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        【 源平争乱期年譜 889〜942年】


寛平元(889)年
  この頃   高望王、臣籍降下し「上総介」として関東へ下向。



延長6(928)年
  6月 9日 小野好古、大蔵少輔に就任。〔『公卿補任』〕
  6月18日 陰陽助氏守、護田鳥(「女鳥」)が紫宸殿の南庭に集結したことに関して占うことを命じらる。
       その占は「御薬事」が焼失する兆しと判断される。〔『扶桑略記』〕
 閏8月29日 「神泉鹿」を「北山」に放つことになったが、神泉苑を出なかった。〔『扶桑略記』〕
  9月 4日 「勅」により、比叡山延暦寺に献上する「白鹿」2頭が神泉苑に放たれる。〔『扶桑略記』〕



延長7(929)年
  2月16日 高明親王等、殿上において元服。〔『新儀式』『一代要記』『河海抄』〕
  4月25日 この夜、宮中において「鬼跡」が発見され、「大牛跡」に似ていたという。また「北陣衛士」が「大熊」13頭が侵入したの
       を目撃。この他、宮中に怪異が多発した。〔『扶桑略記』〕
  5月20日 下野国、藤原秀郷らの「濫行」糾弾を奏上。〔『扶桑略記』〕
  9月19日 朝廷、「検非違使」をして法により誣告人を反坐に処す。〔『政事要略』〕



延長8(930)年
  2月13日 京中病者救済のため「左右京職」官人が「坊令」等を率いて京中毎条の巡検を行い、「検非違使」らの病者収容を容認する。
       また収容者の食法に関しては、成人の男女に米1升・塩1勺・滓醤1合を、小児男女に米6合・塩5撮・滓醤5勺を与えること、
       但し米は「義倉料」を、塩・滓醤は「大膳職」より配給。
       鋪設は「掃部寮」が行い、衣服・古幔は「大蔵省」より配給することが決定される。〔『政事要略』〕
  2月14日 疫病が流行により路頭に愁苦している病人が多数発生。
      「検非違使」及び「左右」京職は、病人を「施薬院」・「悲田院」・「曲殿」・「有便宜所」に収容する。〔『扶桑略記』〕
  2月28日 「兵庫」で怪音が発生。〔『扶桑略記』〕
  3月 8日 2月28日の「兵庫」における怪音に関して「御占」を行ったところ、申酉戌亥の方角の国々に「兵革」が発生する兆候であ
       った。〔『扶桑略記』〕
  5月24日 太陽が「虹色」の光を発すという異変あり。〔『扶桑略記』〕
  6月 8日 不吉な「大雪」が降る。〔『吾妻鏡』吉川本〕
  6月 9日 大極殿内の梁上に鳥怪(鷺が止まったこと)が発生。
       「寮(陰陽寮)」で占うと「子午辰戌年」に公卿の中に病者が発生する兆候だという。 〔『扶桑略記』〕
  6月12日 「紫宸殿」巽角と「太政官東庁」の坤角に「虹」が立つ。
       「寮(陰陽寮)」に占わせたところ、西方に「兵革」と失火が発生する兆候という。〔『扶桑略記』〕
  6月15日 月食が観察される。〔『扶桑略記』『本朝統暦』〕
  6月23日 東京一条以下から六条以上の範囲において「失火」という。巡検によって事実無根の「夭言」であったことを確認。
       〔『扶桑略記』〕
  6月25日 右近衛の陣において怪異が発生。〔『古今著聞集』〕
  6月26日 清涼殿に落雷。
       藤原清貫が衣服を焼損し胸を裂かれ死亡し「陽明門」から搬出。平希世は顔面を焼損・死亡し「修明門」から搬出される。
       他に是茂朝臣が弓を持って立ち向かったが忽ち蹴殺され、美努忠包が頭部を焼損し死亡。
       紀蔭連は腹部を、安曇宗仁は膝を雷に打たれ死亡。
       また、清涼殿南簷において右近衛茂景が雷に打たれ死亡。
       これ以降、醍醐天皇は不予となる。〔『日本紀略』『扶桑略記』『九条殿遺誡』『體源抄』〕
  6月26日 清涼殿において藤原清貫・平希世と近衛2名が焼死。
       醍醐天皇は常寧殿へ還御し、尊意(「天台座主」)に加持祈祷を執行。
       醍醐天皇の夢に「不動明王」が出現して「聖体」に加持祈祷を行い、「陀羅尼」が聞こえてきたという。この実体は尊意
       (「天台座主」)であったという。
       醍醐天皇、夢の内容を藤原忠平に告げ、尊意(「天台座主」)は凡人ではないと言ったという。〔『扶桑略記』〕
  6月29日 貞崇法師、勅により清涼殿において「念仏」を行い、「大般若」経を読経、「邪気」を調伏す。
       また、貞崇法師は「稲荷」の神が醍醐天皇に対して「大般若」経の御読経を勧告した旨を奏上する。〔『古今著聞集』〕
  この夏   「客星」出現。〔『一代要記』『明月記』〕
  7月 2日 醍醐天皇、落雷による清涼殿の損傷のため「常寧殿」に遷御。「穀倉院饗」が行われる。
       〔『日本紀略』『西宮記』『吾妻鏡』〕
  7月 3日 「朱雀院饗」が行われる。〔『西宮記』〕
  7月 4日 「内蔵饗」が行われる。〔『西宮記』〕
  7月 5日 雷鳴轟く。〔『扶桑略記』〕
  7月 5日 下野長用(右近衛)、「殷富門」において黒い装束に太刀を佩き、白い笏を持った妖怪に遭遇。衛門陣に鬼神及び鬼火が出現。
       〔『古今著聞集』〕
  7月 8日 昼に「月」が見える。〔『扶桑略記』〕
  7月15日 「流星」が「艮方」に見える。世間はこれを「人魂」と噂した。〔『扶桑略記』『古今著聞集』〕
  7月15日 醍醐天皇、「咳病」を発す。〔『日本紀略』〕
  7月20日 風雨と「雷鳴」が激しく、龍尾道高欄が転倒。〔『扶桑略記』〕
  7月20日 黒雲が龍尾道高欄を覆い、この中に「大蛇」が見えたが、この「大蛇」が高欄より落ちそうになり高欄を破損。
       しかし「大蛇」は発見できず。〔『古今著聞集』〕
  7月21日 「常寧殿」において天台宗阿闍梨5名が「五壇修法」を執行。〔『日本紀略』〕
  7月21日 醍醐天皇の不予により、「延暦寺」において白檀「五大尊」像の造作を依頼。〔『扶桑略記』〕
  8月 9日 醍醐天皇の不予により「度者」500人を給す。〔『扶桑略記』〕
  8月11日 醍醐天皇の不予により諸社に「奉幣使」が派遣。〔『扶桑略記』〕
  8月12日 「鳩」が弁官西戸の梁上に群集したため、陰陽寮の「寮占」を行ったところ、凶という結果であった。〔『扶桑略記』〕
  8月13日 中宮穏子及び東宮寛明親王、「宣耀殿」に遷御。〔『日本紀略』〕
  8月17日 7月からの「穢」が延引しているため広瀬龍田祭が追行される。〔『西宮記』『扶桑略記』〕
  8月19日 醍醐天皇の不予により、息災祈願のため「度者」1000人を給す。〔『日本紀略』〕
  8月19日 大和国信貴山の命蓮聖人、醍醐天皇病状回復の加持祈祷を行う。〔『扶桑略記』『山槐記』〕
  8月21日 醍醐天皇の不予により僧侶23人に御修法を行わせる。〔『扶桑略記』〕
  8月25日 藤原定方、比叡山延暦寺(「天台山」)に醍醐天皇平癒祈祷のため「金剛般若経」100巻の読経を行わせる。
       〔『日本紀略』〕
  9月16日 鳥の怪異を「陰陽寮」に占わせたところ、凶という結果であった。〔『扶桑略記』〕
  9月22日 「麗景殿」において醍醐天皇、「宣耀殿」の寛明親王へ皇位を譲る。
       〔『日本紀略』『醍醐寺雑事記』『西宮記』『扶桑略記』〕
  9月29日 醍醐天皇の病大漸により天下に「大赦」する。〔『日本紀略』『醍醐寺雑事記』〕
  9月29日 宇多法皇、右近衛府に御幸。〔『日本紀略』〕
  9月29日 醍醐天皇、崩御。〔『日本紀略』『慶延記』『醍醐寺雑事記』『西宮記』『政事要略』『扶桑略記』〕



延長9・承平元(931)年
  1月21日 源公忠、「海賊」に関する文書を奏上。〔『貞信公記抄』〕
  1月28日 御所の乾方で4・5度「雷鳴」が発生。〔『日本紀略』『扶桑略記』〕
  2月 6日 「大炊寮」において犬に喰われた小児の死体が発見。
       これに伴い寮外の御稲を供御として大祓を行う。〔『日本紀略』『貞信公記抄』『左経記』『樗嚢抄』〕
  2月 8日 左右「近衛」府・左右「衛門」府・「検非違使」、京中に「群盗」が満ちているということで夜警命令を受ける。
       〔『扶桑略記』〕
  2月13日 「雷鳴」・「氷雨」及び烈風が「修明門」前の樹木に起こる。
       これは修明門陣座から「雷公(菅原道真)」が侵入したとの風聞あり。
       またこの日、穢れにより「園・韓神祭」を延引する。〔『日本紀略』『貞信公記抄』『新儀式』『扶桑略記』〕
  2月18日 「大極殿」において「鷺」の怪異が発生したため、「七寺」に息災祈願の誦経を命令。〔『貞信公記抄』〕
  4月 5日 源公忠、「雑宣旨」を受ける。また藤原恒佐が「奉行」し「検非違使」が補任される。〔『貞信公記抄』〕
  4月10日 「内蔵寮」の井戸中から死体が発見される。〔『貞信公記抄』〕
  4月11日 禁中における触穢を「神祇官」に命令し「陰陽寮」に占わせたが穢は無いという結果であった。
       しかし藤原忠平、この結果には疑わしき点があると判断。〔『貞信公記抄』〕
  4月12日 皇大神宮(「伊勢正殿」)が開かないため「御卜」を実施。〔『貞信公記抄』〕
  4月13日 大江朝綱、「改元」詔書及び年号制定の命令を受ける。〔『貞信公記抄』〕
  4月14日 「官寮」を召集し占術を行わせたところ、「神宝」を奉納した3月26日に触穢があったため、皇大神宮(「伊勢正殿」)
       が開かないということであった。〔『扶桑略記』〕
  4月14日 大江維時、「改元」に関して召集を受ける。〔『貞信公記抄』〕
  4月26日 「承平」と改元。 〔『日本紀略』『改元部類』『元秘別録』『扶桑略記』〕
  5月19日 藤原定方邸で「殤胎穢」が発生。〔『貞信公記抄』〕
  5月20日 藤原忠平、随身兵杖を下賜される。〔『公卿補任』〕
 閏5月 7日 「霖雨」のため官寮に御卜を命令。〔『扶桑略記』〕
 閏5月 7日 源公忠、「霖雨」により諸人の愁いが多い旨を奏上。これを受けて「祟」りであるかを占わせると、艮坤方の神社に「穢」を
       為す者があるというので、「検非違使」を派遣し実検を命令する。〔『貞信公記抄』〕
 閏5月10日 藤原忠平、先日の検非違使派遣の報告に接す。「比叡」社近辺に死体があったという。〔『貞信公記抄』〕
 閏5月11日 小野好古、「昇殿」を許可される。〔『公卿補任』〕
  6月 4日 「承明門」の艮角に「虹」が立ったので、京辺七社に誦経を命じ無事を祈念させる。〔『日本紀略』『貞信公記抄』〕
  6月12日 白「虹」の怪奇現象という「天文」上の異変が生じ、禳災祈雨の為に奉幣使が発遣される。藤原仲平、「宣陽殿」の板敷きの
       床が怪音を発す旨を報告。〔『貞信公記抄』〕
  6月12日 「衣冠」着用の「鬼」が「弘徽殿」に出現。
       また、「八省院」と「中務省」の間に人馬の大騒音が確認され、これも怪奇現象と認識される。〔『古今著聞集』〕
  6月20日 鏡の如き「円霊」が出現。〔『日本紀略』〕
  6月23日 「承明門」の艮角と太政官正庁に「虹」が立つ。〔『日本紀略』〕
  6月23日 「長楽門」の内側に「虹」が立つ。〔『貞信公記抄』〕
  6月23日 「承明門」の艮角と太政官正庁に「虹」が立ち、陰陽寮の占いでは怪異・凶事であるということであった。〔『扶桑略記』〕
  7月 3日 「大宰府」警固所に「鷺」が集結した事件を占うと、西方に「兵賊」が発生するという結果であった。〔『日本紀略』〕
  7月 7日 「月」が「心星」を犯す。〔『貞信公記抄』〕
  7月 9日 藤原忠平、「天変」が続発しているので10箇寺に「内御読経」を修法させる。〔『貞信公記抄』〕
  7月15日 「牛」が「外記庁」に侵入する怪異が発生。〔『貞信公記抄』〕
  9月11日 「雷鳴」が発生。また、「虹」が左近陣の桜樹下に立つ。〔『貞信公記抄』〕
  9月12日 10日より犬の産穢のために延引していた伊勢神宮への例幣を発遣。
       更に「物怪」の影響のため臨時の奉幣使を派遣。〔『貞信公記抄』〕
  9月25日 「鳥」の怪異により御卜が行われる。〔『貞信公記抄』〕
 10月16日 「雉」の宮中侵入により御占が行われる。〔『貞信公記抄』〕
 11月 1日 「日蝕」により「廃務」。〔『日本紀略』『貞信公記抄』『本朝統暦』〕
 11月 3日 日蝕のための「御物忌」により「御暦」奏上は延期となる。〔『貞信公記抄』『年中行事抄』『樗嚢抄』〕
 11月13日 「日蝕」のための「廃務」により延引されていた「平野祭」及び「春日祭」が追行される。〔『年中行事抄』〕
 12月 2日 「群盗」横行により山城国に淀・山崎などの5道警衛命令が発せらる。〔『貞信公記抄』〕
 12月12日 「検非違使」及び諸衛官人・舎人ら、故藤原菅根邸に籠もった「群盗」を捕縛し獄に下す。〔『貞信公記抄』〕
 12月13日 前日「群盗」を捕縛した諸衛官人・舎人ら、「禄状」を下賜される。〔『貞信公記抄』〕
    この年 平将門、平良兼と「女論」によって対立。〔『将門略記』〕



承平2(932)年
  1月 3日 大神宮に奉幣。伊勢斎宮雅子内親王が卜定を告ぐ。〔『日本紀略』〕
  1月29日 「陰陽寮」、承明門前まで「鹿」が進入してきたことを占う。結果は怪異ではないとの判断であった。
       この鹿は別所において射殺される。〔『貞信公記抄』『扶桑略記』〕
  4月 9日 藤原保忠(「八条大納言」)、疫病により「賑給使」・「奉幣諸社使」を制定。〔『貞信公記抄』〕
  4月12日 「賑給使」、京中を巡回。〔『貞信公記抄』〕
  4月13日 疫病を払うため「奉幣諸社使」が派遣。〔『貞信公記抄』『扶桑略記』〕
  4月14日 「月蝕」が観測される。〔『貞信公記抄』『本朝統暦』〕
  4月26日 藤原忠平、疫気を払うため諸寺への読経を定める。〔『貞信公記抄』〕
  4月28日 藤原忠平、諸寺読経「宣旨」を見る。〔『貞信公記抄』〕
  4月28日 藤原忠平、「追捕海賊使」を定める。〔『貞信公記抄』〕
  5月 1日 「日蝕」により廃務。〔『日本紀略』『貞信公記抄』『本朝統暦』〕
  5月23日 「牛」が正庁に進入した怪異により「御卜」を行う。〔『扶桑略記』〕
  5月25日 「鼠」が印盤の丹綿を食い破った怪異とこの月23日の怪異により「御卜」を行う。〔『扶桑略記』〕
  6月 3日 「狐」が「侍従所」へ進入。〔『扶桑略記』〕
  6月15日 大中臣奥生、伊勢大神宮月次祭の奉幣として「離宮院」に到着。
       入夜に随身が変死し、明旦まで発見されず。この「穢」のため式日参宮を延期する。〔『伊勢公卿勅使雑例』〕
  6月16日 「祈雨幣使」を派遣。〔『貞信公記抄』〕
  6月22日 大中臣奥生、伊勢大神宮月次祭で「官幣」を奉納。〔『伊勢公卿勅使雑例』〕
  7月14日 「滝口武士」の腰袒「相撲」が行われる。〔『日本紀略』〕
  7月14日 「近臣」による「踏歌」が行われる。〔『日本紀略』〕
  7月16日 内裏において「属星祭」が行われる。〔『貞信公記抄』〕
  7月23日 「祈年穀御幣使」が派遣される。〔『貞信公記抄』〕
  7月28日 「相撲」召合が行われる。〔『日本紀略』『貞信公記抄』〕
  7月29日 「追相撲」が行われる。〔『日本紀略』『西宮記』〕
  7月29日 朱雀天皇、還殿後に親王・公卿を召集し禄を下賜。〔『貞信公記抄』〕
  8月11日 内裏において死穢が発生。〔『貞信公記抄』〕
  8月13日 藤原仲平、相撲饗を行う。〔『貞信公記抄』〕
  8月24日 菅原在躬(「式部大丞」)、方略試の博士に就任する。〔『貞信公記抄』『類聚符宣抄』〕
  8月25日 兵庫寮の倉、転倒する。〔『扶桑略記』〕
  9月 3日 「穢」により御燈を停止する。〔『小右記』〕
  9月10日 「穢」により伊勢例幣を延期し吉日を選ぶ。〔『貞信公記抄』〕
  9月11日 伊勢例幣の延期のため「大祓」を行う。〔『貞信公記抄』〕
  9月20日 伊勢例幣、発遣す。〔『貞信公記抄』〕
  9月26日 鳥が「時杭」を喫抜く怪異が発生。〔『貞信公記抄』〕
  9月28日 鳥が「時杭」を咋い抜き去る怪異が発生。〔『貞信公記抄』〕
  9月  中 大蔵省内において水汲の女が井戸に落ちて溺死したが、大蔵省はこれを穢となさず。〔『本朝世紀』〕
 12月16日 備前国、朝廷へ「海賊」の事を奏上。〔『貞信公記抄』〕



承平3(933)年
  1月20日 坂上経行(「左大史」)、夕方に皇嘉門前において「群盗」に襲撃され、単衣のみの姿にされる。〔『日本紀略』〕
  1月23日 京中において「群盗」が横行しているため、諸衛に結番夜行を行わせる。〔『扶桑略記』〕
  1月23日 群盗の横行のため、左右衛門府・兵衛府・馬寮に結番夜行させていたが、陽明門内の近衛陣直であった大沢有春が同近衛府の
       小槻滋連に酒殿北辺において斬り付けられる。大沢有春は瀕死の重傷となる。〔『日本紀略』〕
  5月27日 藤原実頼(「参議従四位上」「讃岐守」)、「右衛門督」を兼任することになり、更に「検非違使」の別当に補任される。
       〔『公卿補任』『西宮記』〕
  6月 3日 「諸陵寮」、焼失す。〔『日本紀略』『扶桑略記』〕
  7月11日 紫宸殿南殿版位の占いによると「犬」が「矢」を遺す怪異が発生したため、朝廷は兵乱・賊盗の横行を取り締まる目的で
       東海・山陽・丹波国・大宰府などに明神への祈年および警固を厳重にするよう官符を発す。〔『扶桑略記』『西宮記』〕
  7月13日 右近陣火が炬屋・春興校書殿に飛び火する。陰陽寮の「占」によると乾坤の方角において「兵革」の兆しありということで、
       朝廷は山陰・山陽・大宰府へ官符を発す。〔『扶桑略記』〕
 12月17日 南海諸国において「海賊」が未に追捕されていないため、諸国へ「警固使」が発遣される。〔『扶桑略記』〕
 12月28日 諸衛舎人が徒党を為し人家を破壊、財物を掠奪するなど濫行が顕著となったため違反者は「強盗」に準じる扱いとし、これを
       禁ず。〔『法曹至要抄』〕



承平4(934)年
 閏1月 8日 嶋田公塩、藤原保忠に近日外記2名に「触死穢」や身病などで障があるため外記代を設置を奏上するよう指示される。〔『類聚符宣抄』〕
 閏1月15日 陸奥国国分寺、「雷火」で焼損する。〔『日本紀略』〕
 閏1月15日 巳刻に空中で2度「雷」に似た声が聞こえる。〔『扶桑略記』〕
  2月 5日 太政官正庁の梁上に「鳥」が巣を作る。〔『扶桑略記』〕
  3月11日 山城国、朝廷へ鶏雛を献上。この鶏雛は1つの頸の下が2つに分かれ、翼が4枚、足が4本、2本の尾という容姿であった。
       〔『扶桑略記』〕
  4月23日 朝廷、諸社に奉幣して「海賊」を祓う。〔『扶桑略記』〕
  5月 9日 詔によって奉幣使が山陽・南海道の諸神へ発遣され「海賊」平定を祈願する。〔『日本紀略』〕
  5月 9日 「海賊」平定のため、山陽・南海道の10ヶ国18所諸神へ臨時の幣帛使が発遣される。〔『扶桑略記』〕
  5月27日 大地震、発生。雷鳴を伴う雨が降り、酉刻に紫宸殿南方に東第2間砌下に「虹」が立つ。
       〔『日本紀略』『扶桑略記』「京都帝国大学所蔵文書」〕
  6月21日 或人、御読経の間および夜中・早旦に「雷鳴陣」を立てる。〔『西宮記』〕
  6月29日 右衛門志貞直・内蔵史生宗良・左近衛常蔭ら近衛・衛門の兵士、「海賊」討伐のために神泉苑において「弩」を試射する。
       〔『扶桑略記』〕
  7月26日 在原相安(「兵庫允」)、「海賊」追捕のため「武蔵」および諸家の兵士を率いて発遣。〔『扶桑略記』〕
 10月19日 辰刻に地震、戌刻に「雷鳴」がある。この夜「雷火」または「神火」により大和国分寺である東大寺の西塔・廊が焼亡する。
       〔『日本紀略』『扶桑略記』『一代要記』『東大寺雑集録』〕
 10月22日 この日、「追捕海賊使」が定められる。〔『日本紀略』〕
    この冬 「海賊」、伊予国喜多郡の不動穀3000余石を掠奪する。〔『扶桑略記』〕



承平5(935)年
  1月18日 「賭弓」が行われる。〔『西宮記』〕
  2月    平将門、平国香・源護と合戦す。〔『歴代皇紀』〕
  2月    平将門、常陸国(川曲辺で戦闘カ)において源扶・源隆らを戦死さす。〔『将門記』〕
  2月 2日 弁官庁の梁上に「鳥」が巣を作るという怪異が発生したため「御占」が行われる。〔『扶桑略記』〕
  2月 4日 平将門、源護の本拠地(野本・石田・大串・取木などの館、従類・伴類の舎宅)を襲撃。〔『将門記』〕
  2月 4日 平将門、更にこの日常陸国新治・真壁・筑波三郡の舎宅を放火・略奪。〔『将門記』〕
  2月 8日 申刻に弁官庁近辺に「虹」が立ったため「御占」が行われる。〔『扶桑略記』〕
  2月23日 除目があり、小野好古(「従四位下」)が備前権介を兼任する。〔『公卿補任』五〕
    この頃 平国香、戦死。〔『将門記』〕
    この頃 平貞盛、平国香戦死の報に接し故郷に帰還。実母と共に亡父を弔う。〔『将門記』〕
  3月 1日 「日蝕」が14分ほど見られ、廃務となる。〔『日本紀略』『本朝統暦』〕
  4月 4日 夜に「霜」が降り、怪異と見なされる。〔『扶桑略記』〕
  4月27日 「祈雨」のため諸社に奉幣する。〔『扶桑略記』〕
  5月 4日 百僧を大極殿に請して降雨を祈念させる。〔『日本紀略』『扶桑略記』〕
  6月 6日 晩に「雷鳴」および雨あり。〔『本朝世紀』〕
  6月 7日 晩に「雷鳴」あり、〔『本朝世紀』〕
  6月 9日 晩に「雷少鳴」および小雨あり。〔『本朝世紀』〕
  6月15日 晩景に「雷」雨あり。〔『本朝世紀』〕
  6月21日 「海賊」平伏の祈祷のため、臨時の「幣帛使」を11社へ発遣す。〔『本朝世紀』〕
  6月24日 晩景に「雷鳴」あり。〔『本朝世紀』〕
  6月28日 「海賊」追捕祈念のために京中諸社ならびに山陽・南海両道のゥ名神へ奉幣使が派遣されるので諸司は廃務となる。
       しかし、藤原恒佐(「大納言」)が奉幣使派遣を定めてから俄かに犬産の「穢」によって3日間の休暇をとり、当日の早朝に
       藤原扶幹(「中納言」)が左近陣に座し執奏後に幣帛使の官符に捺印をする。「午二点」になると上卿が八省院に座して召使い
       等が山陽・南海諸社へそれぞれ宣命を給う。〔『本朝世紀』〕
  6月28日 「海賊」攘除祈念のために諸社へ臨時の奉幣使を発遣する。〔『本朝世紀』〕
  9月 1日 小野惟幹(「左衛門少尉」)・府生忠宗ら、「群盗」13名を捕縛した功績を内蔵寮に報告し、絹の御服を下賜される。
       〔『扶桑略記』〕
  9月    「鳥」が「時司時申算」1枚をくわえ飛び去り、これは「御占」の結果不吉ということになり、常寧殿において尊意
       (天台座主)に7日間の「不動法」による祈攘させる。〔『扶桑略記』〕
 10月15日 「鳥」が殿上から「時司時申算」1枚をくわえ飛び去ったので「卜占」を行い「兵革」の予兆であるという結果であった。
       尊意(「大僧都」、天台座主)が仁寿殿において初めて「文殊八字法」を修法したところ、3日目にして「鳥」が「算」をくわ
       え戻って来た。〔『僧綱補任抄出』〕
 10月21日 平将門、下総国へ出陣してきた平良正と川曲で交戦、撃破。〔『将門記』〕
 10月22日 平将門、本拠地の鎌輪宿に帰還。〔『将門記』〕
        この頃 平良正、源護一族と姻戚関係にある平氏一族の長的な立場にあった平良兼に平将門攻撃の助勢を依頼。〔『将門記』〕
 11月27日 大宰府の史生2名を解任し、「検非違使」正権各1名を増置する。〔『符宣抄』〕
 12月29日 朝廷、源護の告状を受けて平将門・平真樹らの召喚を促す官符を発す。〔『将門記』『今昔物語』〕



承平6(936)年
   春    平貞盛、亡父平国香の1周忌を終えて帰京するにあたり、母の身上を案じ、仇敵ではないという理由により平将門と協力体制
       を提唱。〔『将門記』〕
  6月26日 平良兼、平良正の要請を受けて上総国を発す。平良兼は下総国香取郡神前を経由し常陸国信太郡に到着。〔『将門記』〕
  6月27日 平良兼、常陸国の水守営所(源護の居館、平良正の住居)に到着。
        平良兼は平将門と和睦した平貞盛を批判する。〔『将門記』〕
  7月26日 平将門、平良兼ら数千騎の進撃の報に接し100余騎を率い下総国・下野国境目に出陣。〔『将門記』〕
  7月26日 平将門、平良兼らを下野国の国府に包囲するが、宿敵ではないということで包囲網を解除し平良兼らを逃走させる。
       〔『将門記』〕
  7月26日 平将門、後の証拠として平良兼らに落ち度があった旨を下野国の国庁の日記に記録させる。〔『将門記』〕
  7月27日 平将門、本拠地である鎌輪宿に帰還。〔『将門記』〕
  9月 7日 英保純行(左近衛番長)・英保氏立・宇自加支興ら、官使として前年12月29日付官符を平将門へ持参。〔『将門記』〕
 10月17日 平将門・平真樹、上訴した源護に先んじ藤原忠平の召喚に応え上京。公庭にて一連の戦闘について弁明。
       検非違使庁の喚問に対して平将門は訥弁であったが、理に叶っていたため「兵の名」を畿内に振るい、「面目」を京中に施した。
       〔『将門記』〕



承平7(937)年
  4月 7日 平将門、朱雀天皇の元服(「帝王御冠服」)により大赦の対象となる。〔『将門記』〕
  5月11日 平将門、大赦(「帝王御冠服」)によって都洛を辞し帰還の途につく。〔『将門記』〕
    この頃 平良兼、前回敗北の屈辱を晴らすために出陣。〔『将門記』〕
  8月 6日 平良兼、常陸・下総両国境の子飼渡の陣頭に高望王・平良持の「霊像」を掲げ坂東平氏の族長として平将門の排除を表明。
       〔『将門記』〕
  8月 6日 平将門、高望王・平良持の「霊像」を奉じ平氏一門の反逆者追討という大義名分を掲げた平良兼に敗北、本拠の鎌輪宿に帰還。
       〔『将門記』〕
  8月 6日 平良兼、下総国豊田郡来栖院常羽御厩(平将門の軍事基地の1つ)を襲撃・放火。〔『将門記』〕
  8月 7日 平良兼、下総国豊田郡来栖院常羽御厩を焼き尽くし速やかに本拠の下総国へ帰還。〔『将門記』〕
  8月 7日 平将門、潜伏して機会を窺う(但し場所は不明)。〔『将門記』〕
  8月17日 平将門、下総国豊田郡下大方郷の堀越渡(堀津渡)において平良兼へ挑戦、俄かに脚気の症状を発し、戦わずして敗北。
       平将門の伴類は離散、平将門、妻子を伴い葦津江に潜伏。万全を期すため平将門は妻子を乗船させ広河江に逃がし、平将門自身
       は陸閑岸に潜伏。〔『将門記』〕
  8月18日 平良兼、軍を解散。〔『将門記』〕
  8月19日 平良兼、下総国猿島郡を経由して上総国へ移動。〔『将門記』〕
  8月19日 平良兼、平将門妻子を葦津江で捕獲、上総国へ拉致(平将門子は討たれた可能性あり)。〔『将門記』〕
        平将門、陸閑に隠棲。〔『将門記』〕
  9月10日 平将門妻、平公雅・平公連ら舎弟の援助により上総国を脱出し豊田郡へ帰還。〔『将門記』〕
 10月 9日 平将門、平良兼討伐のため兵1800余を率い常陸国真壁郡の源護居館へ出陣。〔『将門記』〕
        平将門、平良兼を服織宿(源護居館)において撃破、平良兼は筑波山へ敗走。〔『将門記』〕
 10月13日 平将門、平良兼と弓袋山で交戦、平良兼を筑波山に追跡。〔『将門記』〕
 11月 5日 朝廷、平将門および武蔵国・安房国・上総国・常陸国・下野国へ平良兼・平貞盛・平公雅・平公連・源護・秦清文追捕の官符
       を発給。しかし、諸国の国司たちは官符を携帯しつつも朝廷からの命令を実行せず。〔『将門記』〕
    この頃 平良兼、丈部子春丸を勧誘し平将門の石井営所の内情を調査させる。〔『将門記』〕
 12月14日 平良兼、丈部子春丸の手引きにより平将門の石井営所を夜襲。
        平将門、平良兼の夜襲を撃退。平良兼らは離散・敗走。〔『将門記』〕


承平8・天慶元(938)年
  1月 3日 丈部小春丸、平将門への裏切り行為のため殺害される。〔『将門記』〕
  2月 中旬 興世王(武蔵権守)・源経基(武蔵介)、武蔵武芝(武蔵国足立郡司判官代)と争う。〔『将門記』〕
  2月 中旬 平貞盛、朝廷において貴族として出世するために上京。東山道をとる。〔『将門記』〕
  2月29日 平将門、信濃国小県郡の国分寺付近において上洛途中の平貞盛を追撃するも千曲川周辺で取り逃がす。〔『将門記』〕
    この頃 平貞盛、平将門の追撃を逃れ辛うじて上洛。〔『将門記』〕
    この頃 平将門、興世王(武蔵権守)と武蔵武芝(武蔵国足立郡司判官代)の仲介役となり両者は和解。
       源経基は京都へ逃亡し謀叛の虚言を誣告。〔『将門記』〕
  4月15日 京都大地震。東西兵革の卜占あり。〔『貞信公記』他〕
  5月22日 地震・兵革の慎みにより「天慶」と改元。〔『日本紀略』〕
  5月23日 橘近安、武蔵国の申請により追捕官符の対象となる。〔『貞信公記』〕
 11月 3日 平将武、伊豆国の申請により追捕官符の対象となる。〔『本朝文粋』〕


天慶2(939)年
  2月12日 藤原忠平、平貞盛の上訴により平将門へ京都召喚の使者を派遣。〔『貞信公記』〕
  2月 不明 英保純行(官使)、平将門のもとに到着し平将門召喚の官符を通達するが、平将門はこれを拒否。〔『将門記』〕
  2月    平将門、武蔵国の国司・郡司紛争調停のため武蔵国国府に出兵。〔『将門記』〕
  3月 3日 源経基、平将門・興世王・武蔵武芝を謀反と上訴。〔『将門記』〕
  3月25日 藤原忠平(平将門私君)、源経基上訴を受けて実否調査を指示する御教書を発給。〔『将門記』〕
  3月28日 藤原忠平、源経基上訴を受けて実否調査の使者(多治比助縄)を派遣か。〔『将門記』〕
  5月 2日 平将門、常陸国・下総国・下野国・武蔵国・上野国5ヶ国の解文を収集し自身の謀叛無実の旨を上申。〔『将門記』〕
  5月17日 百済王貞連、武蔵守に任命される。興世王は下総国へ移動。〔『将門記』〕
  6月 7日 藤原忠平、源俊を問武蔵国密告使に任命。〔『貞信公記』〕
  6月 不明 推問使派遣の宣旨が発給。〔相職書状:『将門記』〕
  6月 上旬 平良兼(下野介)、逝去。〔『将門記』〕
  6月 中旬 平貞盛、平将門召喚状を携え関東へ下向。〔『将門記』「常陸国牒」〕
  8月17日 藤原忠平、平惟扶(陸奥守)の送別宴を催す。〔『貞信公記』〕
 10月 2日 源俊、随将帥を申請するが却下される。〔『貞信公記』〕
 10月 不明 平貞盛、平惟扶(陸奥守)の陸奥国赴任に随行するため下野国国府へ到着。〔『将門記』〕
 10月 以降 平将門、奥州下向を意図する平貞盛を攻撃。平貞盛は山中に辛うじて逃れる。〔『将門記』〕
 10月 以降  平貞盛、藤原惟幾(常陸介)を頼る。〔『将門記』〕
 10月  不明 藤原玄明(常陸国住人)、藤原惟幾(常陸介)の追捕を受け妻子・従類を引き連れ下総国の平将門を頼る。〔『将門記』〕
 11月21日 平将門、平貞盛・藤原為憲(藤原惟幾息)の挑戦を受けて常陸国の国府を襲撃・放火。〔『将門記』〕
    この頃 平将門、藤原惟幾(常陸介)らを捕獲し「印鎰」を領掌する。〔『将門記』〕
 11月29日 平将門、藤原惟幾(常陸介)および「詔使」を鎌輪宿に連行。〔『将門記』〕
    この頃 平将門、興世王(武蔵権守)の談議により関東8ヶ国の支配を志す。〔『将門記』〕
 12月 2日 常陸国国府、平将門・興世王の損害を朝廷に奏上。〔『日本紀略』〕
 12月 4日 源俊、藤原忠平に出動許可を申請。〔『貞信公記』〕
 12月11日 平将門、下野国の国府を襲撃。新司(藤原弘雅)・旧司(大中臣全行)らを降伏させ印鎰を没収。受領たちは東山道を経由し
       て信濃国の国府まで護送される。〔『将門記』〕
 12月15日 平将門、上野国の国府へ移動。〔『将門記』〕
 12月15日 平将門、藤原忠平(太政大臣)・藤原師氏(左少将)へ宛てて国府襲撃事件に関する事情報告書を認める。〔『将門記』〕
 12月19日 平将門、藤原尚範(上毛野介)を東山道経由で信濃国の国府まで護送させる。〔『将門記』〕
    この頃 平将門、坂東諸国の国司任命を行う。〔『将門記』〕
    この頃 平将門、「八幡大菩薩」の使を名乗る「昌伎」より菅原道真が位記を表すので歓迎の音楽の準備を督促するよう指示される。
       〔『将門記』〕
    この頃 平将門、自身の謚號を「新皇」と称す。〔『将門記』〕
    この頃 平将平ら、平将門へ諫言するが退けられる。〔『将門記』〕
    この頃 伊和員経(内豎)、平将門へ諫言した平将平らを仲介しようとするが失敗。〔『将門記』〕
    この頃 平将門、藤原玄茂を上卿として除目を行う。〔『将門記』〕
 12月26日 藤原純友の士卒、摂津国に子高らを襲撃。〔『日本紀略』他〕
 12月27日 信濃国飛駅、朝廷に平将門・興世王の謀反を報告。〔『日本紀略』〕
 12月29日 信濃国飛駅、東西の反乱を議す。〔『日本紀略』〕



天慶3(940)年
  1月 1日 朝廷、東海道・東山道・山陽道の追捕使を補任。〔『日本紀略』〕
  1月 3日 朝廷、宮城諸門に矢倉を構築。〔『園太暦』〕
  1月 9日 朝廷、源俊を問密告使から解任、源経基を従五位下に叙す。〔『日本紀略』〕
  1月11日 朝廷、平将門追討の官符を発給し軍功者には恩賞を約す。〔『本朝文粋』〕
  1月14日 朝廷、追捕凶賊使(東国の掾)として8名を任命。〔『貞信公記』『日本紀略』〕
  1月19日 朝廷、藤原忠文(参議)を征東大将軍に任命。〔『貞信公記』『日本紀略』〕
  1月 中旬 平将門、常陸国に再度出兵し平貞盛・源扶の妻を保護。〔『将門記』〕
  1月30日 藤原忠平、藤原純友を五位に叙すことを奏上。〔『貞信公記』〕
  2月 1日 平将門、藤原秀郷・平貞盛の挙兵の報に接し下野国境に出兵。〔『将門記』〕
  2月 1日 藤原玄茂(平将門軍副将軍)・多治経明・坂上遂高ら、藤原秀郷(押領使)に敗北を喫す。〔『将門記』〕
  2月 1日 平貞盛・藤原秀郷、平将門を下総国豊田郡川口村で撃破。〔『将門記』〕
  2月 3日 朝廷、伊予国からの藤原明方帰京を受け位記使を発遣。〔『貞信公記』〕
  2月 8日 藤原忠文(征東大将軍:参議)、出京。〔『貞信公記』他〕
  2月13日 平貞盛・藤原秀郷・藤原為憲、下総国へ再度進撃し石井営所を襲撃・放火。平将門与党は山野などに離散。〔『将門記』〕
  2月13日 平将門、平貞盛・藤原秀郷に敗北し広江に遁走。〔『将門記』〕
  2月14日 平将門、平貞盛・藤原秀郷と下総国猿島郡北山で決戦。
       風向きにより平貞盛・藤原秀郷・藤原為憲連合軍は劣勢に立たされる。〔『将門記』〕
  2月14日 平将門、本陣に戻ろうとした際に風下に立たされ平貞盛・藤原秀郷らが身命を顧みずに襲いかかる。
       平将門は自ら戦闘に参加するが、矢に当たり戦死。〔『将門記』〕
  2月25日 信濃国飛駅、朝廷へ平貞盛・藤原秀郷によって平将門射殺を報告。〔『日本紀略』〕
  3月 5日 藤原秀郷、藤原忠平へ平将門誅殺を報告。〔『貞信公記』〕
  3月 7日 甲斐国飛駅、朝廷へ平将武らの誅殺を報告。〔『貞信公記』〕
  3月 9日 朝廷、平将門誅殺の恩賞として藤原秀郷を従四位下、平貞盛を従五位上に叙す。〔『貞信公記』他〕
  3月18日 藤原忠文(征東大将軍:参議)、朝廷に解状を奏して平公雅が興世王を討ち取った旨を報告。〔『日本紀略』〕
  4月12日 常陸国飛駅、平将種が舅の伴有梁(陸奥権介)と共に謀反した旨を報告。〔『師守記』〕
  4月25日 朝廷、下野国解文と平将門の首を受け取る。〔『将門記』〕
  4月25日 朝廷、藤原秀郷から平将門御首進上を受けて東市に梟首。〔『日本紀略』他〕
  5月15日 藤原忠文(征東大将軍:参議)、帰洛し節刀を返上。〔『貞信公記』〕
  6月18日 朝廷、藤原純友暴悪の士卒を追捕する旨を議定す。〔『貞信公記』〕
  8月26日 飛駅、朝廷へ藤原純友による伊予国・讃岐国等の虜掠を報告。〔『日本紀略』他〕
 11月16日 朝廷、除目を行い藤原秀郷(従四位下)を下野守に任命。〔『日本紀略』〕



天慶4(941)年
  5月19日 飛駅、朝廷へ藤原純友による大宰府虜掠を報告。〔『日本紀略』他〕
  5月19日 藤原忠文(参議)、征西大将軍に任命される。〔『日本紀略』他〕
  6月20日 橘遠保、藤原純友を射殺。〔『師守記』〕
  6月29日 朝廷、伊予国解によって藤原純友射殺の報告に接す。〔『師守記』〕
  7月 7日 橘遠保、朝廷へ藤原純友・藤原重太丸(純友息)の首を進上。〔『本朝文粋』〕
  8月17日 官軍、日向国において賊徒と交戦。〔『本朝世紀』〕
  8月18日 官軍、日向国において賊徒と交戦。佐伯是基を捕獲。〔『本朝世紀』〕
  8月24日 臨時の奉幣使の「差書」を定め、「陰陽寮」に日時を選定させる。〔『本朝世紀』〕
  8月26日 諸社に臨時の奉幣使を発遣の予定であったが、「犬死穢」により延引。〔『本朝世紀』〕
  9月 6日 石清水・賀茂上下・松尾・平野・大野原・稲荷・丹生・川上・貴布祢の10社に止雨を祈念した臨時の奉幣使が派遣される。
       〔『本朝世紀』〕
  9月 6日 源経基(「追討凶賊使」権少弐)、豊後国海部郡佐伯院において賊徒と合戦す。賊首の桑原生行を捕獲し、さらに賊徒の馬船
       戎具をも獲得する。〔『本朝世紀』〕
  9月 7日 源経基、大宰府へ「合戦日記」を送付。〔『本朝世紀』〕
  9月 8日 桑原生行、死去。死体を直ちに斬首刑に処し、首級を大宰府へ進送。〔『本朝世紀』〕
  9月19日 備前国「馳駅使」で健児の額田・弘則、朝廷に「凶賊」の藤原文元・藤原文用・三善文公らが備前国桑浜に上陸した旨を報告。
       〔『本朝世紀』〕
  9月20日 朝廷、「凶賊」に関する官符12通を山陰・山陽・南海諸道に下す。
        朝廷、凶賊の佐伯是本を捕獲し更に多くの賊徒を射殺した藤原貞包を「筑前権掾」に任命し日向国賊徒追討の功績を賞す。
       〔『本朝世紀』〕
  9月22日 伊勢例幣使、朝廷へ豊受大神宮宝殿の扉が開かなかった旨を報告。
        卜占を行ったところ、祢宜等の「触穢」に対する「祟」りであるというので謝罪させたが、それでも開かなかったため、
       「池宝殿」へ幣物を奉納した。同様の事柄が「日記」の天慶2年2月5日条に「神祇官」・「陰陽寮」を召集して卜占させたと
       記録されていた。〔『本朝世紀』〕
  9月22日 播磨国「馳駅使」の山吉蔭・飯高主丸、朝廷へ賊徒の三善文公を誅殺した旨を報告。但し、藤原文元・藤原文用兄弟は追捕
       できなかったという。〔『本朝世紀』〕
  9月23日 朝廷、官符を山吉蔭(播磨国飛駅使)等に下す。〔『本朝世紀』〕
  9月25日 藤原実頼・藤原元方、安倍有春(「少外記」)を召し、紫宸殿の「版位」を造る旨を通達。
       「陰陽寮」へ日時に関する勘文を提出することを命令。〔『本朝世紀』〕
 10月18日 賀茂貞行(但馬国朝来郡朝来郷蔭孫)、剃髪した藤原文元・藤原文用兄弟等の訪問を受ける。〔『本朝世紀』〕
 10月19日 賀茂貞行(但馬国朝来郡朝来郷蔭孫)、策略をめぐらして藤原文元・藤原文用兄弟等を射殺。〔『本朝世紀』〕
 10月21日 賀茂貞行(但馬国朝来郡朝来郷蔭孫)、但馬国国府からの解文を受け藤原文元・藤原文用等の誅戮を報告。〔『本朝世紀』〕
 10月23日 朝廷、山陽・南海両道諸国へ派遣した「警固使」・「押領使」・「撃手使」等を停止する官符を発す。〔『本朝世紀』〕
 10月26日 朝廷、賀茂貞行(但馬国朝来郡朝来郷蔭孫)より藤原文元・藤原文用兄弟等の首と報告を受ける。〔『本朝世紀』〕
 10月27日 菅原在躬(右少弁)、左衛門陣外において但馬国国府からの解文を携帯した賀茂貞行(但馬国朝来郡朝来郷蔭孫)と会見。
       〔『本朝世紀』〕
 11月 1日 陽成院の触穢により4日の春日・平野・当麻祭、5日の率川・杜本・当宗祭が延引される。〔『本朝世紀』〕
 11月 1日 「中務省」、「陰陽寮」・「暦博士」等を引率して御暦の「頒暦」を実施。〔『本朝世紀』〕
 11月 4日 触穢により春日・平野祭が延引、伴保平(参議)が平野祭を追行。〔『本朝世紀』〕
 11月 5日 東西兵乱の平定により上下賀茂社へ行幸することを決定。〔『本朝世紀』〕
 11月16日 春日・平野祭ら、追行される。〔『本朝世紀』〕
 11月19日 朝廷、石見国の従四位下「物部神」に従四位上を授与。〔『日本紀略』〕
 11月29日 賊首である桑原生行の首級が朝廷に到着。〔『本朝世紀』〕
 11月29日 佐伯是基(「西国賊首藤原純友之次将」)、捕獲され左衛門府に送還。佐伯是基の身柄は「検非違使」に拘束され左獄に下さ
       れる。〔『本朝世紀』〕
    この月 源経基(「警固使」権少弐)、頻繁に戦況報告を上申。暫く九州に逗留。〔『本朝世紀』〕
    この月 朝廷、西国賊徒の残党を制圧し「海内清平」と認識。〔『日本紀略』〕
 12月 8日 安倍有春(「少外記」)、御井守屋の舎人が死亡したことにより内裏に触穢がある旨を奏上。〔『本朝世紀』〕
 12月 9日 安倍有春(「少外記」)、朝廷に参内し前日参内しなかった公卿へ内裏触穢の旨を報告。〔『本朝世紀』〕
 12月10日 朱雀天皇の「御体御卜」、先日の内裏触穢により「建春門」外で三統公忠(「大外記」)・安倍有春(「少外記」)等が行う。
       〔『本朝世紀』〕
 12月11日 「月次」祭・「神今食祭」、触穢により諸司に付す。〔『本朝世紀』〕
 12月11日 安倍時範(「図書頭」)、触穢により公卿不参のため「神今食祭」の代弁となる。〔『西宮記』〕
 12月18日 京官の除目。藤原忠文(「修理大夫」・「右衛門督」)、「民部卿」を兼任。但し右衛門督は止む。〔『公卿補任』〕
 12月19日 神祇官、「左京職」・「宮内省」・摂津国17ヶ所の諸神に位階を奉授。〔『日本紀略』〕
 12月25日 藤原師輔・源清平・藤原忠文・伴保平、淡路国不堪「佃田使」の返事
        を聴政。〔『本朝世紀』〕
 12月26日 源清蔭・源高明・藤原忠文、聴政。〔『本朝世紀』〕
 12月29日 「大赦」あり。〔『日本紀略』〕
 12月    東国・西国の兵乱鎮定のため、「大赦」が行われる。〔『将門純友東西軍記』〕



天慶5(942)年
  3月 2日 藤原尚平(「侍従所所監」)、木工寮に寄宿。〔『本朝世紀』〕
  3月 2日 「宮内省庁」において死人が出る。〔『本朝世紀』〕
  3月 3日 内裏の触穢により「御燈」を止む。
       安倍有春(「少外記」)、木工寮に寄宿していた藤原尚平(「侍従所所監」)が前日死人に接した旨を奏上。〔『本朝世紀』〕
  3月 4日 藤原実頼・藤原師輔・藤原元方・源高明・伴保平・源庶明・藤原敦忠・藤原在衡、触穢に関して議定す。
       安倍有春(「少外記」)、2日に「宮内省庁」内で死人が出たことにより禁中にまで「触穢」が及んでいる旨を奏上。
       〔『本朝世紀』〕
  3月19日 神祇官において祭主大中臣頼基に天変地震を祈攘させる。〔『本朝世紀』〕
  3月19日 朝廷、「追捕東西凶賊使」らの軍功を議定す。〔『本朝世紀』〕
  3月22日 藤原実頼、参内し「東西軍功」を議定す。〔『本朝世紀』〕
 閏3月 1日 「問東国密告使」の源俊(「右衛門権佐」)・高階良臣(「左衛門少尉」)・阿蘇広遠(「勘解由主典」)ら、「恩赦」によ
       り赦免。〔『本朝世紀』〕
 閏3月 1日 小野好古(「参議従四位下」)、左中弁に就任。〔『公卿補任』〕
 閏3月 1日 源信明(「若狭守」)、大宰府へ赴任。但し内裏「触穢」により中重にて奏上し禄は賜らず。〔『西宮記』〕
 閏3月 6日 故源当季(「左近少将」)邸に死童を包んだ筵が投げ入れられる。〔『本朝世紀』〕
 閏3月 7日 物部貞用(「少外記」)が平隨時(「左衛門権佐」)は「触穢」である旨の消息状を披露し、臨時の奉幣使を停止となる。〔『本朝世紀』〕
 閏3月 8日 犬の死「穢」及び死童の投入で「穢」に触れた源嘉生(「前出羽介」)の藤原実頼訪問により「穢」が公家にまで影響。
       内裏が触穢の疑いが発生。原因究明のため源嘉生(「前出羽介」)を召問し、「触穢」嫌疑の立札を諸陣に掲示。
       〔『本朝世紀』〕
 閏3月 9日 源嘉生(「前出羽介」)の召問が行われる。〔『本朝世紀』〕
 閏3月20日 藤原実頼・伴保平・源庶明らが参内、「仁王会」の日時を「陰陽寮」に問い合わせたところ来る26日に定むという。
       〔『本朝世紀』〕
 閏3月25日 内裏の触穢により「建礼門」前において「大祓」が実施される。〔『本朝世紀』〕
 閏3月28日 検非違使庁の執務時刻を規定。〔『政事要略』〕
 閏3月28日 検非違使庁の官人等、任意で「看督長」等を引率して城外に出たり、これらを処罰することを禁止する。〔『政事要略』〕
  4月 1日 「日蝕」により「廃務」。〔『日本紀略』『本朝世紀』〕
  4月 2日 忠望王(「神祇伯」)、「内裏穢」により宣陽殿に着座せず。〔『西宮記』〕
  4月 4日 「広瀬・龍田祭」・「山階祭」、閏3月6日の「死穢」により延引。〔『本朝世紀』〕
  4月 6日 平隨時(「防鴨河使長官左衛門権佐兼丹波守」)、鴨川の修築が完了したために
       覆勘使の小野好古(「左中弁」)・尾張言鑑(「左大史」)・左右史生各1名の派遣を申請する。〔『本朝世紀』〕
  4月10日 「陰陽寮」、「広瀬・龍田祭」日は16日と撰申する。〔『本朝世紀』〕
  4月10日 「陰陽寮」、「宇佐八幡使」の発遣日を27日と撰申する。〔『本朝世紀』〕
  4月10日 「陰陽寮」、賀茂社行幸の日を29日と撰申する。〔『本朝世紀』〕
  4月10日 撰国史所(「日本紀所」)において「神祇官」・「陰陽寮」、伊賀国・出雲国両国で発生した「物怪」について「卜占」する。
       但し、小野好古(「左中弁」)が「官奏奉仕御卜」と「別奏奉仕御卜」の別を説く。〔『本朝世紀』〕
  4月11日 東西諸国における兵乱討滅祈祷した京中・山城国のゥ「神位記」53巻に請印する。〔『本朝世紀』〕
  4月14日 東西賊徒平定の報賽のため「伊勢大神宮」及び諸社へ奉幣する。〔『日本紀略』『本朝世紀』〕
  4月16日 内裏「触穢」のため延引されていた「広瀬・龍田祭」が実施されたため「廃務」。〔『本朝世紀』〕
  4月26日 京機七道諸国の「神位記」130余巻に請印する。〔『本朝世紀』〕
  4月27日 「宇佐八幡宮」・「香椎廟」・「石清水」八幡宮へ東西賊徒平定の御報賽のための奉幣使が発遣される。
       また、この日に石清水八幡宮で臨時祭が執行される。〔『日本紀略』『扶桑略記』〕
  4月27日 「宇佐使」は小野道風(「右衛門佐」)、「石清水使」は源允明(「播磨守」)と決定。
       「賀茂臨時祭」は天慶2年より毎年実施することを祈申す。〔『西宮記』前田家本、『西宮記』〕
  4月27日 平将門乱逆の「報賽」のため「石清水臨時祭」が行われる。〔『江次第』〕
  4月28日 明日の賀茂上下社行幸の準備に際し、「故障」という理由で公卿の不候が多く、安倍有春(「少外記」)がその旨を奏上。
       小野好古(「左中弁」)が装束を賜わる。〔『本朝世紀』〕
  4月29日 朱雀天皇、賀茂社へ行幸。神宝・幣帛・走馬を奉加し、祢宜等の加階を行う。〔『日本紀略』〕
  4月29日 朱雀天皇、「賊乱」平定の御報賽のため賀茂社へ行幸。〔『扶桑略記』〕
  4月29日 朱雀天皇、「賀茂上下社」行幸に際し「左右検非違使」に銭30貫文を給与。〔『本朝世紀』佐々木信綱氏本〕
  4月29日 朱雀天皇による「賀茂上下社」行幸は神社行幸の最初であるという。〔『年中行事秘抄』『賀茂注進雑記』〕
  4月30日 「群盗」入京、京中騒擾す。〔『日本紀略』〕
  5月 1日 諸衛、夜行して群盗に備う。〔『本朝世紀』〕



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