宮部長熙、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕 正木憲時、没(異説1578年)。〔『日本史人物生没年表』〕