All contents copyright (C)1999-2012 Household Industries / allrights reserved


フロントページに戻る
目次に戻る
項目別文献・論文一覧へ

        【 天下統一期年譜 1579年 】

天正 7(1579)年 

 1月
  1月 1日 山科言経、この日の「四方拝」の奉行は葉室長教が担当したことを知る。〔『言経卿記』一〕
  1月 1日 山科言経、「禁中」へ1荷・両種を献上。〔『言経卿記』一〕
  1月 1日 山科言経、「御祝」のために参内するも「産穢」のために参賀はしなかった。〔『言経卿記』一〕
  1月 1日 松平家忠ら徳川「家中衆」、三河国岡崎城の徳川信康に年頭礼問す。〔『家忠日記』〕
  1月 2日 山科言経、冷泉為満より餅鏡・酒樽などを贈られる。〔『言経卿記』一〕
  1月 2日 薄諸光(橘以継:山科言経弟)、山科言経を年頭礼問す。〔『言経卿記』一〕
  1月 2日 暮れに二日御祝として誠仁親王(「親王御方」)・和仁親王(「若宮御方」)らが参内。「上掾v(花山院家輔女)・
       「大典侍殿」(万里小路賢房女)・「新大典侍殿」(万里小路房子)・「メヽスケ殿」(飛鳥井雅綱女)・
       「長橋局」(量子:高倉永家女)・「伊与殿」(舟橋教重女)・「御今参」が随行。堂上は山科言継・庭田重保・持明院基孝・
       四辻公遠・甘露寺経元・山科言経・庭田重通・勧修寺晴豊・三条西公国・正親町実彦・中山親綱・中院通勝・五辻為仲・
       滋野井実松・広橋兼勝・白川雅朝・四辻季満・中山慶親・小倉季藤・甘露寺経家・薄諸光・五辻元仲らであった。次いで各自は
       誠仁親王(「宮御所」)へ祗候。〔『言経卿記』一〕
  1月 2日 菊亭晴季・五条為名、御礼に参内。申次は四辻公遠であった。〔『言経卿記』一〕
  1月 2日 山科言経、山科言継の代理で御番として参内。相番は勧修寺晴豊・白川雅朝・橘諸光らであった。
       外様は三条西実綱の代理の中院通勝・五条為名であった。菊亭晴季は当番であったが退出してしまった。
       山科言経、菊亭晴季は去年(天正6年)の正月以来1度も当番として参内しないので「言語道断曲事」と評す。
       〔『言経卿記』一〕
  1月 2日 山科言経、「御焼火」のために御湯殿上へ祗候。〔『言経卿記』一〕
  1月 2日 吉田兼見、旧冬に村井貞成(「作右衛門」)の勘気を蒙って三井寺に隠居させられた村井清三へ慰労のため神人を派遣。
       〔『兼見卿記』一〕
  1月 2日 松平家忠、夜通しで遠江国浜松に赴く。夕方に遠江国浜松城へ出仕する。「うたひ初」が行われた。〔『家忠日記』〕
  1月 3日 薄諸光、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  1月 3日 暮れに三日御祝の参内がある。
       「天酌被参衆」は持明院基孝・四辻公遠・甘露寺経元・山科言経・庭田重通・勧修寺晴豊・中山親綱・中院通勝・五辻為仲・
       滋野井実松・広橋兼勝・白川雅朝・万里小路充房・四辻季満・中山慶親・高倉範国・小倉季藤・甘露寺経家・薄諸光・五辻元仲
       らであった。次いで各自誠仁親王(「宮御所」)へ祗候。三条西公国は遅参して参内。〔『言経卿記』一〕
  1月 3日 徳大寺公維、山科言経を訪問し指貫を借用す。〔『言経卿記』一〕
  1月 3日 冷泉為満の従四位上加級、山科言緒(「阿茶丸」)の「叙爵」の小折紙が調えられ、明後日1月5日に「勅許」が下される
       ことになる。〔『言経卿記』一〕
  1月 3日 徳大寺公維・竹内長治・六条有親ら、御礼に参内。申次は山科言経であった。
       誠仁親王(「御方御所」)より竹内長治・六条有親は御盃を賜わった。〔『言経卿記』一〕
  1月 3日 村井貞勝(「村井長門守」)、山科邸を訪問し山科言継・山科言経へ50疋を贈呈す。〔『言経卿記』一〕
  1月 3日 筒井順慶(「筒井」)ら大和国衆、摂津国・播磨国を転戦し、この日に大和国へ帰還す。〔『多聞院日記』三〕
  1月 3日 多聞院英俊、去年11月始めより摂津国へ織田信長(「信長」)が「出勢」、筒井順慶(「筒井」)ら大和国衆は悉く従軍、
       その後に播磨国へ転戦してこの日に大和国へ帰還した旨を知る。〔『多聞院日記』三〕
  1月 3日 松平家忠、「松平玄蕃」の遠江国浜松宿所にて振舞を受ける。また「浜松家中」を礼問して廻った。
       その後、遠江国浜松より「あらい」迄戻った。〔『家忠日記』〕
  1月 4日 徳大寺公維、山科言経へ指貫を返却する。〔『言経卿記』一〕
  1月 4日 松平家忠、三河国吉田の酒井忠次(「左衛門尉」)を礼問し、三河国深溝へ戻る。
       この日、酒井忠次(「酒左」)は近江国安土城へ徳川家康「御使」として出仕していた。〔『家忠日記』〕
  1月 5日 正親町天皇、冷泉為満(従四位下)に「従四位上」昇進を勅許。〔『言経卿記』一〕
  1月 5日 正親町天皇、山科言緒(「阿茶丸」)に「従五位下」叙爵を勅許。〔『言経卿記』一〕
  1月 5日 「禁中黒戸」に於いて「妙音天御法楽」が行われる。
       その後、長橋殿と誠仁親王(「宮御方」)のところで酒席が設けられる。〔『言経卿記』一〕
  1月 5日 山科言経、「千秋万歳」のため参内。「孔雀間」にて舞が行われる。〔『言経卿記』一〕
  1月 5日 薄諸光、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  1月 5日 四条隆昌、錫を携え山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  1月 5日 松平家忠、三河国深溝城にて「出家衆」の礼参を受ける。〔『家忠日記』〕
  1月 6日 山科言経、正親町実彦の来訪を受けて「季秀」と改名したことを知る。〔『言経卿記』一〕
  1月 6日 冷泉為満、山科言経を礼問す。〔『言経卿記』一〕
  1月 6日 山科言経、正親町天皇の召喚により参内。御三間に祗候したところ、禁中「公卿補任」が不足しているというので検知を行い
       8冊分の不足が判明、補写命令を受ける。
       また「大事御本」である故豊原統秋の著した「楽道秘書體源抄」と「女院号」1冊の拝借を聴される。〔『言経卿記』一〕
  1月 6日 二条昭実(「二条殿内府」)、「当年御礼」のために参内。〔『言経卿記』一〕
  1月 6日 山科言経、高辻長雅の番代として祗候。相番は白川雅朝であった。内々衆は甘露寺経元・中院通勝・五辻元仲らであった。
       〔『言経卿記』一〕
  1月 6日 吉田兼見、吉田牧庵・佐竹定実(「佐竹羽州」)を茶会に招く。〔『兼見卿記』一〕
  1月 7日 山科言経、村井貞勝(「村井長門守」)を礼問。村井貞勝へ50疋、村井光清(「将監」)へ20疋を贈呈。
       〔『言経卿記』一〕
  1月 7日 山科言経、暮れに七日御祝のために参内。「天酌参仕衆」は山科言継・庭田重保・持明院基孝・四辻公遠・甘露寺経元・
       勧修寺晴豊・三条西公国・中山親綱・中院通勝・五辻為仲・万里小路充房・四辻季満・中山慶親・高倉範国・甘露寺経家・
       薄諸光・五辻元仲らであった。次いで各自、誠仁親王(「宮御方」)へ祗候す。〔『言経卿記』一〕
  1月 7日 山科言経、山科言継の番代として参内。相番は勧修寺晴豊・白川雅朝・薄諸光らであった。彼等は「御焼火」に祗候。
       〔『言経卿記』一〕
  1月 7日 舟橋国賢(「清少納言」)・小笠原貞慶(「小笠原民部少輔」)・吉田浄慶(「盛方院」)、吉田兼見を訪問。
       〔『兼見卿記』一〕
  1月 7日 松平家忠、三河国深溝城にて「丹羽隼人」の礼参を受ける。〔『家忠日記』〕
  1月 8日 智仁親王(「若宮御方」)、寅刻に誕生。〔『言経卿記』一〕
  1月 8日 山科言経、御番のため祗候したところ正親町天皇より「體源抄」3巻の書写進上命令を受ける。〔『言経卿記』一〕
  1月 8日 山科言継、薄諸光邸に夕食のため赴く。〔『言経卿記』一〕
  1月 8日 松平家忠、松平勘解由左衛門のもとへ赴き振舞を受ける。〔『家忠日記』〕
  1月 9日 山科言継、朝飯に薄諸光邸へ赴く。〔『言経卿記』一〕
  1月 9日 葉室長教、上洛す。〔『言経卿記』一〕
  1月 9日 四辻公遠、来たる1月13日の「御月次御楽」の廻文を発す。〔『言経卿記』一〕
  1月 9日 山科言経、高辻長雅邸を訪問。〔『言経卿記』一〕
  1月 9日 冷泉為満・中院通勝・五辻元仲ら、山科言経を訪問し談合す。〔『言経卿記』一〕
  1月 9日 松平家忠、三河国深溝城にて三河国岡崎より到来した久志本法安の礼参を受ける。〔『家忠日記』〕
  1月10日 山科言経、五辻為仲より「五調子」笛譜借用要請を受けて遣わす。〔『言経卿記』一〕
  1月10日 葉室長教、山城国葛野郡葉室へ帰宅。〔『言経卿記』一〕
  1月10日 持明院基孝、山科邸を訪問。楽の稽古が行われる。〔『言経卿記』一〕
  1月10日 一条町与介、「東堂」号について広橋兼勝に訪問し談合す。〔『言経卿記』一〕
  1月11日 禁裏黒戸に於いて巳日御楽が行われる。〔『言経卿記』一〕
  1月11日 山科言経、広橋兼勝を訪問し談合す。〔『言経卿記』一〕
  1月11日 山科言経、暮れに「上搆芫ヌ」(花山院家輔女)の召喚により番衆所に祗候。〔『言経卿記』一〕
  1月11日 冷泉為満、薄暮に山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  1月11日 山科言経、山科言継より万秋楽を伝授される。〔『言経卿記』一〕
  1月11日 筒井順慶(「筒井」)、大和国春日大社に社参。多聞院英俊は瓦屋に参籠していたために礼問出来なかった。
       〔『多聞院日記』三〕
  1月11日 羽柴秀吉、浅野長吉に近江国北郷福永内に三百石を宛行う。〔「浅野家文書」〕
  1月11日 三河国にてこの戌刻に「地震」発生。松平家忠、「祈祷」す。〔『家忠日記』〕
  1月11日 松平家忠、三河国深溝城にて三河国岡崎満生寺一世と京都の升屋の礼参を受ける。「拍子」が行われた。〔『家忠日記』〕
  1月11日 この戌刻に三河国深溝城「おすへ」にて出火するも鎮火した。〔『家忠日記』〕
  1月12日 織田信長(「信長」)、細川藤孝(「長岡兵部大輔」)へ以前派遣した下石頼重(「下石彦右衛門尉」)より戦況報告を
       受け、細川藤孝父子が交替で在番することを命令。
       また去る1月9日に尾張国智多郡に於いて捕獲した「鯨」が到来したので即時「禁裡御二御所様」(正親町天皇・誠仁親王)へ
       進上し、織田信長・細川藤孝(長岡藤孝)が服用するための「すそわけ」を送付することを通知。〔「細川家文書」二〕
  1月12日 織田信長(「信長」)、細川忠興(「長岡与一郎」)へ以前派遣した下石頼重(「下石彦右衛門尉」)を介して鴈を贈呈して
       きたことを謝し、細川藤孝父子の「番替」すべきことを命令。〔「細川家文書」二〕
  1月12日 山科言経、「長橋局」(量子:高倉永家女)へ祗候。山科言緒(「阿茶丸」)の「叙位」について去る1月5日に「勅許」が
       下されたことが広橋兼勝より知らされたので、「上搆芫ヌ」(花山院家輔女)へ忝き旨を申し入れる。
       次いで正親町天皇(「禁中」)より「御楽日次」について不審点があることと「新暦赤表紙」進献遅延の糺明命令を受けて
       土御門邸を訪問するが、土御門久脩は去年より「在国」しているということであった。山科言経、「言語道断曲事至」であると
       評す。〔『言経卿記』一〕
  1月12日 山科言経、「上搆芫ヌ」(花山院家輔女)へ2度目の祗候。「申入事」があった。〔『言経卿記』一〕
  1月12日 山科言経、「当年礼」の酒樽を携えて冷泉為満を訪問。「四位加級宣案」と「體源抄」3巻を遣わす。〔『言経卿記』一〕
  1月12日 山科言経、「メヽスケ殿」(飛鳥井雅綱女)の「当年礼」の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕
  1月12日 山科言経、広橋兼勝より冷泉為満の従四位上昇進と山科言緒(「藤原言緒」)の叙爵の口宣案を受ける。〔『言経卿記』一〕
  1月12日 山科言経、山科言継の番代として祗候。相番は白川雅朝・薄諸光であった。外様衆は中院通勝・五条為名らであった。彼等は
       「御焼火」に祗候。〔『言経卿記』一〕
  1月12日 松平家忠、松平喜平の宿所を訪問し振舞を受ける。〔『家忠日記』〕
  1月12日 三河国にてこの申刻に「なへゆる」発生。〔『家忠日記』〕
  1月13日 山科言経、五条為名へ冷泉為満の従四位上昇進と山科言緒(「藤原言緒」)の叙爵の「宣旨」2枚を遣わす。
       〔『言経卿記』一〕
  1月13日 山科言経、大炊御門経頼へ「平調」楽譜を送る。〔『言経卿記』一〕
  1月13日 山科言経、土御門久脩の在国を咎める。〔『言経卿記』一〕
  1月13日 「禁中」御学問所に於いて「御月次御楽」が行われる。〔『言経卿記』一〕
  1月13日 山科言経、高辻長雅より錫・食籠を贈られる。〔『言経卿記』一〕
  1月13日 吉田兼見、小笠原貞慶(「小笠原民部少輔」)の茶会に赴く。〔『兼見卿記』一〕
  1月13日 吉田兼見、細川藤孝(「長兵」)宿所(舟橋国賢邸)を訪問。〔『兼見卿記』一〕
  1月13日 吉田兼見、徳大寺公維(「徳大寺殿」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕
  1月13日 吉田兼見、細川藤孝(「長兵」)を同行し相国寺南豊軒周超を訪問。〔『兼見卿記』一〕
  1月13日 吉田兼見、細川藤孝(「長兵」)を同行し宝鏡院殿尼を訪問。〔『兼見卿記』一〕
  1月13日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)・近衛信尹(「御方御所」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕
  1月13日 松平家忠、三河国深溝城にて「佳例之連歌」を詠む。〔『家忠日記』〕
  1月14日 山科言継、早朝に内侍所へ祗候。次いで上御霊社・北野社へ参詣。〔『言経卿記』一〕
  1月14日 山科言経、冷泉為満を同行し「当年礼」(年始廻礼)のため邦房親王(「伏見殿」)・「大祥寺殿」(永邵女王)・
       「岡殿」(覚音女王)・「梶井殿」(應胤法親王)・「竹内殿」(曼殊院覚恕)・毘沙門堂公厳・遣迎院・大和入道宗恕・
       半井瑞策らを礼問す。次いで二条晴良を訪問するも所労というので二条昭実が応対した。その後、九条兼孝・一条内基・
       三条西実枝・烏丸光康・菊亭晴季・徳大寺公維・庭田重保・持明院基孝・高倉永相・柳原淳光・四辻公遠・甘露寺経元・
       勧修寺晴豊・大炊御門経頼・正親町季秀・中山親綱・中院通勝・烏丸光宣・日野輝資・五辻為仲・久我季通・三条西実綱・
       広橋兼勝・竹内長治・東坊城盛長・白川雅朝・万里小路充房・四条隆昌・高倉永孝・六条有親・飛鳥井雅継・五条為名・
       中御門宣光・富小路秀直・唐橋在通らを訪問。〔『言経卿記』一〕
  1月14日 山科言経、広橋兼勝より「補歴」借用要請を受けて遣わす。〔『言経卿記』一〕
  1月14日 冷泉為満・四条隆昌・薄諸光ら、山科言経を訪問す。〔『言経卿記』一〕
  1月14日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問。
       その後吉田兼見は近衛前久(「近衛殿」)、細川昭元(「細川右京兆」)、「曇華院殿」(聖秀女王)を訪問。
       次いで禁裏へ参賀。更に一条内基(「一条殿」)、二条晴良(「二条殿」)・二条昭実(「御方御所」)を訪問。
       〔『兼見卿記』一〕
  1月14日 松平家忠、松平与五左衛門尉を訪問し振舞を受ける。〔『家忠日記』〕
  1月14日 松平家忠、三河国岡崎城の徳川信康(「信康」)を礼問し「うたひ初」に参席す。〔『家忠日記』〕
  1月15日 山科言経、自邸に於いて「三毬打」の準備を行う。〔『言経卿記』一〕
  1月15日 山科言経、正親町天皇(「禁裏」)へ「三毬打」竹10本を例年の如く献上す。〔『言経卿記』一〕
  1月15日 薄諸光、山科言経を訪問し「歌談合」す。〔『言経卿記』一〕
  1月15日 山科言経、山科言継の代理として「禁中三毬打」竹を献上する文を認める。〔『言経卿記』一〕
  1月15日 山科言経、「上掾v(花山院家輔女)の新造へ祇園社守札を送付。〔『言経卿記』一〕
  1月15日 山科言経、冷泉為満へ双六の石・局を貸す。〔『言経卿記』一〕
  1月15日 暮れに十五日御祝の参内あり。
       「天酌参仕衆」は三条西実枝・山科言継・庭田重保・持明院基孝・四辻公遠・甘露寺経元・山科言経・庭田重通・勧修寺晴豊・
       三条西公国・水無瀬兼成・中山親綱・中院通勝・五辻為仲・滋野井実松・広橋兼勝・白川雅朝・四辻季満・中山慶親・高倉範国
       甘露寺経家・橘諸光・五辻元仲らであった。禁裏「東庭」に於いて「三毬打」を行う。次いで各自は誠仁親王(「親王御方」)
       へ祗候。〔『言経卿記』一〕
  1月15日 吉田兼見、千秋月斎の連歌会に赴く。細川藤孝(「長兵」)・里村紹巴・里村昌叱も参席。〔『兼見卿記』一〕
  1月15日 松平家忠、三河国岡崎にて行われた「爆竹乗」を見物し、「岡崎家中」を礼問して廻る。その後、三河国深溝城へ戻る。
       〔『家忠日記』〕
  1月16日 冷泉為満、山科言継を訪問。〔『言経卿記』一〕
  1月16日 葉室長教、上洛。後ほど山城国葛野郡葉室へ帰宅。〔『言経卿記』一〕
  1月16日 山科言経、冷泉為満へ「大学」・「論語」を返還。〔『言経卿記』一〕
  1月16日 誓願寺西堂、「香衣」勅許御礼のために参内す。「ヒタ」4貫を進上。〔『言経卿記』一〕
  1月16日 山科言経、高辻長雅の禁裏「番代」として祗候。相番はいなかった。「内々衆」は中院通勝・五辻元仲らであった。
       山科言経、正親町天皇へ「蒙求」を献上し、「女院号」・「古連句」などを返上、そして「為世謡之本」を御目に懸けた。
       正親町天皇、は山科言経らへ「雑書」を貸した。山科言経は「御焼火」に祗候。こちらには南禅寺上乗院道順が参内し、酒宴が
    催された。次いで山科言経は南禅寺上乗院道順と2名にて「為世之本」を歌謡す。〔『言経卿記』一〕
  1月16日 細川藤孝(「長兵」)、藤原「定家色紙」を感得し里村紹巴(「紹巴」)宅にて茶会を張行。長岡治部少輔も来訪。
       吉田兼見、長岡治部少輔が吉田兼見所持の釜を所望というのでこれを贈る。
       吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)、竹田定珪・細川昭元(「細川右京兆」)へ祓を送る。〔『兼見卿記』一〕
  1月17日 この日、禁裏に於いて妙音天法楽の「御楽」が催される。
       山科言経、「故障」のために禁裏法楽を欠席。薄諸光を派遣す。〔『言経卿記』一〕
  1月17日 山科言経、柳原資定へ「紹運図」を返す。〔『言経卿記』一〕
  1月17日 山科言経、渡辺弥七郎へ「論語素本」を返す。〔『言経卿記』一〕
  1月17日 冷泉為満・四条隆昌ら、山科言経を訪問。
       山科言経、冷泉為満・四条隆昌を同行して三条西邸を「歌談合」のために訪問。三条西実枝は「所労」であるというので
       三条西公国が応対した。〔『言経卿記』一〕
  1月17日 山科言経、吉田兼見を訪問。吉田兼見は「禁中為御使」として近江国坂本へ下向していたため留守であった。
       〔『言経卿記』一〕
  1月17日 山科言経(「山科黄門」)、吉田兼見の留守中に訪問。〔『兼見卿記』一〕
  1月17日 吉田兼見、近江国坂本の明智光秀(「惟任日向守」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕
  1月17日 葉室長教、「定藤」と改名することを奏請。〔『言経卿記』一〕
  1月17日 山科言経、大沢重延に「分韻」文藻を刊行させる。〔『言経卿記』一〕
  1月17日 山科言経、山科言継の番代として禁裏に祗候。「相番」は白川雅朝・薄諸光であった。「外様衆」は高倉永孝であった。
       次いで各自は「御焼火」へ祗候。〔『言経卿記』一〕
  1月17日 この朝、筒井順慶(「筒井順慶」)の滞在する治部卿宿に於いて「茶湯」が催される。〔『多聞院日記』三〕
  1月17日 松平家忠、三河国深溝城にて「松平玄蕃」の礼問を受ける。〔『家忠日記』〕
  1月18日 「禁中三毬打」が催される。
       次いで禁裏「男末」に於いて例年の如く「盃酌」があった。次いで「大典侍殿御局」(万里小路賢房女)の所に於いて毎年恒例
       の酒宴があった。甘露寺経元・山科言経・庭田重通・中山親綱・中院通勝・滋野井実松・広橋兼勝・白川雅朝・高倉永孝・
       万里小路充房・四辻季満・中山慶親・高倉範国・甘露寺経家・飛鳥井雅継・薄諸光・五辻元仲が参席。〔『言経卿記』一〕
  1月18日 吉田兼見、山科邸を訪問。山科言継は留守であった。
       吉田兼見、山科言継へ「青鷺」を、山科言経へ唐墨1丁を贈呈。
       山科言経、吉田兼見に「神事」について質疑す。〔『言経卿記』一〕
  1月18日 吉田兼見、山科言経(「黄門」)を訪問。前日の訪問は山科言継(「亜相」)の服忌令に関する質問のためという。
       〔『兼見卿記』一〕
  1月18日 冷泉為満・薄諸光、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  1月18日 吉田兼見、村井貞成(「村作」)邸へ逗留している妻木某を訪問。〔『兼見卿記』一〕
  1月18日 吉田兼見、先日の長岡治部少輔への釜進上に関する沼田弥七郎入道書状に対し返事を出す。〔『兼見卿記』一〕
  1月18日 多聞院英俊、前日1月17日の朝に筒井順慶(「筒井順慶」)の滞在する治部卿宿に於いて「茶湯」が催されたことを知る。
       多聞院英俊、「茶湯都鄙僧俗以外増倍、好事不如無ト」と当時の茶湯に対する認識を表記す。〔『多聞院日記』三〕
  1月18日 多聞院英俊、明日1月19日に筒井順慶(「順慶」)が俄かに到来することを知り、準備を行う。〔『多聞院日記』三〕
  1月18日 松平家忠、三河国深溝の「会下」に振舞う。〔『家忠日記』〕
  1月19日 織田信長(「信長」)、長連竜(「長九郎左衛門尉」)へ年頭の祝儀を謝し、「南方」(石山本願寺)と「中国」(毛利氏)
       が「属平均」したのでこの秋には北陸方面への軍事行動を予定している旨を通達。〔「長家文書」、『加納古文書』〕
  1月19日 「禁中御会始」が俄かに延引となる。〔『言経卿記』一〕
  1月19日 冷泉為満、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  1月19日 葉室定藤、上洛す。〔『言経卿記』一〕
  1月19日 山科言経、正親町天皇(「禁中」)へ吉田兼見の奉答した「御神事御返事」を上聞す。
       正親町天皇、山科言経を召喚。山科言経、「御湯殿」へ祗候し正親町天皇へ直接申し入れる。その後、酒席が催される。
       次いで「岡殿」(大慈光院:覚音女王)の所望により「為世謡之本」の謡いがあった。次いで南禅寺上乗院道順が祗候。
       〔『言経卿記』一〕
  1月19日 山科言経、山科言継より「万秋楽」の伝授を受ける。〔『言経卿記』一〕
  1月19日 徳川家康(「家康」)、三河国岡崎城に到来す。〔『家忠日記』〕
  1月20日 葉室定藤、早旦に山城国葛野郡葉室へ帰宅。〔『言経卿記』一〕
  1月20日 広橋兼勝、山科言経へ「補歴」を返還。〔『言経卿記』一〕
  1月20日 徳川家康(「家康」)、三河国吉良に於いて鷹狩を行う。〔『家忠日記』〕
  1月21日 山科言経、毘沙門堂公厳・高辻長雅を訪問す。〔『言経卿記』一〕
  1月21日 冷泉為満、山科言経を訪問し談合す。〔『言経卿記』一〕
  1月21日 薄諸光、山科言経を訪問し夕飯を相伴す。〔『言経卿記』一〕
  1月21日 山科言経、五辻元仲の妻(「ア子」:葉室定藤姉)が夜前に女子を誕生したことを知り、所望された愛洲薬を送る。
       〔『言経卿記』一〕
  1月21日 竹内長治、山科言経を訪問す。〔『言経卿記』一〕
  1月21日 吉田兼見、室(「青女」)と吉田兼治(「侍従」)を同行し佐竹定実(「佐竹羽州」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕
  1月21日 筒井順慶(「筒井」)、上洛す。〔『多聞院日記』三〕
  1月21日 この夕部に大和国興福寺円明院に於いて「茶湯」が催された。筒井順慶(「順慶」)が到来したという。
       〔『多聞院日記』三〕
  1月21日 松平家忠、三河国深溝にて「大坊」を振舞う。〔『家忠日記』〕
    この頃 細川藤孝(「長兵」)・佐竹定実(「佐竹羽州」)、吉田兼見を訪問。〔『兼見卿記』一〕
    この頃 三条西実枝(「三条亜相」)、危篤。細川藤孝(「長兵」)、見舞のため上洛。〔『兼見卿記』一〕
  1月22日 正親町季秀・冷泉為満ら、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  1月22日 山科言経、高辻長雅の花所望により「梅花」を送る。〔『言経卿記』一〕
  1月22日 山科言経、山科言継の「御番代」として祗候。「相番」は白川雅朝・薄諸光らであった。
       次いで山科言経は正親町天皇より「為世諷之本」を返還された。〔『言経卿記』一〕
  1月22日 筒井順慶(「順慶」)、「ヌシヤ」に於いて「茶湯」を催す。〔『多聞院日記』三〕
  1月22日 松平家忠、三河国深溝に「かりてい」を造作させる。〔『家忠日記』〕
  1月23日 日野輝資邸に於いて「月次法楽和漢連句」が催される。〔『言経卿記』一〕
  1月23日 松平家忠、三河国深溝にて遠江国浜松より到来した犬法師(「犬法」)の訪問を受ける。〔『家忠日記』〕
  1月23日 小早川隆景(「左衛隆景」)、妙寿寺・「鵜新右」へ毛利輝元が荒木村重(「荒摂」)を招喚することにつき、荒木村重の
       ことを「都鄙無隠者」であるので敢えて安芸国吉田に於いて懇談する必要の無い旨を毛利輝元・吉川元春(「両御所」)へ上申
       するよう依頼する。〔「毛利家文書」B‐836〕
  1月24日 三条西実枝(「三条亜相」)、薨去。〔『兼見卿記』一〕
  1月24日 三条西実枝(「三条西殿」)、69才で死去す。〔『多聞院日記』三〕
  1月24日 冷泉為満、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  1月24日 吉田兼見、徳大寺公維(「徳大寺殿」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕
  1月25日 竹内長治、山科言経を訪問し談合す。〔『言経卿記』一〕
  1月25日 冷泉為満、山科言経を訪問。山科言経は冷泉為満を同行し西新町・二条周辺を徘徊す。〔『言経卿記』一〕
  1月25日 山科言経、岡公久・園広遠・東儀兼行の来訪を受けて楽稽古を行う。〔『言経卿記』一〕
  1月25日 山科言経、暮れに長橋局(量子:高倉永家女)へ祗候。明日の因幡堂への「御代官」としての代参命令を受ける。
       〔『言経卿記』一〕
  1月25日 吉田兼見、佐竹定実(「佐竹羽州」)を同行し東陽坊長盛の招待で茶会に赴く。〔『兼見卿記』一〕
  1月26日 山科言経、早朝に因幡堂への代参「御代官」として招喚される。庭田重保・持明院基孝・四辻公遠・白川雅朝・薄諸光・
       五辻元仲ら7名であった。先ず長橋局(量子:高倉永家女)に祗候し、「御撫物」を預かり代参す。「御百度」を各人16回
       ずつ行い柳坊へ10疋を進上した。その後、長橋局(量子:高倉永家女)へ祗候し「御撫物」・「御香水」等を進上した。
       〔『言経卿記』一〕
  1月26日 山科言経、「所労」のために高辻長雅の「番代」を薄諸光に「相伝」す。〔『言経卿記』一〕
  1月26日 多聞院英俊、去1月24日に三条西実枝(「三条西殿」)が69才にて死去したことを知る。多聞院英俊は三条西実枝を
       「天下名仁」と評価し、その死を惜しむ。〔『多聞院日記』三〕
  1月27日 山科言経、春日社御師の中務少輔時家の来訪を受ける。
       山科言継・山科言経・山科言緒らは「御神供」・「油物」・「御祓箱」等を頂戴した。〔『言経卿記』一〕
  1月27日 冷泉為満、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  1月27日 山科言経、山科言継の「御番代」として祗候。「相番」は白川雅朝・薄諸光であった。〔『言経卿記』一〕
  1月27日 松平家忠、三河国吉良大塚にて鷹狩をしている徳川家康(「家康」)を見舞う。〔『家忠日記』〕
  1月28日 織田信長、播磨国の赤松広秀(「赤松左京大夫」)へ別所長治(「別所」)が「対信長無礼」したので「成敗」するために
       羽柴秀吉(「羽柴藤吉郎」)を派遣し播磨国三木城攻囲させていること、赤松広秀の播磨国竜野城は「西国手宛」として存続
       させたところ、「芸州之者共」(毛利軍)の襲撃を撃退したことは秀吉(「藤吉郎」)の注進を受けており、その戦功を賞し、
       今後の更なる努力を促す。「天下之覚」はこれに過ぎることは無いので「西国表之才覚」は赤松広秀を頼りにしていることを
       告げ、近日の上洛予定を通達。〔『武家事紀』二十九〕
  1月28日 春日社御師中務少輔時家、山科邸の朝飯に招待される。山科言継が相伴し「御ハツヲ」10疋を進上した。
       山科言経はこれを「左道之至」として無念に思う。〔『言経卿記』一〕
  1月28日 冷泉為満・五辻元仲ら、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  1月28日 吉田兼見、舟橋国賢(「清少納言」)を招待し吉田兼治(「侍従」)の読書を指南してもらう。〔『兼見卿記』一〕
  1月29日 「禁中亥日之御楽」が延引される。〔『言経卿記』一〕
  1月29日 山科言経、正親町天皇(「禁中」)へ「體源抄」2冊を返上す。〔『言経卿記』一〕
  1月29日 冷泉為満、暮れに山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  1月29日 葉室定藤、「当番」として上洛。〔『言経卿記』一〕
  1月29日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)・近衛信尹(「御方御所」)を訪問、面会。〔『兼見卿記』一〕
  1月29日 村井貞勝(「村長」)、近江国安土より上洛。吉田兼見、路上において村井貞勝を出迎える。〔『兼見卿記』一〕
  1月29日 徳川家康(「家康」)、三河国吉良での鷹狩を終えて三河国深溝城に立ち寄る。
       松平家忠、徳川家康を三河国深溝宇谷にて「御酒むかい」する。松平家忠、徳川家康より「鷹の雁」を下賜された。
       〔『家忠日記』〕
  1月30日 山科言経、大炊御門経頼を同行し清水寺に参詣。〔『言経卿記』一〕
  1月30日 冷泉為満、山科言経の留守に訪問。暮れに再度山科言経を訪問す。〔『言経卿記』一〕
  1月30日 大沢忠重、山科言経の留守に訪問。〔『言経卿記』一〕
  1月30日 吉田兼見、禁裏へ御祓を献上。〔『兼見卿記』一〕
  1月30日 近衛信尹(「近衛殿御方御所」)、吉田兼見を訪問。〔『兼見卿記』一〕

 2月
  2月 1日 山科言経、高辻長雅を訪問。柳原淳光・日野輝資・広橋兼勝らも来訪した。次いで山科言経、毘沙門堂公厳を訪問。
       〔『言経卿記』一〕
  2月 1日 山科言経、冷泉為満・甘露寺経家・岡公久・園広遠の来訪を受ける。〔『言経卿記』一〕
  2月 1日 山科言経、正親町天皇(「禁中」)へ1荷両種を献上。〔『言経卿記』一〕
  2月 1日 暮れに月朔御祝の参内があった。
       誠仁親王(「親王御方」)・和仁親王(「若宮御方」)が参内。
       「天酌参仕者」は持明院基孝・山科言経・勧修寺晴豊・中山親綱・広橋兼勝・中山慶親・高倉範国・甘露寺経家・薄諸光・
       五辻元仲らであった。次いで各自誠仁親王(「宮御方」)へ祗候す。〔『言経卿記』一〕
  2月 1日 禁裏「内蔵九献」が例月の如く執り行われる。
       「御所」に於いて「長橋局」(量子:高倉永家女)が「御酌」し、「伊与殿」(舟橋教重女)が加わった。
       次いで山科言経らは「御焼火」に祗候し雑談す。その後に退出す。〔『言経卿記』一〕
  2月 2日 織田信長(「信長」)、摂津国の中川清秀(「中川瀬兵衛尉」:摂津国茨木城主)へ荒木村重(「荒木」)の謀反は
       織田信長(「我々一人」)だけの問題ではなく「天下無道族」として討ち果たさなければならないことを告げ、今月は早々に
       上洛し「諸卒」を率いて摂津国方面へ「出馬」するので荒木村重の籠もる摂津国有岡城に対する砦2・3ヶ所の構築を命令。
       〔『昭和十年三月旧大名並某家蔵品入札目録』〕
  2月 2日 山科言経、白川雅朝の所望により「享徳度七夕調子」の目録を書写し送付。〔『言経卿記』一〕
  2月 2日 山科言経、五辻元仲の所望により「ゥ家伝」下巻を貸す。〔『言経卿記』一〕
  2月 2日 山科言経、山科言継の「御番代」に祗候。
       「相番」は持明院基孝、「外様衆」は五条為名であった。次いで各自、「御焼火」に祗候。〔『言経卿記』一〕
  2月 2日 誠仁親王(「宮御方」)、女中衆を伴い禁裏へ参内す。〔『言経卿記』一〕
  2月 3日 羽柴秀吉、伊勢神宮に近江国北郷福永を寄進。
  2月 3日 山科言経、早朝寅刻に「翔岐輝徳鳳」という夢想句を詠む。〔『言経卿記』一〕
  2月 3日 山科言経、広橋兼勝の所望により「補歴」を貸す。〔『言経卿記』一〕
  2月 3日 山科言経、冷泉為満の所望により見舞に赴く。少々病を煩っていたが回復した。夕飯をの後に蘇香円を遣わす。
       〔『言経卿記』一〕
  2月 3日 山科言経、日野輝資へ蘇香円を所望。〔『言経卿記』一〕
  2月 3日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問するも留守であったので近衛前久(「近衛殿」)を訪問、対面。
       その後吉田兼見は、十四屋隆正を訪問し、路次において村井貞勝(「村長」)と遭遇、そして帰宅。〔『兼見卿記』一〕
  2月 3日 山本加賀入道、丹波国勝龍寺城の細川藤孝(「長兵」)へ名香を贈る。〔『兼見卿記』一〕
  2月 3日 徳川家康、三河国深溝より遠江国浜松へ「鷹雁」を下賜された返礼の使者を派遣す。〔『家忠日記』〕
  2月 3日 松平家忠、三河国深溝にて「点取ノ誹諧」を行う。〔『家忠日記』〕
  2月 4日 山科言経、正親町天皇の招喚により参内。「御三間」へ祗候。
       小宴が催された。山科言継・持明院基孝・山科言経・中山親綱・薄諸光・五辻元仲らが参席した。〔『言経卿記』一〕
  2月 4日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問するも外出中であったので、少々待っていると村井貞勝は帰宅、面会できた。
       〔『兼見卿記』一〕
  2月 4日 福富秀勝(「福角」)・野々村正成(「野々村三十郎」)、上洛。〔『兼見卿記』一〕
  2月 5日 山科言経、冷泉為満の所望により「年代記」を貸す。〔『言経卿記』一〕
  2月 5日 「禁中黒戸」に於いて「亥日之御楽」が追行される。但し「御二御所」(正親町天皇・誠仁親王)は出座しなかった。
       〔『言経卿記』一〕
  2月 5日 正親町天皇(「禁中」)、山科言経へ廷臣等へ「公卿補任」の後醍醐天皇(「後醍醐院」)上下巻の書写進上および
       「禁中御補歴」・「ゥ家伝」上下巻・「歴名土代」などの「改書」命令を伝達させる。〔『言経卿記』一〕
  2月 5日 徳大寺公維、山科邸を訪問し山科言継と談合。〔『言経卿記』一〕
  2月 5日 山科言継、この朝に薄諸光邸に於いて朝飯をとる。〔『言経卿記』一〕
  2月 5日 「メヽスケ殿」(飛鳥井雅綱女)・「御喝食」(七宮:誠仁親王第七皇子)、山科邸に来訪。〔『言経卿記』一〕
  2月 5日 松平家忠、三河国深溝にて「点取ノ誹諧」を行う。〔『家忠日記』〕
  2月 6日 山科言経、広橋兼勝へ以前貸した「補歴」を取りに行かせる。〔『言経卿記』一〕
  2月 6日 古市宗超(「古市入道宗超」)、山科言経を「茶引」のために来訪す。種々の雑談の後、夕飯を相伴す。〔『言経卿記』一〕
  2月 6日 「高野聖」寿阿弥、「関東」へ下向するにあたり山科言経を訪問。「僧官」の件を種々尋ねたところ、詳細な説明を受ける。
       〔『言経卿記』一〕
  2月 6日 山科言経、高辻長雅の「番代」として禁裏へ祗候。「相番」はいなかった。「内々衆」は五辻元仲、「御添番」は持明院基孝
       であった。
       誠仁親王(「宮御所」)への「御番」は中院通勝であった。〔『言経卿記』一〕
  2月 6日 山科言経、正親町天皇へ禁中「御補歴」・「ゥ家伝」上下巻・「歴名土代」などを「改書」して進上、また「雑書」2冊も
       返上す。山科言経は次いで「御焼火」に祗候。〔『言経卿記』一〕
  2月 6日 松平家忠、三河国深溝城にて小笠原孫六の来訪を受ける。〔『家忠日記』〕
  2月 6日 松平家忠、去2月3日に遠江国浜松へ派遣した使者の復命を受ける。〔『家忠日記』〕
  2月 7日 山科言経、中山親綱を訪問。正親町天皇(「禁中」)より「公卿補任」の後深草天皇(「後深草院」)の部分の書写命令を
       伝達し諒承を得る。次いで「有職」1冊の借用を所望されたので貸す。〔『言経卿記』一〕
  2月 7日 山科言経、高辻長雅を訪問。日野輝資が来訪した。山科言経、高辻長雅より「補歴」を返還される。〔『言経卿記』一〕
  2月 7日 四条隆昌、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  2月 7日 山科言継、「御番代」に「故障」を申す。〔『言経卿記』一〕
  2月 7日 山科言継、「上搆芫ヌ」(花山院家輔女)の新造招待を受ける。
       新造に於いて「岡殿」(大慈光院:覚音女王)・「蜻庵梨門」(三千院應胤法親王)・九条兼孝・二条昭実・醍醐寺三宝院義演
       竹田定珪(「竹田法印」)らに振舞があった。「亭午」より山科言継ら各自が退出した。
       山科言経、晩に及び禁裏へ参内。「乱酒」・「音曲」・「巡舞」があった。山科言経は「沈酔」してしまったので早々に帰宅。
       〔『言経卿記』一〕
  2月 8日 山科言継、山城国葛野郡太秦・葉室に赴く。〔『言経卿記』一〕
  2月 8日 冷泉為満、山科言経を訪問し、冷泉為満自身の侍である島田与介の「名字」選出を依頼。〔『言経卿記』一〕
  2月 8日 四条隆昌、山科言経を訪問。山科言経、二条晴良(「二条殿」)より「続後撰集」上下巻の借用要請を受けて貸す。
       〔『言経卿記』一〕
  2月 8日 山科言経、冷泉為満を同行し阿野休庵を訪問。小将棋をした。〔『言経卿記』一〕
  2月 8日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)・村井貞成(「佐右衛門尉」)を訪問し鯉を贈る。〔『兼見卿記』一〕
  2月 8日 松平家忠、松平勘解由左衛門(「松平勘解由」)を訪問し「誹諧」の振舞を受ける。〔『家忠日記』〕
  2月 9日 四辻公遠、山科言継・持明院基孝・山科言経・庭田重通・中院通勝・竹内長治・白川雅朝・薄諸光・五辻元仲へ来たる
       2月14日の「御楽始」の廻文を発す。〔『言経卿記』一〕
  2月 9日 大和国興福寺大乗院に於いて二条晴良(「二条晴良」)の「御悩」のための祈祷が行われる。〔『多聞院日記』三〕
  2月 9日 松平家忠、遠江国浜松より徳川家康(「家康」)の「印判」にて来2月18日からの遠江国浜松城普請に従事するよう命令
       される。〔『家忠日記』〕
  2月10日 山科言継、山城国葛野郡葉室より帰宅。〔『言経卿記』一〕
  2月10日 冷泉為満、山科言経を訪問。山科言経は冷泉為満を同行し相国寺内を徘徊。次いで冷泉為満邸を訪問し夕飯の供応を受ける。
       暮れに及び帰宅す。〔『言経卿記』一〕
  2月11日 この日、「禁中御楽」が催されるが山科言経は「故障」する。〔『言経卿記』一〕
  2月11日 この日、「禁裏内々番結替」があった。山科言継・正親町季秀・広橋兼勝らになったという。〔『言経卿記』一〕
  2月11日 山科言経、正親町天皇(「禁中」)より永禄6年から天正7年までの「和歌御会始御題」の記録・献上命令を受けてこれを
       調進す。〔『言経卿記』一〕
  2月11日 山科言経、「風呂」を興行す。〔『言経卿記』一〕
  2月11日 禁裏小番の結改(「内々・外様番結替」)が行われた。
       山科言経、勧修寺晴豊へ「番文」を所望。「内々」衆では甘露寺経元が服喪、「外様衆」では三条西公国が服喪で除外された。
       山科言経はこの件についての「先例」を知らなかった。西洞院時通は在国というので除外された。〔『言経卿記』一〕
  2月11日 山科言経、山科言継の番代として禁裏に祗候。「相番」は正親町季秀・広橋兼勝、「外様」は烏丸光宣・六条有親らが祗候。
       山科言経らは次いで「御焼火」に祗候し、囲碁が行われた。誠仁親王(「若宮御方」)・「メヽスケ殿」(飛鳥井雅綱女)・
       広橋兼勝らが囲碁を1番ずつ興じた。〔『言経卿記』一〕
  2月11日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し将碁をする。〔『兼見卿記』一〕
  2月11日 三河国にてこの子刻に「地震」が発生。〔『家忠日記』〕
  2月12日 山科言経、正親町天皇の招喚命令により参内。
       正親町天皇は「御三間」に於いて竹田定珪(「竹田法印」)の脈診を受けたところ、「少御煩」という診察結果であった。
       〔『言経卿記』一〕
  2月12日 冷泉為満、山科言経を訪問す。〔『言経卿記』一〕
  2月12日 大和国興福寺に於いて能興行が催された。またこの夜に興福寺二月堂に筒井順慶(「筒井順慶」)が「参籠」する。
       〔『多聞院日記』三〕
  2月12日 犬法師(「犬法」)、遠江国浜松へ赴く。〔『家忠日記』〕
  2月13日 園広遠・東儀兼行ら、山科言経を訪問し楽稽古を行う。〔『言経卿記』一〕
  2月13日 大炊御門経頼、山科言経を訪問。楽稽古を行う。〔『言経卿記』一〕
  2月13日 冷泉為満、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  2月13日 大炊御門経頼邸に於いて薄暮より楽習礼が行われる。参席したのは持明院基孝・山科言経・大炊御門経頼・園広遠・薄諸光・
       東儀兼行・白川雅朝・五辻元仲・岡公久・四辻公遠らであった。〔『言経卿記』一〕
  2月14日 織田信長(「信長」)、山城国賀茂神社祠官の刑部少輔・紀伊守両名に年頭の祝儀を謝し、近日の上洛予定を通達。
       〔「賀茂別雷神社文書」三〕
  2月14日 大炊御門経頼、「御楽始」初参のために山科言経より大帷を借用。〔『言経卿記』一〕
  2月14日 大炊御門経頼、園広遠より蘇合香の伝授を受ける。礼物として太刀1腰・馬1疋が贈られた。〔『言経卿記』一〕
  2月14日 「禁中儀定所」に於いて「御楽始」が行われる。申刻に開始された。〔『言経卿記』一〕
  2月14日 松平家忠、三河国深溝城にて「岡崎鷹匠」の「伊東殿」(徳川信康鷹匠)と「清田」の来訪を受ける。〔『家忠日記』〕
  2月15日 竹内長治・薄諸光、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  2月15日 山科言経、高辻長雅の「番代」として祗候。「相番」は冷泉為満、「内々衆」は勧修寺晴豊・五辻元仲らであった。
       〔『言経卿記』一〕
  2月15日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問し近衛信尹(「御方御所」)と対面。〔『兼見卿記』一〕
  2月15日 「十市」(十市新二郎か?)、十市家家督を継承したに付き、筒井順慶(「筒井順慶」)へ礼物を送る。
       〔『多聞院日記』三〕
  2月16日 冷泉為満、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  2月16日 大炊御門経頼、山科言経へ以前借用した大帷を返還す。〔『言経卿記』一〕
  2月16日 岡公久・園広遠、山科言経邸を訪問し楽稽古を行う。〔『言経卿記』一〕
  2月16日 山科言経、高辻長雅より「内々・外様衆番文」を所望してきたので遣わす。
  2月16日 山科言継、「御番代」を「故障」。〔『言経卿記』一〕
  2月16日 葉室定藤、禁裏「当番」としのために山城国葛野郡葉室より上洛。〔『言経卿記』一〕
  2月16日 松平家忠、三河国深溝城にて伊東殿・清田(徳川信康鷹匠)に徳川家康(「家康」)より下賜された「御鷹雁」を振舞う。
       〔『家忠日記』〕
  2月17日 「禁中御楽」が催されたが、山科言経は「故障」す。〔『言経卿記』一〕
  2月17日 葉室定藤、山城国葛野郡葉室に戻る。〔『言経卿記』一〕
  2月17日 冷泉為満、山科言経を訪問し談合す。〔『言経卿記』一〕
  2月17日 山科言経、「唱聞師」幸松を招喚し「祓」を行わせる。〔『言経卿記』一〕
  2月17日 山科言経、高辻長雅を訪問するも留守であった。〔『言経卿記』一〕
  2月17日 徳川信康鷹匠衆の「伊東殿」・「清田」、三河国深溝城より三河国岡崎城へ戻る。〔『家忠日記』〕
  2月18日 織田信長(「前右府」)、近江国安土より「御上洛」し「二条御所」に入る。
       「迎衆」の堂上・地下・町人の祗候は無用であるとの通達により山科言経は帰宅す。〔『言経卿記』一〕
  2月18日 織田信長(「信長公」)、上洛す。〔『多聞院日記』三〕
  2月18日 長谷川秀一(「長谷川御武」)・矢部家定(「矢部善七」)、上洛し、出迎えた吉田兼見へ「御迎御停止」の旨を通達。
       〔『兼見卿記』一〕
  2月18日 吉田兼見、粟田口に於いて村井貞成(「村井作右衛門尉」)と遭遇し、暫く待てば織田信長(「右府信長」)が上洛すると
       いうので、その言に従い織田信長上洛を出迎える。〔『兼見卿記』一〕
  2月18日 山科言経、冷泉為満の所望により愛洲薬を送付。〔『言経卿記』一〕
  2月18日 山科言経、吉田兼見に「暦林問答」を借用す。〔『言経卿記』一〕
  2月18日 冷泉為満、暮れに山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  2月18日 山科言経、京都誓願寺へ参詣。次いで冷泉為満を訪問。〔『言経卿記』一〕
  2月18日 松平家忠、三河国深溝より遠江国浜名砦まで「出陣」する。〔『家忠日記』〕
  2月19日 山科言経、二条昭実(「二条殿」)より「続後撰集」上下巻を返還される。
       また山科言経、二条昭実より「新千載集」の借用を依頼され、勧修寺晴豊のもとへ取りに使者を派遣したところ「新千載集」
       上巻のみ返還されたので、そのまま二条昭実へ送る。四条隆昌が使者であった。〔『言経卿記』一〕
  2月19日 勧修寺晴豊、山科言経を訪問し「新千載集」下巻を返還す
       また「補歴」改直の件を依頼されたので待ってもらい、「新千載集」下巻を借用し、山科言経所持本は「乱散」していたので
       校合した。〔『言経卿記』一〕
  2月19日 吉田兼見、織田信長(「右府」)への祗候について連絡が無かったために祗候せず。〔『兼見卿記』一〕
  2月19日 多聞院英俊、去2月18日に織田信長(「信長公」)が上洛したことを知る。〔『多聞院日記』三〕
  2月19日 松平家忠、遠江国浜名砦より遠江国浜松城に到着。遠江国浜松城の徳川家康に出仕す。〔『家忠日記』〕
  2月20日 冷泉為満・四条隆昌・岡公久・園広遠、山科言経を訪問し談合す。〔『言経卿記』一〕
  2月20日 山科言経、織田信長(「前右府」)へ祗候するも「見参」は無かった。
       「被罷向之衆」は庭田重保・持明院基孝・高倉永相・柳原淳光・甘露寺経元・山科言経・勧修寺晴豊・大炊御門経頼・中山親綱
       日野輝資・広橋兼勝・竹内長治・冷泉為満・高倉永孝・四条隆昌・六条有親・飛鳥井雅継・中御門宣光・富小路秀直であった。
       〔『言経卿記』一〕
  2月20日 山科言経、冷泉為満・四条隆昌らを同行し京都誓願寺へ参詣。次いで花開院へ参詣、冷泉為満邸を訪問し酒席があった。その
       後に山科言経は冷泉為満と共に高辻長雅を訪問。日野輝資も到来した。「聯句」10句が行われた。〔『言経卿記』一〕
  2月20日 高倉永相邸に於いて「一足鞠」が催された。
       参席者は高倉永相・山科言経・水無瀬親具・高倉永孝・薄諸光・狩野孫七らであった。〔『言経卿記』一〕
  2月20日 吉田兼見、織田信長(「右府」)へ祗候の如何を問う使者を派遣したところ、織田信長の小者「尉若」が皿5枚を携え到来。
       〔『兼見卿記』一〕
  2月20日 猪子高就(「猪子兵介」)、吉田兼見へ使者を派遣し明日の東山における鷹狩を通達。〔『兼見卿記』一〕
  2月20日 村井貞勝(「村長」)、吉田兼見へ使者を派遣し明日の鷹狩を通達し茶湯などの馳走の準備を指示。〔『兼見卿記』一〕
  2月21日 織田信長、東山慈照寺辺に於いて鷹狩を催す。〔『兼見卿記』一〕
  2月21日 吉田兼治(「侍従」)、織田信長の鷹狩に供す。吉田兼見は遅れて参上、織田信長への挨拶後に帰宅。〔『兼見卿記』一〕
  2月21日 吉田兼見、吉田兼治(「侍従」)より織田信長が鷹狩「列卒衆」へ焼餅を賦り、「一段御機嫌」であった由を知らされる。
       〔『兼見卿記』一〕
  2月21日 庭田重保・持明院基孝・四辻公遠・甘露寺経元・山科言経・白川雅朝・万里小路充房、因幡堂へ「御代官」として代参す。
       〔『言経卿記』一〕
  2月21日 四辻公遠、山科言継・持明院基孝・山科言経・庭田重通・中院通勝・白川雅朝・白川雅朝・五辻元仲へ来たる2月24日に
       予定されている「月次」の御楽の「廻文」を発す。〔『言経卿記』一〕
  2月21日 山科言経、山科言緒(「阿茶丸」)の誕生日に上御霊社へ参詣。〔『言経卿記』一〕
  2月21日 冷泉為満、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  2月21日 葉室定藤、上洛す。〔『言経卿記』一〕
  2月21日 岡公久・園広遠、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  2月21日 山科言経、勧修寺晴豊へ「新千載集」下巻を返還す。〔『言経卿記』一〕
  2月21日 山科言経、山科言継の「御番代」として禁裏に祗候。「相番」は薄諸光であった。次いで「御サシ筵」へ祗候。
       山科言経、正親町天皇へ「東遊集」を返上す。〔『言経卿記』一〕
  2月21日 三好政生(「釣閑斎」)、島津氏使者を同行し吉田兼見を訪問。〔『兼見卿記』一〕
  2月21日 松平家忠、遠江国浜松城内の本多重次(「本田作左衛門尉」)の「かまへ」の普請を行う。〔『家忠日記』〕
  2月22日 織田信長、備前国の中嶋新左衛門尉(宇喜多直家老臣)へ宇喜多直家(「直家」)からの「内通」の件の諒承を通達。
       〔『備藩国臣古証文』三、『記録御用所本古文書』〕
  2月22日 公家衆、織田信長(「右府」)へ祗候。〔『兼見卿記』一〕
  2月22日 山科言経、この朝に「番次」に誠仁親王(「宮御所」)へ祗候。「御茶子」を賜わった。〔『言経卿記』一〕
  2月22日 山科言経、四辻公遠より来たる2月24日に予定されている「御月次御楽」の「廻文」を受ける。〔『言経卿記』一〕
  2月22日 吉田兼見、近衛前久・近衛信尹を訪問。また近衛邸において吉田兼見は猪子高就(「猪子兵介」)と会す。
       〔『兼見卿記』一〕
  2月22日 十市新二郎(「十市新二郎」)、上洛す。〔『多聞院日記』三〕
  2月22日 徳川家康(「家康」)、遠江国浜松城普請に従事する松平家忠ら「各国衆」へ「鷹鶴」を振舞う。〔『家忠日記』〕
  2月22日 松平家忠、遠江国浜松の「如雪」の宿所を訪問し夕食を相伴す。〔『家忠日記』〕
  2月23日 吉田兼見、明智光秀(「惟任日向守」)在京というのでその京宿を訪問。吉田兼見、逐電した小姓の与次について明智光秀へ
       訴訟、明智光秀もこれを了承。〔『兼見卿記』一〕
  2月23日 松平家忠、遠江国浜松城普請に従事す。〔『家忠日記』〕
  2月24日 葉室定藤、上洛するもやがて山城国葛野郡葉室に帰宅。〔『言経卿記』一〕
  2月24日 岡公久・園広遠、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  2月24日 冷泉為満、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  2月24日 山科言経、京都誓願寺へ参詣。次いで高辻長雅・古市入道宗超を訪問。その後、中山親綱を訪問し「補歴」の借用を求められ
       送る。〔『言経卿記』一〕
  2月24日 吉田兼見、礒谷新介(明智光秀使)より逐電した小姓与次捜索のため吉田家人1人の同行を要請される。〔『兼見卿記』一〕
  2月24日 松平家忠、遠江国浜松城普請に従事す。〔『家忠日記』〕
  2月24日 松平家忠、遠江国浜松の内藤正成(「内藤四郎左衛門尉」)の宿所を訪問し振舞を受ける。〔『家忠日記』〕
  2月25日 山科言経、北野社へ参詣。次いで徳大寺公維を訪問し1盞を賜わる。その後、冷泉為満を訪問す。〔『言経卿記』一〕
  2月25日 山科言経、高辻長雅の「番代」として禁裏へ祗候。「相番」は冷泉為満であった。〔『言経卿記』一〕
  2月25日 吉田兼見、織田信長(「右府」)を訪問し鞦1通を献上、松井友閑(「宮内卿法印」)が披露。〔『兼見卿記』一〕
  2月25日 十市新二郎(「十新」)、京都より大和国奈良に下向。〔『多聞院日記』三〕
  2月25日 松平家忠、遠江国浜松城普請に従事す。〔『家忠日記』〕
  2月25日 松平家忠、遠江国浜松の「松平玄蕃」の宿所を訪問し振舞を受ける。〔『家忠日記』〕
  2月26日 織田信長(「信長」)、大和国法隆寺東寺ゥ進へ上洛見舞を謝す。詳細は一雲斎針阿弥(「針阿弥」)に伝達させる。
       〔「法隆寺文書」五〕
  2月26日 織田信長(「右府」)、東山において鷹狩を行う。〔『兼見卿記』一〕
  2月26日 日野輝資邸に於いて「月次法楽和漢聯句」が開催される。
       日野輝資・高辻長雅・中院通勝・高倉永相・烏丸光宣・山科言経・広橋兼勝・柳原淳光・高倉永孝・五条為名・水無瀬兼成らが
       参席した。
       山科言経、戌刻に帰宅す。〔『言経卿記』一〕
  2月26日 山科言経、山科言継の「御番代」を「故障」す。〔『言経卿記』一〕
  2月26日 冷泉為満、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  2月26日 葉室定藤、上洛す。〔『言経卿記』一〕
  2月26日 吉田兼見、茶湯菓子を携え織田信長へ祗候。吉田兼見自身は帰宅し、吉田兼治(「侍従」)を供奉させる。
       〔『兼見卿記』一〕
  2月26日 松平家忠、遠江国浜松城普請に従事す。〔『家忠日記』〕
  2月26日 松平家忠、天野清兵衛を訪問し振舞を受ける。〔『家忠日記』〕
  2月26日 遠江国にて午刻に「大なへゆる」発生。〔『家忠日記』〕
  2月27日 山科言経、徳大寺公維より指貫借用を依頼され送付。後刻に返還される。〔『言経卿記』一〕
  2月27日 山科言経、冷泉為満を同行し京都清水寺へ参詣。〔『言経卿記』一〕
  2月27日 冷泉為満、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  2月27日 「禁中」に於いて「神宮奏事始」が行われ、徳大寺公維が担当であった。〔『言経卿記』一〕
  2月27日 京都誓願寺に於いて「千部経」供養が始まった。山科言継、参詣す。〔『言経卿記』一〕
  2月27日 山科言経、長橋局(量子:高倉永家女)へ祗候。明日の歌を正親町天皇(「上」)へ進覧する。〔『言経卿記』一〕
  2月27日 松平家忠、遠江国浜松城普請に従事す。〔『家忠日記』〕
  2月28日 山科言経、水無瀬宮「御法楽」の御短冊を詠進す。去る2月22日に予定されていたものがこの日まで「犬死」の触穢により
       延引されていた。〔『言経卿記』一〕
  2月28日 山科言継、京都誓願寺に参詣。〔『言経卿記』一〕
  2月28日 吉田兼見、近江国坂本に下向し丹波国亀山へ出陣する明智光秀(「向州」)と門外に於いて面会。逐電した小姓与次に関する
       報告を受ける。〔『兼見卿記』一〕
  2月28日 松平家忠、遠江国浜松城普請に従事す。〔『家忠日記』〕
  2月28日 松平家忠、本多重次(「本田作左衛門尉」)の遠江国浜松宿所を訪問し振舞を受ける。〔『家忠日記』〕
  2月29日 「禁中黒戸」に於いて「巳日御楽」が催される。〔『言経卿記』一〕
  2月29日 山科言経、誠仁親王(「宮御所」)・「御阿茶之局」(勧修寺晴子)より愛洲薬を所望されたので1包を献上。
       〔『言経卿記』一〕
  2月29日 山科言経、高辻長雅を訪問。次いで冷泉為満を訪問。〔『言経卿記』一〕
  2月29日 吉田兼見、逐電した小姓与次探索のため丹波国亀山へ使者を派遣。
       入夜に明智光秀から在所代官(雄琴荘代官:大中寺・川野藤介)に宛てた小姓与次探索についての書状が到来。
       〔『兼見卿記』一〕
  2月 晦日 松平家忠、本多忠勝(「本田平八郎」)の遠江国浜松宿所を訪問し振舞を受ける。〔『家忠日記』〕
  2月  日 織田信長、大和国法隆寺へ全3ヶ条の「掟」を下す。〔『斑鳩古事便覧』〕
  2月  日 織田信忠、美濃国瑞龍寺へ全5ヶ条の「禁制」を下す。〔「瑞龍寺文書」‐10〕

 3月
  3月 1日 織田信長、美濃国吉田寺(新長谷寺)へ諸事を安堵。〔「新長谷寺文書」‐3〕
  3月 1日 山科言継・山科言経、織田信長(「前右府」)へ祗候。しかし見参は無かった。各公家衆も同前であった。
       〔『言経卿記』一〕
  3月 1日 山科言経、織田信長(「前右府」)の館を退出した後に村井貞勝(「村井長門守」)を訪問するも「腫物」で寝込んでいた。
       〔『言経卿記』一〕
  3月 1日 山科言経、正親町天皇(「禁中」)へ1荷両種を進上。〔『言経卿記』一〕
  3月 1日 四条隆昌・冷泉為満、山科言経を訪問。山科言経、冷泉為満の所望により丁香散を遣わす。〔『言経卿記』一〕
  3月 1日 大沢重延・沢路長俊・小河宗久、山科言経を礼問す。〔『言経卿記』一〕
  3月 1日 暮れに月朔御祝の参内あり。
       「天酌参仕衆」は山科言継・庭田重保・持明院基孝・四辻公遠・甘露寺経元・山科言経・勧修寺晴豊・水無瀬兼成・松木宗房・
       中院通勝・広橋兼勝・白川雅朝・四辻季満・中山慶親・薄諸光・五辻元仲らであった。
       次いで各自は誠仁親王(「宮御所」)へ祗候。〔『言経卿記』一〕
  3月 1日 「内蔵九献」が例月の如く執り行われる。山科言継・山科言経、祗候する。〔『言経卿記』一〕
  3月 1日 山科言経、山科言継の「御番代」として禁裏に祗候。「相番」は勧修寺晴豊・広橋兼勝・白川雅朝、「外様衆」は中院通勝・
       六条有親であった。〔『言経卿記』一〕
  3月 1日 吉田兼見、昨日到来した小姓与次探索に関する明智光秀書状を在所代官(雄琴荘代官:大中寺・川野藤介)へ送付。
       〔『兼見卿記』一〕
  3月 2日 織田信長、鷹狩を行う。〔『兼見卿記』一〕
  3月 2日 山科言経、この朝「番次」の際に正親町天皇へ「雑書」を返上する。〔『言経卿記』一〕
  3月 2日 冷泉為満、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  3月 2日 正親町天皇、淨花院前住源蓮を召喚し「禁中小御所」に於いて阿弥陀経の「法談」を催す。〔『言経卿記』一〕
  3月 2日 吉田兼見、平岡某・猪子高就(「猪子兵介」)の使者と面会。〔『兼見卿記』一〕
  3月 2日 山科言継、薄諸光を訪問。7時分の御膳の途中に俄かに「心痛」というので、山科言経は薄諸光邸に急行す。
       山科言継は一時快復したが、そのまま薨去。山科言経、山科言継の遺骸を山科邸に引き取り、次いで松林院宗順のもとへ移す。
       〔『言経卿記』一〕
  3月 3日 戌刻に花開院に於いて山科言継の葬儀が行われる。〔『言経卿記』一〕
  3月 3日 筒井順慶(「筒井順慶」)、大和国吉野郡吉水院へ領知の件で返答す。詳細を家臣の松蔵秀政に伝達させる。
       〔「吉水神社文書」〕
  3月 3日 松蔵秀政(「松権秀政」:筒井順慶家臣)、大和国吉野郡吉水院へ大和国吉野郡西川郷・高原郷についての
       筒井順慶(「順慶」)への問い合わせに返答す。〔「吉水神社文書」〕
  3月 4日 織田信忠(「中将信忠卿」)、上洛。〔『兼見卿記』一〕
  3月 4日 吉田兼見、、上洛した織田信忠(「中将信忠卿」)へ祗候するも面会は無かったので帰宅。〔『兼見卿記』一〕
  3月 4日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問、面会。〔『兼見卿記』一〕
  3月 4日 吉田兼見、織田信澄(「七兵衛尉」)が上洛というので祗候したところ今朝出陣したという。〔『兼見卿記』一〕
  3月 5日 織田信長、出陣。山城国山崎へ布陣。〔『兼見卿記』一〕
  3月 5日 織田信長・織田信忠、摂津国有岡城に向けて出陣。
  3月 5日 吉田兼見、未明に織田信長が出陣するというので使者を派遣し確認。斎を終えて吉田兼治(「侍従」)を同行し見送ろうと
       したが、既に出発したことを知る。〔『兼見卿記』一〕
  3月 7日 吉田兼見、3月1日に山科言継(「山科亜相」)が「遠向」したことを知る。〔『兼見卿記』一〕
  3月 7日 松平家忠、遠江国牧野原城の定番に赴き、西郷家員と交替す。〔『家忠日記』〕
  3月10日 織田信長、大和国法隆寺東寺惣中へ金子2枚と紅緒の贈呈を謝し、今度法隆寺西寺へ織田信長「続目朱印」を発給したので
       法隆寺東寺へも織田信長「朱印」を発給する旨を通達。〔「法隆寺文書」五〕
  3月10日 羽柴秀吉、織田信長の摂津国出陣に先立ち摂津国有馬郡山口庄の百姓等に路次普請を命令。〔『有馬温泉記』〕
  3月10日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問。その後、近衛前久(「近衛殿」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕
  3月15日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し面会、将碁をする。〔『兼見卿記』一〕
  3月15日 礒谷新介及び雄琴荘代官の大中寺・川野藤介、逐電した小姓与次を伴い吉田兼見を訪問し赦免を請う。〔『兼見卿記』一〕
  3月16日 吉田兼見、丹波国多紀郡へ在陣中の明智光秀(「惟日」)へ小姓与次の探索を謝する贈物を携えた使者を派遣。
       〔『兼見卿記』一〕
  3月16日 筒井順慶(「筒井」)・「十後」(松永久通室)、上洛す。〔『多聞院日記』三〕
  3月17日 吉田兼見、丹波国より戻った鈴鹿喜介(吉田家雑掌)より小姓与次に関する明智光秀(「惟日」)返札を受ける。
       〔『兼見卿記』一〕
  3月17日 上杉憲政、没。〔『日本史人物生没年表』〕
  3月18日 一雲斎針阿弥(「一雲斎針阿」)、大和国法隆寺に織田信長(「上様」)への進上物は前回から日数がたっていないので、
       一雲斎針阿弥の「分別」により受領したこと、法隆寺西寺への使者は松井友閑(「宮法印」)と相談して申し付ける旨を通達。
       〔「法隆寺文書」五〕
  3月18日 長岡治部少輔・舟橋国賢(「清少納言」)、吉田兼見を訪問し宿泊。〔『兼見卿記』一〕
  3月19日 吉田兼見、長岡治部少輔・舟橋国賢(「清少」)と朝食をとる。〔『兼見卿記』一〕
  3月19日 吉田兼見、織田信長(「右府」)の摂津国在陣というので見舞下向の準備をする。〔『兼見卿記』一〕
  3月20日 吉田兼見、吉田兼有の連歌興行に赴く。〔『兼見卿記』一〕
  3月21日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し摂津国陣中への見舞について相談、村井貞勝(「村長」)は無用と「諷諫」。
       更に吉田兼見は村井貞勝(「村長」)へ使者派遣の如何を問うと、それは問題なしとの返答であった。〔『兼見卿記』一〕
  3月22日 吉田兼見、摂津国陣中へ見舞として鈴鹿喜介(吉田家雑掌)を派遣。織田信長へ「勝軍御祓入箱」・菓子5種・山芋・焼栗・
       煎餅・大豆飴・「小指フ」を、松井友閑(「宮内卿法印」)へは書状と焼鮒10匹を、猪子高就(「猪子兵介」)へは書状と
       焼鮒10匹を、村井貞成(「村井作右衛門尉」)へは書状と焼鮒10匹、近衛前久(「近衛殿」)へは焼鮒10匹を送付。
       〔『兼見卿記』一〕
  3月22日 武井夕庵(「二位法印夕庵」)、吉田兼見を訪問し暫く相談。茶遊座敷に於いて夕食をとり、晩になってから帰京。
       〔『兼見卿記』一〕
  3月23日 吉田兼見、武井夕庵(「二位法印」)へ礼として吉田兼治(「侍従」)を派遣。〔『兼見卿記』一〕
  3月24日 上杉景虎(北条氏康7男)、自害す。
  3月25日 織田信長(「信長」)、山城国賀茂神社へ摂津国有岡城攻撃のための「出馬」につき陣中見舞いを謝す。
       詳細は丹羽長秀(「惟住五郎左衛門尉」)より伝達させる。〔「賀茂別雷神社文書」三、「三浦周行氏所蔵文書」二〕
  3月26日 松平家忠、遠江国牧野原城の定番を戸田康長と交替し三河国深溝城に向かう。〔『家忠日記』〕
  3月27日 葛西晴信(「晴信」)、石川丹波守へ今度の富沢直綱(「富沢日向守」)が葛西家に「逆意」し「野心之輩」を同心させ
       流地方の大門まで出撃してきた際に寺崎石見守と共に迎撃した戦功を賞し、岩井郡五串村5000苅・沖田村3000苅を
       「永代宛行」とすることを安堵す。〔「奥州平泉文書」‐108(「中尊寺文書」)〕
  3月27日 上杉景虎、上杉景勝と御館の乱で争い戦死。〔『日本史人物生没年表』〕
  3月29日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し面会、将碁をする。〔『兼見卿記』一〕
  3月  日 織田信長、摂津国名塩村に全5ヶ条の「定」を下す。〔「摂津名塩村文書」〕
  3月  日 織田信定(「信定」)、大和国西京の薬師寺へ織田信長「御判形」に任せて織田軍による薬師寺への乱暴・狼藉・陣取・放火
       矢銭賦課・寺領違乱を停止する。〔「薬師寺文書」〕

 4月
  4月 5日 羽柴秀吉、摂津国有馬郡湯山阿弥陀堂に有馬又次郎の時と同様に寺領を安堵す。〔「善福寺所蔵文書」〕
  4月 6日 山科言経、故山科言継57日忌施餓鬼を行う。〔『言経卿記』一〕
  4月 6日 山科言経、故山科言継のために追善の「妙法蓮華経」を書写す。〔『言経卿記』一〕
  4月 6日 薄諸光、故山科言継のために追善の「三部経」を書写す。〔『言経卿記』一〕
  4月 7日 近衛前久、喜入季久へ島津氏の日向国併合を賞す。
       また近衛前久自身は織田信長と入魂の間柄にあることを強調し、安心する旨を通知。
       さらに日向国「鷹」の献上を所望。〔「旧記雑録後編」@‐1086〕
  4月 7日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し将碁をする。〔『兼見卿記』一〕
  4月 7日 徳川秀忠、誕生(異説1578年4月7日)。〔『日本史人物生没年表』〕
  4月 8日 「十後」(松永久通室)、京都より大和国奈良へ下向す。〔『多聞院日記』三〕
  4月 9日 竹中重治、某(毛利氏カ)へ黒田孝高の恭順および織田信長(「上様」)の黒田孝高に対する懇意を通知。
       更に真木島昭光・安国寺恵瓊の書状を羽柴秀吉(「藤吉」)へ回送し織田信長(「上様」)へ披露するよう依頼する。
       〔「竹中文書」‐1〕
  4月12日 生駒近清(「生駒市左衛門尉近清」)、大和国薬師寺沙汰人へ織田信長「御朱印」を要請の通り調え、即時実宝院に朱印状
       2通を渡したことを通達。また「御用」の件があれば承る旨を通達。〔「薬師寺文書」〕
  4月12日 毛利良勝(「毛利新介良勝」)、実宝院を派遣して長期にわたり交渉した大和国薬師寺へ織田信長「御朱印」の調進と薬師寺
       については異儀の無い旨を通達。また織田信長(「上様」)へ金子1枚と帷子2枚を献上、「取次」役へ金子5両と「筆号銭」
       として銀子1枚を渡したことは「御大義」であり、「御用」を承ることを通達。更に筒井順慶(「順慶」)への「内義」も
       調えたので安心するよう通達。〔「薬師寺文書」〕
  4月12日 吉田兼見、佐竹左近允の茶湯興行に招待される。〔『兼見卿記』一〕
  4月13日 織田信長、矢野弥三郎へ赤井忠家(「赤井五郎」)・赤井直正(「荻野悪右衛門尉」)の投降を「赦免」し、去年以来より
       織田信長に「一味」した者の身上は異論なく扱い、「当知行」も安堵しているので、明智光秀(「惟任」)と相談して益々忠節
       を尽くすよう命令。〔昭和四十一年五月『展観入札目録』〕
  4月17日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し将碁をする。その後、吉田兼見は近衛邸を訪問。〔『兼見卿記』一〕
  4月19日 山科言経、故山科言継(「花岳院殿」)の77日忌法事を行い、墓所及び北野の石塔を参詣。〔『言経卿記』一〕
  4月19日 冷泉為満、北野経堂に「錫」を携え到来し山科言経と会う。〔『言経卿記』一〕
  4月22日 正親町天皇、山科言経への「除服宣下」を広橋兼勝に下す。〔『言経卿記』一〕
  4月22日 山科言経、「除服宣下」を受けて禁裏へ参内。〔『言経卿記』一〕
  4月23日 大和国興福寺に於いて筒井順慶(「筒井」)の「出陳祈祷」が執行される。〔『多聞院日記』三〕
  4月23日 丹羽長秀(「五郎左衛門尉長秀」)、若狭国丹生浦百姓中へ内藤佐渡守(「内佐」)の「上表」により山林・海上の境界や
       ゥ借物・納所の件で裁許を下す。詳細は溝口秀勝(「金右衛門尉」)に伝達させる。〔「丹生浦共有文書」〕
  4月23日 松平家忠、武田勝頼の遠江国江尻までの進撃により出陣命令を受ける。〔『家忠日記』〕
  4月24日 大和国興福寺に於いて「大般若経」による筒井順慶(「筒井」)の祈祷が執行される。〔『多聞院日記』三〕
  4月25日 山科言経、日野輝資邸に於ける「和漢」・「漢和」連句200韻に参席、戌刻に帰宅す。〔『言経卿記』一〕
  4月25日 松平家忠、遠江国浜松城に到着。武田勝頼の遠江国高天神城・国安への布陣の報に接す。〔『家忠日記』〕
  4月26日 徳川家康・松平信康、遠江国馬伏塚城に向かう。〔『家忠日記』〕
  4月26日 松平家忠ら三河衆、遠江国見附へ布陣。〔『家忠日記』〕
  4月26日 徳川家康、この夜に遠江国馬伏塚に出陣し武田勝頼を国安より退却させる。
       この際に本多忠勝・榊原康政・井伊直政が先鋒として活躍。〔『井伊年譜』〕
  4月27日 松平家忠ら三河衆、遠江国袋井へ進軍。〔『家忠日記』〕
  4月29日 二条晴良(「二条殿」)、没す。〔『多聞院日記』三〕
  4月29日 高橋鑑種、没(異説1578年)。〔『日本史人物生没年表』〕
  4月30日 山科言経、除服後の「当番始」で参内。〔『言経卿記』一〕
  4月30日 吉田兼見、織田信長(「信長」)が摂津国より帰陣するというので東寺辺まで出迎えるが、帰陣は今日ではないことを知り、
       村井貞勝(「村長」)を訪問し将碁をする。〔『兼見卿記』一〕
  4月30日 吉田兼見、二条晴良(「二条殿」)が没したことを知る。〔『兼見卿記』一〕
  4月30日 多聞院英俊、二条晴良(「二条殿」)が去4月29日に没したことを知る。〔『多聞院日記』三〕
  4月  日 織田信長、大和国西京の薬師寺へ全5ヶ条の「禁制」を下す。〔「薬師寺文書」〕

 5月
  5月 1日 織田信長(「前右府」)、摂津国より上洛す。〔『言経卿記』一〕
  5月 1日 一雲斎針阿弥(「一雲斎針阿」)、大和国法隆寺東寺へ織田信長(「上様」)への音信として帷子5種の進上を賞し、即時
       披露したところ特別に織田信長「御感」により織田信長「御黒印」が発給されるはこびとなった旨に触れ、「反銭」以下は
       松井友閑(「宮法」)の「御前」に於いて詳細を上申し織田信長「御朱印」に任せて法隆寺東寺・西寺が等分に納所すべきと
       いう裁決が下された旨を通達。また一雲斎針阿弥へ100疋を贈呈したことを謝す。〔「法隆寺文書」五〕
  5月 1日 山科言経、村井貞勝(「村井長門守」)を礼問するも村井貞勝は「二条屋敷」に出仕していた。〔『言経卿記』一〕
  5月 1日 山科言経ら、摂津国から織田信長(「前右府」)が上洛というので二条「屋敷」門外まで出迎えに赴いたが、「無用之由」を
       村井貞勝(「村井長門守」)より通達を受けて帰宅した。ここ数日の間に出陣するということであった。〔『言経卿記』一〕
  5月 1日 山科言経、正親町天皇(「禁中」)へ1荷両種を献上。〔『言経卿記』一〕
  5月 1日 山科言経、高辻長雅を礼問。高倉永相・日野輝資らも到来し、酒宴・「狂句」が催された。〔『言経卿記』一〕
  5月 1日 山科言経、冷泉為満を礼問するも留守であった。〔『言経卿記』一〕
  5月 1日 山科言経、高倉永孝より夜前の「狂句」を送付される。〔『言経卿記』一〕
  5月 1日 山科言経、東隣の「上掾v(花山院家輔女)の邸宅を礼問。〔『言経卿記』一〕
  5月 1日 山科言経、正親町天皇(「禁中」)より「公卿補任」書写用の料紙85丁を拝領する。〔『言経卿記』一〕
  5月 1日 この暮れに月朔御祝がある。誠仁親王(「親王御方」)の参内は無かった。
       「天酌参仕衆」は庭田重保・持明院基孝・四辻公遠・甘露寺経元・山科言経・庭田重通・勧修寺晴豊・水無瀬兼成・中山親綱・
       白川雅朝・中山慶親・小倉季藤・薄諸光・五辻元仲であった。次いで各自は誠仁親王(「親王御方」)へ祗候。
       〔『言経卿記』一〕
  5月 1日 山科言経、「内蔵九献」に参席。〔『言経卿記』一〕
  5月 1日 吉田兼見、織田信長(「信長」)帰陣というので吉田兼治(「侍従」)を同行し出迎える。〔『兼見卿記』一〕
  5月 2日 水無瀬兼成・冷泉為満・薄諸光、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  5月 2日 公家衆、織田信長(「前右府」)へ祗候するも対面は無く、粽が出された。各自は帰宅する。
       この日、祗候した公家は今出川晴季・徳大寺公維・庭田重保・持明院基孝・高倉永相・四辻公遠・甘露寺経元・山科言経・
       勧修寺晴豊・水無瀬兼成・中院通勝・日野輝資・久我季通・三条西実綱・広橋兼勝・竹内長治・東坊城盛長・水無瀬親具・
       冷泉為満・高倉永孝・万里小路充房・六条有親・飛鳥井雅継・中御門宣光・五辻元仲であった。〔『言経卿記』一〕
  5月 2日 山科言経、高倉永孝の所望により香需散1包を送付。〔『言経卿記』一〕
  5月 2日 山科言経、「北向」(山科言経室冷泉氏)・山科言緒(「阿茶丸」)を同伴し織田信長(「前右府」)へ祗候。山科言継の
       逝去にあたり、山科家領には別儀無しという決を下され礼を上申す。但し、織田信長は「面顔」に腫物が出来たため来客には
       対面しないとのことであった。〔『言経卿記』一〕
  5月 2日 山科言経、正親町天皇(「禁中」)からの「公卿補任」亀山院上巻の書写進上命令を水無瀬兼成に通達するも留守であった。
       〔『言経卿記』一〕
  5月 2日 山科言経、広橋兼勝より直垂借用を依頼され遣わす。〔『言経卿記』一〕
  5月 2日 山科言経・薄諸光、花開院の故山科言継の墓所に参る。次いで真如堂へ参詣、京都誓願寺は触穢のため門外より参拝す。
       〔『言経卿記』一〕
  5月 2日 この日の7時分に正親町木屋薬師堂の西隣より出火。
       山科言経、冷泉為満へ火事見舞に訪問。次いで柳原淳光・高辻長雅へ見舞に廻る。〔『言経卿記』一〕
  5月 2日 山科言経、四条隆昌の来訪を受け、花菖蒲の所望により遣わす。〔『言経卿記』一〕
  5月 3日 織田信長(「信長」)、「今路」を経由して俄かに近江国安土へ下向。〔『兼見卿記』一〕
  5月 3日 山科言経、「上搆芫ヌ」(花山院家輔女)より小者の弥九郎の借用依頼を受けて派遣す。〔『言経卿記』一〕
  5月 3日 山科言経、早朝に冷泉為満の礼問を受ける。〔『言経卿記』一〕
  5月 3日 山科言経、早朝の織田信長(「前右府」)近江国下向を知る。〔『言経卿記』一〕
  5月 3日 高倉永孝、山科言経を訪問。先日の「上句」・30句の両吟聯句興行を催す。
       次いで高倉永孝より「孟子」上・下巻の借用依頼を受けて貸す。〔『言経卿記』一〕
  5月 3日 冷泉為満、暮れに山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  5月 3日 山科言経、山科言緒(「阿茶丸」)へ端午祝物を、山科家雑掌の沢路長俊へは「菖蒲刀」を与える。〔『言経卿記』一〕
  5月 3日 吉田兼見、織田信長(「信長」)安土下向にあたり見送ることが出来ず。〔『兼見卿記』一〕
  5月 4日 広橋兼勝、山科言経へ直垂を返還。〔『言経卿記』一〕
  5月 4日 山科言経、古市宗超(「古市入道宗超」)を召喚し山科言経自身の腰痛を脈診させる。〔『言経卿記』一〕
  5月 4日 薄諸光、山科言経へ錫・粽などを送付。山科言緒(「阿茶丸」)へは木刀・木鑓を送付。〔『言経卿記』一〕
  5月 4日 冷泉為満、山科言経へ錫・粽などを送付。山科言緒(「阿茶丸」)へは木刀などを送付。〔『言経卿記』一〕
  5月 4日 山科家雑掌の沢路長俊、山科言経へ錫・粽を贈呈。〔『言経卿記』一〕
  5月 4日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)へは薪20把を、村井貞成(「佐右衛門尉」)へは饅頭20個を持参し訪問。
       〔『兼見卿記』一〕
  5月 5日 山科言経、竹内長治・冷泉為満・上田春教・古市宗超らより一盞を受ける。
       また岡公久・園広遠・東儀兼行と酒席の後に楽稽古を行う。〔『言経卿記』一〕
  5月 5日 山科言経、腰痛のため高辻長雅へ端午祝儀返礼の書状を送付。〔『言経卿記』一〕
  5月 5日 この暮れに節供御祝の参内があった。
       「天酌参仕衆」は庭田重保・四辻公遠・甘露寺経元・山科言経・庭田重通・勧修寺晴豊・三条西公国・中山慶親・中院通勝・
       白川雅朝・高倉範国・甘露寺経家・橘諸光・五辻元仲らであった。次いで各自は誠仁親王(「親王御方」)へ祗候。
       〔『言経卿記』一〕
  5月 5日 山科言経、禁裏「当番」に参内。「相番」は白川雅朝らであった。山科言経は高辻長雅の「番代」を中院通勝へ「相伝」す。
       〔『言経卿記』一〕
  5月 5日 波多野宗長・波多野宗貞、丹波国氷上城に於いて自殺する。
  5月 6日 山科言経、東隣の「上搆芫ヌ」(花山院家輔女)へ花を携え昨日の端午節供の礼問。〔『言経卿記』一〕
  5月 6日 上田春教・冷泉為満・大和宗恕、山科言経を訪問し談合す。〔『言経卿記』一〕
  5月 6日 山科言経、毘沙門堂公厳を訪問。次いで木屋薬師堂を参詣。先日は火事が発生したが、薬師堂は焼亡しなかったことを
       山科言経は「奇妙々々」と感じる。〔『言経卿記』一〕
  5月 6日 山科言経、繍線菊を携え高辻長雅を訪問。冷泉為満・高倉永孝らが来訪した。その後に「漢和」聯句が催された。
       〔『言経卿記』一〕
  5月 6日 高倉永孝、山科言経を訪問し「狂連句」を行う。〔『言経卿記』一〕
  5月 6日 山科言経、日野輝資へ「山谷」集3・4・7・8巻を貸す。〔『言経卿記』一〕
  5月 6日 山科言経、東隣の「上搆芫ヌ」(花山院家輔女)より醍醐産の苺を賜わる。〔『言経卿記』一〕
  5月 6日 山科言経、竹内長治邸に於ける茶会に招待され、8時分に訪問。夕飯は山科言経・竹内長治・薄諸光であった。
       〔『言経卿記』一〕
  5月 7日 織田信長、佐久間盛政(「佐久間玄蕃」)へ早々の帰陣祝儀としての「泥障」2懸の贈呈を賞し、佐久間盛政が在陣中の
       越中国松倉城(河田禅忠の守備:上杉景勝部将)に対する軍備強化を命令。〔「松倉文書」、「賜蘆文庫文書」六〕
  5月 7日 山科言経、「上搆芫ヌ」(花山院家輔女)へ「物忌」札10枚、冷泉為満へも10枚、上田春教へは5枚送付する。
       〔『言経卿記』一〕
  5月 7日 「今宮祭」が行われる。〔『言経卿記』一〕
  5月 7日 冷泉為満・葉室定藤・古市宗超、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  5月 7日 高倉永孝、山科言経を訪問し談合。昨日の続き「連句」16句を詠む。〔『言経卿記』一〕
  5月 8日 冷泉為満・古市宗超、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  5月 8日 山科言経、「御目舞」の誠仁親王(「宮御方」)へ祗候。山科言経は「御乳人」へ誠仁親王の病状を詳細に報ず。
       〔『言経卿記』一〕
  5月 9日 山科言経、誠仁親王(「宮御方」)へ祗候。病状も安定し、普段通りに食事をしたということであった。
       次いで山科言経は「御末」に於いて酒席が催された。〔『言経卿記』一〕
  5月 9日 山科言経、木屋薬師堂へ参詣。〔『言経卿記』一〕
  5月 9日 山科言経、高辻長雅を訪問。「和漢」連句が行われた。〔『言経卿記』一〕
  5月 9日 山科言経、徳大寺公維を訪問。酒席が催された。〔『言経卿記』一〕
  5月 9日 山科言経、高辻長雅へ「禁中御本」の「孟子抄」7・8・9・10・11・12・13・14巻を携え訪問。
       〔『言経卿記』一〕
  5月 9日 山科言経、正親町天皇(「禁中」)より「公卿補任」書写用の料紙52丁を下される。〔『言経卿記』一〕
  5月 9日 山科言経、冷泉為満らと夕飯を共にす。〔『言経卿記』一〕
  5月10日 冷泉為満・高倉永孝、山科言経を訪問し「連句」20句が詠まれた。〔『言経卿記』一〕
  5月10日 山科言経、高辻長雅を訪問し来たる5月14日の和漢連句「一巡」について談合す。〔『言経卿記』一〕
  5月10日 「禁中北御門」の西に「貫通」が新造される。村井貞勝(「村井長門守」)の指示によって普請が行われた。
       〔『言経卿記』一〕
  5月10日 山科言経、禁裏へ「当番」として祗候。「相番」は中院通勝・白川雅朝、「外様」は橘諸光であった。
       次いで山科言経らは誠仁親王(「親王御方」)へ祗候し酒を賜わる。そして「御サシ筵」へ祗候し、また酒を賜わった。
       山科言経、ことのほか「沈酔」してしまった。〔『言経卿記』一〕
  5月10日 「御局」(典侍冷泉氏)・「御喝食」(七宮:誠仁親王第七皇子)、山科言経邸に「渡御」す。〔『言経卿記』一〕
  5月11日 織田信長、吉日というので近江国安土城の天主に移徙す。
  5月11日 山科言経、正親町天皇(「禁中」)より「公卿補任」書写用の料紙61丁を下される。〔『言経卿記』一〕
  5月11日 冷泉為満ら、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  5月11日 山科言経、高倉永孝を訪問し「連句」20句を詠む。その後酒席が催された。〔『言経卿記』一〕
  5月11日 山科言経、誠仁親王(「宮御方」)より「連句」の「御本」を拝借する。〔『言経卿記』一〕
  5月12日 織田信長(「信長」)、能登国の長好連(「長孝恩寺」)へ音信として刀「貞宗」の贈呈を謝し、能登国・越中国・加賀国の
       件は得心したこと、この秋には必ず「出馬」するので調略に油断無きよう指示を下す。〔「長家文書」、『長家文献集』〕
  5月12日 山科言経、竹内長治からの要望により「サケツチ」を貸す。〔『言経卿記』一〕
  5月12日 山科言経、高辻長雅を訪問。三条西公国・冷泉為満・高倉永孝らも到来した。〔『言経卿記』一〕
  5月12日 冷泉為満、山科言経を訪問し談合す。〔『言経卿記』一〕
  5月12日 山科言経、木屋薬師堂を参詣。〔『言経卿記』一〕
  5月12日 「御局」(典侍冷泉氏)・「御喝食」(七宮:誠仁親王第七皇子)、山科言経邸に「渡御」す。〔『言経卿記』一〕
  5月13日 山科言経、高辻長雅へ草花と花菖蒲を送付。〔『言経卿記』一〕
  5月13日 山科言経、冷泉為満へ「山谷」集3・4・7・8巻の疏本を書写し送る。〔『言経卿記』一〕
  5月13日 高倉永孝、山科言経を訪問。「連句」26句を詠む。〔『言経卿記』一〕
  5月13日 冷泉為満、山科言経を訪問し「定家卿歌」70首の書写を所望。山科言経はこの要請を受けて書写し送付す。
       〔『言経卿記』一〕
  5月13日 暮れに山科言経邸の門外に於いて三条西公国・水無瀬兼成・三条公仲と雑談す。〔『言経卿記』一〕
  5月14日 山科言経、この朝に木屋薬師堂へ参詣。〔『言経卿記』一〕
  5月14日 高辻長雅邸に於いて「月次和漢聯句会」が開催される。〔『言経卿記』一〕
  5月14日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問するも、四条橋普請のため留守であった。〔『兼見卿記』一〕
  5月14日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問するも、近衛前久は「御朦気」であった。〔『兼見卿記』一〕
  5月15日 山科言経、薄諸光の要望により「口中秘書」を貸す。〔『言経卿記』一〕
  5月15日 山科言経、毘沙門堂公厳より「茯苓」・「芍薬」・「当帰」を少しずつ所望されたので送付。〔『言経卿記』一〕
  5月15日 水無瀬兼成、「禁本」用の「公卿補任」書写について談合するために山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  5月15日 山科言経、東隣の「上搆芫ヌ」(花山院家輔女)邸の酒宴に「ハウ飯」を携え参席。〔『言経卿記』一〕
  5月15日 冷泉為満、山科言経を訪問し「山谷」集2冊を返還す。〔『言経卿記』一〕
  5月15日 山科言経、この日の禁裏「当番」の「故障申入」る。〔『言経卿記』一〕
  5月15日 多聞院英俊、来6月28日に在原業平(「業平」)の700回忌が執行されることを知る。〔『多聞院日記』三〕
  5月16日 山科言経、日野輝資へ「山谷」集3・4・7・8巻を返還す。〔『言経卿記』一〕
  5月16日 山科言経、木屋薬師堂へ参詣し「真言千返」を唱える。次いで高辻長雅邸を訪問。甘露寺経元・冷泉為満も到来した。
       山科言経、この後に冷泉為満を訪問。〔『言経卿記』一〕
  5月16日 冷泉為満・薄諸光、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  5月16日 「メヽスケ殿」(飛鳥井雅綱女)、山科言経邸に渡御。〔『言経卿記』一〕
  5月16日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し将碁をする。〔『兼見卿記』一〕
  5月16日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問し夕食の相伴をする。〔『兼見卿記』一〕
  5月16日 村井光清(「村井将監」)、吉田兼見へ鯉1匹を贈る。〔『兼見卿記』一〕
  5月17日 徳大寺公維(「徳大寺殿」)、吉田兼見を訪問。〔『兼見卿記』一〕
  5月17日 持明院基孝・冷泉為満、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  5月17日 薄諸光、山科言経を訪問し「口中秘薬方」を返還す。〔『言経卿記』一〕
  5月18日 山科言経、日野輝資より「草花」を所望され、「鴈鼻」を送る。〔『言経卿記』一〕
  5月18日 山科言緒(「阿茶丸」)の口内炎により山科言経、中原康雄を招喚し施療させる。「乳香散」を付けた。〔『言経卿記』一〕
  5月18日 山科言緒(「阿茶丸」)の口内炎により山科言経、大和宗恕に来診させて薬を所望する。〔『言経卿記』一〕
  5月18日 冷泉為満・薄諸光、山科言経を訪問し談合。〔『言経卿記』一〕
  5月18日 吉田兼見、室(「青女」)及び吉田兼治(「侍従」)を同行し出陣中の佐竹定実(「佐竹羽州」)留守を見舞う。
       吉田兼見、近日中に明智光秀(「惟向」)が波多野秀治の丹波国八上城を陥落させる旨を知る。〔『兼見卿記』一〕
  5月18日 真木島昭光、島津義久へ日向国制圧を足利義昭(「公儀」)が祝している旨を通知。
       詳細は一色昭秀・多羅尾沢孫大夫に伝達させる。〔「旧記雑録後編」@‐1088〕
  5月19日 中原康雄、山科言経を訪問し山科言緒(「若子」)の口内炎を診療す。「験気」となった。〔『言経卿記』一〕
  5月19日 古市宗超、山科言経を訪問し「北向」(山科言経室)を診療す。〔『言経卿記』一〕
  5月19日 大炊御門経頼、山科言経へ「調中散」を所望したので3包を送る。次いで「平調楽譜」の借用を要望されたので送る。
       〔『言経卿記』一〕
  5月19日 「上搆芫ヌ」(花山院家輔女)、故二条晴良(「故二条殿」)の37日忌「御追福」のため山科言経家中衆を招待する。
       〔『言経卿記』一〕
  5月19日 冷泉為満、山科言経を訪問し「双六打」す。〔『言経卿記』一〕
  5月19日 久遠寺日新、美濃国法華寺へ毛利新左衛門尉の取り成しにより法華寺堂塔には別儀無き旨の織田信長「御朱印」を頂戴した
       旨を通知。〔「法華寺文書」‐2〕
  5月20日 「メヽスケ殿」(飛鳥井雅綱女)、山科言経邸へ渡御す。〔『言経卿記』一〕
  5月20日 中原康雄、山科言経を訪問し山科言緒(「若子」)の口内炎を診療す。「針立之薬」を付け「験気」になった。
       〔『言経卿記』一〕
  5月20日 山科言経、高辻長雅へ「草花」を携え訪問。〔『言経卿記』一〕
  5月20日 鞍馬寺戒光坊、「牛玉札」・「炭」を携えて山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  5月20日 山科言経、淨花院松林院より「謡之本治親」の借用を要望され貸す。〔『言経卿記』一〕
  5月20日 冷泉為満・薄諸光、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  5月20日 山科言経、禁裏「当番」に祗候。「相番」は白川雅朝、「外様」は薄諸光であった。次いで「御サシ筵」へ祗候、数刻雑談。
       〔『言経卿記』一〕
  5月21日 薄諸光、山科言経へ枇杷1盆を送る。〔『言経卿記』一〕
  5月21日 山科言経、薄諸光の所望により「厚朴」3両半、「枳穀」5両、「蓮肉」2分を所望され送る。〔『言経卿記』一〕
  5月21日 薄諸光、西梅津へ転居。〔『言経卿記』一〕
  5月21日 薄諸光、山科言経を訪問し西梅津への転居を知らせる。〔『言経卿記』一〕
  5月21日 中原康雄、山科言経を訪問し山科言緒(「若子」)の口内炎を診療。「針立」により「験気」になった。
       山科言経と中原康雄、「サウメン」にて酒を飲む。〔『言経卿記』一〕
  5月21日 高倉永相、山科言経へ「大般若」の本尊・経・札・「アラヨ子」を送付。〔『言経卿記』一〕
  5月21日 冷泉為満、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  5月21日 山科言経、竹内長治より「サケ槌」の借用の要望を受け貸す。〔『言経卿記』一〕
  5月21日 村井貞勝(「村井長門守」)、公家衆に対して「禁中北御門番」と「庭中」の警衛について、来たる6月1日より「堂上」の
       侍1人ずつを供出する旨と禁裏内における衆庶の狼藉を禁じた旨の「目六」を携えた庭田重保・甘露寺経元の奉行を以て布達。
       〔『言経卿記』一〕
  5月21日 村井貞勝、高辻長雅・水無瀬兼成・松木宗房・中院通勝・白川雅朝・水無瀬親具・四条隆昌・西洞院時通・高倉範国・
       小倉季藤・橋本実勝・六条有親・滋野井実松・中御門宣光・下冷泉為将・富小路秀直・唐橋在通を勤番「用捨衆」とする。
       また水無瀬兼成は「諸事禁中御番等御免除之上者、此事迷惑」であることを意見したところ、村井貞勝(「村井長門守」)は
       「同心」したという。〔『言経卿記』一〕
  5月21日 筒井順慶(「順慶」)、大和国春日大社に社参す。〔『多聞院日記』三〕
  5月22日 山科言経、中原康雄へ乳香散1包を所望したところ、間もなく送付されてきた。〔『言経卿記』一〕
  5月22日 冷泉為満、この朝に山科言経を訪問し「消除疫病経」を借用。〔『言経卿記』一〕
  5月22日 中原康雄、山科言経を訪問し山科言緒(「若子」)の口内炎を診療。快復したという結果であった。〔『言経卿記』一〕
  5月22日 誠仁親王(「宮御方」)、薄諸光を召喚するため山科言経へ「御使」を派遣。〔『言経卿記』一〕
  5月22日 山科言経、誠仁親王(「宮御方」)よりの薄諸光招喚の「御使」来訪を受け、西梅津の薄諸光邸へ使者を派遣。
       〔『言経卿記』一〕
  5月22日 淨花院松林院、山科言経へ謡本「治親」を返還す。〔『言経卿記』一〕
  5月22日 前田玄以(「玄以」)、美濃国真長寺へ全5ヶ条の定書を下す。〔「真長寺文書」‐23〕
  5月23日 山科言経、薄諸光と朝飯を相伴す。薄諸光は晩景に西梅津へ帰宅。〔『言経卿記』一〕
  5月23日 高倉永孝、山科言経を訪問し「連句」が開催された。〔『言経卿記』一〕
  5月23日 山科言経、中院通勝より「楽笛」譜・「平調笙譜」の借用を依頼され貸す。〔『言経卿記』一〕
  5月24日 中原康雄、山科言経を訪問し山科言緒(「若子」)の口内炎を診療、「針立」をする。ほぼ完治したという結果であった。
       〔『言経卿記』一〕
  5月24日 岡公久・園広遠、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  5月25日 山科言経、日野輝資へ草花「カンヒ」を送る。〔『言経卿記』一〕
  5月25日 山科言経、磯辺小平次より「拾遺集」上・下巻を借用し、即時冷泉為満へ送る。〔『言経卿記』一〕
  5月25日 日野輝資邸に於いて「月次法楽和漢聯句」が開催される。山科言経、申刻に帰宅す。〔『言経卿記』一〕
  5月25日 四条隆昌、山科言経を訪問するも留守中であった。〔『言経卿記』一〕
  5月25日 山科言経、禁裏「当番」に参内す。「常御所簀子」へ祗候し、正親町天皇と雑談す。
       「相番」は白川雅朝、「外様」は中院通勝であった。〔『言経卿記』一〕
  5月26日 中原康雄、山科言経を訪問し山科言緒(「若子」)の口内炎を診療。ますます快復しており、「針立」がなされた。
       〔『言経卿記』一〕
  5月26日 山科言経、京都清水寺へ参詣。〔『言経卿記』一〕
  5月26日 山科言経、高辻長雅より香需散を所望され1包を送る。〔『言経卿記』一〕
  5月26日 山科言経、冷泉為満を訪問。〔『言経卿記』一〕
  5月27日 近江国安土浄厳院における浄土宗と法華宗との宗論の様子が記録され、法華宗が閉口することで敗北。
       判者は南禅寺秀長老因果居士。奉行衆は菅屋長頼・堀秀政・長谷川秀一。「信長殿御名代」として織田信澄が立ち合った。
       〔「知恩院文書」〕
  5月27日 法華宗僧侶、菅屋長頼・堀秀政・長谷川秀一へ今後は「他宗一切不可致法難」という旨、法花宗を「可被立置之旨」に感謝
       する旨など全3ヶ条の起請文を提出。〔「知恩院文書」、『言経卿記』一〕
  5月27日 妙覚寺代日諦・頂妙寺代日フ・久遠寺代日雄、菅屋長頼・長谷川秀一・堀秀政へ今度の法華宗「被立置之儀」を感謝し、
       今後は「他宗法難」は一切しない旨を誓う。もし違反した場合は法華宗悉く成敗されても恨みに思わない旨の披露を依頼。
       〔「知恩院文書」、『言経卿記』一〕
  5月27日 吉田兼見、近江国安土に於いて法華宗と浄土宗の「法論」があった旨を知る。〔『兼見卿記』一〕
  5月27日 山科言経、高辻長雅を訪問。〔『言経卿記』一〕
  5月27日 「メヽスケ殿」(飛鳥井雅綱女)、山科言経邸に渡御す。〔『言経卿記』一〕
  5月27日 四条隆昌、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  5月28日 織田信長(「信長」)、村井貞勝(「村井長門守」)へ浄土宗・法華宗の「宗論」に関して、法華宗の誓紙および一行案文写
       を知恩院と織田側へそれぞれ提出させること、そしてこの旨を洛中洛外に公表することを命令。
       詳細は矢部家定(「矢部善七郎」)・一雲斎針阿弥(「針阿弥」)に伝達させる。
       〔「知恩院文書」一、「大雲院文書」、『言経卿記』一〕
  5月28日 織田信長、村井貞勝(「村井長門守」)へ浄土宗と法華宗の宗論について即時勝敗が決し、負けた法華宗側の誓紙を知恩院へ
       提出させることを指示。詳細は矢部家定・一雲斎針阿弥に伝達させる。〔「知恩院文書」〕
  5月28日 織田信長、教蓮社聖誉貞安へ慈恩寺浄厳院における法華宗との問答で勝利したことを賞す。
       〔「知恩院文書」、「大雲院文書」〕
  5月28日 山科言経、前日卯刻に近江国安土の織田信長(「前右府」)の御前に於ける「浄土衆」と「日蓮党」の「宗論」についての
       情報に接す。〔『言経卿記』一〕
  5月28日 安土宗論の結果、日蓮宗の京都地下人が久遠院に監禁されたため「騒動」が著しかった。「新サイ家衆」らが山科言経邸に
       避難した。〔『言経卿記』一〕
  5月28日 園広遠、山科言経を見舞に訪れる。〔『言経卿記』一〕
  5月28日 山科言経、日野輝資の要望により愛洲薬1包を送る。〔『言経卿記』一〕
  5月28日 法華宗の妙覚寺日諦・頂妙寺日b・久遠院日雄、菅屋長頼・長谷川秀一・堀秀政へ法華宗「被立置之儀」を感謝、
       「他宗法難」をしない旨を誓約しこの旨を披露するよう依頼。〔「知恩院文書」〕
  5月28日 吉田兼見、昨日の安土宗論の結果に関する情報を入手。〔『兼見卿記』一〕
  5月29日 山井景長、山科言経を見舞に訪問。〔『言経卿記』一〕
  5月29日 山科言経、「落人」両人より錫を送られる。〔『言経卿記』一〕
  5月29日 山科言経、中原康雄へ錫・「干鮭」・「チマキ」などを送る。〔『言経卿記』一〕
  5月29日 冷泉為満・葉室定藤、山科言経を訪問し談合す。〔『言経卿記』一〕
  5月29日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し将碁をしながら安土宗論(「法論」)について雑談。〔『兼見卿記』一〕
  5月29日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕

 6月
    この頃 織田信長、織田信忠(「城介殿」)へ安土宗論での法華宗敗北を報じ、詳細は蒲生氏郷に伝達させる。織田信長は法華宗を
       「彼いたつらもの」と表現。〔「大雲院文書」〕
  6月 1日 山科言経、冷泉為満を同行し村井貞勝(「村井長門守」)を礼問、対面す。〔『言経卿記』一〕
  6月 1日 冷泉為満、山科言経を礼問。〔『言経卿記』一〕
  6月 1日 薄諸光、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  6月 1日 山科言経、「舞人」大沢忠重の礼問を受け扇子1本を贈呈される。〔『言経卿記』一〕
  6月 1日 山科言経、東隣の「上搆芫ヌ」(花山院家輔女)を礼問す。〔『言経卿記』一〕
  6月 1日 山科言経、「内侍所」へ祗候し「記六」などを預ける。〔『言経卿記』一〕
  6月 1日 山科言経、正親町天皇(「禁中」)へ1荷両種を献上。〔『言経卿記』一〕
  6月 1日 この暮れに月朔御祝の参内があった。
       山科言経、先に「御局」(典侍冷泉氏)へ祗候。
       「天酌参仕衆」は庭田重保・持明院基孝・四辻公遠・甘露寺経元・山科言経・庭田重通・勧修寺晴豊・中山親綱・中院通勝・
       白川雅朝・万里小路充房・四辻季満・甘露寺経家・橘諸光・五辻元仲であった。
       次いで各自は誠仁親王(「宮御方」)へ祗候。三条西公国は遅参して来た。〔『言経卿記』一〕
  6月 1日 「内蔵九献」が催される。〔『言経卿記』一〕
  6月 1日 山科言経、「落人」(避難者)の大部分を帰宅させる。織田信長(「右府」)の追求は無くなったとのことであった。
       〔『言経卿記』一〕
  6月 1日 吉田兼見、丹波国八上城が兵粮尽き落城、400余人が討死し、波多野秀治兄弟が捕虜となったこと、佐竹定実・佐竹左近允
       父子が負傷した旨を知り見舞使者を派遣。〔『兼見卿記』一〕
  6月 1日 吉田兼見、法華宗徒が起請文を呈し謝罪した旨を知る。〔『兼見卿記』一〕
  6月 1日 藤堂高吉、誕生(異説1581年)。〔『日本史人物生没年表』〕
  6月 2日 山科言経、高倉永孝の来訪を受けるも、座敷には「落人」の家財があったため門外にて対面す。〔『言経卿記』一〕
  6月 2日 橘諸光、山科言経を訪問し「茶」席が催される。〔『言経卿記』一〕
  6月 2日 山科言経、去5月27日の近江国安土の織田信長(「前右府」)御前に於ける「宗論」の詳細を知る。〔『言経卿記』一〕
  6月 2日 山科言経、日野輝資の要望により「カンヒノ種」を送る。〔『言経卿記』一〕
  6月 2日 「上搆芫ヌ」(花山院家輔女)、「霍乱気」す。〔『言経卿記』一〕
  6月 2日 波多野秀治、没。〔『日本史人物生没年表』〕
  6月 3日 山科言経、昨夜に「上搆芫ヌ」(花山院家輔女)が「霍乱気」した旨を知り、見舞に祗候。〔『言経卿記』一〕
  6月 3日 園広遠、山科言経を訪問し談合す。〔『言経卿記』一〕
  6月 3日 橘諸光、山科言経を訪問。次いで西梅津に帰宅。〔『言経卿記』一〕
  6月 3日 山科言経、高辻長雅邸の「聯句」に参席。日野輝資・長福寺保西堂・高倉永孝も参席す。〔『言経卿記』一〕
  6月 3日 山科言経、日野輝資の所望により再度「カンヒノ種」を送る。〔『言経卿記』一〕
  6月 3日 山科言経、「御添番」として禁裏に参内。ところが「メヽスケ殿」(飛鳥井雅綱女)より「当番衆」2人が参内しているとの
       旨を通知され退出。
       山科言経、「御サシ筵」へ祗候し、正親町天皇と暫く雑談す。〔『言経卿記』一〕
  6月 5日 徳川家康、遠江国浜松城より三河国岡崎城へ到来し松平信康と対面。〔『家忠日記』〕
  6月 5日 羽柴秀吉(「羽柴藤吉郎」)、中川清秀へ織田信長(「公儀」)に対し疎略に感じていないことを賞し、今後「兄弟之契約」
       を結び、本知行と河内国・摂津国某郡を宛行われるよう上申すること約束し偽りの無い旨を通知。
       〔『昭和十年三月旧大名並某家蔵品入札目録』〕
  6月 5日 中原康雄、山科言経を訪問し山科言緒(「若子」)の口内炎を診療。〔『言経卿記』一〕
  6月 5日 山科言経、高辻長雅の「番代」を中院通勝に「相伝」す。〔『言経卿記』一〕
  6月 5日 山科言経、磯部小平次より「拾遺集」上・下巻を返還される。〔『言経卿記』一〕
  6月 5日 冷泉為満、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  6月 5日 山科言経、絵馬屋宗喜より「夏菊」1本を贈呈され、それを高辻長雅に送る。〔『言経卿記』一〕
  6月 5日 山科言経、「当番」に祗候。「相番」は五辻元仲、「外様衆」は中院通勝であった。
       次いで正親町天皇「御前」にて「御楽」・「小楽」・「御和漢聯句」が催された。〔『言経卿記』一〕
  6月 5日 佐竹定実(「佐竹羽州」)、上洛。〔『兼見卿記』一〕
  6月 5日 吉田兼見、佐竹定実(「佐竹羽州」)上洛にあたり吉田兼治(「侍従」)を同行して見舞う。〔『兼見卿記』一〕
  6月 6日 「上搆芫ヌ」(花山院家輔女)、忌明けにより山科言経夫妻を招喚し饗応す。〔『言経卿記』一〕
  6月 6日 「御局」(典侍冷泉氏)、「禁中」に参内す。〔『言経卿記』一〕
  6月 6日 山科言経、絵馬屋宗喜の訪問を受け錫・「モチ」・「菊花」を贈呈される。〔『言経卿記』一〕
  6月 6日 園広遠、山科言経を訪問。楽稽古が行われる。〔『言経卿記』一〕
  6月 6日 山科言経、正親町天皇(「禁中」)へ「菊花」を献上。長橋局(量子:高倉永家女)へ持参した。〔『言経卿記』一〕
  6月 6日 高倉永孝、山科言経を訪問し「聯句」があった。〔『言経卿記』一〕
  6月 6日 冷泉為満、山科言経を訪問し香需散1包を貰う。〔『言経卿記』一〕
  6月 6日 吉田兼見、室(「青女」)・吉田兼治(「侍従」)を同行し佐竹定実(「佐竹羽州」)を見舞い、晩に帰宅。〔『兼見卿記』一〕
  6月 6日 吉田兼見、村井光清(「村井将監」)へ鈴鹿喜介(吉田家雑掌)を派遣。〔『兼見卿記』一〕
  6月 6日 吉田兼見、壬生朝芳へ猪熊地子について鈴鹿右正(吉田家雑掌)を派遣。〔『兼見卿記』一〕
  6月 6日 波多野秀治兄弟3人、洛中を引き回され今道経由で坂本へ送られる。諸人が見物するが、吉田兼見は見物できず。
       〔『兼見卿記』一〕
  6月 7日 山科言経、山科言緒(「阿茶丸」)を同行し「祇園会」見物に赴く。〔『言経卿記』一〕
  6月 7日 「御局」(典侍冷泉氏)・「御喝食」(七宮:誠仁親王第七皇子)、山科言経邸へ渡御す。〔『言経卿記』一〕
  6月 7日 大和宗恕、暮れに山科言経を訪問し雑談す。〔『言経卿記』一〕
  6月 7日 吉田兼見、佐竹定実(「佐竹羽州」)より祈念を依頼され鎮札を調える。〔『兼見卿記』一〕
  6月 7日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問するも所労というので短時間の面会であった。〔『兼見卿記』一〕
  6月 8日 日野輝資、山科言経を訪問し談合。「押韻渕海」・「蕭韻」を借用す。〔『言経卿記』一〕
  6月 8日 山科言経、葉室定藤より「小刀」を取りに来た使者へ渡す。「カウカイ小刀」は無かった。〔『言経卿記』一〕
  6月 8日 山科言経、白川雅朝の要望により香需散を送る。〔『言経卿記』一〕
  6月 8日 冷泉為満、山科言経を訪問し談合す。〔『言経卿記』一〕
  6月 8日 山科言経、高辻長雅へ「菊花」を持参す。〔『言経卿記』一〕
  6月 8日 吉田兼見、波多野秀治兄弟3人が近江国安土において処刑された旨を知る。〔『兼見卿記』一〕
  6月 9日 山科言経、万里小路充房より「烏帽子」借用を要望され貸す。〔『言経卿記』一〕
  6月 9日 山科言経、一条内基より「木鋏」借用を要望され貸す。〔『言経卿記』一〕
  6月 9日 山科言経、村井貞勝(「村井長門守」)を訪問するため出発するも、途中にて烏丸町木屋薬師堂等相坊に「遊山」していると
       いうのでそちらに赴く。山科言経は香需散2両を進上、村井貞勝は「平臥」しており「自由」ではあったが対面は無かった。
       また山科言経、村井貞成(「村井作右衛門尉」)・村井光清(「村井将監」)・村井清三・村井吉忠(「村井吉忠」)・
       落合平兵衛・住田清右衛門尉・磯部小平次らへ薬・香需散を贈る。〔『言経卿記』一〕
  6月 9日 山科言経、香需散・草花を携え高辻長雅を訪問。〔『言経卿記』一〕
  6月 9日 山科言経、三千院宮最胤法親王(「梨門」)を訪問するも留守であった。〔『言経卿記』一〕
  6月 9日 中原康雄、山科言経を訪問し山科言緒(「阿茶丸」)の口内炎を診療。〔『言経卿記』一〕
  6月 9日 白川雅朝、山科言経より「茶ウス」を借用し、返還す。〔『言経卿記』一〕
  6月 9日 山科言経、毘沙門堂公厳の所望により「蕣苗」を贈る。〔『言経卿記』一〕
  6月 9日 山科言経、京都誓願寺へ参詣。〔『言経卿記』一〕
  6月 9日 毘沙門堂公厳、暮れに山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  6月 9日 中院通勝、山科言経へ「平調笛譜」を返還す。〔『言経卿記』一〕
  6月 9日 冷泉為満、入夜に山科言経を訪問し談合す。〔『言経卿記』一〕
  6月 9日 吉田兼見、猪熊地子について村井貞勝(「村長」)を訪問、面会。奏者は村井清三。〔『兼見卿記』一〕
  6月10日 明智光秀(「惟任日向守」「坂本城主」「志賀郡主」)、波多野秀治兄弟を捕獲し京都を通過。近江国安土に向かう。
       〔『立入左京亮入道隆佐記』〕
  6月10日 冷泉為満、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  6月10日 山科言経、「伊与殿」(舟橋教重女)の下女「茶々」へ香需散を1包遣わす。〔『言経卿記』一〕
  6月10日 薄諸光、山科言経へ味噌を贈る。〔『言経卿記』一〕
  6月10日 山科言経、禁裏「当番」として祗候。「相番」は五辻元仲、「外様」は薄諸光であった。
       その後、山科言経らは「常御所」に祗候し、正親町天皇と色々雑談す。
       山科言経、正親町天皇より「麝香丸」1具を拝領し感謝する。〔『言経卿記』一〕
  6月10日 暮れに及び、「御局」(典侍冷泉氏)が妹を同伴し山科言経邸に渡御す。〔『言経卿記』一〕
  6月11日 山科言経、小川与六を「禁中北門」と「南庭」の「御番」に祗候させる。〔『言経卿記』一〕
  6月11日 薄諸光、山科言経を訪問し酒を饗応される。〔『言経卿記』一〕
  6月11日 山科言経、冷泉為満へ「蒙求歌」・「式目抄」を送り、「分韻」文藻を借用する。〔『言経卿記』一〕
  6月11日 高倉永孝、山科言経を訪問し「聯句」を詠む。〔『言経卿記』一〕
  6月11日 山科言経、薄諸光と夕飯を共にす。〔『言経卿記』一〕
  6月11日 村井貞成(「村作」)、「摂州番手」として下向。〔『兼見卿記』一〕
  6月12日 織田信長(「信長」)、筒井順慶(「筒井順慶」)へ大和国法隆寺東寺・西寺の係争について、西寺が東寺に対して狼藉を
       働いたことは「曲事」であるが、東寺・西寺の片方を「打果」しても法隆寺は「滅亡」してしまうので、この度反銭などに
       ついては「東寺破却」分をと同様の破却を西寺へ申し付け、今後は東寺・西寺が等分に収納すべきことを命令。
       またこの度の西寺で「悪張行之者」は「成敗」することを命令し、東寺・西寺の別を念入りに確認す。〔「法隆寺文書」〕
  6月12日 一雲斎針阿弥(「一雲斎針阿」)・松井友閑(「宮内卿法印友閑」)、大和国法隆寺東寺へ年来の東寺・西寺の係争は
       「御迷惑」であり態々「両使」(一雲斎針阿弥・松井友閑)を以て申し入れることに触れ、この度の西寺で「悪張行」を働き
       東寺坊舎を破却したことで東寺に「相当之儀」(同様の破却)を仰せ付けられ、今後は東寺・西寺「各別」とすることを通達。
       今回は一雲斎針阿弥(「一雲斎」)が特別に奔走し、松井友閑も織田信長に招喚され「前後之始末」を協議されたので口論など
       をしないよう念を押す。〔「法隆寺文書」五〕
  6月12日 故山科言継の100箇日忌法要が執り行われる。〔『言経卿記』一〕
  6月12日 山科言経、約束していた毘沙門堂公厳より安土「宗論」の問答写を受け取る。また、所望により香需散1包を送る。
       〔『言経卿記』一〕
  6月12日 山科言経・薄諸光、花開院・誓願寺・真如堂へ参詣。〔『言経卿記』一〕
  6月12日 山科言経、四条隆昌の所望により香需散1包を送る。〔『言経卿記』一〕
  6月12日 山科言経、冷泉為満より「ゥ小経」の返還を受ける。冷泉為満は後に山科言経を訪問し談合す。〔『言経卿記』一〕
  6月13日 山科言経、「宗論」の際に道具を預かってもらった礼として南町渕田某より20疋を贈呈される。〔『言経卿記』一〕
  6月13日 高倉永相邸に於いて「和漢連句」が催される。〔『言経卿記』一〕
  6月13日 吉田兼見、徳大寺公維(「徳大寺殿」)と共に勧修寺尹豊(「勧修寺先内府」)を訪問。勧修寺晴豊(「黄門」)とも面会。
       〔『兼見卿記』一〕
  6月13日 この早旦、大和国松南院郷にて「蜂起ノ貝」が鳴る。〔『多聞院日記』三〕
  6月13日 多聞院英俊、大和国松南院郷の件でこの日筒井順慶(「順慶」)が軍勢を派遣したことを知る。
       筒井順慶より小和田某・中村某の2名が使者として国人6名の罪科を許容しない旨が通達される。〔『多聞院日記』三〕
  6月13日 竹中重治、陣没(異説1575年)。〔『日本史人物生没年表』〕
  6月14日 薄諸光、山科言経を訪問後に西梅津の自宅へ帰宅。〔『言経卿記』一〕
  6月14日 山科言経、冷泉為満へ「祇園会」の間の「物忌」札10枚を書き遣わす。〔『言経卿記』一〕
  6月14日 冷泉為満、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕
  6月14日 高倉永孝、山科言経を訪問し「連句」10句が詠まれた。また山科言経より「押韻」・「虞摸韻」を借用する。
       〔『言経卿記』一〕
  6月15日 山科言経、禁裏「当番」に祗候。「御三間」に於いて先日残した「和漢連句」50韻が催された。
       出席者は正親町天皇・誠仁親王(「宮御方」)・山科言経・中院通勝・積善院尊雅・五辻元仲であった。〔『言経卿記』一〕
  6月15日 山科言経、禁裏「当番」を中院通勝へ「相伝」す。また高辻長雅の「番代」を冷泉為満へ「相伝」す。〔『言経卿記』一〕
  6月16日 正親町天皇、禁裏対屋修理のために「小御所」へ渡御す。〔『言経卿記』一〕
  6月16日 織田信忠、近江国安土城の織田信長を訪問。
  6月16日 細川藤孝、島津義久へ足利義昭が「日向巣」の若鷹を所望する「御内書」と小袖を送付するので、「面目」の至りであるので
       若鷹の献上を促す。〔「旧記雑録後編」@‐1093〕
  6月17日 山科言経、高倉永孝より分韻「文藻」を借用する。〔『言経卿記』一〕
  6月17日 山科言経、「上搆芫ヌ」(花山院家輔女)へ香需散1包を送る。〔『言経卿記』一〕
  6月17日 山科言経、高辻長雅を訪問するも来客中というので帰宅。〔『言経卿記』一〕
  6月17日 山科言経、暮れに正親町天皇の招喚により参内。
       「御三之間」に於いて先日の「御和漢連句」50句の残り分が詠まれた。子刻に退出した。
       出席者は正親町天皇・誠仁親王(「宮御方」)・持明院基孝・山科言経・中院通勝・南禅寺上乗院道順・積善院尊雅・白川雅朝
       五辻元仲であった。〔『言経卿記』一〕
  6月18日 飛鳥井雅継、北郷時久へ前年の北郷右兵衛督不慮にも関わらず織田信長は従前の如く折衝する旨を通知。
       また日州表における戦功は京都まで聞き及んでいること、織田信長上洛時には取り成しを買って出ることを通知。
       詳細は志水入道に伝達させる。〔「旧記雑録後編」@‐1094〕
  6月18日 細川藤孝(「長兵」)、吉田兼見を訪問。細川藤孝の今度の在京は三条西公国(「三条亜相」)への古今伝授であるという。
       〔『兼見卿記』一〕
  6月19日 山科言経、村井新右衛門尉・吉田休斎・服部六兵衛・横山左内・中村隼人佑へ香需散1包ずつ送る。〔『言経卿記』一〕
  6月19日 冷泉為満、山科言経を訪問し談合す。〔『言経卿記』一〕
  6月19日 山科言経、高倉永孝へ分韻「文藻」を返還す。〔『言経卿記』一〕
  6月19日 山科言経、邦房親王(「伏見殿」)の夏用の直衣色付を調進す。〔『言経卿記』一〕
  6月19日 山科言経、柳原淳光の所望により香需散1包を送る。〔『言経卿記』一〕
  6月19日 楠長諳(「式部卿法印長諳」)、大和国法隆寺東寺へこの度の織田信長「御朱印」の「筆耕」銭として銀子1枚を受けたこと
       を謝す。また詳細は「御使」(松井友閑か)と一雲斎針阿弥(「針阿」)が伝達することを通達。〔「法隆寺文書」五〕
  6月19日 一雲斎針阿弥(「一雲斎針阿」)、大和国法隆寺東寺惣中へ西寺・東寺の係争について織田信長「上意」を得たところ
       法隆寺東寺の要請通りに諒承したことは「外聞実儀」であり、筒井順慶(「筒井殿」)に対し非法を働いた法隆寺西寺への坊舎
       破却という「御成敗」を指示したが実施されていないことについては織田側より使者を派遣し筒井順慶(「筒井殿」)へ早急に
       実行を命令することを告げ、それでも命令遂行が遅延したならば織田信長「上意」を得るので報告すべきこと通達。
       また「段銭」・「反米」の件も筒井順慶(「筒井殿」)へ届け出て納所すべきことを通達。〔「法隆寺文書」五〕
  6月19日 細川藤孝(「長兵」)、斎を終えてから帰京。吉田兼見、途中まで細川藤孝と同行して村井貞勝(「村長」)を訪問し将碁を
       する。その後、吉田兼見は細川藤孝(「長兵」)旅宿を訪問。更に近衛邸を訪問し近衛信尹(「御方御所」)と面会。
       〔『兼見卿記』一〕
  6月20日 山科言経、徳大寺公維より「禁中公卿補任」の後醍醐院上・下巻の書写分を受け取る。
       また徳大寺公維の所望により「補歴」を貸す。〔『言経卿記』一〕
  6月20日 山科言経、桔梗を携えて高辻長雅を訪問。〔『言経卿記』一〕
  6月20日 山科言経、正親町天皇(「禁中」)・誠仁親王(「宮御方」)へ香需散を献上。〔『言経卿記』一〕
  6月20日 吉田兼見、薩摩国へ下向する愛宕秀存坊が伊集院忠棟に依頼された服忌令の不審な点について返答。〔『兼見卿記』一〕
  6月20日 筒井順慶(「筒井」)、織田信長(「信長」)の上洛に応じて上洛。〔『多聞院日記』三〕
  6月20日 筒井順慶(「順慶」)、大和国興福寺一乗院へ「カワラケノ大ナル馬」を進上。この馬は先頃、明智光秀(「惟任」)が
       丹波国へ出撃した際に乗っていた「見事」な馬であった。〔『多聞院日記』三〕
  6月20日 多聞院英俊、織田信長(「信長」)の上洛に応じて筒井順慶(「筒井」)が上洛したことを知る。〔『多聞院日記』三〕
  6月21日 山科言経、「大典侍殿」(万里小路賢房女)・「御今参」・「伊与殿」(舟橋教重女)、「内侍所」の「サイ」と「亀」へ
       香需散を献上。〔『言経卿記』一〕
  6月21日 山科言経、立入宗継へ香需散を送る。〔『言経卿記』一〕
  6月21日 冷泉為満、山科言経を訪問し談合す。〔『言経卿記』一〕
  6月21日 葉室定藤、山科言経を訪問し、やがて帰宅する。〔『言経卿記』一〕
  6月21日 大炊御門経頼、山科言経を訪問し楽稽古を行う。〔『言経卿記』一〕
  6月21日 山科言経、毘沙門堂公厳を訪問し書写した「禁中公卿補任」後奈良天皇下巻を受け取る。〔『言経卿記』一〕
  6月22日 吉田兼見、明智光秀(「惟日」)を見舞うため近江国坂本へ下向。〔『兼見卿記』一〕
  6月22日 吉田兼見、愛宕秀存坊へ伊集院忠棟への返状・服忌令・御祓、島津義久への御祓を渡す。〔『兼見卿記』一〕
  6月23日 織田信長(「信長」)、能登国へ進撃した長好連(「長孝恩寺」)へ詳細な報告に応え、越中方面には神保氏張(「神保」)
       が入国して過半を制圧したとの報告が入ってきていること、この秋には織田信長が「出馬」するので「属平均」すことを通達。
       〔「長家文書」、『長家文献集』〕
  6月23日 山科言経、古市宗超の所望を受けて桔梗を送る。〔『言経卿記』一〕
  6月23日 山科言経、高倉永孝へ「孟子」上巻を送る。〔『言経卿記』一〕
  6月23日 冷泉為満、山科言経を訪問し「孟子」序を講読。〔『言経卿記』一〕
  6月23日 山科言経、庭田重保の所望により「薬臼」を貸す。〔『言経卿記』一〕
  6月23日 多聞院英俊、筒井順慶(「筒」)を訪問し礼物を進上す。先頃蜂起した「罪科人」の「侘言」を「松権」の入魂により許容
       されることになったことへの礼であった。〔『多聞院日記』三〕
  6月24日 山科言経、誠仁親王(「御方御所」)へ祗候し詠草の添削を受ける。次いで禁裏「二台之屋」の御作事を見物する。
       〔『言経卿記』一〕
  6月24日 山科言経、北野社の法楽公宴和歌(「御短冊」)を詠進し、これを長橋局(量子:高倉永家女)へ持参す。
       〔『言経卿記』一〕
  6月24日 毛利良勝(「毛新介良勝」)、明智光秀(「惟日向」)へ丹波国は明智光秀「御存分」通りとなったことを喜び、その功績を
       「于今不始候へ共御てから」と評す。その後の大和国吉野方面への軍事行動についても「御大儀」であり、大和国西京の薬師寺
       へは毛利良勝の「馳走」により重ねて織田信長「御朱印」が下されているので下々の者共まで陣取りを厳禁するように通達。
       また毛利良勝自身が摂津国昆陽野の「御番」に付くことに触れ、大和国吉野表より帰陣したら必ず報告をすべきことを指示し、
       薬師寺への陣取り以下の厳禁について念を押す。〔「薬師寺文書」〕
  6月25日 山科言経、日野輝資邸に於ける和漢連句に参席。〔『言経卿記』一〕
  6月25日 山科言経、中原康雄の所望により乳香散1包を送る。〔『言経卿記』一〕
  6月25日 冷泉為満、山科言経を訪問し談合す。〔『言経卿記』一〕
  6月25日 山科言経、「当番代」を中院通勝へ「相伝」す。〔『言経卿記』一〕
  6月26日 山科言経、村井貞勝(「村井長門守」)を見舞のために訪問。〔『言経卿記』一〕
  6月27日 「禁中御湯殿上」に於いて「御和漢連句」御会が催される。
       出席者は正親町天皇・誠仁親王(「親王御方」)・山科言経・中山親綱・中院通勝・南禅寺上乗院道順・積善院尊雅・五辻元仲
       であった。〔『言経卿記』一〕
  6月27日 松井友閑(「友閑」)、上洛。〔『兼見卿記』一〕
  6月27日 吉田兼見、上洛した松井友閑(「友閑」)を訪問、面会。〔『兼見卿記』一〕
  6月27日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問、面会。〔『兼見卿記』一〕
  6月28日 山科言経、禁裏「内侍所」へ桔梗を持参す。「草子櫃」などを陣座へ移し検知する。〔『言経卿記』一〕
  6月28日 山科言経、薄諸光の「番代」として禁裏に祗候。「相番」は四辻公遠・広橋兼勝、「外様」は大炊御門経頼・四条隆昌で
       あった。次いで禁裏「御サシ筵」へ祗候した。〔『言経卿記』一〕
  6月28日 正親町天皇、方違のために「別殿行幸」す。
       四辻公遠・山科言経・広橋兼勝・五辻元仲が「天酌」を賜わった。〔『言経卿記』一〕
  6月28日 諸所に「雷」が落ちる。〔『言経卿記』一〕
  6月28日 冷泉為満、山科言経を訪問し談合す。〔『言経卿記』一〕
  6月28日 吉田兼見、明日の内侍所清祓のために輿を近衛前久(「近衛殿」)に借用する。〔『兼見卿記』一〕
  6月30日 吉田兼見、勧修寺晴豊(「勧修寺黄門」)を訪問し吉田兼見の昇殿(「予堂上之義」)を密談。
       その後、吉田兼見は松井友閑(「友閑」)を訪問し、吉田兼見昇殿の件を相談。そして近衛前久(「近衛殿」)を訪問、対面。
       〔『兼見卿記』一〕
  6月  日 織田信長、尾張国小松寺・遍照寺へ全3ヶ条の「条々」を下す。〔「尾張寺社領文書」、「正眼寺文書」〕

 7月
  7月 1日 吉田兼見、村井光清(「村井将監」)の使者より猪熊の地子の件についての通達を受ける。〔『兼見卿記』一〕
  7月 1日 吉田兼見、明日の猪熊地子の件で村井光清(「村将監」)へ鈴鹿喜介(吉田家雑掌)を派遣。〔『兼見卿記』一〕
  7月 2日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し将碁をする。
       後刻、村井貞勝邸に於いて卜部兼興と壬生朝芳が猪熊地子の件で対決する。結果は吉田兼見側の理運に決す。
       〔『兼見卿記』一〕
  7月 5日 吉田兼見、村井清三へ猪熊地子の件で使者を派遣。〔『兼見卿記』一〕
  7月 5日 吉田兼見、沼田弥七郎入道・長岡治部少輔の訪問を受け、旧冬の釜の贈与の返礼として鞍鐙を贈られる。
       晩に及び沼田弥七郎入道・長岡治部少輔は丹波国勝龍寺城へ帰還。〔『兼見卿記』一〕
  7月 6日 吉田兼見、沼田弥七郎入道(「沼入」)へ鈴鹿定継(吉田家雑掌)を派遣し昨日贈られた鞍鐙を返還するも鈴鹿定継は鐙のみ
       持ち帰って来た。〔『兼見卿記』一〕
  7月 7日 松平家忠、三河国岡崎城に出仕。〔『家忠日記』〕
  7月 8日 足利義昭、山内元通(「山内刑部少輔」)へ摂津国出陣を賞す。
       詳細は毛利輝元(「輝元」)が「演説」し、真木島昭光(「昭光」)より添状が送付される。〔「山内首藤家文書」‐317〕
  7月 8日 真木島昭光(「昭光」)、山内元通(「山内刑部少輔」)へ摂津国への出陣に対して褒賞の足利義昭「御内書」が発給された
       旨を通知。詳細は毛利輝元(「輝元」)より通達することを報ず。〔「山内首藤家文書」‐318〕
  7月 8日 吉田兼見、金蓮寺四条道場で開催される梅若大夫の勧進能を村井貞勝(「村長」)と内々の兼約通り見物に赴く。
       しかし村井貞勝は見物に来ず、村井清三が到来し一緒に桟敷に於いて見物。〔『兼見卿記』一〕
  7月 8日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)へ越後帷を、村井清三へは50疋を、村井貞成(「作右衛門尉」)へは桃子1折を持参。
       〔『兼見卿記』一〕
  7月11日 織田信長(「信長」)、能登国に進撃中の長好連(「長九郎左衛門尉」)からの能登国七尾城や能登国内について詳細な
       注進状2通に応え、要請された織田信長「出勢」の件は少も油断していないので、急ぎ軍勢を集結させることを命令。
       「南方」(摂津国方面)は厳命したことに異儀の無いこと、丹波国方面は平定済みであることは聞き及んでいることを確認し、
       諸事「調略」に努めることを命令。詳細は堀秀政(「堀久太郎」)・佐々長穐(「佐々権左衛門尉」)より伝達させる。
       〔「長家文書」、『長家文献集』、『加能越古文叢』三十六、『温故足徴』、『寸金雑録』三〕
  7月12日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し将碁をする。また猪熊地子の件は吉田兼見方の千秋月斎の理運に決す。
       〔『兼見卿記』一〕
  7月19日 明智光秀、丹波国宇津城を攻略。
  7月19日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し将碁をする。〔『兼見卿記』一〕
  7月19日 吉田兼見、村井貞成(「作右衛門尉」)と来7月23日の吉田兼見邸訪問を約す。〔『兼見卿記』一〕
  7月20日 織田信長、初めて音信する陸奥国の遠野広郷(「遠野孫次郎」)へ多数の「白ノ鷹」の贈呈、特に「雪白之鷹」はそれまで
       見たことが無く、自愛することを通知。〔『奥南旧指録』四〕
  7月21日 多聞院英俊、織田信長(「安土」)が大和国で鷹餌とする犬を調達する旨を知る。〔『多聞院日記』三〕
  7月23日 村井貞成(「村井作右衛門尉」)、吉田兼見を訪問。〔『兼見卿記』一〕
  7月23日 吉田兼見、観世元忠(「観世宗節」)・観世宗拶(「観世彦右衛門尉」)・観世又二郎を招き舞曲11番を張行。
       来客は200人計であった。〔『兼見卿記』一〕
  7月23日 武藤康秀(「武藤助」)、越前国西福寺へ寄進。〔「西福寺文書」〕
  7月23日 武藤康秀(「武藤助」)、越前国西福寺へ山林の竹木伐採違反者の引き渡しを命令。〔「西福寺文書」〕
  7月24日 吉田兼見、村井貞成(「村作」)を訪問、面会。〔『兼見卿記』一〕
  7月24日 羽柴秀吉、仙石秀久を摂津国有馬郡湯山「奉行」に任命し諸事は従前の如くとする。〔「奥之坊文書」〕
  7月25日 織田信長(「信長」)、丹羽長秀(「惟住五郎左衛門尉」)へ明智光秀が丹波国宇津城を攻略したが「未逆心相止」という
       状況のため「調儀」を実行させていること、昨夜宇津頼重が「逃散」し丹波国・若狭国境深山に「隠居」して「西国」への便船
       を求めていると推察されるので、若狭国より「西国」へ向かう船は「成敗」すべきことを厳命す。〔「溝口文書」〕
  7月25日 遠野広郷、近江国安土へ参上す。
  7月26日 遠野広郷、出羽国千福の前田薩摩と共に堀秀政邸に於いて接待される。南部利直が相伴す。
  7月29日 吉田兼見、八朔礼のため村井貞勝(「村長」)を訪問。村井貞勝(「村長」)へは100疋を、村井清三(「清三」)へは
       50疋を、村井貞成(「作右衛門尉」)へは100疋を、遁斎へは30疋を贈る。〔『兼見卿記』一〕
  7月29日 吉田兼見、南都より帰洛した近衛前久(「近衛殿」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕

 8月
  8月 1日 多聞院英俊、この頃に織田信長の命令で筒井順慶(「筒井」)が大和国多聞山城の石を奈良中の人夫に運ばせることを知る。
       「各迷惑」であったが、多聞院英俊にとっては多聞山城の破却(「山ヲクツス」)は大慶であった。〔『多聞院日記』三〕
  8月 2日 筒井順慶(「筒井」)、上洛す。〔『多聞院日記』三〕
  8月 3日 徳川家康、三河国岡崎城に松平信康を訪問す。〔『家忠日記』〕
  8月 3日 多聞院英俊、筒井順慶(「筒井」)が去8月2日に上洛したことを知る。〔『多聞院日記』三〕
  8月 3日 本国寺日メA美濃国法華寺へ安土宗論(「法難」)後ではあるが織田信長から仏法再興許可が出されたこと、
       織田信長(「信長」)が法華寺を入魂に思っていたための処置と見なし、尾張国・美濃国末寺衆は法華寺を尊敬するよう通達。
       〔「法華寺文書」‐1〕
  8月 4日 徳川家康、松平信康を三河国大浜に移す。〔『家忠日記』〕
  8月 5日 松平家忠、徳川家康より弓衆・鉄砲衆を連れて三河国大浜近辺の三河国西尾城への出動命令を受ける。〔『家忠日記』〕
  8月 7日 松平家忠、この日まで竹谷清宗・鵜殿長信と共に三河国西尾城の番として警戒態勢にあたる。〔『家忠日記』〕
  8月 9日 明智光秀、赤井忠家の丹波国黒井城を攻略し斎藤利三に守備させる。
  8月 9日 徳川家康、小姓衆に命じて松平信康を遠江国堀江城に移す。〔『家忠日記』〕
  8月10日 松平家忠、徳川家康の命令を受けて三河国岡崎に出向く。三河衆は松平信康に内通しない旨の起請文を提出させられる。
       〔『家忠日記』〕
  8月13日 徳川家康、遠江国浜松城に帰還。〔『家忠日記』〕
  8月15日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し将碁をする。その後、暫くの間相談す。〔『兼見卿記』一〕
  8月15日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問し尊円法親王の手本を披見する。〔『兼見卿記』一〕
  8月17日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し将碁をする。その後、吉田兼見は相国寺南豊軒周超を見舞う。〔『兼見卿記』一〕
  8月17日 吉田兼見、近衛邸を訪問し近衛信尹(「御方御所」)と対面。〔『兼見卿記』一〕
  8月20日 佐竹左近允(佐竹定実息子)、吉田兼治(「侍従」)と馬を交換する。〔『兼見卿記』一〕
  8月22日 織田信忠(「三位中将殿」)、夜に上洛。〔『兼見卿記』一〕
  8月23日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し織田信忠(「中将殿」)への祗候について相談。
       その後、吉田兼見は弓懸3具を持参し織田信忠へ祗候。〔『兼見卿記』一〕
  8月23日 多聞院英俊、筒井順慶(「筒井」)の後室が大和国春日社への参詣を俄かに延引したことは筒井順慶が「近日出勢」すること
       によるものかと推測する。〔『多聞院日記』三〕
  8月24日 明智光秀(「光秀」)、丹波国氷上郡寺庵中へこの度織田信長より赤井忠家(「赤井五郎」)を「御成敗」する命令を受け、
       織田信長「上意」に任せて軍事行動を終了したので「還住」を命令。〔「溝口文書」〕
  8月25日 佐竹定実(「佐竹出羽守」)、吉田神社に於いて斎を終えて帰宅。〔『兼見卿記』一〕
  8月25日 多聞院英俊、去6月13日に蜂起した大和国人衆のうち4名が「免除」された旨を知る。〔『多聞院日記』三〕
  8月28日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問するも休息中というので面会せず帰宅。後に村井清三より村井貞勝(「村長」)の聟
       である篠島某が没したため面会しなかった由を知らされる。〔『兼見卿記』一〕
  8月29日 筒井順慶(「筒井」)・「十市後室」(松永久通室)、大和国春日大社に「参籠」す。〔『多聞院日記』三〕
  8月29日 築山殿(徳川家康正室)、殺害される。〔『日本史人物生没年表』〕

 9月
  9月 3日 吉田兼見、兼約であった佐竹定実(「佐出」)の茶湯興行に赴く。室(「青女」)及び吉田兼治(「侍従」)も招待される。
       〔『兼見卿記』一〕
  9月 4日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し将碁をする。〔『兼見卿記』一〕
  9月 4日 羽柴秀吉、安土において帰順した宇喜多直家に所領安堵の朱印状を下すよう言上。〔「信長公記」〕
  9月 4日 朝比奈泰勝、小田原北条氏との同盟締結の報を遠江国浜松城に届ける。〔『家忠日記』〕
  9月 5日 徳川家康、鵜殿善六を遠江国牧野原城定番の松平家忠へ派遣し三河国岡崎城詰停止を命令。〔『家忠日記』〕
  9月 5日 松平家忠、遠江国牧野原城に於いて小田原北条氏との同盟締結が成立したことを知る。〔『家忠日記』〕
  9月 6日 吉田兼見、兼約であった佐竹左近允(佐竹定実息子)の茶湯興行に千秋月斎を同行して招待される。〔『兼見卿記』一〕
  9月 8日 吉田兼見、重陽礼のため村井貞勝(「村長」)を訪問。村井貞勝邸では若王子と礒谷某の訴訟裁決が行われており、後刻、
       小座敷において将碁をする。〔『兼見卿記』一〕
  9月 8日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問、来たる11日に織田信長(「信長」)が上洛する予定を知る。
       また近衛前久の要請により松木3本を進上。〔『兼見卿記』一〕
  9月11日 織田信長(「信長」)、上洛。〔『兼見卿記』一〕
  9月11日 織田信長(「信長」)、申刻に上洛。〔『多聞院日記』三〕
  9月11日 吉田兼見、吉田兼治(「侍従」)・吉田浄勝(「盛方院」)を同行し織田信長(「信長」)を山科に於いて出迎える。
       〔『兼見卿記』一〕
  9月12日 大和国興福寺、織田信長(「信長」)の上洛に対して寛舜房を上洛させる。〔『多聞院日記』三〕
  9月13日 織田信長、北畠信意(「北畠中将」:織田信雄)の伊勢国に於ける失態を譴責す。
       (*9月22日付の譴責状:池田家文庫本『信長記』と同内容)〔「崇福寺文書」〕
  9月13日 公家衆、織田信長(「信長」)に祗候。吉田兼見、松井友閑(「宮内卿法印」)に隼鷹5筋の進上を披露してもらう。
       しかし織田信長への対面は無く、吉田兼見は松井友閑(「宮法」)へ綿1屯、猪子高就(「猪子兵介」)へは大豆1俵を贈る。
       〔『兼見卿記』一〕
  9月13日 近衛前久、島津義弘へ大友氏・島津氏の「無事」に応じるよう促す。
       また去春よりの本願寺(「大坂」)の件に関与していたため、豊薩無事の調停を延引したことに触れ、
       織田信長(「信長公」)より「一書」を携帯した伊勢貞知が派遣されることを通知。
       さらに「大鷹」の献上をも所望。〔「旧記雑録後編」@‐1102〕
  9月13日 徳川氏・小田原北条氏の間に同盟が完全に成立。〔『家忠日記』〕
  9月15日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し「出頭」する。また村井専次が村井貞成(「作右衛門尉」)の所に逗留していると
       いうので訪問するが面会は無かったので村井専次の息子へ50疋渡す。〔『兼見卿記』一〕
  9月15日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問、近衛前久が来たる18日に摂州表へ出陣する由を知る。〔『兼見卿記』一〕
  9月15日 松平信康、遠江国二俣城に於いて自刃。
  9月16日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)へ御祓を進上。〔『兼見卿記』一〕
  9月16日 吉田兼見、松井友閑(「宮法」)へ吉田兼見自身の昇殿(「堂上之義」)の件で使者を派遣。〔『兼見卿記』一〕
  9月17日 織田信長(「信長」)、公家衆(今日「祗候之衆」)と対面。
       高倉永相(「藤宰相」)・広橋兼勝・日野輝資が祗候したという。〔『兼見卿記』一〕
  9月17日 吉田兼見、未刻に出京し近衛前久(「近衛殿」)を訪問、明日の織田信長(「信長」)出陣の如何を問う。〔『兼見卿記』一〕
  9月17日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問するも休息中というので面会は無かった。
       その後、吉田兼見は松井友閑(「宮法」)へ鯉3匹と書状を送付。〔『兼見卿記』一〕
  9月17日 徳川家康、武田勝頼の伊豆国侵攻に対し北条氏政を援助するために遠江国懸川に出陣。
  9月19日 吉田兼見、織田信長(「信長」)へ見舞のため祗候するが対面は無かった。〔『兼見卿記』一〕
  9月19日 近衛前久、島津義久へ「詠歌大概」を送付。
       更に数度にわたり「大鷹」所望を通知しているが、信長公の分と近衛前久の分を献上するよう依頼。
       〔「旧記雑録後編」@‐1103〕
  9月19日 近衛前久、島津義久へ全7ヶ条の「覚」書を送付。〔「旧記雑録後編」@‐1104〕
  9月19日 近衛前久、喜入季久へ織田信長(「信長公」)は大友氏に対して疎略にしないこと、芸州辺に関する調談に触れ
       島津義久の同心を促す。取り成しは近衛前久を始め、松井友閑・猪子高就が担当するので何事も相談するよう通知。
       詳細は金鐘寺和尚・伊勢貞知に伝達させる。〔「旧記雑録後編」@‐1106〕
  9月19日 徳川家康、武田側の遠江国遠目城・遠江国持船城を攻撃す。〔『家忠日記』〕
  9月20日 織田信長(「信長」)、一雲斎針阿弥の仲介で岡屋某(「岡屋若狭守」)を仕官させる。〔『兼見卿記』一〕
  9月20日 一雲斎針阿弥(「一雲斎針阿」)、大和国法隆寺東寺へ織田信長(「上様」)の上洛についての音信を披露したところ、
       織田信長が特別に「御感」なされたことを通達。また一雲斎針阿弥へ献上された「椀」の見事さを謝す。〔「法隆寺文書」五〕
  9月20日 吉田兼見、織田信長(「信長」)へ菓子柿を進上、村井貞成(「村作」)が披露。〔『兼見卿記』一〕
  9月20日 吉田兼見、近衛邸を訪問し近衛前久・近衛信尹(「両御所」)と対面。〔『兼見卿記』一〕
  9月21日 織田信長(「信長」)、摂州表へ出陣。〔『兼見卿記』一〕
  9月21日 吉田兼見、吉田兼治(「侍従」)を同行し織田信長(「信長」)の出陣を見送る予定であったが、早天であったため遅れ、
       途上より帰宅。〔『兼見卿記』一〕
  9月22日 織田信長、北畠信意(「北畠中将」:織田信雄)へ伊賀国境に於ける「越度」は「誠天道もおそろしく日月も未落地候哉」と
       譴責す。
       「上かた」(摂津国方面)へ「出勢」すれば北畠信意(織田信雄)分国の伊勢国の武士・民・百姓は難儀するであろうから、
       伊賀国攻撃の意見があることを幸いに「他国之陣」(遠征)を免れるためにこの意見に同意し、ありのままに言えば「若気」の
       ためにその思惑を看取ることが出来ずにこのような失態を招いてしまったことは「さてさて無念至極」であり、伊勢国「出勢」
       は「天下第一」のため、織田信長(「父」)への「奉公」のため、織田信忠(「兄」)を「大切」にし、ひいては
       北畠信意(「其方」:織田信雄)自身のため、かれこれの「現在未来」の軍事行動であるべきにもかかわらず、柘植三郎左衛門
       を討死にさせたことは「言語道断之曲事」であるから、北畠信意の覚悟によっては「親子之旧離」を許容しないことを通達。
       (*9月13日付の「覚」:「崇福寺文書」と同内容)〔池田家文庫本『信長記』〕
  9月22日 松平家忠、三河国岡崎にて酒井忠次より三河国岡崎城詰停止命令を受ける。〔『家忠日記』〕
  9月23日 松平家忠・鵜殿長信・五井景忠、石川数正・平岩親吉へ使者を派遣。〔『家忠日記』〕
  9月24日 織田信長(「信長」)、連日の雨により山城国山崎に滞留していたが、この日摂津国へ発足。〔『兼見卿記』一〕
  9月24日 徳大寺公維(「徳大寺殿」)、吉田兼見を訪問。〔『兼見卿記』一〕
  9月25日 吉田兼見、在洛中の明智光秀(「惟任」)姉である「妻木」を訪問するが留守であった。〔『兼見卿記』一〕
  9月25日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し将碁をする。〔『兼見卿記』一〕
  9月25日 徳川家康、大井川西岸の井籠に戻る。〔『家忠日記』〕
  9月26日 松平家忠、三河国岡崎より妻子を三河国深溝城へ帰す。〔『家忠日記』〕
  9月27日 松平家忠、三河国深溝城へ帰還す。〔『家忠日記』〕
  9月27日 大和国興福寺、鷹司信房(「鷹司殿」)の病気平癒祈祷を実施す。〔『多聞院日記』三〕
  9月28日 織田信長(「信長」)、摂津国より帰洛す。〔『多聞院日記』三〕
  9月28日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問したところ、矢部家定(「矢部善七」)からの飛脚が到来し、この日摂州表より
       織田信長(「信長」)帰陣を知る。〔『兼見卿記』一〕
  9月28日 吉田兼見、織田信長(「信長」)を迎えるため、吉田兼治(「侍従」)へ飛脚を派遣し因幡堂で待ち合わせ、不動堂近辺に
       おいて織田信長を出迎える。〔『兼見卿記』一〕
  9月29日 吉田兼見、織田信長(「信長」)へ祗候。公家衆も織田信長(「信長」)へ祗候するが対面が無かったため各自退出。
       〔『兼見卿記』一〕
  9月29日 吉田兼見、近衛邸を訪問し近衛前久・近衛信尹(「両御所」)と対面、暫く対談の後、暮れに及び帰宅。〔『兼見卿記』一〕
  9月29日 摂津国天王寺にて合戦あり。〔『多聞院日記』三〕
    この月 荒木村重、「女子共」を残して摂津国有岡城を脱出、摂津国尼崎城に籠城す。〔『立入左京亮入道隆佐記』〕

10月
 10月 1日 吉田兼見、矢部家定(「矢部善七」)へ面を貸す約束をする。〔『兼見卿記』一〕
 10月 1日 吉田兼見、里村紹巴(「臨江斎」)へ茸30本を贈る。〔『兼見卿記』一〕
 10月 1日 吉田兼見、織田信長(「信長」)へ献上する菓子のため上山城へ薯蕷を取りに行かせる。〔『兼見卿記』一〕
 10月 1日 徳川家康、遠江国浜松城に帰陣。〔『家忠日記』〕
 10月 2日 吉田兼見、織田信長(「信長」)へ出仕。公家衆も10人計り祗候。〔『兼見卿記』一〕
 10月 2日 吉田兼見、矢部家定(「矢部善七」)へ面を貸す。〔『兼見卿記』一〕
 10月 2日 種子島時堯、没。〔『日本史人物生没年表』〕
 10月 3日 大和国興福寺一乗院尊政(近衛前久息:17才)、「御遂業一献」に参席せず。〔『多聞院日記』三〕
 10月 4日 吉田兼見、猪子高就(「猪子兵介」)へ鯉2匹と書状を送付。〔『兼見卿記』一〕
 10月 4日 吉田兼見、勧修寺晴豊(「勧修寺」)へ松木を送る。〔『兼見卿記』一〕
 10月 6日 多聞院英俊、織田信長(「信長」)が去9月28日に摂津国より帰洛したことを知る。これにより大和国興福寺より寛舜房が
       見舞として上洛。〔『多聞院日記』三〕
 10月 6日 多聞院英俊、去9月29日の摂津国天王寺の合戦にて鶴亀の兄、箸尾衆の新堂某と古田某が討死したこと、30人計が負傷
       したことを知る。〔『多聞院日記』三〕
 10月 6日 多聞院英俊、この暁に十市遠長(「十常」)が大和国多聞山城(「山ノ城」)に籠もったという夢を見る。
       〔『多聞院日記』三〕
 10月 7日 吉田兼見、織田信長(「信長」)へ菓子を持参。〔『兼見卿記』一〕
 10月 9日 織田信長(「信長」)、近江国安土へ下向。〔『兼見卿記』一〕
 10月 9日 吉田兼見、織田信長(「信長」)の近江国安土下向を知らず見送らなかった。〔『兼見卿記』一〕
 10月 9日 島津義久、去春懇望していた「受領」拝領に際し天草鎮尚からの祝儀を謝す。〔「旧記雑録後編」@‐1108〕
 10月10日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し将碁をする。〔『兼見卿記』一〕
 10月11日 吉田兼見、明智光秀(「惟日」)を見舞うため丹波国へ下向、この日は本免に宿泊。また加伊原城普請の最中である明智光秀
       へ明日下着する由を通知。〔『兼見卿記』一〕
 10月12日 吉田兼見、本免を出発し加伊原城に到着。明智光秀と路次に於いて面会し城中を案内される。
       入夜に佐竹定実(「佐竹羽州」)の宿所に宿泊。〔『兼見卿記』一〕
 10月13日 吉田兼見、明智光秀(「惟日」)へ暇乞をせずに上洛。
       明智光秀(「惟日」)、使者を派遣して吉田兼見を留め、上洛し面会。吉田兼見、この日は本免に宿泊。〔『兼見卿記』一〕
 10月14日 織田信長、近江国建部油座へ近来「新儀之族」が近江国中の油座を無視して営業していることは「曲事」であり、今後は誰の
       家来であっても「成敗」を加え、また油座の諸公事は免除する織田信長「御朱印」を発給する旨を通達。〔「福原文書」〕
 10月14日 吉田兼見、未明に本免を出発し、未刻に上洛。〔『兼見卿記』一〕
 10月15日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問するが、村井貞勝(「村長」)は17日迄八瀬釜風呂で湯治というので面会できず。
       〔『兼見卿記』一〕
 10月15日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問し面会。〔『兼見卿記』一〕
 10月15日 吉田兼見、織田軍が摂津国有岡城を攻略、帰参させた旨を知る。〔『兼見卿記』一〕
 10月15日 この暁、摂津国有岡城の外の「カワメ市場」が裏切りにより焼亡す。織田軍・荒木軍で多数の死者が出た。
       荒木軍は「本ツク」へ逃走したが間もなく攻略される見通しであった。筒井軍では鷹山某・塩屋采女・別所左馬介・和田吉太夫
       らが討死したという。〔『多聞院日記』三〕
 10月16日 多聞院英俊、去10月15日の暁に摂津国有岡城の外の「カワメ市場」が裏切りにより焼亡し織田軍・荒木軍で多数の死者が
       出たこと、荒木軍は「本ツク」へ逃走したが間もなく攻略される見通しであること、筒井軍では鷹山某・塩屋采女・別所左馬介
       和田吉太夫らが討死したということを知る。〔『多聞院日記』三〕
 10月18日 大和国興福寺、摂津国へ筒井順慶(「順慶」)が陣詰めするということでこの日より3日間の「信読心落」を行う。
       〔『多聞院日記』三〕
 10月19日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し門外に於いて面会。〔『兼見卿記』一〕
 10月19日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問し対面。〔『兼見卿記』一〕
 10月19日 誠仁親王(「親王御方」)、曇華院殿(聖秀女王)へ渡御し地下の乱舞を見物。
       誠仁親王の見物に徳大寺公維(「徳大寺殿」)・三条西公国(「三条黄門」)も同行。吉田兼見も誘引され御供する。
       「公家内々之衆」が御供するが「異体」であった。〔『兼見卿記』一〕
 10月19日 大和国興福寺にて筒井順慶(「順慶」)のための祈祷が行われる。〔『多聞院日記』三〕
 10月19日 多聞院英俊、大和国興福寺蓮成院より明日摂津国の筒井順慶(「順慶」)陣所へ送付する巻数の準備を依頼される。
       〔『多聞院日記』三〕
 10月20日 織田信長(「信長」)、能登国の長好連(「長九郎左衛門尉」)へ越中国「弥静謐」の報告と鰤5匹の贈呈を喜ぶ。
       また10月12日付の注進状も同時に到来し、越中国松倉城の状況報告を諒承す。〔「長家文書」、『長家文献集』〕
 10月21日 大和国興福寺、鷹司信房(「鷹司殿」)の病気について京都に干餅を送る。〔『多聞院日記』三〕
 10月22日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し将碁をする。〔『兼見卿記』一〕
 10月23日 織田信長(「信長」)、摂津国の塩川国満(「塩川伯耆守」)へ摂津国木代荘のうちにある石清水八幡宮の善法寺領について
       荒木村重(「荒木」)から塩川国満に交替する旨を通達。〔「石清水文書」〕
 10月24日 織田信長(「信長」)、徳川家康(「三河守」)へ「伊丹事」(荒木村重の摂津国有岡城:伊丹城のこと)の外構えを悉く
       破壊し「天守」ばかりを残すのみとなり、直ちに「落居」させることを通知。詳細は西尾吉次(「西尾」)に伝達させる。
       〔「谷井文書」〕
 10月24日 明智光秀、近江国安土城へ登城し丹波国・丹後国の平定を報告。
 10月25日 松平家忠、朝比奈泰寄(小田原北条氏使者)の帰国にあたり送迎のため遠江国牧野原城より井籠へ出向く。〔『家忠日記』〕
 10月25日 多聞院英俊、大和国木津に細川藤孝(「細川殿」)が到来するので800文の料足を受け礼を送る。〔『多聞院日記』三〕
 10月27日 織田信長(「信長」)、河尻秀隆(「河尻与兵衛」)へ「伊丹之儀」(荒木村重の摂津国有岡城:伊丹城のこと)の外構えを
       悉く破壊し「天守」ばかりを残すのみとなり、「金掘」作戦を実行し不日「落居」の予定であること、有岡「城中者」は種々の
       謝罪を申し入れてくるが、「見懲」のために赦免はしないこと、「一人も不漏可刎首」ことを通知。〔「西尾三平氏文書」〕
 10月27日 吉田兼見、北条氏政(「相州北条左京兆」)へ返状を調える。〔『兼見卿記』一〕
 10月28日 羽柴秀吉、小寺高友へ三木・御著・志方等の処置を指示し、伊丹城攻略の様子を通知。〔「許斐儀一郎氏所蔵文書」〕
 10月28日 吉田兼見、北条氏政(「相州」)への返状を送付。〔『兼見卿記』一〕
 10月30日 織田信長、宇喜多直家の帰属を承認。

11月
 11月 1日 吉田兼見、佐竹定実(「佐竹羽州」)を訪問し、暮れに及び帰宅。〔『兼見卿記』一〕
 11月 2日 吉田兼見、小笠原貞慶(「小笠原民部少輔」)の使者より上山城の山本惣社遷宮にあたり神人の派遣を申請を受ける。
       〔『兼見卿記』一〕
 11月 3日 織田信長(「信長」)、近江国栗太郡勢多に逗留。〔『兼見卿記』一〕
 11月 3日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し、織田信長(「信長」)上洛の由を知る。〔『兼見卿記』一〕
 11月 4日 織田信長(「信長」)、巳刻に上洛。〔『兼見卿記』一〕
 11月 4日 吉田兼見、織田信長(「信長」)上洛というので吉田兼治(「侍従」)を同行し出迎えるが、村井貞成(「村作」)より
       公家衆の迎礼(「今度御迎衆不可被出」)を停止する旨が通達されたので出迎えの公家衆は帰宅。〔『兼見卿記』一〕
 11月 4日 松平家忠、遠江国井籠に武田側の「かまり」が出没したため出陣す。〔『家忠日記』〕
 11月 5日 多聞院英俊、織田信長(「信長」)が明智光秀(「惟任」)を賞するために近江国坂本へ出向くという風聞に接す。
       〔『多聞院日記』三〕
 11月 6日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問。
       吉田兼見は織田信長(「信長」)が西京辺において鷹狩を行う由を知る。〔『兼見卿記』一〕
 11月 6日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問するが休息中というので帰宅。〔『兼見卿記』一〕
 11月 6日 大和国興福寺に飛脚が到来、摂津国の筒井順慶(「順慶」)より去6月13日に蜂起した大和国衆のうち2名を免除すること
       についての返答であった。これについて大和国興福寺成身院が「後室」(十市遠成後室)へ一報するというので明日多聞院英俊
       が筒井順慶(「筒」)へ飛脚を発すことになる。〔『多聞院日記』三〕
 11月 7日 吉田兼見、猪子高就(「猪兵」)へ使者を派遣し鷹狩の件を問い合わせたところ、この日、東山と決定した旨を知る。
       〔『兼見卿記』一〕
 11月 7日 織田信長(「信長」)、東山において鷹狩を行う。〔『兼見卿記』一〕
 11月 7日 吉田兼見、茶湯・茶菓子を準備して吉田兼治(「侍従」)を同行し東山慈照寺へ祗候。
       吉田兼見、織田信長へ挨拶した後、吉田兼治を狩りに供奉させ自身は帰宅。
       また吉田兼見、堀秀政(「堀九太郎」)使者より茶湯持参命令を通達され、列卒衆へ焼餅500個を賦る。〔『兼見卿記』一〕
 11月 7日 吉田兼見、このところ寒風が続いたがこの日は暖気であったため織田信長が「御機嫌」であったことを「安堵」する。
       また猪子高就(「猪兵」)へ「毎度馳走」として餅・酒を贈る。〔『兼見卿記』一〕
 11月 7日 遠江国滝坂に武田側の「かまり」が出没し、徳川氏の荷物が掠奪される。〔『家忠日記』〕
 11月 7日 毛利秀元、誕生(異説1581年)。〔『日本史人物生没年表』〕
 11月15日 織田信長(「信長」)、誠仁親王(「親王御方」)へ二条新邸を献上。〔『兼見卿記』一〕
 11月15日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し二条新邸献上の件を問い合わせたところ事実である由を知る。〔『兼見卿記』一〕
 11月15日 吉田兼見、勧修寺晴豊(「勧修寺黄門」)の使者より織田信長(「信長」)が誠仁親王へ二条新邸を献上したことで、近日中
       移徙の予定を通達され、準備を指示される。〔『兼見卿記』一〕
 11月15日 吉田兼見、使者を通じて勧修寺晴豊(「彼卿」)へ誠仁親王の二条新邸移徙にあたり「公儀」(朝廷)への隨分の馳走は
       「入魂」であることを根拠に吉田兼見自身の昇殿(「堂上之義」)の件を聴許されるよう取り成しを依頼する。
       〔『兼見卿記』一〕
 11月16日 吉田兼見、松井友閑(「宮内卿法印」)を訪問し、勧修寺晴豊の了承(「勧黄門入魂」)の由を報告。
       その上で織田信長(「信長」)よりの「一往之御執奏御取合」を懇請。
       その後、吉田兼見は近衛前久(「近衛殿」)を訪問し吉田兼見自身の昇殿の件につき松井友閑(「宮徳」:「宮法」の誤記)と
       相談後、織田信長(「信長」)への口添えを懇請し了承を得る。〔『兼見卿記』一〕
 11月17日 吉田兼見、吉田兼見自身の昇殿に関する運動として近衛前久(「近衛殿」)を訪問。その後、松井友閑(「宮内卿法印」)を
       訪問。〔『兼見卿記』一〕
 11月18日 吉田兼見、吉田兼見自身の昇殿に関する運動として近衛前久(「近衛殿」)を訪問。その後、松井友閑(「宮内卿法印」)へ
       使者を派遣。〔『兼見卿記』一〕
 11月19日 吉田兼見、松井友閑(「宮法」)を訪問し吉田兼見自身昇殿の件について問い合わせる。
       松井友閑(「宮法」)、吉田兼見へ織田信長(「信長」)は「無御別義叡慮次第」と答えた由を通知、また近衛前久
       (「近衛殿」)より誠仁親王(「叡慮」)へ奏聞を経るよう指示。〔『兼見卿記』一〕
 11月19日 吉田兼見、松井友閑(「宮法」)宿所を辞し、近衛前久(「近衛殿」)を訪問。松井友閑(「宮法」)の存分を告げ、
       近衛前久より「一応御執奏」を了承してもらう。〔『兼見卿記』一〕
 11月20日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問し「一義」(吉田兼見自身の昇殿)を誠仁親王(「叡慮」)へ奏聞した件を問い
       合わせる。〔『兼見卿記』一〕
 11月20日 近衛前久、吉田兼見へ松井友閑(「宮法」)の存分を正親町天皇(「叡慮」)へ奏上するため高倉永相(「藤黄門」)・
       勧修寺晴豊(「勧黄門」)を召し寄せた由を通知。〔『兼見卿記』一〕
 11月20日 多聞院英俊、去11月19日に摂津国有岡城が陥落したという風聞に接するも、この晩に京都より「御書」にて摂津国有岡城
       は未だ陥落していない旨の通達を受ける。〔『多聞院日記』三〕
 11月20日 多聞院英俊、織田信長(「信長」)が「五ノ宮」(邦慶親王)を織田信長の「猶子」として「二条殿ノ御新造」を献上する
       こと、移徙は来11月22日であること、織田信長(「信長」)は京都妙覚寺を宿所とすることを知る。〔『多聞院日記』三〕
 11月20日 織田軍、摂津国有岡城を接収する。〔『多聞院日記』三〕
 11月21日 誠仁親王の二条新御所への移徙が明日11月22日に決定する。〔『兼見卿記』一〕
 11月21日 吉田兼見、早旦に近衛前久(「近衛殿」)を訪問、そして松井友閑(「宮法」)へ「出頭」。〔『兼見卿記』一〕
 11月21日 吉田兼見、舟橋国賢(「清少納言」)を訪問。後刻、近衛前久(「近衛殿」)より使者が到来し即時祗候を通達される。
       使者の通達では吉田兼見昇殿は織田信長(「信長」)が「御許容」したため今日中に「勅許」が下されるであろう旨、
       明日の誠仁親王移徙への供奉命令が下された旨が決したということであった。〔『兼見卿記』一〕
 11月21日 近衛前久(「近衛殿」)、高倉永相(「藤黄門」)・勧修寺晴豊(「勧修寺黄門」)を召して「信長御執奏」を仰せ渡し、
       高倉永相・勧修寺晴豊は近衛邸を退出。後刻、高倉永相・勧修寺晴豊は近衛前久邸へ「無御別義勅許」を通達。
       吉田兼見へはこの夜に参内し、明日供奉の由が通達される。〔『兼見卿記』一〕
 11月21日 吉田兼見、酉刻に勧修寺晴豊(「勧黄門」)を訪問し昇殿御礼の件について問い合わせ、その後衣冠を着けて参内し昇殿御礼
       を奏す。中院通勝(「中院」)が申次をした。吉田兼見、誠仁親王(「御方御所」)へ祗候し昇殿御礼を奏す。
       その後、大典侍御局(万里小路賢房女)・誠仁親王母(万里小路房子)へ礼参す。〔『兼見卿記』一〕
 11月21日 この日の辰刻・午刻に「大地震」があった。「兵乱」によるものであったという。〔『多聞院日記』三〕
 11月22日 誠仁親王、二条新御所へ移徙。〔『兼見卿記』一〕
 11月22日 多聞院英俊、「五ノ宮」(邦慶親王)、織田信長(「信長」)の「猶子」として「二条殿ノ新造」に移徙したことを知る。
       〔『多聞院日記』三〕
 11月22日 吉田兼見、未明に出京し、徳大寺公維(「徳大寺殿」)を訪問し誠仁親王移徙供奉の用意をする。
       その後、吉田兼見は誠仁親王の二条新御所移徙に供奉。吉田兼見は自身が18余人を超越して雲客の上首となった旨を喜ぶ。
       〔『兼見卿記』一〕
 11月22日 多聞院英俊、鷹司信房(「鷹司殿」)がこの日「元服」したことを知る。〔『多聞院日記』三〕
 11月23日 吉田兼見、二条新御所御番に編入され初めて勤番。
       柳原淳光・日野輝資・四条隆昌・広橋兼勝と相番であった。〔『兼見卿記』一〕
 11月24日 吉田兼見、早旦に二条御所より退出。〔『兼見卿記』一〕
 11月26日 織田信長(「信長」)、誠仁親王へ鶴を献上。〔『兼見卿記』一〕
 11月26日 吉田兼見、招喚により二条御所へ祗候。織田信長(「信長」)より献上された鶴を頒賜される。〔『兼見卿記』一〕
 11月 下旬 織田信長、大友義統へ「左兵衛督」補任を通知。〔「大友家文書録」B‐1712〕
 11月27日 大友義統、「左兵衛督」に任官。〔「柳河大友家文書」第1巻‐12、「大友家文書録」B‐1711〕
 11月27日 織田信長、大友義統へ周防国・長門国両国の「進止」を要求。〔「大友書翰」第11号‐2、「大友文書」六〕
 11月27日 吉田兼見、柳原淳光(「柳原亜相」)へ明日の相番の件で使者を派遣。〔『兼見卿記』一〕
 11月27日 十市新二郎(「十市新二郎」)、上洛す。〔『多聞院日記』三〕
 11月28日 多聞院英俊、大和国興福寺蓮成院を同行して「十市侍衆」へ1荷・赤飯・雑煮を贈る。〔『多聞院日記』三〕
    この月 荒木久左衛門、織田信長に謀反し摂津国尼崎城に籠城していた荒木村重の説得に失敗。淡路国岩屋へ船路にて逃亡。
       〔『立入左京亮入道隆佐記』〕

12月
    この頃 織田信忠(「中将殿」)、荒木村重説得に失敗した荒木久左衛門の逃亡により、摂津国有岡城攻撃の陣に於いて荒木与党の
       男女子供460人ばかりを2軒の家屋に押し込め焚殺す。〔『立入左京亮入道隆佐記』〕
    この頃 織田信忠、摂津国尼崎にて荒木村重説得に失敗し逃亡した荒木久左衛門の女房衆97人を「はたもの」に上げる。
       〔『立入左京亮入道隆佐記』〕
 12月 1日 吉田兼見、神事のため二条新御所の誠仁親王(「親王御方」)への祗候を辞す旨を勧修寺晴豊(「勧黄門」)へ通知し了承を
       受ける。また明日の禁裏へ献上する御樽を準備する。〔『兼見卿記』一〕
 12月 2日 吉田兼見、柳原淳光(「柳原亜相」)と同行し禁裏へ参内し酒を献上。〔『兼見卿記』一〕
 12月 3日 吉田兼見、二条御所へ当番として祗候。〔『兼見卿記』一〕
 12月 4日 吉田兼見、二条御所を退出。〔『兼見卿記』一〕
 12月 6日 吉田兼見、佐竹定実(「佐竹出羽守」)・佐竹左近允(佐竹定実息子)を茶湯に招く。〔『兼見卿記』一〕
 12月 7日 多聞院英俊、十市遠長(「十常」)を見舞す。〔『多聞院日記』三〕
 12月 7日 多聞院英俊、大和国「三輪山」の大木が京都宇治橋に用いるために700本程切り取られていることについて
       「国ノ悩沈思々々」と思うが、橋は「万民上下ノ忝事」であるとの感慨を記す。〔『多聞院日記』三〕
 12月 7日 多聞院英俊、摂津国大坂の石山本願寺出城の1つである「森口」が織田信長(「信長」)に帰参したことを知る。
       〔『多聞院日記』三〕
 12月 6日 羽柴秀吉(「筑前守秀吉」)、播磨国鵤庄惣中へ諸事は織田信長「御朱印」によって安堵すること、非分の族には成敗を
       加えることを通達。〔「平井文書」〕
 12月 8日 吉田兼見、二条御所へ当番として祗候。日野輝資(「二歩黄門」)、祖母が没したため参上せず。〔『兼見卿記』一〕
 12月10日 織田信長(「右府信長」)、「南方」へ出陣。この日は山城国山崎に布陣。〔『兼見卿記』一〕
 12月10日 吉田兼見、織田信長(「右府信長」)出陣というので吉田兼治(「侍従」)を同行し東寺辺において織田信長を見送る。
       〔『兼見卿記』一〕
 12月11日 織田信長(「右府信長」)、雨のため山城国山崎へ滞留。〔『兼見卿記』一〕
 12月12日 織田信長、荒木村重の人質30余人を京都に送付。
 12月12日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し、荒木村重女房以下700余の捕虜を上京させて妙顕寺へ滞在させるため妙顕寺の
       普請が開始される旨を知る。〔『兼見卿記』一〕
 12月13日 吉田兼見、二条御所へ当番として祗候。〔『兼見卿記』一〕
 12月13日 誠仁親王、九条兼孝(「殿下九条殿」)を召して御盃を下賜。〔『兼見卿記』一〕
 12月13日 織田信長、荒木村重の人質の残り女房120人、召使の女子供388人、若党24人の合計512人を4軒の家に押し込めて
       焼き殺す。
 12月13日 吉田兼見、荒木村重女房衆20人余が妙顕寺に召し籠められた旨を知る。〔『兼見卿記』一〕
 12月14日 織田信長(「右大臣信長」)、摂津国方面の軍事行動がが悉く「一着」したとのことで山城国山崎より帰陣。
       〔『兼見卿記』一〕
 12月14日 吉田兼見、織田信長(「右大臣信長」)が摂津国有岡城の捕虜男女500余人を焼き殺した旨を知る。〔『兼見卿記』一〕
 12月14日 多聞院英俊、織田信長が摂津国有岡城の人質の女房ら600余人を家に追い込んで焚殺したこと、捕虜となった24名が京都
       へ連行されたことを知り、このことは「浅猿々々トモ不及言慮次第」であるが、「先世ノ因果」であると評価す。
       〔『多聞院日記』三〕
 12月16日 織田信長、京都六条河原に於いて村井貞勝(「村井長門守」)を「奉行」とし、「越前大名衆」の佐々成政(「佐々蔵助」)
       金森長近(「金森五郎八」)・前田利家(「前田又左衛門」)・村井専次ら「村井長門守内衆」の3000人「警固衆」を以て
       荒木村重子息・女房衆らの処刑を断行。〔『立入左京亮入道隆佐記』〕
 12月16日 吉田兼見、荒木村重の捕虜男女37人が洛中を車で引き回され六条河原に於いて処刑された旨を知る。〔『兼見卿記』一〕
 12月18日 吉田兼見、二条御所へ当番として祗候。〔『兼見卿記』一〕
 12月18日 織田信長(「右大臣信長」)、戌刻に二条御所へ祗候。織田信長(「右府」)、飛鳥井雅敦・甘露寺経元と雑談し、吉田兼見
       へは「堂上勅許」を祝し、吉田兼見は織田信長「御執奏之故」といたく感激。その後、織田信長は誠仁親王に謁す。
       〔『兼見卿記』一〕
 12月19日 織田信長(「右府信」)、未明に近江国安土へ下向。〔『兼見卿記』一〕
 12月19日 吉田兼見、織田信長(「右府信」)の近江国安土下向が早天であったため見送ることが出来ず。また二条御所より退出。
       〔『兼見卿記』一〕
 12月19日 多聞院英俊、十市遠長(「常」)へ鳥目を貸すが、後にやがて返される。〔『多聞院日記』三〕
 12月23日 吉田兼見、二条御所へ当番として祗候。〔『兼見卿記』一〕
 12月24日 吉田兼見、二条御所を退出。〔『兼見卿記』一〕
 12月25日 正親町天皇、本願寺顕如に対し織田信長との講和を勧める。
 12月25日 吉田兼見、明智光秀(「向州」)を近江国坂本城に訪問して歳末を賀し、その後帰洛。〔『兼見卿記』一〕
 12月25日 多聞院英俊、この頃に筒井順慶(「筒井」)の才覚により「夜盗引剥之悪党共」4名を処断したことを知る。
       〔『多聞院日記』三〕
 12月27日 松井友閑(「宮内卿法印友閑」)、山城国石清水八幡宮祠官の善法寺堯清へ社殿「造営」について紛争が発生したので、
       織田信長「御下知」を以て指示を下す。その内容は山上の石清水八幡宮と山下の別当寺が和解したので「先規」に従い、神主方
       の書状に寺方の添状を出すべきことであった。〔「石清水文書」六〕
 12月27日 吉田兼見、細川藤孝(「長岡兵部大輔」)を丹波国勝龍寺城に訪問して歳末を賀す。茶以後に上洛〔『兼見卿記』一〕
 12月28日 楠長諳、大友義統へ「官途」と防長に関して御礼の使僧派遣を披露した旨を通知。〔「大友家文書録」B‐1910〕
 12月28日 吉田兼見、二条御所へ当番として祗候。〔『兼見卿記』一〕
 12月28日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し歳暮の礼後に将碁をする。また猪熊地子の件は双方折半ということで決したことを
       知る。〔『兼見卿記』一〕
 12月29日 吉田兼見、早旦に二条御所を退出。その後、舟橋国賢(「清少」)を訪問。路次において柳原淳光(「柳亜相」)と遭遇し
       同道して舟橋国賢を訪問。〔『兼見卿記』一〕
 12月30日 吉田兼見、二条御所(「下御所」)に祗候し誠仁親王へ歳末を賀す。
       誠仁親王、柳原淳光(「柳原亜相」)・富小路秀直・吉田兼見と対面。〔『兼見卿記』一〕
 12月30日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕
 12月30日 吉田兼見、禁裏へ参内し歳末を賀す。〔『兼見卿記』一〕


    この年 春日局、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
        烏丸光広、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
        小堀政一、近江国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
        羽柴秀保、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
        松下重綱、遠江国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕


フロントページに戻る
目次に戻る
項目別文献・論文一覧へ