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天正 6(1578)年 1月 1月 1日 朝廷、「節会」を20年ぶりに再興。〔『兼見卿記』一〕 1月 2日 松平家忠、この夜のうちに「日返」の予定で遠江国浜松城礼参のため三河国深溝を出発。〔『家忠日記』〕 1月 3日 松平家忠、遠江国浜松城に於いて徳川家康(「家康」)より「鷹雁」を下賜される。〔『家忠日記』〕 1月 4日 松平家忠、遠江国浜松城より三河国深溝城へ帰還、三河国岡崎城へ出向く。〔『家忠日記』〕 1月 4日 徳川信康、三河国岡崎の鷹狩を行う。〔『家忠日記』〕 1月 5日 松平家忠、三河国岡崎より三河国深溝城へ帰還。〔『家忠日記』〕 1月 6日 織田信長(「平信長」)、正二位に昇進。〔『公卿補任』〕 1月 8日 吉田兼見、近衛前久の使者より明日鷹野御成の途上に立ち寄る旨の連絡を受ける。〔『兼見卿記』一〕 1月 9日 近衛前久(「近衛殿」)・近衛信基(「御方御所」)、鷹狩の途上で吉田兼見邸を訪問。〔『兼見卿記』一〕 1月 9日 多聞院英俊、筒井順慶(「筒井」)へ贈物を送る。〔『多聞院日記』三〕 1月10日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)へ御礼を申し入れるため鈴鹿定継を派遣。〔『兼見卿記』一〕 1月11日 明智光秀、近江国坂本城に於いて津田宗及を招き茶会を催す。 1月12日 松平家忠、三河国岡崎にて松平信一(「松平伊豆」)の来訪を受ける。〔『家忠日記』〕 1月13日 松平家忠、松平信一(「松平伊豆」)の三河国岡崎宿所にて「振舞」を受ける。〔『家忠日記』〕 1月14日 筒井順慶(「筒井」)、箸尾為綱(「箸尾」)と和睦する。〔『多聞院日記』三〕 1月14日 三河国岡崎城に於いて「うたい」が催される。〔『家忠日記』〕 1月15日 三河国岡崎に於いて「爆竹乗」が行われる。〔『家忠日記』〕 1月16日 織田信長、柴田勝家(「柴田修理亮」)・佐久間信盛(「佐久間右衛門」)へ加賀国方面に於ける防備を慰労し、見舞として 松田監物を派遣。〔「佐竹文書」八〕 1月16日 徳川家康(「家康」)、織田信長(「御家門様」)の三河国到来にあたり三河国岡崎城へ到来。〔『家忠日記』〕 1月16日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問。村井吉忠のもとで待機し村井貞勝と面会、奏者の村井清三へ20疋、村井吉忠へ 20疋進上する。〔『兼見卿記』一〕 1月16日 多聞院英俊、筒井順慶(「筒井」)と箸尾為綱(「箸尾」)が和睦したことを知る。〔『多聞院日記』三〕 1月16日 多聞院英俊、この日より大和国龍王城が「破」却されたことを知り、「為国尤珍重珍重」と評す。〔『多聞院日記』三〕 1月17日 松平家忠、三河国岡崎にて三河国深溝から「門木」を届けられる。〔『家忠日記』〕 1月18日 羽柴秀吉、美作国の江見為久(「江見九郎次郎」)へ年頭祝儀を謝し、美作国方面の件については山中幸盛(「山鹿」)と 相談した内容に変化が無いのは大慶であり、気遣いは無用であることを通知。詳細は蜂須賀正勝(「蜂須賀」)に伝達させる。 〔『記録御用所本古文書』十〕 1月18日 蜂須賀正勝、美作国の江見為久(「江見九郎次郎」)へ年頭祝儀を謝し、江見為久の身上の件について山中幸盛(「山鹿」) との入魂は良きことで、相応の用件を通達することを通知。〔『美作古簡集注解』上〕 1月18日 松平家忠、三河国岡崎の屋敷普請を行う。その後に三河国深溝城へ帰還す。〔『家忠日記』〕 1月19日 織田信長、音信として黄金10枚を贈呈してきた山名豊国(「山名宮内少輔」)へ但馬国方面への「出馬」に内応することを 確認。詳細は松井友閑(「宮内卿法印」)より伝達させる。〔「吉田文書」四、「諸家単一文書」‐1082〕 1月20日 徳川家康、三河国岡崎城へ到来。〔『家忠日記』〕 1月21日 織田信長(「御家門様」)、三河国岡崎城へ到来す。〔『家忠日記』〕 1月22日 織田信長(「御家門様」)、尾張国へ向けて三河国岡崎城を発す。〔『家忠日記』〕 2月 2月 4日 松平家忠、築山殿(「信康御母さま」)より音信を受ける。〔『家忠日記』〕 2月 5日 近衛前久(「近衛殿」)父子、大和国興福寺一乗院へ下向す。〔『多聞院日記』三〕 2月 7日 多聞院英俊、近衛前久(「近衛殿」)父子が去2月5日に大和国興福寺一乗院へ下向したことを知る。〔『多聞院日記』三〕 2月 7日 松平家忠、三河国深溝の鷹野へ出る。〔『家忠日記』〕 2月 9日 松平家忠、三河国深溝にて「あたこの山伏」の到来を受ける。〔『家忠日記』〕 2月10日 徳川信康(「信康」)、三河国深溝城の松平家忠を訪問。〔『家忠日記』〕 2月10日 青山忠俊、遠江国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕 2月11日 松平家忠、三河国岡崎城「新城ふしん」の命令を受ける。〔『家忠日記』〕 2月12日 松平家忠、「会下」に参る。〔『家忠日記』〕 2月13日 大和国興福寺一乗院、近衛前久(「近衛殿」)の下向に対し贈物を準備する。〔『多聞院日記』三〕 2月13日 松平家忠、三河国岡崎へ出向く。〔『家忠日記』〕 2月15日 松平家忠、三河国岡崎城の「新城」普請に着手するも、遠江国浜松の徳川家康より「陣ふれ」が到来したため普請は中断す。 〔『家忠日記』〕 2月15日 三河国内にて「永良の者」が逃散す。〔『家忠日記』〕 2月17日 松平家忠、三河国内の「永良惣たう」が赦免されたことを知る。〔『家忠日記』〕 2月18日 遠江国浜松から通達された「御ちん」が延期したため、三河国岡崎城「新城」普請が再開されることになる。 〔『家忠日記』〕 2月19日 松平家忠、三河国岡崎城「新城」普請に従事す。〔『家忠日記』〕 2月20日 松平家忠、三河国岡崎城新城普請に従事す。〔『家忠日記』〕 2月21日 松平家忠、三河国岡崎城新城普請に従事す。〔『家忠日記』〕 2月22日 平岩親吉(「平岩七之助」)、三河衆(「国衆」)を「振舞」う。〔『家忠日記』〕 2月23日 羽柴秀吉、播磨国へ出陣し書写山に在陣。〔「信長公記」〕 2月23日 松平家忠、三河国岡崎城新城普請に従事す。〔『家忠日記』〕 2月23日 三河衆(「国衆」)、朝食を石川数正(「石川伯耆」)の宿所で、夕食を酒井忠世(「酒井与四郎」)の宿所で振舞われる。 〔『家忠日記』〕 2月24日 松平家忠、三河国岡崎にて松平康忠(「松平上野守」)を「振舞」う。〔『家忠日記』〕 2月26日 松平家忠、三河国岡崎にて長沢親類衆を「振舞」う。〔『家忠日記』〕 2月28日 この申刻、三河国岡崎で「地震」が発生。〔『家忠日記』〕 2月 晦日 松平家忠、三河国岡崎城「新城」普請に従事す。〔『家忠日記』〕 3月 3月 1日 松平家忠、三河国岡崎城新城普請に従事す。〔『家忠日記』〕 3月 1日 三河国岡崎に遠江国浜松城の徳川家康より「陣ふれ」が通達され、三河国岡崎城新城普請は中断す。〔『家忠日記』〕 3月 2日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し、村井貞勝へは饅頭50個、村井貞成へは鮒10匹を進上。〔『兼見卿記』一〕 3月 3日 松平家忠、遠江国浜松城の徳川家康より「陣ふれ」を受けて三河国岡崎より三河国深溝城へ帰還す。〔『家忠日記』〕 3月 4日 織田信長、細川藤孝(「長岡兵部大輔」)へ近日中の丹波国出陣を命令。また丹波国氷上郡・多紀郡への道路は2筋も3筋も 人馬の往還に支障の無い様に来たる3月20日までに整備すること、大軍の通過であるから油断しないこと、重ねて「検使」を 派遣することを通達。〔「細川家文書」二〕 3月 4日 近衛前久(「近衛殿」)、吉田兼見を訪問。〔『兼見卿記』一〕 3月 4日 吉田兼見、新邸宅へ移徙。〔『兼見卿記』一〕 3月 5日 松平家忠、「二川」まで出陣す。〔『家忠日記』〕 3月 6日 上杉謙信、上洛直前に卒中で倒れる。 3月 6日 松平家忠、遠江国浜松城に到着す。〔『家忠日記』〕 3月 7日 松平家忠、遠江国浜松城より遠江国掛川城へ向けて出陣。〔『家忠日記』〕 3月 8日 細川藤孝(「長兵」)、吉田兼見を訪問。〔『兼見卿記』一〕 3月 8日 松平家忠、遠江国掛川城を発し大井川河端に布陣。〔『家忠日記』〕 3月 9日 細川藤孝、近江国坂本へ下向。〔『兼見卿記』一〕 3月 9日 松平家忠、大井川を渡河し武田側の駿河国田中城を攻撃。 松平家忠、敵勢の佐野孫助・行家彦十郎を討ち取る。〔『家忠日記』〕 3月10日 大和国興福寺極楽坊の六方桟敷に於いて「師子舞」・「蛛舞」が催された。京都にて筒井順慶(「順慶」)の宿所を手掛けた 人物による者が構築した。〔『多聞院日記』三〕 3月10日 松平家忠、遠江国牧野原城に帰陣。〔『家忠日記』〕 3月11日 近衛信基(「近衛殿御方」)、吉田山において鷹狩す。〔『兼見卿記』一〕 3月11日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を将碁のため訪問。〔『兼見卿記』一〕 3月11日 松平家忠、遠江国牧野原城の普請に着手。〔『家忠日記』〕 3月12日 吉田兼見、佐竹弥吉(「左近」)の迎えで佐竹定実(「佐竹羽州」)の茶湯興行に招かれる。〔『兼見卿記』一〕 3月12日 松平家忠、遠江国牧野原城の普請に従事す。〔『家忠日記』〕 3月13日 多聞院英俊、里村紹巴(「紹巴」)が伊勢大神宮に於いて発句を詠んだ夢を見る。〔『多聞院日記』三〕 3月13日 羽柴秀吉(「羽柴筑前守秀吉」)、美作国の江見為久(「江見九郎次郎」)へ知行を山中幸盛(「山中鹿之助」)同前に 安堵す。〔『美作古簡集注解』上〕 3月13日 上杉謙信、病没。〔『日本史人物生没年表』〕 3月13日 徳川軍、武田側の遠江国小山今城を攻撃。「家康はたもと」と三河衆の「大将計」りが攻撃にあたった。〔『家忠日記』〕 3月14日 吉田兼見、丹波国の赤井忠家(「荻野悪右衛門尉」)の病死を知る。〔『兼見卿記』一〕 3月14日 松平家忠、遠江国牧野原城の普請に従事す。〔『家忠日記』〕 3月15日 織田信長、明智光秀・滝川一益・丹羽長秀・細川藤孝の行動を是認し油断無きことを通達。 3月15日 松平家忠、遠江国牧野原城の普請に従事す。〔『家忠日記』〕 3月16日 松平家忠、遠江国牧野原城の普請に従事す。〔『家忠日記』〕 3月16日 小早川隆景(「左衛門佐隆景」)、妙寿寺へ「当年之御弓箭」は「芸州之安危之境」であるとの見通しに触れ、 毛利家(「御当家」)は「於中国三番目之被振御威勢」という状態で、毛利輝元(「当殿」)を吉川元春(「元春」)・ 小早川隆景(「我等」)が補佐することで毛利元就(「日頼様」)没後8ヶ年も「御家を被保」れており、今度不慮の 足利義昭(「将軍」)の「中国御動座」という事態で「無存知自遠国之大名」よりも使者が到来するようになり、 「御家之規模、当代之御面目」が高揚したこと、しかし「消候ハんとて光増と申事」もあるとの譬えもあるので毛利輝元を 諫めることを依頼する。〔「毛利家文書」B‐838〕 3月17日 松平家忠、遠江国牧野原城の普請に従事す。〔『家忠日記』〕 3月18日 松平家忠、遠江国牧野原城の普請を終えて遠江国浜松城へ帰還。〔『家忠日記』〕 3月19日 この夜戌刻の終わりに辰巳の方角より西乾の方角へ大きな「光物」が飛ぶ。人の顔面がはっきりと見えるほどの光であった という。〔『多聞院日記』三〕 3月19日 松平家忠、遠江国浜松城より三河国岡崎城に戻る。〔『家忠日記』〕 3月21日 箸尾為綱(「箸尾」)のための「調伏」が大和国興福寺東室に於いて行われる。多聞院英俊は参席す。〔『多聞院日記』三〕 3月22日 織田信長、黒田孝高(「小寺官兵衛尉」:小寺孝高)へ播磨国の別所長治(「別所小三郎」)が羽柴秀吉(「羽柴筑前守」) に「存分有之」と号したにもかかわらず「敵」(毛利氏)に同意したことは「言語道断」であり、黒田孝高の忠節は神妙である ことを賞す。また別所長治(「別所小三郎」)を速やかに「成敗」を加えるので、その際には忠節を励むべきことを命令。 詳細は羽柴秀吉(「羽柴」)に伝達させる。〔「黒田文書」七‐九〕 3月22日 堀秀政(「堀久太郎秀政」)、羽柴秀吉(「羽柴」)の使者として蜂須賀正勝(「蜂彦右」:織田信長奏者)に播磨国方面の 状況を報告してきた黒田孝高(「小寺官兵衛尉」:小寺孝高)へ堀秀政が秀吉(「筑前守」)に不利にならぬよう 織田信長「上聞」に達したところ、特別に喜ばれて即時織田信長「御朱印」が発給されたので、今後一層の忠節を督促す。 〔「黒田文書」六〕 3月22日 織田信長、去年以来数度にわたり山中幸盛(「山中鹿助」)に状況報告してきた美作国の草刈景継(「草刈三郎左衛門尉」) へ羽柴秀吉(「羽柴筑前守」)の美作国在陣にあたり、相談して織田側への忠節を尽くすことを命令。「恩賞」は望み通りと する旨を通達。詳細は蜂須賀正勝(「蜂須賀」)に伝達させる。〔『草刈家証文』〕 3月23日 吉田兼見、吉田兼治を同行させ山科において織田信長の上洛を出迎える。公家衆(「ゥ家」)は粟田口辺で出迎えたという。 〔『兼見卿記』一〕 3月23日 織田信長(「右府信長」)、申刻に上洛。〔『兼見卿記』一〕 3月23日 吉田兼見、帰路において細川藤孝(「長兵」)と参会。〔『兼見卿記』一〕 3月23日 松平家忠、三河国岡崎城「新城」普請を再開す。〔『家忠日記』〕 3月24日 吉田兼見、松井友閑(「宮内法印」)・猪子高就(「猪子兵介」)へ使者を派遣。〔『兼見卿記』一〕 3月24日 近衛前久(「近衛殿」)、吉田兼見邸を訪問。〔『兼見卿記』一〕 3月24日 羽柴秀吉、織田信長へ宛て播磨国方面の注進状を発す。〔「黒田文書」五〕 3月24日 松平家忠、三河国中島の所領に赴く。〔『家忠日記』」〕 3月25日 織田信長(「右府」)、朦気を病み公家衆(「ゥ家」)との対面は中止。〔『兼見卿記』一〕 3月25日 吉田兼見、新邸宅落成にあたり猪子高就(「猪兵」)へ両種2荷・饅頭30個・鯉2匹を、村井貞成には蕨1折、三条西実枝 へは蕨1折を贈る。〔『兼見卿記』一〕 3月25日 松平家忠、三河国中島にて「鷹のへ」に出る。〔『家忠日記』〕 3月26日 吉田兼見、猪子高就(「猪兵」)からの使者と面会し美濃紙20帖を受ける。〔『兼見卿記』一〕 3月26日 吉田兼見、織田信長(「右府」)の小者「尉若」の来訪を受け、茶菓子を調える。〔『兼見卿記』一〕 3月26日 上杉景勝、北条高広(上野国厩橋城)へ関東情勢を尋ねる。 3月27日 織田信長、羽柴秀吉(「羽柴筑前守」)へ去る3月24日の注進状に応え、数度にわたる別所長治(「別所小三郎」)の動静 報告を諒承し、去る3月23日に八幡山奈波方面への軍事行動を賞す。また近日中の播磨国三木城攻撃の予定を諒承し、要請 次第で援軍を派遣すること、状況によっては織田信長「自身」の出馬もあり得ることを通達。さらに上杉謙信(「謙信」)が 「相果」てたという風聞があり、加賀国よりの注進状を写して送付すること、「珍事」であれば織田信長からも通達するので、 羽柴秀吉へも「言上」を命令す。〔「黒田文書」五〕 3月27日 羽柴秀吉、播磨国三木城を攻撃。 3月27日 吉田兼見、松井友閑(「宮内卿法印」)を訪問後、村井貞勝(「村長」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕 3月27日 松平家忠、三河国中島の崇福寺を「振舞」う。〔『家忠日記』〕 3月28日 吉田兼見、織田信長(「右府信長」)を訪問。土産物は松井友閑(「宮内卿法印」)が披露。〔『兼見卿記』一〕 3月28日 近衛前久(「近衛殿」)、吉田兼見を訪問。〔『兼見卿記』一〕 3月29日 吉田兼見、織田信長(「右府」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕 3月30日 上杉景勝、深沢利重(越後国坂戸城)へ上野国境目の守備を厳重にするように命令。 3月30日 松平家忠、三河国中島の所領より三河国岡崎城に戻る。〔『家忠日記』〕 4月 4月 1日 公家衆、勧修寺晴豊・飛鳥井雅敦(「武衛」)の連絡で織田信長(「右府」)への対面のため直垂にて伺候するも織田信長へ の対面は無かった。〔『兼見卿記』一〕 4月 1日 松平家忠、三河国岡崎城の徳川信康に出仕する。〔『家忠日記』〕 4月 2日 多聞院英俊、箸尾為綱(「箸尾」)のための「調伏」に参席。〔『多聞院日記』三〕 4月 2日 羽柴秀吉、毛利軍(「芸州衆」)と紀伊国「雑賀者共」が連合して別所孫右衛門の播磨国阿閉砦に攻撃を仕掛けたのに対し、 黒田孝高(「小寺官兵衛尉」:小寺孝高)を派遣して撃破させる。〔「黒田文書」七‐九〕 4月 2日 羽柴秀吉、織田信長へ宛て戦況報告の注進状を発す。〔「黒田文書」七‐九〕 4月 2日 松平家忠、三河国岡崎にて徳川信康(「信康」)の「小性衆」を「ふる舞」う。〔『家忠日記』〕 4月 3日 羽柴秀吉、播磨国野口城(別所長治の属城)を攻略。 4月 4日 織田信長、羽柴秀吉(「羽柴筑前守」)へ去る4月2日の黒田孝高(「小寺官兵衛尉」:小寺孝高)の播磨国阿閉砦に於ける 戦功を賞し、援軍要請次第に派遣する旨を通達。〔「黒田文書」七‐九〕 4月 6日 松平家忠、三河国深溝城へ帰還。〔『家忠日記』〕 4月 7日 近衛前久、島津義弘(忠平)へ日向国攻略を賞し、近衛前久自身は織田信長と好を通じたことを報告。 また島津義弘(忠平)へ出水郡の島津義虎を経由して日向国の「大鷹」を所望。 詳細は伊勢貞知へ伝達させる。〔「島津家文書」A‐696、「旧記雑録後編」@‐969〕 4月 7日 近衛前久、喜入季久へ日向国攻略を賞し、近衛前久自身は織田信長と好を通じたことを報告。 また喜入季久へ出水郡の島津義虎を経由して日向国の「大鷹」を所望。 詳細は伊勢貞知へ伝達させる。〔「旧記雑録後編」@‐970〕 4月 7日 多聞院英俊、箸尾為綱(「箸尾」)の「調伏」に参席。〔『多聞院日記』三〕 4月 7日 松平家忠、三河国深溝の「会下」に参る。〔『家忠日記』〕 4月 8日 織田信忠(「三位中将殿」)ら、摂津国大坂表より帰陣。〔『兼見卿記』一〕 4月 8日 松平家忠、三河国深溝の「会下」に参る。〔『家忠日記』〕 4月 9日 織田信長、広橋兼勝(「頭右中弁」)に正親町天皇へ自身の「辞一官」と「顕職」を以て「嫡男信忠卿」に「譲与」する旨の 奏達を依頼。〔「総見寺文書」、『兼見卿記』一〕 4月 9日 織田信長(「信長」)、勾当内侍(葉室氏)へ「のふ長位の事」で先ず辞官の上で、織田信忠(「信忠」)へ「よたつ」を 奏上す。その上で「朝庭の御事」は織田信忠が「馳走」することは聊かも油断することが無いという意志を奏上す。 詳細は三条西実世(実澄・実枝)へ申し含めているので、この旨の披露があるであろうことを上申す。〔「総見寺文書」〕 4月 9日 織田信長(「右府」)、右大臣・右大将を辞任。〔『公卿補任』、『兼見卿記』一:但し「官位御辞退」とあるのは誤り。〕 4月 9日 吉田兼見、細川藤孝(「長兵」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕 4月 9日 松平家忠、三河国竹谷の松平家清(「松平玄蕃」)を礼問す。〔『家忠日記』〕 4月10日 吉田兼見、織田信忠(「中将殿」)へ祗候するも、以外に風雨が強く延引となる。〔『兼見卿記』一〕 4月12日 松平家忠、三河国竹谷にて「日待」し「会下」を「振舞」う。〔『家忠日記』〕 4月13日 松平家忠、三河国岡崎城へ戻る。〔『家忠日記』〕 4月15日 松平家忠、三河国岡崎の「六く三城坊」へ出向く。〔『家忠日記』〕 4月17日 徳川信康(「信康」)、三河国岡崎城より遠江国浜松城に礼参す。〔『家忠日記』〕 4月18日 徳川信康(「信康」)、遠江国浜松城より三河国岡崎城に帰還。〔『家忠日記』〕 4月21日 松平家忠、三河国岡崎にて「猿楽衆」を見物。〔『家忠日記』〕 4月23日 松平家忠、三河国岡崎にて「猿楽衆」を見物。〔『家忠日記』〕 4月24日 織田信長(「信長」)、織田信忠(「三位中将殿」)へ自身の播磨国への「出馬」にあたり、織田「諸軍」を早々に「京都」 へ召集すべきこと、織田信長(「我々」)は来たる4月27日に上洛する予定であること、織田信雄(「北畠」)・ 織田信孝(「三七郎」)・織田信包(「上野介」)へもこの指令を通達し、「ゥ軍勢不残京着」するよう厳命すべきを通達。 〔「金子文書」〕 4月24日 松平家忠、三河国岡崎の鷹野へ出る。〔『家忠日記』〕 4月25日 松平家忠、三河国岡崎の鷹野へ出る。〔『家忠日記』〕 4月27日 筒井順慶(「筒井」)、大和国衆を率い播磨国へ出陣す。〔『多聞院日記』三〕 4月29日 織田信長、滝川一益・筒井順慶らへ播磨国上月城を救援させる。 4月 晦日 佐々長穐(「佐々権左衛門尉長穐」)、上杉謙信(「謙信」)の「不慮御死去」にあたり、越中国の若林助左衛門尉へ上杉氏 の「御国御法度」への配慮から無音であったことを侘び、河田長親(「豊州」)が織田信長(「上様」)に「御一味」する予定 を告げ、同意するのであれば織田信長「御前」へ馳走することを通知。「越国之内方々ヨリ尾侘言申仁」は多いけれども、 若林助左衛門尉からは内応の意志を受けていないことに触れ、河田長親は「江州御本国」(近江国が出身地)であるので織田側 に内応するであろう予測を通知。また神保氏張(「神保殿」:織田信長に内応)の越中国入国にあたり佐々長穐が「御使」と して飛騨国へ下向するのは好機であるから、河田長親(「豊州」)へ書状を以て会見し内存を受ける予定であることに触れ、 近日上洛する織田信長「上聞」に達する予定を通知。そして佐々長穐の「名乗」と「判形」が少し変わったので不審に思わない よう依頼する。〔「上杉古文書」十二〕 4月 日 織田信長、摂津国四天王寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「四天王寺文書」〕 5月 5月 1日 織田信長、播磨国方面への出撃を予定するも、佐久間信盛らの諫止により中止。 5月 1日 織田信長、織田信忠・織田信雄・織田信孝・細川藤孝・佐久間信盛ら大軍を播磨国に派遣して戦局打開を図るが好転せず。 〔「信長公記」〕 5月 1日 松平家忠、三河国岡崎城の徳川信康へ出仕することになっていたが、平岩親吉(「平岩七之助」)を介して近日端午節句で あるので出仕「無用」の旨を通達される。〔『家忠日記』〕 5月 4日 明智光秀、里村紹巴(「臨江斎」)へ播磨国生田・須磨・明石を通過し里村紹巴のことを思いだした旨、 施薬院全宗(「徳雲」)等が言伝を欲している旨を通知。〔「竹内文平氏所蔵文書」〕 5月 4日 松平家忠、水野藤次(「水野藤次殿」)へ音信を発す。〔『家忠日記』〕 5月 5日 吉田兼見、矢部家定(「矢部善七郎」)の意を受けた小笠原貞慶(「小笠原民部少輔」)より織田信長(「右府」)の盆山・ 鉢木所望の旨を通達される。吉田兼見、盆山・鉢木を携え早速持参、矢部家定が披露。 織田信長、吉田兼見へ帷子を下賜、また知行給与を通知。〔『兼見卿記』一〕 5月 5日 松平家忠、三河国岡崎城へ「出仕」す。〔『家忠日記』〕 5月 5日 「鵜殿八郎三郎」・松平信一(「松平伊豆守」)、三河国岡崎城の松平家忠らを訪問し「拍子」をする。〔『家忠日記』〕 5月 6日 織田信長、織田信忠・織田信雄(北畠信意)を播磨国へ派遣。 5月 6日 吉田兼見、吉田兼治(「侍従」)を同行して前日織田信長(「右府」)より下賜された帷子を着して織田信長へ祗候。 吉田兼見、織田信長へ「大鷹」を進上し村井貞勝(「村長」)が披露。〔『兼見卿記』一〕 5月 6日 近衛前久と三条西実枝、対談。〔『兼見卿記』一〕 5月 6日 「幸春大夫」(越前国幸若大夫の従兄弟)、三河国岡崎城に到来。舞2番を張行。〔『家忠日記』〕 5月 7日 松平景忠(「松平太郎左衛門」)、三河国岡崎城へ到来し「拍子」を行う。〔『家忠日記』〕 5月 7日 松平家忠、三河国岡崎城に於いて安芸毛利氏が美作国へ侵入し山中幸盛(「鹿之助」)の籠もる城を攻撃したこと、 これに対して「後詰」として織田信長(「家門様」)が出陣することを知る。〔『家忠日記』〕 5月10日 都築助大夫(遠江国牧野の「松平甚太郎」侍)、三河国岡崎城に到来。〔『家忠日記』〕 5月11日 三河国岡崎城に於いて「祈祷」が行われる。〔『家忠日記』〕 5月11日 三河国に於いて午刻に「地震」発生。〔『家忠日記』〕 5月11日 松平家忠、三河国岡崎城に於いて三河国吉田の酒井忠次(「左衛門尉」)からの連絡を受ける。〔『家忠日記』〕 5月13日 この夜も降雨、「なから堤」7〜8間が決壊する。〔『家忠日記』〕 5月14日 松平家忠、三河国岡崎城より三河国深溝城へ帰還。〔『家忠日記』〕 5月16日 羽柴秀吉(「羽柴筑前守秀吉」)、内応を申し入れてきた山名豊国(「山名殿」)へ全3ヶ条にわたる「条々」を送付し、 その身上を保証す。〔『記録御用所本古文書』八〕 5月20日 里見義弘、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕 5月23日 松平家忠、三河国深溝城より三河国岡崎城へ出仕。〔『家忠日記』〕 5月24日 松平家忠、三河国岡崎の松平景忠(「松平太郎左衛門」)のもとで「振舞」を受ける。〔『家忠日記』〕 5月26日 織田信長、山城国の柳芳軒へ軒領は「先規」の如く安堵し、たとえ「毀破」の織田信長「朱印」が発給されても承諾ぜずとも 良く、諸公事を免除することを通達。〔『雑録』七〕 5月26日 徳川信康(「信康」)、三河国切山へ楊梅を見物す。〔『家忠日記』〕 5月27日 織田信長(「右府」)、安土へ下向。〔『兼見卿記』一〕 5月27日 織田信長(「右府」)、近衛前久(前関白「近衛殿」)へ京都の羽柴秀吉(「羽柴藤吉郎」)邸に屋敷を移すよう命令。 〔『兼見卿記』一〕 5月28日 吉田兼見、近衛前久を訪問。〔『兼見卿記』一〕 5月28日 松平家忠、三河国岡崎城に於いて「天野清兵衛」(「家康普請奉行」)を振舞う。〔『家忠日記』〕 5月29日 松平家忠、遠江国浜松城の徳川家康へ「人あらための手判」を発す。〔『家忠日記』〕 6月 6月 1日 松平家忠、三河国岡崎城の徳川信康に出仕。〔『家忠日記』〕 6月 1日 松平家忠、この夜に「鵜殿八郎三郎」の三河国岡崎宿所を訪問。〔『家忠日記』〕 6月 1日 大和国興福寺妙徳院に於いて筒井順慶(「筒井」)出陣の祈祷が行われる。〔『多聞院日記』三〕 6月 2日 松平家忠、三河国岡崎の宿所に於いて「城小性衆」の来訪を受ける。〔『家忠日記』〕 6月 2日 松平家忠、「松平太郎左衛門尉」の三河国岡崎宿所を訪問。〔『家忠日記』〕 6月 3日 村井貞勝(「村井長門守貞勝」)、山城国の柳芳軒へ軒領の「買得相伝之地」・山林を安堵、山林・竹木伐採を禁止、 「徳政法式」と「諸公事免除」の旨の織田信長「御朱印」が発給されたことを通達。〔『雑録』七〕 6月 5日 松平家忠、夕刻に松平信一(「松平伊豆」)の三河国岡崎宿所を訪問。〔『家忠日記』〕 6月 6日 松平家忠、「信康鷹匠衆」である「成瀬藤八」の来訪を受ける。〔『家忠日記』〕 6月 7日 松平家忠、「松平紀伊守」に斬られた「和屋新八」の到来を受ける。〔『家忠日記』〕 6月 8日 松平家忠、三河国岡崎より三河国深溝へ戻る。〔『家忠日記』〕 6月 9日 松平家忠、三河国永良の堤防普請を開始。〔『家忠日記』〕 6月10日 織田信長(「右府信長」)、上洛。吉田兼見、吉田兼治(「侍従」)を同行し山科で出迎える。〔『兼見卿記』一〕 6月10日 松平家忠、三河国永良の堤防作事に従事。〔『家忠日記』〕 6月11日 松平家忠、三河国永良の堤防作事に従事。〔『家忠日記』〕 6月12日 吉田兼見、松井友閑(「宮内卿法印」)を訪問。 その後、村井貞勝(「村長」)を訪問したところ近衛前久(「近衛殿」)と対面。〔『兼見卿記』一〕 6月12日 松平家忠、三河国中島の堤防普請を開始。〔『家忠日記』〕 6月13日 松平家忠、三河国中島の堤防作事に従事。〔『家忠日記』〕 6月14日 織田信長(「右府」)、祇園御霊会を見物。〔『兼見卿記』一〕 6月14日 吉田兼見、妻木某及び猪子高就(「猪子兵介」)へ贈物をする。〔『兼見卿記』一〕 6月14日 松平家忠、三河国中島の堤防作事に従事。〔『家忠日記』〕 6月15日 松平家忠、三河国中島の堤防作事に従事。〔『家忠日記』〕 6月16日 羽柴秀吉、織田信長の指示を仰ぐため密かに上京し、上月城の尼子氏を見捨て三木城攻略に全力を注ぐよう命令を受ける。 6月16日 吉田兼見、召使4人に「官途」を許可。〔『兼見卿記』一〕 6月16日 松平家忠、三河国岡崎へ赴く。〔『家忠日記』〕 6月18日 飛鳥井雅継、喜入季久へ日向国攻略を祝し京都においてもその様子が噂として浸透している旨を通知。 織田信長の意向によって喜入季久が在洛することで、用件があれば申請するよう通知。 さらに梶井門跡筆の歌入りの扇子2本を贈与する。〔「旧記雑録後編」@‐982〕 6月18日 水野忠重(「水野惣兵衛」)、三河国岡崎宿所に於いて松平家忠らを振る舞う。〔『家忠日記』〕 6月19日 松平信一(「松平伊豆」)、三河国岡崎宿所に於いて松平家忠らを振る舞う。〔『家忠日記』〕 6月20日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問。その後、猪子高就(「猪兵」)へ鞦1懸を持参。〔『兼見卿記』一〕 6月21日 織田信長(「右府」)、未明に安土へ下向。吉田兼見、下向の情報を知らず見送らず。〔『兼見卿記』一〕 6月20日 松平家忠、三河国岡崎に於いて「知行方勘定」を行う。〔『家忠日記』〕 6月21日 松平家忠、三河国岡崎に於いて知行方の「勘定」に従事する。〔『家忠日記』〕 6月22日 酒井忠次(「酒井左衛門尉」)、三河国吉田より三河国岡崎へ到来す。〔『家忠日記』〕 6月23日 松平家忠、三河国吉田より三河国岡崎へ到来した酒井忠次(「左衛門尉」)を訪問。 遠江国浜松の徳川家康より来7月1日に遠江国浜松城普請のための到来命令を受ける。〔『家忠日記』〕 6月23日 水野忠重(「水野宗兵衛」)、松平家忠の三河国岡崎宿所に到来す。〔『家忠日記』〕 6月24日 松平家忠、三河国山崎の「水野藤次」より女房衆の「ゐんしん」を受ける。〔『家忠日記』〕 6月25日 織田信長、見舞を贈ってきた遠江国の徳川家康(「三河守殿」)へ播磨国方面の戦況を告げ、去る6月21日に敵軍を撃破し 「是式不物数」と虚勢を張り(実際に羽柴秀吉は上月城で毛利軍に敗北を喫す)、武田勝頼(「四郎」)が信濃国飯山に布陣 しているが手出しは無用であることを通達。〔「中村不能斎採集文書」八〕 6月26日 羽柴秀吉、高倉山を撤収し三木城攻撃のために平井山に移陣。 6月26日 九鬼嘉隆、新造の鉄船を率いて紀伊国熊野浦に出撃し紀伊国雑賀一揆・淡輪一揆を撃破。 6月26日 歳阿弥(織田信長鷹匠)、吉田兼見を訪問。〔『兼見卿記』一〕 6月27日 羽柴秀吉、播磨国神吉城(別所長治の属城)を攻撃し敗退。 6月28日 九鬼嘉隆、新造の鉄船を率い和泉国淡輪沖で海戦す。 6月28日 松平家忠、「くしもと法庵」の三河国岡崎の宿所を訪問。〔『家忠日記』〕 6月30日 松平家忠、遠江国浜松城普請のために三河国岡崎より三河国深溝へ帰還す。〔『家忠日記』〕 6月30日 由良成繁、没。〔『日本史人物生没年表』〕 7月 7月 1日 松平家忠、遠江国浜松へ向かう途中で「二川」に到着。〔『家忠日記』〕 7月 2日 松平家忠、遠江国浜松に到着。〔『家忠日記』〕 7月 3日 織田信長、大和国法隆寺東寺惣中へ西寺・東寺の別を遵守することについて祝儀のため使僧が到来し、金子30両と蚊帳1張 の贈呈を受けたことを謝す。今後問題が発生した場合は近江国安土城(「庭中」)に於いて訴訟すべきことを通達。 〔「法隆寺文書」五〕 7月 3日 柴田勝家、越前国の橘屋三郎左衛門尉へ「去々年」(天正4)の通達通り「紺屋方」・「軽物座」の「役銭」を徴収させ、 「入絹」を運上することを命令。「去年」(天正5年)の「紺屋役」の件は別に納入するということであったが「太曲事」で あるので、早急に納入させるよう命令す。詳細は豊島久兵衛尉(「豊嶋」)・富野某に伝達させる。〔「橘文書」〕 7月 3日 松平家忠、遠江国横須賀城に到着。〔『家忠日記』〕 7月 3日 尼子勝久、没。〔『日本史人物生没年表』〕 7月 4日 松平家忠、遠江国横須賀城普請に着手。また徳川家康(「家康」)より「ふり」を賜わる。〔『家忠日記』〕 7月 5日 尼子勝久、毛利軍に包囲された播磨国上月城に於いて自刃。 7月 6日 吉田兼見、七夕御礼として村井貞勝を訪問。その後、近衛前久(「近衛殿」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕 7月 6日 松平家忠、遠江国横須賀城普請に従事。〔『家忠日記』〕 7月 7日 吉田兼見、山岡景佐(「山岡対州」)より桃子1籠を贈られる。〔『兼見卿記』一〕 7月 7日 松平家忠、遠江国横須賀城の普請に従事。〔『家忠日記』〕 7月 7日 松平家忠、「上方」へ戻った「山岡半左衛門尉」の使者より播磨国神吉城での織田軍敗北の報を知らされる。 播磨国神吉城を織田信忠(「上介殿様」)・滝川一益(「滝川」)・美濃三人衆(稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就)・ 明智光秀(「明知」)・丹羽長秀(「五郎左衛門尉」)が攻撃したが、織田軍(「此方衆」)は多数の負傷者を出し、 滝川一益(「滝川」)自身も負傷したということであった。〔『家忠日記』〕 7月 8日 織田信長、越中国の二宮左衛門大夫へ知行を安堵するので、神保長職(「長職」)の折紙と織田信長朱印状により「進退」す べきことを通達。〔「志賀槙太郎氏所蔵文書」一〕 7月 8日 石山本願寺の坊官である下間頼龍(「按察法橋頼龍」)・下間仲之(「少進法橋仲之」)、紀伊国雑賀門徒へ敵対している 織田信長(「信長」)の命令により伊勢国から「大船」が紀州浦に向かうとの情報を通達し、織田軍(九鬼水軍)「大船」は 海上に於いて「自由」ではないけれども、もし運航すれば「大事之始末」であるので攻撃を仕掛ける旨を命令。 〔「万福寺文書」〕 7月 8日 松平家忠、遠江国横須賀城の普請に従事。酉刻より雨が降ってくる。〔『家忠日記』〕 7月 9日 松平家忠、遠江国横須賀城の普請に従事。〔『家忠日記』〕 7月 9日 松平家忠、徳川家康(「家康」)と本多広孝(「本田豊後守」)より振舞を受ける。〔『家忠日記』〕 7月10日 織田信長(「信長」)、蜂屋頼隆(「蜂屋兵庫助」)へ大阪湾で封鎖作戦を展開している九鬼嘉隆(「九鬼」)の兵粮が欠乏 しているので、松井友閑(「宮内卿法印」)より1ヶ月の15日ずつ支給すべきであるが、摂津国平野庄の収納米を立て替えて 九鬼嘉隆(「九鬼」)には「不事欠」るようにすることを命令。〔「宮部文書」〕 7月10日 松平家忠、遠江国横須賀城の普請に従事。〔『家忠日記』〕 7月11日 近衛前久(「近衛殿」)、吉田神社を参詣。〔『兼見卿記』一〕 7月11日 松平家忠、遠江国横須賀城の普請に従事。〔『家忠日記』〕 7月12日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問。その後、近衛前久(「近衛殿」)・近衛信尹(「御方御所」)を訪問し面会。 更に村井光清(「村井将監」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕 7月12日 松平家忠、遠江国横須賀城の普請に従事。〔『家忠日記』〕 7月13日 松平家忠、遠江国横須賀城の普請に従事。〔『家忠日記』〕 7月14日 九鬼嘉隆、伊勢国より新造の鉄船を率いて和泉国淡輪浦に到着。〔「佐藤行信氏所蔵文書」一〕 7月14日 松平家忠、遠江国横須賀城の普請に従事。〔『家忠日記』〕 7月15日 佐久間信栄、寅刻に和泉国の淡輪徹斎・淡輪大和守からの書状を受け取る。〔「淡輪文書」坤〕 7月15日 佐久間信栄(「佐甚九定栄」)、九鬼嘉隆の率いる伊勢国の「警固」船が和泉国淡輪浦に到着したとの報告をしてきた和泉国 の淡輪徹斎(「徹斎」)・淡輪大和守(「淡和」)へ即時に近江国安土の楠長諳(「式法」)・万見重元(「万仙」)へ宛て 織田信長「上聞」に達するように転送した旨を通達。〔「淡輪文書」坤〕 7月15日 松平家忠、遠江国横須賀城の普請を完成させる。〔『家忠日記』〕 7月16日 九鬼嘉隆、大阪湾に入る。 7月16日 松平家忠、遠江国横須賀より三河国吉田へ移動。〔『家忠日記』〕 7月17日 九鬼嘉隆、新造の鉄船を率いて和泉国堺津に到着。 7月17日 松平家忠、三河国深溝城へ帰還。〔『家忠日記』〕 7月17日 山中幸盛、殺害される。〔『日本史人物生没年表』〕 7月18日 織田信長(「右府信長」)、禁裏へ白鳥20羽・塩引30を献上。〔『兼見卿記』一〕 7月18日 織田信長(「信長」)、松井友閑(「宮内卿法印」)へ九鬼嘉隆率いる「勢州大船」が一昨日7月14日に和泉国淡輪浦へ 到着したことが早々に注進されたことを喜び、和泉国の土豪である淡輪徹斎・淡輪大和守・沼間清成(「沼間任世」)よりの 早速の報告を受けたことに触れ、何れ九鬼水軍(「彼船」)は和泉国堺津へ向かうので物資調達を命令。 〔「佐藤行信氏所蔵文書」一〕 7月18日 九鬼嘉隆、新造の鉄船にて大阪湾の海路を封鎖。 7月18日 松平家忠、三河国深溝より三河国岡崎に移動。〔『家忠日記』〕 7月20日 織田信忠・羽柴秀吉ら、播磨国神吉城攻略に成功。 7月20日 多聞院英俊、近日伊勢国より摂津国堺浦に横7間・縦12〜13間の5000人が乗船できる「鉄ノ船」が到来したこと、 「テツハウ」が通らない様に工夫がなされ、石山本願寺(「大坂」)への補給路を遮断したことを知る。〔『多聞院日記』三〕 7月20日 播磨国神吉城、陥落す。〔『多聞院日記』三〕 7月20日 松平家忠、三河国岡崎に到来した越前国敦賀の幸鶴大夫の舞を見物。〔『家忠日記』〕 7月21日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し普請場で面会、その後宿所において将碁をすると日野輝資・広橋兼勝・高倉永相が 訪問してきた。更に吉田兼見は近衛前久(「近衛殿」)を訪問。その後に飛鳥井雅敦(「飛鳥井督殿」)の病状を見舞う。 〔『兼見卿記』一〕 7月21日 多聞院英俊、筒井順慶(「筒井」)の祈祷として「大般若」経9巻を読経す。〔『多聞院日記』三〕 7月21日 多聞院英俊、前日7月20日に播磨国神吉城が「落居」したことを知る。〔『多聞院日記』三〕 7月22日 織田信長、武蔵国の太田資正(「三楽斎」)へ上杉謙信(「謙信」)の死去について、「以道可相果候処」であったのに病死 してしまったのは「残多」きことであり、「関東」への「出勢」は遅延するので「計策」を講ずことが重要であることを通達。 詳細は万見重元(「万見仙千世」)に伝達させる。〔「太田文書」〕 7月23日 洛中において「躍」あり。〔『兼見卿記』一〕 7月29日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を八朔礼のため訪問。その後、近衛前久(「近衛殿」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕 7月29日 徳川家康、妹を戸田康長(「戸田新六郎」)に嫁がせる。松平家忠は徳川家康妹を山中まで送った。〔『家忠日記』〕 8月 8月 1日 松平家忠、三河国岡崎城の徳川信康へ出仕する。〔『家忠日記』〕 8月 2日 松平家忠、遠江国牧野原城の城番に向かうため三河国岡崎より三河国深溝城へ帰還。〔『家忠日記』〕 8月 3日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し将碁をする。〔『兼見卿記』一〕 8月 3日 村井貞成(「作右衛門尉」)、近衛町社領の件で法念寺の違乱を停止。〔『兼見卿記』一〕 8月 3日 吉田兼見、下御霊神社の勧進相撲を見物に出掛け、遅れてきた村井貞成(「村作」)と一緒に見物。〔『兼見卿記』一〕 8月 5日 南部季賢(「奥州津軽之南部宮内少輔」)、近江国安土城の織田信長へ鷹5足を進上。〔『信長公記』〕 8月 5日 蠣崎正広、南部季賢と共に近江国安土に立ち寄る。〔『新羅之記録』上巻〕 8月 5日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)より使者として派遣された進藤豊後守の訪問を受け、庭に立てる「籠古木」所望の由を 通達される。〔『兼見卿記』一〕 8月 5日 松平家忠、遠江国浜松城の徳川家康にへ出仕する。〔『家忠日記』〕 8月 6日 山科言継(「山科亜相」)、吉田兼見を訪問し暮れに帰京。〔『兼見卿記』一〕 8月 6日 飛鳥井雅敦(「飛鳥井右兵衛督」)、31才で病没。〔『兼見卿記』一〕 8月 6日 松平家忠、遠江国浜松の「松平玄蕃」宿所に於いて振舞を受ける。〔『家忠日記』〕 8月 6日 松平家忠、遠江国浜松を出立し遠江国掛川の天龍寺まで移動。〔『家忠日記』〕 8月 7日 近衛信尹(「近衛殿若公」)、吉田兼見を訪問し暮れに帰京。〔『兼見卿記』一〕 8月 7日 吉田兼見、田口佐介を炭の件で丹波国の細川藤孝のもとへ派遣。〔『兼見卿記』一〕 8月 7日 松平家忠、遠江国牧野原城に到着し西郷家員(「西郷孫九郎」)と「番替」す。 また松平甚太郎家忠の家臣都築助大夫より振舞を受ける。〔『家忠日記』〕 8月 8日 松平家忠、松平甚太郎家忠の振舞を受ける。〔『家忠日記』〕 8月 8日 松平家忠、遠江国牧野原城の堀普請を開始。〔『家忠日記』〕 8月 9日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕 8月 9日 吉田兼見、吉田兼治(「少副」)の侍従任官を奏請して勅許を得る。〔『兼見卿記』一〕 8月 9日 松平家忠、牧野康成(「牧野新二郎」)より振舞を受ける。〔『家忠日記』」〕 8月 9日 松平家忠、遠江国牧野原城の堀普請に従事。〔『家忠日記』〕 8月10日 織田信長、南部季賢(「奥州津軽之南部宮内少輔」)を万見重元(「万見仙千代」)の安土屋敷に於いて饗応す。 〔『信長公記』〕 8月10日 蠣崎正広、南部季賢と共に近江国安土にて織田信長の饗応を受ける。〔『新羅之記録』上巻〕 8月10日 織田信長(「信長公」)、遠路より近江国安土へ鷹を持参した南部季賢(「宮内少」)へ「綱切貞宗」を下賜。 〔『新羅之記録』下巻〕 8月10日 織田信忠・羽柴秀吉ら、播磨国志方城を攻略。 8月10日 松平家忠、「牧野定番衆」を振舞う。〔『家忠日記』〕 8月10日 松平家忠、遠江国牧野原城の堀普請に従事。〔『家忠日記』〕 8月11日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し高倉永相(「藤黄門」)と参会。〔『兼見卿記』一〕 8月11日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問。近衛前久は普賢寺新造の邸宅を見分する。 吉田兼見、丹波国細川藤孝へ炭受領の人馬を派遣。〔『兼見卿記』一〕 8月11日 松平家忠、松平甚太郎家忠の小姓を振舞う。〔『家忠日記』〕 8月11日 松平家忠、遠江国牧野原城の堀普請に従事。〔『家忠日記』〕 8月12日 吉田兼見、丹波国細川藤孝より炭を受け取る。〔『兼見卿記』一〕 8月12日 松平家忠、遠江国牧野原城の堀普請に従事。〔『家忠日記』〕 8月13日 松平家忠、遠江国牧野原城の堀普請に従事。〔『家忠日記』〕 8月15日 松平家忠、遠江国牧野原城の堀普請に従事。〔『家忠日記』〕 8月16日 足利義昭(「権大納言」)、明讃を先例の如く薩摩国大願寺住寺職に任命。〔「旧記雑録後編」@‐995〕 8月16日 松平家忠、遠江国牧野原城の堀普請に従事。〔『家忠日記』〕 8月17日 織田信忠、美濃国岐阜へ帰還す。 8月17日 松平家忠、遠江国牧野原城の堀普請に従事。また「定番衆」を振舞う。〔『家忠日記』〕 8月18日 松平家忠、遠江国牧野原城の堀普請に従事。〔『家忠日記』〕 8月19日 徳川家康の駿河口への軍事行動命令により「三河衆」が遠江国浜松に到来。〔『家忠日記』〕 8月19日 松平家忠、遠江国牧野原城の堀普請に従事。〔『家忠日記』〕 8月20日 松平家忠、遠江国牧野原城の堀普請を完成させる。〔『家忠日記』〕 8月21日 徳川家康(「家康」)・徳川信康(「信康」)、武田属城の遠江国小山今城へ攻撃を仕掛ける。〔『家忠日記』〕 8月22日 筒井順慶(「筒井順慶」)、播磨国より丹波国を経由して大和国へ帰国す。〔『多聞院日記』三〕 8月22日 松平家忠、武田属城の駿河国田中城周辺で「苅田」を実行。〔『家忠日記』〕 8月22日 松平家忠をはじめとする「馬乗衆」、駿河国大谷へ「物見」に出る。〔『家忠日記』〕 8月22日 平岩親吉(「平岩七之助」)の「同心」、駿河国大谷への「物見」の際に武田軍との接触で負傷する。〔『家忠日記』〕 8月23日 松平家忠、人足・「籠」を徳川家康・徳川信康陣所に送付。〔『家忠日記』〕 8月23日 松平家忠、負傷した平岩親吉(「平岩七之助」)の「同心」を遠江国掛川城へ送還す。〔『家忠日記』〕 8月24日 筒井順慶(「筒順」)、近江国安土へ赴く。〔『多聞院日記』三〕 8月24日 松平家忠、人足・「籠」を徳川家康・徳川信康陣所へ送付。〔『家忠日記』〕 8月24日 松平家忠、「はたもと」より「人留」の通達を受ける。〔『家忠日記』〕 8月25日 松平家忠、人足を徳川家康・徳川信康陣所へ送付。〔『家忠日記』〕 8月25日 松平家忠、小者1名を「生涯」させる。〔『家忠日記』〕 8月25日 松平家忠、遠江国牧野原城「番替」の指示を受ける。〔『家忠日記』〕 8月26日 松平家忠、武田属城の駿河国田中城周辺へ軍勢を派遣し「苅田」を実行。〔『家忠日記』〕 8月28日 武田軍「馬乗」部隊7・8騎、この未明に遠江国牧野原城に到来す。〔『家忠日記』〕 8月29日 松平家忠、徳川家康(「家康」)より「苅田兵粮」200俵を賜わる。〔『家忠日記』〕 8月 吉日 三好康長(「三好山城康慶」)、「禁裏様御倉」立入宗継(「立入左京進」)へ河内国牧郷の一部を寄進。 〔「立入宗継文書」‐18〕 9月 9月 1日 松平家忠、徳川信康陣所へ兵粮を送付。〔『家忠日記』〕 9月 2日 松平家忠、不調になった徳川信康(「信康」)の馬を受ける。〔『家忠日記』〕 9月 4日 徳川家康(「家康」)、西駿河より遠江国牧野原城へ帰陣。〔『家忠日記』〕 9月 4日 松平家忠、遠江国牧野原城の定番を二連木衆の戸田康長と交替す。〔『家忠日記』〕 9月 4日 松平家忠、遠江国牧野原市場の普請に従事。〔『家忠日記』〕 9月 5日 松平家忠、遠江国牧野原市場の普請に従事。〔『家忠日記』〕 9月 5日 松平家忠、徳川家康(「家康」)の「御使」鵜殿善六より「岡崎在郷無用」との通達を受ける。〔『家忠日記』〕 9月 6日 織田信長、黒田孝高(「小寺官兵衛尉」:小寺孝高)へ備前国方面への進撃と、羽柴秀吉(「羽柴筑前守」・「筑前守」)の 指示に従って軍事行動および人質の差配すべきことを命令。〔「黒田文書」五‐七〕 9月 6日 徳川家康(「家康」)・徳川信康(「信康」)、駿河国陣より帰陣す。 三河国衆は遠江国牧野原市場の普請に従事、「牧野衆」は武田属城の遠江国小山今城へ攻撃を仕掛ける。〔『家忠日記』〕 9月 7日 織田信長、池田恒興(「池田勝三郎」)へ本田小太郎「跡職」は「由緒」によって池田輝政(「古新」)への「譲与」諒承・ 安堵す。〔「池田文書」〕 9月 7日 吉田兼見、明智光秀(「惟日」)を近江国坂本に訪問、連歌会が開催される。吉田兼見、間もなく帰宅。〔『兼見卿記』一〕 9月 7日 松平家忠、遠江国牧野市場の普請を完成させる。また三河国岡崎城に向けて移動し遠江国掛川城に到着。〔『家忠日記』〕 9月 8日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問。その後、三淵藤英(「三淵大和守」)後室が在京しているというので訪問。 〔『兼見卿記』一〕 9月 8日 松平家忠、遠江国掛川城より「しらすか」城まで帰陣す。また遠江国浜松城の徳川家康に出仕す。〔『家忠日記』〕 9月 9日 松平家忠、「しらすか」城より三河国岡崎まで帰陣す。〔『家忠日記』〕 9月10日 松平家忠、鵜殿八郎三郎の三河国岡崎宿所にて振舞を受ける。〔『家忠日記』〕 9月10日 徳川信康(「信康」)、三河国田原にて「鹿かり」を行う。〔『家忠日記』〕 9月11日 足利義昭、自身の帰洛を毛利輝元が後援している旨、毛利氏の妨害をしている大友氏に軍勢を差し向けることを通知し、 島津義久へ豊後表への乱入を賞す。詳細は毛利輝元・小早川隆景・吉川元春に伝達させる。〔「旧記雑録後編」@‐1005〕 9月11日 吉田兼見、近江国坂本の明智光秀(「惟日」)を訪問、面会。明智光秀は吉田兼見所持の茶碗を所望、吉田兼見は了承。 吉田兼見、即時上洛し茶碗を明智光秀のもとへ贈る。入夜、明智光秀書状を携えた使者の礒谷小四郎が到来。礒谷小四郎は直接 丹波国の細川藤孝のもとへ下向するするというので明後日に返事をする旨を伝えて帰す。〔『兼見卿記』一〕 9月11日 筒井順慶(「筒順」)、大和国春日大社へ社参す。〔『多聞院日記』三〕 9月11日 松平家忠、三河国岡崎に於いて「祈祷」す。〔『家忠日記』〕 9月12日 細川藤孝(「長兵」)、吉田兼見を訪問。〔『兼見卿記』一〕 9月12日 徳川家康(「家康」)、「御祝言御ゆはい」のために遠江国浜松より三河国岡崎城へ到来す。〔『家忠日記』〕 9月12日 松平由重(「松太郎左衛門」)、三河国岡崎宿所に於いて徳川家康らを振舞う。〔『家忠日記』〕 9月13日 徳川家康(「家康」)、「御屋敷」を訪問す。〔『家忠日記』〕 9月13日 徳川家康、松平景忠(「松平太郎左衛門」)の三河国岡崎宿所に於いて松平家忠らを振舞う。〔『家忠日記』〕 9月14日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し将碁をする。〔『兼見卿記』一〕 9月14日 徳川家康(「家康」)、三河国岡崎より遠江国浜松城へ帰還す。〔『家忠日記』〕 9月15日 松平家忠、三河国深溝城へ帰還。〔『家忠日記』〕 9月18日 松平家忠、三河国深溝にて「九月尽之連歌」を詠む。〔『家忠日記』〕 9月19日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕 9月20日 松平家忠、「岡崎越事」の通達を受けて三河国吉田の酒井忠次(「酒井左衛門尉」)へ使者を派遣。〔『家忠日記』〕 9月21日 松平家忠、三河国深溝より三河国岡崎へ赴く。〔『家忠日記』〕 9月22日 柴田勝家(「勝家」)、能登国の長好連(「長九郎左衛門尉」)へ能登国穴水城の攻略を賞し、その軍功については深尾入道 より織田信長「上聞」に達したこと、本来の取次役である堀秀政(「堀久太」)が「御使」として別任務を遂行しているため 下石頼重(「下石彦右衛門尉」)が馳走することになったこと、この年は海路状況が好転しないので、来春早々には織田信長が 「御行」(出陣)と柴田勝家自身の従軍予定を通達。また長好連からの報告に対して織田信長「御諚」は疎意の無いこと通知。 〔「長家文書」〕 9月22日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し、明日織田信長(「右府」)が上洛する旨を知る。〔『兼見卿記』一〕 9月22日 松平家忠、三河国岡崎宿所に於いて鵜殿八郎三郎・松平景忠(「松平太郎左衛門」)の来訪を受けて「点取之俳諧」を催す。 〔『家忠日記』〕 9月22日 松平家忠、戌刻に三河国吉田の酒井忠次(「左衛門尉」)より「岡崎在郷之儀無用之由」という徳川家康(「家康」)の命令 伝達を受ける。〔『家忠日記』〕 9月23日 吉田兼見、吉田兼治(「侍従」)を同行し織田信長(「右府」)上洛というので山科まで出迎えるが、暮れに及ぶまで 織田信長の姿は見えず出迎えの人々は帰宅。〔『兼見卿記』一〕 9月23日 鵜殿八郎三郎・松平景忠(「松平太郎左衛門」)・松平家忠、徳川家康(「家康」)からの命令である三河国岡崎「在郷」の 件で石川数正(「石川伯耆」)・平岩親吉(「平岩七之助」)へ使者を派遣し問い合わせたところ、早々に各在所へ帰還する ようにとの通達を受ける。〔『家忠日記』〕 9月24日 吉田兼見、早天に織田信長上洛というので吉田兼治(「侍従」)を同行し出向く。織田信長は辰刻に上洛し、吉田兼見・ 吉田浄慶(「盛方院」)・舟橋国賢(「清少納言」)らが山科六地蔵において出迎える。〔『兼見卿記』一〕 9月24日 松平家忠、三河国岡崎宿所にて「さいく人」に「母衣のしん」を作らせる。〔『家忠日記』〕 9月24日 松平家忠、三河国岡崎宿所にて松平景忠(「松平太郎左衛門」)の来訪を受けて「拍子」を行う。〔『家忠日記』〕 9月25日 織田信長、山城国賀茂社へ和泉国方面(「南方」)への「発足」についての見舞を謝す。 詳細は丹羽長秀(「惟住」)に伝達させる。〔「賀茂別雷神社文書」三、「三浦周行氏所蔵文書」二〕 9月25日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し織田信長(「右府」)への「御礼之事」について質問したところ、明日織田信長は 南方(和泉国堺)下向のため諸家御礼はすべからずという返答であった。その後、吉田兼見は近衛前久(「近衛殿」)を訪問。 〔『兼見卿記』一〕 9月25日 松平家忠、石川数正(「石川伯耆」)・平岩親吉(「平岩七助」)より三河国岡崎から在所への帰還指示を受ける。 〔『家忠日記』〕 9月26日 吉田兼見、織田信長(「右府」)の南方(和泉国堺)下向は明日に決定された由を知る。〔『兼見卿記』一〕 9月26日 松平家忠、三河国岡崎宿所より「女とも」を三河国深溝へ引っ越しさせる。〔『家忠日記』〕 9月26日 松平家忠、三河国岡崎宿所にて松平景忠(「松平太郎左衛門」)の来訪を受けて「誹諧」を行う。〔『家忠日記』〕 9月27日 吉田兼見、吉田兼治(「侍従」)を同行し織田信長(「右府」)の南方(和泉国堺)下向にあたり早天より門外にて見送る。 この度の出陣には近衛前久(「近衛殿」)も従軍。この日は石清水八幡宮に滞留という。〔『兼見卿記』一〕 9月27日 松平家忠、三河国岡崎より三河国深溝城へ帰還。「人足あらため」の到来をうける。〔『家忠日記』〕 9月28日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)より洪水破損の山中路次普請を命令される。〔『兼見卿記』一〕 9月30日 織田信長、和泉国堺に於いて九鬼嘉隆率いる鉄船を視察。 9月30日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)へ路次普請の免除を申請するも許可されず。〔『兼見卿記』一〕 9月30日 多聞院英俊、この一両日に織田信長(「信長」)が和泉国堺に「船見物」のために出向くことを知る。〔『多聞院日記』三〕 9月30日 多聞院英俊、紀伊国根来寺周辺の700家ほどが焼失したことを知る。〔『多聞院日記』三〕 9月30日 松平家忠、酒井忠次(「酒井左衛門尉」)・平岩親吉(「平岩七之助」)より茶屋清延(「茶屋四郎次郎」)への「合力」を 通達される。〔『家忠日記』〕 9月 末〜 織田信長、謀反した摂津国の荒木村重(「荒木信濃守」「荒木摂津守」)を説得するため福富秀勝(「福すみ平左衛門」)・ 佐久間信盛(「佐久間右衛門尉」)・堀秀政(「堀久太郎」)・矢部家定(「矢部善七郎」)を派遣し慰留を試みる。 〔『立入左京亮入道隆佐記』〕 10月 10月 1日 織田信長(「右府」)、入夜に上洛。〔『兼見卿記』一〕 10月 2日 吉田兼見、山中路次普請のために人足を供出。〔『兼見卿記』一〕 10月 2日 吉田兼見、織田信長がこの度の南方(和泉国堺)出陣での留守中に宝鏡院が来訪し安土女房衆が遊宴した件を激怒し (「以外之逆鱗」)、重傳(同朋衆)・女房「さい」を処刑した旨を知る。〔『兼見卿記』一〕 10月 3日 織田信長(「信長」)、畿内より「スマウノ名仁」を召集し「禁裏」に於いて「スマウ」を興行す。〔『多聞院日記』三〕 10月 3日 吉田兼見、山中路次普請のために人足を供出。村井清三、吉田兼見を訪問し織田信長二条屋敷に植える杉木を徴発する命令を 伝達。後に吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問して杉木徴発の件を問い合わせたところ、吉田郷へは命令が下されていない 旨を知る。またこの日、山中路次普請が完成。〔『兼見卿記』一〕 10月 3日 多聞院英俊、この日に織田信長(「信長」)が「禁裏」に於いて「スマウ」を興行したことを知る。〔『多聞院日記』三〕 10月 4日 斎藤新五郎、出撃中の越中国に於いて河田長親(「河田豊前」)・椎名小四郎の軍勢と一揆軍の3000余を討ち取る。 〔『備藩国臣古証文』四、『黄薇古簡集』六〕 10月 5日 吉田兼見、織田信長(「右府」)の二条屋敷で諸家と共に相撲を見物。〔『兼見卿記』一〕 10月 5日 蠣崎季広(「蠣崎入道阿陀」)、安東愛季側近へ今度の津軽「御出張」の無事帰陣を祝す。また織田信長(「上様」)より 「御切紙」を預かり、蠣崎正広が「右衛門大夫」となった旨を通知。〔「秋田藩採集文書」、「奥村立甫家蔵文書」〕 10月 6日 吉田兼見、吉田兼治(「侍従」)を同行し織田信長(「右府」)が今道を経由して安土へ下向するので路次にて見送る。 〔『兼見卿記』一〕 10月 6日 松平家忠、三河国深溝「在郷御礼」のため「勘解由左衛門」を遠江国浜松城の徳川家康に派遣。〔『家忠日記』〕 10月 7日 筒井順慶、大和国十市城まで出陣。〔『多聞院日記』三〕 10月 8日 吉田兼見、山中路次普請の不出来という理由で村井貞勝(「村長」)の招喚を受け、織田信長(「右府」)より今度の 「道作之奉行」は鳥見衆に命令されたことを知らされる。 また吉田兼見は村井貞勝(「村長」)へ吉田郷は普請免許の織田信長「御朱印」がある旨を陳情。〔『兼見卿記』一〕 10月 8日 細川藤孝(「長兵」)、吉田兼見を訪問し、来る10日に丹波国勝龍寺城において囲碁興行を開催するため招待する。 〔『兼見卿記』一〕 10月 9日 吉田兼見、山中路次普請のため人足を派遣。〔『兼見卿記』一〕 10月 9日 多聞院英俊、筒井順慶(「筒井」)が大和国吉野郷に放火したことを知る。〔『多聞院日記』三〕 10月10日 吉田兼見、細川藤孝(「長兵」)との約束により丹波国勝龍寺城を訪問、囲碁・乱舞を楽しむ。〔『兼見卿記』一〕 10月11日 織田信長(「信長」)、斎藤新五郎へその書状と鈴木越後守の口上を受けて、河田長親(「河田」:上杉方部将)が越中国 太田方面に出撃したのは好機であるので撃滅を命令。毛利秀頼(「毛利河内守」)・坂井越中守・森長可(「森勝蔵」)以下を 派遣するので軍議を指示。また斎藤信利(「斎藤次郎右衛門尉」)が特別に忠節を尽くしたいということを諒承し、 織田信長「朱印」を発給する旨を通達。また万事は神保長住(「神保越中守」)と相談することを指示。 詳細は鈴木越後守に伝達させる。〔「斎藤清太郎氏所蔵文書」、『黄薇古簡集』六、『備藩国臣古証文』四〕 10月11日 織田信長(「信長」)、越中国進撃中の斎藤新五郎へ去る10月4日に河田長親(「河田豊前」)・椎名小四郎の軍勢を撃破 し3000余人を討ち取ったことを賞し、「誠天下之覚」は然るべきことであると評す。 〔『備藩国臣古証文』四、『黄薇古簡集』六〕 10月11日 吉田兼見、細川藤孝(「長兵」)と共に沼田弥七郎入道のもとで朝食をとる。〔『兼見卿記』一〕 10月11日 佐久間信盛、南方(和泉国堺)出陣の途中に丹波国勝龍寺城へ立ち寄る。〔『兼見卿記』一〕 10月11日 吉田兼見、丹波国勝龍寺城より帰洛。〔『兼見卿記』一〕 10月12日 織田信忠、越中国進撃中の斎藤新五郎へ戦功を賞す。「越度」無き様に命令し、援軍として毛利秀頼(「毛利河内守」)・ 森長可(「森勝蔵」)・坂井越中守・佐藤六左衛門尉を派遣する旨を通達。〔『黄薇古簡集』六〕 10月12日 吉田兼見、朝に村井貞勝を訪問するも湯治にて留守であった。〔『兼見卿記』〕 10月12日 吉田兼見、村井貞成のもとを訪問し面会。 その後、吉田兼見は近衛前久(「近衛殿」)を訪問し近衛信尹(「御方御所」)と対面。〔『兼見卿記』〕 10月12日 九鬼嘉隆、木津川に於いて敵軍を撃破す。 10月12日 松平家忠、三河国深溝城にて遠江国浜松の酒井忠次(「酒井左衛門尉」)・「如雪」より三河国作岡の河合勘解由左衛門が 行った「借銭公事」の「目安」を提出および早々に「裁許」するよう通達を受ける。〔『家忠日記』〕 10月13日 織田信長(「信長」)、九鬼嘉隆(「九鬼右馬允」)が木津川に於いて敵を討ち取ったことと海老を贈呈したことを賞す。 詳細は堀秀政(「堀久太郎」)より伝達させる。〔「大阪城天守閣所蔵文書」六〕 10月13日 近衛信尹(「近衛殿御方御所」)、吉田兼見を訪問し暮れに及び還御。〔『兼見卿記』一〕 10月14日 松平家忠、遠江国浜松へ「河合裁許」の件で河合勘解由左衛門(「勘解由」)を派遣。〔『家忠日記』〕 10月15日 大津長昌(「大津伝十郎長昌」:織田信長側近)、遠藤基信(「遠藤山城守」:伊達輝宗重臣)に上杉謙信(「謙信」)の 「遠行」以来の越後国方面への軍事行動を慰労し、織田軍も越中国方面へ進撃し「一国平均」に帰した旨を通知。また越後国に 即時「退治」を加えることを促し、詳細は小笠原貞慶(「小笠原殿」)より伝達がある旨を通知。 〔「斎藤報恩会博物館所蔵文書」一〕 10月15日 羽柴秀吉、茶会を開催して津田宗及を招く。〔「宗及他会記」〕 10月15日 松平家忠、三河国深溝にて「鷹のしやうそく」調達を命令す。〔『家忠日記』〕 10月16日 松平家忠、三河国深溝にて「蔵」を増築させる。〔『家忠日記』〕 10月17日 足利義昭(「権大納言」)、明讃を先例の如く薩摩国称興寺住持職に任命。〔「旧記雑録後編」@‐1008〕 10月17日 本願寺顕如(「光佐」)、荒木村重(「荒木摂津守」)・荒木新五郎父子へ全3ヶ条の「誓詞」を認め、同盟を要求す。 〔京都大学国史研究室所蔵『古文書集』〕 10月17日 松平家忠、酒井忠次(「酒井左衛門尉」)より近日中に織田信長(「御家門様」)が「西条」に「御成」する予定であると いうので番匠を雇用する旨の通達を受ける。〔『家忠日記』〕 10月18日 吉田兼見、北条氏政(「相州北条左京大夫」)へ音信を送る。〔『兼見卿記』一〕 10月18日 松平家忠、三河国深溝の鷹野へ出る。〔『家忠日記』〕 10月19日 松平家忠、三河国深溝にて酒井忠次(「酒井左衛門尉」)より武田勝頼(「武田四郎」)の遠江国侵攻の通達を受ける。 〔『家忠日記』〕 10月19日 松平家忠、三河国深溝にて「点取誹諧」を行う。〔『家忠日記』〕 10月20日 松平家忠、三河国深溝にて「点取ノ誹諧」を行う。〔『家忠日記』〕 10月22日 松平家忠、本多重次(「本田作左衛門」)より送られた鑓35本を受け取る。〔『家忠日記』〕 10月22日 松平家忠、三河国深溝の鷹野へ出る。〔『家忠日記』〕 10月22日 河合勘解由左衛門(「勘解由左衛門」)、「河合公事」の件で出頭していた遠江国浜松より三河国深溝へ帰還。 「河合公事如前々」という徳川家康「御内証」を得たという。〔『家忠日記』〕 10月23日 松平家忠、三河国深溝の鷹野へ出る。〔『家忠日記』〕 10月24日 万見重元(「まん仙千世重元」)・九藤深宮(「九藤肥前守深宮」)・松井友閑(「宮内卿法印友閑」)、大和国法隆寺東寺 惣中へ東寺・西寺が「段銭」を半分ずつ上納すべきことを通達。〔「法隆寺文書」五〕 10月24日 松平家忠、酉刻に酒井忠次(「酒井左衛門尉」)より武田軍(「甲州衆」)の侵攻にあたり「陣触」を受ける。 明日10月25日の出陣との通達であった。〔『家忠日記』〕 10月25日 織田信長(「信長」)、細川藤孝(「長岡兵部大輔」)へ摂「津国」の「雑説」(荒木村重の謀反)に関する様々な報告に ついて、松井友閑(「宮内卿法印」)・万見重元(「万見仙千世」)を派遣したことを通達。 また事情に精通した明智光秀(「惟任日向守」)に相談し、「外聞」然るべき様に気遣いを命令。 詳細は松井康之(「松井」)より伝達させる。〔「細川家文書」二〕 10月25日 松平家忠、三河国深溝を発し遠江国浜松城に到着。遠江国浜松城にて「松平玄蕃」の振舞を受ける。〔『家忠日記』〕 10月26日 松平家忠、遠江国浜松宿所にて「如雪」および遠江国浜松城「小性衆」の来訪を受ける。〔『家忠日記』〕 10月27日 徳川信康(「信康」)、三河国岡崎より遠江国浜松城へ到来す。〔『家忠日記』〕 10月28日 織田信長、越中国進撃中の斎藤新五郎へ以前の越中国太田方面での戦功を賞す。また斎藤新五郎の越中国に於ける軍事行動を 「誠心地能」と評し、「天下之覚」は悦ばしいことであるからと今後の軍事行動を激励し、援軍(「加勢之族」)と相談し急ぎ 帰陣することを命令。また神保長住(「神保越中守」)との相談も命令。〔『備藩国臣古証文』四、『黄薇古簡集』六〕 10月28日 多聞院英俊、摂津国の荒木村重(「荒木」)が織田信長(「信長」)に「謀叛」したという「雑説」が流布していること、 織田信長(「信長」)は誓紙を遣わしたことを知る。〔『多聞院日記』三〕 10月28日 筒井順慶(「筒井順慶」)、大和国吉野郷を悉く放火し、下市城に守備兵を配置して帰陣す。〔『多聞院日記』三〕 10月28日 多聞院英俊、この日に筒井順慶(「筒井順慶」)が大和国吉野郷より帰陣したことを知る。〔『多聞院日記』三〕 10月28日 松平家忠、遠江国浜松城に到来した徳川信康(「信康」)に「出仕」す。その後に酒井忠次(「酒井左衛門尉」)を礼問す。 〔『家忠日記』〕 10月28日 松平家忠、遠江国浜松に於いて遠江国牧野原城から武田軍(「敵」)が宇津谷峠を越えたという注進が到来したことを知る。 〔『家忠日記』〕 10月28日 遠江国浜松地方にて申刻に50年以来の大地震(「大なへゆり」)が発生、半時ほど震動が続いた。 また戌刻にも「地震」が発生。〔『家忠日記』〕 10月29日 多聞院英俊、摂津国の荒木村重(「荒木」)謀叛が落着したという風聞に接す。〔『多聞院日記』三〕 10月29日 大和国奈良に於いて日中過ぎに「大地震」があった。〔『多聞院日記』三〕 10月29日 遠江国浜松地方にてこの暁に2度震動が感じられる。〔『家忠日記』〕 10月29日 松平家忠、遠江国浜松に於いて遠江国牧野原城から武田軍(「敵」)の大井川渡河の注進が到来したことを知る。〔『家忠日記』〕 10月29日 徳川家康、遠江国牧野城からの注進を受けて三河国衆へ遠江国遠江国見附砦までの出陣を命令。〔『家忠日記』〕 10月29日 松平家忠ら三河国衆、武田軍(「敵」)の大井川渡河に対し徳川家康の命令を受けて遠江国遠江国見附砦へ出陣す。〔『家忠日記』〕 11月 11月 1日 松平家忠、遠江国遠江国見附砦に着陣。〔『家忠日記』〕 11月 1日 遠江国にてこの申刻に「地震」発生。〔『家忠日記』〕 11月 2日 武田軍(「敵」)、遠江国小山・相良方面へ移動する。〔『家忠日記』〕 11月 2日 徳川家康(「家康」)・徳川信康(「信康」)、遠江国馬伏塚城に着陣。諸勢は遠江国柴原へ布陣す。〔『家忠日記』〕 11月 2日 遠江国にてこの申刻に「なへゆる」が発生。〔『家忠日記』〕 11月 3日 織田信長、上洛す。 11月 3日 武田勝頼(「敵勝頼」)、遠江国横須賀城付近まで進撃。〔『家忠日記』 11月 3日 徳川家康(「家康」)、全軍を率いて遠江国横須賀城の城際に布陣。〔『家忠日記』〕 11月 3日 武田勝頼、徳川軍の出撃に対し遠江国横須賀城付近より遠江国高天神城へ退却す。〔『家忠日記』〕 11月 3日 徳川軍(「未方」)、武田勝頼の遠江国高天神城退却により遠江国横須賀城から本陣に退却。〔『家忠日記』〕 11月 3日 遠江国にてこの酉刻に「なへゆる」発生。〔『家忠日記』〕 11月 4日 織田信長(「信長」)、京都「二条之御殿」より村井貞勝(「村井長門守」)を以て正親町天皇(「禁裏様」)へ 本願寺顕如(「大坂本願寺」)に「勅定」を以て和議締結を通達するよう上奏させる。〔『立入左京亮入道隆佐記』〕 11月 4日 正親町天皇、広橋兼勝(「右中弁兼勝」)に毛利輝元(「毛利右馬頭」)へ織田信長(「前右府」)との「相剋」は 「都鄙錯乱之基」であるので「和談」命令と思慮を廻らして忠功を為すべきことを通達させる。 また本願寺顕如(「本願寺門跡」)にも同様の旨を通達するため庭田重保(「源大納言」)・勧修寺晴豊(「勧修寺中納言」) が下向することを通達させる。〔「立入宗継文書」〕 11月 4日 武田軍(「敵」)の「物見」部隊、遠江国横須賀城に進撃。〔『家忠日記』〕 11月 4日 徳川軍、遠江国横須賀城に進撃してきた武田「物見」部隊を迎撃するため出撃。〔『家忠日記』〕 11月 4日 徳川家康(「家康」)、遠江国「小笠」砦に移る。〔『家忠日記』〕 11月 4日 遠江国にてこの夜に「なへゆる」発生。〔『家忠日記』〕 11月 5日 多聞院英俊、荒木村重(「摂州」)との調略が破綻したので織田信長(「信長」)が出京した旨を知り憂う。 〔『多聞院日記』三〕 11月 5日 徳川家康(「家康」)、遠江国小笠砦にて出陣諸将に振舞う。〔『家忠日記』〕 11月 5日 遠江国にて「ゆる」発生。〔『家忠日記』〕 11月 6日 毛利水軍(「諸警固」)、石山本願寺救援のため摂津国木津浦に到着。〔「毛利家文書」B‐832〕 11月 6日 織田信長(「信長」)、滝川一益(「滝川左近」)へ見舞として矢部家定(「矢部善七郎」)・明智光秀(「惟任日向守」) を派遣し摂津国有岡城の情報収集を指示。また織田信忠(「城介」)へも同様の指示を下したことを通達。 〔「森田博三氏所蔵文書」下〕 11月 6日 九鬼嘉隆、大船6艘を率い大阪湾に於いて毛利水軍600余艘を撃破。〔『信長公記』〕 11月 6日 徳川信康(「信康」)、出陣中の遠江国小笠砦付近にて鷹狩を行う。〔『家忠日記』〕 11月 7日 松平家忠、酒井忠次(「左衛門尉」)より徳川家康(「家康」)の雨が止み次第「ちやくとう」するようにとの命令伝達を 受ける。〔『家忠日記』〕 11月 7日 松平家忠、尾張国山崎の「水野藤次殿」からの飛脚により摂津国の荒木村重(「荒木信濃」)が織田信長(「信長」)の 「御敵」となった旨を知る。また音信として鱈2本を受けたので、平岩親吉(「平岩七助」)へ贈った。〔『家忠日記』〕 11月 8日 下間頼廉(「下刑法」)、宇喜多直家(「宇泉」)へ去11月6日に毛利水軍が石山本願寺救援のために摂津国木津浦へ到着 したこと、荒木村重(「荒摂」)より「証人」と「血判之誓詞」が提出されたこと、摂津国中島の付城の破却が決定したこと、 河原林越後守(「瓦林越後」)も「人質実子」と「神文」を提出してきたこと、荒木村重(「荒摂」)と毛利氏被官の 乃美宗勝(「乃兵」)・児玉就英(「児宮」)との「往来」があることを通知。〔「毛利家文書」B‐832〕 11月 8日 西郷家員(「西郷孫九郎」)、松平家忠と共に来11月10日より遠江国「風吹」砦の3日番が決定。 この番は「松平督足助衆」との交替であった。〔『家忠日記』〕 11月 8日 松平家忠、遠江国陣所にて「安倍三助殿」・鵜殿善六の来訪を受ける。〔『家忠日記』〕 11月 9日 織田信長、京都から摂津国へ向けて出陣。山城国山崎に布陣。 11月 9日 松平家忠、酒井忠次(「酒井左衛門尉」)の遠江国陣所を訪問。〔『家忠日記』〕 11月10日 織田信長、滝川一益・丹羽長秀らを摂津国茨木へ、織田信忠・北畠信意(織田信雄)・不破光治・前田利家・金森長近らを 摂津国高槻へ派遣。また宣教師オルガンチノに佐久間信盛・羽柴秀吉・松井友閑らを同行させ高山重友(摂津国高槻城主)を 勧誘させる。 11月10日 織田信長、紀伊国高野山金剛峰寺老若衆中へ上洛に際しての使僧派遣と銀子50両の贈呈を謝し、金剛峰寺と大和国吉野郷内 に於いて「大坂門下」(石山本願寺門徒)が「往還」しているというので、急ぎ「成敗」すべきことを通達。また来春の河内国 方面への「出馬」の際の軍事行動を命令。〔京都大学国史研究室所蔵『古文書集』三、『勢州社家文書』下〕 11月10日 松平家忠、遠江国「風吹」砦の番に着任。「松平玄蕃」の陣所を訪問し振舞をうける。〔『家忠日記』〕 11月11日 織田信長、佐々長穐(「佐々権左衛門尉」)へ能登国の長好連(「孝恩寺」)が越中国森山へ退去したとの報告を受け、来春 は援軍を派遣する予定であることを通達し、また長連竜より所持している「香西長光」の進上する意志はあるが道中が心配だと いうので佐々長穐が近江国安土城に向かう際に持参するよう命令。詳細は堀秀政(「久太郎」)より通達させる。 〔「長家文書」、『長家文献集』〕 11月11日 堀秀政(「堀久太郎秀政」)、能登国の長連竜(「長孝恩寺」)へ使札と腰物「元重」の贈呈を謝す。また能登国から無事に 越中国森山へ退去したことを喜び、織田信長(「上意」)も退去を祝して織田信長「御朱印」が発給されたこと、長連竜の身上 馳走を指示した織田信長「御朱印」が神保長住(「神保越中」)・神保氏張(「神保安芸」)・寺崎盛永(「寺崎」)へ送付 されること、神保氏張(「神安」)と佐々長穐(「佐権左」)へ送付されるの織田信長「御書」は「実書」(原本)であり、 神保長住(「神越」)と寺崎盛永(「寺入」)へは写しが送付されること、来春は必ず織田信長が「御出勢」するので軍議を 入念にするべきこと、荒木村重(「荒木」)が織田信長に対して「不慮ニ相構敵心」えたので織田信長は「御成敗」のために 「御動座」され摂津国中の諸城を放火したので荒木村重の摂津国有岡城の「落居」は時間の問題であること、「香西長光」の 献上を喜ぶことを通達。〔「長家文書」、『長家文献集』〕 11月11日 松平家忠、遠江国「風吹」砦にて徳川家康(「家康」)からの「ちやくとうつけ」を受ける。 「侍」85人・中間126人・「鉄放」15「ハリ」・弓6張・鑓35本、「鑓使」3人であった。〔『家忠日記』〕 11月12日 島津義久、大友義鎮(宗麟)を日向国耳川に於いて撃破。 11月12日 武田勝頼(「敵」)、遠江国高天神城より甲斐国へ退却。〔『家忠日記』〕 11月12日 松平家忠、遠江国風吹砦内の本多康重(「本田彦二郎」)の陣所を訪れ「拍子」を行う。 その後、「松平玄蕃」と共に松平金左衛門の陣所にて振舞を受ける。〔『家忠日記』〕 11月13日 織田信長、安土より入京して羽柴秀吉へ荒木村重謀反に対する処置を命令。 11月13日 島津義久、島津義弘(「忠平」)へ大隅国岩釼以来の戦功および日向国高城の軍労を慰労。〔「島津家文書」A‐1138〕 11月13日 松平家忠、遠江国風吹砦にて「阿部善九郎」より遠江国「かけかわ」城への移陣通達を受ける。〔『家忠日記』〕 この頃 佐久間信栄、大和国庄内における大乱にあたり法隆寺太子廻に軍兵を派遣。〔「法隆寺文書」〕 11月14日 正親町天皇、織田信長の意を受けた村井貞勝の上奏により本願寺顕如へ和議締結の「勅使」として庭田重保(「源大納言」) 勧修寺晴豊(「勧修寺中納言」)を、そして禁裏御倉職の立入隆佐(「立入左京進入道」)を添えて下向させる。 〔『立入左京亮入道隆佐記』〕 11月14日 織田信長(「信長」)、尊朝法親王(「青蓮院殿」)へ摂津国陣中への見舞を謝し、「摂州一国平均」を申し付けて上洛する 旨を通知。〔「大賀文書」〕 11月14日 織田軍、荒木村重の籠城する摂津国有岡城に攻撃を開始。 11月14日 松平家忠、遠江国風吹砦より遠江国益田砦まで移動。 ここで遠江国牧野原城より武田軍(「敵」)が大井川を渡河したとの注進に接す。〔『家忠日記』〕 11月14日 小早川隆景(「左衛門佐隆景」)、粟屋元種(「粟蔵」)へ1000貫の催促、今度毛利氏に味方する荒木村重(「荒木」) への礼使派遣、荒木村重(「荒摂」)および荒木元清(「志摩守」)・河原林越後守への進物送付は「天下之致大忠」である ので談合の上で実施することを通知。〔「毛利家文書」B‐833〕 11月14日 小早川隆景(「隆景」)、粟屋元種(「粟蔵」)へ摂津国木津川に於いて毛利氏水軍が織田軍を撃破したこと、毛利陣営に 味方する荒木村重(「荒木摂津守」)・荒木元清(「同名志摩守」)・河原林越後守が人質を提出し摂津国大坂の端城を破却、 「血判之神文」を提出し「無二ニ対公儀可致忠儀之覚悟」を表明したこと、織田信長(「信長」)が京都を経由して摂津国へ 進撃する予定であることなどに触れ、毛利輝元の「御出張」を促す旨の案文を認める。〔「毛利家文書」B‐834〕 11月15日 織田信長、摂津国郡山に移陣す。 11月15日 徳川信康(「信康」)、遠江国掛川城にて三河衆に「たかのかん」を振る舞う。〔『家忠日記』〕 11月15日 松平家忠、遠江国掛川城にて遠江国牧野原城から昨日の武田軍(「敵」)の大井川渡河と川端の青島への布陣の注進に接す。 〔『家忠日記』〕 11月15日 小早川隆景(「隆景」)、粟屋元種(「粟蔵」)へ「弥無二ニ遂馳走」げている荒木村重(「荒木」)に「当家之御人体」の 速やかな派遣、また小早川隆景が布陣している笠岡にも「御親類衆并御奉行衆御一人宛」の派遣を要請する案文を認める。 〔「毛利家文書」B‐835〕 11月17日 織田信長、高山重友(摂津国高槻城主)の出仕を受ける。 11月17日 武田軍(「敵」)、遠江国島田まで「三備」編成にて進撃。〔『家忠日記』〕 11月18日 織田信長、摂津国総持寺に移陣す。 11月19日 武田軍(「敵」)、遠江国青島より遠江国田中まで退却す。〔『家忠日記』〕 11月20日 織田信長(「信長」)、細川藤孝(「長岡兵部大輔」)へ摂津国有岡城より脱出した連中が摂津国尼ヶ崎に於いて城内状況の 報告をなしたことを諒承し、監視を付けて対処することを指示す。〔「細川家文書」二〕 11月20日 毛利輝元(「輝元」)、湯浅将宗(「湯浅治部大輔」)へ荒木村重(「荒木摂津守」)との同盟成立を通知。 〔『萩藩閥閲録』〕 11月22日 羽柴秀吉(「羽柴筑前守秀吉」)、美作国の新免宗実(「新免弾正左衛門尉」)へ新免無二斎の派遣と美作国方面の状況報告 に対し、織田信長「御朱印」が発給され美作国吉野郡・佐用郡・八頭郡を安堵することになった旨を通達。〔「新免文書」〕 11月23日 織田信長、滝川一益(「滝川左近」)・羽柴秀吉(「羽柴藤吉郎」)・明智光秀(「惟任日向守」)へ「中国」方面の戦況 報告を諒承し、毛利氏への「勅使」下向は寒天の時分でもあり、「路次送」も不充分であるので延引することを「京都」に上申 することを命令。〔「立入文書」〕 11月24日 織田信長、摂津国刀根山へ進軍し中川清秀(摂津国茨木城主)を勧降させる。 11月24日 織田信長、中川清秀(「中川瀬兵」)を「帰参」させることに成功す。〔『立入左京亮入道隆佐記』〕 11月24日 庭田重保・勧修寺晴豊の「両勅使」に立入宗継(「宗継」)が随行し11月26日に安芸国へ下向する予定であったが、 中川清秀が織田信長に帰参したため織田側より安芸国への「勅使之下向延引」が上申された。〔「立入宗継文書」〕 11月24日 松平家忠ら「身類衆」、遠江国掛川城にて振舞を受ける。〔『家忠日記』〕 11月25日 武田勝頼、遠江国高天神城より甲斐国へ退却す。〔『家忠日記』〕 11月26日 織田信長、中川清秀(摂津国茨木城主)へ金子30枚、高山重友(摂津国高槻城主)へ金子20枚を下賜。 11月27日 織田信長、摂津国古池田の陣所に於いて中川清秀(摂津国茨木城主)の出仕を賞賜す。 11月28日 松平家忠、遠江国掛川城にて池野有助の来訪を受ける。〔『家忠日記』〕 11月29日 松平家忠、遠江国掛川城にて松平信一(「松平伊豆守」)の来訪を受けて振舞う。〔『家忠日記』〕 11月29日 遠江国にてこの申刻に「なへゆる」発生。〔『家忠日記』〕 11月30日 織田信長(「信長」)、細川藤孝(「長岡兵部大輔」)へ入念なる度々の注進を賞し、明智光秀(「惟任」)と相談する頃合 の指示を仰ぐよう通達。〔「細川家文書」二〕 11月 晦日 松平家忠ら、武田勝頼(「敵勝頼」)が去11月25日に遠江国高天神城より退却したという報により遠江国浜松城へ退却。 またこの時、松平家忠は徳川信康(「信康公」)が既に三河国に滞在していることを知る。〔『家忠日記』〕 11月 日 織田信長、山城国上牧郷へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「烏丸家文書」〕 11月 日 織田信長、摂津国塩川領へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「中山寺文書」〕 12月 12月 1日 松平家忠、遠江国掛川城より三河国白須賀砦に移動。〔『家忠日記』〕 12月 2日 徳川家康(「家康」)、三河国岡崎城へ到来す。〔『家忠日記』〕 12月 2日 松平家忠、三河国白須賀砦より三河国深溝城へ帰還。〔『家忠日記』〕 12月 3日 織田軍、摂津国大矢田城(荒木村重の属城)を陥落させる。 12月 3日 松平家忠、平岩親吉(「平岩七之助」)と接触す(記事不明瞭)。〔『家忠日記』〕 12月 4日 松平家忠、三河国深溝にて鷹野に出る。〔『家忠日記』〕 12月 5日 松平家忠、三河国深溝にて鷹野に出る。〔『家忠日記』〕 12月 6日 松平家忠「鉄放衆」20名、遠江国牧野原城より三河国深溝へ帰還。〔『家忠日記』〕 12月 7日 松平家忠、家中の宗右衛門を振舞う。〔『家忠日記』〕 12月 7日 松平家忠、伊勢国の村山掃部助より「をし」を受ける。〔『家忠日記』〕 12月 8日 織田信長、堀秀政らに摂津国有岡城を攻撃させる。 12月 8日 織田軍、摂津国有岡城を攻撃す。〔『家忠日記』〕 12月 8日 万見重元(「万見仙千代」)、摂津国有岡城攻撃の際に討死す。〔『多聞院日記』三〕 12月 8日 松平家忠、三河国永良の鷹野へ出る。〔『家忠日記』〕 12月 9日 摂津国有岡城に於いて戦闘があり、多数の死傷者が発生した。〔『多聞院日記』三〕 12月 9日 松平家忠、三河国深溝にて「さし物」を調達し「侍衆」へ配布す。〔『家忠日記』〕 12月10日 多聞院英俊、昨暁に摂津国有岡城に於いて戦闘があり、多数の死傷者が発生したこと、大和国衆には損害は無かったことを 知る。〔『多聞院日記』三〕 12月10日 松平家忠、三河国長池にて魚を捕るが風が強く収穫は無かった。三河国深溝へ戻る。〔『家忠日記』〕 12月12日 織田信長(「信長」)、細川藤孝(「長岡兵部大輔」)・細川忠興(「長岡与一郎」)へ特に「一書」を以て担当「番」 (摂津国有岡方面か)の守備を厳重にして敵地への「調儀」が成功するよう尽力すること、守備兵の交替する在所を慰問し、 留守以下を厳命し、「越度」の無い様に心懸けておれば苦戦することは無いこと、来春は早々に摂津国有岡へ出陣し尼崎・花熊 の陣地を構築して石山本願寺(「大坂」)を攻撃する意志を通達し、使者の口上にて詳細を伝達させる。〔「細川家文書」二〕 12月12日 多聞院英俊、去る12月9日の摂津国有岡城攻防にて2000人ほどが死傷した旨を知る。 また万見重元(「万見仙千代」)の討死を知る。〔『多聞院日記』三〕 12月12日 松平家忠、三河国深溝にて去12月8日に織田信長(「信長」)が荒木村重(「荒木信濃」)の摂津国有岡城を「御せめ」た こと、「水野藤次殿」が討死にしたことを知る。〔『家忠日記』〕 12月13日 大友義統、志村三郎へ日向国高城表における志村鑑信(志村三郎父)戦死を賞して跡目を安堵。〔「志村文書」‐2〕 12月15日 織田信長、紀伊国根来寺在陣衆中へ摂津国方面での長期在陣を慰労し、これを機に「領知方」加増を予定したが年内は余日が 無く、特に「関東」で問題(武田勝頼の遠江国小山への侵入)が発生したため緊急に近江国安土城へ帰還することを通達し、 来春早々に上洛するので、それまでの間の在陣を命令。詳細は柴田勝家(「柴田修理亮」)に伝達させる。 〔『紀伊続風土記』附録七 古文書七〕 12月13日 松平家忠、摂津国有岡城攻撃における水野藤次(「藤次殿」)の討死が「必定」であることを知る。〔『家忠日記』〕 12月17日 松平家忠、水野藤次(「水藤次殿」)の葬儀に弔問の使者を派遣。また三河国岡崎満生寺一世が葬礼を行ったことを知る。 〔『家忠日記』〕 12月19日 織田信長(「信長」)、大和国法隆寺東寺ゥ進へ在陣見舞を謝し、先年発給した織田信長「朱印」で安堵した内容を確認す。 〔「法隆寺文書」五〕 12月19日 松井友閑(「宮内卿法印友感」)、大和国法隆寺西寺惣中へ「反銭」・「反米」の件で数度にわたり指示を下したが承引も せず織田信長「御朱印」に背いたために、即時に織田信長(「上様」)の「御意」を受けたところ、「御墨印」を法隆寺東寺へ 発給するので、直ちに法隆寺東寺に返納する旨を命令。〔「法隆寺文書」五〕 12月20日 松平家忠、三河国深溝より三河国岡崎に赴き、満生寺一世のもとに滞在。〔『家忠日記』〕 12月21日 織田信長、摂津国より上洛。 12月21日 九藤深宮(「九藤肥前守深宮」)、「反銭」・「段米」の件で実禅房咄斎を派遣してきた大和国法隆寺東寺ゥ進中へ重ねて 織田信長「御墨印」が発給されたので、九藤深宮側より「税新右」を派遣することを通達。〔「法隆寺文書」五〕 12月21日 松平家忠、三河国岡崎の町を散策す。〔『家忠日記』〕 12月22日 松平家忠、三河国岡崎より三河国深溝へ帰る。〔『家忠日記』〕 12月26日 松平家忠、三河国深溝にて遠江国浜松の徳川家康(「家康」)より兵粮100「粮」下賜の通達を受ける。〔『家忠日記』〕 12月27日 松平家忠、三河国深溝にて「水野藤次殿」の「形見刀」1腰を受け取る。〔『家忠日記』〕 12月27日 松平家忠、三河国吉田の酒井忠次へ「借銭すまし」の使者を派遣。〔『家忠日記』〕 12月28日 松平家忠、「歳暮」のため三河国岡崎城へ出仕し、松平新二郎と松平信一(「松平伊豆守」)の娘との「祝言」を知る。 〔『家忠日記』〕 12月 晦日 松平家忠、松平新次郎の三河国岡崎宿所を訪問し食事を共にす。〔『家忠日記』〕 12月 日 織田信長、大和国吉野金峯山寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。 この年 前田利政、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕 池田勝正、没。〔『日本史人物生没年表』〕