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天正 4(1576)年 1月 1月 1日 山科言経、暮れに及び山科言継(「老父」)と共に元日祝賀のため参内。 「天酌被参衆」は中山孝親・勧修寺晴右・山科言継・持明院基孝・四辻公遠・甘露寺中納言・三条西公国・山科言経・ 庭田重通・勧修寺晴豊・中院通勝・中山慶親・正親町実彦・中山親綱・五辻為仲・白川雅朝・広橋兼勝・四辻季満・高倉範国・ 万里小路充房・橘以継・五辻元仲らであった。以上の公家衆は、次いで誠仁親王(「親王御方」)へ参賀し退出。 〔『言経卿記』一〕 1月 1日 日野資定(「日野一位」)、外様に番代として参内。相番は東坊城盛長・四条隆昌らであった。 山科言経は昼のみの参内であり、持明院基孝より相伝があった。〔『言経卿記』一〕 1月 2日 大沢重延(「大沢右兵衛大夫」)等、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 1月 2日 土御門有脩(「安三位」)・土御門在綱(「陰陽頭」)、山科言継(「老父」)へ酒樽を、山科言経へ扇子を持参し到来。 〔『言経卿記』一〕 1月 2日 橘以継、女房衆を引き連れ山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 1月 2日 山科言経、暮れに二日御祝の祝賀として参内。 「天酌被参輩」は中山孝親・勧修寺晴右・持明院基孝・四辻公遠・甘露寺経元・三条西公国・山科言経・庭田重通・中院通勝・ 中山親綱・五辻為仲・広橋兼勝・高倉範国・万里小路充房・小倉季藤・橘以継・源元仲らであった。 その後、公家衆は誠仁親王(「御方御所」)へ祗候し「御酌」を賜わり退出。〔『言経卿記』一〕 1月 3日 冷泉為満、山科言経を訪問し談合。〔『言経卿記』一〕 1月 3日 山科言経、白川雅朝を訪問。〔『言経卿記』一〕 1月 3日 山科言経、暮れに及び三日御祝の祝賀として参内。先ず誠仁親王(「親王御方」)を訪問。 「天酌之被参衆」は山科言継・庭田重保・持明院基孝・四辻公遠・甘露寺経元・三条西公国・山科言経・勧修寺晴豊・ 中院通勝・正親町実彦・中山親綱・五辻為仲・広橋兼勝・四辻季満・万里小路充房・橘以継・五辻元仲らであった。 その後、公家衆は誠仁親王(「親王御方」)へ祗候し「御酌」を賜わり退出。〔『言経卿記』一〕 1月 4日 山科言経、山科言継等と共に橘以継を訪問。山科言経・橘以継、「鞠始」の練習をする。〔『言経卿記』一〕 1月 4日 山科言経、「千歳万歳」祝儀として参内。参席者は中山孝親・勧修寺晴右・山科言継・四辻公遠・山科言経・勧修寺晴豊・ 中院通勝・中山慶親・五辻為仲・白川雅朝・広橋兼勝・高倉永孝・四辻季満・高倉範国・万里小路充房・橘以継・五辻元仲らで あった。山科言経は早々に退出。〔『言経卿記』一〕 1月 4日 山科言経、飛鳥井雅敦(「飛鳥井中将」)を「鞠始」のため訪問。参席者は高倉永相・山科言経・飛鳥井雅継・五辻為仲・ 飛鳥井雅敦・西洞院時通・高倉永孝・橘以継・五辻元仲・速水甚介らであった。〔『言経卿記』一〕 1月 4日 山科言経、山科言継(「老父」)の番代として参内。相番は正親町実彦・広橋兼勝等、外様衆は徳大寺公維・五辻元仲らで あった。山科言経、禁裏の「御焼火」に参席。徳大寺公維が来訪し、山科言経が申次をした。その後、高倉永相・高倉永孝・ 白川雅朝等が到来。〔『兼見卿記』一〕 1月 5日 山科言経、冷泉為満のために飛鳥井雅敦(「飛鳥井中将」)を訪問し直衣を借用。〔『言経卿記』一〕 1月 5日 朝山日乗(「典斎」)、山科言経を礼問。〔『言経卿記』一〕 1月 5日 禁裏に於ける「千秋万歳」祝賀に山科言経が参列。「参内衆」は四辻公遠・山科言経・中院通勝・中山慶親・中山親綱・ 白川雅朝・高倉永孝・四辻季満・高倉範国・橘以継・五辻元仲であった。〔『言経卿記』一〕 1月 5日 山科言経、松木宗房の番代として参内。 相番は庭田重通・高倉範国、外様衆は飛鳥井雅敦・万里小路充房(三木自綱の代理として)らであった。〔『言経卿記』一〕 1月 5日 冷泉為満、暮れに山科言経を訪問、談合。〔『言経卿記』一〕 1月 5日 四条隆昌(「侍従藤原朝臣隆昌」)の任「左近衛権少将」の口宣が発せられる。〔『言経卿記』一〕 1月 5日 舟橋教重(「清原教重」:従五位上)の叙「正五位下」の口宣が発せられる。〔『言経卿記』一〕 1月 5日 織田信忠(「平信忠」)、「従四位下」に昇進。〔『公卿補任』〕 1月 6日 橘以継、女房衆等を同行し山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 1月 6日 竹田定珪・竹田定加父子、参内し正親町天皇(「上」)より扇を拝領。その後、誠仁親王(「親王御方」)を訪問。 〔『言経卿記』一〕 1月 6日 四条隆昌・舟橋教重、上搆芫ヌ(花山院家輔女)の奏上で昇進の「勅許」を得る。〔『言経卿記』一〕 1月 6日 山科言経、禁中より「補任」・「歴名土代」の進上命令を受ける。〔『言経卿記』一〕 1月 6日 冷泉為満、山科言経を訪問、談合。〔『言経卿記』一〕 1月 6日 山科言経、飛鳥井雅敦(「飛鳥羽林」)へ直衣を返還。〔『言経卿記』一〕 1月 7日 中山親綱、早朝に山科言経を訪問し四条隆昌の任「左近衛権少将」ならびに舟橋教重の叙「正五位下」口宣を渡す。 〔『言経卿記』一〕 1月 7日 山科言経、禁裏へ「御補歴」・「土代」を進上。次いで伊予殿(舟橋教重女)を訪問し舟橋教重の口宣を渡す。 〔『言経卿記』一〕 1月 7日 山科言経、冷泉為満へ四条隆昌(「四条少将」)の口宣を送付。〔『言経卿記』一〕 1月 7日 山科言経、暮れに及び参内。「天酌被参衆」は勧修寺晴右・庭田重保・持明院基孝・四辻公遠・甘露寺経元・三条西公国・ 山科言経・庭田重通・勧修寺晴豊・中院通勝・中山慶親・正親町実彦・中山親綱・五辻為仲・高倉範国・万里小路充房・ 小倉季藤・橘以継・五辻元仲らであった。その後、公家衆は誠仁親王(「宮御方」)へ祗候し退出。〔『言経卿記』一〕 1月 7日 山科言経、誠仁親王(「宮御方」)へ「補任」・「歴名」を貸す。〔『言経卿記』一〕 1月 7日 吉田兼見、徳大寺公維・小笠原長時らに神供を送付。〔『兼見卿記』一〕 1月 8日 山科言経邸に於いて「千秋万歳」が行われる。〔『言経卿記』一〕 1月 8日 松永久通(「金吾」)、鷹狩(「たかの」)のため外出。〔『多聞院日記』二〕 1月 8日 多聞院英俊、払暁に大和国新賀城へ下向し、ここから十市遠長(「常」)・塙小七郎・東勘大夫・山口喜左衛門・ 御牧景則(「御牧勘兵衛」)らへ贈物をする。 また松永久通(「松永右衛門佐殿」)・「御ナヘ」(松永久通室)・松永加賀守・立入勘介・海老名助之丞らへの贈物を 大和国楊本城に送付。〔『多聞院日記』二〕 1月 9日 山科言経、五辻元仲(「新蔵人」)の要請で「公卿補任」15巻・17巻・18巻を貸し、後刻返還される。また36巻より 40巻迄の5冊を貸す。〔『言経卿記』一〕 1月 9日 山科言経、勧修寺晴豊(「勧修寺左大丞」)へ「補歴」を直接貸す。〔『言経卿記』一〕 1月 9日 冷泉為満、暮れに及び山科言経を訪問、談合。〔『言経卿記』一〕 1月 9日 山科言経、山科言継(「老父」)の番代として参内。 相番は中院通勝・五辻元仲らであった。加番は万里小路充房、外様衆は西洞院時通であった。〔『言経卿記』一〕 1月 9日 細川藤孝(「細川兵部大輔」)、入夜に吉田兼見を訪問し深更およぶまで談義。〔『兼見卿記』一〕 1月10日 山科言経、この朝に禁裏より「公事根源抄」を、誠仁親王(「宮御方」)より「補歴」を返還する由を受ける。 〔『言経卿記』一〕 1月10日 山科言経、飛鳥井雅敦(「飛羽林」)へ直衣借用を依頼。〔『言経卿記』一〕 1月10日 山科言経、「五辻」(五辻為仲?)へ指貫借用を依頼。〔『言経卿記』一〕 1月10日 葉室長教(「葉室弁」)、上洛。〔『言経卿記』一〕 1月10日 山科言経、近衛信尹(「近衛殿若公」)の参内というので参内。申次は中山親綱。「参会衆」は西洞院時通・高倉永孝。 次いで誠仁親王(「宮御方」)へ祗候。 この日の「御礼衆」は二条晴良(「関白殿」)の御三間にて対面。西園寺公朝・大覚寺尊信・久我季通らであった。 暮れに冷泉為満・四条隆昌・葉室長教・水無瀬親具が参内。水無瀬親具、誠仁親王(「宮御方」)へ祗候。〔『言経卿記』一〕 1月10日 冷泉為満・四条隆昌、暮れに山科言経を訪問し談合。〔『言経卿記』一〕 1月10日 山科言経、松木宗房の番代として参内。相番は高倉範国・五辻元仲、外様衆は甘露寺経元・冷泉為満であった。 〔『言経卿記』一〕 1月10日 織田信長、尾張国熱田社大宮司の千秋季信(「千秋喜七」)へ「熱田太宮神職」を「一円ニ宛行」い、「沽却地」であっても 改めて指示を下し完全な「直務」とすべきことを通達。〔「千秋文書」、「尾張寺社領文書」〕 1月10日 細川藤孝(「長兵」)、吉田兼見宅より丹波国勝龍寺城へ帰城。〔『兼見卿記』一〕 1月10日 吉田兼見、村井貞勝(「村井」)から派遣された奉行2人を饗応。〔『兼見卿記』一〕 1月10日 細川昭元(「細川右京兆」)、明日の岐阜下向にあたり吉田兼見へ御祓を所望。〔『兼見卿記』一〕 1月11日 山科言経、この朝に誠仁親王(「宮御方」)へ「天神御十号」を相伝する由を奏上。〔『言経卿記』一〕 1月11日 五辻元仲(「新蔵人」)、山科言経へ「公卿補任」5冊を返還。〔『言経卿記』一〕 1月11日 山科言経、五辻為仲へ指貫を、飛鳥井雅敦(「飛羽林」)へ直衣を返還。〔『言経卿記』一〕 1月11日 山科言経、持明院基孝の番代として参内。相番は中院通勝・万里小路充房・五辻元仲らであ、外様衆は冷泉為満・橘以継らで あった。山科言経、「御焼火」へ参る。〔『言経卿記』一〕 1月11日 中山親綱、「宰相中将」へ昇進。〔『言経卿記』一〕 1月11日 織田信忠(「信忠」)、尾張国熱田社大宮司の千秋季信(「千秋喜七郎」)へ「熱田太宮神職」を「一円ニ宛行」い、 「沽却地」であっても改めて指示を下し完全な「直務」とすべきことを通達。〔「千秋文書」、「尾張寺社領文書」〕 1月11日 佐久間信盛(「佐久間右衛門尉信盛」)・佐久間信栄(「佐久間甚九郎信栄」)、尾張国熱田社大宮司の 千秋季信(「千秋喜七郎」)へ織田信長・織田信忠が「熱田太宮神職」を安堵したので「沽脚地」でも織田信長「御朱印」の旨 に任せて全て社領とすることを通達。〔「尾張寺社領文書」〕 1月12日 山科言経、朝に中院通勝を訪問。大炊御門経頼への「加級之事」で談合す。〔『言経卿記』一〕 1月12日 橋本実勝(侍従)、万里小路充房の番代として外様へ参内。相番は大炊御門経頼(「大炊御門少将」)であった。 「内々衆」は持明院基孝・四辻公遠・中山親綱・中院通勝らであった。〔『言経卿記』一〕 1月12日 西洞院時通・五辻元仲(「新蔵人」)、山科言経を訪問し談合。五辻元仲(「新蔵人」)、山科言経へ「補歴」を返還。 〔『言経卿記』一〕 1月13日 山科言経、相国寺雲松軒春湖より朝食に招請さる。豊原守秋・山井景長・山科言継(「老父」)が相伴。〔『言経卿記』一〕 1月13日 山科言経、年始廻礼を行う。竹内長治・近衛前久・「御霊殿」・柳原資定・冷泉為純・岡殿(覚音女王)・三条西実枝・ 伏見殿(邦房親王)・持明院基孝・今出川晴季(「菊亭」)・梶井殿(應胤親王)・大祥寺殿(永邵女王)等を廻った。 〔『言経卿記』一〕 1月13日 山科言経、禁中からの召集で参内、飛鳥井雅敦(「飛鳥井大納言」)の参賀であった。 山科言経、次いで誠仁親王(「宮御方」)へ祗候。〔『言経卿記』一〕 1月13日 「十後」(松永久通室)、在京す。〔『多聞院日記』二〕 1月13日 御牧景則(「御牧勘兵衛」)、上洛。〔『多聞院日記』二〕 1月14日 大炊御門経頼、山科言経を訪問。「ゥ家傳」を借用。〔『言経卿記』一〕 1月14日 中院通勝、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 1月14日 山科言継(「老父」)、中院通勝へ番代を相伝。〔『言経卿記』一〕 1月14日 吉田兼見、禁裏参賀の後に村井貞勝(「村長」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕 1月15日 山科言経、暮れに十五日御祝のため参内。「天酌被参衆」は中山孝親・持明院基孝・四辻公遠・三条西公国・山科言経・ 勧修寺晴豊・中山親綱・中山慶親・滋野井実松・五辻為仲・白川雅朝・「兼藤」・四辻季満・高倉範国・万里小路充房・ 橘以継・五辻元仲であった。また禁裏東庭に於いて「三毬打」が行われた。次いで公家衆は誠仁親王(「宮御方」)へ祗候し 退出。〔『言経卿記』一〕 1月15日 山科言継(「老父」)、番代を持明院基孝へ相伝。〔『言経卿記』一〕 1月15日 吉田兼見、丹波国黒井城を攻囲している明智光秀が波多野秀治の逆心により敗北を喫した旨を知る。〔『兼見卿記』一〕 1月16日 山科言経、勧修寺晴豊(「勧修寺弁」)より「禁中御会廻文」を受ける。〔『言経卿記』一〕 1月16日 三条西実枝(「三条大納言」)、中院通勝より相伝し番代として参内。相番は持明院基孝・五辻為仲・万里小路充房らで あった。〔『言経卿記』一〕 1月16日 筒井順慶(「筒井順慶」)、美濃国岐阜より直接在所(筒井順慶居城)へ帰還。〔『多聞院日記』二〕 1月16日 多聞院英俊、筒井順慶(「筒井順慶」)が美濃国岐阜より直接在所(筒井順慶居城)へ帰還したことを知る。 〔『多聞院日記』二〕 1月16日 多聞院英俊、「丁聞集」第6巻を書写する。〔『多聞院日記』二〕 1月17日 山科言経、禁中からの召集により参内し大隅守秀信の鵠捌を見物。見物衆は中山孝親・持明院基孝・四辻公遠・山科言経・ 中山親綱・五辻為仲・白川雅朝・高倉範国・万里小路充房・橘以継・五辻元仲らであった。〔『言経卿記』一〕 1月17日 賀茂神光院、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 1月17日 葉室長教、上洛。〔『言経卿記』一〕 1月17日 冷泉為満、山科言経を訪問し談合。〔『言経卿記』一〕 1月17日 二条昭実(「二条殿大納言」)、二条晴良(「殿下」)に随行し禁中へ初めて参内。〔『言経卿記』一〕 1月17日 織田信長(「信長」)、去年の織田信長「昇進」の祝儀を贈呈した小早川隆景(「小早川左衛門佐」)へその懇志を謝し、 詳細を武井夕庵(「二位法印」)・羽柴秀吉(「羽柴筑前守」)より伝達させる。〔「小早川家文書」一〕 1月18日 山科言経、禁中へ医道・陰陽道の系図を、白川雅朝へ御子左流系図を返還する。〔『言経卿記』一〕 1月18日 西洞院時通、早朝に山科言経を訪問。来たる29日の近衛邸(「陽明」)での御会の由を通知される。〔『言経卿記』一〕 1月18日 山科言経、勧修寺晴豊(「勧修寺弁」)より廻文にて19日の禁中御会延引を通知される。〔『言経卿記』一〕 1月18日 冷泉為満、山科言経を訪問し談合。〔『言経卿記』一〕 1月18日 織田信澄(「七兵衛尉」)、明智光秀救援のために近江国高島郡より上洛。〔『兼見卿記』一〕 1月18日 吉田兼見、織田信澄(「七兵衛尉」)を北白川に見舞う。〔『兼見卿記』一〕 1月19日 中院通勝、山科言経を訪問し「禁秘御抄」を借用。〔『言経卿記』一〕 1月19日 山科言経、山科言継(「老父」)の番代として参内。相番は広橋兼勝・五辻元仲らで、外様衆は中院通勝・西洞院時通らで あった。山科言経、「御焼火」へ参る。〔『言経卿記』一〕 1月19日 羽柴秀吉(「羽柴筑前守秀吉」)、小早川隆景(「小早川左衛門佐」)へ織田信長(「右大将殿」)に対する祝儀に謝意を 表し、織田信長「御返書」が発給される旨を毛利輝元(「右馬頭殿」)に対しても別紙が送付されること、別条の無いことの 伝達を依頼する。〔「小早川家文書」@‐393〕 1月20日 近衛邸に於いて和歌会始が行われる。参席者は近衛信尹(「若公」)・聖護院道澄・山科言継(「老父」)・山科言経・ 広橋兼勝・冷泉為満・北小路俊孝・上野民部少輔・丹波頼景・丹波頼慶・進藤長治らであった。飛鳥井雅敦は所労により欠席で 出題の懐紙が届けられた。〔『言経卿記』一〕 1月20日 山科言経、松木宗房の番代として参内。相番は高倉範国、加番は持明院基孝であった。〔『言経卿記』一〕 1月20日 筒井順慶(「筒井」)、上洛す。〔『多聞院日記』二〕 1月20日 多聞院英俊、早旦より大和国新賀城へ下向。塙小七郎・御牧勘兵衛・塙孫四郎らへ贈物をする。〔『多聞院日記』二〕 1月21日 山科言経、禁中からの召集で参内。三井寺圓満院殿の参内であった。次いで三井寺圓満院殿は誠仁親王(「宮御方」)へ 祗候。〔『言経卿記』一〕 1月21日 冷泉為満、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 1月21日 明智光秀(「惟任日向守」)、丹波国より近江国坂本へ帰還。吉田兼見は白川において明智光秀を見舞う。 〔『兼見卿記』一〕 1月21日 大和国興福寺の寺門衆、上洛した筒井順慶(「筒井」)を礼問す。〔『多聞院日記』二〕 1月21日 「十市坊分」の所領分配につき、大和国長柄城に於いて「鬮取」が行われる。〔『多聞院日記』二〕 1月22日 山科言経、禁中より諷本を返還される。〔『言経卿記』一〕 1月22日 山科言経、冷泉為満を訪問の後に近衛信尹を訪問。〔『言経卿記』一〕 1月22日 村井貞勝(「村井長門守」)、近衛信尹を訪問。〔『言経卿記』一〕 1月22日 大炊御門経頼、山科言経へ「ゥ家傳」を返還。〔『言経卿記』一〕 1月23日 多聞院英俊、去1月21日に「十市坊分」の所領をめぐり大和国長柄城に於いて「鬮取」が実施され、妙徳院・常持院・ 五大院・福聚院・塙直政(「原備」)・松永久通(「松右」)が参加、松永久通(「松右」)の領有となったことを知る。 〔『多聞院日記』二〕 1月24日 山科言経、山科言継(「老父」)の番代として参内。相番は持明院基孝・白川雅朝等、外様衆は五辻元仲であった。 〔『言経卿記』一〕 1月24日 林右京(「林右」)、大和国片岡城へ松永久通(「松金」)の出向のため派遣される。〔『多聞院日記』二〕 1月25日 持明院基孝、山科言経を訪問し笙を借用。〔『言経卿記』一〕 1月25日 山科言経、松木宗房の番代として参内。相番は無く、外様は中院通勝・飛鳥井雅敦らであった。 若王子僧正増鎮、当年加持のため禁中へ祗候、次いで誠仁親王(「宮御方」)へ祗候。〔『言経卿記』一〕 1月26日 持明院基孝、山科言経へ笙を返還。〔『言経卿記』一〕 1月26日 多聞院英俊、塙小七郎(「塙小」)を山城国槙島城に礼問、日帰りする。〔『多聞院日記』二〕 1月27日 吉田兼見、佐竹定実(「佐竹出羽守」)・佐竹左近允らの訪問を受ける。〔『兼見卿記』一〕 1月27日 松永久通(「松右」)、山城国槙島城より帰還の途中に五大院へ立ち寄る。〔『多聞院日記』二〕 1月27日 大和国奈良の薬屋甚介邸に於いて「連歌」会が開催される。〔『多聞院日記』二〕 1月28日 誠仁親王(「御方御所」)、御所に於いて御能興行を催す。猿楽衆は上下京の地下人であった。 その後、御座敷に正親町天皇が親臨、誠仁親王(「宮御方」)・岡殿(覚音女王)・曇華院殿(聖秀女王)・大祥寺殿・ 二宮御方(定輔親王)・三宮御方(勝輔親王)等が相伴。祗候した堂上衆は中山孝親・勧修寺晴右・山科言継(「老父」)・ 庭田重保・持明院基孝・四辻公遠・甘露寺経元・高倉永相・山科言経・庭田重通・勧修寺晴豊・正親町実彦・中山親綱・ 中院通勝・中山慶親・五辻為仲・白川雅朝・広橋兼勝・高倉永孝・四辻季満・高倉範国・万里小路充房・小倉季藤・橘以継・ 五辻元仲らであった。亥刻に山科言継(「老父」)・山科言経は退出。〔『言経卿記』一〕 1月28日 織田信長(「信長」)、別所長治(「別所小三郎」)へ「年甫之祝詞」としての太刀・馬の贈呈を謝し、近日の上洛予定を 通知。〔「秦文書」〕 1月28日 多聞院英俊、明智光秀(「明智」)が丹波国経略を「仕損」じて近江国坂本城へ漸く退却したこと、また織田軍の摂津国 「大坂之軍」(対石山本願寺)の敗北も知る。〔『多聞院日記』二〕 1月28日 多聞院英俊、塙直政(「原備」)より薪能見物の来訪予定が通達され、準備に追われる。〔『多聞院日記』二〕 1月29日 山科言経、山科言継(「老父」)の番代として参内。相番は広橋兼勝・五辻元仲らであった。〔『言経卿記』一〕 1月29日 織田信長、丹波国の川勝継氏(「川勝兵衛大輔」)へ丹波国八上城の波多野秀治の違背にあたり「堅固覚悟」を賞し、以後の 忠節を督促。また織田信長は近日中に上洛し「逆徒」等(波多野秀治ら)を「討伐」する予定を通達。 詳細は明智光秀(「惟任」)に伝達させる。〔「記録御用所本古文書」二〕 1月29日 「吉」・「八木新九郎」・「光順」・「下村源左衛門」(碓井定阿家臣か)、河内国観心寺惣中へ今度の 織田信長(「信長様」)が発令した河内国徳政令の「御使節」としてその旨を通達。また観心寺は先規より不入の寺であるが、 碓井定阿が「御取継」として従来の諸事免除の子細を了承したので碓井定阿自身が訪ねなかった旨を報ず。〔「観心寺文書」〕 1月30日 山科言経、松木宗房の番代として参内。相番は庭田重通、外様衆は五辻元仲であった。〔『言経卿記』一〕 1月 晦日 多聞院英俊、大和国楊本城へ下人四郎を派遣。〔『多聞院日記』二〕 1月 晦日 多聞院英俊、松永久通(「松永」)より大和国興福寺寺門衆への返札を受ける。〔『多聞院日記』二〕 1月 日 織田信長、播磨国網干郷へ全3ヶ条の「禁制」を下す。違反者は「忽」厳罰に処す旨を通達。〔「播磨網干郷文書」〕 1月 中旬 織田信長、丹羽長秀(「丹羽五郎左衛門」)へ近江国安土山「御普請」を命令。〔『信長公記』巻九〕 2月 2月 1日 山科言継・山科言経、烏丸光宣(「烏丸弁」)・日野輝資・広橋兼勝等を同行し村井貞勝(「村井長門守」)を訪問。 山科言経、近衛信尹(「近衛殿」)を訪問。〔『言経卿記』一〕 2月 1日 山科言経、暮れに山科言継(「老父」)と共に月朔祝賀のため参内。「天酌被参衆」は山科言継・庭田重保・持明院基孝・ 四辻公遠・甘露寺経元・三条西公国・山科言経・庭田重通・勧修寺晴豊・中山親綱・中院通勝・五辻為仲・広橋兼勝・ 四辻季満・高倉範国・万里小路充房・橘以継・五辻元仲等也。次いで公家衆は誠仁親王(「御方御所」)へ祗候。 〔『言経卿記』一〕 2月 1日 柳原資定(「日野一位」)、持明院基孝より番代を相伝され、即時橘以継に番代を相伝。〔『言経卿記』一〕 2月 1日 御牧景則(「御牧勘兵」)・神足某・東勘大夫、山城国槙島城より五大院の件で大和国興福寺を訪問。〔『多聞院日記』二〕 2月 2日 山科言経、勧修寺晴豊(「勧修寺弁」)、次いで五辻為仲を訪問。〔『言経卿記』一〕 2月 2日 山科言経、「職事補任」を甘露寺経元に借用。〔『言経卿記』一〕 2月 2日 冷泉為満、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 2月 2日 山科言経、橘以継の番代として参内。相番は中院通勝・五辻元仲らで、外様衆は大炊御門経頼であった。〔『言経卿記』一〕 2月 2日 吉田兼見、腫物を煩った村井貞勝(「村民」)を見舞う。〔『兼見卿記』一〕 2月 2日 細川昭元(「細川右京兆」)、吉田兼見へ年賀の使者を派遣。〔『兼見卿記』一〕 2月 2日 御牧景則(「御牧勘兵衛」)ら、大和国興福寺より山城国槙島城へ帰還。〔『多聞院日記』二〕 2月 3日 山科言経、禁中からの召集により参内。正親町天皇、誠仁親王(「宮御方」)・中山親綱等に「明題抄」書写を命令。 〔『言経卿記』一〕 2月 3日 高辻長雅、中風本復により参内。〔『言経卿記』一〕 2月 4日 山科言経、山科言継(「老父」)の番代として参内。相番は広橋兼勝、外様衆は徳大寺公維・五辻元仲らであった。 また「公卿補任」第30巻を返還された。〔『言経卿記』一〕 2月 4日 多聞院英俊、大和国興福寺ゥ坊へ筒井順慶(「筒」)より「台」・「公卿」・「食籠」の用意を命令され「迷惑」に感ずる。 〔『多聞院日記』二〕 2月 5日 中御門宣教・冷泉為満・山井景長・相国寺雲松軒、山科言経を訪問し談合。〔『言経卿記』一〕 2月 5日 山科言経、松木宗房の番代を持明院基孝に相伝。〔『言経卿記』一〕 2月 5日 多聞院英俊、「十後」(松永久通室)が1月26日に煩ったことを知らされる。〔『多聞院日記』二〕 2月 6日 五辻元仲(「新蔵人」)、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 2月 6日 冷泉為満、暮れに山科言経を訪問し談合。〔『言経卿記』一〕 2月 6日 禁中に於いて蹴鞠が行われる。山科言経、所労を理由に参加せず見物。 誠仁親王(「御方御所」)・中院通勝・高倉永孝・万里小路充房・橘以継・五辻元仲等が蹴鞠に参加。〔『言経卿記』一〕 2月 6日 塙直政(「原田備中守」)、「薪能」見物に大和国興福寺に下向。筒井順慶(「順慶」)・松永久通(「松永」)も同行。 〔『多聞院日記』二〕 2月 6日 多聞院英俊、「十後」(松永久通室)の病状を「備衛」へ通知。林右京が「上」るというので薬を持たせる。「鬮取」した ところ「不吉」という結果であった。〔『多聞院日記』二〕 2月 7日 山科言経、広橋兼勝へ「職事補任」下巻を借用。〔『言経卿記』一〕 2月 7日 葉室長教、上洛。葉室頼房が番代として参内。〔『言経卿記』一〕 2月 7日 勧修寺晴豊(「勧修寺弁」)・大炊御門経頼・中御門宣教・速水友益等、山科言経を訪問し談合。 山科言経、速水友益へ「侖吾抄」を貸す。〔『言経卿記』一〕 2月 7日 足利義昭、備後国鞆津より吉川元春へ毛利輝元に幕府再興を通達するよう命令。 2月 7日 多聞院英俊、塙直政(「原田備中守」)が「薪能」見物のために大和国興福寺へ下向し成身院に宿泊したこと、塙直政 「代官衆」は蓮成院へ、筒井順慶(「順慶」)は圓明院へ、松永久通(「松永」)は五大院に宿泊したこと、6日・7日には能 は興行されず、「猿楽」は金春座・金剛座・観世座の3座が興行したことを知る。〔『多聞院日記』二〕 2月 7日 井伊直政、徳川家康の寝所を襲った武田間者の近藤武介を討ち取る。〔『井伊年譜』〕 2月 8日 山科言経、用も無く所労により外出せず。〔『言経卿記』一〕 2月 8日 大和国では一日中「大雨」のため興福寺での「能」興行は中止。〔『多聞院日記』二〕 2月 8日 多聞院英俊、塙小七郎(「塙小」)を見舞う。塙小七郎は多聞院英俊と夕飯を共にする約束をするも実現できず、明日夕刻に 再度約束する。〔『多聞院日記』二〕 2月 8日 多聞院英俊、林右京より「十後」(松永久通室)の病状報告を受け安心する。 また多聞院英俊、森本久右衛門が明日上京するというので留める。〔『多聞院日記』二〕 2月 9日 山科言経、相国寺雲松軒と双六を打つ。次いで五辻元仲(「新蔵人」)が来訪。〔『言経卿記』一〕 2月 9日 山科言経、山科言継(「老父」)の番代として参内。相番は白川雅朝・五辻元仲らで、外様衆は西洞院時通であった。 山科言経、「御焼火」へ参り「花光草子」を読進す。その後山科言経は中院通勝を訪問。〔『言経卿記』一〕 2月 9日 大和国では大雨の後の「雨気」が散っておらず、興福寺での「能」興行は延引。〔『多聞院日記』二〕 2月10日 山科言経、中院通勝・白川雅朝を訪問。〔『言経卿記』一〕 2月10日 松木宗房、番代として参内。相番は中山親綱、加番は持明院基孝、外様衆は冷泉為純・冷泉為満であった。 〔『言経卿記』一〕 2月10日 大和国興福寺に於いて「四打之前」より「能」興行が開始される。 塙直政(「原備」)が見物、大和四座による12番の能が行われた。〔『多聞院日記』二〕 2月11日 山科言経、中院通勝を訪問。後に冷泉為満、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 2月11日 山科言経、万里小路充房の番代として参内。相番は持明院基孝・中院通勝・五辻為仲、外様衆は四条隆昌であった。 〔『言経卿記』一〕 2月11日 塙直政(「原備」)、大和国長柄城へ少人数にて下向。〔『多聞院日記』二〕 2月11日 多聞院英俊、塙安弘(「塙喜」)より塙直政(「原備」)が大和国長柄城へ少人数にて下向したことを知る。 〔『多聞院日記』二〕 2月12日 山科言経、葉室長教・冷泉為満と上京を「徘徊」。〔『言経卿記』一〕 2月12日 速水友益、山科言経を訪問し「侖吾抄」2冊を借用。〔『言経卿記』一〕 2月12日 塙直政(「原備」)、大和国長柄城より直接山城国槙島城へ帰城。〔『多聞院日記』二〕 2月12日 大和国では雨は止んだが、「シルキ」のために「能」興行は行われず。 多聞院英俊、筒井順慶(「筒井」)が東大寺「二月堂」に籠もっている(参籠か?)こと、塙直政(「原備」)は大和国長柄城 から直接山城国槙島城へ帰城したことを知る。〔『多聞院日記』二〕 2月13日 白川雅朝(「白川雅朝」)、山科言経より「小塩」の謡本を借用。〔『言経卿記』一〕 2月13日 速水友益、山科言経へ「侖吾抄」を返還。〔『言経卿記』一〕 2月13日 冷泉為満・相国寺雲松軒、山科言経を訪問し談合。〔『言経卿記』一〕 2月13日 大和国興福寺に於いて「能」が9番興行される。金春座の「松風」・「村雨」を多聞院英俊は「見事」と評す。 〔『多聞院日記』二〕 2月13日 里村紹巴(「紹巴」)・木津甚五郎(「甚五郎」)、大和国木津より興福寺へ能見物に訪れ奈良に宿泊す。 〔『多聞院日記』二〕 2月14日 山科言経、冷泉為満・葉室長教を同行し報恩寺の遺教経聴聞に出向く。〔『言経卿記』一〕 2月14日 山科言経、山科言継(「老父」)の番代として参内。相番は中院通勝・広橋兼勝らで、外様衆は徳大寺公維・五辻元仲らで あった。〔『言経卿記』一〕 2月14日 大和国春日大社の社頭に於いて金春座の「能」が興行され、予想外の群集で、しかも演能は多聞院英俊の評によれば 「一段見事」であった。門に於いて三座が興行し、筒井順慶(「筒順」)が見物した。〔『多聞院日記』二〕 2月15日 松木宗房、山科言経へ番代料を贈る。〔『言経卿記』一〕 2月15日 山科言経、飛鳥井雅教を訪問し蹴鞠を見物。山科言経は久しく「淋病」を煩っていたため参加せず。〔『言経卿記』一〕 2月15日 山科言経、松木宗房の番代として参内。相番は庭田重保、加番は白川雅朝等、外様衆は中院通勝・飛鳥井雅敦らであった。 〔『言経卿記』一〕 2月15日 大和国春日大社の社頭に於いて法楽の「金剛能」が興行される。多聞院英俊が見物した「スミタ川」・「ラ生門」の沙汰は 「見事」であった。〔『多聞院日記』二〕 2月15日 多聞院英俊、三昧田の件で大代より催促があったので塙小七郎(「塙小」)へ折紙を送付。〔『多聞院日記』二〕 2月16日 山科言経、冷泉為満・橘以継を同行し上善寺法談を聴聞。〔『言経卿記』一〕 2月16日 冷泉為純(「下冷泉」)、山科邸を訪問し山科言継(「老父」)と対面。〔『言経卿記』一〕 2月16日 冷泉為満、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 2月16日 吉田兼見、近江国坂本へ下向し明智光秀(「惟日」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕 2月16日 多聞院英俊、上京のために立ち寄った森本久右衛門に「上権」へ送る500文を依頼す。〔『多聞院日記』二〕 2月16日 大和国春日大社に於いて観世座による「法楽能」が興行される。〔『多聞院日記』二〕 2月17日 山科言経、六角烏丸町の塩瀬紹椒から沢地長俊の仲介で「中庸抄」を借用。〔『言経卿記』一〕 2月17日 山科言経、近衛信尹(「近衛殿」)を訪問するも留守であった。次いで頂妙寺・梨門(入道應胤親王)を訪問。 しかし梨門(入道應胤親王)は留守であった。〔『言経卿記』一〕 2月17日 葉室頼房、去年落馬して以来始めて上洛。当年の祝儀に参内。〔『言経卿記』一〕 2月17日 中御門宣教、山科言経を訪問し談合。〔『言経卿記』一〕 2月17日 吉田兼見、細川孝之(「休斎」)および村井新右衛門尉(「村新右衛門」「村新」)を訪問し道普請の免除を上申し、 村井貞勝(「長州」)より免除される。〔『兼見卿記』一〕 2月17日 多聞院英俊、「宝生太夫」に「金剛カ弟」が養子として「家ヲ継」ぐことになり、この日「為宝生成祝義」として 大和国春日大社に於いて「法楽能」が興行されたことを知る。〔『多聞院日記』二〕 2月18日 山科言経、近衛信尹(「近衛殿」)を訪問。〔『言経卿記』一〕 2月18日 白川雅朝・万里小路充房、山科言経を訪問。次いで五辻元仲、山科言経を来訪し「朗詠抄」を借用。 山科言経、暮れに及び白川雅朝を訪問。〔『言経卿記』一〕 2月18日 吉田兼見、丹波国に下向する明智光秀(「惟日」)へ音信を携えた使者を派遣。〔『兼見卿記』一〕 2月18日 多聞院英俊、織田信長(「信長」)が近日近江国へ移動し、「アツチ山」に要害を建造する用意を行うこと、それに対し 松永久通(「松右」)が迎えに赴いたことを知る。〔『多聞院日記』二〕 2月19日 冷泉為満、家人の名字選出を山科言経へ依頼。〔『言経卿記』一〕 2月19日 山科言経、甘露寺経元へ「職事補」任下巻を返還。同じく広橋兼勝へも「同補任」を返還。〔『言経卿記』一〕 2月19日 山科言経、山科言継(「老父」)の番代として参内。相番は橘以継・五辻元仲らで、外様衆は西洞院時通・高倉永孝らで あった。〔『言経卿記』一〕 2月20日 山科言経、葉室頼房へ来たる25日の歌会のため発句を送付。〔『言経卿記』一〕 2月20日 柳原資定(「日野」)、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 2月20日 松木宗房、山科言経へ番代料の残額を送付。〔『言経卿記』一〕 2月20日 山科言経、無得房番代を中院通勝へ相伝。〔『言経卿記』一〕 2月20日 松井友閑(「友閑」)、上洛して村井貞勝(「村」)・日野輝資・甘露寺経元・冷泉為純・細川昭元(「細川右京兆」)を 訪問。〔『兼見卿記』一〕 2月20日 吉田兼見、村井新右衛門(「村新」)を訪問し先の道普請免除について確認、さらに村井貞成(「作右衛門」)のもとへ赴き 別儀の無い旨を確認。〔『兼見卿記』一〕 2月20日 多聞院英俊、塙直政(「原備」)の「存分」を受けた木津甚五郎が既に「牢人用意物」を隠したことを知り「沈思々々」と 評す。〔『多聞院日記』二〕 2月20日 大和国興福寺に於いて先年大和国森屋城で討死にした田中蔵人・狛加賀・征矢野喜衛門以下の命日の法要が営まれる。 〔『多聞院日記』二〕 2月21日 山科言経、中院通勝よりの相伝で三条西実枝の番代として参内。相番は五辻為仲・白川雅朝・万里小路充房らで、外様衆は 四条隆昌・五条為名らであった。〔『言経卿記』一〕 2月21日 多聞院英俊、塙小七郎(「塙小」)へ書状を送付。〔『多聞院日記』二〕 2月21日 塙小七郎(「小七郎殿」)、山城国槙島城へ向かう。〔『多聞院日記』二〕 2月22日 山科言経、報恩寺へ法談聴聞のため赴く。次いで橘以継を同行し誓願寺・真如堂・極楽寺・頂妙寺等へ結縁に赴く。 〔『言経卿記』一〕 2月22日 織田信長、尾張国法華寺(「法花寺」)へ従来通りの布教活動を諒承し、寺屋敷の境界や土居などを安堵す。 〔「法華寺文書」〕 2月22日 多聞院英俊、塙小七郎(「小七郎殿」)が「木津儀」(木津甚五郎の牢人扶助の件か?)で山城国槙島城へ向かう途中に 大和国木津を経由したところ、「不可有殊儀由」ということで通過したことを知る。〔『多聞院日記』二〕 2月22日 多聞院英俊、塙小七郎(「塙小七」)より米を入れるために蔵を借用していたが、この日米を入れる。〔『多聞院日記』二〕 2月23日 織田信長(「信長」)、近江国安土に「御座を移」す。 普請の様子は織田信長「御意」に叶ったので、丹羽長秀(「五郎左衛門」)に褒美として「周光茶碗」を下賜。 近江国安土山下には馬廻衆の屋敷地が与えられた。〔『信長公記』巻九〕 2月23日 山科言経、松木宗房・烏丸光宣を訪問するも共に留守であった。〔『言経卿記』一〕 2月23日 四辻公遠、山科言経へ来たる26日の禁中御楽始を通知。〔『言経卿記』一〕 2月23日 五辻元仲(「新蔵人」)、山科言経より謡本(「三輪之本」)を借用。〔『言経卿記』一〕 2月23日 多聞院英俊、木津甚五郎の件(「木津ノ事」)の調儀が破談となったことを知る。〔『多聞院日記』二〕 2月24日 山科言経、山科言継(「老父」)の番代を橘以継へ相伝。白川雅朝(「伯中将」)が参内したという。〔『言経卿記』一〕 2月24日 山科言経、冷泉氏(冷泉為益女・冷泉為満姉)を娶る。〔『言経卿記』一〕 2月24日 織田信長、近江国安土城へ移徙。〔『兼見卿記』一〕 2月25日 北野社(「禁中聖廟」)法楽当座和歌御会が行われる。 参席者は正親町天皇・誠仁親王(「親王御方」)・山科言継・山科言経・中山親綱・中院通勝・五辻為仲・白川雅朝・ 万里小路充房・橘以継らであった。〔『言経卿記』一〕 2月25日 柳原淳光(「柳原中納言」)、豊後国より上洛。〔『言経卿記』一〕 2月25日 吉田兼見、村井貞勝・村井貞成および飛鳥井雅敦を訪問。〔『兼見卿記』一〕 2月25日 織田軍、大和国森屋城を接収。〔『多聞院日記』二〕 2月26日 禁裏小御所に於いて御楽始が行われる。参席者は正親町天皇・誠仁親王(「親王御方」)・今出川晴季・山科言継・ 持明院基孝・四辻公遠・山科言経・庭田重通・竹内長治・橘以継・五辻元仲・高倉永孝らであった。〔『言経卿記』一〕 2月26日 山科言経、三条西実枝の番代を五辻元仲へ相伝。〔『言経卿記』一〕 2月26日 多聞院英俊、昨夜織田軍に大和国森屋城が開城されたことを知る。十市遠長(「常」)からの加勢があったためという内情も 知る。〔『多聞院日記』二〕 2月27日 山科言経、相国寺雲松軒と朝食を共にす。〔『言経卿記』一〕 2月27日 吉田兼見、「茶湯風炉」の件で南都へ使者を派遣。また吉田兼見は大和国多聞山城在城の山岡景佐(「山岡対馬守」)に書を 遣す。〔『兼見卿記』一〕 2月28日 山科言継・山科言経、山井景長(「山井筑前守景長朝臣」)と朝食を共にす。次いで橘以継が到来し楽を稽古。 〔『言経卿記』一〕 2月28日 四辻公遠、山科言経へ明日誠仁親王(「親王御方」)の御楽始の件を通知。〔『言経卿記』一〕 2月28日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し「尾州衆市両人」との対座・酒宴に相伴す。 また上洛した村井専次(「村井専次」)とも面会。〔『兼見卿記』一〕 2月29日 誠仁親王(「御方御所」)御所御楽始が行われる。参席者は誠仁親王(「御方御所」)・今出川晴季・山科言継・ 持明院基孝・四辻公遠・山科言経・庭田重通・竹内長治・橘以継・五辻元仲・豊原守秋・山井景長らであった。 〔『言経卿記』一〕 2月29日 山科言経、山科言継(「老父」)番代として参内。相番は広橋兼勝・五辻元仲らであった。山科言経、「御焼火」へ参る。 〔『言経卿記』一〕 2月29日 吉田兼見、村井新右衛門(「村新右衛門」)と面会。また奈良からの「茶湯」風炉を受け取る。〔『兼見卿記』一〕 2月29日 多聞院英俊、御牧景則(「御牧勘兵衛」)の来訪を受ける。その用件は「式部検行」の件は「前代未聞」であるということの 詰問であった。多聞院英俊は「一日一夜詫言ニ明」けくれるも状況は「不調」であった。〔『多聞院日記』二〕 2月 日 織田信忠(「信忠」)、尾張国の篠岡八右衛門尉・坂井利貞(「坂井文助」)・河野藤三へ尾張国中の道普請について、 「本海道」は3間2尺、「脇道」は2間2尺、「在所道」は1間とし、高さ3尺の松・柳の樹木を植えることを命令。 〔『坂井遺芳』〕 3月 3月 1日 山科言経、朝番の際に「御補歴」の校正を命令され、晩に進上。〔『言経卿記』一〕 3月 1日 冷泉為満、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 3月 1日 山科言経、暮れに月朔祝賀のため参内。「天酌被参衆」は勧修寺晴右・持明院基孝・甘露寺経元・三条西公国・庭田重通・ 勧修寺晴豊・中山親綱・中院通勝・五辻為仲・白川雅朝・万里小路充房・橘以継・五辻元仲らであった。 公家衆、次いで誠仁親王(「御方御所」)へ祗候。〔『言経卿記』一〕 3月 1日 山科言経、三条西実枝の番代として参内。相番は持明院基孝・中院通勝・万里小路充房で、外様衆は白川雅朝・五条為名らで あった。〔『言経卿記』一〕 3月 1日 御牧景則、大和国興福寺に於いて不正行為の容疑者である式部検行(「式部」)の件の詰問を継続。〔『多聞院日記』二〕 3月 2日 速水友益(「速水彦大郎」)、山科言経へ「侖吾抄」2冊を返還。〔『言経卿記』一〕 3月 2日 御牧景則(「御牧勘兵衛」)、不正行為の容疑者である式部検行(「式」)の詰問で容疑が晴れたことにより大和国興福寺 から立ち去る(大和国新賀城へ帰還か?)。〔『多聞院日記』二〕 3月 2日 大和国木津の闕所が織田側に接収され、在地衆は十市遠長(「十方」)のもとへ「牢人」として身を寄せる。 〔『多聞院日記』二〕 3月 3日 近衛前久、専修寺上人へ寄宿の際の馳走を謝す。専修寺を「勅願所」に定めることを通知。〔「旧記雑録後編」@‐831〕 3月 3日 山科言経、近衛信尹(「近衛殿」)を訪問。次いで竹内長治・中院通勝等を訪問。〔『言経卿記』一〕 3月 3日 山科言経、この夜の上巳御祝の不具のため参らず。〔『言経卿記』一〕 3月 3日 大和国興福寺の式部検行(「式部」)の示談が解決する。〔『多聞院日記』二〕 3月 3日 多聞院英俊、「備衛」の件が示談が調ったことを喜ぶ。〔『多聞院日記』二〕 3月 4日 山科言経、柳原資定を訪問。〔『言経卿記』一〕 3月 4日 松木宗房、山科言経祝言のため来賀。〔『言経卿記』一〕 3月 4日 山科言経、山科言継(「老父」)の番代として参内。相番は持明院基孝・白川雅朝らで、外様衆は徳大寺公維・五辻元仲らで あった。〔『言経卿記』一〕 3月 4日 吉田兼見、織田信長(「左大将殿」)を近江国安土城に訪問。〔『兼見卿記』一〕 3月 4日 織田信長の命令で勢田橋普請が大方出来上がる。吉田兼見は始めて勢田橋を見物。〔『兼見卿記』一〕 3月 4日 吉田兼見、近江国蒲生郡西庄に赴き旅宿から村井専次へ使者を派遣し村井専次の下向を要請。村井専次は早々に安土へ到着。 吉田兼見、村井専次のもとへ出向くが安土登城中というので、吉田兼見自身も安土城へ登城し「天主」近辺で待機していると、 橋普請から戻った織田信長(「左大将殿」)と面会。吉田兼見は堀秀政(「堀久太郎」)を介して織田信長へ貢物を献上。 〔『兼見卿記』一〕 3月 4日 武井夕庵(「二位法印尓云」)、吉川元春(「吉川駿河守」)に織田信長(「信長卿」)への年頭祝儀を賞し、答礼を通知。 また武井夕庵自身への太刀・馬を拝領したことを謝し、詳細は聖護院道澄(「聖門様」)が伝達することを通知。 〔「吉川家文書」一〕 3月 4日 羽柴秀吉(「羽柴筑前守秀吉」)、吉川元春(「吉川駿河守」)に織田信長(「右大将家」)への「青陽之嘉慶」を賞し、 答礼を通知。また羽柴秀吉自身への太刀・馬を拝領したことを謝し、詳細は聖護院道澄(「聖門様」)が申し送ることを通知。 〔「吉川家文書」一〕 3月 4日 多聞院英俊、「備衛」の身上糺明のために大和国新賀城へ下向。 塙小七郎(「塙小」)・御牧景則(「御牧勘兵衛」)・「東勘兵」(東勘大夫カ?)らへ贈物をする。〔『多聞院日記』二〕 3月 5日 冷泉為満、山科言経を訪問し談合。〔『言経卿記』一〕 3月 5日 五辻元仲(「新蔵人」)、山科言経へ謡本「三輪」を返還。〔『言経卿記』一〕 3月 5日 織田信長(「信長」)、見舞を送ってきた織田信忠(「城介殿」)へ謝意を表し、近江国安土城の普請は進行中であること、 尾張国・美濃国の「弥静謐」を堅守すべきこと、「此辺」(大坂方面か)を制圧して状況を報告する予定であることを通知。 〔『武家手鑑』〕 3月 5日 松永久通(「金吾」)、大和国十市平城を攻撃し負傷者を出す。〔『多聞院日記』二〕 3月 5日 多聞院英俊、大和国木津への「代衆」(織田側の代官衆か?)が入るというので下人「マコ介」を派遣。 〔『多聞院日記』二〕 3月 6日 禁裏に於いて女房舞が行われる。「堂上衆被参衆」は三条西実枝・中山孝親・勧修寺晴右・山科言継・庭田重保・ 持明院基孝・四辻公遠・甘露寺経元・山科言経・庭田重通・勧修寺晴豊・正親町実彦・中山親綱・中院通勝・中山慶親・ 白川雅朝・四辻季満・高倉範国・万里小路充房・橘以継・五辻元仲であった。〔『言経卿記』一〕 3月 6日 山科言経、昨日より禁中から「御本」・「ゥ家傳」・「土代」等の供出命令を受ける。 山科言経、三条西実枝の番代として参内。相番は持明院基孝・中院通勝・万里小路充房らで、外様衆は橘以継であった。 〔『言経卿記』一〕 3月 6日 多聞院英俊、丹羽伝次(塙直政家臣か?)が大和国「木津ノ給人」を率いて上洛するというので礼問す。 〔『多聞院日記』二〕 3月 7日 山科言経、白川雅朝を訪問し楽を稽古す。山井景長より笛を教わり帰宅。 相国寺雲松軒春湖、山科言経を訪問。次いで舟橋国賢(「清少納言国賢」)が来訪し数刻雑談す。〔『言経卿記』一〕 3月 7日 葉室頼房、当番のため上洛。〔『言経卿記』一〕 3月 7日 冷泉為満、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 3月 7日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し今度の安土下向の様子を談合。〔『兼見卿記』一〕 3月 8日 冷泉為満・相国寺雲松軒春湖、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 3月 8日 吉田兼見、佐竹定実(「佐竹出羽守」)より招待され晩に赴く。〔『兼見卿記』一〕 3月 9日 山科言経、山科言継(「老父」)の番代として参内。相番は白川雅朝・五辻元仲らで、外様衆は高倉永相・西洞院時通で あった。〔『言経卿記』一〕 3月 9日 佐竹定実(「佐竹出羽守」)、吉田兼見へ「茶湯道具」を贈る。〔『兼見卿記』一〕 3月 9日 丹羽伝次(塙直政家臣か?)、夕刻に上洛。〔『多聞院日記』二〕 3月10日 相国寺雲松軒春湖、山科言経を訪問し双六を打つ。次いで冷泉為満が来訪。〔『言経卿記』一〕 3月10日 葉室頼房、山科言経へ松尾社家某の名字選出を依頼。〔『言経卿記』一〕 3月10日 多聞院英俊、丹羽伝次(「丹羽伝源殿」:塙直政家臣か?)が昨夕上洛したことを知る。〔『多聞院日記』二〕 3月11日 誠仁親王、石山寺へ参詣。〔『言経卿記』一・『兼見卿記』一〕 3月11日 聖護院道澄、吉川元春(「吉川駿河守」)へ因幡国の件を即時織田家中の武井夕庵(「二位法印」)・羽柴秀吉(「羽筑」) 塙直政(「原備」)に通知したこと、山中幸盛(「山鹿」)から受けた救援要請に対し織田信長は「許容」せず、その方針に 変化が無いこと、詳細は返書に記載した通りであること、今後の状況を逐次報告することを通知。 〔「吉川家文書」@‐571〕 3月11日 近衛信尹(「近衛殿」)、山科言経より「マナ暦」(真子暦)を借用。〔『言経卿記』一〕 3月11日 葉室長教(「葉室弁」)、上洛。次いで山井景長が山科言経を来訪し楽を稽古す。〔『言経卿記』一〕 3月11日 葉室頼房・葉室長教、在所(山城国葛野郡葉室)へ帰宅。〔『言経卿記』一〕 3月11日 冷泉為満、山科言経より「明題抄」を借用。〔『言経卿記』一〕 3月11日 山科言経、徳大寺公維へ「公事根源抄」を返還。〔『言経卿記』一〕 3月11日 山科言経、三条西実枝の番代として参内。 相番は白川雅朝・橘以継らで、外様衆は柳原淳光(「日野中納言」)・四条隆昌・五条為名らであった。〔『言経卿記』一〕 3月11日 岡本貞俊(松井友閑上使)・長谷川重元(塙直政上使)、河内国「尼野寺」(金剛寺)へ「徳政」の件は 塙直政(「原田備中守」)・松井友閑(「宮内法印」)が織田信長「御朱印」を調え、「惣国」に通達したにもかかわらず、 河内国金剛寺は承引しなかった旨が三好康長(「三山」)より報告されたため、織田信長が塙直政・松井友閑に命令が遵守され ない場合は「成敗」を加えるよう指示を下した旨を通達。〔「金剛寺文書」‐317〕 3月11日 多聞院英俊、塙小七郎(「塙小七」)が近江国へ赴くにあたり織田信長(「信長殿」)への土産物「ミツカン」を調えるよう 命令を受ける。〔『多聞院日記』二〕 3月12日 冷泉為満、山科言経を訪問し談合。〔『言経卿記』一〕 3月12日 近衛信尹(「近衛殿」)、真子暦本を山科言経へ返還。〔『言経卿記』一〕 3月13日 山科言経、飛鳥井雅敦(「飛鳥井中将」)を訪問し「河海抄」1巻を返還。〔『言経卿記』一〕 3月13日 山科言経、禁裏小宴に召される。参席者は持明院基孝・山科言経・白川雅朝・橘以継らであった。〔『言経卿記』一〕 3月13日 冷泉為満、山科言経を訪問し談合。〔『言経卿記』一〕 3月13日 多聞院英俊、塙小七郎(「塙小七」)が十市遠長(「十市」)の件を調儀し、「誓紙一書」を携え山城国槙島城へ向かう途中 で東大寺南大門に於いて酒宴を張る。〔『多聞院日記』二〕 3月14日 中山親綱(「中山新宰相中将」)、山科言経へ丁香散を所望。〔『言経卿記』一〕 3月14日 山科言経、禁裏小宴に召される。参席者は山科言経・中山親綱・五辻為仲・橘以継・五辻元仲であった。〔『言経卿記』一〕 3月14日 山科言経、山科言継(「老父」)の番代として参内。相番は持明院基孝・庭田重通らで、外様衆は徳大寺公維・五辻元仲らで あった。次いで庭田重保(「源大納言」)が参内し酒を献上。番衆に於いて誠仁親王(「宮御方」)・岡殿(覚音女王)を始め とした酒宴が催される(「乱酒」)。〔『言経卿記』一〕 3月15日 山科言経、禁裏小宴に召される。参席者は持明院基孝・山科言経・橘以継・五辻元仲であった。〔『言経卿記』一〕 3月15日 飛鳥井雅敦邸に於いて蹴鞠が行われる。 参席者は山科言経・毘沙門堂公厳・橘以継・五辻元仲(「新蔵人」)らであった。飛鳥井雅敦は外出したという。 〔『言経卿記』一〕 3月16日 山科言経、庭田重保を訪問。酒宴参席者は勧修寺晴右・庭田重保・柳原淳光(「柳原黄門」)・高倉永相(「藤宰相」)・ 山科言経・庭田重通(「源相公」)・正親町実彦・中院通勝・烏丸光宣(「烏丸弁」)・水無瀬親具(「水無瀬羽林」)・ 日野輝資・広橋兼勝・冷泉為満・橘以継・五条為名・半井驢庵・半井瑞桂らであった。「乱酒」・「乱舞」に及び、暮れに 山科言経は帰宅。〔『言経卿記』一〕 3月16日 山科言経、三条西実枝の番代として参内。相番は持明院基孝・中院通勝・五辻元仲であった。〔『言経卿記』一〕 3月16日 吉田兼見、佐竹定実(「佐竹出羽守」)の訪問を受ける。また東寺の津田宗及(「宗及」)宿所に細川藤孝(「長兵」)が 滞在しているというので、連絡を取り訪問。〔『兼見卿記』一〕 3月17日 近衛前久、鎮西諸侯の戦闘を停止させる目的で薩摩国鹿児島に到着。〔「旧記雑録後編」@‐837〕 3月17日 山科言経、徳大寺公維を訪問し「桐壺」・「箒木」を返還。〔『言経卿記』一〕 3月17日 冷泉為満、山科言経を訪問し談合。〔『言経卿記』一〕 3月17日 織田信忠(「信忠」)、尾張国熱田社大宮司の千秋季信(「千秋喜七郎」)へ近江国安土城普請用の麻綱調達を命令。 〔「尾張寺社領文書」〕 3月17日 吉田兼見、細川藤孝(「長兵」)の近江国下向に途中まで同行。〔『兼見卿記』一〕 3月17日 塙直政(「原田備中守」)、大和国多聞山城を巡見。〔『多聞院日記』二〕 3月18日 山科言経、飛鳥井雅敦を訪問し数刻雑談。その後、三条西実枝を歌談合のため訪問。〔『言経卿記』一〕 3月18日 飛鳥井雅敦邸に於いて蹴鞠が催される。 参席者は三条西実枝・山科言経・勧修寺晴豊(「勧修寺弁」)・中院通勝・飛鳥井雅敦・三条公宣(「轉法輪」)・ 西洞院時通・毘沙門堂公厳・万里小路充房・橘以継・五辻元仲(「新蔵人」)らであった。〔『言経卿記』一〕 3月18日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕 3月19日 禁中内侍所に於いて法楽和歌会が催される。山科言経、昨日清書した短冊を進上。〔『言経卿記』一〕 3月19日 毘沙門堂公厳、山科言経より「融之本」を借用。〔『言経卿記』一〕 3月19日 山科言経、山科言継(「老父」)の番代として参内。 相番は広橋兼勝・五辻元仲らで、外様衆は高倉永相・西洞院時通らであった。 山科言経、正親町天皇(「上」)より丸薬(気根薬)を下賜される。〔『言経卿記』一〕 3月20日 立満寺秀曇長老(但馬国圓福寺末寺)、参内。山科言経、申次のため禁裏より召集命令を受ける。〔『言経卿記』一〕 3月20日 山科言経、竹内長治(「竹内左兵衛督」)の酒宴に赴く。参席者は勧修寺尹豊(「勧修寺入道」)・中山孝親・ 勧修寺晴右(「勧修寺亜相」)・山科言継(「老父」)・庭田重保・持明院基孝・甘露寺経元・山科言経・庭田重通・ 竹内長治・竹内長治息子・半井驢庵・土御門有脩(「安三位」)らであった。〔『言経卿記』一〕 3月21日 山科言経、禁裏小宴に召され参内。参席者は持明院基孝・四辻公遠・山科言経・南禅寺上乗院道順・五辻為仲・五辻元仲らで あった。〔『言経卿記』一〕 3月21日 山科言経、中院通勝へ謡本「赤」2巻・6巻・10巻を、五辻元仲(「新蔵人」)へは「白」4巻等を貸す。 〔『言経卿記』一〕 3月21日 山科言経、三条西実枝の番代として参内。 相番は中院通勝・広橋兼勝らで、外様衆は柳原淳光(「日野中納言」)・四条隆昌・五条為名らであった。〔『言経卿記』一〕 3月21日 塙小七郎(「塙小七郎」)、大和国十市平城を接収。〔『多聞院日記』二〕 3月21日 十市遠長(「十常」)、塙小七郎により河内国へ駆逐される。十市内衆は大和国森屋城へ入る。〔『多聞院日記』二〕 3月22日 飛鳥井邸に於いて蹴鞠が催される。参席者は山科言経・三条公宣(「轉法輪」)・毘沙門堂公厳・万里小路充房・橘以継・ 五辻元仲(「新蔵人」)らであった。〔『言経卿記』一〕 3月22日 吉田兼見、泉涌寺に招かれ、織田信長(「左大将殿」)が泉涌寺方丈を修理する旨を知る。〔『兼見卿記』一〕 3月22日 塙直政(「原田備中守」)、大和国十市城へ入城。〔『多聞院日記』二〕 3月23日 山科言経、中院通勝より「諷本」3冊を、毘沙門堂公厳より1冊を返還される。〔『言経卿記』一〕 3月23日 大炊御門経頼、山科言経を訪問し「侖吾抄」6巻から10巻を借用。〔『言経卿記』一〕 3月23日 山科言経、禁裏小宴に召され参内。 参席者は持明院基孝・山科言経・中山親綱・南禅寺上乗院道順・五辻為仲・万里小路充房・五辻元仲らであった。 山科言経、御扇を「鬮取」によって獲得。〔『言経卿記』一〕 3月24日 柳原淳光(「柳原黄門」)・冷泉為満・橘以継、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 3月24日 飛鳥井邸に於いて蹴鞠が催される。参席者は山科言経・飛鳥井雅継(「茶々丸」)・三条公宣(「轉法輪」)・松木宗房・ 毘沙門堂公厳・橘以継・清水甚介らであった。〔『言経卿記』一〕 3月24日 山科言経、山科言継(「老父」)の番代として参内。相番は無く、外様衆は徳大寺公維・五辻元仲らであった。 〔『言経卿記』一〕 3月25日 持明院基孝、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 3月25日 近衛前久、薩摩国伊集院に到着。〔「旧記雑録後編」@‐833〕 3月25日 島津義久、島津義弘へ近衛前久に見物させる犬追物の準備を指示。 さらに日向伊東氏方面への処置として手火矢を配備する旨を命令。〔「旧記雑録後編」@‐833〕 3月26日 大炊御門経頼、山科言経へ「論語抄」を返還。〔『言経卿記』一〕 3月26日 山科言経、三条西実枝の番代として参内。相番は中院通勝・橘以継らであった。 山科言経、禁裏へ「古文真宝抄」2巻・3巻・4巻を返上。〔『言経卿記』一〕 3月26日 吉田兼見、佐竹定実(「佐竹出羽守」)の訪問を受ける。〔『兼見卿記』一〕 3月27日 山科言経、朝番に際し「古文真宝抄」5巻から10巻までを借り出す。また山科言経、中院通勝へ「秋夜長物語」本を貸す。 〔『言経卿記』一〕 3月27日 三条西実枝(「三条亜相」)、上卿として春日祭の看経を行う。〔『言経卿記』一〕 3月27日 山科言経、「諷之本」・「摂待之本」を書き、橘以継へ送付。〔『言経卿記』一〕 3月27日 葉室長教、父葉室頼房の番代として上洛。〔『言経卿記』一〕 3月27日 禁裏に於いて「庚申待」が行われる。参席者は正親町天皇・誠仁親王(「親王御方」)・岡殿(覚音女王)・上掾E 大典侍殿(万里小路賢房女)・メヽスケ殿(飛鳥井雅綱女)・伊与殿(舟橋教重女)・阿茶々局(勧修寺晴子)・御今参局・ 勧修寺晴右・山科言経・中山親綱・中院通勝・南禅寺上乗院道順・白川雅朝・万里小路充房・橘以継・五辻元仲らであった。 〔『言経卿記』一〕 3月27日 冷泉為満、山科言経を訪問し談合。〔『言経卿記』一〕 3月28日 山科言経、沢路長俊(「沢路隼人佑」)が「中庸抄」を持参したので塩瀬紹椒へ返還する由を通達。〔『言経卿記』一〕 3月28日 山科言経、山科言継・葉室長教(「葉室弁」)を同行し報恩寺普請を見物。 織田信長(「右大将殿」)が近々報恩寺に二条晴良(「二条殿」)を移徙させるため明智光秀(「明智十兵衛尉」)が普請奉行 であるという。〔『言経卿記』一〕 3月28日 飛鳥井邸に於いて蹴鞠が催される。参席者は高倉永相・山科言経・三条公宣(「轉法輪」)・西洞院時通・毘沙門堂公厳・ 高倉永孝・日野輝資・橘以継・五辻元仲(「新蔵人」)らであった。〔『言経卿記』一〕 3月28日 冷泉為満、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 3月28日 村井貞勝(「村長」)、吉田兼見を訪問し直ちに帰京。〔『兼見卿記』一〕 3月28日 大友宗麟、市来某へ薩州表での戦闘について島津氏の意向を容認する旨を通知。 詳細は酒井寺快宥法印に伝達させる。〔「旧記雑録後編」@‐834〕 3月29日 山科言経、冷泉為満・葉室長教(「葉室弁」)を同行し引接寺念仏踊りを見物。〔『言経卿記』一〕 3月29日 飛鳥井邸に於いて蹴鞠が催される。参席者は高倉永相・山科言経・五辻為仲・飛鳥井雅敦・烏丸光宣・日野輝資・ 三条公宣(「轉法輪」)・毘沙門堂公厳・広橋兼勝・高倉永孝・橘以継・五辻元仲(「新蔵人」)らであった。 〔『言経卿記』一〕 3月29日 山科言経、山科言継(「老父」)の番代として参内。相番は広橋兼勝・五辻元仲らで、外様衆は高倉永相・西洞院時通らで あった。山科言経、「若草物語」を読進。〔『言経卿記』一〕 3月29日 山科言経、中院通勝へ「秋夜長物語」を返還。〔『言経卿記』一〕 3月30日 織田信長(「信長」)、聖護院道澄(「聖護院殿」)へ安芸国からの「年頭祝儀」の書状を謝す。 詳細は武井夕庵(「二位法印」)より伝達させる。〔「堀部政吉氏所蔵文書」〕 3月30日 織田信長(「信長」)、小早川隆景(「小早川左衛門佐」)へ「年甫之祝詞」として贈呈された太刀・馬を謝す。 詳細は武井夕庵(「二位法印」)・羽柴秀吉(「羽柴筑前守」)に伝達させる。〔「小早川家文書」一〕 3月30日 冷泉為満、山科言経を訪問し談合。〔『言経卿記』一〕 3月30日 葉室長教(「葉室弁」)、在所へ帰宅。〔『言経卿記』一〕 3月30日 山科言経、禁裏小宴に召され参内。参席者は誠仁親王(「親王御方」)・岡殿(覚音女王)・持明院基孝・山科言経・ 中院通勝・五辻為仲・白川雅朝・橘以継・五辻元仲らであった。 次いで誠仁親王(「親王御方」)・岡殿(覚音女王)・上搏凵A大典侍殿へ藤見のため出向く。公家衆も祗候。 〔『言経卿記』一〕 3月 日 織田信忠(「信忠」)、尾張国熱田社大宮司の千秋季信(「千秋喜七」)へ加藤順光(「賀藤図書」)父子が「引得」った 「沽却」分14貫文の土地を「還附」することを通達。〔「尾張寺社領文書」〕 4月 4月 1日 織田信長、近江国安土山の石垣構築を開始。またその石垣上に「天主」構築を命令。 尾張国・美濃国・伊勢国・三河国・越前国・若狭国・畿内の諸侍に普請役を課す。京都・大和国奈良・和泉国堺の大工・ゥ職人 と「一観」(唐人瓦焼職人)を近江国安土に召喚し、天主台は「唐様」にする旨を命令。〔『信長公記』巻九〕 4月 1日 橘以継・五辻元仲(「新蔵人」)・山井景長ら、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 4月 1日 冷泉為満、山科言経へ「明題抄」借用を申し入れ承諾される。冷泉為満、後に山科言経を訪問し談合。〔『言経卿記』一〕 4月 1日 山科言経、三条西実枝の番代を五辻元仲(「新蔵人」)へ相伝。〔『言経卿記』一〕 4月 1日 飛鳥井邸に於いて蹴鞠が催される。 参席者は三条西実枝・山科言経・中院通勝・飛鳥井雅敦・烏丸光宣・日野輝資・三条公宣(「轉法輪」)・毘沙門堂公厳・ 広橋兼勝・高倉永孝・橘以継・五辻元仲(「新蔵人」)らであった。〔『言経卿記』一〕 4月 1日 禁裏に於いて月朔御祝が行われるが、山科言経は「不具」により欠席。参席者は三条西実枝・山科言継・持明院基孝・ 四辻公遠・庭田重通・勧修寺晴豊・正親町実彦・松木宗房・中院通勝・広橋兼勝・四辻季満・高倉範国・橘以継・五辻元仲等 であった。〔『言経卿記』一〕 4月 1日 羽柴秀吉(「羽柴筑前守」)、小早川隆景(「小早川左衛門佐」)に織田信長(「信長」)への「年頭之御礼」として御札・ 太刀・馬代を贈呈されたことを披露したこと、返書が認められたことを通知。また羽柴秀吉自身への馬代銀2枚20文目を贈呈 されたことを謝す。更に近日の上洛予定と、「京都」より音信することを通知。〔「小早川家文書」一〕 4月 2日 織田信長、山城国東山慈照寺へ近江国安土城への移徙祝儀として十六島海苔を贈呈されたことを謝し、安土城普請が完成 すれば上洛する予定を通知。〔「光源院文書」二〕 4月 2日 山科言経、藤波慶忠(伊勢祭主)を同行し飛鳥井雅敦を訪問。 藤波慶忠(伊勢祭主)、「蹴鞠之門弟契約」を結んだ後、西洞院時通・高倉永孝を訪問。〔『言経卿記』一〕 4月 2日 冷泉為満、暮れに山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 4月 2日 禁中に於いて蹴鞠が催される。参席者は誠仁親王(「宮御方」)・高倉永相・山科言経・中院通勝・五辻為仲・飛鳥井雅敦・ 広橋兼勝・橘以継・五辻元仲らであった。〔『言経卿記』一〕 4月 3日 織田信長、石山本願寺を攻撃中の明智光秀(「惟任日向守」)・細川藤孝(「長岡兵部大輔」)へ全ての麦の刈り取りと 「大坂籠城候男女」へ赦免するので早々に退去することを促す旨を表示した「立札」を諸口に立てることを命令。 また「坊主」以下の再起を期そうとする連中は「不可赦免」を命令。〔「細川家文書」二〕 4月 3日 織田信長、某へ「大坂面」の麦刈り取りの進行具合を問うて、済み次第、「大坂籠城之男女」は赦免するので退去を促す旨の 「札を立」てることを命令。また「坊主」以下の再起を期そうとする連中は「不可赦免」を命令。〔「小柳津繁樹氏文書」〕 4月 3日 安倍季雄、丹州より上洛し夜分に山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 4月 3日 冷泉為満、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 4月 3日 山科言経、塩瀬紹椒より「孝経抄」を借用。〔『言経卿記』一〕 4月 3日 山科言経、山井景長・安倍季雄を夕食に招請。山科言継(「老父」)等も相伴。〔『言経卿記』一〕 4月 3日 飛鳥井邸に於いて蹴鞠が催される。 参席者は三条西実枝・山科言経・飛鳥井雅敦・毘沙門堂公厳・高倉永孝・橘以継・万里小路充房・五辻元仲(「新蔵人」)・ 藤波慶忠(「祭主」)らであった。〔『言経卿記』一〕 4月 4日 山科言経、四辻公遠より冬袍を借用、後刻に返還。〔『言経卿記』一〕 4月 4日 山科言経、橘以継を訪問し謡本「山祖母」(山姥)を書き贈る。〔『言経卿記』一〕 4月 4日 山科言経、山科言継(「老父」)番代を持明院基孝へ相伝。冷泉為満は三条公仲番代となった由を五辻元仲より通知される。 〔『言経卿記』一〕 4月 4日 禁中の内侍所に於いて法楽が催される。 参席者は正親町天皇・誠仁親王(「親王御方」)・山科言継・持明院基孝・山科言経・庭田重通・橘以継・五辻元仲らで あった。〔『言経卿記』一〕 4月 5日 織田信長(「信長」)、摂津国平野庄惣中へ「大坂」(石山本願寺)に兵粮を運搬することは「曲事」であるので厳禁する こと、もし違反者が発生した場合は「成敗」することを通達。〔「末吉文書」〕 4月 5日 冷泉為満、山科言経を訪問し談合。〔『言経卿記』一〕 4月 6日 冷泉為満、山科言経を訪問し談合。〔『言経卿記』一〕 4月 6日 山科言経、三条西実枝の番代として参内。相番は持明院基孝・中院通勝・万里小路充房らで、外様衆は橘以継らであった。 次いで5人は常御所へ参り「ランコ」(乱碁)が行われ、正親町天皇より扇子を拝領。〔『言経卿記』一〕 4月 7日 冷泉為満、山科言経を訪問し談合。〔『言経卿記』一〕 4月 7日 葉室長教(「葉室弁」)、父葉室頼房の番代として上洛。〔『言経卿記』一〕 4月 7日 三好康長(「三好山城守」)、織田信長が「先例」に任せて命令した「徳政」を遵守しない河内国金剛寺年預御房へ「証跡」 や「証文」を携帯し事情徴収に応ずるよう命令。〔「金剛寺文書」‐318〕 4月 8日 葉室長教(「葉室弁」)、在所(山城国葛野郡葉室)へ帰宅。〔『言経卿記』一〕 4月 8日 山科言経、中院通勝より「弘安礼節」を返還される。〔『言経卿記』一〕 4月 8日 山科言経、報恩寺辺を「徘徊」。次いで竹内長治を訪問するも留守であった。〔『言経卿記』一〕 4月 8日 山井景長、山科言経を訪問。楽の稽古を行う。〔『言経卿記』一〕 4月 8日 高倉永相邸に於いて蹴鞠が催される。 参席者は高倉永相・高倉永孝・山科言経・毘沙門堂公厳・万里小路充房・橘以継・五辻元仲(「新蔵人」)らであった。 〔『言経卿記』一〕 4月 9日 山科言経、禁中より召され参内。正親町天皇、誠仁親王(「親王御方」)・山科言経・中山親綱等へ「明題抄」書写を命令。 〔『言経卿記』一〕 4月 9日 山科言経、山科言継(「老父」)の番代として参内。相番は中院通勝で、外様衆は高倉永相・西洞院時通らであった。 〔『言経卿記』一〕 4月 9日 島津氏、近衛前久を接待し犬追物を行う。〔「旧記雑録後編」@‐838〕 4月10日 二条晴良・二条昭実(「二条殿御父子」)・九条兼孝(「九条殿御方」二条晴良息)、報恩寺新邸に移徙。 報恩寺造作は織田信長(「右大将殿」)の命令で行われたという。〔『言経卿記』一〕 4月10日 柳原資定、山科言経へ「堂上次第」を返還。〔『言経卿記』一〕 4月10日 飛鳥井邸に於いて蹴鞠が催される。 参席者は山科言経・三条公宣(「轉法輪」)・毘沙門堂公厳・橘以継・藤波慶忠(「伊勢祭主」)・木村源次郎らであった。 〔『言経卿記』一〕 4月10日 山科言経、松木宗房より番代を依頼されるが所労のため橘以継へ相伝。〔『言経卿記』一〕 4月11日 山科言経、飛鳥井雅敦(「飛羽林」)へ「三源一覧」1巻を借用。〔『言経卿記』一〕 4月11日 山科言経、禁中に召され参内。小御所に於いて「明題抄」を書写し終わる。〔『言経卿記』一〕 4月11日 冷泉為満、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 4月11日 山科言経、禁裏へ「耳カキ」を献上。〔『言経卿記』一〕 4月12日 山科言経、冷泉為満より「ハヽキヽ」(箒木)・「空蝉」・「夕カホ」(夕顔)を借用。〔『言経卿記』一〕 4月12日 山科言経、禁中より召され参内。御謡が催される。 参席者は四辻公遠・山科言経・南禅寺上乗院道順・橘以継・五辻元仲らであった。 山科言経、その後白川雅朝を訪問。〔『言経卿記』一〕 4月12日 山井景長、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 4月12日 高倉永相邸に於いて蹴鞠が行われる。参席者は三条西実枝・高倉永相・山科言経・三条公宣(「轉法輪」)・毘沙門堂公厳・ 高倉永孝・橘以継・五辻元仲(「新蔵人」)らであった。〔『言経卿記』一〕 4月12日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し囲碁・将棋を楽しむ。〔『兼見卿記』一〕 4月12日 島津氏、近衛前久を接待し犬追物を行う。〔「旧記雑録後編」@‐838〕 4月13日 冷泉為満、山科言経を訪問し談合。〔『言経卿記』一〕 4月13日 山科言経、毘沙門堂公厳・近衛信尹(「近衛殿」)を訪問。そして佛陀寺の法談に赴く。その後柳原淳光を訪問。 〔『言経卿記』一〕 4月13日 山科言経、甘露寺経元の番代として参内。相番は勧修寺晴豊、添番は五辻元仲、外様衆は大炊御門経頼・日野輝資・五条為名 らであった。〔『言経卿記』一〕 4月13日 吉田兼見、「近衛殿」(近衛信基)より蹴鞠の誘いを受けるも脚気のために辞す。〔『兼見卿記』一〕 4月14日 五辻元仲(「新蔵人」)、山科言経へ諷本白4巻を返還。〔『言経卿記』一〕 4月14日 山科言経、禁裏小宴に召され参内。参席者は中山孝親・山科言経・中山親綱・中院通勝・南禅寺上乗院道順・五辻為仲・ 白川雅朝・五辻元仲らであった。〔『言経卿記』一〕 4月14日 高倉永相邸に於いて蹴鞠が催される。参席者は山科言経・三条公宣(「轉法輪」)・毘沙門堂公厳・高倉永孝らであった。 〔『言経卿記』一〕 4月14日 山科言経、山科言継(「老父」)の番代として参内。相番は広橋兼勝で、外様衆は徳大寺公維・橘以継らであった。 〔『言経卿記』一〕 4月14日 山科言経、飛鳥井雅敦(「飛鳥井羽林」)を訪問するも留守であったので、次いで毘沙門堂公厳を訪問。〔『言経卿記』一〕 4月14日 織田信長、荒木村重(「荒木摂津守」)・細川藤孝(「永岡兵部大輔」)・明智光秀(「惟任日向守」)・ 塙直政(「原田備中」)に「上方の尾人数」を加勢し摂津国大坂の石山本願寺を攻撃させる。〔『信長公記』巻九〕 4月14日 明智光秀(「惟任日向守」)、河内国平野へ出陣。山城国吉田郷付近で吉田兼見は明智光秀を見送る。〔『兼見卿記』一〕 4月14日 島津義久、薩摩国鹿児島に近衛前久を迎えて歌会を催す。〔「旧記雑録後編」@‐843・844〕 4月15日 山科言経、冷泉為満を同行し高辻長雅を訪問、冷泉為満は高辻長雅に入門。 山科言経、高辻長雅より自作の「色葉字盡」と「愚管抄」等を借用。また「愚管抄」については誠仁親王(「宮御方」)へ献上 すること、そして「貞観政要」3冊の題銘を誠仁親王(「宮御方」)に請うことを依頼され、持ち帰る。〔『言経卿記』一〕 4月15日 山科言経、飛鳥井雅敦(「飛鳥井羽林」)を訪問し「三源一覧」を返還。〔『言経卿記』一〕 4月15日 山科言経、毘沙門堂公厳を訪問。〔『言経卿記』一〕 4月15日 高倉永相邸に於いて家丸が催される。参席者は高倉永相・山科言経・烏丸光宣・日野輝資・三条公宣(「轉法輪」)・ 広橋兼勝・西洞院時通・高倉永孝(「藤金吾」)・橘以継・飛鳥井雅敦(「飛鳥井羽林」)らであった。〔『言経卿記』一〕 4月15日 山科言経、松木宗房の番代を持明院基孝へ依頼し同心を得る。〔『言経卿記』一〕 4月15日 山科言経、謡本「竹の雪之本」を書き、橘以継へ贈る。〔『言経卿記』一〕 4月16日 山科言経、「異体」にて誠仁親王(「宮御方」)へ祗候。高辻長雅より献上を依頼された「愚管抄」を献上。同じく高辻長雅 より依頼された「貞観政要」2冊と山科言経の「題林愚抄」3冊の題銘を奏請。誠仁親王(「宮御方」)は経師へ代筆を命令。 〔『言経卿記』一〕 4月16日 山科言経、毘沙門堂公厳を訪問。その後、近衛信尹(「近衛殿」)を訪問し「月次連歌」会に参席し1句詠む。 〔『言経卿記』一〕 4月16日 山科言経、入道應胤親王(「梨門」)を訪問するも留守であったので、竹内長治(「竹内左兵衛督」)を訪問。 竹内長治、養子某に中原康雄(「一搓N雄」)より「中庸」を学ばせていた。〔『言経卿記』一〕 4月16日 山科言継(「老父」)、竹内長治(「竹内左兵衛督」)邸を訪問。後に山科言経と共に帰宅。〔『言経卿記』一〕 4月16日 竹内長治(「竹内左兵衛督」)、山科言継・山科言経を夕食に招請。相伴は山科言継・山科言経・竹内長治・中原康雄らで あった。山科言経は先に帰宅。〔『言経卿記』一〕 4月16日 山科言経、持明院基孝の番代として参内。相番は庭田重通・中院通勝・万里小路充房であった。〔『言経卿記』一〕 4月16日 吉田兼見、吉田牧庵と一兵衛塗師の訪問を受ける。〔『兼見卿記』一〕 4月17日 山井景長、特に「談合子細有之」として早朝に山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 4月17日 相国寺雲松軒春湖、山科言経を訪問し双六を打つ。〔『言経卿記』一〕 4月17日 葉室長教(「葉室弁」)、父葉室頼房の番代として上洛。〔『言経卿記』一〕 4月17日 吉田兼見、淵田与三郎・横浜一庵の訪問を受ける。〔『兼見卿記』一〕 4月18日 葉室長教(「葉室弁」)、在所(山城国葛野郡葉室)へ帰宅。〔『言経卿記』一〕 4月18日 山科言経、日野輝資と共に飛鳥井雅敦(「飛鳥井羽林」)を訪問し「ウトン」(饂飩)を振る舞われる。 山科言経、次いで毘沙門堂公厳を訪問。〔『言経卿記』一〕 4月18日 飛鳥井雅敦(「飛鳥井羽林」)邸に於いて蹴鞠が催される。 参席者は三条西実枝・高倉永相・山科言経・飛鳥井雅敦・三条公宣(「轉法輪」)・毘沙門堂公厳・広橋兼勝・高倉永孝・ 橘以継・五辻元仲(「新蔵人」)らであった。〔『言経卿記』一〕 4月19日 山科言経、勧修寺邸を訪問し将棋をする。その後、毘沙門堂公厳・中院通勝を訪問。 山科言経、中院通勝より「戯笑集」を借用。〔『言経卿記』一〕 4月19日 中山親綱(「中山新宰相中将」)、山科言経へ「補任」(『公卿補任』)・「歴名」(『歴名土代』)を返還。 〔『言経卿記』一〕 4月19日 山科言経、山科言継(「老父」)番代を甘露寺経元へ相伝。〔『言経卿記』一〕 4月20日 山科言経、冷泉為満を訪問し『源氏物語』「早蕨」巻・「宿木」巻を借用。〔『言経卿記』一〕 4月20日 山科言経、毘沙門堂公厳を訪問。その後中院通勝を訪問し「花鳥余情」を貸す。〔『言経卿記』一〕 4月20日 山井景長、山科言経を訪問し楽の稽古を指導。山科言経、山井景長へ謝礼として扇子を贈る。〔『言経卿記』一〕 4月20日 持明院基孝、山科言経へ松木宗房番代を明日への交替を依頼。〔『言経卿記』一〕 4月20日 飛鳥井邸に於いて蹴鞠が行われる。 参席者は三条西実枝・飛鳥井雅教(「飛鳥井亜相」)・高倉永相・山科言経・勧修寺晴豊(「勧修寺左大丞」)・ 飛鳥井雅敦(「飛鳥井中将」)・烏丸光宣・日野輝資・三条公宣(「轉法輪」)・広橋兼勝・高倉永孝・橘以継・ 五辻元仲(「新蔵人」)らであった。〔『言経卿記』一〕 4月21日 山科言経、毘沙門堂公厳を訪問。〔『言経卿記』一〕 4月21日 「禁中御鞠」が催される。 参席者は誠仁親王(「宮御方」)・高倉永相・山科言経・飛鳥井雅敦・三条公宣・橘以継・五辻元仲らであった。 〔『言経卿記』一〕 4月21日 山科言経、持明院基孝の番代として参内。 相番は中山親綱・中院通勝・万里小路充房で、外様衆は柳原淳光・四条隆昌・五条為名らであった。 山科言経、誠仁親王(「宮御方」)へ祗候し「題林愚抄」の題銘を下賜される。〔『言経卿記』一〕 4月21日 山科言経、この日より『源氏物語』の「明石」巻を書写し始める。〔『言経卿記』一〕 4月21日 吉田兼見、織田信長が大坂に付城7所を築いた旨を知る。〔『兼見卿記』一〕 4月22日 織田信長(「信長」)、蒲生氏郷(「蒲生忠三郎」)へ石山本願寺との戦闘で敵首2つを取った戦功を賞す。 〔「杜本志賀文書」〕 4月22日 山科言経、禁中の三条西実隆(「逍遙院」)歌及び「明題抄」1冊を進覧し、伊与殿御局に返上を依頼。〔『言経卿記』一〕 4月22日 山科言経、「禁中御本」の「河海抄」6巻・9巻・10巻・12巻及び「花鳥余情」1巻・2巻・7巻・8巻・11巻・ 12巻・13巻・14巻等を借用。〔『言経卿記』一〕 4月22日 山科言経、禁中に召され午刻に参内し常御所へ祗候。「聖武天皇御影」や経文・「綸旨」・「武家奉書」等及び摂津国法花寺 の宝物を見物。その後酒を賜わり、白川雅朝と共に「諷」を2番する。山科言経、次いで「聊芳集」を借用。〔『言経卿記』一〕 4月22日 高倉永相邸に於いて蹴鞠が催される。 参席者は高倉永相・山科言経・三条公宣・毘沙門堂公厳・高倉永孝・万里小路充房・橘以継らであった。〔『言経卿記』一〕 4月23日 山科言経、禁中に召され午刻に参内。「六条八幡宮縁起」・「融通念佛縁起」等を読進す。〔『言経卿記』一〕 4月23日 高倉永相邸に於いて蹴鞠が催される。 参席者は高倉永相・山科言経・飛鳥井雅敦・三条公宣(「轉法輪」)・高倉永孝・橘以継らであった。〔『言経卿記』一〕 4月23日 「太白」星、禁裏に出現。〔『言経卿記』一〕 4月24日 大和宗恕、山科言経を訪問し雑談。〔『言経卿記』一〕 4月24日 山科言継、嵯峨祭を見物し山城国葛野郡葉室を訪問。〔『言経卿記』一〕 4月24日 中院通勝、山科言経を訪問。山科言経、中院通勝へ山科言継(「老父」)番代を相伝。〔『言経卿記』一〕 4月24日 山科言経、勧修寺晴右(「勧修寺亜相」)が所労というので見舞う。〔『言経卿記』一〕 4月25日 山科言経、冷泉為満と共に北野神社へ参詣。次いで西方寺真清に立ち寄り、勧修寺晴右(「勧修寺亜相」)の所労を見舞う。 〔『言経卿記』一〕 4月25日 山科言経、禁裏に召され参内。「明題抄」を書写し、酒宴の際に蘇香圓・阿伽陀圓を下賜される。〔『言経卿記』一〕 4月25日 山科言経、松木宗房番代に祗候出来ず。〔『言経卿記』一〕 4月25日 冷泉為満、暮れに山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 4月26日 相国寺雲松軒春湖、山科言経を訪問し双六を打つ。〔『言経卿記』一〕 4月26日 五辻元仲(「新蔵人」)、山科言経を訪問し「公卿補任」第1を借用。〔『言経卿記』一〕 4月26日 葉室長教(「葉室弁」)、上洛。〔『言経卿記』一〕 4月26日 飛鳥井雅敦邸に於いて蹴鞠が催される。 参席者は山科言経・三条公宣(「轉法輪」)・毘沙門堂公厳・橘以継・五辻元仲(「新蔵人」)らであった。 〔『言経卿記』一〕 4月26日 山科言経、三条西実枝の番代として参内。相番は持明院基孝・庭田重通らで、外様衆は橘以継であった。〔『言経卿記』一〕 4月27日 冷泉為満、早朝に山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 4月27日 山科言経、葉室長教(「葉室弁」)・橘以継・相国寺雲松軒春湖等を同行し清水寺千部経供養に参詣。 その後、山科言経は毘沙門堂公厳を訪問。〔『言経卿記』一〕 4月27日 山科言経、大典侍殿(万里小路賢房女)に召され参内。 禁裏より二条晴良(「二条殿」)へ酒肴が下賜され、山科言経が「御使」として二条晴良(「二条殿」)邸へ派遣される。 〔『言経卿記』一〕 4月27日 吉田兼見、来1日に織田信長(「左大将殿」)上洛の風聞に接す。〔『兼見卿記』一〕 4月28日 織田信長(「信長」)、塩川国満(「塩川伯耆守」)・安東平右衛門へ全5ヶ条の「覚」を下す。 その内容は敵がどの口から出撃してきても迎撃することを命令し油断した連中は「曲事」であり「交名」にて報告すべきこと、 「番」等の件は昼夜の別無くすること、「敵」(石山本願寺)に対して織田軍側より攻撃を仕掛けることは停止するが攻略する に都合の良い攻め口があれば調査して攻撃命令を待つこと、守備兵(「番手人数」)が「退屈」しないように厳命すること、 いずれ「当年中ニハ可為一着」くという見通しであるから不要な動向により有能な士卒(「可然もの」)が「鉄炮」などに当た らないように注意しながら防備することを命令す。〔「中山寺文書」〕 4月28日 二条晴良(「二条殿」)、山科言経へ使者北小路俊清(「宮内大輔」)を派遣、昨日の禁中酒肴下賜「御使」の御礼という。 〔『言経卿記』一〕 4月28日 山科言経、大典侍殿(万里小路賢房女)へ祗候し、二条晴良(「二条殿」)からの御礼を奏上。 次いで上搆芫ヌ(花山院家輔女)へ祗候。その後、山科言経は勧修寺晴右(「勧修寺亜相」)の所労見舞に赴き、回復の兆しが 見られたという。〔『言経卿記』一〕 4月28日 山科言経、竹内長治(「竹内左兵衛督」)より諷本「宗近」を借用。〔『言経卿記』一〕 4月28日 葉室長教(「葉室弁」)、在所(山城国葛野郡葉室)へ帰宅。〔『言経卿記』一〕 4月28日 祇園社において里村紹巴(「紹巴」)・里村昌叱・里村心前ら連歌会を催す。発句は三条西実枝であった。 〔『兼見卿記』一〕 4月29日 織田信長(「右大将信長卿」)、近江国安土城より上洛。〔『言経卿記』一〕 4月29日 冷泉為満、山科言経を訪問。また暮れに及び再度山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 4月29日 飛鳥井雅敦(「飛鳥井羽林」)邸に於いて蹴鞠が催される。 参席者は三条西実枝・水無瀬兼成・高倉永相・山科言経・五辻為仲・「中将」(飛鳥井雅敦?)・三条公宣(「轉法輪」)・ 毘沙門堂公厳・高倉永孝・橘以継・五辻元仲(「新蔵人」)らであった。〔『言経卿記』一〕 4月29日 山科言経、山科言継(「老父」)の番代として参内。相番は中院通勝で、外様衆は高倉永相・西洞院時通らであった。 〔『言経卿記』一〕 4月29日 吉田兼見、満千代を同行し上洛した織田信長(「左大将殿」)の宿所二条妙覚寺を訪問。〔『兼見卿記』一〕 4月 晦日 織田信長、上洛し京都二条妙覚寺に寄宿す。〔『信長公記』巻九〕 4月 晦日 大和国興福寺常如院、丹波国勝龍寺城の細川藤孝を礼問す。〔『多聞院日記』二〕 5月 5月 1日 山科言経、禁裏に於いて「祇王縁起」を拝見。〔『言経卿記』一〕 5月 1日 廷臣公家衆等、織田信長(「右大将殿」)妙覚寺宿所へ祗候し上洛を賀す。但し「草臥」というので対面は無かった。 近衛信尹(「近衛殿」)のみが対面したという。公家衆の大部分は帰宅、少数が居残った。 参席公家衆は二条晴良・西園寺公朝・九条兼孝・一条内基・二条昭実・近衛信尹・三条西実枝・烏丸光康・中山孝親・ 今出川晴季・徳大寺公維・飛鳥井雅教・山科言継・庭田重保・持明院基孝・柳原淳光・四辻公遠・甘露寺経元・三条西公国・ 水無瀬兼成・高倉永相・山科言経・庭田重通・勧修寺晴豊・正親町実彦・中山親綱・松木宗房・中院通勝・富小路秀直・ 唐橋在通・烏丸光宣・五辻為仲・冷泉為純・飛鳥井雅敦・大炊御門経頼・日野輝資・竹内長治・東坊城盛長・水無瀬親具・ 白川雅朝・久我季通・三条公宣・中御門宣教・広橋兼勝・高倉永孝・冷泉為満・高倉範国・万里小路充房・四条隆昌・ 冷泉俊久・橘以継・五辻元仲・五条為名らであった。 参席門跡衆は尊朝法親王・聖護院道澄・大覚寺尊信・勧修寺聖信・醍醐寺三宝院義演・実相院らであった。 参席地下衆は中原師廉・丹波頼景・壬生朝芳・卜部兼興・舟橋国賢・丹波頼慶らであった。〔『言経卿記』一〕 5月 1日 山科言経、暮れに月朔御祝のため参内。 参仕衆は庭田重保・持明院基孝・四辻公遠・甘露寺経元・三条西公国・山科言経・勧修寺晴豊・中山親綱・松木宗房・ 中院通勝・白川雅朝・四辻季満・橘以継・五辻元仲らであり、その後参仕衆は誠仁親王(「御方御所」)へ祗候。 〔『言経卿記』一〕 5月 1日 吉田兼見、織田信長(「左大将殿」)へ出仕するも面会は無い旨を村井専次(「村井専次」)より通達されたので即時退出。 吉田兼見は村井専次を訪問、また村井専次宿所で猪子高就(「猪子兵介」)と面会。〔『兼見卿記』一〕 5月 2日 葉室頼房、上洛し晩に及び帰宅。〔『言経卿記』一〕 5月 2日 冷泉為満、山科言経を訪問し談合。〔『言経卿記』一〕 5月 2日 織田信長(「大将殿」)、摂家・清華ら公家衆の出仕を受ける。献上物を披露したのは村井貞勝。〔『兼見卿記』一〕 5月 2日 山科言経、織田信長(「右大将」)へ祗候。織田信長(「右大将殿」)は出仕した公家衆各自と対面。 出仕公家衆は二条晴良・西園寺公朝・九条兼孝・一条内基・二条昭実・近衛信尹・三条西実枝・烏丸光康・中山孝親・ 今出川晴季・徳大寺公維・飛鳥井雅教・山科言継・庭田重保・高辻長雅・葉室頼房・持明院基孝・柳原淳光・四辻公遠・ 甘露寺経元・水無瀬兼成・高倉永相・山科言経・庭田重通・勧修寺晴豊・正親町実彦・中山親綱・松木宗房・中院通勝・ 富小路秀直・唐橋在通・烏丸光宣・五辻為仲・冷泉為純・飛鳥井雅敦・大炊御門経頼・日野輝資・竹内長治・東坊城盛長・ 水無瀬親具・白川雅朝・久我季通・西洞院時通・中御門宣教・広橋兼勝・高倉永孝・冷泉為満・葉室長教・四辻季満・ 高倉範国・万里小路充房・四条隆昌・橋本実勝・冷泉俊久・橘以継・五辻元仲・五条為名らであった。 出仕門跡衆は仁和寺殿(守理法親王)・青蓮院殿(尊朝法親王)・妙法院殿(常胤法親王)・聖護院殿(尊澄法親王)・ 大覚寺尊信・勧修寺聖信・醍醐寺三宝院義演・実相院らであった。 次いで山科言継・葉室頼房・葉室長教・山科言経・冷泉為満・橘以継は連れ立ち織田信長(「大将殿」)新屋敷(旧二条邸宅) を見物。〔『言経卿記』一〕 5月 2日 織田信長(「信長」)、筒井順慶(「筒井順慶」)へ早速の「竹釘」調達を賞す。〔「塚本文書」二〕 5月 3日 織田信長(「左大将殿」)、二条晴良(「二条殿」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕 5月 3日 五辻元仲(「新蔵人」)、山科言経を訪問し「公卿補任」1巻を返還。次いで「公卿補任」2巻・3巻を借用。 〔『言経卿記』一〕 5月 3日 吉田兼見、武井夕庵(「夕庵」)・松井友閑(「友閑」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕 5月 3日 多聞院英俊、摂津国大坂に於いて織田軍が「敗軍」し多数の死傷者が出たことを知る。 また塙直政(「原田備中守」)・塙安弘(「塙喜三郎」)・塙小七郎らの討死は必定であるということであった。 さらに夕部の合戦では松永久通(「松永金吾」)らも戦死したという風聞に接す。〔『多聞院日記』二〕 5月 3日 柴田勝家(「柴田修理亮勝家」)、初めて音信を通ず遠藤基信(「遠藤山城守」:伊達輝宗重臣)へ自身が「北国表為警固」 に越前国に「居置」かれたことを通知。さらに去年(天正3年)織田軍は加賀国・越中国・能登国を「以覚悟平均申付」けたが 詳細な作戦の計画中である旨、そして遠藤基信の出羽国に於ける織田信長(「天下」)への入魂を賞し、「上方」への御用は 疎意無く取り次ぐ旨を通知。今後「都鄙」の様子に関する委細は「石神博士」に伝達させる。〔「建勲神社文書」〕 5月 3日 この早朝より石山本願寺一揆勢、数千挺の「鉄炮」を以て織田軍を攻撃、敗走させる。 一揆勢の追撃を阻止した塙直政(「原田備中」)・塙安弘(「塙喜三郎」)・塙小七郎・蓑浦無右衛門・丹羽小四郎が討死。 〔『信長公記』巻九〕 5月 3日 石山本願寺一揆勢、摂津国天王寺砦を守備する佐久間信栄(「佐久間甚九郎」)・明智光秀(「惟任日向守」)・ 猪子高就(「猪子兵介」)・大津長昌(「大津伝十郎」)らを攻囲。〔『信長公記』巻九〕 5月 4日 冷泉為満、・万里小路充房、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 5月 4日 山科言経、織田軍が大坂出征のため上洛し二条等持寺辺に陣取っている由を知る。 山科言経、中山親綱(「中山新宰相」)・五辻元仲・中原師廉(「局務」)等を同行し等持寺辺を見物に赴く。 〔『言経卿記』一〕 5月 4日 吉田兼見、織田軍と本願寺勢(「大坂衆」)の天王寺表における戦闘で原田直政(「原田備中」)が戦死した旨、 明智光秀(「惟日」)・荒木村重(「荒木」)・三好康長(「三好山城」)が籠城するも苦戦を強いられており、明日 織田信長(「左大将殿」)が出馬するので、織田信長分国衆は残らず上洛するという報に接す。〔『兼見卿記』一〕 5月 4日 多聞院英俊、摂津国大坂に於いて塙直政(「原田備中守」)・塙安弘(「塙喜三郎」)・塙小七郎らが討ち死にしたことを 知る。〔『多聞院日記』二〕 5月 4日 羽柴秀吉、下京まで上洛。 5月 5日 織田信長(「右大将」)、未明に大坂へ向けて出陣。〔『言経卿記』一〕 5月 5日 織田信長、わずかに100騎ばかりの手勢を率いて出陣、摂津国大坂に向かう。河内国若江城に到着。〔『信長公記』巻九〕 5月 5日 織田信長(「左大将殿」)、明智光秀・荒木村重・本多康重らの救援のため2000余の軍勢を率いて出陣。 分国衆は追々上洛次第出征するという。〔『兼見卿記』一〕 5月 5日 織田信長(「信長」)、午刻に石清水八幡宮(「八幡」)を通過。〔『多聞院日記』二〕 5月 5日 葉室頼房、上洛。晩に帰宅。〔『言経卿記』一〕 5月 5日 山科言継・山科言経・冷泉為満・葉室長教(「葉室弁」)、節供廻礼のため村井貞勝(「村井長門守」)を訪問。 次いで山科言経・冷泉為満・葉室長教は近衛信尹(「近衛殿」)、御霊殿、二条晴良、九条兼孝、二条昭実、勧修寺晴右、 大祥寺殿、中山孝親・親綱父子、五辻為仲・五辻元仲父子、三条西実枝、曼殊院覚恕(「竹内殿」)、毘沙門堂公厳、 中院通勝、竹内長治等を礼問す。〔『言経卿記』一〕 5月 5日 「冷泉」(冷泉為純?)・四条隆昌等、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 5月 5日 山科言経、「不具」により端午御祝に参内せず。 参席者は中山孝親・山科言継・庭田重保・持明院基孝・四辻公遠・甘露寺経元・庭田重通・勧修寺晴豊・中山親綱・松木宗房・ 中院通勝・中山慶親・白川雅朝・広橋兼勝・四辻季満・高倉範国・万里小路充房・橘以継・五辻元仲らであった。 〔『言経卿記』一〕 5月 5日 筒井順慶(「筒」)、飯田出羽入道・松田某を大和国興福寺へ派遣し明日の織田信長(「信長」)出陣のための人員供出を 通達するも不調に終わる。〔『多聞院日記』二〕 5月 5日 多聞院英俊、この日織田信長(「信長」)が京都を出陣したこと、先陣の佐久間信盛(「佐久間右衛門」)は巳刻に河内国 若江に着陣したこと、織田信長(「信長」)は午刻に石清水八幡宮(「八幡」)を通過したことを知る。〔『多聞院日記』二〕 5月 5日 佐久間信盛(「佐久間右衛門」)、織田信長の先陣として出撃。巳刻に河内国若江に着陣。〔『多聞院日記』二〕 5月 6日 織田信長、河内国若江城に在城。〔『兼見卿記』一〕 5月 6日 織田信長、河内国若江城に於いて戦況についての情報を収集。織田軍の軍勢編制が難航する。〔『信長公記』巻九〕 5月 6日 冷泉為満、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 5月 6日 山科言経、毘沙門堂公厳を訪問するも留守であった。〔『言経卿記』一〕 5月 6日 大和国興福寺禅識房、一昨日に筒井順慶(「筒」)へ見舞に下向したがこの日帰還する。 多聞院英俊、筒井順慶(「筒順」)・松永久通(「松右」)・中坊飛騨守(「中飛」)には変わったことが無い旨を知る。 〔『多聞院日記』二〕 5月 7日 織田信長、自らの陣頭指揮により3千ばかりの軍勢を率い「三段に御備」て石山本願寺一揆勢1万5千に攻撃を仕掛ける。 先ず住吉口より攻め込み、戸口まで進撃。織田信長(「信長」)は先手の足軽と共に攻撃に参加し的確に指令を発していたが、 足に鉄炮疵を負うなど負傷するも一揆勢を撃破し天王寺砦に入る。敵首2700余を獲った。〔『信長公記』〕 5月 7日 山科言経、甘露寺経元を訪問し夏袍を借用。午刻に返還。〔『言経卿記』一〕 5月 7日 西洞院時通・冷泉為満、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 5月 7日 正親町天皇・誠仁親王(「親王御方」)、禁裏に於いて「八幡御法楽」、すなわち「右大将出陣之御祈祷」を行う。 〔『言経卿記』一〕 5月 7日 吉田兼見、午刻に織田信長が天王寺表へ出撃し本願寺勢(「大坂衆」)を撃破した報を申刻に接す。 吉田兼見は織田信長の勝利を「公私大慶安堵了」と表現。〔『兼見卿記』一〕 5月 7日 本願寺顕如、美濃国長久寺門徒中へ籠城状況を通知し極楽往生のための忠勤を促す。〔「長久寺文書」‐1〕 5月 7日 毛利輝元、穂田元清へ織田信長との断交を通知。〔「長府毛利家文書」〕 5月 7日 大和国興福寺、筒井順慶(「筒井」)のために「祈祷配巻大般若経」を行う。〔『多聞院日記』二〕 5月 7日 多聞院英俊、織田軍(「信長惣勢」)が総攻撃を仕掛けて「大坂衆」(石山本願寺一揆衆)を撃破、多数を討ち取ったこと、 「一揆衆」は「大坂」(石山本願寺)へ退却した旨を知る。〔『多聞院日記』二〕 5月 8日 広橋兼勝・冷泉為満、山科言経を訪問。高倉永孝(「藤右衛門佐」)、暮れに山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 5月 8日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問するも村井貞勝は天王寺表へ下向。〔『兼見卿記』一〕 5月 8日 大和国吉野飯貝の「一向衆ノ坊主」、紀伊国根来寺を経由して摂津国大坂へ出ようとしたところ織田軍に捕縛される。 〔『多聞院日記』二〕 5月 9日 織田信長、摂津国平野庄へ天王寺への付城構築にあたり蜂屋頼隆(「蜂屋兵庫助」)の派遣を通達し用材調達を命令。 〔「末吉文書」〕 5月 9日 中院通勝・高倉永孝(「藤右衛門佐」)・冷泉為満、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 5月 9日 冷泉為満、山科言経より「明題抄」を借用。〔『言経卿記』一〕 5月 9日 山科言経、山科言継(「老父」)の番代として参内。相番は中院通勝で、外様衆は西洞院時通のみであった。 〔『言経卿記』一〕 5月10日 冷泉為満・五辻元仲(「新蔵人」)、山科言経を訪問し談合。〔『言経卿記』一〕 5月10日 山科言経、松木宗房の番代を中院通勝へ相伝。〔『言経卿記』一〕 5月10日 村井貞勝(「村長」)、上洛。村井貞勝邸を吉田兼見および勧修寺晴右・甘露寺経元・中山孝親・冷泉為純ら公家衆が訪問し 南方表に関し雑談。 村井貞勝(「村長」)、禁裏より勅使(「禁裏御使」)を早々に派遣するよう要請し、勧修寺晴右が明日の勅使派遣を了承。 また吉田兼見、村井貞勝(「村長」)へ自身の下向の如何を問い、村井貞勝の要請により即時帰宅し下向の準備をする。 〔『兼見卿記』一〕 5月10日 多聞院英俊、去5月7日に大和国「当山」が巳刻・酉刻に鳴動し、幡雲本宮の上から二筋(光か?)が大坂に向けて立った ことを知り、巳刻は織田軍が合戦の最中であり、石山本願寺勢が撃破された時分であり、酉刻は石山本願寺勢が敗走した時分で あることを「奇特」と認識する。〔『多聞院日記』二〕 5月10日 多聞院英俊、この日巳刻に和泉国が完全に筒井順慶(「筒井順慶」)の「存知」となったことを織田信長(「信長」)の 「両使」明智光秀(「明智十兵衛」)・万見重元(「万見専千代」)より通達を受けた森弥四郎の書状で成身院経由で知る。 〔『多聞院日記』二〕 5月10日 多聞院英俊、「大乗院」(興福寺大乗院尋憲か)より筒井順慶(「筒」)への巻数準備を依頼されて準備を調えて送付する。 〔『多聞院日記』二〕 5月11日 勧修寺晴豊・甘露寺経元、戦将祝賀の勅使として摂津国へ下向。〔『兼見卿記』一〕 5月11日 葉室長教(「葉室弁」)、在所(山城国葛野郡葉室)へ帰宅。〔『言経卿記』一〕 5月11日 山科言経、毘沙門堂公厳を訪問。〔『言経卿記』一〕 5月11日 冷泉為満、暮れに及び山科言経を訪問し談合。〔『言経卿記』一〕 5月11日 多聞院英俊、筒井順慶(「筒井」)が浄田某・松田某を「使」として入部させたことを知る。〔『多聞院日記』二〕 5月12日 冷泉為満、山科言経を訪問し酒(「錫」)を贈る。〔『言経卿記』一〕 5月12日 山科言経、近衛信尹(「近衛殿」)を訪問。酒・素麺で接待され、囲碁・将棋をする。〔『言経卿記』一〕 5月12日 禁裏清涼殿東に於いてこの夜より「右大将出陣御祈祷」として不動明王護摩が焚かれる。 仁和寺殿新門主(守理法親王)が導師を勤め、「脂燭殿上人」は東坊城盛長・西洞院時通・四辻季満・高倉範国・橘以継らで、 奉行職は広橋兼勝であった。その他「聴聞衆」は三条西実枝・中山孝親・庭田重保・持明院基孝・四辻公遠・山科言経・ 庭田重通・中山親綱・中院通勝・五辻為仲・白川雅朝・高倉永孝・万里小路充房・五辻元仲らであった。〔『言経卿記』一〕 5月12日 吉田兼見、未明に摂津国へ出立。未刻に天王寺へ到着。細川藤孝(「長兵衛」)陣所を訪問し、本陣に滞留。 細川藤孝(「長兵」)が来訪者を応対。 吉田兼見、村井専次(「村井専次」)・村井貞成(「作右衛門」)へは書状を携帯させた使者を、佐竹定実(「佐竹羽州」)へ は使者を派遣。〔『兼見卿記』一〕 5月13日 冷泉為満・四条隆昌等、暮れに及び山科言経を訪問。冷泉為満、この夜の「脂燭殿上人」であるため帰宅し参内。 〔『言経卿記』一〕 5月13日 この夜、禁中に於いて護摩(不動明王護摩)が焚かれる(2日目)。 「脂燭殿上人」は高倉永孝・冷泉為満・五辻元仲らであった。〔『言経卿記』一〕 5月13日 吉田兼見、村井貞成(「村作」)と共に本陣所へ祗候。献上物は堀秀政(「堀久太郎」)が披露。 次いで吉田兼見、細川昭元(「細川右京兆」)・明智光秀(「惟日」)・細川藤孝(「長兵」)を訪問し見舞う。 〔『兼見卿記』一〕 5月13日 「太白経天」が行われる。〔『言経卿記』一〕 5月13日 足利義昭、毛利輝元(「毛利右馬頭」)へ山内隆通(「山内新左衛門尉」)に対する入洛援助の督促を命令。 〔「山内首藤家文書」‐248〕 5月13日 足利義昭、毛利輝元(「毛利右馬頭」)へ山内元通(「山内刑部少輔」)に対する入洛援助の督促を命令。 〔「山内首藤家文書」‐309〕 5月13日 多聞院英俊、去5月8日に大和国吉野飯貝の「一向衆ノ坊主」が紀伊国根来寺を経由して摂津国大坂へ出ようとしたところを 織田軍に捕縛された旨を知る。〔『多聞院日記』二〕 5月14日 山科言経、高倉永孝を訪問し「侖吾」を復読。〔『言経卿記』一〕 5月14日 冷泉為満・四条隆昌等、山科言経を訪問。この夜の「脂燭殿上人」は四条隆昌であった。〔『言経卿記』一〕 5月14日 この夜、禁裏に於いて護摩(不動明王護摩)が焚かれる(3日目)。 「脂燭殿上人」は竹内長治・四条隆昌・五辻元仲らであった。〔『言経卿記』一〕 5月14日 山科言経、山科言継(「老父」)の番代として参内。 相番は広橋兼勝、加番は松木宗房らで、外様衆は徳大寺公維・五辻元仲らであった。 次いで禁裏より長橋局より「御使」が到来し宿直者は「スイヒツ」(水筆)を拝領。〔『言経卿記』一〕 5月14日 吉田兼見、上洛のついでに和泉国堺を見物、未刻に細川藤孝(「長兵」)が在城する河内国森口城へ到着、宿泊。 〔『兼見卿記』一〕 5月14日 丹羽二介(「丹羽ノ二介」)、織田信長(「信長」)の「下知」により井戸良弘(「井戸若州」)の宿所に於いて捕縛。 〔『多聞院日記』二〕 5月14日 塙孫四郎(「塙マコ四郎」)、織田信長「下知」により探索の対象となっていたが山城国槙島へ避難。〔『多聞院日記』二〕 5月15日 この夜、禁裏に於いて護摩(不動明王護摩)が焚かれる(4日目)。 「脂燭殿上人」は竹内長治・西洞院時通・高倉範国・橘以継・五条為名らであったという。〔『言経卿記』一〕 5月15日 吉田兼見、河内国森口城を出立し午刻に帰宅。〔『兼見卿記』一〕 5月15日 丹羽二介(「丹羽ノ二介」)、捕縛されこの朝に河内国の織田信長(「信長」)陣所に送られる。〔『多聞院日記』二〕 5月15日 多聞院英俊、昨夕丹羽二介(「丹羽ノ二介」)が井戸良弘(「井戸若州」)の宿所に於いて織田信長(「信長」)の「下知」 により捕縛され、この朝に河内国の織田信長(「信長」)陣所へ送られたことを知る。 多聞院英俊は丹羽二介が塙安弘(「塙喜三郎」)の信頼を受けて(大和国)「当国率一円代官」として専制を揮った「冥罰」 だと判断す。 また多聞院英俊は塙孫四郎(「塙マコ四郎」)も織田信長「下知」により捜索の対象とされたが、山城国槙島へ避難したらしい ことも知る。〔『多聞院日記』二〕 5月15日 多聞院英俊、筒井順慶(「筒井」)より大和国興福寺(「寺門」)および「ナラ中」へ塙直政(「原田」)「一類ノ衆」の 「預リ物」があれば「紙一枚ノコサス」織田信長が収公すること、また塙直政一類(「彼流類」)を匿うことの禁止を厳重に 通達されたことを知る。また多聞院英俊はこのような状況のため塙小七郎(「塙小七」)の米を提出したが「今更不便之次第」 と不満を持つ。〔『多聞院日記』二〕 5月15日 多聞院英俊、「大乗院殿」より織田信長(「信長」)へ送付する巻数の準備を依頼され、準備を調える。 〔『多聞院日記』二〕 5月16日 相国寺雲松軒春湖、山科言経を訪問し双六を打つ。次いで冷泉為満・五辻元仲(「新蔵人」)、山科言経を訪問。 〔『言経卿記』一〕 5月16日 この夜、禁裏に於いて護摩(不動明王護摩)が焚かれる(5日目)。 「脂燭雲客」は東坊城盛長・高倉永孝・四辻季満・橘以継・五辻元仲らであった。〔『言経卿記』一〕 5月16日 山科言経、持明院基孝の番代として参内。相番は中院通勝・広橋兼勝・万里小路充房らであった。〔『言経卿記』一〕 5月16日 山科言経、北野社を参詣。〔『言経卿記』一〕 5月16日 「大乗院殿」、織田信長(「信長」)の陣中見舞のため河内国へ下向。〔『多聞院日記』二〕 5月17日 山科言経、葉室頼房へ月次連歌の発句・脇句を送る。〔『言経卿記』一〕 5月17日 相国寺雲松軒春湖、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 5月17日 大和宗恕(「大和宮内入道」)、山科言経を訪問し諷本の赤2巻・白8巻を借用。〔『言経卿記』一〕 5月17日 中院通勝、山科言経へ夏袍の借用を依頼し承諾を得る。冷泉為純よりの依頼であるという。〔『言経卿記』一〕 5月17日 冷泉為満、山科言経を訪問。この夜、禁中に於いて「脂燭」として参内するという。〔『言経卿記』一〕 5月17日 この夜、禁裏に於いて護摩(不動明王護摩)が焚かれる(6日目)。〔『言経卿記』一〕 5月17日 多聞院英俊、丹羽二介(「丹羽ノ二介」:元大和国代官)が逃亡した奈良へ立ち戻ったが、大和国多聞山城の牢獄へ 入れられたことを知る。〔『多聞院日記』二〕 5月17日 多聞院英俊、近日中に織田軍が「大坂」(石山本願寺)近辺へ攻撃を仕掛ける予定で、「詰城」構築の用意として人夫・縄を 奈良中に対して課せられたことを知る。〔『多聞院日記』二〕 5月18日 山科言経、近衛信尹(「近衛殿」)を訪問。〔『言経卿記』一〕 5月18日 山科言経、中院通勝からの依頼で西園寺実益(「西園寺中納言」)の番代を西洞院時通へ相伝。〔『言経卿記』一〕 5月18日 この夜、禁裏の護摩(不動明王護摩)が結願。〔『言経卿記』一〕 5月18日 四条隆昌、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 5月18日 「大乗院殿」、夕刻に河内国の織田信長(「信長」)陣中見舞いより帰還。〔『多聞院日記』二〕 5月18日 上杉謙信、本願寺顕如と和睦す。 5月19日 冷泉為満、山科言経を訪問。更に暮れに及び再度訪問。冷泉為純・大炊御門経頼等も到来し談合。〔『言経卿記』一〕 5月19日 山科言経、山科言継(「老父」)番代を持明院基孝へ相伝。〔『言経卿記』一〕 5月19日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し将碁を楽しむ。〔『兼見卿記』一〕 5月19日 吉田兼見、三条西実枝を訪問。〔『兼見卿記』一〕 5月19日 吉田兼見、勧修寺晴右を訪問。〔『兼見卿記』一〕 5月19日 吉田兼見、近衛信基を訪問し「大学」写本を贈る。〔『兼見卿記』一〕 5月20日 山科言経、中院通勝を訪問するも留守であった。「十九竹笙」(但し竹は18本)を返還。次いで三条西実枝を訪問し 「公卿補任」2冊を返還、数刻雑談す。〔『言経卿記』一〕 5月20日 山科言経、山科言継(「老父」)・松木宗房の番代として参内。 相番は庭田重保・橘以継らで、外様衆は冷泉為純・冷泉為満らであった。〔『言経卿記』一〕 5月20日 多聞院英俊、「大乗院殿」が去5月16日に河内国の織田信長(「信長」)を陣中見舞いし、去5月18日に帰還したことを 知る。〔『多聞院日記』二〕 5月21日 相国寺雲松軒春湖、山科言経を訪問し談合。その後、双六を打つ。〔『言経卿記』一〕 5月22日 相国寺雲松軒春湖、山科言経を訪問し双六を打つ。〔『言経卿記』一〕 5月22日 多聞院英俊、「木津指出」の件で寿福院が「異見」したので、この日取り替えるため寿福院が派遣されたことを知る。 〔『多聞院日記』二〕 5月22日 多聞院英俊、「内々」に大和国楊本城に下向する用意をするも、大雨のために延引した。〔『多聞院日記』二〕 5月23日 相国寺雲松軒春湖、山科言経を訪問し双六を打つ。冷泉為満、暮れに及び山科言経を訪問し談合。〔『言経卿記』一〕 5月23日 織田信長、淡路国の安宅信康(「安宅甚五郎」)へ毛利輝元(「中国」)より石山本願寺(「大坂」)に兵粮搬入する風聞が 事実であれば、その阻止を命令。詳細は三好康長(「三好山城守」)に伝達させる。〔「伊藤直三氏所蔵文書」〕 5月23日 織田信長、丹波国の谷野衛好(「谷野大膳亮」)へ石山本願寺攻撃の際に木津・難波に於いて戦功を挙げたことを賞す。 〔「谷城趾保管文書」〕 5月23日 明智光秀(「惟日」)、帰陣し在京。 吉田兼見、明智光秀を見舞い、明智光秀が摂津陣中において病み、曲直瀬正盛(初代曲直瀬道三)の治療を受けた旨を知る。 〔『兼見卿記』一〕 5月23日 多聞院英俊、「松権」へ「入魂」を通知。〔『多聞院日記』二〕 5月24日 相国寺雲松軒春湖、山科言経を訪問し双六を打つ。次いで冷泉為満、山科言経を訪問し談合。〔『言経卿記』一〕 5月24日 五辻元仲(「新蔵人」)、山科言経へ「公卿補任」2巻・3巻と「朗詠抄」上巻を返還。 また五辻元仲、山科言経より「味外集」を借用。〔『言経卿記』一〕 5月24日 山科言経、山科言継(「老父」)の番代として参内。 相番は中院通勝らで、外様衆は徳大寺公維・五辻元仲らであった。〔『言経卿記』一〕 5月24日 吉田兼見、明智光秀室より明智光秀(「惟日」)病治癒の祈念を依頼される。〔『兼見卿記』一〕 5月24日 多聞院英俊、大和国木津に滞在している「三人衆」(三好三人衆?)より使者を受ける。「両寺」の山城国内に存在する知行 に対しては全て使者が派遣された。〔『多聞院日記』二〕 5月24日 多聞院英俊、「中村周防」がこの日矢田へ向かう途中、落馬の際に「ワキサシサヤハシリ」の上に落ちたため死去したことを 知る。〔『多聞院日記』二〕 5月25日 山科言経、冷泉為満を同行し北野社に参詣。〔『言経卿記』一〕 5月25日 柳原資定(「柳原一位」)邸に於いて月次法楽連歌会が催される。 参席者は柳原資定・持明院基孝・甘露寺経元・山科言経・石泉院忠順・梅翁院・東坊城盛長・妙法院直雲・速水友益・西林某等 であった。〔『言経卿記』一〕 5月25日 山科言経、松木宗房の番代として参内。相番は中院通勝等、外様衆は徳大寺公維・五辻元仲らであった。〔『言経卿記』一〕 5月25日 多聞院英俊、河内国の「松権」の陣中見舞へ下向する「孫」が到来したので贈物をする。〔『多聞院日記』二〕 5月26日 山科言経、中御門宣教へ使者を派遣し「続拾遺集」上巻を返還してもらう。〔『言経卿記』一〕 5月26日 山科言経、中院通勝の依頼により三条西実枝の番代を五辻元仲へ相伝。〔『言経卿記』一〕 5月26日 織田信長(「左大将殿」)、明智光秀(「惟日」)への病状見舞の使者として埴原新右衛門(「隼原」)を派遣。 〔『兼見卿記』一〕 5月27日 庭田重通・勧修寺晴豊。冷泉為満等、山科言経を訪問し談合。次いで葉室長教、上洛。〔『言経卿記』一〕 5月27日 山科言経、毘沙門堂公厳を訪問。相国寺雲松軒春湖が来訪し、双六を打つ。〔『言経卿記』一〕 5月28日 葉室長教(「葉室弁」)、在所(山城国葛野郡葉室)へ帰宅。〔『言経卿記』一〕 5月28日 冷泉為満、山科言経を訪問し談合。〔『言経卿記』一〕 5月28日 山科言経、勧修寺邸を見舞い勧修寺晴豊へ勧修寺家の略系図を所望。山科言経、勧修寺家系図を新作しこれを贈る。 〔『言経卿記』一〕 5月28日 山科言経、四辻季満へ橘の実を贈る。〔『言経卿記』一〕 5月28日 吉田兼見、広橋兼勝より織田信長戦捷祈祷(「左大将殿為御祈祷」)命令を受けて、村井貞勝(「村長」)にその旨を相談。 村井貞勝、吉田兼見へ織田信長陣所(「左大将殿御在陣」)へ御祓の使者を派遣するよう促す。〔『兼見卿記』一〕 5月28日 大和国興福寺の「寺務」の件で東北院兼深が未だに「探題」職に就任せず「叡慮」へ申し掠め、「旧記」が存在するといい 種々の競望をして在京していることで、大和国興福寺大乗院に対して「大御所」が「御再任」することが「理運」であると して、この日「両使」東林院・安芸を京都へ派遣。〔『多聞院日記』二〕 5月29日 相国寺雲松軒春湖・山井景長(「山井筑前守」)等、山科言経を訪問し談合。次いで楽を稽古す。〔『言経卿記』一〕 5月29日 山科言経、山科言継(「老父」)の番代として参内。相番は広橋兼勝であった。〔『言経卿記』一〕 5月29日 吉田兼見、織田信長(「左大将殿」)への御祓を鈴鹿喜介を使者として進上。村井専次が披露。〔『兼見卿記』一〕 5月30日 山科言経、上搆芫ヌ(花山院家輔女)へ祗候し「茶調散」を贈る。また禁裏へも「茶調散」を献上。 次いで毘沙門堂公厳を訪問。〔『言経卿記』一〕 5月30日 冷泉為満、山科言経より「後撰」(後撰和歌集)上・下巻と「後拾遺」(拾遺和歌集)上・下巻を借用。〔『言経卿記』一〕 5月30日 山科言経、松木宗房の番代を五辻元仲(「新蔵人」)へ相伝。〔『言経卿記』一〕 5月30日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)へ枇杷を贈る。〔『兼見卿記』一〕 5月30日 村井貞勝(「村長」)、吉田兼見へ明日の四条橋普請の人足徴発を賦課。〔『兼見卿記』一〕 5月 晦日 多聞院英俊、明智光秀(「明智」)が煩ったというので筒井順慶(「筒井」)より「彼坊舎衆」7人へ祈祷が依頼されたこと を知る。〔『多聞院日記』二〕 5月 日 織田信長、紀伊国大田村へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「紀伊太田文書」〕 5月 水無瀬兼成(権中納言)・水無瀬親具(左近衛中将)、所領をめぐって訴訟に及ぶ。〔「水無瀬宮文書」四〕 6月 6月 1日 冷泉為満・山井景長・中原康雄等、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 6月 1日 山科言経、禁裏の月朔御祝に「不具所労」により祗候せず。〔『言経卿記』一〕 6月 1日 吉田兼見、四条橋普請のため鈴鹿修理進と人足30余人を派遣し、その旨を村井貞勝(「村長」)へ報告しに行く。 〔『兼見卿記』一〕 6月 2日 正親町天皇、病む(「禁中御煩」)。〔『言経卿記』一〕 6月 2日 山科言経、正親町天皇の病状を見舞う。正親町天皇は回復の兆しを見せ、「茶調散」を所望したので1包を献上。 次いで山科言経、誠仁親王(「宮御方」)へ祗候。〔『言経卿記』一〕 6月 2日 吉田兼見、四条橋普請に人足を派遣し、橋普請奉行衆へ贈物をする。〔『兼見卿記』一〕 6月 2日 毛利輝元(「輝元」)、山内隆通(「山内新左衛門尉」)・山内元通(「山内刑部少輔」)へ足利義昭の「御内書」により 入洛援助の「御請」に応ずるよう命令す。詳細は渡辺長(「渡辺左衛門大夫」)に伝達させる。 〔「山内首藤家文書」‐249〕 6月 3日 山科言経、飛鳥井雅敦・毘沙門堂公厳を訪問。そこに五辻元仲(「新蔵人」)が来訪。〔『言経卿記』一〕 6月 3日 近衛邸に於いて蹴鞠が張行される。 山科言経、先ず高倉永相・日野輝資・飛鳥井雅敦を同行し広橋兼勝を訪問し、その後各自近衛邸を訪問。 参席者は近衛信尹(「近衛殿御児」)・聖護院道澄・興福寺一乗院尊政(近衛前久息)・高倉永相・山科言経・飛鳥井雅敦・ 日野輝資・広橋兼勝らであった。〔『言経卿記』一〕 6月 3日 多聞院英俊、先月討死にした塙小七郎らの供養を行う。〔『多聞院日記』二〕 6月 4日 織田信長、荒木村重(「荒木摂津守」)へ石山本願寺(「大坂」)北口に城内より雑兵共が出てくるという事態に指示を下し たが、摂津国中島辺には出ないという条件に対する石山城内からの返事を披閲したことを通知し、石山城より1人たりとも脱出 させないようにすることを厳命。また織田信長が帰陣した後に状況変化の無いようにすること、荒木村重は早々に摂津国尼崎城 へ帰城し大坂への水路・陸路を遮断すること、織田信長等(「我々」)はこの夜に八幡に宿泊するので「珍事」出来の場合は 報告することを通達。〔『古簡雑纂』五〕 6月 4日 山科言経、山科言継(「老父」)の番代として参内。相番は広橋兼勝で、外様衆は徳大寺公維・五辻元仲らであった。 〔『言経卿記』一〕 6月 4日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問し2日間の橋普請の様子を報告、以後の普請は免除され、橋普請奉行衆へ贈物をす。 〔『兼見卿記』一〕 6月 5日 織田信長、石山本願寺に対する守備を調えて河内国若江城に宿泊。〔『信長公記』巻九〕 6月 5日 織田信長(「信長」)、京都紫野大徳寺より近江国佐和山城への陣中見舞を謝す。〔「大徳寺文書」@‐91〕 6月 5日 山科言経、松木宗房の番代として参内。相番は庭田重通・橘以継らで、外様衆は中院通勝・飛鳥井雅敦らであった。 〔『言経卿記』一〕 6月 5日 大和国興福寺大乗院尋円(「大乗院殿」)、上洛。 多聞院英俊は織田信長(「信長」)への別当職「訴訟」または「寺家再任」の嘆願が目的だと推測。〔『多聞院日記』二〕 6月 6日 葉室頼房、上洛。〔『言経卿記』一〕 6月 6日 冷泉為満、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 6月 6日 織田信長、山城国槙島城を経由し京都二条妙覚寺に入る。〔『信長公記』巻九〕 6月 6日 織田信長(「右大将信長」)、南方陣(大坂)より上洛。〔『言経卿記』一〕 6月 6日 織田信長(「左大将殿」)、南方陣より帰還。吉田兼見は路次において出迎える。〔『兼見卿記』一〕 6月 6日 廷臣等、妙覚寺に於いて織田信長(「右大将信長」)上洛を祝賀。 参席者は二条昭実・近衛信尹・聖護院(尊澄法親王)・大覚寺尊信・興福寺大乗院門跡尋憲・同一乗院尊政(近衛前久息)、 その他は三条西実枝・烏丸光康・中山孝親・山科言継・庭田重保・葉室頼房・持明院基孝・甘露寺経元・三条西公国・ 高倉永相・山科言経・庭田重通・勧修寺晴豊・中山親綱・冷泉為純・中院通勝・烏丸光宣・五辻為仲・飛鳥井雅敦・日野輝資・ 竹内長治・水無瀬親具・久我季通・三条公宣・西洞院時通・広橋兼勝・高倉永孝・冷泉為満・万里小路充房・四条隆昌・ 橋本実勝・冷泉俊久・橘以継・五辻元仲らであった。 地下衆は壬生朝芳・卜部兼興・舟橋国賢・丹波頼慶・土御門在綱らであった。上下貴賤が群集していた。〔『言経卿記』一〕 6月 6日 多聞院英俊、筒井順慶(「筒井」)より織田信雄(「勢州御茶セン」)を大和国奈良に迎えるための代官衆の用意を通達され 「震動」す。〔『多聞院日記』二〕 6月 6日 酒井正親、没。〔『日本史人物生没年表』〕 6月 7日 土御門有脩(「有脩卿」)、昨夕「禁中御物忌」というのでこの朝に長橋局へ撫物を献上。〔『言経卿記』一〕 6月 7日 冷泉為満、山科言経を訪問し談合。〔『言経卿記』一〕 6月 7日 葉室長教(「葉室弁」)、上洛。〔『言経卿記』一〕 6月 7日 山科言経、葉室頼房・葉室長教・冷泉為満等を同行し祇園会を見物。〔『言経卿記』一〕 6月 7日 山科言経、五辻為仲の番代として参内。 相番は四辻公遠・中山親綱・高倉範国らで外様衆は中院通勝・葉室長教らであった。〔『言経卿記』一〕 6月 7日 織田信長、妙覚寺において公家衆の祗候を受けるも対面せず。〔『兼見卿記』一〕 6月 7日 織田信長、水無瀬兼成(権中納言)・水無瀬親具(左近衛中将)の紛争解決のために御朱印を下す。 調停のために織田信長より矢部家定が派遣される。〔「水無瀬宮文書」四〕 6月 7日 吉田兼見、妙覚寺の織田信長へ祗候し林檎を献上、村井専次が披露するが対面は無し。 また吉田兼見は猪子高就(「猪子兵助」)と西天王社のことを依頼。〔『兼見卿記』一〕 6月 7日 織田信長、近江国安土城へ帰還。〔『信長公記』巻九〕 6月 7日 織田信雄(「御茶セン」)、大和国春日大社へ社参。〔『多聞院日記』二〕 6月 7日 大和国興福寺の権者「順識」、興福寺内の東塔空輪の上に登り立ちながら手を離した。「勢州衆」(織田信雄家臣団)の所望 による行動であったという。各自が「仰天」した。〔『多聞院日記』二〕 6月 8日 山科言経、禁裏へ参内し正親町天皇へ笛「スソ野」を返上。また「珎珠嚢本」6冊を返還される。〔『言経卿記』一〕 6月 8日 葉室頼房・葉室長教、在所(山城国葛野郡葉室)へ帰宅。〔『言経卿記』一〕 6月 8日 山科言経、柳原淳光(「柳原黄門」)を訪問し雑談。〔『言経卿記』一〕 6月 8日 山科言経をはじめ廷臣等、織田信長(「右大将」)へ祗候。 「礼被申衆」は一条内基・近衛信尹・三条西実枝・烏丸光康・中山孝親・徳大寺公維・飛鳥井雅教・山科言継・庭田重保・ 葉室頼房・持明院基孝・柳原淳光・四辻公遠・甘露寺経元・西園寺実益・水無瀬兼成・高倉永相・山科言経・庭田重通・ 勧修寺晴豊・正親町実彦・中山親綱・冷泉為純・中院通勝・花山院家雅・富小路秀直・烏丸光宣・五辻為仲・飛鳥井雅敦・ 日野輝資・竹内長治・東坊城盛長・久我季通・三条公宣・西洞院時通・中御門宣教・広橋兼勝・高倉永孝・冷泉為満・ 葉室長教・四辻季満・高倉範国・小倉季藤・橋本実勝・冷泉俊久・橘以継・五辻元仲・五条為名らであった。 その他「法中衆」は青蓮院尊朝法親王・聖護院尊澄法親王・三井寺圓満院・実相院(久我季通弟)・日厳院・毘沙門堂公厳らで あった。地下は丹波頼景・藤波慶忠・丹波頼慶らで、上下群集の様であった。〔『言経卿記』一〕 6月 8日 山科言経、甘露寺経元の番代として参内。相番は五辻元仲で、外様衆は中院通勝・中御門宣教らであった。 山科言経、禁裏に於いて御本「中州集」全6冊を拝見、借用。〔『言経卿記』一〕 6月 8日 織田信長(「左大将殿」)、未刻に今道(新道)を経て安土城に帰還。吉田兼見は息子満千代を同行し見送る。 〔『兼見卿記』一〕 6月 8日 織田信長(「信長」)、近江国安土へ帰還。〔『多聞院日記』二〕 6月 8日 織田信雄および「勢州衆」、この朝に大和国興福寺を出発。〔『多聞院日記』二〕 6月 8日 大和国興福寺、織田信長(「信長」)へ興福寺大乗院尋円「寺務再任」の件で請願書を提出。〔『多聞院日記』二〕 6月 9日 山科言経、山科言継(「老父」)の番代として参内。 相番は正親町実彦・広橋兼勝らで、外様衆は高倉永相・西洞院時通であった。〔『言経卿記』一〕 6月10日 中院通勝・毘沙門堂公厳・冷泉為満等、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 6月10日 山科言経、禁裏の命令により以前の「太白」星出現を占うため土御門有脩(「安三位」)へ派遣される。〔『言経卿記』一〕 6月10日 土御門有脩、去4月23日の「太白」星出現と5月13日の「太白経天」について占文を調進す。〔『言経卿記』一〕 6月10日 山科言経、松木宗房の番代として参内。相番は橘以継で、外様衆は冷泉為純(「新三位」)・冷泉為満らであった。 次いで山科言経、「常御縁」にと於いて正親町天皇と雑談。〔『言経卿記』一〕 6月10日 金森長近、美濃国の石徹白平左衛門へ「白山三之室」と水のみの勧進について従来の如く指示を下す。 〔「石徹白文書」‐1〕 6月10日 大和国興福寺大乗院尋円「寺務再任」の件で一昨日に織田信長(「信長」)へ請願、興福寺大乗院尋円(「大乗院」)を再任 する旨が織田信長(「信長」)より「一札写并御書」が下される。学侶衆へも二条晴良(「関白殿」)より「状」が下される。 大和国興福寺では集会を開き、この旨を受けることになった。〔『多聞院日記』二〕 6月10日 多聞院英俊、織田信長(「信長」)が去6月8日に近江国安土城へ帰還した旨を知る。〔『多聞院日記』二〕 6月11日 山科言経、中山親綱(「中山宰相中将」)を訪問し丁香散1包を贈る。次いで毘沙門堂公厳を訪問。〔『言経卿記』一〕 6月11日 土御門有脩(「安三位有脩」)、山科言経へ「太白経天勘文」を送る。〔『言経卿記』一〕 6月11日 山科言経、土御門有脩の(「安三位有脩」)からの「太白経天勘文」を上搆芫ヌへ進上。次いで誠仁親王(「御方御所」)へ 勘文の由を奏上。勧修寺晴豊・中山親綱等が参内した。次いで山科言経、松木宗房を訪問するが「在国」のため留守であった。 〔『言経卿記』一〕 6月11日 山科言経、暮れに及び竹内長治を訪問し蹴鞠をする。参席者は山科言経・中院通勝・竹内長治父子・藤波慶忠らであった。 〔『言経卿記』一〕 6月11日 上杉謙信、小早川隆景へ足利義昭の上意により上洛の準備として加賀国・越前国一向一揆と和睦して出馬する予定を通知。 6月11日 多聞院英俊、御牧景則(「御牧」「勘兵衛」)へ小三郎派遣し贈物をする。〔『多聞院日記』二〕 6月12日 山科言経、長橋局へ祗候したところ、土御門有脩(「有脩卿」)へ祈祷料送付命令を受けて派遣される。 山科言経、土御門有脩(「彼卿」)より「御撫物」を依頼され長橋局へ再度祗候、長橋局より「御撫物」を受けて再度 土御門有脩(「彼卿」)を訪問。次いで近衛信尹(「近衛殿」)を訪問。〔『言経卿記』一〕 6月12日 毘沙門堂公厳、山科言経より「新三十六人歌仙」を借用。〔『言経卿記』一〕 6月12日 中御門宣教、山科言経より謡本「舟橋」を借用。〔『言経卿記』一〕 6月12日 竹内長治(「竹内左兵衛督」)邸に於いて蹴鞠が催される。 参席者は久我季通・山科言経・中院通勝・竹内長治父子・藤波慶忠らであった。蹴鞠終了後は「閑談」す。〔『言経卿記』一〕 6月12日 冷泉為満(「上冷泉」)・冷泉為純(「下冷泉」)、暮れに山科言経を訪問し談合。 冷泉為純(「下冷」)、山科言経へ嫁娶祝儀を贈る。〔『言経卿記』一〕 6月12日 多聞院英俊が派遣した小三郎、御牧景則(「御牧」「勘兵衛」)のもとより帰還する。〔『多聞院日記』二〕 6月13日 毘沙門堂公厳、山科言経へ「新三十六人歌仙」を返還。〔『言経卿記』一〕 6月13日 山井景長(「山井筑前守」)、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 6月13日 山科言経、竹内長治(「竹内左」)より「太平記」1巻・3巻を借用。〔『言経卿記』一〕 6月13日 高倉永相邸に於いて蹴鞠が催される。参席者は山科言経・高倉永孝・橘以継・五辻元仲らであった。〔『言経卿記』一〕 6月14日 山科言経、祇園会見物のため三条町東へ出向く。〔『言経卿記』一〕 6月14日 山科言経、「故障」のため山科言継(「老父」)番代として祗候できず。〔『言経卿記』一〕 6月15日 土御門有脩(「有脩卿」)、「禁中御祈祷」の「撫物」を返進のため山科言経を訪問。 次いで土御門有脩は橘以継と共に長橋局へ祗候。山科言経、所労のため「ニンニク」を食したため祗候せず。 〔『言経卿記』一〕 6月15日 山科言経、竹内長治(「竹内左兵」)へ「太平記」1巻を返還し2巻を借用。〔『言経卿記』一〕 6月15日 冷泉為満、暮れに山科言経を訪問し談合。〔『言経卿記』一〕 6月15日 山科言経、松木宗房の番代であったが所労のため参内せず。〔『言経卿記』一〕 6月16日 織田信長、荒木村重(「荒木摂津守」)へ毛利氏「警固」船100艘計りが淡路国岩屋に到着したことについて、荒木村重が 摂津国尼崎城へ赴き「船揃」して対処したことを賞し、佐久間信盛(「佐久間」)・淡輪氏との共同作戦を実行することが重要 であること、和泉国堺の松井友閑(「宮法」)へも連絡を取り「随分調儀」が重要であることを通達。 〔「佐藤行信氏所蔵文書」一〕 6月17日 葉室長教(「葉室弁」)、父葉室頼房の番代として上洛。〔『言経卿記』一〕 6月17日 「堀川院」、中院通勝の仲介で山科言経より「公卿補任」を借用。〔『言経卿記』一〕 6月18日 山科言経、竹内長治(「竹内左督」)へ竹内家系図を貸す。〔『言経卿記』一〕 6月18日 五辻元仲(「新蔵人」)、山科言経を訪問し楽を稽古す。次いで冷泉為満、到来し談合。〔『言経卿記』一〕 6月18日 織田信長、荒木村重(「荒木摂津守」)へ全6ヶ条の指示を通達。 「大船」の調達、「西国船」(毛利水軍)の編制が不充分であり、その上兵粮も少なく石山本願寺(「大坂」)は「落居」する であろう見通し、毛利氏による安宅信康(「安宅」)の勧誘は不調なので、三好康長(「三好山城」)と荒木村重へ安宅信康を 繋ぎ止める調略を命令したこと、別所長治(「別所」)が播磨国高砂の梶原平三兵衛を攻撃しているが早速攻略するよう命令 したこと、宇喜多直家(「宇喜多」)が八幡山へ進軍したが大したことは出来ないが変化あれば報告すべきこと、和泉国の 沼間氏・田内氏・真鍋氏らが海上封鎖作戦を実行している旨を諒解したことを通達。〔「釈文書」〕 6月18日 堀秀政(「堀久太郎秀政」)、和泉国の日根野弘就(「日根野孫二郎」)へ天王寺合戦に於ける「御手負」を賞し、飛脚を 以て「疵平喩次第」に参洛すべきことを通達。〔「日根文書」坤〕 6月19日 竹内長治(「竹内左」)、山科言経へ竹内家系図を返還。〔『言経卿記』一〕 6月19日 山科言経、山科言継(「老父」)番代として参内。相番は広橋兼勝、外様衆は高倉永相・飛鳥井雅敦らであった。 「御釼共」4振を拝見。〔『言経卿記』一〕 6月19日 朽木藤綱母(山科言経の外叔母)、没す。〔『言経卿記』一〕 6月20日 山科言経、毘沙門堂公厳・五辻元仲(「新蔵人」)を訪問。次いで白川雅朝を訪問。白川雅朝邸に於いて楽稽古が行われる。 参席者は山科言経・白川雅朝・橘以継・五辻元仲(「新蔵人」)・山井景長らであった。〔『言経卿記』一〕 6月20日 冷泉為満、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 6月20日 山科言経、高辻長雅の要請にて「色葉字盡」と「愚管抄」を返還。〔『言経卿記』一〕 6月20日 山科言経、大炊御門経頼を訪問するが留守であったので、次いで徳大寺公維を訪問。〔『言経卿記』一〕 6月20日 山科言経、中御門宣教より謡本「黄五」を借用。〔『言経卿記』一〕 6月20日 葉室長教(「葉室弁」)、父葉室頼房の所労により俄に在所(山城国葛野郡葉室)へ帰宅。〔『言経卿記』一〕 6月20日 山科言経、宗房朝臣番代を持明院基孝へ相伝。〔『言経卿記』一〕 6月21日 近衛前久、島津義久へ「古今集伝授」を無事に成就したことを賞す。〔「旧記雑録後編」@‐852〕 6月21日 四辻公遠・五辻元仲(「新蔵人」)ら、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 6月21日 冷泉為満、山科言経を訪問し談合。〔『言経卿記』一〕 6月21日 山科言経母(「老母」)、葉室頼房所労を見舞うため山城国葛野郡葉室へ赴く。〔『言経卿記』一〕 6月21日 竹内長治(「竹内左」)邸に於いて蹴鞠が催される。参席者は久我季通・山科言経ら7、8人であった。〔『言経卿記』一〕 6月21日 山科言経、持明院基孝番代を五辻元仲(「新蔵人」)へ相伝。〔『言経卿記』一〕 6月22日 山科言経、朽木藤綱(「朽木刑部少輔」)母の死去を知る。 朽木藤綱母は葉室頼継の女で山科言経にとって母方の「ヲハ」であった。〔『言経卿記』一〕 6月22日 橘以継、葉室頼房の所労を見舞うため山城国葛野郡葉室へ赴く。〔『言経卿記』一〕 6月22日 山科言経、冷泉為満を同行し葉室頼房の見舞に向かうが大井川端に於いて橘以継と遭遇し葉室頼房回復を知らされる。 その後、山科言経は中御門宣教・万里小路充房を訪問し帰宅。〔『言経卿記』一〕 6月22日 山科言経、除服出仕を日野輝資へ申請するが留守であったので広橋兼勝を訪問。 橘以継も同様に除服出仕の申請し明日披露するとのことであった。山科言経、広橋兼勝より「補歴」を返還されて帰宅。 〔『言経卿記』一〕 6月23日 山科言経、「除服出仕」宣旨を賜わる。〔『言経卿記』一〕 6月23日 山科言経、上搆芫ヌへ祗候するも所労であったため、次いで大典侍殿へ祗候し「除服出仕」の「勅許」を謝す。 その後、二条晴良(「二条殿」)が参内し酒宴が開かれた。〔『言経卿記』一〕 6月23日 冷泉為満、山科言経へ李(「スモヽ」)を贈る。〔『言経卿記』一〕 6月23日 山科言経母(「老母」)、山城国葛野郡葉室より帰宅。〔『言経卿記』一〕 6月23日 竹内長治(「竹内兵」)邸に於いて蹴鞠が催される。 参席者は久我季通・山科言経・竹内長治父子・橘以継・毘沙門堂公厳・藤波慶忠らであった。〔『言経卿記』一〕 6月23日 織田信長、近江国安土城に於いて大和国興福寺別当職の件(「寺務ノ事」)に裁決を下す。〔『多聞院日記』二〕 この頃 織田信長(「左大将殿」)が大乗院尋円と東北院兼深の確執の処置を誤って禁中において度々糺明された武家伝奏の 「四人之衆」勧修寺晴右・中山孝親・甘露寺経元・庭田重保を譴責。〔『兼見卿記』一〕 6月24日 葉室頼房(「葉室黄門」)、寅刻に薨去。〔『言経卿記』一〕 6月24日 山科言経、竹内長治(「竹内兵」)へ「太平記」2巻・3巻を返還し4巻・5巻を借用。〔『言経卿記』一〕 6月24日 冷泉為満、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 6月24日 冷泉為満、暮れに橘以継らを同行し再度山科言経を訪問。誓願寺へ参詣する。〔『言経卿記』一〕 6月24日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕 6月24日 多聞院英俊、京都の興福寺大乗院尋円(「大乗院新御所」)より「御書」及び使者少輔の到来を受ける。 多聞院英俊、去6月23日に織田信長が近江国安土城に於いて大和国興福寺別当職の件(「寺務ノ事」)を「治定」したこと、 「勅使奉行」(武家伝奏)であった庭田重保・甘露寺経元・勧修寺晴右・中山孝親の4名の「知行取上」げたこと、 武井夕庵(「夕庵」)の家中を「払」ったことなど、厳重な処置を知る。この裁決は去6月20日に大和国興福寺(「寺門」) へ織田信長の「御両使」が「連判ノ一札」を取ったものによるという。別当職を剥奪された東北院兼深(「東北院」)は 「迷惑」に感じたという。興福寺大乗院尋円(「大乗院殿」)・興福寺は「旁々天下ノ面目」を保てたという。 〔『多聞院日記』二〕 6月25日 山科言経、竹内長治(「竹兵」)へ「太平記」4巻・5巻を返還。〔『言経卿記』一〕 6月25日 四条隆昌、山科言経を訪問し談合。〔『言経卿記』一〕 6月25日 山石泉院大僧正忠順、「頓死」。〔『言経卿記』一〕 6月25日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)の使者小川五右衛門より四条橋普請の臨時人足供出命令を通達される。 また吉田兼見は瓜を携え村井貞成(「村作」)を訪問、その後知恩院に村井貞勝(「村長」)を訪問し四条橋普請場を見物。 〔『兼見卿記』一〕 6月26日 冷泉為満、山科言経を訪問し談合。〔『言経卿記』一〕 6月26日 山科言経、竹内長治(「竹兵」)より「太平記」6巻・7巻を借用。〔『言経卿記』一〕 6月26日 大和国興福寺の東北院兼深(「東北院」)、織田信長(「信長」)の裁決によりこの日、筒井順慶(「順慶」)の使者から 所持品の検閲を受ける。〔『多聞院日記』二〕 6月27日 冷泉為満、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 6月27日 冷泉為満、暮れに再度山科言経を訪問し誓願寺へ参詣。〔『言経卿記』一〕 6月28日 織田信長、細川藤孝(「長岡兵部大輔」)へ淡路国岩屋に碇泊した毛利氏「警固船」は安宅信康(「安宅」が織田信長側に 「別心」しなかったので四散したこと、三好康長(「三好山城守」)が河内国東条氏へ宛てた書状を披見したこと、状況に変化 があった場合は報告すべきこと、度々の状況報告は油断無きことで喜ばしいことを通達。〔「細川家文書」二〕 6月28日 山科言経、山科言継(「老父」)・橘以継(山科言経弟)を同行し葉室頼房(「葉室黄門」)の弔問に赴く。 〔『言経卿記』一〕 6月28日 山科言経・橘以継、広橋兼勝の奏請により「除服出仕」の「口宣」を受ける。〔『言経卿記』一〕 6月28日 舟橋枝賢(正四位下清原枝賢朝臣)、「従三位」に「上階」する口宣案が発給される。〔『言経卿記』一〕 6月28日 山科言経、長橋局へ祗候するも留守であったので、上搆芫ヌへ祗候し「除服出仕」を奏上。 次いで山科言経、伊与殿御局へ舟橋枝賢「上階口宣案」を届ける。〔『言経卿記』一〕 6月28日 山科言経、暮れに及び門外にて納涼す。 三条西公国(「三条黄門」)・水無瀬兼成・三条公宣(「轉法輪」)・毘沙門堂公厳ら、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 6月28日 「一乗院」(近衛前久息・14才)、得度し「尊政」を名乗る。大乗院尋円が「師範」した。〔『多聞院日記』二〕 6月28日 大乗院尋円(「大乗院新門主」)、近江国安土城の織田信長を礼問す。〔『多聞院日記』二〕 6月29日 織田信長、筒井順慶(「筒井順慶」:大和国守護)へ大和国多聞山城(「多聞家」)の件の「京都」への報告に対し「上使」 村井貞勝(「村井」)を派遣したので、村井貞勝(「村井」)の到着次第詳細な指示を通達すること、多聞山城(「其構」)は 「無越度」き様に人夫等の指示を下すこと、筒井順慶自身は「南都」に赴き大工・人夫の準備を調えること、佐久間信盛・ 佐久間信栄(「佐久間父子」)へ詳細に報告・相談し「南都」へ赴くことを命令。また「くれくれ要害留守」の件は「無越度」 き様に命令を遵守することが重要であると通達。〔「岡本文書」二〕 6月29日 近衛前久、伊勢貞知へ島津領国滞在中に兒玉実宗の奉公を感謝する旨を通知。〔「旧記雑録後編」@‐854〕 6月29日 五辻元仲(「新蔵人」)、山科言経を訪問し楽を稽古す。〔『言経卿記』一〕 7月 7月 1日 山科言継・山科言経、村井貞勝(「村井長門守」)を訪問、対面。〔『言経卿記』一〕 7月 1日 山科言経、四辻邸に於ける「楽習礼」の参加。 参席者は山科言継・持明院基孝・四辻公遠・山科言経・竹内長治・四辻季満・橘以継・五辻元仲・豊原守秋(「豊雅楽頭」)・ 山井景長・山井景治(「竹千世」)らであった。〔『言経卿記』一〕 7月 1日 竹内長治(「竹兵」)、暮れに蹴鞠を催す。〔『言経卿記』一〕 7月 1日 冷泉為満、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 7月 1日 山科言経、禁中に於いて月朔御祝が行われるが「不具」により祗候せず。 「天酌被参衆」は山科言継・持明院基孝・四辻公遠・三条西公国・中院通勝・白川雅朝・広橋兼勝・四辻季満・万里小路充房・ 小倉季藤・橘以継・五辻元仲らであった。〔『言経卿記』一〕 7月 1日 織田信長、再度近江国安土城普請を命令。功労者には褒美を下賜。〔『信長公記』巻九〕 7月 1日 筒井順慶(「筒順」)、大和国春日大社へ社参す。〔『多聞院日記』二〕 7月 2日 山科言経、上搆芫ヌに召され参内。正親町天皇(「禁中」)より御笛「スソ野」を借用。五辻元仲、参内し楽合が行われる。 〔『言経卿記』一〕 7月 2日 竹内長治(「竹兵」)邸に於いて蹴鞠が行われる。〔『言経卿記』一〕 7月 2日 吉田兼見、佐竹定実(「佐竹羽州」)の招請により訪問。〔『兼見卿記』一〕 7月 2日 多聞院英俊、去月末に摂津国大坂周辺に於いて信念の息子である彦七が討死にしたことを知る。〔『多聞院日記』二〕 7月 3日 冷泉為満、山科言経を訪問し談合。暮れに及び再度山科言経を訪問し談合。〔『言経卿記』一〕 7月 3日 白川雅朝邸に於いて「楽習礼」あり。 参席者は山科言継・持明院基孝・四辻公遠・山科言経・竹内長治・白川雅朝・四辻季満・橘以継・五辻元仲・ 豊原守秋(「豊雅楽頭」)・山井景長(「山井筑前守」)・山井景治(「竹千世」)らであった。〔『言経卿記』一〕 7月 4日 四辻公遠(「四辻中納言」)、今出川晴季・山科言継・持明院基孝・山科言経・庭田重通・竹内長治・白川雅朝・橘以継・ 五辻元仲へ「禁中七夕御楽」の目録廻文を発す。〔『言経卿記』一〕 7月 4日 山科言経、近衛信尹(「近衛殿」)を訪問し「侖吾」上巻・下巻を返還。〔『言経卿記』一〕 7月 4日 山科言経、禁裏より明日の誠仁親王(「御方御所」)の楽習礼への参席命令を通達される。〔『言経卿記』一〕 7月 4日 山科言経、禁裏「御使」よりこの日の夕方に楽習礼が行われる由を通達される。〔『言経卿記』一〕 7月 4日 山科言経、禁中より明後日「御目出度事」(生御魂御祝)が行われる旨の廻文を受けるが「故障」と返答。 〔『言経卿記』一〕 7月 4日 邦房親王(「伏見殿」)、山科言経へ明後日の楽習礼に伏見殿「若宮」の「御初参」であるので参内すべき由を通達。 山科言経、「故障」と返答。〔『言経卿記』一〕 7月 4日 山井景長(「山井筑前守」)、山科言経を訪問し楽を稽古す。〔『言経卿記』一〕 7月 4日 山科言経、暮れに楽習礼のため禁裏へ参内。 参席者は正親町天皇・誠仁親王(「親王御方」)・山科言継・持明院基孝・四辻公遠・山科言経・白川雅朝・四辻季満・ 橘以継・五辻元仲らであった。〔『言経卿記』一〕 7月 4日 竹内長治(「竹兵」)邸に於いて蹴鞠が催される。参席者は山科言経・毘沙門堂公厳・竹内長治子息・藤波慶忠らであった。 〔『言経卿記』一〕 7月 4日 冷泉為満、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 7月 4日 山科言経、三条西実枝の仲介で「堀川院」へ「公卿補任」を貸す。〔『言経卿記』一〕 7月 5日 山科言継、「禁中七夕御会」の廻文により参席を命令される。御題は「七夕枕」であった。〔『言経卿記』一〕 7月 5日 禁裏に於いて誠仁親王(「親王御方」)主催の楽習礼が行われる。 参席者は、山科言経・持明院基孝・橘以継・山科言経・白川雅朝・五辻元仲・山井景長・誠仁親王(「親王御方」)・ 貞清親王(「伏見殿若宮」)・今出川晴季・四辻公遠・竹内長治・四辻季満・豊原守秋・大神景治(山井景治)らであった。 〔『言経卿記』一〕 7月 5日 村井貞勝(「村長」)、大和国多聞城へ下向。〔『兼見卿記』一〕 7月 5日 大乗院尋円(「大乗院新門主」)、某所へ下向す。〔『多聞院日記』二〕 7月 6日 山科言経、高倉永相(「藤宰相」)より烏帽子を借用。後刻に返還。〔『言経卿記』一〕 7月 6日 山科言経、冷泉為満より直垂を借用。〔『言経卿記』一〕 7月 6日 邦房親王(「伏見殿」)御所に於いて「七夕御楽御習礼」が行われる。参席者は伏見殿若宮(貞清親王)・今出川晴季・ 持明院基孝・四辻公遠・山科言経・竹内長治・白川雅朝・四辻季満・橘以継・豊原守秋・山井景長・大神景治らで、役送は 飛鳥井雅敦・高倉永孝らであった。〔『言経卿記』一〕 7月 6日 冷泉為満、山科言経を訪問し談合。〔『言経卿記』一〕 7月 6日 禁裏儀仗所に於いて「御目出度事」(生御魂御祝)が行われる。 参席者は正親町天皇・誠仁親王(「親王御方」)・岡殿(覚音女王)・上搆芫ヌ(花山院家輔女)・ 大典侍殿(万里小路賢房女)・新大典侍殿(万里小路房子)・メヽ典侍殿(飛鳥井雅綱女)・長橋局(高倉量子)・ 阿茶々局(勧修寺晴子)・伊与殿(舟橋教重女)・御今参ら、「堂上衆」は三条西実枝・山科言継・持明院基孝・四辻公遠・ 高倉永相・山科言経・正親町実彦・中院通勝・五辻為仲・白川雅朝・高倉永孝・四辻季満・高倉範国・小倉季藤・橘以継・ 五辻元仲らであった。 7月 6日 山科言継・山科言経、葉室頼房死去による母の暇に際し橘以継(山科言経弟)を訪問し宿泊。〔『言経卿記』一〕 7月 6日 武藤舜秀、越前国西福寺へ山林竹木伐採の違反者引き渡しを指示。〔「西福寺文書」〕 7月 6日 吉田兼見、出京し三条西実枝・勧修寺晴右・徳大寺公維を訪問。 そこで吉田兼見は勧修寺晴右・中山孝親・甘露寺経元・庭田重保の4人が織田信長(「左大将殿」)伝奏となった旨を知る。 〔『兼見卿記』一〕 7月 6日 多聞院英俊、村井貞勝(「村井」)が多聞山城破却のために大和国へ下向したことを知る。 埋め立ての土は松永久通(「金吾」)の奉行が運んだ。〔『多聞院日記』二〕 7月 7日 飛鳥井雅敦邸に於いて蹴鞠が催される。 参席者は三条西実枝・飛鳥井雅教・山科言経・中院通勝・飛鳥井雅継・五辻為仲・飛鳥井雅敦・三条公宣・高倉永孝・橘以継・ 五辻元仲らであった。〔『言経卿記』一〕 7月 7日 四条隆昌・冷泉為満ら、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 7月 7日 山科言経、冷泉為満を同行し「七夕公宴」の歌談合のため三条西実枝を訪問。同用件で四辻公遠・中院通勝・白川雅朝・ 五辻為仲・中御門宣教・西林某らが到来。〔『言経卿記』一〕 7月 7日 山科言経、禁裏へ御笛「スソ野」を返還。〔『言経卿記』一〕 7月 7日 山科言経、暮れに及び七夕御祝のため参内。 「天酌被参衆」は山科言継・持明院基孝・四辻公遠・三条西公国・山科言経・正親町実彦・中院通勝・中山慶親・五辻為仲・ 白川雅朝・広橋兼勝・高倉永孝・四辻季満・高倉範国・万里小路充房・小倉季藤・橘以継・五辻元仲らであった。 山科言経、軽服であったため早々に退出。〔『言経卿記』一〕 7月 7日 吉田兼見、伊集院忠棟(「伊住院」)より多賀大明神勧請のため神体を所望され、これを了承。 取次は木下道正宗固(島津氏家臣)。〔『兼見卿記』一〕 7月 8日 山科言継・山科言経・沢路長俊ら、生御魂祝のため橘以継(山科言経弟)を訪問。〔『言経卿記』一〕 7月 8日 沢路長俊、山科邸を訪問。〔『言経卿記』一〕 7月 8日 山科言経、毘沙門堂公厳を訪問。〔『言経卿記』一〕 7月 8日 多聞院英俊、興福寺成身院より筒井順慶(「順慶」)の「ヲコリ」(瘧)用の薬を所望されたので12包を渡す。 〔『多聞院日記』二〕 7月 8日 沼間義清、大坂木津川口に於いて戦死。 7月 9日 織田信長(「信長」)、和泉国の沼間清成(「沼間任世」:和泉国綾井城主)・寺田又左衛門尉・松浦安大夫・佐野在城衆中 へ織田信長の「大坂出馬」以前に周辺の麦「作毛」の刈り取りを命令。詳細は佐久間信盛(「佐久間」)より伝達させる。 〔「富田仙助氏所蔵文書」〕 7月 9日 織田信長(「信長」)、某(織田信包か)へ伊勢国長野2郡の城・拠点となりうる要害(「足懸」)で不要なものは全て 「破却」することを命令。〔「島田真富氏所蔵文書」〕 7月 9日 山科言経、近衛信尹(「近衛殿」)を訪問。〔『言経卿記』一〕 7月 9日 山科言経、山科言継(「老父」)の番代として参内。相番は高倉範国、加番は五辻元仲ら、外様衆は飛鳥井雅敦であった。 山科言経は軽服であったため外様で一宿し、暮れに及び常御所馬道に於いて雑談す。山科言経、禁裏より「孝経」を借用。 〔『言経卿記』一〕 7月10日 正親町天皇、泉涌寺長老某を召して受戒す。〔『言経卿記』一〕 7月10日 正親町天皇、山科言経へ「御補歴」の直進を命令。〔『言経卿記』一〕 7月10日 山科言経、白川雅朝へ「鷹百首」を貸す。〔『言経卿記』一〕 7月10日 山科言経、長橋局(高倉量子)へ祗候し「御補歴」を直進。次いで毘沙門堂公厳を訪問。〔『言経卿記』一〕 7月10日 中院通勝、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 7月10日 山科言経、三条西実枝を訪問し雑談。〔『言経卿記』一〕 7月11日 山科言経、禁裏に召され午刻に参内。 禁裏で御楽が行われ、参席者は正親町天皇・誠仁親王(「宮御方」)・四辻公遠・白川雅朝・五辻元仲らであった。 次いで入御し酒宴・音曲があった。岡殿(覚音女王)・南禅寺上乗院道順・五辻為仲らが参内。〔『言経卿記』一〕 7月12日 山科言経、竹内長治(「竹兵」)へ「太平記」6巻・7巻を返還。〔『言経卿記』一〕 7月12日 豊原守秋(「豊雅楽頭守秋朝臣」)、山科言経を訪問し楽を稽古す。〔『言経卿記』一〕 7月12日 木下道正宗固(島津氏家臣)、吉田兼見を訪問し多賀大明神勧請の神体を渡される。〔『兼見卿記』一〕 7月12日 吉田兼見、村井貞勝(「村長」)を訪問。〔『兼見卿記』一〕 7月12日 毛利水軍、淡路国岩屋を出発し和泉国貝塚に上陸。ここで雑賀衆と合流。〔「毛利家文書」@‐338〕 7月13日 山科言経、竹内長治(「竹兵」)より「太平記」8巻・9巻を借用。後刻に返還。〔『言経卿記』一〕 7月13日 山井景長(「山井筑前守」)、山科言経を訪問し楽を稽古す。〔『言経卿記』一〕 7月13日 橘以継(山科言経弟)、「霍乱」。山科言継・山科言経ら、見舞す。〔『言経卿記』一〕 7月13日 冷泉為満、山科言経を訪問。〔『言経卿記』一〕 7月13日 足利義昭、備後国移座に際し山内隆通(「山内新左衛門尉」)へ自身の「入洛」の件で戦功を督促。 詳細は毛利輝元(「