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天文 3(1534)年
1月13日 杉興重(「興重」)・吉見頼郷(「頼郷」)、弘中隆兼(「弘中々務丞」)へ毛利元就(「毛利方」)の「任官」について
大内義隆が調儀した旨の「御書」を遣わされたことを祝し、御礼等の件は「官務殿注文」に心得を贈ること、「御礼之次第」は
「雅楽允」より伝達させることを通知。〔「毛利家文書」@‐279〕
閏1月 9日 弘中隆兼(「隆兼」:大内氏被官)、毛利元就(「毛利殿」)へ「御一官京都え御礼次第之事」について「注文」が到来した
ので通知する。小槻伊治(「官務殿」)はこの当時に長府へ滞在していたので「大外記殿」と同前に御礼をすべきこと、
また杉興重(「興重」)・吉見頼郷(「頼郷」)より「内儀」が到来し「注文之前御礼物」についての指示があったので詳細を
通知すること、これを遵守して「京進」すべきことを指示。〔「毛利家文書」@‐280〕
2月29日 朝廷、禁裏六丁町民へ禁裏東南の濠を掘らせる。〔『言継卿記』〕
3月18日 朝廷、足利義晴へ法華宗徒の京都山科郷違乱を停止させる。〔『言継卿記』〕
5月13日 小槻伊治(「左大史伊治」)、毛利元就(「右馬頭殿」)へ「御一官并叙爵」について「宣案」・「宣旨」を御頂戴したこと
は珍重であり、これに対する礼物として太刀・馬の拝受を謝す。また「向後相応御用」等は疎意に存じない旨を通知。
〔「毛利家文書」@‐269〕
5月 織田信長、尾張国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
6月 1日 毛利元就のもとに小槻伊治(「左大史伊治」)からの「御一官并叙爵」を祝する書状が到来す。
〔「毛利家文書」@‐269〕
7月12日 「益俊」(大外記代:中原師象の代)、速水彦四郎へ毛利元就「任官御礼」として馬代300疋・太刀代50疋を受け取った
旨を通知。〔「毛利家文書」@‐270〕
7月12日 速水有益(「速水右近有益」:広橋家雑掌)、小槻伊治(「大宮殿」)へ毛利元就(「毛利右馬頭」)の
「一官并叙爵口宣御礼」の馬代・太刀代として7貫文を受け取った旨を通知。〔「毛利家文書」@‐271〕
7月13日 庭田家雑掌「親朝」、速水有益(広橋家雑掌)へ毛利元就(「毛利右馬頭」)の「一官叙爵上卿御存知御礼」の馬代・太刀代
として7貫文を受け取った旨を通知。〔「毛利家文書」@‐272〕
7月14日 大内記家雑掌「有久」、速水有益(広橋家雑掌)へ毛利元就(「毛利右馬頭」)の「叙爵御礼」として3貫500文を
受け取った旨を通知。〔「毛利家文書」@‐273〕
8月11日 結城晴朝、下総国に誕生(異説1535年)。〔『日本史人物生没年表』〕
8月26日 細川晴元、上洛し相国寺に宿す。〔「二条寺主家記」〕
9月29日 杉興重(「杉三河守」「興重」)・吉見頼郷(「吉見丹後守頼郷」)、弘中隆兼(「弘中々務丞」)へ毛利元就(「元就」)
の「一官御礼銭」で小槻伊治(「官務殿」)への30貫500文は毛利元就(「元就」)より長府へ運送させ、
毛利元就「叙爵御礼」の3貫500文の献上は大内側用意することの通知を指示し、合計61貫文に「運賃」を加えて「京着」
させること、「京都御返事」やその他の「請取状」を発するよう通達を命令。〔「毛利家文書」@‐274〕
10月17日 弘中隆兼(「隆兼」:大内氏被官)、毛利元就(「毛利殿」)へ「御一官京都御礼銭」が長府に到着したので即時京都へ送付
したこと、毛利元就「叙爵御礼」は大内義隆(「京兆」)が調進すること、また大内義隆が「天聴」と「御位記」等が下される
ことについて「直書」を以て通知することを賞す。毛利元就の「御高位御面目之段」は大内氏側にとっても喜ばしいことである
ことを通知。詳細は福島駿河守より伝達させる。〔「毛利家文書」@‐275〕
11月19日 幕府、吉田兼永と吉田兼右の唯一神道に関わる相論を裁許。吉田兼右へ管掌させる裁決を下す。
〔「京都御所東山御文庫記録」〕
12月 5日 法華宗ゥ寺、土御門家領のゥ口雑務料に対し新関として押妨す。幕府および茨木長隆はこれを譴責す。〔「土御門文書」〕
12月 7日 杉興重(「興重」)・吉見頼郷(「頼郷」)、「昇殿」の件で興善寺を介し大内義隆へ謝礼物を贈ってきた
毛利元就(「毛利右馬頭」)へ返礼を遣わす。〔「毛利家文書」@‐278〕
12月21日 幕府、土御門亀寿丸に洛中巷所を安堵。〔「土御門文書」〕
この年 石川家成、三河国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
小田氏治、常陸国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
蒲生賢秀、近江国に誕生(異説1535年)。〔『日本史人物生没年表』〕
天文 4(1535)年
2月 5日 京都では大風により禁裏日華門が転倒。〔『公卿補任』〕
3月18日 朝廷、京都山科郷沽却の木材に公事賦課を停止。〔「後奈良院宸記」〕
7月23日 島津義弘、薩摩国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
9月27日 幕府、日蓮宗5ヶ寺に長福寺領安堵の施行を命令。〔「長福寺文書」〕
10月 8日 足利高基(第3代古河公方)、没(異説1539年6月8日)。〔『日本史人物生没年表』〕
11月 7日 朝廷、狩野元信に唐絵屏風を描かせる。〔「後奈良院宸記」〕
12月 5日 松平清康、没。〔『日本史人物生没年表』〕
この年 幕府および細川晴元、洛中寺社領を還付安堵す。〔「長福寺文書」〕
荒木村重、摂津国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
石川数正、三河国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
丹羽長秀、尾張国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
吉田兼見、山城国に誕生(異説1537年7月5日)。〔『日本史人物生没年表』〕
天文 5(1536)年
1月 1日?南光坊天海、陸奥国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
1月 4日 本願寺光教が道場を京都山科に移すため、この日立柱が行われる。〔「石山本願寺日記」〕
3月10日 足利義輝(第13代将軍)、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
3月17日 今川氏輝、没。〔『日本史人物生没年表』〕
4月26日 足利義晴、南禅寺仮第に館す。〔「厳助往年記」〕
4月29日 後奈良天皇、践祚。〔「実隆公記」〕
5月23日 法華宗徒、比叡山徒と争い相国寺に布陣せんとす。〔『鹿苑日録』〕
6月 1日 比叡山延暦寺・東寺ら、法華宗徒追討を奏す。〔「高野山旧記」〕
6月 1日 山門三院の集会により、江州米などのゥ物資の京都への運搬を停止し、京都七口を押さえることが決定される。
〔「三院衆会議集」〕
6月14日 北畠具永(「源朝家」)、従五位下・侍従に叙位任官す。〔『歴名土代』〕
7月17日 本願寺、山門三院へ銭300貫文を寄せる。〔「石山本願寺日記」〕
7月22日 法華宗徒、打廻をなして松崎城を攻撃。〔「後奈良院宸記」〕
7月22日 山門宗徒、洛北松ヶ崎構および田中構を攻略。〔「策彦入明記」〕
7月27日 山門宗徒、南近江六角氏の後援により四条口より洛中へ侵入。法華21ヶ寺へ放火(天文法華の乱)。
7月27日 吉田兼永、乱民に殺害される。〔『公卿補任』〕
7月27日 小倉公右、乱民に殺害される。〔『公卿補任』〕
8月19日 足利義晴、本願寺光教を赦免し寺領山科を還付。〔「石山本願寺日記」〕
8月29日 三宅国村(「三宅出羽守国村」:細川高国部将)、細川晴国を自刃に追い込む。〔『三好家譜』〕
8月29日 細川晴国(「細川八郎」)、摂津国天王寺に於いて生害す。〔『厳助往年記』〕
8月29日 三宅国村ら細川晴国の部将、細川晴元と提携す。〔「厳助往年記」〕
閏10月 7日 細川晴元、法華宗徒の洛中洛外徘徊を厳禁す。〔「本能寺文書」〕
11月14日 朝廷、内膳司が梅ヶ畑供御人に違乱することを停止し商売を保全す。〔「梅畑村共有文書」〕
12月11日 足利義晴、南禅寺より伊勢貞孝邸宅へ移徙。〔『鹿苑日録』〕
12月24日?長尾為景、没(異説1542・1545年)。〔『日本史人物生没年表』〕
この年 荒木元清、摂津国に誕生(異説1535年)。〔『日本史人物生没年表』〕
池田恒興、摂津国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
木食応其、近江国に誕生(異説1537年)。〔『日本史人物生没年表』〕
近衛前久、山城国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
佐々成政、尾張国に誕生(異説1516・1539年)。〔『日本史人物生没年表』〕
諏訪頼忠、信濃国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
藪内紹智(茶人)、摂津国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
天文 6(1537)年
2月 6日 木下秀吉(日吉丸)、尾張国愛知郡中々村に誕生(異説1536年)。〔「関白任官記」〕
2月24日 幕府、京都郊外ゥ関の公事銭・船賃・橋賃徴集を停止。〔「梅畑村共有文書」〕
2月26日 幕府、成就院に勧進させ六条八幡の造営を督促。〔「若宮八幡文書」〕
4月27日 上杉朝興(扇谷上杉氏)、没。〔『日本史人物生没年表』〕
6月 1日 松平信孝・松平康信(岡崎城守将)・大久保忠俊らの謀議により松平広忠の三河国岡崎帰還が決定。〔『家忠日記増補』〕
6月20日 幕府、梅ヶ畑供御人の関役を免除。〔「梅畑村共有文書」〕
6月20日 松平広忠、駿河国駿府を出立し三河国岡崎城へ向かう。〔『参州本間氏覚書』〕
6月23日 北畠具教(「伊勢国司晴具卿男源具教」)、従五位下に叙位。〔『歴名土代』〕
6月25日 松平広忠、三河国岡崎城へ入城。〔『安陪定次記』、『参州本間氏覚書』『松平記』〕
6月26日 北畠具教(「伊勢国司晴具卿男源具教」)、侍従に任官。〔『歴名土代』〕
8月 6日 織田信秀、毛利広盛へ八朔祝儀を謝す。〔「毛利文書」‐12〕
8月 大館高信、西京地下人に北野経王堂破却を停止。〔「京都御所東山御文庫」〕
9月20日 朽木稙綱、摂津国有馬湯山の湯治より帰洛。〔『鹿苑日録』〕
10月 3日 三条西実隆、没。〔『日本史人物生没年表』〕
11月 3日 足利義昭(第15代将軍)、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
12月 6日 京都知恩院の惣門が再興。〔「石山本願寺日記」〕
12月13日 幕府、内膳司の北口柴木公事銭徴収を禁止。〔「蜷川家文書」〕
この年 天野康景、遠江国に誕生(異説1538年)。〔『日本史人物生没年表』〕
大久保忠佐、三河国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
加藤光泰、美濃国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
景轍玄蘇(外交僧)、筑前国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
清水宗治、備中国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
疋田文五郎(疋田陰流剣術祖、豊臣秀次を指南)、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
松平伊忠、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
天文 7(1538)年
2月29日 十市遠忠(「十市兵部少輔遠忠」)、大和国興福寺供目代御房へ大仏供上庄外護職を請けて忠勤を約束する。
〔「春日神社文書」〕
3月 3日 朝廷、足利義晴の洛中懺法料棟別賦課を郤す。〔『御湯殿上日記』〕
3月13日 鍋島直茂、肥後国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
7月 2日 茨木長隆、京都松尾神社領守護役を免除。〔「松尾神社文書」〕
9月 8日 足利義晴、細川晴元の山城国段銭賦課を停止〔「大館常興日記」〕
9月 山門宗徒、法華宗徒退治の申請を衆議す。〔「蜷川家文書」〕
10月 7日 足利義明(小弓公方)、没(異説10月5日)。〔『日本史人物生没年表』〕
11月27日 幕府、酒麹売買について手塚帯刀を糾問。〔「親俊日記」〕
この年 足利義栄(第14代将軍)、誕生(異説1540年)。〔『日本史人物生没年表』〕
安国寺恵瓊、安芸国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
今川氏真、駿河国に誕生(異説1539年)。〔『日本史人物生没年表』〕
斎藤利三、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
新庄直頼、近江国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
北条氏政、相模国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
本多正信、三河国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
前田利家、尾張国に誕生(異説1537・1539年)。〔『日本史人物生没年表』〕
京極高清、没(異説1517年?)。〔『日本史人物生没年表』〕
天文 8(1539)年
1月14日 三好長慶、兵を率いて入京。〔「親俊日記」〕
4月11日 京都六条八幡の遷宮が行われる。〔「親俊日記」〕
4月18日 陶興房(周防国守護代)、没。〔『日本史人物生没年表』〕
5月10日 幕府奉行人、釜殿と長谷三郎の柴公事相論を審理。〔「伺事記録」〕
6月22日 龍造寺胤久(「藤原胤久」)、「大和守」に就任。〔「龍造寺家文書」‐240〕
閏6月 6日 別所村治、飯尾源三へ摂津国有馬湯山城夜討ちの戦功を賞す。〔「飯尾文書」〕
閏6月24日 蜷川親俊、佐藤時吉(「奥州南部商人左藤掃部助時吉」)の来訪と贈物進上を受ける。〔『親俊日記』一〕
閏6月25日 足利義晴、三好長慶および柳沢元俊に洛中賊徒捕縛を命令。〔「親俊日記」〕
7月14日 細川晴元、三好長慶を討つ目的で三好政長を花園西京に出陣させる。〔「親俊日記」〕
7月15日 大館常興、幕府「御使」万阿より南部晴政(「奥の南部と申輩」)からの足利義晴偏諱授与の申請を取次ぐ。
〔『大館常興日記』一〕
7月15日 摂津摂津守(「摂州」)、大館常興と「豆州」へ折紙にて南部晴政(「奥州南部彦三郎」)が足利義晴に謁見し偏諱「御字」
を拝領することになった旨を通達。〔『大館常興日記』一〕
7月16日 大館常興、縁阿より折紙にて南部晴政(「南部彦三郎」)への足利義晴「御事」が授与される手続きについての問い合わせに
対し、返状を送る。〔『大館常興日記』一〕
7月23日 細川晴元、徳政令発布を足利義晴に申請。〔「親俊日記」〕
7月25日 京都土倉衆、賄賂を以て徳政を阻む。〔「親俊日記」〕
7月28日 六角定頼の斡旋により三好長慶・細川晴元の撤兵が実現。〔「大館常興日記」〕
8月 3日 山科言継、京都醍醐寺三宝院に高荷公事役を徴収しようとする。〔「大館常興日記」〕
9月 6日 細川晴元、洛外に徳政令を発す。〔「伺事記録」〕
9月 6日 茨木長隆、土一揆が東福寺に乱入するのを阻止。〔「伺事記録」〕
9月26日 細川晴元、帰京す。〔「親俊日記」〕
9月28日 三好政長、京都八幡郷に徳政令を発するも、幕府はこれを停止。〔「親俊日記」〕
11月 3日 幕府、京都大報恩寺に引接寺勧進所を再興させる。〔「大報恩寺文書」〕
11月10日 京都誓願寺立柱上棟が行われる。〔「厳助往年記」〕
11月28日 京都北野社が竣工し、遷宮が実施される。〔『御湯殿上日記』〕
12月 6日 幕府、京都松尾神社祠官へ借物破棄を命令。〔「東文書」〕
12月24日 幕府および茨木長隆、京都小川一町中に対し小河川上引接寺勧進所の再興を停止する(上京町組の初見)。
〔「誓願寺文書」〕
12月30日 幕府、土倉・酒屋20人を納銭方に加える。〔「大館常興日記」〕
この年 今出川晴季、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
島井宗室、筑前国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
長宗我部元親、土佐国に誕生(異説1538・1540年)。〔『日本史人物生没年表』〕
鳥居元忠、三河国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
長谷川宗仁、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
本庄繁長、越後に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
前田玄以、美濃国に誕生(異説1540年)。〔『日本史人物生没年表』〕
天文 9(1540)年
2月 3日 大館晴光(「左衛門佐晴光」)、大友義鎮(「大友五郎」)へ足利義晴よりの「義之御字」下賜を報告。
〔「大友書翰」第23号‐2〕
3月12日 朝廷、足利義晴に禁裏修造を命令。〔『御湯殿上日記』〕
3月22日 納銭方正実坊、幕府へ納銭加増を申請。〔「大館常興日記」〕
6月24日 北畠具永(「奥州浪岡源具永」)、従五位上・弾正大弼に叙位・任官す。〔『歴名土代』〕
6月25日 北畠具統(「出羽浪岡源具統」)、従五位下・侍従に叙位任官す。〔『歴名土代』〕
7月 9日 治部貞兼、幕府へ風呂公事役未進の小川新風呂を成敗することを申請。〔「大館常興日記」〕
7月21日 京都鹿王院、幕府へ院領洛中巷所の地子未進停止を訴える。〔「大館常興日記」〕
7月28日 三条公頼、幕府駕輿丁の某が洛中巷所地を違乱することを訴える。〔「大館常興日記」〕
10月30日 幕府、京都梅畑郷に対して用木賦課を停止す。〔「梅畑村共有文書」〕
11月14日 幕府、内膳司に柴公事銭を安堵。〔「狩野享吉蒐集文書」〕
12月 6日 幕府、近衛稙家へ箔屋座役銭を安堵。〔「伺事記録」〕
この年 姉小路頼綱、飛騨国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
大内義長(大友義鑑子)、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
木曽義昌、信濃国に誕生(異説1539年)。〔『日本史人物生没年表』〕
小出秀政、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
小堀正次、誕生(異説1541年)。〔『日本史人物生没年表』〕
北条氏照、相模国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
天文10(1541)年
4月11日 茨木長隆、京都北野経王堂大工職相論を停止。〔「清凉寺文書」〕
4月24日 茨木長隆、京都大徳寺如意庵領洛中巷所農民の地子未進および隠田などを譴責。〔「大徳寺文書」〕
5月 9日 南部政信(大浦政信)、没す。〔『寛永諸家系図伝』〕
6月20日 幕府、細川晴元へ石清水八幡宮造営料を山城国に賦課す。〔「石清水文書」〕
6月 京都小野荘供御人ら、内膳司の違乱を訴える。〔「京都御所東山御文庫記録」〕
7月19日 北条氏綱、没(異説7月17日)。〔『日本史人物生没年表』〕
8月10日 大風雨のため禁中陣座が転倒。民家・山林が破損。〔『御湯殿上日記』〕
8月14日 京都大徳寺と賀茂神社とが京都大宮郷の堀川用水を争う。〔「京都御所東山御文庫記録」〕
11月13日 尼子経久、没。〔『日本史人物生没年表』〕
12月 3日 幕府、京都町民に洛中屋地子銭を本主に納めさせる。〔「京都上京文書」〕
この年 足利義氏(古河公方)、下野国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
穴山信君、甲斐国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
豊臣秀長、尾張国に誕生(異説1540年)。〔『日本史人物生没年表』〕
北条氏邦、誕生(異説1543年)。〔『日本史人物生没年表』〕
水野忠重、三河国に誕生(異説1542年)。〔『日本史人物生没年表』〕
結城義親、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
天文11(1542)年
1月 6日 浅井亮政、没(異説1546年)。〔『日本史人物生没年表』〕
1月29日 井伊直宗、三河国田原に於いて戦死。〔『井伊軍志』〕
2月 1日 六角軍、高畠長直(細川晴元部将)と交戦し下京を焼失させる。〔『言継卿記』〕
2月10日 幕府、京都室町頭一町に禁制を下す。〔「親俊日記」〕
3月13日 幕府、禁裏大工惣官へ山科三宮および清水山より仗座造営用材の伐採を命令。〔『言継卿記』〕
3月17日 木沢長政、河内国大平寺で戦死。〔『日本史人物生没年表』〕
3月26日 細川晴元、帰洛。〔『言継卿記』〕
閏3月29日 幕府、京都誓願寺への放火犯人を斬罪に処す。〔「親俊日記」〕
4月 8日 室町第が竣工。足利義晴、相国寺より移徙す。〔「大館常興日記」〕
4月 8日 幕府、撰銭を禁止す。〔「室町家御内書案」〕
6月18日 幕府、京都三条町の喧嘩のため祇園社へ人夫徴集を命令。〔「祇園社記」〕
6月 吉日 上杉憲政(「藤原憲政」:関東管領)、鹿島神宮へ北条早雲(「平宗瑞」)を始めとし北条氏綱・北条氏康が3代にわたり
「八州」を併呑しており、上杉憲政自身は「八州執政之家伝」であるので「怨敵」打倒を祈願。〔「鹿島神宮文書」‐85〕
7月20日 諏訪頼重、没(異説7月14日)。〔『日本史人物生没年表』〕
8月10日 今川軍(「駿河衆」)、三河国正田原に侵入し織田軍と交戦(三河国小豆坂の戦)。
織田信秀(「備後守」)、安城城より矢作川へ出撃。織田信秀(「織田備後守」)・織田与二郎(信秀弟)・
織田孫三郎(信秀弟)・織田四郎次郎(信秀弟)・織田造酒丞らが負傷。内藤勝介は今川方の「よき武者」を討ち取る。
那古屋弥五郎(清洲衆)は「由原」某(今川部将)に頸を討たれ戦死。〔『信長公記』首巻〕
8月20日 幕府右筆方、徳阿と中山吉久の京都北白川田地山手相論に関わる意見状を提出。〔「伺事記録」〕
9月10日 幕府および茨木長隆、京都小川一町に誓願寺を通じる釘貫の撤去を命令。〔「誓願寺文書」〕
10月15日 幕府、京都高野郷民が八瀬荘に越境することを停止。〔「八瀬童子会下知状写」〕
11月14日 後奈良天皇、法華宗21ヶ寺の洛内還住を勅許。〔「両山歴譜」〕
12月26日 徳川家康、三河国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
この年 九鬼嘉隆、紀伊国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
築山殿(徳川家康正室)、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
中川清秀、摂津国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
服部正成、誕生(異説1543年)。〔『日本史人物生没年表』〕
平岩親吉、三河国に誕生(異説1543年)。〔『日本史人物生没年表』〕
山岡景友、誕生(異説1540・1541年)。〔『日本史人物生没年表』〕
渡辺守綱、三河国に誕生(異説1543・1545年)。〔『日本史人物生没年表』〕
天文12(1543)年
1月 2日 木下弥右衛門(木下秀吉実父)、没。〔「太閤素生記」・「木下系図」〕
1月 6日 本願寺顕如、摂津国に誕生。(異説1月7日)。〔『日本史人物生没年表』〕
3月20日 茨木長隆、今村政次に京都東山汁谷口塩合物公事銭を安堵。〔「古文書纂」〕
6月 5日 幕府、橘以緒へ知行青花商売役の違乱不法停止命令を発す。〔「蜷川家文書」〕
7月 2日 山科言経、山城国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
7月12日 本願寺証如、出羽国秋田湊の安東尭季父子へ音信を発す。また下間頼尭に添状を発せさせる。〔『証如上人日記』〕
8月26日 足利義晴、大友義鑑(「大友修理大夫」)へ「肥後国守護職」補任に対する祝儀を謝す。
詳細は大館晴光(「晴光」)に伝達させる。〔「伯爵立花寛治所蔵文書」〕
8月26日 大館晴光(「」)、大友義鑑(「大友修理大夫」)へ足利義晴御内書による「肥後国守護職」補任の旨を通達。
〔「伯爵立花寛治所蔵文書」〕
10月 2日 紫宸殿小御所が上棟。〔『御湯殿上日記』〕
10月16日 朝廷、足利義晴に賀茂川の水を禁苑に引くことを命令。〔『御湯殿上日記』〕
12月20日 朝廷、幕府へ稲作中に賀茂川の水を禁苑に引くことの中止を命令。〔「賀茂別雷神社文書」〕
この年 朝日姫(木下秀吉異父妹)、尾張国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
一条兼定、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
織田信包(織田信長弟)、尾張国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
菅沼定盈、三河国に誕生(異説1542年)。〔『日本史人物生没年表』〕
滝川雄利、誕生(異説1544年)。〔『日本史人物生没年表』〕
堀尾吉晴、尾張国に誕生(異説1544年)。〔『日本史人物生没年表』〕
天文13(1544)年
2月15日 金蓮寺四足門、再興される。〔「金蓮寺文書」〕
3月16日 幕府、京都妙蓮寺の境内拡張を許可。〔「妙蓮寺文書」〕
4月11日 茨木長隆、神祇官町巷所地子を押妨す。〔『言継卿記』〕
4月20日 後奈良天皇、長尾晴景(「長尾六郎」)へ勧修寺晴秀(「勧修寺入道大納言」・「右中弁」)を派遣するので、「当国中」
(越後国)の「静謐」を命令し、「豊年」のために「震筆御心経」1巻を神前に奉納することを通達。
〔『歴代古案』@‐299〕
4月 四府駕輿丁座、御服方の福田某を罷めさせ、直務を幕府へ申請す。〔「京都御所東山御文庫記録」〕
7月 9日 大洪水により四条五条橋・貴船神社・鞍馬寺大門・黒谷坊などが流失。〔『言継卿記』〕
7月14日 幕府、京中の風流を幼少に至るまで停止、灯籠見物を禁止す。〔『言継卿記』〕
8月 9日 細川晴元、幕領および奉公衆給地につき洛中巷所百姓に令す。〔「室町家御内書案」〕
8月11日 細川晴元、和田親五郎(三好長慶家臣)を京都一条戻橋に於いて鋸殺す。〔『言継卿記』〕
12月13日 幕府、京都嵯峨口ゥ関の幕領年貢・関銭賦課を停止。〔「古蹟文徴」〕
12月18日 茨木長隆、吉田宗忠へ帯座座頭職を安堵す。〔「田中光治氏所蔵文書」〕
12月23日 今川義元、井伊家与力の小野道高の讒言を容れ井伊直満・井伊直義を殺害。〔『井伊軍志』〕
12月25日 京都小野郷民と山科郷民が闘争す。〔『言継卿記』〕
12月29日 本願寺光教、京都五条橋修築の費用を寄進。〔「石山本願寺日記」〕
この年 竹中重治、美濃国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
伊達輝宗、陸奥国に誕生(異説1543年)。〔『日本史人物生没年表』〕
古田重然、美濃国に誕生(異説1543年)。〔『日本史人物生没年表』〕
山上宗二、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
天文14(1545)年
2月11日 上井覚兼、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
2月26日 北畠具教(「源具教」)、従五位上に昇進。〔『歴名土代』〕
2月28日 北畠具教(「源具教」)、左中将に転任す。〔『歴名土代』〕
3月26日 京都誓願寺梵鐘、北野経王堂にて鋳造される。〔『言継卿記』〕
5月15日 畠山稙長、没。〔『日本史人物生没年表』〕
5月26日 細川晴元・三好長慶ら、京都石田伏見を却掠し、醍醐山科へ矢銭を賦課す。〔「厳助往年記」〕
6月11日 祇園会において三条町人が闘争し幕府雑色が殺害される。このため細川晴元内衆、三条町を焼打す。〔「厳助往年記」〕
7月13日 幕府、鷹司直冬に魚棚公事銭を安堵させる。〔「京都御所東山御文庫記録」〕
8月 2日 幕府、京都本能寺を旧地に移還させ、旧領洛中巷所を安堵す。〔「本能寺文書」〕
8月 7日 幕府および細川晴元、洛中洛外土倉の酒麹売買を禁止し北野社の独占を保全す。〔「北野文書」〕
10月 9日 朝廷、鷹司家の粟津供御人違乱を停止。〔『言継卿記』〕
11月23日 京都清水寺の堂宇が竣工。〔「成就院文書」〕
12月13日 幕府、京都相国寺小補軒と北野宮寺の松ヶ崎郷の相論を裁許す。〔「蜷川家文書」〕
この年 秋月種実、筑前国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
浅井長政、近江国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
板倉勝重、三河国に誕生(異説1546年)。〔『日本史人物生没年表』〕
大久保長安、誕生(異説1550年)。〔『日本史人物生没年表』〕
茶屋四郎次郎(初代)、山城国に誕生(異説1542年)。〔『日本史人物生没年表』〕
北条氏規、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
増田長盛、尾張国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
山中幸盛、出雲国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
山内一豊、尾張国に誕生(異説1546年)。〔『日本史人物生没年表』〕
天文15(1546)年
1月 1日 最上義光、出羽国に誕生(異説1550年)。〔『日本史人物生没年表』〕
3月 1日 南部信直、陸奥国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
3月 京都誓願寺の上棟が実施される。〔「厳助往年記」〕
4月20日 上杉朝定(扇谷上杉氏)、没。〔『日本史人物生没年表』〕
7月23日 本願寺証如、本願寺末寺の「夷島浄願寺」を介して安東尭季(「出羽国秋田湊左衛門佐入道」)より「錦」を贈られる。
〔『証如上人日記』〕
8月10日 京都本国寺本堂が再建され、本尊遷座式が挙行される。〔「本国寺年譜」〕
8月12日 小笠原貞慶、信濃国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
8月 青座人の某、商売違乱の不法者停止を幕府へ申請。〔「蜷川家文書」〕
8月 明人ら、京都清浄華院に於いて商売を実施。〔「後奈良院宸記」〕
9月14日 遊佐長教・上野元治ら、細川晴元を京都嵯峨に於いて攻撃。〔「後奈良院宸記」〕
10月 5日 徳政を要求する土一揆が発生。〔「後奈良院宸記」〕
10月28日 細川晴元、京都岩倉の山本某を討つ。〔「後奈良院宸記」〕
10月30日 幕府、徳政令を発す。〔「蜷川家文書」〕
11月18日 幕府、上京室町に禁制を掲示。〔「京都上京文書」〕
11月25日 細川晴賢(「右馬頭晴賢」)、葛西晴信(「葛西三郎」)へ将軍「御字」要請の贈物を謝す。〔「葛西文書」〕
11月29日 黒田孝高、播磨国に誕生(異説1月29日)。〔『日本史人物生没年表』〕
11月 足利義晴、京都東山に築城す。〔「厳助往年記」〕
12月20日 足利義輝、征夷大将軍に就任。〔「為康記」〕
12月24日 足利義輝、足利義晴と共に帰洛す。〔「光源院元服記」〕
12月27日 幕府、土一揆が京都松尾神社領に郷別賦課することを停止。〔「東文書」〕
この年 織田吉法師、尾張国古渡城に於いて13歳で元服、「織田三郎信長」と名乗る。〔『信長公記』首巻〕
稲葉貞通、美濃国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
氏家行広、美濃国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
千道安(千利休嫡子)、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
武田勝頼、甲斐国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
長連竜、能登国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
天文16(1547)年
2月 8日 安東尋季、逝去。〔「下国伊駒安陪姓之家譜」(「八戸湊文書」)〕
2月16日 佐竹義重、常陸国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
2月28日 幕府、京都諸口塩相物公用銭の押妨を停止。〔「土岐文書」〕
3月29日 足利義晴・足利義輝、細川晴元を討つため京都北白川城に入城。〔『公卿補任』〕
4月 1日 細川晴元、京都北白川城を攻撃し吉田・鹿ヶ谷・浄土寺・北白川諸郷を放火、慈照寺を破却す。〔『公卿補任』〕
6月17日 京都本能寺・本国寺・法華寺、山門宗徒との和談条規を制定。〔「本能寺文書」〕
7月 6日 細川晴元、幕領上久世荘を東寺に還付。〔「東寺文書」〕
7月12日 細川晴元、再度京都北白川城を攻撃。〔『公卿補任』〕
7月19日 足利義晴・足利義輝、京都北白川城を出奔。〔『公卿補任』〕
閏7月 5日 細川晴元、細川国慶を高雄城に攻略す。細川国慶、丹波国へ逃亡。細川晴元は神護寺・高山寺を焼打す。〔「厳助往年記」〕
8月12日 飯尾為清(「為清」:細川晴元奉行人)、久我晴通(「久我殿」)の雑掌へ足利義輝(「公方」)の「御下知」により逐電
した久我家僕春日仲康の跡職安堵を伝達。〔「久我家文書」@‐593〕
8月12日 飯尾為清(「為清」:細川晴元奉行人)、足利義輝(「公方」)より逐電した久我家僕の春日仲康の跡職安堵を在所の名主・
百姓中へ伝達。〔「久我家文書」@‐594〕
8月12日 大内義隆、「備中守」を所望した毛利隆元(「毛利少輔太郎」)へ「敷奏」する旨を通達。〔「毛利家文書」@‐304〕
9月 3日 織田信秀(「備後殿」)、美濃国へ「乱入」し処々に放火。〔『信長公記』首巻〕
9月22日 織田信秀(「備後殿」)、斎藤道三(「斎藤山城道三」)の居城がある美濃国稲葉山の山下・村々を焼払い、町口辺に布陣。
斎藤道三(「山城道三」)、美濃国稲葉山城下に於いて織田軍を撃退。織田軍の戦死者は「歴々」5千ばかりで、主要人物は
織田与次郎(織田信秀弟)・織田因幡守・織田主水正・青山与三右衛門尉・千秋紀伊守・毛利十郎・寺沢又八舎弟・
毛利藤九郎・岩越喜三郎らであった。〔『信長公記』首巻〕
9月22日 千秋紀伊守、「景清所持のあざ丸」を携帯し戦死。〔『信長公記』首巻〕
10月 織田信秀、松平忠倫に三河国岡崎城の松平広忠を攻撃させようと援兵するも失敗。
11月17日 織田信秀(「織田備後守」)、調略を以て美濃国へ「乱入」す。「竹ヶ鼻」に放火、「あかなべ口」に進撃し周辺を焼払う。
斎藤道三(「道三」)、織田軍の調略に「仰天」し「井の口居城」(稲葉山城)に籠もる。〔『信長公記』首巻〕
11月20日 「清洲衆」、織田信秀(「備後殿」)の美濃国出陣中の留守を窺い古渡城へ軍勢を派遣、町口に放火し織田信秀への敵対を
表明。織田信秀はこの報告に接し帰陣す。〔『信長公記』首巻〕
この秋 平手政秀(「平手中務丞」)、「清洲おとな衆」の坂井大膳・坂井甚介・河尻与一らと和睦交渉を行うも不調に終わる。
〔『信長公記』首巻〕
12月 1日 本願寺光教、広隆寺梵鐘を購入。〔「石山本願寺日記」〕
この年 織田信長(「織田三郎信長」)、「御武者始」として三河国吉良大浜へ出陣し放火。〔『信長公記』首巻〕
浅野長政、尾張国に誕生(異説1544・1548年)。〔『日本史人物生没年表』〕
織田長益(織田信長弟)、誕生(異説1542年)。〔『日本史人物生没年表』〕
お市(織田信長妹:浅井長正室・小谷御寮人)、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
吉川経家、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
真田昌幸、誕生(異説1545年)。〔『日本史人物生没年表』〕
島津家久(島津貴久4男)、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
堀直政、尾張国に誕生(異説1548年)。〔『日本史人物生没年表』〕
天文17(1548)年
1月 5日 北畠具永(「源具永」)、正五位下に昇進。〔『歴名土代』〕
3月22日 朝倉孝景(越前国守護)、没。〔『日本史人物生没年表』〕
4月24日 三好党と畠山・遊佐両氏の間に和睦が成立。〔『細川両家記』〕
5月28日 朝廷、京都山科郷を足利義輝の料所とする。〔『言継卿記』〕
7月10日 幕府、四府駕輿丁座沙汰人に役銭を安堵。〔「狩野享吉氏所蔵文書」〕
7月24日 後奈良天皇、中御門宣忠(「中のみかと中納言」)へ久我晴通(「こかの大納言」)と万里小路秀房(「せんたいふ」)と
相論した土地について万里小路秀房が陳弁の旨を久我晴通に伝達させる。
朝恩(「てうおん」)の場所を早々に目録に記載・分別し、目録分は「しちのふミ」とすることは足利義輝(「ふけ」)より
数度にわたり「御下ち」が出されているので「せうもん」(証文)の事は紛れもないことを確認し、さらに逐電した久我家僕の
春日仲康の跡職を沽却地としないようにすることを通達させる。〔「久我家文書」@‐597〕
7月25日 後奈良天皇、中御門宣忠(「中のみかと中納言」)へ久我晴通と万里小路秀房が相論した土地の件で前日の折衝の内容を
踏まえ、さらに万里小路秀房(「せん内ふ」)が後柏原天皇(「せんくわう」)の綸旨と足利義稙(「ふけ」)の「御下ち」を
提出したというので諒承すべき旨を久我晴通に伝達させる。〔「久我家文書」@‐598〕
8月20日 幕府、四府駕輿丁座に米座を安堵。〔「狩野享吉氏所蔵文書」〕
9月 3日 松前慶広、誕生(異説1549年)。〔『日本史人物生没年表』〕
この秋 平手政秀(「平手」)、坂井大膳・坂井甚介・河尻与一ら(織田信秀に敵対した清洲おとな衆)と「屈睦」す。
平手政秀(「平手中務」)、その和睦締結の書札に『古今和歌集』巻一所収の紀貫之の古歌を添える。〔『信長公記』首巻〕
この年 大崎義隆、陸奥国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
高台院(北政所)、尾張国に誕生(異説1549年)。〔『日本史人物生没年表』〕
斎藤龍興、美濃国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
榊原康政、三河国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
西笑承兌、山城国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
相馬義胤、陸奥国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
高橋鎮種、筑前国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
田中吉政、誕生(異説1549年)。〔『日本史人物生没年表』〕
本多忠勝、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
溝口秀勝、尾張国に誕生(異説1538・1546年)。〔『日本史人物生没年表』〕
皆川広照、下野国に誕生(異説1549年)。〔『日本史人物生没年表』〕
山名豊国、因幡国に誕生(異説1549年)。〔『日本史人物生没年表』〕
天文18(1549)年
1月17日 織田信清(尾張国犬山城主)・筑後守寛貞(尾張国楽田城主)、春日井原を経由し竜泉寺周辺を放火。
これに対して織田信秀は尾張国末盛城より織田信秀軍(「備後殿御人数」)を発し撃退。〔『信長公記』首巻〕
2月28日 北畠具教(「源具教」)、正五位下に昇進。〔『歴名土代』〕
3月 3日 筒井順慶、大和に誕生(異説1548年)。〔『日本史人物生没年表』〕
3月 6日 松平広忠、没。〔『日本史人物生没年表』〕
4月 足利義輝および細川晴元、禁裏築地を修理。〔「厳助往年記」〕
6月24日 三好政長、摂津国江口に於いて敗死。細川晴元政権は崩壊す。〔『公卿補任』〕
6月24日 細川晴元、京都嵯峨へ逃亡。〔『公卿補任』〕
6月27日 細川晴元、足利義晴・足利義輝を擁し東山へ退く。〔『鹿苑日録』〕
6月28日 細川晴元、近江国坂本へ逃亡。〔『鹿苑日録』〕
7月 9日 三好長慶、入京す。〔『公卿補任』〕
7月 三好長慶、京都市中に地子銭を徴集す。〔「厳助往年記」〕
8月27日 山科言継、三好長慶へ今村慶満(三好長慶部将)が内蔵寮領率分を押領したことを訴える。〔『言継卿記』〕
9月 7日 今村慶満(三好長慶部将)ら、広橋国光被官人と声聞師村に於いて闘争す。〔『言継卿記』〕
9月11日 細川晴元(「右京大夫晴元」)、「葛西左京大夫」へ将軍「御字拝領」についての進上物を謝す。
詳細は伯部伯耆守に伝達させる。〔「葛西系図」〕
9月11日 細川晴賢(「右馬頭晴賢」)、「葛西左京大夫」へ将軍「御字御拝領」についての進上物を謝す。
詳細は鴨井次郎左衛門尉に伝達させる。〔「浜田文書」〕
10月29日 細川氏綱、京都山科7郷を松永長頼に宛行う。〔「厳助往年記」〕
11月28日 織田信秀(「備後守信秀」)、祖父江五郎右衛門尉へ尾張国内8ヶ所の「代官」を申し付ける。〔「氷室和子氏所蔵文書」〕
11月 日 織田信長(「藤原信長」)、尾張国熱田神社へ全5ヶ条の制札を下す。〔『尾張国遺存織田信長史料写真集』口絵〕
この年 京都上京に町組立売組が初見する。続いて一条組・中筋組・川より西組が初見する。〔「上下京々古書明細記」〕
朽木元綱、近江国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
酒井重忠、誕生(異説1550年)。〔『日本史人物生没年表』〕
堀内氏善、紀伊国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
松平重勝、三河国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
松浦鎮信、肥前国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
曲直瀬玄朔、山城国に誕生(異説1540・1541年)〔『日本史人物生没年表』〕
留守政景、陸奥国に誕生(異説1550年)。〔『日本史人物生没年表』〕
天文19(1550)年
1月 1日 津軽為信、陸奥国に誕生(異説1月5日)。〔『日本史人物生没年表』〕
2月12日 大友義鑑(豊後国守護)、没(異説2月10日)。〔『日本史人物生没年表』〕
2月15日 足利義晴、京都中尾に築城する。〔「厳助往年記」〕
2月26日 上杉定実(越後国守護)、没。〔『日本史人物生没年表』〕
4月10日 織田信長、日比野余五郎(大瀬古住人)の跡職座を買い入れた加藤左助へ永代知行を安堵。〔『張州雑誌抄』二十六〕
4月15日 京都松尾神社の正遷宮が行われる。〔『言継卿記』〕
4月17日 細川晴元軍、京都西院小泉城を攻撃。〔『言継卿記』〕
5月 4日 足利義晴、近江国穴太で没。〔『日本史人物生没年表』〕
閏5月 2日 京都二条室町に於いて大喧嘩があり、上京・下京の「宿老地下人」が仲裁す。〔『言継卿記』〕
閏5月 7日 伏見家の承仕・仕丁、声聞師村の者たちに打ち据えられる。〔『言継卿記』〕
6月 9日 足利義輝、京都中尾城に入城。〔「後鑑所収文書」〕
6月20日 島津以久、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
7月10日 三好長慶、洛中洛外惣中へ掟条々を下す。〔「京都上京文書」〕
7月12日 清原宣賢、没。〔『日本史人物生没年表』〕
7月14日 三好長逸・十河一存ら、入京して細川晴元軍と衝突。三好被官、細川晴元軍の鉄砲攻撃で死傷(鉄砲実戦使用の初見)。
〔『言継卿記』〕
7月15日 京都上京の一条殿の門前町と誓願寺の門前町で喧嘩が発生し、「上京中百二十町」の名により仲裁される。〔『言継卿記』〕
8月14日 足利義輝、永原重興(「永原越前守」:甲賀豪士)へ近江国野洲郡内に知行を安堵す。〔「保阪潤治氏所蔵文書」〕
10月25日 三好長慶軍、細川晴元・六角連合軍と京都五条河原に於いて交戦。〔『言継卿記』〕
11月 1日 織田信秀(「備後守」)、祖父江金法師へ「公方領中」、すなわち織田氏直轄領の代官跡職を安堵。
〔『氷室和子氏所蔵文書』〕
11月 1日 松井康之、誕生(異説1551年)。〔『日本史人物生没年表』〕
11月21日 三好長慶、摂津国より上洛し足利義輝の籠もる中尾城に迫る。河東諸郷を焼打され、足利義輝は近江国へ逃走する。
〔『公卿補任』〕
12月23日 織田信長、尾張国密蔵院へ笠寺別当職は織田信秀判形の通りに、知行分の賽銭・開帳については寺内の裁量とするよう命令。
〔「密蔵院文書」〕
12月 フランシスコ=ザビエル、入京し滞在11日間の後に長門国山口へ戻る。〔「日本西教史」〕
この年 伊奈忠次、三河国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
由良国繁、上野国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
天文20(1551)年
1月 1日 神谷宗湛、筑前国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
1月24日 京都上京の新在家町と室町の住人が喧嘩し「上京中宿老」が仲裁する。〔『言継卿記』〕
1月30日 伊勢貞孝(幕府政所執事)、三好長慶に内応し足利義輝の帰京を企てるも発覚。伊勢貞孝は近江国より帰京。
〔『言継卿記』〕
2月 3日 三好長慶(「三好筑前守長慶」)、竹内季治(「竹内宮内少輔」)へ洛中の春日西洞院から久我家旧跡にかけての4町の件で
泉原将監の申請を却下して久我家に安堵する旨を通達。〔「久我家文書」@‐602〕
2月 3日 三好長慶(「三好長慶」)、久我家旧跡等4町の百姓中へ洛中の春日西洞院から久我家旧跡にかけての4町は泉原将監の申請
を却下して久我家に安堵することになったので地子銭以下を先々の如く上納すべき旨を通達。〔「久我家文書」@‐603〕
2月28日 細川晴元・六角義賢連合軍、京都鹿ヶ谷に放火して三好長慶軍と交戦。〔『言継卿記』〕
3月 2日 三好長慶、京都岩倉の山本某を攻撃。〔『言継卿記』〕
3月 3日 織田信秀(「備後守殿」)、「疫癘」のため没す。〔『信長公記』首巻〕
7月14日 三好政勝・香西元成ら、丹波国より入京して相国寺に布陣。松永久秀(三好長慶部将)ら、これを撃退する。
〔『公卿補任』〕
7月14日 京都相国寺、三好軍と松永軍の戦闘により全焼。〔「厳助往年記」〕
7月17日 島津忠長、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
8月 6日 青山忠成、誕生(異説1552年)。〔『日本史人物生没年表』〕
9月 1日 大内義隆、陶晴賢の謀叛により自刃(異説9月2日)。〔『日本史人物生没年表』〕
この年 青木一重、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
下間少進、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
土岐定政、美濃国に誕生(異説1556年?)。〔『日本史人物生没年表』〕
毛利元清、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
天文21(1552)年
1月 2日 六角定頼、没。〔『日本史人物生没年表』〕
1月28日 足利義輝、三好長慶と和睦。足利義輝は細川昭元(晴元嫡子)を伴い近江国より帰洛す。〔『公卿補任』〕
2月22日 北畠具教(「伊勢国司源具教」)、従四位下に昇進。〔『歴名土代』〕
2月27日 山科言継、この黄昏に禁裏「長橋下口」に祗候。
北畠具永(「出羽国浪岡具永」)の「四品」昇進、およびその孫の北畠具運の「叙爵」と式部大輔任官について上奏する。
即時「勅許」が得られた。〔『言継卿記』〕
2月28日 山科言継、「藤黄門」を訪問し北畠具永(「浪岡」)への「口宣」3通を葉室頼房の代理として調え渡す。〔『言継卿記』〕
2月28日 三好長慶(「長慶」)、山城国東久世庄・築山庄の名主・百姓中へ「本所」分の件は足利義輝「上意」により年貢・ゥ物成を
引き続き抑留する旨を通達。〔「久我家文書」A‐608〕
2月28日 北畠具永(「浪岡源具永」)、従四位下・左中将に叙位任官す。〔『歴名土代』〕
2月28日 北畠具運(「羽州浪岡源具運」)、従五位下・式部大輔に叙位任官す。〔『歴名土代』〕
3月12日 山科言継、「藤黄門」より出羽国の北畠具永(「浪岡」)の「官位」の件で音信を受ける。
それによれば旧冬に「残四十疋」が進上されているとのことであった。〔『言継卿記』〕
3月20日 幕府、内蔵寮領率分所を山科家へ安堵す。〔『言継卿記』〕
4月 2日 山科言継、「藤黄門」の召喚により祗候。北畠具永(「浪岡」)への返状案文を調える。〔『言継卿記』〕
4月 2日 山科言継、北畠具永(「出羽国浪岡」)へ書状・「茶壺」などを発す。〔『言継卿記』〕
4月23日 誠仁親王、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
6月11日 島津貴久(「従五位下藤原貴久」)、「修理大夫」に就任。〔「島津家文書」A‐628〕
6月14日 後奈良天皇、広橋兼秀へ女房奉書を発給。
島津貴久(「しまつのしゆりの大ふ」)が任官礼物を献上し、近衛稙家(「しゆこう」)がこれを執奏した旨を通知。
〔「島津家文書」A‐630〕
6月14日 広橋兼秀、西洞院時秀(「平少納言殿」)へ島津貴久(「島津修理大夫」)任官の女房奉書副状を発給。
〔「島津家文書」A‐631〕
6月27日 近衛稙家、足利義輝より島津義久(「島津又三郎」:当時は忠良)への「武家御字」(義字)授与を伝達。
〔「島津家文書」A‐632〕
6月27日 近衛稙家、島津義弘(「島津又四郎」)へ薩摩国内の由緒ある島津「家門」について賞揚し、島津貴久(「島津修理大夫」)
への取り成しを依頼。
さらに島津義弘へは色紙を贈与。〔「島津家文書」A‐695〕
7月21日 織田信長、尾張国三輿山空音坊(津島神社社僧)へ師匠の譲状に任せ今式坊領・先達職を安堵。
〔『津嶋神社旧記』、『張州雑誌抄』二十七〕
7月22日 北畠具政(「源具政」)、従五位上に昇進。〔『歴名土代』〕
7月28日 織田信長(「三郎信長」)、浅井充秀(尾張国熱田豪族)へ竹を要求し20本の提供を受けたことを謝す。〔「浅井文書」〕
8月27日 北畠具政(「源具政」)、左少将に任官す。〔『歴名土代』〕
9月 9日 鷹司兼輔(関白・左大臣)、没。〔『日本史人物生没年表』〕
9月13日 三好長慶(「三好筑前守」)、京都大徳寺へ非分を申す輩の注進を通達。〔「大徳寺文書」A‐746〕
9月15日 三好長慶(「長慶」)、山城国築山庄惣中へ「本所」分の年貢・ゥ物成を引き続き抑留するので、久我家領であるのか否かを
上申する旨を命令。〔「久我家文書」A‐609〕
10月 3日 三好長慶、京都西岡に放火し三鈷寺・善峰寺などが炎上。〔『言継卿記』〕
10月 3日 北畠具統(「左兵衛督従四位上源具統」)、薨去。〔「京徳寺過去帳」〕
10月12日 織田信長、大森平右衛門尉(知多郡郡代カ)へ知多郡と篠島の商人が守山を往来することについて自由を安堵。
〔「古今消息集」四〕
10月21日 織田信長、織田秀敏へ尾張国中村三郷を「桃厳」(織田信秀)の判形通りに安堵。
〔「尊経閣文庫所蔵文書」雑纂保包四百三十四〕
10月26日 幕府軍、京都杉坂および嵯峨に打廻す。〔『言継卿記』〕
10月29日 幕府軍、京都船岡山に出張。細川晴元軍、蓮台野へ退却。〔『言継卿記』〕
10月 足利義輝、京都霊山へ築城し移動。〔「異本年代記」〕
11月 5日 西洞院時慶、誕生。 〔『日本史人物生没年表』〕
11月13日 京都建仁寺、炎上。〔『言継卿記』〕
11月27日 細川晴元軍、京都西岡に放火し嵯峨に出陣。小泉秀清らは小泉城を焼いて霊山に逃れる。〔『言継卿記』〕
11月28日 清水坂の戦い。細川晴元軍、京都霊山城を攻撃し五条口を焼く。建仁寺、兵火に炎上す。〔『言継卿記』〕
12月15日 三好長慶(「三好長慶」)、山城国築山庄百姓中へ「本所」分の抑留を解き久我家代官に進納することを通達。
〔「久我家文書」A‐610〕
12月15日 松永久秀、京都四府駕輿丁御服座更衣の件を糾明し、役銭を拘置させる。〔「狩野享吉氏所蔵文書」〕
12月20日 幕府、京都霊山城修築のために西京7保に人足役を賦課す。〔「古文書集」〕
12月20日 織田信長、加藤全朔・加藤資景(織田氏御用商人)父子へ商売に関する優遇を安堵。〔「加藤秀一氏所蔵文書」〕
この年 幕府、京都長坂口商売人に柴木役銭を釜殿へ上納させる。〔「京都御所東山御文庫記録」〕
稲富祐直(砲術家)、丹後国に誕生(異説1551年)。 〔『日本史人物生没年表』〕
今井宗薫、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
仙石秀久、美濃国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
高山重友、摂津国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
武田元明、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
松平康元、誕生(異説1551年)。〔『日本史人物生没年表』〕
天文22(1553)年
1月16日 菅屋長頼、加藤順光へ千秋四郎(尾張国熱田神社大宮司家一族)の売却地に関する指示を通達。〔『熱田加藤家史』〕
1月22日 毛利輝元、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
1月 日 足利義輝、大内晴英(「大内左京大夫」:大友義長)へ「官途」を「左京大夫」に任じる。
詳細は伊勢貞孝(「貞孝」)より伝達させる。〔「蜷川家文書」B‐663〕
1月 日 足利義輝、大内晴英(「大内左京大夫」:大友義長)へ偏諱「義之字」を下賜す。
詳細は伊勢貞孝(「貞孝」)より伝達させる。〔「蜷川家文書」B‐664〕
1月 日 足利義輝、大内氏「家督」を継承した大内晴英(「大内左京大夫」:大友義長)へ礼物を謝し、太刀1振を下賜。
詳細は伊勢貞孝(「貞孝」)より伝達させる。〔「蜷川家文書」B‐665〕
1月 日 足利義輝、大内晴英(「大内左京大夫」:大友義長)を「相伴」衆に召し加える。
詳細は伊勢貞孝(「貞孝」)より伝達させる。〔「蜷川家文書」B‐666〕
1月 日 足利義輝、間田英胤(「間田備中守」)を「受領」の「備中守」に任じる。
詳細は伊勢貞孝(「貞孝」)より伝達させる。〔「蜷川家文書」B‐667〕
1月 日 足利義輝、陶持長(「陶安房守」)へ「白笠袋」・「毛氈」・「鞍覆」を「免」許す。
詳細は伊勢貞孝(「貞孝」)より伝達させる。〔「蜷川家文書」B‐668〕
1月 日 足利義輝、飯田興秀(「飯田石見守」)へ「白笠袋」・「毛氈」・「鞍覆」を「免」許す。
詳細は伊勢貞孝(「貞孝」)より伝達させる。〔「蜷川家文書」B‐669〕
1月 日 足利義輝、杉重矩(「杉伯耆守」)へ「白笠袋」・「毛氈」・「鞍覆」の免許に対する礼物の「近将」の太刀・「白糸」の
献上を賞す。
詳細は伊勢貞孝(「貞孝」)より伝達させる。〔「蜷川家文書」B‐670〕
1月 日 足利義輝、内藤興盛(「内藤下野守」)へ「白笠袋」・「毛氈」・「鞍覆」の免許に対する礼物の「行平」の太刀・「紅線」
の献上を賞す。
詳細は伊勢貞孝(「貞孝」)より伝達させる。〔「蜷川家文書」B‐671〕
1月 日 足利義輝、陶晴賢(「陶尾張守」)へ偏諱「字」拝領の礼物に対して太刀を下賜する。
詳細は伊勢貞孝(「貞孝」)より伝達させる。〔「蜷川家文書」B‐672〕
閏1月15日 足利義輝、三好長慶と和睦す。〔『言継卿記』〕
閏1月19日 平手政秀、自刃。
2月 9日 足利義輝、京都霊山城を修築す。〔『言継卿記』〕
2月20日 三好長慶軍、細川晴元軍を京都西郊に於いて撃破。〔『言継卿記』〕
2月 北畠具忠(「伊勢タマル源具忠」)、左中将に任官。〔『歴名土代』〕
3月 2日 北畠具政(「伊勢木造源具政」)、左中将に任官。〔『歴名土代』〕
3月 8日 足利義輝、三好長慶との和睦が破綻し京都霊山城へ入城。〔『言継卿記』〕
4月17日 織田信長(「織田上総介信長公」)、今川義元に通謀した山口左馬助(尾張鳴海城主)・山口九郎二郎を攻撃。
織田信長はこの日に帰陣す。〔『信長公記』首巻〕
4月 下旬 斎藤道三(「斎藤山城道三」)、織田信長(「織田上総介殿」)へ尾張国聖徳寺(「正徳寺」)での会見要請を通達。
織田信長(「上総介公」)は斎藤道三からの会見要請を承諾、両者の会見が実現す。〔『信長公記』首巻〕
4月23日 今川義元(「氏純」)、鈴木重勝(「鈴木甚三郎」)へ「被官」としての奉公を命令。〔「鈴木重信氏所蔵文書」‐1〕
5月20日 織田信長、尾張国津島神社祢宜九郎大夫へ山本与三郎に対する借銭は無効とする旨を通達。
〔『張州雑誌抄』二十七、『津嶋神社旧記』〕
7月 3日 幕府、清原業賢へ大炊寮領米課役を安堵す。〔「京都御所東山御文庫記録」〕
8月 1日 三好長慶、摂津国より入京し京都霊山城を攻略。足利義輝、杉坂へ逃亡(幕府の中絶)。〔『公卿補任』〕
8月13日 三好長慶、足利義輝扈従の幕臣大半を京都に拉致する。〔『言継卿記』〕
8月15日 坂井大膳(清洲城将)、坂井甚介・河尻与一・織田三位と共に尾張国松葉城を攻略、織田伊賀守(松葉城将)・
織田右衛門尉(深田城将)を人質として織田信長に「御敵の色を立て」た。〔『信長公記』首巻〕
8月16日 織田信長(「織田上総介信長」)、尾張国那古野城を発し稲庭地の川端まで進撃。
守山より織田孫三郎(織田信秀舎弟)が合流し、萱津口(「海津口」)を攻撃。
織田信長(「信長」)、清洲衆を撃破して清洲城まで進撃し苅田を実行。〔『信長公記』首巻〕
8月16日 坂井甚介(清洲衆)、織田信長軍の中条小一郎・柴田勝家(「柴田権六」)に頸を討ち取られる。〔『信長公記』首巻〕
11月22日 織田信長、服部弥六郎が買入れた田畠等に関する権利を安堵。〔京都大学国史研究室所蔵「古文書集」三〕
12月 9日 織田信長、尾張国三輿山虚空蔵坊(津島神社神宮寺)へ諸役を免除。〔『津嶋神社旧記』〕
12月 日 織田信長、神主兵部少輔(尾張国津島神社氷室氏)へ借銭・質物は天文9年以前の分に関しては織田信秀判形に任せ免除、
社領に関しては先例のように命令。〔『三輪庄吉氏文書』、『張州雑誌抄』二十七〕
この年 後奈良天皇、広橋国光(「広橋中納言」)へ先度の長尾景虎(「長尾景虎」)への「御覧」の際に「御剱」・「御盃」を下賜
して「奉公」に励むよう通達したところ、長期在京しているというので「御感」である旨を通達するよう命令。
〔『歴代古案』@‐55〕
この年 後奈良天皇、広橋兼秀(「広橋大納言」)へ長尾景虎(「平景虎」)に対して「任国」・「隣国」を「治罰」し、
「伝威名子孫、施勇徳万代、弥決勝於千里、宜尽忠於一朝」という旨を「下知」するよう命令。〔『歴代古案』@‐302〕
尼子勝久、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
上杉景虎(北条氏康7男)、誕生(異説1552年)。〔『日本史人物生没年表』〕
大久保忠隣、三河国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
二本松義継、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
土方雄久、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
一柳直末、誕生(異説1546年)。〔『日本史人物生没年表』〕
堀秀政、美濃国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
梵舜(吉田兼右子)、誕生(異説1552年)。〔『日本史人物生没年表』〕
天文23(1554)年
1月15日 斎藤道三(「道三」)、織田信長の要請により安藤守就(「安藤伊賀守」)を尾張国那古野の「留守居」として派遣。
〔『信長公記』首巻〕
1月18日 北畠具忠(「伊勢タマル源具忠」)、従四位下に昇進。〔『歴名土代』〕
1月18日 北畠具政(「伊勢木造源具政」)、従四位下に昇進。〔『歴名土代』〕
1月20日 安藤守就(「安藤伊賀守」)、織田信長の要請により尾張国那古野へ到着。〔『信長公記』首巻〕
1月20日 織田信長、出陣に際して尾張国那古野「留守居」として斎藤道三より派遣された安藤守就(「安藤伊賀」)と対面。
〔『信長公記』首巻〕
1月20日 織田信長、尾張国那古野を出陣。〔『信長公記』首巻〕
1月21日 織田信長、尾張国熱田(「あつた」)に宿泊。〔『信長公記』首巻〕
1月22日 織田信長、「以外大風」により野陣を張る。またこの日、「水野下野守」に対面す。〔『信長公記』首巻〕
1月24日 織田信長、「駿河衆」の拠った尾張国村木城を攻撃。織田信長(「上総介信長」)は南方面の攻撃を指揮。
西の搦手は織田信光(「織田孫三郎殿」)が攻撃を指揮、東大手は「水野金吾」が攻撃を指揮した。
「信長小姓衆歴々」には多数の死傷者が出たが、申下刻に尾張国村木城を攻略。〔『信長公記』首巻〕
1月25日 織田信長、尾張国寺本城を攻撃した後に尾張国那古野へ帰陣。〔『信長公記』首巻〕
1月26日 織田信長(「信長」)、斎藤道三が派遣した尾張国那古野「留守居」の安藤守就(「安藤伊賀」)を訪ねて謝礼す。
〔『信長公記』首巻〕
1月27日 安藤守就(「安藤伊賀守」)ら「美濃衆」、美濃国へ帰陣。〔『信長公記』首巻〕
3月 2日 北畠政能(「伊勢北畠源政能」)、従五位下・侍従に叙位任官す。〔『歴名土代』〕
5月 1日 北畠具成(「勢州大坂源具成」)、従五位下・侍従に叙位任官す。〔『歴名土代』〕
5月 4日 朝廷、伊勢貞孝および三好長慶へ洛中に賦課して禁裏東南の堀を浚泄させる。〔『言継卿記』〕
5月21日 京都北白川郷、吉田郷と芝草を争い吉田郷襲撃を企む。山科言継は町衆500余人を率いて仲裁す。〔『言継卿記』〕
5月29日 蜷川親俊(幕府政所代)、京都白川・吉田両郷相論に関わる意見状を三好長慶に具申す。〔「蜷川家記」〕
7月12日 斯波義統(尾張国守護)、自刃す。
「主従と申しながら、筋目なき御謀叛思食たち、仏天の加護なく、か様に浅猿敷無下無下と御果」てた。〔『信長公記』首巻〕
7月12日 斯波義銀(「若武衛様」:尾張国守護の斯波義統嫡男)、尾張国那古野の織田信長(「信長」)を頼る。
〔『信長公記』首巻〕
7月18日 柴田勝家(「柴田権六」)、尾張国清洲城を攻撃。〔『信長公記』首巻〕
7月18日 織田信長(「上総介信長」)、斯波義銀(「若武衛様」)の被官である由宇喜一が尾張国清洲城に於いて「織田三位」の首級
を挙げたことを賞賛す。〔『信長公記』首巻〕
7月20日 山科言継、上洛した北畠具永(「出羽国浪岡」)の使者「政宗」より書状および以前の叙位任官の礼物を受ける。
〔『言継卿記』〕
8月13日 本願寺証如(本願寺第10世)、没。〔『日本史人物生没年表』〕
8月16日 足利義輝、大友義鎮(「大友新太郎義鎮」)を「肥前国守護職」に補任。〔「大友書翰」第9号‐13〕
10月 3日 北畠教賢(「勢州藤方源教賢」)、従五位上に昇進。〔『歴名土代』〕
10月20日 織田信長、加藤順光へ織田信秀の逆鱗に触れて零落した山口孫八郎後家とその子供の処遇を委ねる。
〔『加藤景美氏文書』、『張州雑誌抄』二十六〕
11月 1日 尼子国久、没。〔『日本史人物生没年表』〕
11月16日 織田信長(「上総守」)、祖父江五郎右衛門へ俵小船1艘の諸役免除を安堵。
〔『氷室和子氏所蔵文書』、『津嶋神社旧記』、『張州雑誌抄』二十三〕
11月20日 織田信長(「上総介」)、安斎院(曹洞宗曹源山)へ居屋敷・寺領を先規の如く安堵。〔『尾張文書通覧』一〕
この年 安藤直次、三河国に誕生(異説1544・1555年)。〔『日本史人物生没年表』〕
石川三長、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
石川康通、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
佐久間盛政、誕生(異説1553・1560年)。〔『日本史人物生没年表』〕
本多康重、豊後国に誕生(異説1555年)。〔『日本史人物生没年表』〕
脇坂安治、近江国に誕生(異説1555年)。〔『日本史人物生没年表』〕
天文24・弘治 元(1555)年
2月 5日 織田信長、一雲軒・花井田右衛門尉兵衛へ山口教継(鳴海城主)に同心した星崎根上の者共の所領全ての没収を断行するため
調査を命令。〔「徳川義親氏所蔵文書」〕
4月19日 織田信光(「織田孫三郎殿」)(尾張国守山城主:信長伯父)、尾張国清洲城「南矢蔵」へ移る。〔『信長公記』首巻〕
4月20日 坂井大膳(織田達勝家老)、尾張国清洲城「南矢蔵」を礼問したところ、織田信光を恐れて駿河国へ逃亡し今川義元を頼る。
〔『信長公記』首巻〕
4月20日 織田信光、「守護代」織田彦五郎に自刃させ尾張国清洲城を乗っ取り、これを織田信長(「上総介信長」)へ譲渡。
織田信光(「織田孫三郎殿」)は織田信長より尾張国那古野城を受け取る。〔『信長公記』首巻〕
5月 8日 織田信長、小幡殿へ長慶寺法主分・寺領等を安堵。〔「初瀬川建治氏所蔵文書」〕
5月24日 北畠具永(「北畠弾正少弼源具永公」)、薨去。〔「京徳寺過去帳」〕
5月26日 三好長慶、物集女太郎左衛門尉と同久勝との年貢相論を裁許し、太郎左衛門尉に公用早急に納入させる。〔「天竜寺文書」〕
7月16日 後奈良天皇、比叡山延暦寺から東寺の素絹衣(天台僧の着衣)が寺法に背くという訴訟に応え、真言宗に停止の旨と天台宗を
指示する綸旨を常陸国江戸崎不動院へ下す。
8月 2日 三好長慶、亀井佐介と法金剛院珠栄との下地相論を裁許し、法金剛院珠栄に安堵す。〔「法金剛院文書」〕
8月 日 織田信長(「織田上総介」)、尾張国熱田神宮座主坊(天台宗如法院)へ直務する社領秋武町の畠・屋敷を安堵。
座主持分の神領に関しては違乱者を必ず申し付けるように、更に熱田神宮周辺は座主坊政所の管轄であるので先例通りに処置
すべきを命令。〔「熱田神宮文書」〕
9月 8日 朝倉教景、没。〔『日本史人物生没年表』〕
10月 1日 陶晴賢、自刃。〔『日本史人物生没年表』〕
10月26日 三好長慶、金蓮寺に敷地を安堵。〔「金蓮寺文書」〕
閏10月10日 太原崇孚(今川義元軍師)、没。〔『日本史人物生没年表』〕
閏10月29日 武野紹鴎、没。〔『日本史人物生没年表』〕
11月26日 織田信次(「織田孫十郎殿」:尾張国守山城主・信長伯父)、尾張国竜泉寺付近にて「川狩」の最中に、通りかかった
織田秀孝(「勘十郎殿御舎弟喜六郎殿」「上総介殿御舎弟」)を洲賀才蔵(織田信次従者)が無礼(「馬鹿者乗打」)を理由に
射殺。織田信次(「孫十郎殿」)はこれを苦にして出奔。〔『信長公記』首巻〕
この頃 織田信行(「舎兄勘十郎殿」)、織田秀孝殺害の報復として尾張国末盛城を出陣、織田信次の守山城下を放火。
〔『信長公記』首巻〕
この頃 織田信長(「上総介信長」)、尾張国清洲城を出て織田信行(「勘十郎殿」)の守山城攻撃の様子を一見。織田秀孝の軽挙を
難じて清洲城へ帰城。〔『信長公記』首巻〕
11月27日 上杉景勝、越後国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
12月14日 三好長慶、意北軒と三淵晴員の相論を裁許し、下地を意北軒に安堵す。〔「大徳寺文書」〕
12月28日 織田信長、坂井利貞へ河尻与三郎の知行地のうち15貫文と斎藤分のうち4貫文、合わせて19貫文を知行として扶助。
〔「坂井遺芳」「参州岡崎領古文書」〕
この年 奥平信昌、誕生(異説1556年)。〔『日本史人物生没年表』〕
熊谷元直、安芸国に誕生(異説1553・1556年)。〔『日本史人物生没年表』〕
小西行長、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
里見義頼、誕生(異説1543年)。〔『日本史人物生没年表』〕
日野輝資、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
牧野康成、三河国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
松平家忠、三河国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
弘治 2(1556)年
1月 6日 藤堂高虎、近江国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
2月12日 内裏東庭に於いて伊勢守衆が稽古能15番を行う。〔『言継卿記』〕
3月 日 三好長慶、摂津国本興寺門前寺内貴布禰屋敷へ全5ヶ条の「禁制」を下す。〔「本興寺文書」〕
4月20日 斎藤道三、戦死(異説1554年)。〔『日本史人物生没年表』〕
5月 2日 三好長慶、主殿寮領市原野の下地相論を裁許す。〔「壬生家文書」〕
5月 6日 中院通勝、誕生(異説1558年)。〔『日本史人物生没年表』〕
5月26日 織田信長(「信長」)、織田秀時(「安房殿」:守山城主)を伴い尾張国清洲城を発し織田信行(「勘十郎殿」)を擁立して
「逆心に及ぶ」との風説が高まった「信長公の一のおとな」林秀貞(「林佐渡守」:那古野城主)を訪問。
〔『信長公記』首巻〕
5月 下旬 林秀貞(「林佐渡守」)、林美作守(秀貞弟)・柴田勝家らと共に織田信長へ「御敵の色を立」てる。〔『信長公記』首巻〕
6月 織田信時(「安房殿」:信長弟)、角田新五郎の謀叛により尾張国守山城において自刃させられる。〔『信長公記』首巻〕
6月 織田信長、出奔していた伯父の織田信次(「孫十郎殿」)を尾張国守山城主とする。〔『信長公記』首巻〕
8月22日 織田信長、「名塚」に構築した「取出」に佐久間盛重(「佐久間大学」)を入れる。〔『信長公記』首巻〕
8月23日 柴田勝家(「柴田権六」)が1000名余を率い、林美作守(秀貞弟)が700名余を率いて尾張国名塚砦を攻撃。
〔『信長公記』首巻〕
8月24日 織田信長(「信長」)、柴田勝家・林美作守らの謀叛を鎮圧するため尾張国清洲城を出陣。〔『信長公記』首巻〕
8月24日 織田信長(「上総介殿」「信長」)、尾張国稲生に於いて柴田勝家・林美作守らと衝突、信長軍が勝利する。
〔『信長公記』首巻〕
9月20日 斎藤義龍(「新九郎高政」)、高木貞久(「高木直介」)へ美濃国内に領知を安堵される。〔「高木文書」〕
10月24日 三好長慶、禁苑などの修理費用を洛中へ賦課し修理が開始される。〔『御湯殿上日記』〕
11月 1日 二条昭実、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
12月23日 三好長慶、東寺と公文所の宮野浄忠との借銭相論を裁許し、東寺に年貢直務を命令。〔「東寺百合文書」〕
12月27日 三好長慶、東寺に公文所の宮野浄忠父子一族の追捕を命令。〔「東寺百合文書」〕
この年 片桐且元、近江国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
蒲生氏郷、近江国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
仁科盛信、甲斐国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
龍造寺政家、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
弘治 3(1557)年
4月18日 大内義長、自刃(異説4月3日)。〔『日本史人物生没年表』〕
4月28日 京都立売町が焼亡。近衛前久邸、炎上す。〔「厳助往年記」〕
9月 5日 後奈良天皇(第105代)、没。〔『日本史人物生没年表』〕
10月23日 正親町天皇、践祚。〔「皇年代私記」〕
10月 日 三好長慶(「筑前守」)、京都大徳寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「大徳寺文書」@‐268〕
11月 9日 三好長慶、中沢一直と大原野神社神官の下地相論に裁許を下し、大原野神社へ安堵す。〔「大原野神社文書」〕
11月27日 織田信長、熱田検校馬場氏へ敵味方からの依頼された保管物を誰が処分しても織田信長は同意しない旨、
それ以外に織田信長が使者を門外に入れたり竹木を要求したり郷質を取り立てることを永久にしない旨を安堵
(清洲城における織田信行誘殺関連の史料)。〔「熱田神宮文書」一、「熱田祝師文書」〕
11月27日 織田信長、熱田祝師田島氏へ敵味方からの依頼された保管物を誰が処分しても織田信長は同意しない旨、
それ以外に織田信長が使者を門外に入れたり竹木を要求したり郷質を取り立てることを永久にしない旨を安堵
(清洲城における織田信行誘殺関連の史料)。〔「熱田祝師文書」「田島文書」〕
12月29日 三好長慶、再度東寺へ公文所の宮野浄忠追捕を命令し家財田畠を没収す。〔「東寺百合文書」〕
この年 明智秀満、誕生(異説1537年)。〔『日本史人物生没年表』〕
安藤重信、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
織田信忠、尾張国に誕生(異説1555年)。〔『日本史人物生没年表』〕
片倉景綱、陸奥国に誕生(異説1556・1566年)。〔『日本史人物生没年表』〕
亀井茲矩、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
那須資晴、誕生(異説1556年)。〔『日本史人物生没年表』〕
藤懸永勝、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
松の丸殿(京極氏)、近江国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
弘治4・永禄元(1558)年
1月27日 織田信長、加藤資景へ商売に関しては以前与えた判形通り、織田信行誘殺に関する戦乱にあたり加藤資景分の知行は代々免許
の通りに安堵。〔「加藤秀一氏所蔵文書」・『張州雑誌抄』二十六〕
2月23日 多賀谷重経、下総国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
5月19日 三好長逸・松永久秀、京都を打廻す。〔『御湯殿上日記』〕
5月26日 分部光高、国府市場口の合戦に於いて戦功をたてるも、負傷す。〔「分部文書」〕
5月28日 長野藤定(伊勢豪族)、部下の分部光高(「分部左京亮」)へ国府市場口に於ける合戦で戦功をたて、更に戦傷を負ったこと
を褒賞し、養生を命令。〔「分部文書」〕
6月 2日 足利義輝、京都上京室町に禁制を下す。〔「京都上京文書」〕
6月 2日 三好長逸ら、京都勝軍山に城を構築し足利義輝の入洛を阻止。〔「惟房公記」〕
6月 4日 足利義輝、細川晴元と共に如意嶽へ出陣し、三好長逸軍と京都鹿ヶ谷に於いて衝突。〔『御湯殿上日記』〕
6月 7日 三好長逸軍、北白川勝軍山城を焼いて京都に退却。足利義輝軍、勝軍山城へ布陣。〔「惟房公記」〕
6月10日 桑原直元・日根野弘就・安藤守就・長井衛安・日比野清実・竹腰尚光(美濃斎藤氏家臣)、美濃国真桑七ヶ井下名主百姓中へ
七ヶ井に関する指示を下す。〔「守屋文書」‐3〕
6月10日 桑原直元・日根野弘就・安藤守就・長井衛安・日比野清実・竹腰尚光(美濃斎藤氏家臣)、美濃国真桑七ヶ井下名主百姓中へ
七ヶ井の水に関する指示を下す。〔「守屋文書」‐4〕
7月14日 三好長慶、猥りに洛中地子を徴集。〔『言継卿記』〕
7月 三好長慶、京都清水寺に鉄砲を放つことを禁止。〔「成就院文書」〕
8月 9日 不破光治、美濃国瑞雲寺へ陽運寺との懇意を促す。〔「瑞雲寺文書」‐5〕
8月20日 義演(醍醐寺三宝院門跡)、山城国に誕生(異説1559年8月10日)。〔『日本史人物生没年表』〕
9月15日 織田信長、尾張国恒川氏へ津島辺(「北辺」)内の興雲寺領10貫文、堀之内公文名20貫文、合計3000疋を扶助。
〔「生駒家宝簡集」坤〕
9月16日 本願寺教如、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
9月17日 織田信長、前野長康へ野々村大膳分20貫文、高田中務丞分20貫文、合計40貫文を扶助。〔「大森洪太氏保管文書」〕
10月27日 足利義輝、京都阿弥陀寺境内に無縁所として檀那土葬を許可(無縁墓所の初見)。〔「阿弥陀寺文書」〕
11月27日 足利義輝、六角義賢の斡旋により三好長慶と和睦し京都勝軍山城より入洛して相国寺に入る。そこで三好長慶らを引見す
(幕府の復活)。〔『御湯殿上日記』〕
12月 3日 足利義輝、京都本覚寺へ移動。〔『御湯殿上日記』〕
12月18日 三好長慶・松永久秀、京都より摂津国芥川城へ帰還。〔『細川両家記』〕
12月 日 織田信長、尾張国白坂雲興寺へ全5ヶ条の禁制を下す。〔「雲興寺文書」〕
この年 大友義統、豊後国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
織田信雄、尾張国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
織田信孝、尾張国に誕生(異説1562年)。〔『日本史人物生没年表』〕
金森可重、美濃国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
蜂須賀家政、誕生(異説1559年)。〔『日本史人物生没年表』〕
別所長治、播磨国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
森長可、美濃国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
永禄 2(1559)年
1月11日 少弐冬尚、自刃。〔『日本史人物生没年表』〕
1月15日 伊東祐兵、日向国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
2月 2日 三好長慶(「三好筑前守」)・三好義興(「三好孫次郎」)、摂津国芥川城より上洛。この年はじめて相国寺に寄宿。
〔『言継卿記』五〕
2月 2日 織田信長(「織田上総介」)、尾張国より500の軍勢を率いて上洛。
山科言継、これについて「異形者多」という風聞に接す。〔『言継卿記』五〕
2月 7日 織田信長(「尾州之織田上総介」)、昼に京都より尾張国へ帰国するため出立。〔『言継卿記』五〕
2月23日 山科言継、「高倉金吾」の招喚により祗候。北畠具運(「羽州浪岡」)への書状を認める。〔『言継卿記』〕
3月 6日 松平信康、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
5月16日 徳川家康(「松次元康」)、駿河国府中より岡崎家臣団へ全7ヶ条の「定条々」を発す。〔「雨森善四郎氏所蔵文書」〕
5月20日 幕府、勅裁により禁裏大工惣官定宗を大工中務職とする。〔「京都御所東山御文庫記録」〕
6月26日 足利義輝、大友義鎮(「大友新太郎義鎮」)を「豊前国守護職」に補任。〔「柳河大友家文書」第3巻‐16〕
6月26日 足利義輝、大友義鎮(「大友新太郎義鎮」)を「筑前国守護職」に補任。
〔「大友書翰」第9号‐6、「伯爵立花寛治所蔵文書」〕
7月 三好長慶(「筑前守」)、河内国天野金剛寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「金剛寺文書」‐273〕
8月 4日 三好長慶、細川氏綱らに淀城を守らせる。〔『細川両家記』〕
8月17日 幕府、三好長慶が京都鞍馬寺に用木を徴集することを停止。〔「華頂要略」〕
8月17日 松永久秀、大和国法隆寺へ境内防御の旨を安堵。〔「法隆寺文書」〕
8月 ガスパル=ヴィレラ、イルマン=ロレンソを同行し豊後国より上洛、布教活動を実施。〔「耶蘇会日本書簡」〕
9月 8日 山科言継、去年武田信玄(「甲州之武田入道」)に依頼された「源氏」物語の「薄雲」の書写が出来たので送付する。
〔『言継卿記』六〕
9月18日 毛利隆元(「隆元」)、恵心立雪斎へ先度の折紙を拝見したことに触れ、「内儀申候条々」が「悉以御調」ったことを喜び、
恵心立雪斎が安芸国へ下着することを待望す。「ひたたれ」の件は毛利元就(「元就」)に対する下賜とすること、
足利義輝「御内書」の「御文言」にも注意すべきことなどを申請。また再度「ひたたれ」下賜については毛利氏が
「将軍家の御守護」をする意志を表明することで「元就武勇」に対して下賜されるような取り計らい、さらに「其文言」には
「此段隆元にも致相続儀」を毛利元就(「元就」)に通達されるように取り計らいを依頼。〔「毛利家文書」@‐236〕
9月20日 「大蔵大輔時良朝臣」、「出羽守」を所望し「勅許」を得る。〔『言継卿記』六〕
9月24日 葉室頼房、足利義輝(「武家」)へ柿1籠を送付。〔『言継卿記』六〕
9月24日 足利義輝(「大樹」)、愛宕山へ参詣す。〔『言継卿記』六〕
10月 5日 蜷川親俊、諏訪晴長(「諏方信濃守」)へ飛鳥井雅教(「飛鳥井左衛門督殿」)の「御借銭」繁多が理由の「御在国」に
ついて、足利義輝は「公武御用御闕如」であるので上野信孝(「上野民部大輔」)を以て「挙銭一倍」超の「御借物」は棄破
する命令を下した旨を伝達。〔「蜷川家文書」B‐719〕
10月 5日 「治部藤通」・諏訪晴長(「晴長」)、角田隆能(「角田左京亮」)へ飛鳥井雅教(「飛鳥井左衛門督」)の「借銭」の繁多
を理由にした「在国」は「公武御用闕如」であることを咎め、「挙銭一倍」超の「借物」は棄破する旨を通達。
〔「蜷川家文書」B‐720〕
10月 5日 「治部藤通」・諏訪晴長(「晴長」)、高井掃部助へ飛鳥井雅教(「飛鳥井左衛門督」)の「借銭」の繁多を理由にした
「在国」は「公武御用闕如」であることを咎め、「挙銭一倍」超の「借物」は棄破する旨を通達。
〔「蜷川家文書」B‐720〕
10月 5日 「治部藤通」・諏訪晴長(「晴長」)、北向主計丞へ飛鳥井雅教(「飛鳥井左衛門督」)の「借銭」の繁多を理由にした
「在国」は「公武御用闕如」であることを咎め、「挙銭一倍」超の「借物」は棄破する旨を通達。
〔「蜷川家文書」B‐720〕
10月 5日 「治部藤通」・諏訪晴長(「晴長」)、京都天龍寺鹿苑院へ飛鳥井雅教(「飛鳥井左衛門督」)の「借銭」の繁多を理由に
した「在国」は「公武御用闕如」であることを咎め、「挙銭一倍」超の「借物」は棄破する旨を通達。
〔「蜷川家文書」B‐721〕
10月 5日 「治部藤通」・諏訪晴長(「晴長」)、京都本能寺へ飛鳥井雅教(「飛鳥井左衛門督」)の「借銭」の繁多を理由にした
「在国」は「公武御用闕如」であることを咎め、「挙銭一倍」超の「借物」は棄破する旨を通達。
〔「蜷川家文書」B‐720〕
10月 8日 山科言継、朝廷へ知行分山科郷の件を内々に披露し、「伝奏」広橋国光を通じて足利義輝(「武家」)へ通達。
〔『言継卿記』六〕
10月 9日 正親町天皇、広橋国光へ山科言継の内々の披露を受け、足利義輝(「むろまちとの」)への山科言継知行分山科郷の押領停止
を通知する「女房奉書」を下す。〔『言継卿記』六〕
10月13日 山科言継、広橋国光らと共に足利義昭(「武家」)へ祗候。〔『言継卿記』六〕
10月14日 山科言継、「又四郎」を葉室頼房のもとへ派遣し「禁御厳重」・「武家」厳重を渡す。〔『言継卿記』六〕
10月17日 足利義輝(「大樹」)、近衛前久(「近衛殿」)を訪問し丑刻に至るまで「大飲」す。〔『言継卿記』六〕
10月18日 幕府、京都梅ヶ畑供御人に関役を免除。〔「梅畑村共有文書」〕
10月23日 「讃岐守忠宗」、山科言継を訪問。
山科言継、足利義輝(武家)の幕府御所堀普請を免除されるよう正親町天皇(「禁裏」)からの通達を得るため長橋局へ依頼。
先日諸司公人の件で山科言継が広橋国光を通じ奏請したことは、上野秀政(「上野民部大輔」)が申次した事例があり、今回の
件も正親町天皇より通達されることになった。〔『言継卿記』六〕
10月24日 山科言継、勧修寺晴右の招請を受けて訪問。正親町天皇の「御即位」の件で談合す。〔『言継卿記』六〕
10月24日 「甲斐守久宗」、幕府御所堀普請の件で山科言継を訪問。山科言継は昨日の件を返答しその後暫く雑談。〔『言継卿記』六〕
10月24日 山科言継、「讃岐守」忠宗へ幕府御所堀普請の件を返答す。〔『言継卿記』六〕
10月26日 幕府御所(「武家御所」)の小座敷立柱上棟が実施される。〔『言継卿記』六〕
10月26日 山科言継、「主殿大夫職照」の来訪を受け、正親町天皇「御即位之用太刀」を貸す。〔『言継卿記』六〕
10月26日 柳原資定、柳原淳光を「折檻」す。〔『言継卿記』六〕
10月27日 山科言継、庭田重保を訪問し正親町天皇「御即位」の装束借用を求められ承諾。次いで五辻為仲を訪問し即位装束を借用す。
〔『言継卿記』六〕
10月28日 山科言継、柳原資定の招請を受け訪問。正親町天皇即位の際の「袍」について談ず。
また山科言継、一昨夕より柳原資定が柳原淳光を「折檻」したことを知る。〔『言継卿記』六〕
10月29日 山科言継、柳原淳光が「出奔」し行方知れずの状態になったことを知る。〔『言継卿記』六〕
11月 1日 山科言継、葉室頼房を同行し勧修寺尹豊の朝食に招かれ、暫く雑談す。次いで「四条」某を訪問し正親町天皇「御即位」の件を
談合す。〔『言継卿記』六〕
11月 2日 「四条羽林」、山科言継を訪問。正親町天皇「御即位」の件を談合す。〔『言継卿記』六〕
11月 2日 山科言継、長橋局の招請により祗候。正親町天皇「御即位」の件の指示を受ける。
山科言継、次いで「薄」某のもとへ出向き、「出仕之具」を準備す。〔『言継卿記』六〕
11月 3日 山科言継、徳大寺公維の招請により訪問し暫く雑談、次いで正親町天皇「御即位」の件の談合があった。壬生朝芳・中原康雄
らが到来した。〔『言継卿記』六〕
11月 3日 山科言継、足利義輝(「武家御所」)からの「御使」として「伝奏」広橋国光・一色藤長(「一色式部少輔」)・進士修理亮
らの到来を受ける。
山科言継、「久我諸大夫」竹内季治(「竹内三位季治卿」)の「堂上」の件の執奏を依頼され、これを承諾す。
〔『言継卿記』六〕
11月 3日 幕府、禁裏六町へ足利義輝第の堀開削の役を勤めさせる。〔『御湯殿上日記』〕
11月 9日 足利義輝、大友義鎮(「大友新太郎」)の「九州探題職」及び「大内家督」を安堵。〔「大友書翰」第9号‐5〕
11月 9日 大覚寺門跡義俊、大友義鎮(「大友新太郎」)へ「九州探題職」および「大内家督」を安堵する足利義輝「御内書」が発給
された旨を通知し、詳細は宗可に伝達させる。〔「伯爵立花寛治所蔵文書」〕
11月27日 結城晴綱(「左京大夫晴綱」)、伊勢貞孝(「伊勢殿」)へ足利義輝(「公方様」)の「御帰洛」を祝し、即時言上すべきで
あったが自国の争乱状態であったため遅延したことを報告。〔「蜷川家文書」B‐723〕
12月 1日 石川晴光(「修理大夫晴光」)、伊勢貞孝(「伊勢勢州」)へ富松四郎左衛門尉(「富松」)の下国に対し
足利義輝(「上意様」)の「御帰洛御静謐」を祝し、自領に於ける争乱状態を報告。〔「蜷川家文書」B‐725〕
12月 1日 石川晴光(「修理大夫晴光」)、蜷川親俊(「蜷川新右衛門尉」)へ富松四郎左衛門尉の下向に対し足利義輝(「上意様」)
の「御入洛御静謐」を祝し、「御馳走」を依頼する。〔「蜷川家文書」B‐726〕
12月 5日 田村隆顕(「左衛門督隆顕」)、伊勢貞孝(「伊勢守殿」)へ富松四郎左衛門尉の下向に対し足利義昭「御入洛」による
「京都御静謐」を祝し、自領の争乱状態を報告。〔「蜷川家文書」B‐724〕
12月10日 氏家直元・成吉尚光・日根野弘就・安藤守就・日比野清実・長井衛安、美濃国立政寺へ一切の殺生を禁ず。
〔「立政寺文書」‐119〕
12月23日 朽木稙綱(「稙綱」)、毛利元就(「毛利右馬頭」)・毛利隆元(「毛利備中守」)へ先日の移竹院(足利義輝使僧)より
足利義輝「上意」を了承したという報告については神妙であること、これに対して足利義輝「御内書」が下されることになって
いたが、幕府使僧の移竹院が毛利氏領国に逗留しているので「公私御不審」であること、来春は幕府使僧の移竹院を上洛させる
ことと「弥御忠功」に励むべきことなどを通達。〔「毛利家文書」@‐227〕
12月28日 幕府、芝坊と山本五郎との借米相論を裁許し、芝坊へ安堵す。〔「実相院文書」〕
この年 織田信長、大沢橘太夫へ今度の禁裏修理に際しての船車の問い合わせに関する馳走を謝し、徳政令が発令されても田畠・質物
等を安堵する旨を通達。〔「仏光寺文書」〕
大谷吉継、近江国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
北条氏勝、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
毛利高政、誕生(異説1560年)。〔『日本史人物生没年表』〕
永禄 3(1560)年
1月16日 三好長慶、幕府相伴衆に列し、三好長慶による京都支配は実質的に終焉。〔『言継卿記』〕
1月 幕府、三好長慶の斡旋によりガスパル=ヴィレラへ布教を許可し、禁制を下す。〔「日本西教史」〕
2月12日 正親町天皇、勧修寺尹豊(「くわんしゆ寺一位」)へ女房奉書を下し、今度の正親町天皇「御しよく位」は
安芸毛利氏(「もり」)の「ちそう」により成就したことに触れ、毛利元就(「もと就」)に対して「りんし」を下すことと
「むつのかミせん下」を発すことを命令。〔「毛利家文書」@‐295〕
2月12日 正親町天皇、勧修寺尹豊(「くわんしゆ寺一位」)へ女房奉書を下し、今度の正親町天皇「御しよくゐ」は
安芸毛利氏(「もり」)の「ちそう」により成就したことに触れ、毛利隆元(「たかもと」)に対して「りんし」を下すことと
「大せんの大夫」に任命通達を命令。〔「毛利家文書」@‐299〕
2月12日 勧修寺晴豊(「右少弁晴豊」)、即位料を献上した毛利元就(「毛利陸奥守」)へ今度の正親町天皇「即位大礼」が無事に
挙行された旨を通知。〔「毛利家文書」@‐294〕
2月12日 勧修寺晴豊(「右少弁晴豊」)、即位料を献上した毛利隆元(「毛利大膳大夫」)へ今度の正親町天皇「即位大礼」が無事に
挙行された旨を通知。〔「毛利家文書」@‐298〕
2月15日 毛利元就(「右馬頭大江元就」)、「陸奥守」に就任(足利義輝の袖判あり)。〔「毛利家文書」@‐296〕
2月15日 毛利隆元(「従五位下大江隆元」)、「大膳大夫」に就任(足利義輝の袖判あり)。〔「毛利家文書」@‐300〕
2月15日 毛利元就(「右馬頭大江元就」)を「陸奥守」に任じる「宣」旨が発せられる。〔「毛利家文書」@‐297〕
2月15日 幕府奉行衆の上野信孝(「上野民部大輔信孝」)・佐々木稙綱(「佐々木民部少輔稙綱」)、毛利元就(「毛利右馬頭」)・
毛利隆元(「毛利備中守」)へ去年の足利義輝「上意」に対する了承を披露したことに触れ、足利義輝が「御入洛」したので
毛利元就・毛利隆元に対して再度足利義輝「御内書」が下されること、その旨を遵守しますます「御忠節之御覚悟」が専一で
あることを通達。詳細は幕府使僧より伝達させる。〔「毛利家文書」@‐228〕
2月16日 朽木稙綱(「佐々木民部少輔稙綱」)、毛利元就(「毛利右馬頭」)へ去年以来交信の無かったことを詫び、毛利氏の
「御請」を足利義輝は喜んでいること、またささやかな贈物を送付すること、さらに「爰元御用之儀不可有疎意」という旨を
通知。〔「毛利家文書」@‐229〕
2月20日 足利義輝、毛利隆元(「毛利大膳大夫」)へ今度の正親町天皇「御即位」の費用馳走の「褒美」として正親町天皇より
「官途之儀」の通達があり、毛利隆元を「大膳大夫」に任ずる旨を通達しこれを祝す。
詳細は上野信孝(「信孝」)より伝達させる。〔「毛利家文書」@‐301〕
2月21日 足利義輝、毛利隆元(「毛利大膳大夫隆元」)を「安芸国守護職」に補任す。〔「毛利家文書」@‐313〕
2月 松永久秀(「弾正少弼藤原」)、河内国天野金剛寺に全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「金剛寺文書」‐281〕
3月16日 足利義輝、「無官」は如何として大友義鎮(「大友左衛門督」)を「左衛門督」に任官させる。〔「大友書翰」第9号‐9〕
3月16日 大友義鎮(「源義鎮」)、「左衛門督」に任官(*この口宣に足利義輝の花押が据えてある)。
〔「柳河大友家文書」第1巻‐11〕
3月29日 足利義輝、在国中の聖護院道増法親王(「聖もし」)へ安芸・出雲両国の「和平」調停を慰労し、この調停が不調であった
場合に足利義輝は「他国覚・外聞可失面目」であるので注意すべきことを通達。
また大内氏の遺跡を大友義鎮(「大友」)に申し付けたこと、大友義鎮(「大友」)が今度「殿料」として30万疋を献上した
ので褒美として「左衛門督」に任官させること、繰り返し毛利・尼子間の「和談」を成立させて上洛すべきこと、「日乗」が
中国地方に逗留しているらしいので速やかに上洛すべき旨の通達を通知。〔「毛利家文書」@‐238〕
4月 4日 足利義輝、毛利元就(「毛利陸奥守」)へ毛利・尼子両氏の「和談」を勧め、石見国での戦闘を「無事」とする旨を通達。
また幸いにも聖護院道増法親王(「聖護院門跡」)が逗留しているので相談することを指示し、「失面目」うことの無い様に
するべきこと通達。毛利・尼子氏の和睦が成立することは「天下静謐之基」であることを主張す。
〔「毛利家文書」@‐230〕
4月13日 幕府、賀茂社大工の永村某の非法を糾明するために給田百姓に年貢を拘置させる。〔「賀茂皇大神宮記録」〕
4月24日 葛西晴信(「葛西壱岐守平晴信」)、陸奥国永岡の永徳寺へ亡父の葛西親信(「石見守平親信」)の菩提を弔うために
陸奥国伊沢郡永徳寺1村を寄進。〔「永徳寺文書」〕
5月17日 今川軍先鋒部隊、沓懸に布陣。〔『三河物語』〕
5月18日 今川義元、桶狭間に布陣。〔『道家祖看記』〕
5月18日 織田側、今川軍先鋒部隊がこの夜に大高城へ兵粮を搬入し、翌5月19日に大高城を発するという情報を入手。
〔『信長公記』首巻〕
5月18日 織田信長、佐久間盛重(「佐久間大学」)・織田玄蕃より今川軍進軍状況の報告を受けて、軍議を開き対策を練る。
〔『信長公記』首巻〕
5月19日 織田信長、夜明け方に佐久間盛重(「佐久間大学」)・織田玄蕃より今川軍が鷲津砦・丸根砦に攻撃を仕掛けた旨の報告を
受ける。〔『信長公記』首巻〕
5月19日 織田信長、「敦盛の舞」をして出陣。岩室長門守・長谷川橋介・佐藤藤八・山口飛騨守・賀藤弥三郎の主従6騎が熱田神宮へ
駆け出す。〔『信長公記』首巻〕
5月19日 織田信長、辰刻に上知我麻神社より東側の鷲津砦・丸根砦が陥落したことを予測させる煙を見る。この時迄に集結した織田軍
は馬上6騎に雑兵200余であった。〔『信長公記』首巻〕
5月19日 織田信長、熱田神宮より上手の道を経由して丹下砦、次いで「佐久間」が布陣する善照寺砦を経て「勢衆」を揃える。
〔『信長公記』首巻〕
5月19日 今川義元、4万5千の軍勢を率いて「おけはざま山」(正しくは田楽狭間)にて人馬を休息させる。〔『信長公記』首巻〕
5月19日 今川義元、午刻に織田側の鷲津砦・丸根砦を攻略して満足し「謡を三番」謡わせる。〔『信長公記』首巻〕
5月19日 徳川家康、大高城に於いて人馬を休める。〔『信長公記』首巻〕
5月19日 今川義元、戦死。〔『日本史人物生没年表』〕
5月19日 井伊直盛、三河国桶狭間に於いて戦死。〔『井伊軍志』〕
5月20日 聖護院道増法親王、毛利元就(「毛利陸奥守」)・毛利隆元(「毛利大膳大夫」)へ毛利・尼子両氏の「御和談」について
聊かの別心表裏の無き旨を誓約した「起請」文を提出。〔「毛利家文書」@‐231〕
5月21日 幕府、御霊神社別当へ洛中洛外で募縁させ造営に努めさせる。〔「御霊神社文書」〕
5月27日 足利晴氏(第4代古河公方)、没。〔『日本史人物生没年表』〕
6月10日 佐久間信盛、田楽狭間の戦勝により贈物をした福井勘右衛門尉(伊勢皇大神宮御師)へ今川義元(「義元」)の「御討死」に
ついて報告し、「立願」の旨を「御使」与三郎に委細を伝達したので祈祷を依頼。〔「伊勢古文書集」三上〕
6月15日 長宗我部国親、没。〔『日本史人物生没年表』〕
6月19日 足利義輝、近衛新邸へ移徙。〔『御湯殿上日記』〕
7月 9日 徳川家康(「松平蔵人佐元康」)、三河国法蔵寺へ全5ヶ条の「定」を下す。〔「法蔵寺文書」〕
7月21日 朝廷、京都小野山供御人の家屋沽却を停止。〔『御湯殿上日記』〕
7月 三好義賢(「沙弥実休」)、河内国金剛寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「金剛寺文書」‐282〕
8月 8日 足利義輝、毛利元就(「毛利陸奥守」)へ「錦直垂」を「免」許する旨を通達。
詳細は聖護院道増法親王(「聖護院門跡」)と上野信孝(「信孝」)に伝達させる。〔「毛利家文書」@‐234〕
8月 8日 上野信孝(「上野民部大輔信孝」)、毛利元就(「毛利陸奥守」)へ足利義輝への「別而万端御馳走」に対する「御褒美」
として「錦直垂」を「御免事」なされたことは「御面目之至」で「無比類題目」である旨を通達。
詳細は恵心立雪斎に伝達させる。〔「毛利家文書」@‐235〕
8月20日 幕府、洛中諸寺へ新儀土葬を停止。〔「知恩寺文書」〕
8月24日 上杉輝虎、「長尾新五郎」へ今年は「関東」を平定することとし、来月中には「越山」する旨を通達。〔『北越家書』〕
8月 日 十河一存(「民部大夫源」)、河内国観心寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「観心寺文書」‐261〕
9月 日 織田信長、生駒家長(「生駒八右衛門」:信長夫人生駒氏の兄)へ馬1疋分の関税を免除。〔「生駒鍾氏所蔵文書」〕
9月 日 三好長慶(「修理大夫」)、河内国観心寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「観心寺文書」‐263〕
9月 日 松永久秀(「弾正少弼藤原」)、河内国観心寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「観心寺文書」‐262〕
10月 5日 北小路信盛(「北小路大膳大夫信盛」)、「横瀬信濃守」へ近衛前久(「殿下様」)が「在国」の際の種々の馳走を謝して
近衛前久「御直書」を下したこと、その内容とは「受領」の件で、近衛前久「御執奏」により「口宣案」が調えられ発送される
ことを通知。〔「白川羽林部類文書」巻之十〕
10月12日 松永長頼、炭山に拠る香西元成を敗死させる。〔「光明真言講過去帳」〕
10月15日 松永久通(「右衛門大夫」)、河内国観心寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「観心寺文書」‐264〕
12月 8日 足利義輝、毛利元就(「毛利陸奥守」)へ「連々可致忠節」の言上を受け、褒美として「相伴衆」に召し加えることを通達。
詳細は聖護院道増法親王(「聖護院門跡」)と上野信孝(「信孝」)に伝達させる。〔「毛利家文書」@‐232〕
12月 8日 足利義輝、毛利隆元(「毛利大膳大夫」)へ「連々可致忠節」の言上を受け、褒美として「相伴衆」に列することを通達。
詳細は聖護院道増法親王(「聖護院門跡」)と上野信孝(「信孝」)に伝達させる。〔「毛利家文書」@‐314〕
12月24日 尼子晴久(中国8国守護)、没(異説1562年)。〔『日本史人物生没年表』〕
12月 日 織田信長、尾張国東竜寺へ全5ヶ条の「禁制」を下す。〔『東龍寺回答書』〕
12月 十河一存(摂津国岸和田城主)、摂津国有馬に湯治し有馬温泉権現の禁忌に触れて落馬。これが原因で後に死去する。
〔『足利季世記』〕
この年 石田三成、近江国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
大久保忠教、三河国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
後藤基次、播磨国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
直江兼続、越後に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
松平定勝、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
永禄 4(1561)年
2月 9日 井伊直政、遠江国井伊谷祝田村に誕生。〔『井伊軍志』〕
2月 上杉謙信、武蔵国薬王院へ制札を下す。〔「薬王院文書」〕
3月18日 幕府、春日局と日野家領小舎人雑色との地子相論を裁許し、開闔意見状に任せ春日局へ安堵す。〔「日野家領文書写」〕
3月18日 十河一存、病没。〔『日本史人物生没年表』〕
4月 上杉憲政(「藤原軍主憲政」)、中臣則興(鹿島神宮大宮司)を通じ上杉謙信(「景虎」)に擁され分国を鎮静化できたこと
を神仏に謝す。〔「鹿島神宮文書」‐86〕
5月 1日 三好義長、十河一存の死去により出仕を止める。〔『雑々聞検書』〕
5月11日 斎藤義龍、没。〔『日本史人物生没年表』〕
5月28日 幕府、祇園社祭礼路次の耕作を禁止。〔「建内文書」〕
6月 日 織田信長、美濃国平野神戸市場へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「高橋宗太郎氏所蔵文書」‐1〕
7月21日 朝廷、賀茂社へ警固人数を徴集す。〔『御湯殿上日記』〕
7月22日 朝廷、禁裏六町衆へ東堀を開削させる。〔『御湯殿上日記』〕
7月28日 京都小野山、禁中警固の人数を供出。〔『御湯殿上日記』〕
7月28日 六角義賢・六角義治、三好長慶を討つため京都勝軍山城へ出陣。〔『公卿補任』〕
7月 六角義賢、洛中洛外寺社へ禁制を下す。〔「大徳寺文書」〕
7月 日 松永久秀(「弾正少弼」)、京都大徳寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「大徳寺文書」@‐275〕
8月 2日 朝廷、六角軍の禁中乱入を停止。〔『御湯殿上日記』〕
8月 3日 木下秀吉、浅野長勝(織田信長配下、弓足軽頭)養女「祢(ね)」と結婚。〔「木下家譜」・「甫庵太閤記」〕
8月 8日 足利義輝、新たに「相伴」衆となった礼物を贈ってきた毛利元就(「毛利陸奥守」)へ絵2幅・盆1枚を送付。
詳細は上野信孝(「信孝」)に伝達させる。〔「毛利家文書」@‐233〕
8月14日 三好義賢(「沙弥実休」)、河内国観心寺へ臨時課役・闕所検断等は「先々」の如く、および新儀以下の寺内・郷中に於ける
諸公事取を免除す。〔「観心寺文書」‐265〕
8月14日 三好義賢(「沙弥実休」)、河内国金剛寺へ「証文」に任せて臨時課役・闕所検断などを「先規」の如く免除す。
〔「金剛寺文書」‐285〕
8月19日 幕府、禁裏六町衆へ足利義輝第開削の役勤仕を要請。〔『御湯殿上日記』〕
8月 畠山高政(「源高政」)、河内国金剛寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「金剛寺文書」‐283〕
9月 2日 幕府、京都北野社人と洛中洛外土倉との酒麹役相論を裁許し、西京ゥ住へ安堵す。〔「北野文書」〕
9月10日 武田信繁、信濃国川中島で戦死。〔『日本史人物生没年表』〕
9月10日 山本晴幸、信濃国川中島で戦死?〔『日本史人物生没年表』〕
9月12日 今川氏真、鈴木重勝(「鈴木平左衛門尉」)へ今後の忠節を促す全5ヶ条の判物を下す。〔「鈴木重信氏所蔵文書」‐2〕
11月 1日 吉川広家、誕生(異説1562年)。〔『日本史人物生没年表』〕
11月24日 松永久秀、永原重澄(六角義賢部将)を京都勝軍山城に攻撃し殺害す。〔「巳行記」〕
12月 4日 三好長慶、京都大山崎郷の徳政令を免除。〔「離宮八幡宮文書」〕
この年 蘆名盛隆、陸奥国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
来島通総、伊予国に誕生(異説1562年)。〔『日本史人物生没年表』〕
仁賀保挙誠、出羽国に誕生(異説1560・1562年)。〔『日本史人物生没年表』〕
福島正則、尾張国に誕生(異説1562年)。〔『日本史人物生没年表』〕
保科正光、信濃国に誕生(異説1562年)。〔『日本史人物生没年表』〕
永禄 5(1562)年
1月 3日 北畠具運(「左中将従二位具運公」)、薨去。〔「京徳寺過去帳」〕
1月12日 前田利長、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
1月18日 北向道陳、没。〔『日本史人物生没年表』〕
2月 織田信長、水野範直(「太郎左衛門」)へ従来通り尾張国内に於いて「鐘」・「塔九輪」・「鰐口」鋳造の特権を承認し、
熱田の「鉄屋」が鞴を立てることを禁ず。更に他国人が尾張国内で「鍋」・「釜」を移入することを禁止し、水野範直に専売権
を承認、諸役・門次の所質などを免除。〔「水野太郎左衛門氏所蔵文書」〕
3月 5日 三好義賢(阿波国守護細川氏被官)、没。〔『日本史人物生没年表』〕
3月 6日 足利義輝、和泉国での敗戦により洛中より八幡へ移座す。三好義興・松永久秀、山崎へ撤兵。
六角義賢、京都勝軍山城より清水へ移陣し洛中を占拠。上京・下京は焼却される。〔『御湯殿上日記』〕
3月10日 幕府、京都西岡諸郷に徳政を約し忠節を促す。〔「蜷川家古文書」〕
3月13日 六角義賢、京都大徳寺領を惣安堵す。〔「大徳寺文書」〕
3月17日 織田信長(「信長」)、尾張国熱田座主御坊(如法院)へ「六拾六部」(六十六部廻国衆)の尾張国内通過を承認。
〔「密蔵院文書」〕
3月18日 六角義賢、洛中洛外に徳政令を発す。〔「蜷川家古文書」〕
3月21日 六角義賢、京都大覚寺へ愛宕燈明要脚を安堵す。〔「田中光治氏所蔵文書」〕
3月21日 織田信長、尾張国正眼寺へ寺領を安堵。〔東洋文庫所蔵「尾張国寺社領文書」〕
3月23日 六角義賢、洛中に敵方隠匿内通の禁止5ヶ条の布告を発す。〔「鳩拙抄」〕
3月24日 京都大覚寺坊官、嵯峨土倉中に愛宕神物は徳政に改動無き旨を通達。〔「田中光治氏所蔵文書」〕
3月 六角義賢、洛中洛外ゥ社寺郷村へ禁制を下す。〔「梅畑村共有文書」〕
4月 2日 上杉輝虎(「輝虎」)、高野佐渡守へ今度の信濃国伊那郡に於ける武田軍との戦闘に於いての戦功および先年の
信濃国「河中島」に於ける戦功を賞し高田5000苅・小田1500苅・平柳屋敷500苅を「忠賞」として「永代宛行」を
通達。〔「地蔵院文書」、「高野文書」〕
4月 5日 北畠具信(「川原之御所」)、北畠「大御所」を襲撃し北畠「御所様」を殺害する。
北畠具信(「川原の御所」)親子はその場で殺害される。〔『永禄日記』〕
5月 5日 筒井定次、大和国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
6月24日 加藤清正、尾張国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
7月21日 織田信長(「信長」)、尾張国阿弥陀寺へ従来の如く「門家」(寺内)及び「末寺」の支配を委ねる。〔「阿弥陀寺文書」〕
8月25日 伊勢貞孝、六角義賢に応じて丹波国より京都へ乱入。〔『御湯殿上日記』〕
9月11日 三好義興・松永久秀、伊勢貞孝父子と京都杉坂で交戦し殺害す。〔『御湯殿上日記』〕
11月24日 上杉輝虎ら上杉軍、「関東為仕置」に出馬する。〔「八戸湊文書」〕
11月26日 直江政綱(「大和守政綱」)、初めて音信する安東愛季(「檜山」)に去年上杉輝虎(「輝虎」)への「一段珍敷御鷹」贈呈
を謝礼し、軍事行動のための返礼遅延を謝す。また上杉輝虎より砂越也足軒への「御内意」伝達および再度鷹を所望する旨を
通知。〔「八戸湊文書」〕
11月27日 上杉輝虎ら上杉軍、「関東為仕置」の出陣で越後国柏崎に着陣。〔「八戸湊文書」〕
11月27日 河田長親(「豊前守長親」)、安東愛季(「檜山」)へ以前の「珍敷御鷹」贈呈を謝礼、軍事行動のための返礼遅延を謝す。
また上杉輝虎より砂越也足軒へ「御内意」伝達および再度鷹の所望、さらに「関東為仕置」のための進軍の様子と間もなく帰陣
する予定を通知。〔「八戸湊文書」〕
12月 1日 足利義輝、近衛稙家(「近衛殿」)へ三木嗣頼(「飛州国司」)から「任中納言」の依頼を受けて奏聞を請う。
〔『武家手鑑』‐中46〕
12月14日 今川氏真、井伊家与力の小野道好の讒言を容れ朝比奈泰能に井伊直親を殺害させる。〔『井伊家伝記』〕
この年 五島純玄、肥前国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
新庄直定、近江国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
戸田康長、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
長束正家、近江国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
北条氏直、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
永禄 6(1563)年
3月 1日 細川晴元、没。〔『日本史人物生没年表』〕
3月18日 幕府、浄福寺寮舎の破却を命令。〔「浄福寺文書」〕
3月22日 細川藤賢、三好軍を率いて京都杉坂に放火。〔『言継卿記』〕
4月 2日 京都東寺五重塔、雷火によって焼失。〔『御湯殿上日記』〕
4月17日 織田信長、斎藤龍興との戦闘にあたり尾張国妙興寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔「妙興寺文書」〕
4月24日 織田信長(「信長」)、高木貞久(「高木直介」:美濃斎藤氏被官)へ市橋長利(「市橋」)を仲介に内応した旨を喜ぶ意思
を通達、「弥々御馳走」を奨励。〔「美濃高木文書」10〕
5月22日 今川氏真(「上総介」)、鈴木重勝(「鈴木平左衛門尉」)へ山中郷・大野郷百姓等を調略により「引付」した功績を賞す。
〔「鈴木重信氏所蔵文書」‐3〕
6月17日 織田信長(「三介信長」)、毛利広盛(「毛利小三郎」)へ合戦で討死にした親(毛利広雅)の忠節を讃える。
〔「毛利ヨ七郎氏所蔵文書」〕
7月 3日 朝廷、京都醍醐寺堂舎再建を督促。〔「続史愚抄」〕
7月10日 幕府、橘以緒の知行青花座の違乱を停止。〔『言継卿記』〕
7月18日 上杉輝虎(「藤原輝虎」)、八幡極楽寺の一女阿闍梨へ越後国・信濃国両国に於いて数度の戦功を挙げて「決勝千里之外」で
あること、上野国へ進撃し「大略復先忠」としたこと、濁世は勿論であるが「遂年追日闘諍鉾楯無休」という状態であることを
通知。〔『武家事紀』〕
7月22日 三好義興、京都市原野と幡枝との柴木相論を裁許する。〔「賀茂別雷神社文書」〕
8月 ? 京極高次、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
8月 4日 毛利隆元、没。〔『日本史人物生没年表』〕
9月15日 織田信長(「信長」)、水野藤九郎(尾張国緒川の豪族)へ島田秀順(「嶋田かた」)への「鶻」献上を謝す。
〔「古今消息集」五〕
9月18日 井伊直平、家臣の飯尾則重により毒殺される。〔『井伊家伝記』〕
10月24日 幕府、京都清水寺と本国寺との山木相論を裁許し、本国寺に安堵す。〔「後鑑所収広布録」〕
10月 日 織田信長、美濃国稲葉山井口城攻撃に際し尾張国曼陀羅寺へ全5ヶ条の「禁制」を下す。〔「曼陀羅寺文書」〕
11月13日 細川忠興、誕生(異説1564年1月13日)。〔『日本史人物生没年表』〕
11月20日 幕府、京都仁和寺借主中へ嵯峨土倉への返弁を督促。〔「山科家古文書」〕
11月 日 織田信長、美濃斎藤氏との戦闘中に織田側に内応する者が出たため長田弥右衛門尉へ「当知行」を安堵。〔「小川文書」〕
11月 日 織田信長、加藤全朔(「賀藤全朔」)・加藤資景(「賀藤紀左衛門尉」)へ美濃斎藤氏との戦闘中で内応者には欠所処分・
財産没収とするが、織田家と密接な加藤家には特権を承認。〔「加藤秀一氏所蔵文書」〕
12月 2日 三条西公条(右大臣)、没。〔『日本史人物生没年表』〕
12月20日 細川氏綱(室町幕府最後の管領)、没。〔『日本史人物生没年表』〕
12月28日 織田信長(「三介信長」)、三宅孫介へ「被寄存知栗毛馬」の到来を謝し、詳細を佐久間信盛(「佐久間」)に伝達させる。
〔「織田文書」〕
12月 日 織田信長(「信長」)、池田恒興(「池田勝三郎」)へ「扶助」分・「持分」・「家来者買得持分」を安堵。
〔「備前池田文書」20〕
12月 日 織田信長、尾張国瀬戸へ「瀬戸物の売買を保護する全3ヶ条の「制札」を下す。〔「加藤新右衛門氏所蔵文書」〕
12月 日 織田信長、尾張国亀井山円福寺の熱田亀井覚阿弥へ「買得田畠・屋敷」以下を末代まで安堵、「引得」分のうちで弟子に
譲った分については「新儀諸役」・「理不尽使」を入れないことを安堵。〔『張州雑志抄』二十六〕
閏12月19日 上杉輝虎、上野国厩橋城に入城。
この年 上田重安、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
加藤嘉明、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
鮭延秀綱、出羽国に誕生(異説1562年)。〔『日本史人物生没年表』〕
谷衛友、誕生(異説1564年)。〔『日本史人物生没年表』〕
寺沢広高、誕生(異説1564年)。〔『日本史人物生没年表』〕
永井直勝、三河国に誕生(異説1565年)。〔『日本史人物生没年表』〕
永禄 7(1564)年
1月 8日 里見義弘、下総国国府台に於いて北条氏康・北条氏政と交戦、戦死。
1月29日 上杉輝虎、佐竹義昭・宇都宮広綱と共に常陸国小田城を攻撃、小田氏治を敗走させる。
3月13日 近衛稙家(関白太政大臣)、島津義弘(「島津兵庫頭」:当時は忠平)へ島津貴久(「修理大夫」)の「受領」および
島津義久(「又三郎」)の「官途」馳走をするので取り成しを依頼。
詳細は進藤長治(「進藤左衛門大夫」)に伝達させる。〔「島津家文書」A‐633、「旧記雑録後編」@‐271〕
3月13日 近衛稙家(関白太政大臣)、新納忠元(「新納刑部大輔」:島津氏家臣)へ島津貴久(「修理大夫」)の「受領」任官と
島津義久(「又三郎」)の「官途」拝領を取り成したことを通知。
詳細は進藤長治(「進藤左衛門大夫」)に伝達させる。〔「旧記雑録後編」@‐272〕
3月13日 近衛稙家(関白太政大臣)、川上久朗(「川上左近将監」:島津氏家臣)へ島津貴久(「修理大夫」)の「受領」任官と
島津義久(「又三郎」)の「官途」拝領を取り成したことを通知。
詳細は進藤長治(「進藤左衛門大夫」)に伝達させる。〔「旧記雑録後編」@‐278〕
3月13日 近衛稙家(関白太政大臣)、島津忠良(「日新斎」)へ島津貴久(「修理大夫」)の「受領」任官と島津義久(「又三郎」)
の「官途」拝領の取り成しを通知。
詳細は進藤長治(「進藤左衛門大夫」)に伝達させる。〔「旧記雑録後編」@‐278〕
3月13日 近衛前久、新納忠元(「新納刑部大輔」:島津氏家臣)へ島津貴久(「修理大夫」)の「受領」任官と島津義久(「又三郎」)
の「官途」拝領の取り成しを通知。
詳細は進藤長治(「進藤左衛門大夫」)に伝達させる。〔「旧記雑録後編」@‐274〕
3月13日 近衛前久、川上久朗(「川上左近将監」:島津氏家臣)へ島津貴久(「修理大夫」)の「受領」任官と島津義久(「又三郎」)
の官途拝領の取り成しを通知。
詳細は進藤長治(「進藤左衛門大夫」)に伝達させる。〔「旧記雑録後編」@‐279〕
3月13日 近衛前久、本郷時久(「北郷左衛門尉」:島津氏家臣)へ島津貴久(「修理大夫」)の「受領」任官と島津義久(「又三郎」)
の「官途」拝領の取り成しを通知。
詳細は進藤長治(「進藤左衛門大夫」)に伝達させる。〔「旧記雑録後編」@‐282〕
3月14日 島津貴久(「修理大夫藤原貴久」)、「陸奥守」に就任。〔「島津家文書」A‐634、「旧記雑録後編」@‐286〕
3月14日 島津義久(「藤原義久」)、「修理大夫」に就任。〔「島津家文書」A‐635、「旧記雑録後編」@‐283〕
3月15日 足利義輝(「義輝」)、近衛稙家(「近衛殿」)へ島津義久(「又三郎」)を「修理大夫」に任じる旨を通知。
詳細は上野量忠(「量忠」)に伝達させる。〔「島津家文書」A‐637、「旧記雑録後編」@‐287〕
4月 2日 京都通玄寺に於いて立柱上棟が行われる。〔『御湯殿上日記』〕
6月 2日 足利義輝、島津義久(「島津修理大夫」)へ「両国霍執」を咎め早々に「無事」となすこと、および日向伊東氏(「日州」)
との和睦を通達。
詳細は近衛稙家(「近衛殿」)と伊勢貞孝(「貞孝」)より通知させる。〔「旧記雑録後編」@‐296〕
6月 9日 織田信長(「信長」)、直江景綱(「直江大和守」)へ「玉章」が到来し謹んで「拝閲快然」であるとし、近年「関東」へ
発向し数度にわたり勝利を得て「平均」し帰国された件を喜ぶ。また直江景綱より(「直和」)より特別懇切な書状を謝す。
なお追って書状を遣わすので詳細はここに申し上げないこと、この旨を上杉輝虎へ披露することを依頼。
〔「杉原謙氏所蔵文書」〕
6月21日 織田信長、徳山則秀(「徳山則秀」)へ「此表」(美濃斎藤氏との交戦状況)への「馳走」を賞す。
詳細は明王院良政(「明院」)・滝川一益(「滝川」)に伝達させる。〔『徳山家記録』〕
6月27日 近衛稙家(関白・太政大臣)、島津忠良(「日新軒」)へ島津「家門」のついては疎意無く馳走する旨を通知、色紙36枚を贈与。
詳細は古市長門守に伝達させる。〔「旧記雑録後編」@‐297〕
6月28日 進藤長治(「左衛門尉長治」)、島津義久(「島津修理大夫」)へ進物目録を披露、また足利義輝「御書」が発給されたこと
「官途」の調儀が行われたこと、さらに「烏帽子大口裏打」と「御扇匂袋」などを贈与する旨を通知。
〔「旧記雑録後編」@‐298〕
7月 2日 織田信長(「信長」)、国枝吉泰(「国枝少兵衛尉」)へ「越州」(越前朝倉氏)への「馳走」は本望であること、「当方」
の件は特に変化は無く、越前表へは然るべきように調整を依頼。なお市橋長利(「市橋」)へ申し含めているので懇ろに
「取成」を依頼。〔「国枝文書」〕
7月 4日 三好長慶、没。〔『日本史人物生没年表』〕
7月 5日 長尾政景、没。〔『日本史人物生没年表』〕
7月29日 竹中重治(「重虎」)、美濃国西庄内出雲の宝林坊へ禁制書状を下す。〔「敬念寺文書」‐1〕
8月15日 水野勝成、誕生(異説1565年)。〔『日本史人物生没年表』〕
9月 9日 織田信長(「信長」)、直江景綱(「直江大和守」)へ「其後絶音問」は本意ではなかったこと、去8月に美濃国へ出動し
井口城に迫り、その近所に砦を構築したこと、犬山・金山などその他数ヶ所は「降参」したので「宥免」したこと、更に伊勢国
まで出撃したことなど「直書」を以て上杉輝虎に通知したので省略することを通達。なお佐々長穐(「佐々」)に連絡させる旨
を通知。〔『歴代古案』一〕
9月10日 山科言継、一色淡路守より明日足利義輝が勧修寺尹豊を同行し摂津国有馬湯山へ下向する旨を通知される。〔『言継卿記』〕
9月11日 足利義輝、摂津国有馬湯山へ細川輝経・細川藤孝・一色藤長を随行し「御成」する。〔『言継卿記』、『御湯殿上日記』」〕
9月13日 足利義輝、摂津国有馬郡湯山に禁制を掲げる。〔「浅野文書」〕
9月15日 織田信長、美濃国常在寺へ100貫文の領知を寄進。〔「常在寺文書」‐13〕
9月23日 足利義輝、摂津国有馬郡湯山阿弥陀堂の諸役を免除する。〔「善福寺文書」〕
10月10日 朝廷、禁裏六町衆に禁裏東堀を開削させる。〔『言継卿記』〕
10月24日 上杉輝虎、上野国沼田城に着陣。
10月28日 立入宗継(朝廷御倉職)、正親町天皇の御料所回復及び御所修理の密勅を携え尾張国清洲へ下向。
11月 7日 織田信長(「信長」)、直江景綱(「直江大和守」)へ織田信長からの使者派遣に触れ、上杉輝虎に懇願した件が受諾され、
更に「おほ鷹」5連を贈られたことを謝し、上杉輝虎へその旨の「取成」を依頼。〔「上杉家文書」一〕
11月 7日 織田信長(「信長」)、直江景綱(「直江大和守」)へ上杉輝虎からの「御誓談条々」を受領し「愚息」(織田信長子息)を
上杉輝虎の「御養子」とすることを承諾されたことを謝す。今後の「御指南」及び上杉輝虎へこれらの旨の「御披露」を依頼。
〔「上杉家文書」一〕
11月13日 京都東寺、塔供養のため大黒天を開帳。〔『言継卿記』〕
11月13日 織田信長(「信長」)、伊勢方面の分部光高(「分部左京亮」)に連絡を取り味方として優遇する旨を通知、更に情報提供を
促す。〔「分部文書」〕
11月23日 朝廷、京都東寺再建のため諸国に勧進させ造営を開始させる。〔『言継卿記』〕
12月15日 幕府、四府駕輿丁座の猪熊神人の諸役を免除。〔「京都大学氏所蔵文書」〕
12月15日 島津貴久、島津義久へ近衛家の使者である進藤長治が「官途」伝達のために太刀1腰・馬1疋を伴い下向したことを通知。
島津貴久自身も島津義久へ太刀1腰・馬1疋を祝儀として贈与。
島津氏に対する受領の事は「過分至極」であると表現。〔「島津家文書」A‐1136〕
12月20日 織田信長(「信長」)、大館晴光(「大館左衛門佐」)へ足利義輝からの「御内書」に対する請状を発す。
「寔生前大事不過之候」と感激し、「青毛」馬1疋を進上。「御内義」の件を取り成されたことは「本望」であることを通知。
〔「古簡雑纂」十一〕
12月23日 幕府、京都上野村へ松室重清預状返弁を督促す。〔「松尾月読神社文書」〕
12月27日 幕府、上御霊神社境内茶室の諸役を免除す。〔「御霊神社文書」〕
12月29日 池田輝政、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
この冬 足利義輝、京都室町に新第造営を開始。〔「足利季世記」〕
この年 小瀬甫庵、美濃国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
酒井家次、誕生(異説1569年)。〔『日本史人物生没年表』〕
尚寧、琉球国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
一柳直盛、誕生(異説1566年)。〔『日本史人物生没年表』〕
永禄 8(1565)年
1月15日 島津忠良(「日新」)、島津義久へ「官途」昇進の祝儀として太刀1腰・馬1疋を贈与。〔「島津家文書」A‐1137〕
2月28日 京都東寺、寺宝盗人を捕縛、斬殺する。〔「東寺執行日記」〕
3月 4日 三好義継、京都浄福寺真澄の伝戒勤修を褒し寺内寮舎の破却を禁止。〔「浄福寺文書」〕
3月13日 朝廷、今村慶満の東口率分関押領を禁止。〔『言継卿記』〕
3月23日 足利義輝、上杉輝虎(後の上杉謙信)へ去年北条氏康との講和命令を下した際の了承を喜び、早急な講和実行を促す。
また北条氏康へは足利義輝より使者を派遣するので交戦を禁止する旨を通達。〔「上杉家文書」〕
3月 足利義輝、京都大原野の山木を伐採す。〔『言継卿記』〕
4月 6日 朝廷、禁裏六町衆に警固を命令。〔『御湯殿上日記』〕
4月 8日 朝廷、禁裏築地の修造を実施。〔『御湯殿上日記』〕
4月28日 京都賀茂神社、禁裏堀浚渫人数を供出。〔『晴右公記』〕
5月 1日 足利義輝、三好重存に偏諱を与え三好義重(後の三好義継)と改名させ「左京大夫」に推挙。
5月19日 足利義輝、三好義重(後の三好義継)・松永義久(後の松永久通)に包囲攻撃され自刃。〔『言継卿記』〕
5月20日 武田義統(若狭国小浜)、足利義輝暗殺の凶報を入手、即時朝倉義景(越前国一乗谷)に使者を派遣し凶報を通報。
〔「島津家文書」三〕
6月 3日 ◎?三好義継、八瀬童子の諸役を免除。〔「八瀬童子文書」〕
6月 3日 「元清」・篠原長房(「長房」)、京都「八瀬童子」へ諸商売については「帯綸旨并御代々御下知」というので課役・雑公事
などを免除し、「長慶御判」があるならば相違無きことを通達。〔「八瀬童子会文書」‐82〕
6月14日 直江実綱(上杉輝虎重臣)、朝倉氏へ京都に於ける足利義輝の変報を照会。〔「上杉家文書」一〕
6月18日 山崎吉家(朝倉義景重臣)、直江実綱(上杉輝虎重臣)に足利義輝横死を悼み、一乗院覚慶(後の足利義昭)が大和国奈良で
無事であることを通知。
6月19日 伊達稙宗、没。〔『日本史人物生没年表』〕
6月20日 野村貞邦(「野村越中守貞邦」)・武井夕庵(「尓云」)、蜷川貞栄(「蜷川丹後入道」)・蜷川親長(「蜷川三郎」)・
蜷川将監へ「今度公儀之御様子」(足利義輝の弑逆)のことに触れ、伊勢貞為(「虎福殿様」)の上洛に賛同する旨を報告。
〔「蜷川家文書」B‐808〕
6月23日 三好義継、京都大徳寺大仙院へ寺領を安堵。〔「大仙院文書」〕
6月24日 六角宗房(近江国箕作城主)、直江実綱(上杉輝虎重臣)へ京都に於ける足利義輝の変報を告げ、弔い合戦の意思を表明し、
詳細は大覚寺門跡義俊が通達すること、上杉輝虎(後の上杉謙信)が上洛すれば天下再興は可能で、南方は六角義賢(承禎)ら
が平定する予定であること、越前国・若狭国・尾張国などの諸国へは大覚寺門跡義俊が協力を依頼することになっていることを
通知。〔『歴代古案』〕
7月 4日 三好義継、京都東寺境内百姓の不法を停止。〔「東寺文書」〕
7月 5日 朝廷、三好義継の奏請によりガスパル=ヴィレラ・ルイス=フロイスを追放。〔『御湯殿上日記』〕
7月10日 織田信長(「信長」)、西美濃方面で内応に応じた佐藤右近衛門尉へ以前に「誓紙」で申したように三郡の件で「反銭」・
「夫銭」共に全て押さえることを許可。〔「備藩国臣古証文」四〕
7月28日 一乗院覚慶(後の足利義昭)、細川藤孝・朝倉義景の計画により興福寺一乗院を脱出。
7月28日 一乗院覚慶(後の足利義昭)、和田惟政(近江国甲賀郡和田)の館に入る。
7月29日 竹中重虎(後の竹中重治)、美濃国敬念寺へ「禁制」を下す。〔「敬念寺文書」〕
8月 4日 朝廷、京都小野山に禁中警固人数を徴集す。〔『御湯殿上日記』〕
8月 5日 一乗院覚慶(後の足利義昭)、上杉輝虎(後の上杉謙信)へ室町幕府再興を表明。詳細は大覚寺門跡義俊に通達させる。
〔「上杉古文書」〕
8月 6日 一色藤長・細川藤孝・和田惟政・杉原長盛ら、河田禅忠(上杉輝虎重臣)らに一乗院覚慶(後の足利義昭)の室町幕府再興
援助を依頼。〔『歴代古案』〕
8月 8日 六角宗房(近江国箕作城主)、薬師寺九郎左衛門尉(細川氏被官)へ阿波国より足利義親(後の足利義栄)が上洛する前に、
一乗院覚慶(後の足利義昭)が室町将軍家督として宣言することが大切であり、六角氏側では紀伊国根来寺などに連絡を付けて
いる旨を通知。〔「前田家所蔵文書」〕
8月23日 三好義継、京都相国寺光源院へ足利義輝菩提料を寄進。〔「光源院文書」〕
8月27日 興福寺一乗院、近衛前久(関白)の子を門跡として迎える(一乗院尊政)。〔『多聞院日記』〕
9月 3日 織田信長(「信長」)、坪内利定(「坪内喜太郎」)へ織田「分国」内に於いて「鉄炮」で鹿・鳥を狩猟することを許可。
詳細は中野重吉(「中野又兵衛」)・小坂井某に伝達させる。〔「坪内文書」〕
9月28日 一乗院覚慶(後の足利義昭)、武田信玄へ御内書を発給し援軍を要請。
9月 日 織田信長(「信長」)、尾張国継鹿尾山寂光院へ寺領・ゥ寄進田地・野山を「如前々」く安堵、諸役を免許す。
〔東洋文庫所蔵「尾張国寺社領文書」〕
10月 4日 一乗院覚慶(後の足利義昭)、上杉輝虎(後の上杉謙信)へ北条氏康と和睦し上洛することを促す。〔「上杉古文書」〕
10月11日 一色藤長・細川藤孝・飯河信堅、京都清水寺成就院へ禁制を下す。〔「成就院文書」〕
10月11日 一色藤長(「一色式部少輔」)・細川藤孝(「細川兵部大輔」)・飯川信堅(「飯川山城入道」)、京都大徳寺へ全3ヶ条の
禁制を下す。〔「大徳寺文書」@‐297〕
10月11日 一色藤長(「一色式部少輔入道藤長」)、京都大徳寺へ寺領の件は「証文」(既に大徳寺に存在する)を以て別儀無き様に
する旨を通達。〔「大徳寺文書」@‐299〕
10月11日 一色藤長(「藤長」)、京都大徳寺才首座へ「京都不慮之折節」(足利義輝暗殺)の見舞を謝す。
〔「大徳寺文書」@‐300〕
10月11日 一色藤長(「一色式部少輔入道藤長」)、京都大徳寺地蔵院へ「京都不慮之砌」(足利義輝暗殺)に際し、近江国坂本で
一乗院覚慶(後の足利義昭)への見舞を謝す。また「制札」の件は「奉行」が遅参したため「三弾」(三淵弾正か)より通達
する旨を通知。〔「大徳寺文書」@‐301〕
10月20日 朝廷、京都賀茂郷民に警衛を命令。〔『御湯殿上日記』〕
10月28日 一乗院覚慶(後の足利義昭)、島津貴久・島津義久へ援軍を要請。〔「島津家文書」〕
10月28日 一乗院覚慶(後の足利義昭)、相良義陽へ援軍を要請。〔「相良家文書」〕
10月28日 細川藤孝、島津貴久・島津義久へ一乗院覚慶(「一乗院殿」:後の足利義昭)の甲賀和田へ逃れた旨に触れ、一乗院覚慶の
入洛後援を謝し一乗院覚慶「御内書」が発給された旨を通知。「御使」として上野大蔵入道が派遣されるので詳細を伝達する
ことを通知。〔「旧記雑録後編」@‐346〕
10月 一乗院覚慶(後の足利義昭)・大覚寺坊官・薬師寺弼長・柳本秀俊・内藤貞治・旧幕府奉行人ら、洛中洛外寺社へ禁制を
発す。〔「東寺百合文書」〕
11月 1日 近衛信尹、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
11月 1日 織田信長(「信長」)、佐藤紀伊守らを援助し関城を攻略した美濃国の斎藤新五郎へ「新知」の宛行状を下す。
〔「備藩国臣古証文」四〕
11月 3日 織田信長(「信長」)、坪内惣兵衛・坪内勝定(「坪内玄蕃允」)・坪内利定(「坪内喜太郎」)の3名へ戦功を賞して
美濃国内に都合687貫文を宛行う。〔「坪内文書」〕
11月 3日 織田信長(「信長」)、坪内惣兵衛(「坪内宗兵衛」)・坪内勝定(「坪内玄蕃允」)・坪内利定(「坪内喜太郎」)の3名
へ戦功を賞して都合300貫文を「扶助」す。〔「坪内文書」〕
11月 3日 木下秀吉(「木下藤吉郎秀吉」)、坪内利定(「坪内喜太郎」:松倉城主)宛で織田信長知行宛行状の副状を発給。
〔「坪内文書」〕
11月21日 一乗院覚慶(後の足利義昭)、近江国甲賀郡の和田惟政居館より近江国野洲郡矢島へ移居。
〔『上杉家記』所収大覚寺門跡義俊覚書〕
12月 2日 六角義賢(承禎)、上杉輝虎(後の上杉謙信)へ「公方様」より「御内書」を携帯した大館藤安が派遣されるから「上意」に
応ずるよう指示を下す。〔『歴代古案』〕
12月 5日 織田信長(「信長」)、細川藤孝(「細川兵部大輔」)へ足利義秋「御入洛」の件を重ねて「御内書」により通達されたもの
を拝閲したこと、度々了承したとおり「上意次第」即時「御供奉」する意思を表明。
さらに朝倉義景(「越前」)・武田義統(「若州」)へも早速出兵命令下すよう督促。使者の大草公広(「大草大和守」)・
和田惟政(「和田伊賀守」)より申し上げるため「御取成」を依頼。〔「高橋義彦氏所蔵文書」一〕
12月15日 京都東福寺、盗人成敗の条規を制定。〔「東福寺文書」〕
12月20日 三好義継、京都阿弥陀寺に地子銭を寄進す。〔「阿弥陀寺文書」〕
12月27日 三好長逸、勧修寺領百姓に年貢寺納を命令す。〔「勧修寺文書」〕
12月28日 織田信長(「信長」)、尾張国津島社社家の天王右馬大夫へ「遠山」へは天王右馬大夫の「ゥ檀那」であれば「敵方」で
あっても出入を許可する旨を通達。〔『張州雑志抄』二十七〕
12月 日 三好義継(「左京大夫」)、京都大徳寺へ全5ヶ条の「禁制」を下す。〔「大徳寺文書」@‐303〕
12月 日 織田信長(「信長」)、坪内惣兵衛(「坪内宗兵衛」)へ尾張国加納村の「一職進退」を与え、「小物成」・「欠所」地の
「給人」などは「糺明次第」に給与することを通達。〔「坪内文書」〕
この年 三好義継、故三好長慶(義継父)の菩提を弔うため、京都大徳寺聚光院を建立。
北条氏房、誕生(異説1563年)。〔『日本史人物生没年表』〕
本多正純、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
松平家信、三河国に誕生(異説1566年)。〔『日本史人物生没年表』〕
森長定、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
永禄 9(1566)年
2月 中旬 一乗院覚慶(後の足利義昭)、還俗して「義秋」と改名。
2月12日 足利義秋(足利義昭)、京都東寺八幡宮へ「凶徒」の「退治」を立願し、自身の急速な「帰洛」が実現したならば「一宇」
建立を約す。〔「進士文書」‐36〕
2月17日 一乗院覚慶(後の足利義昭)、還俗して「義秋」と改名したことにより禁裏へ太刀・馬代を献上。〔『御湯殿上日記』〕
2月28日 有馬晴純、没。〔『日本史人物生没年表』〕
2月 日 織田信長(「信長」)、尾張国の薬師寺別当蔵南坊へ尾張国海東郡間島村内の100貫を寄進。
〔東洋文庫所蔵「尾張国寺社領文書」〕
2月 三好三人衆・松永久秀、対立し戦闘を開始。
3月 8日 武田信玄、足利義秋(後の足利義昭)へ遠国のため援軍は派遣出来ない旨を通知。〔「前田家所蔵文書」〕
3月10日 足利義秋(後の足利義昭)、質問書を呈出した上杉輝虎(後の上杉謙信)へ上杉・北条氏の和談についての使者を派遣した
こと、上杉輝虎(後の上杉謙信)の援軍派遣の意思表示を賞し諸国に上洛援助を要請していること、三好三人衆・松永久秀の
自滅予告を通達。〔「上杉古文書」〕
3月17日 細川昭元(摂津国芥川城主)、上京し洛中洛外に撰銭令を発す。〔「兼右卿記」〕
4月11日 織田信長、朝廷に物を献上。〔『御湯殿上日記』〕
4月21日 足利義秋(後の足利義昭)、吉田兼右の斡旋により「従五位下」・「左馬頭」に叙任。
4月21日 足利義秋(後の足利義昭)、着袴・乗馬始・判始の儀式を執行。
4月22日 三好長逸、京都余部図子中へ買得地を安堵。〔「余部文書」〕
4月24日 足利義秋(後の足利義昭)、一色藤長へ興福寺一乗院脱出を細川藤孝と相談・努力した結果であると感状を発給。
〔「根岸文書」二〕
4月29日 僧某、京都五条橋造立の資を諸国に勧進す。〔「古文書纂」〕
5月 9日 足利義秋(後の足利義昭)、相国寺万松軒に於いて足利義晴17回忌法会を執行。〔『南陽藁』〕
5月 9日 上杉輝虎(後の上杉謙信)、武田信玄を討伐して北条氏政と和睦した後に上洛し三好氏・松永氏を滅ぼし、京都の公方と鎌倉
の公方を復興することを祈願。〔「上杉古文書」「中村直人氏所蔵文書」〕
5月19日 足利義秋(後の足利義昭)、相国寺光源院に於いて足利義輝1周忌法要を執行。
6月11日 足利義秋(後の足利義昭)、和田惟政(「和田伊賀守」)へ尾張国から細川藤孝(「兵部大輔」)からの報告の旨を伝達。
その内容は、細川藤孝が早急に和田惟政を尾張国へ派遣するように要請してきたこと、これは織田信長(「尾張守」)の要請を
受けてのものだが、改めて足利義秋から和田惟政へ尾張国下向を命令すること、必ず織田信長(「織田」)に足利義秋の参洛の
ための馳走をするよう通達すること、「方々調略之子細」があるため遅延しては都合が悪いこと、何としてでも織田信長の出勢
を急ぎ実現させること、和田惟政が明日には尾張国へ出発することを通達・命令した。〔「和田家文書」〕
7月10日 近衛稙家(関白・太政大臣)、没。〔『日本史人物生没年表』〕
7月13日 細川昭元、松室重清に神領を惣安堵す。〔「松尾月読神社文書」〕
7月13日 三好三人衆、摂津国淀城を攻略。〔『言継卿記』〕
7月14日 三好三人衆、摂津国より入洛し庶政を裁決す。〔『言継卿記』〕
7月21日 三好長逸、宇津頼重の京都小野山違乱を停止。〔『御湯殿上日記』〕
7月 足利義秋(後の足利義昭)、畠山義綱(能登国七尾城主)へ出陣を命令。〔「本多文書」〕
7月 足利義秋(後の足利義昭)、十市遠勝(大和国国人)へ出陣を命令。来月22日織田信長が出陣し足利義秋(後の足利義昭)
動座に供奉する由を通達。〔『多聞院日記』〕
7月 日 織田信長(「信長」)、日比野孫一へ「持分」である門真の雉墳方の田畠は「公方諸役」(織田家徴収の諸役)及び
「欠所」地を調査する以外に「徳分」(得分:年貢)などは永久に給与する旨を通達。また野・林・池・堀などの「裁許」を
許可。次に貸し付けた米銭については、たとえ西方郷だけの「徳政」を命令しても日比野孫一分は特別扱いとし、一切の国役を
免許。〔東洋文庫所蔵「尾張国寺社領文書」〕
8月 2日 津田宗達、没。〔『日本史人物生没年表』〕
8月 3日 三好長逸、足利義秋(後の足利義昭)の上洛運動に対して追手を派遣、近江国坂本まで進撃。
8月 5日 小野寺義道、出羽国に誕生(異説1567年)。〔『日本史人物生没年表』〕
8月24日 三好長逸、松永党の京都居宅を没収。〔『言継卿記』〕
8月25日 北条氏政、細川藤孝へ足利義秋(後の足利義昭)が提示した上杉輝虎(後の上杉謙信)・武田信玄・北条氏政の同盟督促に
関しては武田信玄に下知することが先決であることを通知。
8月29日 京都御霊通で大火。知恩寺などが炎上。〔『言継卿記』〕
8月29日 足利義秋(「江州矢島之武家左馬頭義秋」:後の足利義昭)、近江国六角氏・矢島同名衆の謀叛が顕然としたため、夜陰に
乗じて琵琶湖を渡る。〔「記録御用所本古文書」〕
8月29日 織田信長、美濃国へ侵入し木曽川河野島へ進撃。斎藤龍興と対峙。
8月30日 織田信長・斎藤龍興、美濃国木曽川に於いて風雨の中対峙する。
9月 2日 京都米座、朝廷へ貢租を献上。〔『御湯殿上日記』〕
閏8月 8日 織田信長、美濃国木曽川に於いて斎藤龍興と交戦、敗北。
9月 8日 足利義秋(後の足利義昭)、朝倉義景の奔走により越前国敦賀金ヶ崎に移る。〔「上杉文書」四〕
9月13日 足利義秋(後の足利義昭)、上杉輝虎(後の上杉謙信)へ大覚寺門跡義俊を派遣し上杉氏・北条氏の和平斡旋を促し出陣を
要請。〔「上杉文書」四〕
10月20日 本願寺顕如、加賀国一向一揆と朝倉義景の講和を命令してきた足利義秋(後の足利義昭)へ拒絶の意思を通知。
〔『顕如上人御書札案留』〕
10月21日 足利義秋(後の足利義昭)、元揚へ周防国永興寺住持職の公帖を発給。〔「東京大学所蔵足利義昭公帖」〕
10月28日 足利義親、摂津国富田普門寺にて「義栄」と改名。「従五位下」・「左馬頭」に叙任される。
11月 2日 足利義秋(後の足利義昭)、元揚へ相模国禅興寺住持職の公帖を発給。〔「東京大学所蔵足利義昭公帖」〕
11月 7日 三好三人衆、山科家へ率分関高荷商売公事役を安堵す。〔『言継卿記』〕
11月 7日 三好長逸、京都真乗院に深草の地を安堵す。〔「真乗院文書」〕
11月 9日 三好三人衆、京都仙翁寺村百姓に年貢納所を命令。〔「鹿王院文書」〕
11月21日 足利義秋(後の足利義昭)、越前国一乗谷へ赴き朝倉義景に出兵を説くも応諾を得られず。
11月 日 織田信長(「信長」)、兼松正吉(「兼松又四郎」)へ「扶助」として兼松弥四郎の「名田」及び「ゥ買徳」地を例え
「誰々如何様之雖帯判形」も「欠所」として給与する旨を通達。〔「兼松文書」〕
11月 日 織田信長(「信長」)、服部小藤太へ「新儀諸役」及び「理不尽之使」の立入禁止と「雇夫」ならびに「大蔵棟別外棟別」を
免許。〔『張州雑志抄』二十七〕
12月 9日 徳川家康、三河守を拝領。〔『公卿補任』〕
12月11日 徳川家康、左京大夫を拝領。〔『公卿補任』〕
12月19日 三好三人衆、上洛す。〔『言継卿記』〕
12月28日 足利義親、「義栄」と改名し「従五位下」・「左馬頭」に叙任。
12月29日 細川昭元、再度洛中洛外へ撰銭令を発す。〔「兼右卿記」〕
12月 日 織田信長(「信長」)、浅井四郎左衛門へ森河分7貫200文を「知行」として安堵。
〔東洋文庫所蔵「尾張国寺社領文書」〕
この年 真田伸之、信濃国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
鳥居忠政、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
永禄10(1567)年
1月13日 三好長逸、京都金光寺の燈明料の違乱を停止。〔「金光寺文書」〕
2月10日 摂津国・近江国の諸侍、六斎念仏を真如堂に修理し足利義輝の冥福に資する。貴賤7〜8万人が群集す。〔『言継卿記』〕
2月16日 三好義継(「三好左京大夫」)、三好三人衆のもとを出奔(「堺ニテ宿所ヲ替」)し松永久秀(「松弾」)に「同心」す。
〔『多聞院日記』二〕
2月30日 朝廷、山科言継へ築地修理を命令。〔『言継卿記』〕
2月 足利義秋(後の足利義昭)、上杉輝虎(後の上杉謙信)へ武田信玄・北条氏政と和睦し出兵することを要請。
2月 足利義秋(後の足利義昭)、上杉輝虎(後の上杉謙信)へ武田信玄・北条氏政との和睦遅延に関し、先ず停戦を督促。
また足利義秋に同盟した大名が離反した旨に触れ、状況によっては越後国下向もあり得る旨を通知。〔「上杉古文書」四〕
3月20日 三好三人衆、京都久我荘百姓へ年貢収納を命令。〔『久我家文書』〕
3月 足利義秋(後の足利義昭)、吉川元春へ尼子氏撃破を祝賀す。また毛利元就へ足利義秋帰洛援助を要請。〔「吉川家文書」〕
4月 初頭 松永久秀(「松少」)、5・6日頃に和泉国堺より大和国へ入国(信貴山城へ入城)。
これにより筒井順慶(「筒井順慶」)、奈良より退陣し7日夜半に多聞山城へ入城。〔『多聞院日記』二〕
4月11日 松永久秀(「松少」)、大和国多聞山城へ移る。〔『多聞院日記』二〕
4月18日 三好三人衆、1万余の軍勢を率いて大和国奈良近辺に布陣。〔『多聞院日記』二〕
4月24日 三好三人衆・筒井順慶、大和国天満山・大乗院山に布陣。松永久秀、東大寺塔・南大門に上がり「鉄砲」を放つ。
〔『多聞院日記』二〕
4月25日 大和国多武峯の藤原鎌足肖像画(「大織冠之像」)が戌日戌時に「御破烈」す。〔『多聞院日記』二〕
5月 2日 岩成友通(「石成」)・「池田衆」(池田勝正軍)、軍勢1万計を率い東大寺へ移り念仏堂・二月堂・大仏殿回廊へ布陣。
これに対し松永久秀(「松弾」)は戒壇院に楯籠る。
多聞院英俊はこれらの行動を「大天魔ノ所為」と見なす。〔『多聞院日記』二〕
5月 3日 有馬豊氏、播磨国に誕生(異説1542・1569年)。〔『日本史人物生没年表』〕
5月 5日 池田勝正・三好康長(「三好山城守」)軍、「番替」として4・5千程の軍勢が東大寺へ到着。〔『多聞院日記』二〕
5月12日 三好長逸(「三好日向守」)、京都大徳寺へ「今宮祭礼」の際に発生した喧嘩の件で事態が「無事」となったことを祝す。
〔「大徳寺文書」@‐613〕
5月17日 池田勝正(「池田」)、摂津国より大和国西芳寺へ布陣。「下野守」は天満山より西坂に移陣。岩成友通(「石成」)の統率
する念仏堂に楯籠っていた軍勢は氷室山法雲院の後ろの畠に布陣。筒井順慶(「筒井」)は大乗院山に留まり、東大寺内への
通路を遮断す。〔『多聞院日記』二〕
5月19日 多聞院英俊、花厳院に於いて三好政康(「釣閑斎」)・岩成友通(「石成」)・川合某が参会し談合というので酒を進上す。
〔『多聞院日記』二〕
5月23日 池田勝正、軍勢を「マメ山」へ移す。〔『多聞院日記』二〕
5月24日 三好三人衆、大和国法輪院へ入る。これにより宝徳院・妙音院・徳蔵院・金蔵院、大和国多聞山より火矢で放火す。
〔『多聞院日記』二〕
6月 4日 筒井順慶軍、東大寺へ火矢にて放火するも効果は無かった。〔『多聞院日記』二〕
6月 5日 筒井順慶軍、龍花院方の発心院・中蔵院・千手院・大聖院・安養院・谷坊・慈明坊へ布陣す。〔『多聞院日記』二〕
6月11日 足利義栄、山科音羽郷百姓へ年貢社納を命令。〔「祇園社記」〕
6月15日 三木良頼、上杉輝虎(「山内殿」)へ美濃国の件は織田信長(「尾張守」)の「存分」に帰したため(但し誤報)祝儀として
宝蔵院竜蔵坊を派遣したことを通知。詳細は宝蔵院竜蔵坊に伝達させる。〔「伊佐早文書」〕
6月16日 六角義賢軍、山門相論により一乗寺を焼打ちす。〔『言継卿記』〕
6月17日 松永久秀軍(「信貴城衆」)、「箸尾衆」と協力して筒井郷椎木・小泉周辺を翌朝まで放火す。〔『多聞院日記』二〕
7月 8日 「古市方」(大和国人)、三好三人衆が発心院へ「新発意」の件の通達により大和国多聞山(筒井順慶)側へ「裏帰」る。
〔『多聞院日記』二〕
7月12日 多聞院英俊、「天下一与三郎」へ160文を送付。〔『多聞院日記』二〕
7月13日 細川昭元、広隆寺領を惣安堵す。〔「広隆寺文書」〕
7月13日 上杉輝虎(後の上杉謙信)、織田信長(「織田尾張守」)へ伝聞にて「濃州一変」(美濃国統一のこと、但し誤報)を賞し、
再度書信を遣わす旨を通知。〔「伊佐早文書」〕
7月23日 三好三人衆の調略により「五人」が裏切り東大寺戒壇院・千手堂が焼亡す。〔『多聞院日記』二〕
7月24日 山科言継、京都一乗寺に於いて女房100人、男40〜50人の念仏踊りを見物。〔『言継卿記』〕
7月27日 三好三人衆軍、波多野晴通(松永党)と京都西岡に於いて交戦。〔『言継卿記』〕
7月 足利義秋(後の足利義昭)、上杉輝虎(後の上杉謙信)へ上洛の決意を固め、兵粮米調達及び参陣を命令。
8月 2日 筒井順慶軍(「多聞山衆」)、大黒尾方へ出撃するも成果は無かった。〔『多聞院日記』二〕
8月 3日 伊達政宗、陸奥国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
8月 5日 今川氏真(「上総介」)、鈴木重時(「鈴木三郎大夫」)・近藤康用(「近藤石見守」)へ永禄4年時の徳川家康の反逆
(「岡崎逆心」)からそれ以降の忠節を賞し、三河国吉河の訴訟や遠江国曳馬領内の新橋郷・小沢渡郷・人見郷における検地や
土地に関する処置についての指示を下す。〔「鈴木重信氏所蔵文書」‐4〕
8月12日 朝廷、三好長逸のルイス=フロイス京都還住奏請を却下。〔『御湯殿上日記』〕
8月14日 秋月種実、筑前国に誕生(異説2月7日)。〔『日本史人物生没年表』〕
8月15日 織田信長、美濃三人衆(稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就)の内応により美濃国稲葉山の井口城を奪取。「岐阜」と改名。
8月15日 斎藤龍興、稲葉山井口城を脱し長良川を経由して伊勢国長島へ退去。
8月16日 三好三人衆、軍事行動を起こす。
これにより松浦某・松山某が200計の軍勢を率い裏切り、「十八間癩人ノ宅」(北山十八間戸か)を焼き払う。
〔『多聞院日記』二〕
8月24日 三好長逸、京都無明院役者へ寺領を安堵す。〔「退蔵院文書」〕
8月25日 北条氏政、細川藤孝へ上杉氏・北条氏・甲斐武田氏の和睦を承諾。また武田信玄への足利義秋下知を要請。
〔「上杉家文書」一〕
8月26日 岩成友通(「石成」)・中村某、2000人程の軍勢を率い河内国へ軍事行動を起こす。〔『多聞院日記』二〕
8月 晦日 「根来寺衆」、紀伊国「イトノ」郡「ナクラ」城まで出撃し大和国を窺う。〔『多聞院日記』二〕
8月 日 織田信長(「信長」)、尾張国蓮台寺へ津島の道場(蓮台寺のこと)の堀より外の屋敷及び寺領は「衆僧」の「裁許」たる
べき指示を下す。〔『張州雑志抄』十七〕
9月 3日 別所某が播磨国より「番替」として派遣した2000程の軍勢、大坂へ到着。〔『多聞院日記』二〕
9月 3日 多聞院英俊、「根来寺衆」の軍事行動により「南ワキ」の情勢が不安になったことを知る。〔『多聞院日記』二〕
9月 5日 「根来衆」・「屋形衆」、3000計の軍勢を率い大和国へ侵入し戦闘が起こる。〔『多聞院日記』二〕
9月 6日 三好三人衆・篠原長房(「篠原」)、飯盛城を牟岐勘衛門尉へ渡す。〔『多聞院日記』二〕
9月 7日 細川昭元、広隆寺へ植林灌漑を命令。〔「広隆寺文書」〕
9月10日 織田信長、美濃国棚橋氏(上加納村庄屋)へ北加納に於いては竹木伐採・乱妨・狼藉の一切を停止し、諸事「如先規」く
申し付ける。〔「上加納棚橋家文書」〕
9月13日 「根来寺衆」、河内国烏帽子形城を攻撃するも敗退す。〔『多聞院日記』二〕
9月27日 細川昭元、二尊院寄進用の油の諸関勘過を命令。〔「二尊院文書」〕
9月27日 足利義栄、京都阿弥陀寺の無縁所を許可。〔「阿弥陀寺文書」〕
9月28日 細川昭元、山城国ゥ関の役銭を今村慶満へ沙汰させる。山科言継はこの件を三好三人衆へ訴える。〔『言継卿記』〕
9月29日 浅井長政、市橋長利を仲介し織田信長へ同盟を要請。
9月 日 織田信長、美濃国北加納の圓徳寺へ還住に関する掟書を下す。〔「圓徳寺文書」‐2〕
9月 日 織田信長、美濃国善福寺千手堂へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「善福寺文書」‐1〕
9月 日 織田信長、美濃国崇福寺へ禁制を下す。〔「崇福寺文書」‐2〕
9月 日 織田信長、美濃国多芸庄椿井郷へ伊勢国「太神宮領」であるから伊勢寺が所在することを了承、陣取・放火・濫妨・狼藉・
「伐採竹木」・「非分之族申懸之事」の一切を停止。「違背」者は「成敗」する旨を通達。〔「大西源一氏蒐集文書」〕
10月 3日 坂井政尚(「坂井右近尉」)・森可成(「森三左衛門尉」)、美濃国武芸八幡寺へ織田信長「御制札」が存在する上は
「異儀」無きこと、「前々より相替られず」(美濃斎藤氏に代わり織田信長が領主となったが相違無き)ことを通達。
〔「武芸八幡宮文書」〕
10月 6日 織田信長、美濃国手力雄神社へ禁制を下す。〔「手力雄神社文書」‐1〕
10月10日 松永久秀、三好三人衆の布陣する東大寺を襲撃。東大寺大仏殿、焼亡す。〔『多聞院日記』二〕
10月20日 多聞院英俊、東大寺大仏殿の焼跡を見回る。〔『多聞院日記』二〕
10月20日 三淵弾正某・香西某、山城国黒山辺りに出撃。これに対し三好久介(三好長逸子息)は如来堂を秘密裏に出て普賢寺谷まで
退却したところ悉く討ち果たされる。「公方衆」(足利義栄軍)は大打撃を被る。〔『多聞院日記』二〕
10月21日 松山安芸守・山口某、飯盛城を出て和泉国堺へ移動。飯盛城は篠原長房(「篠原」)・三好長逸(「三好日向守」)が請け
取り入城。〔『多聞院日記』二〕
10月26日 池田勝正(「池田」)、少数の軍勢を残して摂津国へ退却。〔『多聞院日記』二〕
10月 日 織田信長、美濃国楽市場へ全3ヶ条の定(楽市令)を下す。〔「圓徳寺文書」‐3〕
10月 日 織田信長、美濃国美江寺へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「美江寺文書」‐4〕
10月 日 織田信長、美濃国武芸八幡神社衆僧中へ寺社領を安堵。〔「八幡神社文書」‐4〕
10月 松永久秀、大和国興福寺に拠って三好三人衆を東大寺に夜襲、東大寺大仏殿が兵火で焼失。
11月 7日 本願寺顕如、織田信長へ美濃国・伊勢国を平定し上洛しようとするのに祝意を表明、太刀等を贈呈。
〔「顕如上人御書札案留」〕
11月 9日 正親町天皇、織田信長(「織田尾張守」)へ綸旨を下す。
その内容は「国々属本意」(美濃国統一)したことは「尤武勇之長」である上に、「天道之感応」であり、「古今無双之名将」
であるため、「弥可被乗勝」ことは勿論であるが、特に尾張・美濃両国の「御料所」「御目録」提出を厳重に命令するという
のが「綸命」であるというものであった。〔「経元卿御教書案」〕
11月 9日 正親町天皇、織田信長(「織田尾張守」)へ綸旨を下す。
その内容は「国々属本意」(美濃国統一)したことは「尤武勇之長」である上に、「天道之感応」であり、「古今無双之名将」
であるため、「弥可被乗勝」ことは勿論であるが、特に尾張・美濃両国の「御料所」「御目録」提出を厳重に命令するという
のが「綸命」であるというものであった。〔「立入宗継文書」‐7〕
11月 9日 万里小路惟房、織田信長(「織田尾張守」)へ「勅裁」が下された上は朝廷に対する「御馳走」が「肝要」である旨を通達。
〔「経元卿御教書案」〕
11月15日 足利義秋(後の足利義昭)、森田与十郎へ入洛の際の戦功を督励する内書を下す。〔「岩田佐平氏所蔵文書」〕
11月22日 禁裏修理が行われる。〔『御湯殿上日記』〕
11月27日 多聞院英俊、三好義継(「左京大夫」)と松永久秀(「弾正少弼」)・松永久通(「右衛門佐」)よりぞれぞれ全3ヶ条の
「禁制」を受ける。〔『多聞院日記』二〕
11月 日 織田信長、美濃国北方圓鏡寺へ寺法度は先規の如く、新儀諸役の宥免を安堵。〔「圓鏡寺文書」‐1〕
11月 日 三好義継(「左京大夫」)、大和国興福寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔『多聞院日記』二〕
11月 日 松永久秀(「弾正少弼」)・松永久通(「右衛門佐」)、大和国興福寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。〔『多聞院日記』二〕
11月 日 織田信長、高木貞久へ知行を安堵。〔「東高木文書」‐2〕
11月 日 織田信長、摂津国多芸の丸毛不心斎へ全3ヶ条の禁制を下す。〔「吉田亀之助所蔵文書」〕
11月 日 織田信長(「信長」)、坂井利貞(「坂井文助」)へ美濃国旦嶋内に20貫文を知行として安堵。
(織田信長「朱印状」の初見)〔「坂井遺芳」〕
11月 日 織田信長(「信長」)、矢野弥右衛門尉(美濃国地侍)へ美濃国河野内に20貫文を知行として安堵。
〔「尊経閣文庫所蔵文書」保包四六四〕
11月 日 織田信長(「信長」)、兼松正吉(「兼松又四郎」)へ美濃国河野内に10貫文を知行として安堵。〔「兼松文書」〕
11月 足利義栄、朝廷に征夷大将軍宣下を申請するも却下される。〔『晴右公記』〕
11月 足利義秋(後の足利義昭)、由良成繁(上野国金山)へ内書を下す。〔「由良文書」〕
11月 足利義秋(後の足利義昭)、朝倉義景へ加賀国一向一揆との和睦を命令。〔『朝倉記』・『多聞院日記』〕
11月 本願寺顕如、織田信長へ美濃国・伊勢国平定し上洛することを祝賀し贈物をする。
12月 1日 大和国興福寺、近衛前久(「近衛殿」)に興福寺内への陣取免除を要請するも松永久秀(「霜台」)の「同心」は得られず。
〔『多聞院日記』二〕
12月 1日 織田信長(「信長」)、大和国興福寺衆徒(「御在陣衆御中」)へ足利義昭「入洛」に近日「供奉」する予定、足利義昭への
忠誠、大和国多聞城の松永久秀・松永久通父子との「入魂」、松永久秀父子を「見放」ないことは「誓紙」を交換したので必ず
加勢するであろうことを通知。以上の件は和田惟政(「和伊」)に、詳細は佐久間信盛(「佐久間右衛門尉」)に通達させる。
〔「柳生文書」〕
12月 1日 織田信長(「信長」)、岡因幡守(松永老臣)へ足利義昭「入洛」に近日「供奉」する予定、足利義昭への忠誠、
大和国多聞城の松永久秀・松永久通父子との「入魂」、松永久秀父子を「見放」ないことは「誓紙」を交換したので必ず加勢
するであろうことを通知。以上の件は和田惟政(「和伊」)に、詳細は佐久間信盛(「佐久間右衛門尉」)に通達させる。
〔「岡文書」〕
12月 4日 筒井順慶(「筒井」)、強盗(「引剥」)2名を誅殺す。〔『多聞院日記』二〕
12月12日 足利義栄、京都祇園社牛王宝印商売を片羽屋神人に安堵す。〔「建内文書」〕
12月 日 織田信長、美濃国阿願寺へ寺領を安堵。〔「阿願寺文書」‐9〕
この年 有馬晴信、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
大野治長、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
真田信繁、信濃国に誕生(異説1569年)。〔『日本史人物生没年表』〕
多田昌綱、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
長谷川藤広、常陸国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
塙直之、尾張国に誕生。〔『日本史人物生没年表』〕
毛利秀包、誕生(異説1566年)。〔『日本史人物生没年表』〕
淀殿(茶々)、誕生。〔『日本史人物生没年表』〕