All contents copyright (C)1999-2012 Household Industries / allrights reserved


フロントページに戻る
目次に戻る
項目別文献・論文一覧へ

        【 天下統一期年譜 1577年 】

天正 5(1577)年 

1月
  1月 1日 勧修寺晴右、逝去。〔『兼見卿記』一〕
  1月 1日 土御門有修、逝去。〔『兼見卿記』一〕
  1月 5日 織田信忠(「平信忠」)、正四位下に昇進(但し非参議)。〔『公卿補任』〕
  1月11日 多聞院英俊、筒井順慶(「順慶」)へ贈物を送付。〔『多聞院日記』二〕
  1月14日 織田信長(「内府信長」)、入洛。吉田兼見、眼疾で禁裏参賀を延引したため、織田信長入洛の御迎には吉田兼治を派遣。
       〔『兼見卿記』一〕
  1月14日 織田信長(「信長」)、上洛。〔『多聞院日記』二〕
  1月14日 多聞院英俊、織田信長(「信長」)の上洛を知る。〔『多聞院日記』二〕
  1月14日 紀伊国根来寺杉坊、京都二条妙覚寺の織田信長を訪問し、紀伊国方面の戦況を報告。
  1月15日 吉田兼見、眼疾のため禁裏参賀せず、吉田兼有を参勤させる。また諸家は織田信長(「内府」)へ祗候。〔『兼見卿記』一〕
  1月16日 大和国興福寺、二条晴良(「二条殿」)の大政所より贈物および書を受ける。〔『多聞院日記』二〕
  1月20日 織田信張、左兵衛佐に任官。
  1月21日 吉田兼見ら、織田信長(「内府」)へ祗候するが対面無く退出。〔『兼見卿記』一〕
  1月22日 公家衆・吉田兼見ら、織田信長(「内府」)へ祗候するも対面無く、献上物は松井友閑(「宮内卿法印」)に披露を依頼。
       〔『兼見卿記』一〕
  1月25日 織田信長(「内府」)、未明に近江国安土へ下向。〔『兼見卿記』一〕
  1月27日 多聞院英俊、十市遠長(「十常」)および松永久通(「松右」)を礼問す。〔『多聞院日記』二〕

2月
  2月 6日 多聞院英俊、大和国木津へ滞在している「上使衆」へ年頭の礼問の使者を派遣す。〔『多聞院日記』二〕
  2月 7日 筒井順慶(「筒井順慶」)、大和国東大寺二月堂へ「参籠」す。〔『多聞院日記』二〕
  2月 7日 多聞院英俊、筒井順慶(「筒井順慶」)が大和国東大寺二月堂に「参籠」したことを知り、「希代ノ事也」と評す。
       〔『多聞院日記』二〕
  2月 8日 織田信長(「内府信長」)、上洛。吉田兼見、吉田兼治を同行し山科において織田信長を出迎える。
       織田信長の今度の上洛は南方調略(一向衆徒対策)の目的だという。〔『兼見卿記』一〕
  2月10日 織田信長、細川藤孝(「長岡兵部大輔」)へ紀伊国根来寺僧兵中で織田側の杉坊の後援命令を下す。〔「細川家文書」二〕
  2月10日 吉田兼見、織田信長(「内府」)に祗候。〔『兼見卿記』一〕
  2月11日 織田信長、細川藤孝(「長岡兵部大輔」)へ紀伊国「根来寺」方面の件で、来たる2月13日に織田信長は淀川を渡河する
       予定であるが、細川藤孝は明日2月12日に出陣し和泉国まで進軍し、「一左右」次第に出撃することを命令。
       〔「細川家文書」二〕
  2月13日 織田信長(「内府信長」)、10万余の軍勢を率いて南方へ出陣。〔『兼見卿記』一〕
  2月13日 織田信長(「信長自身」)、織田信忠(「城介」)・織田信孝(「三七殿」)・織田信雄(「勢州御茶セン」)らの
       「分国人数」15万余騎を率いて河内国へ出陣。「一揆退治」のための軍事行動であった。〔『多聞院日記』二〕
  2月13日 織田信長、淀川を渡河し紀伊国鳥取郷若宮八幡宮に布陣。
  2月13日 多聞院英俊、織田信長(「信長自身」)が織田信忠(「城介」)・織田信孝(「三七殿」)・織田信雄(「勢州御茶セン」)
       らの「分国人数」15万余騎を率いて河内国へ出陣したこと、その目的は「一揆退治」のためであったことを知る。
       〔『多聞院日記』二〕
  2月14日 織田信長、雨天のために紀伊国鳥取郷若宮八幡宮に滞陣。
  2月15日 織田信長、紀伊国鳥取郷若宮八幡宮から河内国若江城へ到着。
  2月15日 織田信長、泉州表へ出陣し根来寺衆徒を味方に紀伊国雑賀衆を攻撃。〔『兼見卿記』一〕
  2月15日 多聞院英俊、織田軍(「信長ノ衆」)が和泉国へ侵入したことを知る。〔『多聞院日記』二〕
  2月16日 織田信長、和泉国香庄に布陣。
  2月18日 織田信長、和泉国佐野郷へ進軍。
  2月18日 多聞院英俊、織田信長(「信長」)・筒井順慶(「筒井」)のための祈祷に参加。〔『多聞院日記』二〕
  2月18日 根来寺快宥、紀伊国高野山金剛峰寺へ「雑賀為御成敗」にあたり織田信長(「信長」)が進撃して来るので根来寺は織田信長
       に「御味方」申して参陣することを通知し、金剛峰寺も織田信長(「上様」)側として出撃すべきことを勧誘。
       〔『刊行会本高野山文書』〕
  2月20日 織田信長、織田信張(「左兵衛佐」)にその「一左右」を待って織田軍(「諸卒」)が在陣しているので、織田側に味方した
       「三組」(宮郷・中川郷・南郷)と「根来衆」の動向を見極めて報告すべきこと、その報告によって加勢し、織田信長自身も
       進軍するので油断しないように備えることを命令。〔「紀伊太田文書」〕
  2月20日 多聞院英俊、筒井順慶のための祈祷に参加。〔『多聞院日記』二〕
  2月21日 細川藤孝(「長岡兵部大輔」)、和泉国長尾に於ける合戦で「先駈」として敵を撃破。〔「細川家文書」二〕
  2月22日 織田信長、和泉国志立に移動。
  2月23日 織田信長、細川藤孝(「長岡兵部大輔」)へ昨日2月21日に和泉国長尾に於ける合戦で小数にもかかわらず「先駈」として
       敵を撃破した戦功を賞す。〔「細川家文書」二〕
  2月23日 堀秀政(「堀久太郎秀政」)、細川藤孝(「長岡兵部大輔」)へ昨日2月21日の和泉国長尾に於ける戦闘での戦功を賞し、
       織田信長は「別而御祝着ニ被思食」れて即時「御感状」を発給したこと、雨天により野陣は迷惑であることを慰労し、変化が
       あれば注進することが重要であることを通知。〔「細川家文書」二〕
  2月26日 多聞院英俊、織田信長(「信長」)・筒井順慶(「筒井」)のための祈祷に参加。〔『多聞院日記』二〕
  2月28日 織田信長、和泉国淡輪まで進軍。
  2月28日 織田信長、美濃国立政寺へ在陣見舞の枝柿を謝す。〔「立政寺文書」一〕
  2月    織田信長、紀伊国大田村に全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「紀伊太田文書」〕

3月
  3月 1日 織田信長、某より上杉謙信(「謙信」)が能登国七尾城より「引退」した報告を受け、漸く雪が消えたというので加賀国への
       進軍に遅滞無きことを命令。また堅苔の贈呈を謝す。詳細は武藤舜秀(「武藤宗右衛門尉」)に伝達させる。
       〔「森田正治氏所蔵文書」〕
  3月 2日 細川藤孝(「細川兵部」)、大和国興福寺に来訪。「色々芸尽」す。〔『多聞院日記』二〕
  3月 8日 織田信長、尾張国の水野直盛(「水野監物」)へ在陣見舞を謝し、摂津国住吉城普請についての指示を下す。
       〔「水野文書」〕
  3月15日 織田信長、雑賀一揆を屈服。〔「信長公記」〕
  3月15日 織田信長、紀伊国在陣中の細川藤孝(「長岡兵部大輔」)・丹羽長秀(「惟住五郎左衛門尉」)・滝川一益(「滝川左近」)
       明智光秀(「惟任日向守」)へ羽柴秀吉(「猿」)の帰還により戦況報告を受けたことに触れ、「一若」を派遣すること、
       在陣辛労を慰労、この日の状況は「徳若」に報告することを通達。〔「細川家文書」二〕
  3月15日 織田信長、雑賀党の7頭目である鈴木重秀(「鈴木孫一」)・栗村三郎大夫・嶋本左衛門大夫・宮本兵部大夫・
       松田定久(「松田源三大夫」)・岡崎三郎大夫・土橋若大夫へ今度の「雑賀」の「成敗」を前に織田側として忠節を尽くすと
       いう「折紙」(誓紙)を受け、「赦免」することを通達。また小雑賀に向かい、在陣している軍勢にも指示を下すことを通達。
       〔「土橋文書」〕
  3月16日 織田信長(「信長」)、山城国等持院へ在陣見舞を謝し、近日の帰陣予定を通知。〔「妙智院文書」乾〕
  3月20日 織田信長(「信長」)、山城国賀茂神社へ在陣見舞を謝す。
       詳細は丹羽長秀(「惟住」)に伝達させる。〔「賀茂別雷神社文書」三〕
  3月21日 鈴木重秀・土橋平次ら7名、連署の誓紙を提出し織田信長に降伏す。
  3月21日 織田信長、雑賀一揆を平定し帰途につく。
  3月22日 多聞院英俊、織田信長(「信長」)が紀伊国雑賀の一揆を鎮圧し、昨日天王寺周辺まで改陣したことを知る。
       〔『多聞院日記』二〕
  3月25日 織田信長、京都に入る。
  3月26日 織田信長、松井友閑(「宮内卿法印」)へ和泉国堺津に塩飽船が往来することを承認、違反者は「成敗」すべきことを命令。
       〔「塩飽島文書」〕
  3月27日 織田信長、近江国安土城へ帰還。
  3月  日 織田信長、和泉国松尾寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。違反者は「忽」ち厳罰に処すこととする。〔「松尾寺文書」〕

4月
  4月 2日 大和国興福寺に於いて集会が開かれる。新屋郷に付いて織田信長「朱印」を発給してもらうよう筒井順慶(「筒順」)から
       意見があった。〔『多聞院日記』二〕
  4月 7日 柴田勝家(「勝家」)、越前国の新開一右衛門尉へ知行分200石について再度の織田信長「御朱印」が発給されたので、
       越前国王見郷宮森村を「検地」の上で遣わすこと、但し山林・野川には別に「給人」を配置することを通達。〔「片岡文書」〕
  4月 8日 多聞院英俊、「大乗院殿」より筒井順慶(「筒井順」)への音信のため贈物を調達。〔『多聞院日記』二〕
  4月15日 武藤舜秀、越前国敦賀の川船衆中へ従来の規定に従い商売すべきを命令。〔「道川三郎左衛門文書」〕
  4月17日 織田信長(「信長」)、和泉国の沼間清成(「沼間越後入道」)へ在陣見舞を謝し、和泉国住吉城普請について命令。
       〔「養教寺文書」〕
  4月17日 足利義昭、伊集院忠棟・河上忠克・平田光宗・村田経定へ足利義昭の帰洛援助に毛利氏が応え、
       更に武田氏・北条氏・上杉氏に合力させ、今度は島津氏が加担する旨を賞す。
       詳細は真木島昭光・一色昭秀に伝達させる。〔「旧記雑録後編」@‐797〕
  4月17日 真木島昭光・一色昭秀、伊集院忠棟・河上忠克・平田光宗・村田経定へ足利義昭の帰洛援助に毛利氏が応え、
       更に武田氏・北条氏・上杉氏に合力させ、今度は島津氏が加担する旨を賞した足利義昭「御内書」が発給された旨を通達。
       詳細は蓮華坊に伝達させる。〔「旧記雑録後編」@‐798〕
  4月17日 真木島昭光・一色昭秀、城入へ足利義昭の帰洛援助に毛利氏が応え、
       武田氏・北条氏・上杉氏に合力させ、今度は島津氏が加担する旨を賞した足利義昭「御内書」が発給された旨を通達。
       詳細は蓮華坊に伝達させる。〔「旧記雑録後編」@‐1348〕
  4月19日 織田信長、飯尾信宗(「飯尾隠岐守」)・丹羽長秀(「惟住五郎左衛門尉」)・猪子高就(「猪子兵助」)・
       堀秀政(「堀久太郎」)へ石山本願寺攻撃の付城普請を命令す。〔『新編会津風土記』八〕
  4月21日 織田信長、近江国安土城に帰還。
  4月21日 大和国興福寺、「鹿殺一ノ坂ノタクラ」を引き回し「断頭」に処す。〔『多聞院日記』二〕

5月
  5月 1日 筒井順慶(「筒井順慶」)、大和国春日大社に社参す。〔『多聞院日記』二〕
  5月 3日 織田信長、加賀国の柴山長次郎へ忠節を尽すことに偽り無ければ「本地」は安堵し、戦功によっては「恩賞」を加える旨を
       通達。〔「柴山文書」、「安部栄造氏文書」〕
  5月 3日 多聞院英俊、昨年討死した塙小七郎らの一周忌の法要に参加。〔『多聞院日記』二〕
  5月 3日 大和国興福寺、新屋郷についての「糺決」が下るというので圓明院・蓮成院を使僧として近江国安土へ派遣。
       〔『多聞院日記』二〕
  5月 7日 織田信長、加賀国の水越左馬助へ音信・贈物を謝す。〔『歴代古案』六〕
  5月 7日 近江国安土より大和国奈良中の「ネコ」・「ニワ鳥」を徴集するというので、多聞院英俊らは僧坊の方々へ隠した。
       「タカノエ」として用いるということであった。〔『多聞院日記』二〕
  5月 8日 大和国興福寺、新屋郷の件で去5月3日に圓明院・蓮成院が使僧として近江国安土へ派遣したが、興福寺側の要望に叶う結果
       を受ける。織田信長「朱印」は発給されなかったが、従来の如くすべきという内容の万見重元(「万見仙千代」)の「書出」が
       出された。多聞院英俊は「先々珍重々々」と評す。〔『多聞院日記』二〕
  5月 9日 大和国興福寺「大御堂」に於いて集会が開かれ、多聞院英俊も出席する。
       織田信長より安堵された新屋郷の件を喜び、方々への謝礼についての談合が行われた。〔『多聞院日記』二〕
  5月 9日 多聞院英俊、伊勢屋大郎左衛門の女および3才の子が「ハタ物」に上げられたことを知る。「ナラ近辺如此事先代未聞」で
       あり、多聞院英俊は「沈思々々」という感慨を持つ。〔『多聞院日記』二〕
  5月10日 織田信長、山城国の津田利右衛門尉へ上山城の当尾の件は去年(天正4年)の「指出」の際に「隠田」が発覚したので
       「代官」の「筋目」を以て早々に検地を命令す。〔「森文書」〕
  5月14日 小寺政職、播磨国英賀方面に出撃し、敵兵を討ち取る。
  5月16日 織田信長、紀伊国三組(宮郷・中川郷・南郷)惣中へ「雑賀成敗」(雑賀党残党の掃討戦)に際し織田側に協力することを
       賞し、紀伊国「根来寺」は既に織田側に味方する意志を表明しているので、紀伊国三組が挙兵次第に出兵する旨を通達。
       「恩賞」は戦功によって望むとおりとする旨を通達。〔「紀伊太田文書」〕
  5月16日 織田信長、荒木村重(「荒木摂津守」)へ報告書と小寺政職(「小寺」)からの注進状を披見し、一昨日5月14日に
       小寺政職(「小寺」)が播磨国英賀方面に出撃し敵を撃破したことを賞す。また黒田孝高(「官兵衛尉」:小寺孝高)の戦功も
       賞す。〔「黒田文書」七‐九〕
  5月18日 荒木村重(「荒摂村重」)、黒田孝高(「小官兵」)へ播磨方面についての先日の注進状を早々に近江国安土城へ言上し、
       織田信長が小寺政職(「政職」)へ「御書」を下されたのは「御面目之至」であり荒木村重(「我等」)にとって「珍重大慶」
       であることを通知。また黒田孝高の「御かせき」は織田信長の「上聞」に達して荒木村重(「我等」)宛の織田信長「御書」中
       に加筆されたことに触れ、送付する旨を通知。さらに黒田孝高の普段の心懸けは織田信長「上覧」に至ったことは「御名誉」で
       あることを通知。詳細は築山市兵衛尉に伝達させる。〔「黒田文書」五‐六〕
  5月19日 織田信長、紀伊国の大田源三大夫へ「雑賀成敗」について織田側として忠節を尽くすことを諒承し、急速に挙兵することを
       通達。〔「紀伊太田文書」〕
  5月19日 織田信長、紀伊国の神崎中務丞へ「雑賀成敗」について織田側として忠節を尽くすことを諒承、急速に挙兵することを通達。
       〔「神前文書」〕
  5月20日 織田信長(「信長」)、織田信張(「左兵衛佐」)へ全5ヶ条の指示を下す。その内容は今度「東国一篇」を平定するに
       あたり贈呈された祝儀を謝し、紀伊国雑賀より黄金10枚が献上されたので織田信張に2枚を下賜すること、
       鈴木重秀(「鈴木孫一」)が織田信長に参上し忠節を誓ったこと、「根来」寺と「粉河」寺らへも書状を送付したこと、
       織田信張の担当方面の軍備に「調儀」を用いることは重要であるとのことであった。〔「本願寺文書」一〕

6月
  6月 1日 織田信長、安東愛季(「下国殿」)へ去々年(天正3年)の「弟鷹」10聯と去年(天正4年)の鷹2居到来を謝し、自愛
       している旨を通知。その返礼として「紀新大夫」の太刀を贈呈。〔『秋田家系図』、「秋田家旧蔵文書」〕
  6月 4日 筒井順慶(「筒井順慶」)、上洛。〔『多聞院日記』二〕
  6月 5日 織田信長、細川藤孝(「長岡兵部大輔」)へ去年(天正4年)に「矢蔵」(近江国安土城か)を築造した時に召集した
       「大工」のうちで「上手」の2名とそれ以外の大工で計10名を早々に送るよう命令。〔「細川家文書」二〕
  6月 5日 多聞院英俊、筒井順慶(「筒井順慶」)が昨日より上洛していることを知る。
       また大和国多聞山城の「四階ヤクラ」が破却され、奈良中の人夫が徴集されたことを知る。〔『多聞院日記』二〕
  6月 7日 多聞院英俊、「光明皇后御忌日」の法要に問者として参席。〔『多聞院日記』二〕
  6月12日 明智光秀(「惟任日向守光秀」)、紀伊国雑賀5郷と土橋平次(「土橋平尉」)へ全3ヶ条を通達。
       その内容は織田信長に謁見するために上洛の指示を通達し、「高野」山・「根来」寺・雑賀衆らが相談し和泉国・河内国へ出撃
       することを督促、知行等の件は「年寄」を以て相談させること、近江国・美濃国は「悉平均」して織田信長「覚悟」のままに
       なっていることを通達。〔「森文書」〕
  6月24日 織田信長、伊勢大神宮御師の北監物大夫へ不法行為を承引しないことを通達し、北畠信意(「北畠中将」:織田信雄)の
       「一札」により息子の鍋次郎に御師福嶋家を相続させることを指示。〔「福嶋家古文書」〕
  6月25日 篠河長次、荒木重堅の意を承けて摂津国有馬郡湯山阿弥陀堂へ温泉寺屋敷廻りの地の進退を行わせる。〔「善福寺文書」〕
  6月  日 織田信長、近江国安土山下町へ「楽市」などの全13ヶ条の「定」を下す。〔「近江八幡市所蔵文書」〕
  6月  日 織田信忠、美濃国崇福寺の諸役を免除。〔「崇福寺文書」‐4〕

7月
  7月 3日 伊達輝宗、織田信長へ鷹を贈呈。
  7月10日 織田信長、山城国の狛秀綱(「狛左馬亮」)へ311石を知行として「扶持」す。〔「狛文書」〕
  7月22日 三条西実枝(「実枝」)、織田信長へ書状で安東愛季(「安倍愛季」)の「御執奏」の件を禁中「宿老中」で談合の上で
       正親町天皇へ披露したところ、安東愛季の先祖が「勅勘」を蒙っていたかどうかが問題となったが、「所詮叙爵」ということで
       「宣下」があり、「口宣案」が発給された事情を通知。〔「壬生家文書」、「秋田家文書」〕
  7月22日 安東愛季(「安倍朝臣愛季」)、「従五位下」に叙位。〔「秋田家文書」〕
  7月23日 羽柴秀吉、播磨国平定にあたり黒田孝高(「小寺」)へ秀吉舎弟の羽柴秀長(「小一郎長秀」)と同様に親身に感ずる旨を
       通知。その上で直々の相談を促す。〔「黒田侯爵家文書」〕
  7月23日 屋代左近将曹、正親町天皇の宣旨により「馬道天下一」とされる。

閏7月
 閏7月 3日 多聞院英俊、村井貞勝(「村井」)が大和国多聞山城の「破城」のために大和国へ到来し、やがて上洛したことを知る。
       〔『多聞院日記』二〕
 閏7月 4日 筒井順慶(「筒井」)・越智家秀(「越智」)、織田信長(「信長」)の上洛を迎えるため近江国まで出向。
       〔『多聞院日記』二〕
 閏7月 4日 多聞院英俊、十市遠長(「十常」)を見舞う。〔『多聞院日記』二〕
 閏7月 6日 織田信長(「内府信長」)、上洛。吉田兼見、細川藤孝(「長兵」)・吉田兼治と共に山科まで出迎える。
       〔『兼見卿記』一〕
 閏7月 6日 織田信長、上洛し二条新第に入る。
 閏7月 6日 多聞院英俊、織田信長(「信長」)上洛というので筒井順慶(「筒井」)・越智家秀(「越智」)が一昨日より近江国へ迎え
       に出ていること、「大乗院殿」がこの朝に迎えに上がったことを知る。〔『多聞院日記』二〕
 閏7月 9日 織田信長、大和国の沢某へ身上・知行を安堵す。また沢某は東門院と談合したが「赦免」された以上は「別儀」は無い旨を
       通達。詳細は滝川一益(「滝川左近」)に伝達させる。〔「沢氏古文書」七〕
 閏7月 8日 上杉謙信、越中国魚津へ出陣。
 閏7月10日 菅屋長頼(「菅屋九右衛門尉長行」)、柴田勝定(「柴田宮内少輔」)へ「織田大明神」領・寺社領の「一色」を委任された
       ことに触れ、織田信長(「上様」)は特別に諸事厳命を下したことを強調す。また織田剣神社・織田寺は菅屋長頼「申次之寺」
       であるので入魂本望であることを通知。〔「剣神社文書」四〕
 閏7月10日 菅屋長頼(「菅屋九右衛門尉長行」)、越前国の織田剣神社・織田寺へ社殿造立の「訴訟」を織田信長へ披露したところ、
       「内々」の「御心得」が得られるという「御意」であったので、後に正式に通達がなされることを通知。〔「剣神社文書」四〕
 閏7月11日 織田信長(「信長」)、去年来より村井貞勝(「村井」)に命令していた禁裏築地普請の首尾を見物、参内。
       そのため堂上衆・堂下衆が悉く参内。織田信長、禁裏および誠仁親王へ越後布30端を献上。〔『兼見卿記』一〕
 閏7月12日 織田信長(「内府信長」)、近衛信基(「近衛殿若公」:後の近衛信尹)の元服にあたり加冠、理髪は広橋兼勝、諸家は1人
       残らず出頭。退出後、贈物の披露は織田信張(「織田太左衛門」)。〔『兼見卿記』一〕
 閏7月12日 多聞院英俊、近衛信基(「近衛殿息一乗院御舎弟」:後の近衛信尹)の元服を知る。〔『多聞院日記』二〕
 閏7月13日 織田信長(「内府信長」)、近江国安土へ下向。吉田兼見、息子満千代を同行し粟田口辺で見送る。〔『兼見卿記』一〕
 閏7月20日 菅屋長頼(「菅屋九右衛門尉長行」)、柴田勝家(「柴田修理亮」)・柴田勝定(「柴田宮内少輔」)へ越前国織田剣神社領
       織田寺領は「縄打」を実施し「一職」(一切の所有権排除)に境界を決定したにもかかわらず、再度柴田勝家が「上使」を派遣
       して「検地」を実施するのは迷惑であるという訴えがあったことに触れ、織田信長(「上様」)が特別に念を入れて下された
       命令は少々の余分があったとしてもこの春に決定された境界を遵守することを通達。また境界に近い神領の百姓らに対する諸役
       は「用捨」すべきことを通達。〔「剣神社文書」四〕
 閏7月20日 秋田愛季(「安倍愛季」)、織田信長(「安土」)へ去々年(天正3年)の「御鷹師」派遣の際に鷹を贈呈したことに対する
       謝意に応え、特に返礼として贈呈された「紀新大夫」の太刀は「末代迄も重宝」とすること、「浪虎皮」10枚を贈呈すること
       を通知。また羽柴秀吉(「羽柴筑前守」)を以て織田信長の「上聞」に達するよう依頼する。〔「秋田家文書」〕
 閏7月21日 筒井順慶(「筒井」)、大和国春日大社に社参す。〔『多聞院日記』二〕
 閏7月22日 多聞院英俊、大和国多聞山城の破却が大旨済んだことを知り、「尤珍重々々」と評す。〔『多聞院日記』二〕
 閏7月23日 織田信長(「信長」)、伊達輝宗(「伊達左京大夫」)へ上杉謙信(「謙信」)の「悪逆」を「追伐」するので越後国の
       本庄繁長(「本庄雨順斎」)と相談することと「軍忠」を督促す。〔「伊達家文書」一〕
 閏7月23日 織田信長、遠藤基信(「遠藤内匠助」:伊達輝宗家臣)へ上杉謙信(「謙信」)の「悪逆」を「誅伐」するので越後国の
       本庄繁長(「本庄雨順斎」)と相談する事と「軍忠」を督促す。〔「建勲神社文書」〕
 閏7月24日 長好連、越中国七尾城を出発し近江国安土へ向かう。
 閏7月26日 多聞院英俊、この頃に大和国多聞山城の破却が大旨済んだことを知り、「珍重々々」と評す。〔『多聞院日記』二〕
 閏7月29日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕
 閏7月29日 足利義昭、毛利輝元(「毛利右馬頭」)へ今度の讃岐国に於ける三好軍の撃破を賞し、褒美として「吉次」の太刀と馬1頭を
       遣わし、詳細は「貞長」に伝達させる。〔「毛利家文書」@‐341〕

 8月
  8月 1日 万見重元(「万見仙千世重元」)、和泉国の淡輪大和守・淡輪徹斎へ「上使」として美濃国へ下向したが昨晩帰城したこと、
       「雑賀」一揆が蜂起したことは織田信張(「左兵衛佐」)からの注進状によって知っていることに触れ、奔走し防備を堅固に
       していることを織田信長「御気色」をうかがって披露することを通達。また明智光秀(「惟日」)へ合流すべきことを通達。
       〔「淡輪文書」坤〕
  8月 1日 多聞院英俊、大和国春日大社へ社参。筒井順慶(「筒井」)も春日大社に社参す。〔『多聞院日記』二〕
  8月 5日 多聞院英俊、去8月3日は「淡海公」の御忌日であったため法要に出席。〔『多聞院日記』二〕
  8月 8日 織田信長、祖父江五郎右衛門へ「領知」・「家来」・「買得」地を安堵す。また櫛田三平の件は従来の如く「家来」とすべき
       ことを通達。〔『張州雑誌抄』二十七〕
  8月 8日 織田信長、某へ「領知」・「家来」・「買得」地を安堵す。また櫛田三平の件は従来の如く「家来」とすべきことを通達。
       〔「万福寺文書」〕
  8月 8日 織田信長、上杉謙信に備え柴田勝家を大将、羽柴秀吉・丹羽長秀・滝川一益・稲葉一鉄らを加賀国に派遣。〔「信長公記」〕
  8月10日 柴田勝家(「修理亮勝家」)、加賀国の柴山長次郎へ山中氏が織田側に「御味方」として奔走するというのは結構なことで
       あり、加賀国「一国之儀」は柴田勝家が織田信長より与えられたので、偽りが無ければ「本知」分は永代安堵する旨を通達。
       〔「柴山文書」、「安部栄造氏文書」〕
  8月12日 任助法親王・大覚寺尊信・上賀茂社・伏見社・吉田兼見等、織田信長(「内府信長」)の二条新第の堀普請の人足供出を賦課
       される。〔『兼見卿記』一〕
  8月13日 多聞院英俊、一昨日よりゥ軍勢が上京していることを知る。〔『多聞院日記』二〕
  8月15日 筒井順慶、和泉国久米田へ進軍。
  8月17日 織田信長、筒井順慶(「筒井順慶」)へ去る8月15日に和泉国久米田に出撃したことを賞し、佐久間信盛(「佐久間」)へ
       相談して油断無く軍備を調え、変事が生じた場合は報告すべきことを命令。〔「島田文書」〕
  8月17日 松永久秀・松永久通、石山本願寺攻囲中の摂津国天王寺城より離脱し大和国信貴山城に帰還。
  8月18日 近衛前久、島津義久へ前年2月末に薩摩国より帰洛、子息の近衛信基(近衛信尹)が織田信長邸において元服した旨を報告。
       また約束した轡・鞍・鐙以下の送付は、諸事の事情によって遅延しているが、何れ伊勢貞知を派遣して届けることを通知。
       詳細は伊勢貞知に伝達させる。〔「島津家文書」A‐662、「旧記雑録後編」@‐925〕
  8月24日 吉田兼見、荒木村重より摂津国有岡城に日吉社を勧請するための神体所望について答申。〔『兼見卿記』一〕
  8月25日 吉田兼見、荒木村重へ神体の件で鈴鹿右正を派遣。〔『兼見卿記』一〕
  8月26日 荒木村重のもとへ派遣された鈴鹿右正、吉田兼見のもとへ帰還。〔『兼見卿記』一〕

9月
  9月 1日 織田信長、加賀国の水越左馬助へ上杉謙信(「謙信」)が加賀国方面に「出馬」するという報告に対し柴田勝家へ防御命令の
       飛脚を派遣したことに触れ、その返答によって「無事」に処置するよう相談すること、無事にならなければ援軍派遣を実行し
       「何篇不可見放」という意志を通達。また防備を堅固にすべきことを命令す。〔『歴代古案』七〕
  9月 1日 吉田兼見、荒木村重の摂津国有岡城内に日吉社勧請の神体を調える。〔『兼見卿記』一〕
  9月 3日 吉田兼見、神人に日吉社神体を持たせ荒木村重のもとへ派遣。〔『兼見卿記』一〕
  9月 6日 吉田兼見、二条新第普請の件について村井貞勝(「村長」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕
  9月 7日 吉田兼見、佐竹定実(「佐竹出羽守」)の茶湯興行に招請される。〔『兼見卿記』一〕
  9月 7日 多聞院英俊、去8月13日頃に筒井順慶(「筒」)のもとへ出向いた「十後」へ見舞の使者を派遣す。〔『多聞院日記』二〕
  9月 8日 吉田兼見、村井貞成(「村作」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕
  9月14日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問、その後に上洛した明智光秀(「惟日」)を訪問し連歌を楽しむ。
       吉田兼見、帰宅後に細川昭元(「右京兆」)より「金神鎮札」の件で問い合わせを受ける。〔『兼見卿記』一〕
  9月15日 吉田兼見、在京中の明智光秀(「惟日」)を施薬院全宗(「徳雲軒」)の宿所に訪問す。〔『兼見卿記』一〕
  9月15日 上杉謙信、能登国七尾城を攻略。
  9月15日 朝山日乗、没。〔『日本史人物生没年表』〕
  9月16日 禁中において観菊御宴が開催され、地下の手猿楽が行われる。〔『兼見卿記』一〕
  9月20日 吉田兼見、二条新第の件で村井貞勝(「村長」)を訪問し、五条馬市を見物。その後に村井貞成を訪問。〔『兼見卿記』一〕
  9月22日 織田信長、大和国の岡周防守(旧松永久秀家臣)へ松永久通(「松永右衛門佐」)が「雑説」ありとて織田信長に反し
       大和国信貴山城に籠城したことは「言語道断」であることを通達。また松永久通の「知行分」については差し押さえ、松永久秀
       松永久通父子が織田信長に「出頭」しないのは「以外」であり、百姓が松永久秀・松永久通へ年貢を上納すれば「成敗」を 
       加えるべきこと、大和国人が「松永」父子に味方すれば同罪とすることを通達。〔『集古文書』七十一‐七十二〕
  9月23日 上杉謙信、加賀国湊川に進軍。
  9月24日 吉田兼見、佐竹定実(「佐竹羽州」)よりの書状を受け取る。〔『兼見卿記』一〕
  9月24日 多聞院英俊、十市遠長(「十常」)へ贈物を送付。〔『多聞院日記』二〕
  9月25日 吉田兼見、細川昭元(「細川右京兆」)へ「金神」の鎮札および百座祓を送る。〔『兼見卿記』一〕
  9月26日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)の使者「比々野」から明日二条新第普請の残分を割り当てられる。〔『兼見卿記』一〕
  9月27日 織田信長、美作国の江見為久へ中国方面への「進発」について、羽柴秀吉(「羽柴筑前守」)を派遣する旨を通達。
       全ては羽柴秀吉(「羽柴」)の指示に従って「忠節」を尽くすよう命令。〔「美作江見文書」、『記録御用所本古文書』〕
  9月27日 吉田兼見、細川昭元(「細川右京兆」)より酒肴を贈られるも肴以下比興であったため使者土屋入道には面会せず。
       また吉田兼見、この日大和国信貴山城における松永久秀・松永久通父子の「別心」を知る。〔『兼見卿記』一〕
  9月27日 多聞院英俊、松永久通(「金吾」)の「知行替」について「筒大」と「十後」へ書状を遣わす。〔『多聞院日記』二〕
  9月28日 吉田兼見、二条新第普請のため人足を派遣。〔『兼見卿記』一〕
  9月29日 織田信長の二条新第、竣工。吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕
  9月29日 織田信長(「信長」)、大和国信貴山城へ軍勢を派遣。奈良中へは陣取りは無く、多聞院英俊は「珍重々々」と評す。
       〔『多聞院日記』二〕
  9月29日 吉田兼見、「帚星」を見る。〔『兼見卿記』一〕
  9月29日 多聞院英俊、「帚星」を申酉の間に見る。その様子は「ハヽキ」は未辰巳の方角を向き、光は5〜6丈に見えた。
       「大凶事」、「天下ノ物恠」と評す。〔『多聞院日記』二〕

10月
 10月 1日 細川藤孝・明智光秀・筒井順慶ら、大和国片岡城の森秀光(松永被官)を攻略し敗死させる。
 10月 1日 細川忠興、大和片岡城攻撃で戦功をあげる。〔「細川家文書」二〕
 10月 1日 吉田兼見、織田信忠(「城介殿」)が謀叛した松永久秀属城の大和国片岡城を攻略したこと、明智光秀(「惟日」)・
       細川藤孝(「長兵」)の軍勢で死傷者が出た旨を知る。〔『兼見卿記』一〕。
 10月 1日 多聞院英俊、大和国信貴山城への攻撃のために明智軍が行動を開始したこと、織田信忠(「城介殿」)も出撃することを
       知る。〔『多聞院日記』二〕
 10月 1日 多聞院英俊、織田軍が大和国片岡城を攻略し、「エヒナ」・「河人」を始め70人計りが「無残討死」したが、明智軍でも
       「大勢損」ったことを知る。〔『多聞院日記』二〕
 10月 1日 多聞院英俊、大和国楊本城・「クロツカ」も「内ワレ」て、楊本城衆は松永久通(「金吾」)を生害させようとし、入夜に城
       は陥落したことを知る。〔『多聞院日記』二〕
 10月 1日 吉田兼見、「帚星」を見る。〔『兼見卿記』一〕
 10月 2日 織田信長、細川忠興(「与一郎」)の戦功を賞す。〔「細川家文書」二〕
 10月 2日 堀秀政(「堀久太郎秀政」)、戦功をあげた細川忠興(「長岡与一郎」)へ織田信長が「御自筆」の御書」を発給したことを
       通知。〔「細川家文書」二〕
 10月 3日 織田信長、細川藤孝(「長岡兵部大輔」)へ一昨日(10月1日)に大和国片岡城を攻略、敵を多数討ち取った戦功を賞す。
       〔「細川家文書」二〕
 10月 3日 織田信忠(「織田城介殿」)、「松永退治」のため大和国奈良を通過するも、些細な狼藉も無かったため、多聞院英俊は
       「尤珍重々々」、「尊神御威光」であると評す。〔『多聞院日記』二〕
 10月 3日 大和国信貴山の「ヒサ門堂」(毘沙門堂)が焼失。〔『多聞院日記』二〕
 10月 4日 松永久通(「松永右衛門佐」)の人質2名(12才と14才)、矢部家定(「矢部善七」)・福富秀勝(「福角」)に連行
       され近江国安土より上洛、明日の処刑のための上洛であった。〔『兼見卿記』一〕
 10月 4日 多聞院英俊、昨夜大和国信貴山の「ヒサ門堂」が焼失したことを知る。〔『多聞院日記』二〕
 10月 5日 松永久通(「松永孫六」:彦六の誤り)息子、京都六条河原において処刑される。〔『兼見卿記』一〕
 10月 5日 申刻に京都に於いて「人質」として提出されていた松永久通(「松永金吾」)の息子(12、3才)が車に乗せられて市中
       引き回しの上で処刑された。〔『多聞院日記』二〕
 10月 6日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し庭田重保・甘露寺経元・勧修寺晴豊と面会。〔『兼見卿記』一〕
 10月 6日 多聞院英俊、前日の申刻に京都に於いて「人質」として提出されていた松永久通(「松永金吾」)の息子(12、3才)が車
       に乗せられて市中引き回しの上で処刑されたことを知る。〔『多聞院日記』二〕
 10月 7日 大和国興福寺に於いて「彗星恠異」のための祈祷を実施される。〔『多聞院日記』二〕
 10月 7日 大和国興福寺、楊本城に於ける調儀について岡村甚介を筒井順慶(「筒井」)の使者に同行させ上洛させる。
       〔『多聞院日記』二〕
 10月 8日 大和国興福寺、昨日より「彗星天災焼除」の祈祷を実施。〔『多聞院日記』二〕
 10月 9日 多聞院英俊、夕刻六ツ過より大和国信貴山城が猛火に包まれ、陥落したことを確信し「先以珍重々々」と評す。
       松永久秀は永禄2年8月8日に大和国入部以来、大和国内の神社仏閣を悉く荒廃させたからである。〔『多聞院日記』二〕
 10月10日 織田信長、織田信忠を大将に、羽柴秀吉・明智光秀・丹羽長秀・佐久間信盛らを従軍させ、反旗を翻した松永久秀を
       大和国信貴山城で自害させる。〔「信長公記」〕
 10月10日 松永久秀ら、自刃。〔『兼見卿記』一〕
 10月10日 この夜に松永久秀・松永久通父子は「腹切自焼」し果てる。〔『多聞院日記』二〕
 10月11日 禁裏で彗星御祈始が行われ、吉田兼見は御祓を進上。〔『兼見卿記』一〕
 10月11日 吉田兼見、大和国へ出陣中の佐竹定実(「佐竹出羽守」)書状により信貴山城「落城」および松永久秀「切腹」と全てが焼き
       尽くされたことを知る。吉田兼見、松永久秀は足利義輝(「光源殿」)弑逆の「御罰」で自刃したと認識す。
       吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し松永久秀謀叛「治定」を知る。〔『兼見卿記』一〕
 10月11日 多聞院英俊、昨夜松永久秀・松永久通父子が「腹切自焼」し果てたこと、この日近江国安土城へ「首四ツ」が送付され織田軍
       は撤兵する。
       多聞院英俊は松永久秀が先に東大寺大仏を焼失させた同日同時刻に滅亡したことを「仏ヲ焼ハタス、我モ焼ハテ」と表現し、
       また大仏焼失翌朝は雨天であったが、この日も雨天であることは「奇異ノ事」と評す。〔『多聞院日記』二〕
 10月12日 吉田兼見、近衛前久(「近衛殿」)を訪問し暫し談義。〔『兼見卿記』一〕
 10月13日 織田信忠(「城介殿」)、帰陣上洛。〔『兼見卿記』一〕
 10月13日 松平家忠、遠江国小笠城へ「一日替之番」に赴き、城番を西郷家員(「西郷孫九郎」)と交替す。
       「あい番」は戸田孫六郎左衛門尉であった。〔『家忠日記』〕
 10月14日 公家衆(「ゥ家」)、悉く直垂を着用し織田信忠(「城介殿」)へ凱陣「御礼」として参集。〔『兼見卿記』一〕
 10月14日 筒井順慶(「筒井」)、上洛す。〔『多聞院日記』二〕
 10月14日 万見重元(「万見仙千代」)、大和国興福寺を来訪し成身院の振舞を受ける。〔『多聞院日記』二〕
 10月14日 松平家忠、遠江国小笠城より遠江国掛川へ移動す。〔『家忠日記』〕
 10月15日 織田信忠(「城介殿」)、禁中参内のため飛鳥井雅敦を訪問。〔『兼見卿記』一〕
 10月15日 織田信忠(「平信忠」)、左中将・従三位に昇進。〔『公卿補任』〕
 10月16日 織田信忠(「城介殿」)、「三位中将」に昇進す。〔『兼見卿記』一〕
 10月16日 織田信忠(「三位中将殿」)、この夜自邸において地下を召し乱舞興行す。〔『兼見卿記』一〕
 10月17日 織田信忠(「三位中将殿」)、美濃国岐阜へ下向。〔『兼見卿記』一〕
 10月17日 松平家忠、遠江国白坂筋へ「うつらつき」に出る。〔『家忠日記』〕
 10月18日 吉田兼見、村井貞成(「村作」)へ普請人足30人を供出。〔『兼見卿記』一〕
 10月18日 大和国興福寺、三条西実枝(「三条西殿」)より祈祷の布施10石を受ける。〔『多聞院日記』二〕
 10月18日 多聞院英俊、織田信長(「大将殿」)が「右大臣ニ転任」、織田信忠(「城介殿」)は「三位中将ニ昇進」することを知る。
       〔『多聞院日記』二〕
 10月18日 松平家忠、遠江国白坂筋へ「鶉つき」に出る。〔『家忠日記』〕
 10月19日 吉田兼見、村井貞成(「村作」)より一籠・双瓶を受け取る。〔『兼見卿記』一〕
 10月19日 万見重元(「万見仙千代」)および筒井順慶(「筒順」)、大和国興福寺へ到来。〔『多聞院日記』二〕
 10月19日 松平家忠、遠江国西郷筋へ「鶉つき」に出る。〔『家忠日記』〕
 10月20日 織田信長、筒井順慶(「筒井順慶」)へ明智光秀(「惟任日向守」)を丹波国へ派遣することを通達。
       また筒井順慶に石山本願寺攻囲の付城である森口城と森河内城に勤番し、石山本願寺(「大坂」)への通路・「夜待」(夜番)
       以下を油断無きように指令を下す。〔「某氏所蔵文書」〕
 10月20日 織田信長、江見為久(「江見九郎次郎」)へ後藤元政(「三星」)の織田信長への「出頭」に奔走し、同心すれば忠義を
       尽くすという内容の書状が山中幸盛(「山中鹿之助」)に到来したことに触れ、それが事実であれば江見為久に本領とそれ以外
       の「恩賞地」を宛行う予定を通達。詳細は明智光秀(「惟任日向守」)に伝達させる。〔『記録御用所本古文書』十〕
 10月20日 武田勝頼(「武田勝頼」)、遠江国小山今城を出て大井川を渡河、駿河国へ戻る。〔『家忠日記』〕
 10月20日 筒井順慶(「筒井」)、大和国興福寺成身院に滞在している万見重元(「万仙」)へ夕飯を届ける。〔『多聞院日記』二〕
 10月20日 松平家忠、武田勝頼(「武田勝頼」)が遠江国小山今城から出て大井川を渡河、駿河国へ戻ったことを知る。
       〔『家忠日記』〕
 10月21日 佐久間信栄・佐久間信盛、某へ近江国安土城へ使者が到来・報告したことに触れ、松永久秀(「松永」)の「一類・歴々衆」
       を討ち取ったことは「御忠節無比類」であり、その功績を佐久間信盛父子が織田信長へ披露し、「松永跡職」と松永「与力」は
       未だ処置が下されていなく、松永「知行方」は概ね「糺明」が済み、今度の「忠節人」へ下されるという裁決になったこと、
       来月早々には必ず上洛すべきこと、その上洛の際に松永「知行分」の処置がなされること、近江国安土城への参上は延期して
       「京都」に於いて織田信長へ「御礼」をすべき旨を通達。また状況に変化があれば上申するよう通達。
       〔「織田長繁氏所蔵文書」〕
 10月21日 松平信康(「信康」)、三河国岡崎城へ帰還。〔『家忠日記』〕
 10月21日 松平家忠ら三河衆(「国衆」)、遠江国掛川城より遠江国浜松城に帰陣す。〔『家忠日記』〕
 10月22日 三条西実枝(「三条西殿」)、大和国興福寺へ信読経の布施として10石を送付。〔『多聞院日記』二〕
 10月22日 羽柴秀吉(「羽柴筑州」)、上洛。〔『兼見卿記』一〕
 10月22日 吉田兼見、吉田兼治を上洛した羽柴秀吉(「羽柴筑州」)に礼問させる。〔『兼見卿記』一〕
 10月22日 徳川家康(「家康」)、遠江国馬伏塚城より遠江国浜松城に帰陣す。〔『家忠日記』〕
 10月22日 松平家忠、遠江国浜松城普請に着手す。〔『家忠日記』〕
 10月23日 羽柴秀吉(「羽筑」)、播磨国へ出陣して中国経略を開始。〔『兼見卿記』一〕
 10月23日 松平家忠、遠江国浜松城の普請に従事する。〔『家忠日記』〕
 10月24日 徳川家康(「家康」)、三河衆(「国衆」)に「振舞」をする。〔『家忠日記』〕
 10月24日 松平家忠、遠江国浜松城の普請に従事する。〔『家忠日記』〕
 10月25日 松平家忠、遠江国浜松城に於いて武田軍(「敵」)が大井川筋に出撃したことを知る。
       また、この日も遠江国浜松城の普請に従事する。〔『家忠日記』〕
 10月26日 羽柴秀吉(「羽柴筑前守秀吉」)、初めて音信する美作国の江見為久(「江見九郎次郎」)へ「西国行」の件で羽柴秀吉自身
       が美作国に着陣したことを通達。また山中幸盛(「山中鹿之助」)を通じてきた「内存」を諒承したという織田信長「御朱印」
       が発給されたので忠節を促す。さらに詳細は山中幸盛(「山鹿」)より通達したように「加彦四」が伝達することを通知。
       〔「美作江見文書」、『記録御用所本古文書』十〕
 10月26日 松平家忠、遠江国浜松城の普請に従事する。「各国衆」は三河国へ帰還した。この日、松平家忠の普請分は大方出来た。
       〔『家忠日記』〕
 10月26日 吉田牧庵、相模国より帰洛し、吉田兼見のもとへ北条氏政(「北条左京大夫」)の書状・太刀緞子・八丈島縞物を持参。
       〔『兼見卿記』一〕
 10月27日 松平家忠、遠江国浜松城の普請に従事する。〔『家忠日記』〕
 10月28日 松平家忠、遠江国浜松城の普請を終了す。〔『家忠日記』〕
 10月29日 明智光秀(「惟任日向守」)、丹波国籾井城を攻撃。〔『兼見卿記』一〕
 10月29日 「福五」、この日近江国安土より大和国へ帰国。〔『多聞院日記』二〕
 10月  日 織田信忠、大和国法隆寺内東寺へ織田信長「朱印」の旨に任せた全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「法隆寺文書」五〕
 10月  日 織田信忠、大和国薬師寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「薬師寺文書」〕

11月
 11月 1日 織田信長(「信長」)、北畠信意(「茶箋殿」:織田信雄)へ春日若宮の拝殿領の大和国宇多郡宇賀志庄と五節供料所の
       西殿庄を大和国人の沢氏・秋山氏が「押妨」しているので、この「違乱」を停止させることを命令。
       〔「小川文書」、『続南行雑録』〕
 11月 1日 多聞院英俊、揚本某を初めて礼問。ついで十市遠長(「十常」)を礼問す。〔『多聞院日記』二〕
 11月 1日 松平家忠、三河国緒河の「水野藤次」より飛脚を受ける。〔『家忠日記』〕
 11月 2日 松平家忠、三河国岡崎の鷹野へ出る。〔『家忠日記』〕
 11月 3日 松平家忠、三河国岡崎の鷹野へ出る。またこの日上村出羽守の小者が「生涯」したことを知る。〔『家忠日記』〕
 11月 4日 松平家忠、三河国岡崎の鷹野へ出る。〔『家忠日記』〕
 11月 5日 三河国岡崎にて上村出羽守が没したというので「会下」にて「法門」が行われる。〔『家忠日記』〕
 11月 6日 三河国岡崎にて没した上村出羽守の「法門」が行われた。〔『家忠日記』〕
 11月 7日 吉田兼見、細川藤孝(「長兵」)らの来訪を受けるも眼病により対面せず。〔『兼見卿記』一〕
 11月 7日 松平家忠、三河国岡崎の鷹野へ出る。〔『家忠日記』〕
 11月 8日 細川藤孝(「長兵」)、未明に丹波国勝龍寺城へ帰城。〔『兼見卿記』一〕
 11月 8日 松平家忠、三河国岡崎より三河国吉田城の酒井忠次(「酒井左衛門尉」)へ使者を派遣す。〔『家忠日記』〕
 11月 9日 松平家忠、三河国永良郷へ鷹野に出る。〔『家忠日記』〕
 11月10日 松平家忠、三河国永良郷長池にて「白なわ」を引き鯉33匹を取った。〔『家忠日記』〕
 11月11日 松平家忠、三河国深溝城へ帰還。〔『家忠日記』〕
 11月13日 松平家忠、三河国深溝の鷹野へ出る。〔『家忠日記』〕
 11月14日 織田信長(「内府信長」)、未明に上洛。〔『兼見卿記』一〕
 11月14日 松平家忠、三河国深溝城にて三河国緒河より若衆の到来を受ける。〔『家忠日記』〕
 11月15日 松平家忠、三河国深溝城より三河国岡崎城へ赴く。〔『家忠日記』〕
 11月16日 織田信長(「平信長」)、従二位に昇進。〔『公卿補任』〕
 11月16日 織田信張、従五位上に昇進。
 11月16日 生駒近清(「生駒市左衛門尉」)、織田信長「御朱印」を獲得するために使僧が長期逗留して折衝に当たっている大和国
       薬師寺惣中に対して、織田信長「御朱印」の件は一雲斎針阿弥(「一雲」)と相談し発給に至ること、要請のあった最前の
       織田信長「御朱印」は少も相違なく発給されることになったので満足すべきであると「御両所」(織田信長・織田信忠)が仰せ
       下したことを通達。〔「薬師寺文書」〕
 11月16日 松平家忠、三河国岡崎城にて三河国緒河の「水野藤次殿」より家中衆へ贈物を受ける。〔『家忠日記』〕
 11月17日 羽柴秀吉(「羽柴筑前守秀吉」)、大和国薬師寺に対して乱暴・狼藉者には「御成敗」を加える旨の織田信長「御朱印」が
       下されたので、羽柴秀吉(「我等」)の配下が違法行為に及んだ場合は報告すべきことを通達。〔「薬師寺文書」〕
 11月18日 織田信長(「内府」)、禁中へ参内し小御所で「御盃」を受け、その後に東山において鷹狩を行う。
       「大雷」により間もなく帰京。〔『兼見卿記』一〕
 11月18日 丹羽長秀(「丹羽五郎左衛門尉長秀」)、大和国薬師寺に対して陣取・乱暴・狼藉を働いた者には「御成敗」を加える旨の
       織田信長「御朱印」が下されたので、丹羽長秀(「我等」)の配下が違法行為に及んだ場合は報告すべきことを通達。
       〔「薬師寺文書」〕
 11月18日 吉田兼見、眼病のため吉田兼治(「侍従」)を東山に派遣し織田信長へ茶菓子を進上させる。
       吉田兼治は「古今希代之物見」であったこと、織田信長(「内府」)が吉田兼見の病状を尋ねた旨を報告。〔『兼見卿記』一〕
 11月19日 織田信長、某(「本願重□□」)へ「雑賀成敗」にあたり速やかに挙兵し織田側に忠節を尽くすよう命令。
       〔「伊東家古文書写」〕
 11月19日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)より織田信長から昨日の「御茶湯」菓子の返礼として雁を贈られた旨を通達される。
       〔『兼見卿記』一〕
 11月20日 織田信長(「平信長」)、右大臣に転任。〔『公卿補任』〕
 11月20日 松平家忠、三河国岡崎の鷹野へ出る。〔『家忠日記』〕
 11月21日 織田信長、「やうしゆん院」へ祇園内に23貫文の地子銭、「きつち」内に2貫文の地子銭と地子米2石を付与する。
       〔「宮内庁書陵部所蔵文書」〕
 11月21日 吉田兼見、織田信長(「内府信長」)が「右府」宣下を受けた旨を知る。〔『兼見卿記』一〕
 11月21日 松平家忠、「会下」へ参る。〔『家忠日記』〕
 11月22日 織田信長、久我季通(「久我殿」)へ去る永禄11年10月20日付の織田信長「朱印」の旨に任せて本知分を還附する。
       〔「久我文書」五〕
 11月23日 松平家忠、三河国岡崎にて「鷹へや」を造作す。〔『家忠日記』〕
 11月24日 松平家忠、三河国岡崎の鷹野へ出る。〔『家忠日記』〕
 11月25日 松平家忠、三河国岡崎の鷹野へ出る。〔『家忠日記』〕
 11月26日 松平家忠、三河国岡崎の鷹野へ出る。〔『家忠日記』〕
 11月26日 黒田孝高(小寺孝高)、播磨国福原城(「佐用面」)を攻略。
 11月27日 織田信長(「右大臣兼右近衛大将平朝臣」)、山城国松尾神社へ社領を安堵。〔「松尾神社文書」五〕
 11月27日 羽柴秀吉、備前国宇喜多氏の播磨国七条城(上月城)を攻略し尼子勝久・山中幸盛に守備させる。
 11月27日 松平家忠、「江湖僧衆」に「振舞」す。〔『家忠日記』〕
 11月28日 織田信長、土御門久脩(「土御門治部大輔」)へ若狭国内の領知は父の土御門有脩(「有長」)の「当知行」に任せて安堵
       するので「進退」すべきことを通達し、「家業」に邁進することを命令。〔「土御門文書」二〕
 11月28日 松平信康(「信康」)、三河国岡崎城へ到来。〔『家忠日記』〕
 11月29日 大和国興福寺大乗院の「御反銭」の件で、織田信長(「右大臣公」)の「副使」藤田伝五が去11月26日より奈良へ到来
       しており、督促を受けて興福寺側は「以外取乱」す。〔『多聞院日記』二〕
 11月29日 興福寺順忍房、織田信長「御朱印」の件で五大院へ赴く。〔『多聞院日記』二〕
 11月29日 松平信康、三河国岡崎城に逗留す。〔『家忠日記』〕
 11月29日 「六供三城坊」、榊原七郎右衛門の所へ出向く。〔『家忠日記』〕

12月
 12月 1日 織田信長、山城国等持院へ摂津国瓦林・野間・友行名の散在分は数通の「判形」・「証文」所持の上は「直務」すべきことを
       通達。また近年問題が生じている院領の年貢収納を許可し、臨時課役を免除する。〔「等持院文書」〕
 12月 1日 松平信康(「信康」)、三河国岡崎城に於いて三河衆を謁見す。〔『家忠日記』〕
 12月 2日 松平家忠、三河国岡崎より三河国深溝城へ帰還。〔『家忠日記』〕
 12月 5日 織田信長、黒田孝高(「小寺官兵衛尉」:小寺孝高)へ去る11月26日の「佐用面」(播磨国福原城)攻略の戦功を賞し、
       ますますの軍功を励行。詳細は羽柴秀吉(「羽柴筑前守」)より伝達させる。〔「黒田文書」七〕
 12月 5日 堀秀政(「堀久太郎秀政」)、黒田孝高(「小寺菅兵衛尉」:小寺孝高)へ去る11月28日(26日の誤りか)の戦功は
       「無比類御働」であったことを羽柴秀吉(「羽柴」)からの注進状によって報告され、堀秀政が披露したところ、織田信長は
       特別に喜んで織田信長「御朱印」が発給されたことは「御名誉」であることを通達。詳細は羽柴秀吉(「羽柴」)が「演説」
       することを通達。また黒田孝高宛の織田信長「御朱印」は羽柴秀吉(「羽筑」)へ送付したことを通達。〔「黒田文書」六〕
 12月 5日 織田信長、岡本但馬守・福田孫八郎へ去る11月26日の「佐用表」(播磨国福原城)攻略の戦功を賞し、ますますの軍功を
       励行。詳細は羽柴秀吉(「羽柴筑前守」)より伝達させる。〔『上房郡川面村誌』〕
 12月 5日 伊達晴宗(奥州探題)、没。〔『日本史人物生没年表』〕
 12月 7日 羽柴秀吉、播磨国七条城(上月城)を奪取。
 12月10日 羽柴秀吉、別所重宗・黒田孝高(「小寺」)に対し別所重宗娘と黒田孝高子息の縁談成立と今後合力して尽力する旨を命令。
       〔「黒田侯爵家文書」〕
 12月11日 松平家忠、三河国深溝の鷹野へ出る。〔『家忠日記』〕
 12月12日 松平家忠、三河国深溝より三河国岡崎へ赴く。〔『家忠日記』〕
 12月13日 松平家忠、三河国岡崎にて松平景忠(「松平太郎左衛門」)を礼問す。〔『家忠日記』〕
 12月14日 松平家忠、三河国岡崎より三河国深溝城へ帰還。〔『家忠日記』〕
 12月15日 松平家忠、「会下」へ参る。〔『家忠日記』〕
 12月 中旬 羽柴秀吉、安土城へ登城し織田信長へ戦果を復命。〔「信長公記」〕
 12月27日 松平家忠、三河国竹谷の松平清宗(「松平備後守」)へ「借銭」を依頼するために使者を派遣す。〔『家忠日記』〕
 12月28日 佐久間信栄(「甚九郎」)、河内国天野下里郷へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「金剛寺文書」‐323〕
 12月28日 松平家忠、「会下」へ参る。〔『家忠日記』〕
 12月29日 松平家忠、三河国吉田城の酒井忠次に「借銭」し、納所へ使者を派遣す。〔『家忠日記』〕
 12月 晦日 松平家忠、三河国岡崎城の松平信康へ歳暮祝儀のために使者を派遣す。〔『家忠日記』〕
 12月    村井貞勝(「村井長門守貞勝」)、川端道喜(「道喜入道」)へ今度の「禁裏様」御築地の「御作事奉行之忠恩」として
       親子酒役・諸公事・諸役の免許を織田信長「御下知」によって安堵する旨を通達。〔「川端道喜文書」‐4〕

    この年 戸田氏鉄、誕生(異説1576年)。〔『日本史人物生没年表』〕
        北条氏盛、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
        堀直寄、尾張国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕


フロントページに戻る
目次に戻る
項目別文献・論文一覧へ