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    契丹 略前史    高汝蓮



 鮮卑および契丹の根拠地は遼河流域であった。遼河は内蒙古自治区の東南を東に流れ、遼寧省の中央を西南に流れて遼東湾に出る。
 内蒙古自治区における遼河は、西遼河・西拉木倫河・老哈河となるらしい(西拉木倫の木倫に河の意味がある)。
 この年表は、契丹人人名の登場を主としているので、通好記録すべてを表記していない。

秦の二世:元(西暦紀元前209)年
        このころ、東胡、匈奴に滅ぼされる。残りは遼東に去り、鮮卑と号す。〔『史記』・『漢書』94上・『三国志』30〕

後漢:建安年間(紀元後196〜220)年
        このころ、鮮卑の軻比能、盛んになる。〔『三国志』30〕

後漢:延康元(220)年
        軻比能、魏の附義王に封じられる。〔『三国志』30〕

魏:青龍3(235)年
        軻比能、魏によって殺される。〔『三国志』30〕
        こののち、軻比能の子孫?に葛烏菟・普回・莫那(普回の子)などあり。〔『遼史』63〕

東晋:咸和9(334)年
        このころ、莫那から九世の子孫、同じ鮮卑の慕容部に攻められ、宇文・庫莫奚・契丹に分かれる。〔『晋書』109〕

北魏:献文帝治世中(465〜471)年
        このころ、契丹の莫弗コツ[糸・乞]何辰、北魏に使を遣わす。また、契丹は八部に分かれる(奇首八部、古八部)。
                                                    〔『遼史』32・63〕
        
北魏:太和3(479)年
        契丹の莫賀弗勿于、高句麗と柔然に攻められる。〔『魏書』100〕

北魏:煕平中(516〜517)年
        このころ、契丹の祖真ら三十人が北魏に入朝する。〔『魏書』100〕

西魏:廃帝2(553)年
  2月    契丹、柔然の可汗、鉄伐を攻め殺す。〔『北斉書』4〕
  9月    契丹、北斉に攻められる。〔『北斉書』4〕

        こののち、さらに突厥に攻められ、高句麗をたよる。〔『隋書』84〕

隋:開皇4(584)年
  5月 2日 契丹の莫賀弗、隋に使を遣わし、大将軍を拝す。〔『隋書』1〕
        このころ、十部に分かれる。〔『遼史』32〕

隋:開皇5(585)年
  4月 8日 契丹の多弥、隋に使を遣わす。〔『隋書』1〕
        このころ、契丹の出伏、高句麗から隋をたよる。〔『隋書』84〕
        契丹の敖曹(孫敖曹)、隋の金紫光禄大夫を拝す。〔『隋書』84〕
        契丹、突厥の官を殺す。〔『北史』94〕
        
唐:武徳4(621)年
        敖曹、唐の雲麾将軍・行遼州総官を拝す。〔『旧唐書』199下〕
        このころ、契丹、長を大賀氏から出すようになる。〔『旧唐書』199下〕

武徳6(623)年
        契丹の咄羅、唐に使を遣わす。〔『旧唐書』199下〕

貞観2(628)年
  4月20日 契丹の摩会、唐に入朝する。〔『旧唐書』2・199下〕

貞観19(645)年
        このころ、契丹の窟哥、唐の太宗皇帝の高句麗遠征に際し、左武衛将軍を拝す。
        また、曲拠(『遼史』32・63では拠曲、『旧唐書』39では李去閭)は玄州刺史を拝す。
         (615〜710年の間、契丹人の居住地に九つの州が置かれる)〔『新唐書』43下・219〕
        
貞観22(648)年
 11月23日 契丹の地に唐によって松漠都督府(八つの州を領する)が置かれる(つまり全部で十七州)。
        窟哥、使持節十州諸軍事・左領軍将軍・松漠都督を拝し、無極県男に封じられ、唐の国姓李氏を賜われる。
                                       〔『旧唐書』3・『新唐書』43下〕

顕慶元(656)年
        窟哥、左衛門大将軍を拝す。〔『旧唐書』199下〕
        こののち、窟哥の死んだ後。松漠都督の阿卜固、唐に叛き、すぐ捕えられる。〔『新唐書』219〕

嗣聖元(684)年
        このころ、枯莫離(窟哥の曾孫。『新唐書』では孫)、左衛将軍・検校弾汗州刺史を拝し、帰順郡王に封じられる。
                                  〔『旧唐書』199下・『新唐書』219『遼史』63〕
        尽忠(李尽忠、同じく窟哥の曾孫。『新唐書』では孫)、右武衛大将軍・松漠都督を拝す。〔『旧唐書』199下〕

垂拱元(685)年
        万栄(孫万栄。敖曹の曾孫)、右玉ケン[金・今]衛将軍・帰誠州刺史を拝し、永楽県公に封じられる。〔『旧唐書』199下〕

万歳登封元(696)年
  5月11日 尽忠、無上可汗と称し、万栄とともに自立する。〔『旧唐書』6〕
  9月    尽忠、病死。〔『旧唐書』6〕

神功元(697)年
  6月    万栄、敗死。〔『旧唐書』6〕

開元3(715、『新唐書』は714)年
        失活(尽忠の従弟)、立てられ、左金吾衛大将軍・松漠都督を拝し、松漠郡王に封じられる。〔『旧唐書』199下・『新唐書』219〕

開元5(717)年
 11月 3日 失活、唐の永楽公主楊氏(玄宗皇帝の甥の娘)を妻とする。〔『旧唐書』8〕

開元6(718)年
  5月    失活、死す。娑固(従弟)、立てられる。〔『旧唐書』8・199下〕
        この後、娑固、実力者の可突于に殺され、鬱于(娑固の従弟)が立てられる。〔『旧唐書』199下〕

開元10(722)年
  4月27日 鬱于、左金衛員外大将軍・静析軍経略大使を拝し、松漠郡王に封じられる。燕郡公主慕容氏(玄宗皇帝の従妹の娘)を妻とする。
                                                    〔『旧唐書』8・199下〕
        また、可突于、左羽林将軍を拝す。〔『旧唐書』199下〕

開元11(723)年
        鬱于、死す。吐于(弟)、立てられる。〔『旧唐書』199下〕

開元13(725)年
        吐于、可突于とあわず、唐に入朝。遼陽郡王に封じられる。召固(尽忠の弟)、立てられる。〔『旧唐書』199下〕

開元14(726)年
  1月    召固、広化王に封じられる。〔『旧唐書』8〕
  3月18日 召固、唐の東華公主陳氏(玄宗皇帝の甥の娘)を妻とする。〔『旧唐書』8〕

開元18(730)年
        召固、可突于に殺される。〔『旧唐書』8・199下〕
        屈烈、立てられ、ワ[さんずい・圭]可汗と称す。〔『新唐書』219・『遼史』63〕

開元22(734)年
 12月18日 屈烈と可突于、唐に討たれ、斬られる。〔『旧唐書』8・『新唐書』5〕
        過折、特進検校松漠都督を拝し、北平郡王(『唐会要』96では東平郡王)に封じられる。〔『旧唐書』199下・『新唐書』219〕
        この年、過折、泥礼(遼の始祖。阿保機から七代前)に殺される。〔『旧唐書』199下・『遼史』63〕
        剌乾(過折の子)、左驍衛将軍を拝す。〔『旧唐書』199下〕
        
天宝4(745)年
  3月14日 迪輦俎里本(李懐秀、遥輦氏、阻午可汗)、松漠都督を拝し、崇順王に封じられ、静楽公主独孤氏(玄宗皇帝の曾孫)を妻とする。
                                        〔『旧唐書』199下・『新唐書』219・『遼史』63〕
  9月    迪輦俎里本、公主を殺し、唐に叛く。〔『旧唐書』9〕
        このころ、大賀氏は衰え、遥輦氏がこれに代わる。〔『遼史』63〕
        遥輦氏、改めて八部とし、遥輦・迭剌を別にして十部とする。後、さらに二十部とする。〔『遼史』32〕

天宝10(751)年
        このころ、楷洛、松漠都督を拝し、恭仁王に封じられ、契丹王を称す。〔『新唐書』219・『遼史』63〕

天宝11(752)年
  8月    唐の安禄山、契丹を攻める。〔『旧唐書』200上〕

天宝14(755)年
  3月23日 安禄山、契丹を攻める。〔『新唐書』5〕

貞元10(794)年
  2月    梅落エイ[てへん・曳]河ら五人は果毅都尉を、活薛爾らは別将を拝す。〔『唐会要』96〕

貞元11(795)年
 10月    熱蘇ら二十五人、唐に入朝する。〔『唐会要』96〕

元和9(814)年
 11月    梅落鶻劣、唐に入朝する。〔『唐会要』96〕

元和10(815)年
 11月    梅落饒劣ら十九人、唐に入朝する。〔『唐会要』96〕

元和12(817)年
 11月    介落ら、唐に使を遣わす。〔『唐会要』96〕

大和9(835)年
 11月    契丹人二十五人、唐に入朝する。〔『唐会要』96〕

開成元(836)年
 11月    涅列壊ら三十一人、唐に入朝する。〔『唐会要』96〕

開成4(839)年
 12月    薛葛ら三十人、唐に入朝する。〔『唐会要』96〕

会昌2(842)年
  9月    屈戌、雲麾将軍・守右武衛将軍・幽州節度使・員外置同正員を拝し、契丹王・耶瀾可汗と称す。
                 〔『唐会要』96・『旧唐書』199下・『新唐書』219・『遼史』63〕

咸通中(860〜873)年
        習爾(『旧五代史』では習爾之)、巴剌可汗と称する。〔『旧五代史』137・『遼史』63〕

咸通13(872)年
        迭剌部に阿保機(小字を啜里只)、生まれる。〔『遼史』1〕

光啓中(885〜887)年
        契丹王は欽徳。〔『旧五代史』137〕
        撒剌的(阿保機の父、徳祖)、夷離菫(執政官)となり、はじめて銭幣を造る(年月不明)。〔『遼史』10〕

天復元(901)年
        欽徳、痕徳菫可汗と称す。阿保機、夷離菫となる。〔『遼史』1〕

天復3(903)年
        女直を攻める。〔『遼史』1〕

天祐2(905)年
  7月    李克用(後唐の太祖)、契丹に使を遣わす。〔『遼史』1〕

天祐3(906)年
  2月    朱全忠(後梁の太祖)、契丹に使を遣わす。〔『遼史』1〕
 11月    奚(契丹と同種異族)・女直を攻める。〔『遼史』1〕
 12月    欽徳、死す。遥輦氏、勢力を失う。〔『遼史』1〕

天祐4(907)年
  1月13日 阿保機、立つ。〔『遼史』1〕


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