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    遼・金 略年表(改訂第二稿)    高汝蓮



天皇帝元(西暦907・唐:天祐4・後梁:開平元)年
  1月13日 契丹族、迭剌部、霞瀬益石烈郷、耶律弥里の阿保機(太祖。天皇帝。天皇王。劉億。啜里只)、皇帝(可汗)位に即く。〔『遼史』1〕
  4月18日 朱晃(朱全忠。太祖)、皇帝位に即く。〔『新五代史』2〕
  4月22日 朱晃、開平と改元し、国号を大梁(後梁)、唐主の李シュク[木・兄](哀宗)を済陰王とする(唐滅亡)。〔『新五代史』2〕
        契丹、梁に使を遣わす。〔『冊府元亀』972〕
        梁も契丹に使を遣わす。〔『遼史』1。朱晃の即位とともに4月1日のことにしてある〕
 12月    ウイグル(回鶻。西ウイグル王国。新疆維吾爾自治区吐魯番あたりを中心とする)、契丹に使を遣わす。〔『遼史』70〕

天皇帝5(911)年
  5月    剌葛(阿保機の弟)ら、謀反。阿保機、その罪を赦す。〔『遼史』1〕
  8月13日 幽州(いまの北京)の劉守光、大燕皇帝と号し、応天と改元する。〔『旧五代史』135〕

天皇帝6(912)年
  2月 9日 契丹、幽州を攻める。〔『遼史』1〕
  7月 1日 契丹、平州(河北省盧龍県)を攻める。〔『遼史』1〕
 10月 4日 契丹、平州を破る。剌葛ら、また謀反。〔『遼史』1〕
 10月19日 剌葛ら、阿保機に謝罪する。〔『遼史』1〕
  
天皇帝7(913)年
  3月10日 剌葛、自立する。〔『遼史』1〕
  5月13日 剌葛、囚われる。〔『遼史』1〕
 11月24日 晋陽(山西省太原市)の李存勗、幽州を攻め、劉守光をとらえる。〔『旧五代史』135〕

天皇帝8(914)年
  7月 1日 阿保機、諸帳(同族のこと)を誅す。〔『遼史』1〕

天皇帝10・神冊元(916)年
  2月11日 契丹、神冊と建元し、国号を大契丹とする。〔『契丹国志』契丹九帝年譜・『遼史』1〕
 11月    契丹、蔚州(河北省蔚県)・武州(河北省宣化県)などを攻める。〔『遼史』1〕
 12月    軍を還す。〔『遼史』1〕

神冊2(917)年
  3月 2日 契丹、幽州を攻める。〔『遼史』1〕
  6月28日 契丹、軍を還す。〔『遼史』1〕
        剌葛、叛いて幽州に入る(亡命する)。のち殺される。〔『遼史』1・64〕

神冊3(918)年
  1月22日 契丹、雲州(山西省大同市)を攻める。〔『遼史』1〕
  2月20日 契丹、築城し皇都(内蒙古自治区巴林左旗)とする。〔『遼史』1〕
  4月 3日 迭剌(阿保機の弟)、謀反。阿保機、赦す。〔『遼史』1〕
  6月15日 王建(太祖)、高麗を建国し、天授と改元する。〔『高麗史』1〕

神冊5(920)年
  1月 2日 契丹、契丹大字を創る。〔『遼史』2〕
  9月14日 契丹大字を頒かつ。〔『遼史』2〕
        契丹、雲内州(内蒙古自治区包頭市)を攻める。〔『遼史』2〕
 12月    軍を還す。〔『遼史』2〕

神冊6(921)年
  5月 1日 契丹、法律を定める。〔『遼史』2〕
 10月24日 阿保機、居庸関に入る。〔『遼史』2〕
 12月23日 李存勗と戦い、不利となり軍を引き還す。〔『遼史』2〕

神冊7・天賛元(922)年
  2月 3日 契丹、幽州・薊州(薊県。いま天津市に入る)の地を攻める。〔『遼史』2〕
  2月23日 契丹、天賛と改元する。〔『遼史』2〕
  2月    契丹、高麗に使を遣わす。〔『高麗史』1〕
  4月 4日 契丹、薊州を攻める。〔『遼史』2〕
  4月 8日 契丹、薊州を陥れる。〔『遼史』2〕
 11月26日 契丹、薊州の北を攻める。〔『遼史』2〕

天賛2(923)年
  1月21日 契丹、平州(河北省盧龍県)を陥れる。〔『遼史』2〕
  4月 9日 契丹、幽州・山西を攻める。〔『遼史』2〕
  4月25日 李存勗(荘宗)、唐(後唐)を建国する。〔『旧五代史』29〕
  5月15日 契丹、軍を還す。〔『遼史』2〕
  6月29日 波斯(?)人、契丹に来る。〔『遼史』2〕
  7月    燕(幽州)・趙(雲州)を攻める。〔『遼史』2〕
 10月 9日 唐、梁を滅ぼす。〔『旧五代史』10〕

天賛3(924)年
  1月    燕の南を攻める。〔『遼史』2〕
  9月28日 大食(バラーサーグーンを中心としたカラー=カーン王朝のことか?)人、契丹に来る。〔『遼史』2〕
        バラーサーグーンは、キルギスタンのトクマクから南南西ブラナ村に遺跡があるらしい。〔『キルギス大統領顧問日記』〕

天賛4(925)年
  2月12日 契丹、燕・趙を攻める。〔『遼史』2〕
  9月 3日 契丹、軍を還す。〔『遼史』2〕
  9月21日 日本人、契丹に来る。〔『遼史』2〕
 12月16日 契丹、渤海を攻める。〔『遼史』2〕

天賛5・天顕元(926)年
  1月20日 契丹、渤海を滅ぼす。〔『遼史』2〕
  2月 5日 契丹、天顕と改元する。〔『遼史』2〕
  2月19日 契丹、渤海国を改めて東丹国、忽汗城(渤海の上京龍泉府。黒龍江省寧安県)を天福とし、
        図欲(阿保機の長子。義宗。譲国皇帝。劉倍。李賛華)を冊して人皇王として、東丹国主とする。〔『遼史』2〕
  3月29日 契丹、軍を還す。〔『遼史』2〕
  7月17日 阿保機、崩御。年55。〔『遼史』2〕
        皇后の述律月理朶(淳欽皇后。地皇后。漢名は平)、摂政。〔『遼史』3〕

天顕2(927)年
 11月15日 尭骨(阿保機の次子。太宗。嗣聖皇帝。劉徳光)、即位。〔『遼史』3〕

天顕3(928)年
  3月19日 定州、契丹に降る。唐、定州(河北省定県)を攻める。〔『遼史』3〕
  7月 9日 唐、定州を破る。〔『遼史』3〕
 11月30日 契丹、唐を攻める。〔『遼史』3〕
 12月13日 唐の使、契丹に至る。契丹、軍を還す。〔『遼史』3〕
        契丹、東丹の民を東平郡(遼寧省遼陽市)に遷し、東平郡を南京とする。〔『遼史』3・38〕

天顕4(929)年
 10月29日 契丹、雲州あたりの、まだしたがっていない郡県を攻める。〔『遼史』3〕

天顕5(930)年
  4月 1日 「延長八年庚寅四月朔日、唐客、東丹国使と称し、[日本]丹後国に著す」とある。〔『扶桑略記』24〕
 11月19日 図欲、唐に入る(亡命する)。〔『遼史』3〕

天顕6(931)年
  1月 6日 キルギズ(轄戞斯。エニセイ河上流)人、契丹に来る。〔『遼史』3〕

天顕8(933)年
  3月 5日 唐、高麗に使を遣わす。これより高麗、唐の年号を行なう。〔『高麗史』2〕

天顕9(934)年
  8月14日 契丹、唐を攻める。〔『遼史』3〕

天顕11(936)年
  8月14日 契丹、石敬トウ[王・唐]をたすける。〔『遼史』3〕
 11月12日 契丹、晋陽において、石を大晋皇帝(高祖)に冊する(後晋建国)。〔『遼史』3〕
閏11月26日 唐、図欲を弑する。晋、唐を滅ぼす。〔『旧五代史』48・『遼史』3〕

天顕13・会同元(938)年
 11月23日 契丹、会同と改元する。〔『遼史』3〕
        契丹、皇都を上京臨コウ[さんずい・黄]府、幽州を南京析津府(ふつう燕京と呼ばれた。いまの北京)、南京を東京遼陽府とする。
                                                             〔『遼史』3〕
    この月 晋が燕・薊十六州(燕雲十六州)の図籍を献じる。〔『遼史』4〕

会同5(942)年
  7月 8日 晋、契丹に使を遣わすも、臣を称せず。〔『遼史』4〕
 10月    契丹、高麗に使を遣わす。高麗、その使を島に流す。〔『高麗史』2〕

会同6(943)年
 12月 3日 契丹、晋を攻める。〔『遼史』4〕

会同7(944)年
  3月 1日 契丹、不利。〔『遼史』4〕
  4月11日 契丹、軍を還す。〔『遼史』4〕
 12月 5日 契丹、晋を攻める。〔『遼史』4〕

会同8(945)年
  3月27日 契丹、不利。軍を還す。〔『遼史』4〕

会同9(946)年
  5月21日 易州(河北省易県)、契丹に来附する(十七州になる)。〔『遼史』4〕
  8月    契丹、晋を攻める。〔『遼史』4〕
 11月 1日 契丹、鎮州(河北省正定県)を囲む。〔『遼史』4〕
 12月16日 契丹、晋を滅ぼす。〔『遼史』4〕

会同10・大同元・天禄元(947)年
  1月 1日 尭骨、晋の東京(河南省開封市)に入る。〔『遼史』4〕
  2月 1日 契丹、大同と改元、国号を大遼とし、鎮州を中京とする。〔『契丹国史』3〕
  2月15日 劉知遠(高祖)、晋陽において即位する。〔『旧五代史』99〕
  3月17日 晋の諸司僚吏・嬪御・宦寺・方技・百工・図籍・暦象・石経・明堂・刻漏・太常楽譜・諸宮県・鹵簿・法物および鎧仗を悉く上京へ送る。
                                                               〔『遼史』4〕
  4月 1日 尭骨、開封を発す。〔『遼史』4〕
  4月22日 尭骨、崩御。年46。〔『遼史』5〕
  4月23日 兀欲(図欲の長子。世宗。天授皇帝。劉阮)、即位。〔『遼史』5〕
  4月29日 太皇太后述律月理朶、兀欲の即位を聞き、李胡(阿保機の第三子。章粛皇帝。洪古)を遣わし、兵を率いてこれを拒む。〔『遼史』5〕
  6月 1日 兀欲、李胡の軍と戦い、やぶる。〔『遼史』5〕
  6月15日 劉知遠、国号を大漢(後漢)とする。〔『旧五代史』100〕
 閏7月    兀欲、李胡と太皇太后述律月理朶を祖州(内蒙古自治区巴林左旗)に遷す。〔『遼史』5・71〕
  8月 1日 漢、鎮州を復する。〔『旧五代史』100〕
  8月 2日 遼、北院枢密使を置く(北南二面官制の成立?)。〔『遼史』5〕
  9月16日 遼、大同元年を改めて天禄元年とする。安端(阿保機の弟)を東丹国の主とし、明王に封じ、察割(安端の子)を泰寧王とする。
                                                             〔『遼史』5〕

天禄3(949)年
 10月    遼、漢を攻める。〔『遼史』5〕

天禄4(950)年
  2月    政事省(中書省)を建てる。〔『遼史』5〕
 10月    遼、漢を攻める。〔『遼史』5〕
 11月22日 漢帝、弑される。〔『旧五代史』103〕

天禄5・応暦元(951)年
  1月 5日 郭威(太祖)、周(後周)を建国する。〔『旧五代史』110〕
  1月16日 劉崇(劉知遠の弟。劉旻)、晋陽で漢(北漢)を再建する。〔『新五代史』70〕
  6月 1日 劉崇、周に攻められ、遼に援を乞う。〔『遼史』5〕
  9月 1日 遼、周を攻める。〔『遼史』5〕
  9月 4日 兀欲、察割らに弑される。年34。察割、殺される。〔『遼史』5・6〕
  9月 8日 述律(尭骨の長子。穆宗。天順皇帝。劉m。『契丹国志』5・『資治通鑑』290に「のち名を明と更【あらた】めた」とある)、即位。
        応暦と改元する。                                              〔『遼史』6〕 

応暦2(952)年
  6月18日 遼、漢をたすける。〔『遼史』6〕
 12月29日 安端、薨じる。〔『遼史』6〕

応暦3(953)年
 10月 2日 宛(李胡の次子)、謀反、囚われる。〔『遼史』6〕

応暦4(954)年
  1月14日 宛、赦される。〔『遼史』6〕
  2月 1日 遼、漢をたすける。〔『遼史』6〕

応暦9(959)年
  4月11日 周、遼を攻める。〔『遼史』6〕
  5月 1日 周、瀛州(河北省河間県)・莫州(河北省任丘県)を陥れる(十五州になる)。〔『遼史』6〕
  5月 4日 周、易州を陥れる(十四州になる)。〔『旧五代史』119〕
  5月27日 周、軍を還す。〔『遼史』6〕

応暦10(960)年
  1月 4日 趙匡胤(太祖)、即位する(北宋建国)。周、滅びる。〔『旧五代史』120〕
  1月 5日 趙匡胤、国号を大宋とし、建隆と改元する。〔『続資治通鑑長編』1〕
 10月10日 喜隠(李胡の長子。完徳)、謀反。李胡、獄に下り、そこで薨じる。年50。〔『遼史』6・72〕

応暦11(961)年
 11月 2日 述律、喜隠を赦す。〔『遼史』6〕

応暦13(963)年
 12月    高麗、宋の年号を行なう。〔『高麗史』1〕

応暦14(964)年
  2月 5日 遼、宋に攻められた北漢をたすける。〔『遼史』7〕

応暦18(968)年
 10月 1日 宋、太原(北漢)を囲む。遼、北漢を救う。〔『遼史』7〕

応暦19・保寧元(969)年
  2月22日 述律、弑される。年39。〔『遼史』7〕
  2月23日 明イ[戸・衣](『遼史』8)あるいは明記(『契丹国志』6・『資治通鑑長編』10・『東都事略』123)
        (兀欲の次子。景宗。天賛皇帝。劉賢。賢寧)、即位。保寧と改元する。                 〔『遼史』8〕

保寧6(974)年
  3月    宋、遼と和を議す。〔『遼史』8〕
  4月    喜隠、謀反に座す。〔『遼史』8〕

保寧11・乾亨元(979)年
  3月10日 宋、北漢を攻める。遼、北漢をたすける。〔『遼史』9〕
  3月18日 遼、宋と戦い不利。〔『遼史』9〕
  5月 6日 宋、北漢を滅ぼす(宋の天下統一)。〔『宋史』4〕
  6月17日 宋、遼を攻める。〔『遼史』9〕
  7月 6日 遼、宋を大いに破る。〔『遼史』9〕
  9月 3日 遼、宋を攻める。〔『遼史』9〕
 10月19日 遼、不利。〔『遼史』9〕
 10月25日 遼、宋を破る。〔『遼史』9〕
 11月25日 遼、乾亨と改元する。〔『遼史』9〕
  
乾亨2(980)年
  6月 4日 喜隠、また謀反。祖州で囚われる。〔『遼史』9〕
 10月11日 遼、宋を攻める。〔『遼史』9〕
 11月17日 遼、軍を還す。〔『遼史』9〕

乾亨3(981)年
  5月10日 上京の漢軍、乱をおこし、喜隠を立てる。さらに留礼寿(喜隠の子)を立てる。〔『遼史』9〕
  7月29日 留礼寿、殺される。〔『遼史』9〕

乾亨4(982)年
  4月    遼、宋を攻める。〔『遼史』9〕
  5月    遼、軍を還す。〔『遼史』9〕
  7月 3日 明記、喜隠に死を賜う。〔『遼史』9〕
  9月24日 明記、崩御。年35。〔『遼史』9〕
  9月25日 文殊奴(明記の長子。聖宗。天輔皇帝。劉隆緒)、即位。〔『遼史』10〕
 12月 4日 遼と宋の講和ならず。〔『遼史』10〕

乾亨5・統和元(983)年
  6月10日 遼、統和と改元し、国号を大契丹とする。〔『遼史』10・『契丹国史』7〕
 10月24日 契丹、高麗を攻める。〔『遼史』10〕

統和3(985)年
  7月 1日 契丹、高麗を攻める。〔『遼史』10〕
  8月 1日 契丹、軍を還す。〔『遼史』10〕

統和4(986)年
  2月 5日 西夏の李継遷、宋に叛き契丹に附く。〔『遼史』11〕
  3月 6日 宋、契丹を攻める。〔『遼史』11〕
 11月11日 契丹、宋を攻める。〔『遼史』11〕
        
統和5(987)年
  1月15日 契丹、軍を還す。〔『遼史』12〕

統和6(988)年
  9月19日 契丹、宋を攻める。〔『遼史』12〕
    この歳 貢挙を開き、一人及第する(契丹における科挙の開始か?)。〔『遼史』12〕

統和7(989)年
  1月 1日 契丹、軍を還す。〔『遼史』12〕
  1月22日 契丹、易州を陥れる(燕雲十五州となる)。〔『遼史』12〕
  3月17日 契丹、王子帳(不明)で節度使の耶律襄(不明)の娘、耶律汀を義成公主に封じ、李継遷に下嫁する。〔『遼史』12〕
  5月13日 宋、契丹を攻める。〔『遼史』12〕
  7月15日 契丹、宋を攻める。〔『遼史』12〕

統和8(990)年
 12月 9日 契丹、李継遷を封じて夏国王とする。〔『遼史』13〕

統和10(992)年
 12月    契丹、高麗を攻める。〔『遼史』13〕

統和11(993)年
  1月17日 契丹、高麗と講和。〔『遼史』13〕
閏10月 3日 高麗、契丹に使を遣わす。〔『高麗史』3〕

統和12(994)年
  2月    高麗、契丹の年号を行なう。〔『高麗史』3〕
  8月 6日 契丹と宋、講和ならず。〔『遼史』13〕
  9月12日 講和ならず。〔『遼史』13〕

統和15(997)年
  3月15日 契丹、夏国王李継遷を封じて西平王とする。〔『遼史』13〕

統和17(999)年
  9月20日 契丹、宋を攻める。〔『遼史』14〕

統和18(1000)年
  1月    契丹、軍を還す。〔『遼史』14〕

統和19(1001)
 10月 2日 契丹、宋を攻める。〔『遼史』14〕
 10月29日 契丹、軍を還す。〔『遼史』14〕

統和20(1002)年
  3月18日 契丹、宋を攻める。〔『遼史』14〕
  4月20日 契丹、軍を還す。〔『遼史』14〕

統和22(1004)年
  7月 2日 契丹、西夏の李徳昭(李継遷の子)を封じて西平王とする。〔『遼史』14〕
 閏9月 8日 契丹、宋を攻める。〔『遼史』14〕
 12月 9日 契丹と宋の講和なる。〔『遼史』14〕

統和25(1007)年
  正月    契丹、中京(内蒙古自治区寧城県)を建てる。〔『遼史』14〕

統和28(1010)年
  8月21日 契丹、高麗を攻める。〔『遼史』15〕
  9月10日 契丹、西平王李徳昭を夏国王とする。〔『遼史』15〕
 11月25日 契丹、高麗の開京(朝鮮民主主義人民共和国開城市)を攻める。〔『遼史』15〕

統和29(1011)年
  1月 1日 契丹、軍を還す(『高麗史』4では、この日に開京を攻めたことになっている)。〔『遼史』15〕

統和30・開泰元(1012)年
 10月 1日 契丹、開泰と改元する。〔『遼史』15〕

開泰7(1018)年
 10月27日 契丹、高麗を攻める。〔『遼史』16〕
 12月16日 契丹、高麗軍に大敗する。〔『高麗史』4・『遼史』16〕

開泰8(1019)年
  3月18日 契丹、軍を還す。〔『遼史』16〕
  8月 6日 契丹、高麗を攻める。〔『遼史』16〕

開泰9(1020)年
  5月19日 高麗、使を遣わす。〔『遼史』16〕
  5月20日 契丹と高麗、講和なる。〔『遼史』16〕
 10月25日 大食、契丹に使を遣わし象および方物を進め、王子のために婚を請う。〔『遼史』16〕

開泰10・太平元(1021)年
  3月    大食、ふたたび使を遣わし、婚を請う。契丹、宗室の女を公主として嫁がせる。〔『遼史』16〕
 11月12日 契丹、太平と改元する。〔『遼史』16〕

太平7(1027)年
  7月 1日 契丹、法令を更定する。

太平9(1029)年
  8月 3日 大延リン[王・林]なるもの、東京(遼陽)で自立し、国号を興遼、年号を天慶とする。〔『遼史』17〕

太平10(1030)年
  8月25日 大、契丹に囚われる。〔『遼史』17〕

太平11・景福元(1031)年
  6月 3日 文殊奴、崩御。年61。〔『遼史』17〕
        夷不菫(文殊奴の長子。興宗。文成皇帝。劉宗真)、即位。〔『遼史』18〕
    15日 契丹、景福と改元する。〔『遼史』18〕
    この歳 契丹、西夏の李元昊(李徳昭の子)に興平公主(不明)を降嫁する。〔『遼史』18〕

景福2・重煕元(1032)年
 11月11日 契丹、重煕と改元する。〔『遼史』18〕

重煕5(1036)年
  4月19日 新定条制を頒【わ】かつ。〔『遼史』18〕

重煕7(1038)年
 10月11日 李元昊、大夏皇帝を称す(景宗)。〔『宋史』485〕

重煕8(1039)年
  6月23日 宋、李元昊の官職を削り、除籍する。〔『宋史』10〕

重煕12(1043)年
 12月15日 政事省を改めて中書省と為す。〔『遼史』19〕

重煕13(1044)年
  5月 7日 契丹、李元昊を攻める。〔『遼史』19〕
  5月25日 李元昊、宋に臣を称す。〔『宋史』11〕
 11月 6日 契丹、軍を還す。〔『遼史』19〕
 11月 9日 雲州(山西省大同市)を西京とする。〔『遼史』19〕

重煕18(1049)年
  7月 7日 契丹、西夏を攻める。〔『遼史』20〕

重煕19(1050)年
 12月19日 西夏、契丹に使を遣わし、旧に依り臣属を乞う。〔『遼史』20〕

重煕20(1051)年
  9月    また条制を更定し頒かつ。〔『遼史』20〕

重煕24・清寧元(1055)年
  8月 4日 夷不菫、崩御。年40。〔『遼史』20〕
        「興宗の御宇に泊【およ】んで、〔契丹〕蔵経を……雕ソウ[金・叟]せしめ」とある。
                         〔覚苑『大日経義釈演密鈔』序、『望月 仏教大辞典』1、530頁〜531頁から引く。〕
        涅鄰(夷不菫の長子。道宗。天福皇帝。天祐皇帝。査剌。劉洪基)、即位。〔『遼史』21〕
  8月16日 契丹、清寧と改元する。〔『遼史』21〕

清寧10(1064)年
 11月 3日 吏民の衣服の制を定める。〔『遼史』22〕

咸雍元(1065)年
  1月 1日 契丹、咸雍と改元する。〔『遼史』22〕

咸雍2(1066)年
    この歳 また、国号を改めて大遼と曰く。〔『契丹国史』9・『東都事略』123〕
          以前、国号の改変は改元とともに行なわれるはずとした自説を載せた。しかし、それを裏付ける史料はまったくないので、取り下げる。
           しかし、『宋会要輯稿』蕃夷2には次のようにある。
           「〔治平二(1065)年十二月〕是月、雄州言、得タク[さんずい・琢のつくり・丶【チュ】]州牒報、契丹国改為大遼国」
            これは来年から、ということか。         

咸雍4(1068)年
  7月 1日 生女直(女真)族の完顔部に阿骨打、生まれる。〔『金史』2〕

咸雍6(1070)年
    この歳 遼、ふたたび条制を更定する。〔『遼史』60〕

咸雍10(1074)年
 12月18日 遼、明年を改めて太康(大康)とする。〔『遼史』23〕
    この歳 生女直の烏古廼(阿骨打の祖父。景祖)、薨じる。年54。
        劾里鉢(烏古廼の次子。阿骨打の父。世祖)、生女直部節度使(太師)を継ぐ。〔『金史』1〕

太康3(1077)年
  5月26日 謀反が起こり、耶魯斡(涅鄰の長子。皇太子。順宗。大孝順聖皇帝。劉濬)が立てられる。〔『遼史』23〕
  6月 1日 耶魯斡、囚われ、杖される。〔『遼史』23〕
  6月 8日 耶魯斡、皇太子を廃され、庶人となり、上京に送られる。〔『遼史』23〕
 11月    耶魯斡、弑される。年20。〔『遼史』23〕

太康10(1084)年
 12月    遼、明年を改めて大安とする。〔『遼史』24〕

大安5(1089)年
 10月 9日 遼、ふたたび旧法(重煕の条制)を行なう。〔『遼史』25〕

大安7(1091)年
  9月14日 日本国(太宰権帥藤原伊房)、鄭元・鄭心および僧応範(明範)ら二十八人を遣わし、来貢する。〔『遼史』25〕

大安8(1092)年
  5月15日 生女直の劾里鉢、薨じる。年54。頗剌叔(烏古廼の第四子。肅宗)、継ぐ。〔『金史』1〕
  9月27日 日本国、使を遣わし来貢する。〔『遼史』25〕

大安10(1094)年
  2月25日 日本の太宰権帥藤原伊房、降位・停職される。
          〔『公卿補任』堀河天皇寛治八年(十二月十五日に嘉保元年と改元)。『百錬抄』5堀河天皇嘉保元年三月六日・五月二十五日〕
  8月    頗剌叔、薨じる。年52。盈歌(烏古廼の第五子。穆宗)、継ぐ。〔『金史』1〕
 12月18日 遼、明年を改めて寿昌とする。
        (『遼史』では寿隆。中華書局版『遼史』26の校勘記1により寿昌としておく。文淵閣四庫全書版『東都事略』123に、なぜか昌寿とある)
                                                                 〔『遼史』25〕

寿昌7・乾統元(1101)年
  1月13日 涅鄰、崩御。年70。〔『遼史』26〕
        阿果(涅鄰の孫、耶魯斡の長子。天祚皇帝。劉延禧)、即位。〔『遼史』27〕
  2月 1日 遼、乾統と改元する。〔『遼史』27〕

乾統2(1102)年
  4月20日 生女直の盈歌、高麗に使を遣わす。〔『高麗史』11〕
 11月26日 盈歌、高麗に使を遣わす。〔『高麗史』11〕

乾統3(1103)年
  2月    盈歌、高麗と通好する。〔『金史』1〕
  7月27日 盈歌、高麗に使を遣わす。〔『高麗史』12〕
 10月29日 盈歌、薨じる。年51。烏雅束(劾里鉢の長子。康宗)、継ぐ。〔『金史』1〕

乾統4(1104)年
  1月 6日 烏雅束、女直の別の部を攻める。

乾統7(1107)年
 12月15日 高麗、女直を攻める。〔『高麗史』12〕

乾統8(1108)年
  3月30日 高麗、女直の地に九城を築く。〔『高麗史』12〕

乾統9(1109)年
  7月 2日 高麗、女直に九城を返す。〔『高麗史』13〕

乾統10(1110)年
 12月15日 遼、明年の元を改めて天慶とする。〔『遼史』27〕

天慶3(1113)年
 10月以降  烏雅束、薨じる。年53。阿骨打(劾里鉢の次子。太祖)、継ぐ。〔『金史』2〕

天慶4(1114)年
  9月    阿骨打、挙兵する。〔『金史』2〕

遼:天慶5・金:収国元(1115)年
  1月 1日 阿骨打(漢姓名を王旻とする)、皇帝位に即く。国号を大金とし、収国と改元する。〔『金史』2〕 

遼:天慶6・金:収国2(1116)年
  1月    渤海人高永昌、東京(遼陽)で隆基元年を称する。〔『遼史』28〕
  5月    金、高永昌を殺す。東京、金に降る。〔『金史』2〕
 12月 1日 金、明年を改めて天輔元年とする。〔『金史』2〕

遼:天慶7・金:天輔元(1117)年
 12月    宋、金に使を遣わし、遼を夾攻することをはかる。〔『三朝北盟会編』3〕

遼:天慶9・金:天輔3(1119)年
  8月15日 金、女直大字を頒かつ。〔『金史』2〕

遼:天慶10・金:天輔4(1120)年
  5月15日 上京、金に降る。〔『金史』2〕

遼:保大元・金:天輔5(1121)年
  1月 1日 遼、保大と改元する。〔『遼史』27〕

遼:保大2・金:天輔6(1122)年
  1月13日 中京、金に降る。〔『金史』2〕
    この月 阿果、敖魯斡(阿果の長子。晋王)を誅す。〔『遼史』29〕
  3月 7日 阿果、蒙塵する。〔『遼史』29〕
  3月13日 西京、金に降る。〔『金史』2〕
  3月16日 西京、金に叛く。〔『金史』2〕
  3月17日 燕京(南京、いまの北京)の官僚・耶律大石(阿保機から八代の子孫。劉重徳)・奚王回離保(蕭翰。奚族は契丹族と異族同類)ら、
        耶律涅里(夷不菫の孫。宣宗。天錫皇帝。秦晋国王。燕王。劉淳)を皇帝に立て、建福と改元する。〔『遼史』29〕
  4月 3日 金、西京を取る。〔『金史』2〕
  6月24日 涅里、薨じる。年60。〔『遼史』29・『契丹国志』11〕
        普賢女(涅里の妻。蕭徳妃)、皇太后となり、耶律定(阿果の第五子。秦王)を立て、徳興と改元する。〔『遼史』29・『契丹国志』11〕
  6月    西夏、遼のために兵を出すも、金に敗れる。〔『金史』60〕
 12月 5日 普賢女・大石ら燕京を出る。阿骨打、燕京に入る(『三朝北盟会編』では6日)。〔『金史』2・『三朝北盟会編』12〕

遼:保大3・金:天輔7・天会元年(1123)年
  1月 3日 奚王回離保、大奚皇帝を称し、天復と改元する。〔『遼史』29〕
  2月 2日 阿果、普賢女を誅し、大石を赦す。〔『遼史』29〕
  4月 9日 大石、金に囚われる(『遼史』29では13日)。〔『金史』2〕
  5月 8日 雅里(阿果の次子、梁王)、自立する。〔『遼史』29〕
  5月 9日 回離保、殺される。〔『遼史』29〕
  5月17日 大石、阿骨打とあう。〔『金史』2〕
  6月13日 宋、高麗に使を遣わす。〔『高麗史』15〕
  8月28日 阿骨打、崩御。年56。〔『金史』2〕
  9月 6日 呉乞買(阿骨打の弟。太宗。王晟)、即位。〔『金史』3〕
  9月16日 金、天輔7年を改めて天会元年とする。〔『金史』3〕
    この月 大石、金を去り、阿果のもとに帰る。〔『遼史』29〕
 10月    雅里、薨じる。年30。朮烈(文殊奴の孫)が継ぐ。〔『遼史』29〕
 11月    金、選挙(科挙)を始める。〔『金史』51〕
        朮烈、弑される。〔『遼史』29〕
    この歳 西夏、金と講和する。〔『金史』60〕

遼:保大4・金:天会2(1124)年
  7月    大石、西に去る。〔『遼史』29〕

遼:保大5・金:天会3(1125)年
  2月20日 阿果、金に囚われる(遼滅亡)。〔『金史』3〕
    この月 大石、鎮州可敦城(モンゴルのオルコン河上流?)にて七州と十八部に会す。精兵万余を得て、官吏を置く。〔『遼史』30〕
        大石、西へ行き、ウイグルにとどまる。さらに大食へ。〔『遼史』30〕
        キルギズ、大石を拒む。〔『モンゴル帝国史』(佐口透訳注)第1巻332頁〕
  3月 9日 金、会寧(黒龍江省阿城県)を都とする。〔『金史』3〕
  5月 1日 高麗、金に使を遣わすも、高麗が臣と称しなかったため、金はその上表を納めず。〔『高麗史』15〕
 10月 7日 金、宋を攻める。〔『金史』3〕

金:天会4(1126)年
  1月 7日 金、宋の東京(河南省開封市)を囲む。〔『金史』3〕
  1月15日 宋、金に誓書・地図をさしだす。〔『金史』3〕
  1月17日 金、囲みを解く。〔『金史』3〕
  4月11日 高麗、金に使を遣わし、臣を称す(6月1日に至る)。〔『高麗史』15・『金史』3〕
 11月25日 金、ふたたび東京城下に至る。〔『金史』3〕
閏11月25日 金、東京を陥れる。〔『靖康要録』10〕
 12月 2日 宋の趙桓(欽宗)、金に降る(北宋滅亡)。〔『宋史』23〕

天会5(1127)年
  3月 7日 金、張邦昌(宋の宰相)を大楚皇帝に冊する。〔『金史』3〕
  4月 1日 金、趙桓および趙佶(趙桓の父。徽宗)らをつれて北へ帰る。〔『宋史』23〕
  4月11日 張邦昌、帰徳(河南省商丘市)に逃れる。〔『建炎以来繋年要録』4〕
  5月 1日 宋の康王趙構(高宗)、帰徳で即位する(南宋建国)。〔『宋史』24〕

 このころ(1127〜1128)、大石、カシガル(新疆維吾爾自治区喀什市)軍に勝つ。
                           〔『羽田博士史学論文集 歴史篇』「西遼建国の始末及び其の年紀」449頁〕
                 キルギズに復讐する。〔『モンゴル帝国史』(佐口透訳注)第1巻332頁〕 
      
天会8(1130)年
  9月 9日 金、劉予を大斉皇帝に冊する。〔『金史』3〕

天会9(1131)年
  9月16日 ウイグル、大石の党をとらえ、金に献じる。〔『金史』3〕
        (こののち?)大石、ビシ=バリク(新疆維吾爾自治区烏魯木斉の北)を占領する(ウイグルを従える?)。
                                〔『モンゴル帝国史』(佐口透訳注)第1巻332頁〕

金:天会10・西遼:延慶元(1132)年
  2月 5日 大石、アフラーシヤーブの子孫とされるバラーサーグーンの王=大食国王?に代わり、即位する(徳宗。天祐皇帝。グル=カン)。
        年38。延慶と改元する(西遼建国)。〔『遼史』30・『モンゴル帝国史』(佐口透訳注)第1巻332頁〕

金:天会12・西遼:延慶3・康国元(1134)年
    この歳 西遼、バラーサーグーンの近く?に都を建て、虎思斡耳朶と号す。康国と改元。〔『遼史』30〕

金:天会13・西遼:康国2(1135)年
  1月24日 呉乞買、崩御。年61。〔『金史』3〕
    25日 合剌(阿骨打の孫。煕宗。王亶)、即位。〔『金史』4〕

金:天会15・西遼:康国4(1137)年
 (5〜6月) 西遼、コジャンド(いまタジキスタンにある)でサマルカンド(いまウズベキスタンにある。当時はセミスケント)軍に勝つ。
                      〔『アジア遊牧民族史』第1章13世紀の高アジア、261頁。5〜6月は西暦と思われる〕
         大石以下の内容は『遼史』のほか、『モンゴル帝国史』『アジア遊牧民族史』「西遼建国の始末及び其の年紀」などによる。
          もとの史料(ジュワイニーやアシールのものなど)、または研究書(バルトリドのものなど)を参照できなかった。
 11月17日 金、劉予を廃する。〔『金史』4〕
 12月26日 金、明年を改めて天眷元年とする。〔『金史』4〕

金:天眷元・西遼:康国5(1138)年
  1月 1日 金、女直小字を頒かつ。〔『金史』4〕
  8月 1日 金、官制を頒かち行なう。〔『金史』4〕
  8月26日 金、会寧を上京とし、遼の上京を北京とする。河南の地を宋に賜う。〔『金史』4〕

金:天眷3・西遼:康国7(1140)年
 12月 5日 金、ふたたび宋を攻める。〔『金史』4〕

金:天眷4・皇統元・西遼:康国8(1141)年
  8月 8日 (太陽暦の9月9日)西遼、カトワーン(サマルカンドの北?)でセルジューク軍に勝つ。〔『アジア遊牧民族史』261頁〕
        クワーラズム(アム河下流域)、西遼に降る。〔『モンゴル帝国史』(佐口透訳注)第1巻332頁〕
  1月13日 金、皇統と改元する。〔『金史』4〕
  9月    金、宋と淮水を界とする。〔『金史』60〕

金:皇統2・西遼:康国9(1142)年
  2月27日 宋の使が来、銀・絹二十五万両匹を歳幣とすること、淮を画して界とすることを、世世子孫、永守誓言する。〔『金史』4〕
  3月23日 金、宋康王を冊して宋帝とする。〔『金史』4〕

金:皇統3・西遼:康国10(1143)年
    この歳 大石、崩御。年49? 皇后の塔不煙(感天皇后)、摂政。咸清と改元。〔『遼史』30〕
    このあとの西遼の改元時期はよくわからない。

金:皇統5(1145)年
  5月13日 金、御製小字(女直小字)を初めて用いる。〔『金史』4〕
  7月    皇統新律(皇統制)を頒かつ。〔『大金国志』12〕

皇統6(1146)年
  8月    朦骨(モンゴル)の熬羅孛極烈、祖元皇帝と自称し、天興と改元する。〔『大金国史』12〕

皇統7(1147)年
 12月    金、朦骨を平らげる。〔『大金国史』12〕

皇統9、天徳元(1149)年
 12月 9日 合剌、弑される。年31。迪古乃(合剌の従弟。海陵庶人。王亮)即位。〔『金史』4〕
 12月11日 金、天徳と改元する。〔『金史』5〕

天徳2(1150)年
  4月12日 迪古乃、使を遣わし宗室など156人以上を殺させる。〔『金史』5〕
  この歳の冬 諸路の民夫を発し、燕京城を築く。〔『大金国志』13〕
    この歳 北京路を臨コウ[さんずい・黄]府路に改める。〔『金史』24〕
    
天徳3(1151)年
  3月21日 金、燕城を広げ、真定府の潭園材木を取り、宮室および涼位十六を営み建てる。〔『金史』5・24〕
  4月 5日 金、燕京(いまの北京)に遷都する。〔『金史』5〕
  この歳か? 西遼の夷列(大石の子。仁宗)、即位(親政?)。塔不煙、在位7年。紹興と改元。〔『遼史』30〕 

天徳5、貞元元(1153)年
  3月26日 金、燕京を中都、開封を南京、中京を北京とする。貞元と改元する。〔『金史』5〕

貞元4、正隆元(1156)年
  2月 1日 金、正隆と改元する。〔『金史』5〕

正隆6、大定元(1161)年
  7月18日 金の迪古乃、遼の耶律氏と宋の趙氏の男子百三十余人を殺す。〔『金史』5〕
  9月    迪古乃、宋を攻める。〔『金史』5〕
 10月 7日 烏禄(迪古乃の従弟。世宗。王雍)即位。〔『金史』6〕
 10月 8日 烏禄、大定と改元する。〔『金史』6〕
 11月27日 迪古乃、弑される。年40。〔『金史』5〕
 12月 1日 移剌(耶律)窩斡、臨コウ[さんずい・黄]で皇帝を称し、天正と改元する。〔『金史』133〕

大定2(1162)年
  9月 7日 窩斡、囚われる。〔『金史』6〕

大定3(1163)年
  この歳か? 西遼の夷列、崩御。在位13年。普速完(夷列の妹)、称制する。崇福と改元。〔『遼史』30〕

大定4(1164)年
 11月    金、宋と講和する。〔『金史』61〕

大定5(1165)年
        西遼、バルク(バルフ。いまアフガニスタン北部にある)を攻める。〔『アジア遊牧民族史』262頁〕

大定12(1172)年
 (12月)  西遼、クワーラズムの後継者争いに介入。〔『アジア遊牧民族史』263頁〕

大定17(1177)年
  この歳か? 西遼の普速完、弑される。在位14年。直魯古(夷列の次子)、即位。天禧と改元。〔『遼史』30〕

大定22(1182)年
  3月23日 金、重修制条を頒かつ。〔『金史』8〕

大定29(1189)年
  1月 2日 金の烏禄、崩御。年67。〔『金史』8〕
        麻達葛(烏禄の孫。章宗。王m)即位。〔『金史』9〕

明昌元(1190)年
  1月 1日 金、明昌と改元する。〔『金史』9〕

明昌7、承安元(1196)年
 10月23日 金、承安と改元する。〔『金史』10〕
    この月 契丹人徳寿、信州(遼寧省鉄領県)で自立し身聖と建元する。〔『金史』94〕
 11月15日 金、徳寿を攻める。〔『金史』10〕

承安5(1200)年
 12月 1日 金、明年を改めて泰和元年とする。〔『金史』11〕

泰和元(1201)年
 12月25日 金、新定律令・勅条格式を頒かつ。〔『金史』11〕

泰和4(1204)年
 (9〜10月)西遼、アンドコド(アンドフィ。アフガニスタン北部)でグール(ゴール。アフガニスタンの王朝)軍に勝つ。〔『アジア遊牧民族史』265頁〕

泰和5(1205)年
  1月 2日 宋、兵を起こす。〔『金史』62〕
  5月 8日 金、宋に備える。〔『金史』12〕

泰和6(1206)年
  5月11日 金、宋を攻める。〔『金史』12〕
    この歳 テムジン(太祖。成吉思可汗)、即位。〔『元史』1〕

泰和7(1207)年
  この歳の冬 キルギズ、モンゴルに従う。〔『聖武親征録』〕

泰和8(1208)年
 閏4月26日 金、宋と講和する。〔『金史』12〕
 11月20日 麻達葛、崩御。年41。〔『金史』12〕
        興勝(烏禄の第七子。衛の紹王。王允済)即位。〔『金史』13〕

 このころ(1208〜1209)、クワーラズム、西遼に叛くも敗れる。〔『モンゴル帝国史』(佐口透訳注)第1巻157頁〕

泰和9、大安元(1209)年
  1月28日 金、大安と改元する。〔『金史』13〕
    この歳 ウイグル、西遼に叛き、モンゴルに従う。〔『元史』1〕

 このころ(1209〜1210)、クワーラズム、西遼に叛く。〔『モンゴル帝国史』(佐口透訳注)第1巻157頁〕

大安3(1211)年
  4月    モンゴル、金を攻める。〔『金史』13〕
  9月    モンゴル、中都に至る。〔『金史』13〕
    この歳 西遼の直魯古、モンゴルに追われたナイマン(乃蛮。アルタイ山脈あたりにいた)のグチュルク(屈出律)に位を奪われる。
        在位34年(西遼滅亡)。〔『遼史』30・『モンゴル帝国史』(佐口透訳注)第1巻146頁〕

崇慶元(1212)年
  1月 1日 崇慶と改元する。〔『金史』13〕
 12月12日 東京(遼陽)、モンゴルに降る。〔『元史』1〕
    この歳 クワーラズム、サマルカンドを陥れ、ここを都とする。〔『モンゴル帝国史』(佐口透訳注)第1巻158頁・159頁注6〕

崇慶2・至寧元・貞祐元(1213)年
  2月    至寧と改元する。〔『金史』13〕
  3月    耶律留哥、遼東に拠って国号を遼、元統と改元する。〔『元史』1・149〕
  7月    西京、モンゴルに降る?〔『元史』1〕
  8月 4日 興勝、弑される。年43以上。〔『金史』13〕
  8月 7日 吾睹補(麻達葛の庶兄。宣宗。王従嘉。王c)即位。〔『金史』14〕
  9月15日 貞祐と改元する。〔『金史』14〕
    この歳 西遼の直魯古、崩御。〔『モンゴル帝国史』(佐口透訳注)第1巻146頁〕

貞祐2(1214)年
  1月    中都、モンゴル軍に囲まれる。〔『金史』14〕
  4月    金、モンゴルと講和する。〔『金史』14〕
  5月18日 吾睹補、中都を発する。〔『金史』14〕
  7月    吾睹補、南京開封府(河南省開封市)に至る。〔『金史』14〕
 12月21日 山東において天順と改元した紅襖賊の楊安児なるものが水死する。〔『金史』102〕
 12月25日 西夏、金を攻める。〔『金史』14〕

貞祐3(1215)年
  1月17日 北京(内蒙古自治区寧城県)、モンゴルに降る。〔『金史』14〕
  4月    張致、錦州(遼寧省錦県)で漢興皇帝を称し、興龍と改元する。〔『元史』1〕
  5月22日 中都、モンゴルに降る。〔『金史』14〕
 10月    蒲鮮万奴、遼東で天王を称し、国号を大真として、天泰と改元する。〔『金史』14・『元史』1〕
 11月    耶律留哥、モンゴルに入朝する。〔『元史』1〕

貞祐4(1216)年
  この歳の春 カク[おおざと・赤]定なるもの、山東で大漢皇帝を称す。〔『金史』108〕
  7月 2日 カク定、誅に伏す。〔『金史』14〕
  8月14日 契丹人の金山、高麗を攻める。〔『高麗史』22〕
 10月    万奴、東夏を称する。〔『元史』1〕
    この歳 張致、モンゴルに討たれる。〔『元史』1〕

貞祐5・興定元(1217)年
  9月 8日 興定と改元する。〔『金史』15〕
 12月 5日 日本国大宰府民七十二人を乗せた船が即墨(山東省)に漂着。金、食糧を供給して本国に還す。〔『金史』15〕

興定5(1218)年
    この歳 モンゴル、屈出律を攻め、これに勝つ。〔『聖武親征録』〕
           『新元史』巻3では太祖13(1218)年の1月か2月の事となっている。その根拠はわからない。
        キルギズ、モンゴルに叛く。モンゴル、これを降す。〔『聖武親征録』〕
 12月 1日 モンゴル、契丹人金山を追って、高麗に入る。〔『高麗史』22〕
 12月16日 宋と講和ならず。〔『金史』15〕

興定6(1219)年
  1月23日 モンゴル、高麗に使を遣わす。〔『高麗史』22〕

興定8(1221)年
  2月21日 (太陽暦3月17日)モンゴル、サマルカンドを陥れる(クワーラズム崩壊)。〔『モンゴル帝国史』(佐口透訳注)第1巻207頁〕

興定9・元光元(1222)年
  8月 9日 元光と改元する。〔『金史』16〕

元光2(1223)年
 12月22日 吾睹補、崩御。年61。〔『金史』16〕
    23日 寧甲速(吾睹補の第三子。哀宗。守緒)、即位。〔『金史』17〕

正大元(1224)年
  1月 1日 正大と改元する。〔『金史』17〕
 10月25日 金、西夏と講和する。〔『金史』17〕

正大2(1225)年
  1月22日 高麗へのモンゴルの使、還る中途で盗賊に殺される。〔『高麗史』22〕

正大4(1227)年
  6月    モンゴル、西夏を滅ぼす。〔『元史』1〕
  7月12日 テムジン、崩御。〔『元史』1〕

正大6(1229)年
  8月24日 モンゴル、オゴデイ(テムジンの第三子。太宗)、即位。〔『元史』2〕

正大8(1231)年
  8月29日 モンゴル、高麗を攻める。〔『高麗史』22〕
 11月29日 モンゴル、開京に至る。〔『高麗史』22〕
 12月 1日 モンゴル、高麗と講和する。〔『高麗史』22〕
    この歳 宋、金を夾攻することをモンゴルと約す。〔『宋季三朝政要』1〕

正大9・開興元・天興元(1232)年
  1月11日 モンゴル、高麗から還る。
  1月19日 金、開興と改元する。〔『金史』17〕
  3月21日 モンゴル、開封を攻める。〔『金史』17〕
  4月 7日 金、モンゴルと講和する。〔『金史』17〕
  4月14日 金、天興と改元する。〔『金史』17〕
 12月25日 寧甲速、開封を発する。〔『金史』18〕

天興2(1233)年
  1月16日 寧甲速、帰徳(河南省商丘市)に至る。〔『金史』18〕
  1月23日 開封で兵士が反乱を起こし、モンゴルに降る。〔『金史』18〕
  4月15日 開封にいた完顔氏五百余人、モンゴルに殺される。〔『金史』18〕
  6月18日 寧甲速、帰徳を発する。〔『金史』18〕
  6月26日 寧甲速、蔡州(河南省汝南県)に入る。〔『金史』18〕
           寧甲速の蔡州入りは、『汝南遺事』巻1と『大金国史』巻26において25日となっている。
  9月 9日 モンゴル、蔡州城下に至る。〔『金史』18〕
    この月 蒲鮮万奴、モンゴルに囚われる。〔『元史』2〕
 11月 1日 宋軍、モンゴルを助け、蔡州を攻める。〔『金史』18〕

天興3(1234)年
  1月10日 宋・モンゴルの総攻撃。寧甲速、自経する。年37。宗室の呼敦(世祖の子孫、末帝、後主、王承麟)、即位する。
        同日、呼敦はモンゴルに囚われ弑されたという。年不明(金滅亡)。〔『金史』18〕


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